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Title ハッダ最近の發掘に關する問題
Author(s) 桑山, 正進
Citation 東方學報 (1973), 45: 335-357
Issue Date 1973-09-20
URL https://doi.org/10.14989/66499
Right
Type Departmental Bulletin Paper
Textversion publisher
Kyoto University
5Ea内
ハ
ッダ最近の沓鋸に関する問題
桑
山
正
進
タパ
・ショトル麿寺跡1塔院-壁轟
・岡堂-阿波遊歴龍三教化-
燐塔分類-主塔構成-到型構成1基壇形態-仰塔編年
タパ
・シ
ョトル廃寺跡
『大唐西域記』巻第二郡掲羅局園の髄羅城を中心にした現在いうところの
ハッダは'東にガ
ンダ
ーラ、西にカ
ーピシー
をひかえ、両地方の中間に嘗り'沸教寺院跡の豊富なことは両地方におとらない。その様相に関してはジ
ュール
・バルト
ゥ
IJulesBarthoux
の調査に依ると
ころが大きい
(J・Barthoux,LesFouillesdeHadda,Z
s
iu
Pa
setSites)
M
e'moiresdelaDdlergation
a
rchdologiquefra
ngaiseenAfghanistan(
MDAFA))T
ome
N,Paris〉
)933;肖
figuresetfigurines,
M
DAFAZTome
VZ,Paris))930)
。
ところ
がこの報告は寄掘成果の正確な侍達というより'むしろ調査資料にもとづ-研究が主であり、われわれが
ハッダ
の燐数寺
院を再検討しようとする場合に利用債値が低-な
っている。したが
って再検討は箕地
の調査に移らざるを得ないのである
が
、バルトゥ-によ
って登掘された遺跡はその後破壊され表して、
このような箕地の再検討にも支障をきたしている。故
ローランド
BenjaminRow
landJr.の言をま
つまでもな-'狂信的なムス-ムにその原因がある
(AncientArtofAfghanistanP
Toky.,
)964,
p.222)。また遺跡ばかりでな-'遺物はカ
ーブ
ル博物館とギメ博物館に分割所蔵されて不便である。
しかも報
告された造物には彫像が多-'大量に出土したはずの建築細部などはす-ない。彫像の検討には稗会するところがあ
った
ハッダ最近の番折に関する問題
三三五
東
方
撃
報
が'
ハッダの寺院全般に関する再検討は'このような限られた残され方からはむずかしい。
一九六六年
10月に開始されたタパ
・ショトル
Tapa
Shotor
の沓掘ほ'今世紀二
〇年代に行われた調査の不備やその
後の再検討のむづかしさを補うばかりでな-'またあたらしい事案を
ハッダにもたらした。その意味で重要であるのにあ
まり注意されていないOこの調査はアフガ
ニスタン人だけによる組織的なものであり'蚤掘後の保存がゆきとどいた遺跡
で敬掘者以外が再検討を実際におこなえる利鮎がある。登掘は冬'ことにおこなわれ'現在に至り'
一九六八年までには塔
院
Stdpacourtが'また
1九六九年から
1九七二年春までには塔院以外の地域の零拓がすすめられた。ここではほぼ完全
に登掘がおわ
った塔院に限
って若干の紹介をおこない'筆者の観察結果も加えてハッダ寺院調査の今後の問題鮎を指摘し
、た
い
。一九二二年以来三
〇年間のアフガ
ニスタンにおける考古学調査標が'フランスと同園との協定により'フランス人に猫
占的に委ねられたことは周知の事案である。その権益のきれた
1九五三年よりのち'
イタ-ア
(istituto
ltaliano
peril
Medio
ed
E
stremoOriente)や日本
(京都大学)をはじめとするフランス以外の外国人調査が可能にな
った。
しかしアフ
ガ
ニスタン人だけで組織された調査はおこなわれることがなか
った.従来文部省に属していたカーブ
ル博物館は'外観調
査隊と提携してtjointexpedition
の形で調査に参加していた。
ところが
一九六五年冬前後にな
ってハッダにおける盗掘
がすさまじいものとなり'
G・-ウツチ博士をして
ハッダ全域保護の要請をなさしめ'それと同時に故水野清
7博士は、
ハッダ西南部にあるラルマ寺院跡の畿掘をあえておこない'敬掘後の管理を同国政府にまかせることにより、
ハッダ全域
の保護を促そうとした。
一九六六年に始められたタパ
・ショールの敬掘は'アフガ
ニスタン政府の如上の事件に封する-
アクションに他ならない。
敬掘措富は'あらたに設置されたアフガン考古研究所すなわち
Directiong6nbraLed'archgotogieetdetaconservationdes
monumentshistoriques(局長はDr.ChaibaiM.ustamindy)である。カーブ
ル博物館とともに情報文化省に属する。同園における
文化財の管理運営をこの二部局が分措して行うこととなり'文化財行政が
一歩すすめられたのである。すなわち博物館は
出土品の管理展覚とそれによる教育に任務が限定され'従来の考古活動の監督や外国調査除に関する
一切の事務
・責任は
新局の取り扱うところとな
った。同局は外国除に封する役割を積極的に果すとともに'アフガ
ニスタン人だけの調査園を
組織し、
ハッダ村北方の猫立丘陵タパ
・ショトルの零掘を開始した。敬掘されたこの遺跡には兵士が常駐Ltこれ以外の
ハッダの諸遺跡をも巡察兵二名が監視をおこない'いま
ハッダは以前のような盗掘をうけないこととな
った
(藤田国雄「ハッ
ダの遺跡」'蛮術新潮一九七競、l九六六年五月)0
塔
院
(囲-
・挿国1)
東側に狭い入口をもつタパ
・ンヨトルの塔院は、不整形の四通形平面をもつ。その中心に東南むきの主塔をおき'周囲
に小塔を配する。両者の問には主塔に沿
って続道ができるよう基間が残され'主塔と小塔群全能をもまたまわれるよう'
耐堂を開いた塔院外壁との間にも茎間が残されている。両堂は八つあるが、二両堂は未沓拓である。塔院に至る参道はな
-、入口は虞場にひらいている。この虞場の北壁は僧房匠の外壁の外側ということになり'そこに三つの壁寓をひらいて
いるO
塔院全鰻の建築には'構築材料の使いわけがみられる。すべての塔は石材に'その他の架構は泥による。主塔の壁面は
石膏塗装で'そこにストゥッコ彫像を飾るが'内核や壁面の構築は、片岩、石灰岩、硬岩'河原石を用いる。各々の塔に
よりこのような石材の利用法や組み合わせは異なり、後述のようにそれによ
って構築時期に差がみられることもある。と
ころがこれに封して再堂や両堂がひらかれている塔院外壁、あるいは僧房など'塔以外の建築はすべて正方形の指紋瓦や
ハッダ最近の賛掘に関する問題
三三七
東
方
学
報
三三八
泥、練り土
(いわゆるpisか)により
つ-られている。
そのうえ、嗣堂に配置された彫像も泥づ-りであり'
塔荘厳としての
彫像がストゥッコ製であるのといちじるしい封麿を示している
(圃11)0
タキシラ
Taxitatガ
ンダ
ーラ
Gandharat
スワート
Swatにおける係数寺院では'塔もそのほかの建築も石造である。
ハッダ東方のバサーワル
Bas抑wat石窟寺院にある弼堂
(泥、ストゥツコ両様の彫像が出土した)も右横である
(水野清1編
『バサーワル
とジ
ェララバ
ード
・カ
ーブル』京都大学、
1九七〇、第1部第二章参照)。
ジ
ェラーラ
ーバードより西方では'
カーブ
ル北方のショトラク
Shotorakt
ハム
・ザルガル
KhamZargarのコ-・イ
・モ-
Koh-TMori'カーブ
ル南方
ロー
ガル
Logarのグ
ル
・ダラ
Gut
Darahが塔も両堂も僧房も石造建築である。これらとほぼ同地域にあるカ
ーブ
ルのテペ
・マランジャン
TepeMaranjant
ゴルバンド渓谷中のフォンドキスタン
Fondokistan'ガズ
ニーのタパ
・サルダールTapa
Sardarなどがタパ
・ショールと
同じ-'塔が石積、そのほかの建物が泥づ-りである。
このような構築のしかたをみて'寺院の中心的存在である俳塔、と-に塔院の主塔の建築にあ-までも右横が固執され
ている事責に注意する必要がある。パクト-ア以北の塔院の主塔が泥づ-りである以上、如上の地域の高大な併塔建築が
耐久性などの理由で右横にする必要があ
ったとは考えられない。岡堂や僧房'あるいはタパ
・サルダ
ール小塔にみられる
泥建築技術が、壮大な塔建築を許さなか
ったとも考えがたい。そうすると、
ヒンドゥー・クシュ山脈以南の各地の塔院に
おいて右横悌塔と相並び、泥づ-り岡堂がある場合'主塔だけは石を積んで建立するという侍銃を考える必要があるので
はないか。タキシラからヒンドゥー
・クシュ山南にわたる地域において'
フォンドキスタンもタパ
・サルダ
ールもテペ
・
マランジャンもタパ
・ショトルも俳院建築史上の後年期に屠するからである。
壁
轟
・詞
堂
(圃2'3'6㌧7・挿囲1)
塔院入口のむか
って北側の壁、すなわち正確には北東から南西にのびて塔院につづいている
1八
・六メートルの壁面は
比較的残りがよい。この壁に三つの壁禽
(挿囲1、A、BtC)が
つ-られているo
北東隅に近い位置、
階段昇り口'
それに
両者の中央の三寵である。そのうち残り方のよいのは'中
央
の禽
Bと階段
ぎわ
の轟
Cと
であ
る。後者は'中央に坐備
(頭部が敏落)'左右に各二鰭の供養者泥像を配する。
その配置法は'
後方の像を前方の像の上方にお-やり方である。
後方
供養者には頭部が欽損Ltむか
って右側の像ではと-に残りがわるい。これら供養者の性格はしたが
ってつかみに-い。
供養者のうち前方左右の像は僧形である
(国2、3)。大づかみなモデ-ングながら表情
の彫出は卓抜である。中央寓では蛇
座が注目される
(囲7
)。
二匹の蛇がほぼ左右封栴にからみあ
って高い董座の基部をまいている。
後尾をからみあわせ'結
び目のようにLt
これを中心にして頭は垂座の左右南端におき、
むかいあ
っている。
関連資料はバーグ
・ガイ
Bagh
GaJIJ
にある
(J.Barthoux,FouillesdeHadda,MDAFA
rV,p.
)55)0
塔院にはいると、階段の右側に北
へ約
一四
・八メ1-ルに及ぶ塔院北東外壁がある。そこに二つの弼堂
D'
Eをひら-。
両堂に至る問に三つの低い腰掛状の童が壁にとり
つけられている。茎と壷との間隔はほぼ三メ1-ルである。これとま
っ
た-同性格の童は、東南外壁にも三つある。これら六
つの垂はいずれも粗質
の石膏を塗り、表面はま
った-あらされても'
あれてもおらず'塗装富初の状態を保
っている。また俳像をすえたあともない。このような墓を塔院の外壁にそ
って据え
た例はパル-ゥIの蚤掘した若干のもの以外にない。その性格が何であ
ったか今後の沓掘例の槍加をま
つしかない。
嗣堂のうちt
Eは詞堂ということがわかるだけでと-に注意を促すことはない。ところが詞堂
Dはいろいろな特色をも
っている。間口は約
1・八メートル'奥行は
一・六メートル'奥壁の幅は
1・九メートルで間口よりやや虞めである.両
堂の床は'塔院続道部の床面より高-
つ-
っている。伺堂の床には三壁にそ
って'幅四
〇センチの低い基童をベンチ状に
ハッダ最近の蓉掘に関する問題
三三九
東
方
学
報
まわしている。
三四〇
各壁は、鴨居のような張り出しをつ-り出して'上下二面に区分されている。上段は狭く
張り出しの上に角柱をなら
べていた。いまはむか
って右隅に
1本残るだけである.おそら-
コ-ン-ゥス風の柱頭を載せていたもので、柱身には'
平行した二本の刻線があり'刻線の上下南端には内轡した刻線で二本の刻線を結んだ装飾がみられる。柱礎部は粗い二暦
の判型である.下段は十分に高-'三本の隣桂を彫出し'園桂は尖挟アーチ
pointedarchを支えている。
アーチ内には、
蓮華座に立ち、圃光を
つけた併像がある。泥像であるからあらかた-ずれ去り'わずかに両足や.東光を残しているにすぎ
な
い
。
この間堂の壁面構成'すなわち鴨居状の張り出しで壁を区切り'上下に桂をつける構成はアフガ
ニスタンの多-の
石窟寺院にみられる石窟内部の壁面構成とま
った-同じであり'よ-知られているバーミヤーンとの関係が追求されねば
ならない。
囲柱の桂身は単なる細長い囲筒ではな-'
溝彫装飾
flutingをもち'しかも溝の上端が三枚の花鋸のようにめ-れあが
って硬化しているのである。また柱礎部は'判型の便化表現であり、裁頂四角錐に水平刻線を入れ'到型を摸している。
溝彫装飾の例はこの地方ではまれで'しかも使化している鮎が注目される。
スワ-トのブトカラ塔院の小塔
14㌧27にみる
線泥片岩の細い園柱は'溝彫装飾をもつが'
教本の線刻に終
っている
(D・FaccenaandG・Gui11ini)ReportsontheCampaigns]956:
]958inSwat
(
Pakistan),ReportsandMemoirsV.≡
,
Is
MEOL962,Pts・XItI,XIV・)。も
っとも整
った例は'
わずか
一五
・六センチの
小さいテラコッタであるが'タキシラのシルカブ
Sirkap
E地区第
Ⅱ暦出土品であるから、
年代もふる-、
キ-スト紀元
のご-初期である
(SirJ.Marshatt,Taxila)Vo1.早)951,
Pt・
)35)
No.126)
0
囲柱とアーチと鴨居との間に充瑛された猛禽の浮彫に注意する必要がある。上段アーチの間に翼をなかばひらいて立ち
あが
った猛禽は羽毛の表現がた-みである
(図6)。
猛禽の表現はわりに多いが'
アーチ間充嬢の役割を果す例は多-はな
い。
ビマラ
ーン第二塔
(番浜はC・Mass.nによる)の無蓋の舎利容器に打ち出しの例がある
(H.H.Wilson,ArianaAntiqua,)84rPL
N
L
)
21)
。
これに近いものとして、ダ
ルマラ
ージカ
ー出土品
(SirJ.
Marshau,
op.cit.,Vot.声
Pl.217,
No.
78,Vol.
P
p17LO.)
'
シク-出土の浮彫悌侍中のもの
(I・Ly.nsandH・
lnghEtDGa,ildharanAriofPakistan,
)
957)N..
)45.
)がある。しかしこれらの例で
は翼はい
っぱいに開かれ、アーチ間の三角
スペースをみたすにすぎない。三角
スペースをみたすものというだけならば、
出土地不明でいまラホール博物館にあるガーランド上に立
つ烏の例があり'またアーチと烏との組みあわ
せは無数
であ
る。しかし'タパ
・ショトルの烏は上のどれとも形態や表現がちがい'
ヒンドゥー・クシ
ュ以南では近い例がない。沓掘
捨富者
ムスタ
マンディ氏はカ
ーブ
ル南方のグ
ル
・ダラ塔院出土の例が年代的に近いと考えたが'私はこれをみたことがな
い。そこで次善の資料に、
スルフ
・コタルSurkh
Rota)
神殿
Bの拝火壇正面を飾る二羽の鷲を考えてみる.そこでは'
アーチ問充填という添えものではな-'拝火壇の主たる荘厳である
(D.Schtumber
ger)LetemptedeSurkhKotaLenBact-iane(I)
JournalAsiaiique,
C
CX
L
II,2,p.192,
Pt.
IV,).)0
三本の壁柱で区切られた柱間二間に各
l羽の鳥が立ちあが
って巽をなかはひらいているo壁桂は柱頭部から礎盤にいた
るまで完全に残
った
コ-
ン-ゥス風で'中央の桂は図柱'両側は角柱である。ち
ょうど柱頭の高さに鳥の胸があり'それ
より上は-ずれている。ところが中央囲柱の柱頭の上には小さい礎盤が残り'
これら三本の柱の上に別の架構のあ
ったこ
とがわかる。その上部架構が三本の杜とアーチであ
ったことは、同時代の併塔や浮彫から推しはかることができる。この
アーチの下に烏が彫り出されていたことになる。アーチ間の充填として烏が配されていたのではないけれども'
スルフ
・
コタルのこの例が、烏の形態や羽毛の表現、あるいはアーチと囲桂とのセットなどの鮎でタパ
・ショトルのものにはなは
だ近いとみたい。そのうえ両者とも素材が同じで'泥づ-りなのであれば'技法上からの関連も考えられないことではな
-ヽ〇
、..∨
ハッダ最近の番握に関する問題
東
方
聾
報
挿囲1 タパ ・ショトル塔院卒面圏 (1968年昔時)
三四二
塔院北隅を形成するのは'弼堂
Fである。前室と王室
とから成る。王室の残りは恵いがおそら-正方形の平面
であ
った。中央に
一過二
・八メートルの方形基壇をもつ
小塔が安置されていた。いまは初成基壇を残すだけであ
るが'柱間四問のこの基壇の北壁むか
って左端の柱間に
は給墓が残
っていた。壁の左端をむ-代緒色の線描によ
・ヽ1J」
る人物の顔で'柱間いっぱいに措かれている。
前室の平面形は'長連四
・六メ-ール'短蓮二
・六メ
1-ルで'王室をつなぐ正中線の方向に短遠がある。左
右側壁には、床に奥行九
〇センチ、高さ約二
〇センチの
低卒な基墨をもうけ'そこに大悌立像をおいた。右壁で
は基重の中央に長さ七七センチという大きい足が残
って
いる。主等のむか
って右に供養者立像があり、その履物
はサンダルではな-'皮の長靴で'
スルフ
・コタル、シ
ョ-
ラク'
マトゥラーのクシャーナ風俗の人物像のもの
と同じである。この供養者が繰るのと同じ壁面前方には'
小さ-低いコ-ン-ウス風壁桂が尖挟アーチをのせ'ア
ーチの下に蓮華座上の坐価をおいたが'いまは垂座が残
っているだけであるo塔院西南の外壁
(入口と塔をはさんで反封側の壁)の西端に二つの詞堂J'
Kがある。また未賛掘の両堂が
その南に二つあるo敬掘された両堂はほとんで規模が同じで'間口二メートル'奥行二
・二メートルを測る。左右側壁は
天井にむか
って内轡しているから'カマボコ型天井
barret
vauttを形成していたと考えられる。泥煉瓦づみのこの種の天
井は例がす-ない。奥壁の高さは三メートルまで残
っている。カ
マボコ型天井はガンダーラ地方にも例があるがt
T般的
ではない。ジャマル
・ガ-
lamalgarhiやタフティ
・バイ
TakhTi・Bahi
の牛地下式僧房の天井はカマボコ型である。し
かし'各石材はカ
マボコ型を形成するようにあらかじめ加工され'それらを組み合わせたもので'建築技術からは本来の
barretvauttとは言いがたいo沸教寺院の例を求めるならば'
ペシャワール盆地にはな-p
ハッダ
・ジ
ェラーラーバード
以西にある。フォンドキスタン七夕パ
・サルダ
ール'タパ
。スカンダル
TapaSkand
a
rtジ
ェラーラーバード西方山麓の
石窟などに本来のこの種のアーチをみる。右横や泥煉瓦積以外では'カ
マボコ型天井は多-の石窟寺院において岩盤をえ
ぐり出したものとしては無数に存在するが'それもジ
ェラーラーバード以西に限られる。
両堂Jは'奥壁に少-とも三億の泥像があ
った。壁面中央に三ヶ所固形剥離跡があり'柄孔であることを示し'悌像を
とめていた謹濠である。彫像は下牛身だけがかろうじて残る。むか
って左の側壁奥には'奥壁左端の泥像と接して個だけ
が残
っている。
洞望
Kには'奥壁に獣脚が支える垂座があり、ここに施無畏印を結んだことがわかる像があ
った。その像の前には'ほ
とんど残らないが'結釦妖坐の小俳がある。南側には立像があ
った。脚以下が残り、サンダ
ル状の履物によ
って菩薩像で
あ
ったことが考えられる。いずれも低卒な基垂にのっていることは、他の両堂とかわらない。側壁にはもとは各々二趨ず
つ悌像があ
ったことが'菩薩像の前に小さい足が洩
っていることで知られる.伺堂の床面はいちめんに焼けて黒-な
って
いるが'火は像に及んでいない。
ハッダ最近の蓉堀に関する問題
東
方
畢
報
三四四
塔院北西の外壁には両堂
Fのとなりに耐堂Gがある。規模は
KやJと同じである。奥壁に坐併大小を前後しておき'側
壁に立像をお-鮎'両堂
Kと著るし-にている。ただこの両堂奥壁の大坐俳は歓落部分の状態から侍坐像であ
ったことが
知られる。
阿波遇羅龍王教化
(囲8、
9、10)
塔院北西外壁の西端にある両堂は規模大き-、表現されたテーマも特殊であると同時に'その泥像群がまる彫で'しか
も頭部をよ-残すものもあり、造像史上タパ
・ショ-ルの位置を特異なものにしている
(挿囲ItH)。
二
・四メ1-ルに二
・九メ-ールの平面で'側壁残高約二メートル。火災により梁材が両堂内部に焼けおちへそこの群
像も焼け'像の木心が熟をうけてもろ-なりtのちの雨水浸透による被害も大きか
った。すべての像は相接して複雑に配
置され'しかも各像は繊細なタッチをみせていたから'ここの清掃には最大級の注意が擁われ、三五日もの長期の作業で
ようや-概略をつかむにいた
ったと言う。
この伺堂にはもとは
一四髄の泥像が物語の
1場面を表現したものとしておかれたが'清掃されたあと原位置に残
ってい
たのは八健である。ムスタマンディ氏がこの伺堂を名づけて
FishPorchとしたとうり'
床や壁面全鰭は'水があるいは
流れ'あるいは渦をま-ありさまを泥の浮彫りであらわし'ことに奥壁には'蓮の葉が風にひるがえるものを表現し、奥
壁から床にかけて魚類の遊泳するさまを高浮彫でみせ、こ
の全鰭が蓮池ないし泉流における場面であることを物語
ってい
る。その魚類のなかで二つの頭を重層的にも
つ怪魚が非常に珍奇な彫刻として特筆されるのである
(圃8)。
奥壁の中央には'三葉形に波の表現されていない部分がある。この部分の縁遠には数個の柄孔があき'彫像が剥落した
跡であることを示している。この三葉形はもちろん頭光と身光であり'その形態から坐像としての悌陀像がとりつけられ'
この場面における主演者の
1人であ
ったことを示すのである。
この場面を演ずる諸像は'奥壁南端に上下二億づ
つとむか
って右側壁に坐像'左側壁に立像二髄
(うち手前は雨足のみ)、さらに正中線よりやや左に偏して
一能がある。
左右繭隅の像は
頭部はすでに敏落しているが、偏裡右肩'身鰭に密着した衣を
つけ、腰から上を水面にあらわす。壁の隅角を巧みに利用
しておかれている。繭像ともほとんど同じ像を封稀にとり
つけていたらしい。左隅の床にひざまづいて合掌する菩薩像と
頚飾や著衣がにており'頭部がな-ても、同じ-菩薩像と考えられるo
合掌菩薩は完全に頭部を残している
(囲10).
顔の
つ-りには'いわゆる
ハッダのス-ゥッコ像のような彫りの鋭さはな-'全鱒にまるみがあり'眼も口元もみなまるい。
と-に眼のつ-りが、壁禽
Cの僧形像に近い。衣紋のまるみ、袴の重い表現が'壁禽
Bの像に通ずる。むか
って右の隅に
もひざまづ-像がある。おそら-左のこの像と左右封稀におかれたものと考える。左側壁にそ
って立
つ人物は腰から上が
な-な
っているが'左腕はやや残
っているo不思議にも残された下牛身は壁の方にむいている。左手をさしあげた姿勢で、
膝までもない短衣を着'
しかも腰でた-しあげ'
動的な姿勢である。
ムスク
マンディ氏とともに
私もこの像を執金剛紳
V
ajrapaniに比定するのは'
その姿勢'畢手'短衣による。執金剛神の手前の壁を背にしてもうひとつ立像があ
ったらし
-、正中線にむか
って八の字にひらいた足がのこる(.また合掌菩薩の右うしろの壁ぞいにも足が
l封残
っている。
次に富商堂の場面を解樺するのにも
っとも重要な人物像がある。ち
ょうど執金剛神の前に、両堂中央をむいて'いまま
さに膝を屈しようとした像である
(囲9).
頭部はな-な
っているが、
豊麗な頚飾を
つけたこのールソーは完全にまる彫り
で厚みがあり'量感がある。水にぬれて密着した衣を
つけた髄は蓮池の中から出現したようである。雨脚の問の床面から
くね-ねと像の背後にのぼ
ってゆ-蛇があることに注目すれば'
この像自身を龍王に比定することはさほどむづかし-な
0ヽ、ーVす
べて木心泥像群
で構成されるこの間堂が表現する主題は'悌陀'執金剛紳'聖衆'龍王'蓮池
(あるいは泉流)によ
って
ハッダ最近の蓉塀に関する問題
三四五
東
方
畢
報
三四六
判定されるであろう。しかも龍王の位置は'諸々の聖衆から離れ'ひとり猶立しておかれる関係にある。
いわゆるガンダ
ーラの浮彫にあらわれて-る寵王に'ナ-ガ
・カー-カ
NagaKatika
がある。すなわち併侍中の
7場
面である。粋迦は菩提樹下に急ぐ折しも'カー-カ龍王の住虞を通
った。カー-カ龍三は樺迦のからだが光りかがやくの
をみて、成道の近いことを知り'讃歎合掌したのである。しかしそこにはこの両堂があらわすものをみたす要素がない。
次に、『大唐西域記』(京都帝国大草文科大草叢書本)金第二那撮羅局園の候に'
--城西南二十飴里。至小石嶺。有伽藍。
--
伽藍西南。深澗附絶。操布飛流。懸崖壁立。東岸石壁。有大洞穴。埋波
羅龍之折居也。-・・・昔如来在世之時。此龍馬牧牛之士o供王乳酪。進奉失宜。班獲詰責。心懐意恨。郎以金銭買華。供
養受記琴堵披。願馬悪龍。破圃害王。印趣石壁。投身而死。達居此窟。馬大龍王。便欲出穴成木悪願。適起此心。如来
巳壁。懲此国人馬龍折害。蓮神通力。日中印度至。龍見如来。毒心途止。受不整戒。願護正法。--
という埋波羅龍の教化説話がみえる。
また'同じ-巻第三鳥使那園の候には'
--曹揖斐城東北。行二百五六十里。入大山。至阿波避羅龍泉。--此龍者迦菓波悌時。生在人趣。名日韓紙。深閑光
術。禁禁裏龍。不令暴雨。国人租之。以稽除根。居人衆庶。感恩懐徳。、家税斗穀。以薗避雷。既積歳時。或有通謀。残
紙合怒。願馬憩龍。暴行風雨。損傷苗稼O命終之後。馬此池龍。泉流白水。損傷地利。揮迦如来大悲御世。懸此国人猫
遭斯難。降紳至此。欲化暴龍。執金剛紳杵撃山崖。龍王震催。乃出蹄依。聞併設法。心尊信悟。如来遮制。勿損農稼。
龍日o
凡有所食。粗収入田。今
蒙聖教。恐難済給O願十二歳
1収糧儲。如来含覆。愚而許鷺。故今十二年
一遭白水之
災。
という阿波避羅龍教化の詮話がみえる。
もしいま掲げた三者のうちから'この場面により近いものをとれば'
『大店西域記』の二つの説話であろう。
ムスタマ
ンディ氏は'笹波羅龍王教化を恩賞にうつし出したものではないと認めつつも'地方的なこの説話を比定の封象にしない
わけにはゆかないと考えている。『大唐西域記』にみえるこの那揖羅局国における説話に執金剛神は出てこない。しかし、
この程渡羅龍に関連する那掲羅局国の悌影意の由来をのべた
『併設観悌三昧海経』巻七には'園の飢醒疾疫の原因である
l・・・--I
恵龍
・羅刺を教化する時、執金剛神の金剛杵で龍身を焼きこらしめるとみえる。また阿波遊羅龍王教化の場合では'執金
剛蕗の杵は山崖をうち'重要な役割を果している。『大唐西域記』の埋没羅龍説話では'
龍の住虞はけわしい崖、
瀧'
洞
穴という環境で'ゆ
ったりした蓮池や泉には関係が浅い。それに封し'阿波遼躍龍説話にはスワ1-河の源である泉が舞
墨で'タパ
・ショールの同堂に表現されたものに近い。ところがこの説話はスワ-ト地方のものであり、地理的に遠-'
すぐに比定して'タパ
・ショ-ルのこの岡堂の場面が阿波避羅龍教化を表現したものといいきるわけにはゆかない。しか
し、
『大唐西域記』などに燃燈燐の悌跡が多いと記された那抱羅局国において'
燃燈悌関係の造物が茸際に出土した例は
まずな-'ガンダーラやカーピシーに出土例が多い。この現象を重視するならば'タパ
・ショ-ルのこの場面もそういう
現象のひとつと考えて、阿波遮羅龍説話に比定してもよいはずである。ある地域で人口に胎英された説話をその地域で可
視的なものにかえて'塔供養に参詣するひとたちに見せ、説法の
一助とする必要があろうか。しかも埋披羅龍のために梓
迦如来がその影をとどめたという有名な排影窟は記録によるかぎりタパ
・ショトルからさほど遠-ない。
梯
塔
分
類
(挿団1)
主塔は東南にむき、その周囲に小塔三
一基を配する。すべて方形基壇をもつが'初成基壇はよ-残る
1万'欝二基壇以
上は倒壊している。初成基壇の形態にもいろいろあり'丈が高いものはすぐ囲筒部をのせていたようである。ムスクマン
ハッダ最近の沓掘に関する問題
東
方
撃
報
三EI八
ディ氏は'
小塔群を配置'
構造'
細部によ
って二群に分類し'この二群が造建時期の前後をあらわしていると考えた。
第
1群すなわち前期の造立に属する跡は、
1、2、3'
5
'9、10'11㌧13㌧は'16tは'21tgy
tG'cS'27㌧3,3
に嘗る
一八基で'主塔にも
っとも近接した位置にこれを方形に東南から北まわりに西側
へと取り囲んでいる。分類基準は'
Ⅲ判型が大部分片岩小口積で'その上をストゥッコでおおう。②内部は泥をつなぎにつか
った右横である。矧壁柱は片岩
小口積で、アカンサスの中央の葉が折りかえり、先端を下にむけ'その実肢のうち主脈となるものの若干例には、節を
つ
けたものがある。第二群すなわち後期の道立に属するものは'4'
7'
7(bis)'
8㌧12'14'17㌧19㌧23㌧24'28'29㌧
30の
二二基である。基壇判型や壁柱は石灰岩をき
って細部の用途にそ
った形に整えたもので'その上にス-ウツコを塗り、
片岩小口積ではない。壁柱柱頭のアカンサスの葉は重列で、上列は両端の渦恵の問にあり'冠板の上
へと立ちあがり、先
端は折りかえらない。柱身中央に二本の卒行刻線とその線端をつなぐ内轡刻線とで形成される装飾をも
つ。饗掘措富者ム
スクマンディ氏がこの二群に前後関係を認める理由は壁柱装飾にある。第
1群では主脈に節のあるアカンサスの菓'第二
群では柱身にある刻線装飾の形態がそれである。第
1の'主脈に節のあるアカンサスの葉は、アイ
・ハヌムにおいて出土
したものの系統と考え'第二の刻線装飾は'
スルフ
・コタルにみる同形態の装飾の系統に属すると考えた。アイ
・ハヌム
とスルフ・コタルとが同じ-パクト-アの地にありながら前者がグ
レコ・パクト-ア期に属し、後者がクシャーナ期に屠
する以上'タパ
・ショールにおいてもこの二者問に時期差があると判定したのである。しかしアイ
・ハヌムにこの種のア
カンサスがたしかにあり'アイ
・ハヌムの下限が前二世紀中英であ
っても'またスルフ・コタルにこの装飾がありへスル
フ
・コタル創建がカ
ニシュカであ
っても'この前後関係をタパ
・ショールの造塔時期差にそのまま使うとはま
った-論外
である。葺際この地方の係数寺院の年代を'ただひとつの係数寺院の調査だけから決めることは不可能に近い。事情はク
パ
・ショトルでも同じである。そこで次善の策として'
ハッダで最近敬掘された寺院の調査結果と比較してみて'クパ
・
ショトルの塔院がそれらと関連してどういう位置にあるかを考える。その寺院とは'前に私も加わ
った京都大学
一九六五
(4〕
年度の調査になるラルマ麿寺跡にはかならない。塔院に関して両者には比較検討すべき鮎が多々ある。
主
塔
構
成
(挿囲1㌧3)
タパ
・ショトルの主塔は
1遺四
・七メートルの丈高い方形基壇をもつ。各面は五問で各柱間に
一等立像を配している。
ラルマの主塔は
一連八
・五メートルで同じ-丈高い方形基壇をもち'各面は七問、柱間には三尊立像を配する。各柱間の
立像数はちがうが、
悌像の様式は酷似している
(以下ラルマについては註4の文献による)。
ラルマでは三尊像も壁面も非常に微細
で良質のスーゥツコでおおわれていたが、その東壁
(むかって石壁)のうち'正面寄りの二間と正面右側の柱間との都合三間
は'壁柱部だけは良質のストゥッコを残し'
壁面だけきりと
って'
そのあとを粗い砂まじ
りのストゥッコで補修してい
た。補修後の壁面には悌像を飾
った形跡はな-、朱拓の壁墓があ
ったようである。ラルマ補修壁のような粗いス-ゥッコ
を塗装したのがタパ
・ショ-ルの主塔の壁面である。
ラルマ主塔の荘厳は'三尊像のほかに壁に沿
って坐価を随所に計七億置いたあとがあ
ったが'タパ
・ショトルでは、正
面階段をはさんだ左右の柱間に三葉型の壁轟をもうけている。右轟内部には禅定燐をおき'轟外むか
って右にひざまづく
供養者をはめてあるっ左轟には説法印の坐傍をお-。相方とも轟壁のあれ方がはなはだしい。この轟形は同じ-三業型で
はあるが'細部は大いに異な
っている。三業型のうち中央の轟と側轟との高さの比が、むか
って右では大き-'左では小
さい。かつ左では三業型全鰻が二本の低い壁柱によ
って支えられているのに封Lt右では壁桂がない。階段の張り出し部
がつ-る直交する二面の狭い壁には'坐燐と立備とをお-。坐像は階段と平行する壁面にあ
って、高い室座に坐す禅定印
の悌像であり、塔基壇正面壁と平行する壁面には'立像をお-
(固4'5)。
ハッダ最近の蓉堀に関する問題
三四九
東
方
撃
報
三五〇
立像は塔の柱間に配されたものと同
1である。こ′の立像は階段のむか
って右側には存在しなか
った。
塔基壇壁面があれているので'塔の構築法を槍することができる。内板構造は'
この附近通有の裸岩を粗-うちかき'
長方鰭に整え'これらを泥でつないで積みあげたものである。
1万㌧壁柱'判型'轟など建築細部は'大小の片岩をえり
わけて小口積にあらかたを
つ-り'その上にス-ウツコを塗装している。石の大きさはややことなるが'この構築法はラ
ルマと同じである。ラルマでは片岩を
つむべき場所'たとえば壁柱部などは'硬岩を積んだとき場所をあげておきtのち
に細部を
つ-り出したことが観察された。したが
って主塔の構築は下から順に内核と同時に壁面細部ができあが
ってい
っ
たのではない。細部は右横の最終段階で完成したのである。おそら-タパ
・ショールでもこの構築法によ
ったと考える。
判
型
構
成
(挿圃2)
タパ
・ショ-ルの判型は-ルス
torus(凹部)も
スコティオス
skotios(凸部)も礎盤もラルマに-らべる
とややうすめで'
「-」
全鰻に押しっぶしたような印象をうける。
しかし組みあわせはほとんど同じである
(挿固2
)。
すなわち基壇壁面の基部判
型の上に壁桂がのっているので'壁柱柱礎部の別型と基壇基部の別型とが連接する。基壇基部の判型は二組であるから'
壁柱のそれを入れれば、三組がひとつづきとな
っている。下段では礎盤に嘗る部分が非常に腰高となる特色があり'塔基
壇全鰻がこの礎盤にの
っている観をあたえる。ここまではタパ
・ショトルもラルマも同じであるがへ両者を隔てる鮎は、
スコティオスと壁柱の礎盤下部との庭理である。タパ
・ショトルでは'
スコティオスはゆるやかな曲面を示す凹部になら
ず'平面的に傾斜している。そしてこの傾斜面と上下封稀に礎盤下部が虞理されている。ところが'ラルマでは壁桂の礎
盤からスコティオスへの接績とこのスコティオスだけはタパ
・ショトル風でな-'
スコティオスは本来の形を保ち'曲面
をみせている。礎盤からこのスコティオスへ連結する部分も非常にうす-'タパ
・ショトルのようなきわだちがない。ラ
ルマでは下方のスコティオスと礎盤の組み合わせはタパ
・ショトルと同じである。バルトゥ-の調査した悌塔の測圏を信
用して使うならば'タパ
・カラーン
TapaKat抑n第
1四
1塔にみられる剖型構成がより本来の構成に近い。すなわちスコ
ティオスの上に礎盤を重ねる場合、
スコティオスが曲面をも
つ本来形であれば'このような連結が自然であると考えるか
らであるo骨組を片岩で築き'その上にストゥツコをぬ
って判型部をつ-る場合、タパ
。カラーン第
一四
7塔のような手
・.-;
のこんだものから次第に製作の手間をはぶ-ようになることが濠患される。礎盤にせよ中線にせよ'
スコティオスの上に
それをのせようとすれば、
スコティオスという曲面をも
つ部分を
つ-り出すことは、葺際の柱礎を畢潟でつ-る場合より
建物と固定している場合の方が造りに-い。傾斜面のスコティオスを
一.
.
了
0 100cm
L=コ=二二コ二二1==上= = =二二二」
挿囲2 - ッダ併塔別型の程類 1.タバカラ-ンNo141大塔
2.タバカラ-ンNo33塔 3.ラルマ主塔 4.タパショトル主塔
つ-
った例は'タパ
・カラーン第四六㌧四八㌧九八塔'タパ
・イ
・カ
フィ-
ハITapa十Kafarih抑第四六塔'チャヒ-
・ダ
ンディ
Chakhil
-iIG
houndi第二六塔'
プラテス第
7'
17.一八'
二九塔'
ゴー
ル
・ナウ
Gar
Nao第
二
1塔にみられる。これらとタパ
・ショトルが上
の意味でタパ
・カラ
ーン第
1四
一塔よりお-れた時期のものであると
すれば'ラルマやタパ
・カラーン第三三塔'タパ
・カラーン第
二
七
a塔などはその中間に位置する。
ハッダ最近の寄握に関する問題
基
壇
形
態
ラルマ主塔は高低二重の基壇をも
つ'初成基壇は高さ八二センチ'
上成基壇はどの-らいの高さまであ
ったか不明である。上成基壇の壁
三五
1
東
方
撃
報
三五二
面が上の方からこわれているからである。現在残
っている主塔の最も高いところから下成基壇の上面までは約三五〇セン
チを測るが'この最高鮎が上成基壇の上面であるとはいえない。下成基壇の周囲に二、三、五
-一六の小塔がある。こ
れ
らは下成基壇と同じ床面に建立されている。小塔の構造は'内部を河原石と泥土でかため'外面はすべて石灰岩をその細
部の用途にしたが
って切り整え'それらを組み合わせたものである。石灰岩切石装の小塔では'柱間にある三業亮型まで
も
1枚の石から彫り出されるという特色を示す.この上にス-ゥッコを塗装するo
下成基壇と同
一床面にある小塔群はある時期で埋め立てられた。主塔の下成基壇葛石の高さで小塔群が創申され、小塔
の問やそれらと主塔との間は'こわされた小塔の石材やそれを飾
っていたスーウツコ像'および土などで充填され'後期
床面が造成された。その床面とはもちろん下成基壇の上面とその延長面である。主塔階段のむか
って左では'小塔が二基
だけ後期床上に残
っているが'基壇の基部を残すにすぎない
(挿囲3'第1塔)。しかしこれらも'河原石をつんで内核とLt
石灰岩切石装の外面をもつものであ
った。
"
.I..'.
IR.…
1
M
.』
挿囲3 ラルマ塔院卒両国
重層方形基壇の主塔すなわちラルマ前期形態の
基壇をもつ主塔は'
ハッダではタパ
・カラーン第
1四
1塔'バーグ
・ガイ
Bagh
Ga+1'塔院主塔'タ
パ
・イ
・カフィ-
ハ-第
1大塔の三例がある。
1
万㌧単層方形基壇の主塔すなわちラルマ後期形態
の基壇をもつ主塔は'チャヒ-
・ダ
ンディ'プラ
テス'ゴール・ナウ'デー・ダ
ンディDehGhuロdi
であり'現在みられる状態のタパ
・ショール主塔
もこれに展する。
ラルマで認めた前後二回の床面とそれに伴う塔
(正確には塔の基壇形態)の変化は、タパ
・ショトルでも同様であ
った。すな
わち現状のタパ
・ショール塔院の塔群はこの遺跡における後期の様相を示したものと私は解搾する。アフガン考古研究所
の調査はいまだ現床面を掘り下げてこれを確認してはいない。しかし'将来もし深掘りがおこなわれた場合'まさにそれ
が確認のための作業にすぎないことが'床面観察から明らかなのに'覆掘者はま
った-言及していない。この床には主塔
をとりかこんで主塔と規則的な関係を示す段落が認められるのである。その段落とは主塔の下成基壇葛石の端にはかなら
ないことがラルマの事箕から推測される。この低い段落は主塔正面では第四塔西隅から第
一八塔束隅につづきつ主塔西側
では第
一八塔北側から第二四塔および第二二塔東北を通り'第
一五塔の下
へはいっている。主塔北側では柏接してつ-ら
れた第
二
塔から第
1五塔の南端を通るので平面因にはあらわれていない。主塔東側でま
った-認められないのは'段落
ができないような床づ-りが行われたとしか考えられない。
この段落を下成基壇の葛石部とみとめる理由はほかにもある。それは主塔と小塔との間に残された茎問である。結果的
にはそれが緯道として使用されたかもしれないが'この基間がほぼ
1定の幅をも
っているということは床の基礎構造を考
えたうえで小塔がつ-られたことを示している。すなわち、ラルマにおける事薫から考えられるのだが'タパ
・ショトル
の現状の床面の堅固の度合に差があり、それは埋め立て部と下成基壇上面との差にはかならないということである。小塔
をそのような床に道立するとき、堅固に差のある場所にまたが
ってつ-ることを避ける必要があ
った。そのためすべての
小塔は同質の硬度の床上につ-られたのである.この場合、もとの下成基壇上面は造塔をゆるすだけの茎間
(と-に幅におい
て)がなか
った。
このように考えて-ると'
現状のタパ
・ショトル塔院にみられる主塔周囲の規則的な基問は'この主塔
に現床面を上面とする下成基壇が存在することを示唆するものに他ならないのである。
ハッダ最近の畿握に関する問題
東
方
学
報
俳
塔
編
年
タパ
・ショトルに前後二期の床が漁想され'現在みられる床が後期に廃し、ラルマでもこの事情が存在したと記するの
は
'ハッダにおける悌塔がパル-ゥIのいう編年や展開過程では律しきれないこと'およびムスク
マンディ氏の言うタパ
・ショール塔二群分類の不自然さをぬぐいきれないことなどと関連するのである
(1.Barthoux,MDAFA,Tome芦
pp.57-59)O
ラルマ前期床には前後三岡にわた
って塗り改められた厚いス-ウツコの床面があ
った。そのうちも
っとも早い床面
aの
上に小塔第八'九、
一〇がある。主塔下成基壇むか
って右の張り出し部の上につ-られた第四塔は、この張り出し部がの
ちの塘虞であ
っても主塔と同時につ-られたものであ
っても'前出の三塔がこの張り出しに規制されている以上'三塔よ
り早い造立である。そうするとラルマ前期ではまず細部に片岩を使
った小塔があり、のちに片岩をま
った-使わない石灰
岩切石装の小塔がつ-られたことになる。さらにラルマ後期においても石灰岩切石装による小塔の道立が績いた事葺があ
る。これにより'ムスタ
マンディ民やバルトゥIの見解が安富であるかのようにみえる。ところが事情はそのように簡明
直裁ではない。それはタパ
・ショトル後期の
(現状の)床には'石灰岩切石裳のものも'細部だけ片岩で積んだものも'
ま
たこの繭式が併用されたものも存在するからである。タパ
・ショール後期塔院とラルマ前期塔院とを同時期と考えれば、
この問題は解決するであろう。しかし'雨塔院の主塔の構成がはなはだ共通しているうえに、別型構成細部の異同や外装
ス-ウツコに精粗の差があることを考えあわせると'同じ後期にしても'タパ
・ショトル後期の方がラルマ後期より時期
が降るとみた方が自然である。そうなればタパ
・ショール後期塔院の方がラルマ前期塔院より晩い時期に屠することにな
る。そのタパ
・ショール後期塔院に前記のような三種の小塔構築が認められるのである。ムスタ
マンディ氏やパル-ウ-
の併塔展開の考え方からすれば'タパ
・ショール後期塔院ではすべての小塔が石灰岩切石装のものでなければならない。
ここに彼らの見解の矛盾がある。悌塔全鰻を
ハッダ
のような限られた地域においてすら、単純に縦の関係に並べることは
むづかしい。先にふれたように'
フォンドキスタンなどのような悌敦寺院建築のこの地方における終末期においても'主
塔だけは片岩がその用材としてなおも用いられていることをここであらためて指摘したい
(三三八頁参照)。
ムスク
マンディ氏はタパ
・ショトル塔院の年代を示している。二群に彼が分類した小塔のうち'彼がより晩いと考える
第二四塔に壷形土器が埋納されており'
中に
1塊の貨幣があ
った.
それはメナンドロス銅貨
一個
(P・Gardner)
T
h
e
Coins
of
ike
GreekandScythicKings
of
B
a
ctriaandIndiainikeBritishM
useum,p・497No.66)P1.X(Ⅰ)5)とサーサーンのシャープールⅡ世
(三八三~
三八八)潜行の摩滅した小銅貨
10個であ
った。
彼は後者が第二四塔の造立年代を示しているものと考えて、
第二
四塔をふ-むより敵い小塔群を四世紀末とLtより早い
1群をこれより古いものであるとした。また塔院静振の過程で出
土した多-のクシャーナ貨から考えて'
塔院
(私の言う後期塔院)の年代を
一-二世紀においたo
l方'タパ
・ショール塔院
の終末を'法頼'宋雲、玄英の記鏡を参考として'
エフタルによる破壊に蹄した。シャープールⅡ世貨による上のような
年代決定は、かのどマラーン舎利容器の年代決定にま
つわる名高い錯誤を想起させる。この貨幣の埋約がシャープールⅡ
世の年代をさかのぼらないことだけが確かである。
エフタルによる破壊で、係数寺院が終末をむかえたという常套句も使
わない努力をしたいものである。悌数寺院に火災がみとめられる場合しばしば
エフタルがその責任を負わされるけれど
(.1・j
も'火災をおこすのがす
べてエフタルであるはずがない。
二〇世紀も後牛にな
ってこのような年代決定が行われるのは'ガンダーラからこの地方にかけて悌数寺院跡調査に封す
る基礎的な作業がほとんどなされていないからである.寺院跡の敬掘では'豊富な彫像や建築遺構が出土するため'寺院
に任する僧衆の生活に放かせない土器などの精査には主眼がおかれていない。寺院の興廃は支配者に依存するほかに僧衆
の存在な-しては論じることができない。僧衆の生活のない燐教も考えられない。係数を顧慮しない悌数造像の検討が存
在しえないのと同じである。
ハッダ最近の蚤掘に関する問題
東
方
学
報
三五六
係数寺院と不即不離の関係にあるのはまた在俗信者であり'その生活の場は都市や村邑に他ならない。そしてそういう
集落の遺跡は彼らの使用した土器の様相を時代をお
って理解するために不可歓である。タキシラにおける都市の畿掘はタ
キシラ欝Ⅳ都市
(シルスク)
でほとんど行われなか
ったからタキシラの都市と寺院との関係はあきらかにされることがなか
った。
しかし、ガンダ
ーラでは
1九五八年'六三年'六四年に行われたチャールサダ
Charsadaの番掘が高-詐債されね
ばならない。と-にシェイ
ハーン
・デ-I
Sheikha
nDher.1
では都市生活に要する土器と僧院生活に要する土器との間に
、rJTJ)
基本的なセットとしてはあまり差異がないことがわか
った。ジ
ェラ
ーラ
ーバ
ード
一帯では集落遺跡の敬掘ははじま
ってい
ないo集落遺跡の贋範囲で層位的な饗掘によ
って土器様式を-みたて、土器によるこの地方の編年を行ない'寺院跡出土
の土器と封比させてゆ-ことこそ'係数寺院編年
の基本的な態度である。そのような姿勢なしで'峯に造像や建築だけを
とり扱
っても'砂に楼閣を築-ことになろう。
註(1)
この
一文を草するに嘗
ってアフガニスタン王閲政府情報文化省考古古
跡保存局から典えられた利便ははなはだ大きい。局長
CIMoustami・
ndy博士は、遺跡の細部に関する私の疑問に対し実地に検討する機
合と便宜を輿えられた。ここに明記して謝意を表する。番据報告の要
約という意味の紹介は私の意
囲するところではないので'さらに詳し
い番掘内容は次に掲げる概報を参照されたい。
MarieEaetShaibai
Moustan1.indi.NouveltesfouittesaHadda(1966-67)parl'Institute
afghand'archeotogie一ArlsAsiaiiques,TomeXIXLg69,pp.)5-36;
LafouiltedeHaddaVparleDr.ChaibaiMoustamindy.Acaddmie
desZnscriz,lionseiBelles-Leiires)CombiesRendusdessdancesde
I.annde1969janvier-mars.)969,pp.)19I128;Dr.ShahibyeMusta・
mandi.TheFish
Porch.Afghanistan,msioricaland
Cultural
Quarterly,Vot.XXt.No.2,pp168I80;A
PreliminaryReporton
theExcavationofTapaliShotorinHadda)Afghanistan.Historical
and
CulturalQuarterly,Vot.XXt,No.2.pp.58169.;Preliminary
ReportofHadda.sFifthExcavationPeriod.Kushan,Cultureand
History,(pub-ishedbyHistoricatandLiterarySociety
ofAfgha・
nistanAcademyandDirectiongeneratede1.archeotogieetdeLa
conservationdesmonumentshistoriques,Kabul.)971).ppA3・501
またムスタマンディ氏
の報告
(AfghanistanVot.XXI.No.2)では
各
壁轟や弼堂の
名稗はそのすべてに附せられていないので、私は便宜上
A-Kと名づけて記述をすすめた。塔番号
は報告にあるとうりであ
る。念のためムスタマンディ氏の壁轟
・両堂名のあるものを記してお
-。壁轟B
‥Nichewithworshippers、壁轟C
‥Nichewithstatue
seated
onsnakes、岡堂D
‥PiLasteredniche'詞堂H
‥FishPorch
orNichew】thmarinescenery.
(2)
ム
スタマンディ氏の記述では、第九塔とな
っているが'附囲、記述内
容からこれは第六塔のあさらかな誤りである.ArtsAsiatiques.Tome
XIX,
)969,p122を参照。
(3)
『確
論
観
悌
三昧海
経』(大正癌経版)
巻七観四威儀品に、
--時金剛
袖手把大枠。化身無数杵頭火。然如旋火輪。輪輪相次。徒空中下。火
慣熟蛾。猶如融鏑。焼悪龍身。龍王驚怖。無走遁処。走入悌影。--
(4)
ラルマ遺跡の報告は次のとうりである。水野清
lrl九六五年イラン
・アフガ
ニスタン・パキスタン学術調査後報」(『東方撃報』京都第三
八冊、昭和四二年)三三〇頁-三三二頁。水野清
一編
『ドゥルマン・
テペとラルマ-アフガニ
スタ
ンにおける俳数遺跡の調査
1九六三-
1
九六五-』、京都大撃、
一九六八、五九頁
-八八貫。
(5)
判型という語は
moutding〉moutureVSims
に相嘗するように使
っ
た。
(6)
平縁とは
fitLet,fiLet〉schmateLeisteのことである。
(7)
この問題
についてはすでにH
∴アイディ工がギルシュマンや7-シェ
を
引いて論じた。H.Deydier.Contribution
a
t'etudede
t'artdu
Gandhara}Paris.
1950,
pp
.)59-)60.
(8)
R
E.M.Wheeter
)C
harsada
,Oxford,)962;A,H.Dani〉ShaLkhan
DheriExcavation()963and1964Seasons)、AncieiPakistan.VoL
IZ
,pp.)7-2)4.
ハソダ最近の番掘に関する問題
三五七
国1 タパ ・ショトル塔院
困2 壁晶の僧形像 園3 壁 亀の僧形像
園4 主塔正面左の壷
圃5 主塔正面右の轟
圃6 壁桂と羅禽
団8 蓮池の場面 (FishPorch)
圃9 龍王像 (FishPorch) 囲10 菩薩像 (FishPorch)
囲11 小塔 (No.7bis)基壇浮彫