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Title <研究動向>チベット語文献『バシェ』研究の最前線 (特集 : 民族)
Author(s) 岩尾, 一史
Citation 史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (2011),94(1): 186-200
Issue Date 2011-01-31
URL https://doi.org/10.14989/shirin_94_186
Right
Type Journal Article
Textversion publisher
Kyoto University
チベット語文献『バシェ』研究の最前線
186 (186)
岩
尾
一
史
誤解を恐れずに言えば、チベットの歴史文献は次の二種類に分
けることができる。
まず一つ自は敦煙や中央アジアから発見された古チベット語出
土史料である。これらは古代チベット帝国統治下、あるいは帝国
崩壊後に記された。出土史料の大半はまず仏典であるが、中には
『編年記騙(沁亀ミ§隷§N奪ミミ恥)や『年代記撫(肉詰ミ↓§-
①
§NGミ§ミ鴨)など第一級の同時代歴史史料をも含む。それら
の紀年は、チベットが敦煙やタリム盆地南側諸地域を支配する八
世紀後半から、敦燵蔵経洞が閉められる十…世紀初頭までである。
この時期の文献の最大の特徴は、後代のような仏教史観がいまだ
浸透していないところにあり、従って仏教が浸透する以前のチベ
ット文化を知る上で重要な史料である。
二つ目は、チベット本土にて古典チベット語で記された文献史
料である。古典チベット語によるチベット史学の伝統は、十一世
紀初め頃からはじまり、チベットにおける戒律復興の動きとほぼ
軌を一にしている。このチベット史学の伝統は、現在にいたるま
で存続している。この時期の文献の特徴は、仏教史観に強固に裏
打ちされているところである。
両者の連絡関係は基本的に断絶している。その理由として挙げ
られるのが、九世紀半ばにおこった古代チベット帝国の崩壊とそ
れに続く分裂の時期で、この時期に帝国期の多くの記録が失われ
てしまったと伝えられる。
しかしながら、幾つかの記録は散逸を免れて後の時代にまで生
き延びることができた。そこで時折、二つ目のグループに属する
歴史文献においても、帝国期に遡り得るような情報を見つけるこ
とができるのである。ただし多くの場合、これら古い情報は仏教
というフィルターを通して再解釈・改変されているので、取り扱
いには注意を要する。
チベット語文献『バシェ」研究の最前線(岩尾)
本稿で紹介する『バシェ』、または『バ[氏の]遺教臨とは、
二つ目のグループに属するチベット歴史文献である。古典チベッ
②
ト語で書かれた歴史文献のうち最も古く、その中核部分は帝国期
に遡ることができると考えられている。著者は、ツェンポ・チソ
ンデツェン治下の大臣バ・セルナンθσ9。.\ωσ鋤ひQω蝕ω話pひq)に帰
せられる。内容は、ツェンポ(チベット皇帝)であったチソンデ
ッェン(喜二段8ゆq置①σ陰。・磐■在位七五五?1七九七)治下に
おいて仏教が如何にチベットに根付いたか、また勅書寺院である
サムイェ建立の縁起、そしてチベットの宗論(インド仏教と中国
仏教との討論)の始終が詳細に記される。特にこの宗論の結果、
チベットはインド仏教を取り入れることになり、後世のチベット
仏教のあり方を決定づけたのであるから,必然的に、璽バシェ』
はチベット仏教史にとって不可欠の書となり、プトン・リンチェ
ンドゥプ(じσ¢ω8郎主情。冨pひq歪σ.~二九〇1}三六四)をはじ
めとする学者たちが古代史を記す際、本書に依拠したのであった。
研究者の問においても『バシ晶への注匿度は高く、幾多の優
れた研究が発表されてきた。特に次の四点は、本書の特徴や問題
点を簡潔に記しており、手っ取り早く問題の所在を知るのに便利
である。
〉.H.<oω嘗幹。〈(霊シ即0『○∬冥餌(けこ(ら刈9類魯鳴ミ篭顛蔑ミ㌧阜
ミト§ミミ越層0巴。痛鱒鋭菊.P℃捲ωω(ωoくδθぎ島。δ題ω①同δρ
③
累。.どのうち、窓』ωlN①.
<窪α興丙三百(δ○。婁、,ミ旨洗脳醤翁ミQ沁§§嚇G§壁ミNミ§8
\8筈ΦUUω£。彗団9。ωOΦσ碧ρ..爵N貯簿H×-OP窓O∴○◎心の、
》b℃窪島冥(b℃’}刈①1}OOO)’
℃口唇∪撃≦Ooα食⑩8)’..ωo日Φ器日喫器op9Φω鐙け二ωき恥臼①
α碧ぎ伽q99①ωuσ節ぴN冨9..↓ぎ§腎ミ鳶ミ謡ミ.<o即一伊旨ρ《
O℃」G。α1ぱoQ.
℃興ω母Φ蓼2(6潔V”↓帖魅僑ミ§し。黛織職ミ累顛暫ミ弾碁、§書、↓曹
§ミミ鳶ミミ§ミ§晦嚇ぎ肉亀ミO§鳴ミ薦紺ら。-芝一Φωσ巴Φ『
頃幽静ωωo講説の、Oや①。。ωふω㎝・
本稿の記述も上記の四研究に大きく依拠するところである。
『バシェ』に関する研究は、次に紹介する二種類の噌バシェ』
写本が出版されたことによって大きく進展した。ただし、二一世
紀に入るや岡バシェ臨をめぐる史料状況は~変し、現在新たな局
面を迎えつつある。そこで本稿ではまず、現在手に入る『バシ
ェ』写本の書誌情報を述べ、次に現在の『バシェ隔研究の課題を
述べたい。
187 (187)
*
*
*
この書のチベット史学における重要性とその来歴の複雑さを、
欧米の学界に初めて紹介したのは、おそらくロシアのチベット学
者く。ωけ吋蒔。<(一九〇四1一九三七)である。骨折の天才学者の
遺作として出版された『チベットの歴史文学』(§富§腕輻¢ミ壌
勘ミト§ミミ鳶)において、『バシェ漏が最古の歴史文学として紹
介されており(同書二四-二六頁)、簡潔かつ要を得た説明は、
今でも一読の価値がある。しかしながら、『バシェ圏はそもそも
稀血合に属するものであって、彼自身が本書自体を実見すること
はできなかったのである。
『バシェ』写本が初めて出版されたのは、二十世紀も半ばを過
ぎた~九六一年のことであった。
即〉’ω冨旦9ミ。ミ§措、㈹§.・織§謹§“砺織§吏織⑭」的じ口摯隷ミ▼
℃曽畿曾〉α匡Φ富-竃蝕のopP①偉くβお①}[以下、隅バシェ》騙]
へ九三六年から一九四〇年、また皿九四六年から一九五〇年まで
イギリス代表(一九四七年以降はインド代表)としてラサに駐在
した頃轟『騨国畠Ω・aωo⇒が、ラサから将来した写本のファクシ
ミリ版である。几帳面な有頭体(島90磐)で記されたこの写本
は、空。げ霞傍opからフランスの碩学園。隊〉年ΦαQり脅Φぼのもとに
送られ、そこで研究されることになった。ω8ぎは、写本の文字
が明晰でありまた出版するのにも適していることから、この写本
のファクシミリを出版することに決めた。しかし一方で、同写本
が多くの綴り字の誤りを含むことから、イタリアの学者O冨叩
ωΦ需↓蓉9所有の無頭体(匹σ二三Φα)のバシェ写本と対校を施
すことにした。そして、衷。げ輿αω8将来の写本写真と、ページ
ごとの簡単な内容の概要、そして簡単な索引を附して出版したの
であった。この時点ではテキストを訳出するまでには到らなかっ
たのであるが、いずれにせよこの出版により、『バシェ』写本が
初めて学界に提供されたことになった。
さて、同写本の冒頭に、「ツェンポであるチソンデツェンと学
者[シャーンタラクシタと]阿閣梨パドマ[サムバヴァ]のとき
に、スートラとマントラを区分なさったことについての、補足さ
④
れた(讐9。σωσ訂ぴQωヨ島。)バ氏の遺教(バシェごとある。また、
同写本九二頁三…四行目にも、「『詳細なバシェ騙(恥貯貯ぎ職
零禽鷺)として知られる[書]は注釈を本文として記してある
ので、文がより多くなっているだけである。このバシェについて
⑥
は、『補足されたバシェ漏と呼ばれるものである。扁とある。すな
188 (188)
チベット語文献『バシェ』研究の最前線(岩尾)
わち、この写本は『補足されたバシェ』であることがわかる。
ではその補足された箇所というのがどこかというと、本写本で
は六五頁第一六行から九二頁第九行までに当たり、古代チベット
帝国の滅亡からグゲ王朝にいたるまでの事情が簡単にまとめられ
ている。
『バシェ〉』の成立年代について、ωけ①ヨはぎ瑛090ぼδ導く-8
にて次のように述べる。「この写本の最後にはアティシャの入蔵
が言及されている。この版は、つまり十一世紀末以降に係る。出.
的.空魯p乱ωoコ氏は十四世紀と推定しているが(空。冨巳ωo芦(一Φ総)-
奪§§叫韓¢ミ篭qミ向ミ。財“トぎ舞い○巳。戸や《昌噛卜。)、~方、
ΩΦ霞oq①刃。①胤。げ氏は十二世紀または十三世紀のあるカダム派の
ラマによるものではないか、と考える(目頭の教示によると。し
かし刃。興8げ氏の「口頭による教示」の根拠が何かは分からない。
いずれにせよ、『バシェ諺匝の成立はそれほど古く遡ることは
できず、十四世紀あたりともみられる(℃器きゆq9。巳U圃ΦヨσΦお興
卜。
nO9一)。しかしながら注目すべきはニャンレル・ニマウーセル
(一
=`四-一一九二?)著の『ニャンレル仏教多角(G諒象、
⑥
ミミおミ鳴海吻塁“鳩茜も。客ミ山鳴偽、駿、田富ミ鉢十二世紀後半成立)
が『バシェ》騙の補足部分とほぼ同一文を共有していることで
ある。すなわち、すでに十二世紀にはバシェの補足部分のテキス
トがすでに完成し、かつ出回っていたことになる(ωo話郎ωΦ昌
一①O命①G。堅①G。α)。そのテキストが何時『バシェ画に補足として組
み込まれたのかは不明だが、いずれにせよ、補足部分とて十二世
紀にまで遡り得るということは、『バシェ幽の成立年代を考慮す
る際に留意しておく必要があろう。
なお、伜Φ5は訳注を出版するに至らなかったのであるが、別
に中国語訳が出版されたことを付言しておこう。
『抜協訳注』、四川民族出版社、成都、一九九〇.
本書は中国語訳のみならず、チベット語テキストを活字に起こし、
また索引を付していて便利である。
また、一九六八年、ダラムサラより隅バシェ舳の活字本が次の
ような表題にて出版された。
寡§鴨博。隷ミ筑ぐ§晦ミ恥伽冴§柚職§お§ぎ§N腎。。・、暮§§
博解織ミミ.帖賎器ミ織。讐凌8鋤ミミ幕下職篭賢、帖勉貯細書織簿婆
伽套ミ蟄ω冨ω「眞眉9。吋塞げ9。冨αq魍∪げ震鋤Bω巴ρ一80◎.
この書はω8ぼち曾と同じ表題を持つ。U碧ζ輿酔ヨ(おゆSNω)189 (189)
によると、本書はω肯①6版のコピーであり内容もほぼ同一である
という。
上記の『バシ晶に加え、一九八○年、新たな『バシ晶が中
国から活字版として出版された。
ζゆq88吋題9。一尉房『嘗(Φ9’の競落ぎ9筈一ユひqω3Φ興⊆諮ぴq
咋訂昌堕℃①o汐鱒一Φ○。ρ[中国語表題:巴色朗(著)、『巴愚筆、
民族出版社、北京、一九八○[以下、『バシェじσ巴.
ζΦqoロ燭。脱尊£。一B畠置き氏編集による『バシェ臨の活字版であ
る。「説明」(oqω曽一 ぴωぴ鋤儒)によると、本書は民族文化宮図書館所
蔵の写本、西蔵自治区榿案局所蔵の写本、顯蔵社会科学院の元所
長℃げ募け終。ひqのδ冨吋ぽ⑰q氏所蔵の写本を基にして出版された。
ただし、奥書には別に「本書根拠民族文化宮図害館収蔵的手写本
整理出版」と記してあるから、民族文化宮の写本を底本にし、他
の二写本を対校本としたのであろう。口絵に写本の写真が付され
ており、無頭体で書写されていることが確認できる。内容は隅バ
シェ〉臨と明らかに異なるのみならず、より古い形を残すとみ
なされ、およそ十二世紀に成立したと考えられる(GoQ話⇔ωΦ⇒
}ゆ溝 ①ω心)。なお、テキストの奥書によると、写本自体はある鉄
寅年(庚寅)八月吉日にG。p鴇ωの主(窪窓口冨)であるUαgB
σ¢ヨ節Z同>9・お鋤ωごα三なる人物によって写された(噸バシェ黒、
八二頁)。
ここにおいて、~…種類の写本が学界に紹介されたことになる。
この二種類の『バシェ紬に、他書引用の『バシ轟逸文を加えた
上で、先に述べたような『バシェ』研究が陸続と発表されたので
あった。
*
*
状況が一変したのが、
版されてからである。
*二〇〇一年に全く新たな系統の写本が出
℃pωきゆq芝磐oQ9碧瓢直配紹鋤吋住票ΦヨσΦお9島脱、貯書驚き鴨
謁亀ミ〉貯、ミミ鴨G§$こ嚇隠おミ驚じ。ミ蝿等おミbロミ織恥諒額、恥
bo6ミ謹8§い無響<Φ臣p。oq占居○ωけΦ瑳似。葺ω臼2>冨α①ヨ帥Φ
α興≦δωΦ諺魯9。津①戸芝δロbOOO[以下、噛ワシェ巴
この写本はラサの西蔵博物館に所蔵される。全部で三一葉ある三
一・五×七・五㎝の小テキストで、無頭体で記述されている。写本
は三部で構成され、すなわち、第一部(…葉表~二五葉裏)はテ
190 (190)
チベット語文献ぎバシェ』研究の最前線(岩尾)
キスト本文、第二部(二五葉裏~二六葉表)はバ・セルナンの娘
の死とバ・サンシの死についての短い記述、そして第三部門二六
葉表~三一葉裏)は§ω讐9。μなる仏教儀式の歴史に関する記述
である。テキストのところどころに注や補足が見られるが、本文
とは別人の手によるものである。また、第三部もやはり前の二部
とは別人の手による。
この写本の最大の特徴はなんといってもその題名である。もと
もど『バシェ匝とはバ氏の遺教である。バ氏とは古代チベット時
代から続く名族であり、古代チベット帝国一代を通じて重要な役
割を果たしたことで有名であるが、問題はその氏族名の綴りであ
る。
古チベット語では、碑文から敦藁紙文書に至るまで、バの氏族
名は必ず活餌.(。・)と綴られる(すなわち現代ラサ方言ではワと発
音される)。しかし、後世のチベット語文献ではωσ鋤または吋びp。
と綴られるのが通例なのである(つまり現代ラサ方言ではバと発
音される)。今まで公開された二種の『バシェ幅写本でも、その
題名は的貯簿書織であり、またテキスト内においてもバ氏は全て
ω冨と綴られているのである。ところが新発見の写本では、題名
がb貯、貯幸織と綴られていた。すなわちこの題名自体、同写本
がより古轍を反映していることを如実に示しているのである。
当写本は紀年をもたない。しかし、℃霧きひq馨α∪δヨσΦ蹟興
(N
nO9一マ置)によると、(1)一般的に中世チベット文語には現
れない、古チベット語特有の術語や綴りが現れること、(2)古
チベット語史料と記述が一致する箇所が存在すること、(3)古
典チベット語史料、それも中期以降に現れるような伝説的記述が
ないこと、という三つの特徴が観察され、したがって、当写本が
他のバシェよりも古い系統に連なると考えられる、という。さら
に本出版の℃お貯8にて、勺9ωQ器霧①口はテキストの成立を十
一世紀頃と推定している(勺9。。。壁αQ鴛αUδヨげ興⑳興boOO9妬く)。
二〇〇 年に出版された『ワシ蓋は、学界に多大な衝撃を与
え、かつその簡明な訳注によって概ね好評をもつて迎えられた。
しかし、問題がないわけではない。特に屏腎のチベット語テキス
トが提供されなかったことは残念なことであった。巻末には写本
の白黒写真が附されているので、それを参考に各自がテキストを
作れば良いと養われればそれまでだが、実際のところ、附録の写
真のサイズが小さく、多くの箇所でテキストを読むことができな
いのである。特にテキスト正文はまだしも、微細な草書体で書か
れている挿入注にいたっては、読解はほぼ絶望的である。
つまり、当写本について今後の課題は校訂テキストの作成であ
る。ただし、この欠を埋めるべく、『ワシェ騙の校勘テキストを
191 (191)
作成するプロジエクトが大英博物館研究員の≦oげ器一芝自ω氏を
中心に進められていることを付言しておこう。
それだけではない。新写本の『ワシェ燥が古い系統に属するこ
とを証明する文書が、下穿文書の中に見つかったのである。その
新文書の報告が次の論文である。
Go
aB<9。旨ω9蝕雨承α色心N島ぼH≦8(88[卜。OOG。]V魑、.男建ひq臼Φ癖ω
oh9Φ↓Φω3筥①馨ohbu鋤聴oBU億⇒げ¢p⇒oq噂..冒黛§ミミ
》ミミ跨§燭O篭§ミN⑦8暗洲本OQ’ω・bPミ『ムOoO。・
テキストは現在大英図書館所蔵で、ω壁〉類里ωけΦ5が敦焼か
ら持ち帰った、いわゆるスタインコレクションに含まれる。文書
番号は○圏.。。昏。δ\Go■⑩おG。(〉)+ω.一ω①。。ω(○)である。小断片であり、
テキストもわずか六行を残すのみである。しかし一見して明らか
なとおり、テキストは古チベット語の書体で記されている。その
内容は、シャーンタラクシタがラサに到着したときのエピソード
にあたる。このエピソードは各種『バシェ騙に載る有名なもので
あるが、興味深いことに、本断片のそれは『バシェ》』や『バ
シェじd騙よりも、むしろ『ワシェ臨のテキストと非常に似通って
いるのである。
庶母文書が発見された蔵経洞(薫煙莫高這第十七窟)は十一世
紀初頭に閉められたのであるから、文書の下限は十一世紀初頭で
ある。そうなると、この断片は、『ワシ島系統の写本が他の
『バシェ棘写本よりも古層に属することを証明したことになる。
またそれだけではなく、『バシ晶の原型が紛れもなく十一世紀
以前に遡り得ることを明瞭に示したのである。これまでにも、
『バシェ画の中核部分は帝国期に遡ることができるのではないか、
とはされてきた。しかし、この断片の発見によって、我々は『バ
シ藍の原型が少なくとも十~世紀以前に成立し、そしてそれが
敦煙にいたるまで流通していたことを確認できたのである。
さらに二〇〇九年八月置中国の民族出版社から新たに噛バシ
⑦
島の編纂書が出版された。
しd
ソΦω醤滋9《沁曾曾三型》辱書韓伽磁、翁噂ζ一居おω住ロ①ω跨虹降
匪磐ゆq魑卜。OOΦ[徳吉、『《巴協》予言魅、北京 民族出版社]
堤題が伝えるとおり、職バシェ撫写本の編集本であり、中国各
地にある『バシェ舳四点を活字に起こしたものである。四点の表
題は以下のとおりである。
192 (192)
チベット言吾文献『バシェ』研究の最前線(岩尾)
ω切融§曾奪誌鴇§鴫腎財犠蕊§亮ミぎ§旨亀S§ミ箇
感織織ミ織、賊概§ミ織。鶏嚢8吻ミミ譜貸蹴辱織、焼動曾簿譜亀簿S的
ぴ套ミ織
働のぎ寒Nミ
㈹Oぎ防、書§領喩旨鷺簿慧ミ。
のb建、簿討鴨織
このうちωはサキャ穿に所蔵される写本であるらしいが(同書:
三頁)、表題からもその内容からもG。汁①汐6曾と同系統の写本、
すなわち『補足されたバシェ㎏であることは間違いない。また同
様に、偶と一九八○年出版の北京版とは同系統の写本であろう。
またωが『ワシェ舳であることも間違いなかろう。このωについ
ては、既に述べたとおり評ω碧伽q9。巳OδヨσΦ嶺賃NOOOでは文書
写真のみが公開され、いまだテキストが作られなかったのである
から、今般の活字版は歓迎されるべきものである。
一方、㈹は今まで言及されたことのない写本のようであり、少
なくとも筆者にはどのような来歴のものか知らない。筆者は現段
階のところ詳細にテキストを比較検討したわけではないが、今後
この写本の正体を出所を含め明らかにする必要があろう。
*
*
*
以上、『バシェ』写本について最近の出版も含めて述べた。総
じて雷えば、 一九六一年のωおぎち曾と…九八○年の『バシェ
》騙、『バシェUd撫の出版により研究が高まり、さらに『ワシェ』
の出版以降、ますますバシェへの学界の興味は高まりつつある。
例えば、二〇〇八年十一月二四日、、.b貯、貯ぎ職碧α夢Φ国輿ぼ
螢の8贔96旨無..と題した『ワシェ隔に関するセミナーがロン
ドンのωoげ090胤○話①簿巴磐創〉良。鋤コω密臼Φρ¢臥くΦ冨淳《o団
ピ。巳8にて開催された。一日のみの比較的小規模なセミナーで
はあったものの、一つの写本のみを主題としたセミナーが開かれ
ること自体、『バシェ馳、特に隅ワシェ舳がいかに現在のチベット
研究において髪長を集め、また重要な位置にあるかをうかがい知
ることができるのである。なお筆者は同セミナーが開催されたと
き、ちょうど日本学術振興会海外特別研究員としてロンドンの大
英図書館に長期滞在しており、幸いにしてこのセミナーに参加す
ることができた。以下はセミナーの当日研究報告リストである。
}.ω鋤ヨく餌pω9蝉陣磐儲H≦8囚p聾ω亘..閃轟ひq5①5諺。囲簿Φ侮σ餌、
讐a蹄O白日這p閏gひq”.
193 (193)
Pζ8げ9皿毫艶6鋤p◎6ω①吋ぼひqOoo㎝q貯讐ω9。臣oq-.、○σω重く鋤口opの。臣
昏①ω汁毎9仁話鋤冨αO容α⊆o賦。昌○{筈Φ島σp、Nげ①鳥、.
GQ.い①≦δOo臣Φざ..↓げΦぴド自。.mq富硲ωoh黒幕鳳ω85伽q置①σけωきぎ
叶ロΦ餌び鋤.σNげΦq.
爵uσ鑓PαO昌UOけωO戸、、菊①ゆΦO就O謬ωO昌臼①N霧讐四α軸5α旨ωO冠
↓8簿撃ぎゆ二Φ郎OΦω、.
㎝.霊置Φぴq碧伽UδヨσΦおΦ號響、.℃o節8血糊8臥Φωぎ昏Φbuロα創旺ωぐ
bσo昌OoαΦσ無Φヨ嵩ゆq葺。隔鋤岩げ器。δ笹。驚きΩきけ腎80δ伽q8蝕
Φく箆Φ謬OΦ..
報告タイトルを一見してわかるとおり、『ワシェ舳写本自体に
ついての研究からテキスト内容についての研究にいたるまで、多
角的かつバリエーションに富み、セミナー後の全体議論において
も活発な意見交換がなされた。
*
*
*
『ワシェ撫の出現に加え、黒煙出土の『バシェ睡が発見された
ことと、そして中国出版の『バシェ撫活字本が出現したことによ
り、『バシェ撫に関する史料は格段に増えた。かかる状況のもと、
『バシ轟に対する関心は今後ますます盛んになることは間違い
ないのである。以下、筆者の考えつく今後の課題について述べて
おこう。
まずは、本書の成立事情についてである。隅バシェ舳の由来は
必ずしも明らかではない。先に雷及した『ニャンレル仏教史聴に
よると、チソンデツェンがツェンポ位にあったとき、σ冨、讐ω侭ω
の文が三通作成され、一通はラサに、}通はカム地方に、もう一
風は皇帝家の宝物庫に納められたという(四~○頁)。これとほ
ぼ同文が『バシェ》撫と『バシェしd』に見られる。
さらに、『バシェ灘(八二頁)には「【そのσ網建.ひq酔ω蒔ωは?】、
バ・セルナンによる詳細なσ訂、瞬ω蒔ωとして書かれた。サムイ
ェ僧院のσ冨.oq酔ω蒔ωの前半は「遺教」(σ}ハ鋤、 O】PのbPω)として書か
れたが、サムイェ僧院【の縁起】をみるのにはそれ無しではどう
しょ・γもない、と言われる。それが『バシェ舳として知られるの
である。し(ωσ鋤『qω9。ぢ箒磐ひqひqぎ冨.讐ω蒔ω画聖覧ゆqΦ村題pω唱鍵び吋δ
◎魁。\びω馨《鋤ω渥鷺鑓(9。.讐ω磁ω曽覧の8q島閃鋤.o財Φ臼。っ鶏げ臨ω◎鋤\
σω鋤ヨ《曽ω岬2D員餌詫『<⇔儒ゆ震α篇.象ヨ①α昏鋤σω白①島αqω∬p臓鐸ひqo\
ωσpぴNげΦαゆ口ひq惹oqωωo\)とある。
また、魍バシェ〉幽、すなわち『補足されたバシ孟の末尾
(九~頁-九二頁)においては、「門本書は】『詳細なσ冨.冨ω『
(11讐ω侭。・三猿に、補足したものである。完。」(σ冨.嵩ωδぽ旨旨
194 (194)
チベット語文献『バシェ悉研究の最前線(岩尾)
ひqΦN置ぴ旨。冨N匿σωσ欝⑰qω℃蝉.o\\aNo⑰qωωo>とある。すなわち、
噸バシェ幅とはすなわちこのツェンポのび訂.ひqけω蒔ωそのもので
ある、ということになる。じご訂.讐ω碍ωとは「誓い」や「憲章」
を意味する語であるが(O魯≦oo創一80)、噌バシェ臨の場合は何
を指すのか必ずしも明瞭ではない。『バシェ婦の内容は明らかに
「誓い扁や「憲章しではなく、物譜調であるからである。
一方、本書の内容の大半部分はサムイェ僧院建立に関わるから、
本書は『サムイェ僧院の目録騙や璽サムイェ僧院の遺教撫とも呼
ばれた。例えば、サキャパ・ソナムゲンツェン(ω節ωξ鋤冨
びωo山P四強ω肘題毘B冨置磐.=二=一1=二七五)の『王統明示
⑧
鏡繍(きミミ寓鷺ミ貯.帖§鴨㍉§晦.一三六八年成立?)は、『サ
ムイェ僧院の歪畠鐵ぴq農(びしり織ミ 受織切 魯賊 隷織 財N冨)なる書を引用
しているが、その引用内容からいって明らかに『バシェ臨のこと
⑨
である。また、~六四五年から一六六五年にかけてパヲニ世・ツ
クラクテンワ(∪℃鋤.σo讐ω忽αq訂oqO鐸Φ嵩αqσ餌二五〇四一一五六
六)によって編まれた歴史書の大作『学者の喜宴撫(Gぎ吃ミミお
⑩
ミぎ禽鷺、帖曇、動§N.一五四五-一五六四年成立)の、特にいわ
ゆる前壷期を扱う智の章にて、『バシェ臨は何度も引用されてい
るが、章宋の参考文献リスト(四六〇頁)には「『サムイェ僧院
の大目録』または王統記である大・中の『ワシェ臨」(寓§謡旨霧
ミ寒ミ簿爵さ§§ざミ乙防ミ重職貯、簿譜織簿帖、ミ薦)と
ある。
さて、チソンデツェンのσ惹-ひqけ匹ひqωとしてバ・セルナンによ
り作成され、各地に置かれた三通のうちの つが騨バシ晶であ
った、としよう。ではその場合、騨バシェ騙とその他の二通との
関係はどうなるのか?この三通と関係があるようにも見える書が、
十三世紀の高僧サキャパンディタ(Go9ω温良O①昌縣三$搾q鐸仙ゆq鋤.
叫堕皇。一臼窃冨コ.一一八二一ご一五一)著の『善男子たちに送る手
⑪
豊島(の書禽ミ§ミ廿黛、㌔ミミ恥、織愚ミ反目、門歯題)において引
用されている。その手紙には、『ギャルシェ葡(肉醤ミ簿詮ミ)、
『パシェ隔(9犠、伽簿ミ)、『バンシェ㎏(じδ§題曾譜職)という三
種の歴史書が引用しているが、このうちの『パシ慮は明らかに
『バシェ』のことである。
~方スムパケンポ(しり⊆ヨbpヨ匪9。昌唱。くΦω7①ωα唱巴げ唄。鉾一
七〇四-一七八八)は、歴史書『パクサムジョンサン暁(b層黛偽
⑫
訂ミ累月§曾ミ蒔)にて次のように説明する(三〇四頁)。
【歴史書の記述の】大部分の元になっている呪バシ轟とい
う【書】は、バ・セルナンとバ・サンシなどがサムイェ僧院
の歴史を編纂し、僧、王、大臣のところにそれぞれ留めたも
195 (195)
のだが、それに対し、【それらに】少々の増減を施した『ラ
シェ臨(匪ラマの遺教)、噸ギェルシェ臨(薩王の遺教)、『ロン
シェ臨(11大臣の遺教)という親書ができて、後に文章等が
⑬
長短のあるものも幾つか成立した。
さらに、十九世紀アムドの名刹ラプラン僧院を申心に活躍した
高僧アク・シェラブギャムツォ(〉》評げ¢ωげΦω建げ村尊鋤ヨ誘げ。.
一八〇三1~八七五)は、自らの見聞きした稀槻書のリスト導偽
鍾ミ煽職隷§辱織、題、S蒔賢ミ。勘耐駄§聴蝿ミミ鳩帖慰書袋瀞§ミ縞
簿ミ職鷺、焼Nごご駄、ミミ堕二塁鴨ミ職寒。織鷺(別名筑アクの【稀
⑭
観書】リスト』〉毎ぎミミ。量蒔)を残した。このリストの「伝
記・仏教史・歴史扁(讐鋤ヨ夢胃。ぎωげ鴫§ゆq住Φσ跨Φ「)項に挙げ
られるのが、『バシェ鵬を含む次の墨書である。
バ・シェルナンなど王国の大臣が編纂した
(甦織N “N隷鴨織)、噛ラシェ漏 (“貯 ぴN諒帖織)、
⑮
贈簿ミ)
『ギェルシェ陣
『バシェ撫(怨黛
つまり、三ヶ所に置かれたツェンポのσ冨、聡ω蒔ωと『バシ島、
そして『バシェ』とその他の二書とは明らかに関係があるのだが、
委細がよくわからない。そもそも『ギェルシェ臨や『ラシェ歴、
また『バンシェ』や『ロンシ孟などと呼ばれる書はどのような
内容を持つのか?残念ながら、いまだこれらの書は未発見なので
ある。
*
*
*
もう一つの問題は、『バ,シェ』各写本の流布状況を解明するこ
と、である。『バシェ隔とはことほど左様にチベット史学におけ
る重要文献なのにも拘わらず、本書の版本は作られなかったよう
で、少なくとも、乞われの知る限り、現在に伝わる『バシ急は
全て写本なのである。そして版本が作られなかったことは、『バ
シェ』に多くの異本を誕生させる一要因となったのであった。例
えば悶学者の喜宴聴の冒章には、様々な異本『バシェ』が引用
されている。すなわち、『バシェ血(肉ぴ織 魅N諒鳴織)に加え、『本物
のバシェ』(沁下灘書織ぎ§題§斜)、『不純なバシェ魎(沁貯
貯四丁ミ民q§)、『大バシェ』(二八織贈N討恥儀ら隷鴨腎賢)、『中バシェ舳
(沁伽織伽N隷馬職 、贈\尋帽鋤織)などが引用されている。すなわち、少な
くとも=ハ世紀においてはこれだけの『バシェ』の異本が併存し
ていたのであった。
しかもこれら『バシェ瞼の異本は、時において相互に異なる記
196 (196)
チベット語文献逞バシェ』研究の最前線(岩尾)
述を載せる。
にある。
『学者の喜洋船(三五八!三五九頁)には、次のよう
『大バシ轟によると、「試み」の平々はサムイェ落成祝い
の後に授戒したが、磯中バシェ聴によると、授戒はサムイェ
⑯
落成の後ではあるが落成祝いの前に行われた。
また、ゴi・ロツァワションヌペル(.Ωo巴。匿.簿び鋤ゆq斗。謬巨
9巴.=二九二i一四八一)著の歴史書『青冊史棘(bSミミ
§晦。謡昼9一四七六一一四七八年成立)中において、『純バシェ』
⑰
を引用した、とわざわざ記すのも、当時『バシェ騙の異本が数種
知られていたからに違いない。
さらに、既に引用したとおり、『バシェ臨の一写本である『補
足されたバシェ聴(九二頁第三行目一第四行目)には、次のよう
にあった。『
詳細なバシェ舳(⑭棒下簿ミ三管鷺)として知られる
門書]は注釈を本文として記してあるので、文がより多くな
っているだけである。
『バシェ諺』には、アティシャの入蔵といった十一世紀の情
報が含まれる。すなわち、『バシェ隔が後世に伝わる過程で、新
たに内容が補足、あるいは改定され、そしてその結果として様々
な異本が生み出されたのである。
要するに、『バシェ』には多くの異本がありそれぞれ内容が違
っている。そこで、まずは現在ある写本テキストを比較検討する
ことが必要であろう。特に中国から新しく出版された舞巴協》
匪編』のうち、G隷8、曾§お鴨国争§替ミ。がどのようなテキ
ストであるのか、詳しく検討を加える必要がある。
一方で逸文として残る『バシェ』各種写本の回収を行う必要が
ある。先に述べたとおり、『学者の喜宴』の冨章には、様々な異
本『バシェ』が大量に引用されているが、これらのうちのどの写
本が現行『バシェ臨のどれと~致するのか、検討されていないの
が現状である。これら逸文を収集して既出版の『バシェ騙と比較
検討していくことは、現在の『バシェ』各写本が、何時どのよう
に成立したかを知る上で不可欠な作業であろう。
さらに注意すべきは、『バシェ』に関連する書物の存在である。
これら他書の存在は、『バシェ匝とはそもそもどのような書であ
ったのか、を考察するうえで非常に重要である。そして先述した
ように、十二世紀にサキャパンディタは『パシェ』とともに『ギ
197 (197)
ヤルシェ』、『バンシェ価なる書物を引用した。つまり少なくとも
十二世紀には、噌バシェ燥以外に上記二書をセットとして認識し
ていたのである。『バシェ画と姉妹本との関係は、少々形を変え
つつもとにかく後世に認識され続けたのであった。
現在我々の手には『バシェ臨しかなく、『ラシェ睡、『ギェルシ
ェ』、『ロンシェ繍など姉妹書の行方は杳として知れない。また
魍バシ蓋写本がチベットにおいて比較的流通していたことは
様々な書に引用されることからも明らかであるが、他の他書の流
通はほとんどなかったのか、現在にいたるまで逸文さえも発見さ
れていない。
では、そもそも他書は存在していなかったのか?しかし、先に
述べたアク・シェラブギャムツォの手になる稀観本リストには、
『バシェ幅とともに二三ェルシェ』と『ラシェ㎏なる二一が言及
されていた。もし、彼が実際に目賭した書物に基づいてこのリス
トを作成したとすれば、噌バシェ睡に関係深いはずである二書は
⑱
十九世紀にはまだ存在したということになる。
~九五九年以降において、チベット語文献の稀郵書や散逸書が
再発見されることは珍しいことでない。亡命チベット人が持ち出
した大量のチベット語文献と亡命した高僧によって、世界のチベ
ット学は長足の進歩を見た。また、中華人民共和国の 部となっ
たチベット地域からも、その後多くの稀留書が活字出版されるこ
ととなった。稀控書や散逸書の再発見と出版は、現在でも続いて
おり、例えば、古代期の九世紀初めに編纂されたがその後散逸し
たと長らく考えられていた仏典目録の一つ、『パンタンマ目録撫
がなんと西蔵自治区の西蔵博物館に所蔵されていることが判明し、
⑲
二〇〇三年に出版された。また『景趣文集瞼を初めとするカダム
⑳
派の未出版文献が近年大量に出版されたことは記憶に新しい。散
逸したと考えられていたチベット文献の再発見はこれからも続く
であろう。そして、『バシェ謡の未発見写本や、姉妹書が世に出
る日もそれほど遠くないであろう。
①
『編年記』は敦煙出土チベット語文書勺Φ臣9臨σ二巴p蕗○。○。+HOい
ゴσ一八Oと○烈○。b。這>Q。刈に、『年代記㎞は同℃Φ誠9爲ぴ簿鉱コ嵩。。刈にそ
れぞれあたる。トじd碧。戸閃.類.↓『oヨ国ω磐傷O『↓o蝶のω巴導
(H逡O山逡9.b8ミ嵩恥、譜魯§N§やぎミ§おミ~ミ旨昏N.ミ無驚越ミへ
類ひ象ピ陣耳p。三㊦9陣窪け四房8譲巳OΦ毛馬Φ鉾℃餌「置を始めとして多く
の研究がある。なお、出土文誉の種類とその舗値について簡潔に知る
には今のところ、○.d鑓く(H㊤お)噂..↓証Φ○匡ゴσ2きωo霞。Φωoh穿Φ
譲ω8憂。胤O①ロ耳鮎〉ω鐵¢08謡一>O”》oり霞<①ざ..9出母5曽牌p⊃(Φe簡
㌔、ミ§鳩ミミむ妹、ミ⑦o嚇ミ6題§ミ鳴奪望。塁黛㌔ミー翻貯ミ§O§妹ミN
毎鴇翁じづ鼠琶のω貫〉冨αΦ二一蝕零p。山ρ署.b。刈守G。O戯がある。ただし昨今
の史料状況と研究状況を鑑みると、新たにアップデ…ト版が必要であ
ろう。また、現在の古チベット文書研究の状況について知るには、武
内紹人(二〇〇九)、「古チベット文献研究の現段階」、魍東洋史研究㎞、
198 (198)
チベット語文献『バシェ』研究の最前線(岩尾)
第六七巻第四号、一二三1~二九頁がある。
②例えば、U磐ζ母露P類貯§N撃ミ篭Q恥ト。巳。鐸ωΦ同ぎα冨薯σ一陣。叩
樽6臣ρお零を参照されたい。同書には、主要なチベット語史書七〇二
.点が成立年順に並べられ、それぞれに簡潔な紹介がされている。『バ
シェ』は第~番目、すなわち最古の文献として挙げられている。
③原著は〉「H<。。。望潮○<噂§穂導ミ.翻ミ帆融罫ミ.鳶ミミミミスじd芭卿9冨-
o餌しd巣山三8.×××Hやお①b。マ<oω酔村田。<の死後にロシア語にて出版さ
れたが、一九七〇年の英訳版によって広く学界に知られることとなつ
た。筆者の引屠は全て英訳版による。なお、原著のロシア語版は長ら
く絶版であったが、二〇〇七年に増補を得て再出版された。轡誌情報
は以下のとおり。〉.H.〈oω鐸欝。〈欝ε、〉・No臨コ(Φe噂↓導俺融隷ミ,鋤ミ下
軸.6鴨鮪神ミ.卜蹄Qミ、袋ミ、ω磐κ『勺Φけω噌ぴ¢「ひQ”囲¢ω匹き>090αΦヨ《O{ωO冨コOΦω.
H賢ωけ累累櫛①O鴎○鼠Φpけ巴ωけ¢蝕Φρω酔.℃Φ肯ΦNωσg「鐙ゆ「山50貫NOO刈.
④σけ。。き8匪臨ωδ口αq置Φ葺ω雪α露oQ日導き8ωδσ98ロ簿伽ヨ.一
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⑤ω匿び讐a「堕餌ω冨同ひq影oQωヨ07磐鋳≦ω。。蟷巨ω冨H.脅ひq冨。。\旨
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⑥客団壁ゆq逗謬旨ヨ簿、。αN雲9象.婁§偽§鴨薦蓬ミ鑓営恥昏§蝿
、冴凡.軌魯禽へ黛(OpoコσQωO国コ甑ぴQω茸匹NO匹ωΦユ①ω昏ρ9蜜一げPo岡山”しuo島α05σqωヨ一
住戸磐ゆQω住唱Φωπ同¢コ評げ卿訂αq.一ΦOQG◎[・甲国瓠開題 舶賦∴尼臓剛目色、 『娯氏心示
教源流㎞、拉薩一西蔵人民出版社]
⑦井内真帆女史(神芦市外国語大学客員研究員)の尽力により、本書
を落手し得た。記して謝す。
⑧ω器毎回σω。α鵠臼ω附堕鮭具ω匡舞智ミミ寓鵯ミ鷺ご謹、。毒巨
ユぴqω9①ω町琶ぴq誓磐oq’一〇。。}[薩迦・索南雪鬼、明西蔵王統記』、北
京 民族出版社.]
⑨ きミミ首題ミ貯.凡ミ軸§お(二〇四こ口に、「サムイェの冨
房『蒔ω(σ冨.けω㎡。。)によると」云々とあるが(σ鋸単巻ω節黒冨房三帥Qω
(σ冨.讐ω凝ω)器)、その引用内容は明らかに『バシェ』のそれであ
る。
⑩∪冨.σ。讐ω罐焚ゆq9話畠びρ9象、曾§晦ミミ§鷺、暁會、無§b。
く。鉾匿「凝ω9。。。ξ彰ひq写§ひq’一㊤o。①[巴俄・出替陳瓦、『智者喜宴㎞、
北京 民族出版社].
⑪貯恥ず黛寒貸..ひ§斜<。=卜。.鍵・認σ介↓畠。ぴ§貯pお①。。.
⑫ω駕ヨ冨《①ω匿.ω9巴.90具9。ω,ぴ釜躍8。。ゆqび。・§冒⇔ぴN磐ゆq暫
硬きω信.ヨ一村誌ω9Φω貯⊆コ盛磐印q”一Φ8[隔心堪欽、噌松巴仏教史』、
浮州 甘粛民族量器社}■
⑬号魯鉱9興讐汀酔。。簿冨ユω審σ鵠巴8ωω匿αqω巴ω欝口oq目撃ぴQω審
ωNコ帥qω践ωoαqω労音ωぴω曽ヨ《鋤ω詫旨δ同題¢ωσωゆq翫びω汁ΦαぴqΦ.α¢コ戦讐pσ一
⊆O冨ゆqqα瑠ヨ軽四〇励凶「「Φ「ΦびNげ騨ひqO国訂℃げユ◎リコO降09路㈹N9ゆα同Φσ《餌ω09
σ冨げN冒①α「鎗巴σNげOαωσ卸σNロΦαOΦωO鋤ひqω煽ヨσ曳鐸話手q
⑱9壁時ρ8冨終(一8ω)旧§ミミ田鰻、毎§智陰駄§.富§』
卜愛国ミ勘ミ魯勺pゆ諄ω旧乞①≦】∪2三■ロ.α一bo.
⑮09巳轟葛①ω)’二〇ω」HO峯∴Oマ
⑯村萎びN冨α。寡髪、乙ロぴq。ωσω$巳β「σω曽ヨ《食。ω&9.ω酢8什路輿量ω
ω曽噺門巳「コ餌5ω樽¢σ諸口5ゆQσ帥詳鋤冠げωげ四α鉱5伽q「び蝉σN『①鳥.σ「ヨσqσ騨冨ω
び。口国ヨ<国。噂房げ四附590ωNぴ巴ω「Oヨ⇔σ《鯨ωO妙.一σ鋤村篇①民触叫び酔霜σ鴫蠕部σqσ四H
び路曽島
⑰.O。。。δ誘.四び四αq讐8匿9認証ミ隷ミ恥躇§壼ω竪町8旦臣伽Qω
9Φωξ農聾きゆq」㊤○。帆.門『青史』、成都一四川民族出版社]、五〇頁。
Oh’O.カOΦ鳳07Pゆ恥9、↓7① ω一‘Φ 》二四p」『噂O巴O¢暮9 国O《舘 〉ω置自O
Qりooδ覗くohゆΦづゆq旺’O’く噛ωΦ.
199 (199)
⑬囚。菩監鴨曽ぴqωB.9§σq讐霧徳山勾題巴冨望。σN磐σq目峯鋤。。
鳴魯(編)のO§N鵯ら§ミ建象晦ミさN㌧ミ婁§ミ§鴨ミ譜ミ.一〇㊤笛
[『雪域歴代名人辞典㎞、蘭州 甘藷民族出版社嗣によると、彼は
「ウ・ツァンなど他の僧院にお行きになったことはなかったが、ラプ
ラン・タシキル僧院にて聞思修の三つと、説法・議論・著作の三つに
よって生涯を過ごされた偏(八九六買)とある。彼が実際に稀四書を
見たとすれば、リストの大半はアムドの侮処か、あるいはラプラン僧
院の蔵書であった可能性がある。
⑲b神ミ急轟暮§お漣§晦ミ額\誓、曾ミ貯ミ忘鮎漁即題.ζζ一σq。・
9Φωす暮σq讐§ゆQるOOω[『労塘目録 声明要領二巻葱、北京一民族出
版社}.この書が出版されるや、パンタンマ語録に関する次のような
研究が矢継ぎ早に三報出されたことは、如侮にこの臼録に対する注目
度が高いかを物語るものである。ρ出泣賦器筍8心)、目σ簿き¢ご&警-
δ良器嬉ω8肘巴H餌8富δαqg陣。ヨ窪ΦH日箆台逗08肘けoh.℃獣磐αq響き㎎
臼げΦ肉ミ紺こ馬b口Nミ職ミ象<oピω①、川越覆工(二〇〇六国)、「噸パンタン
目録㎞の研究」、『日本西蔵学会々報㎞、第五一号、~一五1 一一二頁、
川越英真(二〇〇五σ)、匹囚震07臼・oq.勺『昏晦箭き騨qヨρ仙台一東北イ
ンド・チベット研究会.
⑳その価値については、吉水千鶴子(二〇〇八)、「チベット仏教研究
に新階代を開くか」、『東方睡、第三三二号、二〇…二三頁を参照され
たい。
補診 脱稿後、次の論考を知った。津曲真一、轟バシェ』訳註(一)
ーマシヤン・ドムパキェの失脚一」、『四天王寺大学紀要』、第五十
号(工〇一〇)、四二九…四六二頁。本稿で言う『バシェ〉』の翻訳で
ある。併せて参照されたい。
(200)200
(神戸市外国語大学客員研究員)