38
Title 殷周開國の神話と「神代史」 Author(s) 大野, 圭介 Citation 中國文學報 (1993), 46: 1-37 Issue Date 1993-04 URL https://doi.org/10.14989/177542 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

  • Upload
    others

  • View
    1

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

Title 殷周開國の神話と「神代史」

Author(s) 大野 圭介

Citation 中國文學報 (1993) 46 1-37

Issue Date 1993-04

URL httpsdoiorg1014989177542

Right

Type Departmental Bulletin Paper

Textversion publisher

Kyoto University

殿周開国の神話と

「神代史」

京都

大草

中国古代神話はこれまで中国文学や中国哲学はもとよ-

様々な方面で研究の封象とな

っているが中でも文化人類

撃や分析心理学の立場からの研究

近年盛んに試みられ

注目を浴びつつあるこれらの研究に共通するのは中国

の古籍に見える様々な俸説や説話から世界各地の神話に

普遍的な神話素を抽出しそれをもとによ-原初的な神話

を復元するという手法であるその結果文化人類学的

心理学的知見の或るものは中国の古代神話にもやは-適用

し得るとい-見通しは確かなものとな

ってきている例え

ばこれから本論で述べる如-殿周の開園英雄たちの物

殿周開国の紳話と

「神代史」(大野)

語には西洋などの英雄神話に虞-見られる筋立てと同

のパターンを認めることができるのである

ところで筆者は中国文学の立場から古代神話を研究す

る者であ

って文化人類学者や分析心理学者ではない以上

これらの諸学問における成果に完全によ-かかってしまう

のではなしにそれらの成果を文学としての神話研究に満

り込むことが必要である本稿で扱う問題に即して言えば

開園神話の奥底の普遍的構造を念頭に置きつつその神話

を生んだ時代的

地方的背景にも注目すべきである文化

人類学などの研究であれば殿周開園神話を題材にした詩

文厳や美術作品などを適時的に見てその普遍性を探れば

よいのであろうが文学として研究するにはこれらの諸文

献が生まれた時代や地方或いは文献自腹の性格などから

生ずる差異にも注目しなければならない

本稿は詩経

大雅及び商頭楚辞

天問に措かれる殿周

開園の物語を中心にして西周時代の周王朝開園神話東

周時代宋図の殿王朝開園神話同じ-楚園の殿周開園神話

の三者における普遍的構造と差異とを検討することによっ

中国文学報

第四十六朋

てそれぞれの王朝神話が政治的要論によって

いわば

「神代史」に改襲されていることを指摘し更に王朝の始

租の文化神的側面に顕著な

一つの傾向についても併せて論

じようとするものである

1詩経

大雅の周王朝開園神話

西周時代の周王朝開園神話を知るための第

一級の資料と

目されているのはやは-詩経

大雅の文王之什及び生民

之什に見える王朝開園の叙事詩であるそこには周組后稜

をはじめ公劉

古公賓父

王季

(季歴)文王

武王の名が

見えている

蕨初生民時維妾姫生民如何克産克把以弗無

子履帝武敏款牧介牧止載震載夙載生載育時

維后頑O(l章)

誕涌欧月先生如達不蛎不副無蕃無害以赫妖

雲上帝不寧不康産和居然生子(二章)

誕寛之陰巷牛羊排字之誕寛之平林合伐平林O

誕寛之寒波鳥覆翼之鳥乃去臭后積弧臭寛軍賓

許朕聾載路(三章)

誕貴簡旬克岐克疑o以就口食或之荏叢荏義邦

端禾役極極麻穿噸傾瓜鷹棒棒(四章)

誕后稜之穂有相之道弗験農事種之黄茂貴方

寛竃資種貴襲O寮費賓秀資堅賓好賓穎寛粟即

有郁家室(五章)

乗降嘉種維拒経年維廉維芭O恒之拒種是穫是

畝恒之廉芭是任是負以野肇紀(六草)

誕我柁如何O或看或捻或簸或段揮之曳里蒸之

浮浮載謀載惟取粛祭服取抵以抜載燭載烈以

興嗣歳(七草)

印盛干豆干豆干登其香始升上帝居款胡臭宜

時后積肇紀庶無罪悔以迄干今(八草)

初めの民はかの妾鯨初めの民はどのようであっ

つつし

たか妾嫁は

で上帝に子を授かるよう所ったそ

の後上帝の亘大な足跡を踏んだところ妊娠して大い

に括れ動-のを感じそして生まれたのが后硬である

(a)

2

十月十日を過ぎ最初生まれた時は子羊のようで胞

な衣が破れず傷つ-こともなかった后稜の蛋徴が明

らかになり上帝も安らかならず子求めの紀-にも満

足しなかった何とこんな子を生もうとは(二章)

そこで狭い道に后榎を置-と牛や羊は避けてかば

った平らな林に置-と木を伐る者に合

った冷た

い氷の上に置-と鳥が巽で暖めた鳥が去ると后積

は弧々の聾を上げたその聾は長-大きかった(三幸)

はいはいをするうちから立派な智慧があ

った自

いね

分で食を求め大豆を植えた大豆は茂-未は並ん

で億を垂れ麻や賓は地を臆すほど瓜の賓は鈴な-

になった(四章)

たす

后襖の稼穂には生長を

る技術もあ

った雑草

を除き良い穀物を植えた苗はよ-揃いよ-茂-

選ばれた種はよ-伸び花は開き穂は秀で資は墜-

立派で穂先はぴっし-並びか-して有部の家宣も

った(五章)

くろきひ

あかごめ

しろこめ

ここに下された良い穀物は拒

拒柱

殿周開転の神話と

「神代史」(大野)

あまね

-

植え刈-入れて畝に積んだ廉吉を恒-植え

抱えて背負い持ち蘇

って祭-を始めた(六章)

うすづ

我が祭-はどのようであ

ったか穀物を

取-出

ふる

し箕で

足で段むさらさらと米をとぎふわふ

かわらよもぎ

わと蒸す湯気が昇る祭-の次第を算段し

って脂を祭-雄羊を取

って祭-火で英-焼き来

年の豊年を願

った(七草)

たかつき

たかつき

自分は

に供え物を盛る木の豆や素焼きの

に香-が始めて立ち昇-上帝は安んじて受けた

何とその香-の時を得たことか后積が祭-を始め

罪や悔いの無いことを願いそうして今に至るのであ

る(八章)

后稜を歌う

「生民」の全文であるここに描かれる后積の

物語は(一)妻姫と上帝との通婚

(二)生まれた後の遺棄

と動物の助けによる再生

(equiv)自ら稼穂を創始し上帝を柁

るの三鮎に集約される

(1)については感生説話の代表例として古来議論が多い

が卑見では天地通婚のモチーフをここに見出すことがで

3

中国文畢報

第四十六珊

きる后積を生んだ普事者たる妾鯨と帝について考えてみ

るとまず妾妹の

「嫁」は史記

周本紀などでは

「原」に

作-「原」字は爾雅

帯地に「康平を原と日ふ」と云う如

-大地を連想させる

一方

「帝」は郵袋で

「上帝」と解し

て以来これが通説であるが毛侍

は人王としての帝尊と

解してお-「妾姫が帝拳とともに郊楳した後妊娠した」

という合理的な解帯を行な

っているしかし郊礁

(子求め

の奈-)は薩記

月令に

「仲春之月是月也玄鳥至

至之日以大牢両手高藤

天子親往(陰暦二月には燕が

まつ

来る来た日には牛

家を供えて高藤を両-天子親

らそれに出かける)」

と言う如-少な-とも毛侍の作ら

れた時代には疎神の助けを借-て子を求めようとする祭把

であると考えられていたのである毛侍に言う如き習俗が

「生民」詩の背景にあったとしてもその原初的な意味は

結局鄭隻に言う如き上帝との通婚であろう天神と人又

は天神と地神との遺贈は中国の各民族に俸わる人類起源

神話にも多-見られるモチーフであ-

租神を租両たらし

める要素であるといえる(二)は(一)に比べるとあま-重

要現されていないようであるが卑見ではこれこそ卵生モ

チーフの一撃形であると考える二章の

「先生如達不蛎

こひつじ

ぇな

不副無蕃無害」を馬瑞辰は「達

生まれる際には胞

破れないまま生まれ落ちる」という事例を引いて后積が⑥

生まれた時も同様であ

ったことを言うものと解してお-

以来これに従う者が多い胞衣に包まれた状態は外から見

れば無生物のように見えるが資は生命をその中に宿して

いるのであ-恰も卵と同様の状態であるしかも三章で

は最終的に鳥が暖めたことによって后積が

「誕生」したの

であ-後述する楚鮮

天問でも

「后稜を氷上に捨てると

どうして鳥が暖めたのか」と鳥が卵を暖めるように后頑

を暖めたことに注目しているのである卵生モチーフの例

としては他に徐侶王の出生

高句麗

東明王の出生

名であるがこれらに共通するのは生まれた卵が

一旦捨

てられてから保護されるという鮎であるここには古代

ーロッパ等の英雄にも贋-見られる

「遺棄

迫害1再生」

モチーフ

が内在しているといえよ-(三)については本

能的に自ら稼椿を行なったと云うだけであ-直ちに神話

- 4-

撃的な意味を決定するのは難しい敢えて卑見を述べれば

最後に自ら得た穀物と動物犠牲とを上帝に捧げていること

に注意が必要で中国西南の少数民族に俸わる農両

が園の記紀神話のウケモチ

ような自らの身鰻や生命を

犠牲にして穀物を得るというモチーフの痕跡がそこに盈さ

れているのかも知れない総じて后積には神的な誕生

迫害の後の再生

農耕文化の讃明という始租たるにふさ

わしい資質と事鏡が付輿されているといえる

后稜に績いてその曾孫とされる公劉が

「公劉」に歌わ

れている

篤公劉匪層匪康道場通産連帯適倉O遭裏鯨糧

干妻子嚢o思輯用光弓矢薪張干支戚揚婁方啓行O

(一章)

篤公劉干育斯原既庶既繁既順適量而無永歎

捗則在職復降在原何以舟之o維玉及環韓捧容刀

(二幸)

篤公劉干京斯依鎗鎗済済倖憂倖凡既登乃依

乃造其菅執家干牢酌之用鞄食之飲之君之宗之O

殻周開国の神話と

「神代史」(大野)

(四章)

篤公劉干幽新館渉澗馬乱取属取鍛止基連理

宴衆宴有爽其皇潤遡其過潤止旋乃密帯鞠之即

(六章)

情深い公劉は住居に落ち着-こともせず田地の

瞳を区切-穀物を積み蓄えた食糧を大小の袋に詰

たてほこ

め込み人々は囲結して威勢よ-弓矢を張-千

おのまさかり

を立てここに行旗を始めた(T章)

情深い公劉は着いた平原を国見した物産は豊か

で草は茂-民心も落ち着きのびやかに溜息をつ-

者はいない小山に登-また下-て平原を見歩-0

めぐ

公劉の腰に舟らすものは凧玉や美しい石鞠飾-千

侃刀(二幸)

情深い公劉はこの都に定任した人々は進み居並

びむしろや腰かけを並べ席に着いてよ-かかる

しもべ

つか

ふくべ

し家を牢から出させ鞄

酒を酌み人々

に飲食させ公劉は君主として振舞

った(四章)

情深い公劉は幽地に官室を建てた滑水を横切-

5

中国文畢報第四十六筋

といしいしづち

属や

を切-出し

礎を整え多-の人が住みつい

た皇潤を挟み過潤を遡

った所に人々はび

っし-

くま

住みつき川の丙鞠に沿

った(六章)

全六章のうちの四章

T章で板横地造営

への出費二章で

国見四章で饗宴六章で板接地の完成と章展を歌う0形

式面では全篇に亙る

「篤公劉」のリフレイン「遭

OL

「既

O」といった助字によるリズミカルな修辞法など

「生民」と共通する所が多い内容面では

「生民」の如き

神的な誕生や迫害などは無いものの板接地完成に饗宴が

付随している鮎が

「生民」に似る四章の饗宴が単なる無

薩講でないのは

1讃して明らかであるLt「生民」と

劉」の間に置かれている詩四篤のうち

「行葦」「既酔」「

鷲」の三篇までが祭天の儀式を伴う饗宴詩であることから

考えてもこの饗宴場面には家を殺して上帝に捧げる儀式

が含まれていたものと思われる

か-見ると詩経

大雅における后硬と公劉は事業完成

とそれに伴う祭天という鮎では比較的よ-

一致してお-

共に西周人にとっての高租神であ

ったと考えられる后頑

「食」を開拓したのに続きその曾孫公劉が

「任」を開拓

したのであ-恰も山海経

海内経で

「后稜が百穀を播き

その孫叔均が牛耕を始めた

と云うのに似ているここで

の叔均は后稜から分化してその功績を補完する役割を持

てお-公劉も同様に租神の資質をもつ后頑から分化し

てその事業を襲展させる神とな

ったのであろう公劉に奇

怪な誕生の話がないのもそういった英雄的資質を后頑か

ら引き縫いでいるためと考えればうま-説明できる

公劉の十代後とされ文王の骨組父である古公豆父の事

鏡は

「締」に歌われる

鮪解瓜腔民之初生白土汎漆O古公宜父陶復陶

穴未有家室(T章)

周原廉廉重茶如飴宴始宴謀宴契我亀日止日

時築童子茶

(三章)

乃召司空乃召司徒倖立室家其縄則直縮版以

載作廟巽巽(五章)

建立皐門泉門有伏廼立鷹門鷹門賂購廼立家

土戎醜恢行(七草)

6

韓不珍庚憶亦不眠欧問種械扶桑行違先夫混

夷戯臭維其喚臭(八草)

虞帯質蕨成文王amp庚生予日有疏附予日有先後

予日有奔奏予日有禦侮(九章)

長々と伸びる瓜の蔓そのように連綿たる周の民が

生まれた時は汎漆の地に居任した古公宜父は土

をこねて穴を作

って住みまだ宮室を持たなかった

(一章)

たがらし

のげし

周原はよ-肥えて董

飴のように茂

ってい

た国都造営を始めよ-と謀-亀卜を行なうと「こ

こに止まるがよいここに官室を築け」と出た(三章)

土木の官を召し出し土地の官を召し出し宮室を

建てさせた墨縄をまっすぐ引き板を縛

って間に土

を詰め狂いな-廟を作

った(五章)

外門を立てれば高-そびえ立ち正門を立てれば

いかめしい構え大社を立てれば多-の人々が集ま

った(七草)

ほまれ

さて周人の怒-は絶えずしかしその

落とされ

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

なかった雑木を沸い道が通じると混夷は恐れて

逃げ息切れするほどであ

った(八草)

虞園と苗圃が和議を求め文王は興起の勢いを動か

した文王は言

った

「追随する園もあ-

前後から

取-奄-図もある我が閲のために働-園もあ-外

敵を防ぐ園もある」と(九章)

全九章の-ちの六章八

九章は難解であ-諸説紛紛とし

ているが古公ではな-文王の代に時が移

っているとする

鮎では概ね

一致している宮室を持たぬ原始的状態1閲見

1板接地造営という内容は

「公劉」詩に似るが饗宴の場

面がないことや司空

司徒の官名や泉門

庶門の制度な

ど高度に額展した制度鮭系が見えることまた詩型の面で

も大雅の開園叙事詩では唯

Tの

「鮪館瓜腰」という興が見

えることなど

「公劉」詩とは異質のものを感じる

いわ

「神話臭の治失」であ-

「新しさ」である后頑ととも

「神代」の始組神であ

った公劉と異な-古公は西周人

にとっては

「人王」であ-茸在人物として扱われていた

と思われる

中国文学報

第四十六桝

古公の子である季歴は「大明

「皇臭

詩に

「王季」の

名で見えるしかし大任を撃

って文王を生んだことを構え

るのみで自らの聖天子たるにふさわしい事鏡は何も語ら

れていない大雅の開園叙事詩で名が出ていながら英雄的

な事虞が語られないのはこの王季だけで後世の文献例

えは史記

周本紀でも

「徳行を情めた

と云うのみであ-

考えてみれば誠に奇妙なことであるしかしこの間題に封

する答えは後に明らかにされるはずであるから今は王李

の子である文王とその子武王の方

へ進むことにしよう

殿周革命の主役として誰もが知っている文王と武王は

「文王」「大明」「皇央」「文王有壁」でその事蹟が歌われ

ている文

王在上於昭干天周維奮邦其命維新有周不

蘇帝命不時文王捗降在帝左右o(1章)

穆穆文王於緯無数止候哉天命有商孫子商之

孫子其覧不億上帝既命侯

干周服(四章)

いま

文王は天に坐しああ天に輝かし-坐す周は古

い園であるが天命が新たに下された周は大いに輝

かしく上帝の命も時宜にかない文王は天地を上下

して上帝の左右に坐す(一章)

つつし

慎み深い文王はああ敬むこと績いてやまぬ偉

たも

大なるかな天命は商の子孫を有たせた商の子孫は

かず麗は十寓に止まらないが上帝の命は下-彼等を周

に蹄順させた(四章)

「文王」全七草のうち二章内容的には叙事詩というより

頒詩に近く

后稜の神的誕生のような神話臭はないがこ

こでの文王は天地を上下して上帝に仕えることのできる存

在であ-神格化されているといえるしかし文王がもと

もと神であったとい-のではなく

古公と同様に

「神代」

から引き継いだ英雄的資質によって天命を得て殿の民を

支配するという事業を行ない「人王」から「紳」へ昇格し

たものと考えるべきであろう

作乏尿之其蕃其繋情之平之其濯其例啓之静

之其樫其梓撰之刻之其腰其柘帝遷明徳串夷

載路天立欧配受命既固(二章)

帝謂文王無然畔接無然款羨誕先登干岸密人

不恭敢距大邦侵院狙共王赫期怒宴整其旗以

按狙放以篤子周砧以封干天下(五章)

普作

って除-のは立ち枯れや倒木切-整えて平ら

げるのは

濯木や並木

切-開き押しのけるのは

かわらやなぎ

へぴのき

やまぐわ

はりぐわ

って例-取るのは

上帝

は明徳ある王に味方Lt串夷は道にあふれんばか-に

逃げ出した天は文王の配偶大姐を立て固-命を授

け給うた(二章)

そむ

上帝は文王にか-のたもうた「人心を

せては

ならぬo気ままにさせてはならぬ」とOそこで高所に

登って観察すれば密園の人は従わず敢えて大国に

逆らい陳園を侵し共園

へ進軍しているO王は激し-

怒-

ここに軍旗を整え密図の行軍を阻み周の

さいわい

埼Lt天下に戒を示そうとした(五章)

「皇臭」全八草のうちの二章二章では公劉や古公と同様

の板接地造営を歌うが「天命」を受けるや否や五章に

云う如-密国を征討しょうとする

有命日天命此文王千周干京績女維草長子維

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

行篤生武王o保右命爾嬰伐大南(六章)

殿商之放其禽如林矢干牧野維予侯興上帝臨

女無武爾心(七草)

牧野洋洋檀革塩塩駆厨彰影O維師伺父時維鷹

揚掠彼武王韓伐大商脅朝清明(八草)

天よ-命は下-我が文王に命は下った周の都で

後を鮭ぐ妃は宰園の女この長女がやって来て天は

武王を生ませ給い守-助けて命じ給うた

「大南を

討伐せよ」と(六章)

殿の大軍は林の如-集まった武王は周軍に牧野

ちか

で失

った

「ここに我々は興起する上帝もお前達を

見ておられるぞ戒心を抱いてはならぬ」と(七草)

牧野は贋々として戦車は輝き烏は勇み立つ太

公望呂筒は鷹の如-猛-立つ輝かしい武王は大

商を存分に伐ち取-合戦の朝は晴れ渡った(八草)

「大明」の終わ-の三章牧野での殿との合戦が活寓され

るが武王のこの功績もやは-文王から受け縫いだ「天命」

あってのものである

9

中国文革報

第四十六

文王受命

有此武功既伐干崇作邑干豊o文王桑

哉文

王は天命を受けこの武功を立てた崇園を征討

すると豊に都邑を造営したすぼらしい文王よ

「文王有壁」の第二章密園征討と並んで文王の主要な武

功とされる崇園征討を歌うものであるがこれも

「天命」

によって行なわれたものとされている

詩経

大雅の落第から直接知ることのできる周王朝開園

の物語は以上の通-であるこれを后稜から文武までひと

績きに眺めてみると始租にふさわしい神的な誕生から始

まって迫害を受けた末に諸文化の開拓更には武力によ

る天下平定とい-英雄的事業を完成させるのであ-これ

は丁度Eノイマンらによって指摘されている英雄神話の

典型的なパターンとも合致する后積-公劉-古公-文王

-武王の五王が全鮭として恰も

1人の英雄の如き振舞いを

見せているわけである

しかし仔細に見るとこの五王の中で后稜-公劉古公

文王-武王の三者には微妙な違いがある后穆-公劉の物

語は神話的な雰囲気が濃厚であるのに対し文王-武王に

関しては

「紳懸-」的な奇蹟は全-見られず武力行使に

及んだ根嬢としての

「天命」ばか-が強調されているそ

してこの両者の中間的な存在として古公がいるのである

いわば古公を境にそれよ-前が

「神代」であ-それよ-

後は

「人の代」として描かれているといえる

か-見ると古公以後の物語は開園の

「歴史」であ

って

「神話」として扱うにはふさわし-ないという人もいる

かも知れないそれにもかかわらず筆者は古公から武王に

至る物語は

「歴史」として作られたものではな-歴史が

神話の一部として改襲された

「神代史」

であると考える

なぜなら考古学的に知られる殿周革命前後の歴史には詩経

と大き-ずれる部分があるからである

后積や公劉は周原卜軒や金文には全-見えず神話上の

人物であることを疑う者はいない古公賓父については

文王の租父たる大王と同

一人物と考えることに疑問を向け

る説があ-例えば顧訴剛は古公は周王朝創建時の王で

あ-大王は周の国力が強盛になった時の王であると考え

10

⑬たOしかし

「轟」詩のところで述べたことを考えれば古

公を周王朝の租とする課には従い難い現在鹿-支持され

ている説では殿が常時山西省に居た鬼方を討

った結果

彼等が西方に移動して周を歴迫したため周は幽から岐山

に移ることを飴儀な-されたと言う

具鰻的な国名などに

はなお問題があるとはいえ周が異民族の歴迫で岐山に移

ったという事寛があ-それが

「崩」詩にも反映されてい

るのは確かであろう時代が下がると孟子

梁意三下に云

う如-

「古公が徳を守

って岐山

へ逃げ人民も彼を慕って

共に移動した」という儒家道徳による合理的解帯が行われ

るようになるのは周知の通-である

王李は前述の如-詩経ではその事蹟が全-記されない

ところが古本竹書紀年には

殿の武乙三十五年王李が西落鬼戒を伐ち二十雀

王を捕虜にした(後漢書西完博引

)

殿の文丁が季歴を殺した(青書束管俸史通疑古

社説上引)

といった記事が見え文丁期の卜辞にも周を伐つことの可

段周開園の神話と

「神代史」(大野)

否をーつたものがあるOしかもその7万で同じ古本竹書

紀年に

殿の武乙三十四年周の王李が来朝し武乙は土地

三十里玉馬を賜興した(太平御覧巷八三引

)

とあ

ってこの時期の卜辞にも周を

「周侯」と呼んでいる

ものがあ-周は段の侯国として厚遇されていた面もある

のである「大明」詩での王李は殿と関係の深い拳闘から

大任を迎えてお-史寛とすれば政略結婚である王李の

頃の周は殿と虚々賓々の駆け引きが績-緊迫した関係にあ

ったのである

王李のこうした

「行状」は竹書紀年に記事が残されて

いる以上常時の史官によって記録されていたはずである

にもかかわらず詩経ではそれらが殆ど無税されていると

すれば大雅の諸篇が作られた時から記録されて現在の形に

なるまでのいずれかの段階で意固的に例除されたと考える

のが愛常であるどの段階で刷られたかを決定するのは言

うまでもな-非常に困難であ-例えば

「解」詩で七草ま

で古公の根接地造営の話が績-のに八草でいきな-

「韓

ll

中国文革報

第四十六射

不珍膜性」と文王の代に飛ぶのはあま-にも唐突であるこ

とから七草と八草の間に王李が殺害されたことを歌う章

があ

ったと推定することもできるが残念ながら確認する

すべはないしかしいずれにしても我々が常識的に考え

れば王李が殿に殺された事寛を語ることによって王季1

文王-武王を悲劇の英雄に仕立てられ殿周革命の物語に

一層の彩-を添えられるはずであるのにそれらが轟-酬

去されているのである

文王と武王に関しては詩経に見える密

崇征討等は周

原卜辞等に照らしても史貴であ

ったらしいしかし後世の

文献に見える

「村が文王を安里に幽閉したが文王の部

下が賄賂を使

って救出した

とか

「伯夷と叔斉が武王の武

力革命を悲しんで首陽山で餓死した

とかいった物語は詩

経はもとよ-古本竹書や地下資料にも全-見えていない

之を要するに古公以下の

「人王」についてはマイ

スイメージを興えかねない物語は

一切語られていないので

あ-そこには諸王の威光を高めようとする政治的要請が

ったと考えられる后積や公劉は

「神代」の高租神であ

るから神話的要素に富む怪異な物語をそのまま停えても

不都合はないしかし古公以下は所詮

「人王」であるから

紳懸-的な奇蹟を附合すれば虞寛味が乏し-なるしその

一方では

「神代」から績-聖王の血統を誇示する必要があ

る勢い

「都合の悪い」史宜を無税して「輝かしい事業」

のみを賞揚する方向

へ向かうことになろうその敏寄せを

まともに食らったのが他ならぬ王李であ-殿に朝貢した

-殺された-した史資をそのまま記せば

「王統」の威光

を傷つけるのは明らかであるから大任と共に聖天子文王

を生んだいわば橋渡し役としてのみ名を留めることにな

ったのであるこのような

「歴史の神話化」の結果詩経

大雅の叙事詩語笛は周王朝開園の

「神代史」として西周

貴族の問に俸えられていったのである

二詩経

商頚の殿王朝開園神話

詩経

商頭の詩篇は鄭玄の商頭語で

「末の戴公の時に

大夫正考父が十二篤を得たが孔子が詩を編纂するまでに

七篤を失

った」

と停えられ今日に至るまで定説となって

12

いる現存する五篤の中には玄王

相土

湯及び中興の

武丁の名が見えている

殿の始租誕生を歌う詩として古来よ-引かれるのは

「玄

鳥」の冒頭の二句である

天命玄鳥降而生商

天は燕に命じ下士

へ降らせて商租を生ませた

鄭集がこの二句を

「天が燕を下士

へ降らせたというのは

その燕が残した卵を有城氏の女簡秋が呑んで殿租契を生ん

だからである」

と解して以来これが定説となっているし

かし森三樹三郎氏が既に指摘しているようにこの二句だ

けを見ている限-

「燕の卵を呑んだ」という事寛は直ちに

導き出せないのであ-この説話が商頚が作られた春秋時

代の始租神話そのままであるかどうかは頗る疑わしいし

かし玄鳥なる鳥が天と下士の間を往来して南畝を生ませた

ことはこの詩からも讃み取れるのであ-少な-とも春秋

の来園では殿租が天地通婿で生まれたとぎれていたと言う

ことはできよう

「長襲」にはやは-殿租とされる玄王とその孫とされ

段周開園の紳話と

「紳代史」(大野)

る相土が登場する

溶哲維商長顎其群洪水

巴だ高教下土方外大

国是瞳幅限既長有域方渚

帝立子生商(1章)

玄王桓掩受小国是達受大国是達率履不越途

観能登相土烈烈海外有載(二章)

きぎし

明徳なる商王その

現れて久しい洪水が贋が

った時南は下士の四方に功を敷き外の大国とを区

切-中国の虞さは遠大になったO有城氏もその時勢

力を埼し上帝は有城の子を立てて南国を作られた

(一章)

玄王は武徳があ-小国に封ぜられてもよ-治め

大国に封ぜられてもよ-治め薩に従

って越度な-

しめ

教法を現して行なわせた相土は武威輝かし-海外

の諸国を平定した(二幸)

この詩の

「玄王」は毛俸

鄭隻の如-殿租契のことで

「玄鳥」詩の商租と同

一であると解するのが普通であるが

白虎通

文質

(l名瑞賓)篤は玄王を湯と解してお-漢書⑳

鰻柴志は契(高)と玄王は別人で共に段租であると解する

13

中国文筆報

第四十六筋

相土は周鰻

校人注引世本で

「初めて乗馬を作

った」

と云

いこの詩で武勇の王として描かれていることと関連があ

るものと思われるしかし玄王

相土共に具鰹的に如何な

る事鏡があるのかはあま-括かれず神話としての考察を

かな-難しいものとしている

相土から十

1代後の子孫とされ夏案を伐

って殿王朝を

隆盛

へ導いたと俸えられる湯は同じ「長顎」に見えている

帝命不達至於湯秀湯降不遅聖数日頗o昭倣遅

遅上帝是砥帝命式千九園(三牽)

武王載端有虞乗鉄如火烈烈ー則莫我敢局萄有

三幸莫逐莫達七九有有載葦顧既伐昆吾夏架o

(六章)

上帝の命は誤-な-湯に至って天命と合合した

湯の生まれること期に麿じ聖徳は日々に高まった

天にも明らかに至る徳は久し-止まず上帝も愛敬し

て九州に法を示させた(三章)

武王湯は旗印を立て固-銭を撞-火の如-勢い

とど

もと

盛んなれば誰も敢えて長めることはできない竜株

ひこば

に三つの

生ずるといっても生長しきることは

ないO湯は九州を平らげ垂の葦図

顧閲と昆吾氏

竃の夏架を伐

った(六章)

湯が

「天命」を得た後に諸国を征討して九州を統

一したと

いう内容であ-大雅における文王や武王と同じ-始租

の神的資質を引き継いで天下統

一の事業を完成させるので

ある

これらを全鰻的に眺めてみると商租の神的誕生1

相土

湯の天下平定という流れは大雅における周王朝開園の物

語と同様のパターンであ-また請王を武徳の王と稀える

のに終始して請王にとってマイナスイメージを興えるよ

うな話が記されないのも大雅の文王や武王と同様である

商頭の諸篇が大雅以上に尖鋭な政治的意圏を以って作られ

たことは白川静氏も

「末に興

った膨折たる国家意識を背

景としてその抗争老たる刑楚に封する敵封感情の昂揚

を目的とし」たと指摘する通-であ-諸王の武勇ばか-

をことさら強調するのも肯けることであるところがも

しか-の如-商頭諸第が宋人の

「神代史」であるとすると

14

殿の諸王の文化的功績が殆ど歌われていないのは何とも不

思議な事賓である常時

「南賛歌舌」

の園であったはずの

楚と争うのに自らの文化的先進性とその由来を誇示しな

いということが果たして考えられるであろうか

結局宋人の殿開園神話を西周人の周開園神話と比べた

時の問題鮎は(一)後に

「契」と呼ばれるようになる殿租

の正睦(二)両者とも同様の構造を持ちながら殿開園の英

雄たちに文化的功唐が見られない理由tの二鮎にまとめら

れるo前者については戦国時代の楚国における殿開園神

話を記す楚辞

天問や殿嘘卜辞に見える殿の高組神など

にこの問題を解-鍵があろうと思われる後者については

まず宋園と同じ春秋列国である魯園で作られた詩経

魯頚

を参照するとある程度の推測が得られる

問官有他賓資枚枚赫赫妻嫁其徳不回上帝是

依無災無害禰月不遅是生后頑隆之百福蚕種

重移穂塀寂穿奄有下図倖民稼橋有稜有黍有

侶有拒奄有下士績南之緒o(1章)

后稜之孫資維大王o居岐之陽賓始易商至干文

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

武濃大王之緒致天之眉千枚之野無武無虞上

帝臨女敦商之族克威厳功王日叔父建爾元子

伴侯干魯大啓爾字鳥周室輔O(二章)

奥深-清い宗廟は堅固で美しい輝かしい妻糠は

その徳も貞正であ

った上帝も心をよせて無事に子

を生ましめ十月十日を遅れることもなかったここ

さいわい

に后積を生むと天は多-の

降したそれは黍

もちbぴ

おくて

わせはやうえ

おそうえ

まめ

や穿後に領下の閲を

くろきび

治め民に耕作させた稜や黍もあれば楢や

ある下士を治めて后稜は南の事業を縫いだ(一章)

后稜の子孫はかの大王宜父岐山の南に居任した

時始めて殿

への臣展開係を慕

った文王と武王に至

-大王の事業を縫いだ殿の天命の終わ-は牧野の

地でやって来た「武心を抱いた-心配してはならぬ

上帝も見ておられるぞ」武王は殿に勝

ってその人民

を治めその功績は先王たちにも等しい成王は言

た「叔父周公よ

そなたの長子伯禽を立て魯園の

侯とし大いにその土地を閃かせ周室の輔けとさせ

15

中開文革報

第四十六冊

よ」と

(二章)

「関宮」全九章の

うち二幸O魯図はこの詩にも云う如-局

公の長子伯禽が封ぜられた図であり周と同族であるから

曹然周租后稜に始まる諸先王を構えているわけであるが

后稜の農業創始を

一章全部を費やして

「南の緒を鰹ぐ」と

賞揚する割には文王

武王の殿周革命に封しては素束な

い描き方である寧ろ大雅の詩篇よ-も先王の文化的功績

に重きを置-といえる

1万の宋園は肘王の庶兄微子啓が武王に封ぜられた園で

ある宋園は殿の穫柴を修め殿の習俗を堅持し績けたと

俸えられる

所詮は被征服園である自らの租先を高ら

かに賞讃することに封して何らかの政治的願力が働いたこ

とは想像に難-ない「七筈の詩が亡伏した」という商魂

譜の記事は或いはこのことに関係があるのではないか

この失われた詩の中には

西周の

「生民」

「公劉」詩の如

-殿代よ-俸わる文化神を歌う詩があったのではないか

この推測をよ-精確に検討するにはやは-宋園以外の

園に俸わった殿王朝開園神話の一つとしての楚辞

天問を

参照する必要があるそこで次章ではまず殿嘘卜辞に見え

る高組神について検討し次に楚鮮

天間の殿王朝開園を

問う部分について考察した後これらと商項とを相互に比

較することにしたい

三卜辞及び楚鮮

天問の殿王朝開園神話

卜辞は占卜のための文句を記した文字資料であ-もと

よ-神話の記録を目的としたものではない従

って殿人の

間に俸えられていた殿王朝開園の物語を卜辞によって復元

することは言うまでもな-不可能であるただそこには高

租神や先王をはじめ様々な神の名が見えてお-これを後

の時代の殿王朝開閉神話と比較することによってその神

話がどれ位原初の姿に近いかを推定することはある程度可

能である

さて殿人にとっての最高碑は周知の如-上帝であ-

卜辞にも

「帝」として見えていて風雨などの自然現象を

支配し人事に禍福をもたらす存在であることが知られて

⑲いる

16

この上帝に封しては直接条把が行なわれることはないと

い-のが通説であるが島邦男氏によれば絶無という諸で

はな-締把が行われる例が三例あるこの締紀は上帝の

みならず高租神や先王に封しても行われてお-例えば

羅振玉

『殿虚書契緯編』

一-二-

一片に

点締子王亥

貞-王亥に繭のまつ-をせんか

董作賀

『乙篇』四五四九片に

葵未卜両税乙

英未に卜す租乙に蹄のまつ-をせんか

とあることから

恐ら-張光直氏の云う如-

「殿の人びと

『帝』は先租の絶稀であ

ったかあるいは先租の観念

の1つの抽象化されたもの」

ということになろう

上帝と同様の祭紀が行われる租神の-ち「高租」と呼

ばれるのは愛

王亥の二人である

愛は変とも揮され王⑮

図経が

「暑」と塵韻であることなどを理由に帝尊と解して

以来これが定説となっているO帝聾は後の時代の文献に俸

える所では自らの文化的事業や武勇に関しては何も記さ

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

ずただ殿組契と周蔵后榎の共通の父祖であると云うだけ

であ-上帝的な存在であ

ったとするのが諸家の1致した

見解であるしかし殿代に於ては

「帝」と帝替即ち愛は区

別されている以上完全に同

一であ

ったとはいえず上帝

と人王をつなぐ役割を持つ始租神として奉られたものと思

われる前述の如-愛が抽象化したものが上帝であ-

逆に言えば上帝が人格神化したものが愛なのである

一方の王亥はどうであろうか山海経

大荒東経に

有困民国-王亥託干有易河伯僕牛有易殺王亥

取僕牛

困民国で-主

亥は有易園と河伯園に自ら飼い馴ら

した牛を預けた有易園の人は王亥を殺し牛を奪

この候の郭瑛注が引-古本竹書紀年には

殿王子亥賓干有易而淫蔦有易之君鯨臣殺而放之

是故殿主

(一作上)甲徴候師子河伯以伐有易滅之

途殺其君紹臣也

殿の王亥は有易園

へ客として赴いたが行ないが悪

- 17-

中国文学報

第四十六放

有易の君主摘臣が彼を殺してしまったそれで段

の上甲微が河伯図の軍を借-て有易を伐ちこれを滅

ぼし君主鋸臣を殺した

と記されているまた初学記撃

九引世本には

「骸が

牛を飼い馴らした」とあ-この膜も王亥であると考えら

れている少な-とも東周末期に於ては王亥が牧牛を行な

ったという俸説があったのであ-王亥を論ずる人の多-

はこれに注目し彼を殿の文化紳であると考えている

「高

租」と特別扱いされる租神の一人であることを考えれば

王亥が文化面で多大な功績を上げ原始状態から文明状態

へと殿氏族を更展させたことは十分に考えられる

もしそうであるならば前章でその存在を示唆した

「殿

の失われた文化紳」はまさにこの王亥ということになる

既に述べた如-詩経

商煩の段王朝開園神話に封しては

それと系統を異にする楚辞

天問という比較資料もあるの

であるから次にこちらの方を見てみることにしよう

fTD

天問は古来極めて錯簡の多い書と言われる

その中で

殿周開園に関する部分は比較的次第がまとまっている湯

以前の駿の先王が措かれるのは55-聖早であ-簡秋と尊

の通婿から始まっている

55簡秋在董卓何宜玄鳥致胎女何喜

筒状は高い槙童にいたが尋はどうして見そめたの

か燕が滑-物を持

ってきたのを筒状はどうして喜

んだのか

古来詩経

商頒

「玄鳥」と同じ-簡秋香卵の説話を云うも

のと解されるがこれも

「玄鳥」詩と同じ-この二句だ

けから呑卵の話を導き出すのは難しいしかしこの通解が

行なわれた高い

「董」は天地の間を繋ぐにふさわしい場所

であ-鳥が天から

「胎」を授けることなど天地通姫を

描-ことには襲わ-はない天問では上帝には

「帝」とい

う呼稀を使

ってお-ここでの

「魯」はー辞の

「愛」と同

じく上帝の人格化したものと思われる

この二句は不思議なことに簡秋と啓が誰を生んだのか全

く言わないテキストに脱落がなければ次の章の登場人

物を簡秋の子と考えるのが最も素直であろうところが次

に登場するのは

「玄王」でも

「契」でもない

18

56該乗季徳頗父是滅胡絡弊干有屈牧夫牛羊0

57干協時舞何以懐之平脅鼻膚何以肥之

58有屈牧豊云何而逢撃林先出其命何徒

壬亥はその父季の徳を縫いだが父は立涯な人であ

ったどうして王亥はとうとう有易園に落ちぶれそ

ゐ牛羊を養

っていたのかO

たて

あわ

いだ

協せて舞う女を見てど-してその女を

のか

平らかな脇腹に細やかな皮膚どうしてこの女

まじ

ったのか

王亥は有易園の牧童にどのようにして合

ったのか

寝込みを襲われて先に逃げ出したがどこから逃げ出

して助かったのか

56章の

「該」を王逸は

「竜也」と解しているが晴代に至

って王関連が人名ではないかと疑問を呈出L

t

王国経が卜

軒との対照によって王亥であると断じて以来この説が支配

的であるこの四句も前途の山海経や竹書紀年と共に王

亥が牧神であ

ったことを示すものとしてよ-引かれる57

章は難解であり注揮家ごとに説が異なると言

ってもよい

股周開園の神話と

「紳代史」(大野)

ほどであるが王亥の婚姻のことを云うとする需介甫氏

黒須重彦氏の説に徒う58章は王亥が殺されそうにな-な

がら辛-も逃れたことを云い前に引いた山海経などの所

侍と関係があるものと思われる

この三幸の記述から王亥の迫害と文化創造のモチーフを

見出すことはさほど困難なことではないし簡秋と孝によ

る殿租の神的な誕生も前章までに述べた例と同様に何ら

かの形で王亥に英雄的資質をもたらすものと考えられる

簡秋が生んだのが王亥であると断定できれば話は簡単なの

であるが56章には王亥の父としての

「季」が登場してお

り従

って天問に於ては簡狭

暑-季1王亥という系譜が

成立していたことになるしかし卜辞に見える

「季」は高

租でない租神の一人にすぎず

「高租王亥」が

「季」を父と

していたとは考え難いo

l鮭に卜解における租紳相互間の

父子関係は不明な部分が多-本来は寧ろ横

一列に並ぶ関

係であ

ってどれも

「租先」に襲わ-はないのであ-果

たした功績や役割の違いによってそれぞれに分化したもの

と考えた方がよい卜辞における

「季」の神威は他の租紳

19

中国文革報

第四十六桝

と襲わらないが

天問では尊と王亥との橋渡し的な性格に

襲わったのである

59恒乗季徳蔦得夫朴牛何徒費班緑不但遠来

王恒も李の徳を鰹ぎ王亥の養

った僕牛を得たど

あまね

はどこ

うして狩-に行

って獲物を

-

民に

ただ行

って

締るだけに止まらなかったのか

「恒」は王遠江では

「常也」と云うがこれも王国経が卜

辞に見える王恒のことであると解して以来諸家概ねこれ

に徒う「班稀」は近年の解帯では

「官位」「栄達」等に解

され

「王恒が有易図で出世しょうとした」意であるとす

るがす

っき-しない解輝であるー辞に見える王恒は

弓の形の中に

「恒」字を入れたものもあ-寧ろ

「湯は狩

-に往-際ただ行

って締るだけではな-民に編-施し

を輿えた」とする王逸注の方が原初的な意味に近いと思わ

れる但し主語は湯ではな-王恒である張光直氏は王恒

と罪に何らかの関係があるのではないかと考えるが

それ

よ-は駿人の狩猟柵であ

ったと考えた方が良いかも知れな

いただ王恒の事境を記した文献が他に存在せず容易に

結論を得難いのは残念なことである

60昏微遵述有狭不寧何繁鳥葦棟負子韓情

61絃弟遠軽危害顔見O何襲化以作許後嗣而逢長

上甲微は父王亥の事鏡を鮭ぎ有易園は安定を保て

ず滅びたどうして有易の人民は妹に止まる鳥のよう

に苦しんでいるのに上甲微はその子女にまで横暴な

ことをしたのか

目の陪んだ請弟はみな道ならぬことをしその兄上

甲微に危害を加えたのにどうしてうま-ごまかして

その子孫が長-祭えることになったのか

この二章も本づ-所がはっき-せず難解であるが「昏微」

はやは-王国経が上甲微のことであるとしてお-その事

蹟を云うものと考えられる上甲微は卜辞で系譜が明らか

な請王のうちで

一番古い租先に普た-いわば

「人王」の

租であるがここでは王亥と同様の迫害モチーフが再び現

⑳れその事鏡は既に神話化されていたものと見られる「何

襲化以作詐後嗣而逢長」の二句はそ-した神話であるが

故の不合理性を問うているのである

- 20-

62成湯東巡有等宴極何乞彼中臣而吉妃是得

63水漬之木得彼中子夫何悪之腰右筆之婦

64湯出重泉夫何皐尤不勝心伐帝夫誰使挑之

湯は東方

へ巡狩Lt有等園までやって来たど-し

てあの中臣伊声に乞い求めて良い妃を得たのか

水蓮の木から有等氏の君主は伊声を得たとい-が

どうして伊声を嫌

って湯の妃に付き添わせたのか

湯は重泉の牢獄から出て来たがそれは何の罪だっ

たのか正義を求める心を抑えられず実を伐

ったが

誰が彼をそうさせたのか

商頭における湯は夏架や尾吾氏を伐

った英雄として非常に

多-の紙幅を割いて賞揚されていたのであるが天間では

僅か三幸で終わ-しかもその年分は彼の名臣伊声のこと

に費され天下を平定した聖王にしてはかなり冷淡な描き

方である多-とも王亥や上甲微などと同等の重さしか持

っていないといえるしかしこの簡単な記述は神話的な趣

きに富んでいる伊声は呂氏春秋

本味簾で

「有佐氏の女

が空桑の中から嬰兄を得て

それを君主に献じ君主は

般周開乾の神話と

「紳代史」(大野)

料理人に彼を育てさせた」云々と書かれるような俸説をも

つがその原型とみられる記事が63章にあ-64章の

「湯

出重泉」も森安太郎氏が

「陽

(太陽神)が海の下を-ぐっ

て再び現れ出る様子」

と解したほどであるその虞偽は措

-としても

「重泉に囚われてから脱出」

というのがこれ

まで屡々登場してきた迫害1事業完成のモチーフであるこ

とは明白であ-この迫害こそ棄てられた后稜と同じ-英

雄を英雄たらしめる神話素の一つである殿人にとって湯

「人王」であったはずであるが楚人にとっての夏殿革

命は既に神話となっていた宋人にとっても同じであ

った

と思われるしかし東周時代の為政者の意識は最早神話を

古代人の如-

「心象における事資」として受け取ることを

許さなかった神話の神話たる所以である英雄の迫害も

政治家としての彼等にとっては

「不合理」以外の何もので

もな-統治強化の障碍でしかなかったであろうそれ故

その

「不合理」を宋人は頒詩から治し去-楚人は

「天に

問」うたのである東周の殿開園神話はその鮎で西周人

の神話と歴史が

一鰻になった

「神代史」であ

った詩経

21

中国文筆報

第四十六冊

雅の周王朝開園の物語とは成因がやや異な-神話そのも

のを改襲した

「神代史」であるといえよう

再び天間に戻ろうここで語られる殿王朝開園神話を綜

合すると腰租誕生1夏殿革命という流れは商頭でのそれ

とはぼ

一致するのであるが商頚では全-無税されている

王亥

王恒や上甲微の事浜を多-記している所が大いに異

なるこれらの先王は卜軒に於ても租神として柁られてお

-殊に愛

(餐)王亥は

「高租」と崇められていたのであ

るから天問における殿租誕生や牧牛創始の偉大な功績も

殿代からその根摸となるべき停東があったものと考えられ

る殿の未森たる被征服図

宋図で語られなかった文化神

が周の政治的願力が比較的少なかったであろ-楚園に於

て生き残

っていたのであ-「王亥を構える頒詩は政治的

要請によって胴去されたのではないか」という前章で捉

起した推測は更に確貴性を樹して-るのである

このように文化神を語る神話は政治的な事情によって

改襲されやすいという

一つの傾向が次第に明らかになって

きたのであるが天間に見える周王朝開園神話を詩経

雅のそれと比べてみるとその傾向は

一層はっき-する

これについては次章で検討することにしてその前に前

章で提起したもう

一つの問題即ち契と後に呼ばれるよう

になる殿紐の正鰻について卑見を示しておきたい

1般には詩経

商頒

「玄鳥」

「長顎」の鄭隻や楚鮮

天問の王逸注史記

殿本紀などから筒状が生んだ殿租

が契であるとされ詩経や楚軒の注揮家も特に疑問を抱い

ていないしかしこれまで見てきた詩経や天問には契の名

は全-見えていない国語を見ると周語下には

玄王勤商十有四世而興

玄王は商のために働き十四世かかって興起した

鄭語には商

契能和合五教以保干百姓者也

商契は五教をよ-調和させ人民を守-養

った人で

魯語上には

契為司徒而民韓-上甲微能帥契者也o

契は司徒の官となって人心を和らげ--上甲微は

22

たす

契をよ-

た人である

自玄王以及主薬莫若湯

文王から主薬

(湯の父)に至るまで湯よ-すぐれた

者はいない

とあるこれらを見ると契とい-名は周

楚以外の

園で用いられし

かも

「司徒として五教によって人心を安

定させた」という事鏡が語られている抽象的な形ではあ

るが文化面での功寮が取-上げられているのである

そうすると陳夢家氏の

「契と刻は互訓であ-共に亥

と普通である故に契は即ち王亥である」とする説が有力

な説として浮上して-るOこれまでの考察から王亥は殿

の高租にして文化所であ-従

って契というのは王亥の周

連諸国での呼び名であ-「五教」云々は王亥の文化神的

な面が周遠諸国に於て襲化したものと考えられるのである

もう

1万の

「司徒」という面に注目すると楊寛氏は

「司

徒」は

「司土」であるとして契は社紳

(土地紳)であった

と考えている「司徒」を

「司土」と表記するのは西周金文

に多-見られる用法であ-本来は土地や農業を司る官で

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

あったらしいまた史記

殿本紀には

「実は南を佐けて治

水に功があった」とあ-梁玉縄の疑う如き司馬遷の臆説

でな-古-からの停承に基づいているものであるならば

契に夏南の如き下士造成神的な面もあった可能性は捨てき

れない司土の官は農業にも関係が深いことから契は土

地神にして農神の性格をも持つことにな-このことは王

亥が牧牛の創始者であることと関係があるのかも知れない

なお尚書尭典には

帝日「乗努民阻飢o汝后榎播時百穀O」帝日

「契百姓不親五品不遜汝作司徒敬敷五教在寛」

もろもろ

舜は言った「棄よ

民は飢え苦しんでいる

汝は后頑の官とな-

この百穀を播け」と舜は言

った「契よ人民は互いに仲良-せず父子

君臣

夫婦

長幼

朋友の序に従わない汝は司徒の官とな

つつし

-五教を敬んで廉め心を寛-して治めよ」と

とあ-同じ-尚書の周官には

司徒掌邦教敷五典擾兆民

司徒は閲の教化を掌-五教を廉め多-の民を順

23

中国文畢報

第四十六肋

わせる

とあ

って司徒が教化の官であるかの如-書かれているが

これは后積が農官とされたために契は

「五教を康めた」面

のみが取-上げられそれが司徒の官名に結びついてかか

る誤解を生んだものであ-司徒の本来の意味ではないと

考えられる

周やその支配下にあった宋園では殿租に玄王という名

が使われてお-玄鳥による神的な誕生と商の興起のた

めに轟-したとい-事暁が語られる

魯園では

「契」

「玄

王」両方が見えるがー契と言う場合は文化的な功績が描か

れ玄王と言う場合は始租としての面に注目されている

恐ら-

「玄王」とは契=

王亥の始租としての面が強調され

た時の呼稀であ

ったと思われる文化人類学的にも「玄」

という名は始源の闇や滞沌を連想させるものであ-例え

ば老子

六章の

玄牝門天地板

玄牝の門(女陰)は天地寓物の根源である

の如-である

宋園や周では殿租の文化神的な面が抹殺さ

れたために始租神としての

「玄王」の呼稀が定着し魯

鄭などの周連列国では儒教的に襲化した文化神として

「契」と呼ばれ楚国では殿代の呼稀

「王亥」が原形に近

い形で保存されて

「該」と呼ばれたのであろう

四楚鮮

天問の周王朝開園神話

まず天問における殿周開園神話の大筋の流れを圏示する

と附固

一のようになる我々の常識で考えるならば夏殿

革命の次に殿のその後の衰亡を歌いそれから周王朝

へと

移る構成をとるのが普通であるが天問では夏殿革命から

いきな-周の衰亡

へと飛びそこから殿の衰亡

へと戻る間

くりかえ

「天命は

」というテーゼを挟み込んでいるこの

ような操作によってどの王朝も同じように興亡を繰-近

すというテーゼが

7層際立つのであ-

T見乱雑に見える

排列が安は高度なレトリックを用いた結果であるという

ことがわかる

次に殿周の開園が歌われている各章を時間順に並べ

かえて相互に封比してみると附圏二のようになるこの固

24

殻周開園の耐話と

「神代史」(大野)

附圃- (丸内の数字は葦の通し番競)

舜と女梱 ⑱~

「験萌在初」

1

度の先王 ~

t

夏殿革命 ~

周の先王

l

殿周革命 ⑮~cent)

iiiiia段の衰亡 ~ 周の興亡

一- 一 ノ ー「天命反側」

附圏二

段 簡秋と唇の通婚

王亥 有易で牛羊を牧す

王亥の婚姻

王亥 殺されかける

王位 王亥の牛を得る

上甲微 父の遺業を鮭ぐ

肢弟が上甲微を迫害

一寸 どうして子孫が栄えたのか」

~ 楚の興亡

周 ⑯ 后硬 氷上に捨てられる

上帝をも驚かす武勇

-「どうして子孫が栄えたのか」

成湯 伊声を得る

伊デの生い立ち

湯 壷泉から出て案を伐つ

- 25-

⑳ 文王 天命 もて段を覆す

岐山に移る殿の惑婦

文王 村の無道を天に告げる

文王 太公望を得る

武王 急いで殿を伐つ

武王の朝合

周公 武王をよしとせず

武玉 村を伐つ

中隊文革報

第四十六筋

一見して知ることができるのは周の先王には僅か二章

しか使わず殿周革命に九章も費やしてお-殿王朝の方

が租神に多-の章を割いて夏殿革命には三章しか使わな

いのと対照的であるということである

周王朝開園を云う章をもう少し詳し-見てい-と

76積維元子帝何竺之投之干水上鳥何燐之

77何漏弓挟矢殊能渚之既驚帝切激何逢長之

后稜は上帝の長子であるのに上帝はどうして彼に

危害を加えたのか彼を氷の上に捨てると鳥はどう

してこれを暖めたのか

どうして弓をひきしぼ-矢を挟みすぐれた才能で

武婿となったのか上帝をも驚かすほどひどいことを

したのにどうしてその子孫は長-栄えたのかQ

后積が上帝の子であるのに迫害され鳥によって助けられ

たというのは詩経

大雅

「生民」と同様であるが周租后

礎の両的資質を云-のみであ

って農業費明には全-解れ

られていない77章は王逸注では前二句を后稜後二句を

武王の事績とするが洪興租補注は全部を武王の事績とし

朱子はその両方を疑問であるとす

78章以下では文王の

ことを云う章が績いてお-この章を武王の事虞とする課

には従えない聞

多や衰珂

氏は全部を后頑の事鏡とする

が必ずしも后榎に限定することはできない少な-とも

古公以前の

「神代」の先王のうちの誰かであることは確か

であろう後二句の

「上帝をも驚かすようなことをしなが

らどうして子孫が栄えたのか」という疑問が殿の租神と

「人王」の境目である上甲微を語る61章の後二句と似るか

らである周の先王を歌うのはこの二幸で終わ-であ-

そこでは先王たちの文化的功績は全-歌われておらず殿

の先王に比べて極めて冷淡な扱いである

78章以下は殿周革命にまつわる様々の問が寛せられるが

詩経

大雅に見えておらずまた考古学的な裏付けもない

俸説的な事件もい-つか見えているとはいえ神話的な奇

怪さには乏しいといえる0

79遷蔵就岐何能依O殻有感婦何所説

貴職していた重器を移して岐山にやって充たがどう

して人民がそれに従

ったのか殿には人を舷惑させる

26

女がいたというが何のために議話しょうとしたのか

前句についてはこれを文王に懸ける説

大王に懸ける課

あるが前後で文王のことを歌

っているので大王の事蹟と

するのには難があるとはいえその内容は詩経

大雅

「崩」

に云う古公宜父の事鏡に近-どちらに限定することもで

きない「大王から文王までの問」とする他ないであろ-

後二句は肘の妃である坦己を云うとされるがその何につ

いて問うているのかは明らかではないしかし両者とも

その

「答」となるべき俸説がこの時代に前後して現れてお

-前者については

1章で引いた孟子

染着王下後者に

ついては太平御覧奄

1三五引世本に

「村が有蘇氏を伐

った

時有蘇氏は坦己を妃にさし出した肘はこれを愛して言

うことを何でも聞いたために武王が肘もろとも殺した

云うのがこれに普たる

66到峯村窮叔旦不嘉O何親撰車足周之命以各嵯

肘の首をはねるに至-周公且はこれをよしとしな

かったどうして周自ら謀

って殿を討とうとしたのに

その行動は人民に支持されたのか

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

後二句は極めて難解であるがいま黒須重彦氏の解樺に従

う他の諸家にはテキストの文字操作で意味を通らせよ-

とする者も多い前二句を王逸は

「武王の舟に白魚が飛び

込んだので群臣が

『吉兆だ』と言ったのに封Lt周公が

『吉兆ではあるが吉兆と思

ってはならぬ』と戒めたことを

云う

と解しているがこれは史記

周本紀の記事を敦術

したものであって漢初の五行思想の産物である寧ろ所

謂伯夷

叔奔停説の前駆形と考えた方がよい

ここに引いた事件が果たして史寛であ

ったのか西周時

代に生まれた俸説か或いは東周以後の俸説であるのかは

容易に判断できないしかしいずれにしても西周人の

「神

代史」からは無税されていた事件が本来の形ではないに

しても再び記録される動きをここに見ることができるので

あ-結語で述べる

「神代史の再神話化」の萌芽であると

いえるO

このような新しい動きはあるものの天問の周開園神話

も始祖の神的誕生1英雄的事業の達成という基本的な構造

には全-襲わ-はないしかし全鰻を通じて諸王の文化的

27

中閲文革報

第四十六筋

功績には全-解れられていないばか-か周の先王=

租秤

に封しても極めて冷淡であ-殿に封する態度とは明らか

に異な

っているのである

このことは昔時の楚園が周文化よ-も殿文化の方により

親しみその信仰

習俗等を保持していたことの一つの讃

接であろう楚文化と殻文化の関係の深さは既に様々な面

から指摘されてお-例えば楚辞

九歌に見える「雲中君」

「河伯」の神がト辞にも

「雲」「河」神として見えているこ

とや西周末期のものと見られる楚の青銅鐘は殿の鍔と形

が似てお-その銘文も殿金文に似た雄滞な書鰻であるこ

とな

どが挙げられるこのよ-な現象が生じた過程として

は(一)歴代から楚は殿に臣屈してその文化を受け入れ

周の時代になっても表向きは周に臣属しながらも殿の文化

を保持し績けた(二)周代以後に国力を埼大した楚園は

への対抗上その文化を拒み隣接する宋園の殿文化を積

極的に導入したという二つの説が考えられる前者の立

場を取る者はその根接として詩経

商頒

「殿武」の

撞彼殿武奮伐剰楚突入其阻衷利之放有戟其

所湯孫之緒(一章)

敏疾なる武丁は奮起して剤楚を伐ち険しい山地

に攻め入って刑楚の兵士を虜にしその地を平げ

湯王の子孫として手柄を立てた

という部分を畢げることが多い

前述の如-商頭目鰻が

宋園の楚国

への対抗心から作られたものであ-我が国の

紳功皇后遠征説話と同じ-どこまで史寛を反映している

かは未知数であるしかも卜辞などの殿代の地下資料から

は昔時の殿楚関係を示すものはまだ見つかっていない

一方後者については史記

楚世家に周の夷王の時に

楚王熊粟が

「我は牽夷な-中国の詮親に興らず」と言っ

たという記事もあ-現時鮎ではこちらの説の方が有力で

あると思われるいずれにしても周とは言語や風土を異

にする楚閲で生まれた天問には意固したか否かはともか

-周文化の重税と殿文化

への傾斜が讃み取れるのであ-

周王朝側の論理で殿の文化碑の功績を壷-抹殺された詩経

商頭や周の文化神を構える詩経

大雅とは好封照を見

せているのである

28

結語及び除論

これまで述べ来

ったことを要約すると詩経や楚辞

問に見える殿周開園神話は始租の所的誕生1迫害1事業

(文化創造

天下統

一)の完遂という構造を持ち既に西洋

の英雄神話に於て指摘されている基本構造をここにも見出

すことができるただ西洋では

一人で行なわれることが多

い英雄としての事業が中国では教代に亙

って行なわれる

ことが多いという違いはあるところが殿の開園と周の

開園また詩経と天問の相互間で詳し-比較してみると

神々の文化的功績は神話が記録された常時の政治的な事情

によって抹殺されることがあるという事資に束づ-この

ことは中国に於ては剣を振るって活躍する英雄よ-も

文化を創始する

「聖王」の方が重きをなしてお-氏族や

国の威光を左右するものであ

ったということの一つの謹左

といえよう

詩経

大雅における周王朝開園神話は高租にして文化

神である后稜-公劉を神話的要素に富む叙事詩によって語

段周開園の紳話と

「神代史」(大野)

っているが

「人王」の代に至ると

殊に王李に新著に見

られる如-諸王にとってマイナスイメージを輿えかねな

い史寛は壷-制去され武力革命の成功を

「神代」から引

き継がれた輝かしい事業として稀讃している周王朝の開

園神話とそれに績-殿周革命の史糞は詩が記録されるま

での間に

「神代史」

へ改愛されたのであるそこに支配強

化のための王室神聖化という高度な政治的意圏が働いてい

るのは確資であろう

段の遺民の園である春秋の宋園における段王朝開園神話

詩経

商項の諸篇は最終的には周王朝側の人々によって

記録

編輯されたものであ-それ故殿人の信仰した文化

紳は義-抹殺され支配者としての周王朝の論理に基づ-

「神代史」に改変されているOそれに封して楚辞

天問の

殻王朝開園神話には卜辞にも見える租紳たちの神話的雰囲

気に富む物語が多-残

ってお-逆に天問の周王朝開園神

話では周の先王の文化的功績を無税していて宋国との政

治的

風土的立場の違いを明瞭に浮かび上がらせているの

である

- 29-

中国文学報

第四十六筋

か-の如-

神話時代やそれに績-歴史が為政者の手に

よって

「神話化」される場合は中開の諸秤の中で重い比

重を占める文化神が記録者の政治的立場に従

って改奨され

「人王」に封しては

「都合の悪い」史貴を切-捨てて

「神

代史」

へと仕立てられるのであるが東周時代になるとそ

れとは逆に「人王」にも神話素の一つとして解揮可能な俸

説が様々な書物に記録されるようになる既に引用した文

王の安里幽閉

伯夷

叔斉の餓死などがそれであ-

「人

王」の物語もこれによって組両と同様の典型的神話

へ近づ

いてい-のであるこれらが記録されたのは諸子百家の書

物であ-昔時の遊説家たちが民間に流布していた停説を

敬-上げて自説を述べるために用いたものと考えられる

これらの停説が古い形をそのまま保

っているか否かは全-

保護がないとはいえ政治力撃の働きに-いレベルに於て

「神代史」に再び神話的物語が付け加えられるようにな

たということはいえるいわば

「神代史の再神話化」であ

-

1般に

「中国古代王朝神話」として

1つの物語にまと

められているのはこうして

「再神話化」された結果の産物

なのであるこれらは確かに

「神話」としての要素を豊富

に含んでいるのであるがこれを中国古代神話の原型と見

なすことは不可能であ-上述の如-複雑な要因が絡み合

っているのである

こうして

「神代史」はたとえ元の形とは異なるにせよ

再び

「神話」としての光彩を放ち始めたところがこの

「神話」をまたも

「歴史」に固定してしまったのが他なら

ぬ史蓬であることは周知の通-である

しかし

「神代史の再神話化」の原動力とな

った

民間

に語-経がれた王朝停説のエネルギーもこれで絡恨したわ

けではなかったこうしたエネルギーはその後も小説に記

録された種々の歴史俸説などを生み出し形を襲えて生き

績けたのである

ところでこれまで本文中に取-上げなかった

一つの重

要な問題があるそれは

「楚園に古-から停わる楚人自身

の神々はど-な

っていたのか」という問題である

楚辞

天問にはその末尾に楚図の俸説と思われるものが

記されてはいるが多-の注帯家が匙を投げているはど難

30

解であ-筆者も今敢えてこれに挑戦するほどの飴裕はな

いoしかし離騒ではその冒頭で「私は帝高陽の未森である」

と歌

ってお-少な-とも屈原の時代では楚人は穎頭高陽

氏を租神としていたと考えられているが文化神に関する

記述は見えない

一方同じ頃に楚園で成立したと考えら

れている山海経

大荒西経には街頭の子孫の神々の事業

が豊富に記されている例えば重

寮の天地分離

太子長

琴の音禁孝明などである

これらの事章から得られる

一つの推測をここで述べると

楚辞に於ては楚人自らの文化両を表立

って取-上げられな

い事情があ

ったものと思われる楚語で書かれた「原楚鮮」

には書かれていたがそれを漢語に翻弄した際に宋図か

ら導入した殿の文化神に置き換えたのかも知れないそし

て自らの文化紳とその物語を速い

「大荒」の物語として

カムフラージ

ュしたのが他ならぬ山海経なのではなかろ-

かこの書が地理書の形をとっていることや他書に見ら

れない神話停説を豊富に載せていることなどは丁度我が

国の

『出雲園風土記』を思わせるものがあるまた殿の

殿周開国の神話と「神代史」(大野)

文化紳王亥が

「困民国」の人とな

っていた-楚の租神で

あるはずの蘭頂が

「額頭囲」なる図にいたとされているこ

となどもこの仮説の根嬢となろう

しかし最早紙幅も轟きているこの問題は山海経を中心

として改めて考察することにしたい

ば織井慶紀著池田末利編

『中図神話の文化人類学的

研究』(1九九〇平河出版社)があるoまたユング心理学の

立場から日本神話を分析したものとして河合隼雄

『中空構

造日本の深層』(一九八二中央公論社)等がある

近世以前の諸席の議論は専らこの怪異雫が信ずるに足るか

否かの次元に終始するが近代的な研究としては聞一多

「萎

娠履大人跡考」(『聞一多全集』第一射一九四八開明書店)

白鳥清

「段周感生神話の解揮」(『東洋学報』十五巷四親tT

九二五東洋協合学術調査部)出石誠彦

「上代支部の異常

出生説話について」(『支那神話俸説の研究』所収tl九四三

中央公論社)等がある

「帝上帝也」

「帝高華氏之帝也従於帝而見干天婿事賛敏也」

孔疏に

「頑柁郊礁之時英夫高辛氏帝率興供行妻娠随帝之

後践履帝迩行事敬而敏疾放鳥神歌饗紳既饗其条則

31

中国文筆報

第四十六筋

愛而拓之

於是為天神所美大為福緑所依止twz=得懐任則

震動而有身」と云う

例えば嗣西族の

『東巴控』に見える縛文字にこのことが窺

える附固三参照また河南省に俸わるロ東俸説によると

女桐が天から降ってきて伏義が地下から出てきたと云う

(陶陽

鍾秀

『中国創世神話』一九八九上海人民出版社二

一四頁)

附圏三

primeJ 一一一

~PJ虹互L

LJL

堅 室④

上部の 一へ は天下部の 皿 は大地を

表す圃①は中間に天地交合の気がありこれ

より荷物が生ずる固②の中間は蛙で天地交

合後の襲化を表す圃⑨では天地の間に男が上

女が下になっており男女の交合と同様にして

天地が人類を生んだことを表す

(陶陽 鍾秀 『中国創世神話』214頁)

「惟虞東学詩云人之初生皆裂胎而出騒失所依故堕地

郎帝惟羊連胞而下共産猪易故詩以

『如達』馬比o又常

熟陶太常元淳日凡嬰兄在母腹中皆有皮以豪之俗所謂胞

衣也生時其衣先破兄鰻手足少蔚放生之難O惟羊子之生

胸仇完具堕地而後母篤破之故共生易o后硬生時蓋戒於胸

中形鮭末露有如羊子之生者放言

『加速』今按前二説

是也下言

『不味不副』蓋謂其胞衣之不折裂也」(『毛詩俸

集通帯』巷二十五)

「徐君宮人娠而生卵以箆不詳秀之水演O猪孤母有犬名

鵠蒼へ猟干水溝へ得所弄卵衝以東蹄猪孤母以馬具凍俊

之逐沸成見生時正値へ故以為名徐君宮中聞之乃更録

取長而仁智襲君徐固」(博物志

異聞篇引徐値王志)

「高句凝着其先出自克明東明本北夷嚢離王子離王出

行其侍兄於後任娠離王達欲殺之侍見目『前見天上

有菊如大鶏子乗降我困以有嫉』王囚之後連生男玉

置之家牢家以口束嘘束不死o王以為所乃聴収養」(梁

諸夷俸)

北欧や古代

ハンガリー等に見られる豊富な例がKケレ-

ニイtCGユング

『神話撃入門』

一九五1(杉浦忠夫訳

1九七五晶文社)に引かれている

例えば壮族に俸わる

「種子と犬の尾」の物語では人々

「九尾狗」に天上の穀物を盗みに行かせたところ穀物を

九本の尾に-つつけて蹄ろ-としたところを番人に見つか-

八本の尾を叩き切られたが残-

1本の尾に穀物をつけて逃げ

師-人間は農業ができるようになったと云う

(陶陽

秀前掲書二七九頁)

32

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 2: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

殿周開国の神話と

「神代史」

京都

大草

中国古代神話はこれまで中国文学や中国哲学はもとよ-

様々な方面で研究の封象とな

っているが中でも文化人類

撃や分析心理学の立場からの研究

近年盛んに試みられ

注目を浴びつつあるこれらの研究に共通するのは中国

の古籍に見える様々な俸説や説話から世界各地の神話に

普遍的な神話素を抽出しそれをもとによ-原初的な神話

を復元するという手法であるその結果文化人類学的

心理学的知見の或るものは中国の古代神話にもやは-適用

し得るとい-見通しは確かなものとな

ってきている例え

ばこれから本論で述べる如-殿周の開園英雄たちの物

殿周開国の紳話と

「神代史」(大野)

語には西洋などの英雄神話に虞-見られる筋立てと同

のパターンを認めることができるのである

ところで筆者は中国文学の立場から古代神話を研究す

る者であ

って文化人類学者や分析心理学者ではない以上

これらの諸学問における成果に完全によ-かかってしまう

のではなしにそれらの成果を文学としての神話研究に満

り込むことが必要である本稿で扱う問題に即して言えば

開園神話の奥底の普遍的構造を念頭に置きつつその神話

を生んだ時代的

地方的背景にも注目すべきである文化

人類学などの研究であれば殿周開園神話を題材にした詩

文厳や美術作品などを適時的に見てその普遍性を探れば

よいのであろうが文学として研究するにはこれらの諸文

献が生まれた時代や地方或いは文献自腹の性格などから

生ずる差異にも注目しなければならない

本稿は詩経

大雅及び商頭楚辞

天問に措かれる殿周

開園の物語を中心にして西周時代の周王朝開園神話東

周時代宋図の殿王朝開園神話同じ-楚園の殿周開園神話

の三者における普遍的構造と差異とを検討することによっ

中国文学報

第四十六朋

てそれぞれの王朝神話が政治的要論によって

いわば

「神代史」に改襲されていることを指摘し更に王朝の始

租の文化神的側面に顕著な

一つの傾向についても併せて論

じようとするものである

1詩経

大雅の周王朝開園神話

西周時代の周王朝開園神話を知るための第

一級の資料と

目されているのはやは-詩経

大雅の文王之什及び生民

之什に見える王朝開園の叙事詩であるそこには周組后稜

をはじめ公劉

古公賓父

王季

(季歴)文王

武王の名が

見えている

蕨初生民時維妾姫生民如何克産克把以弗無

子履帝武敏款牧介牧止載震載夙載生載育時

維后頑O(l章)

誕涌欧月先生如達不蛎不副無蕃無害以赫妖

雲上帝不寧不康産和居然生子(二章)

誕寛之陰巷牛羊排字之誕寛之平林合伐平林O

誕寛之寒波鳥覆翼之鳥乃去臭后積弧臭寛軍賓

許朕聾載路(三章)

誕貴簡旬克岐克疑o以就口食或之荏叢荏義邦

端禾役極極麻穿噸傾瓜鷹棒棒(四章)

誕后稜之穂有相之道弗験農事種之黄茂貴方

寛竃資種貴襲O寮費賓秀資堅賓好賓穎寛粟即

有郁家室(五章)

乗降嘉種維拒経年維廉維芭O恒之拒種是穫是

畝恒之廉芭是任是負以野肇紀(六草)

誕我柁如何O或看或捻或簸或段揮之曳里蒸之

浮浮載謀載惟取粛祭服取抵以抜載燭載烈以

興嗣歳(七草)

印盛干豆干豆干登其香始升上帝居款胡臭宜

時后積肇紀庶無罪悔以迄干今(八草)

初めの民はかの妾鯨初めの民はどのようであっ

つつし

たか妾嫁は

で上帝に子を授かるよう所ったそ

の後上帝の亘大な足跡を踏んだところ妊娠して大い

に括れ動-のを感じそして生まれたのが后硬である

(a)

2

十月十日を過ぎ最初生まれた時は子羊のようで胞

な衣が破れず傷つ-こともなかった后稜の蛋徴が明

らかになり上帝も安らかならず子求めの紀-にも満

足しなかった何とこんな子を生もうとは(二章)

そこで狭い道に后榎を置-と牛や羊は避けてかば

った平らな林に置-と木を伐る者に合

った冷た

い氷の上に置-と鳥が巽で暖めた鳥が去ると后積

は弧々の聾を上げたその聾は長-大きかった(三幸)

はいはいをするうちから立派な智慧があ

った自

いね

分で食を求め大豆を植えた大豆は茂-未は並ん

で億を垂れ麻や賓は地を臆すほど瓜の賓は鈴な-

になった(四章)

たす

后襖の稼穂には生長を

る技術もあ

った雑草

を除き良い穀物を植えた苗はよ-揃いよ-茂-

選ばれた種はよ-伸び花は開き穂は秀で資は墜-

立派で穂先はぴっし-並びか-して有部の家宣も

った(五章)

くろきひ

あかごめ

しろこめ

ここに下された良い穀物は拒

拒柱

殿周開転の神話と

「神代史」(大野)

あまね

-

植え刈-入れて畝に積んだ廉吉を恒-植え

抱えて背負い持ち蘇

って祭-を始めた(六章)

うすづ

我が祭-はどのようであ

ったか穀物を

取-出

ふる

し箕で

足で段むさらさらと米をとぎふわふ

かわらよもぎ

わと蒸す湯気が昇る祭-の次第を算段し

って脂を祭-雄羊を取

って祭-火で英-焼き来

年の豊年を願

った(七草)

たかつき

たかつき

自分は

に供え物を盛る木の豆や素焼きの

に香-が始めて立ち昇-上帝は安んじて受けた

何とその香-の時を得たことか后積が祭-を始め

罪や悔いの無いことを願いそうして今に至るのであ

る(八章)

后稜を歌う

「生民」の全文であるここに描かれる后積の

物語は(一)妻姫と上帝との通婚

(二)生まれた後の遺棄

と動物の助けによる再生

(equiv)自ら稼穂を創始し上帝を柁

るの三鮎に集約される

(1)については感生説話の代表例として古来議論が多い

が卑見では天地通婚のモチーフをここに見出すことがで

3

中国文畢報

第四十六珊

きる后積を生んだ普事者たる妾鯨と帝について考えてみ

るとまず妾妹の

「嫁」は史記

周本紀などでは

「原」に

作-「原」字は爾雅

帯地に「康平を原と日ふ」と云う如

-大地を連想させる

一方

「帝」は郵袋で

「上帝」と解し

て以来これが通説であるが毛侍

は人王としての帝尊と

解してお-「妾姫が帝拳とともに郊楳した後妊娠した」

という合理的な解帯を行な

っているしかし郊礁

(子求め

の奈-)は薩記

月令に

「仲春之月是月也玄鳥至

至之日以大牢両手高藤

天子親往(陰暦二月には燕が

まつ

来る来た日には牛

家を供えて高藤を両-天子親

らそれに出かける)」

と言う如-少な-とも毛侍の作ら

れた時代には疎神の助けを借-て子を求めようとする祭把

であると考えられていたのである毛侍に言う如き習俗が

「生民」詩の背景にあったとしてもその原初的な意味は

結局鄭隻に言う如き上帝との通婚であろう天神と人又

は天神と地神との遺贈は中国の各民族に俸わる人類起源

神話にも多-見られるモチーフであ-

租神を租両たらし

める要素であるといえる(二)は(一)に比べるとあま-重

要現されていないようであるが卑見ではこれこそ卵生モ

チーフの一撃形であると考える二章の

「先生如達不蛎

こひつじ

ぇな

不副無蕃無害」を馬瑞辰は「達

生まれる際には胞

破れないまま生まれ落ちる」という事例を引いて后積が⑥

生まれた時も同様であ

ったことを言うものと解してお-

以来これに従う者が多い胞衣に包まれた状態は外から見

れば無生物のように見えるが資は生命をその中に宿して

いるのであ-恰も卵と同様の状態であるしかも三章で

は最終的に鳥が暖めたことによって后積が

「誕生」したの

であ-後述する楚鮮

天問でも

「后稜を氷上に捨てると

どうして鳥が暖めたのか」と鳥が卵を暖めるように后頑

を暖めたことに注目しているのである卵生モチーフの例

としては他に徐侶王の出生

高句麗

東明王の出生

名であるがこれらに共通するのは生まれた卵が

一旦捨

てられてから保護されるという鮎であるここには古代

ーロッパ等の英雄にも贋-見られる

「遺棄

迫害1再生」

モチーフ

が内在しているといえよ-(三)については本

能的に自ら稼椿を行なったと云うだけであ-直ちに神話

- 4-

撃的な意味を決定するのは難しい敢えて卑見を述べれば

最後に自ら得た穀物と動物犠牲とを上帝に捧げていること

に注意が必要で中国西南の少数民族に俸わる農両

が園の記紀神話のウケモチ

ような自らの身鰻や生命を

犠牲にして穀物を得るというモチーフの痕跡がそこに盈さ

れているのかも知れない総じて后積には神的な誕生

迫害の後の再生

農耕文化の讃明という始租たるにふさ

わしい資質と事鏡が付輿されているといえる

后稜に績いてその曾孫とされる公劉が

「公劉」に歌わ

れている

篤公劉匪層匪康道場通産連帯適倉O遭裏鯨糧

干妻子嚢o思輯用光弓矢薪張干支戚揚婁方啓行O

(一章)

篤公劉干育斯原既庶既繁既順適量而無永歎

捗則在職復降在原何以舟之o維玉及環韓捧容刀

(二幸)

篤公劉干京斯依鎗鎗済済倖憂倖凡既登乃依

乃造其菅執家干牢酌之用鞄食之飲之君之宗之O

殻周開国の神話と

「神代史」(大野)

(四章)

篤公劉干幽新館渉澗馬乱取属取鍛止基連理

宴衆宴有爽其皇潤遡其過潤止旋乃密帯鞠之即

(六章)

情深い公劉は住居に落ち着-こともせず田地の

瞳を区切-穀物を積み蓄えた食糧を大小の袋に詰

たてほこ

め込み人々は囲結して威勢よ-弓矢を張-千

おのまさかり

を立てここに行旗を始めた(T章)

情深い公劉は着いた平原を国見した物産は豊か

で草は茂-民心も落ち着きのびやかに溜息をつ-

者はいない小山に登-また下-て平原を見歩-0

めぐ

公劉の腰に舟らすものは凧玉や美しい石鞠飾-千

侃刀(二幸)

情深い公劉はこの都に定任した人々は進み居並

びむしろや腰かけを並べ席に着いてよ-かかる

しもべ

つか

ふくべ

し家を牢から出させ鞄

酒を酌み人々

に飲食させ公劉は君主として振舞

った(四章)

情深い公劉は幽地に官室を建てた滑水を横切-

5

中国文畢報第四十六筋

といしいしづち

属や

を切-出し

礎を整え多-の人が住みつい

た皇潤を挟み過潤を遡

った所に人々はび

っし-

くま

住みつき川の丙鞠に沿

った(六章)

全六章のうちの四章

T章で板横地造営

への出費二章で

国見四章で饗宴六章で板接地の完成と章展を歌う0形

式面では全篇に亙る

「篤公劉」のリフレイン「遭

OL

「既

O」といった助字によるリズミカルな修辞法など

「生民」と共通する所が多い内容面では

「生民」の如き

神的な誕生や迫害などは無いものの板接地完成に饗宴が

付随している鮎が

「生民」に似る四章の饗宴が単なる無

薩講でないのは

1讃して明らかであるLt「生民」と

劉」の間に置かれている詩四篤のうち

「行葦」「既酔」「

鷲」の三篇までが祭天の儀式を伴う饗宴詩であることから

考えてもこの饗宴場面には家を殺して上帝に捧げる儀式

が含まれていたものと思われる

か-見ると詩経

大雅における后硬と公劉は事業完成

とそれに伴う祭天という鮎では比較的よ-

一致してお-

共に西周人にとっての高租神であ

ったと考えられる后頑

「食」を開拓したのに続きその曾孫公劉が

「任」を開拓

したのであ-恰も山海経

海内経で

「后稜が百穀を播き

その孫叔均が牛耕を始めた

と云うのに似ているここで

の叔均は后稜から分化してその功績を補完する役割を持

てお-公劉も同様に租神の資質をもつ后頑から分化し

てその事業を襲展させる神とな

ったのであろう公劉に奇

怪な誕生の話がないのもそういった英雄的資質を后頑か

ら引き縫いでいるためと考えればうま-説明できる

公劉の十代後とされ文王の骨組父である古公豆父の事

鏡は

「締」に歌われる

鮪解瓜腔民之初生白土汎漆O古公宜父陶復陶

穴未有家室(T章)

周原廉廉重茶如飴宴始宴謀宴契我亀日止日

時築童子茶

(三章)

乃召司空乃召司徒倖立室家其縄則直縮版以

載作廟巽巽(五章)

建立皐門泉門有伏廼立鷹門鷹門賂購廼立家

土戎醜恢行(七草)

6

韓不珍庚憶亦不眠欧問種械扶桑行違先夫混

夷戯臭維其喚臭(八草)

虞帯質蕨成文王amp庚生予日有疏附予日有先後

予日有奔奏予日有禦侮(九章)

長々と伸びる瓜の蔓そのように連綿たる周の民が

生まれた時は汎漆の地に居任した古公宜父は土

をこねて穴を作

って住みまだ宮室を持たなかった

(一章)

たがらし

のげし

周原はよ-肥えて董

飴のように茂

ってい

た国都造営を始めよ-と謀-亀卜を行なうと「こ

こに止まるがよいここに官室を築け」と出た(三章)

土木の官を召し出し土地の官を召し出し宮室を

建てさせた墨縄をまっすぐ引き板を縛

って間に土

を詰め狂いな-廟を作

った(五章)

外門を立てれば高-そびえ立ち正門を立てれば

いかめしい構え大社を立てれば多-の人々が集ま

った(七草)

ほまれ

さて周人の怒-は絶えずしかしその

落とされ

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

なかった雑木を沸い道が通じると混夷は恐れて

逃げ息切れするほどであ

った(八草)

虞園と苗圃が和議を求め文王は興起の勢いを動か

した文王は言

った

「追随する園もあ-

前後から

取-奄-図もある我が閲のために働-園もあ-外

敵を防ぐ園もある」と(九章)

全九章の-ちの六章八

九章は難解であ-諸説紛紛とし

ているが古公ではな-文王の代に時が移

っているとする

鮎では概ね

一致している宮室を持たぬ原始的状態1閲見

1板接地造営という内容は

「公劉」詩に似るが饗宴の場

面がないことや司空

司徒の官名や泉門

庶門の制度な

ど高度に額展した制度鮭系が見えることまた詩型の面で

も大雅の開園叙事詩では唯

Tの

「鮪館瓜腰」という興が見

えることなど

「公劉」詩とは異質のものを感じる

いわ

「神話臭の治失」であ-

「新しさ」である后頑ととも

「神代」の始組神であ

った公劉と異な-古公は西周人

にとっては

「人王」であ-茸在人物として扱われていた

と思われる

中国文学報

第四十六桝

古公の子である季歴は「大明

「皇臭

詩に

「王季」の

名で見えるしかし大任を撃

って文王を生んだことを構え

るのみで自らの聖天子たるにふさわしい事鏡は何も語ら

れていない大雅の開園叙事詩で名が出ていながら英雄的

な事虞が語られないのはこの王季だけで後世の文献例

えは史記

周本紀でも

「徳行を情めた

と云うのみであ-

考えてみれば誠に奇妙なことであるしかしこの間題に封

する答えは後に明らかにされるはずであるから今は王李

の子である文王とその子武王の方

へ進むことにしよう

殿周革命の主役として誰もが知っている文王と武王は

「文王」「大明」「皇央」「文王有壁」でその事蹟が歌われ

ている文

王在上於昭干天周維奮邦其命維新有周不

蘇帝命不時文王捗降在帝左右o(1章)

穆穆文王於緯無数止候哉天命有商孫子商之

孫子其覧不億上帝既命侯

干周服(四章)

いま

文王は天に坐しああ天に輝かし-坐す周は古

い園であるが天命が新たに下された周は大いに輝

かしく上帝の命も時宜にかない文王は天地を上下

して上帝の左右に坐す(一章)

つつし

慎み深い文王はああ敬むこと績いてやまぬ偉

たも

大なるかな天命は商の子孫を有たせた商の子孫は

かず麗は十寓に止まらないが上帝の命は下-彼等を周

に蹄順させた(四章)

「文王」全七草のうち二章内容的には叙事詩というより

頒詩に近く

后稜の神的誕生のような神話臭はないがこ

こでの文王は天地を上下して上帝に仕えることのできる存

在であ-神格化されているといえるしかし文王がもと

もと神であったとい-のではなく

古公と同様に

「神代」

から引き継いだ英雄的資質によって天命を得て殿の民を

支配するという事業を行ない「人王」から「紳」へ昇格し

たものと考えるべきであろう

作乏尿之其蕃其繋情之平之其濯其例啓之静

之其樫其梓撰之刻之其腰其柘帝遷明徳串夷

載路天立欧配受命既固(二章)

帝謂文王無然畔接無然款羨誕先登干岸密人

不恭敢距大邦侵院狙共王赫期怒宴整其旗以

按狙放以篤子周砧以封干天下(五章)

普作

って除-のは立ち枯れや倒木切-整えて平ら

げるのは

濯木や並木

切-開き押しのけるのは

かわらやなぎ

へぴのき

やまぐわ

はりぐわ

って例-取るのは

上帝

は明徳ある王に味方Lt串夷は道にあふれんばか-に

逃げ出した天は文王の配偶大姐を立て固-命を授

け給うた(二章)

そむ

上帝は文王にか-のたもうた「人心を

せては

ならぬo気ままにさせてはならぬ」とOそこで高所に

登って観察すれば密園の人は従わず敢えて大国に

逆らい陳園を侵し共園

へ進軍しているO王は激し-

怒-

ここに軍旗を整え密図の行軍を阻み周の

さいわい

埼Lt天下に戒を示そうとした(五章)

「皇臭」全八草のうちの二章二章では公劉や古公と同様

の板接地造営を歌うが「天命」を受けるや否や五章に

云う如-密国を征討しょうとする

有命日天命此文王千周干京績女維草長子維

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

行篤生武王o保右命爾嬰伐大南(六章)

殿商之放其禽如林矢干牧野維予侯興上帝臨

女無武爾心(七草)

牧野洋洋檀革塩塩駆厨彰影O維師伺父時維鷹

揚掠彼武王韓伐大商脅朝清明(八草)

天よ-命は下-我が文王に命は下った周の都で

後を鮭ぐ妃は宰園の女この長女がやって来て天は

武王を生ませ給い守-助けて命じ給うた

「大南を

討伐せよ」と(六章)

殿の大軍は林の如-集まった武王は周軍に牧野

ちか

で失

った

「ここに我々は興起する上帝もお前達を

見ておられるぞ戒心を抱いてはならぬ」と(七草)

牧野は贋々として戦車は輝き烏は勇み立つ太

公望呂筒は鷹の如-猛-立つ輝かしい武王は大

商を存分に伐ち取-合戦の朝は晴れ渡った(八草)

「大明」の終わ-の三章牧野での殿との合戦が活寓され

るが武王のこの功績もやは-文王から受け縫いだ「天命」

あってのものである

9

中国文革報

第四十六

文王受命

有此武功既伐干崇作邑干豊o文王桑

哉文

王は天命を受けこの武功を立てた崇園を征討

すると豊に都邑を造営したすぼらしい文王よ

「文王有壁」の第二章密園征討と並んで文王の主要な武

功とされる崇園征討を歌うものであるがこれも

「天命」

によって行なわれたものとされている

詩経

大雅の落第から直接知ることのできる周王朝開園

の物語は以上の通-であるこれを后稜から文武までひと

績きに眺めてみると始租にふさわしい神的な誕生から始

まって迫害を受けた末に諸文化の開拓更には武力によ

る天下平定とい-英雄的事業を完成させるのであ-これ

は丁度Eノイマンらによって指摘されている英雄神話の

典型的なパターンとも合致する后積-公劉-古公-文王

-武王の五王が全鮭として恰も

1人の英雄の如き振舞いを

見せているわけである

しかし仔細に見るとこの五王の中で后稜-公劉古公

文王-武王の三者には微妙な違いがある后穆-公劉の物

語は神話的な雰囲気が濃厚であるのに対し文王-武王に

関しては

「紳懸-」的な奇蹟は全-見られず武力行使に

及んだ根嬢としての

「天命」ばか-が強調されているそ

してこの両者の中間的な存在として古公がいるのである

いわば古公を境にそれよ-前が

「神代」であ-それよ-

後は

「人の代」として描かれているといえる

か-見ると古公以後の物語は開園の

「歴史」であ

って

「神話」として扱うにはふさわし-ないという人もいる

かも知れないそれにもかかわらず筆者は古公から武王に

至る物語は

「歴史」として作られたものではな-歴史が

神話の一部として改襲された

「神代史」

であると考える

なぜなら考古学的に知られる殿周革命前後の歴史には詩経

と大き-ずれる部分があるからである

后積や公劉は周原卜軒や金文には全-見えず神話上の

人物であることを疑う者はいない古公賓父については

文王の租父たる大王と同

一人物と考えることに疑問を向け

る説があ-例えば顧訴剛は古公は周王朝創建時の王で

あ-大王は周の国力が強盛になった時の王であると考え

10

⑬たOしかし

「轟」詩のところで述べたことを考えれば古

公を周王朝の租とする課には従い難い現在鹿-支持され

ている説では殿が常時山西省に居た鬼方を討

った結果

彼等が西方に移動して周を歴迫したため周は幽から岐山

に移ることを飴儀な-されたと言う

具鰻的な国名などに

はなお問題があるとはいえ周が異民族の歴迫で岐山に移

ったという事寛があ-それが

「崩」詩にも反映されてい

るのは確かであろう時代が下がると孟子

梁意三下に云

う如-

「古公が徳を守

って岐山

へ逃げ人民も彼を慕って

共に移動した」という儒家道徳による合理的解帯が行われ

るようになるのは周知の通-である

王李は前述の如-詩経ではその事蹟が全-記されない

ところが古本竹書紀年には

殿の武乙三十五年王李が西落鬼戒を伐ち二十雀

王を捕虜にした(後漢書西完博引

)

殿の文丁が季歴を殺した(青書束管俸史通疑古

社説上引)

といった記事が見え文丁期の卜辞にも周を伐つことの可

段周開園の神話と

「神代史」(大野)

否をーつたものがあるOしかもその7万で同じ古本竹書

紀年に

殿の武乙三十四年周の王李が来朝し武乙は土地

三十里玉馬を賜興した(太平御覧巷八三引

)

とあ

ってこの時期の卜辞にも周を

「周侯」と呼んでいる

ものがあ-周は段の侯国として厚遇されていた面もある

のである「大明」詩での王李は殿と関係の深い拳闘から

大任を迎えてお-史寛とすれば政略結婚である王李の

頃の周は殿と虚々賓々の駆け引きが績-緊迫した関係にあ

ったのである

王李のこうした

「行状」は竹書紀年に記事が残されて

いる以上常時の史官によって記録されていたはずである

にもかかわらず詩経ではそれらが殆ど無税されていると

すれば大雅の諸篇が作られた時から記録されて現在の形に

なるまでのいずれかの段階で意固的に例除されたと考える

のが愛常であるどの段階で刷られたかを決定するのは言

うまでもな-非常に困難であ-例えば

「解」詩で七草ま

で古公の根接地造営の話が績-のに八草でいきな-

「韓

ll

中国文革報

第四十六射

不珍膜性」と文王の代に飛ぶのはあま-にも唐突であるこ

とから七草と八草の間に王李が殺害されたことを歌う章

があ

ったと推定することもできるが残念ながら確認する

すべはないしかしいずれにしても我々が常識的に考え

れば王李が殿に殺された事寛を語ることによって王季1

文王-武王を悲劇の英雄に仕立てられ殿周革命の物語に

一層の彩-を添えられるはずであるのにそれらが轟-酬

去されているのである

文王と武王に関しては詩経に見える密

崇征討等は周

原卜辞等に照らしても史貴であ

ったらしいしかし後世の

文献に見える

「村が文王を安里に幽閉したが文王の部

下が賄賂を使

って救出した

とか

「伯夷と叔斉が武王の武

力革命を悲しんで首陽山で餓死した

とかいった物語は詩

経はもとよ-古本竹書や地下資料にも全-見えていない

之を要するに古公以下の

「人王」についてはマイ

スイメージを興えかねない物語は

一切語られていないので

あ-そこには諸王の威光を高めようとする政治的要請が

ったと考えられる后積や公劉は

「神代」の高租神であ

るから神話的要素に富む怪異な物語をそのまま停えても

不都合はないしかし古公以下は所詮

「人王」であるから

紳懸-的な奇蹟を附合すれば虞寛味が乏し-なるしその

一方では

「神代」から績-聖王の血統を誇示する必要があ

る勢い

「都合の悪い」史宜を無税して「輝かしい事業」

のみを賞揚する方向

へ向かうことになろうその敏寄せを

まともに食らったのが他ならぬ王李であ-殿に朝貢した

-殺された-した史資をそのまま記せば

「王統」の威光

を傷つけるのは明らかであるから大任と共に聖天子文王

を生んだいわば橋渡し役としてのみ名を留めることにな

ったのであるこのような

「歴史の神話化」の結果詩経

大雅の叙事詩語笛は周王朝開園の

「神代史」として西周

貴族の問に俸えられていったのである

二詩経

商頚の殿王朝開園神話

詩経

商頭の詩篇は鄭玄の商頭語で

「末の戴公の時に

大夫正考父が十二篤を得たが孔子が詩を編纂するまでに

七篤を失

った」

と停えられ今日に至るまで定説となって

12

いる現存する五篤の中には玄王

相土

湯及び中興の

武丁の名が見えている

殿の始租誕生を歌う詩として古来よ-引かれるのは

「玄

鳥」の冒頭の二句である

天命玄鳥降而生商

天は燕に命じ下士

へ降らせて商租を生ませた

鄭集がこの二句を

「天が燕を下士

へ降らせたというのは

その燕が残した卵を有城氏の女簡秋が呑んで殿租契を生ん

だからである」

と解して以来これが定説となっているし

かし森三樹三郎氏が既に指摘しているようにこの二句だ

けを見ている限-

「燕の卵を呑んだ」という事寛は直ちに

導き出せないのであ-この説話が商頚が作られた春秋時

代の始租神話そのままであるかどうかは頗る疑わしいし

かし玄鳥なる鳥が天と下士の間を往来して南畝を生ませた

ことはこの詩からも讃み取れるのであ-少な-とも春秋

の来園では殿租が天地通婿で生まれたとぎれていたと言う

ことはできよう

「長襲」にはやは-殿租とされる玄王とその孫とされ

段周開園の紳話と

「紳代史」(大野)

る相土が登場する

溶哲維商長顎其群洪水

巴だ高教下土方外大

国是瞳幅限既長有域方渚

帝立子生商(1章)

玄王桓掩受小国是達受大国是達率履不越途

観能登相土烈烈海外有載(二章)

きぎし

明徳なる商王その

現れて久しい洪水が贋が

った時南は下士の四方に功を敷き外の大国とを区

切-中国の虞さは遠大になったO有城氏もその時勢

力を埼し上帝は有城の子を立てて南国を作られた

(一章)

玄王は武徳があ-小国に封ぜられてもよ-治め

大国に封ぜられてもよ-治め薩に従

って越度な-

しめ

教法を現して行なわせた相土は武威輝かし-海外

の諸国を平定した(二幸)

この詩の

「玄王」は毛俸

鄭隻の如-殿租契のことで

「玄鳥」詩の商租と同

一であると解するのが普通であるが

白虎通

文質

(l名瑞賓)篤は玄王を湯と解してお-漢書⑳

鰻柴志は契(高)と玄王は別人で共に段租であると解する

13

中国文筆報

第四十六筋

相土は周鰻

校人注引世本で

「初めて乗馬を作

った」

と云

いこの詩で武勇の王として描かれていることと関連があ

るものと思われるしかし玄王

相土共に具鰹的に如何な

る事鏡があるのかはあま-括かれず神話としての考察を

かな-難しいものとしている

相土から十

1代後の子孫とされ夏案を伐

って殿王朝を

隆盛

へ導いたと俸えられる湯は同じ「長顎」に見えている

帝命不達至於湯秀湯降不遅聖数日頗o昭倣遅

遅上帝是砥帝命式千九園(三牽)

武王載端有虞乗鉄如火烈烈ー則莫我敢局萄有

三幸莫逐莫達七九有有載葦顧既伐昆吾夏架o

(六章)

上帝の命は誤-な-湯に至って天命と合合した

湯の生まれること期に麿じ聖徳は日々に高まった

天にも明らかに至る徳は久し-止まず上帝も愛敬し

て九州に法を示させた(三章)

武王湯は旗印を立て固-銭を撞-火の如-勢い

とど

もと

盛んなれば誰も敢えて長めることはできない竜株

ひこば

に三つの

生ずるといっても生長しきることは

ないO湯は九州を平らげ垂の葦図

顧閲と昆吾氏

竃の夏架を伐

った(六章)

湯が

「天命」を得た後に諸国を征討して九州を統

一したと

いう内容であ-大雅における文王や武王と同じ-始租

の神的資質を引き継いで天下統

一の事業を完成させるので

ある

これらを全鰻的に眺めてみると商租の神的誕生1

相土

湯の天下平定という流れは大雅における周王朝開園の物

語と同様のパターンであ-また請王を武徳の王と稀える

のに終始して請王にとってマイナスイメージを興えるよ

うな話が記されないのも大雅の文王や武王と同様である

商頭の諸篇が大雅以上に尖鋭な政治的意圏を以って作られ

たことは白川静氏も

「末に興

った膨折たる国家意識を背

景としてその抗争老たる刑楚に封する敵封感情の昂揚

を目的とし」たと指摘する通-であ-諸王の武勇ばか-

をことさら強調するのも肯けることであるところがも

しか-の如-商頭諸第が宋人の

「神代史」であるとすると

14

殿の諸王の文化的功績が殆ど歌われていないのは何とも不

思議な事賓である常時

「南賛歌舌」

の園であったはずの

楚と争うのに自らの文化的先進性とその由来を誇示しな

いということが果たして考えられるであろうか

結局宋人の殿開園神話を西周人の周開園神話と比べた

時の問題鮎は(一)後に

「契」と呼ばれるようになる殿租

の正睦(二)両者とも同様の構造を持ちながら殿開園の英

雄たちに文化的功唐が見られない理由tの二鮎にまとめら

れるo前者については戦国時代の楚国における殿開園神

話を記す楚辞

天問や殿嘘卜辞に見える殿の高組神など

にこの問題を解-鍵があろうと思われる後者については

まず宋園と同じ春秋列国である魯園で作られた詩経

魯頚

を参照するとある程度の推測が得られる

問官有他賓資枚枚赫赫妻嫁其徳不回上帝是

依無災無害禰月不遅是生后頑隆之百福蚕種

重移穂塀寂穿奄有下図倖民稼橋有稜有黍有

侶有拒奄有下士績南之緒o(1章)

后稜之孫資維大王o居岐之陽賓始易商至干文

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

武濃大王之緒致天之眉千枚之野無武無虞上

帝臨女敦商之族克威厳功王日叔父建爾元子

伴侯干魯大啓爾字鳥周室輔O(二章)

奥深-清い宗廟は堅固で美しい輝かしい妻糠は

その徳も貞正であ

った上帝も心をよせて無事に子

を生ましめ十月十日を遅れることもなかったここ

さいわい

に后積を生むと天は多-の

降したそれは黍

もちbぴ

おくて

わせはやうえ

おそうえ

まめ

や穿後に領下の閲を

くろきび

治め民に耕作させた稜や黍もあれば楢や

ある下士を治めて后稜は南の事業を縫いだ(一章)

后稜の子孫はかの大王宜父岐山の南に居任した

時始めて殿

への臣展開係を慕

った文王と武王に至

-大王の事業を縫いだ殿の天命の終わ-は牧野の

地でやって来た「武心を抱いた-心配してはならぬ

上帝も見ておられるぞ」武王は殿に勝

ってその人民

を治めその功績は先王たちにも等しい成王は言

た「叔父周公よ

そなたの長子伯禽を立て魯園の

侯とし大いにその土地を閃かせ周室の輔けとさせ

15

中開文革報

第四十六冊

よ」と

(二章)

「関宮」全九章の

うち二幸O魯図はこの詩にも云う如-局

公の長子伯禽が封ぜられた図であり周と同族であるから

曹然周租后稜に始まる諸先王を構えているわけであるが

后稜の農業創始を

一章全部を費やして

「南の緒を鰹ぐ」と

賞揚する割には文王

武王の殿周革命に封しては素束な

い描き方である寧ろ大雅の詩篇よ-も先王の文化的功績

に重きを置-といえる

1万の宋園は肘王の庶兄微子啓が武王に封ぜられた園で

ある宋園は殿の穫柴を修め殿の習俗を堅持し績けたと

俸えられる

所詮は被征服園である自らの租先を高ら

かに賞讃することに封して何らかの政治的願力が働いたこ

とは想像に難-ない「七筈の詩が亡伏した」という商魂

譜の記事は或いはこのことに関係があるのではないか

この失われた詩の中には

西周の

「生民」

「公劉」詩の如

-殿代よ-俸わる文化神を歌う詩があったのではないか

この推測をよ-精確に検討するにはやは-宋園以外の

園に俸わった殿王朝開園神話の一つとしての楚辞

天問を

参照する必要があるそこで次章ではまず殿嘘卜辞に見え

る高組神について検討し次に楚鮮

天間の殿王朝開園を

問う部分について考察した後これらと商項とを相互に比

較することにしたい

三卜辞及び楚鮮

天問の殿王朝開園神話

卜辞は占卜のための文句を記した文字資料であ-もと

よ-神話の記録を目的としたものではない従

って殿人の

間に俸えられていた殿王朝開園の物語を卜辞によって復元

することは言うまでもな-不可能であるただそこには高

租神や先王をはじめ様々な神の名が見えてお-これを後

の時代の殿王朝開閉神話と比較することによってその神

話がどれ位原初の姿に近いかを推定することはある程度可

能である

さて殿人にとっての最高碑は周知の如-上帝であ-

卜辞にも

「帝」として見えていて風雨などの自然現象を

支配し人事に禍福をもたらす存在であることが知られて

⑲いる

16

この上帝に封しては直接条把が行なわれることはないと

い-のが通説であるが島邦男氏によれば絶無という諸で

はな-締把が行われる例が三例あるこの締紀は上帝の

みならず高租神や先王に封しても行われてお-例えば

羅振玉

『殿虚書契緯編』

一-二-

一片に

点締子王亥

貞-王亥に繭のまつ-をせんか

董作賀

『乙篇』四五四九片に

葵未卜両税乙

英未に卜す租乙に蹄のまつ-をせんか

とあることから

恐ら-張光直氏の云う如-

「殿の人びと

『帝』は先租の絶稀であ

ったかあるいは先租の観念

の1つの抽象化されたもの」

ということになろう

上帝と同様の祭紀が行われる租神の-ち「高租」と呼

ばれるのは愛

王亥の二人である

愛は変とも揮され王⑮

図経が

「暑」と塵韻であることなどを理由に帝尊と解して

以来これが定説となっているO帝聾は後の時代の文献に俸

える所では自らの文化的事業や武勇に関しては何も記さ

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

ずただ殿組契と周蔵后榎の共通の父祖であると云うだけ

であ-上帝的な存在であ

ったとするのが諸家の1致した

見解であるしかし殿代に於ては

「帝」と帝替即ち愛は区

別されている以上完全に同

一であ

ったとはいえず上帝

と人王をつなぐ役割を持つ始租神として奉られたものと思

われる前述の如-愛が抽象化したものが上帝であ-

逆に言えば上帝が人格神化したものが愛なのである

一方の王亥はどうであろうか山海経

大荒東経に

有困民国-王亥託干有易河伯僕牛有易殺王亥

取僕牛

困民国で-主

亥は有易園と河伯園に自ら飼い馴ら

した牛を預けた有易園の人は王亥を殺し牛を奪

この候の郭瑛注が引-古本竹書紀年には

殿王子亥賓干有易而淫蔦有易之君鯨臣殺而放之

是故殿主

(一作上)甲徴候師子河伯以伐有易滅之

途殺其君紹臣也

殿の王亥は有易園

へ客として赴いたが行ないが悪

- 17-

中国文学報

第四十六放

有易の君主摘臣が彼を殺してしまったそれで段

の上甲微が河伯図の軍を借-て有易を伐ちこれを滅

ぼし君主鋸臣を殺した

と記されているまた初学記撃

九引世本には

「骸が

牛を飼い馴らした」とあ-この膜も王亥であると考えら

れている少な-とも東周末期に於ては王亥が牧牛を行な

ったという俸説があったのであ-王亥を論ずる人の多-

はこれに注目し彼を殿の文化紳であると考えている

「高

租」と特別扱いされる租神の一人であることを考えれば

王亥が文化面で多大な功績を上げ原始状態から文明状態

へと殿氏族を更展させたことは十分に考えられる

もしそうであるならば前章でその存在を示唆した

「殿

の失われた文化紳」はまさにこの王亥ということになる

既に述べた如-詩経

商煩の段王朝開園神話に封しては

それと系統を異にする楚辞

天問という比較資料もあるの

であるから次にこちらの方を見てみることにしよう

fTD

天問は古来極めて錯簡の多い書と言われる

その中で

殿周開園に関する部分は比較的次第がまとまっている湯

以前の駿の先王が措かれるのは55-聖早であ-簡秋と尊

の通婿から始まっている

55簡秋在董卓何宜玄鳥致胎女何喜

筒状は高い槙童にいたが尋はどうして見そめたの

か燕が滑-物を持

ってきたのを筒状はどうして喜

んだのか

古来詩経

商頒

「玄鳥」と同じ-簡秋香卵の説話を云うも

のと解されるがこれも

「玄鳥」詩と同じ-この二句だ

けから呑卵の話を導き出すのは難しいしかしこの通解が

行なわれた高い

「董」は天地の間を繋ぐにふさわしい場所

であ-鳥が天から

「胎」を授けることなど天地通姫を

描-ことには襲わ-はない天問では上帝には

「帝」とい

う呼稀を使

ってお-ここでの

「魯」はー辞の

「愛」と同

じく上帝の人格化したものと思われる

この二句は不思議なことに簡秋と啓が誰を生んだのか全

く言わないテキストに脱落がなければ次の章の登場人

物を簡秋の子と考えるのが最も素直であろうところが次

に登場するのは

「玄王」でも

「契」でもない

18

56該乗季徳頗父是滅胡絡弊干有屈牧夫牛羊0

57干協時舞何以懐之平脅鼻膚何以肥之

58有屈牧豊云何而逢撃林先出其命何徒

壬亥はその父季の徳を縫いだが父は立涯な人であ

ったどうして王亥はとうとう有易園に落ちぶれそ

ゐ牛羊を養

っていたのかO

たて

あわ

いだ

協せて舞う女を見てど-してその女を

のか

平らかな脇腹に細やかな皮膚どうしてこの女

まじ

ったのか

王亥は有易園の牧童にどのようにして合

ったのか

寝込みを襲われて先に逃げ出したがどこから逃げ出

して助かったのか

56章の

「該」を王逸は

「竜也」と解しているが晴代に至

って王関連が人名ではないかと疑問を呈出L

t

王国経が卜

軒との対照によって王亥であると断じて以来この説が支配

的であるこの四句も前途の山海経や竹書紀年と共に王

亥が牧神であ

ったことを示すものとしてよ-引かれる57

章は難解であり注揮家ごとに説が異なると言

ってもよい

股周開園の神話と

「紳代史」(大野)

ほどであるが王亥の婚姻のことを云うとする需介甫氏

黒須重彦氏の説に徒う58章は王亥が殺されそうにな-な

がら辛-も逃れたことを云い前に引いた山海経などの所

侍と関係があるものと思われる

この三幸の記述から王亥の迫害と文化創造のモチーフを

見出すことはさほど困難なことではないし簡秋と孝によ

る殿租の神的な誕生も前章までに述べた例と同様に何ら

かの形で王亥に英雄的資質をもたらすものと考えられる

簡秋が生んだのが王亥であると断定できれば話は簡単なの

であるが56章には王亥の父としての

「季」が登場してお

り従

って天問に於ては簡狭

暑-季1王亥という系譜が

成立していたことになるしかし卜辞に見える

「季」は高

租でない租神の一人にすぎず

「高租王亥」が

「季」を父と

していたとは考え難いo

l鮭に卜解における租紳相互間の

父子関係は不明な部分が多-本来は寧ろ横

一列に並ぶ関

係であ

ってどれも

「租先」に襲わ-はないのであ-果

たした功績や役割の違いによってそれぞれに分化したもの

と考えた方がよい卜辞における

「季」の神威は他の租紳

19

中国文革報

第四十六桝

と襲わらないが

天問では尊と王亥との橋渡し的な性格に

襲わったのである

59恒乗季徳蔦得夫朴牛何徒費班緑不但遠来

王恒も李の徳を鰹ぎ王亥の養

った僕牛を得たど

あまね

はどこ

うして狩-に行

って獲物を

-

民に

ただ行

って

締るだけに止まらなかったのか

「恒」は王遠江では

「常也」と云うがこれも王国経が卜

辞に見える王恒のことであると解して以来諸家概ねこれ

に徒う「班稀」は近年の解帯では

「官位」「栄達」等に解

され

「王恒が有易図で出世しょうとした」意であるとす

るがす

っき-しない解輝であるー辞に見える王恒は

弓の形の中に

「恒」字を入れたものもあ-寧ろ

「湯は狩

-に往-際ただ行

って締るだけではな-民に編-施し

を輿えた」とする王逸注の方が原初的な意味に近いと思わ

れる但し主語は湯ではな-王恒である張光直氏は王恒

と罪に何らかの関係があるのではないかと考えるが

それ

よ-は駿人の狩猟柵であ

ったと考えた方が良いかも知れな

いただ王恒の事境を記した文献が他に存在せず容易に

結論を得難いのは残念なことである

60昏微遵述有狭不寧何繁鳥葦棟負子韓情

61絃弟遠軽危害顔見O何襲化以作許後嗣而逢長

上甲微は父王亥の事鏡を鮭ぎ有易園は安定を保て

ず滅びたどうして有易の人民は妹に止まる鳥のよう

に苦しんでいるのに上甲微はその子女にまで横暴な

ことをしたのか

目の陪んだ請弟はみな道ならぬことをしその兄上

甲微に危害を加えたのにどうしてうま-ごまかして

その子孫が長-祭えることになったのか

この二章も本づ-所がはっき-せず難解であるが「昏微」

はやは-王国経が上甲微のことであるとしてお-その事

蹟を云うものと考えられる上甲微は卜辞で系譜が明らか

な請王のうちで

一番古い租先に普た-いわば

「人王」の

租であるがここでは王亥と同様の迫害モチーフが再び現

⑳れその事鏡は既に神話化されていたものと見られる「何

襲化以作詐後嗣而逢長」の二句はそ-した神話であるが

故の不合理性を問うているのである

- 20-

62成湯東巡有等宴極何乞彼中臣而吉妃是得

63水漬之木得彼中子夫何悪之腰右筆之婦

64湯出重泉夫何皐尤不勝心伐帝夫誰使挑之

湯は東方

へ巡狩Lt有等園までやって来たど-し

てあの中臣伊声に乞い求めて良い妃を得たのか

水蓮の木から有等氏の君主は伊声を得たとい-が

どうして伊声を嫌

って湯の妃に付き添わせたのか

湯は重泉の牢獄から出て来たがそれは何の罪だっ

たのか正義を求める心を抑えられず実を伐

ったが

誰が彼をそうさせたのか

商頭における湯は夏架や尾吾氏を伐

った英雄として非常に

多-の紙幅を割いて賞揚されていたのであるが天間では

僅か三幸で終わ-しかもその年分は彼の名臣伊声のこと

に費され天下を平定した聖王にしてはかなり冷淡な描き

方である多-とも王亥や上甲微などと同等の重さしか持

っていないといえるしかしこの簡単な記述は神話的な趣

きに富んでいる伊声は呂氏春秋

本味簾で

「有佐氏の女

が空桑の中から嬰兄を得て

それを君主に献じ君主は

般周開乾の神話と

「紳代史」(大野)

料理人に彼を育てさせた」云々と書かれるような俸説をも

つがその原型とみられる記事が63章にあ-64章の

「湯

出重泉」も森安太郎氏が

「陽

(太陽神)が海の下を-ぐっ

て再び現れ出る様子」

と解したほどであるその虞偽は措

-としても

「重泉に囚われてから脱出」

というのがこれ

まで屡々登場してきた迫害1事業完成のモチーフであるこ

とは明白であ-この迫害こそ棄てられた后稜と同じ-英

雄を英雄たらしめる神話素の一つである殿人にとって湯

「人王」であったはずであるが楚人にとっての夏殿革

命は既に神話となっていた宋人にとっても同じであ

った

と思われるしかし東周時代の為政者の意識は最早神話を

古代人の如-

「心象における事資」として受け取ることを

許さなかった神話の神話たる所以である英雄の迫害も

政治家としての彼等にとっては

「不合理」以外の何もので

もな-統治強化の障碍でしかなかったであろうそれ故

その

「不合理」を宋人は頒詩から治し去-楚人は

「天に

問」うたのである東周の殿開園神話はその鮎で西周人

の神話と歴史が

一鰻になった

「神代史」であ

った詩経

21

中国文筆報

第四十六冊

雅の周王朝開園の物語とは成因がやや異な-神話そのも

のを改襲した

「神代史」であるといえよう

再び天間に戻ろうここで語られる殿王朝開園神話を綜

合すると腰租誕生1夏殿革命という流れは商頭でのそれ

とはぼ

一致するのであるが商頚では全-無税されている

王亥

王恒や上甲微の事浜を多-記している所が大いに異

なるこれらの先王は卜軒に於ても租神として柁られてお

-殊に愛

(餐)王亥は

「高租」と崇められていたのであ

るから天問における殿租誕生や牧牛創始の偉大な功績も

殿代からその根摸となるべき停東があったものと考えられ

る殿の未森たる被征服図

宋図で語られなかった文化神

が周の政治的願力が比較的少なかったであろ-楚園に於

て生き残

っていたのであ-「王亥を構える頒詩は政治的

要請によって胴去されたのではないか」という前章で捉

起した推測は更に確貴性を樹して-るのである

このように文化神を語る神話は政治的な事情によって

改襲されやすいという

一つの傾向が次第に明らかになって

きたのであるが天間に見える周王朝開園神話を詩経

雅のそれと比べてみるとその傾向は

一層はっき-する

これについては次章で検討することにしてその前に前

章で提起したもう

一つの問題即ち契と後に呼ばれるよう

になる殿紐の正鰻について卑見を示しておきたい

1般には詩経

商頒

「玄鳥」

「長顎」の鄭隻や楚鮮

天問の王逸注史記

殿本紀などから筒状が生んだ殿租

が契であるとされ詩経や楚軒の注揮家も特に疑問を抱い

ていないしかしこれまで見てきた詩経や天問には契の名

は全-見えていない国語を見ると周語下には

玄王勤商十有四世而興

玄王は商のために働き十四世かかって興起した

鄭語には商

契能和合五教以保干百姓者也

商契は五教をよ-調和させ人民を守-養

った人で

魯語上には

契為司徒而民韓-上甲微能帥契者也o

契は司徒の官となって人心を和らげ--上甲微は

22

たす

契をよ-

た人である

自玄王以及主薬莫若湯

文王から主薬

(湯の父)に至るまで湯よ-すぐれた

者はいない

とあるこれらを見ると契とい-名は周

楚以外の

園で用いられし

かも

「司徒として五教によって人心を安

定させた」という事鏡が語られている抽象的な形ではあ

るが文化面での功寮が取-上げられているのである

そうすると陳夢家氏の

「契と刻は互訓であ-共に亥

と普通である故に契は即ち王亥である」とする説が有力

な説として浮上して-るOこれまでの考察から王亥は殿

の高租にして文化所であ-従

って契というのは王亥の周

連諸国での呼び名であ-「五教」云々は王亥の文化神的

な面が周遠諸国に於て襲化したものと考えられるのである

もう

1万の

「司徒」という面に注目すると楊寛氏は

「司

徒」は

「司土」であるとして契は社紳

(土地紳)であった

と考えている「司徒」を

「司土」と表記するのは西周金文

に多-見られる用法であ-本来は土地や農業を司る官で

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

あったらしいまた史記

殿本紀には

「実は南を佐けて治

水に功があった」とあ-梁玉縄の疑う如き司馬遷の臆説

でな-古-からの停承に基づいているものであるならば

契に夏南の如き下士造成神的な面もあった可能性は捨てき

れない司土の官は農業にも関係が深いことから契は土

地神にして農神の性格をも持つことにな-このことは王

亥が牧牛の創始者であることと関係があるのかも知れない

なお尚書尭典には

帝日「乗努民阻飢o汝后榎播時百穀O」帝日

「契百姓不親五品不遜汝作司徒敬敷五教在寛」

もろもろ

舜は言った「棄よ

民は飢え苦しんでいる

汝は后頑の官とな-

この百穀を播け」と舜は言

った「契よ人民は互いに仲良-せず父子

君臣

夫婦

長幼

朋友の序に従わない汝は司徒の官とな

つつし

-五教を敬んで廉め心を寛-して治めよ」と

とあ-同じ-尚書の周官には

司徒掌邦教敷五典擾兆民

司徒は閲の教化を掌-五教を廉め多-の民を順

23

中国文畢報

第四十六肋

わせる

とあ

って司徒が教化の官であるかの如-書かれているが

これは后積が農官とされたために契は

「五教を康めた」面

のみが取-上げられそれが司徒の官名に結びついてかか

る誤解を生んだものであ-司徒の本来の意味ではないと

考えられる

周やその支配下にあった宋園では殿租に玄王という名

が使われてお-玄鳥による神的な誕生と商の興起のた

めに轟-したとい-事暁が語られる

魯園では

「契」

「玄

王」両方が見えるがー契と言う場合は文化的な功績が描か

れ玄王と言う場合は始租としての面に注目されている

恐ら-

「玄王」とは契=

王亥の始租としての面が強調され

た時の呼稀であ

ったと思われる文化人類学的にも「玄」

という名は始源の闇や滞沌を連想させるものであ-例え

ば老子

六章の

玄牝門天地板

玄牝の門(女陰)は天地寓物の根源である

の如-である

宋園や周では殿租の文化神的な面が抹殺さ

れたために始租神としての

「玄王」の呼稀が定着し魯

鄭などの周連列国では儒教的に襲化した文化神として

「契」と呼ばれ楚国では殿代の呼稀

「王亥」が原形に近

い形で保存されて

「該」と呼ばれたのであろう

四楚鮮

天問の周王朝開園神話

まず天問における殿周開園神話の大筋の流れを圏示する

と附固

一のようになる我々の常識で考えるならば夏殿

革命の次に殿のその後の衰亡を歌いそれから周王朝

へと

移る構成をとるのが普通であるが天問では夏殿革命から

いきな-周の衰亡

へと飛びそこから殿の衰亡

へと戻る間

くりかえ

「天命は

」というテーゼを挟み込んでいるこの

ような操作によってどの王朝も同じように興亡を繰-近

すというテーゼが

7層際立つのであ-

T見乱雑に見える

排列が安は高度なレトリックを用いた結果であるという

ことがわかる

次に殿周の開園が歌われている各章を時間順に並べ

かえて相互に封比してみると附圏二のようになるこの固

24

殻周開園の耐話と

「神代史」(大野)

附圃- (丸内の数字は葦の通し番競)

舜と女梱 ⑱~

「験萌在初」

1

度の先王 ~

t

夏殿革命 ~

周の先王

l

殿周革命 ⑮~cent)

iiiiia段の衰亡 ~ 周の興亡

一- 一 ノ ー「天命反側」

附圏二

段 簡秋と唇の通婚

王亥 有易で牛羊を牧す

王亥の婚姻

王亥 殺されかける

王位 王亥の牛を得る

上甲微 父の遺業を鮭ぐ

肢弟が上甲微を迫害

一寸 どうして子孫が栄えたのか」

~ 楚の興亡

周 ⑯ 后硬 氷上に捨てられる

上帝をも驚かす武勇

-「どうして子孫が栄えたのか」

成湯 伊声を得る

伊デの生い立ち

湯 壷泉から出て案を伐つ

- 25-

⑳ 文王 天命 もて段を覆す

岐山に移る殿の惑婦

文王 村の無道を天に告げる

文王 太公望を得る

武王 急いで殿を伐つ

武王の朝合

周公 武王をよしとせず

武玉 村を伐つ

中隊文革報

第四十六筋

一見して知ることができるのは周の先王には僅か二章

しか使わず殿周革命に九章も費やしてお-殿王朝の方

が租神に多-の章を割いて夏殿革命には三章しか使わな

いのと対照的であるということである

周王朝開園を云う章をもう少し詳し-見てい-と

76積維元子帝何竺之投之干水上鳥何燐之

77何漏弓挟矢殊能渚之既驚帝切激何逢長之

后稜は上帝の長子であるのに上帝はどうして彼に

危害を加えたのか彼を氷の上に捨てると鳥はどう

してこれを暖めたのか

どうして弓をひきしぼ-矢を挟みすぐれた才能で

武婿となったのか上帝をも驚かすほどひどいことを

したのにどうしてその子孫は長-栄えたのかQ

后積が上帝の子であるのに迫害され鳥によって助けられ

たというのは詩経

大雅

「生民」と同様であるが周租后

礎の両的資質を云-のみであ

って農業費明には全-解れ

られていない77章は王逸注では前二句を后稜後二句を

武王の事績とするが洪興租補注は全部を武王の事績とし

朱子はその両方を疑問であるとす

78章以下では文王の

ことを云う章が績いてお-この章を武王の事虞とする課

には従えない聞

多や衰珂

氏は全部を后頑の事鏡とする

が必ずしも后榎に限定することはできない少な-とも

古公以前の

「神代」の先王のうちの誰かであることは確か

であろう後二句の

「上帝をも驚かすようなことをしなが

らどうして子孫が栄えたのか」という疑問が殿の租神と

「人王」の境目である上甲微を語る61章の後二句と似るか

らである周の先王を歌うのはこの二幸で終わ-であ-

そこでは先王たちの文化的功績は全-歌われておらず殿

の先王に比べて極めて冷淡な扱いである

78章以下は殿周革命にまつわる様々の問が寛せられるが

詩経

大雅に見えておらずまた考古学的な裏付けもない

俸説的な事件もい-つか見えているとはいえ神話的な奇

怪さには乏しいといえる0

79遷蔵就岐何能依O殻有感婦何所説

貴職していた重器を移して岐山にやって充たがどう

して人民がそれに従

ったのか殿には人を舷惑させる

26

女がいたというが何のために議話しょうとしたのか

前句についてはこれを文王に懸ける説

大王に懸ける課

あるが前後で文王のことを歌

っているので大王の事蹟と

するのには難があるとはいえその内容は詩経

大雅

「崩」

に云う古公宜父の事鏡に近-どちらに限定することもで

きない「大王から文王までの問」とする他ないであろ-

後二句は肘の妃である坦己を云うとされるがその何につ

いて問うているのかは明らかではないしかし両者とも

その

「答」となるべき俸説がこの時代に前後して現れてお

-前者については

1章で引いた孟子

染着王下後者に

ついては太平御覧奄

1三五引世本に

「村が有蘇氏を伐

った

時有蘇氏は坦己を妃にさし出した肘はこれを愛して言

うことを何でも聞いたために武王が肘もろとも殺した

云うのがこれに普たる

66到峯村窮叔旦不嘉O何親撰車足周之命以各嵯

肘の首をはねるに至-周公且はこれをよしとしな

かったどうして周自ら謀

って殿を討とうとしたのに

その行動は人民に支持されたのか

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

後二句は極めて難解であるがいま黒須重彦氏の解樺に従

う他の諸家にはテキストの文字操作で意味を通らせよ-

とする者も多い前二句を王逸は

「武王の舟に白魚が飛び

込んだので群臣が

『吉兆だ』と言ったのに封Lt周公が

『吉兆ではあるが吉兆と思

ってはならぬ』と戒めたことを

云う

と解しているがこれは史記

周本紀の記事を敦術

したものであって漢初の五行思想の産物である寧ろ所

謂伯夷

叔奔停説の前駆形と考えた方がよい

ここに引いた事件が果たして史寛であ

ったのか西周時

代に生まれた俸説か或いは東周以後の俸説であるのかは

容易に判断できないしかしいずれにしても西周人の

「神

代史」からは無税されていた事件が本来の形ではないに

しても再び記録される動きをここに見ることができるので

あ-結語で述べる

「神代史の再神話化」の萌芽であると

いえるO

このような新しい動きはあるものの天問の周開園神話

も始祖の神的誕生1英雄的事業の達成という基本的な構造

には全-襲わ-はないしかし全鰻を通じて諸王の文化的

27

中閲文革報

第四十六筋

功績には全-解れられていないばか-か周の先王=

租秤

に封しても極めて冷淡であ-殿に封する態度とは明らか

に異な

っているのである

このことは昔時の楚園が周文化よ-も殿文化の方により

親しみその信仰

習俗等を保持していたことの一つの讃

接であろう楚文化と殻文化の関係の深さは既に様々な面

から指摘されてお-例えば楚辞

九歌に見える「雲中君」

「河伯」の神がト辞にも

「雲」「河」神として見えているこ

とや西周末期のものと見られる楚の青銅鐘は殿の鍔と形

が似てお-その銘文も殿金文に似た雄滞な書鰻であるこ

とな

どが挙げられるこのよ-な現象が生じた過程として

は(一)歴代から楚は殿に臣屈してその文化を受け入れ

周の時代になっても表向きは周に臣属しながらも殿の文化

を保持し績けた(二)周代以後に国力を埼大した楚園は

への対抗上その文化を拒み隣接する宋園の殿文化を積

極的に導入したという二つの説が考えられる前者の立

場を取る者はその根接として詩経

商頒

「殿武」の

撞彼殿武奮伐剰楚突入其阻衷利之放有戟其

所湯孫之緒(一章)

敏疾なる武丁は奮起して剤楚を伐ち険しい山地

に攻め入って刑楚の兵士を虜にしその地を平げ

湯王の子孫として手柄を立てた

という部分を畢げることが多い

前述の如-商頭目鰻が

宋園の楚国

への対抗心から作られたものであ-我が国の

紳功皇后遠征説話と同じ-どこまで史寛を反映している

かは未知数であるしかも卜辞などの殿代の地下資料から

は昔時の殿楚関係を示すものはまだ見つかっていない

一方後者については史記

楚世家に周の夷王の時に

楚王熊粟が

「我は牽夷な-中国の詮親に興らず」と言っ

たという記事もあ-現時鮎ではこちらの説の方が有力で

あると思われるいずれにしても周とは言語や風土を異

にする楚閲で生まれた天問には意固したか否かはともか

-周文化の重税と殿文化

への傾斜が讃み取れるのであ-

周王朝側の論理で殿の文化碑の功績を壷-抹殺された詩経

商頭や周の文化神を構える詩経

大雅とは好封照を見

せているのである

28

結語及び除論

これまで述べ来

ったことを要約すると詩経や楚辞

問に見える殿周開園神話は始租の所的誕生1迫害1事業

(文化創造

天下統

一)の完遂という構造を持ち既に西洋

の英雄神話に於て指摘されている基本構造をここにも見出

すことができるただ西洋では

一人で行なわれることが多

い英雄としての事業が中国では教代に亙

って行なわれる

ことが多いという違いはあるところが殿の開園と周の

開園また詩経と天問の相互間で詳し-比較してみると

神々の文化的功績は神話が記録された常時の政治的な事情

によって抹殺されることがあるという事資に束づ-この

ことは中国に於ては剣を振るって活躍する英雄よ-も

文化を創始する

「聖王」の方が重きをなしてお-氏族や

国の威光を左右するものであ

ったということの一つの謹左

といえよう

詩経

大雅における周王朝開園神話は高租にして文化

神である后稜-公劉を神話的要素に富む叙事詩によって語

段周開園の紳話と

「神代史」(大野)

っているが

「人王」の代に至ると

殊に王李に新著に見

られる如-諸王にとってマイナスイメージを輿えかねな

い史寛は壷-制去され武力革命の成功を

「神代」から引

き継がれた輝かしい事業として稀讃している周王朝の開

園神話とそれに績-殿周革命の史糞は詩が記録されるま

での間に

「神代史」

へ改愛されたのであるそこに支配強

化のための王室神聖化という高度な政治的意圏が働いてい

るのは確資であろう

段の遺民の園である春秋の宋園における段王朝開園神話

詩経

商項の諸篇は最終的には周王朝側の人々によって

記録

編輯されたものであ-それ故殿人の信仰した文化

紳は義-抹殺され支配者としての周王朝の論理に基づ-

「神代史」に改変されているOそれに封して楚辞

天問の

殻王朝開園神話には卜辞にも見える租紳たちの神話的雰囲

気に富む物語が多-残

ってお-逆に天問の周王朝開園神

話では周の先王の文化的功績を無税していて宋国との政

治的

風土的立場の違いを明瞭に浮かび上がらせているの

である

- 29-

中国文学報

第四十六筋

か-の如-

神話時代やそれに績-歴史が為政者の手に

よって

「神話化」される場合は中開の諸秤の中で重い比

重を占める文化神が記録者の政治的立場に従

って改奨され

「人王」に封しては

「都合の悪い」史貴を切-捨てて

「神

代史」

へと仕立てられるのであるが東周時代になるとそ

れとは逆に「人王」にも神話素の一つとして解揮可能な俸

説が様々な書物に記録されるようになる既に引用した文

王の安里幽閉

伯夷

叔斉の餓死などがそれであ-

「人

王」の物語もこれによって組両と同様の典型的神話

へ近づ

いてい-のであるこれらが記録されたのは諸子百家の書

物であ-昔時の遊説家たちが民間に流布していた停説を

敬-上げて自説を述べるために用いたものと考えられる

これらの停説が古い形をそのまま保

っているか否かは全-

保護がないとはいえ政治力撃の働きに-いレベルに於て

「神代史」に再び神話的物語が付け加えられるようにな

たということはいえるいわば

「神代史の再神話化」であ

-

1般に

「中国古代王朝神話」として

1つの物語にまと

められているのはこうして

「再神話化」された結果の産物

なのであるこれらは確かに

「神話」としての要素を豊富

に含んでいるのであるがこれを中国古代神話の原型と見

なすことは不可能であ-上述の如-複雑な要因が絡み合

っているのである

こうして

「神代史」はたとえ元の形とは異なるにせよ

再び

「神話」としての光彩を放ち始めたところがこの

「神話」をまたも

「歴史」に固定してしまったのが他なら

ぬ史蓬であることは周知の通-である

しかし

「神代史の再神話化」の原動力とな

った

民間

に語-経がれた王朝停説のエネルギーもこれで絡恨したわ

けではなかったこうしたエネルギーはその後も小説に記

録された種々の歴史俸説などを生み出し形を襲えて生き

績けたのである

ところでこれまで本文中に取-上げなかった

一つの重

要な問題があるそれは

「楚園に古-から停わる楚人自身

の神々はど-な

っていたのか」という問題である

楚辞

天問にはその末尾に楚図の俸説と思われるものが

記されてはいるが多-の注帯家が匙を投げているはど難

30

解であ-筆者も今敢えてこれに挑戦するほどの飴裕はな

いoしかし離騒ではその冒頭で「私は帝高陽の未森である」

と歌

ってお-少な-とも屈原の時代では楚人は穎頭高陽

氏を租神としていたと考えられているが文化神に関する

記述は見えない

一方同じ頃に楚園で成立したと考えら

れている山海経

大荒西経には街頭の子孫の神々の事業

が豊富に記されている例えば重

寮の天地分離

太子長

琴の音禁孝明などである

これらの事章から得られる

一つの推測をここで述べると

楚辞に於ては楚人自らの文化両を表立

って取-上げられな

い事情があ

ったものと思われる楚語で書かれた「原楚鮮」

には書かれていたがそれを漢語に翻弄した際に宋図か

ら導入した殿の文化神に置き換えたのかも知れないそし

て自らの文化紳とその物語を速い

「大荒」の物語として

カムフラージ

ュしたのが他ならぬ山海経なのではなかろ-

かこの書が地理書の形をとっていることや他書に見ら

れない神話停説を豊富に載せていることなどは丁度我が

国の

『出雲園風土記』を思わせるものがあるまた殿の

殿周開国の神話と「神代史」(大野)

文化紳王亥が

「困民国」の人とな

っていた-楚の租神で

あるはずの蘭頂が

「額頭囲」なる図にいたとされているこ

となどもこの仮説の根嬢となろう

しかし最早紙幅も轟きているこの問題は山海経を中心

として改めて考察することにしたい

ば織井慶紀著池田末利編

『中図神話の文化人類学的

研究』(1九九〇平河出版社)があるoまたユング心理学の

立場から日本神話を分析したものとして河合隼雄

『中空構

造日本の深層』(一九八二中央公論社)等がある

近世以前の諸席の議論は専らこの怪異雫が信ずるに足るか

否かの次元に終始するが近代的な研究としては聞一多

「萎

娠履大人跡考」(『聞一多全集』第一射一九四八開明書店)

白鳥清

「段周感生神話の解揮」(『東洋学報』十五巷四親tT

九二五東洋協合学術調査部)出石誠彦

「上代支部の異常

出生説話について」(『支那神話俸説の研究』所収tl九四三

中央公論社)等がある

「帝上帝也」

「帝高華氏之帝也従於帝而見干天婿事賛敏也」

孔疏に

「頑柁郊礁之時英夫高辛氏帝率興供行妻娠随帝之

後践履帝迩行事敬而敏疾放鳥神歌饗紳既饗其条則

31

中国文筆報

第四十六筋

愛而拓之

於是為天神所美大為福緑所依止twz=得懐任則

震動而有身」と云う

例えば嗣西族の

『東巴控』に見える縛文字にこのことが窺

える附固三参照また河南省に俸わるロ東俸説によると

女桐が天から降ってきて伏義が地下から出てきたと云う

(陶陽

鍾秀

『中国創世神話』一九八九上海人民出版社二

一四頁)

附圏三

primeJ 一一一

~PJ虹互L

LJL

堅 室④

上部の 一へ は天下部の 皿 は大地を

表す圃①は中間に天地交合の気がありこれ

より荷物が生ずる固②の中間は蛙で天地交

合後の襲化を表す圃⑨では天地の間に男が上

女が下になっており男女の交合と同様にして

天地が人類を生んだことを表す

(陶陽 鍾秀 『中国創世神話』214頁)

「惟虞東学詩云人之初生皆裂胎而出騒失所依故堕地

郎帝惟羊連胞而下共産猪易故詩以

『如達』馬比o又常

熟陶太常元淳日凡嬰兄在母腹中皆有皮以豪之俗所謂胞

衣也生時其衣先破兄鰻手足少蔚放生之難O惟羊子之生

胸仇完具堕地而後母篤破之故共生易o后硬生時蓋戒於胸

中形鮭末露有如羊子之生者放言

『加速』今按前二説

是也下言

『不味不副』蓋謂其胞衣之不折裂也」(『毛詩俸

集通帯』巷二十五)

「徐君宮人娠而生卵以箆不詳秀之水演O猪孤母有犬名

鵠蒼へ猟干水溝へ得所弄卵衝以東蹄猪孤母以馬具凍俊

之逐沸成見生時正値へ故以為名徐君宮中聞之乃更録

取長而仁智襲君徐固」(博物志

異聞篇引徐値王志)

「高句凝着其先出自克明東明本北夷嚢離王子離王出

行其侍兄於後任娠離王達欲殺之侍見目『前見天上

有菊如大鶏子乗降我困以有嫉』王囚之後連生男玉

置之家牢家以口束嘘束不死o王以為所乃聴収養」(梁

諸夷俸)

北欧や古代

ハンガリー等に見られる豊富な例がKケレ-

ニイtCGユング

『神話撃入門』

一九五1(杉浦忠夫訳

1九七五晶文社)に引かれている

例えば壮族に俸わる

「種子と犬の尾」の物語では人々

「九尾狗」に天上の穀物を盗みに行かせたところ穀物を

九本の尾に-つつけて蹄ろ-としたところを番人に見つか-

八本の尾を叩き切られたが残-

1本の尾に穀物をつけて逃げ

師-人間は農業ができるようになったと云う

(陶陽

秀前掲書二七九頁)

32

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 3: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

中国文学報

第四十六朋

てそれぞれの王朝神話が政治的要論によって

いわば

「神代史」に改襲されていることを指摘し更に王朝の始

租の文化神的側面に顕著な

一つの傾向についても併せて論

じようとするものである

1詩経

大雅の周王朝開園神話

西周時代の周王朝開園神話を知るための第

一級の資料と

目されているのはやは-詩経

大雅の文王之什及び生民

之什に見える王朝開園の叙事詩であるそこには周組后稜

をはじめ公劉

古公賓父

王季

(季歴)文王

武王の名が

見えている

蕨初生民時維妾姫生民如何克産克把以弗無

子履帝武敏款牧介牧止載震載夙載生載育時

維后頑O(l章)

誕涌欧月先生如達不蛎不副無蕃無害以赫妖

雲上帝不寧不康産和居然生子(二章)

誕寛之陰巷牛羊排字之誕寛之平林合伐平林O

誕寛之寒波鳥覆翼之鳥乃去臭后積弧臭寛軍賓

許朕聾載路(三章)

誕貴簡旬克岐克疑o以就口食或之荏叢荏義邦

端禾役極極麻穿噸傾瓜鷹棒棒(四章)

誕后稜之穂有相之道弗験農事種之黄茂貴方

寛竃資種貴襲O寮費賓秀資堅賓好賓穎寛粟即

有郁家室(五章)

乗降嘉種維拒経年維廉維芭O恒之拒種是穫是

畝恒之廉芭是任是負以野肇紀(六草)

誕我柁如何O或看或捻或簸或段揮之曳里蒸之

浮浮載謀載惟取粛祭服取抵以抜載燭載烈以

興嗣歳(七草)

印盛干豆干豆干登其香始升上帝居款胡臭宜

時后積肇紀庶無罪悔以迄干今(八草)

初めの民はかの妾鯨初めの民はどのようであっ

つつし

たか妾嫁は

で上帝に子を授かるよう所ったそ

の後上帝の亘大な足跡を踏んだところ妊娠して大い

に括れ動-のを感じそして生まれたのが后硬である

(a)

2

十月十日を過ぎ最初生まれた時は子羊のようで胞

な衣が破れず傷つ-こともなかった后稜の蛋徴が明

らかになり上帝も安らかならず子求めの紀-にも満

足しなかった何とこんな子を生もうとは(二章)

そこで狭い道に后榎を置-と牛や羊は避けてかば

った平らな林に置-と木を伐る者に合

った冷た

い氷の上に置-と鳥が巽で暖めた鳥が去ると后積

は弧々の聾を上げたその聾は長-大きかった(三幸)

はいはいをするうちから立派な智慧があ

った自

いね

分で食を求め大豆を植えた大豆は茂-未は並ん

で億を垂れ麻や賓は地を臆すほど瓜の賓は鈴な-

になった(四章)

たす

后襖の稼穂には生長を

る技術もあ

った雑草

を除き良い穀物を植えた苗はよ-揃いよ-茂-

選ばれた種はよ-伸び花は開き穂は秀で資は墜-

立派で穂先はぴっし-並びか-して有部の家宣も

った(五章)

くろきひ

あかごめ

しろこめ

ここに下された良い穀物は拒

拒柱

殿周開転の神話と

「神代史」(大野)

あまね

-

植え刈-入れて畝に積んだ廉吉を恒-植え

抱えて背負い持ち蘇

って祭-を始めた(六章)

うすづ

我が祭-はどのようであ

ったか穀物を

取-出

ふる

し箕で

足で段むさらさらと米をとぎふわふ

かわらよもぎ

わと蒸す湯気が昇る祭-の次第を算段し

って脂を祭-雄羊を取

って祭-火で英-焼き来

年の豊年を願

った(七草)

たかつき

たかつき

自分は

に供え物を盛る木の豆や素焼きの

に香-が始めて立ち昇-上帝は安んじて受けた

何とその香-の時を得たことか后積が祭-を始め

罪や悔いの無いことを願いそうして今に至るのであ

る(八章)

后稜を歌う

「生民」の全文であるここに描かれる后積の

物語は(一)妻姫と上帝との通婚

(二)生まれた後の遺棄

と動物の助けによる再生

(equiv)自ら稼穂を創始し上帝を柁

るの三鮎に集約される

(1)については感生説話の代表例として古来議論が多い

が卑見では天地通婚のモチーフをここに見出すことがで

3

中国文畢報

第四十六珊

きる后積を生んだ普事者たる妾鯨と帝について考えてみ

るとまず妾妹の

「嫁」は史記

周本紀などでは

「原」に

作-「原」字は爾雅

帯地に「康平を原と日ふ」と云う如

-大地を連想させる

一方

「帝」は郵袋で

「上帝」と解し

て以来これが通説であるが毛侍

は人王としての帝尊と

解してお-「妾姫が帝拳とともに郊楳した後妊娠した」

という合理的な解帯を行な

っているしかし郊礁

(子求め

の奈-)は薩記

月令に

「仲春之月是月也玄鳥至

至之日以大牢両手高藤

天子親往(陰暦二月には燕が

まつ

来る来た日には牛

家を供えて高藤を両-天子親

らそれに出かける)」

と言う如-少な-とも毛侍の作ら

れた時代には疎神の助けを借-て子を求めようとする祭把

であると考えられていたのである毛侍に言う如き習俗が

「生民」詩の背景にあったとしてもその原初的な意味は

結局鄭隻に言う如き上帝との通婚であろう天神と人又

は天神と地神との遺贈は中国の各民族に俸わる人類起源

神話にも多-見られるモチーフであ-

租神を租両たらし

める要素であるといえる(二)は(一)に比べるとあま-重

要現されていないようであるが卑見ではこれこそ卵生モ

チーフの一撃形であると考える二章の

「先生如達不蛎

こひつじ

ぇな

不副無蕃無害」を馬瑞辰は「達

生まれる際には胞

破れないまま生まれ落ちる」という事例を引いて后積が⑥

生まれた時も同様であ

ったことを言うものと解してお-

以来これに従う者が多い胞衣に包まれた状態は外から見

れば無生物のように見えるが資は生命をその中に宿して

いるのであ-恰も卵と同様の状態であるしかも三章で

は最終的に鳥が暖めたことによって后積が

「誕生」したの

であ-後述する楚鮮

天問でも

「后稜を氷上に捨てると

どうして鳥が暖めたのか」と鳥が卵を暖めるように后頑

を暖めたことに注目しているのである卵生モチーフの例

としては他に徐侶王の出生

高句麗

東明王の出生

名であるがこれらに共通するのは生まれた卵が

一旦捨

てられてから保護されるという鮎であるここには古代

ーロッパ等の英雄にも贋-見られる

「遺棄

迫害1再生」

モチーフ

が内在しているといえよ-(三)については本

能的に自ら稼椿を行なったと云うだけであ-直ちに神話

- 4-

撃的な意味を決定するのは難しい敢えて卑見を述べれば

最後に自ら得た穀物と動物犠牲とを上帝に捧げていること

に注意が必要で中国西南の少数民族に俸わる農両

が園の記紀神話のウケモチ

ような自らの身鰻や生命を

犠牲にして穀物を得るというモチーフの痕跡がそこに盈さ

れているのかも知れない総じて后積には神的な誕生

迫害の後の再生

農耕文化の讃明という始租たるにふさ

わしい資質と事鏡が付輿されているといえる

后稜に績いてその曾孫とされる公劉が

「公劉」に歌わ

れている

篤公劉匪層匪康道場通産連帯適倉O遭裏鯨糧

干妻子嚢o思輯用光弓矢薪張干支戚揚婁方啓行O

(一章)

篤公劉干育斯原既庶既繁既順適量而無永歎

捗則在職復降在原何以舟之o維玉及環韓捧容刀

(二幸)

篤公劉干京斯依鎗鎗済済倖憂倖凡既登乃依

乃造其菅執家干牢酌之用鞄食之飲之君之宗之O

殻周開国の神話と

「神代史」(大野)

(四章)

篤公劉干幽新館渉澗馬乱取属取鍛止基連理

宴衆宴有爽其皇潤遡其過潤止旋乃密帯鞠之即

(六章)

情深い公劉は住居に落ち着-こともせず田地の

瞳を区切-穀物を積み蓄えた食糧を大小の袋に詰

たてほこ

め込み人々は囲結して威勢よ-弓矢を張-千

おのまさかり

を立てここに行旗を始めた(T章)

情深い公劉は着いた平原を国見した物産は豊か

で草は茂-民心も落ち着きのびやかに溜息をつ-

者はいない小山に登-また下-て平原を見歩-0

めぐ

公劉の腰に舟らすものは凧玉や美しい石鞠飾-千

侃刀(二幸)

情深い公劉はこの都に定任した人々は進み居並

びむしろや腰かけを並べ席に着いてよ-かかる

しもべ

つか

ふくべ

し家を牢から出させ鞄

酒を酌み人々

に飲食させ公劉は君主として振舞

った(四章)

情深い公劉は幽地に官室を建てた滑水を横切-

5

中国文畢報第四十六筋

といしいしづち

属や

を切-出し

礎を整え多-の人が住みつい

た皇潤を挟み過潤を遡

った所に人々はび

っし-

くま

住みつき川の丙鞠に沿

った(六章)

全六章のうちの四章

T章で板横地造営

への出費二章で

国見四章で饗宴六章で板接地の完成と章展を歌う0形

式面では全篇に亙る

「篤公劉」のリフレイン「遭

OL

「既

O」といった助字によるリズミカルな修辞法など

「生民」と共通する所が多い内容面では

「生民」の如き

神的な誕生や迫害などは無いものの板接地完成に饗宴が

付随している鮎が

「生民」に似る四章の饗宴が単なる無

薩講でないのは

1讃して明らかであるLt「生民」と

劉」の間に置かれている詩四篤のうち

「行葦」「既酔」「

鷲」の三篇までが祭天の儀式を伴う饗宴詩であることから

考えてもこの饗宴場面には家を殺して上帝に捧げる儀式

が含まれていたものと思われる

か-見ると詩経

大雅における后硬と公劉は事業完成

とそれに伴う祭天という鮎では比較的よ-

一致してお-

共に西周人にとっての高租神であ

ったと考えられる后頑

「食」を開拓したのに続きその曾孫公劉が

「任」を開拓

したのであ-恰も山海経

海内経で

「后稜が百穀を播き

その孫叔均が牛耕を始めた

と云うのに似ているここで

の叔均は后稜から分化してその功績を補完する役割を持

てお-公劉も同様に租神の資質をもつ后頑から分化し

てその事業を襲展させる神とな

ったのであろう公劉に奇

怪な誕生の話がないのもそういった英雄的資質を后頑か

ら引き縫いでいるためと考えればうま-説明できる

公劉の十代後とされ文王の骨組父である古公豆父の事

鏡は

「締」に歌われる

鮪解瓜腔民之初生白土汎漆O古公宜父陶復陶

穴未有家室(T章)

周原廉廉重茶如飴宴始宴謀宴契我亀日止日

時築童子茶

(三章)

乃召司空乃召司徒倖立室家其縄則直縮版以

載作廟巽巽(五章)

建立皐門泉門有伏廼立鷹門鷹門賂購廼立家

土戎醜恢行(七草)

6

韓不珍庚憶亦不眠欧問種械扶桑行違先夫混

夷戯臭維其喚臭(八草)

虞帯質蕨成文王amp庚生予日有疏附予日有先後

予日有奔奏予日有禦侮(九章)

長々と伸びる瓜の蔓そのように連綿たる周の民が

生まれた時は汎漆の地に居任した古公宜父は土

をこねて穴を作

って住みまだ宮室を持たなかった

(一章)

たがらし

のげし

周原はよ-肥えて董

飴のように茂

ってい

た国都造営を始めよ-と謀-亀卜を行なうと「こ

こに止まるがよいここに官室を築け」と出た(三章)

土木の官を召し出し土地の官を召し出し宮室を

建てさせた墨縄をまっすぐ引き板を縛

って間に土

を詰め狂いな-廟を作

った(五章)

外門を立てれば高-そびえ立ち正門を立てれば

いかめしい構え大社を立てれば多-の人々が集ま

った(七草)

ほまれ

さて周人の怒-は絶えずしかしその

落とされ

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

なかった雑木を沸い道が通じると混夷は恐れて

逃げ息切れするほどであ

った(八草)

虞園と苗圃が和議を求め文王は興起の勢いを動か

した文王は言

った

「追随する園もあ-

前後から

取-奄-図もある我が閲のために働-園もあ-外

敵を防ぐ園もある」と(九章)

全九章の-ちの六章八

九章は難解であ-諸説紛紛とし

ているが古公ではな-文王の代に時が移

っているとする

鮎では概ね

一致している宮室を持たぬ原始的状態1閲見

1板接地造営という内容は

「公劉」詩に似るが饗宴の場

面がないことや司空

司徒の官名や泉門

庶門の制度な

ど高度に額展した制度鮭系が見えることまた詩型の面で

も大雅の開園叙事詩では唯

Tの

「鮪館瓜腰」という興が見

えることなど

「公劉」詩とは異質のものを感じる

いわ

「神話臭の治失」であ-

「新しさ」である后頑ととも

「神代」の始組神であ

った公劉と異な-古公は西周人

にとっては

「人王」であ-茸在人物として扱われていた

と思われる

中国文学報

第四十六桝

古公の子である季歴は「大明

「皇臭

詩に

「王季」の

名で見えるしかし大任を撃

って文王を生んだことを構え

るのみで自らの聖天子たるにふさわしい事鏡は何も語ら

れていない大雅の開園叙事詩で名が出ていながら英雄的

な事虞が語られないのはこの王季だけで後世の文献例

えは史記

周本紀でも

「徳行を情めた

と云うのみであ-

考えてみれば誠に奇妙なことであるしかしこの間題に封

する答えは後に明らかにされるはずであるから今は王李

の子である文王とその子武王の方

へ進むことにしよう

殿周革命の主役として誰もが知っている文王と武王は

「文王」「大明」「皇央」「文王有壁」でその事蹟が歌われ

ている文

王在上於昭干天周維奮邦其命維新有周不

蘇帝命不時文王捗降在帝左右o(1章)

穆穆文王於緯無数止候哉天命有商孫子商之

孫子其覧不億上帝既命侯

干周服(四章)

いま

文王は天に坐しああ天に輝かし-坐す周は古

い園であるが天命が新たに下された周は大いに輝

かしく上帝の命も時宜にかない文王は天地を上下

して上帝の左右に坐す(一章)

つつし

慎み深い文王はああ敬むこと績いてやまぬ偉

たも

大なるかな天命は商の子孫を有たせた商の子孫は

かず麗は十寓に止まらないが上帝の命は下-彼等を周

に蹄順させた(四章)

「文王」全七草のうち二章内容的には叙事詩というより

頒詩に近く

后稜の神的誕生のような神話臭はないがこ

こでの文王は天地を上下して上帝に仕えることのできる存

在であ-神格化されているといえるしかし文王がもと

もと神であったとい-のではなく

古公と同様に

「神代」

から引き継いだ英雄的資質によって天命を得て殿の民を

支配するという事業を行ない「人王」から「紳」へ昇格し

たものと考えるべきであろう

作乏尿之其蕃其繋情之平之其濯其例啓之静

之其樫其梓撰之刻之其腰其柘帝遷明徳串夷

載路天立欧配受命既固(二章)

帝謂文王無然畔接無然款羨誕先登干岸密人

不恭敢距大邦侵院狙共王赫期怒宴整其旗以

按狙放以篤子周砧以封干天下(五章)

普作

って除-のは立ち枯れや倒木切-整えて平ら

げるのは

濯木や並木

切-開き押しのけるのは

かわらやなぎ

へぴのき

やまぐわ

はりぐわ

って例-取るのは

上帝

は明徳ある王に味方Lt串夷は道にあふれんばか-に

逃げ出した天は文王の配偶大姐を立て固-命を授

け給うた(二章)

そむ

上帝は文王にか-のたもうた「人心を

せては

ならぬo気ままにさせてはならぬ」とOそこで高所に

登って観察すれば密園の人は従わず敢えて大国に

逆らい陳園を侵し共園

へ進軍しているO王は激し-

怒-

ここに軍旗を整え密図の行軍を阻み周の

さいわい

埼Lt天下に戒を示そうとした(五章)

「皇臭」全八草のうちの二章二章では公劉や古公と同様

の板接地造営を歌うが「天命」を受けるや否や五章に

云う如-密国を征討しょうとする

有命日天命此文王千周干京績女維草長子維

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

行篤生武王o保右命爾嬰伐大南(六章)

殿商之放其禽如林矢干牧野維予侯興上帝臨

女無武爾心(七草)

牧野洋洋檀革塩塩駆厨彰影O維師伺父時維鷹

揚掠彼武王韓伐大商脅朝清明(八草)

天よ-命は下-我が文王に命は下った周の都で

後を鮭ぐ妃は宰園の女この長女がやって来て天は

武王を生ませ給い守-助けて命じ給うた

「大南を

討伐せよ」と(六章)

殿の大軍は林の如-集まった武王は周軍に牧野

ちか

で失

った

「ここに我々は興起する上帝もお前達を

見ておられるぞ戒心を抱いてはならぬ」と(七草)

牧野は贋々として戦車は輝き烏は勇み立つ太

公望呂筒は鷹の如-猛-立つ輝かしい武王は大

商を存分に伐ち取-合戦の朝は晴れ渡った(八草)

「大明」の終わ-の三章牧野での殿との合戦が活寓され

るが武王のこの功績もやは-文王から受け縫いだ「天命」

あってのものである

9

中国文革報

第四十六

文王受命

有此武功既伐干崇作邑干豊o文王桑

哉文

王は天命を受けこの武功を立てた崇園を征討

すると豊に都邑を造営したすぼらしい文王よ

「文王有壁」の第二章密園征討と並んで文王の主要な武

功とされる崇園征討を歌うものであるがこれも

「天命」

によって行なわれたものとされている

詩経

大雅の落第から直接知ることのできる周王朝開園

の物語は以上の通-であるこれを后稜から文武までひと

績きに眺めてみると始租にふさわしい神的な誕生から始

まって迫害を受けた末に諸文化の開拓更には武力によ

る天下平定とい-英雄的事業を完成させるのであ-これ

は丁度Eノイマンらによって指摘されている英雄神話の

典型的なパターンとも合致する后積-公劉-古公-文王

-武王の五王が全鮭として恰も

1人の英雄の如き振舞いを

見せているわけである

しかし仔細に見るとこの五王の中で后稜-公劉古公

文王-武王の三者には微妙な違いがある后穆-公劉の物

語は神話的な雰囲気が濃厚であるのに対し文王-武王に

関しては

「紳懸-」的な奇蹟は全-見られず武力行使に

及んだ根嬢としての

「天命」ばか-が強調されているそ

してこの両者の中間的な存在として古公がいるのである

いわば古公を境にそれよ-前が

「神代」であ-それよ-

後は

「人の代」として描かれているといえる

か-見ると古公以後の物語は開園の

「歴史」であ

って

「神話」として扱うにはふさわし-ないという人もいる

かも知れないそれにもかかわらず筆者は古公から武王に

至る物語は

「歴史」として作られたものではな-歴史が

神話の一部として改襲された

「神代史」

であると考える

なぜなら考古学的に知られる殿周革命前後の歴史には詩経

と大き-ずれる部分があるからである

后積や公劉は周原卜軒や金文には全-見えず神話上の

人物であることを疑う者はいない古公賓父については

文王の租父たる大王と同

一人物と考えることに疑問を向け

る説があ-例えば顧訴剛は古公は周王朝創建時の王で

あ-大王は周の国力が強盛になった時の王であると考え

10

⑬たOしかし

「轟」詩のところで述べたことを考えれば古

公を周王朝の租とする課には従い難い現在鹿-支持され

ている説では殿が常時山西省に居た鬼方を討

った結果

彼等が西方に移動して周を歴迫したため周は幽から岐山

に移ることを飴儀な-されたと言う

具鰻的な国名などに

はなお問題があるとはいえ周が異民族の歴迫で岐山に移

ったという事寛があ-それが

「崩」詩にも反映されてい

るのは確かであろう時代が下がると孟子

梁意三下に云

う如-

「古公が徳を守

って岐山

へ逃げ人民も彼を慕って

共に移動した」という儒家道徳による合理的解帯が行われ

るようになるのは周知の通-である

王李は前述の如-詩経ではその事蹟が全-記されない

ところが古本竹書紀年には

殿の武乙三十五年王李が西落鬼戒を伐ち二十雀

王を捕虜にした(後漢書西完博引

)

殿の文丁が季歴を殺した(青書束管俸史通疑古

社説上引)

といった記事が見え文丁期の卜辞にも周を伐つことの可

段周開園の神話と

「神代史」(大野)

否をーつたものがあるOしかもその7万で同じ古本竹書

紀年に

殿の武乙三十四年周の王李が来朝し武乙は土地

三十里玉馬を賜興した(太平御覧巷八三引

)

とあ

ってこの時期の卜辞にも周を

「周侯」と呼んでいる

ものがあ-周は段の侯国として厚遇されていた面もある

のである「大明」詩での王李は殿と関係の深い拳闘から

大任を迎えてお-史寛とすれば政略結婚である王李の

頃の周は殿と虚々賓々の駆け引きが績-緊迫した関係にあ

ったのである

王李のこうした

「行状」は竹書紀年に記事が残されて

いる以上常時の史官によって記録されていたはずである

にもかかわらず詩経ではそれらが殆ど無税されていると

すれば大雅の諸篇が作られた時から記録されて現在の形に

なるまでのいずれかの段階で意固的に例除されたと考える

のが愛常であるどの段階で刷られたかを決定するのは言

うまでもな-非常に困難であ-例えば

「解」詩で七草ま

で古公の根接地造営の話が績-のに八草でいきな-

「韓

ll

中国文革報

第四十六射

不珍膜性」と文王の代に飛ぶのはあま-にも唐突であるこ

とから七草と八草の間に王李が殺害されたことを歌う章

があ

ったと推定することもできるが残念ながら確認する

すべはないしかしいずれにしても我々が常識的に考え

れば王李が殿に殺された事寛を語ることによって王季1

文王-武王を悲劇の英雄に仕立てられ殿周革命の物語に

一層の彩-を添えられるはずであるのにそれらが轟-酬

去されているのである

文王と武王に関しては詩経に見える密

崇征討等は周

原卜辞等に照らしても史貴であ

ったらしいしかし後世の

文献に見える

「村が文王を安里に幽閉したが文王の部

下が賄賂を使

って救出した

とか

「伯夷と叔斉が武王の武

力革命を悲しんで首陽山で餓死した

とかいった物語は詩

経はもとよ-古本竹書や地下資料にも全-見えていない

之を要するに古公以下の

「人王」についてはマイ

スイメージを興えかねない物語は

一切語られていないので

あ-そこには諸王の威光を高めようとする政治的要請が

ったと考えられる后積や公劉は

「神代」の高租神であ

るから神話的要素に富む怪異な物語をそのまま停えても

不都合はないしかし古公以下は所詮

「人王」であるから

紳懸-的な奇蹟を附合すれば虞寛味が乏し-なるしその

一方では

「神代」から績-聖王の血統を誇示する必要があ

る勢い

「都合の悪い」史宜を無税して「輝かしい事業」

のみを賞揚する方向

へ向かうことになろうその敏寄せを

まともに食らったのが他ならぬ王李であ-殿に朝貢した

-殺された-した史資をそのまま記せば

「王統」の威光

を傷つけるのは明らかであるから大任と共に聖天子文王

を生んだいわば橋渡し役としてのみ名を留めることにな

ったのであるこのような

「歴史の神話化」の結果詩経

大雅の叙事詩語笛は周王朝開園の

「神代史」として西周

貴族の問に俸えられていったのである

二詩経

商頚の殿王朝開園神話

詩経

商頭の詩篇は鄭玄の商頭語で

「末の戴公の時に

大夫正考父が十二篤を得たが孔子が詩を編纂するまでに

七篤を失

った」

と停えられ今日に至るまで定説となって

12

いる現存する五篤の中には玄王

相土

湯及び中興の

武丁の名が見えている

殿の始租誕生を歌う詩として古来よ-引かれるのは

「玄

鳥」の冒頭の二句である

天命玄鳥降而生商

天は燕に命じ下士

へ降らせて商租を生ませた

鄭集がこの二句を

「天が燕を下士

へ降らせたというのは

その燕が残した卵を有城氏の女簡秋が呑んで殿租契を生ん

だからである」

と解して以来これが定説となっているし

かし森三樹三郎氏が既に指摘しているようにこの二句だ

けを見ている限-

「燕の卵を呑んだ」という事寛は直ちに

導き出せないのであ-この説話が商頚が作られた春秋時

代の始租神話そのままであるかどうかは頗る疑わしいし

かし玄鳥なる鳥が天と下士の間を往来して南畝を生ませた

ことはこの詩からも讃み取れるのであ-少な-とも春秋

の来園では殿租が天地通婿で生まれたとぎれていたと言う

ことはできよう

「長襲」にはやは-殿租とされる玄王とその孫とされ

段周開園の紳話と

「紳代史」(大野)

る相土が登場する

溶哲維商長顎其群洪水

巴だ高教下土方外大

国是瞳幅限既長有域方渚

帝立子生商(1章)

玄王桓掩受小国是達受大国是達率履不越途

観能登相土烈烈海外有載(二章)

きぎし

明徳なる商王その

現れて久しい洪水が贋が

った時南は下士の四方に功を敷き外の大国とを区

切-中国の虞さは遠大になったO有城氏もその時勢

力を埼し上帝は有城の子を立てて南国を作られた

(一章)

玄王は武徳があ-小国に封ぜられてもよ-治め

大国に封ぜられてもよ-治め薩に従

って越度な-

しめ

教法を現して行なわせた相土は武威輝かし-海外

の諸国を平定した(二幸)

この詩の

「玄王」は毛俸

鄭隻の如-殿租契のことで

「玄鳥」詩の商租と同

一であると解するのが普通であるが

白虎通

文質

(l名瑞賓)篤は玄王を湯と解してお-漢書⑳

鰻柴志は契(高)と玄王は別人で共に段租であると解する

13

中国文筆報

第四十六筋

相土は周鰻

校人注引世本で

「初めて乗馬を作

った」

と云

いこの詩で武勇の王として描かれていることと関連があ

るものと思われるしかし玄王

相土共に具鰹的に如何な

る事鏡があるのかはあま-括かれず神話としての考察を

かな-難しいものとしている

相土から十

1代後の子孫とされ夏案を伐

って殿王朝を

隆盛

へ導いたと俸えられる湯は同じ「長顎」に見えている

帝命不達至於湯秀湯降不遅聖数日頗o昭倣遅

遅上帝是砥帝命式千九園(三牽)

武王載端有虞乗鉄如火烈烈ー則莫我敢局萄有

三幸莫逐莫達七九有有載葦顧既伐昆吾夏架o

(六章)

上帝の命は誤-な-湯に至って天命と合合した

湯の生まれること期に麿じ聖徳は日々に高まった

天にも明らかに至る徳は久し-止まず上帝も愛敬し

て九州に法を示させた(三章)

武王湯は旗印を立て固-銭を撞-火の如-勢い

とど

もと

盛んなれば誰も敢えて長めることはできない竜株

ひこば

に三つの

生ずるといっても生長しきることは

ないO湯は九州を平らげ垂の葦図

顧閲と昆吾氏

竃の夏架を伐

った(六章)

湯が

「天命」を得た後に諸国を征討して九州を統

一したと

いう内容であ-大雅における文王や武王と同じ-始租

の神的資質を引き継いで天下統

一の事業を完成させるので

ある

これらを全鰻的に眺めてみると商租の神的誕生1

相土

湯の天下平定という流れは大雅における周王朝開園の物

語と同様のパターンであ-また請王を武徳の王と稀える

のに終始して請王にとってマイナスイメージを興えるよ

うな話が記されないのも大雅の文王や武王と同様である

商頭の諸篇が大雅以上に尖鋭な政治的意圏を以って作られ

たことは白川静氏も

「末に興

った膨折たる国家意識を背

景としてその抗争老たる刑楚に封する敵封感情の昂揚

を目的とし」たと指摘する通-であ-諸王の武勇ばか-

をことさら強調するのも肯けることであるところがも

しか-の如-商頭諸第が宋人の

「神代史」であるとすると

14

殿の諸王の文化的功績が殆ど歌われていないのは何とも不

思議な事賓である常時

「南賛歌舌」

の園であったはずの

楚と争うのに自らの文化的先進性とその由来を誇示しな

いということが果たして考えられるであろうか

結局宋人の殿開園神話を西周人の周開園神話と比べた

時の問題鮎は(一)後に

「契」と呼ばれるようになる殿租

の正睦(二)両者とも同様の構造を持ちながら殿開園の英

雄たちに文化的功唐が見られない理由tの二鮎にまとめら

れるo前者については戦国時代の楚国における殿開園神

話を記す楚辞

天問や殿嘘卜辞に見える殿の高組神など

にこの問題を解-鍵があろうと思われる後者については

まず宋園と同じ春秋列国である魯園で作られた詩経

魯頚

を参照するとある程度の推測が得られる

問官有他賓資枚枚赫赫妻嫁其徳不回上帝是

依無災無害禰月不遅是生后頑隆之百福蚕種

重移穂塀寂穿奄有下図倖民稼橋有稜有黍有

侶有拒奄有下士績南之緒o(1章)

后稜之孫資維大王o居岐之陽賓始易商至干文

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

武濃大王之緒致天之眉千枚之野無武無虞上

帝臨女敦商之族克威厳功王日叔父建爾元子

伴侯干魯大啓爾字鳥周室輔O(二章)

奥深-清い宗廟は堅固で美しい輝かしい妻糠は

その徳も貞正であ

った上帝も心をよせて無事に子

を生ましめ十月十日を遅れることもなかったここ

さいわい

に后積を生むと天は多-の

降したそれは黍

もちbぴ

おくて

わせはやうえ

おそうえ

まめ

や穿後に領下の閲を

くろきび

治め民に耕作させた稜や黍もあれば楢や

ある下士を治めて后稜は南の事業を縫いだ(一章)

后稜の子孫はかの大王宜父岐山の南に居任した

時始めて殿

への臣展開係を慕

った文王と武王に至

-大王の事業を縫いだ殿の天命の終わ-は牧野の

地でやって来た「武心を抱いた-心配してはならぬ

上帝も見ておられるぞ」武王は殿に勝

ってその人民

を治めその功績は先王たちにも等しい成王は言

た「叔父周公よ

そなたの長子伯禽を立て魯園の

侯とし大いにその土地を閃かせ周室の輔けとさせ

15

中開文革報

第四十六冊

よ」と

(二章)

「関宮」全九章の

うち二幸O魯図はこの詩にも云う如-局

公の長子伯禽が封ぜられた図であり周と同族であるから

曹然周租后稜に始まる諸先王を構えているわけであるが

后稜の農業創始を

一章全部を費やして

「南の緒を鰹ぐ」と

賞揚する割には文王

武王の殿周革命に封しては素束な

い描き方である寧ろ大雅の詩篇よ-も先王の文化的功績

に重きを置-といえる

1万の宋園は肘王の庶兄微子啓が武王に封ぜられた園で

ある宋園は殿の穫柴を修め殿の習俗を堅持し績けたと

俸えられる

所詮は被征服園である自らの租先を高ら

かに賞讃することに封して何らかの政治的願力が働いたこ

とは想像に難-ない「七筈の詩が亡伏した」という商魂

譜の記事は或いはこのことに関係があるのではないか

この失われた詩の中には

西周の

「生民」

「公劉」詩の如

-殿代よ-俸わる文化神を歌う詩があったのではないか

この推測をよ-精確に検討するにはやは-宋園以外の

園に俸わった殿王朝開園神話の一つとしての楚辞

天問を

参照する必要があるそこで次章ではまず殿嘘卜辞に見え

る高組神について検討し次に楚鮮

天間の殿王朝開園を

問う部分について考察した後これらと商項とを相互に比

較することにしたい

三卜辞及び楚鮮

天問の殿王朝開園神話

卜辞は占卜のための文句を記した文字資料であ-もと

よ-神話の記録を目的としたものではない従

って殿人の

間に俸えられていた殿王朝開園の物語を卜辞によって復元

することは言うまでもな-不可能であるただそこには高

租神や先王をはじめ様々な神の名が見えてお-これを後

の時代の殿王朝開閉神話と比較することによってその神

話がどれ位原初の姿に近いかを推定することはある程度可

能である

さて殿人にとっての最高碑は周知の如-上帝であ-

卜辞にも

「帝」として見えていて風雨などの自然現象を

支配し人事に禍福をもたらす存在であることが知られて

⑲いる

16

この上帝に封しては直接条把が行なわれることはないと

い-のが通説であるが島邦男氏によれば絶無という諸で

はな-締把が行われる例が三例あるこの締紀は上帝の

みならず高租神や先王に封しても行われてお-例えば

羅振玉

『殿虚書契緯編』

一-二-

一片に

点締子王亥

貞-王亥に繭のまつ-をせんか

董作賀

『乙篇』四五四九片に

葵未卜両税乙

英未に卜す租乙に蹄のまつ-をせんか

とあることから

恐ら-張光直氏の云う如-

「殿の人びと

『帝』は先租の絶稀であ

ったかあるいは先租の観念

の1つの抽象化されたもの」

ということになろう

上帝と同様の祭紀が行われる租神の-ち「高租」と呼

ばれるのは愛

王亥の二人である

愛は変とも揮され王⑮

図経が

「暑」と塵韻であることなどを理由に帝尊と解して

以来これが定説となっているO帝聾は後の時代の文献に俸

える所では自らの文化的事業や武勇に関しては何も記さ

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

ずただ殿組契と周蔵后榎の共通の父祖であると云うだけ

であ-上帝的な存在であ

ったとするのが諸家の1致した

見解であるしかし殿代に於ては

「帝」と帝替即ち愛は区

別されている以上完全に同

一であ

ったとはいえず上帝

と人王をつなぐ役割を持つ始租神として奉られたものと思

われる前述の如-愛が抽象化したものが上帝であ-

逆に言えば上帝が人格神化したものが愛なのである

一方の王亥はどうであろうか山海経

大荒東経に

有困民国-王亥託干有易河伯僕牛有易殺王亥

取僕牛

困民国で-主

亥は有易園と河伯園に自ら飼い馴ら

した牛を預けた有易園の人は王亥を殺し牛を奪

この候の郭瑛注が引-古本竹書紀年には

殿王子亥賓干有易而淫蔦有易之君鯨臣殺而放之

是故殿主

(一作上)甲徴候師子河伯以伐有易滅之

途殺其君紹臣也

殿の王亥は有易園

へ客として赴いたが行ないが悪

- 17-

中国文学報

第四十六放

有易の君主摘臣が彼を殺してしまったそれで段

の上甲微が河伯図の軍を借-て有易を伐ちこれを滅

ぼし君主鋸臣を殺した

と記されているまた初学記撃

九引世本には

「骸が

牛を飼い馴らした」とあ-この膜も王亥であると考えら

れている少な-とも東周末期に於ては王亥が牧牛を行な

ったという俸説があったのであ-王亥を論ずる人の多-

はこれに注目し彼を殿の文化紳であると考えている

「高

租」と特別扱いされる租神の一人であることを考えれば

王亥が文化面で多大な功績を上げ原始状態から文明状態

へと殿氏族を更展させたことは十分に考えられる

もしそうであるならば前章でその存在を示唆した

「殿

の失われた文化紳」はまさにこの王亥ということになる

既に述べた如-詩経

商煩の段王朝開園神話に封しては

それと系統を異にする楚辞

天問という比較資料もあるの

であるから次にこちらの方を見てみることにしよう

fTD

天問は古来極めて錯簡の多い書と言われる

その中で

殿周開園に関する部分は比較的次第がまとまっている湯

以前の駿の先王が措かれるのは55-聖早であ-簡秋と尊

の通婿から始まっている

55簡秋在董卓何宜玄鳥致胎女何喜

筒状は高い槙童にいたが尋はどうして見そめたの

か燕が滑-物を持

ってきたのを筒状はどうして喜

んだのか

古来詩経

商頒

「玄鳥」と同じ-簡秋香卵の説話を云うも

のと解されるがこれも

「玄鳥」詩と同じ-この二句だ

けから呑卵の話を導き出すのは難しいしかしこの通解が

行なわれた高い

「董」は天地の間を繋ぐにふさわしい場所

であ-鳥が天から

「胎」を授けることなど天地通姫を

描-ことには襲わ-はない天問では上帝には

「帝」とい

う呼稀を使

ってお-ここでの

「魯」はー辞の

「愛」と同

じく上帝の人格化したものと思われる

この二句は不思議なことに簡秋と啓が誰を生んだのか全

く言わないテキストに脱落がなければ次の章の登場人

物を簡秋の子と考えるのが最も素直であろうところが次

に登場するのは

「玄王」でも

「契」でもない

18

56該乗季徳頗父是滅胡絡弊干有屈牧夫牛羊0

57干協時舞何以懐之平脅鼻膚何以肥之

58有屈牧豊云何而逢撃林先出其命何徒

壬亥はその父季の徳を縫いだが父は立涯な人であ

ったどうして王亥はとうとう有易園に落ちぶれそ

ゐ牛羊を養

っていたのかO

たて

あわ

いだ

協せて舞う女を見てど-してその女を

のか

平らかな脇腹に細やかな皮膚どうしてこの女

まじ

ったのか

王亥は有易園の牧童にどのようにして合

ったのか

寝込みを襲われて先に逃げ出したがどこから逃げ出

して助かったのか

56章の

「該」を王逸は

「竜也」と解しているが晴代に至

って王関連が人名ではないかと疑問を呈出L

t

王国経が卜

軒との対照によって王亥であると断じて以来この説が支配

的であるこの四句も前途の山海経や竹書紀年と共に王

亥が牧神であ

ったことを示すものとしてよ-引かれる57

章は難解であり注揮家ごとに説が異なると言

ってもよい

股周開園の神話と

「紳代史」(大野)

ほどであるが王亥の婚姻のことを云うとする需介甫氏

黒須重彦氏の説に徒う58章は王亥が殺されそうにな-な

がら辛-も逃れたことを云い前に引いた山海経などの所

侍と関係があるものと思われる

この三幸の記述から王亥の迫害と文化創造のモチーフを

見出すことはさほど困難なことではないし簡秋と孝によ

る殿租の神的な誕生も前章までに述べた例と同様に何ら

かの形で王亥に英雄的資質をもたらすものと考えられる

簡秋が生んだのが王亥であると断定できれば話は簡単なの

であるが56章には王亥の父としての

「季」が登場してお

り従

って天問に於ては簡狭

暑-季1王亥という系譜が

成立していたことになるしかし卜辞に見える

「季」は高

租でない租神の一人にすぎず

「高租王亥」が

「季」を父と

していたとは考え難いo

l鮭に卜解における租紳相互間の

父子関係は不明な部分が多-本来は寧ろ横

一列に並ぶ関

係であ

ってどれも

「租先」に襲わ-はないのであ-果

たした功績や役割の違いによってそれぞれに分化したもの

と考えた方がよい卜辞における

「季」の神威は他の租紳

19

中国文革報

第四十六桝

と襲わらないが

天問では尊と王亥との橋渡し的な性格に

襲わったのである

59恒乗季徳蔦得夫朴牛何徒費班緑不但遠来

王恒も李の徳を鰹ぎ王亥の養

った僕牛を得たど

あまね

はどこ

うして狩-に行

って獲物を

-

民に

ただ行

って

締るだけに止まらなかったのか

「恒」は王遠江では

「常也」と云うがこれも王国経が卜

辞に見える王恒のことであると解して以来諸家概ねこれ

に徒う「班稀」は近年の解帯では

「官位」「栄達」等に解

され

「王恒が有易図で出世しょうとした」意であるとす

るがす

っき-しない解輝であるー辞に見える王恒は

弓の形の中に

「恒」字を入れたものもあ-寧ろ

「湯は狩

-に往-際ただ行

って締るだけではな-民に編-施し

を輿えた」とする王逸注の方が原初的な意味に近いと思わ

れる但し主語は湯ではな-王恒である張光直氏は王恒

と罪に何らかの関係があるのではないかと考えるが

それ

よ-は駿人の狩猟柵であ

ったと考えた方が良いかも知れな

いただ王恒の事境を記した文献が他に存在せず容易に

結論を得難いのは残念なことである

60昏微遵述有狭不寧何繁鳥葦棟負子韓情

61絃弟遠軽危害顔見O何襲化以作許後嗣而逢長

上甲微は父王亥の事鏡を鮭ぎ有易園は安定を保て

ず滅びたどうして有易の人民は妹に止まる鳥のよう

に苦しんでいるのに上甲微はその子女にまで横暴な

ことをしたのか

目の陪んだ請弟はみな道ならぬことをしその兄上

甲微に危害を加えたのにどうしてうま-ごまかして

その子孫が長-祭えることになったのか

この二章も本づ-所がはっき-せず難解であるが「昏微」

はやは-王国経が上甲微のことであるとしてお-その事

蹟を云うものと考えられる上甲微は卜辞で系譜が明らか

な請王のうちで

一番古い租先に普た-いわば

「人王」の

租であるがここでは王亥と同様の迫害モチーフが再び現

⑳れその事鏡は既に神話化されていたものと見られる「何

襲化以作詐後嗣而逢長」の二句はそ-した神話であるが

故の不合理性を問うているのである

- 20-

62成湯東巡有等宴極何乞彼中臣而吉妃是得

63水漬之木得彼中子夫何悪之腰右筆之婦

64湯出重泉夫何皐尤不勝心伐帝夫誰使挑之

湯は東方

へ巡狩Lt有等園までやって来たど-し

てあの中臣伊声に乞い求めて良い妃を得たのか

水蓮の木から有等氏の君主は伊声を得たとい-が

どうして伊声を嫌

って湯の妃に付き添わせたのか

湯は重泉の牢獄から出て来たがそれは何の罪だっ

たのか正義を求める心を抑えられず実を伐

ったが

誰が彼をそうさせたのか

商頭における湯は夏架や尾吾氏を伐

った英雄として非常に

多-の紙幅を割いて賞揚されていたのであるが天間では

僅か三幸で終わ-しかもその年分は彼の名臣伊声のこと

に費され天下を平定した聖王にしてはかなり冷淡な描き

方である多-とも王亥や上甲微などと同等の重さしか持

っていないといえるしかしこの簡単な記述は神話的な趣

きに富んでいる伊声は呂氏春秋

本味簾で

「有佐氏の女

が空桑の中から嬰兄を得て

それを君主に献じ君主は

般周開乾の神話と

「紳代史」(大野)

料理人に彼を育てさせた」云々と書かれるような俸説をも

つがその原型とみられる記事が63章にあ-64章の

「湯

出重泉」も森安太郎氏が

「陽

(太陽神)が海の下を-ぐっ

て再び現れ出る様子」

と解したほどであるその虞偽は措

-としても

「重泉に囚われてから脱出」

というのがこれ

まで屡々登場してきた迫害1事業完成のモチーフであるこ

とは明白であ-この迫害こそ棄てられた后稜と同じ-英

雄を英雄たらしめる神話素の一つである殿人にとって湯

「人王」であったはずであるが楚人にとっての夏殿革

命は既に神話となっていた宋人にとっても同じであ

った

と思われるしかし東周時代の為政者の意識は最早神話を

古代人の如-

「心象における事資」として受け取ることを

許さなかった神話の神話たる所以である英雄の迫害も

政治家としての彼等にとっては

「不合理」以外の何もので

もな-統治強化の障碍でしかなかったであろうそれ故

その

「不合理」を宋人は頒詩から治し去-楚人は

「天に

問」うたのである東周の殿開園神話はその鮎で西周人

の神話と歴史が

一鰻になった

「神代史」であ

った詩経

21

中国文筆報

第四十六冊

雅の周王朝開園の物語とは成因がやや異な-神話そのも

のを改襲した

「神代史」であるといえよう

再び天間に戻ろうここで語られる殿王朝開園神話を綜

合すると腰租誕生1夏殿革命という流れは商頭でのそれ

とはぼ

一致するのであるが商頚では全-無税されている

王亥

王恒や上甲微の事浜を多-記している所が大いに異

なるこれらの先王は卜軒に於ても租神として柁られてお

-殊に愛

(餐)王亥は

「高租」と崇められていたのであ

るから天問における殿租誕生や牧牛創始の偉大な功績も

殿代からその根摸となるべき停東があったものと考えられ

る殿の未森たる被征服図

宋図で語られなかった文化神

が周の政治的願力が比較的少なかったであろ-楚園に於

て生き残

っていたのであ-「王亥を構える頒詩は政治的

要請によって胴去されたのではないか」という前章で捉

起した推測は更に確貴性を樹して-るのである

このように文化神を語る神話は政治的な事情によって

改襲されやすいという

一つの傾向が次第に明らかになって

きたのであるが天間に見える周王朝開園神話を詩経

雅のそれと比べてみるとその傾向は

一層はっき-する

これについては次章で検討することにしてその前に前

章で提起したもう

一つの問題即ち契と後に呼ばれるよう

になる殿紐の正鰻について卑見を示しておきたい

1般には詩経

商頒

「玄鳥」

「長顎」の鄭隻や楚鮮

天問の王逸注史記

殿本紀などから筒状が生んだ殿租

が契であるとされ詩経や楚軒の注揮家も特に疑問を抱い

ていないしかしこれまで見てきた詩経や天問には契の名

は全-見えていない国語を見ると周語下には

玄王勤商十有四世而興

玄王は商のために働き十四世かかって興起した

鄭語には商

契能和合五教以保干百姓者也

商契は五教をよ-調和させ人民を守-養

った人で

魯語上には

契為司徒而民韓-上甲微能帥契者也o

契は司徒の官となって人心を和らげ--上甲微は

22

たす

契をよ-

た人である

自玄王以及主薬莫若湯

文王から主薬

(湯の父)に至るまで湯よ-すぐれた

者はいない

とあるこれらを見ると契とい-名は周

楚以外の

園で用いられし

かも

「司徒として五教によって人心を安

定させた」という事鏡が語られている抽象的な形ではあ

るが文化面での功寮が取-上げられているのである

そうすると陳夢家氏の

「契と刻は互訓であ-共に亥

と普通である故に契は即ち王亥である」とする説が有力

な説として浮上して-るOこれまでの考察から王亥は殿

の高租にして文化所であ-従

って契というのは王亥の周

連諸国での呼び名であ-「五教」云々は王亥の文化神的

な面が周遠諸国に於て襲化したものと考えられるのである

もう

1万の

「司徒」という面に注目すると楊寛氏は

「司

徒」は

「司土」であるとして契は社紳

(土地紳)であった

と考えている「司徒」を

「司土」と表記するのは西周金文

に多-見られる用法であ-本来は土地や農業を司る官で

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

あったらしいまた史記

殿本紀には

「実は南を佐けて治

水に功があった」とあ-梁玉縄の疑う如き司馬遷の臆説

でな-古-からの停承に基づいているものであるならば

契に夏南の如き下士造成神的な面もあった可能性は捨てき

れない司土の官は農業にも関係が深いことから契は土

地神にして農神の性格をも持つことにな-このことは王

亥が牧牛の創始者であることと関係があるのかも知れない

なお尚書尭典には

帝日「乗努民阻飢o汝后榎播時百穀O」帝日

「契百姓不親五品不遜汝作司徒敬敷五教在寛」

もろもろ

舜は言った「棄よ

民は飢え苦しんでいる

汝は后頑の官とな-

この百穀を播け」と舜は言

った「契よ人民は互いに仲良-せず父子

君臣

夫婦

長幼

朋友の序に従わない汝は司徒の官とな

つつし

-五教を敬んで廉め心を寛-して治めよ」と

とあ-同じ-尚書の周官には

司徒掌邦教敷五典擾兆民

司徒は閲の教化を掌-五教を廉め多-の民を順

23

中国文畢報

第四十六肋

わせる

とあ

って司徒が教化の官であるかの如-書かれているが

これは后積が農官とされたために契は

「五教を康めた」面

のみが取-上げられそれが司徒の官名に結びついてかか

る誤解を生んだものであ-司徒の本来の意味ではないと

考えられる

周やその支配下にあった宋園では殿租に玄王という名

が使われてお-玄鳥による神的な誕生と商の興起のた

めに轟-したとい-事暁が語られる

魯園では

「契」

「玄

王」両方が見えるがー契と言う場合は文化的な功績が描か

れ玄王と言う場合は始租としての面に注目されている

恐ら-

「玄王」とは契=

王亥の始租としての面が強調され

た時の呼稀であ

ったと思われる文化人類学的にも「玄」

という名は始源の闇や滞沌を連想させるものであ-例え

ば老子

六章の

玄牝門天地板

玄牝の門(女陰)は天地寓物の根源である

の如-である

宋園や周では殿租の文化神的な面が抹殺さ

れたために始租神としての

「玄王」の呼稀が定着し魯

鄭などの周連列国では儒教的に襲化した文化神として

「契」と呼ばれ楚国では殿代の呼稀

「王亥」が原形に近

い形で保存されて

「該」と呼ばれたのであろう

四楚鮮

天問の周王朝開園神話

まず天問における殿周開園神話の大筋の流れを圏示する

と附固

一のようになる我々の常識で考えるならば夏殿

革命の次に殿のその後の衰亡を歌いそれから周王朝

へと

移る構成をとるのが普通であるが天問では夏殿革命から

いきな-周の衰亡

へと飛びそこから殿の衰亡

へと戻る間

くりかえ

「天命は

」というテーゼを挟み込んでいるこの

ような操作によってどの王朝も同じように興亡を繰-近

すというテーゼが

7層際立つのであ-

T見乱雑に見える

排列が安は高度なレトリックを用いた結果であるという

ことがわかる

次に殿周の開園が歌われている各章を時間順に並べ

かえて相互に封比してみると附圏二のようになるこの固

24

殻周開園の耐話と

「神代史」(大野)

附圃- (丸内の数字は葦の通し番競)

舜と女梱 ⑱~

「験萌在初」

1

度の先王 ~

t

夏殿革命 ~

周の先王

l

殿周革命 ⑮~cent)

iiiiia段の衰亡 ~ 周の興亡

一- 一 ノ ー「天命反側」

附圏二

段 簡秋と唇の通婚

王亥 有易で牛羊を牧す

王亥の婚姻

王亥 殺されかける

王位 王亥の牛を得る

上甲微 父の遺業を鮭ぐ

肢弟が上甲微を迫害

一寸 どうして子孫が栄えたのか」

~ 楚の興亡

周 ⑯ 后硬 氷上に捨てられる

上帝をも驚かす武勇

-「どうして子孫が栄えたのか」

成湯 伊声を得る

伊デの生い立ち

湯 壷泉から出て案を伐つ

- 25-

⑳ 文王 天命 もて段を覆す

岐山に移る殿の惑婦

文王 村の無道を天に告げる

文王 太公望を得る

武王 急いで殿を伐つ

武王の朝合

周公 武王をよしとせず

武玉 村を伐つ

中隊文革報

第四十六筋

一見して知ることができるのは周の先王には僅か二章

しか使わず殿周革命に九章も費やしてお-殿王朝の方

が租神に多-の章を割いて夏殿革命には三章しか使わな

いのと対照的であるということである

周王朝開園を云う章をもう少し詳し-見てい-と

76積維元子帝何竺之投之干水上鳥何燐之

77何漏弓挟矢殊能渚之既驚帝切激何逢長之

后稜は上帝の長子であるのに上帝はどうして彼に

危害を加えたのか彼を氷の上に捨てると鳥はどう

してこれを暖めたのか

どうして弓をひきしぼ-矢を挟みすぐれた才能で

武婿となったのか上帝をも驚かすほどひどいことを

したのにどうしてその子孫は長-栄えたのかQ

后積が上帝の子であるのに迫害され鳥によって助けられ

たというのは詩経

大雅

「生民」と同様であるが周租后

礎の両的資質を云-のみであ

って農業費明には全-解れ

られていない77章は王逸注では前二句を后稜後二句を

武王の事績とするが洪興租補注は全部を武王の事績とし

朱子はその両方を疑問であるとす

78章以下では文王の

ことを云う章が績いてお-この章を武王の事虞とする課

には従えない聞

多や衰珂

氏は全部を后頑の事鏡とする

が必ずしも后榎に限定することはできない少な-とも

古公以前の

「神代」の先王のうちの誰かであることは確か

であろう後二句の

「上帝をも驚かすようなことをしなが

らどうして子孫が栄えたのか」という疑問が殿の租神と

「人王」の境目である上甲微を語る61章の後二句と似るか

らである周の先王を歌うのはこの二幸で終わ-であ-

そこでは先王たちの文化的功績は全-歌われておらず殿

の先王に比べて極めて冷淡な扱いである

78章以下は殿周革命にまつわる様々の問が寛せられるが

詩経

大雅に見えておらずまた考古学的な裏付けもない

俸説的な事件もい-つか見えているとはいえ神話的な奇

怪さには乏しいといえる0

79遷蔵就岐何能依O殻有感婦何所説

貴職していた重器を移して岐山にやって充たがどう

して人民がそれに従

ったのか殿には人を舷惑させる

26

女がいたというが何のために議話しょうとしたのか

前句についてはこれを文王に懸ける説

大王に懸ける課

あるが前後で文王のことを歌

っているので大王の事蹟と

するのには難があるとはいえその内容は詩経

大雅

「崩」

に云う古公宜父の事鏡に近-どちらに限定することもで

きない「大王から文王までの問」とする他ないであろ-

後二句は肘の妃である坦己を云うとされるがその何につ

いて問うているのかは明らかではないしかし両者とも

その

「答」となるべき俸説がこの時代に前後して現れてお

-前者については

1章で引いた孟子

染着王下後者に

ついては太平御覧奄

1三五引世本に

「村が有蘇氏を伐

った

時有蘇氏は坦己を妃にさし出した肘はこれを愛して言

うことを何でも聞いたために武王が肘もろとも殺した

云うのがこれに普たる

66到峯村窮叔旦不嘉O何親撰車足周之命以各嵯

肘の首をはねるに至-周公且はこれをよしとしな

かったどうして周自ら謀

って殿を討とうとしたのに

その行動は人民に支持されたのか

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

後二句は極めて難解であるがいま黒須重彦氏の解樺に従

う他の諸家にはテキストの文字操作で意味を通らせよ-

とする者も多い前二句を王逸は

「武王の舟に白魚が飛び

込んだので群臣が

『吉兆だ』と言ったのに封Lt周公が

『吉兆ではあるが吉兆と思

ってはならぬ』と戒めたことを

云う

と解しているがこれは史記

周本紀の記事を敦術

したものであって漢初の五行思想の産物である寧ろ所

謂伯夷

叔奔停説の前駆形と考えた方がよい

ここに引いた事件が果たして史寛であ

ったのか西周時

代に生まれた俸説か或いは東周以後の俸説であるのかは

容易に判断できないしかしいずれにしても西周人の

「神

代史」からは無税されていた事件が本来の形ではないに

しても再び記録される動きをここに見ることができるので

あ-結語で述べる

「神代史の再神話化」の萌芽であると

いえるO

このような新しい動きはあるものの天問の周開園神話

も始祖の神的誕生1英雄的事業の達成という基本的な構造

には全-襲わ-はないしかし全鰻を通じて諸王の文化的

27

中閲文革報

第四十六筋

功績には全-解れられていないばか-か周の先王=

租秤

に封しても極めて冷淡であ-殿に封する態度とは明らか

に異な

っているのである

このことは昔時の楚園が周文化よ-も殿文化の方により

親しみその信仰

習俗等を保持していたことの一つの讃

接であろう楚文化と殻文化の関係の深さは既に様々な面

から指摘されてお-例えば楚辞

九歌に見える「雲中君」

「河伯」の神がト辞にも

「雲」「河」神として見えているこ

とや西周末期のものと見られる楚の青銅鐘は殿の鍔と形

が似てお-その銘文も殿金文に似た雄滞な書鰻であるこ

とな

どが挙げられるこのよ-な現象が生じた過程として

は(一)歴代から楚は殿に臣屈してその文化を受け入れ

周の時代になっても表向きは周に臣属しながらも殿の文化

を保持し績けた(二)周代以後に国力を埼大した楚園は

への対抗上その文化を拒み隣接する宋園の殿文化を積

極的に導入したという二つの説が考えられる前者の立

場を取る者はその根接として詩経

商頒

「殿武」の

撞彼殿武奮伐剰楚突入其阻衷利之放有戟其

所湯孫之緒(一章)

敏疾なる武丁は奮起して剤楚を伐ち険しい山地

に攻め入って刑楚の兵士を虜にしその地を平げ

湯王の子孫として手柄を立てた

という部分を畢げることが多い

前述の如-商頭目鰻が

宋園の楚国

への対抗心から作られたものであ-我が国の

紳功皇后遠征説話と同じ-どこまで史寛を反映している

かは未知数であるしかも卜辞などの殿代の地下資料から

は昔時の殿楚関係を示すものはまだ見つかっていない

一方後者については史記

楚世家に周の夷王の時に

楚王熊粟が

「我は牽夷な-中国の詮親に興らず」と言っ

たという記事もあ-現時鮎ではこちらの説の方が有力で

あると思われるいずれにしても周とは言語や風土を異

にする楚閲で生まれた天問には意固したか否かはともか

-周文化の重税と殿文化

への傾斜が讃み取れるのであ-

周王朝側の論理で殿の文化碑の功績を壷-抹殺された詩経

商頭や周の文化神を構える詩経

大雅とは好封照を見

せているのである

28

結語及び除論

これまで述べ来

ったことを要約すると詩経や楚辞

問に見える殿周開園神話は始租の所的誕生1迫害1事業

(文化創造

天下統

一)の完遂という構造を持ち既に西洋

の英雄神話に於て指摘されている基本構造をここにも見出

すことができるただ西洋では

一人で行なわれることが多

い英雄としての事業が中国では教代に亙

って行なわれる

ことが多いという違いはあるところが殿の開園と周の

開園また詩経と天問の相互間で詳し-比較してみると

神々の文化的功績は神話が記録された常時の政治的な事情

によって抹殺されることがあるという事資に束づ-この

ことは中国に於ては剣を振るって活躍する英雄よ-も

文化を創始する

「聖王」の方が重きをなしてお-氏族や

国の威光を左右するものであ

ったということの一つの謹左

といえよう

詩経

大雅における周王朝開園神話は高租にして文化

神である后稜-公劉を神話的要素に富む叙事詩によって語

段周開園の紳話と

「神代史」(大野)

っているが

「人王」の代に至ると

殊に王李に新著に見

られる如-諸王にとってマイナスイメージを輿えかねな

い史寛は壷-制去され武力革命の成功を

「神代」から引

き継がれた輝かしい事業として稀讃している周王朝の開

園神話とそれに績-殿周革命の史糞は詩が記録されるま

での間に

「神代史」

へ改愛されたのであるそこに支配強

化のための王室神聖化という高度な政治的意圏が働いてい

るのは確資であろう

段の遺民の園である春秋の宋園における段王朝開園神話

詩経

商項の諸篇は最終的には周王朝側の人々によって

記録

編輯されたものであ-それ故殿人の信仰した文化

紳は義-抹殺され支配者としての周王朝の論理に基づ-

「神代史」に改変されているOそれに封して楚辞

天問の

殻王朝開園神話には卜辞にも見える租紳たちの神話的雰囲

気に富む物語が多-残

ってお-逆に天問の周王朝開園神

話では周の先王の文化的功績を無税していて宋国との政

治的

風土的立場の違いを明瞭に浮かび上がらせているの

である

- 29-

中国文学報

第四十六筋

か-の如-

神話時代やそれに績-歴史が為政者の手に

よって

「神話化」される場合は中開の諸秤の中で重い比

重を占める文化神が記録者の政治的立場に従

って改奨され

「人王」に封しては

「都合の悪い」史貴を切-捨てて

「神

代史」

へと仕立てられるのであるが東周時代になるとそ

れとは逆に「人王」にも神話素の一つとして解揮可能な俸

説が様々な書物に記録されるようになる既に引用した文

王の安里幽閉

伯夷

叔斉の餓死などがそれであ-

「人

王」の物語もこれによって組両と同様の典型的神話

へ近づ

いてい-のであるこれらが記録されたのは諸子百家の書

物であ-昔時の遊説家たちが民間に流布していた停説を

敬-上げて自説を述べるために用いたものと考えられる

これらの停説が古い形をそのまま保

っているか否かは全-

保護がないとはいえ政治力撃の働きに-いレベルに於て

「神代史」に再び神話的物語が付け加えられるようにな

たということはいえるいわば

「神代史の再神話化」であ

-

1般に

「中国古代王朝神話」として

1つの物語にまと

められているのはこうして

「再神話化」された結果の産物

なのであるこれらは確かに

「神話」としての要素を豊富

に含んでいるのであるがこれを中国古代神話の原型と見

なすことは不可能であ-上述の如-複雑な要因が絡み合

っているのである

こうして

「神代史」はたとえ元の形とは異なるにせよ

再び

「神話」としての光彩を放ち始めたところがこの

「神話」をまたも

「歴史」に固定してしまったのが他なら

ぬ史蓬であることは周知の通-である

しかし

「神代史の再神話化」の原動力とな

った

民間

に語-経がれた王朝停説のエネルギーもこれで絡恨したわ

けではなかったこうしたエネルギーはその後も小説に記

録された種々の歴史俸説などを生み出し形を襲えて生き

績けたのである

ところでこれまで本文中に取-上げなかった

一つの重

要な問題があるそれは

「楚園に古-から停わる楚人自身

の神々はど-な

っていたのか」という問題である

楚辞

天問にはその末尾に楚図の俸説と思われるものが

記されてはいるが多-の注帯家が匙を投げているはど難

30

解であ-筆者も今敢えてこれに挑戦するほどの飴裕はな

いoしかし離騒ではその冒頭で「私は帝高陽の未森である」

と歌

ってお-少な-とも屈原の時代では楚人は穎頭高陽

氏を租神としていたと考えられているが文化神に関する

記述は見えない

一方同じ頃に楚園で成立したと考えら

れている山海経

大荒西経には街頭の子孫の神々の事業

が豊富に記されている例えば重

寮の天地分離

太子長

琴の音禁孝明などである

これらの事章から得られる

一つの推測をここで述べると

楚辞に於ては楚人自らの文化両を表立

って取-上げられな

い事情があ

ったものと思われる楚語で書かれた「原楚鮮」

には書かれていたがそれを漢語に翻弄した際に宋図か

ら導入した殿の文化神に置き換えたのかも知れないそし

て自らの文化紳とその物語を速い

「大荒」の物語として

カムフラージ

ュしたのが他ならぬ山海経なのではなかろ-

かこの書が地理書の形をとっていることや他書に見ら

れない神話停説を豊富に載せていることなどは丁度我が

国の

『出雲園風土記』を思わせるものがあるまた殿の

殿周開国の神話と「神代史」(大野)

文化紳王亥が

「困民国」の人とな

っていた-楚の租神で

あるはずの蘭頂が

「額頭囲」なる図にいたとされているこ

となどもこの仮説の根嬢となろう

しかし最早紙幅も轟きているこの問題は山海経を中心

として改めて考察することにしたい

ば織井慶紀著池田末利編

『中図神話の文化人類学的

研究』(1九九〇平河出版社)があるoまたユング心理学の

立場から日本神話を分析したものとして河合隼雄

『中空構

造日本の深層』(一九八二中央公論社)等がある

近世以前の諸席の議論は専らこの怪異雫が信ずるに足るか

否かの次元に終始するが近代的な研究としては聞一多

「萎

娠履大人跡考」(『聞一多全集』第一射一九四八開明書店)

白鳥清

「段周感生神話の解揮」(『東洋学報』十五巷四親tT

九二五東洋協合学術調査部)出石誠彦

「上代支部の異常

出生説話について」(『支那神話俸説の研究』所収tl九四三

中央公論社)等がある

「帝上帝也」

「帝高華氏之帝也従於帝而見干天婿事賛敏也」

孔疏に

「頑柁郊礁之時英夫高辛氏帝率興供行妻娠随帝之

後践履帝迩行事敬而敏疾放鳥神歌饗紳既饗其条則

31

中国文筆報

第四十六筋

愛而拓之

於是為天神所美大為福緑所依止twz=得懐任則

震動而有身」と云う

例えば嗣西族の

『東巴控』に見える縛文字にこのことが窺

える附固三参照また河南省に俸わるロ東俸説によると

女桐が天から降ってきて伏義が地下から出てきたと云う

(陶陽

鍾秀

『中国創世神話』一九八九上海人民出版社二

一四頁)

附圏三

primeJ 一一一

~PJ虹互L

LJL

堅 室④

上部の 一へ は天下部の 皿 は大地を

表す圃①は中間に天地交合の気がありこれ

より荷物が生ずる固②の中間は蛙で天地交

合後の襲化を表す圃⑨では天地の間に男が上

女が下になっており男女の交合と同様にして

天地が人類を生んだことを表す

(陶陽 鍾秀 『中国創世神話』214頁)

「惟虞東学詩云人之初生皆裂胎而出騒失所依故堕地

郎帝惟羊連胞而下共産猪易故詩以

『如達』馬比o又常

熟陶太常元淳日凡嬰兄在母腹中皆有皮以豪之俗所謂胞

衣也生時其衣先破兄鰻手足少蔚放生之難O惟羊子之生

胸仇完具堕地而後母篤破之故共生易o后硬生時蓋戒於胸

中形鮭末露有如羊子之生者放言

『加速』今按前二説

是也下言

『不味不副』蓋謂其胞衣之不折裂也」(『毛詩俸

集通帯』巷二十五)

「徐君宮人娠而生卵以箆不詳秀之水演O猪孤母有犬名

鵠蒼へ猟干水溝へ得所弄卵衝以東蹄猪孤母以馬具凍俊

之逐沸成見生時正値へ故以為名徐君宮中聞之乃更録

取長而仁智襲君徐固」(博物志

異聞篇引徐値王志)

「高句凝着其先出自克明東明本北夷嚢離王子離王出

行其侍兄於後任娠離王達欲殺之侍見目『前見天上

有菊如大鶏子乗降我困以有嫉』王囚之後連生男玉

置之家牢家以口束嘘束不死o王以為所乃聴収養」(梁

諸夷俸)

北欧や古代

ハンガリー等に見られる豊富な例がKケレ-

ニイtCGユング

『神話撃入門』

一九五1(杉浦忠夫訳

1九七五晶文社)に引かれている

例えば壮族に俸わる

「種子と犬の尾」の物語では人々

「九尾狗」に天上の穀物を盗みに行かせたところ穀物を

九本の尾に-つつけて蹄ろ-としたところを番人に見つか-

八本の尾を叩き切られたが残-

1本の尾に穀物をつけて逃げ

師-人間は農業ができるようになったと云う

(陶陽

秀前掲書二七九頁)

32

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 4: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

十月十日を過ぎ最初生まれた時は子羊のようで胞

な衣が破れず傷つ-こともなかった后稜の蛋徴が明

らかになり上帝も安らかならず子求めの紀-にも満

足しなかった何とこんな子を生もうとは(二章)

そこで狭い道に后榎を置-と牛や羊は避けてかば

った平らな林に置-と木を伐る者に合

った冷た

い氷の上に置-と鳥が巽で暖めた鳥が去ると后積

は弧々の聾を上げたその聾は長-大きかった(三幸)

はいはいをするうちから立派な智慧があ

った自

いね

分で食を求め大豆を植えた大豆は茂-未は並ん

で億を垂れ麻や賓は地を臆すほど瓜の賓は鈴な-

になった(四章)

たす

后襖の稼穂には生長を

る技術もあ

った雑草

を除き良い穀物を植えた苗はよ-揃いよ-茂-

選ばれた種はよ-伸び花は開き穂は秀で資は墜-

立派で穂先はぴっし-並びか-して有部の家宣も

った(五章)

くろきひ

あかごめ

しろこめ

ここに下された良い穀物は拒

拒柱

殿周開転の神話と

「神代史」(大野)

あまね

-

植え刈-入れて畝に積んだ廉吉を恒-植え

抱えて背負い持ち蘇

って祭-を始めた(六章)

うすづ

我が祭-はどのようであ

ったか穀物を

取-出

ふる

し箕で

足で段むさらさらと米をとぎふわふ

かわらよもぎ

わと蒸す湯気が昇る祭-の次第を算段し

って脂を祭-雄羊を取

って祭-火で英-焼き来

年の豊年を願

った(七草)

たかつき

たかつき

自分は

に供え物を盛る木の豆や素焼きの

に香-が始めて立ち昇-上帝は安んじて受けた

何とその香-の時を得たことか后積が祭-を始め

罪や悔いの無いことを願いそうして今に至るのであ

る(八章)

后稜を歌う

「生民」の全文であるここに描かれる后積の

物語は(一)妻姫と上帝との通婚

(二)生まれた後の遺棄

と動物の助けによる再生

(equiv)自ら稼穂を創始し上帝を柁

るの三鮎に集約される

(1)については感生説話の代表例として古来議論が多い

が卑見では天地通婚のモチーフをここに見出すことがで

3

中国文畢報

第四十六珊

きる后積を生んだ普事者たる妾鯨と帝について考えてみ

るとまず妾妹の

「嫁」は史記

周本紀などでは

「原」に

作-「原」字は爾雅

帯地に「康平を原と日ふ」と云う如

-大地を連想させる

一方

「帝」は郵袋で

「上帝」と解し

て以来これが通説であるが毛侍

は人王としての帝尊と

解してお-「妾姫が帝拳とともに郊楳した後妊娠した」

という合理的な解帯を行な

っているしかし郊礁

(子求め

の奈-)は薩記

月令に

「仲春之月是月也玄鳥至

至之日以大牢両手高藤

天子親往(陰暦二月には燕が

まつ

来る来た日には牛

家を供えて高藤を両-天子親

らそれに出かける)」

と言う如-少な-とも毛侍の作ら

れた時代には疎神の助けを借-て子を求めようとする祭把

であると考えられていたのである毛侍に言う如き習俗が

「生民」詩の背景にあったとしてもその原初的な意味は

結局鄭隻に言う如き上帝との通婚であろう天神と人又

は天神と地神との遺贈は中国の各民族に俸わる人類起源

神話にも多-見られるモチーフであ-

租神を租両たらし

める要素であるといえる(二)は(一)に比べるとあま-重

要現されていないようであるが卑見ではこれこそ卵生モ

チーフの一撃形であると考える二章の

「先生如達不蛎

こひつじ

ぇな

不副無蕃無害」を馬瑞辰は「達

生まれる際には胞

破れないまま生まれ落ちる」という事例を引いて后積が⑥

生まれた時も同様であ

ったことを言うものと解してお-

以来これに従う者が多い胞衣に包まれた状態は外から見

れば無生物のように見えるが資は生命をその中に宿して

いるのであ-恰も卵と同様の状態であるしかも三章で

は最終的に鳥が暖めたことによって后積が

「誕生」したの

であ-後述する楚鮮

天問でも

「后稜を氷上に捨てると

どうして鳥が暖めたのか」と鳥が卵を暖めるように后頑

を暖めたことに注目しているのである卵生モチーフの例

としては他に徐侶王の出生

高句麗

東明王の出生

名であるがこれらに共通するのは生まれた卵が

一旦捨

てられてから保護されるという鮎であるここには古代

ーロッパ等の英雄にも贋-見られる

「遺棄

迫害1再生」

モチーフ

が内在しているといえよ-(三)については本

能的に自ら稼椿を行なったと云うだけであ-直ちに神話

- 4-

撃的な意味を決定するのは難しい敢えて卑見を述べれば

最後に自ら得た穀物と動物犠牲とを上帝に捧げていること

に注意が必要で中国西南の少数民族に俸わる農両

が園の記紀神話のウケモチ

ような自らの身鰻や生命を

犠牲にして穀物を得るというモチーフの痕跡がそこに盈さ

れているのかも知れない総じて后積には神的な誕生

迫害の後の再生

農耕文化の讃明という始租たるにふさ

わしい資質と事鏡が付輿されているといえる

后稜に績いてその曾孫とされる公劉が

「公劉」に歌わ

れている

篤公劉匪層匪康道場通産連帯適倉O遭裏鯨糧

干妻子嚢o思輯用光弓矢薪張干支戚揚婁方啓行O

(一章)

篤公劉干育斯原既庶既繁既順適量而無永歎

捗則在職復降在原何以舟之o維玉及環韓捧容刀

(二幸)

篤公劉干京斯依鎗鎗済済倖憂倖凡既登乃依

乃造其菅執家干牢酌之用鞄食之飲之君之宗之O

殻周開国の神話と

「神代史」(大野)

(四章)

篤公劉干幽新館渉澗馬乱取属取鍛止基連理

宴衆宴有爽其皇潤遡其過潤止旋乃密帯鞠之即

(六章)

情深い公劉は住居に落ち着-こともせず田地の

瞳を区切-穀物を積み蓄えた食糧を大小の袋に詰

たてほこ

め込み人々は囲結して威勢よ-弓矢を張-千

おのまさかり

を立てここに行旗を始めた(T章)

情深い公劉は着いた平原を国見した物産は豊か

で草は茂-民心も落ち着きのびやかに溜息をつ-

者はいない小山に登-また下-て平原を見歩-0

めぐ

公劉の腰に舟らすものは凧玉や美しい石鞠飾-千

侃刀(二幸)

情深い公劉はこの都に定任した人々は進み居並

びむしろや腰かけを並べ席に着いてよ-かかる

しもべ

つか

ふくべ

し家を牢から出させ鞄

酒を酌み人々

に飲食させ公劉は君主として振舞

った(四章)

情深い公劉は幽地に官室を建てた滑水を横切-

5

中国文畢報第四十六筋

といしいしづち

属や

を切-出し

礎を整え多-の人が住みつい

た皇潤を挟み過潤を遡

った所に人々はび

っし-

くま

住みつき川の丙鞠に沿

った(六章)

全六章のうちの四章

T章で板横地造営

への出費二章で

国見四章で饗宴六章で板接地の完成と章展を歌う0形

式面では全篇に亙る

「篤公劉」のリフレイン「遭

OL

「既

O」といった助字によるリズミカルな修辞法など

「生民」と共通する所が多い内容面では

「生民」の如き

神的な誕生や迫害などは無いものの板接地完成に饗宴が

付随している鮎が

「生民」に似る四章の饗宴が単なる無

薩講でないのは

1讃して明らかであるLt「生民」と

劉」の間に置かれている詩四篤のうち

「行葦」「既酔」「

鷲」の三篇までが祭天の儀式を伴う饗宴詩であることから

考えてもこの饗宴場面には家を殺して上帝に捧げる儀式

が含まれていたものと思われる

か-見ると詩経

大雅における后硬と公劉は事業完成

とそれに伴う祭天という鮎では比較的よ-

一致してお-

共に西周人にとっての高租神であ

ったと考えられる后頑

「食」を開拓したのに続きその曾孫公劉が

「任」を開拓

したのであ-恰も山海経

海内経で

「后稜が百穀を播き

その孫叔均が牛耕を始めた

と云うのに似ているここで

の叔均は后稜から分化してその功績を補完する役割を持

てお-公劉も同様に租神の資質をもつ后頑から分化し

てその事業を襲展させる神とな

ったのであろう公劉に奇

怪な誕生の話がないのもそういった英雄的資質を后頑か

ら引き縫いでいるためと考えればうま-説明できる

公劉の十代後とされ文王の骨組父である古公豆父の事

鏡は

「締」に歌われる

鮪解瓜腔民之初生白土汎漆O古公宜父陶復陶

穴未有家室(T章)

周原廉廉重茶如飴宴始宴謀宴契我亀日止日

時築童子茶

(三章)

乃召司空乃召司徒倖立室家其縄則直縮版以

載作廟巽巽(五章)

建立皐門泉門有伏廼立鷹門鷹門賂購廼立家

土戎醜恢行(七草)

6

韓不珍庚憶亦不眠欧問種械扶桑行違先夫混

夷戯臭維其喚臭(八草)

虞帯質蕨成文王amp庚生予日有疏附予日有先後

予日有奔奏予日有禦侮(九章)

長々と伸びる瓜の蔓そのように連綿たる周の民が

生まれた時は汎漆の地に居任した古公宜父は土

をこねて穴を作

って住みまだ宮室を持たなかった

(一章)

たがらし

のげし

周原はよ-肥えて董

飴のように茂

ってい

た国都造営を始めよ-と謀-亀卜を行なうと「こ

こに止まるがよいここに官室を築け」と出た(三章)

土木の官を召し出し土地の官を召し出し宮室を

建てさせた墨縄をまっすぐ引き板を縛

って間に土

を詰め狂いな-廟を作

った(五章)

外門を立てれば高-そびえ立ち正門を立てれば

いかめしい構え大社を立てれば多-の人々が集ま

った(七草)

ほまれ

さて周人の怒-は絶えずしかしその

落とされ

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

なかった雑木を沸い道が通じると混夷は恐れて

逃げ息切れするほどであ

った(八草)

虞園と苗圃が和議を求め文王は興起の勢いを動か

した文王は言

った

「追随する園もあ-

前後から

取-奄-図もある我が閲のために働-園もあ-外

敵を防ぐ園もある」と(九章)

全九章の-ちの六章八

九章は難解であ-諸説紛紛とし

ているが古公ではな-文王の代に時が移

っているとする

鮎では概ね

一致している宮室を持たぬ原始的状態1閲見

1板接地造営という内容は

「公劉」詩に似るが饗宴の場

面がないことや司空

司徒の官名や泉門

庶門の制度な

ど高度に額展した制度鮭系が見えることまた詩型の面で

も大雅の開園叙事詩では唯

Tの

「鮪館瓜腰」という興が見

えることなど

「公劉」詩とは異質のものを感じる

いわ

「神話臭の治失」であ-

「新しさ」である后頑ととも

「神代」の始組神であ

った公劉と異な-古公は西周人

にとっては

「人王」であ-茸在人物として扱われていた

と思われる

中国文学報

第四十六桝

古公の子である季歴は「大明

「皇臭

詩に

「王季」の

名で見えるしかし大任を撃

って文王を生んだことを構え

るのみで自らの聖天子たるにふさわしい事鏡は何も語ら

れていない大雅の開園叙事詩で名が出ていながら英雄的

な事虞が語られないのはこの王季だけで後世の文献例

えは史記

周本紀でも

「徳行を情めた

と云うのみであ-

考えてみれば誠に奇妙なことであるしかしこの間題に封

する答えは後に明らかにされるはずであるから今は王李

の子である文王とその子武王の方

へ進むことにしよう

殿周革命の主役として誰もが知っている文王と武王は

「文王」「大明」「皇央」「文王有壁」でその事蹟が歌われ

ている文

王在上於昭干天周維奮邦其命維新有周不

蘇帝命不時文王捗降在帝左右o(1章)

穆穆文王於緯無数止候哉天命有商孫子商之

孫子其覧不億上帝既命侯

干周服(四章)

いま

文王は天に坐しああ天に輝かし-坐す周は古

い園であるが天命が新たに下された周は大いに輝

かしく上帝の命も時宜にかない文王は天地を上下

して上帝の左右に坐す(一章)

つつし

慎み深い文王はああ敬むこと績いてやまぬ偉

たも

大なるかな天命は商の子孫を有たせた商の子孫は

かず麗は十寓に止まらないが上帝の命は下-彼等を周

に蹄順させた(四章)

「文王」全七草のうち二章内容的には叙事詩というより

頒詩に近く

后稜の神的誕生のような神話臭はないがこ

こでの文王は天地を上下して上帝に仕えることのできる存

在であ-神格化されているといえるしかし文王がもと

もと神であったとい-のではなく

古公と同様に

「神代」

から引き継いだ英雄的資質によって天命を得て殿の民を

支配するという事業を行ない「人王」から「紳」へ昇格し

たものと考えるべきであろう

作乏尿之其蕃其繋情之平之其濯其例啓之静

之其樫其梓撰之刻之其腰其柘帝遷明徳串夷

載路天立欧配受命既固(二章)

帝謂文王無然畔接無然款羨誕先登干岸密人

不恭敢距大邦侵院狙共王赫期怒宴整其旗以

按狙放以篤子周砧以封干天下(五章)

普作

って除-のは立ち枯れや倒木切-整えて平ら

げるのは

濯木や並木

切-開き押しのけるのは

かわらやなぎ

へぴのき

やまぐわ

はりぐわ

って例-取るのは

上帝

は明徳ある王に味方Lt串夷は道にあふれんばか-に

逃げ出した天は文王の配偶大姐を立て固-命を授

け給うた(二章)

そむ

上帝は文王にか-のたもうた「人心を

せては

ならぬo気ままにさせてはならぬ」とOそこで高所に

登って観察すれば密園の人は従わず敢えて大国に

逆らい陳園を侵し共園

へ進軍しているO王は激し-

怒-

ここに軍旗を整え密図の行軍を阻み周の

さいわい

埼Lt天下に戒を示そうとした(五章)

「皇臭」全八草のうちの二章二章では公劉や古公と同様

の板接地造営を歌うが「天命」を受けるや否や五章に

云う如-密国を征討しょうとする

有命日天命此文王千周干京績女維草長子維

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

行篤生武王o保右命爾嬰伐大南(六章)

殿商之放其禽如林矢干牧野維予侯興上帝臨

女無武爾心(七草)

牧野洋洋檀革塩塩駆厨彰影O維師伺父時維鷹

揚掠彼武王韓伐大商脅朝清明(八草)

天よ-命は下-我が文王に命は下った周の都で

後を鮭ぐ妃は宰園の女この長女がやって来て天は

武王を生ませ給い守-助けて命じ給うた

「大南を

討伐せよ」と(六章)

殿の大軍は林の如-集まった武王は周軍に牧野

ちか

で失

った

「ここに我々は興起する上帝もお前達を

見ておられるぞ戒心を抱いてはならぬ」と(七草)

牧野は贋々として戦車は輝き烏は勇み立つ太

公望呂筒は鷹の如-猛-立つ輝かしい武王は大

商を存分に伐ち取-合戦の朝は晴れ渡った(八草)

「大明」の終わ-の三章牧野での殿との合戦が活寓され

るが武王のこの功績もやは-文王から受け縫いだ「天命」

あってのものである

9

中国文革報

第四十六

文王受命

有此武功既伐干崇作邑干豊o文王桑

哉文

王は天命を受けこの武功を立てた崇園を征討

すると豊に都邑を造営したすぼらしい文王よ

「文王有壁」の第二章密園征討と並んで文王の主要な武

功とされる崇園征討を歌うものであるがこれも

「天命」

によって行なわれたものとされている

詩経

大雅の落第から直接知ることのできる周王朝開園

の物語は以上の通-であるこれを后稜から文武までひと

績きに眺めてみると始租にふさわしい神的な誕生から始

まって迫害を受けた末に諸文化の開拓更には武力によ

る天下平定とい-英雄的事業を完成させるのであ-これ

は丁度Eノイマンらによって指摘されている英雄神話の

典型的なパターンとも合致する后積-公劉-古公-文王

-武王の五王が全鮭として恰も

1人の英雄の如き振舞いを

見せているわけである

しかし仔細に見るとこの五王の中で后稜-公劉古公

文王-武王の三者には微妙な違いがある后穆-公劉の物

語は神話的な雰囲気が濃厚であるのに対し文王-武王に

関しては

「紳懸-」的な奇蹟は全-見られず武力行使に

及んだ根嬢としての

「天命」ばか-が強調されているそ

してこの両者の中間的な存在として古公がいるのである

いわば古公を境にそれよ-前が

「神代」であ-それよ-

後は

「人の代」として描かれているといえる

か-見ると古公以後の物語は開園の

「歴史」であ

って

「神話」として扱うにはふさわし-ないという人もいる

かも知れないそれにもかかわらず筆者は古公から武王に

至る物語は

「歴史」として作られたものではな-歴史が

神話の一部として改襲された

「神代史」

であると考える

なぜなら考古学的に知られる殿周革命前後の歴史には詩経

と大き-ずれる部分があるからである

后積や公劉は周原卜軒や金文には全-見えず神話上の

人物であることを疑う者はいない古公賓父については

文王の租父たる大王と同

一人物と考えることに疑問を向け

る説があ-例えば顧訴剛は古公は周王朝創建時の王で

あ-大王は周の国力が強盛になった時の王であると考え

10

⑬たOしかし

「轟」詩のところで述べたことを考えれば古

公を周王朝の租とする課には従い難い現在鹿-支持され

ている説では殿が常時山西省に居た鬼方を討

った結果

彼等が西方に移動して周を歴迫したため周は幽から岐山

に移ることを飴儀な-されたと言う

具鰻的な国名などに

はなお問題があるとはいえ周が異民族の歴迫で岐山に移

ったという事寛があ-それが

「崩」詩にも反映されてい

るのは確かであろう時代が下がると孟子

梁意三下に云

う如-

「古公が徳を守

って岐山

へ逃げ人民も彼を慕って

共に移動した」という儒家道徳による合理的解帯が行われ

るようになるのは周知の通-である

王李は前述の如-詩経ではその事蹟が全-記されない

ところが古本竹書紀年には

殿の武乙三十五年王李が西落鬼戒を伐ち二十雀

王を捕虜にした(後漢書西完博引

)

殿の文丁が季歴を殺した(青書束管俸史通疑古

社説上引)

といった記事が見え文丁期の卜辞にも周を伐つことの可

段周開園の神話と

「神代史」(大野)

否をーつたものがあるOしかもその7万で同じ古本竹書

紀年に

殿の武乙三十四年周の王李が来朝し武乙は土地

三十里玉馬を賜興した(太平御覧巷八三引

)

とあ

ってこの時期の卜辞にも周を

「周侯」と呼んでいる

ものがあ-周は段の侯国として厚遇されていた面もある

のである「大明」詩での王李は殿と関係の深い拳闘から

大任を迎えてお-史寛とすれば政略結婚である王李の

頃の周は殿と虚々賓々の駆け引きが績-緊迫した関係にあ

ったのである

王李のこうした

「行状」は竹書紀年に記事が残されて

いる以上常時の史官によって記録されていたはずである

にもかかわらず詩経ではそれらが殆ど無税されていると

すれば大雅の諸篇が作られた時から記録されて現在の形に

なるまでのいずれかの段階で意固的に例除されたと考える

のが愛常であるどの段階で刷られたかを決定するのは言

うまでもな-非常に困難であ-例えば

「解」詩で七草ま

で古公の根接地造営の話が績-のに八草でいきな-

「韓

ll

中国文革報

第四十六射

不珍膜性」と文王の代に飛ぶのはあま-にも唐突であるこ

とから七草と八草の間に王李が殺害されたことを歌う章

があ

ったと推定することもできるが残念ながら確認する

すべはないしかしいずれにしても我々が常識的に考え

れば王李が殿に殺された事寛を語ることによって王季1

文王-武王を悲劇の英雄に仕立てられ殿周革命の物語に

一層の彩-を添えられるはずであるのにそれらが轟-酬

去されているのである

文王と武王に関しては詩経に見える密

崇征討等は周

原卜辞等に照らしても史貴であ

ったらしいしかし後世の

文献に見える

「村が文王を安里に幽閉したが文王の部

下が賄賂を使

って救出した

とか

「伯夷と叔斉が武王の武

力革命を悲しんで首陽山で餓死した

とかいった物語は詩

経はもとよ-古本竹書や地下資料にも全-見えていない

之を要するに古公以下の

「人王」についてはマイ

スイメージを興えかねない物語は

一切語られていないので

あ-そこには諸王の威光を高めようとする政治的要請が

ったと考えられる后積や公劉は

「神代」の高租神であ

るから神話的要素に富む怪異な物語をそのまま停えても

不都合はないしかし古公以下は所詮

「人王」であるから

紳懸-的な奇蹟を附合すれば虞寛味が乏し-なるしその

一方では

「神代」から績-聖王の血統を誇示する必要があ

る勢い

「都合の悪い」史宜を無税して「輝かしい事業」

のみを賞揚する方向

へ向かうことになろうその敏寄せを

まともに食らったのが他ならぬ王李であ-殿に朝貢した

-殺された-した史資をそのまま記せば

「王統」の威光

を傷つけるのは明らかであるから大任と共に聖天子文王

を生んだいわば橋渡し役としてのみ名を留めることにな

ったのであるこのような

「歴史の神話化」の結果詩経

大雅の叙事詩語笛は周王朝開園の

「神代史」として西周

貴族の問に俸えられていったのである

二詩経

商頚の殿王朝開園神話

詩経

商頭の詩篇は鄭玄の商頭語で

「末の戴公の時に

大夫正考父が十二篤を得たが孔子が詩を編纂するまでに

七篤を失

った」

と停えられ今日に至るまで定説となって

12

いる現存する五篤の中には玄王

相土

湯及び中興の

武丁の名が見えている

殿の始租誕生を歌う詩として古来よ-引かれるのは

「玄

鳥」の冒頭の二句である

天命玄鳥降而生商

天は燕に命じ下士

へ降らせて商租を生ませた

鄭集がこの二句を

「天が燕を下士

へ降らせたというのは

その燕が残した卵を有城氏の女簡秋が呑んで殿租契を生ん

だからである」

と解して以来これが定説となっているし

かし森三樹三郎氏が既に指摘しているようにこの二句だ

けを見ている限-

「燕の卵を呑んだ」という事寛は直ちに

導き出せないのであ-この説話が商頚が作られた春秋時

代の始租神話そのままであるかどうかは頗る疑わしいし

かし玄鳥なる鳥が天と下士の間を往来して南畝を生ませた

ことはこの詩からも讃み取れるのであ-少な-とも春秋

の来園では殿租が天地通婿で生まれたとぎれていたと言う

ことはできよう

「長襲」にはやは-殿租とされる玄王とその孫とされ

段周開園の紳話と

「紳代史」(大野)

る相土が登場する

溶哲維商長顎其群洪水

巴だ高教下土方外大

国是瞳幅限既長有域方渚

帝立子生商(1章)

玄王桓掩受小国是達受大国是達率履不越途

観能登相土烈烈海外有載(二章)

きぎし

明徳なる商王その

現れて久しい洪水が贋が

った時南は下士の四方に功を敷き外の大国とを区

切-中国の虞さは遠大になったO有城氏もその時勢

力を埼し上帝は有城の子を立てて南国を作られた

(一章)

玄王は武徳があ-小国に封ぜられてもよ-治め

大国に封ぜられてもよ-治め薩に従

って越度な-

しめ

教法を現して行なわせた相土は武威輝かし-海外

の諸国を平定した(二幸)

この詩の

「玄王」は毛俸

鄭隻の如-殿租契のことで

「玄鳥」詩の商租と同

一であると解するのが普通であるが

白虎通

文質

(l名瑞賓)篤は玄王を湯と解してお-漢書⑳

鰻柴志は契(高)と玄王は別人で共に段租であると解する

13

中国文筆報

第四十六筋

相土は周鰻

校人注引世本で

「初めて乗馬を作

った」

と云

いこの詩で武勇の王として描かれていることと関連があ

るものと思われるしかし玄王

相土共に具鰹的に如何な

る事鏡があるのかはあま-括かれず神話としての考察を

かな-難しいものとしている

相土から十

1代後の子孫とされ夏案を伐

って殿王朝を

隆盛

へ導いたと俸えられる湯は同じ「長顎」に見えている

帝命不達至於湯秀湯降不遅聖数日頗o昭倣遅

遅上帝是砥帝命式千九園(三牽)

武王載端有虞乗鉄如火烈烈ー則莫我敢局萄有

三幸莫逐莫達七九有有載葦顧既伐昆吾夏架o

(六章)

上帝の命は誤-な-湯に至って天命と合合した

湯の生まれること期に麿じ聖徳は日々に高まった

天にも明らかに至る徳は久し-止まず上帝も愛敬し

て九州に法を示させた(三章)

武王湯は旗印を立て固-銭を撞-火の如-勢い

とど

もと

盛んなれば誰も敢えて長めることはできない竜株

ひこば

に三つの

生ずるといっても生長しきることは

ないO湯は九州を平らげ垂の葦図

顧閲と昆吾氏

竃の夏架を伐

った(六章)

湯が

「天命」を得た後に諸国を征討して九州を統

一したと

いう内容であ-大雅における文王や武王と同じ-始租

の神的資質を引き継いで天下統

一の事業を完成させるので

ある

これらを全鰻的に眺めてみると商租の神的誕生1

相土

湯の天下平定という流れは大雅における周王朝開園の物

語と同様のパターンであ-また請王を武徳の王と稀える

のに終始して請王にとってマイナスイメージを興えるよ

うな話が記されないのも大雅の文王や武王と同様である

商頭の諸篇が大雅以上に尖鋭な政治的意圏を以って作られ

たことは白川静氏も

「末に興

った膨折たる国家意識を背

景としてその抗争老たる刑楚に封する敵封感情の昂揚

を目的とし」たと指摘する通-であ-諸王の武勇ばか-

をことさら強調するのも肯けることであるところがも

しか-の如-商頭諸第が宋人の

「神代史」であるとすると

14

殿の諸王の文化的功績が殆ど歌われていないのは何とも不

思議な事賓である常時

「南賛歌舌」

の園であったはずの

楚と争うのに自らの文化的先進性とその由来を誇示しな

いということが果たして考えられるであろうか

結局宋人の殿開園神話を西周人の周開園神話と比べた

時の問題鮎は(一)後に

「契」と呼ばれるようになる殿租

の正睦(二)両者とも同様の構造を持ちながら殿開園の英

雄たちに文化的功唐が見られない理由tの二鮎にまとめら

れるo前者については戦国時代の楚国における殿開園神

話を記す楚辞

天問や殿嘘卜辞に見える殿の高組神など

にこの問題を解-鍵があろうと思われる後者については

まず宋園と同じ春秋列国である魯園で作られた詩経

魯頚

を参照するとある程度の推測が得られる

問官有他賓資枚枚赫赫妻嫁其徳不回上帝是

依無災無害禰月不遅是生后頑隆之百福蚕種

重移穂塀寂穿奄有下図倖民稼橋有稜有黍有

侶有拒奄有下士績南之緒o(1章)

后稜之孫資維大王o居岐之陽賓始易商至干文

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

武濃大王之緒致天之眉千枚之野無武無虞上

帝臨女敦商之族克威厳功王日叔父建爾元子

伴侯干魯大啓爾字鳥周室輔O(二章)

奥深-清い宗廟は堅固で美しい輝かしい妻糠は

その徳も貞正であ

った上帝も心をよせて無事に子

を生ましめ十月十日を遅れることもなかったここ

さいわい

に后積を生むと天は多-の

降したそれは黍

もちbぴ

おくて

わせはやうえ

おそうえ

まめ

や穿後に領下の閲を

くろきび

治め民に耕作させた稜や黍もあれば楢や

ある下士を治めて后稜は南の事業を縫いだ(一章)

后稜の子孫はかの大王宜父岐山の南に居任した

時始めて殿

への臣展開係を慕

った文王と武王に至

-大王の事業を縫いだ殿の天命の終わ-は牧野の

地でやって来た「武心を抱いた-心配してはならぬ

上帝も見ておられるぞ」武王は殿に勝

ってその人民

を治めその功績は先王たちにも等しい成王は言

た「叔父周公よ

そなたの長子伯禽を立て魯園の

侯とし大いにその土地を閃かせ周室の輔けとさせ

15

中開文革報

第四十六冊

よ」と

(二章)

「関宮」全九章の

うち二幸O魯図はこの詩にも云う如-局

公の長子伯禽が封ぜられた図であり周と同族であるから

曹然周租后稜に始まる諸先王を構えているわけであるが

后稜の農業創始を

一章全部を費やして

「南の緒を鰹ぐ」と

賞揚する割には文王

武王の殿周革命に封しては素束な

い描き方である寧ろ大雅の詩篇よ-も先王の文化的功績

に重きを置-といえる

1万の宋園は肘王の庶兄微子啓が武王に封ぜられた園で

ある宋園は殿の穫柴を修め殿の習俗を堅持し績けたと

俸えられる

所詮は被征服園である自らの租先を高ら

かに賞讃することに封して何らかの政治的願力が働いたこ

とは想像に難-ない「七筈の詩が亡伏した」という商魂

譜の記事は或いはこのことに関係があるのではないか

この失われた詩の中には

西周の

「生民」

「公劉」詩の如

-殿代よ-俸わる文化神を歌う詩があったのではないか

この推測をよ-精確に検討するにはやは-宋園以外の

園に俸わった殿王朝開園神話の一つとしての楚辞

天問を

参照する必要があるそこで次章ではまず殿嘘卜辞に見え

る高組神について検討し次に楚鮮

天間の殿王朝開園を

問う部分について考察した後これらと商項とを相互に比

較することにしたい

三卜辞及び楚鮮

天問の殿王朝開園神話

卜辞は占卜のための文句を記した文字資料であ-もと

よ-神話の記録を目的としたものではない従

って殿人の

間に俸えられていた殿王朝開園の物語を卜辞によって復元

することは言うまでもな-不可能であるただそこには高

租神や先王をはじめ様々な神の名が見えてお-これを後

の時代の殿王朝開閉神話と比較することによってその神

話がどれ位原初の姿に近いかを推定することはある程度可

能である

さて殿人にとっての最高碑は周知の如-上帝であ-

卜辞にも

「帝」として見えていて風雨などの自然現象を

支配し人事に禍福をもたらす存在であることが知られて

⑲いる

16

この上帝に封しては直接条把が行なわれることはないと

い-のが通説であるが島邦男氏によれば絶無という諸で

はな-締把が行われる例が三例あるこの締紀は上帝の

みならず高租神や先王に封しても行われてお-例えば

羅振玉

『殿虚書契緯編』

一-二-

一片に

点締子王亥

貞-王亥に繭のまつ-をせんか

董作賀

『乙篇』四五四九片に

葵未卜両税乙

英未に卜す租乙に蹄のまつ-をせんか

とあることから

恐ら-張光直氏の云う如-

「殿の人びと

『帝』は先租の絶稀であ

ったかあるいは先租の観念

の1つの抽象化されたもの」

ということになろう

上帝と同様の祭紀が行われる租神の-ち「高租」と呼

ばれるのは愛

王亥の二人である

愛は変とも揮され王⑮

図経が

「暑」と塵韻であることなどを理由に帝尊と解して

以来これが定説となっているO帝聾は後の時代の文献に俸

える所では自らの文化的事業や武勇に関しては何も記さ

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

ずただ殿組契と周蔵后榎の共通の父祖であると云うだけ

であ-上帝的な存在であ

ったとするのが諸家の1致した

見解であるしかし殿代に於ては

「帝」と帝替即ち愛は区

別されている以上完全に同

一であ

ったとはいえず上帝

と人王をつなぐ役割を持つ始租神として奉られたものと思

われる前述の如-愛が抽象化したものが上帝であ-

逆に言えば上帝が人格神化したものが愛なのである

一方の王亥はどうであろうか山海経

大荒東経に

有困民国-王亥託干有易河伯僕牛有易殺王亥

取僕牛

困民国で-主

亥は有易園と河伯園に自ら飼い馴ら

した牛を預けた有易園の人は王亥を殺し牛を奪

この候の郭瑛注が引-古本竹書紀年には

殿王子亥賓干有易而淫蔦有易之君鯨臣殺而放之

是故殿主

(一作上)甲徴候師子河伯以伐有易滅之

途殺其君紹臣也

殿の王亥は有易園

へ客として赴いたが行ないが悪

- 17-

中国文学報

第四十六放

有易の君主摘臣が彼を殺してしまったそれで段

の上甲微が河伯図の軍を借-て有易を伐ちこれを滅

ぼし君主鋸臣を殺した

と記されているまた初学記撃

九引世本には

「骸が

牛を飼い馴らした」とあ-この膜も王亥であると考えら

れている少な-とも東周末期に於ては王亥が牧牛を行な

ったという俸説があったのであ-王亥を論ずる人の多-

はこれに注目し彼を殿の文化紳であると考えている

「高

租」と特別扱いされる租神の一人であることを考えれば

王亥が文化面で多大な功績を上げ原始状態から文明状態

へと殿氏族を更展させたことは十分に考えられる

もしそうであるならば前章でその存在を示唆した

「殿

の失われた文化紳」はまさにこの王亥ということになる

既に述べた如-詩経

商煩の段王朝開園神話に封しては

それと系統を異にする楚辞

天問という比較資料もあるの

であるから次にこちらの方を見てみることにしよう

fTD

天問は古来極めて錯簡の多い書と言われる

その中で

殿周開園に関する部分は比較的次第がまとまっている湯

以前の駿の先王が措かれるのは55-聖早であ-簡秋と尊

の通婿から始まっている

55簡秋在董卓何宜玄鳥致胎女何喜

筒状は高い槙童にいたが尋はどうして見そめたの

か燕が滑-物を持

ってきたのを筒状はどうして喜

んだのか

古来詩経

商頒

「玄鳥」と同じ-簡秋香卵の説話を云うも

のと解されるがこれも

「玄鳥」詩と同じ-この二句だ

けから呑卵の話を導き出すのは難しいしかしこの通解が

行なわれた高い

「董」は天地の間を繋ぐにふさわしい場所

であ-鳥が天から

「胎」を授けることなど天地通姫を

描-ことには襲わ-はない天問では上帝には

「帝」とい

う呼稀を使

ってお-ここでの

「魯」はー辞の

「愛」と同

じく上帝の人格化したものと思われる

この二句は不思議なことに簡秋と啓が誰を生んだのか全

く言わないテキストに脱落がなければ次の章の登場人

物を簡秋の子と考えるのが最も素直であろうところが次

に登場するのは

「玄王」でも

「契」でもない

18

56該乗季徳頗父是滅胡絡弊干有屈牧夫牛羊0

57干協時舞何以懐之平脅鼻膚何以肥之

58有屈牧豊云何而逢撃林先出其命何徒

壬亥はその父季の徳を縫いだが父は立涯な人であ

ったどうして王亥はとうとう有易園に落ちぶれそ

ゐ牛羊を養

っていたのかO

たて

あわ

いだ

協せて舞う女を見てど-してその女を

のか

平らかな脇腹に細やかな皮膚どうしてこの女

まじ

ったのか

王亥は有易園の牧童にどのようにして合

ったのか

寝込みを襲われて先に逃げ出したがどこから逃げ出

して助かったのか

56章の

「該」を王逸は

「竜也」と解しているが晴代に至

って王関連が人名ではないかと疑問を呈出L

t

王国経が卜

軒との対照によって王亥であると断じて以来この説が支配

的であるこの四句も前途の山海経や竹書紀年と共に王

亥が牧神であ

ったことを示すものとしてよ-引かれる57

章は難解であり注揮家ごとに説が異なると言

ってもよい

股周開園の神話と

「紳代史」(大野)

ほどであるが王亥の婚姻のことを云うとする需介甫氏

黒須重彦氏の説に徒う58章は王亥が殺されそうにな-な

がら辛-も逃れたことを云い前に引いた山海経などの所

侍と関係があるものと思われる

この三幸の記述から王亥の迫害と文化創造のモチーフを

見出すことはさほど困難なことではないし簡秋と孝によ

る殿租の神的な誕生も前章までに述べた例と同様に何ら

かの形で王亥に英雄的資質をもたらすものと考えられる

簡秋が生んだのが王亥であると断定できれば話は簡単なの

であるが56章には王亥の父としての

「季」が登場してお

り従

って天問に於ては簡狭

暑-季1王亥という系譜が

成立していたことになるしかし卜辞に見える

「季」は高

租でない租神の一人にすぎず

「高租王亥」が

「季」を父と

していたとは考え難いo

l鮭に卜解における租紳相互間の

父子関係は不明な部分が多-本来は寧ろ横

一列に並ぶ関

係であ

ってどれも

「租先」に襲わ-はないのであ-果

たした功績や役割の違いによってそれぞれに分化したもの

と考えた方がよい卜辞における

「季」の神威は他の租紳

19

中国文革報

第四十六桝

と襲わらないが

天問では尊と王亥との橋渡し的な性格に

襲わったのである

59恒乗季徳蔦得夫朴牛何徒費班緑不但遠来

王恒も李の徳を鰹ぎ王亥の養

った僕牛を得たど

あまね

はどこ

うして狩-に行

って獲物を

-

民に

ただ行

って

締るだけに止まらなかったのか

「恒」は王遠江では

「常也」と云うがこれも王国経が卜

辞に見える王恒のことであると解して以来諸家概ねこれ

に徒う「班稀」は近年の解帯では

「官位」「栄達」等に解

され

「王恒が有易図で出世しょうとした」意であるとす

るがす

っき-しない解輝であるー辞に見える王恒は

弓の形の中に

「恒」字を入れたものもあ-寧ろ

「湯は狩

-に往-際ただ行

って締るだけではな-民に編-施し

を輿えた」とする王逸注の方が原初的な意味に近いと思わ

れる但し主語は湯ではな-王恒である張光直氏は王恒

と罪に何らかの関係があるのではないかと考えるが

それ

よ-は駿人の狩猟柵であ

ったと考えた方が良いかも知れな

いただ王恒の事境を記した文献が他に存在せず容易に

結論を得難いのは残念なことである

60昏微遵述有狭不寧何繁鳥葦棟負子韓情

61絃弟遠軽危害顔見O何襲化以作許後嗣而逢長

上甲微は父王亥の事鏡を鮭ぎ有易園は安定を保て

ず滅びたどうして有易の人民は妹に止まる鳥のよう

に苦しんでいるのに上甲微はその子女にまで横暴な

ことをしたのか

目の陪んだ請弟はみな道ならぬことをしその兄上

甲微に危害を加えたのにどうしてうま-ごまかして

その子孫が長-祭えることになったのか

この二章も本づ-所がはっき-せず難解であるが「昏微」

はやは-王国経が上甲微のことであるとしてお-その事

蹟を云うものと考えられる上甲微は卜辞で系譜が明らか

な請王のうちで

一番古い租先に普た-いわば

「人王」の

租であるがここでは王亥と同様の迫害モチーフが再び現

⑳れその事鏡は既に神話化されていたものと見られる「何

襲化以作詐後嗣而逢長」の二句はそ-した神話であるが

故の不合理性を問うているのである

- 20-

62成湯東巡有等宴極何乞彼中臣而吉妃是得

63水漬之木得彼中子夫何悪之腰右筆之婦

64湯出重泉夫何皐尤不勝心伐帝夫誰使挑之

湯は東方

へ巡狩Lt有等園までやって来たど-し

てあの中臣伊声に乞い求めて良い妃を得たのか

水蓮の木から有等氏の君主は伊声を得たとい-が

どうして伊声を嫌

って湯の妃に付き添わせたのか

湯は重泉の牢獄から出て来たがそれは何の罪だっ

たのか正義を求める心を抑えられず実を伐

ったが

誰が彼をそうさせたのか

商頭における湯は夏架や尾吾氏を伐

った英雄として非常に

多-の紙幅を割いて賞揚されていたのであるが天間では

僅か三幸で終わ-しかもその年分は彼の名臣伊声のこと

に費され天下を平定した聖王にしてはかなり冷淡な描き

方である多-とも王亥や上甲微などと同等の重さしか持

っていないといえるしかしこの簡単な記述は神話的な趣

きに富んでいる伊声は呂氏春秋

本味簾で

「有佐氏の女

が空桑の中から嬰兄を得て

それを君主に献じ君主は

般周開乾の神話と

「紳代史」(大野)

料理人に彼を育てさせた」云々と書かれるような俸説をも

つがその原型とみられる記事が63章にあ-64章の

「湯

出重泉」も森安太郎氏が

「陽

(太陽神)が海の下を-ぐっ

て再び現れ出る様子」

と解したほどであるその虞偽は措

-としても

「重泉に囚われてから脱出」

というのがこれ

まで屡々登場してきた迫害1事業完成のモチーフであるこ

とは明白であ-この迫害こそ棄てられた后稜と同じ-英

雄を英雄たらしめる神話素の一つである殿人にとって湯

「人王」であったはずであるが楚人にとっての夏殿革

命は既に神話となっていた宋人にとっても同じであ

った

と思われるしかし東周時代の為政者の意識は最早神話を

古代人の如-

「心象における事資」として受け取ることを

許さなかった神話の神話たる所以である英雄の迫害も

政治家としての彼等にとっては

「不合理」以外の何もので

もな-統治強化の障碍でしかなかったであろうそれ故

その

「不合理」を宋人は頒詩から治し去-楚人は

「天に

問」うたのである東周の殿開園神話はその鮎で西周人

の神話と歴史が

一鰻になった

「神代史」であ

った詩経

21

中国文筆報

第四十六冊

雅の周王朝開園の物語とは成因がやや異な-神話そのも

のを改襲した

「神代史」であるといえよう

再び天間に戻ろうここで語られる殿王朝開園神話を綜

合すると腰租誕生1夏殿革命という流れは商頭でのそれ

とはぼ

一致するのであるが商頚では全-無税されている

王亥

王恒や上甲微の事浜を多-記している所が大いに異

なるこれらの先王は卜軒に於ても租神として柁られてお

-殊に愛

(餐)王亥は

「高租」と崇められていたのであ

るから天問における殿租誕生や牧牛創始の偉大な功績も

殿代からその根摸となるべき停東があったものと考えられ

る殿の未森たる被征服図

宋図で語られなかった文化神

が周の政治的願力が比較的少なかったであろ-楚園に於

て生き残

っていたのであ-「王亥を構える頒詩は政治的

要請によって胴去されたのではないか」という前章で捉

起した推測は更に確貴性を樹して-るのである

このように文化神を語る神話は政治的な事情によって

改襲されやすいという

一つの傾向が次第に明らかになって

きたのであるが天間に見える周王朝開園神話を詩経

雅のそれと比べてみるとその傾向は

一層はっき-する

これについては次章で検討することにしてその前に前

章で提起したもう

一つの問題即ち契と後に呼ばれるよう

になる殿紐の正鰻について卑見を示しておきたい

1般には詩経

商頒

「玄鳥」

「長顎」の鄭隻や楚鮮

天問の王逸注史記

殿本紀などから筒状が生んだ殿租

が契であるとされ詩経や楚軒の注揮家も特に疑問を抱い

ていないしかしこれまで見てきた詩経や天問には契の名

は全-見えていない国語を見ると周語下には

玄王勤商十有四世而興

玄王は商のために働き十四世かかって興起した

鄭語には商

契能和合五教以保干百姓者也

商契は五教をよ-調和させ人民を守-養

った人で

魯語上には

契為司徒而民韓-上甲微能帥契者也o

契は司徒の官となって人心を和らげ--上甲微は

22

たす

契をよ-

た人である

自玄王以及主薬莫若湯

文王から主薬

(湯の父)に至るまで湯よ-すぐれた

者はいない

とあるこれらを見ると契とい-名は周

楚以外の

園で用いられし

かも

「司徒として五教によって人心を安

定させた」という事鏡が語られている抽象的な形ではあ

るが文化面での功寮が取-上げられているのである

そうすると陳夢家氏の

「契と刻は互訓であ-共に亥

と普通である故に契は即ち王亥である」とする説が有力

な説として浮上して-るOこれまでの考察から王亥は殿

の高租にして文化所であ-従

って契というのは王亥の周

連諸国での呼び名であ-「五教」云々は王亥の文化神的

な面が周遠諸国に於て襲化したものと考えられるのである

もう

1万の

「司徒」という面に注目すると楊寛氏は

「司

徒」は

「司土」であるとして契は社紳

(土地紳)であった

と考えている「司徒」を

「司土」と表記するのは西周金文

に多-見られる用法であ-本来は土地や農業を司る官で

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

あったらしいまた史記

殿本紀には

「実は南を佐けて治

水に功があった」とあ-梁玉縄の疑う如き司馬遷の臆説

でな-古-からの停承に基づいているものであるならば

契に夏南の如き下士造成神的な面もあった可能性は捨てき

れない司土の官は農業にも関係が深いことから契は土

地神にして農神の性格をも持つことにな-このことは王

亥が牧牛の創始者であることと関係があるのかも知れない

なお尚書尭典には

帝日「乗努民阻飢o汝后榎播時百穀O」帝日

「契百姓不親五品不遜汝作司徒敬敷五教在寛」

もろもろ

舜は言った「棄よ

民は飢え苦しんでいる

汝は后頑の官とな-

この百穀を播け」と舜は言

った「契よ人民は互いに仲良-せず父子

君臣

夫婦

長幼

朋友の序に従わない汝は司徒の官とな

つつし

-五教を敬んで廉め心を寛-して治めよ」と

とあ-同じ-尚書の周官には

司徒掌邦教敷五典擾兆民

司徒は閲の教化を掌-五教を廉め多-の民を順

23

中国文畢報

第四十六肋

わせる

とあ

って司徒が教化の官であるかの如-書かれているが

これは后積が農官とされたために契は

「五教を康めた」面

のみが取-上げられそれが司徒の官名に結びついてかか

る誤解を生んだものであ-司徒の本来の意味ではないと

考えられる

周やその支配下にあった宋園では殿租に玄王という名

が使われてお-玄鳥による神的な誕生と商の興起のた

めに轟-したとい-事暁が語られる

魯園では

「契」

「玄

王」両方が見えるがー契と言う場合は文化的な功績が描か

れ玄王と言う場合は始租としての面に注目されている

恐ら-

「玄王」とは契=

王亥の始租としての面が強調され

た時の呼稀であ

ったと思われる文化人類学的にも「玄」

という名は始源の闇や滞沌を連想させるものであ-例え

ば老子

六章の

玄牝門天地板

玄牝の門(女陰)は天地寓物の根源である

の如-である

宋園や周では殿租の文化神的な面が抹殺さ

れたために始租神としての

「玄王」の呼稀が定着し魯

鄭などの周連列国では儒教的に襲化した文化神として

「契」と呼ばれ楚国では殿代の呼稀

「王亥」が原形に近

い形で保存されて

「該」と呼ばれたのであろう

四楚鮮

天問の周王朝開園神話

まず天問における殿周開園神話の大筋の流れを圏示する

と附固

一のようになる我々の常識で考えるならば夏殿

革命の次に殿のその後の衰亡を歌いそれから周王朝

へと

移る構成をとるのが普通であるが天問では夏殿革命から

いきな-周の衰亡

へと飛びそこから殿の衰亡

へと戻る間

くりかえ

「天命は

」というテーゼを挟み込んでいるこの

ような操作によってどの王朝も同じように興亡を繰-近

すというテーゼが

7層際立つのであ-

T見乱雑に見える

排列が安は高度なレトリックを用いた結果であるという

ことがわかる

次に殿周の開園が歌われている各章を時間順に並べ

かえて相互に封比してみると附圏二のようになるこの固

24

殻周開園の耐話と

「神代史」(大野)

附圃- (丸内の数字は葦の通し番競)

舜と女梱 ⑱~

「験萌在初」

1

度の先王 ~

t

夏殿革命 ~

周の先王

l

殿周革命 ⑮~cent)

iiiiia段の衰亡 ~ 周の興亡

一- 一 ノ ー「天命反側」

附圏二

段 簡秋と唇の通婚

王亥 有易で牛羊を牧す

王亥の婚姻

王亥 殺されかける

王位 王亥の牛を得る

上甲微 父の遺業を鮭ぐ

肢弟が上甲微を迫害

一寸 どうして子孫が栄えたのか」

~ 楚の興亡

周 ⑯ 后硬 氷上に捨てられる

上帝をも驚かす武勇

-「どうして子孫が栄えたのか」

成湯 伊声を得る

伊デの生い立ち

湯 壷泉から出て案を伐つ

- 25-

⑳ 文王 天命 もて段を覆す

岐山に移る殿の惑婦

文王 村の無道を天に告げる

文王 太公望を得る

武王 急いで殿を伐つ

武王の朝合

周公 武王をよしとせず

武玉 村を伐つ

中隊文革報

第四十六筋

一見して知ることができるのは周の先王には僅か二章

しか使わず殿周革命に九章も費やしてお-殿王朝の方

が租神に多-の章を割いて夏殿革命には三章しか使わな

いのと対照的であるということである

周王朝開園を云う章をもう少し詳し-見てい-と

76積維元子帝何竺之投之干水上鳥何燐之

77何漏弓挟矢殊能渚之既驚帝切激何逢長之

后稜は上帝の長子であるのに上帝はどうして彼に

危害を加えたのか彼を氷の上に捨てると鳥はどう

してこれを暖めたのか

どうして弓をひきしぼ-矢を挟みすぐれた才能で

武婿となったのか上帝をも驚かすほどひどいことを

したのにどうしてその子孫は長-栄えたのかQ

后積が上帝の子であるのに迫害され鳥によって助けられ

たというのは詩経

大雅

「生民」と同様であるが周租后

礎の両的資質を云-のみであ

って農業費明には全-解れ

られていない77章は王逸注では前二句を后稜後二句を

武王の事績とするが洪興租補注は全部を武王の事績とし

朱子はその両方を疑問であるとす

78章以下では文王の

ことを云う章が績いてお-この章を武王の事虞とする課

には従えない聞

多や衰珂

氏は全部を后頑の事鏡とする

が必ずしも后榎に限定することはできない少な-とも

古公以前の

「神代」の先王のうちの誰かであることは確か

であろう後二句の

「上帝をも驚かすようなことをしなが

らどうして子孫が栄えたのか」という疑問が殿の租神と

「人王」の境目である上甲微を語る61章の後二句と似るか

らである周の先王を歌うのはこの二幸で終わ-であ-

そこでは先王たちの文化的功績は全-歌われておらず殿

の先王に比べて極めて冷淡な扱いである

78章以下は殿周革命にまつわる様々の問が寛せられるが

詩経

大雅に見えておらずまた考古学的な裏付けもない

俸説的な事件もい-つか見えているとはいえ神話的な奇

怪さには乏しいといえる0

79遷蔵就岐何能依O殻有感婦何所説

貴職していた重器を移して岐山にやって充たがどう

して人民がそれに従

ったのか殿には人を舷惑させる

26

女がいたというが何のために議話しょうとしたのか

前句についてはこれを文王に懸ける説

大王に懸ける課

あるが前後で文王のことを歌

っているので大王の事蹟と

するのには難があるとはいえその内容は詩経

大雅

「崩」

に云う古公宜父の事鏡に近-どちらに限定することもで

きない「大王から文王までの問」とする他ないであろ-

後二句は肘の妃である坦己を云うとされるがその何につ

いて問うているのかは明らかではないしかし両者とも

その

「答」となるべき俸説がこの時代に前後して現れてお

-前者については

1章で引いた孟子

染着王下後者に

ついては太平御覧奄

1三五引世本に

「村が有蘇氏を伐

った

時有蘇氏は坦己を妃にさし出した肘はこれを愛して言

うことを何でも聞いたために武王が肘もろとも殺した

云うのがこれに普たる

66到峯村窮叔旦不嘉O何親撰車足周之命以各嵯

肘の首をはねるに至-周公且はこれをよしとしな

かったどうして周自ら謀

って殿を討とうとしたのに

その行動は人民に支持されたのか

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

後二句は極めて難解であるがいま黒須重彦氏の解樺に従

う他の諸家にはテキストの文字操作で意味を通らせよ-

とする者も多い前二句を王逸は

「武王の舟に白魚が飛び

込んだので群臣が

『吉兆だ』と言ったのに封Lt周公が

『吉兆ではあるが吉兆と思

ってはならぬ』と戒めたことを

云う

と解しているがこれは史記

周本紀の記事を敦術

したものであって漢初の五行思想の産物である寧ろ所

謂伯夷

叔奔停説の前駆形と考えた方がよい

ここに引いた事件が果たして史寛であ

ったのか西周時

代に生まれた俸説か或いは東周以後の俸説であるのかは

容易に判断できないしかしいずれにしても西周人の

「神

代史」からは無税されていた事件が本来の形ではないに

しても再び記録される動きをここに見ることができるので

あ-結語で述べる

「神代史の再神話化」の萌芽であると

いえるO

このような新しい動きはあるものの天問の周開園神話

も始祖の神的誕生1英雄的事業の達成という基本的な構造

には全-襲わ-はないしかし全鰻を通じて諸王の文化的

27

中閲文革報

第四十六筋

功績には全-解れられていないばか-か周の先王=

租秤

に封しても極めて冷淡であ-殿に封する態度とは明らか

に異な

っているのである

このことは昔時の楚園が周文化よ-も殿文化の方により

親しみその信仰

習俗等を保持していたことの一つの讃

接であろう楚文化と殻文化の関係の深さは既に様々な面

から指摘されてお-例えば楚辞

九歌に見える「雲中君」

「河伯」の神がト辞にも

「雲」「河」神として見えているこ

とや西周末期のものと見られる楚の青銅鐘は殿の鍔と形

が似てお-その銘文も殿金文に似た雄滞な書鰻であるこ

とな

どが挙げられるこのよ-な現象が生じた過程として

は(一)歴代から楚は殿に臣屈してその文化を受け入れ

周の時代になっても表向きは周に臣属しながらも殿の文化

を保持し績けた(二)周代以後に国力を埼大した楚園は

への対抗上その文化を拒み隣接する宋園の殿文化を積

極的に導入したという二つの説が考えられる前者の立

場を取る者はその根接として詩経

商頒

「殿武」の

撞彼殿武奮伐剰楚突入其阻衷利之放有戟其

所湯孫之緒(一章)

敏疾なる武丁は奮起して剤楚を伐ち険しい山地

に攻め入って刑楚の兵士を虜にしその地を平げ

湯王の子孫として手柄を立てた

という部分を畢げることが多い

前述の如-商頭目鰻が

宋園の楚国

への対抗心から作られたものであ-我が国の

紳功皇后遠征説話と同じ-どこまで史寛を反映している

かは未知数であるしかも卜辞などの殿代の地下資料から

は昔時の殿楚関係を示すものはまだ見つかっていない

一方後者については史記

楚世家に周の夷王の時に

楚王熊粟が

「我は牽夷な-中国の詮親に興らず」と言っ

たという記事もあ-現時鮎ではこちらの説の方が有力で

あると思われるいずれにしても周とは言語や風土を異

にする楚閲で生まれた天問には意固したか否かはともか

-周文化の重税と殿文化

への傾斜が讃み取れるのであ-

周王朝側の論理で殿の文化碑の功績を壷-抹殺された詩経

商頭や周の文化神を構える詩経

大雅とは好封照を見

せているのである

28

結語及び除論

これまで述べ来

ったことを要約すると詩経や楚辞

問に見える殿周開園神話は始租の所的誕生1迫害1事業

(文化創造

天下統

一)の完遂という構造を持ち既に西洋

の英雄神話に於て指摘されている基本構造をここにも見出

すことができるただ西洋では

一人で行なわれることが多

い英雄としての事業が中国では教代に亙

って行なわれる

ことが多いという違いはあるところが殿の開園と周の

開園また詩経と天問の相互間で詳し-比較してみると

神々の文化的功績は神話が記録された常時の政治的な事情

によって抹殺されることがあるという事資に束づ-この

ことは中国に於ては剣を振るって活躍する英雄よ-も

文化を創始する

「聖王」の方が重きをなしてお-氏族や

国の威光を左右するものであ

ったということの一つの謹左

といえよう

詩経

大雅における周王朝開園神話は高租にして文化

神である后稜-公劉を神話的要素に富む叙事詩によって語

段周開園の紳話と

「神代史」(大野)

っているが

「人王」の代に至ると

殊に王李に新著に見

られる如-諸王にとってマイナスイメージを輿えかねな

い史寛は壷-制去され武力革命の成功を

「神代」から引

き継がれた輝かしい事業として稀讃している周王朝の開

園神話とそれに績-殿周革命の史糞は詩が記録されるま

での間に

「神代史」

へ改愛されたのであるそこに支配強

化のための王室神聖化という高度な政治的意圏が働いてい

るのは確資であろう

段の遺民の園である春秋の宋園における段王朝開園神話

詩経

商項の諸篇は最終的には周王朝側の人々によって

記録

編輯されたものであ-それ故殿人の信仰した文化

紳は義-抹殺され支配者としての周王朝の論理に基づ-

「神代史」に改変されているOそれに封して楚辞

天問の

殻王朝開園神話には卜辞にも見える租紳たちの神話的雰囲

気に富む物語が多-残

ってお-逆に天問の周王朝開園神

話では周の先王の文化的功績を無税していて宋国との政

治的

風土的立場の違いを明瞭に浮かび上がらせているの

である

- 29-

中国文学報

第四十六筋

か-の如-

神話時代やそれに績-歴史が為政者の手に

よって

「神話化」される場合は中開の諸秤の中で重い比

重を占める文化神が記録者の政治的立場に従

って改奨され

「人王」に封しては

「都合の悪い」史貴を切-捨てて

「神

代史」

へと仕立てられるのであるが東周時代になるとそ

れとは逆に「人王」にも神話素の一つとして解揮可能な俸

説が様々な書物に記録されるようになる既に引用した文

王の安里幽閉

伯夷

叔斉の餓死などがそれであ-

「人

王」の物語もこれによって組両と同様の典型的神話

へ近づ

いてい-のであるこれらが記録されたのは諸子百家の書

物であ-昔時の遊説家たちが民間に流布していた停説を

敬-上げて自説を述べるために用いたものと考えられる

これらの停説が古い形をそのまま保

っているか否かは全-

保護がないとはいえ政治力撃の働きに-いレベルに於て

「神代史」に再び神話的物語が付け加えられるようにな

たということはいえるいわば

「神代史の再神話化」であ

-

1般に

「中国古代王朝神話」として

1つの物語にまと

められているのはこうして

「再神話化」された結果の産物

なのであるこれらは確かに

「神話」としての要素を豊富

に含んでいるのであるがこれを中国古代神話の原型と見

なすことは不可能であ-上述の如-複雑な要因が絡み合

っているのである

こうして

「神代史」はたとえ元の形とは異なるにせよ

再び

「神話」としての光彩を放ち始めたところがこの

「神話」をまたも

「歴史」に固定してしまったのが他なら

ぬ史蓬であることは周知の通-である

しかし

「神代史の再神話化」の原動力とな

った

民間

に語-経がれた王朝停説のエネルギーもこれで絡恨したわ

けではなかったこうしたエネルギーはその後も小説に記

録された種々の歴史俸説などを生み出し形を襲えて生き

績けたのである

ところでこれまで本文中に取-上げなかった

一つの重

要な問題があるそれは

「楚園に古-から停わる楚人自身

の神々はど-な

っていたのか」という問題である

楚辞

天問にはその末尾に楚図の俸説と思われるものが

記されてはいるが多-の注帯家が匙を投げているはど難

30

解であ-筆者も今敢えてこれに挑戦するほどの飴裕はな

いoしかし離騒ではその冒頭で「私は帝高陽の未森である」

と歌

ってお-少な-とも屈原の時代では楚人は穎頭高陽

氏を租神としていたと考えられているが文化神に関する

記述は見えない

一方同じ頃に楚園で成立したと考えら

れている山海経

大荒西経には街頭の子孫の神々の事業

が豊富に記されている例えば重

寮の天地分離

太子長

琴の音禁孝明などである

これらの事章から得られる

一つの推測をここで述べると

楚辞に於ては楚人自らの文化両を表立

って取-上げられな

い事情があ

ったものと思われる楚語で書かれた「原楚鮮」

には書かれていたがそれを漢語に翻弄した際に宋図か

ら導入した殿の文化神に置き換えたのかも知れないそし

て自らの文化紳とその物語を速い

「大荒」の物語として

カムフラージ

ュしたのが他ならぬ山海経なのではなかろ-

かこの書が地理書の形をとっていることや他書に見ら

れない神話停説を豊富に載せていることなどは丁度我が

国の

『出雲園風土記』を思わせるものがあるまた殿の

殿周開国の神話と「神代史」(大野)

文化紳王亥が

「困民国」の人とな

っていた-楚の租神で

あるはずの蘭頂が

「額頭囲」なる図にいたとされているこ

となどもこの仮説の根嬢となろう

しかし最早紙幅も轟きているこの問題は山海経を中心

として改めて考察することにしたい

ば織井慶紀著池田末利編

『中図神話の文化人類学的

研究』(1九九〇平河出版社)があるoまたユング心理学の

立場から日本神話を分析したものとして河合隼雄

『中空構

造日本の深層』(一九八二中央公論社)等がある

近世以前の諸席の議論は専らこの怪異雫が信ずるに足るか

否かの次元に終始するが近代的な研究としては聞一多

「萎

娠履大人跡考」(『聞一多全集』第一射一九四八開明書店)

白鳥清

「段周感生神話の解揮」(『東洋学報』十五巷四親tT

九二五東洋協合学術調査部)出石誠彦

「上代支部の異常

出生説話について」(『支那神話俸説の研究』所収tl九四三

中央公論社)等がある

「帝上帝也」

「帝高華氏之帝也従於帝而見干天婿事賛敏也」

孔疏に

「頑柁郊礁之時英夫高辛氏帝率興供行妻娠随帝之

後践履帝迩行事敬而敏疾放鳥神歌饗紳既饗其条則

31

中国文筆報

第四十六筋

愛而拓之

於是為天神所美大為福緑所依止twz=得懐任則

震動而有身」と云う

例えば嗣西族の

『東巴控』に見える縛文字にこのことが窺

える附固三参照また河南省に俸わるロ東俸説によると

女桐が天から降ってきて伏義が地下から出てきたと云う

(陶陽

鍾秀

『中国創世神話』一九八九上海人民出版社二

一四頁)

附圏三

primeJ 一一一

~PJ虹互L

LJL

堅 室④

上部の 一へ は天下部の 皿 は大地を

表す圃①は中間に天地交合の気がありこれ

より荷物が生ずる固②の中間は蛙で天地交

合後の襲化を表す圃⑨では天地の間に男が上

女が下になっており男女の交合と同様にして

天地が人類を生んだことを表す

(陶陽 鍾秀 『中国創世神話』214頁)

「惟虞東学詩云人之初生皆裂胎而出騒失所依故堕地

郎帝惟羊連胞而下共産猪易故詩以

『如達』馬比o又常

熟陶太常元淳日凡嬰兄在母腹中皆有皮以豪之俗所謂胞

衣也生時其衣先破兄鰻手足少蔚放生之難O惟羊子之生

胸仇完具堕地而後母篤破之故共生易o后硬生時蓋戒於胸

中形鮭末露有如羊子之生者放言

『加速』今按前二説

是也下言

『不味不副』蓋謂其胞衣之不折裂也」(『毛詩俸

集通帯』巷二十五)

「徐君宮人娠而生卵以箆不詳秀之水演O猪孤母有犬名

鵠蒼へ猟干水溝へ得所弄卵衝以東蹄猪孤母以馬具凍俊

之逐沸成見生時正値へ故以為名徐君宮中聞之乃更録

取長而仁智襲君徐固」(博物志

異聞篇引徐値王志)

「高句凝着其先出自克明東明本北夷嚢離王子離王出

行其侍兄於後任娠離王達欲殺之侍見目『前見天上

有菊如大鶏子乗降我困以有嫉』王囚之後連生男玉

置之家牢家以口束嘘束不死o王以為所乃聴収養」(梁

諸夷俸)

北欧や古代

ハンガリー等に見られる豊富な例がKケレ-

ニイtCGユング

『神話撃入門』

一九五1(杉浦忠夫訳

1九七五晶文社)に引かれている

例えば壮族に俸わる

「種子と犬の尾」の物語では人々

「九尾狗」に天上の穀物を盗みに行かせたところ穀物を

九本の尾に-つつけて蹄ろ-としたところを番人に見つか-

八本の尾を叩き切られたが残-

1本の尾に穀物をつけて逃げ

師-人間は農業ができるようになったと云う

(陶陽

秀前掲書二七九頁)

32

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 5: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

中国文畢報

第四十六珊

きる后積を生んだ普事者たる妾鯨と帝について考えてみ

るとまず妾妹の

「嫁」は史記

周本紀などでは

「原」に

作-「原」字は爾雅

帯地に「康平を原と日ふ」と云う如

-大地を連想させる

一方

「帝」は郵袋で

「上帝」と解し

て以来これが通説であるが毛侍

は人王としての帝尊と

解してお-「妾姫が帝拳とともに郊楳した後妊娠した」

という合理的な解帯を行な

っているしかし郊礁

(子求め

の奈-)は薩記

月令に

「仲春之月是月也玄鳥至

至之日以大牢両手高藤

天子親往(陰暦二月には燕が

まつ

来る来た日には牛

家を供えて高藤を両-天子親

らそれに出かける)」

と言う如-少な-とも毛侍の作ら

れた時代には疎神の助けを借-て子を求めようとする祭把

であると考えられていたのである毛侍に言う如き習俗が

「生民」詩の背景にあったとしてもその原初的な意味は

結局鄭隻に言う如き上帝との通婚であろう天神と人又

は天神と地神との遺贈は中国の各民族に俸わる人類起源

神話にも多-見られるモチーフであ-

租神を租両たらし

める要素であるといえる(二)は(一)に比べるとあま-重

要現されていないようであるが卑見ではこれこそ卵生モ

チーフの一撃形であると考える二章の

「先生如達不蛎

こひつじ

ぇな

不副無蕃無害」を馬瑞辰は「達

生まれる際には胞

破れないまま生まれ落ちる」という事例を引いて后積が⑥

生まれた時も同様であ

ったことを言うものと解してお-

以来これに従う者が多い胞衣に包まれた状態は外から見

れば無生物のように見えるが資は生命をその中に宿して

いるのであ-恰も卵と同様の状態であるしかも三章で

は最終的に鳥が暖めたことによって后積が

「誕生」したの

であ-後述する楚鮮

天問でも

「后稜を氷上に捨てると

どうして鳥が暖めたのか」と鳥が卵を暖めるように后頑

を暖めたことに注目しているのである卵生モチーフの例

としては他に徐侶王の出生

高句麗

東明王の出生

名であるがこれらに共通するのは生まれた卵が

一旦捨

てられてから保護されるという鮎であるここには古代

ーロッパ等の英雄にも贋-見られる

「遺棄

迫害1再生」

モチーフ

が内在しているといえよ-(三)については本

能的に自ら稼椿を行なったと云うだけであ-直ちに神話

- 4-

撃的な意味を決定するのは難しい敢えて卑見を述べれば

最後に自ら得た穀物と動物犠牲とを上帝に捧げていること

に注意が必要で中国西南の少数民族に俸わる農両

が園の記紀神話のウケモチ

ような自らの身鰻や生命を

犠牲にして穀物を得るというモチーフの痕跡がそこに盈さ

れているのかも知れない総じて后積には神的な誕生

迫害の後の再生

農耕文化の讃明という始租たるにふさ

わしい資質と事鏡が付輿されているといえる

后稜に績いてその曾孫とされる公劉が

「公劉」に歌わ

れている

篤公劉匪層匪康道場通産連帯適倉O遭裏鯨糧

干妻子嚢o思輯用光弓矢薪張干支戚揚婁方啓行O

(一章)

篤公劉干育斯原既庶既繁既順適量而無永歎

捗則在職復降在原何以舟之o維玉及環韓捧容刀

(二幸)

篤公劉干京斯依鎗鎗済済倖憂倖凡既登乃依

乃造其菅執家干牢酌之用鞄食之飲之君之宗之O

殻周開国の神話と

「神代史」(大野)

(四章)

篤公劉干幽新館渉澗馬乱取属取鍛止基連理

宴衆宴有爽其皇潤遡其過潤止旋乃密帯鞠之即

(六章)

情深い公劉は住居に落ち着-こともせず田地の

瞳を区切-穀物を積み蓄えた食糧を大小の袋に詰

たてほこ

め込み人々は囲結して威勢よ-弓矢を張-千

おのまさかり

を立てここに行旗を始めた(T章)

情深い公劉は着いた平原を国見した物産は豊か

で草は茂-民心も落ち着きのびやかに溜息をつ-

者はいない小山に登-また下-て平原を見歩-0

めぐ

公劉の腰に舟らすものは凧玉や美しい石鞠飾-千

侃刀(二幸)

情深い公劉はこの都に定任した人々は進み居並

びむしろや腰かけを並べ席に着いてよ-かかる

しもべ

つか

ふくべ

し家を牢から出させ鞄

酒を酌み人々

に飲食させ公劉は君主として振舞

った(四章)

情深い公劉は幽地に官室を建てた滑水を横切-

5

中国文畢報第四十六筋

といしいしづち

属や

を切-出し

礎を整え多-の人が住みつい

た皇潤を挟み過潤を遡

った所に人々はび

っし-

くま

住みつき川の丙鞠に沿

った(六章)

全六章のうちの四章

T章で板横地造営

への出費二章で

国見四章で饗宴六章で板接地の完成と章展を歌う0形

式面では全篇に亙る

「篤公劉」のリフレイン「遭

OL

「既

O」といった助字によるリズミカルな修辞法など

「生民」と共通する所が多い内容面では

「生民」の如き

神的な誕生や迫害などは無いものの板接地完成に饗宴が

付随している鮎が

「生民」に似る四章の饗宴が単なる無

薩講でないのは

1讃して明らかであるLt「生民」と

劉」の間に置かれている詩四篤のうち

「行葦」「既酔」「

鷲」の三篇までが祭天の儀式を伴う饗宴詩であることから

考えてもこの饗宴場面には家を殺して上帝に捧げる儀式

が含まれていたものと思われる

か-見ると詩経

大雅における后硬と公劉は事業完成

とそれに伴う祭天という鮎では比較的よ-

一致してお-

共に西周人にとっての高租神であ

ったと考えられる后頑

「食」を開拓したのに続きその曾孫公劉が

「任」を開拓

したのであ-恰も山海経

海内経で

「后稜が百穀を播き

その孫叔均が牛耕を始めた

と云うのに似ているここで

の叔均は后稜から分化してその功績を補完する役割を持

てお-公劉も同様に租神の資質をもつ后頑から分化し

てその事業を襲展させる神とな

ったのであろう公劉に奇

怪な誕生の話がないのもそういった英雄的資質を后頑か

ら引き縫いでいるためと考えればうま-説明できる

公劉の十代後とされ文王の骨組父である古公豆父の事

鏡は

「締」に歌われる

鮪解瓜腔民之初生白土汎漆O古公宜父陶復陶

穴未有家室(T章)

周原廉廉重茶如飴宴始宴謀宴契我亀日止日

時築童子茶

(三章)

乃召司空乃召司徒倖立室家其縄則直縮版以

載作廟巽巽(五章)

建立皐門泉門有伏廼立鷹門鷹門賂購廼立家

土戎醜恢行(七草)

6

韓不珍庚憶亦不眠欧問種械扶桑行違先夫混

夷戯臭維其喚臭(八草)

虞帯質蕨成文王amp庚生予日有疏附予日有先後

予日有奔奏予日有禦侮(九章)

長々と伸びる瓜の蔓そのように連綿たる周の民が

生まれた時は汎漆の地に居任した古公宜父は土

をこねて穴を作

って住みまだ宮室を持たなかった

(一章)

たがらし

のげし

周原はよ-肥えて董

飴のように茂

ってい

た国都造営を始めよ-と謀-亀卜を行なうと「こ

こに止まるがよいここに官室を築け」と出た(三章)

土木の官を召し出し土地の官を召し出し宮室を

建てさせた墨縄をまっすぐ引き板を縛

って間に土

を詰め狂いな-廟を作

った(五章)

外門を立てれば高-そびえ立ち正門を立てれば

いかめしい構え大社を立てれば多-の人々が集ま

った(七草)

ほまれ

さて周人の怒-は絶えずしかしその

落とされ

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

なかった雑木を沸い道が通じると混夷は恐れて

逃げ息切れするほどであ

った(八草)

虞園と苗圃が和議を求め文王は興起の勢いを動か

した文王は言

った

「追随する園もあ-

前後から

取-奄-図もある我が閲のために働-園もあ-外

敵を防ぐ園もある」と(九章)

全九章の-ちの六章八

九章は難解であ-諸説紛紛とし

ているが古公ではな-文王の代に時が移

っているとする

鮎では概ね

一致している宮室を持たぬ原始的状態1閲見

1板接地造営という内容は

「公劉」詩に似るが饗宴の場

面がないことや司空

司徒の官名や泉門

庶門の制度な

ど高度に額展した制度鮭系が見えることまた詩型の面で

も大雅の開園叙事詩では唯

Tの

「鮪館瓜腰」という興が見

えることなど

「公劉」詩とは異質のものを感じる

いわ

「神話臭の治失」であ-

「新しさ」である后頑ととも

「神代」の始組神であ

った公劉と異な-古公は西周人

にとっては

「人王」であ-茸在人物として扱われていた

と思われる

中国文学報

第四十六桝

古公の子である季歴は「大明

「皇臭

詩に

「王季」の

名で見えるしかし大任を撃

って文王を生んだことを構え

るのみで自らの聖天子たるにふさわしい事鏡は何も語ら

れていない大雅の開園叙事詩で名が出ていながら英雄的

な事虞が語られないのはこの王季だけで後世の文献例

えは史記

周本紀でも

「徳行を情めた

と云うのみであ-

考えてみれば誠に奇妙なことであるしかしこの間題に封

する答えは後に明らかにされるはずであるから今は王李

の子である文王とその子武王の方

へ進むことにしよう

殿周革命の主役として誰もが知っている文王と武王は

「文王」「大明」「皇央」「文王有壁」でその事蹟が歌われ

ている文

王在上於昭干天周維奮邦其命維新有周不

蘇帝命不時文王捗降在帝左右o(1章)

穆穆文王於緯無数止候哉天命有商孫子商之

孫子其覧不億上帝既命侯

干周服(四章)

いま

文王は天に坐しああ天に輝かし-坐す周は古

い園であるが天命が新たに下された周は大いに輝

かしく上帝の命も時宜にかない文王は天地を上下

して上帝の左右に坐す(一章)

つつし

慎み深い文王はああ敬むこと績いてやまぬ偉

たも

大なるかな天命は商の子孫を有たせた商の子孫は

かず麗は十寓に止まらないが上帝の命は下-彼等を周

に蹄順させた(四章)

「文王」全七草のうち二章内容的には叙事詩というより

頒詩に近く

后稜の神的誕生のような神話臭はないがこ

こでの文王は天地を上下して上帝に仕えることのできる存

在であ-神格化されているといえるしかし文王がもと

もと神であったとい-のではなく

古公と同様に

「神代」

から引き継いだ英雄的資質によって天命を得て殿の民を

支配するという事業を行ない「人王」から「紳」へ昇格し

たものと考えるべきであろう

作乏尿之其蕃其繋情之平之其濯其例啓之静

之其樫其梓撰之刻之其腰其柘帝遷明徳串夷

載路天立欧配受命既固(二章)

帝謂文王無然畔接無然款羨誕先登干岸密人

不恭敢距大邦侵院狙共王赫期怒宴整其旗以

按狙放以篤子周砧以封干天下(五章)

普作

って除-のは立ち枯れや倒木切-整えて平ら

げるのは

濯木や並木

切-開き押しのけるのは

かわらやなぎ

へぴのき

やまぐわ

はりぐわ

って例-取るのは

上帝

は明徳ある王に味方Lt串夷は道にあふれんばか-に

逃げ出した天は文王の配偶大姐を立て固-命を授

け給うた(二章)

そむ

上帝は文王にか-のたもうた「人心を

せては

ならぬo気ままにさせてはならぬ」とOそこで高所に

登って観察すれば密園の人は従わず敢えて大国に

逆らい陳園を侵し共園

へ進軍しているO王は激し-

怒-

ここに軍旗を整え密図の行軍を阻み周の

さいわい

埼Lt天下に戒を示そうとした(五章)

「皇臭」全八草のうちの二章二章では公劉や古公と同様

の板接地造営を歌うが「天命」を受けるや否や五章に

云う如-密国を征討しょうとする

有命日天命此文王千周干京績女維草長子維

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

行篤生武王o保右命爾嬰伐大南(六章)

殿商之放其禽如林矢干牧野維予侯興上帝臨

女無武爾心(七草)

牧野洋洋檀革塩塩駆厨彰影O維師伺父時維鷹

揚掠彼武王韓伐大商脅朝清明(八草)

天よ-命は下-我が文王に命は下った周の都で

後を鮭ぐ妃は宰園の女この長女がやって来て天は

武王を生ませ給い守-助けて命じ給うた

「大南を

討伐せよ」と(六章)

殿の大軍は林の如-集まった武王は周軍に牧野

ちか

で失

った

「ここに我々は興起する上帝もお前達を

見ておられるぞ戒心を抱いてはならぬ」と(七草)

牧野は贋々として戦車は輝き烏は勇み立つ太

公望呂筒は鷹の如-猛-立つ輝かしい武王は大

商を存分に伐ち取-合戦の朝は晴れ渡った(八草)

「大明」の終わ-の三章牧野での殿との合戦が活寓され

るが武王のこの功績もやは-文王から受け縫いだ「天命」

あってのものである

9

中国文革報

第四十六

文王受命

有此武功既伐干崇作邑干豊o文王桑

哉文

王は天命を受けこの武功を立てた崇園を征討

すると豊に都邑を造営したすぼらしい文王よ

「文王有壁」の第二章密園征討と並んで文王の主要な武

功とされる崇園征討を歌うものであるがこれも

「天命」

によって行なわれたものとされている

詩経

大雅の落第から直接知ることのできる周王朝開園

の物語は以上の通-であるこれを后稜から文武までひと

績きに眺めてみると始租にふさわしい神的な誕生から始

まって迫害を受けた末に諸文化の開拓更には武力によ

る天下平定とい-英雄的事業を完成させるのであ-これ

は丁度Eノイマンらによって指摘されている英雄神話の

典型的なパターンとも合致する后積-公劉-古公-文王

-武王の五王が全鮭として恰も

1人の英雄の如き振舞いを

見せているわけである

しかし仔細に見るとこの五王の中で后稜-公劉古公

文王-武王の三者には微妙な違いがある后穆-公劉の物

語は神話的な雰囲気が濃厚であるのに対し文王-武王に

関しては

「紳懸-」的な奇蹟は全-見られず武力行使に

及んだ根嬢としての

「天命」ばか-が強調されているそ

してこの両者の中間的な存在として古公がいるのである

いわば古公を境にそれよ-前が

「神代」であ-それよ-

後は

「人の代」として描かれているといえる

か-見ると古公以後の物語は開園の

「歴史」であ

って

「神話」として扱うにはふさわし-ないという人もいる

かも知れないそれにもかかわらず筆者は古公から武王に

至る物語は

「歴史」として作られたものではな-歴史が

神話の一部として改襲された

「神代史」

であると考える

なぜなら考古学的に知られる殿周革命前後の歴史には詩経

と大き-ずれる部分があるからである

后積や公劉は周原卜軒や金文には全-見えず神話上の

人物であることを疑う者はいない古公賓父については

文王の租父たる大王と同

一人物と考えることに疑問を向け

る説があ-例えば顧訴剛は古公は周王朝創建時の王で

あ-大王は周の国力が強盛になった時の王であると考え

10

⑬たOしかし

「轟」詩のところで述べたことを考えれば古

公を周王朝の租とする課には従い難い現在鹿-支持され

ている説では殿が常時山西省に居た鬼方を討

った結果

彼等が西方に移動して周を歴迫したため周は幽から岐山

に移ることを飴儀な-されたと言う

具鰻的な国名などに

はなお問題があるとはいえ周が異民族の歴迫で岐山に移

ったという事寛があ-それが

「崩」詩にも反映されてい

るのは確かであろう時代が下がると孟子

梁意三下に云

う如-

「古公が徳を守

って岐山

へ逃げ人民も彼を慕って

共に移動した」という儒家道徳による合理的解帯が行われ

るようになるのは周知の通-である

王李は前述の如-詩経ではその事蹟が全-記されない

ところが古本竹書紀年には

殿の武乙三十五年王李が西落鬼戒を伐ち二十雀

王を捕虜にした(後漢書西完博引

)

殿の文丁が季歴を殺した(青書束管俸史通疑古

社説上引)

といった記事が見え文丁期の卜辞にも周を伐つことの可

段周開園の神話と

「神代史」(大野)

否をーつたものがあるOしかもその7万で同じ古本竹書

紀年に

殿の武乙三十四年周の王李が来朝し武乙は土地

三十里玉馬を賜興した(太平御覧巷八三引

)

とあ

ってこの時期の卜辞にも周を

「周侯」と呼んでいる

ものがあ-周は段の侯国として厚遇されていた面もある

のである「大明」詩での王李は殿と関係の深い拳闘から

大任を迎えてお-史寛とすれば政略結婚である王李の

頃の周は殿と虚々賓々の駆け引きが績-緊迫した関係にあ

ったのである

王李のこうした

「行状」は竹書紀年に記事が残されて

いる以上常時の史官によって記録されていたはずである

にもかかわらず詩経ではそれらが殆ど無税されていると

すれば大雅の諸篇が作られた時から記録されて現在の形に

なるまでのいずれかの段階で意固的に例除されたと考える

のが愛常であるどの段階で刷られたかを決定するのは言

うまでもな-非常に困難であ-例えば

「解」詩で七草ま

で古公の根接地造営の話が績-のに八草でいきな-

「韓

ll

中国文革報

第四十六射

不珍膜性」と文王の代に飛ぶのはあま-にも唐突であるこ

とから七草と八草の間に王李が殺害されたことを歌う章

があ

ったと推定することもできるが残念ながら確認する

すべはないしかしいずれにしても我々が常識的に考え

れば王李が殿に殺された事寛を語ることによって王季1

文王-武王を悲劇の英雄に仕立てられ殿周革命の物語に

一層の彩-を添えられるはずであるのにそれらが轟-酬

去されているのである

文王と武王に関しては詩経に見える密

崇征討等は周

原卜辞等に照らしても史貴であ

ったらしいしかし後世の

文献に見える

「村が文王を安里に幽閉したが文王の部

下が賄賂を使

って救出した

とか

「伯夷と叔斉が武王の武

力革命を悲しんで首陽山で餓死した

とかいった物語は詩

経はもとよ-古本竹書や地下資料にも全-見えていない

之を要するに古公以下の

「人王」についてはマイ

スイメージを興えかねない物語は

一切語られていないので

あ-そこには諸王の威光を高めようとする政治的要請が

ったと考えられる后積や公劉は

「神代」の高租神であ

るから神話的要素に富む怪異な物語をそのまま停えても

不都合はないしかし古公以下は所詮

「人王」であるから

紳懸-的な奇蹟を附合すれば虞寛味が乏し-なるしその

一方では

「神代」から績-聖王の血統を誇示する必要があ

る勢い

「都合の悪い」史宜を無税して「輝かしい事業」

のみを賞揚する方向

へ向かうことになろうその敏寄せを

まともに食らったのが他ならぬ王李であ-殿に朝貢した

-殺された-した史資をそのまま記せば

「王統」の威光

を傷つけるのは明らかであるから大任と共に聖天子文王

を生んだいわば橋渡し役としてのみ名を留めることにな

ったのであるこのような

「歴史の神話化」の結果詩経

大雅の叙事詩語笛は周王朝開園の

「神代史」として西周

貴族の問に俸えられていったのである

二詩経

商頚の殿王朝開園神話

詩経

商頭の詩篇は鄭玄の商頭語で

「末の戴公の時に

大夫正考父が十二篤を得たが孔子が詩を編纂するまでに

七篤を失

った」

と停えられ今日に至るまで定説となって

12

いる現存する五篤の中には玄王

相土

湯及び中興の

武丁の名が見えている

殿の始租誕生を歌う詩として古来よ-引かれるのは

「玄

鳥」の冒頭の二句である

天命玄鳥降而生商

天は燕に命じ下士

へ降らせて商租を生ませた

鄭集がこの二句を

「天が燕を下士

へ降らせたというのは

その燕が残した卵を有城氏の女簡秋が呑んで殿租契を生ん

だからである」

と解して以来これが定説となっているし

かし森三樹三郎氏が既に指摘しているようにこの二句だ

けを見ている限-

「燕の卵を呑んだ」という事寛は直ちに

導き出せないのであ-この説話が商頚が作られた春秋時

代の始租神話そのままであるかどうかは頗る疑わしいし

かし玄鳥なる鳥が天と下士の間を往来して南畝を生ませた

ことはこの詩からも讃み取れるのであ-少な-とも春秋

の来園では殿租が天地通婿で生まれたとぎれていたと言う

ことはできよう

「長襲」にはやは-殿租とされる玄王とその孫とされ

段周開園の紳話と

「紳代史」(大野)

る相土が登場する

溶哲維商長顎其群洪水

巴だ高教下土方外大

国是瞳幅限既長有域方渚

帝立子生商(1章)

玄王桓掩受小国是達受大国是達率履不越途

観能登相土烈烈海外有載(二章)

きぎし

明徳なる商王その

現れて久しい洪水が贋が

った時南は下士の四方に功を敷き外の大国とを区

切-中国の虞さは遠大になったO有城氏もその時勢

力を埼し上帝は有城の子を立てて南国を作られた

(一章)

玄王は武徳があ-小国に封ぜられてもよ-治め

大国に封ぜられてもよ-治め薩に従

って越度な-

しめ

教法を現して行なわせた相土は武威輝かし-海外

の諸国を平定した(二幸)

この詩の

「玄王」は毛俸

鄭隻の如-殿租契のことで

「玄鳥」詩の商租と同

一であると解するのが普通であるが

白虎通

文質

(l名瑞賓)篤は玄王を湯と解してお-漢書⑳

鰻柴志は契(高)と玄王は別人で共に段租であると解する

13

中国文筆報

第四十六筋

相土は周鰻

校人注引世本で

「初めて乗馬を作

った」

と云

いこの詩で武勇の王として描かれていることと関連があ

るものと思われるしかし玄王

相土共に具鰹的に如何な

る事鏡があるのかはあま-括かれず神話としての考察を

かな-難しいものとしている

相土から十

1代後の子孫とされ夏案を伐

って殿王朝を

隆盛

へ導いたと俸えられる湯は同じ「長顎」に見えている

帝命不達至於湯秀湯降不遅聖数日頗o昭倣遅

遅上帝是砥帝命式千九園(三牽)

武王載端有虞乗鉄如火烈烈ー則莫我敢局萄有

三幸莫逐莫達七九有有載葦顧既伐昆吾夏架o

(六章)

上帝の命は誤-な-湯に至って天命と合合した

湯の生まれること期に麿じ聖徳は日々に高まった

天にも明らかに至る徳は久し-止まず上帝も愛敬し

て九州に法を示させた(三章)

武王湯は旗印を立て固-銭を撞-火の如-勢い

とど

もと

盛んなれば誰も敢えて長めることはできない竜株

ひこば

に三つの

生ずるといっても生長しきることは

ないO湯は九州を平らげ垂の葦図

顧閲と昆吾氏

竃の夏架を伐

った(六章)

湯が

「天命」を得た後に諸国を征討して九州を統

一したと

いう内容であ-大雅における文王や武王と同じ-始租

の神的資質を引き継いで天下統

一の事業を完成させるので

ある

これらを全鰻的に眺めてみると商租の神的誕生1

相土

湯の天下平定という流れは大雅における周王朝開園の物

語と同様のパターンであ-また請王を武徳の王と稀える

のに終始して請王にとってマイナスイメージを興えるよ

うな話が記されないのも大雅の文王や武王と同様である

商頭の諸篇が大雅以上に尖鋭な政治的意圏を以って作られ

たことは白川静氏も

「末に興

った膨折たる国家意識を背

景としてその抗争老たる刑楚に封する敵封感情の昂揚

を目的とし」たと指摘する通-であ-諸王の武勇ばか-

をことさら強調するのも肯けることであるところがも

しか-の如-商頭諸第が宋人の

「神代史」であるとすると

14

殿の諸王の文化的功績が殆ど歌われていないのは何とも不

思議な事賓である常時

「南賛歌舌」

の園であったはずの

楚と争うのに自らの文化的先進性とその由来を誇示しな

いということが果たして考えられるであろうか

結局宋人の殿開園神話を西周人の周開園神話と比べた

時の問題鮎は(一)後に

「契」と呼ばれるようになる殿租

の正睦(二)両者とも同様の構造を持ちながら殿開園の英

雄たちに文化的功唐が見られない理由tの二鮎にまとめら

れるo前者については戦国時代の楚国における殿開園神

話を記す楚辞

天問や殿嘘卜辞に見える殿の高組神など

にこの問題を解-鍵があろうと思われる後者については

まず宋園と同じ春秋列国である魯園で作られた詩経

魯頚

を参照するとある程度の推測が得られる

問官有他賓資枚枚赫赫妻嫁其徳不回上帝是

依無災無害禰月不遅是生后頑隆之百福蚕種

重移穂塀寂穿奄有下図倖民稼橋有稜有黍有

侶有拒奄有下士績南之緒o(1章)

后稜之孫資維大王o居岐之陽賓始易商至干文

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

武濃大王之緒致天之眉千枚之野無武無虞上

帝臨女敦商之族克威厳功王日叔父建爾元子

伴侯干魯大啓爾字鳥周室輔O(二章)

奥深-清い宗廟は堅固で美しい輝かしい妻糠は

その徳も貞正であ

った上帝も心をよせて無事に子

を生ましめ十月十日を遅れることもなかったここ

さいわい

に后積を生むと天は多-の

降したそれは黍

もちbぴ

おくて

わせはやうえ

おそうえ

まめ

や穿後に領下の閲を

くろきび

治め民に耕作させた稜や黍もあれば楢や

ある下士を治めて后稜は南の事業を縫いだ(一章)

后稜の子孫はかの大王宜父岐山の南に居任した

時始めて殿

への臣展開係を慕

った文王と武王に至

-大王の事業を縫いだ殿の天命の終わ-は牧野の

地でやって来た「武心を抱いた-心配してはならぬ

上帝も見ておられるぞ」武王は殿に勝

ってその人民

を治めその功績は先王たちにも等しい成王は言

た「叔父周公よ

そなたの長子伯禽を立て魯園の

侯とし大いにその土地を閃かせ周室の輔けとさせ

15

中開文革報

第四十六冊

よ」と

(二章)

「関宮」全九章の

うち二幸O魯図はこの詩にも云う如-局

公の長子伯禽が封ぜられた図であり周と同族であるから

曹然周租后稜に始まる諸先王を構えているわけであるが

后稜の農業創始を

一章全部を費やして

「南の緒を鰹ぐ」と

賞揚する割には文王

武王の殿周革命に封しては素束な

い描き方である寧ろ大雅の詩篇よ-も先王の文化的功績

に重きを置-といえる

1万の宋園は肘王の庶兄微子啓が武王に封ぜられた園で

ある宋園は殿の穫柴を修め殿の習俗を堅持し績けたと

俸えられる

所詮は被征服園である自らの租先を高ら

かに賞讃することに封して何らかの政治的願力が働いたこ

とは想像に難-ない「七筈の詩が亡伏した」という商魂

譜の記事は或いはこのことに関係があるのではないか

この失われた詩の中には

西周の

「生民」

「公劉」詩の如

-殿代よ-俸わる文化神を歌う詩があったのではないか

この推測をよ-精確に検討するにはやは-宋園以外の

園に俸わった殿王朝開園神話の一つとしての楚辞

天問を

参照する必要があるそこで次章ではまず殿嘘卜辞に見え

る高組神について検討し次に楚鮮

天間の殿王朝開園を

問う部分について考察した後これらと商項とを相互に比

較することにしたい

三卜辞及び楚鮮

天問の殿王朝開園神話

卜辞は占卜のための文句を記した文字資料であ-もと

よ-神話の記録を目的としたものではない従

って殿人の

間に俸えられていた殿王朝開園の物語を卜辞によって復元

することは言うまでもな-不可能であるただそこには高

租神や先王をはじめ様々な神の名が見えてお-これを後

の時代の殿王朝開閉神話と比較することによってその神

話がどれ位原初の姿に近いかを推定することはある程度可

能である

さて殿人にとっての最高碑は周知の如-上帝であ-

卜辞にも

「帝」として見えていて風雨などの自然現象を

支配し人事に禍福をもたらす存在であることが知られて

⑲いる

16

この上帝に封しては直接条把が行なわれることはないと

い-のが通説であるが島邦男氏によれば絶無という諸で

はな-締把が行われる例が三例あるこの締紀は上帝の

みならず高租神や先王に封しても行われてお-例えば

羅振玉

『殿虚書契緯編』

一-二-

一片に

点締子王亥

貞-王亥に繭のまつ-をせんか

董作賀

『乙篇』四五四九片に

葵未卜両税乙

英未に卜す租乙に蹄のまつ-をせんか

とあることから

恐ら-張光直氏の云う如-

「殿の人びと

『帝』は先租の絶稀であ

ったかあるいは先租の観念

の1つの抽象化されたもの」

ということになろう

上帝と同様の祭紀が行われる租神の-ち「高租」と呼

ばれるのは愛

王亥の二人である

愛は変とも揮され王⑮

図経が

「暑」と塵韻であることなどを理由に帝尊と解して

以来これが定説となっているO帝聾は後の時代の文献に俸

える所では自らの文化的事業や武勇に関しては何も記さ

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

ずただ殿組契と周蔵后榎の共通の父祖であると云うだけ

であ-上帝的な存在であ

ったとするのが諸家の1致した

見解であるしかし殿代に於ては

「帝」と帝替即ち愛は区

別されている以上完全に同

一であ

ったとはいえず上帝

と人王をつなぐ役割を持つ始租神として奉られたものと思

われる前述の如-愛が抽象化したものが上帝であ-

逆に言えば上帝が人格神化したものが愛なのである

一方の王亥はどうであろうか山海経

大荒東経に

有困民国-王亥託干有易河伯僕牛有易殺王亥

取僕牛

困民国で-主

亥は有易園と河伯園に自ら飼い馴ら

した牛を預けた有易園の人は王亥を殺し牛を奪

この候の郭瑛注が引-古本竹書紀年には

殿王子亥賓干有易而淫蔦有易之君鯨臣殺而放之

是故殿主

(一作上)甲徴候師子河伯以伐有易滅之

途殺其君紹臣也

殿の王亥は有易園

へ客として赴いたが行ないが悪

- 17-

中国文学報

第四十六放

有易の君主摘臣が彼を殺してしまったそれで段

の上甲微が河伯図の軍を借-て有易を伐ちこれを滅

ぼし君主鋸臣を殺した

と記されているまた初学記撃

九引世本には

「骸が

牛を飼い馴らした」とあ-この膜も王亥であると考えら

れている少な-とも東周末期に於ては王亥が牧牛を行な

ったという俸説があったのであ-王亥を論ずる人の多-

はこれに注目し彼を殿の文化紳であると考えている

「高

租」と特別扱いされる租神の一人であることを考えれば

王亥が文化面で多大な功績を上げ原始状態から文明状態

へと殿氏族を更展させたことは十分に考えられる

もしそうであるならば前章でその存在を示唆した

「殿

の失われた文化紳」はまさにこの王亥ということになる

既に述べた如-詩経

商煩の段王朝開園神話に封しては

それと系統を異にする楚辞

天問という比較資料もあるの

であるから次にこちらの方を見てみることにしよう

fTD

天問は古来極めて錯簡の多い書と言われる

その中で

殿周開園に関する部分は比較的次第がまとまっている湯

以前の駿の先王が措かれるのは55-聖早であ-簡秋と尊

の通婿から始まっている

55簡秋在董卓何宜玄鳥致胎女何喜

筒状は高い槙童にいたが尋はどうして見そめたの

か燕が滑-物を持

ってきたのを筒状はどうして喜

んだのか

古来詩経

商頒

「玄鳥」と同じ-簡秋香卵の説話を云うも

のと解されるがこれも

「玄鳥」詩と同じ-この二句だ

けから呑卵の話を導き出すのは難しいしかしこの通解が

行なわれた高い

「董」は天地の間を繋ぐにふさわしい場所

であ-鳥が天から

「胎」を授けることなど天地通姫を

描-ことには襲わ-はない天問では上帝には

「帝」とい

う呼稀を使

ってお-ここでの

「魯」はー辞の

「愛」と同

じく上帝の人格化したものと思われる

この二句は不思議なことに簡秋と啓が誰を生んだのか全

く言わないテキストに脱落がなければ次の章の登場人

物を簡秋の子と考えるのが最も素直であろうところが次

に登場するのは

「玄王」でも

「契」でもない

18

56該乗季徳頗父是滅胡絡弊干有屈牧夫牛羊0

57干協時舞何以懐之平脅鼻膚何以肥之

58有屈牧豊云何而逢撃林先出其命何徒

壬亥はその父季の徳を縫いだが父は立涯な人であ

ったどうして王亥はとうとう有易園に落ちぶれそ

ゐ牛羊を養

っていたのかO

たて

あわ

いだ

協せて舞う女を見てど-してその女を

のか

平らかな脇腹に細やかな皮膚どうしてこの女

まじ

ったのか

王亥は有易園の牧童にどのようにして合

ったのか

寝込みを襲われて先に逃げ出したがどこから逃げ出

して助かったのか

56章の

「該」を王逸は

「竜也」と解しているが晴代に至

って王関連が人名ではないかと疑問を呈出L

t

王国経が卜

軒との対照によって王亥であると断じて以来この説が支配

的であるこの四句も前途の山海経や竹書紀年と共に王

亥が牧神であ

ったことを示すものとしてよ-引かれる57

章は難解であり注揮家ごとに説が異なると言

ってもよい

股周開園の神話と

「紳代史」(大野)

ほどであるが王亥の婚姻のことを云うとする需介甫氏

黒須重彦氏の説に徒う58章は王亥が殺されそうにな-な

がら辛-も逃れたことを云い前に引いた山海経などの所

侍と関係があるものと思われる

この三幸の記述から王亥の迫害と文化創造のモチーフを

見出すことはさほど困難なことではないし簡秋と孝によ

る殿租の神的な誕生も前章までに述べた例と同様に何ら

かの形で王亥に英雄的資質をもたらすものと考えられる

簡秋が生んだのが王亥であると断定できれば話は簡単なの

であるが56章には王亥の父としての

「季」が登場してお

り従

って天問に於ては簡狭

暑-季1王亥という系譜が

成立していたことになるしかし卜辞に見える

「季」は高

租でない租神の一人にすぎず

「高租王亥」が

「季」を父と

していたとは考え難いo

l鮭に卜解における租紳相互間の

父子関係は不明な部分が多-本来は寧ろ横

一列に並ぶ関

係であ

ってどれも

「租先」に襲わ-はないのであ-果

たした功績や役割の違いによってそれぞれに分化したもの

と考えた方がよい卜辞における

「季」の神威は他の租紳

19

中国文革報

第四十六桝

と襲わらないが

天問では尊と王亥との橋渡し的な性格に

襲わったのである

59恒乗季徳蔦得夫朴牛何徒費班緑不但遠来

王恒も李の徳を鰹ぎ王亥の養

った僕牛を得たど

あまね

はどこ

うして狩-に行

って獲物を

-

民に

ただ行

って

締るだけに止まらなかったのか

「恒」は王遠江では

「常也」と云うがこれも王国経が卜

辞に見える王恒のことであると解して以来諸家概ねこれ

に徒う「班稀」は近年の解帯では

「官位」「栄達」等に解

され

「王恒が有易図で出世しょうとした」意であるとす

るがす

っき-しない解輝であるー辞に見える王恒は

弓の形の中に

「恒」字を入れたものもあ-寧ろ

「湯は狩

-に往-際ただ行

って締るだけではな-民に編-施し

を輿えた」とする王逸注の方が原初的な意味に近いと思わ

れる但し主語は湯ではな-王恒である張光直氏は王恒

と罪に何らかの関係があるのではないかと考えるが

それ

よ-は駿人の狩猟柵であ

ったと考えた方が良いかも知れな

いただ王恒の事境を記した文献が他に存在せず容易に

結論を得難いのは残念なことである

60昏微遵述有狭不寧何繁鳥葦棟負子韓情

61絃弟遠軽危害顔見O何襲化以作許後嗣而逢長

上甲微は父王亥の事鏡を鮭ぎ有易園は安定を保て

ず滅びたどうして有易の人民は妹に止まる鳥のよう

に苦しんでいるのに上甲微はその子女にまで横暴な

ことをしたのか

目の陪んだ請弟はみな道ならぬことをしその兄上

甲微に危害を加えたのにどうしてうま-ごまかして

その子孫が長-祭えることになったのか

この二章も本づ-所がはっき-せず難解であるが「昏微」

はやは-王国経が上甲微のことであるとしてお-その事

蹟を云うものと考えられる上甲微は卜辞で系譜が明らか

な請王のうちで

一番古い租先に普た-いわば

「人王」の

租であるがここでは王亥と同様の迫害モチーフが再び現

⑳れその事鏡は既に神話化されていたものと見られる「何

襲化以作詐後嗣而逢長」の二句はそ-した神話であるが

故の不合理性を問うているのである

- 20-

62成湯東巡有等宴極何乞彼中臣而吉妃是得

63水漬之木得彼中子夫何悪之腰右筆之婦

64湯出重泉夫何皐尤不勝心伐帝夫誰使挑之

湯は東方

へ巡狩Lt有等園までやって来たど-し

てあの中臣伊声に乞い求めて良い妃を得たのか

水蓮の木から有等氏の君主は伊声を得たとい-が

どうして伊声を嫌

って湯の妃に付き添わせたのか

湯は重泉の牢獄から出て来たがそれは何の罪だっ

たのか正義を求める心を抑えられず実を伐

ったが

誰が彼をそうさせたのか

商頭における湯は夏架や尾吾氏を伐

った英雄として非常に

多-の紙幅を割いて賞揚されていたのであるが天間では

僅か三幸で終わ-しかもその年分は彼の名臣伊声のこと

に費され天下を平定した聖王にしてはかなり冷淡な描き

方である多-とも王亥や上甲微などと同等の重さしか持

っていないといえるしかしこの簡単な記述は神話的な趣

きに富んでいる伊声は呂氏春秋

本味簾で

「有佐氏の女

が空桑の中から嬰兄を得て

それを君主に献じ君主は

般周開乾の神話と

「紳代史」(大野)

料理人に彼を育てさせた」云々と書かれるような俸説をも

つがその原型とみられる記事が63章にあ-64章の

「湯

出重泉」も森安太郎氏が

「陽

(太陽神)が海の下を-ぐっ

て再び現れ出る様子」

と解したほどであるその虞偽は措

-としても

「重泉に囚われてから脱出」

というのがこれ

まで屡々登場してきた迫害1事業完成のモチーフであるこ

とは明白であ-この迫害こそ棄てられた后稜と同じ-英

雄を英雄たらしめる神話素の一つである殿人にとって湯

「人王」であったはずであるが楚人にとっての夏殿革

命は既に神話となっていた宋人にとっても同じであ

った

と思われるしかし東周時代の為政者の意識は最早神話を

古代人の如-

「心象における事資」として受け取ることを

許さなかった神話の神話たる所以である英雄の迫害も

政治家としての彼等にとっては

「不合理」以外の何もので

もな-統治強化の障碍でしかなかったであろうそれ故

その

「不合理」を宋人は頒詩から治し去-楚人は

「天に

問」うたのである東周の殿開園神話はその鮎で西周人

の神話と歴史が

一鰻になった

「神代史」であ

った詩経

21

中国文筆報

第四十六冊

雅の周王朝開園の物語とは成因がやや異な-神話そのも

のを改襲した

「神代史」であるといえよう

再び天間に戻ろうここで語られる殿王朝開園神話を綜

合すると腰租誕生1夏殿革命という流れは商頭でのそれ

とはぼ

一致するのであるが商頚では全-無税されている

王亥

王恒や上甲微の事浜を多-記している所が大いに異

なるこれらの先王は卜軒に於ても租神として柁られてお

-殊に愛

(餐)王亥は

「高租」と崇められていたのであ

るから天問における殿租誕生や牧牛創始の偉大な功績も

殿代からその根摸となるべき停東があったものと考えられ

る殿の未森たる被征服図

宋図で語られなかった文化神

が周の政治的願力が比較的少なかったであろ-楚園に於

て生き残

っていたのであ-「王亥を構える頒詩は政治的

要請によって胴去されたのではないか」という前章で捉

起した推測は更に確貴性を樹して-るのである

このように文化神を語る神話は政治的な事情によって

改襲されやすいという

一つの傾向が次第に明らかになって

きたのであるが天間に見える周王朝開園神話を詩経

雅のそれと比べてみるとその傾向は

一層はっき-する

これについては次章で検討することにしてその前に前

章で提起したもう

一つの問題即ち契と後に呼ばれるよう

になる殿紐の正鰻について卑見を示しておきたい

1般には詩経

商頒

「玄鳥」

「長顎」の鄭隻や楚鮮

天問の王逸注史記

殿本紀などから筒状が生んだ殿租

が契であるとされ詩経や楚軒の注揮家も特に疑問を抱い

ていないしかしこれまで見てきた詩経や天問には契の名

は全-見えていない国語を見ると周語下には

玄王勤商十有四世而興

玄王は商のために働き十四世かかって興起した

鄭語には商

契能和合五教以保干百姓者也

商契は五教をよ-調和させ人民を守-養

った人で

魯語上には

契為司徒而民韓-上甲微能帥契者也o

契は司徒の官となって人心を和らげ--上甲微は

22

たす

契をよ-

た人である

自玄王以及主薬莫若湯

文王から主薬

(湯の父)に至るまで湯よ-すぐれた

者はいない

とあるこれらを見ると契とい-名は周

楚以外の

園で用いられし

かも

「司徒として五教によって人心を安

定させた」という事鏡が語られている抽象的な形ではあ

るが文化面での功寮が取-上げられているのである

そうすると陳夢家氏の

「契と刻は互訓であ-共に亥

と普通である故に契は即ち王亥である」とする説が有力

な説として浮上して-るOこれまでの考察から王亥は殿

の高租にして文化所であ-従

って契というのは王亥の周

連諸国での呼び名であ-「五教」云々は王亥の文化神的

な面が周遠諸国に於て襲化したものと考えられるのである

もう

1万の

「司徒」という面に注目すると楊寛氏は

「司

徒」は

「司土」であるとして契は社紳

(土地紳)であった

と考えている「司徒」を

「司土」と表記するのは西周金文

に多-見られる用法であ-本来は土地や農業を司る官で

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

あったらしいまた史記

殿本紀には

「実は南を佐けて治

水に功があった」とあ-梁玉縄の疑う如き司馬遷の臆説

でな-古-からの停承に基づいているものであるならば

契に夏南の如き下士造成神的な面もあった可能性は捨てき

れない司土の官は農業にも関係が深いことから契は土

地神にして農神の性格をも持つことにな-このことは王

亥が牧牛の創始者であることと関係があるのかも知れない

なお尚書尭典には

帝日「乗努民阻飢o汝后榎播時百穀O」帝日

「契百姓不親五品不遜汝作司徒敬敷五教在寛」

もろもろ

舜は言った「棄よ

民は飢え苦しんでいる

汝は后頑の官とな-

この百穀を播け」と舜は言

った「契よ人民は互いに仲良-せず父子

君臣

夫婦

長幼

朋友の序に従わない汝は司徒の官とな

つつし

-五教を敬んで廉め心を寛-して治めよ」と

とあ-同じ-尚書の周官には

司徒掌邦教敷五典擾兆民

司徒は閲の教化を掌-五教を廉め多-の民を順

23

中国文畢報

第四十六肋

わせる

とあ

って司徒が教化の官であるかの如-書かれているが

これは后積が農官とされたために契は

「五教を康めた」面

のみが取-上げられそれが司徒の官名に結びついてかか

る誤解を生んだものであ-司徒の本来の意味ではないと

考えられる

周やその支配下にあった宋園では殿租に玄王という名

が使われてお-玄鳥による神的な誕生と商の興起のた

めに轟-したとい-事暁が語られる

魯園では

「契」

「玄

王」両方が見えるがー契と言う場合は文化的な功績が描か

れ玄王と言う場合は始租としての面に注目されている

恐ら-

「玄王」とは契=

王亥の始租としての面が強調され

た時の呼稀であ

ったと思われる文化人類学的にも「玄」

という名は始源の闇や滞沌を連想させるものであ-例え

ば老子

六章の

玄牝門天地板

玄牝の門(女陰)は天地寓物の根源である

の如-である

宋園や周では殿租の文化神的な面が抹殺さ

れたために始租神としての

「玄王」の呼稀が定着し魯

鄭などの周連列国では儒教的に襲化した文化神として

「契」と呼ばれ楚国では殿代の呼稀

「王亥」が原形に近

い形で保存されて

「該」と呼ばれたのであろう

四楚鮮

天問の周王朝開園神話

まず天問における殿周開園神話の大筋の流れを圏示する

と附固

一のようになる我々の常識で考えるならば夏殿

革命の次に殿のその後の衰亡を歌いそれから周王朝

へと

移る構成をとるのが普通であるが天問では夏殿革命から

いきな-周の衰亡

へと飛びそこから殿の衰亡

へと戻る間

くりかえ

「天命は

」というテーゼを挟み込んでいるこの

ような操作によってどの王朝も同じように興亡を繰-近

すというテーゼが

7層際立つのであ-

T見乱雑に見える

排列が安は高度なレトリックを用いた結果であるという

ことがわかる

次に殿周の開園が歌われている各章を時間順に並べ

かえて相互に封比してみると附圏二のようになるこの固

24

殻周開園の耐話と

「神代史」(大野)

附圃- (丸内の数字は葦の通し番競)

舜と女梱 ⑱~

「験萌在初」

1

度の先王 ~

t

夏殿革命 ~

周の先王

l

殿周革命 ⑮~cent)

iiiiia段の衰亡 ~ 周の興亡

一- 一 ノ ー「天命反側」

附圏二

段 簡秋と唇の通婚

王亥 有易で牛羊を牧す

王亥の婚姻

王亥 殺されかける

王位 王亥の牛を得る

上甲微 父の遺業を鮭ぐ

肢弟が上甲微を迫害

一寸 どうして子孫が栄えたのか」

~ 楚の興亡

周 ⑯ 后硬 氷上に捨てられる

上帝をも驚かす武勇

-「どうして子孫が栄えたのか」

成湯 伊声を得る

伊デの生い立ち

湯 壷泉から出て案を伐つ

- 25-

⑳ 文王 天命 もて段を覆す

岐山に移る殿の惑婦

文王 村の無道を天に告げる

文王 太公望を得る

武王 急いで殿を伐つ

武王の朝合

周公 武王をよしとせず

武玉 村を伐つ

中隊文革報

第四十六筋

一見して知ることができるのは周の先王には僅か二章

しか使わず殿周革命に九章も費やしてお-殿王朝の方

が租神に多-の章を割いて夏殿革命には三章しか使わな

いのと対照的であるということである

周王朝開園を云う章をもう少し詳し-見てい-と

76積維元子帝何竺之投之干水上鳥何燐之

77何漏弓挟矢殊能渚之既驚帝切激何逢長之

后稜は上帝の長子であるのに上帝はどうして彼に

危害を加えたのか彼を氷の上に捨てると鳥はどう

してこれを暖めたのか

どうして弓をひきしぼ-矢を挟みすぐれた才能で

武婿となったのか上帝をも驚かすほどひどいことを

したのにどうしてその子孫は長-栄えたのかQ

后積が上帝の子であるのに迫害され鳥によって助けられ

たというのは詩経

大雅

「生民」と同様であるが周租后

礎の両的資質を云-のみであ

って農業費明には全-解れ

られていない77章は王逸注では前二句を后稜後二句を

武王の事績とするが洪興租補注は全部を武王の事績とし

朱子はその両方を疑問であるとす

78章以下では文王の

ことを云う章が績いてお-この章を武王の事虞とする課

には従えない聞

多や衰珂

氏は全部を后頑の事鏡とする

が必ずしも后榎に限定することはできない少な-とも

古公以前の

「神代」の先王のうちの誰かであることは確か

であろう後二句の

「上帝をも驚かすようなことをしなが

らどうして子孫が栄えたのか」という疑問が殿の租神と

「人王」の境目である上甲微を語る61章の後二句と似るか

らである周の先王を歌うのはこの二幸で終わ-であ-

そこでは先王たちの文化的功績は全-歌われておらず殿

の先王に比べて極めて冷淡な扱いである

78章以下は殿周革命にまつわる様々の問が寛せられるが

詩経

大雅に見えておらずまた考古学的な裏付けもない

俸説的な事件もい-つか見えているとはいえ神話的な奇

怪さには乏しいといえる0

79遷蔵就岐何能依O殻有感婦何所説

貴職していた重器を移して岐山にやって充たがどう

して人民がそれに従

ったのか殿には人を舷惑させる

26

女がいたというが何のために議話しょうとしたのか

前句についてはこれを文王に懸ける説

大王に懸ける課

あるが前後で文王のことを歌

っているので大王の事蹟と

するのには難があるとはいえその内容は詩経

大雅

「崩」

に云う古公宜父の事鏡に近-どちらに限定することもで

きない「大王から文王までの問」とする他ないであろ-

後二句は肘の妃である坦己を云うとされるがその何につ

いて問うているのかは明らかではないしかし両者とも

その

「答」となるべき俸説がこの時代に前後して現れてお

-前者については

1章で引いた孟子

染着王下後者に

ついては太平御覧奄

1三五引世本に

「村が有蘇氏を伐

った

時有蘇氏は坦己を妃にさし出した肘はこれを愛して言

うことを何でも聞いたために武王が肘もろとも殺した

云うのがこれに普たる

66到峯村窮叔旦不嘉O何親撰車足周之命以各嵯

肘の首をはねるに至-周公且はこれをよしとしな

かったどうして周自ら謀

って殿を討とうとしたのに

その行動は人民に支持されたのか

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

後二句は極めて難解であるがいま黒須重彦氏の解樺に従

う他の諸家にはテキストの文字操作で意味を通らせよ-

とする者も多い前二句を王逸は

「武王の舟に白魚が飛び

込んだので群臣が

『吉兆だ』と言ったのに封Lt周公が

『吉兆ではあるが吉兆と思

ってはならぬ』と戒めたことを

云う

と解しているがこれは史記

周本紀の記事を敦術

したものであって漢初の五行思想の産物である寧ろ所

謂伯夷

叔奔停説の前駆形と考えた方がよい

ここに引いた事件が果たして史寛であ

ったのか西周時

代に生まれた俸説か或いは東周以後の俸説であるのかは

容易に判断できないしかしいずれにしても西周人の

「神

代史」からは無税されていた事件が本来の形ではないに

しても再び記録される動きをここに見ることができるので

あ-結語で述べる

「神代史の再神話化」の萌芽であると

いえるO

このような新しい動きはあるものの天問の周開園神話

も始祖の神的誕生1英雄的事業の達成という基本的な構造

には全-襲わ-はないしかし全鰻を通じて諸王の文化的

27

中閲文革報

第四十六筋

功績には全-解れられていないばか-か周の先王=

租秤

に封しても極めて冷淡であ-殿に封する態度とは明らか

に異な

っているのである

このことは昔時の楚園が周文化よ-も殿文化の方により

親しみその信仰

習俗等を保持していたことの一つの讃

接であろう楚文化と殻文化の関係の深さは既に様々な面

から指摘されてお-例えば楚辞

九歌に見える「雲中君」

「河伯」の神がト辞にも

「雲」「河」神として見えているこ

とや西周末期のものと見られる楚の青銅鐘は殿の鍔と形

が似てお-その銘文も殿金文に似た雄滞な書鰻であるこ

とな

どが挙げられるこのよ-な現象が生じた過程として

は(一)歴代から楚は殿に臣屈してその文化を受け入れ

周の時代になっても表向きは周に臣属しながらも殿の文化

を保持し績けた(二)周代以後に国力を埼大した楚園は

への対抗上その文化を拒み隣接する宋園の殿文化を積

極的に導入したという二つの説が考えられる前者の立

場を取る者はその根接として詩経

商頒

「殿武」の

撞彼殿武奮伐剰楚突入其阻衷利之放有戟其

所湯孫之緒(一章)

敏疾なる武丁は奮起して剤楚を伐ち険しい山地

に攻め入って刑楚の兵士を虜にしその地を平げ

湯王の子孫として手柄を立てた

という部分を畢げることが多い

前述の如-商頭目鰻が

宋園の楚国

への対抗心から作られたものであ-我が国の

紳功皇后遠征説話と同じ-どこまで史寛を反映している

かは未知数であるしかも卜辞などの殿代の地下資料から

は昔時の殿楚関係を示すものはまだ見つかっていない

一方後者については史記

楚世家に周の夷王の時に

楚王熊粟が

「我は牽夷な-中国の詮親に興らず」と言っ

たという記事もあ-現時鮎ではこちらの説の方が有力で

あると思われるいずれにしても周とは言語や風土を異

にする楚閲で生まれた天問には意固したか否かはともか

-周文化の重税と殿文化

への傾斜が讃み取れるのであ-

周王朝側の論理で殿の文化碑の功績を壷-抹殺された詩経

商頭や周の文化神を構える詩経

大雅とは好封照を見

せているのである

28

結語及び除論

これまで述べ来

ったことを要約すると詩経や楚辞

問に見える殿周開園神話は始租の所的誕生1迫害1事業

(文化創造

天下統

一)の完遂という構造を持ち既に西洋

の英雄神話に於て指摘されている基本構造をここにも見出

すことができるただ西洋では

一人で行なわれることが多

い英雄としての事業が中国では教代に亙

って行なわれる

ことが多いという違いはあるところが殿の開園と周の

開園また詩経と天問の相互間で詳し-比較してみると

神々の文化的功績は神話が記録された常時の政治的な事情

によって抹殺されることがあるという事資に束づ-この

ことは中国に於ては剣を振るって活躍する英雄よ-も

文化を創始する

「聖王」の方が重きをなしてお-氏族や

国の威光を左右するものであ

ったということの一つの謹左

といえよう

詩経

大雅における周王朝開園神話は高租にして文化

神である后稜-公劉を神話的要素に富む叙事詩によって語

段周開園の紳話と

「神代史」(大野)

っているが

「人王」の代に至ると

殊に王李に新著に見

られる如-諸王にとってマイナスイメージを輿えかねな

い史寛は壷-制去され武力革命の成功を

「神代」から引

き継がれた輝かしい事業として稀讃している周王朝の開

園神話とそれに績-殿周革命の史糞は詩が記録されるま

での間に

「神代史」

へ改愛されたのであるそこに支配強

化のための王室神聖化という高度な政治的意圏が働いてい

るのは確資であろう

段の遺民の園である春秋の宋園における段王朝開園神話

詩経

商項の諸篇は最終的には周王朝側の人々によって

記録

編輯されたものであ-それ故殿人の信仰した文化

紳は義-抹殺され支配者としての周王朝の論理に基づ-

「神代史」に改変されているOそれに封して楚辞

天問の

殻王朝開園神話には卜辞にも見える租紳たちの神話的雰囲

気に富む物語が多-残

ってお-逆に天問の周王朝開園神

話では周の先王の文化的功績を無税していて宋国との政

治的

風土的立場の違いを明瞭に浮かび上がらせているの

である

- 29-

中国文学報

第四十六筋

か-の如-

神話時代やそれに績-歴史が為政者の手に

よって

「神話化」される場合は中開の諸秤の中で重い比

重を占める文化神が記録者の政治的立場に従

って改奨され

「人王」に封しては

「都合の悪い」史貴を切-捨てて

「神

代史」

へと仕立てられるのであるが東周時代になるとそ

れとは逆に「人王」にも神話素の一つとして解揮可能な俸

説が様々な書物に記録されるようになる既に引用した文

王の安里幽閉

伯夷

叔斉の餓死などがそれであ-

「人

王」の物語もこれによって組両と同様の典型的神話

へ近づ

いてい-のであるこれらが記録されたのは諸子百家の書

物であ-昔時の遊説家たちが民間に流布していた停説を

敬-上げて自説を述べるために用いたものと考えられる

これらの停説が古い形をそのまま保

っているか否かは全-

保護がないとはいえ政治力撃の働きに-いレベルに於て

「神代史」に再び神話的物語が付け加えられるようにな

たということはいえるいわば

「神代史の再神話化」であ

-

1般に

「中国古代王朝神話」として

1つの物語にまと

められているのはこうして

「再神話化」された結果の産物

なのであるこれらは確かに

「神話」としての要素を豊富

に含んでいるのであるがこれを中国古代神話の原型と見

なすことは不可能であ-上述の如-複雑な要因が絡み合

っているのである

こうして

「神代史」はたとえ元の形とは異なるにせよ

再び

「神話」としての光彩を放ち始めたところがこの

「神話」をまたも

「歴史」に固定してしまったのが他なら

ぬ史蓬であることは周知の通-である

しかし

「神代史の再神話化」の原動力とな

った

民間

に語-経がれた王朝停説のエネルギーもこれで絡恨したわ

けではなかったこうしたエネルギーはその後も小説に記

録された種々の歴史俸説などを生み出し形を襲えて生き

績けたのである

ところでこれまで本文中に取-上げなかった

一つの重

要な問題があるそれは

「楚園に古-から停わる楚人自身

の神々はど-な

っていたのか」という問題である

楚辞

天問にはその末尾に楚図の俸説と思われるものが

記されてはいるが多-の注帯家が匙を投げているはど難

30

解であ-筆者も今敢えてこれに挑戦するほどの飴裕はな

いoしかし離騒ではその冒頭で「私は帝高陽の未森である」

と歌

ってお-少な-とも屈原の時代では楚人は穎頭高陽

氏を租神としていたと考えられているが文化神に関する

記述は見えない

一方同じ頃に楚園で成立したと考えら

れている山海経

大荒西経には街頭の子孫の神々の事業

が豊富に記されている例えば重

寮の天地分離

太子長

琴の音禁孝明などである

これらの事章から得られる

一つの推測をここで述べると

楚辞に於ては楚人自らの文化両を表立

って取-上げられな

い事情があ

ったものと思われる楚語で書かれた「原楚鮮」

には書かれていたがそれを漢語に翻弄した際に宋図か

ら導入した殿の文化神に置き換えたのかも知れないそし

て自らの文化紳とその物語を速い

「大荒」の物語として

カムフラージ

ュしたのが他ならぬ山海経なのではなかろ-

かこの書が地理書の形をとっていることや他書に見ら

れない神話停説を豊富に載せていることなどは丁度我が

国の

『出雲園風土記』を思わせるものがあるまた殿の

殿周開国の神話と「神代史」(大野)

文化紳王亥が

「困民国」の人とな

っていた-楚の租神で

あるはずの蘭頂が

「額頭囲」なる図にいたとされているこ

となどもこの仮説の根嬢となろう

しかし最早紙幅も轟きているこの問題は山海経を中心

として改めて考察することにしたい

ば織井慶紀著池田末利編

『中図神話の文化人類学的

研究』(1九九〇平河出版社)があるoまたユング心理学の

立場から日本神話を分析したものとして河合隼雄

『中空構

造日本の深層』(一九八二中央公論社)等がある

近世以前の諸席の議論は専らこの怪異雫が信ずるに足るか

否かの次元に終始するが近代的な研究としては聞一多

「萎

娠履大人跡考」(『聞一多全集』第一射一九四八開明書店)

白鳥清

「段周感生神話の解揮」(『東洋学報』十五巷四親tT

九二五東洋協合学術調査部)出石誠彦

「上代支部の異常

出生説話について」(『支那神話俸説の研究』所収tl九四三

中央公論社)等がある

「帝上帝也」

「帝高華氏之帝也従於帝而見干天婿事賛敏也」

孔疏に

「頑柁郊礁之時英夫高辛氏帝率興供行妻娠随帝之

後践履帝迩行事敬而敏疾放鳥神歌饗紳既饗其条則

31

中国文筆報

第四十六筋

愛而拓之

於是為天神所美大為福緑所依止twz=得懐任則

震動而有身」と云う

例えば嗣西族の

『東巴控』に見える縛文字にこのことが窺

える附固三参照また河南省に俸わるロ東俸説によると

女桐が天から降ってきて伏義が地下から出てきたと云う

(陶陽

鍾秀

『中国創世神話』一九八九上海人民出版社二

一四頁)

附圏三

primeJ 一一一

~PJ虹互L

LJL

堅 室④

上部の 一へ は天下部の 皿 は大地を

表す圃①は中間に天地交合の気がありこれ

より荷物が生ずる固②の中間は蛙で天地交

合後の襲化を表す圃⑨では天地の間に男が上

女が下になっており男女の交合と同様にして

天地が人類を生んだことを表す

(陶陽 鍾秀 『中国創世神話』214頁)

「惟虞東学詩云人之初生皆裂胎而出騒失所依故堕地

郎帝惟羊連胞而下共産猪易故詩以

『如達』馬比o又常

熟陶太常元淳日凡嬰兄在母腹中皆有皮以豪之俗所謂胞

衣也生時其衣先破兄鰻手足少蔚放生之難O惟羊子之生

胸仇完具堕地而後母篤破之故共生易o后硬生時蓋戒於胸

中形鮭末露有如羊子之生者放言

『加速』今按前二説

是也下言

『不味不副』蓋謂其胞衣之不折裂也」(『毛詩俸

集通帯』巷二十五)

「徐君宮人娠而生卵以箆不詳秀之水演O猪孤母有犬名

鵠蒼へ猟干水溝へ得所弄卵衝以東蹄猪孤母以馬具凍俊

之逐沸成見生時正値へ故以為名徐君宮中聞之乃更録

取長而仁智襲君徐固」(博物志

異聞篇引徐値王志)

「高句凝着其先出自克明東明本北夷嚢離王子離王出

行其侍兄於後任娠離王達欲殺之侍見目『前見天上

有菊如大鶏子乗降我困以有嫉』王囚之後連生男玉

置之家牢家以口束嘘束不死o王以為所乃聴収養」(梁

諸夷俸)

北欧や古代

ハンガリー等に見られる豊富な例がKケレ-

ニイtCGユング

『神話撃入門』

一九五1(杉浦忠夫訳

1九七五晶文社)に引かれている

例えば壮族に俸わる

「種子と犬の尾」の物語では人々

「九尾狗」に天上の穀物を盗みに行かせたところ穀物を

九本の尾に-つつけて蹄ろ-としたところを番人に見つか-

八本の尾を叩き切られたが残-

1本の尾に穀物をつけて逃げ

師-人間は農業ができるようになったと云う

(陶陽

秀前掲書二七九頁)

32

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 6: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

撃的な意味を決定するのは難しい敢えて卑見を述べれば

最後に自ら得た穀物と動物犠牲とを上帝に捧げていること

に注意が必要で中国西南の少数民族に俸わる農両

が園の記紀神話のウケモチ

ような自らの身鰻や生命を

犠牲にして穀物を得るというモチーフの痕跡がそこに盈さ

れているのかも知れない総じて后積には神的な誕生

迫害の後の再生

農耕文化の讃明という始租たるにふさ

わしい資質と事鏡が付輿されているといえる

后稜に績いてその曾孫とされる公劉が

「公劉」に歌わ

れている

篤公劉匪層匪康道場通産連帯適倉O遭裏鯨糧

干妻子嚢o思輯用光弓矢薪張干支戚揚婁方啓行O

(一章)

篤公劉干育斯原既庶既繁既順適量而無永歎

捗則在職復降在原何以舟之o維玉及環韓捧容刀

(二幸)

篤公劉干京斯依鎗鎗済済倖憂倖凡既登乃依

乃造其菅執家干牢酌之用鞄食之飲之君之宗之O

殻周開国の神話と

「神代史」(大野)

(四章)

篤公劉干幽新館渉澗馬乱取属取鍛止基連理

宴衆宴有爽其皇潤遡其過潤止旋乃密帯鞠之即

(六章)

情深い公劉は住居に落ち着-こともせず田地の

瞳を区切-穀物を積み蓄えた食糧を大小の袋に詰

たてほこ

め込み人々は囲結して威勢よ-弓矢を張-千

おのまさかり

を立てここに行旗を始めた(T章)

情深い公劉は着いた平原を国見した物産は豊か

で草は茂-民心も落ち着きのびやかに溜息をつ-

者はいない小山に登-また下-て平原を見歩-0

めぐ

公劉の腰に舟らすものは凧玉や美しい石鞠飾-千

侃刀(二幸)

情深い公劉はこの都に定任した人々は進み居並

びむしろや腰かけを並べ席に着いてよ-かかる

しもべ

つか

ふくべ

し家を牢から出させ鞄

酒を酌み人々

に飲食させ公劉は君主として振舞

った(四章)

情深い公劉は幽地に官室を建てた滑水を横切-

5

中国文畢報第四十六筋

といしいしづち

属や

を切-出し

礎を整え多-の人が住みつい

た皇潤を挟み過潤を遡

った所に人々はび

っし-

くま

住みつき川の丙鞠に沿

った(六章)

全六章のうちの四章

T章で板横地造営

への出費二章で

国見四章で饗宴六章で板接地の完成と章展を歌う0形

式面では全篇に亙る

「篤公劉」のリフレイン「遭

OL

「既

O」といった助字によるリズミカルな修辞法など

「生民」と共通する所が多い内容面では

「生民」の如き

神的な誕生や迫害などは無いものの板接地完成に饗宴が

付随している鮎が

「生民」に似る四章の饗宴が単なる無

薩講でないのは

1讃して明らかであるLt「生民」と

劉」の間に置かれている詩四篤のうち

「行葦」「既酔」「

鷲」の三篇までが祭天の儀式を伴う饗宴詩であることから

考えてもこの饗宴場面には家を殺して上帝に捧げる儀式

が含まれていたものと思われる

か-見ると詩経

大雅における后硬と公劉は事業完成

とそれに伴う祭天という鮎では比較的よ-

一致してお-

共に西周人にとっての高租神であ

ったと考えられる后頑

「食」を開拓したのに続きその曾孫公劉が

「任」を開拓

したのであ-恰も山海経

海内経で

「后稜が百穀を播き

その孫叔均が牛耕を始めた

と云うのに似ているここで

の叔均は后稜から分化してその功績を補完する役割を持

てお-公劉も同様に租神の資質をもつ后頑から分化し

てその事業を襲展させる神とな

ったのであろう公劉に奇

怪な誕生の話がないのもそういった英雄的資質を后頑か

ら引き縫いでいるためと考えればうま-説明できる

公劉の十代後とされ文王の骨組父である古公豆父の事

鏡は

「締」に歌われる

鮪解瓜腔民之初生白土汎漆O古公宜父陶復陶

穴未有家室(T章)

周原廉廉重茶如飴宴始宴謀宴契我亀日止日

時築童子茶

(三章)

乃召司空乃召司徒倖立室家其縄則直縮版以

載作廟巽巽(五章)

建立皐門泉門有伏廼立鷹門鷹門賂購廼立家

土戎醜恢行(七草)

6

韓不珍庚憶亦不眠欧問種械扶桑行違先夫混

夷戯臭維其喚臭(八草)

虞帯質蕨成文王amp庚生予日有疏附予日有先後

予日有奔奏予日有禦侮(九章)

長々と伸びる瓜の蔓そのように連綿たる周の民が

生まれた時は汎漆の地に居任した古公宜父は土

をこねて穴を作

って住みまだ宮室を持たなかった

(一章)

たがらし

のげし

周原はよ-肥えて董

飴のように茂

ってい

た国都造営を始めよ-と謀-亀卜を行なうと「こ

こに止まるがよいここに官室を築け」と出た(三章)

土木の官を召し出し土地の官を召し出し宮室を

建てさせた墨縄をまっすぐ引き板を縛

って間に土

を詰め狂いな-廟を作

った(五章)

外門を立てれば高-そびえ立ち正門を立てれば

いかめしい構え大社を立てれば多-の人々が集ま

った(七草)

ほまれ

さて周人の怒-は絶えずしかしその

落とされ

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

なかった雑木を沸い道が通じると混夷は恐れて

逃げ息切れするほどであ

った(八草)

虞園と苗圃が和議を求め文王は興起の勢いを動か

した文王は言

った

「追随する園もあ-

前後から

取-奄-図もある我が閲のために働-園もあ-外

敵を防ぐ園もある」と(九章)

全九章の-ちの六章八

九章は難解であ-諸説紛紛とし

ているが古公ではな-文王の代に時が移

っているとする

鮎では概ね

一致している宮室を持たぬ原始的状態1閲見

1板接地造営という内容は

「公劉」詩に似るが饗宴の場

面がないことや司空

司徒の官名や泉門

庶門の制度な

ど高度に額展した制度鮭系が見えることまた詩型の面で

も大雅の開園叙事詩では唯

Tの

「鮪館瓜腰」という興が見

えることなど

「公劉」詩とは異質のものを感じる

いわ

「神話臭の治失」であ-

「新しさ」である后頑ととも

「神代」の始組神であ

った公劉と異な-古公は西周人

にとっては

「人王」であ-茸在人物として扱われていた

と思われる

中国文学報

第四十六桝

古公の子である季歴は「大明

「皇臭

詩に

「王季」の

名で見えるしかし大任を撃

って文王を生んだことを構え

るのみで自らの聖天子たるにふさわしい事鏡は何も語ら

れていない大雅の開園叙事詩で名が出ていながら英雄的

な事虞が語られないのはこの王季だけで後世の文献例

えは史記

周本紀でも

「徳行を情めた

と云うのみであ-

考えてみれば誠に奇妙なことであるしかしこの間題に封

する答えは後に明らかにされるはずであるから今は王李

の子である文王とその子武王の方

へ進むことにしよう

殿周革命の主役として誰もが知っている文王と武王は

「文王」「大明」「皇央」「文王有壁」でその事蹟が歌われ

ている文

王在上於昭干天周維奮邦其命維新有周不

蘇帝命不時文王捗降在帝左右o(1章)

穆穆文王於緯無数止候哉天命有商孫子商之

孫子其覧不億上帝既命侯

干周服(四章)

いま

文王は天に坐しああ天に輝かし-坐す周は古

い園であるが天命が新たに下された周は大いに輝

かしく上帝の命も時宜にかない文王は天地を上下

して上帝の左右に坐す(一章)

つつし

慎み深い文王はああ敬むこと績いてやまぬ偉

たも

大なるかな天命は商の子孫を有たせた商の子孫は

かず麗は十寓に止まらないが上帝の命は下-彼等を周

に蹄順させた(四章)

「文王」全七草のうち二章内容的には叙事詩というより

頒詩に近く

后稜の神的誕生のような神話臭はないがこ

こでの文王は天地を上下して上帝に仕えることのできる存

在であ-神格化されているといえるしかし文王がもと

もと神であったとい-のではなく

古公と同様に

「神代」

から引き継いだ英雄的資質によって天命を得て殿の民を

支配するという事業を行ない「人王」から「紳」へ昇格し

たものと考えるべきであろう

作乏尿之其蕃其繋情之平之其濯其例啓之静

之其樫其梓撰之刻之其腰其柘帝遷明徳串夷

載路天立欧配受命既固(二章)

帝謂文王無然畔接無然款羨誕先登干岸密人

不恭敢距大邦侵院狙共王赫期怒宴整其旗以

按狙放以篤子周砧以封干天下(五章)

普作

って除-のは立ち枯れや倒木切-整えて平ら

げるのは

濯木や並木

切-開き押しのけるのは

かわらやなぎ

へぴのき

やまぐわ

はりぐわ

って例-取るのは

上帝

は明徳ある王に味方Lt串夷は道にあふれんばか-に

逃げ出した天は文王の配偶大姐を立て固-命を授

け給うた(二章)

そむ

上帝は文王にか-のたもうた「人心を

せては

ならぬo気ままにさせてはならぬ」とOそこで高所に

登って観察すれば密園の人は従わず敢えて大国に

逆らい陳園を侵し共園

へ進軍しているO王は激し-

怒-

ここに軍旗を整え密図の行軍を阻み周の

さいわい

埼Lt天下に戒を示そうとした(五章)

「皇臭」全八草のうちの二章二章では公劉や古公と同様

の板接地造営を歌うが「天命」を受けるや否や五章に

云う如-密国を征討しょうとする

有命日天命此文王千周干京績女維草長子維

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

行篤生武王o保右命爾嬰伐大南(六章)

殿商之放其禽如林矢干牧野維予侯興上帝臨

女無武爾心(七草)

牧野洋洋檀革塩塩駆厨彰影O維師伺父時維鷹

揚掠彼武王韓伐大商脅朝清明(八草)

天よ-命は下-我が文王に命は下った周の都で

後を鮭ぐ妃は宰園の女この長女がやって来て天は

武王を生ませ給い守-助けて命じ給うた

「大南を

討伐せよ」と(六章)

殿の大軍は林の如-集まった武王は周軍に牧野

ちか

で失

った

「ここに我々は興起する上帝もお前達を

見ておられるぞ戒心を抱いてはならぬ」と(七草)

牧野は贋々として戦車は輝き烏は勇み立つ太

公望呂筒は鷹の如-猛-立つ輝かしい武王は大

商を存分に伐ち取-合戦の朝は晴れ渡った(八草)

「大明」の終わ-の三章牧野での殿との合戦が活寓され

るが武王のこの功績もやは-文王から受け縫いだ「天命」

あってのものである

9

中国文革報

第四十六

文王受命

有此武功既伐干崇作邑干豊o文王桑

哉文

王は天命を受けこの武功を立てた崇園を征討

すると豊に都邑を造営したすぼらしい文王よ

「文王有壁」の第二章密園征討と並んで文王の主要な武

功とされる崇園征討を歌うものであるがこれも

「天命」

によって行なわれたものとされている

詩経

大雅の落第から直接知ることのできる周王朝開園

の物語は以上の通-であるこれを后稜から文武までひと

績きに眺めてみると始租にふさわしい神的な誕生から始

まって迫害を受けた末に諸文化の開拓更には武力によ

る天下平定とい-英雄的事業を完成させるのであ-これ

は丁度Eノイマンらによって指摘されている英雄神話の

典型的なパターンとも合致する后積-公劉-古公-文王

-武王の五王が全鮭として恰も

1人の英雄の如き振舞いを

見せているわけである

しかし仔細に見るとこの五王の中で后稜-公劉古公

文王-武王の三者には微妙な違いがある后穆-公劉の物

語は神話的な雰囲気が濃厚であるのに対し文王-武王に

関しては

「紳懸-」的な奇蹟は全-見られず武力行使に

及んだ根嬢としての

「天命」ばか-が強調されているそ

してこの両者の中間的な存在として古公がいるのである

いわば古公を境にそれよ-前が

「神代」であ-それよ-

後は

「人の代」として描かれているといえる

か-見ると古公以後の物語は開園の

「歴史」であ

って

「神話」として扱うにはふさわし-ないという人もいる

かも知れないそれにもかかわらず筆者は古公から武王に

至る物語は

「歴史」として作られたものではな-歴史が

神話の一部として改襲された

「神代史」

であると考える

なぜなら考古学的に知られる殿周革命前後の歴史には詩経

と大き-ずれる部分があるからである

后積や公劉は周原卜軒や金文には全-見えず神話上の

人物であることを疑う者はいない古公賓父については

文王の租父たる大王と同

一人物と考えることに疑問を向け

る説があ-例えば顧訴剛は古公は周王朝創建時の王で

あ-大王は周の国力が強盛になった時の王であると考え

10

⑬たOしかし

「轟」詩のところで述べたことを考えれば古

公を周王朝の租とする課には従い難い現在鹿-支持され

ている説では殿が常時山西省に居た鬼方を討

った結果

彼等が西方に移動して周を歴迫したため周は幽から岐山

に移ることを飴儀な-されたと言う

具鰻的な国名などに

はなお問題があるとはいえ周が異民族の歴迫で岐山に移

ったという事寛があ-それが

「崩」詩にも反映されてい

るのは確かであろう時代が下がると孟子

梁意三下に云

う如-

「古公が徳を守

って岐山

へ逃げ人民も彼を慕って

共に移動した」という儒家道徳による合理的解帯が行われ

るようになるのは周知の通-である

王李は前述の如-詩経ではその事蹟が全-記されない

ところが古本竹書紀年には

殿の武乙三十五年王李が西落鬼戒を伐ち二十雀

王を捕虜にした(後漢書西完博引

)

殿の文丁が季歴を殺した(青書束管俸史通疑古

社説上引)

といった記事が見え文丁期の卜辞にも周を伐つことの可

段周開園の神話と

「神代史」(大野)

否をーつたものがあるOしかもその7万で同じ古本竹書

紀年に

殿の武乙三十四年周の王李が来朝し武乙は土地

三十里玉馬を賜興した(太平御覧巷八三引

)

とあ

ってこの時期の卜辞にも周を

「周侯」と呼んでいる

ものがあ-周は段の侯国として厚遇されていた面もある

のである「大明」詩での王李は殿と関係の深い拳闘から

大任を迎えてお-史寛とすれば政略結婚である王李の

頃の周は殿と虚々賓々の駆け引きが績-緊迫した関係にあ

ったのである

王李のこうした

「行状」は竹書紀年に記事が残されて

いる以上常時の史官によって記録されていたはずである

にもかかわらず詩経ではそれらが殆ど無税されていると

すれば大雅の諸篇が作られた時から記録されて現在の形に

なるまでのいずれかの段階で意固的に例除されたと考える

のが愛常であるどの段階で刷られたかを決定するのは言

うまでもな-非常に困難であ-例えば

「解」詩で七草ま

で古公の根接地造営の話が績-のに八草でいきな-

「韓

ll

中国文革報

第四十六射

不珍膜性」と文王の代に飛ぶのはあま-にも唐突であるこ

とから七草と八草の間に王李が殺害されたことを歌う章

があ

ったと推定することもできるが残念ながら確認する

すべはないしかしいずれにしても我々が常識的に考え

れば王李が殿に殺された事寛を語ることによって王季1

文王-武王を悲劇の英雄に仕立てられ殿周革命の物語に

一層の彩-を添えられるはずであるのにそれらが轟-酬

去されているのである

文王と武王に関しては詩経に見える密

崇征討等は周

原卜辞等に照らしても史貴であ

ったらしいしかし後世の

文献に見える

「村が文王を安里に幽閉したが文王の部

下が賄賂を使

って救出した

とか

「伯夷と叔斉が武王の武

力革命を悲しんで首陽山で餓死した

とかいった物語は詩

経はもとよ-古本竹書や地下資料にも全-見えていない

之を要するに古公以下の

「人王」についてはマイ

スイメージを興えかねない物語は

一切語られていないので

あ-そこには諸王の威光を高めようとする政治的要請が

ったと考えられる后積や公劉は

「神代」の高租神であ

るから神話的要素に富む怪異な物語をそのまま停えても

不都合はないしかし古公以下は所詮

「人王」であるから

紳懸-的な奇蹟を附合すれば虞寛味が乏し-なるしその

一方では

「神代」から績-聖王の血統を誇示する必要があ

る勢い

「都合の悪い」史宜を無税して「輝かしい事業」

のみを賞揚する方向

へ向かうことになろうその敏寄せを

まともに食らったのが他ならぬ王李であ-殿に朝貢した

-殺された-した史資をそのまま記せば

「王統」の威光

を傷つけるのは明らかであるから大任と共に聖天子文王

を生んだいわば橋渡し役としてのみ名を留めることにな

ったのであるこのような

「歴史の神話化」の結果詩経

大雅の叙事詩語笛は周王朝開園の

「神代史」として西周

貴族の問に俸えられていったのである

二詩経

商頚の殿王朝開園神話

詩経

商頭の詩篇は鄭玄の商頭語で

「末の戴公の時に

大夫正考父が十二篤を得たが孔子が詩を編纂するまでに

七篤を失

った」

と停えられ今日に至るまで定説となって

12

いる現存する五篤の中には玄王

相土

湯及び中興の

武丁の名が見えている

殿の始租誕生を歌う詩として古来よ-引かれるのは

「玄

鳥」の冒頭の二句である

天命玄鳥降而生商

天は燕に命じ下士

へ降らせて商租を生ませた

鄭集がこの二句を

「天が燕を下士

へ降らせたというのは

その燕が残した卵を有城氏の女簡秋が呑んで殿租契を生ん

だからである」

と解して以来これが定説となっているし

かし森三樹三郎氏が既に指摘しているようにこの二句だ

けを見ている限-

「燕の卵を呑んだ」という事寛は直ちに

導き出せないのであ-この説話が商頚が作られた春秋時

代の始租神話そのままであるかどうかは頗る疑わしいし

かし玄鳥なる鳥が天と下士の間を往来して南畝を生ませた

ことはこの詩からも讃み取れるのであ-少な-とも春秋

の来園では殿租が天地通婿で生まれたとぎれていたと言う

ことはできよう

「長襲」にはやは-殿租とされる玄王とその孫とされ

段周開園の紳話と

「紳代史」(大野)

る相土が登場する

溶哲維商長顎其群洪水

巴だ高教下土方外大

国是瞳幅限既長有域方渚

帝立子生商(1章)

玄王桓掩受小国是達受大国是達率履不越途

観能登相土烈烈海外有載(二章)

きぎし

明徳なる商王その

現れて久しい洪水が贋が

った時南は下士の四方に功を敷き外の大国とを区

切-中国の虞さは遠大になったO有城氏もその時勢

力を埼し上帝は有城の子を立てて南国を作られた

(一章)

玄王は武徳があ-小国に封ぜられてもよ-治め

大国に封ぜられてもよ-治め薩に従

って越度な-

しめ

教法を現して行なわせた相土は武威輝かし-海外

の諸国を平定した(二幸)

この詩の

「玄王」は毛俸

鄭隻の如-殿租契のことで

「玄鳥」詩の商租と同

一であると解するのが普通であるが

白虎通

文質

(l名瑞賓)篤は玄王を湯と解してお-漢書⑳

鰻柴志は契(高)と玄王は別人で共に段租であると解する

13

中国文筆報

第四十六筋

相土は周鰻

校人注引世本で

「初めて乗馬を作

った」

と云

いこの詩で武勇の王として描かれていることと関連があ

るものと思われるしかし玄王

相土共に具鰹的に如何な

る事鏡があるのかはあま-括かれず神話としての考察を

かな-難しいものとしている

相土から十

1代後の子孫とされ夏案を伐

って殿王朝を

隆盛

へ導いたと俸えられる湯は同じ「長顎」に見えている

帝命不達至於湯秀湯降不遅聖数日頗o昭倣遅

遅上帝是砥帝命式千九園(三牽)

武王載端有虞乗鉄如火烈烈ー則莫我敢局萄有

三幸莫逐莫達七九有有載葦顧既伐昆吾夏架o

(六章)

上帝の命は誤-な-湯に至って天命と合合した

湯の生まれること期に麿じ聖徳は日々に高まった

天にも明らかに至る徳は久し-止まず上帝も愛敬し

て九州に法を示させた(三章)

武王湯は旗印を立て固-銭を撞-火の如-勢い

とど

もと

盛んなれば誰も敢えて長めることはできない竜株

ひこば

に三つの

生ずるといっても生長しきることは

ないO湯は九州を平らげ垂の葦図

顧閲と昆吾氏

竃の夏架を伐

った(六章)

湯が

「天命」を得た後に諸国を征討して九州を統

一したと

いう内容であ-大雅における文王や武王と同じ-始租

の神的資質を引き継いで天下統

一の事業を完成させるので

ある

これらを全鰻的に眺めてみると商租の神的誕生1

相土

湯の天下平定という流れは大雅における周王朝開園の物

語と同様のパターンであ-また請王を武徳の王と稀える

のに終始して請王にとってマイナスイメージを興えるよ

うな話が記されないのも大雅の文王や武王と同様である

商頭の諸篇が大雅以上に尖鋭な政治的意圏を以って作られ

たことは白川静氏も

「末に興

った膨折たる国家意識を背

景としてその抗争老たる刑楚に封する敵封感情の昂揚

を目的とし」たと指摘する通-であ-諸王の武勇ばか-

をことさら強調するのも肯けることであるところがも

しか-の如-商頭諸第が宋人の

「神代史」であるとすると

14

殿の諸王の文化的功績が殆ど歌われていないのは何とも不

思議な事賓である常時

「南賛歌舌」

の園であったはずの

楚と争うのに自らの文化的先進性とその由来を誇示しな

いということが果たして考えられるであろうか

結局宋人の殿開園神話を西周人の周開園神話と比べた

時の問題鮎は(一)後に

「契」と呼ばれるようになる殿租

の正睦(二)両者とも同様の構造を持ちながら殿開園の英

雄たちに文化的功唐が見られない理由tの二鮎にまとめら

れるo前者については戦国時代の楚国における殿開園神

話を記す楚辞

天問や殿嘘卜辞に見える殿の高組神など

にこの問題を解-鍵があろうと思われる後者については

まず宋園と同じ春秋列国である魯園で作られた詩経

魯頚

を参照するとある程度の推測が得られる

問官有他賓資枚枚赫赫妻嫁其徳不回上帝是

依無災無害禰月不遅是生后頑隆之百福蚕種

重移穂塀寂穿奄有下図倖民稼橋有稜有黍有

侶有拒奄有下士績南之緒o(1章)

后稜之孫資維大王o居岐之陽賓始易商至干文

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

武濃大王之緒致天之眉千枚之野無武無虞上

帝臨女敦商之族克威厳功王日叔父建爾元子

伴侯干魯大啓爾字鳥周室輔O(二章)

奥深-清い宗廟は堅固で美しい輝かしい妻糠は

その徳も貞正であ

った上帝も心をよせて無事に子

を生ましめ十月十日を遅れることもなかったここ

さいわい

に后積を生むと天は多-の

降したそれは黍

もちbぴ

おくて

わせはやうえ

おそうえ

まめ

や穿後に領下の閲を

くろきび

治め民に耕作させた稜や黍もあれば楢や

ある下士を治めて后稜は南の事業を縫いだ(一章)

后稜の子孫はかの大王宜父岐山の南に居任した

時始めて殿

への臣展開係を慕

った文王と武王に至

-大王の事業を縫いだ殿の天命の終わ-は牧野の

地でやって来た「武心を抱いた-心配してはならぬ

上帝も見ておられるぞ」武王は殿に勝

ってその人民

を治めその功績は先王たちにも等しい成王は言

た「叔父周公よ

そなたの長子伯禽を立て魯園の

侯とし大いにその土地を閃かせ周室の輔けとさせ

15

中開文革報

第四十六冊

よ」と

(二章)

「関宮」全九章の

うち二幸O魯図はこの詩にも云う如-局

公の長子伯禽が封ぜられた図であり周と同族であるから

曹然周租后稜に始まる諸先王を構えているわけであるが

后稜の農業創始を

一章全部を費やして

「南の緒を鰹ぐ」と

賞揚する割には文王

武王の殿周革命に封しては素束な

い描き方である寧ろ大雅の詩篇よ-も先王の文化的功績

に重きを置-といえる

1万の宋園は肘王の庶兄微子啓が武王に封ぜられた園で

ある宋園は殿の穫柴を修め殿の習俗を堅持し績けたと

俸えられる

所詮は被征服園である自らの租先を高ら

かに賞讃することに封して何らかの政治的願力が働いたこ

とは想像に難-ない「七筈の詩が亡伏した」という商魂

譜の記事は或いはこのことに関係があるのではないか

この失われた詩の中には

西周の

「生民」

「公劉」詩の如

-殿代よ-俸わる文化神を歌う詩があったのではないか

この推測をよ-精確に検討するにはやは-宋園以外の

園に俸わった殿王朝開園神話の一つとしての楚辞

天問を

参照する必要があるそこで次章ではまず殿嘘卜辞に見え

る高組神について検討し次に楚鮮

天間の殿王朝開園を

問う部分について考察した後これらと商項とを相互に比

較することにしたい

三卜辞及び楚鮮

天問の殿王朝開園神話

卜辞は占卜のための文句を記した文字資料であ-もと

よ-神話の記録を目的としたものではない従

って殿人の

間に俸えられていた殿王朝開園の物語を卜辞によって復元

することは言うまでもな-不可能であるただそこには高

租神や先王をはじめ様々な神の名が見えてお-これを後

の時代の殿王朝開閉神話と比較することによってその神

話がどれ位原初の姿に近いかを推定することはある程度可

能である

さて殿人にとっての最高碑は周知の如-上帝であ-

卜辞にも

「帝」として見えていて風雨などの自然現象を

支配し人事に禍福をもたらす存在であることが知られて

⑲いる

16

この上帝に封しては直接条把が行なわれることはないと

い-のが通説であるが島邦男氏によれば絶無という諸で

はな-締把が行われる例が三例あるこの締紀は上帝の

みならず高租神や先王に封しても行われてお-例えば

羅振玉

『殿虚書契緯編』

一-二-

一片に

点締子王亥

貞-王亥に繭のまつ-をせんか

董作賀

『乙篇』四五四九片に

葵未卜両税乙

英未に卜す租乙に蹄のまつ-をせんか

とあることから

恐ら-張光直氏の云う如-

「殿の人びと

『帝』は先租の絶稀であ

ったかあるいは先租の観念

の1つの抽象化されたもの」

ということになろう

上帝と同様の祭紀が行われる租神の-ち「高租」と呼

ばれるのは愛

王亥の二人である

愛は変とも揮され王⑮

図経が

「暑」と塵韻であることなどを理由に帝尊と解して

以来これが定説となっているO帝聾は後の時代の文献に俸

える所では自らの文化的事業や武勇に関しては何も記さ

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

ずただ殿組契と周蔵后榎の共通の父祖であると云うだけ

であ-上帝的な存在であ

ったとするのが諸家の1致した

見解であるしかし殿代に於ては

「帝」と帝替即ち愛は区

別されている以上完全に同

一であ

ったとはいえず上帝

と人王をつなぐ役割を持つ始租神として奉られたものと思

われる前述の如-愛が抽象化したものが上帝であ-

逆に言えば上帝が人格神化したものが愛なのである

一方の王亥はどうであろうか山海経

大荒東経に

有困民国-王亥託干有易河伯僕牛有易殺王亥

取僕牛

困民国で-主

亥は有易園と河伯園に自ら飼い馴ら

した牛を預けた有易園の人は王亥を殺し牛を奪

この候の郭瑛注が引-古本竹書紀年には

殿王子亥賓干有易而淫蔦有易之君鯨臣殺而放之

是故殿主

(一作上)甲徴候師子河伯以伐有易滅之

途殺其君紹臣也

殿の王亥は有易園

へ客として赴いたが行ないが悪

- 17-

中国文学報

第四十六放

有易の君主摘臣が彼を殺してしまったそれで段

の上甲微が河伯図の軍を借-て有易を伐ちこれを滅

ぼし君主鋸臣を殺した

と記されているまた初学記撃

九引世本には

「骸が

牛を飼い馴らした」とあ-この膜も王亥であると考えら

れている少な-とも東周末期に於ては王亥が牧牛を行な

ったという俸説があったのであ-王亥を論ずる人の多-

はこれに注目し彼を殿の文化紳であると考えている

「高

租」と特別扱いされる租神の一人であることを考えれば

王亥が文化面で多大な功績を上げ原始状態から文明状態

へと殿氏族を更展させたことは十分に考えられる

もしそうであるならば前章でその存在を示唆した

「殿

の失われた文化紳」はまさにこの王亥ということになる

既に述べた如-詩経

商煩の段王朝開園神話に封しては

それと系統を異にする楚辞

天問という比較資料もあるの

であるから次にこちらの方を見てみることにしよう

fTD

天問は古来極めて錯簡の多い書と言われる

その中で

殿周開園に関する部分は比較的次第がまとまっている湯

以前の駿の先王が措かれるのは55-聖早であ-簡秋と尊

の通婿から始まっている

55簡秋在董卓何宜玄鳥致胎女何喜

筒状は高い槙童にいたが尋はどうして見そめたの

か燕が滑-物を持

ってきたのを筒状はどうして喜

んだのか

古来詩経

商頒

「玄鳥」と同じ-簡秋香卵の説話を云うも

のと解されるがこれも

「玄鳥」詩と同じ-この二句だ

けから呑卵の話を導き出すのは難しいしかしこの通解が

行なわれた高い

「董」は天地の間を繋ぐにふさわしい場所

であ-鳥が天から

「胎」を授けることなど天地通姫を

描-ことには襲わ-はない天問では上帝には

「帝」とい

う呼稀を使

ってお-ここでの

「魯」はー辞の

「愛」と同

じく上帝の人格化したものと思われる

この二句は不思議なことに簡秋と啓が誰を生んだのか全

く言わないテキストに脱落がなければ次の章の登場人

物を簡秋の子と考えるのが最も素直であろうところが次

に登場するのは

「玄王」でも

「契」でもない

18

56該乗季徳頗父是滅胡絡弊干有屈牧夫牛羊0

57干協時舞何以懐之平脅鼻膚何以肥之

58有屈牧豊云何而逢撃林先出其命何徒

壬亥はその父季の徳を縫いだが父は立涯な人であ

ったどうして王亥はとうとう有易園に落ちぶれそ

ゐ牛羊を養

っていたのかO

たて

あわ

いだ

協せて舞う女を見てど-してその女を

のか

平らかな脇腹に細やかな皮膚どうしてこの女

まじ

ったのか

王亥は有易園の牧童にどのようにして合

ったのか

寝込みを襲われて先に逃げ出したがどこから逃げ出

して助かったのか

56章の

「該」を王逸は

「竜也」と解しているが晴代に至

って王関連が人名ではないかと疑問を呈出L

t

王国経が卜

軒との対照によって王亥であると断じて以来この説が支配

的であるこの四句も前途の山海経や竹書紀年と共に王

亥が牧神であ

ったことを示すものとしてよ-引かれる57

章は難解であり注揮家ごとに説が異なると言

ってもよい

股周開園の神話と

「紳代史」(大野)

ほどであるが王亥の婚姻のことを云うとする需介甫氏

黒須重彦氏の説に徒う58章は王亥が殺されそうにな-な

がら辛-も逃れたことを云い前に引いた山海経などの所

侍と関係があるものと思われる

この三幸の記述から王亥の迫害と文化創造のモチーフを

見出すことはさほど困難なことではないし簡秋と孝によ

る殿租の神的な誕生も前章までに述べた例と同様に何ら

かの形で王亥に英雄的資質をもたらすものと考えられる

簡秋が生んだのが王亥であると断定できれば話は簡単なの

であるが56章には王亥の父としての

「季」が登場してお

り従

って天問に於ては簡狭

暑-季1王亥という系譜が

成立していたことになるしかし卜辞に見える

「季」は高

租でない租神の一人にすぎず

「高租王亥」が

「季」を父と

していたとは考え難いo

l鮭に卜解における租紳相互間の

父子関係は不明な部分が多-本来は寧ろ横

一列に並ぶ関

係であ

ってどれも

「租先」に襲わ-はないのであ-果

たした功績や役割の違いによってそれぞれに分化したもの

と考えた方がよい卜辞における

「季」の神威は他の租紳

19

中国文革報

第四十六桝

と襲わらないが

天問では尊と王亥との橋渡し的な性格に

襲わったのである

59恒乗季徳蔦得夫朴牛何徒費班緑不但遠来

王恒も李の徳を鰹ぎ王亥の養

った僕牛を得たど

あまね

はどこ

うして狩-に行

って獲物を

-

民に

ただ行

って

締るだけに止まらなかったのか

「恒」は王遠江では

「常也」と云うがこれも王国経が卜

辞に見える王恒のことであると解して以来諸家概ねこれ

に徒う「班稀」は近年の解帯では

「官位」「栄達」等に解

され

「王恒が有易図で出世しょうとした」意であるとす

るがす

っき-しない解輝であるー辞に見える王恒は

弓の形の中に

「恒」字を入れたものもあ-寧ろ

「湯は狩

-に往-際ただ行

って締るだけではな-民に編-施し

を輿えた」とする王逸注の方が原初的な意味に近いと思わ

れる但し主語は湯ではな-王恒である張光直氏は王恒

と罪に何らかの関係があるのではないかと考えるが

それ

よ-は駿人の狩猟柵であ

ったと考えた方が良いかも知れな

いただ王恒の事境を記した文献が他に存在せず容易に

結論を得難いのは残念なことである

60昏微遵述有狭不寧何繁鳥葦棟負子韓情

61絃弟遠軽危害顔見O何襲化以作許後嗣而逢長

上甲微は父王亥の事鏡を鮭ぎ有易園は安定を保て

ず滅びたどうして有易の人民は妹に止まる鳥のよう

に苦しんでいるのに上甲微はその子女にまで横暴な

ことをしたのか

目の陪んだ請弟はみな道ならぬことをしその兄上

甲微に危害を加えたのにどうしてうま-ごまかして

その子孫が長-祭えることになったのか

この二章も本づ-所がはっき-せず難解であるが「昏微」

はやは-王国経が上甲微のことであるとしてお-その事

蹟を云うものと考えられる上甲微は卜辞で系譜が明らか

な請王のうちで

一番古い租先に普た-いわば

「人王」の

租であるがここでは王亥と同様の迫害モチーフが再び現

⑳れその事鏡は既に神話化されていたものと見られる「何

襲化以作詐後嗣而逢長」の二句はそ-した神話であるが

故の不合理性を問うているのである

- 20-

62成湯東巡有等宴極何乞彼中臣而吉妃是得

63水漬之木得彼中子夫何悪之腰右筆之婦

64湯出重泉夫何皐尤不勝心伐帝夫誰使挑之

湯は東方

へ巡狩Lt有等園までやって来たど-し

てあの中臣伊声に乞い求めて良い妃を得たのか

水蓮の木から有等氏の君主は伊声を得たとい-が

どうして伊声を嫌

って湯の妃に付き添わせたのか

湯は重泉の牢獄から出て来たがそれは何の罪だっ

たのか正義を求める心を抑えられず実を伐

ったが

誰が彼をそうさせたのか

商頭における湯は夏架や尾吾氏を伐

った英雄として非常に

多-の紙幅を割いて賞揚されていたのであるが天間では

僅か三幸で終わ-しかもその年分は彼の名臣伊声のこと

に費され天下を平定した聖王にしてはかなり冷淡な描き

方である多-とも王亥や上甲微などと同等の重さしか持

っていないといえるしかしこの簡単な記述は神話的な趣

きに富んでいる伊声は呂氏春秋

本味簾で

「有佐氏の女

が空桑の中から嬰兄を得て

それを君主に献じ君主は

般周開乾の神話と

「紳代史」(大野)

料理人に彼を育てさせた」云々と書かれるような俸説をも

つがその原型とみられる記事が63章にあ-64章の

「湯

出重泉」も森安太郎氏が

「陽

(太陽神)が海の下を-ぐっ

て再び現れ出る様子」

と解したほどであるその虞偽は措

-としても

「重泉に囚われてから脱出」

というのがこれ

まで屡々登場してきた迫害1事業完成のモチーフであるこ

とは明白であ-この迫害こそ棄てられた后稜と同じ-英

雄を英雄たらしめる神話素の一つである殿人にとって湯

「人王」であったはずであるが楚人にとっての夏殿革

命は既に神話となっていた宋人にとっても同じであ

った

と思われるしかし東周時代の為政者の意識は最早神話を

古代人の如-

「心象における事資」として受け取ることを

許さなかった神話の神話たる所以である英雄の迫害も

政治家としての彼等にとっては

「不合理」以外の何もので

もな-統治強化の障碍でしかなかったであろうそれ故

その

「不合理」を宋人は頒詩から治し去-楚人は

「天に

問」うたのである東周の殿開園神話はその鮎で西周人

の神話と歴史が

一鰻になった

「神代史」であ

った詩経

21

中国文筆報

第四十六冊

雅の周王朝開園の物語とは成因がやや異な-神話そのも

のを改襲した

「神代史」であるといえよう

再び天間に戻ろうここで語られる殿王朝開園神話を綜

合すると腰租誕生1夏殿革命という流れは商頭でのそれ

とはぼ

一致するのであるが商頚では全-無税されている

王亥

王恒や上甲微の事浜を多-記している所が大いに異

なるこれらの先王は卜軒に於ても租神として柁られてお

-殊に愛

(餐)王亥は

「高租」と崇められていたのであ

るから天問における殿租誕生や牧牛創始の偉大な功績も

殿代からその根摸となるべき停東があったものと考えられ

る殿の未森たる被征服図

宋図で語られなかった文化神

が周の政治的願力が比較的少なかったであろ-楚園に於

て生き残

っていたのであ-「王亥を構える頒詩は政治的

要請によって胴去されたのではないか」という前章で捉

起した推測は更に確貴性を樹して-るのである

このように文化神を語る神話は政治的な事情によって

改襲されやすいという

一つの傾向が次第に明らかになって

きたのであるが天間に見える周王朝開園神話を詩経

雅のそれと比べてみるとその傾向は

一層はっき-する

これについては次章で検討することにしてその前に前

章で提起したもう

一つの問題即ち契と後に呼ばれるよう

になる殿紐の正鰻について卑見を示しておきたい

1般には詩経

商頒

「玄鳥」

「長顎」の鄭隻や楚鮮

天問の王逸注史記

殿本紀などから筒状が生んだ殿租

が契であるとされ詩経や楚軒の注揮家も特に疑問を抱い

ていないしかしこれまで見てきた詩経や天問には契の名

は全-見えていない国語を見ると周語下には

玄王勤商十有四世而興

玄王は商のために働き十四世かかって興起した

鄭語には商

契能和合五教以保干百姓者也

商契は五教をよ-調和させ人民を守-養

った人で

魯語上には

契為司徒而民韓-上甲微能帥契者也o

契は司徒の官となって人心を和らげ--上甲微は

22

たす

契をよ-

た人である

自玄王以及主薬莫若湯

文王から主薬

(湯の父)に至るまで湯よ-すぐれた

者はいない

とあるこれらを見ると契とい-名は周

楚以外の

園で用いられし

かも

「司徒として五教によって人心を安

定させた」という事鏡が語られている抽象的な形ではあ

るが文化面での功寮が取-上げられているのである

そうすると陳夢家氏の

「契と刻は互訓であ-共に亥

と普通である故に契は即ち王亥である」とする説が有力

な説として浮上して-るOこれまでの考察から王亥は殿

の高租にして文化所であ-従

って契というのは王亥の周

連諸国での呼び名であ-「五教」云々は王亥の文化神的

な面が周遠諸国に於て襲化したものと考えられるのである

もう

1万の

「司徒」という面に注目すると楊寛氏は

「司

徒」は

「司土」であるとして契は社紳

(土地紳)であった

と考えている「司徒」を

「司土」と表記するのは西周金文

に多-見られる用法であ-本来は土地や農業を司る官で

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

あったらしいまた史記

殿本紀には

「実は南を佐けて治

水に功があった」とあ-梁玉縄の疑う如き司馬遷の臆説

でな-古-からの停承に基づいているものであるならば

契に夏南の如き下士造成神的な面もあった可能性は捨てき

れない司土の官は農業にも関係が深いことから契は土

地神にして農神の性格をも持つことにな-このことは王

亥が牧牛の創始者であることと関係があるのかも知れない

なお尚書尭典には

帝日「乗努民阻飢o汝后榎播時百穀O」帝日

「契百姓不親五品不遜汝作司徒敬敷五教在寛」

もろもろ

舜は言った「棄よ

民は飢え苦しんでいる

汝は后頑の官とな-

この百穀を播け」と舜は言

った「契よ人民は互いに仲良-せず父子

君臣

夫婦

長幼

朋友の序に従わない汝は司徒の官とな

つつし

-五教を敬んで廉め心を寛-して治めよ」と

とあ-同じ-尚書の周官には

司徒掌邦教敷五典擾兆民

司徒は閲の教化を掌-五教を廉め多-の民を順

23

中国文畢報

第四十六肋

わせる

とあ

って司徒が教化の官であるかの如-書かれているが

これは后積が農官とされたために契は

「五教を康めた」面

のみが取-上げられそれが司徒の官名に結びついてかか

る誤解を生んだものであ-司徒の本来の意味ではないと

考えられる

周やその支配下にあった宋園では殿租に玄王という名

が使われてお-玄鳥による神的な誕生と商の興起のた

めに轟-したとい-事暁が語られる

魯園では

「契」

「玄

王」両方が見えるがー契と言う場合は文化的な功績が描か

れ玄王と言う場合は始租としての面に注目されている

恐ら-

「玄王」とは契=

王亥の始租としての面が強調され

た時の呼稀であ

ったと思われる文化人類学的にも「玄」

という名は始源の闇や滞沌を連想させるものであ-例え

ば老子

六章の

玄牝門天地板

玄牝の門(女陰)は天地寓物の根源である

の如-である

宋園や周では殿租の文化神的な面が抹殺さ

れたために始租神としての

「玄王」の呼稀が定着し魯

鄭などの周連列国では儒教的に襲化した文化神として

「契」と呼ばれ楚国では殿代の呼稀

「王亥」が原形に近

い形で保存されて

「該」と呼ばれたのであろう

四楚鮮

天問の周王朝開園神話

まず天問における殿周開園神話の大筋の流れを圏示する

と附固

一のようになる我々の常識で考えるならば夏殿

革命の次に殿のその後の衰亡を歌いそれから周王朝

へと

移る構成をとるのが普通であるが天問では夏殿革命から

いきな-周の衰亡

へと飛びそこから殿の衰亡

へと戻る間

くりかえ

「天命は

」というテーゼを挟み込んでいるこの

ような操作によってどの王朝も同じように興亡を繰-近

すというテーゼが

7層際立つのであ-

T見乱雑に見える

排列が安は高度なレトリックを用いた結果であるという

ことがわかる

次に殿周の開園が歌われている各章を時間順に並べ

かえて相互に封比してみると附圏二のようになるこの固

24

殻周開園の耐話と

「神代史」(大野)

附圃- (丸内の数字は葦の通し番競)

舜と女梱 ⑱~

「験萌在初」

1

度の先王 ~

t

夏殿革命 ~

周の先王

l

殿周革命 ⑮~cent)

iiiiia段の衰亡 ~ 周の興亡

一- 一 ノ ー「天命反側」

附圏二

段 簡秋と唇の通婚

王亥 有易で牛羊を牧す

王亥の婚姻

王亥 殺されかける

王位 王亥の牛を得る

上甲微 父の遺業を鮭ぐ

肢弟が上甲微を迫害

一寸 どうして子孫が栄えたのか」

~ 楚の興亡

周 ⑯ 后硬 氷上に捨てられる

上帝をも驚かす武勇

-「どうして子孫が栄えたのか」

成湯 伊声を得る

伊デの生い立ち

湯 壷泉から出て案を伐つ

- 25-

⑳ 文王 天命 もて段を覆す

岐山に移る殿の惑婦

文王 村の無道を天に告げる

文王 太公望を得る

武王 急いで殿を伐つ

武王の朝合

周公 武王をよしとせず

武玉 村を伐つ

中隊文革報

第四十六筋

一見して知ることができるのは周の先王には僅か二章

しか使わず殿周革命に九章も費やしてお-殿王朝の方

が租神に多-の章を割いて夏殿革命には三章しか使わな

いのと対照的であるということである

周王朝開園を云う章をもう少し詳し-見てい-と

76積維元子帝何竺之投之干水上鳥何燐之

77何漏弓挟矢殊能渚之既驚帝切激何逢長之

后稜は上帝の長子であるのに上帝はどうして彼に

危害を加えたのか彼を氷の上に捨てると鳥はどう

してこれを暖めたのか

どうして弓をひきしぼ-矢を挟みすぐれた才能で

武婿となったのか上帝をも驚かすほどひどいことを

したのにどうしてその子孫は長-栄えたのかQ

后積が上帝の子であるのに迫害され鳥によって助けられ

たというのは詩経

大雅

「生民」と同様であるが周租后

礎の両的資質を云-のみであ

って農業費明には全-解れ

られていない77章は王逸注では前二句を后稜後二句を

武王の事績とするが洪興租補注は全部を武王の事績とし

朱子はその両方を疑問であるとす

78章以下では文王の

ことを云う章が績いてお-この章を武王の事虞とする課

には従えない聞

多や衰珂

氏は全部を后頑の事鏡とする

が必ずしも后榎に限定することはできない少な-とも

古公以前の

「神代」の先王のうちの誰かであることは確か

であろう後二句の

「上帝をも驚かすようなことをしなが

らどうして子孫が栄えたのか」という疑問が殿の租神と

「人王」の境目である上甲微を語る61章の後二句と似るか

らである周の先王を歌うのはこの二幸で終わ-であ-

そこでは先王たちの文化的功績は全-歌われておらず殿

の先王に比べて極めて冷淡な扱いである

78章以下は殿周革命にまつわる様々の問が寛せられるが

詩経

大雅に見えておらずまた考古学的な裏付けもない

俸説的な事件もい-つか見えているとはいえ神話的な奇

怪さには乏しいといえる0

79遷蔵就岐何能依O殻有感婦何所説

貴職していた重器を移して岐山にやって充たがどう

して人民がそれに従

ったのか殿には人を舷惑させる

26

女がいたというが何のために議話しょうとしたのか

前句についてはこれを文王に懸ける説

大王に懸ける課

あるが前後で文王のことを歌

っているので大王の事蹟と

するのには難があるとはいえその内容は詩経

大雅

「崩」

に云う古公宜父の事鏡に近-どちらに限定することもで

きない「大王から文王までの問」とする他ないであろ-

後二句は肘の妃である坦己を云うとされるがその何につ

いて問うているのかは明らかではないしかし両者とも

その

「答」となるべき俸説がこの時代に前後して現れてお

-前者については

1章で引いた孟子

染着王下後者に

ついては太平御覧奄

1三五引世本に

「村が有蘇氏を伐

った

時有蘇氏は坦己を妃にさし出した肘はこれを愛して言

うことを何でも聞いたために武王が肘もろとも殺した

云うのがこれに普たる

66到峯村窮叔旦不嘉O何親撰車足周之命以各嵯

肘の首をはねるに至-周公且はこれをよしとしな

かったどうして周自ら謀

って殿を討とうとしたのに

その行動は人民に支持されたのか

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

後二句は極めて難解であるがいま黒須重彦氏の解樺に従

う他の諸家にはテキストの文字操作で意味を通らせよ-

とする者も多い前二句を王逸は

「武王の舟に白魚が飛び

込んだので群臣が

『吉兆だ』と言ったのに封Lt周公が

『吉兆ではあるが吉兆と思

ってはならぬ』と戒めたことを

云う

と解しているがこれは史記

周本紀の記事を敦術

したものであって漢初の五行思想の産物である寧ろ所

謂伯夷

叔奔停説の前駆形と考えた方がよい

ここに引いた事件が果たして史寛であ

ったのか西周時

代に生まれた俸説か或いは東周以後の俸説であるのかは

容易に判断できないしかしいずれにしても西周人の

「神

代史」からは無税されていた事件が本来の形ではないに

しても再び記録される動きをここに見ることができるので

あ-結語で述べる

「神代史の再神話化」の萌芽であると

いえるO

このような新しい動きはあるものの天問の周開園神話

も始祖の神的誕生1英雄的事業の達成という基本的な構造

には全-襲わ-はないしかし全鰻を通じて諸王の文化的

27

中閲文革報

第四十六筋

功績には全-解れられていないばか-か周の先王=

租秤

に封しても極めて冷淡であ-殿に封する態度とは明らか

に異な

っているのである

このことは昔時の楚園が周文化よ-も殿文化の方により

親しみその信仰

習俗等を保持していたことの一つの讃

接であろう楚文化と殻文化の関係の深さは既に様々な面

から指摘されてお-例えば楚辞

九歌に見える「雲中君」

「河伯」の神がト辞にも

「雲」「河」神として見えているこ

とや西周末期のものと見られる楚の青銅鐘は殿の鍔と形

が似てお-その銘文も殿金文に似た雄滞な書鰻であるこ

とな

どが挙げられるこのよ-な現象が生じた過程として

は(一)歴代から楚は殿に臣屈してその文化を受け入れ

周の時代になっても表向きは周に臣属しながらも殿の文化

を保持し績けた(二)周代以後に国力を埼大した楚園は

への対抗上その文化を拒み隣接する宋園の殿文化を積

極的に導入したという二つの説が考えられる前者の立

場を取る者はその根接として詩経

商頒

「殿武」の

撞彼殿武奮伐剰楚突入其阻衷利之放有戟其

所湯孫之緒(一章)

敏疾なる武丁は奮起して剤楚を伐ち険しい山地

に攻め入って刑楚の兵士を虜にしその地を平げ

湯王の子孫として手柄を立てた

という部分を畢げることが多い

前述の如-商頭目鰻が

宋園の楚国

への対抗心から作られたものであ-我が国の

紳功皇后遠征説話と同じ-どこまで史寛を反映している

かは未知数であるしかも卜辞などの殿代の地下資料から

は昔時の殿楚関係を示すものはまだ見つかっていない

一方後者については史記

楚世家に周の夷王の時に

楚王熊粟が

「我は牽夷な-中国の詮親に興らず」と言っ

たという記事もあ-現時鮎ではこちらの説の方が有力で

あると思われるいずれにしても周とは言語や風土を異

にする楚閲で生まれた天問には意固したか否かはともか

-周文化の重税と殿文化

への傾斜が讃み取れるのであ-

周王朝側の論理で殿の文化碑の功績を壷-抹殺された詩経

商頭や周の文化神を構える詩経

大雅とは好封照を見

せているのである

28

結語及び除論

これまで述べ来

ったことを要約すると詩経や楚辞

問に見える殿周開園神話は始租の所的誕生1迫害1事業

(文化創造

天下統

一)の完遂という構造を持ち既に西洋

の英雄神話に於て指摘されている基本構造をここにも見出

すことができるただ西洋では

一人で行なわれることが多

い英雄としての事業が中国では教代に亙

って行なわれる

ことが多いという違いはあるところが殿の開園と周の

開園また詩経と天問の相互間で詳し-比較してみると

神々の文化的功績は神話が記録された常時の政治的な事情

によって抹殺されることがあるという事資に束づ-この

ことは中国に於ては剣を振るって活躍する英雄よ-も

文化を創始する

「聖王」の方が重きをなしてお-氏族や

国の威光を左右するものであ

ったということの一つの謹左

といえよう

詩経

大雅における周王朝開園神話は高租にして文化

神である后稜-公劉を神話的要素に富む叙事詩によって語

段周開園の紳話と

「神代史」(大野)

っているが

「人王」の代に至ると

殊に王李に新著に見

られる如-諸王にとってマイナスイメージを輿えかねな

い史寛は壷-制去され武力革命の成功を

「神代」から引

き継がれた輝かしい事業として稀讃している周王朝の開

園神話とそれに績-殿周革命の史糞は詩が記録されるま

での間に

「神代史」

へ改愛されたのであるそこに支配強

化のための王室神聖化という高度な政治的意圏が働いてい

るのは確資であろう

段の遺民の園である春秋の宋園における段王朝開園神話

詩経

商項の諸篇は最終的には周王朝側の人々によって

記録

編輯されたものであ-それ故殿人の信仰した文化

紳は義-抹殺され支配者としての周王朝の論理に基づ-

「神代史」に改変されているOそれに封して楚辞

天問の

殻王朝開園神話には卜辞にも見える租紳たちの神話的雰囲

気に富む物語が多-残

ってお-逆に天問の周王朝開園神

話では周の先王の文化的功績を無税していて宋国との政

治的

風土的立場の違いを明瞭に浮かび上がらせているの

である

- 29-

中国文学報

第四十六筋

か-の如-

神話時代やそれに績-歴史が為政者の手に

よって

「神話化」される場合は中開の諸秤の中で重い比

重を占める文化神が記録者の政治的立場に従

って改奨され

「人王」に封しては

「都合の悪い」史貴を切-捨てて

「神

代史」

へと仕立てられるのであるが東周時代になるとそ

れとは逆に「人王」にも神話素の一つとして解揮可能な俸

説が様々な書物に記録されるようになる既に引用した文

王の安里幽閉

伯夷

叔斉の餓死などがそれであ-

「人

王」の物語もこれによって組両と同様の典型的神話

へ近づ

いてい-のであるこれらが記録されたのは諸子百家の書

物であ-昔時の遊説家たちが民間に流布していた停説を

敬-上げて自説を述べるために用いたものと考えられる

これらの停説が古い形をそのまま保

っているか否かは全-

保護がないとはいえ政治力撃の働きに-いレベルに於て

「神代史」に再び神話的物語が付け加えられるようにな

たということはいえるいわば

「神代史の再神話化」であ

-

1般に

「中国古代王朝神話」として

1つの物語にまと

められているのはこうして

「再神話化」された結果の産物

なのであるこれらは確かに

「神話」としての要素を豊富

に含んでいるのであるがこれを中国古代神話の原型と見

なすことは不可能であ-上述の如-複雑な要因が絡み合

っているのである

こうして

「神代史」はたとえ元の形とは異なるにせよ

再び

「神話」としての光彩を放ち始めたところがこの

「神話」をまたも

「歴史」に固定してしまったのが他なら

ぬ史蓬であることは周知の通-である

しかし

「神代史の再神話化」の原動力とな

った

民間

に語-経がれた王朝停説のエネルギーもこれで絡恨したわ

けではなかったこうしたエネルギーはその後も小説に記

録された種々の歴史俸説などを生み出し形を襲えて生き

績けたのである

ところでこれまで本文中に取-上げなかった

一つの重

要な問題があるそれは

「楚園に古-から停わる楚人自身

の神々はど-な

っていたのか」という問題である

楚辞

天問にはその末尾に楚図の俸説と思われるものが

記されてはいるが多-の注帯家が匙を投げているはど難

30

解であ-筆者も今敢えてこれに挑戦するほどの飴裕はな

いoしかし離騒ではその冒頭で「私は帝高陽の未森である」

と歌

ってお-少な-とも屈原の時代では楚人は穎頭高陽

氏を租神としていたと考えられているが文化神に関する

記述は見えない

一方同じ頃に楚園で成立したと考えら

れている山海経

大荒西経には街頭の子孫の神々の事業

が豊富に記されている例えば重

寮の天地分離

太子長

琴の音禁孝明などである

これらの事章から得られる

一つの推測をここで述べると

楚辞に於ては楚人自らの文化両を表立

って取-上げられな

い事情があ

ったものと思われる楚語で書かれた「原楚鮮」

には書かれていたがそれを漢語に翻弄した際に宋図か

ら導入した殿の文化神に置き換えたのかも知れないそし

て自らの文化紳とその物語を速い

「大荒」の物語として

カムフラージ

ュしたのが他ならぬ山海経なのではなかろ-

かこの書が地理書の形をとっていることや他書に見ら

れない神話停説を豊富に載せていることなどは丁度我が

国の

『出雲園風土記』を思わせるものがあるまた殿の

殿周開国の神話と「神代史」(大野)

文化紳王亥が

「困民国」の人とな

っていた-楚の租神で

あるはずの蘭頂が

「額頭囲」なる図にいたとされているこ

となどもこの仮説の根嬢となろう

しかし最早紙幅も轟きているこの問題は山海経を中心

として改めて考察することにしたい

ば織井慶紀著池田末利編

『中図神話の文化人類学的

研究』(1九九〇平河出版社)があるoまたユング心理学の

立場から日本神話を分析したものとして河合隼雄

『中空構

造日本の深層』(一九八二中央公論社)等がある

近世以前の諸席の議論は専らこの怪異雫が信ずるに足るか

否かの次元に終始するが近代的な研究としては聞一多

「萎

娠履大人跡考」(『聞一多全集』第一射一九四八開明書店)

白鳥清

「段周感生神話の解揮」(『東洋学報』十五巷四親tT

九二五東洋協合学術調査部)出石誠彦

「上代支部の異常

出生説話について」(『支那神話俸説の研究』所収tl九四三

中央公論社)等がある

「帝上帝也」

「帝高華氏之帝也従於帝而見干天婿事賛敏也」

孔疏に

「頑柁郊礁之時英夫高辛氏帝率興供行妻娠随帝之

後践履帝迩行事敬而敏疾放鳥神歌饗紳既饗其条則

31

中国文筆報

第四十六筋

愛而拓之

於是為天神所美大為福緑所依止twz=得懐任則

震動而有身」と云う

例えば嗣西族の

『東巴控』に見える縛文字にこのことが窺

える附固三参照また河南省に俸わるロ東俸説によると

女桐が天から降ってきて伏義が地下から出てきたと云う

(陶陽

鍾秀

『中国創世神話』一九八九上海人民出版社二

一四頁)

附圏三

primeJ 一一一

~PJ虹互L

LJL

堅 室④

上部の 一へ は天下部の 皿 は大地を

表す圃①は中間に天地交合の気がありこれ

より荷物が生ずる固②の中間は蛙で天地交

合後の襲化を表す圃⑨では天地の間に男が上

女が下になっており男女の交合と同様にして

天地が人類を生んだことを表す

(陶陽 鍾秀 『中国創世神話』214頁)

「惟虞東学詩云人之初生皆裂胎而出騒失所依故堕地

郎帝惟羊連胞而下共産猪易故詩以

『如達』馬比o又常

熟陶太常元淳日凡嬰兄在母腹中皆有皮以豪之俗所謂胞

衣也生時其衣先破兄鰻手足少蔚放生之難O惟羊子之生

胸仇完具堕地而後母篤破之故共生易o后硬生時蓋戒於胸

中形鮭末露有如羊子之生者放言

『加速』今按前二説

是也下言

『不味不副』蓋謂其胞衣之不折裂也」(『毛詩俸

集通帯』巷二十五)

「徐君宮人娠而生卵以箆不詳秀之水演O猪孤母有犬名

鵠蒼へ猟干水溝へ得所弄卵衝以東蹄猪孤母以馬具凍俊

之逐沸成見生時正値へ故以為名徐君宮中聞之乃更録

取長而仁智襲君徐固」(博物志

異聞篇引徐値王志)

「高句凝着其先出自克明東明本北夷嚢離王子離王出

行其侍兄於後任娠離王達欲殺之侍見目『前見天上

有菊如大鶏子乗降我困以有嫉』王囚之後連生男玉

置之家牢家以口束嘘束不死o王以為所乃聴収養」(梁

諸夷俸)

北欧や古代

ハンガリー等に見られる豊富な例がKケレ-

ニイtCGユング

『神話撃入門』

一九五1(杉浦忠夫訳

1九七五晶文社)に引かれている

例えば壮族に俸わる

「種子と犬の尾」の物語では人々

「九尾狗」に天上の穀物を盗みに行かせたところ穀物を

九本の尾に-つつけて蹄ろ-としたところを番人に見つか-

八本の尾を叩き切られたが残-

1本の尾に穀物をつけて逃げ

師-人間は農業ができるようになったと云う

(陶陽

秀前掲書二七九頁)

32

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 7: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

中国文畢報第四十六筋

といしいしづち

属や

を切-出し

礎を整え多-の人が住みつい

た皇潤を挟み過潤を遡

った所に人々はび

っし-

くま

住みつき川の丙鞠に沿

った(六章)

全六章のうちの四章

T章で板横地造営

への出費二章で

国見四章で饗宴六章で板接地の完成と章展を歌う0形

式面では全篇に亙る

「篤公劉」のリフレイン「遭

OL

「既

O」といった助字によるリズミカルな修辞法など

「生民」と共通する所が多い内容面では

「生民」の如き

神的な誕生や迫害などは無いものの板接地完成に饗宴が

付随している鮎が

「生民」に似る四章の饗宴が単なる無

薩講でないのは

1讃して明らかであるLt「生民」と

劉」の間に置かれている詩四篤のうち

「行葦」「既酔」「

鷲」の三篇までが祭天の儀式を伴う饗宴詩であることから

考えてもこの饗宴場面には家を殺して上帝に捧げる儀式

が含まれていたものと思われる

か-見ると詩経

大雅における后硬と公劉は事業完成

とそれに伴う祭天という鮎では比較的よ-

一致してお-

共に西周人にとっての高租神であ

ったと考えられる后頑

「食」を開拓したのに続きその曾孫公劉が

「任」を開拓

したのであ-恰も山海経

海内経で

「后稜が百穀を播き

その孫叔均が牛耕を始めた

と云うのに似ているここで

の叔均は后稜から分化してその功績を補完する役割を持

てお-公劉も同様に租神の資質をもつ后頑から分化し

てその事業を襲展させる神とな

ったのであろう公劉に奇

怪な誕生の話がないのもそういった英雄的資質を后頑か

ら引き縫いでいるためと考えればうま-説明できる

公劉の十代後とされ文王の骨組父である古公豆父の事

鏡は

「締」に歌われる

鮪解瓜腔民之初生白土汎漆O古公宜父陶復陶

穴未有家室(T章)

周原廉廉重茶如飴宴始宴謀宴契我亀日止日

時築童子茶

(三章)

乃召司空乃召司徒倖立室家其縄則直縮版以

載作廟巽巽(五章)

建立皐門泉門有伏廼立鷹門鷹門賂購廼立家

土戎醜恢行(七草)

6

韓不珍庚憶亦不眠欧問種械扶桑行違先夫混

夷戯臭維其喚臭(八草)

虞帯質蕨成文王amp庚生予日有疏附予日有先後

予日有奔奏予日有禦侮(九章)

長々と伸びる瓜の蔓そのように連綿たる周の民が

生まれた時は汎漆の地に居任した古公宜父は土

をこねて穴を作

って住みまだ宮室を持たなかった

(一章)

たがらし

のげし

周原はよ-肥えて董

飴のように茂

ってい

た国都造営を始めよ-と謀-亀卜を行なうと「こ

こに止まるがよいここに官室を築け」と出た(三章)

土木の官を召し出し土地の官を召し出し宮室を

建てさせた墨縄をまっすぐ引き板を縛

って間に土

を詰め狂いな-廟を作

った(五章)

外門を立てれば高-そびえ立ち正門を立てれば

いかめしい構え大社を立てれば多-の人々が集ま

った(七草)

ほまれ

さて周人の怒-は絶えずしかしその

落とされ

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

なかった雑木を沸い道が通じると混夷は恐れて

逃げ息切れするほどであ

った(八草)

虞園と苗圃が和議を求め文王は興起の勢いを動か

した文王は言

った

「追随する園もあ-

前後から

取-奄-図もある我が閲のために働-園もあ-外

敵を防ぐ園もある」と(九章)

全九章の-ちの六章八

九章は難解であ-諸説紛紛とし

ているが古公ではな-文王の代に時が移

っているとする

鮎では概ね

一致している宮室を持たぬ原始的状態1閲見

1板接地造営という内容は

「公劉」詩に似るが饗宴の場

面がないことや司空

司徒の官名や泉門

庶門の制度な

ど高度に額展した制度鮭系が見えることまた詩型の面で

も大雅の開園叙事詩では唯

Tの

「鮪館瓜腰」という興が見

えることなど

「公劉」詩とは異質のものを感じる

いわ

「神話臭の治失」であ-

「新しさ」である后頑ととも

「神代」の始組神であ

った公劉と異な-古公は西周人

にとっては

「人王」であ-茸在人物として扱われていた

と思われる

中国文学報

第四十六桝

古公の子である季歴は「大明

「皇臭

詩に

「王季」の

名で見えるしかし大任を撃

って文王を生んだことを構え

るのみで自らの聖天子たるにふさわしい事鏡は何も語ら

れていない大雅の開園叙事詩で名が出ていながら英雄的

な事虞が語られないのはこの王季だけで後世の文献例

えは史記

周本紀でも

「徳行を情めた

と云うのみであ-

考えてみれば誠に奇妙なことであるしかしこの間題に封

する答えは後に明らかにされるはずであるから今は王李

の子である文王とその子武王の方

へ進むことにしよう

殿周革命の主役として誰もが知っている文王と武王は

「文王」「大明」「皇央」「文王有壁」でその事蹟が歌われ

ている文

王在上於昭干天周維奮邦其命維新有周不

蘇帝命不時文王捗降在帝左右o(1章)

穆穆文王於緯無数止候哉天命有商孫子商之

孫子其覧不億上帝既命侯

干周服(四章)

いま

文王は天に坐しああ天に輝かし-坐す周は古

い園であるが天命が新たに下された周は大いに輝

かしく上帝の命も時宜にかない文王は天地を上下

して上帝の左右に坐す(一章)

つつし

慎み深い文王はああ敬むこと績いてやまぬ偉

たも

大なるかな天命は商の子孫を有たせた商の子孫は

かず麗は十寓に止まらないが上帝の命は下-彼等を周

に蹄順させた(四章)

「文王」全七草のうち二章内容的には叙事詩というより

頒詩に近く

后稜の神的誕生のような神話臭はないがこ

こでの文王は天地を上下して上帝に仕えることのできる存

在であ-神格化されているといえるしかし文王がもと

もと神であったとい-のではなく

古公と同様に

「神代」

から引き継いだ英雄的資質によって天命を得て殿の民を

支配するという事業を行ない「人王」から「紳」へ昇格し

たものと考えるべきであろう

作乏尿之其蕃其繋情之平之其濯其例啓之静

之其樫其梓撰之刻之其腰其柘帝遷明徳串夷

載路天立欧配受命既固(二章)

帝謂文王無然畔接無然款羨誕先登干岸密人

不恭敢距大邦侵院狙共王赫期怒宴整其旗以

按狙放以篤子周砧以封干天下(五章)

普作

って除-のは立ち枯れや倒木切-整えて平ら

げるのは

濯木や並木

切-開き押しのけるのは

かわらやなぎ

へぴのき

やまぐわ

はりぐわ

って例-取るのは

上帝

は明徳ある王に味方Lt串夷は道にあふれんばか-に

逃げ出した天は文王の配偶大姐を立て固-命を授

け給うた(二章)

そむ

上帝は文王にか-のたもうた「人心を

せては

ならぬo気ままにさせてはならぬ」とOそこで高所に

登って観察すれば密園の人は従わず敢えて大国に

逆らい陳園を侵し共園

へ進軍しているO王は激し-

怒-

ここに軍旗を整え密図の行軍を阻み周の

さいわい

埼Lt天下に戒を示そうとした(五章)

「皇臭」全八草のうちの二章二章では公劉や古公と同様

の板接地造営を歌うが「天命」を受けるや否や五章に

云う如-密国を征討しょうとする

有命日天命此文王千周干京績女維草長子維

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

行篤生武王o保右命爾嬰伐大南(六章)

殿商之放其禽如林矢干牧野維予侯興上帝臨

女無武爾心(七草)

牧野洋洋檀革塩塩駆厨彰影O維師伺父時維鷹

揚掠彼武王韓伐大商脅朝清明(八草)

天よ-命は下-我が文王に命は下った周の都で

後を鮭ぐ妃は宰園の女この長女がやって来て天は

武王を生ませ給い守-助けて命じ給うた

「大南を

討伐せよ」と(六章)

殿の大軍は林の如-集まった武王は周軍に牧野

ちか

で失

った

「ここに我々は興起する上帝もお前達を

見ておられるぞ戒心を抱いてはならぬ」と(七草)

牧野は贋々として戦車は輝き烏は勇み立つ太

公望呂筒は鷹の如-猛-立つ輝かしい武王は大

商を存分に伐ち取-合戦の朝は晴れ渡った(八草)

「大明」の終わ-の三章牧野での殿との合戦が活寓され

るが武王のこの功績もやは-文王から受け縫いだ「天命」

あってのものである

9

中国文革報

第四十六

文王受命

有此武功既伐干崇作邑干豊o文王桑

哉文

王は天命を受けこの武功を立てた崇園を征討

すると豊に都邑を造営したすぼらしい文王よ

「文王有壁」の第二章密園征討と並んで文王の主要な武

功とされる崇園征討を歌うものであるがこれも

「天命」

によって行なわれたものとされている

詩経

大雅の落第から直接知ることのできる周王朝開園

の物語は以上の通-であるこれを后稜から文武までひと

績きに眺めてみると始租にふさわしい神的な誕生から始

まって迫害を受けた末に諸文化の開拓更には武力によ

る天下平定とい-英雄的事業を完成させるのであ-これ

は丁度Eノイマンらによって指摘されている英雄神話の

典型的なパターンとも合致する后積-公劉-古公-文王

-武王の五王が全鮭として恰も

1人の英雄の如き振舞いを

見せているわけである

しかし仔細に見るとこの五王の中で后稜-公劉古公

文王-武王の三者には微妙な違いがある后穆-公劉の物

語は神話的な雰囲気が濃厚であるのに対し文王-武王に

関しては

「紳懸-」的な奇蹟は全-見られず武力行使に

及んだ根嬢としての

「天命」ばか-が強調されているそ

してこの両者の中間的な存在として古公がいるのである

いわば古公を境にそれよ-前が

「神代」であ-それよ-

後は

「人の代」として描かれているといえる

か-見ると古公以後の物語は開園の

「歴史」であ

って

「神話」として扱うにはふさわし-ないという人もいる

かも知れないそれにもかかわらず筆者は古公から武王に

至る物語は

「歴史」として作られたものではな-歴史が

神話の一部として改襲された

「神代史」

であると考える

なぜなら考古学的に知られる殿周革命前後の歴史には詩経

と大き-ずれる部分があるからである

后積や公劉は周原卜軒や金文には全-見えず神話上の

人物であることを疑う者はいない古公賓父については

文王の租父たる大王と同

一人物と考えることに疑問を向け

る説があ-例えば顧訴剛は古公は周王朝創建時の王で

あ-大王は周の国力が強盛になった時の王であると考え

10

⑬たOしかし

「轟」詩のところで述べたことを考えれば古

公を周王朝の租とする課には従い難い現在鹿-支持され

ている説では殿が常時山西省に居た鬼方を討

った結果

彼等が西方に移動して周を歴迫したため周は幽から岐山

に移ることを飴儀な-されたと言う

具鰻的な国名などに

はなお問題があるとはいえ周が異民族の歴迫で岐山に移

ったという事寛があ-それが

「崩」詩にも反映されてい

るのは確かであろう時代が下がると孟子

梁意三下に云

う如-

「古公が徳を守

って岐山

へ逃げ人民も彼を慕って

共に移動した」という儒家道徳による合理的解帯が行われ

るようになるのは周知の通-である

王李は前述の如-詩経ではその事蹟が全-記されない

ところが古本竹書紀年には

殿の武乙三十五年王李が西落鬼戒を伐ち二十雀

王を捕虜にした(後漢書西完博引

)

殿の文丁が季歴を殺した(青書束管俸史通疑古

社説上引)

といった記事が見え文丁期の卜辞にも周を伐つことの可

段周開園の神話と

「神代史」(大野)

否をーつたものがあるOしかもその7万で同じ古本竹書

紀年に

殿の武乙三十四年周の王李が来朝し武乙は土地

三十里玉馬を賜興した(太平御覧巷八三引

)

とあ

ってこの時期の卜辞にも周を

「周侯」と呼んでいる

ものがあ-周は段の侯国として厚遇されていた面もある

のである「大明」詩での王李は殿と関係の深い拳闘から

大任を迎えてお-史寛とすれば政略結婚である王李の

頃の周は殿と虚々賓々の駆け引きが績-緊迫した関係にあ

ったのである

王李のこうした

「行状」は竹書紀年に記事が残されて

いる以上常時の史官によって記録されていたはずである

にもかかわらず詩経ではそれらが殆ど無税されていると

すれば大雅の諸篇が作られた時から記録されて現在の形に

なるまでのいずれかの段階で意固的に例除されたと考える

のが愛常であるどの段階で刷られたかを決定するのは言

うまでもな-非常に困難であ-例えば

「解」詩で七草ま

で古公の根接地造営の話が績-のに八草でいきな-

「韓

ll

中国文革報

第四十六射

不珍膜性」と文王の代に飛ぶのはあま-にも唐突であるこ

とから七草と八草の間に王李が殺害されたことを歌う章

があ

ったと推定することもできるが残念ながら確認する

すべはないしかしいずれにしても我々が常識的に考え

れば王李が殿に殺された事寛を語ることによって王季1

文王-武王を悲劇の英雄に仕立てられ殿周革命の物語に

一層の彩-を添えられるはずであるのにそれらが轟-酬

去されているのである

文王と武王に関しては詩経に見える密

崇征討等は周

原卜辞等に照らしても史貴であ

ったらしいしかし後世の

文献に見える

「村が文王を安里に幽閉したが文王の部

下が賄賂を使

って救出した

とか

「伯夷と叔斉が武王の武

力革命を悲しんで首陽山で餓死した

とかいった物語は詩

経はもとよ-古本竹書や地下資料にも全-見えていない

之を要するに古公以下の

「人王」についてはマイ

スイメージを興えかねない物語は

一切語られていないので

あ-そこには諸王の威光を高めようとする政治的要請が

ったと考えられる后積や公劉は

「神代」の高租神であ

るから神話的要素に富む怪異な物語をそのまま停えても

不都合はないしかし古公以下は所詮

「人王」であるから

紳懸-的な奇蹟を附合すれば虞寛味が乏し-なるしその

一方では

「神代」から績-聖王の血統を誇示する必要があ

る勢い

「都合の悪い」史宜を無税して「輝かしい事業」

のみを賞揚する方向

へ向かうことになろうその敏寄せを

まともに食らったのが他ならぬ王李であ-殿に朝貢した

-殺された-した史資をそのまま記せば

「王統」の威光

を傷つけるのは明らかであるから大任と共に聖天子文王

を生んだいわば橋渡し役としてのみ名を留めることにな

ったのであるこのような

「歴史の神話化」の結果詩経

大雅の叙事詩語笛は周王朝開園の

「神代史」として西周

貴族の問に俸えられていったのである

二詩経

商頚の殿王朝開園神話

詩経

商頭の詩篇は鄭玄の商頭語で

「末の戴公の時に

大夫正考父が十二篤を得たが孔子が詩を編纂するまでに

七篤を失

った」

と停えられ今日に至るまで定説となって

12

いる現存する五篤の中には玄王

相土

湯及び中興の

武丁の名が見えている

殿の始租誕生を歌う詩として古来よ-引かれるのは

「玄

鳥」の冒頭の二句である

天命玄鳥降而生商

天は燕に命じ下士

へ降らせて商租を生ませた

鄭集がこの二句を

「天が燕を下士

へ降らせたというのは

その燕が残した卵を有城氏の女簡秋が呑んで殿租契を生ん

だからである」

と解して以来これが定説となっているし

かし森三樹三郎氏が既に指摘しているようにこの二句だ

けを見ている限-

「燕の卵を呑んだ」という事寛は直ちに

導き出せないのであ-この説話が商頚が作られた春秋時

代の始租神話そのままであるかどうかは頗る疑わしいし

かし玄鳥なる鳥が天と下士の間を往来して南畝を生ませた

ことはこの詩からも讃み取れるのであ-少な-とも春秋

の来園では殿租が天地通婿で生まれたとぎれていたと言う

ことはできよう

「長襲」にはやは-殿租とされる玄王とその孫とされ

段周開園の紳話と

「紳代史」(大野)

る相土が登場する

溶哲維商長顎其群洪水

巴だ高教下土方外大

国是瞳幅限既長有域方渚

帝立子生商(1章)

玄王桓掩受小国是達受大国是達率履不越途

観能登相土烈烈海外有載(二章)

きぎし

明徳なる商王その

現れて久しい洪水が贋が

った時南は下士の四方に功を敷き外の大国とを区

切-中国の虞さは遠大になったO有城氏もその時勢

力を埼し上帝は有城の子を立てて南国を作られた

(一章)

玄王は武徳があ-小国に封ぜられてもよ-治め

大国に封ぜられてもよ-治め薩に従

って越度な-

しめ

教法を現して行なわせた相土は武威輝かし-海外

の諸国を平定した(二幸)

この詩の

「玄王」は毛俸

鄭隻の如-殿租契のことで

「玄鳥」詩の商租と同

一であると解するのが普通であるが

白虎通

文質

(l名瑞賓)篤は玄王を湯と解してお-漢書⑳

鰻柴志は契(高)と玄王は別人で共に段租であると解する

13

中国文筆報

第四十六筋

相土は周鰻

校人注引世本で

「初めて乗馬を作

った」

と云

いこの詩で武勇の王として描かれていることと関連があ

るものと思われるしかし玄王

相土共に具鰹的に如何な

る事鏡があるのかはあま-括かれず神話としての考察を

かな-難しいものとしている

相土から十

1代後の子孫とされ夏案を伐

って殿王朝を

隆盛

へ導いたと俸えられる湯は同じ「長顎」に見えている

帝命不達至於湯秀湯降不遅聖数日頗o昭倣遅

遅上帝是砥帝命式千九園(三牽)

武王載端有虞乗鉄如火烈烈ー則莫我敢局萄有

三幸莫逐莫達七九有有載葦顧既伐昆吾夏架o

(六章)

上帝の命は誤-な-湯に至って天命と合合した

湯の生まれること期に麿じ聖徳は日々に高まった

天にも明らかに至る徳は久し-止まず上帝も愛敬し

て九州に法を示させた(三章)

武王湯は旗印を立て固-銭を撞-火の如-勢い

とど

もと

盛んなれば誰も敢えて長めることはできない竜株

ひこば

に三つの

生ずるといっても生長しきることは

ないO湯は九州を平らげ垂の葦図

顧閲と昆吾氏

竃の夏架を伐

った(六章)

湯が

「天命」を得た後に諸国を征討して九州を統

一したと

いう内容であ-大雅における文王や武王と同じ-始租

の神的資質を引き継いで天下統

一の事業を完成させるので

ある

これらを全鰻的に眺めてみると商租の神的誕生1

相土

湯の天下平定という流れは大雅における周王朝開園の物

語と同様のパターンであ-また請王を武徳の王と稀える

のに終始して請王にとってマイナスイメージを興えるよ

うな話が記されないのも大雅の文王や武王と同様である

商頭の諸篇が大雅以上に尖鋭な政治的意圏を以って作られ

たことは白川静氏も

「末に興

った膨折たる国家意識を背

景としてその抗争老たる刑楚に封する敵封感情の昂揚

を目的とし」たと指摘する通-であ-諸王の武勇ばか-

をことさら強調するのも肯けることであるところがも

しか-の如-商頭諸第が宋人の

「神代史」であるとすると

14

殿の諸王の文化的功績が殆ど歌われていないのは何とも不

思議な事賓である常時

「南賛歌舌」

の園であったはずの

楚と争うのに自らの文化的先進性とその由来を誇示しな

いということが果たして考えられるであろうか

結局宋人の殿開園神話を西周人の周開園神話と比べた

時の問題鮎は(一)後に

「契」と呼ばれるようになる殿租

の正睦(二)両者とも同様の構造を持ちながら殿開園の英

雄たちに文化的功唐が見られない理由tの二鮎にまとめら

れるo前者については戦国時代の楚国における殿開園神

話を記す楚辞

天問や殿嘘卜辞に見える殿の高組神など

にこの問題を解-鍵があろうと思われる後者については

まず宋園と同じ春秋列国である魯園で作られた詩経

魯頚

を参照するとある程度の推測が得られる

問官有他賓資枚枚赫赫妻嫁其徳不回上帝是

依無災無害禰月不遅是生后頑隆之百福蚕種

重移穂塀寂穿奄有下図倖民稼橋有稜有黍有

侶有拒奄有下士績南之緒o(1章)

后稜之孫資維大王o居岐之陽賓始易商至干文

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

武濃大王之緒致天之眉千枚之野無武無虞上

帝臨女敦商之族克威厳功王日叔父建爾元子

伴侯干魯大啓爾字鳥周室輔O(二章)

奥深-清い宗廟は堅固で美しい輝かしい妻糠は

その徳も貞正であ

った上帝も心をよせて無事に子

を生ましめ十月十日を遅れることもなかったここ

さいわい

に后積を生むと天は多-の

降したそれは黍

もちbぴ

おくて

わせはやうえ

おそうえ

まめ

や穿後に領下の閲を

くろきび

治め民に耕作させた稜や黍もあれば楢や

ある下士を治めて后稜は南の事業を縫いだ(一章)

后稜の子孫はかの大王宜父岐山の南に居任した

時始めて殿

への臣展開係を慕

った文王と武王に至

-大王の事業を縫いだ殿の天命の終わ-は牧野の

地でやって来た「武心を抱いた-心配してはならぬ

上帝も見ておられるぞ」武王は殿に勝

ってその人民

を治めその功績は先王たちにも等しい成王は言

た「叔父周公よ

そなたの長子伯禽を立て魯園の

侯とし大いにその土地を閃かせ周室の輔けとさせ

15

中開文革報

第四十六冊

よ」と

(二章)

「関宮」全九章の

うち二幸O魯図はこの詩にも云う如-局

公の長子伯禽が封ぜられた図であり周と同族であるから

曹然周租后稜に始まる諸先王を構えているわけであるが

后稜の農業創始を

一章全部を費やして

「南の緒を鰹ぐ」と

賞揚する割には文王

武王の殿周革命に封しては素束な

い描き方である寧ろ大雅の詩篇よ-も先王の文化的功績

に重きを置-といえる

1万の宋園は肘王の庶兄微子啓が武王に封ぜられた園で

ある宋園は殿の穫柴を修め殿の習俗を堅持し績けたと

俸えられる

所詮は被征服園である自らの租先を高ら

かに賞讃することに封して何らかの政治的願力が働いたこ

とは想像に難-ない「七筈の詩が亡伏した」という商魂

譜の記事は或いはこのことに関係があるのではないか

この失われた詩の中には

西周の

「生民」

「公劉」詩の如

-殿代よ-俸わる文化神を歌う詩があったのではないか

この推測をよ-精確に検討するにはやは-宋園以外の

園に俸わった殿王朝開園神話の一つとしての楚辞

天問を

参照する必要があるそこで次章ではまず殿嘘卜辞に見え

る高組神について検討し次に楚鮮

天間の殿王朝開園を

問う部分について考察した後これらと商項とを相互に比

較することにしたい

三卜辞及び楚鮮

天問の殿王朝開園神話

卜辞は占卜のための文句を記した文字資料であ-もと

よ-神話の記録を目的としたものではない従

って殿人の

間に俸えられていた殿王朝開園の物語を卜辞によって復元

することは言うまでもな-不可能であるただそこには高

租神や先王をはじめ様々な神の名が見えてお-これを後

の時代の殿王朝開閉神話と比較することによってその神

話がどれ位原初の姿に近いかを推定することはある程度可

能である

さて殿人にとっての最高碑は周知の如-上帝であ-

卜辞にも

「帝」として見えていて風雨などの自然現象を

支配し人事に禍福をもたらす存在であることが知られて

⑲いる

16

この上帝に封しては直接条把が行なわれることはないと

い-のが通説であるが島邦男氏によれば絶無という諸で

はな-締把が行われる例が三例あるこの締紀は上帝の

みならず高租神や先王に封しても行われてお-例えば

羅振玉

『殿虚書契緯編』

一-二-

一片に

点締子王亥

貞-王亥に繭のまつ-をせんか

董作賀

『乙篇』四五四九片に

葵未卜両税乙

英未に卜す租乙に蹄のまつ-をせんか

とあることから

恐ら-張光直氏の云う如-

「殿の人びと

『帝』は先租の絶稀であ

ったかあるいは先租の観念

の1つの抽象化されたもの」

ということになろう

上帝と同様の祭紀が行われる租神の-ち「高租」と呼

ばれるのは愛

王亥の二人である

愛は変とも揮され王⑮

図経が

「暑」と塵韻であることなどを理由に帝尊と解して

以来これが定説となっているO帝聾は後の時代の文献に俸

える所では自らの文化的事業や武勇に関しては何も記さ

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

ずただ殿組契と周蔵后榎の共通の父祖であると云うだけ

であ-上帝的な存在であ

ったとするのが諸家の1致した

見解であるしかし殿代に於ては

「帝」と帝替即ち愛は区

別されている以上完全に同

一であ

ったとはいえず上帝

と人王をつなぐ役割を持つ始租神として奉られたものと思

われる前述の如-愛が抽象化したものが上帝であ-

逆に言えば上帝が人格神化したものが愛なのである

一方の王亥はどうであろうか山海経

大荒東経に

有困民国-王亥託干有易河伯僕牛有易殺王亥

取僕牛

困民国で-主

亥は有易園と河伯園に自ら飼い馴ら

した牛を預けた有易園の人は王亥を殺し牛を奪

この候の郭瑛注が引-古本竹書紀年には

殿王子亥賓干有易而淫蔦有易之君鯨臣殺而放之

是故殿主

(一作上)甲徴候師子河伯以伐有易滅之

途殺其君紹臣也

殿の王亥は有易園

へ客として赴いたが行ないが悪

- 17-

中国文学報

第四十六放

有易の君主摘臣が彼を殺してしまったそれで段

の上甲微が河伯図の軍を借-て有易を伐ちこれを滅

ぼし君主鋸臣を殺した

と記されているまた初学記撃

九引世本には

「骸が

牛を飼い馴らした」とあ-この膜も王亥であると考えら

れている少な-とも東周末期に於ては王亥が牧牛を行な

ったという俸説があったのであ-王亥を論ずる人の多-

はこれに注目し彼を殿の文化紳であると考えている

「高

租」と特別扱いされる租神の一人であることを考えれば

王亥が文化面で多大な功績を上げ原始状態から文明状態

へと殿氏族を更展させたことは十分に考えられる

もしそうであるならば前章でその存在を示唆した

「殿

の失われた文化紳」はまさにこの王亥ということになる

既に述べた如-詩経

商煩の段王朝開園神話に封しては

それと系統を異にする楚辞

天問という比較資料もあるの

であるから次にこちらの方を見てみることにしよう

fTD

天問は古来極めて錯簡の多い書と言われる

その中で

殿周開園に関する部分は比較的次第がまとまっている湯

以前の駿の先王が措かれるのは55-聖早であ-簡秋と尊

の通婿から始まっている

55簡秋在董卓何宜玄鳥致胎女何喜

筒状は高い槙童にいたが尋はどうして見そめたの

か燕が滑-物を持

ってきたのを筒状はどうして喜

んだのか

古来詩経

商頒

「玄鳥」と同じ-簡秋香卵の説話を云うも

のと解されるがこれも

「玄鳥」詩と同じ-この二句だ

けから呑卵の話を導き出すのは難しいしかしこの通解が

行なわれた高い

「董」は天地の間を繋ぐにふさわしい場所

であ-鳥が天から

「胎」を授けることなど天地通姫を

描-ことには襲わ-はない天問では上帝には

「帝」とい

う呼稀を使

ってお-ここでの

「魯」はー辞の

「愛」と同

じく上帝の人格化したものと思われる

この二句は不思議なことに簡秋と啓が誰を生んだのか全

く言わないテキストに脱落がなければ次の章の登場人

物を簡秋の子と考えるのが最も素直であろうところが次

に登場するのは

「玄王」でも

「契」でもない

18

56該乗季徳頗父是滅胡絡弊干有屈牧夫牛羊0

57干協時舞何以懐之平脅鼻膚何以肥之

58有屈牧豊云何而逢撃林先出其命何徒

壬亥はその父季の徳を縫いだが父は立涯な人であ

ったどうして王亥はとうとう有易園に落ちぶれそ

ゐ牛羊を養

っていたのかO

たて

あわ

いだ

協せて舞う女を見てど-してその女を

のか

平らかな脇腹に細やかな皮膚どうしてこの女

まじ

ったのか

王亥は有易園の牧童にどのようにして合

ったのか

寝込みを襲われて先に逃げ出したがどこから逃げ出

して助かったのか

56章の

「該」を王逸は

「竜也」と解しているが晴代に至

って王関連が人名ではないかと疑問を呈出L

t

王国経が卜

軒との対照によって王亥であると断じて以来この説が支配

的であるこの四句も前途の山海経や竹書紀年と共に王

亥が牧神であ

ったことを示すものとしてよ-引かれる57

章は難解であり注揮家ごとに説が異なると言

ってもよい

股周開園の神話と

「紳代史」(大野)

ほどであるが王亥の婚姻のことを云うとする需介甫氏

黒須重彦氏の説に徒う58章は王亥が殺されそうにな-な

がら辛-も逃れたことを云い前に引いた山海経などの所

侍と関係があるものと思われる

この三幸の記述から王亥の迫害と文化創造のモチーフを

見出すことはさほど困難なことではないし簡秋と孝によ

る殿租の神的な誕生も前章までに述べた例と同様に何ら

かの形で王亥に英雄的資質をもたらすものと考えられる

簡秋が生んだのが王亥であると断定できれば話は簡単なの

であるが56章には王亥の父としての

「季」が登場してお

り従

って天問に於ては簡狭

暑-季1王亥という系譜が

成立していたことになるしかし卜辞に見える

「季」は高

租でない租神の一人にすぎず

「高租王亥」が

「季」を父と

していたとは考え難いo

l鮭に卜解における租紳相互間の

父子関係は不明な部分が多-本来は寧ろ横

一列に並ぶ関

係であ

ってどれも

「租先」に襲わ-はないのであ-果

たした功績や役割の違いによってそれぞれに分化したもの

と考えた方がよい卜辞における

「季」の神威は他の租紳

19

中国文革報

第四十六桝

と襲わらないが

天問では尊と王亥との橋渡し的な性格に

襲わったのである

59恒乗季徳蔦得夫朴牛何徒費班緑不但遠来

王恒も李の徳を鰹ぎ王亥の養

った僕牛を得たど

あまね

はどこ

うして狩-に行

って獲物を

-

民に

ただ行

って

締るだけに止まらなかったのか

「恒」は王遠江では

「常也」と云うがこれも王国経が卜

辞に見える王恒のことであると解して以来諸家概ねこれ

に徒う「班稀」は近年の解帯では

「官位」「栄達」等に解

され

「王恒が有易図で出世しょうとした」意であるとす

るがす

っき-しない解輝であるー辞に見える王恒は

弓の形の中に

「恒」字を入れたものもあ-寧ろ

「湯は狩

-に往-際ただ行

って締るだけではな-民に編-施し

を輿えた」とする王逸注の方が原初的な意味に近いと思わ

れる但し主語は湯ではな-王恒である張光直氏は王恒

と罪に何らかの関係があるのではないかと考えるが

それ

よ-は駿人の狩猟柵であ

ったと考えた方が良いかも知れな

いただ王恒の事境を記した文献が他に存在せず容易に

結論を得難いのは残念なことである

60昏微遵述有狭不寧何繁鳥葦棟負子韓情

61絃弟遠軽危害顔見O何襲化以作許後嗣而逢長

上甲微は父王亥の事鏡を鮭ぎ有易園は安定を保て

ず滅びたどうして有易の人民は妹に止まる鳥のよう

に苦しんでいるのに上甲微はその子女にまで横暴な

ことをしたのか

目の陪んだ請弟はみな道ならぬことをしその兄上

甲微に危害を加えたのにどうしてうま-ごまかして

その子孫が長-祭えることになったのか

この二章も本づ-所がはっき-せず難解であるが「昏微」

はやは-王国経が上甲微のことであるとしてお-その事

蹟を云うものと考えられる上甲微は卜辞で系譜が明らか

な請王のうちで

一番古い租先に普た-いわば

「人王」の

租であるがここでは王亥と同様の迫害モチーフが再び現

⑳れその事鏡は既に神話化されていたものと見られる「何

襲化以作詐後嗣而逢長」の二句はそ-した神話であるが

故の不合理性を問うているのである

- 20-

62成湯東巡有等宴極何乞彼中臣而吉妃是得

63水漬之木得彼中子夫何悪之腰右筆之婦

64湯出重泉夫何皐尤不勝心伐帝夫誰使挑之

湯は東方

へ巡狩Lt有等園までやって来たど-し

てあの中臣伊声に乞い求めて良い妃を得たのか

水蓮の木から有等氏の君主は伊声を得たとい-が

どうして伊声を嫌

って湯の妃に付き添わせたのか

湯は重泉の牢獄から出て来たがそれは何の罪だっ

たのか正義を求める心を抑えられず実を伐

ったが

誰が彼をそうさせたのか

商頭における湯は夏架や尾吾氏を伐

った英雄として非常に

多-の紙幅を割いて賞揚されていたのであるが天間では

僅か三幸で終わ-しかもその年分は彼の名臣伊声のこと

に費され天下を平定した聖王にしてはかなり冷淡な描き

方である多-とも王亥や上甲微などと同等の重さしか持

っていないといえるしかしこの簡単な記述は神話的な趣

きに富んでいる伊声は呂氏春秋

本味簾で

「有佐氏の女

が空桑の中から嬰兄を得て

それを君主に献じ君主は

般周開乾の神話と

「紳代史」(大野)

料理人に彼を育てさせた」云々と書かれるような俸説をも

つがその原型とみられる記事が63章にあ-64章の

「湯

出重泉」も森安太郎氏が

「陽

(太陽神)が海の下を-ぐっ

て再び現れ出る様子」

と解したほどであるその虞偽は措

-としても

「重泉に囚われてから脱出」

というのがこれ

まで屡々登場してきた迫害1事業完成のモチーフであるこ

とは明白であ-この迫害こそ棄てられた后稜と同じ-英

雄を英雄たらしめる神話素の一つである殿人にとって湯

「人王」であったはずであるが楚人にとっての夏殿革

命は既に神話となっていた宋人にとっても同じであ

った

と思われるしかし東周時代の為政者の意識は最早神話を

古代人の如-

「心象における事資」として受け取ることを

許さなかった神話の神話たる所以である英雄の迫害も

政治家としての彼等にとっては

「不合理」以外の何もので

もな-統治強化の障碍でしかなかったであろうそれ故

その

「不合理」を宋人は頒詩から治し去-楚人は

「天に

問」うたのである東周の殿開園神話はその鮎で西周人

の神話と歴史が

一鰻になった

「神代史」であ

った詩経

21

中国文筆報

第四十六冊

雅の周王朝開園の物語とは成因がやや異な-神話そのも

のを改襲した

「神代史」であるといえよう

再び天間に戻ろうここで語られる殿王朝開園神話を綜

合すると腰租誕生1夏殿革命という流れは商頭でのそれ

とはぼ

一致するのであるが商頚では全-無税されている

王亥

王恒や上甲微の事浜を多-記している所が大いに異

なるこれらの先王は卜軒に於ても租神として柁られてお

-殊に愛

(餐)王亥は

「高租」と崇められていたのであ

るから天問における殿租誕生や牧牛創始の偉大な功績も

殿代からその根摸となるべき停東があったものと考えられ

る殿の未森たる被征服図

宋図で語られなかった文化神

が周の政治的願力が比較的少なかったであろ-楚園に於

て生き残

っていたのであ-「王亥を構える頒詩は政治的

要請によって胴去されたのではないか」という前章で捉

起した推測は更に確貴性を樹して-るのである

このように文化神を語る神話は政治的な事情によって

改襲されやすいという

一つの傾向が次第に明らかになって

きたのであるが天間に見える周王朝開園神話を詩経

雅のそれと比べてみるとその傾向は

一層はっき-する

これについては次章で検討することにしてその前に前

章で提起したもう

一つの問題即ち契と後に呼ばれるよう

になる殿紐の正鰻について卑見を示しておきたい

1般には詩経

商頒

「玄鳥」

「長顎」の鄭隻や楚鮮

天問の王逸注史記

殿本紀などから筒状が生んだ殿租

が契であるとされ詩経や楚軒の注揮家も特に疑問を抱い

ていないしかしこれまで見てきた詩経や天問には契の名

は全-見えていない国語を見ると周語下には

玄王勤商十有四世而興

玄王は商のために働き十四世かかって興起した

鄭語には商

契能和合五教以保干百姓者也

商契は五教をよ-調和させ人民を守-養

った人で

魯語上には

契為司徒而民韓-上甲微能帥契者也o

契は司徒の官となって人心を和らげ--上甲微は

22

たす

契をよ-

た人である

自玄王以及主薬莫若湯

文王から主薬

(湯の父)に至るまで湯よ-すぐれた

者はいない

とあるこれらを見ると契とい-名は周

楚以外の

園で用いられし

かも

「司徒として五教によって人心を安

定させた」という事鏡が語られている抽象的な形ではあ

るが文化面での功寮が取-上げられているのである

そうすると陳夢家氏の

「契と刻は互訓であ-共に亥

と普通である故に契は即ち王亥である」とする説が有力

な説として浮上して-るOこれまでの考察から王亥は殿

の高租にして文化所であ-従

って契というのは王亥の周

連諸国での呼び名であ-「五教」云々は王亥の文化神的

な面が周遠諸国に於て襲化したものと考えられるのである

もう

1万の

「司徒」という面に注目すると楊寛氏は

「司

徒」は

「司土」であるとして契は社紳

(土地紳)であった

と考えている「司徒」を

「司土」と表記するのは西周金文

に多-見られる用法であ-本来は土地や農業を司る官で

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

あったらしいまた史記

殿本紀には

「実は南を佐けて治

水に功があった」とあ-梁玉縄の疑う如き司馬遷の臆説

でな-古-からの停承に基づいているものであるならば

契に夏南の如き下士造成神的な面もあった可能性は捨てき

れない司土の官は農業にも関係が深いことから契は土

地神にして農神の性格をも持つことにな-このことは王

亥が牧牛の創始者であることと関係があるのかも知れない

なお尚書尭典には

帝日「乗努民阻飢o汝后榎播時百穀O」帝日

「契百姓不親五品不遜汝作司徒敬敷五教在寛」

もろもろ

舜は言った「棄よ

民は飢え苦しんでいる

汝は后頑の官とな-

この百穀を播け」と舜は言

った「契よ人民は互いに仲良-せず父子

君臣

夫婦

長幼

朋友の序に従わない汝は司徒の官とな

つつし

-五教を敬んで廉め心を寛-して治めよ」と

とあ-同じ-尚書の周官には

司徒掌邦教敷五典擾兆民

司徒は閲の教化を掌-五教を廉め多-の民を順

23

中国文畢報

第四十六肋

わせる

とあ

って司徒が教化の官であるかの如-書かれているが

これは后積が農官とされたために契は

「五教を康めた」面

のみが取-上げられそれが司徒の官名に結びついてかか

る誤解を生んだものであ-司徒の本来の意味ではないと

考えられる

周やその支配下にあった宋園では殿租に玄王という名

が使われてお-玄鳥による神的な誕生と商の興起のた

めに轟-したとい-事暁が語られる

魯園では

「契」

「玄

王」両方が見えるがー契と言う場合は文化的な功績が描か

れ玄王と言う場合は始租としての面に注目されている

恐ら-

「玄王」とは契=

王亥の始租としての面が強調され

た時の呼稀であ

ったと思われる文化人類学的にも「玄」

という名は始源の闇や滞沌を連想させるものであ-例え

ば老子

六章の

玄牝門天地板

玄牝の門(女陰)は天地寓物の根源である

の如-である

宋園や周では殿租の文化神的な面が抹殺さ

れたために始租神としての

「玄王」の呼稀が定着し魯

鄭などの周連列国では儒教的に襲化した文化神として

「契」と呼ばれ楚国では殿代の呼稀

「王亥」が原形に近

い形で保存されて

「該」と呼ばれたのであろう

四楚鮮

天問の周王朝開園神話

まず天問における殿周開園神話の大筋の流れを圏示する

と附固

一のようになる我々の常識で考えるならば夏殿

革命の次に殿のその後の衰亡を歌いそれから周王朝

へと

移る構成をとるのが普通であるが天問では夏殿革命から

いきな-周の衰亡

へと飛びそこから殿の衰亡

へと戻る間

くりかえ

「天命は

」というテーゼを挟み込んでいるこの

ような操作によってどの王朝も同じように興亡を繰-近

すというテーゼが

7層際立つのであ-

T見乱雑に見える

排列が安は高度なレトリックを用いた結果であるという

ことがわかる

次に殿周の開園が歌われている各章を時間順に並べ

かえて相互に封比してみると附圏二のようになるこの固

24

殻周開園の耐話と

「神代史」(大野)

附圃- (丸内の数字は葦の通し番競)

舜と女梱 ⑱~

「験萌在初」

1

度の先王 ~

t

夏殿革命 ~

周の先王

l

殿周革命 ⑮~cent)

iiiiia段の衰亡 ~ 周の興亡

一- 一 ノ ー「天命反側」

附圏二

段 簡秋と唇の通婚

王亥 有易で牛羊を牧す

王亥の婚姻

王亥 殺されかける

王位 王亥の牛を得る

上甲微 父の遺業を鮭ぐ

肢弟が上甲微を迫害

一寸 どうして子孫が栄えたのか」

~ 楚の興亡

周 ⑯ 后硬 氷上に捨てられる

上帝をも驚かす武勇

-「どうして子孫が栄えたのか」

成湯 伊声を得る

伊デの生い立ち

湯 壷泉から出て案を伐つ

- 25-

⑳ 文王 天命 もて段を覆す

岐山に移る殿の惑婦

文王 村の無道を天に告げる

文王 太公望を得る

武王 急いで殿を伐つ

武王の朝合

周公 武王をよしとせず

武玉 村を伐つ

中隊文革報

第四十六筋

一見して知ることができるのは周の先王には僅か二章

しか使わず殿周革命に九章も費やしてお-殿王朝の方

が租神に多-の章を割いて夏殿革命には三章しか使わな

いのと対照的であるということである

周王朝開園を云う章をもう少し詳し-見てい-と

76積維元子帝何竺之投之干水上鳥何燐之

77何漏弓挟矢殊能渚之既驚帝切激何逢長之

后稜は上帝の長子であるのに上帝はどうして彼に

危害を加えたのか彼を氷の上に捨てると鳥はどう

してこれを暖めたのか

どうして弓をひきしぼ-矢を挟みすぐれた才能で

武婿となったのか上帝をも驚かすほどひどいことを

したのにどうしてその子孫は長-栄えたのかQ

后積が上帝の子であるのに迫害され鳥によって助けられ

たというのは詩経

大雅

「生民」と同様であるが周租后

礎の両的資質を云-のみであ

って農業費明には全-解れ

られていない77章は王逸注では前二句を后稜後二句を

武王の事績とするが洪興租補注は全部を武王の事績とし

朱子はその両方を疑問であるとす

78章以下では文王の

ことを云う章が績いてお-この章を武王の事虞とする課

には従えない聞

多や衰珂

氏は全部を后頑の事鏡とする

が必ずしも后榎に限定することはできない少な-とも

古公以前の

「神代」の先王のうちの誰かであることは確か

であろう後二句の

「上帝をも驚かすようなことをしなが

らどうして子孫が栄えたのか」という疑問が殿の租神と

「人王」の境目である上甲微を語る61章の後二句と似るか

らである周の先王を歌うのはこの二幸で終わ-であ-

そこでは先王たちの文化的功績は全-歌われておらず殿

の先王に比べて極めて冷淡な扱いである

78章以下は殿周革命にまつわる様々の問が寛せられるが

詩経

大雅に見えておらずまた考古学的な裏付けもない

俸説的な事件もい-つか見えているとはいえ神話的な奇

怪さには乏しいといえる0

79遷蔵就岐何能依O殻有感婦何所説

貴職していた重器を移して岐山にやって充たがどう

して人民がそれに従

ったのか殿には人を舷惑させる

26

女がいたというが何のために議話しょうとしたのか

前句についてはこれを文王に懸ける説

大王に懸ける課

あるが前後で文王のことを歌

っているので大王の事蹟と

するのには難があるとはいえその内容は詩経

大雅

「崩」

に云う古公宜父の事鏡に近-どちらに限定することもで

きない「大王から文王までの問」とする他ないであろ-

後二句は肘の妃である坦己を云うとされるがその何につ

いて問うているのかは明らかではないしかし両者とも

その

「答」となるべき俸説がこの時代に前後して現れてお

-前者については

1章で引いた孟子

染着王下後者に

ついては太平御覧奄

1三五引世本に

「村が有蘇氏を伐

った

時有蘇氏は坦己を妃にさし出した肘はこれを愛して言

うことを何でも聞いたために武王が肘もろとも殺した

云うのがこれに普たる

66到峯村窮叔旦不嘉O何親撰車足周之命以各嵯

肘の首をはねるに至-周公且はこれをよしとしな

かったどうして周自ら謀

って殿を討とうとしたのに

その行動は人民に支持されたのか

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

後二句は極めて難解であるがいま黒須重彦氏の解樺に従

う他の諸家にはテキストの文字操作で意味を通らせよ-

とする者も多い前二句を王逸は

「武王の舟に白魚が飛び

込んだので群臣が

『吉兆だ』と言ったのに封Lt周公が

『吉兆ではあるが吉兆と思

ってはならぬ』と戒めたことを

云う

と解しているがこれは史記

周本紀の記事を敦術

したものであって漢初の五行思想の産物である寧ろ所

謂伯夷

叔奔停説の前駆形と考えた方がよい

ここに引いた事件が果たして史寛であ

ったのか西周時

代に生まれた俸説か或いは東周以後の俸説であるのかは

容易に判断できないしかしいずれにしても西周人の

「神

代史」からは無税されていた事件が本来の形ではないに

しても再び記録される動きをここに見ることができるので

あ-結語で述べる

「神代史の再神話化」の萌芽であると

いえるO

このような新しい動きはあるものの天問の周開園神話

も始祖の神的誕生1英雄的事業の達成という基本的な構造

には全-襲わ-はないしかし全鰻を通じて諸王の文化的

27

中閲文革報

第四十六筋

功績には全-解れられていないばか-か周の先王=

租秤

に封しても極めて冷淡であ-殿に封する態度とは明らか

に異な

っているのである

このことは昔時の楚園が周文化よ-も殿文化の方により

親しみその信仰

習俗等を保持していたことの一つの讃

接であろう楚文化と殻文化の関係の深さは既に様々な面

から指摘されてお-例えば楚辞

九歌に見える「雲中君」

「河伯」の神がト辞にも

「雲」「河」神として見えているこ

とや西周末期のものと見られる楚の青銅鐘は殿の鍔と形

が似てお-その銘文も殿金文に似た雄滞な書鰻であるこ

とな

どが挙げられるこのよ-な現象が生じた過程として

は(一)歴代から楚は殿に臣屈してその文化を受け入れ

周の時代になっても表向きは周に臣属しながらも殿の文化

を保持し績けた(二)周代以後に国力を埼大した楚園は

への対抗上その文化を拒み隣接する宋園の殿文化を積

極的に導入したという二つの説が考えられる前者の立

場を取る者はその根接として詩経

商頒

「殿武」の

撞彼殿武奮伐剰楚突入其阻衷利之放有戟其

所湯孫之緒(一章)

敏疾なる武丁は奮起して剤楚を伐ち険しい山地

に攻め入って刑楚の兵士を虜にしその地を平げ

湯王の子孫として手柄を立てた

という部分を畢げることが多い

前述の如-商頭目鰻が

宋園の楚国

への対抗心から作られたものであ-我が国の

紳功皇后遠征説話と同じ-どこまで史寛を反映している

かは未知数であるしかも卜辞などの殿代の地下資料から

は昔時の殿楚関係を示すものはまだ見つかっていない

一方後者については史記

楚世家に周の夷王の時に

楚王熊粟が

「我は牽夷な-中国の詮親に興らず」と言っ

たという記事もあ-現時鮎ではこちらの説の方が有力で

あると思われるいずれにしても周とは言語や風土を異

にする楚閲で生まれた天問には意固したか否かはともか

-周文化の重税と殿文化

への傾斜が讃み取れるのであ-

周王朝側の論理で殿の文化碑の功績を壷-抹殺された詩経

商頭や周の文化神を構える詩経

大雅とは好封照を見

せているのである

28

結語及び除論

これまで述べ来

ったことを要約すると詩経や楚辞

問に見える殿周開園神話は始租の所的誕生1迫害1事業

(文化創造

天下統

一)の完遂という構造を持ち既に西洋

の英雄神話に於て指摘されている基本構造をここにも見出

すことができるただ西洋では

一人で行なわれることが多

い英雄としての事業が中国では教代に亙

って行なわれる

ことが多いという違いはあるところが殿の開園と周の

開園また詩経と天問の相互間で詳し-比較してみると

神々の文化的功績は神話が記録された常時の政治的な事情

によって抹殺されることがあるという事資に束づ-この

ことは中国に於ては剣を振るって活躍する英雄よ-も

文化を創始する

「聖王」の方が重きをなしてお-氏族や

国の威光を左右するものであ

ったということの一つの謹左

といえよう

詩経

大雅における周王朝開園神話は高租にして文化

神である后稜-公劉を神話的要素に富む叙事詩によって語

段周開園の紳話と

「神代史」(大野)

っているが

「人王」の代に至ると

殊に王李に新著に見

られる如-諸王にとってマイナスイメージを輿えかねな

い史寛は壷-制去され武力革命の成功を

「神代」から引

き継がれた輝かしい事業として稀讃している周王朝の開

園神話とそれに績-殿周革命の史糞は詩が記録されるま

での間に

「神代史」

へ改愛されたのであるそこに支配強

化のための王室神聖化という高度な政治的意圏が働いてい

るのは確資であろう

段の遺民の園である春秋の宋園における段王朝開園神話

詩経

商項の諸篇は最終的には周王朝側の人々によって

記録

編輯されたものであ-それ故殿人の信仰した文化

紳は義-抹殺され支配者としての周王朝の論理に基づ-

「神代史」に改変されているOそれに封して楚辞

天問の

殻王朝開園神話には卜辞にも見える租紳たちの神話的雰囲

気に富む物語が多-残

ってお-逆に天問の周王朝開園神

話では周の先王の文化的功績を無税していて宋国との政

治的

風土的立場の違いを明瞭に浮かび上がらせているの

である

- 29-

中国文学報

第四十六筋

か-の如-

神話時代やそれに績-歴史が為政者の手に

よって

「神話化」される場合は中開の諸秤の中で重い比

重を占める文化神が記録者の政治的立場に従

って改奨され

「人王」に封しては

「都合の悪い」史貴を切-捨てて

「神

代史」

へと仕立てられるのであるが東周時代になるとそ

れとは逆に「人王」にも神話素の一つとして解揮可能な俸

説が様々な書物に記録されるようになる既に引用した文

王の安里幽閉

伯夷

叔斉の餓死などがそれであ-

「人

王」の物語もこれによって組両と同様の典型的神話

へ近づ

いてい-のであるこれらが記録されたのは諸子百家の書

物であ-昔時の遊説家たちが民間に流布していた停説を

敬-上げて自説を述べるために用いたものと考えられる

これらの停説が古い形をそのまま保

っているか否かは全-

保護がないとはいえ政治力撃の働きに-いレベルに於て

「神代史」に再び神話的物語が付け加えられるようにな

たということはいえるいわば

「神代史の再神話化」であ

-

1般に

「中国古代王朝神話」として

1つの物語にまと

められているのはこうして

「再神話化」された結果の産物

なのであるこれらは確かに

「神話」としての要素を豊富

に含んでいるのであるがこれを中国古代神話の原型と見

なすことは不可能であ-上述の如-複雑な要因が絡み合

っているのである

こうして

「神代史」はたとえ元の形とは異なるにせよ

再び

「神話」としての光彩を放ち始めたところがこの

「神話」をまたも

「歴史」に固定してしまったのが他なら

ぬ史蓬であることは周知の通-である

しかし

「神代史の再神話化」の原動力とな

った

民間

に語-経がれた王朝停説のエネルギーもこれで絡恨したわ

けではなかったこうしたエネルギーはその後も小説に記

録された種々の歴史俸説などを生み出し形を襲えて生き

績けたのである

ところでこれまで本文中に取-上げなかった

一つの重

要な問題があるそれは

「楚園に古-から停わる楚人自身

の神々はど-な

っていたのか」という問題である

楚辞

天問にはその末尾に楚図の俸説と思われるものが

記されてはいるが多-の注帯家が匙を投げているはど難

30

解であ-筆者も今敢えてこれに挑戦するほどの飴裕はな

いoしかし離騒ではその冒頭で「私は帝高陽の未森である」

と歌

ってお-少な-とも屈原の時代では楚人は穎頭高陽

氏を租神としていたと考えられているが文化神に関する

記述は見えない

一方同じ頃に楚園で成立したと考えら

れている山海経

大荒西経には街頭の子孫の神々の事業

が豊富に記されている例えば重

寮の天地分離

太子長

琴の音禁孝明などである

これらの事章から得られる

一つの推測をここで述べると

楚辞に於ては楚人自らの文化両を表立

って取-上げられな

い事情があ

ったものと思われる楚語で書かれた「原楚鮮」

には書かれていたがそれを漢語に翻弄した際に宋図か

ら導入した殿の文化神に置き換えたのかも知れないそし

て自らの文化紳とその物語を速い

「大荒」の物語として

カムフラージ

ュしたのが他ならぬ山海経なのではなかろ-

かこの書が地理書の形をとっていることや他書に見ら

れない神話停説を豊富に載せていることなどは丁度我が

国の

『出雲園風土記』を思わせるものがあるまた殿の

殿周開国の神話と「神代史」(大野)

文化紳王亥が

「困民国」の人とな

っていた-楚の租神で

あるはずの蘭頂が

「額頭囲」なる図にいたとされているこ

となどもこの仮説の根嬢となろう

しかし最早紙幅も轟きているこの問題は山海経を中心

として改めて考察することにしたい

ば織井慶紀著池田末利編

『中図神話の文化人類学的

研究』(1九九〇平河出版社)があるoまたユング心理学の

立場から日本神話を分析したものとして河合隼雄

『中空構

造日本の深層』(一九八二中央公論社)等がある

近世以前の諸席の議論は専らこの怪異雫が信ずるに足るか

否かの次元に終始するが近代的な研究としては聞一多

「萎

娠履大人跡考」(『聞一多全集』第一射一九四八開明書店)

白鳥清

「段周感生神話の解揮」(『東洋学報』十五巷四親tT

九二五東洋協合学術調査部)出石誠彦

「上代支部の異常

出生説話について」(『支那神話俸説の研究』所収tl九四三

中央公論社)等がある

「帝上帝也」

「帝高華氏之帝也従於帝而見干天婿事賛敏也」

孔疏に

「頑柁郊礁之時英夫高辛氏帝率興供行妻娠随帝之

後践履帝迩行事敬而敏疾放鳥神歌饗紳既饗其条則

31

中国文筆報

第四十六筋

愛而拓之

於是為天神所美大為福緑所依止twz=得懐任則

震動而有身」と云う

例えば嗣西族の

『東巴控』に見える縛文字にこのことが窺

える附固三参照また河南省に俸わるロ東俸説によると

女桐が天から降ってきて伏義が地下から出てきたと云う

(陶陽

鍾秀

『中国創世神話』一九八九上海人民出版社二

一四頁)

附圏三

primeJ 一一一

~PJ虹互L

LJL

堅 室④

上部の 一へ は天下部の 皿 は大地を

表す圃①は中間に天地交合の気がありこれ

より荷物が生ずる固②の中間は蛙で天地交

合後の襲化を表す圃⑨では天地の間に男が上

女が下になっており男女の交合と同様にして

天地が人類を生んだことを表す

(陶陽 鍾秀 『中国創世神話』214頁)

「惟虞東学詩云人之初生皆裂胎而出騒失所依故堕地

郎帝惟羊連胞而下共産猪易故詩以

『如達』馬比o又常

熟陶太常元淳日凡嬰兄在母腹中皆有皮以豪之俗所謂胞

衣也生時其衣先破兄鰻手足少蔚放生之難O惟羊子之生

胸仇完具堕地而後母篤破之故共生易o后硬生時蓋戒於胸

中形鮭末露有如羊子之生者放言

『加速』今按前二説

是也下言

『不味不副』蓋謂其胞衣之不折裂也」(『毛詩俸

集通帯』巷二十五)

「徐君宮人娠而生卵以箆不詳秀之水演O猪孤母有犬名

鵠蒼へ猟干水溝へ得所弄卵衝以東蹄猪孤母以馬具凍俊

之逐沸成見生時正値へ故以為名徐君宮中聞之乃更録

取長而仁智襲君徐固」(博物志

異聞篇引徐値王志)

「高句凝着其先出自克明東明本北夷嚢離王子離王出

行其侍兄於後任娠離王達欲殺之侍見目『前見天上

有菊如大鶏子乗降我困以有嫉』王囚之後連生男玉

置之家牢家以口束嘘束不死o王以為所乃聴収養」(梁

諸夷俸)

北欧や古代

ハンガリー等に見られる豊富な例がKケレ-

ニイtCGユング

『神話撃入門』

一九五1(杉浦忠夫訳

1九七五晶文社)に引かれている

例えば壮族に俸わる

「種子と犬の尾」の物語では人々

「九尾狗」に天上の穀物を盗みに行かせたところ穀物を

九本の尾に-つつけて蹄ろ-としたところを番人に見つか-

八本の尾を叩き切られたが残-

1本の尾に穀物をつけて逃げ

師-人間は農業ができるようになったと云う

(陶陽

秀前掲書二七九頁)

32

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 8: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

韓不珍庚憶亦不眠欧問種械扶桑行違先夫混

夷戯臭維其喚臭(八草)

虞帯質蕨成文王amp庚生予日有疏附予日有先後

予日有奔奏予日有禦侮(九章)

長々と伸びる瓜の蔓そのように連綿たる周の民が

生まれた時は汎漆の地に居任した古公宜父は土

をこねて穴を作

って住みまだ宮室を持たなかった

(一章)

たがらし

のげし

周原はよ-肥えて董

飴のように茂

ってい

た国都造営を始めよ-と謀-亀卜を行なうと「こ

こに止まるがよいここに官室を築け」と出た(三章)

土木の官を召し出し土地の官を召し出し宮室を

建てさせた墨縄をまっすぐ引き板を縛

って間に土

を詰め狂いな-廟を作

った(五章)

外門を立てれば高-そびえ立ち正門を立てれば

いかめしい構え大社を立てれば多-の人々が集ま

った(七草)

ほまれ

さて周人の怒-は絶えずしかしその

落とされ

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

なかった雑木を沸い道が通じると混夷は恐れて

逃げ息切れするほどであ

った(八草)

虞園と苗圃が和議を求め文王は興起の勢いを動か

した文王は言

った

「追随する園もあ-

前後から

取-奄-図もある我が閲のために働-園もあ-外

敵を防ぐ園もある」と(九章)

全九章の-ちの六章八

九章は難解であ-諸説紛紛とし

ているが古公ではな-文王の代に時が移

っているとする

鮎では概ね

一致している宮室を持たぬ原始的状態1閲見

1板接地造営という内容は

「公劉」詩に似るが饗宴の場

面がないことや司空

司徒の官名や泉門

庶門の制度な

ど高度に額展した制度鮭系が見えることまた詩型の面で

も大雅の開園叙事詩では唯

Tの

「鮪館瓜腰」という興が見

えることなど

「公劉」詩とは異質のものを感じる

いわ

「神話臭の治失」であ-

「新しさ」である后頑ととも

「神代」の始組神であ

った公劉と異な-古公は西周人

にとっては

「人王」であ-茸在人物として扱われていた

と思われる

中国文学報

第四十六桝

古公の子である季歴は「大明

「皇臭

詩に

「王季」の

名で見えるしかし大任を撃

って文王を生んだことを構え

るのみで自らの聖天子たるにふさわしい事鏡は何も語ら

れていない大雅の開園叙事詩で名が出ていながら英雄的

な事虞が語られないのはこの王季だけで後世の文献例

えは史記

周本紀でも

「徳行を情めた

と云うのみであ-

考えてみれば誠に奇妙なことであるしかしこの間題に封

する答えは後に明らかにされるはずであるから今は王李

の子である文王とその子武王の方

へ進むことにしよう

殿周革命の主役として誰もが知っている文王と武王は

「文王」「大明」「皇央」「文王有壁」でその事蹟が歌われ

ている文

王在上於昭干天周維奮邦其命維新有周不

蘇帝命不時文王捗降在帝左右o(1章)

穆穆文王於緯無数止候哉天命有商孫子商之

孫子其覧不億上帝既命侯

干周服(四章)

いま

文王は天に坐しああ天に輝かし-坐す周は古

い園であるが天命が新たに下された周は大いに輝

かしく上帝の命も時宜にかない文王は天地を上下

して上帝の左右に坐す(一章)

つつし

慎み深い文王はああ敬むこと績いてやまぬ偉

たも

大なるかな天命は商の子孫を有たせた商の子孫は

かず麗は十寓に止まらないが上帝の命は下-彼等を周

に蹄順させた(四章)

「文王」全七草のうち二章内容的には叙事詩というより

頒詩に近く

后稜の神的誕生のような神話臭はないがこ

こでの文王は天地を上下して上帝に仕えることのできる存

在であ-神格化されているといえるしかし文王がもと

もと神であったとい-のではなく

古公と同様に

「神代」

から引き継いだ英雄的資質によって天命を得て殿の民を

支配するという事業を行ない「人王」から「紳」へ昇格し

たものと考えるべきであろう

作乏尿之其蕃其繋情之平之其濯其例啓之静

之其樫其梓撰之刻之其腰其柘帝遷明徳串夷

載路天立欧配受命既固(二章)

帝謂文王無然畔接無然款羨誕先登干岸密人

不恭敢距大邦侵院狙共王赫期怒宴整其旗以

按狙放以篤子周砧以封干天下(五章)

普作

って除-のは立ち枯れや倒木切-整えて平ら

げるのは

濯木や並木

切-開き押しのけるのは

かわらやなぎ

へぴのき

やまぐわ

はりぐわ

って例-取るのは

上帝

は明徳ある王に味方Lt串夷は道にあふれんばか-に

逃げ出した天は文王の配偶大姐を立て固-命を授

け給うた(二章)

そむ

上帝は文王にか-のたもうた「人心を

せては

ならぬo気ままにさせてはならぬ」とOそこで高所に

登って観察すれば密園の人は従わず敢えて大国に

逆らい陳園を侵し共園

へ進軍しているO王は激し-

怒-

ここに軍旗を整え密図の行軍を阻み周の

さいわい

埼Lt天下に戒を示そうとした(五章)

「皇臭」全八草のうちの二章二章では公劉や古公と同様

の板接地造営を歌うが「天命」を受けるや否や五章に

云う如-密国を征討しょうとする

有命日天命此文王千周干京績女維草長子維

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

行篤生武王o保右命爾嬰伐大南(六章)

殿商之放其禽如林矢干牧野維予侯興上帝臨

女無武爾心(七草)

牧野洋洋檀革塩塩駆厨彰影O維師伺父時維鷹

揚掠彼武王韓伐大商脅朝清明(八草)

天よ-命は下-我が文王に命は下った周の都で

後を鮭ぐ妃は宰園の女この長女がやって来て天は

武王を生ませ給い守-助けて命じ給うた

「大南を

討伐せよ」と(六章)

殿の大軍は林の如-集まった武王は周軍に牧野

ちか

で失

った

「ここに我々は興起する上帝もお前達を

見ておられるぞ戒心を抱いてはならぬ」と(七草)

牧野は贋々として戦車は輝き烏は勇み立つ太

公望呂筒は鷹の如-猛-立つ輝かしい武王は大

商を存分に伐ち取-合戦の朝は晴れ渡った(八草)

「大明」の終わ-の三章牧野での殿との合戦が活寓され

るが武王のこの功績もやは-文王から受け縫いだ「天命」

あってのものである

9

中国文革報

第四十六

文王受命

有此武功既伐干崇作邑干豊o文王桑

哉文

王は天命を受けこの武功を立てた崇園を征討

すると豊に都邑を造営したすぼらしい文王よ

「文王有壁」の第二章密園征討と並んで文王の主要な武

功とされる崇園征討を歌うものであるがこれも

「天命」

によって行なわれたものとされている

詩経

大雅の落第から直接知ることのできる周王朝開園

の物語は以上の通-であるこれを后稜から文武までひと

績きに眺めてみると始租にふさわしい神的な誕生から始

まって迫害を受けた末に諸文化の開拓更には武力によ

る天下平定とい-英雄的事業を完成させるのであ-これ

は丁度Eノイマンらによって指摘されている英雄神話の

典型的なパターンとも合致する后積-公劉-古公-文王

-武王の五王が全鮭として恰も

1人の英雄の如き振舞いを

見せているわけである

しかし仔細に見るとこの五王の中で后稜-公劉古公

文王-武王の三者には微妙な違いがある后穆-公劉の物

語は神話的な雰囲気が濃厚であるのに対し文王-武王に

関しては

「紳懸-」的な奇蹟は全-見られず武力行使に

及んだ根嬢としての

「天命」ばか-が強調されているそ

してこの両者の中間的な存在として古公がいるのである

いわば古公を境にそれよ-前が

「神代」であ-それよ-

後は

「人の代」として描かれているといえる

か-見ると古公以後の物語は開園の

「歴史」であ

って

「神話」として扱うにはふさわし-ないという人もいる

かも知れないそれにもかかわらず筆者は古公から武王に

至る物語は

「歴史」として作られたものではな-歴史が

神話の一部として改襲された

「神代史」

であると考える

なぜなら考古学的に知られる殿周革命前後の歴史には詩経

と大き-ずれる部分があるからである

后積や公劉は周原卜軒や金文には全-見えず神話上の

人物であることを疑う者はいない古公賓父については

文王の租父たる大王と同

一人物と考えることに疑問を向け

る説があ-例えば顧訴剛は古公は周王朝創建時の王で

あ-大王は周の国力が強盛になった時の王であると考え

10

⑬たOしかし

「轟」詩のところで述べたことを考えれば古

公を周王朝の租とする課には従い難い現在鹿-支持され

ている説では殿が常時山西省に居た鬼方を討

った結果

彼等が西方に移動して周を歴迫したため周は幽から岐山

に移ることを飴儀な-されたと言う

具鰻的な国名などに

はなお問題があるとはいえ周が異民族の歴迫で岐山に移

ったという事寛があ-それが

「崩」詩にも反映されてい

るのは確かであろう時代が下がると孟子

梁意三下に云

う如-

「古公が徳を守

って岐山

へ逃げ人民も彼を慕って

共に移動した」という儒家道徳による合理的解帯が行われ

るようになるのは周知の通-である

王李は前述の如-詩経ではその事蹟が全-記されない

ところが古本竹書紀年には

殿の武乙三十五年王李が西落鬼戒を伐ち二十雀

王を捕虜にした(後漢書西完博引

)

殿の文丁が季歴を殺した(青書束管俸史通疑古

社説上引)

といった記事が見え文丁期の卜辞にも周を伐つことの可

段周開園の神話と

「神代史」(大野)

否をーつたものがあるOしかもその7万で同じ古本竹書

紀年に

殿の武乙三十四年周の王李が来朝し武乙は土地

三十里玉馬を賜興した(太平御覧巷八三引

)

とあ

ってこの時期の卜辞にも周を

「周侯」と呼んでいる

ものがあ-周は段の侯国として厚遇されていた面もある

のである「大明」詩での王李は殿と関係の深い拳闘から

大任を迎えてお-史寛とすれば政略結婚である王李の

頃の周は殿と虚々賓々の駆け引きが績-緊迫した関係にあ

ったのである

王李のこうした

「行状」は竹書紀年に記事が残されて

いる以上常時の史官によって記録されていたはずである

にもかかわらず詩経ではそれらが殆ど無税されていると

すれば大雅の諸篇が作られた時から記録されて現在の形に

なるまでのいずれかの段階で意固的に例除されたと考える

のが愛常であるどの段階で刷られたかを決定するのは言

うまでもな-非常に困難であ-例えば

「解」詩で七草ま

で古公の根接地造営の話が績-のに八草でいきな-

「韓

ll

中国文革報

第四十六射

不珍膜性」と文王の代に飛ぶのはあま-にも唐突であるこ

とから七草と八草の間に王李が殺害されたことを歌う章

があ

ったと推定することもできるが残念ながら確認する

すべはないしかしいずれにしても我々が常識的に考え

れば王李が殿に殺された事寛を語ることによって王季1

文王-武王を悲劇の英雄に仕立てられ殿周革命の物語に

一層の彩-を添えられるはずであるのにそれらが轟-酬

去されているのである

文王と武王に関しては詩経に見える密

崇征討等は周

原卜辞等に照らしても史貴であ

ったらしいしかし後世の

文献に見える

「村が文王を安里に幽閉したが文王の部

下が賄賂を使

って救出した

とか

「伯夷と叔斉が武王の武

力革命を悲しんで首陽山で餓死した

とかいった物語は詩

経はもとよ-古本竹書や地下資料にも全-見えていない

之を要するに古公以下の

「人王」についてはマイ

スイメージを興えかねない物語は

一切語られていないので

あ-そこには諸王の威光を高めようとする政治的要請が

ったと考えられる后積や公劉は

「神代」の高租神であ

るから神話的要素に富む怪異な物語をそのまま停えても

不都合はないしかし古公以下は所詮

「人王」であるから

紳懸-的な奇蹟を附合すれば虞寛味が乏し-なるしその

一方では

「神代」から績-聖王の血統を誇示する必要があ

る勢い

「都合の悪い」史宜を無税して「輝かしい事業」

のみを賞揚する方向

へ向かうことになろうその敏寄せを

まともに食らったのが他ならぬ王李であ-殿に朝貢した

-殺された-した史資をそのまま記せば

「王統」の威光

を傷つけるのは明らかであるから大任と共に聖天子文王

を生んだいわば橋渡し役としてのみ名を留めることにな

ったのであるこのような

「歴史の神話化」の結果詩経

大雅の叙事詩語笛は周王朝開園の

「神代史」として西周

貴族の問に俸えられていったのである

二詩経

商頚の殿王朝開園神話

詩経

商頭の詩篇は鄭玄の商頭語で

「末の戴公の時に

大夫正考父が十二篤を得たが孔子が詩を編纂するまでに

七篤を失

った」

と停えられ今日に至るまで定説となって

12

いる現存する五篤の中には玄王

相土

湯及び中興の

武丁の名が見えている

殿の始租誕生を歌う詩として古来よ-引かれるのは

「玄

鳥」の冒頭の二句である

天命玄鳥降而生商

天は燕に命じ下士

へ降らせて商租を生ませた

鄭集がこの二句を

「天が燕を下士

へ降らせたというのは

その燕が残した卵を有城氏の女簡秋が呑んで殿租契を生ん

だからである」

と解して以来これが定説となっているし

かし森三樹三郎氏が既に指摘しているようにこの二句だ

けを見ている限-

「燕の卵を呑んだ」という事寛は直ちに

導き出せないのであ-この説話が商頚が作られた春秋時

代の始租神話そのままであるかどうかは頗る疑わしいし

かし玄鳥なる鳥が天と下士の間を往来して南畝を生ませた

ことはこの詩からも讃み取れるのであ-少な-とも春秋

の来園では殿租が天地通婿で生まれたとぎれていたと言う

ことはできよう

「長襲」にはやは-殿租とされる玄王とその孫とされ

段周開園の紳話と

「紳代史」(大野)

る相土が登場する

溶哲維商長顎其群洪水

巴だ高教下土方外大

国是瞳幅限既長有域方渚

帝立子生商(1章)

玄王桓掩受小国是達受大国是達率履不越途

観能登相土烈烈海外有載(二章)

きぎし

明徳なる商王その

現れて久しい洪水が贋が

った時南は下士の四方に功を敷き外の大国とを区

切-中国の虞さは遠大になったO有城氏もその時勢

力を埼し上帝は有城の子を立てて南国を作られた

(一章)

玄王は武徳があ-小国に封ぜられてもよ-治め

大国に封ぜられてもよ-治め薩に従

って越度な-

しめ

教法を現して行なわせた相土は武威輝かし-海外

の諸国を平定した(二幸)

この詩の

「玄王」は毛俸

鄭隻の如-殿租契のことで

「玄鳥」詩の商租と同

一であると解するのが普通であるが

白虎通

文質

(l名瑞賓)篤は玄王を湯と解してお-漢書⑳

鰻柴志は契(高)と玄王は別人で共に段租であると解する

13

中国文筆報

第四十六筋

相土は周鰻

校人注引世本で

「初めて乗馬を作

った」

と云

いこの詩で武勇の王として描かれていることと関連があ

るものと思われるしかし玄王

相土共に具鰹的に如何な

る事鏡があるのかはあま-括かれず神話としての考察を

かな-難しいものとしている

相土から十

1代後の子孫とされ夏案を伐

って殿王朝を

隆盛

へ導いたと俸えられる湯は同じ「長顎」に見えている

帝命不達至於湯秀湯降不遅聖数日頗o昭倣遅

遅上帝是砥帝命式千九園(三牽)

武王載端有虞乗鉄如火烈烈ー則莫我敢局萄有

三幸莫逐莫達七九有有載葦顧既伐昆吾夏架o

(六章)

上帝の命は誤-な-湯に至って天命と合合した

湯の生まれること期に麿じ聖徳は日々に高まった

天にも明らかに至る徳は久し-止まず上帝も愛敬し

て九州に法を示させた(三章)

武王湯は旗印を立て固-銭を撞-火の如-勢い

とど

もと

盛んなれば誰も敢えて長めることはできない竜株

ひこば

に三つの

生ずるといっても生長しきることは

ないO湯は九州を平らげ垂の葦図

顧閲と昆吾氏

竃の夏架を伐

った(六章)

湯が

「天命」を得た後に諸国を征討して九州を統

一したと

いう内容であ-大雅における文王や武王と同じ-始租

の神的資質を引き継いで天下統

一の事業を完成させるので

ある

これらを全鰻的に眺めてみると商租の神的誕生1

相土

湯の天下平定という流れは大雅における周王朝開園の物

語と同様のパターンであ-また請王を武徳の王と稀える

のに終始して請王にとってマイナスイメージを興えるよ

うな話が記されないのも大雅の文王や武王と同様である

商頭の諸篇が大雅以上に尖鋭な政治的意圏を以って作られ

たことは白川静氏も

「末に興

った膨折たる国家意識を背

景としてその抗争老たる刑楚に封する敵封感情の昂揚

を目的とし」たと指摘する通-であ-諸王の武勇ばか-

をことさら強調するのも肯けることであるところがも

しか-の如-商頭諸第が宋人の

「神代史」であるとすると

14

殿の諸王の文化的功績が殆ど歌われていないのは何とも不

思議な事賓である常時

「南賛歌舌」

の園であったはずの

楚と争うのに自らの文化的先進性とその由来を誇示しな

いということが果たして考えられるであろうか

結局宋人の殿開園神話を西周人の周開園神話と比べた

時の問題鮎は(一)後に

「契」と呼ばれるようになる殿租

の正睦(二)両者とも同様の構造を持ちながら殿開園の英

雄たちに文化的功唐が見られない理由tの二鮎にまとめら

れるo前者については戦国時代の楚国における殿開園神

話を記す楚辞

天問や殿嘘卜辞に見える殿の高組神など

にこの問題を解-鍵があろうと思われる後者については

まず宋園と同じ春秋列国である魯園で作られた詩経

魯頚

を参照するとある程度の推測が得られる

問官有他賓資枚枚赫赫妻嫁其徳不回上帝是

依無災無害禰月不遅是生后頑隆之百福蚕種

重移穂塀寂穿奄有下図倖民稼橋有稜有黍有

侶有拒奄有下士績南之緒o(1章)

后稜之孫資維大王o居岐之陽賓始易商至干文

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

武濃大王之緒致天之眉千枚之野無武無虞上

帝臨女敦商之族克威厳功王日叔父建爾元子

伴侯干魯大啓爾字鳥周室輔O(二章)

奥深-清い宗廟は堅固で美しい輝かしい妻糠は

その徳も貞正であ

った上帝も心をよせて無事に子

を生ましめ十月十日を遅れることもなかったここ

さいわい

に后積を生むと天は多-の

降したそれは黍

もちbぴ

おくて

わせはやうえ

おそうえ

まめ

や穿後に領下の閲を

くろきび

治め民に耕作させた稜や黍もあれば楢や

ある下士を治めて后稜は南の事業を縫いだ(一章)

后稜の子孫はかの大王宜父岐山の南に居任した

時始めて殿

への臣展開係を慕

った文王と武王に至

-大王の事業を縫いだ殿の天命の終わ-は牧野の

地でやって来た「武心を抱いた-心配してはならぬ

上帝も見ておられるぞ」武王は殿に勝

ってその人民

を治めその功績は先王たちにも等しい成王は言

た「叔父周公よ

そなたの長子伯禽を立て魯園の

侯とし大いにその土地を閃かせ周室の輔けとさせ

15

中開文革報

第四十六冊

よ」と

(二章)

「関宮」全九章の

うち二幸O魯図はこの詩にも云う如-局

公の長子伯禽が封ぜられた図であり周と同族であるから

曹然周租后稜に始まる諸先王を構えているわけであるが

后稜の農業創始を

一章全部を費やして

「南の緒を鰹ぐ」と

賞揚する割には文王

武王の殿周革命に封しては素束な

い描き方である寧ろ大雅の詩篇よ-も先王の文化的功績

に重きを置-といえる

1万の宋園は肘王の庶兄微子啓が武王に封ぜられた園で

ある宋園は殿の穫柴を修め殿の習俗を堅持し績けたと

俸えられる

所詮は被征服園である自らの租先を高ら

かに賞讃することに封して何らかの政治的願力が働いたこ

とは想像に難-ない「七筈の詩が亡伏した」という商魂

譜の記事は或いはこのことに関係があるのではないか

この失われた詩の中には

西周の

「生民」

「公劉」詩の如

-殿代よ-俸わる文化神を歌う詩があったのではないか

この推測をよ-精確に検討するにはやは-宋園以外の

園に俸わった殿王朝開園神話の一つとしての楚辞

天問を

参照する必要があるそこで次章ではまず殿嘘卜辞に見え

る高組神について検討し次に楚鮮

天間の殿王朝開園を

問う部分について考察した後これらと商項とを相互に比

較することにしたい

三卜辞及び楚鮮

天問の殿王朝開園神話

卜辞は占卜のための文句を記した文字資料であ-もと

よ-神話の記録を目的としたものではない従

って殿人の

間に俸えられていた殿王朝開園の物語を卜辞によって復元

することは言うまでもな-不可能であるただそこには高

租神や先王をはじめ様々な神の名が見えてお-これを後

の時代の殿王朝開閉神話と比較することによってその神

話がどれ位原初の姿に近いかを推定することはある程度可

能である

さて殿人にとっての最高碑は周知の如-上帝であ-

卜辞にも

「帝」として見えていて風雨などの自然現象を

支配し人事に禍福をもたらす存在であることが知られて

⑲いる

16

この上帝に封しては直接条把が行なわれることはないと

い-のが通説であるが島邦男氏によれば絶無という諸で

はな-締把が行われる例が三例あるこの締紀は上帝の

みならず高租神や先王に封しても行われてお-例えば

羅振玉

『殿虚書契緯編』

一-二-

一片に

点締子王亥

貞-王亥に繭のまつ-をせんか

董作賀

『乙篇』四五四九片に

葵未卜両税乙

英未に卜す租乙に蹄のまつ-をせんか

とあることから

恐ら-張光直氏の云う如-

「殿の人びと

『帝』は先租の絶稀であ

ったかあるいは先租の観念

の1つの抽象化されたもの」

ということになろう

上帝と同様の祭紀が行われる租神の-ち「高租」と呼

ばれるのは愛

王亥の二人である

愛は変とも揮され王⑮

図経が

「暑」と塵韻であることなどを理由に帝尊と解して

以来これが定説となっているO帝聾は後の時代の文献に俸

える所では自らの文化的事業や武勇に関しては何も記さ

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

ずただ殿組契と周蔵后榎の共通の父祖であると云うだけ

であ-上帝的な存在であ

ったとするのが諸家の1致した

見解であるしかし殿代に於ては

「帝」と帝替即ち愛は区

別されている以上完全に同

一であ

ったとはいえず上帝

と人王をつなぐ役割を持つ始租神として奉られたものと思

われる前述の如-愛が抽象化したものが上帝であ-

逆に言えば上帝が人格神化したものが愛なのである

一方の王亥はどうであろうか山海経

大荒東経に

有困民国-王亥託干有易河伯僕牛有易殺王亥

取僕牛

困民国で-主

亥は有易園と河伯園に自ら飼い馴ら

した牛を預けた有易園の人は王亥を殺し牛を奪

この候の郭瑛注が引-古本竹書紀年には

殿王子亥賓干有易而淫蔦有易之君鯨臣殺而放之

是故殿主

(一作上)甲徴候師子河伯以伐有易滅之

途殺其君紹臣也

殿の王亥は有易園

へ客として赴いたが行ないが悪

- 17-

中国文学報

第四十六放

有易の君主摘臣が彼を殺してしまったそれで段

の上甲微が河伯図の軍を借-て有易を伐ちこれを滅

ぼし君主鋸臣を殺した

と記されているまた初学記撃

九引世本には

「骸が

牛を飼い馴らした」とあ-この膜も王亥であると考えら

れている少な-とも東周末期に於ては王亥が牧牛を行な

ったという俸説があったのであ-王亥を論ずる人の多-

はこれに注目し彼を殿の文化紳であると考えている

「高

租」と特別扱いされる租神の一人であることを考えれば

王亥が文化面で多大な功績を上げ原始状態から文明状態

へと殿氏族を更展させたことは十分に考えられる

もしそうであるならば前章でその存在を示唆した

「殿

の失われた文化紳」はまさにこの王亥ということになる

既に述べた如-詩経

商煩の段王朝開園神話に封しては

それと系統を異にする楚辞

天問という比較資料もあるの

であるから次にこちらの方を見てみることにしよう

fTD

天問は古来極めて錯簡の多い書と言われる

その中で

殿周開園に関する部分は比較的次第がまとまっている湯

以前の駿の先王が措かれるのは55-聖早であ-簡秋と尊

の通婿から始まっている

55簡秋在董卓何宜玄鳥致胎女何喜

筒状は高い槙童にいたが尋はどうして見そめたの

か燕が滑-物を持

ってきたのを筒状はどうして喜

んだのか

古来詩経

商頒

「玄鳥」と同じ-簡秋香卵の説話を云うも

のと解されるがこれも

「玄鳥」詩と同じ-この二句だ

けから呑卵の話を導き出すのは難しいしかしこの通解が

行なわれた高い

「董」は天地の間を繋ぐにふさわしい場所

であ-鳥が天から

「胎」を授けることなど天地通姫を

描-ことには襲わ-はない天問では上帝には

「帝」とい

う呼稀を使

ってお-ここでの

「魯」はー辞の

「愛」と同

じく上帝の人格化したものと思われる

この二句は不思議なことに簡秋と啓が誰を生んだのか全

く言わないテキストに脱落がなければ次の章の登場人

物を簡秋の子と考えるのが最も素直であろうところが次

に登場するのは

「玄王」でも

「契」でもない

18

56該乗季徳頗父是滅胡絡弊干有屈牧夫牛羊0

57干協時舞何以懐之平脅鼻膚何以肥之

58有屈牧豊云何而逢撃林先出其命何徒

壬亥はその父季の徳を縫いだが父は立涯な人であ

ったどうして王亥はとうとう有易園に落ちぶれそ

ゐ牛羊を養

っていたのかO

たて

あわ

いだ

協せて舞う女を見てど-してその女を

のか

平らかな脇腹に細やかな皮膚どうしてこの女

まじ

ったのか

王亥は有易園の牧童にどのようにして合

ったのか

寝込みを襲われて先に逃げ出したがどこから逃げ出

して助かったのか

56章の

「該」を王逸は

「竜也」と解しているが晴代に至

って王関連が人名ではないかと疑問を呈出L

t

王国経が卜

軒との対照によって王亥であると断じて以来この説が支配

的であるこの四句も前途の山海経や竹書紀年と共に王

亥が牧神であ

ったことを示すものとしてよ-引かれる57

章は難解であり注揮家ごとに説が異なると言

ってもよい

股周開園の神話と

「紳代史」(大野)

ほどであるが王亥の婚姻のことを云うとする需介甫氏

黒須重彦氏の説に徒う58章は王亥が殺されそうにな-な

がら辛-も逃れたことを云い前に引いた山海経などの所

侍と関係があるものと思われる

この三幸の記述から王亥の迫害と文化創造のモチーフを

見出すことはさほど困難なことではないし簡秋と孝によ

る殿租の神的な誕生も前章までに述べた例と同様に何ら

かの形で王亥に英雄的資質をもたらすものと考えられる

簡秋が生んだのが王亥であると断定できれば話は簡単なの

であるが56章には王亥の父としての

「季」が登場してお

り従

って天問に於ては簡狭

暑-季1王亥という系譜が

成立していたことになるしかし卜辞に見える

「季」は高

租でない租神の一人にすぎず

「高租王亥」が

「季」を父と

していたとは考え難いo

l鮭に卜解における租紳相互間の

父子関係は不明な部分が多-本来は寧ろ横

一列に並ぶ関

係であ

ってどれも

「租先」に襲わ-はないのであ-果

たした功績や役割の違いによってそれぞれに分化したもの

と考えた方がよい卜辞における

「季」の神威は他の租紳

19

中国文革報

第四十六桝

と襲わらないが

天問では尊と王亥との橋渡し的な性格に

襲わったのである

59恒乗季徳蔦得夫朴牛何徒費班緑不但遠来

王恒も李の徳を鰹ぎ王亥の養

った僕牛を得たど

あまね

はどこ

うして狩-に行

って獲物を

-

民に

ただ行

って

締るだけに止まらなかったのか

「恒」は王遠江では

「常也」と云うがこれも王国経が卜

辞に見える王恒のことであると解して以来諸家概ねこれ

に徒う「班稀」は近年の解帯では

「官位」「栄達」等に解

され

「王恒が有易図で出世しょうとした」意であるとす

るがす

っき-しない解輝であるー辞に見える王恒は

弓の形の中に

「恒」字を入れたものもあ-寧ろ

「湯は狩

-に往-際ただ行

って締るだけではな-民に編-施し

を輿えた」とする王逸注の方が原初的な意味に近いと思わ

れる但し主語は湯ではな-王恒である張光直氏は王恒

と罪に何らかの関係があるのではないかと考えるが

それ

よ-は駿人の狩猟柵であ

ったと考えた方が良いかも知れな

いただ王恒の事境を記した文献が他に存在せず容易に

結論を得難いのは残念なことである

60昏微遵述有狭不寧何繁鳥葦棟負子韓情

61絃弟遠軽危害顔見O何襲化以作許後嗣而逢長

上甲微は父王亥の事鏡を鮭ぎ有易園は安定を保て

ず滅びたどうして有易の人民は妹に止まる鳥のよう

に苦しんでいるのに上甲微はその子女にまで横暴な

ことをしたのか

目の陪んだ請弟はみな道ならぬことをしその兄上

甲微に危害を加えたのにどうしてうま-ごまかして

その子孫が長-祭えることになったのか

この二章も本づ-所がはっき-せず難解であるが「昏微」

はやは-王国経が上甲微のことであるとしてお-その事

蹟を云うものと考えられる上甲微は卜辞で系譜が明らか

な請王のうちで

一番古い租先に普た-いわば

「人王」の

租であるがここでは王亥と同様の迫害モチーフが再び現

⑳れその事鏡は既に神話化されていたものと見られる「何

襲化以作詐後嗣而逢長」の二句はそ-した神話であるが

故の不合理性を問うているのである

- 20-

62成湯東巡有等宴極何乞彼中臣而吉妃是得

63水漬之木得彼中子夫何悪之腰右筆之婦

64湯出重泉夫何皐尤不勝心伐帝夫誰使挑之

湯は東方

へ巡狩Lt有等園までやって来たど-し

てあの中臣伊声に乞い求めて良い妃を得たのか

水蓮の木から有等氏の君主は伊声を得たとい-が

どうして伊声を嫌

って湯の妃に付き添わせたのか

湯は重泉の牢獄から出て来たがそれは何の罪だっ

たのか正義を求める心を抑えられず実を伐

ったが

誰が彼をそうさせたのか

商頭における湯は夏架や尾吾氏を伐

った英雄として非常に

多-の紙幅を割いて賞揚されていたのであるが天間では

僅か三幸で終わ-しかもその年分は彼の名臣伊声のこと

に費され天下を平定した聖王にしてはかなり冷淡な描き

方である多-とも王亥や上甲微などと同等の重さしか持

っていないといえるしかしこの簡単な記述は神話的な趣

きに富んでいる伊声は呂氏春秋

本味簾で

「有佐氏の女

が空桑の中から嬰兄を得て

それを君主に献じ君主は

般周開乾の神話と

「紳代史」(大野)

料理人に彼を育てさせた」云々と書かれるような俸説をも

つがその原型とみられる記事が63章にあ-64章の

「湯

出重泉」も森安太郎氏が

「陽

(太陽神)が海の下を-ぐっ

て再び現れ出る様子」

と解したほどであるその虞偽は措

-としても

「重泉に囚われてから脱出」

というのがこれ

まで屡々登場してきた迫害1事業完成のモチーフであるこ

とは明白であ-この迫害こそ棄てられた后稜と同じ-英

雄を英雄たらしめる神話素の一つである殿人にとって湯

「人王」であったはずであるが楚人にとっての夏殿革

命は既に神話となっていた宋人にとっても同じであ

った

と思われるしかし東周時代の為政者の意識は最早神話を

古代人の如-

「心象における事資」として受け取ることを

許さなかった神話の神話たる所以である英雄の迫害も

政治家としての彼等にとっては

「不合理」以外の何もので

もな-統治強化の障碍でしかなかったであろうそれ故

その

「不合理」を宋人は頒詩から治し去-楚人は

「天に

問」うたのである東周の殿開園神話はその鮎で西周人

の神話と歴史が

一鰻になった

「神代史」であ

った詩経

21

中国文筆報

第四十六冊

雅の周王朝開園の物語とは成因がやや異な-神話そのも

のを改襲した

「神代史」であるといえよう

再び天間に戻ろうここで語られる殿王朝開園神話を綜

合すると腰租誕生1夏殿革命という流れは商頭でのそれ

とはぼ

一致するのであるが商頚では全-無税されている

王亥

王恒や上甲微の事浜を多-記している所が大いに異

なるこれらの先王は卜軒に於ても租神として柁られてお

-殊に愛

(餐)王亥は

「高租」と崇められていたのであ

るから天問における殿租誕生や牧牛創始の偉大な功績も

殿代からその根摸となるべき停東があったものと考えられ

る殿の未森たる被征服図

宋図で語られなかった文化神

が周の政治的願力が比較的少なかったであろ-楚園に於

て生き残

っていたのであ-「王亥を構える頒詩は政治的

要請によって胴去されたのではないか」という前章で捉

起した推測は更に確貴性を樹して-るのである

このように文化神を語る神話は政治的な事情によって

改襲されやすいという

一つの傾向が次第に明らかになって

きたのであるが天間に見える周王朝開園神話を詩経

雅のそれと比べてみるとその傾向は

一層はっき-する

これについては次章で検討することにしてその前に前

章で提起したもう

一つの問題即ち契と後に呼ばれるよう

になる殿紐の正鰻について卑見を示しておきたい

1般には詩経

商頒

「玄鳥」

「長顎」の鄭隻や楚鮮

天問の王逸注史記

殿本紀などから筒状が生んだ殿租

が契であるとされ詩経や楚軒の注揮家も特に疑問を抱い

ていないしかしこれまで見てきた詩経や天問には契の名

は全-見えていない国語を見ると周語下には

玄王勤商十有四世而興

玄王は商のために働き十四世かかって興起した

鄭語には商

契能和合五教以保干百姓者也

商契は五教をよ-調和させ人民を守-養

った人で

魯語上には

契為司徒而民韓-上甲微能帥契者也o

契は司徒の官となって人心を和らげ--上甲微は

22

たす

契をよ-

た人である

自玄王以及主薬莫若湯

文王から主薬

(湯の父)に至るまで湯よ-すぐれた

者はいない

とあるこれらを見ると契とい-名は周

楚以外の

園で用いられし

かも

「司徒として五教によって人心を安

定させた」という事鏡が語られている抽象的な形ではあ

るが文化面での功寮が取-上げられているのである

そうすると陳夢家氏の

「契と刻は互訓であ-共に亥

と普通である故に契は即ち王亥である」とする説が有力

な説として浮上して-るOこれまでの考察から王亥は殿

の高租にして文化所であ-従

って契というのは王亥の周

連諸国での呼び名であ-「五教」云々は王亥の文化神的

な面が周遠諸国に於て襲化したものと考えられるのである

もう

1万の

「司徒」という面に注目すると楊寛氏は

「司

徒」は

「司土」であるとして契は社紳

(土地紳)であった

と考えている「司徒」を

「司土」と表記するのは西周金文

に多-見られる用法であ-本来は土地や農業を司る官で

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

あったらしいまた史記

殿本紀には

「実は南を佐けて治

水に功があった」とあ-梁玉縄の疑う如き司馬遷の臆説

でな-古-からの停承に基づいているものであるならば

契に夏南の如き下士造成神的な面もあった可能性は捨てき

れない司土の官は農業にも関係が深いことから契は土

地神にして農神の性格をも持つことにな-このことは王

亥が牧牛の創始者であることと関係があるのかも知れない

なお尚書尭典には

帝日「乗努民阻飢o汝后榎播時百穀O」帝日

「契百姓不親五品不遜汝作司徒敬敷五教在寛」

もろもろ

舜は言った「棄よ

民は飢え苦しんでいる

汝は后頑の官とな-

この百穀を播け」と舜は言

った「契よ人民は互いに仲良-せず父子

君臣

夫婦

長幼

朋友の序に従わない汝は司徒の官とな

つつし

-五教を敬んで廉め心を寛-して治めよ」と

とあ-同じ-尚書の周官には

司徒掌邦教敷五典擾兆民

司徒は閲の教化を掌-五教を廉め多-の民を順

23

中国文畢報

第四十六肋

わせる

とあ

って司徒が教化の官であるかの如-書かれているが

これは后積が農官とされたために契は

「五教を康めた」面

のみが取-上げられそれが司徒の官名に結びついてかか

る誤解を生んだものであ-司徒の本来の意味ではないと

考えられる

周やその支配下にあった宋園では殿租に玄王という名

が使われてお-玄鳥による神的な誕生と商の興起のた

めに轟-したとい-事暁が語られる

魯園では

「契」

「玄

王」両方が見えるがー契と言う場合は文化的な功績が描か

れ玄王と言う場合は始租としての面に注目されている

恐ら-

「玄王」とは契=

王亥の始租としての面が強調され

た時の呼稀であ

ったと思われる文化人類学的にも「玄」

という名は始源の闇や滞沌を連想させるものであ-例え

ば老子

六章の

玄牝門天地板

玄牝の門(女陰)は天地寓物の根源である

の如-である

宋園や周では殿租の文化神的な面が抹殺さ

れたために始租神としての

「玄王」の呼稀が定着し魯

鄭などの周連列国では儒教的に襲化した文化神として

「契」と呼ばれ楚国では殿代の呼稀

「王亥」が原形に近

い形で保存されて

「該」と呼ばれたのであろう

四楚鮮

天問の周王朝開園神話

まず天問における殿周開園神話の大筋の流れを圏示する

と附固

一のようになる我々の常識で考えるならば夏殿

革命の次に殿のその後の衰亡を歌いそれから周王朝

へと

移る構成をとるのが普通であるが天問では夏殿革命から

いきな-周の衰亡

へと飛びそこから殿の衰亡

へと戻る間

くりかえ

「天命は

」というテーゼを挟み込んでいるこの

ような操作によってどの王朝も同じように興亡を繰-近

すというテーゼが

7層際立つのであ-

T見乱雑に見える

排列が安は高度なレトリックを用いた結果であるという

ことがわかる

次に殿周の開園が歌われている各章を時間順に並べ

かえて相互に封比してみると附圏二のようになるこの固

24

殻周開園の耐話と

「神代史」(大野)

附圃- (丸内の数字は葦の通し番競)

舜と女梱 ⑱~

「験萌在初」

1

度の先王 ~

t

夏殿革命 ~

周の先王

l

殿周革命 ⑮~cent)

iiiiia段の衰亡 ~ 周の興亡

一- 一 ノ ー「天命反側」

附圏二

段 簡秋と唇の通婚

王亥 有易で牛羊を牧す

王亥の婚姻

王亥 殺されかける

王位 王亥の牛を得る

上甲微 父の遺業を鮭ぐ

肢弟が上甲微を迫害

一寸 どうして子孫が栄えたのか」

~ 楚の興亡

周 ⑯ 后硬 氷上に捨てられる

上帝をも驚かす武勇

-「どうして子孫が栄えたのか」

成湯 伊声を得る

伊デの生い立ち

湯 壷泉から出て案を伐つ

- 25-

⑳ 文王 天命 もて段を覆す

岐山に移る殿の惑婦

文王 村の無道を天に告げる

文王 太公望を得る

武王 急いで殿を伐つ

武王の朝合

周公 武王をよしとせず

武玉 村を伐つ

中隊文革報

第四十六筋

一見して知ることができるのは周の先王には僅か二章

しか使わず殿周革命に九章も費やしてお-殿王朝の方

が租神に多-の章を割いて夏殿革命には三章しか使わな

いのと対照的であるということである

周王朝開園を云う章をもう少し詳し-見てい-と

76積維元子帝何竺之投之干水上鳥何燐之

77何漏弓挟矢殊能渚之既驚帝切激何逢長之

后稜は上帝の長子であるのに上帝はどうして彼に

危害を加えたのか彼を氷の上に捨てると鳥はどう

してこれを暖めたのか

どうして弓をひきしぼ-矢を挟みすぐれた才能で

武婿となったのか上帝をも驚かすほどひどいことを

したのにどうしてその子孫は長-栄えたのかQ

后積が上帝の子であるのに迫害され鳥によって助けられ

たというのは詩経

大雅

「生民」と同様であるが周租后

礎の両的資質を云-のみであ

って農業費明には全-解れ

られていない77章は王逸注では前二句を后稜後二句を

武王の事績とするが洪興租補注は全部を武王の事績とし

朱子はその両方を疑問であるとす

78章以下では文王の

ことを云う章が績いてお-この章を武王の事虞とする課

には従えない聞

多や衰珂

氏は全部を后頑の事鏡とする

が必ずしも后榎に限定することはできない少な-とも

古公以前の

「神代」の先王のうちの誰かであることは確か

であろう後二句の

「上帝をも驚かすようなことをしなが

らどうして子孫が栄えたのか」という疑問が殿の租神と

「人王」の境目である上甲微を語る61章の後二句と似るか

らである周の先王を歌うのはこの二幸で終わ-であ-

そこでは先王たちの文化的功績は全-歌われておらず殿

の先王に比べて極めて冷淡な扱いである

78章以下は殿周革命にまつわる様々の問が寛せられるが

詩経

大雅に見えておらずまた考古学的な裏付けもない

俸説的な事件もい-つか見えているとはいえ神話的な奇

怪さには乏しいといえる0

79遷蔵就岐何能依O殻有感婦何所説

貴職していた重器を移して岐山にやって充たがどう

して人民がそれに従

ったのか殿には人を舷惑させる

26

女がいたというが何のために議話しょうとしたのか

前句についてはこれを文王に懸ける説

大王に懸ける課

あるが前後で文王のことを歌

っているので大王の事蹟と

するのには難があるとはいえその内容は詩経

大雅

「崩」

に云う古公宜父の事鏡に近-どちらに限定することもで

きない「大王から文王までの問」とする他ないであろ-

後二句は肘の妃である坦己を云うとされるがその何につ

いて問うているのかは明らかではないしかし両者とも

その

「答」となるべき俸説がこの時代に前後して現れてお

-前者については

1章で引いた孟子

染着王下後者に

ついては太平御覧奄

1三五引世本に

「村が有蘇氏を伐

った

時有蘇氏は坦己を妃にさし出した肘はこれを愛して言

うことを何でも聞いたために武王が肘もろとも殺した

云うのがこれに普たる

66到峯村窮叔旦不嘉O何親撰車足周之命以各嵯

肘の首をはねるに至-周公且はこれをよしとしな

かったどうして周自ら謀

って殿を討とうとしたのに

その行動は人民に支持されたのか

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

後二句は極めて難解であるがいま黒須重彦氏の解樺に従

う他の諸家にはテキストの文字操作で意味を通らせよ-

とする者も多い前二句を王逸は

「武王の舟に白魚が飛び

込んだので群臣が

『吉兆だ』と言ったのに封Lt周公が

『吉兆ではあるが吉兆と思

ってはならぬ』と戒めたことを

云う

と解しているがこれは史記

周本紀の記事を敦術

したものであって漢初の五行思想の産物である寧ろ所

謂伯夷

叔奔停説の前駆形と考えた方がよい

ここに引いた事件が果たして史寛であ

ったのか西周時

代に生まれた俸説か或いは東周以後の俸説であるのかは

容易に判断できないしかしいずれにしても西周人の

「神

代史」からは無税されていた事件が本来の形ではないに

しても再び記録される動きをここに見ることができるので

あ-結語で述べる

「神代史の再神話化」の萌芽であると

いえるO

このような新しい動きはあるものの天問の周開園神話

も始祖の神的誕生1英雄的事業の達成という基本的な構造

には全-襲わ-はないしかし全鰻を通じて諸王の文化的

27

中閲文革報

第四十六筋

功績には全-解れられていないばか-か周の先王=

租秤

に封しても極めて冷淡であ-殿に封する態度とは明らか

に異な

っているのである

このことは昔時の楚園が周文化よ-も殿文化の方により

親しみその信仰

習俗等を保持していたことの一つの讃

接であろう楚文化と殻文化の関係の深さは既に様々な面

から指摘されてお-例えば楚辞

九歌に見える「雲中君」

「河伯」の神がト辞にも

「雲」「河」神として見えているこ

とや西周末期のものと見られる楚の青銅鐘は殿の鍔と形

が似てお-その銘文も殿金文に似た雄滞な書鰻であるこ

とな

どが挙げられるこのよ-な現象が生じた過程として

は(一)歴代から楚は殿に臣屈してその文化を受け入れ

周の時代になっても表向きは周に臣属しながらも殿の文化

を保持し績けた(二)周代以後に国力を埼大した楚園は

への対抗上その文化を拒み隣接する宋園の殿文化を積

極的に導入したという二つの説が考えられる前者の立

場を取る者はその根接として詩経

商頒

「殿武」の

撞彼殿武奮伐剰楚突入其阻衷利之放有戟其

所湯孫之緒(一章)

敏疾なる武丁は奮起して剤楚を伐ち険しい山地

に攻め入って刑楚の兵士を虜にしその地を平げ

湯王の子孫として手柄を立てた

という部分を畢げることが多い

前述の如-商頭目鰻が

宋園の楚国

への対抗心から作られたものであ-我が国の

紳功皇后遠征説話と同じ-どこまで史寛を反映している

かは未知数であるしかも卜辞などの殿代の地下資料から

は昔時の殿楚関係を示すものはまだ見つかっていない

一方後者については史記

楚世家に周の夷王の時に

楚王熊粟が

「我は牽夷な-中国の詮親に興らず」と言っ

たという記事もあ-現時鮎ではこちらの説の方が有力で

あると思われるいずれにしても周とは言語や風土を異

にする楚閲で生まれた天問には意固したか否かはともか

-周文化の重税と殿文化

への傾斜が讃み取れるのであ-

周王朝側の論理で殿の文化碑の功績を壷-抹殺された詩経

商頭や周の文化神を構える詩経

大雅とは好封照を見

せているのである

28

結語及び除論

これまで述べ来

ったことを要約すると詩経や楚辞

問に見える殿周開園神話は始租の所的誕生1迫害1事業

(文化創造

天下統

一)の完遂という構造を持ち既に西洋

の英雄神話に於て指摘されている基本構造をここにも見出

すことができるただ西洋では

一人で行なわれることが多

い英雄としての事業が中国では教代に亙

って行なわれる

ことが多いという違いはあるところが殿の開園と周の

開園また詩経と天問の相互間で詳し-比較してみると

神々の文化的功績は神話が記録された常時の政治的な事情

によって抹殺されることがあるという事資に束づ-この

ことは中国に於ては剣を振るって活躍する英雄よ-も

文化を創始する

「聖王」の方が重きをなしてお-氏族や

国の威光を左右するものであ

ったということの一つの謹左

といえよう

詩経

大雅における周王朝開園神話は高租にして文化

神である后稜-公劉を神話的要素に富む叙事詩によって語

段周開園の紳話と

「神代史」(大野)

っているが

「人王」の代に至ると

殊に王李に新著に見

られる如-諸王にとってマイナスイメージを輿えかねな

い史寛は壷-制去され武力革命の成功を

「神代」から引

き継がれた輝かしい事業として稀讃している周王朝の開

園神話とそれに績-殿周革命の史糞は詩が記録されるま

での間に

「神代史」

へ改愛されたのであるそこに支配強

化のための王室神聖化という高度な政治的意圏が働いてい

るのは確資であろう

段の遺民の園である春秋の宋園における段王朝開園神話

詩経

商項の諸篇は最終的には周王朝側の人々によって

記録

編輯されたものであ-それ故殿人の信仰した文化

紳は義-抹殺され支配者としての周王朝の論理に基づ-

「神代史」に改変されているOそれに封して楚辞

天問の

殻王朝開園神話には卜辞にも見える租紳たちの神話的雰囲

気に富む物語が多-残

ってお-逆に天問の周王朝開園神

話では周の先王の文化的功績を無税していて宋国との政

治的

風土的立場の違いを明瞭に浮かび上がらせているの

である

- 29-

中国文学報

第四十六筋

か-の如-

神話時代やそれに績-歴史が為政者の手に

よって

「神話化」される場合は中開の諸秤の中で重い比

重を占める文化神が記録者の政治的立場に従

って改奨され

「人王」に封しては

「都合の悪い」史貴を切-捨てて

「神

代史」

へと仕立てられるのであるが東周時代になるとそ

れとは逆に「人王」にも神話素の一つとして解揮可能な俸

説が様々な書物に記録されるようになる既に引用した文

王の安里幽閉

伯夷

叔斉の餓死などがそれであ-

「人

王」の物語もこれによって組両と同様の典型的神話

へ近づ

いてい-のであるこれらが記録されたのは諸子百家の書

物であ-昔時の遊説家たちが民間に流布していた停説を

敬-上げて自説を述べるために用いたものと考えられる

これらの停説が古い形をそのまま保

っているか否かは全-

保護がないとはいえ政治力撃の働きに-いレベルに於て

「神代史」に再び神話的物語が付け加えられるようにな

たということはいえるいわば

「神代史の再神話化」であ

-

1般に

「中国古代王朝神話」として

1つの物語にまと

められているのはこうして

「再神話化」された結果の産物

なのであるこれらは確かに

「神話」としての要素を豊富

に含んでいるのであるがこれを中国古代神話の原型と見

なすことは不可能であ-上述の如-複雑な要因が絡み合

っているのである

こうして

「神代史」はたとえ元の形とは異なるにせよ

再び

「神話」としての光彩を放ち始めたところがこの

「神話」をまたも

「歴史」に固定してしまったのが他なら

ぬ史蓬であることは周知の通-である

しかし

「神代史の再神話化」の原動力とな

った

民間

に語-経がれた王朝停説のエネルギーもこれで絡恨したわ

けではなかったこうしたエネルギーはその後も小説に記

録された種々の歴史俸説などを生み出し形を襲えて生き

績けたのである

ところでこれまで本文中に取-上げなかった

一つの重

要な問題があるそれは

「楚園に古-から停わる楚人自身

の神々はど-な

っていたのか」という問題である

楚辞

天問にはその末尾に楚図の俸説と思われるものが

記されてはいるが多-の注帯家が匙を投げているはど難

30

解であ-筆者も今敢えてこれに挑戦するほどの飴裕はな

いoしかし離騒ではその冒頭で「私は帝高陽の未森である」

と歌

ってお-少な-とも屈原の時代では楚人は穎頭高陽

氏を租神としていたと考えられているが文化神に関する

記述は見えない

一方同じ頃に楚園で成立したと考えら

れている山海経

大荒西経には街頭の子孫の神々の事業

が豊富に記されている例えば重

寮の天地分離

太子長

琴の音禁孝明などである

これらの事章から得られる

一つの推測をここで述べると

楚辞に於ては楚人自らの文化両を表立

って取-上げられな

い事情があ

ったものと思われる楚語で書かれた「原楚鮮」

には書かれていたがそれを漢語に翻弄した際に宋図か

ら導入した殿の文化神に置き換えたのかも知れないそし

て自らの文化紳とその物語を速い

「大荒」の物語として

カムフラージ

ュしたのが他ならぬ山海経なのではなかろ-

かこの書が地理書の形をとっていることや他書に見ら

れない神話停説を豊富に載せていることなどは丁度我が

国の

『出雲園風土記』を思わせるものがあるまた殿の

殿周開国の神話と「神代史」(大野)

文化紳王亥が

「困民国」の人とな

っていた-楚の租神で

あるはずの蘭頂が

「額頭囲」なる図にいたとされているこ

となどもこの仮説の根嬢となろう

しかし最早紙幅も轟きているこの問題は山海経を中心

として改めて考察することにしたい

ば織井慶紀著池田末利編

『中図神話の文化人類学的

研究』(1九九〇平河出版社)があるoまたユング心理学の

立場から日本神話を分析したものとして河合隼雄

『中空構

造日本の深層』(一九八二中央公論社)等がある

近世以前の諸席の議論は専らこの怪異雫が信ずるに足るか

否かの次元に終始するが近代的な研究としては聞一多

「萎

娠履大人跡考」(『聞一多全集』第一射一九四八開明書店)

白鳥清

「段周感生神話の解揮」(『東洋学報』十五巷四親tT

九二五東洋協合学術調査部)出石誠彦

「上代支部の異常

出生説話について」(『支那神話俸説の研究』所収tl九四三

中央公論社)等がある

「帝上帝也」

「帝高華氏之帝也従於帝而見干天婿事賛敏也」

孔疏に

「頑柁郊礁之時英夫高辛氏帝率興供行妻娠随帝之

後践履帝迩行事敬而敏疾放鳥神歌饗紳既饗其条則

31

中国文筆報

第四十六筋

愛而拓之

於是為天神所美大為福緑所依止twz=得懐任則

震動而有身」と云う

例えば嗣西族の

『東巴控』に見える縛文字にこのことが窺

える附固三参照また河南省に俸わるロ東俸説によると

女桐が天から降ってきて伏義が地下から出てきたと云う

(陶陽

鍾秀

『中国創世神話』一九八九上海人民出版社二

一四頁)

附圏三

primeJ 一一一

~PJ虹互L

LJL

堅 室④

上部の 一へ は天下部の 皿 は大地を

表す圃①は中間に天地交合の気がありこれ

より荷物が生ずる固②の中間は蛙で天地交

合後の襲化を表す圃⑨では天地の間に男が上

女が下になっており男女の交合と同様にして

天地が人類を生んだことを表す

(陶陽 鍾秀 『中国創世神話』214頁)

「惟虞東学詩云人之初生皆裂胎而出騒失所依故堕地

郎帝惟羊連胞而下共産猪易故詩以

『如達』馬比o又常

熟陶太常元淳日凡嬰兄在母腹中皆有皮以豪之俗所謂胞

衣也生時其衣先破兄鰻手足少蔚放生之難O惟羊子之生

胸仇完具堕地而後母篤破之故共生易o后硬生時蓋戒於胸

中形鮭末露有如羊子之生者放言

『加速』今按前二説

是也下言

『不味不副』蓋謂其胞衣之不折裂也」(『毛詩俸

集通帯』巷二十五)

「徐君宮人娠而生卵以箆不詳秀之水演O猪孤母有犬名

鵠蒼へ猟干水溝へ得所弄卵衝以東蹄猪孤母以馬具凍俊

之逐沸成見生時正値へ故以為名徐君宮中聞之乃更録

取長而仁智襲君徐固」(博物志

異聞篇引徐値王志)

「高句凝着其先出自克明東明本北夷嚢離王子離王出

行其侍兄於後任娠離王達欲殺之侍見目『前見天上

有菊如大鶏子乗降我困以有嫉』王囚之後連生男玉

置之家牢家以口束嘘束不死o王以為所乃聴収養」(梁

諸夷俸)

北欧や古代

ハンガリー等に見られる豊富な例がKケレ-

ニイtCGユング

『神話撃入門』

一九五1(杉浦忠夫訳

1九七五晶文社)に引かれている

例えば壮族に俸わる

「種子と犬の尾」の物語では人々

「九尾狗」に天上の穀物を盗みに行かせたところ穀物を

九本の尾に-つつけて蹄ろ-としたところを番人に見つか-

八本の尾を叩き切られたが残-

1本の尾に穀物をつけて逃げ

師-人間は農業ができるようになったと云う

(陶陽

秀前掲書二七九頁)

32

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 9: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

中国文学報

第四十六桝

古公の子である季歴は「大明

「皇臭

詩に

「王季」の

名で見えるしかし大任を撃

って文王を生んだことを構え

るのみで自らの聖天子たるにふさわしい事鏡は何も語ら

れていない大雅の開園叙事詩で名が出ていながら英雄的

な事虞が語られないのはこの王季だけで後世の文献例

えは史記

周本紀でも

「徳行を情めた

と云うのみであ-

考えてみれば誠に奇妙なことであるしかしこの間題に封

する答えは後に明らかにされるはずであるから今は王李

の子である文王とその子武王の方

へ進むことにしよう

殿周革命の主役として誰もが知っている文王と武王は

「文王」「大明」「皇央」「文王有壁」でその事蹟が歌われ

ている文

王在上於昭干天周維奮邦其命維新有周不

蘇帝命不時文王捗降在帝左右o(1章)

穆穆文王於緯無数止候哉天命有商孫子商之

孫子其覧不億上帝既命侯

干周服(四章)

いま

文王は天に坐しああ天に輝かし-坐す周は古

い園であるが天命が新たに下された周は大いに輝

かしく上帝の命も時宜にかない文王は天地を上下

して上帝の左右に坐す(一章)

つつし

慎み深い文王はああ敬むこと績いてやまぬ偉

たも

大なるかな天命は商の子孫を有たせた商の子孫は

かず麗は十寓に止まらないが上帝の命は下-彼等を周

に蹄順させた(四章)

「文王」全七草のうち二章内容的には叙事詩というより

頒詩に近く

后稜の神的誕生のような神話臭はないがこ

こでの文王は天地を上下して上帝に仕えることのできる存

在であ-神格化されているといえるしかし文王がもと

もと神であったとい-のではなく

古公と同様に

「神代」

から引き継いだ英雄的資質によって天命を得て殿の民を

支配するという事業を行ない「人王」から「紳」へ昇格し

たものと考えるべきであろう

作乏尿之其蕃其繋情之平之其濯其例啓之静

之其樫其梓撰之刻之其腰其柘帝遷明徳串夷

載路天立欧配受命既固(二章)

帝謂文王無然畔接無然款羨誕先登干岸密人

不恭敢距大邦侵院狙共王赫期怒宴整其旗以

按狙放以篤子周砧以封干天下(五章)

普作

って除-のは立ち枯れや倒木切-整えて平ら

げるのは

濯木や並木

切-開き押しのけるのは

かわらやなぎ

へぴのき

やまぐわ

はりぐわ

って例-取るのは

上帝

は明徳ある王に味方Lt串夷は道にあふれんばか-に

逃げ出した天は文王の配偶大姐を立て固-命を授

け給うた(二章)

そむ

上帝は文王にか-のたもうた「人心を

せては

ならぬo気ままにさせてはならぬ」とOそこで高所に

登って観察すれば密園の人は従わず敢えて大国に

逆らい陳園を侵し共園

へ進軍しているO王は激し-

怒-

ここに軍旗を整え密図の行軍を阻み周の

さいわい

埼Lt天下に戒を示そうとした(五章)

「皇臭」全八草のうちの二章二章では公劉や古公と同様

の板接地造営を歌うが「天命」を受けるや否や五章に

云う如-密国を征討しょうとする

有命日天命此文王千周干京績女維草長子維

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

行篤生武王o保右命爾嬰伐大南(六章)

殿商之放其禽如林矢干牧野維予侯興上帝臨

女無武爾心(七草)

牧野洋洋檀革塩塩駆厨彰影O維師伺父時維鷹

揚掠彼武王韓伐大商脅朝清明(八草)

天よ-命は下-我が文王に命は下った周の都で

後を鮭ぐ妃は宰園の女この長女がやって来て天は

武王を生ませ給い守-助けて命じ給うた

「大南を

討伐せよ」と(六章)

殿の大軍は林の如-集まった武王は周軍に牧野

ちか

で失

った

「ここに我々は興起する上帝もお前達を

見ておられるぞ戒心を抱いてはならぬ」と(七草)

牧野は贋々として戦車は輝き烏は勇み立つ太

公望呂筒は鷹の如-猛-立つ輝かしい武王は大

商を存分に伐ち取-合戦の朝は晴れ渡った(八草)

「大明」の終わ-の三章牧野での殿との合戦が活寓され

るが武王のこの功績もやは-文王から受け縫いだ「天命」

あってのものである

9

中国文革報

第四十六

文王受命

有此武功既伐干崇作邑干豊o文王桑

哉文

王は天命を受けこの武功を立てた崇園を征討

すると豊に都邑を造営したすぼらしい文王よ

「文王有壁」の第二章密園征討と並んで文王の主要な武

功とされる崇園征討を歌うものであるがこれも

「天命」

によって行なわれたものとされている

詩経

大雅の落第から直接知ることのできる周王朝開園

の物語は以上の通-であるこれを后稜から文武までひと

績きに眺めてみると始租にふさわしい神的な誕生から始

まって迫害を受けた末に諸文化の開拓更には武力によ

る天下平定とい-英雄的事業を完成させるのであ-これ

は丁度Eノイマンらによって指摘されている英雄神話の

典型的なパターンとも合致する后積-公劉-古公-文王

-武王の五王が全鮭として恰も

1人の英雄の如き振舞いを

見せているわけである

しかし仔細に見るとこの五王の中で后稜-公劉古公

文王-武王の三者には微妙な違いがある后穆-公劉の物

語は神話的な雰囲気が濃厚であるのに対し文王-武王に

関しては

「紳懸-」的な奇蹟は全-見られず武力行使に

及んだ根嬢としての

「天命」ばか-が強調されているそ

してこの両者の中間的な存在として古公がいるのである

いわば古公を境にそれよ-前が

「神代」であ-それよ-

後は

「人の代」として描かれているといえる

か-見ると古公以後の物語は開園の

「歴史」であ

って

「神話」として扱うにはふさわし-ないという人もいる

かも知れないそれにもかかわらず筆者は古公から武王に

至る物語は

「歴史」として作られたものではな-歴史が

神話の一部として改襲された

「神代史」

であると考える

なぜなら考古学的に知られる殿周革命前後の歴史には詩経

と大き-ずれる部分があるからである

后積や公劉は周原卜軒や金文には全-見えず神話上の

人物であることを疑う者はいない古公賓父については

文王の租父たる大王と同

一人物と考えることに疑問を向け

る説があ-例えば顧訴剛は古公は周王朝創建時の王で

あ-大王は周の国力が強盛になった時の王であると考え

10

⑬たOしかし

「轟」詩のところで述べたことを考えれば古

公を周王朝の租とする課には従い難い現在鹿-支持され

ている説では殿が常時山西省に居た鬼方を討

った結果

彼等が西方に移動して周を歴迫したため周は幽から岐山

に移ることを飴儀な-されたと言う

具鰻的な国名などに

はなお問題があるとはいえ周が異民族の歴迫で岐山に移

ったという事寛があ-それが

「崩」詩にも反映されてい

るのは確かであろう時代が下がると孟子

梁意三下に云

う如-

「古公が徳を守

って岐山

へ逃げ人民も彼を慕って

共に移動した」という儒家道徳による合理的解帯が行われ

るようになるのは周知の通-である

王李は前述の如-詩経ではその事蹟が全-記されない

ところが古本竹書紀年には

殿の武乙三十五年王李が西落鬼戒を伐ち二十雀

王を捕虜にした(後漢書西完博引

)

殿の文丁が季歴を殺した(青書束管俸史通疑古

社説上引)

といった記事が見え文丁期の卜辞にも周を伐つことの可

段周開園の神話と

「神代史」(大野)

否をーつたものがあるOしかもその7万で同じ古本竹書

紀年に

殿の武乙三十四年周の王李が来朝し武乙は土地

三十里玉馬を賜興した(太平御覧巷八三引

)

とあ

ってこの時期の卜辞にも周を

「周侯」と呼んでいる

ものがあ-周は段の侯国として厚遇されていた面もある

のである「大明」詩での王李は殿と関係の深い拳闘から

大任を迎えてお-史寛とすれば政略結婚である王李の

頃の周は殿と虚々賓々の駆け引きが績-緊迫した関係にあ

ったのである

王李のこうした

「行状」は竹書紀年に記事が残されて

いる以上常時の史官によって記録されていたはずである

にもかかわらず詩経ではそれらが殆ど無税されていると

すれば大雅の諸篇が作られた時から記録されて現在の形に

なるまでのいずれかの段階で意固的に例除されたと考える

のが愛常であるどの段階で刷られたかを決定するのは言

うまでもな-非常に困難であ-例えば

「解」詩で七草ま

で古公の根接地造営の話が績-のに八草でいきな-

「韓

ll

中国文革報

第四十六射

不珍膜性」と文王の代に飛ぶのはあま-にも唐突であるこ

とから七草と八草の間に王李が殺害されたことを歌う章

があ

ったと推定することもできるが残念ながら確認する

すべはないしかしいずれにしても我々が常識的に考え

れば王李が殿に殺された事寛を語ることによって王季1

文王-武王を悲劇の英雄に仕立てられ殿周革命の物語に

一層の彩-を添えられるはずであるのにそれらが轟-酬

去されているのである

文王と武王に関しては詩経に見える密

崇征討等は周

原卜辞等に照らしても史貴であ

ったらしいしかし後世の

文献に見える

「村が文王を安里に幽閉したが文王の部

下が賄賂を使

って救出した

とか

「伯夷と叔斉が武王の武

力革命を悲しんで首陽山で餓死した

とかいった物語は詩

経はもとよ-古本竹書や地下資料にも全-見えていない

之を要するに古公以下の

「人王」についてはマイ

スイメージを興えかねない物語は

一切語られていないので

あ-そこには諸王の威光を高めようとする政治的要請が

ったと考えられる后積や公劉は

「神代」の高租神であ

るから神話的要素に富む怪異な物語をそのまま停えても

不都合はないしかし古公以下は所詮

「人王」であるから

紳懸-的な奇蹟を附合すれば虞寛味が乏し-なるしその

一方では

「神代」から績-聖王の血統を誇示する必要があ

る勢い

「都合の悪い」史宜を無税して「輝かしい事業」

のみを賞揚する方向

へ向かうことになろうその敏寄せを

まともに食らったのが他ならぬ王李であ-殿に朝貢した

-殺された-した史資をそのまま記せば

「王統」の威光

を傷つけるのは明らかであるから大任と共に聖天子文王

を生んだいわば橋渡し役としてのみ名を留めることにな

ったのであるこのような

「歴史の神話化」の結果詩経

大雅の叙事詩語笛は周王朝開園の

「神代史」として西周

貴族の問に俸えられていったのである

二詩経

商頚の殿王朝開園神話

詩経

商頭の詩篇は鄭玄の商頭語で

「末の戴公の時に

大夫正考父が十二篤を得たが孔子が詩を編纂するまでに

七篤を失

った」

と停えられ今日に至るまで定説となって

12

いる現存する五篤の中には玄王

相土

湯及び中興の

武丁の名が見えている

殿の始租誕生を歌う詩として古来よ-引かれるのは

「玄

鳥」の冒頭の二句である

天命玄鳥降而生商

天は燕に命じ下士

へ降らせて商租を生ませた

鄭集がこの二句を

「天が燕を下士

へ降らせたというのは

その燕が残した卵を有城氏の女簡秋が呑んで殿租契を生ん

だからである」

と解して以来これが定説となっているし

かし森三樹三郎氏が既に指摘しているようにこの二句だ

けを見ている限-

「燕の卵を呑んだ」という事寛は直ちに

導き出せないのであ-この説話が商頚が作られた春秋時

代の始租神話そのままであるかどうかは頗る疑わしいし

かし玄鳥なる鳥が天と下士の間を往来して南畝を生ませた

ことはこの詩からも讃み取れるのであ-少な-とも春秋

の来園では殿租が天地通婿で生まれたとぎれていたと言う

ことはできよう

「長襲」にはやは-殿租とされる玄王とその孫とされ

段周開園の紳話と

「紳代史」(大野)

る相土が登場する

溶哲維商長顎其群洪水

巴だ高教下土方外大

国是瞳幅限既長有域方渚

帝立子生商(1章)

玄王桓掩受小国是達受大国是達率履不越途

観能登相土烈烈海外有載(二章)

きぎし

明徳なる商王その

現れて久しい洪水が贋が

った時南は下士の四方に功を敷き外の大国とを区

切-中国の虞さは遠大になったO有城氏もその時勢

力を埼し上帝は有城の子を立てて南国を作られた

(一章)

玄王は武徳があ-小国に封ぜられてもよ-治め

大国に封ぜられてもよ-治め薩に従

って越度な-

しめ

教法を現して行なわせた相土は武威輝かし-海外

の諸国を平定した(二幸)

この詩の

「玄王」は毛俸

鄭隻の如-殿租契のことで

「玄鳥」詩の商租と同

一であると解するのが普通であるが

白虎通

文質

(l名瑞賓)篤は玄王を湯と解してお-漢書⑳

鰻柴志は契(高)と玄王は別人で共に段租であると解する

13

中国文筆報

第四十六筋

相土は周鰻

校人注引世本で

「初めて乗馬を作

った」

と云

いこの詩で武勇の王として描かれていることと関連があ

るものと思われるしかし玄王

相土共に具鰹的に如何な

る事鏡があるのかはあま-括かれず神話としての考察を

かな-難しいものとしている

相土から十

1代後の子孫とされ夏案を伐

って殿王朝を

隆盛

へ導いたと俸えられる湯は同じ「長顎」に見えている

帝命不達至於湯秀湯降不遅聖数日頗o昭倣遅

遅上帝是砥帝命式千九園(三牽)

武王載端有虞乗鉄如火烈烈ー則莫我敢局萄有

三幸莫逐莫達七九有有載葦顧既伐昆吾夏架o

(六章)

上帝の命は誤-な-湯に至って天命と合合した

湯の生まれること期に麿じ聖徳は日々に高まった

天にも明らかに至る徳は久し-止まず上帝も愛敬し

て九州に法を示させた(三章)

武王湯は旗印を立て固-銭を撞-火の如-勢い

とど

もと

盛んなれば誰も敢えて長めることはできない竜株

ひこば

に三つの

生ずるといっても生長しきることは

ないO湯は九州を平らげ垂の葦図

顧閲と昆吾氏

竃の夏架を伐

った(六章)

湯が

「天命」を得た後に諸国を征討して九州を統

一したと

いう内容であ-大雅における文王や武王と同じ-始租

の神的資質を引き継いで天下統

一の事業を完成させるので

ある

これらを全鰻的に眺めてみると商租の神的誕生1

相土

湯の天下平定という流れは大雅における周王朝開園の物

語と同様のパターンであ-また請王を武徳の王と稀える

のに終始して請王にとってマイナスイメージを興えるよ

うな話が記されないのも大雅の文王や武王と同様である

商頭の諸篇が大雅以上に尖鋭な政治的意圏を以って作られ

たことは白川静氏も

「末に興

った膨折たる国家意識を背

景としてその抗争老たる刑楚に封する敵封感情の昂揚

を目的とし」たと指摘する通-であ-諸王の武勇ばか-

をことさら強調するのも肯けることであるところがも

しか-の如-商頭諸第が宋人の

「神代史」であるとすると

14

殿の諸王の文化的功績が殆ど歌われていないのは何とも不

思議な事賓である常時

「南賛歌舌」

の園であったはずの

楚と争うのに自らの文化的先進性とその由来を誇示しな

いということが果たして考えられるであろうか

結局宋人の殿開園神話を西周人の周開園神話と比べた

時の問題鮎は(一)後に

「契」と呼ばれるようになる殿租

の正睦(二)両者とも同様の構造を持ちながら殿開園の英

雄たちに文化的功唐が見られない理由tの二鮎にまとめら

れるo前者については戦国時代の楚国における殿開園神

話を記す楚辞

天問や殿嘘卜辞に見える殿の高組神など

にこの問題を解-鍵があろうと思われる後者については

まず宋園と同じ春秋列国である魯園で作られた詩経

魯頚

を参照するとある程度の推測が得られる

問官有他賓資枚枚赫赫妻嫁其徳不回上帝是

依無災無害禰月不遅是生后頑隆之百福蚕種

重移穂塀寂穿奄有下図倖民稼橋有稜有黍有

侶有拒奄有下士績南之緒o(1章)

后稜之孫資維大王o居岐之陽賓始易商至干文

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

武濃大王之緒致天之眉千枚之野無武無虞上

帝臨女敦商之族克威厳功王日叔父建爾元子

伴侯干魯大啓爾字鳥周室輔O(二章)

奥深-清い宗廟は堅固で美しい輝かしい妻糠は

その徳も貞正であ

った上帝も心をよせて無事に子

を生ましめ十月十日を遅れることもなかったここ

さいわい

に后積を生むと天は多-の

降したそれは黍

もちbぴ

おくて

わせはやうえ

おそうえ

まめ

や穿後に領下の閲を

くろきび

治め民に耕作させた稜や黍もあれば楢や

ある下士を治めて后稜は南の事業を縫いだ(一章)

后稜の子孫はかの大王宜父岐山の南に居任した

時始めて殿

への臣展開係を慕

った文王と武王に至

-大王の事業を縫いだ殿の天命の終わ-は牧野の

地でやって来た「武心を抱いた-心配してはならぬ

上帝も見ておられるぞ」武王は殿に勝

ってその人民

を治めその功績は先王たちにも等しい成王は言

た「叔父周公よ

そなたの長子伯禽を立て魯園の

侯とし大いにその土地を閃かせ周室の輔けとさせ

15

中開文革報

第四十六冊

よ」と

(二章)

「関宮」全九章の

うち二幸O魯図はこの詩にも云う如-局

公の長子伯禽が封ぜられた図であり周と同族であるから

曹然周租后稜に始まる諸先王を構えているわけであるが

后稜の農業創始を

一章全部を費やして

「南の緒を鰹ぐ」と

賞揚する割には文王

武王の殿周革命に封しては素束な

い描き方である寧ろ大雅の詩篇よ-も先王の文化的功績

に重きを置-といえる

1万の宋園は肘王の庶兄微子啓が武王に封ぜられた園で

ある宋園は殿の穫柴を修め殿の習俗を堅持し績けたと

俸えられる

所詮は被征服園である自らの租先を高ら

かに賞讃することに封して何らかの政治的願力が働いたこ

とは想像に難-ない「七筈の詩が亡伏した」という商魂

譜の記事は或いはこのことに関係があるのではないか

この失われた詩の中には

西周の

「生民」

「公劉」詩の如

-殿代よ-俸わる文化神を歌う詩があったのではないか

この推測をよ-精確に検討するにはやは-宋園以外の

園に俸わった殿王朝開園神話の一つとしての楚辞

天問を

参照する必要があるそこで次章ではまず殿嘘卜辞に見え

る高組神について検討し次に楚鮮

天間の殿王朝開園を

問う部分について考察した後これらと商項とを相互に比

較することにしたい

三卜辞及び楚鮮

天問の殿王朝開園神話

卜辞は占卜のための文句を記した文字資料であ-もと

よ-神話の記録を目的としたものではない従

って殿人の

間に俸えられていた殿王朝開園の物語を卜辞によって復元

することは言うまでもな-不可能であるただそこには高

租神や先王をはじめ様々な神の名が見えてお-これを後

の時代の殿王朝開閉神話と比較することによってその神

話がどれ位原初の姿に近いかを推定することはある程度可

能である

さて殿人にとっての最高碑は周知の如-上帝であ-

卜辞にも

「帝」として見えていて風雨などの自然現象を

支配し人事に禍福をもたらす存在であることが知られて

⑲いる

16

この上帝に封しては直接条把が行なわれることはないと

い-のが通説であるが島邦男氏によれば絶無という諸で

はな-締把が行われる例が三例あるこの締紀は上帝の

みならず高租神や先王に封しても行われてお-例えば

羅振玉

『殿虚書契緯編』

一-二-

一片に

点締子王亥

貞-王亥に繭のまつ-をせんか

董作賀

『乙篇』四五四九片に

葵未卜両税乙

英未に卜す租乙に蹄のまつ-をせんか

とあることから

恐ら-張光直氏の云う如-

「殿の人びと

『帝』は先租の絶稀であ

ったかあるいは先租の観念

の1つの抽象化されたもの」

ということになろう

上帝と同様の祭紀が行われる租神の-ち「高租」と呼

ばれるのは愛

王亥の二人である

愛は変とも揮され王⑮

図経が

「暑」と塵韻であることなどを理由に帝尊と解して

以来これが定説となっているO帝聾は後の時代の文献に俸

える所では自らの文化的事業や武勇に関しては何も記さ

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

ずただ殿組契と周蔵后榎の共通の父祖であると云うだけ

であ-上帝的な存在であ

ったとするのが諸家の1致した

見解であるしかし殿代に於ては

「帝」と帝替即ち愛は区

別されている以上完全に同

一であ

ったとはいえず上帝

と人王をつなぐ役割を持つ始租神として奉られたものと思

われる前述の如-愛が抽象化したものが上帝であ-

逆に言えば上帝が人格神化したものが愛なのである

一方の王亥はどうであろうか山海経

大荒東経に

有困民国-王亥託干有易河伯僕牛有易殺王亥

取僕牛

困民国で-主

亥は有易園と河伯園に自ら飼い馴ら

した牛を預けた有易園の人は王亥を殺し牛を奪

この候の郭瑛注が引-古本竹書紀年には

殿王子亥賓干有易而淫蔦有易之君鯨臣殺而放之

是故殿主

(一作上)甲徴候師子河伯以伐有易滅之

途殺其君紹臣也

殿の王亥は有易園

へ客として赴いたが行ないが悪

- 17-

中国文学報

第四十六放

有易の君主摘臣が彼を殺してしまったそれで段

の上甲微が河伯図の軍を借-て有易を伐ちこれを滅

ぼし君主鋸臣を殺した

と記されているまた初学記撃

九引世本には

「骸が

牛を飼い馴らした」とあ-この膜も王亥であると考えら

れている少な-とも東周末期に於ては王亥が牧牛を行な

ったという俸説があったのであ-王亥を論ずる人の多-

はこれに注目し彼を殿の文化紳であると考えている

「高

租」と特別扱いされる租神の一人であることを考えれば

王亥が文化面で多大な功績を上げ原始状態から文明状態

へと殿氏族を更展させたことは十分に考えられる

もしそうであるならば前章でその存在を示唆した

「殿

の失われた文化紳」はまさにこの王亥ということになる

既に述べた如-詩経

商煩の段王朝開園神話に封しては

それと系統を異にする楚辞

天問という比較資料もあるの

であるから次にこちらの方を見てみることにしよう

fTD

天問は古来極めて錯簡の多い書と言われる

その中で

殿周開園に関する部分は比較的次第がまとまっている湯

以前の駿の先王が措かれるのは55-聖早であ-簡秋と尊

の通婿から始まっている

55簡秋在董卓何宜玄鳥致胎女何喜

筒状は高い槙童にいたが尋はどうして見そめたの

か燕が滑-物を持

ってきたのを筒状はどうして喜

んだのか

古来詩経

商頒

「玄鳥」と同じ-簡秋香卵の説話を云うも

のと解されるがこれも

「玄鳥」詩と同じ-この二句だ

けから呑卵の話を導き出すのは難しいしかしこの通解が

行なわれた高い

「董」は天地の間を繋ぐにふさわしい場所

であ-鳥が天から

「胎」を授けることなど天地通姫を

描-ことには襲わ-はない天問では上帝には

「帝」とい

う呼稀を使

ってお-ここでの

「魯」はー辞の

「愛」と同

じく上帝の人格化したものと思われる

この二句は不思議なことに簡秋と啓が誰を生んだのか全

く言わないテキストに脱落がなければ次の章の登場人

物を簡秋の子と考えるのが最も素直であろうところが次

に登場するのは

「玄王」でも

「契」でもない

18

56該乗季徳頗父是滅胡絡弊干有屈牧夫牛羊0

57干協時舞何以懐之平脅鼻膚何以肥之

58有屈牧豊云何而逢撃林先出其命何徒

壬亥はその父季の徳を縫いだが父は立涯な人であ

ったどうして王亥はとうとう有易園に落ちぶれそ

ゐ牛羊を養

っていたのかO

たて

あわ

いだ

協せて舞う女を見てど-してその女を

のか

平らかな脇腹に細やかな皮膚どうしてこの女

まじ

ったのか

王亥は有易園の牧童にどのようにして合

ったのか

寝込みを襲われて先に逃げ出したがどこから逃げ出

して助かったのか

56章の

「該」を王逸は

「竜也」と解しているが晴代に至

って王関連が人名ではないかと疑問を呈出L

t

王国経が卜

軒との対照によって王亥であると断じて以来この説が支配

的であるこの四句も前途の山海経や竹書紀年と共に王

亥が牧神であ

ったことを示すものとしてよ-引かれる57

章は難解であり注揮家ごとに説が異なると言

ってもよい

股周開園の神話と

「紳代史」(大野)

ほどであるが王亥の婚姻のことを云うとする需介甫氏

黒須重彦氏の説に徒う58章は王亥が殺されそうにな-な

がら辛-も逃れたことを云い前に引いた山海経などの所

侍と関係があるものと思われる

この三幸の記述から王亥の迫害と文化創造のモチーフを

見出すことはさほど困難なことではないし簡秋と孝によ

る殿租の神的な誕生も前章までに述べた例と同様に何ら

かの形で王亥に英雄的資質をもたらすものと考えられる

簡秋が生んだのが王亥であると断定できれば話は簡単なの

であるが56章には王亥の父としての

「季」が登場してお

り従

って天問に於ては簡狭

暑-季1王亥という系譜が

成立していたことになるしかし卜辞に見える

「季」は高

租でない租神の一人にすぎず

「高租王亥」が

「季」を父と

していたとは考え難いo

l鮭に卜解における租紳相互間の

父子関係は不明な部分が多-本来は寧ろ横

一列に並ぶ関

係であ

ってどれも

「租先」に襲わ-はないのであ-果

たした功績や役割の違いによってそれぞれに分化したもの

と考えた方がよい卜辞における

「季」の神威は他の租紳

19

中国文革報

第四十六桝

と襲わらないが

天問では尊と王亥との橋渡し的な性格に

襲わったのである

59恒乗季徳蔦得夫朴牛何徒費班緑不但遠来

王恒も李の徳を鰹ぎ王亥の養

った僕牛を得たど

あまね

はどこ

うして狩-に行

って獲物を

-

民に

ただ行

って

締るだけに止まらなかったのか

「恒」は王遠江では

「常也」と云うがこれも王国経が卜

辞に見える王恒のことであると解して以来諸家概ねこれ

に徒う「班稀」は近年の解帯では

「官位」「栄達」等に解

され

「王恒が有易図で出世しょうとした」意であるとす

るがす

っき-しない解輝であるー辞に見える王恒は

弓の形の中に

「恒」字を入れたものもあ-寧ろ

「湯は狩

-に往-際ただ行

って締るだけではな-民に編-施し

を輿えた」とする王逸注の方が原初的な意味に近いと思わ

れる但し主語は湯ではな-王恒である張光直氏は王恒

と罪に何らかの関係があるのではないかと考えるが

それ

よ-は駿人の狩猟柵であ

ったと考えた方が良いかも知れな

いただ王恒の事境を記した文献が他に存在せず容易に

結論を得難いのは残念なことである

60昏微遵述有狭不寧何繁鳥葦棟負子韓情

61絃弟遠軽危害顔見O何襲化以作許後嗣而逢長

上甲微は父王亥の事鏡を鮭ぎ有易園は安定を保て

ず滅びたどうして有易の人民は妹に止まる鳥のよう

に苦しんでいるのに上甲微はその子女にまで横暴な

ことをしたのか

目の陪んだ請弟はみな道ならぬことをしその兄上

甲微に危害を加えたのにどうしてうま-ごまかして

その子孫が長-祭えることになったのか

この二章も本づ-所がはっき-せず難解であるが「昏微」

はやは-王国経が上甲微のことであるとしてお-その事

蹟を云うものと考えられる上甲微は卜辞で系譜が明らか

な請王のうちで

一番古い租先に普た-いわば

「人王」の

租であるがここでは王亥と同様の迫害モチーフが再び現

⑳れその事鏡は既に神話化されていたものと見られる「何

襲化以作詐後嗣而逢長」の二句はそ-した神話であるが

故の不合理性を問うているのである

- 20-

62成湯東巡有等宴極何乞彼中臣而吉妃是得

63水漬之木得彼中子夫何悪之腰右筆之婦

64湯出重泉夫何皐尤不勝心伐帝夫誰使挑之

湯は東方

へ巡狩Lt有等園までやって来たど-し

てあの中臣伊声に乞い求めて良い妃を得たのか

水蓮の木から有等氏の君主は伊声を得たとい-が

どうして伊声を嫌

って湯の妃に付き添わせたのか

湯は重泉の牢獄から出て来たがそれは何の罪だっ

たのか正義を求める心を抑えられず実を伐

ったが

誰が彼をそうさせたのか

商頭における湯は夏架や尾吾氏を伐

った英雄として非常に

多-の紙幅を割いて賞揚されていたのであるが天間では

僅か三幸で終わ-しかもその年分は彼の名臣伊声のこと

に費され天下を平定した聖王にしてはかなり冷淡な描き

方である多-とも王亥や上甲微などと同等の重さしか持

っていないといえるしかしこの簡単な記述は神話的な趣

きに富んでいる伊声は呂氏春秋

本味簾で

「有佐氏の女

が空桑の中から嬰兄を得て

それを君主に献じ君主は

般周開乾の神話と

「紳代史」(大野)

料理人に彼を育てさせた」云々と書かれるような俸説をも

つがその原型とみられる記事が63章にあ-64章の

「湯

出重泉」も森安太郎氏が

「陽

(太陽神)が海の下を-ぐっ

て再び現れ出る様子」

と解したほどであるその虞偽は措

-としても

「重泉に囚われてから脱出」

というのがこれ

まで屡々登場してきた迫害1事業完成のモチーフであるこ

とは明白であ-この迫害こそ棄てられた后稜と同じ-英

雄を英雄たらしめる神話素の一つである殿人にとって湯

「人王」であったはずであるが楚人にとっての夏殿革

命は既に神話となっていた宋人にとっても同じであ

った

と思われるしかし東周時代の為政者の意識は最早神話を

古代人の如-

「心象における事資」として受け取ることを

許さなかった神話の神話たる所以である英雄の迫害も

政治家としての彼等にとっては

「不合理」以外の何もので

もな-統治強化の障碍でしかなかったであろうそれ故

その

「不合理」を宋人は頒詩から治し去-楚人は

「天に

問」うたのである東周の殿開園神話はその鮎で西周人

の神話と歴史が

一鰻になった

「神代史」であ

った詩経

21

中国文筆報

第四十六冊

雅の周王朝開園の物語とは成因がやや異な-神話そのも

のを改襲した

「神代史」であるといえよう

再び天間に戻ろうここで語られる殿王朝開園神話を綜

合すると腰租誕生1夏殿革命という流れは商頭でのそれ

とはぼ

一致するのであるが商頚では全-無税されている

王亥

王恒や上甲微の事浜を多-記している所が大いに異

なるこれらの先王は卜軒に於ても租神として柁られてお

-殊に愛

(餐)王亥は

「高租」と崇められていたのであ

るから天問における殿租誕生や牧牛創始の偉大な功績も

殿代からその根摸となるべき停東があったものと考えられ

る殿の未森たる被征服図

宋図で語られなかった文化神

が周の政治的願力が比較的少なかったであろ-楚園に於

て生き残

っていたのであ-「王亥を構える頒詩は政治的

要請によって胴去されたのではないか」という前章で捉

起した推測は更に確貴性を樹して-るのである

このように文化神を語る神話は政治的な事情によって

改襲されやすいという

一つの傾向が次第に明らかになって

きたのであるが天間に見える周王朝開園神話を詩経

雅のそれと比べてみるとその傾向は

一層はっき-する

これについては次章で検討することにしてその前に前

章で提起したもう

一つの問題即ち契と後に呼ばれるよう

になる殿紐の正鰻について卑見を示しておきたい

1般には詩経

商頒

「玄鳥」

「長顎」の鄭隻や楚鮮

天問の王逸注史記

殿本紀などから筒状が生んだ殿租

が契であるとされ詩経や楚軒の注揮家も特に疑問を抱い

ていないしかしこれまで見てきた詩経や天問には契の名

は全-見えていない国語を見ると周語下には

玄王勤商十有四世而興

玄王は商のために働き十四世かかって興起した

鄭語には商

契能和合五教以保干百姓者也

商契は五教をよ-調和させ人民を守-養

った人で

魯語上には

契為司徒而民韓-上甲微能帥契者也o

契は司徒の官となって人心を和らげ--上甲微は

22

たす

契をよ-

た人である

自玄王以及主薬莫若湯

文王から主薬

(湯の父)に至るまで湯よ-すぐれた

者はいない

とあるこれらを見ると契とい-名は周

楚以外の

園で用いられし

かも

「司徒として五教によって人心を安

定させた」という事鏡が語られている抽象的な形ではあ

るが文化面での功寮が取-上げられているのである

そうすると陳夢家氏の

「契と刻は互訓であ-共に亥

と普通である故に契は即ち王亥である」とする説が有力

な説として浮上して-るOこれまでの考察から王亥は殿

の高租にして文化所であ-従

って契というのは王亥の周

連諸国での呼び名であ-「五教」云々は王亥の文化神的

な面が周遠諸国に於て襲化したものと考えられるのである

もう

1万の

「司徒」という面に注目すると楊寛氏は

「司

徒」は

「司土」であるとして契は社紳

(土地紳)であった

と考えている「司徒」を

「司土」と表記するのは西周金文

に多-見られる用法であ-本来は土地や農業を司る官で

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

あったらしいまた史記

殿本紀には

「実は南を佐けて治

水に功があった」とあ-梁玉縄の疑う如き司馬遷の臆説

でな-古-からの停承に基づいているものであるならば

契に夏南の如き下士造成神的な面もあった可能性は捨てき

れない司土の官は農業にも関係が深いことから契は土

地神にして農神の性格をも持つことにな-このことは王

亥が牧牛の創始者であることと関係があるのかも知れない

なお尚書尭典には

帝日「乗努民阻飢o汝后榎播時百穀O」帝日

「契百姓不親五品不遜汝作司徒敬敷五教在寛」

もろもろ

舜は言った「棄よ

民は飢え苦しんでいる

汝は后頑の官とな-

この百穀を播け」と舜は言

った「契よ人民は互いに仲良-せず父子

君臣

夫婦

長幼

朋友の序に従わない汝は司徒の官とな

つつし

-五教を敬んで廉め心を寛-して治めよ」と

とあ-同じ-尚書の周官には

司徒掌邦教敷五典擾兆民

司徒は閲の教化を掌-五教を廉め多-の民を順

23

中国文畢報

第四十六肋

わせる

とあ

って司徒が教化の官であるかの如-書かれているが

これは后積が農官とされたために契は

「五教を康めた」面

のみが取-上げられそれが司徒の官名に結びついてかか

る誤解を生んだものであ-司徒の本来の意味ではないと

考えられる

周やその支配下にあった宋園では殿租に玄王という名

が使われてお-玄鳥による神的な誕生と商の興起のた

めに轟-したとい-事暁が語られる

魯園では

「契」

「玄

王」両方が見えるがー契と言う場合は文化的な功績が描か

れ玄王と言う場合は始租としての面に注目されている

恐ら-

「玄王」とは契=

王亥の始租としての面が強調され

た時の呼稀であ

ったと思われる文化人類学的にも「玄」

という名は始源の闇や滞沌を連想させるものであ-例え

ば老子

六章の

玄牝門天地板

玄牝の門(女陰)は天地寓物の根源である

の如-である

宋園や周では殿租の文化神的な面が抹殺さ

れたために始租神としての

「玄王」の呼稀が定着し魯

鄭などの周連列国では儒教的に襲化した文化神として

「契」と呼ばれ楚国では殿代の呼稀

「王亥」が原形に近

い形で保存されて

「該」と呼ばれたのであろう

四楚鮮

天問の周王朝開園神話

まず天問における殿周開園神話の大筋の流れを圏示する

と附固

一のようになる我々の常識で考えるならば夏殿

革命の次に殿のその後の衰亡を歌いそれから周王朝

へと

移る構成をとるのが普通であるが天問では夏殿革命から

いきな-周の衰亡

へと飛びそこから殿の衰亡

へと戻る間

くりかえ

「天命は

」というテーゼを挟み込んでいるこの

ような操作によってどの王朝も同じように興亡を繰-近

すというテーゼが

7層際立つのであ-

T見乱雑に見える

排列が安は高度なレトリックを用いた結果であるという

ことがわかる

次に殿周の開園が歌われている各章を時間順に並べ

かえて相互に封比してみると附圏二のようになるこの固

24

殻周開園の耐話と

「神代史」(大野)

附圃- (丸内の数字は葦の通し番競)

舜と女梱 ⑱~

「験萌在初」

1

度の先王 ~

t

夏殿革命 ~

周の先王

l

殿周革命 ⑮~cent)

iiiiia段の衰亡 ~ 周の興亡

一- 一 ノ ー「天命反側」

附圏二

段 簡秋と唇の通婚

王亥 有易で牛羊を牧す

王亥の婚姻

王亥 殺されかける

王位 王亥の牛を得る

上甲微 父の遺業を鮭ぐ

肢弟が上甲微を迫害

一寸 どうして子孫が栄えたのか」

~ 楚の興亡

周 ⑯ 后硬 氷上に捨てられる

上帝をも驚かす武勇

-「どうして子孫が栄えたのか」

成湯 伊声を得る

伊デの生い立ち

湯 壷泉から出て案を伐つ

- 25-

⑳ 文王 天命 もて段を覆す

岐山に移る殿の惑婦

文王 村の無道を天に告げる

文王 太公望を得る

武王 急いで殿を伐つ

武王の朝合

周公 武王をよしとせず

武玉 村を伐つ

中隊文革報

第四十六筋

一見して知ることができるのは周の先王には僅か二章

しか使わず殿周革命に九章も費やしてお-殿王朝の方

が租神に多-の章を割いて夏殿革命には三章しか使わな

いのと対照的であるということである

周王朝開園を云う章をもう少し詳し-見てい-と

76積維元子帝何竺之投之干水上鳥何燐之

77何漏弓挟矢殊能渚之既驚帝切激何逢長之

后稜は上帝の長子であるのに上帝はどうして彼に

危害を加えたのか彼を氷の上に捨てると鳥はどう

してこれを暖めたのか

どうして弓をひきしぼ-矢を挟みすぐれた才能で

武婿となったのか上帝をも驚かすほどひどいことを

したのにどうしてその子孫は長-栄えたのかQ

后積が上帝の子であるのに迫害され鳥によって助けられ

たというのは詩経

大雅

「生民」と同様であるが周租后

礎の両的資質を云-のみであ

って農業費明には全-解れ

られていない77章は王逸注では前二句を后稜後二句を

武王の事績とするが洪興租補注は全部を武王の事績とし

朱子はその両方を疑問であるとす

78章以下では文王の

ことを云う章が績いてお-この章を武王の事虞とする課

には従えない聞

多や衰珂

氏は全部を后頑の事鏡とする

が必ずしも后榎に限定することはできない少な-とも

古公以前の

「神代」の先王のうちの誰かであることは確か

であろう後二句の

「上帝をも驚かすようなことをしなが

らどうして子孫が栄えたのか」という疑問が殿の租神と

「人王」の境目である上甲微を語る61章の後二句と似るか

らである周の先王を歌うのはこの二幸で終わ-であ-

そこでは先王たちの文化的功績は全-歌われておらず殿

の先王に比べて極めて冷淡な扱いである

78章以下は殿周革命にまつわる様々の問が寛せられるが

詩経

大雅に見えておらずまた考古学的な裏付けもない

俸説的な事件もい-つか見えているとはいえ神話的な奇

怪さには乏しいといえる0

79遷蔵就岐何能依O殻有感婦何所説

貴職していた重器を移して岐山にやって充たがどう

して人民がそれに従

ったのか殿には人を舷惑させる

26

女がいたというが何のために議話しょうとしたのか

前句についてはこれを文王に懸ける説

大王に懸ける課

あるが前後で文王のことを歌

っているので大王の事蹟と

するのには難があるとはいえその内容は詩経

大雅

「崩」

に云う古公宜父の事鏡に近-どちらに限定することもで

きない「大王から文王までの問」とする他ないであろ-

後二句は肘の妃である坦己を云うとされるがその何につ

いて問うているのかは明らかではないしかし両者とも

その

「答」となるべき俸説がこの時代に前後して現れてお

-前者については

1章で引いた孟子

染着王下後者に

ついては太平御覧奄

1三五引世本に

「村が有蘇氏を伐

った

時有蘇氏は坦己を妃にさし出した肘はこれを愛して言

うことを何でも聞いたために武王が肘もろとも殺した

云うのがこれに普たる

66到峯村窮叔旦不嘉O何親撰車足周之命以各嵯

肘の首をはねるに至-周公且はこれをよしとしな

かったどうして周自ら謀

って殿を討とうとしたのに

その行動は人民に支持されたのか

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

後二句は極めて難解であるがいま黒須重彦氏の解樺に従

う他の諸家にはテキストの文字操作で意味を通らせよ-

とする者も多い前二句を王逸は

「武王の舟に白魚が飛び

込んだので群臣が

『吉兆だ』と言ったのに封Lt周公が

『吉兆ではあるが吉兆と思

ってはならぬ』と戒めたことを

云う

と解しているがこれは史記

周本紀の記事を敦術

したものであって漢初の五行思想の産物である寧ろ所

謂伯夷

叔奔停説の前駆形と考えた方がよい

ここに引いた事件が果たして史寛であ

ったのか西周時

代に生まれた俸説か或いは東周以後の俸説であるのかは

容易に判断できないしかしいずれにしても西周人の

「神

代史」からは無税されていた事件が本来の形ではないに

しても再び記録される動きをここに見ることができるので

あ-結語で述べる

「神代史の再神話化」の萌芽であると

いえるO

このような新しい動きはあるものの天問の周開園神話

も始祖の神的誕生1英雄的事業の達成という基本的な構造

には全-襲わ-はないしかし全鰻を通じて諸王の文化的

27

中閲文革報

第四十六筋

功績には全-解れられていないばか-か周の先王=

租秤

に封しても極めて冷淡であ-殿に封する態度とは明らか

に異な

っているのである

このことは昔時の楚園が周文化よ-も殿文化の方により

親しみその信仰

習俗等を保持していたことの一つの讃

接であろう楚文化と殻文化の関係の深さは既に様々な面

から指摘されてお-例えば楚辞

九歌に見える「雲中君」

「河伯」の神がト辞にも

「雲」「河」神として見えているこ

とや西周末期のものと見られる楚の青銅鐘は殿の鍔と形

が似てお-その銘文も殿金文に似た雄滞な書鰻であるこ

とな

どが挙げられるこのよ-な現象が生じた過程として

は(一)歴代から楚は殿に臣屈してその文化を受け入れ

周の時代になっても表向きは周に臣属しながらも殿の文化

を保持し績けた(二)周代以後に国力を埼大した楚園は

への対抗上その文化を拒み隣接する宋園の殿文化を積

極的に導入したという二つの説が考えられる前者の立

場を取る者はその根接として詩経

商頒

「殿武」の

撞彼殿武奮伐剰楚突入其阻衷利之放有戟其

所湯孫之緒(一章)

敏疾なる武丁は奮起して剤楚を伐ち険しい山地

に攻め入って刑楚の兵士を虜にしその地を平げ

湯王の子孫として手柄を立てた

という部分を畢げることが多い

前述の如-商頭目鰻が

宋園の楚国

への対抗心から作られたものであ-我が国の

紳功皇后遠征説話と同じ-どこまで史寛を反映している

かは未知数であるしかも卜辞などの殿代の地下資料から

は昔時の殿楚関係を示すものはまだ見つかっていない

一方後者については史記

楚世家に周の夷王の時に

楚王熊粟が

「我は牽夷な-中国の詮親に興らず」と言っ

たという記事もあ-現時鮎ではこちらの説の方が有力で

あると思われるいずれにしても周とは言語や風土を異

にする楚閲で生まれた天問には意固したか否かはともか

-周文化の重税と殿文化

への傾斜が讃み取れるのであ-

周王朝側の論理で殿の文化碑の功績を壷-抹殺された詩経

商頭や周の文化神を構える詩経

大雅とは好封照を見

せているのである

28

結語及び除論

これまで述べ来

ったことを要約すると詩経や楚辞

問に見える殿周開園神話は始租の所的誕生1迫害1事業

(文化創造

天下統

一)の完遂という構造を持ち既に西洋

の英雄神話に於て指摘されている基本構造をここにも見出

すことができるただ西洋では

一人で行なわれることが多

い英雄としての事業が中国では教代に亙

って行なわれる

ことが多いという違いはあるところが殿の開園と周の

開園また詩経と天問の相互間で詳し-比較してみると

神々の文化的功績は神話が記録された常時の政治的な事情

によって抹殺されることがあるという事資に束づ-この

ことは中国に於ては剣を振るって活躍する英雄よ-も

文化を創始する

「聖王」の方が重きをなしてお-氏族や

国の威光を左右するものであ

ったということの一つの謹左

といえよう

詩経

大雅における周王朝開園神話は高租にして文化

神である后稜-公劉を神話的要素に富む叙事詩によって語

段周開園の紳話と

「神代史」(大野)

っているが

「人王」の代に至ると

殊に王李に新著に見

られる如-諸王にとってマイナスイメージを輿えかねな

い史寛は壷-制去され武力革命の成功を

「神代」から引

き継がれた輝かしい事業として稀讃している周王朝の開

園神話とそれに績-殿周革命の史糞は詩が記録されるま

での間に

「神代史」

へ改愛されたのであるそこに支配強

化のための王室神聖化という高度な政治的意圏が働いてい

るのは確資であろう

段の遺民の園である春秋の宋園における段王朝開園神話

詩経

商項の諸篇は最終的には周王朝側の人々によって

記録

編輯されたものであ-それ故殿人の信仰した文化

紳は義-抹殺され支配者としての周王朝の論理に基づ-

「神代史」に改変されているOそれに封して楚辞

天問の

殻王朝開園神話には卜辞にも見える租紳たちの神話的雰囲

気に富む物語が多-残

ってお-逆に天問の周王朝開園神

話では周の先王の文化的功績を無税していて宋国との政

治的

風土的立場の違いを明瞭に浮かび上がらせているの

である

- 29-

中国文学報

第四十六筋

か-の如-

神話時代やそれに績-歴史が為政者の手に

よって

「神話化」される場合は中開の諸秤の中で重い比

重を占める文化神が記録者の政治的立場に従

って改奨され

「人王」に封しては

「都合の悪い」史貴を切-捨てて

「神

代史」

へと仕立てられるのであるが東周時代になるとそ

れとは逆に「人王」にも神話素の一つとして解揮可能な俸

説が様々な書物に記録されるようになる既に引用した文

王の安里幽閉

伯夷

叔斉の餓死などがそれであ-

「人

王」の物語もこれによって組両と同様の典型的神話

へ近づ

いてい-のであるこれらが記録されたのは諸子百家の書

物であ-昔時の遊説家たちが民間に流布していた停説を

敬-上げて自説を述べるために用いたものと考えられる

これらの停説が古い形をそのまま保

っているか否かは全-

保護がないとはいえ政治力撃の働きに-いレベルに於て

「神代史」に再び神話的物語が付け加えられるようにな

たということはいえるいわば

「神代史の再神話化」であ

-

1般に

「中国古代王朝神話」として

1つの物語にまと

められているのはこうして

「再神話化」された結果の産物

なのであるこれらは確かに

「神話」としての要素を豊富

に含んでいるのであるがこれを中国古代神話の原型と見

なすことは不可能であ-上述の如-複雑な要因が絡み合

っているのである

こうして

「神代史」はたとえ元の形とは異なるにせよ

再び

「神話」としての光彩を放ち始めたところがこの

「神話」をまたも

「歴史」に固定してしまったのが他なら

ぬ史蓬であることは周知の通-である

しかし

「神代史の再神話化」の原動力とな

った

民間

に語-経がれた王朝停説のエネルギーもこれで絡恨したわ

けではなかったこうしたエネルギーはその後も小説に記

録された種々の歴史俸説などを生み出し形を襲えて生き

績けたのである

ところでこれまで本文中に取-上げなかった

一つの重

要な問題があるそれは

「楚園に古-から停わる楚人自身

の神々はど-な

っていたのか」という問題である

楚辞

天問にはその末尾に楚図の俸説と思われるものが

記されてはいるが多-の注帯家が匙を投げているはど難

30

解であ-筆者も今敢えてこれに挑戦するほどの飴裕はな

いoしかし離騒ではその冒頭で「私は帝高陽の未森である」

と歌

ってお-少な-とも屈原の時代では楚人は穎頭高陽

氏を租神としていたと考えられているが文化神に関する

記述は見えない

一方同じ頃に楚園で成立したと考えら

れている山海経

大荒西経には街頭の子孫の神々の事業

が豊富に記されている例えば重

寮の天地分離

太子長

琴の音禁孝明などである

これらの事章から得られる

一つの推測をここで述べると

楚辞に於ては楚人自らの文化両を表立

って取-上げられな

い事情があ

ったものと思われる楚語で書かれた「原楚鮮」

には書かれていたがそれを漢語に翻弄した際に宋図か

ら導入した殿の文化神に置き換えたのかも知れないそし

て自らの文化紳とその物語を速い

「大荒」の物語として

カムフラージ

ュしたのが他ならぬ山海経なのではなかろ-

かこの書が地理書の形をとっていることや他書に見ら

れない神話停説を豊富に載せていることなどは丁度我が

国の

『出雲園風土記』を思わせるものがあるまた殿の

殿周開国の神話と「神代史」(大野)

文化紳王亥が

「困民国」の人とな

っていた-楚の租神で

あるはずの蘭頂が

「額頭囲」なる図にいたとされているこ

となどもこの仮説の根嬢となろう

しかし最早紙幅も轟きているこの問題は山海経を中心

として改めて考察することにしたい

ば織井慶紀著池田末利編

『中図神話の文化人類学的

研究』(1九九〇平河出版社)があるoまたユング心理学の

立場から日本神話を分析したものとして河合隼雄

『中空構

造日本の深層』(一九八二中央公論社)等がある

近世以前の諸席の議論は専らこの怪異雫が信ずるに足るか

否かの次元に終始するが近代的な研究としては聞一多

「萎

娠履大人跡考」(『聞一多全集』第一射一九四八開明書店)

白鳥清

「段周感生神話の解揮」(『東洋学報』十五巷四親tT

九二五東洋協合学術調査部)出石誠彦

「上代支部の異常

出生説話について」(『支那神話俸説の研究』所収tl九四三

中央公論社)等がある

「帝上帝也」

「帝高華氏之帝也従於帝而見干天婿事賛敏也」

孔疏に

「頑柁郊礁之時英夫高辛氏帝率興供行妻娠随帝之

後践履帝迩行事敬而敏疾放鳥神歌饗紳既饗其条則

31

中国文筆報

第四十六筋

愛而拓之

於是為天神所美大為福緑所依止twz=得懐任則

震動而有身」と云う

例えば嗣西族の

『東巴控』に見える縛文字にこのことが窺

える附固三参照また河南省に俸わるロ東俸説によると

女桐が天から降ってきて伏義が地下から出てきたと云う

(陶陽

鍾秀

『中国創世神話』一九八九上海人民出版社二

一四頁)

附圏三

primeJ 一一一

~PJ虹互L

LJL

堅 室④

上部の 一へ は天下部の 皿 は大地を

表す圃①は中間に天地交合の気がありこれ

より荷物が生ずる固②の中間は蛙で天地交

合後の襲化を表す圃⑨では天地の間に男が上

女が下になっており男女の交合と同様にして

天地が人類を生んだことを表す

(陶陽 鍾秀 『中国創世神話』214頁)

「惟虞東学詩云人之初生皆裂胎而出騒失所依故堕地

郎帝惟羊連胞而下共産猪易故詩以

『如達』馬比o又常

熟陶太常元淳日凡嬰兄在母腹中皆有皮以豪之俗所謂胞

衣也生時其衣先破兄鰻手足少蔚放生之難O惟羊子之生

胸仇完具堕地而後母篤破之故共生易o后硬生時蓋戒於胸

中形鮭末露有如羊子之生者放言

『加速』今按前二説

是也下言

『不味不副』蓋謂其胞衣之不折裂也」(『毛詩俸

集通帯』巷二十五)

「徐君宮人娠而生卵以箆不詳秀之水演O猪孤母有犬名

鵠蒼へ猟干水溝へ得所弄卵衝以東蹄猪孤母以馬具凍俊

之逐沸成見生時正値へ故以為名徐君宮中聞之乃更録

取長而仁智襲君徐固」(博物志

異聞篇引徐値王志)

「高句凝着其先出自克明東明本北夷嚢離王子離王出

行其侍兄於後任娠離王達欲殺之侍見目『前見天上

有菊如大鶏子乗降我困以有嫉』王囚之後連生男玉

置之家牢家以口束嘘束不死o王以為所乃聴収養」(梁

諸夷俸)

北欧や古代

ハンガリー等に見られる豊富な例がKケレ-

ニイtCGユング

『神話撃入門』

一九五1(杉浦忠夫訳

1九七五晶文社)に引かれている

例えば壮族に俸わる

「種子と犬の尾」の物語では人々

「九尾狗」に天上の穀物を盗みに行かせたところ穀物を

九本の尾に-つつけて蹄ろ-としたところを番人に見つか-

八本の尾を叩き切られたが残-

1本の尾に穀物をつけて逃げ

師-人間は農業ができるようになったと云う

(陶陽

秀前掲書二七九頁)

32

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 10: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

不恭敢距大邦侵院狙共王赫期怒宴整其旗以

按狙放以篤子周砧以封干天下(五章)

普作

って除-のは立ち枯れや倒木切-整えて平ら

げるのは

濯木や並木

切-開き押しのけるのは

かわらやなぎ

へぴのき

やまぐわ

はりぐわ

って例-取るのは

上帝

は明徳ある王に味方Lt串夷は道にあふれんばか-に

逃げ出した天は文王の配偶大姐を立て固-命を授

け給うた(二章)

そむ

上帝は文王にか-のたもうた「人心を

せては

ならぬo気ままにさせてはならぬ」とOそこで高所に

登って観察すれば密園の人は従わず敢えて大国に

逆らい陳園を侵し共園

へ進軍しているO王は激し-

怒-

ここに軍旗を整え密図の行軍を阻み周の

さいわい

埼Lt天下に戒を示そうとした(五章)

「皇臭」全八草のうちの二章二章では公劉や古公と同様

の板接地造営を歌うが「天命」を受けるや否や五章に

云う如-密国を征討しょうとする

有命日天命此文王千周干京績女維草長子維

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

行篤生武王o保右命爾嬰伐大南(六章)

殿商之放其禽如林矢干牧野維予侯興上帝臨

女無武爾心(七草)

牧野洋洋檀革塩塩駆厨彰影O維師伺父時維鷹

揚掠彼武王韓伐大商脅朝清明(八草)

天よ-命は下-我が文王に命は下った周の都で

後を鮭ぐ妃は宰園の女この長女がやって来て天は

武王を生ませ給い守-助けて命じ給うた

「大南を

討伐せよ」と(六章)

殿の大軍は林の如-集まった武王は周軍に牧野

ちか

で失

った

「ここに我々は興起する上帝もお前達を

見ておられるぞ戒心を抱いてはならぬ」と(七草)

牧野は贋々として戦車は輝き烏は勇み立つ太

公望呂筒は鷹の如-猛-立つ輝かしい武王は大

商を存分に伐ち取-合戦の朝は晴れ渡った(八草)

「大明」の終わ-の三章牧野での殿との合戦が活寓され

るが武王のこの功績もやは-文王から受け縫いだ「天命」

あってのものである

9

中国文革報

第四十六

文王受命

有此武功既伐干崇作邑干豊o文王桑

哉文

王は天命を受けこの武功を立てた崇園を征討

すると豊に都邑を造営したすぼらしい文王よ

「文王有壁」の第二章密園征討と並んで文王の主要な武

功とされる崇園征討を歌うものであるがこれも

「天命」

によって行なわれたものとされている

詩経

大雅の落第から直接知ることのできる周王朝開園

の物語は以上の通-であるこれを后稜から文武までひと

績きに眺めてみると始租にふさわしい神的な誕生から始

まって迫害を受けた末に諸文化の開拓更には武力によ

る天下平定とい-英雄的事業を完成させるのであ-これ

は丁度Eノイマンらによって指摘されている英雄神話の

典型的なパターンとも合致する后積-公劉-古公-文王

-武王の五王が全鮭として恰も

1人の英雄の如き振舞いを

見せているわけである

しかし仔細に見るとこの五王の中で后稜-公劉古公

文王-武王の三者には微妙な違いがある后穆-公劉の物

語は神話的な雰囲気が濃厚であるのに対し文王-武王に

関しては

「紳懸-」的な奇蹟は全-見られず武力行使に

及んだ根嬢としての

「天命」ばか-が強調されているそ

してこの両者の中間的な存在として古公がいるのである

いわば古公を境にそれよ-前が

「神代」であ-それよ-

後は

「人の代」として描かれているといえる

か-見ると古公以後の物語は開園の

「歴史」であ

って

「神話」として扱うにはふさわし-ないという人もいる

かも知れないそれにもかかわらず筆者は古公から武王に

至る物語は

「歴史」として作られたものではな-歴史が

神話の一部として改襲された

「神代史」

であると考える

なぜなら考古学的に知られる殿周革命前後の歴史には詩経

と大き-ずれる部分があるからである

后積や公劉は周原卜軒や金文には全-見えず神話上の

人物であることを疑う者はいない古公賓父については

文王の租父たる大王と同

一人物と考えることに疑問を向け

る説があ-例えば顧訴剛は古公は周王朝創建時の王で

あ-大王は周の国力が強盛になった時の王であると考え

10

⑬たOしかし

「轟」詩のところで述べたことを考えれば古

公を周王朝の租とする課には従い難い現在鹿-支持され

ている説では殿が常時山西省に居た鬼方を討

った結果

彼等が西方に移動して周を歴迫したため周は幽から岐山

に移ることを飴儀な-されたと言う

具鰻的な国名などに

はなお問題があるとはいえ周が異民族の歴迫で岐山に移

ったという事寛があ-それが

「崩」詩にも反映されてい

るのは確かであろう時代が下がると孟子

梁意三下に云

う如-

「古公が徳を守

って岐山

へ逃げ人民も彼を慕って

共に移動した」という儒家道徳による合理的解帯が行われ

るようになるのは周知の通-である

王李は前述の如-詩経ではその事蹟が全-記されない

ところが古本竹書紀年には

殿の武乙三十五年王李が西落鬼戒を伐ち二十雀

王を捕虜にした(後漢書西完博引

)

殿の文丁が季歴を殺した(青書束管俸史通疑古

社説上引)

といった記事が見え文丁期の卜辞にも周を伐つことの可

段周開園の神話と

「神代史」(大野)

否をーつたものがあるOしかもその7万で同じ古本竹書

紀年に

殿の武乙三十四年周の王李が来朝し武乙は土地

三十里玉馬を賜興した(太平御覧巷八三引

)

とあ

ってこの時期の卜辞にも周を

「周侯」と呼んでいる

ものがあ-周は段の侯国として厚遇されていた面もある

のである「大明」詩での王李は殿と関係の深い拳闘から

大任を迎えてお-史寛とすれば政略結婚である王李の

頃の周は殿と虚々賓々の駆け引きが績-緊迫した関係にあ

ったのである

王李のこうした

「行状」は竹書紀年に記事が残されて

いる以上常時の史官によって記録されていたはずである

にもかかわらず詩経ではそれらが殆ど無税されていると

すれば大雅の諸篇が作られた時から記録されて現在の形に

なるまでのいずれかの段階で意固的に例除されたと考える

のが愛常であるどの段階で刷られたかを決定するのは言

うまでもな-非常に困難であ-例えば

「解」詩で七草ま

で古公の根接地造営の話が績-のに八草でいきな-

「韓

ll

中国文革報

第四十六射

不珍膜性」と文王の代に飛ぶのはあま-にも唐突であるこ

とから七草と八草の間に王李が殺害されたことを歌う章

があ

ったと推定することもできるが残念ながら確認する

すべはないしかしいずれにしても我々が常識的に考え

れば王李が殿に殺された事寛を語ることによって王季1

文王-武王を悲劇の英雄に仕立てられ殿周革命の物語に

一層の彩-を添えられるはずであるのにそれらが轟-酬

去されているのである

文王と武王に関しては詩経に見える密

崇征討等は周

原卜辞等に照らしても史貴であ

ったらしいしかし後世の

文献に見える

「村が文王を安里に幽閉したが文王の部

下が賄賂を使

って救出した

とか

「伯夷と叔斉が武王の武

力革命を悲しんで首陽山で餓死した

とかいった物語は詩

経はもとよ-古本竹書や地下資料にも全-見えていない

之を要するに古公以下の

「人王」についてはマイ

スイメージを興えかねない物語は

一切語られていないので

あ-そこには諸王の威光を高めようとする政治的要請が

ったと考えられる后積や公劉は

「神代」の高租神であ

るから神話的要素に富む怪異な物語をそのまま停えても

不都合はないしかし古公以下は所詮

「人王」であるから

紳懸-的な奇蹟を附合すれば虞寛味が乏し-なるしその

一方では

「神代」から績-聖王の血統を誇示する必要があ

る勢い

「都合の悪い」史宜を無税して「輝かしい事業」

のみを賞揚する方向

へ向かうことになろうその敏寄せを

まともに食らったのが他ならぬ王李であ-殿に朝貢した

-殺された-した史資をそのまま記せば

「王統」の威光

を傷つけるのは明らかであるから大任と共に聖天子文王

を生んだいわば橋渡し役としてのみ名を留めることにな

ったのであるこのような

「歴史の神話化」の結果詩経

大雅の叙事詩語笛は周王朝開園の

「神代史」として西周

貴族の問に俸えられていったのである

二詩経

商頚の殿王朝開園神話

詩経

商頭の詩篇は鄭玄の商頭語で

「末の戴公の時に

大夫正考父が十二篤を得たが孔子が詩を編纂するまでに

七篤を失

った」

と停えられ今日に至るまで定説となって

12

いる現存する五篤の中には玄王

相土

湯及び中興の

武丁の名が見えている

殿の始租誕生を歌う詩として古来よ-引かれるのは

「玄

鳥」の冒頭の二句である

天命玄鳥降而生商

天は燕に命じ下士

へ降らせて商租を生ませた

鄭集がこの二句を

「天が燕を下士

へ降らせたというのは

その燕が残した卵を有城氏の女簡秋が呑んで殿租契を生ん

だからである」

と解して以来これが定説となっているし

かし森三樹三郎氏が既に指摘しているようにこの二句だ

けを見ている限-

「燕の卵を呑んだ」という事寛は直ちに

導き出せないのであ-この説話が商頚が作られた春秋時

代の始租神話そのままであるかどうかは頗る疑わしいし

かし玄鳥なる鳥が天と下士の間を往来して南畝を生ませた

ことはこの詩からも讃み取れるのであ-少な-とも春秋

の来園では殿租が天地通婿で生まれたとぎれていたと言う

ことはできよう

「長襲」にはやは-殿租とされる玄王とその孫とされ

段周開園の紳話と

「紳代史」(大野)

る相土が登場する

溶哲維商長顎其群洪水

巴だ高教下土方外大

国是瞳幅限既長有域方渚

帝立子生商(1章)

玄王桓掩受小国是達受大国是達率履不越途

観能登相土烈烈海外有載(二章)

きぎし

明徳なる商王その

現れて久しい洪水が贋が

った時南は下士の四方に功を敷き外の大国とを区

切-中国の虞さは遠大になったO有城氏もその時勢

力を埼し上帝は有城の子を立てて南国を作られた

(一章)

玄王は武徳があ-小国に封ぜられてもよ-治め

大国に封ぜられてもよ-治め薩に従

って越度な-

しめ

教法を現して行なわせた相土は武威輝かし-海外

の諸国を平定した(二幸)

この詩の

「玄王」は毛俸

鄭隻の如-殿租契のことで

「玄鳥」詩の商租と同

一であると解するのが普通であるが

白虎通

文質

(l名瑞賓)篤は玄王を湯と解してお-漢書⑳

鰻柴志は契(高)と玄王は別人で共に段租であると解する

13

中国文筆報

第四十六筋

相土は周鰻

校人注引世本で

「初めて乗馬を作

った」

と云

いこの詩で武勇の王として描かれていることと関連があ

るものと思われるしかし玄王

相土共に具鰹的に如何な

る事鏡があるのかはあま-括かれず神話としての考察を

かな-難しいものとしている

相土から十

1代後の子孫とされ夏案を伐

って殿王朝を

隆盛

へ導いたと俸えられる湯は同じ「長顎」に見えている

帝命不達至於湯秀湯降不遅聖数日頗o昭倣遅

遅上帝是砥帝命式千九園(三牽)

武王載端有虞乗鉄如火烈烈ー則莫我敢局萄有

三幸莫逐莫達七九有有載葦顧既伐昆吾夏架o

(六章)

上帝の命は誤-な-湯に至って天命と合合した

湯の生まれること期に麿じ聖徳は日々に高まった

天にも明らかに至る徳は久し-止まず上帝も愛敬し

て九州に法を示させた(三章)

武王湯は旗印を立て固-銭を撞-火の如-勢い

とど

もと

盛んなれば誰も敢えて長めることはできない竜株

ひこば

に三つの

生ずるといっても生長しきることは

ないO湯は九州を平らげ垂の葦図

顧閲と昆吾氏

竃の夏架を伐

った(六章)

湯が

「天命」を得た後に諸国を征討して九州を統

一したと

いう内容であ-大雅における文王や武王と同じ-始租

の神的資質を引き継いで天下統

一の事業を完成させるので

ある

これらを全鰻的に眺めてみると商租の神的誕生1

相土

湯の天下平定という流れは大雅における周王朝開園の物

語と同様のパターンであ-また請王を武徳の王と稀える

のに終始して請王にとってマイナスイメージを興えるよ

うな話が記されないのも大雅の文王や武王と同様である

商頭の諸篇が大雅以上に尖鋭な政治的意圏を以って作られ

たことは白川静氏も

「末に興

った膨折たる国家意識を背

景としてその抗争老たる刑楚に封する敵封感情の昂揚

を目的とし」たと指摘する通-であ-諸王の武勇ばか-

をことさら強調するのも肯けることであるところがも

しか-の如-商頭諸第が宋人の

「神代史」であるとすると

14

殿の諸王の文化的功績が殆ど歌われていないのは何とも不

思議な事賓である常時

「南賛歌舌」

の園であったはずの

楚と争うのに自らの文化的先進性とその由来を誇示しな

いということが果たして考えられるであろうか

結局宋人の殿開園神話を西周人の周開園神話と比べた

時の問題鮎は(一)後に

「契」と呼ばれるようになる殿租

の正睦(二)両者とも同様の構造を持ちながら殿開園の英

雄たちに文化的功唐が見られない理由tの二鮎にまとめら

れるo前者については戦国時代の楚国における殿開園神

話を記す楚辞

天問や殿嘘卜辞に見える殿の高組神など

にこの問題を解-鍵があろうと思われる後者については

まず宋園と同じ春秋列国である魯園で作られた詩経

魯頚

を参照するとある程度の推測が得られる

問官有他賓資枚枚赫赫妻嫁其徳不回上帝是

依無災無害禰月不遅是生后頑隆之百福蚕種

重移穂塀寂穿奄有下図倖民稼橋有稜有黍有

侶有拒奄有下士績南之緒o(1章)

后稜之孫資維大王o居岐之陽賓始易商至干文

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

武濃大王之緒致天之眉千枚之野無武無虞上

帝臨女敦商之族克威厳功王日叔父建爾元子

伴侯干魯大啓爾字鳥周室輔O(二章)

奥深-清い宗廟は堅固で美しい輝かしい妻糠は

その徳も貞正であ

った上帝も心をよせて無事に子

を生ましめ十月十日を遅れることもなかったここ

さいわい

に后積を生むと天は多-の

降したそれは黍

もちbぴ

おくて

わせはやうえ

おそうえ

まめ

や穿後に領下の閲を

くろきび

治め民に耕作させた稜や黍もあれば楢や

ある下士を治めて后稜は南の事業を縫いだ(一章)

后稜の子孫はかの大王宜父岐山の南に居任した

時始めて殿

への臣展開係を慕

った文王と武王に至

-大王の事業を縫いだ殿の天命の終わ-は牧野の

地でやって来た「武心を抱いた-心配してはならぬ

上帝も見ておられるぞ」武王は殿に勝

ってその人民

を治めその功績は先王たちにも等しい成王は言

た「叔父周公よ

そなたの長子伯禽を立て魯園の

侯とし大いにその土地を閃かせ周室の輔けとさせ

15

中開文革報

第四十六冊

よ」と

(二章)

「関宮」全九章の

うち二幸O魯図はこの詩にも云う如-局

公の長子伯禽が封ぜられた図であり周と同族であるから

曹然周租后稜に始まる諸先王を構えているわけであるが

后稜の農業創始を

一章全部を費やして

「南の緒を鰹ぐ」と

賞揚する割には文王

武王の殿周革命に封しては素束な

い描き方である寧ろ大雅の詩篇よ-も先王の文化的功績

に重きを置-といえる

1万の宋園は肘王の庶兄微子啓が武王に封ぜられた園で

ある宋園は殿の穫柴を修め殿の習俗を堅持し績けたと

俸えられる

所詮は被征服園である自らの租先を高ら

かに賞讃することに封して何らかの政治的願力が働いたこ

とは想像に難-ない「七筈の詩が亡伏した」という商魂

譜の記事は或いはこのことに関係があるのではないか

この失われた詩の中には

西周の

「生民」

「公劉」詩の如

-殿代よ-俸わる文化神を歌う詩があったのではないか

この推測をよ-精確に検討するにはやは-宋園以外の

園に俸わった殿王朝開園神話の一つとしての楚辞

天問を

参照する必要があるそこで次章ではまず殿嘘卜辞に見え

る高組神について検討し次に楚鮮

天間の殿王朝開園を

問う部分について考察した後これらと商項とを相互に比

較することにしたい

三卜辞及び楚鮮

天問の殿王朝開園神話

卜辞は占卜のための文句を記した文字資料であ-もと

よ-神話の記録を目的としたものではない従

って殿人の

間に俸えられていた殿王朝開園の物語を卜辞によって復元

することは言うまでもな-不可能であるただそこには高

租神や先王をはじめ様々な神の名が見えてお-これを後

の時代の殿王朝開閉神話と比較することによってその神

話がどれ位原初の姿に近いかを推定することはある程度可

能である

さて殿人にとっての最高碑は周知の如-上帝であ-

卜辞にも

「帝」として見えていて風雨などの自然現象を

支配し人事に禍福をもたらす存在であることが知られて

⑲いる

16

この上帝に封しては直接条把が行なわれることはないと

い-のが通説であるが島邦男氏によれば絶無という諸で

はな-締把が行われる例が三例あるこの締紀は上帝の

みならず高租神や先王に封しても行われてお-例えば

羅振玉

『殿虚書契緯編』

一-二-

一片に

点締子王亥

貞-王亥に繭のまつ-をせんか

董作賀

『乙篇』四五四九片に

葵未卜両税乙

英未に卜す租乙に蹄のまつ-をせんか

とあることから

恐ら-張光直氏の云う如-

「殿の人びと

『帝』は先租の絶稀であ

ったかあるいは先租の観念

の1つの抽象化されたもの」

ということになろう

上帝と同様の祭紀が行われる租神の-ち「高租」と呼

ばれるのは愛

王亥の二人である

愛は変とも揮され王⑮

図経が

「暑」と塵韻であることなどを理由に帝尊と解して

以来これが定説となっているO帝聾は後の時代の文献に俸

える所では自らの文化的事業や武勇に関しては何も記さ

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

ずただ殿組契と周蔵后榎の共通の父祖であると云うだけ

であ-上帝的な存在であ

ったとするのが諸家の1致した

見解であるしかし殿代に於ては

「帝」と帝替即ち愛は区

別されている以上完全に同

一であ

ったとはいえず上帝

と人王をつなぐ役割を持つ始租神として奉られたものと思

われる前述の如-愛が抽象化したものが上帝であ-

逆に言えば上帝が人格神化したものが愛なのである

一方の王亥はどうであろうか山海経

大荒東経に

有困民国-王亥託干有易河伯僕牛有易殺王亥

取僕牛

困民国で-主

亥は有易園と河伯園に自ら飼い馴ら

した牛を預けた有易園の人は王亥を殺し牛を奪

この候の郭瑛注が引-古本竹書紀年には

殿王子亥賓干有易而淫蔦有易之君鯨臣殺而放之

是故殿主

(一作上)甲徴候師子河伯以伐有易滅之

途殺其君紹臣也

殿の王亥は有易園

へ客として赴いたが行ないが悪

- 17-

中国文学報

第四十六放

有易の君主摘臣が彼を殺してしまったそれで段

の上甲微が河伯図の軍を借-て有易を伐ちこれを滅

ぼし君主鋸臣を殺した

と記されているまた初学記撃

九引世本には

「骸が

牛を飼い馴らした」とあ-この膜も王亥であると考えら

れている少な-とも東周末期に於ては王亥が牧牛を行な

ったという俸説があったのであ-王亥を論ずる人の多-

はこれに注目し彼を殿の文化紳であると考えている

「高

租」と特別扱いされる租神の一人であることを考えれば

王亥が文化面で多大な功績を上げ原始状態から文明状態

へと殿氏族を更展させたことは十分に考えられる

もしそうであるならば前章でその存在を示唆した

「殿

の失われた文化紳」はまさにこの王亥ということになる

既に述べた如-詩経

商煩の段王朝開園神話に封しては

それと系統を異にする楚辞

天問という比較資料もあるの

であるから次にこちらの方を見てみることにしよう

fTD

天問は古来極めて錯簡の多い書と言われる

その中で

殿周開園に関する部分は比較的次第がまとまっている湯

以前の駿の先王が措かれるのは55-聖早であ-簡秋と尊

の通婿から始まっている

55簡秋在董卓何宜玄鳥致胎女何喜

筒状は高い槙童にいたが尋はどうして見そめたの

か燕が滑-物を持

ってきたのを筒状はどうして喜

んだのか

古来詩経

商頒

「玄鳥」と同じ-簡秋香卵の説話を云うも

のと解されるがこれも

「玄鳥」詩と同じ-この二句だ

けから呑卵の話を導き出すのは難しいしかしこの通解が

行なわれた高い

「董」は天地の間を繋ぐにふさわしい場所

であ-鳥が天から

「胎」を授けることなど天地通姫を

描-ことには襲わ-はない天問では上帝には

「帝」とい

う呼稀を使

ってお-ここでの

「魯」はー辞の

「愛」と同

じく上帝の人格化したものと思われる

この二句は不思議なことに簡秋と啓が誰を生んだのか全

く言わないテキストに脱落がなければ次の章の登場人

物を簡秋の子と考えるのが最も素直であろうところが次

に登場するのは

「玄王」でも

「契」でもない

18

56該乗季徳頗父是滅胡絡弊干有屈牧夫牛羊0

57干協時舞何以懐之平脅鼻膚何以肥之

58有屈牧豊云何而逢撃林先出其命何徒

壬亥はその父季の徳を縫いだが父は立涯な人であ

ったどうして王亥はとうとう有易園に落ちぶれそ

ゐ牛羊を養

っていたのかO

たて

あわ

いだ

協せて舞う女を見てど-してその女を

のか

平らかな脇腹に細やかな皮膚どうしてこの女

まじ

ったのか

王亥は有易園の牧童にどのようにして合

ったのか

寝込みを襲われて先に逃げ出したがどこから逃げ出

して助かったのか

56章の

「該」を王逸は

「竜也」と解しているが晴代に至

って王関連が人名ではないかと疑問を呈出L

t

王国経が卜

軒との対照によって王亥であると断じて以来この説が支配

的であるこの四句も前途の山海経や竹書紀年と共に王

亥が牧神であ

ったことを示すものとしてよ-引かれる57

章は難解であり注揮家ごとに説が異なると言

ってもよい

股周開園の神話と

「紳代史」(大野)

ほどであるが王亥の婚姻のことを云うとする需介甫氏

黒須重彦氏の説に徒う58章は王亥が殺されそうにな-な

がら辛-も逃れたことを云い前に引いた山海経などの所

侍と関係があるものと思われる

この三幸の記述から王亥の迫害と文化創造のモチーフを

見出すことはさほど困難なことではないし簡秋と孝によ

る殿租の神的な誕生も前章までに述べた例と同様に何ら

かの形で王亥に英雄的資質をもたらすものと考えられる

簡秋が生んだのが王亥であると断定できれば話は簡単なの

であるが56章には王亥の父としての

「季」が登場してお

り従

って天問に於ては簡狭

暑-季1王亥という系譜が

成立していたことになるしかし卜辞に見える

「季」は高

租でない租神の一人にすぎず

「高租王亥」が

「季」を父と

していたとは考え難いo

l鮭に卜解における租紳相互間の

父子関係は不明な部分が多-本来は寧ろ横

一列に並ぶ関

係であ

ってどれも

「租先」に襲わ-はないのであ-果

たした功績や役割の違いによってそれぞれに分化したもの

と考えた方がよい卜辞における

「季」の神威は他の租紳

19

中国文革報

第四十六桝

と襲わらないが

天問では尊と王亥との橋渡し的な性格に

襲わったのである

59恒乗季徳蔦得夫朴牛何徒費班緑不但遠来

王恒も李の徳を鰹ぎ王亥の養

った僕牛を得たど

あまね

はどこ

うして狩-に行

って獲物を

-

民に

ただ行

って

締るだけに止まらなかったのか

「恒」は王遠江では

「常也」と云うがこれも王国経が卜

辞に見える王恒のことであると解して以来諸家概ねこれ

に徒う「班稀」は近年の解帯では

「官位」「栄達」等に解

され

「王恒が有易図で出世しょうとした」意であるとす

るがす

っき-しない解輝であるー辞に見える王恒は

弓の形の中に

「恒」字を入れたものもあ-寧ろ

「湯は狩

-に往-際ただ行

って締るだけではな-民に編-施し

を輿えた」とする王逸注の方が原初的な意味に近いと思わ

れる但し主語は湯ではな-王恒である張光直氏は王恒

と罪に何らかの関係があるのではないかと考えるが

それ

よ-は駿人の狩猟柵であ

ったと考えた方が良いかも知れな

いただ王恒の事境を記した文献が他に存在せず容易に

結論を得難いのは残念なことである

60昏微遵述有狭不寧何繁鳥葦棟負子韓情

61絃弟遠軽危害顔見O何襲化以作許後嗣而逢長

上甲微は父王亥の事鏡を鮭ぎ有易園は安定を保て

ず滅びたどうして有易の人民は妹に止まる鳥のよう

に苦しんでいるのに上甲微はその子女にまで横暴な

ことをしたのか

目の陪んだ請弟はみな道ならぬことをしその兄上

甲微に危害を加えたのにどうしてうま-ごまかして

その子孫が長-祭えることになったのか

この二章も本づ-所がはっき-せず難解であるが「昏微」

はやは-王国経が上甲微のことであるとしてお-その事

蹟を云うものと考えられる上甲微は卜辞で系譜が明らか

な請王のうちで

一番古い租先に普た-いわば

「人王」の

租であるがここでは王亥と同様の迫害モチーフが再び現

⑳れその事鏡は既に神話化されていたものと見られる「何

襲化以作詐後嗣而逢長」の二句はそ-した神話であるが

故の不合理性を問うているのである

- 20-

62成湯東巡有等宴極何乞彼中臣而吉妃是得

63水漬之木得彼中子夫何悪之腰右筆之婦

64湯出重泉夫何皐尤不勝心伐帝夫誰使挑之

湯は東方

へ巡狩Lt有等園までやって来たど-し

てあの中臣伊声に乞い求めて良い妃を得たのか

水蓮の木から有等氏の君主は伊声を得たとい-が

どうして伊声を嫌

って湯の妃に付き添わせたのか

湯は重泉の牢獄から出て来たがそれは何の罪だっ

たのか正義を求める心を抑えられず実を伐

ったが

誰が彼をそうさせたのか

商頭における湯は夏架や尾吾氏を伐

った英雄として非常に

多-の紙幅を割いて賞揚されていたのであるが天間では

僅か三幸で終わ-しかもその年分は彼の名臣伊声のこと

に費され天下を平定した聖王にしてはかなり冷淡な描き

方である多-とも王亥や上甲微などと同等の重さしか持

っていないといえるしかしこの簡単な記述は神話的な趣

きに富んでいる伊声は呂氏春秋

本味簾で

「有佐氏の女

が空桑の中から嬰兄を得て

それを君主に献じ君主は

般周開乾の神話と

「紳代史」(大野)

料理人に彼を育てさせた」云々と書かれるような俸説をも

つがその原型とみられる記事が63章にあ-64章の

「湯

出重泉」も森安太郎氏が

「陽

(太陽神)が海の下を-ぐっ

て再び現れ出る様子」

と解したほどであるその虞偽は措

-としても

「重泉に囚われてから脱出」

というのがこれ

まで屡々登場してきた迫害1事業完成のモチーフであるこ

とは明白であ-この迫害こそ棄てられた后稜と同じ-英

雄を英雄たらしめる神話素の一つである殿人にとって湯

「人王」であったはずであるが楚人にとっての夏殿革

命は既に神話となっていた宋人にとっても同じであ

った

と思われるしかし東周時代の為政者の意識は最早神話を

古代人の如-

「心象における事資」として受け取ることを

許さなかった神話の神話たる所以である英雄の迫害も

政治家としての彼等にとっては

「不合理」以外の何もので

もな-統治強化の障碍でしかなかったであろうそれ故

その

「不合理」を宋人は頒詩から治し去-楚人は

「天に

問」うたのである東周の殿開園神話はその鮎で西周人

の神話と歴史が

一鰻になった

「神代史」であ

った詩経

21

中国文筆報

第四十六冊

雅の周王朝開園の物語とは成因がやや異な-神話そのも

のを改襲した

「神代史」であるといえよう

再び天間に戻ろうここで語られる殿王朝開園神話を綜

合すると腰租誕生1夏殿革命という流れは商頭でのそれ

とはぼ

一致するのであるが商頚では全-無税されている

王亥

王恒や上甲微の事浜を多-記している所が大いに異

なるこれらの先王は卜軒に於ても租神として柁られてお

-殊に愛

(餐)王亥は

「高租」と崇められていたのであ

るから天問における殿租誕生や牧牛創始の偉大な功績も

殿代からその根摸となるべき停東があったものと考えられ

る殿の未森たる被征服図

宋図で語られなかった文化神

が周の政治的願力が比較的少なかったであろ-楚園に於

て生き残

っていたのであ-「王亥を構える頒詩は政治的

要請によって胴去されたのではないか」という前章で捉

起した推測は更に確貴性を樹して-るのである

このように文化神を語る神話は政治的な事情によって

改襲されやすいという

一つの傾向が次第に明らかになって

きたのであるが天間に見える周王朝開園神話を詩経

雅のそれと比べてみるとその傾向は

一層はっき-する

これについては次章で検討することにしてその前に前

章で提起したもう

一つの問題即ち契と後に呼ばれるよう

になる殿紐の正鰻について卑見を示しておきたい

1般には詩経

商頒

「玄鳥」

「長顎」の鄭隻や楚鮮

天問の王逸注史記

殿本紀などから筒状が生んだ殿租

が契であるとされ詩経や楚軒の注揮家も特に疑問を抱い

ていないしかしこれまで見てきた詩経や天問には契の名

は全-見えていない国語を見ると周語下には

玄王勤商十有四世而興

玄王は商のために働き十四世かかって興起した

鄭語には商

契能和合五教以保干百姓者也

商契は五教をよ-調和させ人民を守-養

った人で

魯語上には

契為司徒而民韓-上甲微能帥契者也o

契は司徒の官となって人心を和らげ--上甲微は

22

たす

契をよ-

た人である

自玄王以及主薬莫若湯

文王から主薬

(湯の父)に至るまで湯よ-すぐれた

者はいない

とあるこれらを見ると契とい-名は周

楚以外の

園で用いられし

かも

「司徒として五教によって人心を安

定させた」という事鏡が語られている抽象的な形ではあ

るが文化面での功寮が取-上げられているのである

そうすると陳夢家氏の

「契と刻は互訓であ-共に亥

と普通である故に契は即ち王亥である」とする説が有力

な説として浮上して-るOこれまでの考察から王亥は殿

の高租にして文化所であ-従

って契というのは王亥の周

連諸国での呼び名であ-「五教」云々は王亥の文化神的

な面が周遠諸国に於て襲化したものと考えられるのである

もう

1万の

「司徒」という面に注目すると楊寛氏は

「司

徒」は

「司土」であるとして契は社紳

(土地紳)であった

と考えている「司徒」を

「司土」と表記するのは西周金文

に多-見られる用法であ-本来は土地や農業を司る官で

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

あったらしいまた史記

殿本紀には

「実は南を佐けて治

水に功があった」とあ-梁玉縄の疑う如き司馬遷の臆説

でな-古-からの停承に基づいているものであるならば

契に夏南の如き下士造成神的な面もあった可能性は捨てき

れない司土の官は農業にも関係が深いことから契は土

地神にして農神の性格をも持つことにな-このことは王

亥が牧牛の創始者であることと関係があるのかも知れない

なお尚書尭典には

帝日「乗努民阻飢o汝后榎播時百穀O」帝日

「契百姓不親五品不遜汝作司徒敬敷五教在寛」

もろもろ

舜は言った「棄よ

民は飢え苦しんでいる

汝は后頑の官とな-

この百穀を播け」と舜は言

った「契よ人民は互いに仲良-せず父子

君臣

夫婦

長幼

朋友の序に従わない汝は司徒の官とな

つつし

-五教を敬んで廉め心を寛-して治めよ」と

とあ-同じ-尚書の周官には

司徒掌邦教敷五典擾兆民

司徒は閲の教化を掌-五教を廉め多-の民を順

23

中国文畢報

第四十六肋

わせる

とあ

って司徒が教化の官であるかの如-書かれているが

これは后積が農官とされたために契は

「五教を康めた」面

のみが取-上げられそれが司徒の官名に結びついてかか

る誤解を生んだものであ-司徒の本来の意味ではないと

考えられる

周やその支配下にあった宋園では殿租に玄王という名

が使われてお-玄鳥による神的な誕生と商の興起のた

めに轟-したとい-事暁が語られる

魯園では

「契」

「玄

王」両方が見えるがー契と言う場合は文化的な功績が描か

れ玄王と言う場合は始租としての面に注目されている

恐ら-

「玄王」とは契=

王亥の始租としての面が強調され

た時の呼稀であ

ったと思われる文化人類学的にも「玄」

という名は始源の闇や滞沌を連想させるものであ-例え

ば老子

六章の

玄牝門天地板

玄牝の門(女陰)は天地寓物の根源である

の如-である

宋園や周では殿租の文化神的な面が抹殺さ

れたために始租神としての

「玄王」の呼稀が定着し魯

鄭などの周連列国では儒教的に襲化した文化神として

「契」と呼ばれ楚国では殿代の呼稀

「王亥」が原形に近

い形で保存されて

「該」と呼ばれたのであろう

四楚鮮

天問の周王朝開園神話

まず天問における殿周開園神話の大筋の流れを圏示する

と附固

一のようになる我々の常識で考えるならば夏殿

革命の次に殿のその後の衰亡を歌いそれから周王朝

へと

移る構成をとるのが普通であるが天問では夏殿革命から

いきな-周の衰亡

へと飛びそこから殿の衰亡

へと戻る間

くりかえ

「天命は

」というテーゼを挟み込んでいるこの

ような操作によってどの王朝も同じように興亡を繰-近

すというテーゼが

7層際立つのであ-

T見乱雑に見える

排列が安は高度なレトリックを用いた結果であるという

ことがわかる

次に殿周の開園が歌われている各章を時間順に並べ

かえて相互に封比してみると附圏二のようになるこの固

24

殻周開園の耐話と

「神代史」(大野)

附圃- (丸内の数字は葦の通し番競)

舜と女梱 ⑱~

「験萌在初」

1

度の先王 ~

t

夏殿革命 ~

周の先王

l

殿周革命 ⑮~cent)

iiiiia段の衰亡 ~ 周の興亡

一- 一 ノ ー「天命反側」

附圏二

段 簡秋と唇の通婚

王亥 有易で牛羊を牧す

王亥の婚姻

王亥 殺されかける

王位 王亥の牛を得る

上甲微 父の遺業を鮭ぐ

肢弟が上甲微を迫害

一寸 どうして子孫が栄えたのか」

~ 楚の興亡

周 ⑯ 后硬 氷上に捨てられる

上帝をも驚かす武勇

-「どうして子孫が栄えたのか」

成湯 伊声を得る

伊デの生い立ち

湯 壷泉から出て案を伐つ

- 25-

⑳ 文王 天命 もて段を覆す

岐山に移る殿の惑婦

文王 村の無道を天に告げる

文王 太公望を得る

武王 急いで殿を伐つ

武王の朝合

周公 武王をよしとせず

武玉 村を伐つ

中隊文革報

第四十六筋

一見して知ることができるのは周の先王には僅か二章

しか使わず殿周革命に九章も費やしてお-殿王朝の方

が租神に多-の章を割いて夏殿革命には三章しか使わな

いのと対照的であるということである

周王朝開園を云う章をもう少し詳し-見てい-と

76積維元子帝何竺之投之干水上鳥何燐之

77何漏弓挟矢殊能渚之既驚帝切激何逢長之

后稜は上帝の長子であるのに上帝はどうして彼に

危害を加えたのか彼を氷の上に捨てると鳥はどう

してこれを暖めたのか

どうして弓をひきしぼ-矢を挟みすぐれた才能で

武婿となったのか上帝をも驚かすほどひどいことを

したのにどうしてその子孫は長-栄えたのかQ

后積が上帝の子であるのに迫害され鳥によって助けられ

たというのは詩経

大雅

「生民」と同様であるが周租后

礎の両的資質を云-のみであ

って農業費明には全-解れ

られていない77章は王逸注では前二句を后稜後二句を

武王の事績とするが洪興租補注は全部を武王の事績とし

朱子はその両方を疑問であるとす

78章以下では文王の

ことを云う章が績いてお-この章を武王の事虞とする課

には従えない聞

多や衰珂

氏は全部を后頑の事鏡とする

が必ずしも后榎に限定することはできない少な-とも

古公以前の

「神代」の先王のうちの誰かであることは確か

であろう後二句の

「上帝をも驚かすようなことをしなが

らどうして子孫が栄えたのか」という疑問が殿の租神と

「人王」の境目である上甲微を語る61章の後二句と似るか

らである周の先王を歌うのはこの二幸で終わ-であ-

そこでは先王たちの文化的功績は全-歌われておらず殿

の先王に比べて極めて冷淡な扱いである

78章以下は殿周革命にまつわる様々の問が寛せられるが

詩経

大雅に見えておらずまた考古学的な裏付けもない

俸説的な事件もい-つか見えているとはいえ神話的な奇

怪さには乏しいといえる0

79遷蔵就岐何能依O殻有感婦何所説

貴職していた重器を移して岐山にやって充たがどう

して人民がそれに従

ったのか殿には人を舷惑させる

26

女がいたというが何のために議話しょうとしたのか

前句についてはこれを文王に懸ける説

大王に懸ける課

あるが前後で文王のことを歌

っているので大王の事蹟と

するのには難があるとはいえその内容は詩経

大雅

「崩」

に云う古公宜父の事鏡に近-どちらに限定することもで

きない「大王から文王までの問」とする他ないであろ-

後二句は肘の妃である坦己を云うとされるがその何につ

いて問うているのかは明らかではないしかし両者とも

その

「答」となるべき俸説がこの時代に前後して現れてお

-前者については

1章で引いた孟子

染着王下後者に

ついては太平御覧奄

1三五引世本に

「村が有蘇氏を伐

った

時有蘇氏は坦己を妃にさし出した肘はこれを愛して言

うことを何でも聞いたために武王が肘もろとも殺した

云うのがこれに普たる

66到峯村窮叔旦不嘉O何親撰車足周之命以各嵯

肘の首をはねるに至-周公且はこれをよしとしな

かったどうして周自ら謀

って殿を討とうとしたのに

その行動は人民に支持されたのか

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

後二句は極めて難解であるがいま黒須重彦氏の解樺に従

う他の諸家にはテキストの文字操作で意味を通らせよ-

とする者も多い前二句を王逸は

「武王の舟に白魚が飛び

込んだので群臣が

『吉兆だ』と言ったのに封Lt周公が

『吉兆ではあるが吉兆と思

ってはならぬ』と戒めたことを

云う

と解しているがこれは史記

周本紀の記事を敦術

したものであって漢初の五行思想の産物である寧ろ所

謂伯夷

叔奔停説の前駆形と考えた方がよい

ここに引いた事件が果たして史寛であ

ったのか西周時

代に生まれた俸説か或いは東周以後の俸説であるのかは

容易に判断できないしかしいずれにしても西周人の

「神

代史」からは無税されていた事件が本来の形ではないに

しても再び記録される動きをここに見ることができるので

あ-結語で述べる

「神代史の再神話化」の萌芽であると

いえるO

このような新しい動きはあるものの天問の周開園神話

も始祖の神的誕生1英雄的事業の達成という基本的な構造

には全-襲わ-はないしかし全鰻を通じて諸王の文化的

27

中閲文革報

第四十六筋

功績には全-解れられていないばか-か周の先王=

租秤

に封しても極めて冷淡であ-殿に封する態度とは明らか

に異な

っているのである

このことは昔時の楚園が周文化よ-も殿文化の方により

親しみその信仰

習俗等を保持していたことの一つの讃

接であろう楚文化と殻文化の関係の深さは既に様々な面

から指摘されてお-例えば楚辞

九歌に見える「雲中君」

「河伯」の神がト辞にも

「雲」「河」神として見えているこ

とや西周末期のものと見られる楚の青銅鐘は殿の鍔と形

が似てお-その銘文も殿金文に似た雄滞な書鰻であるこ

とな

どが挙げられるこのよ-な現象が生じた過程として

は(一)歴代から楚は殿に臣屈してその文化を受け入れ

周の時代になっても表向きは周に臣属しながらも殿の文化

を保持し績けた(二)周代以後に国力を埼大した楚園は

への対抗上その文化を拒み隣接する宋園の殿文化を積

極的に導入したという二つの説が考えられる前者の立

場を取る者はその根接として詩経

商頒

「殿武」の

撞彼殿武奮伐剰楚突入其阻衷利之放有戟其

所湯孫之緒(一章)

敏疾なる武丁は奮起して剤楚を伐ち険しい山地

に攻め入って刑楚の兵士を虜にしその地を平げ

湯王の子孫として手柄を立てた

という部分を畢げることが多い

前述の如-商頭目鰻が

宋園の楚国

への対抗心から作られたものであ-我が国の

紳功皇后遠征説話と同じ-どこまで史寛を反映している

かは未知数であるしかも卜辞などの殿代の地下資料から

は昔時の殿楚関係を示すものはまだ見つかっていない

一方後者については史記

楚世家に周の夷王の時に

楚王熊粟が

「我は牽夷な-中国の詮親に興らず」と言っ

たという記事もあ-現時鮎ではこちらの説の方が有力で

あると思われるいずれにしても周とは言語や風土を異

にする楚閲で生まれた天問には意固したか否かはともか

-周文化の重税と殿文化

への傾斜が讃み取れるのであ-

周王朝側の論理で殿の文化碑の功績を壷-抹殺された詩経

商頭や周の文化神を構える詩経

大雅とは好封照を見

せているのである

28

結語及び除論

これまで述べ来

ったことを要約すると詩経や楚辞

問に見える殿周開園神話は始租の所的誕生1迫害1事業

(文化創造

天下統

一)の完遂という構造を持ち既に西洋

の英雄神話に於て指摘されている基本構造をここにも見出

すことができるただ西洋では

一人で行なわれることが多

い英雄としての事業が中国では教代に亙

って行なわれる

ことが多いという違いはあるところが殿の開園と周の

開園また詩経と天問の相互間で詳し-比較してみると

神々の文化的功績は神話が記録された常時の政治的な事情

によって抹殺されることがあるという事資に束づ-この

ことは中国に於ては剣を振るって活躍する英雄よ-も

文化を創始する

「聖王」の方が重きをなしてお-氏族や

国の威光を左右するものであ

ったということの一つの謹左

といえよう

詩経

大雅における周王朝開園神話は高租にして文化

神である后稜-公劉を神話的要素に富む叙事詩によって語

段周開園の紳話と

「神代史」(大野)

っているが

「人王」の代に至ると

殊に王李に新著に見

られる如-諸王にとってマイナスイメージを輿えかねな

い史寛は壷-制去され武力革命の成功を

「神代」から引

き継がれた輝かしい事業として稀讃している周王朝の開

園神話とそれに績-殿周革命の史糞は詩が記録されるま

での間に

「神代史」

へ改愛されたのであるそこに支配強

化のための王室神聖化という高度な政治的意圏が働いてい

るのは確資であろう

段の遺民の園である春秋の宋園における段王朝開園神話

詩経

商項の諸篇は最終的には周王朝側の人々によって

記録

編輯されたものであ-それ故殿人の信仰した文化

紳は義-抹殺され支配者としての周王朝の論理に基づ-

「神代史」に改変されているOそれに封して楚辞

天問の

殻王朝開園神話には卜辞にも見える租紳たちの神話的雰囲

気に富む物語が多-残

ってお-逆に天問の周王朝開園神

話では周の先王の文化的功績を無税していて宋国との政

治的

風土的立場の違いを明瞭に浮かび上がらせているの

である

- 29-

中国文学報

第四十六筋

か-の如-

神話時代やそれに績-歴史が為政者の手に

よって

「神話化」される場合は中開の諸秤の中で重い比

重を占める文化神が記録者の政治的立場に従

って改奨され

「人王」に封しては

「都合の悪い」史貴を切-捨てて

「神

代史」

へと仕立てられるのであるが東周時代になるとそ

れとは逆に「人王」にも神話素の一つとして解揮可能な俸

説が様々な書物に記録されるようになる既に引用した文

王の安里幽閉

伯夷

叔斉の餓死などがそれであ-

「人

王」の物語もこれによって組両と同様の典型的神話

へ近づ

いてい-のであるこれらが記録されたのは諸子百家の書

物であ-昔時の遊説家たちが民間に流布していた停説を

敬-上げて自説を述べるために用いたものと考えられる

これらの停説が古い形をそのまま保

っているか否かは全-

保護がないとはいえ政治力撃の働きに-いレベルに於て

「神代史」に再び神話的物語が付け加えられるようにな

たということはいえるいわば

「神代史の再神話化」であ

-

1般に

「中国古代王朝神話」として

1つの物語にまと

められているのはこうして

「再神話化」された結果の産物

なのであるこれらは確かに

「神話」としての要素を豊富

に含んでいるのであるがこれを中国古代神話の原型と見

なすことは不可能であ-上述の如-複雑な要因が絡み合

っているのである

こうして

「神代史」はたとえ元の形とは異なるにせよ

再び

「神話」としての光彩を放ち始めたところがこの

「神話」をまたも

「歴史」に固定してしまったのが他なら

ぬ史蓬であることは周知の通-である

しかし

「神代史の再神話化」の原動力とな

った

民間

に語-経がれた王朝停説のエネルギーもこれで絡恨したわ

けではなかったこうしたエネルギーはその後も小説に記

録された種々の歴史俸説などを生み出し形を襲えて生き

績けたのである

ところでこれまで本文中に取-上げなかった

一つの重

要な問題があるそれは

「楚園に古-から停わる楚人自身

の神々はど-な

っていたのか」という問題である

楚辞

天問にはその末尾に楚図の俸説と思われるものが

記されてはいるが多-の注帯家が匙を投げているはど難

30

解であ-筆者も今敢えてこれに挑戦するほどの飴裕はな

いoしかし離騒ではその冒頭で「私は帝高陽の未森である」

と歌

ってお-少な-とも屈原の時代では楚人は穎頭高陽

氏を租神としていたと考えられているが文化神に関する

記述は見えない

一方同じ頃に楚園で成立したと考えら

れている山海経

大荒西経には街頭の子孫の神々の事業

が豊富に記されている例えば重

寮の天地分離

太子長

琴の音禁孝明などである

これらの事章から得られる

一つの推測をここで述べると

楚辞に於ては楚人自らの文化両を表立

って取-上げられな

い事情があ

ったものと思われる楚語で書かれた「原楚鮮」

には書かれていたがそれを漢語に翻弄した際に宋図か

ら導入した殿の文化神に置き換えたのかも知れないそし

て自らの文化紳とその物語を速い

「大荒」の物語として

カムフラージ

ュしたのが他ならぬ山海経なのではなかろ-

かこの書が地理書の形をとっていることや他書に見ら

れない神話停説を豊富に載せていることなどは丁度我が

国の

『出雲園風土記』を思わせるものがあるまた殿の

殿周開国の神話と「神代史」(大野)

文化紳王亥が

「困民国」の人とな

っていた-楚の租神で

あるはずの蘭頂が

「額頭囲」なる図にいたとされているこ

となどもこの仮説の根嬢となろう

しかし最早紙幅も轟きているこの問題は山海経を中心

として改めて考察することにしたい

ば織井慶紀著池田末利編

『中図神話の文化人類学的

研究』(1九九〇平河出版社)があるoまたユング心理学の

立場から日本神話を分析したものとして河合隼雄

『中空構

造日本の深層』(一九八二中央公論社)等がある

近世以前の諸席の議論は専らこの怪異雫が信ずるに足るか

否かの次元に終始するが近代的な研究としては聞一多

「萎

娠履大人跡考」(『聞一多全集』第一射一九四八開明書店)

白鳥清

「段周感生神話の解揮」(『東洋学報』十五巷四親tT

九二五東洋協合学術調査部)出石誠彦

「上代支部の異常

出生説話について」(『支那神話俸説の研究』所収tl九四三

中央公論社)等がある

「帝上帝也」

「帝高華氏之帝也従於帝而見干天婿事賛敏也」

孔疏に

「頑柁郊礁之時英夫高辛氏帝率興供行妻娠随帝之

後践履帝迩行事敬而敏疾放鳥神歌饗紳既饗其条則

31

中国文筆報

第四十六筋

愛而拓之

於是為天神所美大為福緑所依止twz=得懐任則

震動而有身」と云う

例えば嗣西族の

『東巴控』に見える縛文字にこのことが窺

える附固三参照また河南省に俸わるロ東俸説によると

女桐が天から降ってきて伏義が地下から出てきたと云う

(陶陽

鍾秀

『中国創世神話』一九八九上海人民出版社二

一四頁)

附圏三

primeJ 一一一

~PJ虹互L

LJL

堅 室④

上部の 一へ は天下部の 皿 は大地を

表す圃①は中間に天地交合の気がありこれ

より荷物が生ずる固②の中間は蛙で天地交

合後の襲化を表す圃⑨では天地の間に男が上

女が下になっており男女の交合と同様にして

天地が人類を生んだことを表す

(陶陽 鍾秀 『中国創世神話』214頁)

「惟虞東学詩云人之初生皆裂胎而出騒失所依故堕地

郎帝惟羊連胞而下共産猪易故詩以

『如達』馬比o又常

熟陶太常元淳日凡嬰兄在母腹中皆有皮以豪之俗所謂胞

衣也生時其衣先破兄鰻手足少蔚放生之難O惟羊子之生

胸仇完具堕地而後母篤破之故共生易o后硬生時蓋戒於胸

中形鮭末露有如羊子之生者放言

『加速』今按前二説

是也下言

『不味不副』蓋謂其胞衣之不折裂也」(『毛詩俸

集通帯』巷二十五)

「徐君宮人娠而生卵以箆不詳秀之水演O猪孤母有犬名

鵠蒼へ猟干水溝へ得所弄卵衝以東蹄猪孤母以馬具凍俊

之逐沸成見生時正値へ故以為名徐君宮中聞之乃更録

取長而仁智襲君徐固」(博物志

異聞篇引徐値王志)

「高句凝着其先出自克明東明本北夷嚢離王子離王出

行其侍兄於後任娠離王達欲殺之侍見目『前見天上

有菊如大鶏子乗降我困以有嫉』王囚之後連生男玉

置之家牢家以口束嘘束不死o王以為所乃聴収養」(梁

諸夷俸)

北欧や古代

ハンガリー等に見られる豊富な例がKケレ-

ニイtCGユング

『神話撃入門』

一九五1(杉浦忠夫訳

1九七五晶文社)に引かれている

例えば壮族に俸わる

「種子と犬の尾」の物語では人々

「九尾狗」に天上の穀物を盗みに行かせたところ穀物を

九本の尾に-つつけて蹄ろ-としたところを番人に見つか-

八本の尾を叩き切られたが残-

1本の尾に穀物をつけて逃げ

師-人間は農業ができるようになったと云う

(陶陽

秀前掲書二七九頁)

32

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 11: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

中国文革報

第四十六

文王受命

有此武功既伐干崇作邑干豊o文王桑

哉文

王は天命を受けこの武功を立てた崇園を征討

すると豊に都邑を造営したすぼらしい文王よ

「文王有壁」の第二章密園征討と並んで文王の主要な武

功とされる崇園征討を歌うものであるがこれも

「天命」

によって行なわれたものとされている

詩経

大雅の落第から直接知ることのできる周王朝開園

の物語は以上の通-であるこれを后稜から文武までひと

績きに眺めてみると始租にふさわしい神的な誕生から始

まって迫害を受けた末に諸文化の開拓更には武力によ

る天下平定とい-英雄的事業を完成させるのであ-これ

は丁度Eノイマンらによって指摘されている英雄神話の

典型的なパターンとも合致する后積-公劉-古公-文王

-武王の五王が全鮭として恰も

1人の英雄の如き振舞いを

見せているわけである

しかし仔細に見るとこの五王の中で后稜-公劉古公

文王-武王の三者には微妙な違いがある后穆-公劉の物

語は神話的な雰囲気が濃厚であるのに対し文王-武王に

関しては

「紳懸-」的な奇蹟は全-見られず武力行使に

及んだ根嬢としての

「天命」ばか-が強調されているそ

してこの両者の中間的な存在として古公がいるのである

いわば古公を境にそれよ-前が

「神代」であ-それよ-

後は

「人の代」として描かれているといえる

か-見ると古公以後の物語は開園の

「歴史」であ

って

「神話」として扱うにはふさわし-ないという人もいる

かも知れないそれにもかかわらず筆者は古公から武王に

至る物語は

「歴史」として作られたものではな-歴史が

神話の一部として改襲された

「神代史」

であると考える

なぜなら考古学的に知られる殿周革命前後の歴史には詩経

と大き-ずれる部分があるからである

后積や公劉は周原卜軒や金文には全-見えず神話上の

人物であることを疑う者はいない古公賓父については

文王の租父たる大王と同

一人物と考えることに疑問を向け

る説があ-例えば顧訴剛は古公は周王朝創建時の王で

あ-大王は周の国力が強盛になった時の王であると考え

10

⑬たOしかし

「轟」詩のところで述べたことを考えれば古

公を周王朝の租とする課には従い難い現在鹿-支持され

ている説では殿が常時山西省に居た鬼方を討

った結果

彼等が西方に移動して周を歴迫したため周は幽から岐山

に移ることを飴儀な-されたと言う

具鰻的な国名などに

はなお問題があるとはいえ周が異民族の歴迫で岐山に移

ったという事寛があ-それが

「崩」詩にも反映されてい

るのは確かであろう時代が下がると孟子

梁意三下に云

う如-

「古公が徳を守

って岐山

へ逃げ人民も彼を慕って

共に移動した」という儒家道徳による合理的解帯が行われ

るようになるのは周知の通-である

王李は前述の如-詩経ではその事蹟が全-記されない

ところが古本竹書紀年には

殿の武乙三十五年王李が西落鬼戒を伐ち二十雀

王を捕虜にした(後漢書西完博引

)

殿の文丁が季歴を殺した(青書束管俸史通疑古

社説上引)

といった記事が見え文丁期の卜辞にも周を伐つことの可

段周開園の神話と

「神代史」(大野)

否をーつたものがあるOしかもその7万で同じ古本竹書

紀年に

殿の武乙三十四年周の王李が来朝し武乙は土地

三十里玉馬を賜興した(太平御覧巷八三引

)

とあ

ってこの時期の卜辞にも周を

「周侯」と呼んでいる

ものがあ-周は段の侯国として厚遇されていた面もある

のである「大明」詩での王李は殿と関係の深い拳闘から

大任を迎えてお-史寛とすれば政略結婚である王李の

頃の周は殿と虚々賓々の駆け引きが績-緊迫した関係にあ

ったのである

王李のこうした

「行状」は竹書紀年に記事が残されて

いる以上常時の史官によって記録されていたはずである

にもかかわらず詩経ではそれらが殆ど無税されていると

すれば大雅の諸篇が作られた時から記録されて現在の形に

なるまでのいずれかの段階で意固的に例除されたと考える

のが愛常であるどの段階で刷られたかを決定するのは言

うまでもな-非常に困難であ-例えば

「解」詩で七草ま

で古公の根接地造営の話が績-のに八草でいきな-

「韓

ll

中国文革報

第四十六射

不珍膜性」と文王の代に飛ぶのはあま-にも唐突であるこ

とから七草と八草の間に王李が殺害されたことを歌う章

があ

ったと推定することもできるが残念ながら確認する

すべはないしかしいずれにしても我々が常識的に考え

れば王李が殿に殺された事寛を語ることによって王季1

文王-武王を悲劇の英雄に仕立てられ殿周革命の物語に

一層の彩-を添えられるはずであるのにそれらが轟-酬

去されているのである

文王と武王に関しては詩経に見える密

崇征討等は周

原卜辞等に照らしても史貴であ

ったらしいしかし後世の

文献に見える

「村が文王を安里に幽閉したが文王の部

下が賄賂を使

って救出した

とか

「伯夷と叔斉が武王の武

力革命を悲しんで首陽山で餓死した

とかいった物語は詩

経はもとよ-古本竹書や地下資料にも全-見えていない

之を要するに古公以下の

「人王」についてはマイ

スイメージを興えかねない物語は

一切語られていないので

あ-そこには諸王の威光を高めようとする政治的要請が

ったと考えられる后積や公劉は

「神代」の高租神であ

るから神話的要素に富む怪異な物語をそのまま停えても

不都合はないしかし古公以下は所詮

「人王」であるから

紳懸-的な奇蹟を附合すれば虞寛味が乏し-なるしその

一方では

「神代」から績-聖王の血統を誇示する必要があ

る勢い

「都合の悪い」史宜を無税して「輝かしい事業」

のみを賞揚する方向

へ向かうことになろうその敏寄せを

まともに食らったのが他ならぬ王李であ-殿に朝貢した

-殺された-した史資をそのまま記せば

「王統」の威光

を傷つけるのは明らかであるから大任と共に聖天子文王

を生んだいわば橋渡し役としてのみ名を留めることにな

ったのであるこのような

「歴史の神話化」の結果詩経

大雅の叙事詩語笛は周王朝開園の

「神代史」として西周

貴族の問に俸えられていったのである

二詩経

商頚の殿王朝開園神話

詩経

商頭の詩篇は鄭玄の商頭語で

「末の戴公の時に

大夫正考父が十二篤を得たが孔子が詩を編纂するまでに

七篤を失

った」

と停えられ今日に至るまで定説となって

12

いる現存する五篤の中には玄王

相土

湯及び中興の

武丁の名が見えている

殿の始租誕生を歌う詩として古来よ-引かれるのは

「玄

鳥」の冒頭の二句である

天命玄鳥降而生商

天は燕に命じ下士

へ降らせて商租を生ませた

鄭集がこの二句を

「天が燕を下士

へ降らせたというのは

その燕が残した卵を有城氏の女簡秋が呑んで殿租契を生ん

だからである」

と解して以来これが定説となっているし

かし森三樹三郎氏が既に指摘しているようにこの二句だ

けを見ている限-

「燕の卵を呑んだ」という事寛は直ちに

導き出せないのであ-この説話が商頚が作られた春秋時

代の始租神話そのままであるかどうかは頗る疑わしいし

かし玄鳥なる鳥が天と下士の間を往来して南畝を生ませた

ことはこの詩からも讃み取れるのであ-少な-とも春秋

の来園では殿租が天地通婿で生まれたとぎれていたと言う

ことはできよう

「長襲」にはやは-殿租とされる玄王とその孫とされ

段周開園の紳話と

「紳代史」(大野)

る相土が登場する

溶哲維商長顎其群洪水

巴だ高教下土方外大

国是瞳幅限既長有域方渚

帝立子生商(1章)

玄王桓掩受小国是達受大国是達率履不越途

観能登相土烈烈海外有載(二章)

きぎし

明徳なる商王その

現れて久しい洪水が贋が

った時南は下士の四方に功を敷き外の大国とを区

切-中国の虞さは遠大になったO有城氏もその時勢

力を埼し上帝は有城の子を立てて南国を作られた

(一章)

玄王は武徳があ-小国に封ぜられてもよ-治め

大国に封ぜられてもよ-治め薩に従

って越度な-

しめ

教法を現して行なわせた相土は武威輝かし-海外

の諸国を平定した(二幸)

この詩の

「玄王」は毛俸

鄭隻の如-殿租契のことで

「玄鳥」詩の商租と同

一であると解するのが普通であるが

白虎通

文質

(l名瑞賓)篤は玄王を湯と解してお-漢書⑳

鰻柴志は契(高)と玄王は別人で共に段租であると解する

13

中国文筆報

第四十六筋

相土は周鰻

校人注引世本で

「初めて乗馬を作

った」

と云

いこの詩で武勇の王として描かれていることと関連があ

るものと思われるしかし玄王

相土共に具鰹的に如何な

る事鏡があるのかはあま-括かれず神話としての考察を

かな-難しいものとしている

相土から十

1代後の子孫とされ夏案を伐

って殿王朝を

隆盛

へ導いたと俸えられる湯は同じ「長顎」に見えている

帝命不達至於湯秀湯降不遅聖数日頗o昭倣遅

遅上帝是砥帝命式千九園(三牽)

武王載端有虞乗鉄如火烈烈ー則莫我敢局萄有

三幸莫逐莫達七九有有載葦顧既伐昆吾夏架o

(六章)

上帝の命は誤-な-湯に至って天命と合合した

湯の生まれること期に麿じ聖徳は日々に高まった

天にも明らかに至る徳は久し-止まず上帝も愛敬し

て九州に法を示させた(三章)

武王湯は旗印を立て固-銭を撞-火の如-勢い

とど

もと

盛んなれば誰も敢えて長めることはできない竜株

ひこば

に三つの

生ずるといっても生長しきることは

ないO湯は九州を平らげ垂の葦図

顧閲と昆吾氏

竃の夏架を伐

った(六章)

湯が

「天命」を得た後に諸国を征討して九州を統

一したと

いう内容であ-大雅における文王や武王と同じ-始租

の神的資質を引き継いで天下統

一の事業を完成させるので

ある

これらを全鰻的に眺めてみると商租の神的誕生1

相土

湯の天下平定という流れは大雅における周王朝開園の物

語と同様のパターンであ-また請王を武徳の王と稀える

のに終始して請王にとってマイナスイメージを興えるよ

うな話が記されないのも大雅の文王や武王と同様である

商頭の諸篇が大雅以上に尖鋭な政治的意圏を以って作られ

たことは白川静氏も

「末に興

った膨折たる国家意識を背

景としてその抗争老たる刑楚に封する敵封感情の昂揚

を目的とし」たと指摘する通-であ-諸王の武勇ばか-

をことさら強調するのも肯けることであるところがも

しか-の如-商頭諸第が宋人の

「神代史」であるとすると

14

殿の諸王の文化的功績が殆ど歌われていないのは何とも不

思議な事賓である常時

「南賛歌舌」

の園であったはずの

楚と争うのに自らの文化的先進性とその由来を誇示しな

いということが果たして考えられるであろうか

結局宋人の殿開園神話を西周人の周開園神話と比べた

時の問題鮎は(一)後に

「契」と呼ばれるようになる殿租

の正睦(二)両者とも同様の構造を持ちながら殿開園の英

雄たちに文化的功唐が見られない理由tの二鮎にまとめら

れるo前者については戦国時代の楚国における殿開園神

話を記す楚辞

天問や殿嘘卜辞に見える殿の高組神など

にこの問題を解-鍵があろうと思われる後者については

まず宋園と同じ春秋列国である魯園で作られた詩経

魯頚

を参照するとある程度の推測が得られる

問官有他賓資枚枚赫赫妻嫁其徳不回上帝是

依無災無害禰月不遅是生后頑隆之百福蚕種

重移穂塀寂穿奄有下図倖民稼橋有稜有黍有

侶有拒奄有下士績南之緒o(1章)

后稜之孫資維大王o居岐之陽賓始易商至干文

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

武濃大王之緒致天之眉千枚之野無武無虞上

帝臨女敦商之族克威厳功王日叔父建爾元子

伴侯干魯大啓爾字鳥周室輔O(二章)

奥深-清い宗廟は堅固で美しい輝かしい妻糠は

その徳も貞正であ

った上帝も心をよせて無事に子

を生ましめ十月十日を遅れることもなかったここ

さいわい

に后積を生むと天は多-の

降したそれは黍

もちbぴ

おくて

わせはやうえ

おそうえ

まめ

や穿後に領下の閲を

くろきび

治め民に耕作させた稜や黍もあれば楢や

ある下士を治めて后稜は南の事業を縫いだ(一章)

后稜の子孫はかの大王宜父岐山の南に居任した

時始めて殿

への臣展開係を慕

った文王と武王に至

-大王の事業を縫いだ殿の天命の終わ-は牧野の

地でやって来た「武心を抱いた-心配してはならぬ

上帝も見ておられるぞ」武王は殿に勝

ってその人民

を治めその功績は先王たちにも等しい成王は言

た「叔父周公よ

そなたの長子伯禽を立て魯園の

侯とし大いにその土地を閃かせ周室の輔けとさせ

15

中開文革報

第四十六冊

よ」と

(二章)

「関宮」全九章の

うち二幸O魯図はこの詩にも云う如-局

公の長子伯禽が封ぜられた図であり周と同族であるから

曹然周租后稜に始まる諸先王を構えているわけであるが

后稜の農業創始を

一章全部を費やして

「南の緒を鰹ぐ」と

賞揚する割には文王

武王の殿周革命に封しては素束な

い描き方である寧ろ大雅の詩篇よ-も先王の文化的功績

に重きを置-といえる

1万の宋園は肘王の庶兄微子啓が武王に封ぜられた園で

ある宋園は殿の穫柴を修め殿の習俗を堅持し績けたと

俸えられる

所詮は被征服園である自らの租先を高ら

かに賞讃することに封して何らかの政治的願力が働いたこ

とは想像に難-ない「七筈の詩が亡伏した」という商魂

譜の記事は或いはこのことに関係があるのではないか

この失われた詩の中には

西周の

「生民」

「公劉」詩の如

-殿代よ-俸わる文化神を歌う詩があったのではないか

この推測をよ-精確に検討するにはやは-宋園以外の

園に俸わった殿王朝開園神話の一つとしての楚辞

天問を

参照する必要があるそこで次章ではまず殿嘘卜辞に見え

る高組神について検討し次に楚鮮

天間の殿王朝開園を

問う部分について考察した後これらと商項とを相互に比

較することにしたい

三卜辞及び楚鮮

天問の殿王朝開園神話

卜辞は占卜のための文句を記した文字資料であ-もと

よ-神話の記録を目的としたものではない従

って殿人の

間に俸えられていた殿王朝開園の物語を卜辞によって復元

することは言うまでもな-不可能であるただそこには高

租神や先王をはじめ様々な神の名が見えてお-これを後

の時代の殿王朝開閉神話と比較することによってその神

話がどれ位原初の姿に近いかを推定することはある程度可

能である

さて殿人にとっての最高碑は周知の如-上帝であ-

卜辞にも

「帝」として見えていて風雨などの自然現象を

支配し人事に禍福をもたらす存在であることが知られて

⑲いる

16

この上帝に封しては直接条把が行なわれることはないと

い-のが通説であるが島邦男氏によれば絶無という諸で

はな-締把が行われる例が三例あるこの締紀は上帝の

みならず高租神や先王に封しても行われてお-例えば

羅振玉

『殿虚書契緯編』

一-二-

一片に

点締子王亥

貞-王亥に繭のまつ-をせんか

董作賀

『乙篇』四五四九片に

葵未卜両税乙

英未に卜す租乙に蹄のまつ-をせんか

とあることから

恐ら-張光直氏の云う如-

「殿の人びと

『帝』は先租の絶稀であ

ったかあるいは先租の観念

の1つの抽象化されたもの」

ということになろう

上帝と同様の祭紀が行われる租神の-ち「高租」と呼

ばれるのは愛

王亥の二人である

愛は変とも揮され王⑮

図経が

「暑」と塵韻であることなどを理由に帝尊と解して

以来これが定説となっているO帝聾は後の時代の文献に俸

える所では自らの文化的事業や武勇に関しては何も記さ

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

ずただ殿組契と周蔵后榎の共通の父祖であると云うだけ

であ-上帝的な存在であ

ったとするのが諸家の1致した

見解であるしかし殿代に於ては

「帝」と帝替即ち愛は区

別されている以上完全に同

一であ

ったとはいえず上帝

と人王をつなぐ役割を持つ始租神として奉られたものと思

われる前述の如-愛が抽象化したものが上帝であ-

逆に言えば上帝が人格神化したものが愛なのである

一方の王亥はどうであろうか山海経

大荒東経に

有困民国-王亥託干有易河伯僕牛有易殺王亥

取僕牛

困民国で-主

亥は有易園と河伯園に自ら飼い馴ら

した牛を預けた有易園の人は王亥を殺し牛を奪

この候の郭瑛注が引-古本竹書紀年には

殿王子亥賓干有易而淫蔦有易之君鯨臣殺而放之

是故殿主

(一作上)甲徴候師子河伯以伐有易滅之

途殺其君紹臣也

殿の王亥は有易園

へ客として赴いたが行ないが悪

- 17-

中国文学報

第四十六放

有易の君主摘臣が彼を殺してしまったそれで段

の上甲微が河伯図の軍を借-て有易を伐ちこれを滅

ぼし君主鋸臣を殺した

と記されているまた初学記撃

九引世本には

「骸が

牛を飼い馴らした」とあ-この膜も王亥であると考えら

れている少な-とも東周末期に於ては王亥が牧牛を行な

ったという俸説があったのであ-王亥を論ずる人の多-

はこれに注目し彼を殿の文化紳であると考えている

「高

租」と特別扱いされる租神の一人であることを考えれば

王亥が文化面で多大な功績を上げ原始状態から文明状態

へと殿氏族を更展させたことは十分に考えられる

もしそうであるならば前章でその存在を示唆した

「殿

の失われた文化紳」はまさにこの王亥ということになる

既に述べた如-詩経

商煩の段王朝開園神話に封しては

それと系統を異にする楚辞

天問という比較資料もあるの

であるから次にこちらの方を見てみることにしよう

fTD

天問は古来極めて錯簡の多い書と言われる

その中で

殿周開園に関する部分は比較的次第がまとまっている湯

以前の駿の先王が措かれるのは55-聖早であ-簡秋と尊

の通婿から始まっている

55簡秋在董卓何宜玄鳥致胎女何喜

筒状は高い槙童にいたが尋はどうして見そめたの

か燕が滑-物を持

ってきたのを筒状はどうして喜

んだのか

古来詩経

商頒

「玄鳥」と同じ-簡秋香卵の説話を云うも

のと解されるがこれも

「玄鳥」詩と同じ-この二句だ

けから呑卵の話を導き出すのは難しいしかしこの通解が

行なわれた高い

「董」は天地の間を繋ぐにふさわしい場所

であ-鳥が天から

「胎」を授けることなど天地通姫を

描-ことには襲わ-はない天問では上帝には

「帝」とい

う呼稀を使

ってお-ここでの

「魯」はー辞の

「愛」と同

じく上帝の人格化したものと思われる

この二句は不思議なことに簡秋と啓が誰を生んだのか全

く言わないテキストに脱落がなければ次の章の登場人

物を簡秋の子と考えるのが最も素直であろうところが次

に登場するのは

「玄王」でも

「契」でもない

18

56該乗季徳頗父是滅胡絡弊干有屈牧夫牛羊0

57干協時舞何以懐之平脅鼻膚何以肥之

58有屈牧豊云何而逢撃林先出其命何徒

壬亥はその父季の徳を縫いだが父は立涯な人であ

ったどうして王亥はとうとう有易園に落ちぶれそ

ゐ牛羊を養

っていたのかO

たて

あわ

いだ

協せて舞う女を見てど-してその女を

のか

平らかな脇腹に細やかな皮膚どうしてこの女

まじ

ったのか

王亥は有易園の牧童にどのようにして合

ったのか

寝込みを襲われて先に逃げ出したがどこから逃げ出

して助かったのか

56章の

「該」を王逸は

「竜也」と解しているが晴代に至

って王関連が人名ではないかと疑問を呈出L

t

王国経が卜

軒との対照によって王亥であると断じて以来この説が支配

的であるこの四句も前途の山海経や竹書紀年と共に王

亥が牧神であ

ったことを示すものとしてよ-引かれる57

章は難解であり注揮家ごとに説が異なると言

ってもよい

股周開園の神話と

「紳代史」(大野)

ほどであるが王亥の婚姻のことを云うとする需介甫氏

黒須重彦氏の説に徒う58章は王亥が殺されそうにな-な

がら辛-も逃れたことを云い前に引いた山海経などの所

侍と関係があるものと思われる

この三幸の記述から王亥の迫害と文化創造のモチーフを

見出すことはさほど困難なことではないし簡秋と孝によ

る殿租の神的な誕生も前章までに述べた例と同様に何ら

かの形で王亥に英雄的資質をもたらすものと考えられる

簡秋が生んだのが王亥であると断定できれば話は簡単なの

であるが56章には王亥の父としての

「季」が登場してお

り従

って天問に於ては簡狭

暑-季1王亥という系譜が

成立していたことになるしかし卜辞に見える

「季」は高

租でない租神の一人にすぎず

「高租王亥」が

「季」を父と

していたとは考え難いo

l鮭に卜解における租紳相互間の

父子関係は不明な部分が多-本来は寧ろ横

一列に並ぶ関

係であ

ってどれも

「租先」に襲わ-はないのであ-果

たした功績や役割の違いによってそれぞれに分化したもの

と考えた方がよい卜辞における

「季」の神威は他の租紳

19

中国文革報

第四十六桝

と襲わらないが

天問では尊と王亥との橋渡し的な性格に

襲わったのである

59恒乗季徳蔦得夫朴牛何徒費班緑不但遠来

王恒も李の徳を鰹ぎ王亥の養

った僕牛を得たど

あまね

はどこ

うして狩-に行

って獲物を

-

民に

ただ行

って

締るだけに止まらなかったのか

「恒」は王遠江では

「常也」と云うがこれも王国経が卜

辞に見える王恒のことであると解して以来諸家概ねこれ

に徒う「班稀」は近年の解帯では

「官位」「栄達」等に解

され

「王恒が有易図で出世しょうとした」意であるとす

るがす

っき-しない解輝であるー辞に見える王恒は

弓の形の中に

「恒」字を入れたものもあ-寧ろ

「湯は狩

-に往-際ただ行

って締るだけではな-民に編-施し

を輿えた」とする王逸注の方が原初的な意味に近いと思わ

れる但し主語は湯ではな-王恒である張光直氏は王恒

と罪に何らかの関係があるのではないかと考えるが

それ

よ-は駿人の狩猟柵であ

ったと考えた方が良いかも知れな

いただ王恒の事境を記した文献が他に存在せず容易に

結論を得難いのは残念なことである

60昏微遵述有狭不寧何繁鳥葦棟負子韓情

61絃弟遠軽危害顔見O何襲化以作許後嗣而逢長

上甲微は父王亥の事鏡を鮭ぎ有易園は安定を保て

ず滅びたどうして有易の人民は妹に止まる鳥のよう

に苦しんでいるのに上甲微はその子女にまで横暴な

ことをしたのか

目の陪んだ請弟はみな道ならぬことをしその兄上

甲微に危害を加えたのにどうしてうま-ごまかして

その子孫が長-祭えることになったのか

この二章も本づ-所がはっき-せず難解であるが「昏微」

はやは-王国経が上甲微のことであるとしてお-その事

蹟を云うものと考えられる上甲微は卜辞で系譜が明らか

な請王のうちで

一番古い租先に普た-いわば

「人王」の

租であるがここでは王亥と同様の迫害モチーフが再び現

⑳れその事鏡は既に神話化されていたものと見られる「何

襲化以作詐後嗣而逢長」の二句はそ-した神話であるが

故の不合理性を問うているのである

- 20-

62成湯東巡有等宴極何乞彼中臣而吉妃是得

63水漬之木得彼中子夫何悪之腰右筆之婦

64湯出重泉夫何皐尤不勝心伐帝夫誰使挑之

湯は東方

へ巡狩Lt有等園までやって来たど-し

てあの中臣伊声に乞い求めて良い妃を得たのか

水蓮の木から有等氏の君主は伊声を得たとい-が

どうして伊声を嫌

って湯の妃に付き添わせたのか

湯は重泉の牢獄から出て来たがそれは何の罪だっ

たのか正義を求める心を抑えられず実を伐

ったが

誰が彼をそうさせたのか

商頭における湯は夏架や尾吾氏を伐

った英雄として非常に

多-の紙幅を割いて賞揚されていたのであるが天間では

僅か三幸で終わ-しかもその年分は彼の名臣伊声のこと

に費され天下を平定した聖王にしてはかなり冷淡な描き

方である多-とも王亥や上甲微などと同等の重さしか持

っていないといえるしかしこの簡単な記述は神話的な趣

きに富んでいる伊声は呂氏春秋

本味簾で

「有佐氏の女

が空桑の中から嬰兄を得て

それを君主に献じ君主は

般周開乾の神話と

「紳代史」(大野)

料理人に彼を育てさせた」云々と書かれるような俸説をも

つがその原型とみられる記事が63章にあ-64章の

「湯

出重泉」も森安太郎氏が

「陽

(太陽神)が海の下を-ぐっ

て再び現れ出る様子」

と解したほどであるその虞偽は措

-としても

「重泉に囚われてから脱出」

というのがこれ

まで屡々登場してきた迫害1事業完成のモチーフであるこ

とは明白であ-この迫害こそ棄てられた后稜と同じ-英

雄を英雄たらしめる神話素の一つである殿人にとって湯

「人王」であったはずであるが楚人にとっての夏殿革

命は既に神話となっていた宋人にとっても同じであ

った

と思われるしかし東周時代の為政者の意識は最早神話を

古代人の如-

「心象における事資」として受け取ることを

許さなかった神話の神話たる所以である英雄の迫害も

政治家としての彼等にとっては

「不合理」以外の何もので

もな-統治強化の障碍でしかなかったであろうそれ故

その

「不合理」を宋人は頒詩から治し去-楚人は

「天に

問」うたのである東周の殿開園神話はその鮎で西周人

の神話と歴史が

一鰻になった

「神代史」であ

った詩経

21

中国文筆報

第四十六冊

雅の周王朝開園の物語とは成因がやや異な-神話そのも

のを改襲した

「神代史」であるといえよう

再び天間に戻ろうここで語られる殿王朝開園神話を綜

合すると腰租誕生1夏殿革命という流れは商頭でのそれ

とはぼ

一致するのであるが商頚では全-無税されている

王亥

王恒や上甲微の事浜を多-記している所が大いに異

なるこれらの先王は卜軒に於ても租神として柁られてお

-殊に愛

(餐)王亥は

「高租」と崇められていたのであ

るから天問における殿租誕生や牧牛創始の偉大な功績も

殿代からその根摸となるべき停東があったものと考えられ

る殿の未森たる被征服図

宋図で語られなかった文化神

が周の政治的願力が比較的少なかったであろ-楚園に於

て生き残

っていたのであ-「王亥を構える頒詩は政治的

要請によって胴去されたのではないか」という前章で捉

起した推測は更に確貴性を樹して-るのである

このように文化神を語る神話は政治的な事情によって

改襲されやすいという

一つの傾向が次第に明らかになって

きたのであるが天間に見える周王朝開園神話を詩経

雅のそれと比べてみるとその傾向は

一層はっき-する

これについては次章で検討することにしてその前に前

章で提起したもう

一つの問題即ち契と後に呼ばれるよう

になる殿紐の正鰻について卑見を示しておきたい

1般には詩経

商頒

「玄鳥」

「長顎」の鄭隻や楚鮮

天問の王逸注史記

殿本紀などから筒状が生んだ殿租

が契であるとされ詩経や楚軒の注揮家も特に疑問を抱い

ていないしかしこれまで見てきた詩経や天問には契の名

は全-見えていない国語を見ると周語下には

玄王勤商十有四世而興

玄王は商のために働き十四世かかって興起した

鄭語には商

契能和合五教以保干百姓者也

商契は五教をよ-調和させ人民を守-養

った人で

魯語上には

契為司徒而民韓-上甲微能帥契者也o

契は司徒の官となって人心を和らげ--上甲微は

22

たす

契をよ-

た人である

自玄王以及主薬莫若湯

文王から主薬

(湯の父)に至るまで湯よ-すぐれた

者はいない

とあるこれらを見ると契とい-名は周

楚以外の

園で用いられし

かも

「司徒として五教によって人心を安

定させた」という事鏡が語られている抽象的な形ではあ

るが文化面での功寮が取-上げられているのである

そうすると陳夢家氏の

「契と刻は互訓であ-共に亥

と普通である故に契は即ち王亥である」とする説が有力

な説として浮上して-るOこれまでの考察から王亥は殿

の高租にして文化所であ-従

って契というのは王亥の周

連諸国での呼び名であ-「五教」云々は王亥の文化神的

な面が周遠諸国に於て襲化したものと考えられるのである

もう

1万の

「司徒」という面に注目すると楊寛氏は

「司

徒」は

「司土」であるとして契は社紳

(土地紳)であった

と考えている「司徒」を

「司土」と表記するのは西周金文

に多-見られる用法であ-本来は土地や農業を司る官で

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

あったらしいまた史記

殿本紀には

「実は南を佐けて治

水に功があった」とあ-梁玉縄の疑う如き司馬遷の臆説

でな-古-からの停承に基づいているものであるならば

契に夏南の如き下士造成神的な面もあった可能性は捨てき

れない司土の官は農業にも関係が深いことから契は土

地神にして農神の性格をも持つことにな-このことは王

亥が牧牛の創始者であることと関係があるのかも知れない

なお尚書尭典には

帝日「乗努民阻飢o汝后榎播時百穀O」帝日

「契百姓不親五品不遜汝作司徒敬敷五教在寛」

もろもろ

舜は言った「棄よ

民は飢え苦しんでいる

汝は后頑の官とな-

この百穀を播け」と舜は言

った「契よ人民は互いに仲良-せず父子

君臣

夫婦

長幼

朋友の序に従わない汝は司徒の官とな

つつし

-五教を敬んで廉め心を寛-して治めよ」と

とあ-同じ-尚書の周官には

司徒掌邦教敷五典擾兆民

司徒は閲の教化を掌-五教を廉め多-の民を順

23

中国文畢報

第四十六肋

わせる

とあ

って司徒が教化の官であるかの如-書かれているが

これは后積が農官とされたために契は

「五教を康めた」面

のみが取-上げられそれが司徒の官名に結びついてかか

る誤解を生んだものであ-司徒の本来の意味ではないと

考えられる

周やその支配下にあった宋園では殿租に玄王という名

が使われてお-玄鳥による神的な誕生と商の興起のた

めに轟-したとい-事暁が語られる

魯園では

「契」

「玄

王」両方が見えるがー契と言う場合は文化的な功績が描か

れ玄王と言う場合は始租としての面に注目されている

恐ら-

「玄王」とは契=

王亥の始租としての面が強調され

た時の呼稀であ

ったと思われる文化人類学的にも「玄」

という名は始源の闇や滞沌を連想させるものであ-例え

ば老子

六章の

玄牝門天地板

玄牝の門(女陰)は天地寓物の根源である

の如-である

宋園や周では殿租の文化神的な面が抹殺さ

れたために始租神としての

「玄王」の呼稀が定着し魯

鄭などの周連列国では儒教的に襲化した文化神として

「契」と呼ばれ楚国では殿代の呼稀

「王亥」が原形に近

い形で保存されて

「該」と呼ばれたのであろう

四楚鮮

天問の周王朝開園神話

まず天問における殿周開園神話の大筋の流れを圏示する

と附固

一のようになる我々の常識で考えるならば夏殿

革命の次に殿のその後の衰亡を歌いそれから周王朝

へと

移る構成をとるのが普通であるが天問では夏殿革命から

いきな-周の衰亡

へと飛びそこから殿の衰亡

へと戻る間

くりかえ

「天命は

」というテーゼを挟み込んでいるこの

ような操作によってどの王朝も同じように興亡を繰-近

すというテーゼが

7層際立つのであ-

T見乱雑に見える

排列が安は高度なレトリックを用いた結果であるという

ことがわかる

次に殿周の開園が歌われている各章を時間順に並べ

かえて相互に封比してみると附圏二のようになるこの固

24

殻周開園の耐話と

「神代史」(大野)

附圃- (丸内の数字は葦の通し番競)

舜と女梱 ⑱~

「験萌在初」

1

度の先王 ~

t

夏殿革命 ~

周の先王

l

殿周革命 ⑮~cent)

iiiiia段の衰亡 ~ 周の興亡

一- 一 ノ ー「天命反側」

附圏二

段 簡秋と唇の通婚

王亥 有易で牛羊を牧す

王亥の婚姻

王亥 殺されかける

王位 王亥の牛を得る

上甲微 父の遺業を鮭ぐ

肢弟が上甲微を迫害

一寸 どうして子孫が栄えたのか」

~ 楚の興亡

周 ⑯ 后硬 氷上に捨てられる

上帝をも驚かす武勇

-「どうして子孫が栄えたのか」

成湯 伊声を得る

伊デの生い立ち

湯 壷泉から出て案を伐つ

- 25-

⑳ 文王 天命 もて段を覆す

岐山に移る殿の惑婦

文王 村の無道を天に告げる

文王 太公望を得る

武王 急いで殿を伐つ

武王の朝合

周公 武王をよしとせず

武玉 村を伐つ

中隊文革報

第四十六筋

一見して知ることができるのは周の先王には僅か二章

しか使わず殿周革命に九章も費やしてお-殿王朝の方

が租神に多-の章を割いて夏殿革命には三章しか使わな

いのと対照的であるということである

周王朝開園を云う章をもう少し詳し-見てい-と

76積維元子帝何竺之投之干水上鳥何燐之

77何漏弓挟矢殊能渚之既驚帝切激何逢長之

后稜は上帝の長子であるのに上帝はどうして彼に

危害を加えたのか彼を氷の上に捨てると鳥はどう

してこれを暖めたのか

どうして弓をひきしぼ-矢を挟みすぐれた才能で

武婿となったのか上帝をも驚かすほどひどいことを

したのにどうしてその子孫は長-栄えたのかQ

后積が上帝の子であるのに迫害され鳥によって助けられ

たというのは詩経

大雅

「生民」と同様であるが周租后

礎の両的資質を云-のみであ

って農業費明には全-解れ

られていない77章は王逸注では前二句を后稜後二句を

武王の事績とするが洪興租補注は全部を武王の事績とし

朱子はその両方を疑問であるとす

78章以下では文王の

ことを云う章が績いてお-この章を武王の事虞とする課

には従えない聞

多や衰珂

氏は全部を后頑の事鏡とする

が必ずしも后榎に限定することはできない少な-とも

古公以前の

「神代」の先王のうちの誰かであることは確か

であろう後二句の

「上帝をも驚かすようなことをしなが

らどうして子孫が栄えたのか」という疑問が殿の租神と

「人王」の境目である上甲微を語る61章の後二句と似るか

らである周の先王を歌うのはこの二幸で終わ-であ-

そこでは先王たちの文化的功績は全-歌われておらず殿

の先王に比べて極めて冷淡な扱いである

78章以下は殿周革命にまつわる様々の問が寛せられるが

詩経

大雅に見えておらずまた考古学的な裏付けもない

俸説的な事件もい-つか見えているとはいえ神話的な奇

怪さには乏しいといえる0

79遷蔵就岐何能依O殻有感婦何所説

貴職していた重器を移して岐山にやって充たがどう

して人民がそれに従

ったのか殿には人を舷惑させる

26

女がいたというが何のために議話しょうとしたのか

前句についてはこれを文王に懸ける説

大王に懸ける課

あるが前後で文王のことを歌

っているので大王の事蹟と

するのには難があるとはいえその内容は詩経

大雅

「崩」

に云う古公宜父の事鏡に近-どちらに限定することもで

きない「大王から文王までの問」とする他ないであろ-

後二句は肘の妃である坦己を云うとされるがその何につ

いて問うているのかは明らかではないしかし両者とも

その

「答」となるべき俸説がこの時代に前後して現れてお

-前者については

1章で引いた孟子

染着王下後者に

ついては太平御覧奄

1三五引世本に

「村が有蘇氏を伐

った

時有蘇氏は坦己を妃にさし出した肘はこれを愛して言

うことを何でも聞いたために武王が肘もろとも殺した

云うのがこれに普たる

66到峯村窮叔旦不嘉O何親撰車足周之命以各嵯

肘の首をはねるに至-周公且はこれをよしとしな

かったどうして周自ら謀

って殿を討とうとしたのに

その行動は人民に支持されたのか

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

後二句は極めて難解であるがいま黒須重彦氏の解樺に従

う他の諸家にはテキストの文字操作で意味を通らせよ-

とする者も多い前二句を王逸は

「武王の舟に白魚が飛び

込んだので群臣が

『吉兆だ』と言ったのに封Lt周公が

『吉兆ではあるが吉兆と思

ってはならぬ』と戒めたことを

云う

と解しているがこれは史記

周本紀の記事を敦術

したものであって漢初の五行思想の産物である寧ろ所

謂伯夷

叔奔停説の前駆形と考えた方がよい

ここに引いた事件が果たして史寛であ

ったのか西周時

代に生まれた俸説か或いは東周以後の俸説であるのかは

容易に判断できないしかしいずれにしても西周人の

「神

代史」からは無税されていた事件が本来の形ではないに

しても再び記録される動きをここに見ることができるので

あ-結語で述べる

「神代史の再神話化」の萌芽であると

いえるO

このような新しい動きはあるものの天問の周開園神話

も始祖の神的誕生1英雄的事業の達成という基本的な構造

には全-襲わ-はないしかし全鰻を通じて諸王の文化的

27

中閲文革報

第四十六筋

功績には全-解れられていないばか-か周の先王=

租秤

に封しても極めて冷淡であ-殿に封する態度とは明らか

に異な

っているのである

このことは昔時の楚園が周文化よ-も殿文化の方により

親しみその信仰

習俗等を保持していたことの一つの讃

接であろう楚文化と殻文化の関係の深さは既に様々な面

から指摘されてお-例えば楚辞

九歌に見える「雲中君」

「河伯」の神がト辞にも

「雲」「河」神として見えているこ

とや西周末期のものと見られる楚の青銅鐘は殿の鍔と形

が似てお-その銘文も殿金文に似た雄滞な書鰻であるこ

とな

どが挙げられるこのよ-な現象が生じた過程として

は(一)歴代から楚は殿に臣屈してその文化を受け入れ

周の時代になっても表向きは周に臣属しながらも殿の文化

を保持し績けた(二)周代以後に国力を埼大した楚園は

への対抗上その文化を拒み隣接する宋園の殿文化を積

極的に導入したという二つの説が考えられる前者の立

場を取る者はその根接として詩経

商頒

「殿武」の

撞彼殿武奮伐剰楚突入其阻衷利之放有戟其

所湯孫之緒(一章)

敏疾なる武丁は奮起して剤楚を伐ち険しい山地

に攻め入って刑楚の兵士を虜にしその地を平げ

湯王の子孫として手柄を立てた

という部分を畢げることが多い

前述の如-商頭目鰻が

宋園の楚国

への対抗心から作られたものであ-我が国の

紳功皇后遠征説話と同じ-どこまで史寛を反映している

かは未知数であるしかも卜辞などの殿代の地下資料から

は昔時の殿楚関係を示すものはまだ見つかっていない

一方後者については史記

楚世家に周の夷王の時に

楚王熊粟が

「我は牽夷な-中国の詮親に興らず」と言っ

たという記事もあ-現時鮎ではこちらの説の方が有力で

あると思われるいずれにしても周とは言語や風土を異

にする楚閲で生まれた天問には意固したか否かはともか

-周文化の重税と殿文化

への傾斜が讃み取れるのであ-

周王朝側の論理で殿の文化碑の功績を壷-抹殺された詩経

商頭や周の文化神を構える詩経

大雅とは好封照を見

せているのである

28

結語及び除論

これまで述べ来

ったことを要約すると詩経や楚辞

問に見える殿周開園神話は始租の所的誕生1迫害1事業

(文化創造

天下統

一)の完遂という構造を持ち既に西洋

の英雄神話に於て指摘されている基本構造をここにも見出

すことができるただ西洋では

一人で行なわれることが多

い英雄としての事業が中国では教代に亙

って行なわれる

ことが多いという違いはあるところが殿の開園と周の

開園また詩経と天問の相互間で詳し-比較してみると

神々の文化的功績は神話が記録された常時の政治的な事情

によって抹殺されることがあるという事資に束づ-この

ことは中国に於ては剣を振るって活躍する英雄よ-も

文化を創始する

「聖王」の方が重きをなしてお-氏族や

国の威光を左右するものであ

ったということの一つの謹左

といえよう

詩経

大雅における周王朝開園神話は高租にして文化

神である后稜-公劉を神話的要素に富む叙事詩によって語

段周開園の紳話と

「神代史」(大野)

っているが

「人王」の代に至ると

殊に王李に新著に見

られる如-諸王にとってマイナスイメージを輿えかねな

い史寛は壷-制去され武力革命の成功を

「神代」から引

き継がれた輝かしい事業として稀讃している周王朝の開

園神話とそれに績-殿周革命の史糞は詩が記録されるま

での間に

「神代史」

へ改愛されたのであるそこに支配強

化のための王室神聖化という高度な政治的意圏が働いてい

るのは確資であろう

段の遺民の園である春秋の宋園における段王朝開園神話

詩経

商項の諸篇は最終的には周王朝側の人々によって

記録

編輯されたものであ-それ故殿人の信仰した文化

紳は義-抹殺され支配者としての周王朝の論理に基づ-

「神代史」に改変されているOそれに封して楚辞

天問の

殻王朝開園神話には卜辞にも見える租紳たちの神話的雰囲

気に富む物語が多-残

ってお-逆に天問の周王朝開園神

話では周の先王の文化的功績を無税していて宋国との政

治的

風土的立場の違いを明瞭に浮かび上がらせているの

である

- 29-

中国文学報

第四十六筋

か-の如-

神話時代やそれに績-歴史が為政者の手に

よって

「神話化」される場合は中開の諸秤の中で重い比

重を占める文化神が記録者の政治的立場に従

って改奨され

「人王」に封しては

「都合の悪い」史貴を切-捨てて

「神

代史」

へと仕立てられるのであるが東周時代になるとそ

れとは逆に「人王」にも神話素の一つとして解揮可能な俸

説が様々な書物に記録されるようになる既に引用した文

王の安里幽閉

伯夷

叔斉の餓死などがそれであ-

「人

王」の物語もこれによって組両と同様の典型的神話

へ近づ

いてい-のであるこれらが記録されたのは諸子百家の書

物であ-昔時の遊説家たちが民間に流布していた停説を

敬-上げて自説を述べるために用いたものと考えられる

これらの停説が古い形をそのまま保

っているか否かは全-

保護がないとはいえ政治力撃の働きに-いレベルに於て

「神代史」に再び神話的物語が付け加えられるようにな

たということはいえるいわば

「神代史の再神話化」であ

-

1般に

「中国古代王朝神話」として

1つの物語にまと

められているのはこうして

「再神話化」された結果の産物

なのであるこれらは確かに

「神話」としての要素を豊富

に含んでいるのであるがこれを中国古代神話の原型と見

なすことは不可能であ-上述の如-複雑な要因が絡み合

っているのである

こうして

「神代史」はたとえ元の形とは異なるにせよ

再び

「神話」としての光彩を放ち始めたところがこの

「神話」をまたも

「歴史」に固定してしまったのが他なら

ぬ史蓬であることは周知の通-である

しかし

「神代史の再神話化」の原動力とな

った

民間

に語-経がれた王朝停説のエネルギーもこれで絡恨したわ

けではなかったこうしたエネルギーはその後も小説に記

録された種々の歴史俸説などを生み出し形を襲えて生き

績けたのである

ところでこれまで本文中に取-上げなかった

一つの重

要な問題があるそれは

「楚園に古-から停わる楚人自身

の神々はど-な

っていたのか」という問題である

楚辞

天問にはその末尾に楚図の俸説と思われるものが

記されてはいるが多-の注帯家が匙を投げているはど難

30

解であ-筆者も今敢えてこれに挑戦するほどの飴裕はな

いoしかし離騒ではその冒頭で「私は帝高陽の未森である」

と歌

ってお-少な-とも屈原の時代では楚人は穎頭高陽

氏を租神としていたと考えられているが文化神に関する

記述は見えない

一方同じ頃に楚園で成立したと考えら

れている山海経

大荒西経には街頭の子孫の神々の事業

が豊富に記されている例えば重

寮の天地分離

太子長

琴の音禁孝明などである

これらの事章から得られる

一つの推測をここで述べると

楚辞に於ては楚人自らの文化両を表立

って取-上げられな

い事情があ

ったものと思われる楚語で書かれた「原楚鮮」

には書かれていたがそれを漢語に翻弄した際に宋図か

ら導入した殿の文化神に置き換えたのかも知れないそし

て自らの文化紳とその物語を速い

「大荒」の物語として

カムフラージ

ュしたのが他ならぬ山海経なのではなかろ-

かこの書が地理書の形をとっていることや他書に見ら

れない神話停説を豊富に載せていることなどは丁度我が

国の

『出雲園風土記』を思わせるものがあるまた殿の

殿周開国の神話と「神代史」(大野)

文化紳王亥が

「困民国」の人とな

っていた-楚の租神で

あるはずの蘭頂が

「額頭囲」なる図にいたとされているこ

となどもこの仮説の根嬢となろう

しかし最早紙幅も轟きているこの問題は山海経を中心

として改めて考察することにしたい

ば織井慶紀著池田末利編

『中図神話の文化人類学的

研究』(1九九〇平河出版社)があるoまたユング心理学の

立場から日本神話を分析したものとして河合隼雄

『中空構

造日本の深層』(一九八二中央公論社)等がある

近世以前の諸席の議論は専らこの怪異雫が信ずるに足るか

否かの次元に終始するが近代的な研究としては聞一多

「萎

娠履大人跡考」(『聞一多全集』第一射一九四八開明書店)

白鳥清

「段周感生神話の解揮」(『東洋学報』十五巷四親tT

九二五東洋協合学術調査部)出石誠彦

「上代支部の異常

出生説話について」(『支那神話俸説の研究』所収tl九四三

中央公論社)等がある

「帝上帝也」

「帝高華氏之帝也従於帝而見干天婿事賛敏也」

孔疏に

「頑柁郊礁之時英夫高辛氏帝率興供行妻娠随帝之

後践履帝迩行事敬而敏疾放鳥神歌饗紳既饗其条則

31

中国文筆報

第四十六筋

愛而拓之

於是為天神所美大為福緑所依止twz=得懐任則

震動而有身」と云う

例えば嗣西族の

『東巴控』に見える縛文字にこのことが窺

える附固三参照また河南省に俸わるロ東俸説によると

女桐が天から降ってきて伏義が地下から出てきたと云う

(陶陽

鍾秀

『中国創世神話』一九八九上海人民出版社二

一四頁)

附圏三

primeJ 一一一

~PJ虹互L

LJL

堅 室④

上部の 一へ は天下部の 皿 は大地を

表す圃①は中間に天地交合の気がありこれ

より荷物が生ずる固②の中間は蛙で天地交

合後の襲化を表す圃⑨では天地の間に男が上

女が下になっており男女の交合と同様にして

天地が人類を生んだことを表す

(陶陽 鍾秀 『中国創世神話』214頁)

「惟虞東学詩云人之初生皆裂胎而出騒失所依故堕地

郎帝惟羊連胞而下共産猪易故詩以

『如達』馬比o又常

熟陶太常元淳日凡嬰兄在母腹中皆有皮以豪之俗所謂胞

衣也生時其衣先破兄鰻手足少蔚放生之難O惟羊子之生

胸仇完具堕地而後母篤破之故共生易o后硬生時蓋戒於胸

中形鮭末露有如羊子之生者放言

『加速』今按前二説

是也下言

『不味不副』蓋謂其胞衣之不折裂也」(『毛詩俸

集通帯』巷二十五)

「徐君宮人娠而生卵以箆不詳秀之水演O猪孤母有犬名

鵠蒼へ猟干水溝へ得所弄卵衝以東蹄猪孤母以馬具凍俊

之逐沸成見生時正値へ故以為名徐君宮中聞之乃更録

取長而仁智襲君徐固」(博物志

異聞篇引徐値王志)

「高句凝着其先出自克明東明本北夷嚢離王子離王出

行其侍兄於後任娠離王達欲殺之侍見目『前見天上

有菊如大鶏子乗降我困以有嫉』王囚之後連生男玉

置之家牢家以口束嘘束不死o王以為所乃聴収養」(梁

諸夷俸)

北欧や古代

ハンガリー等に見られる豊富な例がKケレ-

ニイtCGユング

『神話撃入門』

一九五1(杉浦忠夫訳

1九七五晶文社)に引かれている

例えば壮族に俸わる

「種子と犬の尾」の物語では人々

「九尾狗」に天上の穀物を盗みに行かせたところ穀物を

九本の尾に-つつけて蹄ろ-としたところを番人に見つか-

八本の尾を叩き切られたが残-

1本の尾に穀物をつけて逃げ

師-人間は農業ができるようになったと云う

(陶陽

秀前掲書二七九頁)

32

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 12: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

⑬たOしかし

「轟」詩のところで述べたことを考えれば古

公を周王朝の租とする課には従い難い現在鹿-支持され

ている説では殿が常時山西省に居た鬼方を討

った結果

彼等が西方に移動して周を歴迫したため周は幽から岐山

に移ることを飴儀な-されたと言う

具鰻的な国名などに

はなお問題があるとはいえ周が異民族の歴迫で岐山に移

ったという事寛があ-それが

「崩」詩にも反映されてい

るのは確かであろう時代が下がると孟子

梁意三下に云

う如-

「古公が徳を守

って岐山

へ逃げ人民も彼を慕って

共に移動した」という儒家道徳による合理的解帯が行われ

るようになるのは周知の通-である

王李は前述の如-詩経ではその事蹟が全-記されない

ところが古本竹書紀年には

殿の武乙三十五年王李が西落鬼戒を伐ち二十雀

王を捕虜にした(後漢書西完博引

)

殿の文丁が季歴を殺した(青書束管俸史通疑古

社説上引)

といった記事が見え文丁期の卜辞にも周を伐つことの可

段周開園の神話と

「神代史」(大野)

否をーつたものがあるOしかもその7万で同じ古本竹書

紀年に

殿の武乙三十四年周の王李が来朝し武乙は土地

三十里玉馬を賜興した(太平御覧巷八三引

)

とあ

ってこの時期の卜辞にも周を

「周侯」と呼んでいる

ものがあ-周は段の侯国として厚遇されていた面もある

のである「大明」詩での王李は殿と関係の深い拳闘から

大任を迎えてお-史寛とすれば政略結婚である王李の

頃の周は殿と虚々賓々の駆け引きが績-緊迫した関係にあ

ったのである

王李のこうした

「行状」は竹書紀年に記事が残されて

いる以上常時の史官によって記録されていたはずである

にもかかわらず詩経ではそれらが殆ど無税されていると

すれば大雅の諸篇が作られた時から記録されて現在の形に

なるまでのいずれかの段階で意固的に例除されたと考える

のが愛常であるどの段階で刷られたかを決定するのは言

うまでもな-非常に困難であ-例えば

「解」詩で七草ま

で古公の根接地造営の話が績-のに八草でいきな-

「韓

ll

中国文革報

第四十六射

不珍膜性」と文王の代に飛ぶのはあま-にも唐突であるこ

とから七草と八草の間に王李が殺害されたことを歌う章

があ

ったと推定することもできるが残念ながら確認する

すべはないしかしいずれにしても我々が常識的に考え

れば王李が殿に殺された事寛を語ることによって王季1

文王-武王を悲劇の英雄に仕立てられ殿周革命の物語に

一層の彩-を添えられるはずであるのにそれらが轟-酬

去されているのである

文王と武王に関しては詩経に見える密

崇征討等は周

原卜辞等に照らしても史貴であ

ったらしいしかし後世の

文献に見える

「村が文王を安里に幽閉したが文王の部

下が賄賂を使

って救出した

とか

「伯夷と叔斉が武王の武

力革命を悲しんで首陽山で餓死した

とかいった物語は詩

経はもとよ-古本竹書や地下資料にも全-見えていない

之を要するに古公以下の

「人王」についてはマイ

スイメージを興えかねない物語は

一切語られていないので

あ-そこには諸王の威光を高めようとする政治的要請が

ったと考えられる后積や公劉は

「神代」の高租神であ

るから神話的要素に富む怪異な物語をそのまま停えても

不都合はないしかし古公以下は所詮

「人王」であるから

紳懸-的な奇蹟を附合すれば虞寛味が乏し-なるしその

一方では

「神代」から績-聖王の血統を誇示する必要があ

る勢い

「都合の悪い」史宜を無税して「輝かしい事業」

のみを賞揚する方向

へ向かうことになろうその敏寄せを

まともに食らったのが他ならぬ王李であ-殿に朝貢した

-殺された-した史資をそのまま記せば

「王統」の威光

を傷つけるのは明らかであるから大任と共に聖天子文王

を生んだいわば橋渡し役としてのみ名を留めることにな

ったのであるこのような

「歴史の神話化」の結果詩経

大雅の叙事詩語笛は周王朝開園の

「神代史」として西周

貴族の問に俸えられていったのである

二詩経

商頚の殿王朝開園神話

詩経

商頭の詩篇は鄭玄の商頭語で

「末の戴公の時に

大夫正考父が十二篤を得たが孔子が詩を編纂するまでに

七篤を失

った」

と停えられ今日に至るまで定説となって

12

いる現存する五篤の中には玄王

相土

湯及び中興の

武丁の名が見えている

殿の始租誕生を歌う詩として古来よ-引かれるのは

「玄

鳥」の冒頭の二句である

天命玄鳥降而生商

天は燕に命じ下士

へ降らせて商租を生ませた

鄭集がこの二句を

「天が燕を下士

へ降らせたというのは

その燕が残した卵を有城氏の女簡秋が呑んで殿租契を生ん

だからである」

と解して以来これが定説となっているし

かし森三樹三郎氏が既に指摘しているようにこの二句だ

けを見ている限-

「燕の卵を呑んだ」という事寛は直ちに

導き出せないのであ-この説話が商頚が作られた春秋時

代の始租神話そのままであるかどうかは頗る疑わしいし

かし玄鳥なる鳥が天と下士の間を往来して南畝を生ませた

ことはこの詩からも讃み取れるのであ-少な-とも春秋

の来園では殿租が天地通婿で生まれたとぎれていたと言う

ことはできよう

「長襲」にはやは-殿租とされる玄王とその孫とされ

段周開園の紳話と

「紳代史」(大野)

る相土が登場する

溶哲維商長顎其群洪水

巴だ高教下土方外大

国是瞳幅限既長有域方渚

帝立子生商(1章)

玄王桓掩受小国是達受大国是達率履不越途

観能登相土烈烈海外有載(二章)

きぎし

明徳なる商王その

現れて久しい洪水が贋が

った時南は下士の四方に功を敷き外の大国とを区

切-中国の虞さは遠大になったO有城氏もその時勢

力を埼し上帝は有城の子を立てて南国を作られた

(一章)

玄王は武徳があ-小国に封ぜられてもよ-治め

大国に封ぜられてもよ-治め薩に従

って越度な-

しめ

教法を現して行なわせた相土は武威輝かし-海外

の諸国を平定した(二幸)

この詩の

「玄王」は毛俸

鄭隻の如-殿租契のことで

「玄鳥」詩の商租と同

一であると解するのが普通であるが

白虎通

文質

(l名瑞賓)篤は玄王を湯と解してお-漢書⑳

鰻柴志は契(高)と玄王は別人で共に段租であると解する

13

中国文筆報

第四十六筋

相土は周鰻

校人注引世本で

「初めて乗馬を作

った」

と云

いこの詩で武勇の王として描かれていることと関連があ

るものと思われるしかし玄王

相土共に具鰹的に如何な

る事鏡があるのかはあま-括かれず神話としての考察を

かな-難しいものとしている

相土から十

1代後の子孫とされ夏案を伐

って殿王朝を

隆盛

へ導いたと俸えられる湯は同じ「長顎」に見えている

帝命不達至於湯秀湯降不遅聖数日頗o昭倣遅

遅上帝是砥帝命式千九園(三牽)

武王載端有虞乗鉄如火烈烈ー則莫我敢局萄有

三幸莫逐莫達七九有有載葦顧既伐昆吾夏架o

(六章)

上帝の命は誤-な-湯に至って天命と合合した

湯の生まれること期に麿じ聖徳は日々に高まった

天にも明らかに至る徳は久し-止まず上帝も愛敬し

て九州に法を示させた(三章)

武王湯は旗印を立て固-銭を撞-火の如-勢い

とど

もと

盛んなれば誰も敢えて長めることはできない竜株

ひこば

に三つの

生ずるといっても生長しきることは

ないO湯は九州を平らげ垂の葦図

顧閲と昆吾氏

竃の夏架を伐

った(六章)

湯が

「天命」を得た後に諸国を征討して九州を統

一したと

いう内容であ-大雅における文王や武王と同じ-始租

の神的資質を引き継いで天下統

一の事業を完成させるので

ある

これらを全鰻的に眺めてみると商租の神的誕生1

相土

湯の天下平定という流れは大雅における周王朝開園の物

語と同様のパターンであ-また請王を武徳の王と稀える

のに終始して請王にとってマイナスイメージを興えるよ

うな話が記されないのも大雅の文王や武王と同様である

商頭の諸篇が大雅以上に尖鋭な政治的意圏を以って作られ

たことは白川静氏も

「末に興

った膨折たる国家意識を背

景としてその抗争老たる刑楚に封する敵封感情の昂揚

を目的とし」たと指摘する通-であ-諸王の武勇ばか-

をことさら強調するのも肯けることであるところがも

しか-の如-商頭諸第が宋人の

「神代史」であるとすると

14

殿の諸王の文化的功績が殆ど歌われていないのは何とも不

思議な事賓である常時

「南賛歌舌」

の園であったはずの

楚と争うのに自らの文化的先進性とその由来を誇示しな

いということが果たして考えられるであろうか

結局宋人の殿開園神話を西周人の周開園神話と比べた

時の問題鮎は(一)後に

「契」と呼ばれるようになる殿租

の正睦(二)両者とも同様の構造を持ちながら殿開園の英

雄たちに文化的功唐が見られない理由tの二鮎にまとめら

れるo前者については戦国時代の楚国における殿開園神

話を記す楚辞

天問や殿嘘卜辞に見える殿の高組神など

にこの問題を解-鍵があろうと思われる後者については

まず宋園と同じ春秋列国である魯園で作られた詩経

魯頚

を参照するとある程度の推測が得られる

問官有他賓資枚枚赫赫妻嫁其徳不回上帝是

依無災無害禰月不遅是生后頑隆之百福蚕種

重移穂塀寂穿奄有下図倖民稼橋有稜有黍有

侶有拒奄有下士績南之緒o(1章)

后稜之孫資維大王o居岐之陽賓始易商至干文

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

武濃大王之緒致天之眉千枚之野無武無虞上

帝臨女敦商之族克威厳功王日叔父建爾元子

伴侯干魯大啓爾字鳥周室輔O(二章)

奥深-清い宗廟は堅固で美しい輝かしい妻糠は

その徳も貞正であ

った上帝も心をよせて無事に子

を生ましめ十月十日を遅れることもなかったここ

さいわい

に后積を生むと天は多-の

降したそれは黍

もちbぴ

おくて

わせはやうえ

おそうえ

まめ

や穿後に領下の閲を

くろきび

治め民に耕作させた稜や黍もあれば楢や

ある下士を治めて后稜は南の事業を縫いだ(一章)

后稜の子孫はかの大王宜父岐山の南に居任した

時始めて殿

への臣展開係を慕

った文王と武王に至

-大王の事業を縫いだ殿の天命の終わ-は牧野の

地でやって来た「武心を抱いた-心配してはならぬ

上帝も見ておられるぞ」武王は殿に勝

ってその人民

を治めその功績は先王たちにも等しい成王は言

た「叔父周公よ

そなたの長子伯禽を立て魯園の

侯とし大いにその土地を閃かせ周室の輔けとさせ

15

中開文革報

第四十六冊

よ」と

(二章)

「関宮」全九章の

うち二幸O魯図はこの詩にも云う如-局

公の長子伯禽が封ぜられた図であり周と同族であるから

曹然周租后稜に始まる諸先王を構えているわけであるが

后稜の農業創始を

一章全部を費やして

「南の緒を鰹ぐ」と

賞揚する割には文王

武王の殿周革命に封しては素束な

い描き方である寧ろ大雅の詩篇よ-も先王の文化的功績

に重きを置-といえる

1万の宋園は肘王の庶兄微子啓が武王に封ぜられた園で

ある宋園は殿の穫柴を修め殿の習俗を堅持し績けたと

俸えられる

所詮は被征服園である自らの租先を高ら

かに賞讃することに封して何らかの政治的願力が働いたこ

とは想像に難-ない「七筈の詩が亡伏した」という商魂

譜の記事は或いはこのことに関係があるのではないか

この失われた詩の中には

西周の

「生民」

「公劉」詩の如

-殿代よ-俸わる文化神を歌う詩があったのではないか

この推測をよ-精確に検討するにはやは-宋園以外の

園に俸わった殿王朝開園神話の一つとしての楚辞

天問を

参照する必要があるそこで次章ではまず殿嘘卜辞に見え

る高組神について検討し次に楚鮮

天間の殿王朝開園を

問う部分について考察した後これらと商項とを相互に比

較することにしたい

三卜辞及び楚鮮

天問の殿王朝開園神話

卜辞は占卜のための文句を記した文字資料であ-もと

よ-神話の記録を目的としたものではない従

って殿人の

間に俸えられていた殿王朝開園の物語を卜辞によって復元

することは言うまでもな-不可能であるただそこには高

租神や先王をはじめ様々な神の名が見えてお-これを後

の時代の殿王朝開閉神話と比較することによってその神

話がどれ位原初の姿に近いかを推定することはある程度可

能である

さて殿人にとっての最高碑は周知の如-上帝であ-

卜辞にも

「帝」として見えていて風雨などの自然現象を

支配し人事に禍福をもたらす存在であることが知られて

⑲いる

16

この上帝に封しては直接条把が行なわれることはないと

い-のが通説であるが島邦男氏によれば絶無という諸で

はな-締把が行われる例が三例あるこの締紀は上帝の

みならず高租神や先王に封しても行われてお-例えば

羅振玉

『殿虚書契緯編』

一-二-

一片に

点締子王亥

貞-王亥に繭のまつ-をせんか

董作賀

『乙篇』四五四九片に

葵未卜両税乙

英未に卜す租乙に蹄のまつ-をせんか

とあることから

恐ら-張光直氏の云う如-

「殿の人びと

『帝』は先租の絶稀であ

ったかあるいは先租の観念

の1つの抽象化されたもの」

ということになろう

上帝と同様の祭紀が行われる租神の-ち「高租」と呼

ばれるのは愛

王亥の二人である

愛は変とも揮され王⑮

図経が

「暑」と塵韻であることなどを理由に帝尊と解して

以来これが定説となっているO帝聾は後の時代の文献に俸

える所では自らの文化的事業や武勇に関しては何も記さ

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

ずただ殿組契と周蔵后榎の共通の父祖であると云うだけ

であ-上帝的な存在であ

ったとするのが諸家の1致した

見解であるしかし殿代に於ては

「帝」と帝替即ち愛は区

別されている以上完全に同

一であ

ったとはいえず上帝

と人王をつなぐ役割を持つ始租神として奉られたものと思

われる前述の如-愛が抽象化したものが上帝であ-

逆に言えば上帝が人格神化したものが愛なのである

一方の王亥はどうであろうか山海経

大荒東経に

有困民国-王亥託干有易河伯僕牛有易殺王亥

取僕牛

困民国で-主

亥は有易園と河伯園に自ら飼い馴ら

した牛を預けた有易園の人は王亥を殺し牛を奪

この候の郭瑛注が引-古本竹書紀年には

殿王子亥賓干有易而淫蔦有易之君鯨臣殺而放之

是故殿主

(一作上)甲徴候師子河伯以伐有易滅之

途殺其君紹臣也

殿の王亥は有易園

へ客として赴いたが行ないが悪

- 17-

中国文学報

第四十六放

有易の君主摘臣が彼を殺してしまったそれで段

の上甲微が河伯図の軍を借-て有易を伐ちこれを滅

ぼし君主鋸臣を殺した

と記されているまた初学記撃

九引世本には

「骸が

牛を飼い馴らした」とあ-この膜も王亥であると考えら

れている少な-とも東周末期に於ては王亥が牧牛を行な

ったという俸説があったのであ-王亥を論ずる人の多-

はこれに注目し彼を殿の文化紳であると考えている

「高

租」と特別扱いされる租神の一人であることを考えれば

王亥が文化面で多大な功績を上げ原始状態から文明状態

へと殿氏族を更展させたことは十分に考えられる

もしそうであるならば前章でその存在を示唆した

「殿

の失われた文化紳」はまさにこの王亥ということになる

既に述べた如-詩経

商煩の段王朝開園神話に封しては

それと系統を異にする楚辞

天問という比較資料もあるの

であるから次にこちらの方を見てみることにしよう

fTD

天問は古来極めて錯簡の多い書と言われる

その中で

殿周開園に関する部分は比較的次第がまとまっている湯

以前の駿の先王が措かれるのは55-聖早であ-簡秋と尊

の通婿から始まっている

55簡秋在董卓何宜玄鳥致胎女何喜

筒状は高い槙童にいたが尋はどうして見そめたの

か燕が滑-物を持

ってきたのを筒状はどうして喜

んだのか

古来詩経

商頒

「玄鳥」と同じ-簡秋香卵の説話を云うも

のと解されるがこれも

「玄鳥」詩と同じ-この二句だ

けから呑卵の話を導き出すのは難しいしかしこの通解が

行なわれた高い

「董」は天地の間を繋ぐにふさわしい場所

であ-鳥が天から

「胎」を授けることなど天地通姫を

描-ことには襲わ-はない天問では上帝には

「帝」とい

う呼稀を使

ってお-ここでの

「魯」はー辞の

「愛」と同

じく上帝の人格化したものと思われる

この二句は不思議なことに簡秋と啓が誰を生んだのか全

く言わないテキストに脱落がなければ次の章の登場人

物を簡秋の子と考えるのが最も素直であろうところが次

に登場するのは

「玄王」でも

「契」でもない

18

56該乗季徳頗父是滅胡絡弊干有屈牧夫牛羊0

57干協時舞何以懐之平脅鼻膚何以肥之

58有屈牧豊云何而逢撃林先出其命何徒

壬亥はその父季の徳を縫いだが父は立涯な人であ

ったどうして王亥はとうとう有易園に落ちぶれそ

ゐ牛羊を養

っていたのかO

たて

あわ

いだ

協せて舞う女を見てど-してその女を

のか

平らかな脇腹に細やかな皮膚どうしてこの女

まじ

ったのか

王亥は有易園の牧童にどのようにして合

ったのか

寝込みを襲われて先に逃げ出したがどこから逃げ出

して助かったのか

56章の

「該」を王逸は

「竜也」と解しているが晴代に至

って王関連が人名ではないかと疑問を呈出L

t

王国経が卜

軒との対照によって王亥であると断じて以来この説が支配

的であるこの四句も前途の山海経や竹書紀年と共に王

亥が牧神であ

ったことを示すものとしてよ-引かれる57

章は難解であり注揮家ごとに説が異なると言

ってもよい

股周開園の神話と

「紳代史」(大野)

ほどであるが王亥の婚姻のことを云うとする需介甫氏

黒須重彦氏の説に徒う58章は王亥が殺されそうにな-な

がら辛-も逃れたことを云い前に引いた山海経などの所

侍と関係があるものと思われる

この三幸の記述から王亥の迫害と文化創造のモチーフを

見出すことはさほど困難なことではないし簡秋と孝によ

る殿租の神的な誕生も前章までに述べた例と同様に何ら

かの形で王亥に英雄的資質をもたらすものと考えられる

簡秋が生んだのが王亥であると断定できれば話は簡単なの

であるが56章には王亥の父としての

「季」が登場してお

り従

って天問に於ては簡狭

暑-季1王亥という系譜が

成立していたことになるしかし卜辞に見える

「季」は高

租でない租神の一人にすぎず

「高租王亥」が

「季」を父と

していたとは考え難いo

l鮭に卜解における租紳相互間の

父子関係は不明な部分が多-本来は寧ろ横

一列に並ぶ関

係であ

ってどれも

「租先」に襲わ-はないのであ-果

たした功績や役割の違いによってそれぞれに分化したもの

と考えた方がよい卜辞における

「季」の神威は他の租紳

19

中国文革報

第四十六桝

と襲わらないが

天問では尊と王亥との橋渡し的な性格に

襲わったのである

59恒乗季徳蔦得夫朴牛何徒費班緑不但遠来

王恒も李の徳を鰹ぎ王亥の養

った僕牛を得たど

あまね

はどこ

うして狩-に行

って獲物を

-

民に

ただ行

って

締るだけに止まらなかったのか

「恒」は王遠江では

「常也」と云うがこれも王国経が卜

辞に見える王恒のことであると解して以来諸家概ねこれ

に徒う「班稀」は近年の解帯では

「官位」「栄達」等に解

され

「王恒が有易図で出世しょうとした」意であるとす

るがす

っき-しない解輝であるー辞に見える王恒は

弓の形の中に

「恒」字を入れたものもあ-寧ろ

「湯は狩

-に往-際ただ行

って締るだけではな-民に編-施し

を輿えた」とする王逸注の方が原初的な意味に近いと思わ

れる但し主語は湯ではな-王恒である張光直氏は王恒

と罪に何らかの関係があるのではないかと考えるが

それ

よ-は駿人の狩猟柵であ

ったと考えた方が良いかも知れな

いただ王恒の事境を記した文献が他に存在せず容易に

結論を得難いのは残念なことである

60昏微遵述有狭不寧何繁鳥葦棟負子韓情

61絃弟遠軽危害顔見O何襲化以作許後嗣而逢長

上甲微は父王亥の事鏡を鮭ぎ有易園は安定を保て

ず滅びたどうして有易の人民は妹に止まる鳥のよう

に苦しんでいるのに上甲微はその子女にまで横暴な

ことをしたのか

目の陪んだ請弟はみな道ならぬことをしその兄上

甲微に危害を加えたのにどうしてうま-ごまかして

その子孫が長-祭えることになったのか

この二章も本づ-所がはっき-せず難解であるが「昏微」

はやは-王国経が上甲微のことであるとしてお-その事

蹟を云うものと考えられる上甲微は卜辞で系譜が明らか

な請王のうちで

一番古い租先に普た-いわば

「人王」の

租であるがここでは王亥と同様の迫害モチーフが再び現

⑳れその事鏡は既に神話化されていたものと見られる「何

襲化以作詐後嗣而逢長」の二句はそ-した神話であるが

故の不合理性を問うているのである

- 20-

62成湯東巡有等宴極何乞彼中臣而吉妃是得

63水漬之木得彼中子夫何悪之腰右筆之婦

64湯出重泉夫何皐尤不勝心伐帝夫誰使挑之

湯は東方

へ巡狩Lt有等園までやって来たど-し

てあの中臣伊声に乞い求めて良い妃を得たのか

水蓮の木から有等氏の君主は伊声を得たとい-が

どうして伊声を嫌

って湯の妃に付き添わせたのか

湯は重泉の牢獄から出て来たがそれは何の罪だっ

たのか正義を求める心を抑えられず実を伐

ったが

誰が彼をそうさせたのか

商頭における湯は夏架や尾吾氏を伐

った英雄として非常に

多-の紙幅を割いて賞揚されていたのであるが天間では

僅か三幸で終わ-しかもその年分は彼の名臣伊声のこと

に費され天下を平定した聖王にしてはかなり冷淡な描き

方である多-とも王亥や上甲微などと同等の重さしか持

っていないといえるしかしこの簡単な記述は神話的な趣

きに富んでいる伊声は呂氏春秋

本味簾で

「有佐氏の女

が空桑の中から嬰兄を得て

それを君主に献じ君主は

般周開乾の神話と

「紳代史」(大野)

料理人に彼を育てさせた」云々と書かれるような俸説をも

つがその原型とみられる記事が63章にあ-64章の

「湯

出重泉」も森安太郎氏が

「陽

(太陽神)が海の下を-ぐっ

て再び現れ出る様子」

と解したほどであるその虞偽は措

-としても

「重泉に囚われてから脱出」

というのがこれ

まで屡々登場してきた迫害1事業完成のモチーフであるこ

とは明白であ-この迫害こそ棄てられた后稜と同じ-英

雄を英雄たらしめる神話素の一つである殿人にとって湯

「人王」であったはずであるが楚人にとっての夏殿革

命は既に神話となっていた宋人にとっても同じであ

った

と思われるしかし東周時代の為政者の意識は最早神話を

古代人の如-

「心象における事資」として受け取ることを

許さなかった神話の神話たる所以である英雄の迫害も

政治家としての彼等にとっては

「不合理」以外の何もので

もな-統治強化の障碍でしかなかったであろうそれ故

その

「不合理」を宋人は頒詩から治し去-楚人は

「天に

問」うたのである東周の殿開園神話はその鮎で西周人

の神話と歴史が

一鰻になった

「神代史」であ

った詩経

21

中国文筆報

第四十六冊

雅の周王朝開園の物語とは成因がやや異な-神話そのも

のを改襲した

「神代史」であるといえよう

再び天間に戻ろうここで語られる殿王朝開園神話を綜

合すると腰租誕生1夏殿革命という流れは商頭でのそれ

とはぼ

一致するのであるが商頚では全-無税されている

王亥

王恒や上甲微の事浜を多-記している所が大いに異

なるこれらの先王は卜軒に於ても租神として柁られてお

-殊に愛

(餐)王亥は

「高租」と崇められていたのであ

るから天問における殿租誕生や牧牛創始の偉大な功績も

殿代からその根摸となるべき停東があったものと考えられ

る殿の未森たる被征服図

宋図で語られなかった文化神

が周の政治的願力が比較的少なかったであろ-楚園に於

て生き残

っていたのであ-「王亥を構える頒詩は政治的

要請によって胴去されたのではないか」という前章で捉

起した推測は更に確貴性を樹して-るのである

このように文化神を語る神話は政治的な事情によって

改襲されやすいという

一つの傾向が次第に明らかになって

きたのであるが天間に見える周王朝開園神話を詩経

雅のそれと比べてみるとその傾向は

一層はっき-する

これについては次章で検討することにしてその前に前

章で提起したもう

一つの問題即ち契と後に呼ばれるよう

になる殿紐の正鰻について卑見を示しておきたい

1般には詩経

商頒

「玄鳥」

「長顎」の鄭隻や楚鮮

天問の王逸注史記

殿本紀などから筒状が生んだ殿租

が契であるとされ詩経や楚軒の注揮家も特に疑問を抱い

ていないしかしこれまで見てきた詩経や天問には契の名

は全-見えていない国語を見ると周語下には

玄王勤商十有四世而興

玄王は商のために働き十四世かかって興起した

鄭語には商

契能和合五教以保干百姓者也

商契は五教をよ-調和させ人民を守-養

った人で

魯語上には

契為司徒而民韓-上甲微能帥契者也o

契は司徒の官となって人心を和らげ--上甲微は

22

たす

契をよ-

た人である

自玄王以及主薬莫若湯

文王から主薬

(湯の父)に至るまで湯よ-すぐれた

者はいない

とあるこれらを見ると契とい-名は周

楚以外の

園で用いられし

かも

「司徒として五教によって人心を安

定させた」という事鏡が語られている抽象的な形ではあ

るが文化面での功寮が取-上げられているのである

そうすると陳夢家氏の

「契と刻は互訓であ-共に亥

と普通である故に契は即ち王亥である」とする説が有力

な説として浮上して-るOこれまでの考察から王亥は殿

の高租にして文化所であ-従

って契というのは王亥の周

連諸国での呼び名であ-「五教」云々は王亥の文化神的

な面が周遠諸国に於て襲化したものと考えられるのである

もう

1万の

「司徒」という面に注目すると楊寛氏は

「司

徒」は

「司土」であるとして契は社紳

(土地紳)であった

と考えている「司徒」を

「司土」と表記するのは西周金文

に多-見られる用法であ-本来は土地や農業を司る官で

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

あったらしいまた史記

殿本紀には

「実は南を佐けて治

水に功があった」とあ-梁玉縄の疑う如き司馬遷の臆説

でな-古-からの停承に基づいているものであるならば

契に夏南の如き下士造成神的な面もあった可能性は捨てき

れない司土の官は農業にも関係が深いことから契は土

地神にして農神の性格をも持つことにな-このことは王

亥が牧牛の創始者であることと関係があるのかも知れない

なお尚書尭典には

帝日「乗努民阻飢o汝后榎播時百穀O」帝日

「契百姓不親五品不遜汝作司徒敬敷五教在寛」

もろもろ

舜は言った「棄よ

民は飢え苦しんでいる

汝は后頑の官とな-

この百穀を播け」と舜は言

った「契よ人民は互いに仲良-せず父子

君臣

夫婦

長幼

朋友の序に従わない汝は司徒の官とな

つつし

-五教を敬んで廉め心を寛-して治めよ」と

とあ-同じ-尚書の周官には

司徒掌邦教敷五典擾兆民

司徒は閲の教化を掌-五教を廉め多-の民を順

23

中国文畢報

第四十六肋

わせる

とあ

って司徒が教化の官であるかの如-書かれているが

これは后積が農官とされたために契は

「五教を康めた」面

のみが取-上げられそれが司徒の官名に結びついてかか

る誤解を生んだものであ-司徒の本来の意味ではないと

考えられる

周やその支配下にあった宋園では殿租に玄王という名

が使われてお-玄鳥による神的な誕生と商の興起のた

めに轟-したとい-事暁が語られる

魯園では

「契」

「玄

王」両方が見えるがー契と言う場合は文化的な功績が描か

れ玄王と言う場合は始租としての面に注目されている

恐ら-

「玄王」とは契=

王亥の始租としての面が強調され

た時の呼稀であ

ったと思われる文化人類学的にも「玄」

という名は始源の闇や滞沌を連想させるものであ-例え

ば老子

六章の

玄牝門天地板

玄牝の門(女陰)は天地寓物の根源である

の如-である

宋園や周では殿租の文化神的な面が抹殺さ

れたために始租神としての

「玄王」の呼稀が定着し魯

鄭などの周連列国では儒教的に襲化した文化神として

「契」と呼ばれ楚国では殿代の呼稀

「王亥」が原形に近

い形で保存されて

「該」と呼ばれたのであろう

四楚鮮

天問の周王朝開園神話

まず天問における殿周開園神話の大筋の流れを圏示する

と附固

一のようになる我々の常識で考えるならば夏殿

革命の次に殿のその後の衰亡を歌いそれから周王朝

へと

移る構成をとるのが普通であるが天問では夏殿革命から

いきな-周の衰亡

へと飛びそこから殿の衰亡

へと戻る間

くりかえ

「天命は

」というテーゼを挟み込んでいるこの

ような操作によってどの王朝も同じように興亡を繰-近

すというテーゼが

7層際立つのであ-

T見乱雑に見える

排列が安は高度なレトリックを用いた結果であるという

ことがわかる

次に殿周の開園が歌われている各章を時間順に並べ

かえて相互に封比してみると附圏二のようになるこの固

24

殻周開園の耐話と

「神代史」(大野)

附圃- (丸内の数字は葦の通し番競)

舜と女梱 ⑱~

「験萌在初」

1

度の先王 ~

t

夏殿革命 ~

周の先王

l

殿周革命 ⑮~cent)

iiiiia段の衰亡 ~ 周の興亡

一- 一 ノ ー「天命反側」

附圏二

段 簡秋と唇の通婚

王亥 有易で牛羊を牧す

王亥の婚姻

王亥 殺されかける

王位 王亥の牛を得る

上甲微 父の遺業を鮭ぐ

肢弟が上甲微を迫害

一寸 どうして子孫が栄えたのか」

~ 楚の興亡

周 ⑯ 后硬 氷上に捨てられる

上帝をも驚かす武勇

-「どうして子孫が栄えたのか」

成湯 伊声を得る

伊デの生い立ち

湯 壷泉から出て案を伐つ

- 25-

⑳ 文王 天命 もて段を覆す

岐山に移る殿の惑婦

文王 村の無道を天に告げる

文王 太公望を得る

武王 急いで殿を伐つ

武王の朝合

周公 武王をよしとせず

武玉 村を伐つ

中隊文革報

第四十六筋

一見して知ることができるのは周の先王には僅か二章

しか使わず殿周革命に九章も費やしてお-殿王朝の方

が租神に多-の章を割いて夏殿革命には三章しか使わな

いのと対照的であるということである

周王朝開園を云う章をもう少し詳し-見てい-と

76積維元子帝何竺之投之干水上鳥何燐之

77何漏弓挟矢殊能渚之既驚帝切激何逢長之

后稜は上帝の長子であるのに上帝はどうして彼に

危害を加えたのか彼を氷の上に捨てると鳥はどう

してこれを暖めたのか

どうして弓をひきしぼ-矢を挟みすぐれた才能で

武婿となったのか上帝をも驚かすほどひどいことを

したのにどうしてその子孫は長-栄えたのかQ

后積が上帝の子であるのに迫害され鳥によって助けられ

たというのは詩経

大雅

「生民」と同様であるが周租后

礎の両的資質を云-のみであ

って農業費明には全-解れ

られていない77章は王逸注では前二句を后稜後二句を

武王の事績とするが洪興租補注は全部を武王の事績とし

朱子はその両方を疑問であるとす

78章以下では文王の

ことを云う章が績いてお-この章を武王の事虞とする課

には従えない聞

多や衰珂

氏は全部を后頑の事鏡とする

が必ずしも后榎に限定することはできない少な-とも

古公以前の

「神代」の先王のうちの誰かであることは確か

であろう後二句の

「上帝をも驚かすようなことをしなが

らどうして子孫が栄えたのか」という疑問が殿の租神と

「人王」の境目である上甲微を語る61章の後二句と似るか

らである周の先王を歌うのはこの二幸で終わ-であ-

そこでは先王たちの文化的功績は全-歌われておらず殿

の先王に比べて極めて冷淡な扱いである

78章以下は殿周革命にまつわる様々の問が寛せられるが

詩経

大雅に見えておらずまた考古学的な裏付けもない

俸説的な事件もい-つか見えているとはいえ神話的な奇

怪さには乏しいといえる0

79遷蔵就岐何能依O殻有感婦何所説

貴職していた重器を移して岐山にやって充たがどう

して人民がそれに従

ったのか殿には人を舷惑させる

26

女がいたというが何のために議話しょうとしたのか

前句についてはこれを文王に懸ける説

大王に懸ける課

あるが前後で文王のことを歌

っているので大王の事蹟と

するのには難があるとはいえその内容は詩経

大雅

「崩」

に云う古公宜父の事鏡に近-どちらに限定することもで

きない「大王から文王までの問」とする他ないであろ-

後二句は肘の妃である坦己を云うとされるがその何につ

いて問うているのかは明らかではないしかし両者とも

その

「答」となるべき俸説がこの時代に前後して現れてお

-前者については

1章で引いた孟子

染着王下後者に

ついては太平御覧奄

1三五引世本に

「村が有蘇氏を伐

った

時有蘇氏は坦己を妃にさし出した肘はこれを愛して言

うことを何でも聞いたために武王が肘もろとも殺した

云うのがこれに普たる

66到峯村窮叔旦不嘉O何親撰車足周之命以各嵯

肘の首をはねるに至-周公且はこれをよしとしな

かったどうして周自ら謀

って殿を討とうとしたのに

その行動は人民に支持されたのか

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

後二句は極めて難解であるがいま黒須重彦氏の解樺に従

う他の諸家にはテキストの文字操作で意味を通らせよ-

とする者も多い前二句を王逸は

「武王の舟に白魚が飛び

込んだので群臣が

『吉兆だ』と言ったのに封Lt周公が

『吉兆ではあるが吉兆と思

ってはならぬ』と戒めたことを

云う

と解しているがこれは史記

周本紀の記事を敦術

したものであって漢初の五行思想の産物である寧ろ所

謂伯夷

叔奔停説の前駆形と考えた方がよい

ここに引いた事件が果たして史寛であ

ったのか西周時

代に生まれた俸説か或いは東周以後の俸説であるのかは

容易に判断できないしかしいずれにしても西周人の

「神

代史」からは無税されていた事件が本来の形ではないに

しても再び記録される動きをここに見ることができるので

あ-結語で述べる

「神代史の再神話化」の萌芽であると

いえるO

このような新しい動きはあるものの天問の周開園神話

も始祖の神的誕生1英雄的事業の達成という基本的な構造

には全-襲わ-はないしかし全鰻を通じて諸王の文化的

27

中閲文革報

第四十六筋

功績には全-解れられていないばか-か周の先王=

租秤

に封しても極めて冷淡であ-殿に封する態度とは明らか

に異な

っているのである

このことは昔時の楚園が周文化よ-も殿文化の方により

親しみその信仰

習俗等を保持していたことの一つの讃

接であろう楚文化と殻文化の関係の深さは既に様々な面

から指摘されてお-例えば楚辞

九歌に見える「雲中君」

「河伯」の神がト辞にも

「雲」「河」神として見えているこ

とや西周末期のものと見られる楚の青銅鐘は殿の鍔と形

が似てお-その銘文も殿金文に似た雄滞な書鰻であるこ

とな

どが挙げられるこのよ-な現象が生じた過程として

は(一)歴代から楚は殿に臣屈してその文化を受け入れ

周の時代になっても表向きは周に臣属しながらも殿の文化

を保持し績けた(二)周代以後に国力を埼大した楚園は

への対抗上その文化を拒み隣接する宋園の殿文化を積

極的に導入したという二つの説が考えられる前者の立

場を取る者はその根接として詩経

商頒

「殿武」の

撞彼殿武奮伐剰楚突入其阻衷利之放有戟其

所湯孫之緒(一章)

敏疾なる武丁は奮起して剤楚を伐ち険しい山地

に攻め入って刑楚の兵士を虜にしその地を平げ

湯王の子孫として手柄を立てた

という部分を畢げることが多い

前述の如-商頭目鰻が

宋園の楚国

への対抗心から作られたものであ-我が国の

紳功皇后遠征説話と同じ-どこまで史寛を反映している

かは未知数であるしかも卜辞などの殿代の地下資料から

は昔時の殿楚関係を示すものはまだ見つかっていない

一方後者については史記

楚世家に周の夷王の時に

楚王熊粟が

「我は牽夷な-中国の詮親に興らず」と言っ

たという記事もあ-現時鮎ではこちらの説の方が有力で

あると思われるいずれにしても周とは言語や風土を異

にする楚閲で生まれた天問には意固したか否かはともか

-周文化の重税と殿文化

への傾斜が讃み取れるのであ-

周王朝側の論理で殿の文化碑の功績を壷-抹殺された詩経

商頭や周の文化神を構える詩経

大雅とは好封照を見

せているのである

28

結語及び除論

これまで述べ来

ったことを要約すると詩経や楚辞

問に見える殿周開園神話は始租の所的誕生1迫害1事業

(文化創造

天下統

一)の完遂という構造を持ち既に西洋

の英雄神話に於て指摘されている基本構造をここにも見出

すことができるただ西洋では

一人で行なわれることが多

い英雄としての事業が中国では教代に亙

って行なわれる

ことが多いという違いはあるところが殿の開園と周の

開園また詩経と天問の相互間で詳し-比較してみると

神々の文化的功績は神話が記録された常時の政治的な事情

によって抹殺されることがあるという事資に束づ-この

ことは中国に於ては剣を振るって活躍する英雄よ-も

文化を創始する

「聖王」の方が重きをなしてお-氏族や

国の威光を左右するものであ

ったということの一つの謹左

といえよう

詩経

大雅における周王朝開園神話は高租にして文化

神である后稜-公劉を神話的要素に富む叙事詩によって語

段周開園の紳話と

「神代史」(大野)

っているが

「人王」の代に至ると

殊に王李に新著に見

られる如-諸王にとってマイナスイメージを輿えかねな

い史寛は壷-制去され武力革命の成功を

「神代」から引

き継がれた輝かしい事業として稀讃している周王朝の開

園神話とそれに績-殿周革命の史糞は詩が記録されるま

での間に

「神代史」

へ改愛されたのであるそこに支配強

化のための王室神聖化という高度な政治的意圏が働いてい

るのは確資であろう

段の遺民の園である春秋の宋園における段王朝開園神話

詩経

商項の諸篇は最終的には周王朝側の人々によって

記録

編輯されたものであ-それ故殿人の信仰した文化

紳は義-抹殺され支配者としての周王朝の論理に基づ-

「神代史」に改変されているOそれに封して楚辞

天問の

殻王朝開園神話には卜辞にも見える租紳たちの神話的雰囲

気に富む物語が多-残

ってお-逆に天問の周王朝開園神

話では周の先王の文化的功績を無税していて宋国との政

治的

風土的立場の違いを明瞭に浮かび上がらせているの

である

- 29-

中国文学報

第四十六筋

か-の如-

神話時代やそれに績-歴史が為政者の手に

よって

「神話化」される場合は中開の諸秤の中で重い比

重を占める文化神が記録者の政治的立場に従

って改奨され

「人王」に封しては

「都合の悪い」史貴を切-捨てて

「神

代史」

へと仕立てられるのであるが東周時代になるとそ

れとは逆に「人王」にも神話素の一つとして解揮可能な俸

説が様々な書物に記録されるようになる既に引用した文

王の安里幽閉

伯夷

叔斉の餓死などがそれであ-

「人

王」の物語もこれによって組両と同様の典型的神話

へ近づ

いてい-のであるこれらが記録されたのは諸子百家の書

物であ-昔時の遊説家たちが民間に流布していた停説を

敬-上げて自説を述べるために用いたものと考えられる

これらの停説が古い形をそのまま保

っているか否かは全-

保護がないとはいえ政治力撃の働きに-いレベルに於て

「神代史」に再び神話的物語が付け加えられるようにな

たということはいえるいわば

「神代史の再神話化」であ

-

1般に

「中国古代王朝神話」として

1つの物語にまと

められているのはこうして

「再神話化」された結果の産物

なのであるこれらは確かに

「神話」としての要素を豊富

に含んでいるのであるがこれを中国古代神話の原型と見

なすことは不可能であ-上述の如-複雑な要因が絡み合

っているのである

こうして

「神代史」はたとえ元の形とは異なるにせよ

再び

「神話」としての光彩を放ち始めたところがこの

「神話」をまたも

「歴史」に固定してしまったのが他なら

ぬ史蓬であることは周知の通-である

しかし

「神代史の再神話化」の原動力とな

った

民間

に語-経がれた王朝停説のエネルギーもこれで絡恨したわ

けではなかったこうしたエネルギーはその後も小説に記

録された種々の歴史俸説などを生み出し形を襲えて生き

績けたのである

ところでこれまで本文中に取-上げなかった

一つの重

要な問題があるそれは

「楚園に古-から停わる楚人自身

の神々はど-な

っていたのか」という問題である

楚辞

天問にはその末尾に楚図の俸説と思われるものが

記されてはいるが多-の注帯家が匙を投げているはど難

30

解であ-筆者も今敢えてこれに挑戦するほどの飴裕はな

いoしかし離騒ではその冒頭で「私は帝高陽の未森である」

と歌

ってお-少な-とも屈原の時代では楚人は穎頭高陽

氏を租神としていたと考えられているが文化神に関する

記述は見えない

一方同じ頃に楚園で成立したと考えら

れている山海経

大荒西経には街頭の子孫の神々の事業

が豊富に記されている例えば重

寮の天地分離

太子長

琴の音禁孝明などである

これらの事章から得られる

一つの推測をここで述べると

楚辞に於ては楚人自らの文化両を表立

って取-上げられな

い事情があ

ったものと思われる楚語で書かれた「原楚鮮」

には書かれていたがそれを漢語に翻弄した際に宋図か

ら導入した殿の文化神に置き換えたのかも知れないそし

て自らの文化紳とその物語を速い

「大荒」の物語として

カムフラージ

ュしたのが他ならぬ山海経なのではなかろ-

かこの書が地理書の形をとっていることや他書に見ら

れない神話停説を豊富に載せていることなどは丁度我が

国の

『出雲園風土記』を思わせるものがあるまた殿の

殿周開国の神話と「神代史」(大野)

文化紳王亥が

「困民国」の人とな

っていた-楚の租神で

あるはずの蘭頂が

「額頭囲」なる図にいたとされているこ

となどもこの仮説の根嬢となろう

しかし最早紙幅も轟きているこの問題は山海経を中心

として改めて考察することにしたい

ば織井慶紀著池田末利編

『中図神話の文化人類学的

研究』(1九九〇平河出版社)があるoまたユング心理学の

立場から日本神話を分析したものとして河合隼雄

『中空構

造日本の深層』(一九八二中央公論社)等がある

近世以前の諸席の議論は専らこの怪異雫が信ずるに足るか

否かの次元に終始するが近代的な研究としては聞一多

「萎

娠履大人跡考」(『聞一多全集』第一射一九四八開明書店)

白鳥清

「段周感生神話の解揮」(『東洋学報』十五巷四親tT

九二五東洋協合学術調査部)出石誠彦

「上代支部の異常

出生説話について」(『支那神話俸説の研究』所収tl九四三

中央公論社)等がある

「帝上帝也」

「帝高華氏之帝也従於帝而見干天婿事賛敏也」

孔疏に

「頑柁郊礁之時英夫高辛氏帝率興供行妻娠随帝之

後践履帝迩行事敬而敏疾放鳥神歌饗紳既饗其条則

31

中国文筆報

第四十六筋

愛而拓之

於是為天神所美大為福緑所依止twz=得懐任則

震動而有身」と云う

例えば嗣西族の

『東巴控』に見える縛文字にこのことが窺

える附固三参照また河南省に俸わるロ東俸説によると

女桐が天から降ってきて伏義が地下から出てきたと云う

(陶陽

鍾秀

『中国創世神話』一九八九上海人民出版社二

一四頁)

附圏三

primeJ 一一一

~PJ虹互L

LJL

堅 室④

上部の 一へ は天下部の 皿 は大地を

表す圃①は中間に天地交合の気がありこれ

より荷物が生ずる固②の中間は蛙で天地交

合後の襲化を表す圃⑨では天地の間に男が上

女が下になっており男女の交合と同様にして

天地が人類を生んだことを表す

(陶陽 鍾秀 『中国創世神話』214頁)

「惟虞東学詩云人之初生皆裂胎而出騒失所依故堕地

郎帝惟羊連胞而下共産猪易故詩以

『如達』馬比o又常

熟陶太常元淳日凡嬰兄在母腹中皆有皮以豪之俗所謂胞

衣也生時其衣先破兄鰻手足少蔚放生之難O惟羊子之生

胸仇完具堕地而後母篤破之故共生易o后硬生時蓋戒於胸

中形鮭末露有如羊子之生者放言

『加速』今按前二説

是也下言

『不味不副』蓋謂其胞衣之不折裂也」(『毛詩俸

集通帯』巷二十五)

「徐君宮人娠而生卵以箆不詳秀之水演O猪孤母有犬名

鵠蒼へ猟干水溝へ得所弄卵衝以東蹄猪孤母以馬具凍俊

之逐沸成見生時正値へ故以為名徐君宮中聞之乃更録

取長而仁智襲君徐固」(博物志

異聞篇引徐値王志)

「高句凝着其先出自克明東明本北夷嚢離王子離王出

行其侍兄於後任娠離王達欲殺之侍見目『前見天上

有菊如大鶏子乗降我困以有嫉』王囚之後連生男玉

置之家牢家以口束嘘束不死o王以為所乃聴収養」(梁

諸夷俸)

北欧や古代

ハンガリー等に見られる豊富な例がKケレ-

ニイtCGユング

『神話撃入門』

一九五1(杉浦忠夫訳

1九七五晶文社)に引かれている

例えば壮族に俸わる

「種子と犬の尾」の物語では人々

「九尾狗」に天上の穀物を盗みに行かせたところ穀物を

九本の尾に-つつけて蹄ろ-としたところを番人に見つか-

八本の尾を叩き切られたが残-

1本の尾に穀物をつけて逃げ

師-人間は農業ができるようになったと云う

(陶陽

秀前掲書二七九頁)

32

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 13: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

中国文革報

第四十六射

不珍膜性」と文王の代に飛ぶのはあま-にも唐突であるこ

とから七草と八草の間に王李が殺害されたことを歌う章

があ

ったと推定することもできるが残念ながら確認する

すべはないしかしいずれにしても我々が常識的に考え

れば王李が殿に殺された事寛を語ることによって王季1

文王-武王を悲劇の英雄に仕立てられ殿周革命の物語に

一層の彩-を添えられるはずであるのにそれらが轟-酬

去されているのである

文王と武王に関しては詩経に見える密

崇征討等は周

原卜辞等に照らしても史貴であ

ったらしいしかし後世の

文献に見える

「村が文王を安里に幽閉したが文王の部

下が賄賂を使

って救出した

とか

「伯夷と叔斉が武王の武

力革命を悲しんで首陽山で餓死した

とかいった物語は詩

経はもとよ-古本竹書や地下資料にも全-見えていない

之を要するに古公以下の

「人王」についてはマイ

スイメージを興えかねない物語は

一切語られていないので

あ-そこには諸王の威光を高めようとする政治的要請が

ったと考えられる后積や公劉は

「神代」の高租神であ

るから神話的要素に富む怪異な物語をそのまま停えても

不都合はないしかし古公以下は所詮

「人王」であるから

紳懸-的な奇蹟を附合すれば虞寛味が乏し-なるしその

一方では

「神代」から績-聖王の血統を誇示する必要があ

る勢い

「都合の悪い」史宜を無税して「輝かしい事業」

のみを賞揚する方向

へ向かうことになろうその敏寄せを

まともに食らったのが他ならぬ王李であ-殿に朝貢した

-殺された-した史資をそのまま記せば

「王統」の威光

を傷つけるのは明らかであるから大任と共に聖天子文王

を生んだいわば橋渡し役としてのみ名を留めることにな

ったのであるこのような

「歴史の神話化」の結果詩経

大雅の叙事詩語笛は周王朝開園の

「神代史」として西周

貴族の問に俸えられていったのである

二詩経

商頚の殿王朝開園神話

詩経

商頭の詩篇は鄭玄の商頭語で

「末の戴公の時に

大夫正考父が十二篤を得たが孔子が詩を編纂するまでに

七篤を失

った」

と停えられ今日に至るまで定説となって

12

いる現存する五篤の中には玄王

相土

湯及び中興の

武丁の名が見えている

殿の始租誕生を歌う詩として古来よ-引かれるのは

「玄

鳥」の冒頭の二句である

天命玄鳥降而生商

天は燕に命じ下士

へ降らせて商租を生ませた

鄭集がこの二句を

「天が燕を下士

へ降らせたというのは

その燕が残した卵を有城氏の女簡秋が呑んで殿租契を生ん

だからである」

と解して以来これが定説となっているし

かし森三樹三郎氏が既に指摘しているようにこの二句だ

けを見ている限-

「燕の卵を呑んだ」という事寛は直ちに

導き出せないのであ-この説話が商頚が作られた春秋時

代の始租神話そのままであるかどうかは頗る疑わしいし

かし玄鳥なる鳥が天と下士の間を往来して南畝を生ませた

ことはこの詩からも讃み取れるのであ-少な-とも春秋

の来園では殿租が天地通婿で生まれたとぎれていたと言う

ことはできよう

「長襲」にはやは-殿租とされる玄王とその孫とされ

段周開園の紳話と

「紳代史」(大野)

る相土が登場する

溶哲維商長顎其群洪水

巴だ高教下土方外大

国是瞳幅限既長有域方渚

帝立子生商(1章)

玄王桓掩受小国是達受大国是達率履不越途

観能登相土烈烈海外有載(二章)

きぎし

明徳なる商王その

現れて久しい洪水が贋が

った時南は下士の四方に功を敷き外の大国とを区

切-中国の虞さは遠大になったO有城氏もその時勢

力を埼し上帝は有城の子を立てて南国を作られた

(一章)

玄王は武徳があ-小国に封ぜられてもよ-治め

大国に封ぜられてもよ-治め薩に従

って越度な-

しめ

教法を現して行なわせた相土は武威輝かし-海外

の諸国を平定した(二幸)

この詩の

「玄王」は毛俸

鄭隻の如-殿租契のことで

「玄鳥」詩の商租と同

一であると解するのが普通であるが

白虎通

文質

(l名瑞賓)篤は玄王を湯と解してお-漢書⑳

鰻柴志は契(高)と玄王は別人で共に段租であると解する

13

中国文筆報

第四十六筋

相土は周鰻

校人注引世本で

「初めて乗馬を作

った」

と云

いこの詩で武勇の王として描かれていることと関連があ

るものと思われるしかし玄王

相土共に具鰹的に如何な

る事鏡があるのかはあま-括かれず神話としての考察を

かな-難しいものとしている

相土から十

1代後の子孫とされ夏案を伐

って殿王朝を

隆盛

へ導いたと俸えられる湯は同じ「長顎」に見えている

帝命不達至於湯秀湯降不遅聖数日頗o昭倣遅

遅上帝是砥帝命式千九園(三牽)

武王載端有虞乗鉄如火烈烈ー則莫我敢局萄有

三幸莫逐莫達七九有有載葦顧既伐昆吾夏架o

(六章)

上帝の命は誤-な-湯に至って天命と合合した

湯の生まれること期に麿じ聖徳は日々に高まった

天にも明らかに至る徳は久し-止まず上帝も愛敬し

て九州に法を示させた(三章)

武王湯は旗印を立て固-銭を撞-火の如-勢い

とど

もと

盛んなれば誰も敢えて長めることはできない竜株

ひこば

に三つの

生ずるといっても生長しきることは

ないO湯は九州を平らげ垂の葦図

顧閲と昆吾氏

竃の夏架を伐

った(六章)

湯が

「天命」を得た後に諸国を征討して九州を統

一したと

いう内容であ-大雅における文王や武王と同じ-始租

の神的資質を引き継いで天下統

一の事業を完成させるので

ある

これらを全鰻的に眺めてみると商租の神的誕生1

相土

湯の天下平定という流れは大雅における周王朝開園の物

語と同様のパターンであ-また請王を武徳の王と稀える

のに終始して請王にとってマイナスイメージを興えるよ

うな話が記されないのも大雅の文王や武王と同様である

商頭の諸篇が大雅以上に尖鋭な政治的意圏を以って作られ

たことは白川静氏も

「末に興

った膨折たる国家意識を背

景としてその抗争老たる刑楚に封する敵封感情の昂揚

を目的とし」たと指摘する通-であ-諸王の武勇ばか-

をことさら強調するのも肯けることであるところがも

しか-の如-商頭諸第が宋人の

「神代史」であるとすると

14

殿の諸王の文化的功績が殆ど歌われていないのは何とも不

思議な事賓である常時

「南賛歌舌」

の園であったはずの

楚と争うのに自らの文化的先進性とその由来を誇示しな

いということが果たして考えられるであろうか

結局宋人の殿開園神話を西周人の周開園神話と比べた

時の問題鮎は(一)後に

「契」と呼ばれるようになる殿租

の正睦(二)両者とも同様の構造を持ちながら殿開園の英

雄たちに文化的功唐が見られない理由tの二鮎にまとめら

れるo前者については戦国時代の楚国における殿開園神

話を記す楚辞

天問や殿嘘卜辞に見える殿の高組神など

にこの問題を解-鍵があろうと思われる後者については

まず宋園と同じ春秋列国である魯園で作られた詩経

魯頚

を参照するとある程度の推測が得られる

問官有他賓資枚枚赫赫妻嫁其徳不回上帝是

依無災無害禰月不遅是生后頑隆之百福蚕種

重移穂塀寂穿奄有下図倖民稼橋有稜有黍有

侶有拒奄有下士績南之緒o(1章)

后稜之孫資維大王o居岐之陽賓始易商至干文

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

武濃大王之緒致天之眉千枚之野無武無虞上

帝臨女敦商之族克威厳功王日叔父建爾元子

伴侯干魯大啓爾字鳥周室輔O(二章)

奥深-清い宗廟は堅固で美しい輝かしい妻糠は

その徳も貞正であ

った上帝も心をよせて無事に子

を生ましめ十月十日を遅れることもなかったここ

さいわい

に后積を生むと天は多-の

降したそれは黍

もちbぴ

おくて

わせはやうえ

おそうえ

まめ

や穿後に領下の閲を

くろきび

治め民に耕作させた稜や黍もあれば楢や

ある下士を治めて后稜は南の事業を縫いだ(一章)

后稜の子孫はかの大王宜父岐山の南に居任した

時始めて殿

への臣展開係を慕

った文王と武王に至

-大王の事業を縫いだ殿の天命の終わ-は牧野の

地でやって来た「武心を抱いた-心配してはならぬ

上帝も見ておられるぞ」武王は殿に勝

ってその人民

を治めその功績は先王たちにも等しい成王は言

た「叔父周公よ

そなたの長子伯禽を立て魯園の

侯とし大いにその土地を閃かせ周室の輔けとさせ

15

中開文革報

第四十六冊

よ」と

(二章)

「関宮」全九章の

うち二幸O魯図はこの詩にも云う如-局

公の長子伯禽が封ぜられた図であり周と同族であるから

曹然周租后稜に始まる諸先王を構えているわけであるが

后稜の農業創始を

一章全部を費やして

「南の緒を鰹ぐ」と

賞揚する割には文王

武王の殿周革命に封しては素束な

い描き方である寧ろ大雅の詩篇よ-も先王の文化的功績

に重きを置-といえる

1万の宋園は肘王の庶兄微子啓が武王に封ぜられた園で

ある宋園は殿の穫柴を修め殿の習俗を堅持し績けたと

俸えられる

所詮は被征服園である自らの租先を高ら

かに賞讃することに封して何らかの政治的願力が働いたこ

とは想像に難-ない「七筈の詩が亡伏した」という商魂

譜の記事は或いはこのことに関係があるのではないか

この失われた詩の中には

西周の

「生民」

「公劉」詩の如

-殿代よ-俸わる文化神を歌う詩があったのではないか

この推測をよ-精確に検討するにはやは-宋園以外の

園に俸わった殿王朝開園神話の一つとしての楚辞

天問を

参照する必要があるそこで次章ではまず殿嘘卜辞に見え

る高組神について検討し次に楚鮮

天間の殿王朝開園を

問う部分について考察した後これらと商項とを相互に比

較することにしたい

三卜辞及び楚鮮

天問の殿王朝開園神話

卜辞は占卜のための文句を記した文字資料であ-もと

よ-神話の記録を目的としたものではない従

って殿人の

間に俸えられていた殿王朝開園の物語を卜辞によって復元

することは言うまでもな-不可能であるただそこには高

租神や先王をはじめ様々な神の名が見えてお-これを後

の時代の殿王朝開閉神話と比較することによってその神

話がどれ位原初の姿に近いかを推定することはある程度可

能である

さて殿人にとっての最高碑は周知の如-上帝であ-

卜辞にも

「帝」として見えていて風雨などの自然現象を

支配し人事に禍福をもたらす存在であることが知られて

⑲いる

16

この上帝に封しては直接条把が行なわれることはないと

い-のが通説であるが島邦男氏によれば絶無という諸で

はな-締把が行われる例が三例あるこの締紀は上帝の

みならず高租神や先王に封しても行われてお-例えば

羅振玉

『殿虚書契緯編』

一-二-

一片に

点締子王亥

貞-王亥に繭のまつ-をせんか

董作賀

『乙篇』四五四九片に

葵未卜両税乙

英未に卜す租乙に蹄のまつ-をせんか

とあることから

恐ら-張光直氏の云う如-

「殿の人びと

『帝』は先租の絶稀であ

ったかあるいは先租の観念

の1つの抽象化されたもの」

ということになろう

上帝と同様の祭紀が行われる租神の-ち「高租」と呼

ばれるのは愛

王亥の二人である

愛は変とも揮され王⑮

図経が

「暑」と塵韻であることなどを理由に帝尊と解して

以来これが定説となっているO帝聾は後の時代の文献に俸

える所では自らの文化的事業や武勇に関しては何も記さ

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

ずただ殿組契と周蔵后榎の共通の父祖であると云うだけ

であ-上帝的な存在であ

ったとするのが諸家の1致した

見解であるしかし殿代に於ては

「帝」と帝替即ち愛は区

別されている以上完全に同

一であ

ったとはいえず上帝

と人王をつなぐ役割を持つ始租神として奉られたものと思

われる前述の如-愛が抽象化したものが上帝であ-

逆に言えば上帝が人格神化したものが愛なのである

一方の王亥はどうであろうか山海経

大荒東経に

有困民国-王亥託干有易河伯僕牛有易殺王亥

取僕牛

困民国で-主

亥は有易園と河伯園に自ら飼い馴ら

した牛を預けた有易園の人は王亥を殺し牛を奪

この候の郭瑛注が引-古本竹書紀年には

殿王子亥賓干有易而淫蔦有易之君鯨臣殺而放之

是故殿主

(一作上)甲徴候師子河伯以伐有易滅之

途殺其君紹臣也

殿の王亥は有易園

へ客として赴いたが行ないが悪

- 17-

中国文学報

第四十六放

有易の君主摘臣が彼を殺してしまったそれで段

の上甲微が河伯図の軍を借-て有易を伐ちこれを滅

ぼし君主鋸臣を殺した

と記されているまた初学記撃

九引世本には

「骸が

牛を飼い馴らした」とあ-この膜も王亥であると考えら

れている少な-とも東周末期に於ては王亥が牧牛を行な

ったという俸説があったのであ-王亥を論ずる人の多-

はこれに注目し彼を殿の文化紳であると考えている

「高

租」と特別扱いされる租神の一人であることを考えれば

王亥が文化面で多大な功績を上げ原始状態から文明状態

へと殿氏族を更展させたことは十分に考えられる

もしそうであるならば前章でその存在を示唆した

「殿

の失われた文化紳」はまさにこの王亥ということになる

既に述べた如-詩経

商煩の段王朝開園神話に封しては

それと系統を異にする楚辞

天問という比較資料もあるの

であるから次にこちらの方を見てみることにしよう

fTD

天問は古来極めて錯簡の多い書と言われる

その中で

殿周開園に関する部分は比較的次第がまとまっている湯

以前の駿の先王が措かれるのは55-聖早であ-簡秋と尊

の通婿から始まっている

55簡秋在董卓何宜玄鳥致胎女何喜

筒状は高い槙童にいたが尋はどうして見そめたの

か燕が滑-物を持

ってきたのを筒状はどうして喜

んだのか

古来詩経

商頒

「玄鳥」と同じ-簡秋香卵の説話を云うも

のと解されるがこれも

「玄鳥」詩と同じ-この二句だ

けから呑卵の話を導き出すのは難しいしかしこの通解が

行なわれた高い

「董」は天地の間を繋ぐにふさわしい場所

であ-鳥が天から

「胎」を授けることなど天地通姫を

描-ことには襲わ-はない天問では上帝には

「帝」とい

う呼稀を使

ってお-ここでの

「魯」はー辞の

「愛」と同

じく上帝の人格化したものと思われる

この二句は不思議なことに簡秋と啓が誰を生んだのか全

く言わないテキストに脱落がなければ次の章の登場人

物を簡秋の子と考えるのが最も素直であろうところが次

に登場するのは

「玄王」でも

「契」でもない

18

56該乗季徳頗父是滅胡絡弊干有屈牧夫牛羊0

57干協時舞何以懐之平脅鼻膚何以肥之

58有屈牧豊云何而逢撃林先出其命何徒

壬亥はその父季の徳を縫いだが父は立涯な人であ

ったどうして王亥はとうとう有易園に落ちぶれそ

ゐ牛羊を養

っていたのかO

たて

あわ

いだ

協せて舞う女を見てど-してその女を

のか

平らかな脇腹に細やかな皮膚どうしてこの女

まじ

ったのか

王亥は有易園の牧童にどのようにして合

ったのか

寝込みを襲われて先に逃げ出したがどこから逃げ出

して助かったのか

56章の

「該」を王逸は

「竜也」と解しているが晴代に至

って王関連が人名ではないかと疑問を呈出L

t

王国経が卜

軒との対照によって王亥であると断じて以来この説が支配

的であるこの四句も前途の山海経や竹書紀年と共に王

亥が牧神であ

ったことを示すものとしてよ-引かれる57

章は難解であり注揮家ごとに説が異なると言

ってもよい

股周開園の神話と

「紳代史」(大野)

ほどであるが王亥の婚姻のことを云うとする需介甫氏

黒須重彦氏の説に徒う58章は王亥が殺されそうにな-な

がら辛-も逃れたことを云い前に引いた山海経などの所

侍と関係があるものと思われる

この三幸の記述から王亥の迫害と文化創造のモチーフを

見出すことはさほど困難なことではないし簡秋と孝によ

る殿租の神的な誕生も前章までに述べた例と同様に何ら

かの形で王亥に英雄的資質をもたらすものと考えられる

簡秋が生んだのが王亥であると断定できれば話は簡単なの

であるが56章には王亥の父としての

「季」が登場してお

り従

って天問に於ては簡狭

暑-季1王亥という系譜が

成立していたことになるしかし卜辞に見える

「季」は高

租でない租神の一人にすぎず

「高租王亥」が

「季」を父と

していたとは考え難いo

l鮭に卜解における租紳相互間の

父子関係は不明な部分が多-本来は寧ろ横

一列に並ぶ関

係であ

ってどれも

「租先」に襲わ-はないのであ-果

たした功績や役割の違いによってそれぞれに分化したもの

と考えた方がよい卜辞における

「季」の神威は他の租紳

19

中国文革報

第四十六桝

と襲わらないが

天問では尊と王亥との橋渡し的な性格に

襲わったのである

59恒乗季徳蔦得夫朴牛何徒費班緑不但遠来

王恒も李の徳を鰹ぎ王亥の養

った僕牛を得たど

あまね

はどこ

うして狩-に行

って獲物を

-

民に

ただ行

って

締るだけに止まらなかったのか

「恒」は王遠江では

「常也」と云うがこれも王国経が卜

辞に見える王恒のことであると解して以来諸家概ねこれ

に徒う「班稀」は近年の解帯では

「官位」「栄達」等に解

され

「王恒が有易図で出世しょうとした」意であるとす

るがす

っき-しない解輝であるー辞に見える王恒は

弓の形の中に

「恒」字を入れたものもあ-寧ろ

「湯は狩

-に往-際ただ行

って締るだけではな-民に編-施し

を輿えた」とする王逸注の方が原初的な意味に近いと思わ

れる但し主語は湯ではな-王恒である張光直氏は王恒

と罪に何らかの関係があるのではないかと考えるが

それ

よ-は駿人の狩猟柵であ

ったと考えた方が良いかも知れな

いただ王恒の事境を記した文献が他に存在せず容易に

結論を得難いのは残念なことである

60昏微遵述有狭不寧何繁鳥葦棟負子韓情

61絃弟遠軽危害顔見O何襲化以作許後嗣而逢長

上甲微は父王亥の事鏡を鮭ぎ有易園は安定を保て

ず滅びたどうして有易の人民は妹に止まる鳥のよう

に苦しんでいるのに上甲微はその子女にまで横暴な

ことをしたのか

目の陪んだ請弟はみな道ならぬことをしその兄上

甲微に危害を加えたのにどうしてうま-ごまかして

その子孫が長-祭えることになったのか

この二章も本づ-所がはっき-せず難解であるが「昏微」

はやは-王国経が上甲微のことであるとしてお-その事

蹟を云うものと考えられる上甲微は卜辞で系譜が明らか

な請王のうちで

一番古い租先に普た-いわば

「人王」の

租であるがここでは王亥と同様の迫害モチーフが再び現

⑳れその事鏡は既に神話化されていたものと見られる「何

襲化以作詐後嗣而逢長」の二句はそ-した神話であるが

故の不合理性を問うているのである

- 20-

62成湯東巡有等宴極何乞彼中臣而吉妃是得

63水漬之木得彼中子夫何悪之腰右筆之婦

64湯出重泉夫何皐尤不勝心伐帝夫誰使挑之

湯は東方

へ巡狩Lt有等園までやって来たど-し

てあの中臣伊声に乞い求めて良い妃を得たのか

水蓮の木から有等氏の君主は伊声を得たとい-が

どうして伊声を嫌

って湯の妃に付き添わせたのか

湯は重泉の牢獄から出て来たがそれは何の罪だっ

たのか正義を求める心を抑えられず実を伐

ったが

誰が彼をそうさせたのか

商頭における湯は夏架や尾吾氏を伐

った英雄として非常に

多-の紙幅を割いて賞揚されていたのであるが天間では

僅か三幸で終わ-しかもその年分は彼の名臣伊声のこと

に費され天下を平定した聖王にしてはかなり冷淡な描き

方である多-とも王亥や上甲微などと同等の重さしか持

っていないといえるしかしこの簡単な記述は神話的な趣

きに富んでいる伊声は呂氏春秋

本味簾で

「有佐氏の女

が空桑の中から嬰兄を得て

それを君主に献じ君主は

般周開乾の神話と

「紳代史」(大野)

料理人に彼を育てさせた」云々と書かれるような俸説をも

つがその原型とみられる記事が63章にあ-64章の

「湯

出重泉」も森安太郎氏が

「陽

(太陽神)が海の下を-ぐっ

て再び現れ出る様子」

と解したほどであるその虞偽は措

-としても

「重泉に囚われてから脱出」

というのがこれ

まで屡々登場してきた迫害1事業完成のモチーフであるこ

とは明白であ-この迫害こそ棄てられた后稜と同じ-英

雄を英雄たらしめる神話素の一つである殿人にとって湯

「人王」であったはずであるが楚人にとっての夏殿革

命は既に神話となっていた宋人にとっても同じであ

った

と思われるしかし東周時代の為政者の意識は最早神話を

古代人の如-

「心象における事資」として受け取ることを

許さなかった神話の神話たる所以である英雄の迫害も

政治家としての彼等にとっては

「不合理」以外の何もので

もな-統治強化の障碍でしかなかったであろうそれ故

その

「不合理」を宋人は頒詩から治し去-楚人は

「天に

問」うたのである東周の殿開園神話はその鮎で西周人

の神話と歴史が

一鰻になった

「神代史」であ

った詩経

21

中国文筆報

第四十六冊

雅の周王朝開園の物語とは成因がやや異な-神話そのも

のを改襲した

「神代史」であるといえよう

再び天間に戻ろうここで語られる殿王朝開園神話を綜

合すると腰租誕生1夏殿革命という流れは商頭でのそれ

とはぼ

一致するのであるが商頚では全-無税されている

王亥

王恒や上甲微の事浜を多-記している所が大いに異

なるこれらの先王は卜軒に於ても租神として柁られてお

-殊に愛

(餐)王亥は

「高租」と崇められていたのであ

るから天問における殿租誕生や牧牛創始の偉大な功績も

殿代からその根摸となるべき停東があったものと考えられ

る殿の未森たる被征服図

宋図で語られなかった文化神

が周の政治的願力が比較的少なかったであろ-楚園に於

て生き残

っていたのであ-「王亥を構える頒詩は政治的

要請によって胴去されたのではないか」という前章で捉

起した推測は更に確貴性を樹して-るのである

このように文化神を語る神話は政治的な事情によって

改襲されやすいという

一つの傾向が次第に明らかになって

きたのであるが天間に見える周王朝開園神話を詩経

雅のそれと比べてみるとその傾向は

一層はっき-する

これについては次章で検討することにしてその前に前

章で提起したもう

一つの問題即ち契と後に呼ばれるよう

になる殿紐の正鰻について卑見を示しておきたい

1般には詩経

商頒

「玄鳥」

「長顎」の鄭隻や楚鮮

天問の王逸注史記

殿本紀などから筒状が生んだ殿租

が契であるとされ詩経や楚軒の注揮家も特に疑問を抱い

ていないしかしこれまで見てきた詩経や天問には契の名

は全-見えていない国語を見ると周語下には

玄王勤商十有四世而興

玄王は商のために働き十四世かかって興起した

鄭語には商

契能和合五教以保干百姓者也

商契は五教をよ-調和させ人民を守-養

った人で

魯語上には

契為司徒而民韓-上甲微能帥契者也o

契は司徒の官となって人心を和らげ--上甲微は

22

たす

契をよ-

た人である

自玄王以及主薬莫若湯

文王から主薬

(湯の父)に至るまで湯よ-すぐれた

者はいない

とあるこれらを見ると契とい-名は周

楚以外の

園で用いられし

かも

「司徒として五教によって人心を安

定させた」という事鏡が語られている抽象的な形ではあ

るが文化面での功寮が取-上げられているのである

そうすると陳夢家氏の

「契と刻は互訓であ-共に亥

と普通である故に契は即ち王亥である」とする説が有力

な説として浮上して-るOこれまでの考察から王亥は殿

の高租にして文化所であ-従

って契というのは王亥の周

連諸国での呼び名であ-「五教」云々は王亥の文化神的

な面が周遠諸国に於て襲化したものと考えられるのである

もう

1万の

「司徒」という面に注目すると楊寛氏は

「司

徒」は

「司土」であるとして契は社紳

(土地紳)であった

と考えている「司徒」を

「司土」と表記するのは西周金文

に多-見られる用法であ-本来は土地や農業を司る官で

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

あったらしいまた史記

殿本紀には

「実は南を佐けて治

水に功があった」とあ-梁玉縄の疑う如き司馬遷の臆説

でな-古-からの停承に基づいているものであるならば

契に夏南の如き下士造成神的な面もあった可能性は捨てき

れない司土の官は農業にも関係が深いことから契は土

地神にして農神の性格をも持つことにな-このことは王

亥が牧牛の創始者であることと関係があるのかも知れない

なお尚書尭典には

帝日「乗努民阻飢o汝后榎播時百穀O」帝日

「契百姓不親五品不遜汝作司徒敬敷五教在寛」

もろもろ

舜は言った「棄よ

民は飢え苦しんでいる

汝は后頑の官とな-

この百穀を播け」と舜は言

った「契よ人民は互いに仲良-せず父子

君臣

夫婦

長幼

朋友の序に従わない汝は司徒の官とな

つつし

-五教を敬んで廉め心を寛-して治めよ」と

とあ-同じ-尚書の周官には

司徒掌邦教敷五典擾兆民

司徒は閲の教化を掌-五教を廉め多-の民を順

23

中国文畢報

第四十六肋

わせる

とあ

って司徒が教化の官であるかの如-書かれているが

これは后積が農官とされたために契は

「五教を康めた」面

のみが取-上げられそれが司徒の官名に結びついてかか

る誤解を生んだものであ-司徒の本来の意味ではないと

考えられる

周やその支配下にあった宋園では殿租に玄王という名

が使われてお-玄鳥による神的な誕生と商の興起のた

めに轟-したとい-事暁が語られる

魯園では

「契」

「玄

王」両方が見えるがー契と言う場合は文化的な功績が描か

れ玄王と言う場合は始租としての面に注目されている

恐ら-

「玄王」とは契=

王亥の始租としての面が強調され

た時の呼稀であ

ったと思われる文化人類学的にも「玄」

という名は始源の闇や滞沌を連想させるものであ-例え

ば老子

六章の

玄牝門天地板

玄牝の門(女陰)は天地寓物の根源である

の如-である

宋園や周では殿租の文化神的な面が抹殺さ

れたために始租神としての

「玄王」の呼稀が定着し魯

鄭などの周連列国では儒教的に襲化した文化神として

「契」と呼ばれ楚国では殿代の呼稀

「王亥」が原形に近

い形で保存されて

「該」と呼ばれたのであろう

四楚鮮

天問の周王朝開園神話

まず天問における殿周開園神話の大筋の流れを圏示する

と附固

一のようになる我々の常識で考えるならば夏殿

革命の次に殿のその後の衰亡を歌いそれから周王朝

へと

移る構成をとるのが普通であるが天問では夏殿革命から

いきな-周の衰亡

へと飛びそこから殿の衰亡

へと戻る間

くりかえ

「天命は

」というテーゼを挟み込んでいるこの

ような操作によってどの王朝も同じように興亡を繰-近

すというテーゼが

7層際立つのであ-

T見乱雑に見える

排列が安は高度なレトリックを用いた結果であるという

ことがわかる

次に殿周の開園が歌われている各章を時間順に並べ

かえて相互に封比してみると附圏二のようになるこの固

24

殻周開園の耐話と

「神代史」(大野)

附圃- (丸内の数字は葦の通し番競)

舜と女梱 ⑱~

「験萌在初」

1

度の先王 ~

t

夏殿革命 ~

周の先王

l

殿周革命 ⑮~cent)

iiiiia段の衰亡 ~ 周の興亡

一- 一 ノ ー「天命反側」

附圏二

段 簡秋と唇の通婚

王亥 有易で牛羊を牧す

王亥の婚姻

王亥 殺されかける

王位 王亥の牛を得る

上甲微 父の遺業を鮭ぐ

肢弟が上甲微を迫害

一寸 どうして子孫が栄えたのか」

~ 楚の興亡

周 ⑯ 后硬 氷上に捨てられる

上帝をも驚かす武勇

-「どうして子孫が栄えたのか」

成湯 伊声を得る

伊デの生い立ち

湯 壷泉から出て案を伐つ

- 25-

⑳ 文王 天命 もて段を覆す

岐山に移る殿の惑婦

文王 村の無道を天に告げる

文王 太公望を得る

武王 急いで殿を伐つ

武王の朝合

周公 武王をよしとせず

武玉 村を伐つ

中隊文革報

第四十六筋

一見して知ることができるのは周の先王には僅か二章

しか使わず殿周革命に九章も費やしてお-殿王朝の方

が租神に多-の章を割いて夏殿革命には三章しか使わな

いのと対照的であるということである

周王朝開園を云う章をもう少し詳し-見てい-と

76積維元子帝何竺之投之干水上鳥何燐之

77何漏弓挟矢殊能渚之既驚帝切激何逢長之

后稜は上帝の長子であるのに上帝はどうして彼に

危害を加えたのか彼を氷の上に捨てると鳥はどう

してこれを暖めたのか

どうして弓をひきしぼ-矢を挟みすぐれた才能で

武婿となったのか上帝をも驚かすほどひどいことを

したのにどうしてその子孫は長-栄えたのかQ

后積が上帝の子であるのに迫害され鳥によって助けられ

たというのは詩経

大雅

「生民」と同様であるが周租后

礎の両的資質を云-のみであ

って農業費明には全-解れ

られていない77章は王逸注では前二句を后稜後二句を

武王の事績とするが洪興租補注は全部を武王の事績とし

朱子はその両方を疑問であるとす

78章以下では文王の

ことを云う章が績いてお-この章を武王の事虞とする課

には従えない聞

多や衰珂

氏は全部を后頑の事鏡とする

が必ずしも后榎に限定することはできない少な-とも

古公以前の

「神代」の先王のうちの誰かであることは確か

であろう後二句の

「上帝をも驚かすようなことをしなが

らどうして子孫が栄えたのか」という疑問が殿の租神と

「人王」の境目である上甲微を語る61章の後二句と似るか

らである周の先王を歌うのはこの二幸で終わ-であ-

そこでは先王たちの文化的功績は全-歌われておらず殿

の先王に比べて極めて冷淡な扱いである

78章以下は殿周革命にまつわる様々の問が寛せられるが

詩経

大雅に見えておらずまた考古学的な裏付けもない

俸説的な事件もい-つか見えているとはいえ神話的な奇

怪さには乏しいといえる0

79遷蔵就岐何能依O殻有感婦何所説

貴職していた重器を移して岐山にやって充たがどう

して人民がそれに従

ったのか殿には人を舷惑させる

26

女がいたというが何のために議話しょうとしたのか

前句についてはこれを文王に懸ける説

大王に懸ける課

あるが前後で文王のことを歌

っているので大王の事蹟と

するのには難があるとはいえその内容は詩経

大雅

「崩」

に云う古公宜父の事鏡に近-どちらに限定することもで

きない「大王から文王までの問」とする他ないであろ-

後二句は肘の妃である坦己を云うとされるがその何につ

いて問うているのかは明らかではないしかし両者とも

その

「答」となるべき俸説がこの時代に前後して現れてお

-前者については

1章で引いた孟子

染着王下後者に

ついては太平御覧奄

1三五引世本に

「村が有蘇氏を伐

った

時有蘇氏は坦己を妃にさし出した肘はこれを愛して言

うことを何でも聞いたために武王が肘もろとも殺した

云うのがこれに普たる

66到峯村窮叔旦不嘉O何親撰車足周之命以各嵯

肘の首をはねるに至-周公且はこれをよしとしな

かったどうして周自ら謀

って殿を討とうとしたのに

その行動は人民に支持されたのか

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

後二句は極めて難解であるがいま黒須重彦氏の解樺に従

う他の諸家にはテキストの文字操作で意味を通らせよ-

とする者も多い前二句を王逸は

「武王の舟に白魚が飛び

込んだので群臣が

『吉兆だ』と言ったのに封Lt周公が

『吉兆ではあるが吉兆と思

ってはならぬ』と戒めたことを

云う

と解しているがこれは史記

周本紀の記事を敦術

したものであって漢初の五行思想の産物である寧ろ所

謂伯夷

叔奔停説の前駆形と考えた方がよい

ここに引いた事件が果たして史寛であ

ったのか西周時

代に生まれた俸説か或いは東周以後の俸説であるのかは

容易に判断できないしかしいずれにしても西周人の

「神

代史」からは無税されていた事件が本来の形ではないに

しても再び記録される動きをここに見ることができるので

あ-結語で述べる

「神代史の再神話化」の萌芽であると

いえるO

このような新しい動きはあるものの天問の周開園神話

も始祖の神的誕生1英雄的事業の達成という基本的な構造

には全-襲わ-はないしかし全鰻を通じて諸王の文化的

27

中閲文革報

第四十六筋

功績には全-解れられていないばか-か周の先王=

租秤

に封しても極めて冷淡であ-殿に封する態度とは明らか

に異な

っているのである

このことは昔時の楚園が周文化よ-も殿文化の方により

親しみその信仰

習俗等を保持していたことの一つの讃

接であろう楚文化と殻文化の関係の深さは既に様々な面

から指摘されてお-例えば楚辞

九歌に見える「雲中君」

「河伯」の神がト辞にも

「雲」「河」神として見えているこ

とや西周末期のものと見られる楚の青銅鐘は殿の鍔と形

が似てお-その銘文も殿金文に似た雄滞な書鰻であるこ

とな

どが挙げられるこのよ-な現象が生じた過程として

は(一)歴代から楚は殿に臣屈してその文化を受け入れ

周の時代になっても表向きは周に臣属しながらも殿の文化

を保持し績けた(二)周代以後に国力を埼大した楚園は

への対抗上その文化を拒み隣接する宋園の殿文化を積

極的に導入したという二つの説が考えられる前者の立

場を取る者はその根接として詩経

商頒

「殿武」の

撞彼殿武奮伐剰楚突入其阻衷利之放有戟其

所湯孫之緒(一章)

敏疾なる武丁は奮起して剤楚を伐ち険しい山地

に攻め入って刑楚の兵士を虜にしその地を平げ

湯王の子孫として手柄を立てた

という部分を畢げることが多い

前述の如-商頭目鰻が

宋園の楚国

への対抗心から作られたものであ-我が国の

紳功皇后遠征説話と同じ-どこまで史寛を反映している

かは未知数であるしかも卜辞などの殿代の地下資料から

は昔時の殿楚関係を示すものはまだ見つかっていない

一方後者については史記

楚世家に周の夷王の時に

楚王熊粟が

「我は牽夷な-中国の詮親に興らず」と言っ

たという記事もあ-現時鮎ではこちらの説の方が有力で

あると思われるいずれにしても周とは言語や風土を異

にする楚閲で生まれた天問には意固したか否かはともか

-周文化の重税と殿文化

への傾斜が讃み取れるのであ-

周王朝側の論理で殿の文化碑の功績を壷-抹殺された詩経

商頭や周の文化神を構える詩経

大雅とは好封照を見

せているのである

28

結語及び除論

これまで述べ来

ったことを要約すると詩経や楚辞

問に見える殿周開園神話は始租の所的誕生1迫害1事業

(文化創造

天下統

一)の完遂という構造を持ち既に西洋

の英雄神話に於て指摘されている基本構造をここにも見出

すことができるただ西洋では

一人で行なわれることが多

い英雄としての事業が中国では教代に亙

って行なわれる

ことが多いという違いはあるところが殿の開園と周の

開園また詩経と天問の相互間で詳し-比較してみると

神々の文化的功績は神話が記録された常時の政治的な事情

によって抹殺されることがあるという事資に束づ-この

ことは中国に於ては剣を振るって活躍する英雄よ-も

文化を創始する

「聖王」の方が重きをなしてお-氏族や

国の威光を左右するものであ

ったということの一つの謹左

といえよう

詩経

大雅における周王朝開園神話は高租にして文化

神である后稜-公劉を神話的要素に富む叙事詩によって語

段周開園の紳話と

「神代史」(大野)

っているが

「人王」の代に至ると

殊に王李に新著に見

られる如-諸王にとってマイナスイメージを輿えかねな

い史寛は壷-制去され武力革命の成功を

「神代」から引

き継がれた輝かしい事業として稀讃している周王朝の開

園神話とそれに績-殿周革命の史糞は詩が記録されるま

での間に

「神代史」

へ改愛されたのであるそこに支配強

化のための王室神聖化という高度な政治的意圏が働いてい

るのは確資であろう

段の遺民の園である春秋の宋園における段王朝開園神話

詩経

商項の諸篇は最終的には周王朝側の人々によって

記録

編輯されたものであ-それ故殿人の信仰した文化

紳は義-抹殺され支配者としての周王朝の論理に基づ-

「神代史」に改変されているOそれに封して楚辞

天問の

殻王朝開園神話には卜辞にも見える租紳たちの神話的雰囲

気に富む物語が多-残

ってお-逆に天問の周王朝開園神

話では周の先王の文化的功績を無税していて宋国との政

治的

風土的立場の違いを明瞭に浮かび上がらせているの

である

- 29-

中国文学報

第四十六筋

か-の如-

神話時代やそれに績-歴史が為政者の手に

よって

「神話化」される場合は中開の諸秤の中で重い比

重を占める文化神が記録者の政治的立場に従

って改奨され

「人王」に封しては

「都合の悪い」史貴を切-捨てて

「神

代史」

へと仕立てられるのであるが東周時代になるとそ

れとは逆に「人王」にも神話素の一つとして解揮可能な俸

説が様々な書物に記録されるようになる既に引用した文

王の安里幽閉

伯夷

叔斉の餓死などがそれであ-

「人

王」の物語もこれによって組両と同様の典型的神話

へ近づ

いてい-のであるこれらが記録されたのは諸子百家の書

物であ-昔時の遊説家たちが民間に流布していた停説を

敬-上げて自説を述べるために用いたものと考えられる

これらの停説が古い形をそのまま保

っているか否かは全-

保護がないとはいえ政治力撃の働きに-いレベルに於て

「神代史」に再び神話的物語が付け加えられるようにな

たということはいえるいわば

「神代史の再神話化」であ

-

1般に

「中国古代王朝神話」として

1つの物語にまと

められているのはこうして

「再神話化」された結果の産物

なのであるこれらは確かに

「神話」としての要素を豊富

に含んでいるのであるがこれを中国古代神話の原型と見

なすことは不可能であ-上述の如-複雑な要因が絡み合

っているのである

こうして

「神代史」はたとえ元の形とは異なるにせよ

再び

「神話」としての光彩を放ち始めたところがこの

「神話」をまたも

「歴史」に固定してしまったのが他なら

ぬ史蓬であることは周知の通-である

しかし

「神代史の再神話化」の原動力とな

った

民間

に語-経がれた王朝停説のエネルギーもこれで絡恨したわ

けではなかったこうしたエネルギーはその後も小説に記

録された種々の歴史俸説などを生み出し形を襲えて生き

績けたのである

ところでこれまで本文中に取-上げなかった

一つの重

要な問題があるそれは

「楚園に古-から停わる楚人自身

の神々はど-な

っていたのか」という問題である

楚辞

天問にはその末尾に楚図の俸説と思われるものが

記されてはいるが多-の注帯家が匙を投げているはど難

30

解であ-筆者も今敢えてこれに挑戦するほどの飴裕はな

いoしかし離騒ではその冒頭で「私は帝高陽の未森である」

と歌

ってお-少な-とも屈原の時代では楚人は穎頭高陽

氏を租神としていたと考えられているが文化神に関する

記述は見えない

一方同じ頃に楚園で成立したと考えら

れている山海経

大荒西経には街頭の子孫の神々の事業

が豊富に記されている例えば重

寮の天地分離

太子長

琴の音禁孝明などである

これらの事章から得られる

一つの推測をここで述べると

楚辞に於ては楚人自らの文化両を表立

って取-上げられな

い事情があ

ったものと思われる楚語で書かれた「原楚鮮」

には書かれていたがそれを漢語に翻弄した際に宋図か

ら導入した殿の文化神に置き換えたのかも知れないそし

て自らの文化紳とその物語を速い

「大荒」の物語として

カムフラージ

ュしたのが他ならぬ山海経なのではなかろ-

かこの書が地理書の形をとっていることや他書に見ら

れない神話停説を豊富に載せていることなどは丁度我が

国の

『出雲園風土記』を思わせるものがあるまた殿の

殿周開国の神話と「神代史」(大野)

文化紳王亥が

「困民国」の人とな

っていた-楚の租神で

あるはずの蘭頂が

「額頭囲」なる図にいたとされているこ

となどもこの仮説の根嬢となろう

しかし最早紙幅も轟きているこの問題は山海経を中心

として改めて考察することにしたい

ば織井慶紀著池田末利編

『中図神話の文化人類学的

研究』(1九九〇平河出版社)があるoまたユング心理学の

立場から日本神話を分析したものとして河合隼雄

『中空構

造日本の深層』(一九八二中央公論社)等がある

近世以前の諸席の議論は専らこの怪異雫が信ずるに足るか

否かの次元に終始するが近代的な研究としては聞一多

「萎

娠履大人跡考」(『聞一多全集』第一射一九四八開明書店)

白鳥清

「段周感生神話の解揮」(『東洋学報』十五巷四親tT

九二五東洋協合学術調査部)出石誠彦

「上代支部の異常

出生説話について」(『支那神話俸説の研究』所収tl九四三

中央公論社)等がある

「帝上帝也」

「帝高華氏之帝也従於帝而見干天婿事賛敏也」

孔疏に

「頑柁郊礁之時英夫高辛氏帝率興供行妻娠随帝之

後践履帝迩行事敬而敏疾放鳥神歌饗紳既饗其条則

31

中国文筆報

第四十六筋

愛而拓之

於是為天神所美大為福緑所依止twz=得懐任則

震動而有身」と云う

例えば嗣西族の

『東巴控』に見える縛文字にこのことが窺

える附固三参照また河南省に俸わるロ東俸説によると

女桐が天から降ってきて伏義が地下から出てきたと云う

(陶陽

鍾秀

『中国創世神話』一九八九上海人民出版社二

一四頁)

附圏三

primeJ 一一一

~PJ虹互L

LJL

堅 室④

上部の 一へ は天下部の 皿 は大地を

表す圃①は中間に天地交合の気がありこれ

より荷物が生ずる固②の中間は蛙で天地交

合後の襲化を表す圃⑨では天地の間に男が上

女が下になっており男女の交合と同様にして

天地が人類を生んだことを表す

(陶陽 鍾秀 『中国創世神話』214頁)

「惟虞東学詩云人之初生皆裂胎而出騒失所依故堕地

郎帝惟羊連胞而下共産猪易故詩以

『如達』馬比o又常

熟陶太常元淳日凡嬰兄在母腹中皆有皮以豪之俗所謂胞

衣也生時其衣先破兄鰻手足少蔚放生之難O惟羊子之生

胸仇完具堕地而後母篤破之故共生易o后硬生時蓋戒於胸

中形鮭末露有如羊子之生者放言

『加速』今按前二説

是也下言

『不味不副』蓋謂其胞衣之不折裂也」(『毛詩俸

集通帯』巷二十五)

「徐君宮人娠而生卵以箆不詳秀之水演O猪孤母有犬名

鵠蒼へ猟干水溝へ得所弄卵衝以東蹄猪孤母以馬具凍俊

之逐沸成見生時正値へ故以為名徐君宮中聞之乃更録

取長而仁智襲君徐固」(博物志

異聞篇引徐値王志)

「高句凝着其先出自克明東明本北夷嚢離王子離王出

行其侍兄於後任娠離王達欲殺之侍見目『前見天上

有菊如大鶏子乗降我困以有嫉』王囚之後連生男玉

置之家牢家以口束嘘束不死o王以為所乃聴収養」(梁

諸夷俸)

北欧や古代

ハンガリー等に見られる豊富な例がKケレ-

ニイtCGユング

『神話撃入門』

一九五1(杉浦忠夫訳

1九七五晶文社)に引かれている

例えば壮族に俸わる

「種子と犬の尾」の物語では人々

「九尾狗」に天上の穀物を盗みに行かせたところ穀物を

九本の尾に-つつけて蹄ろ-としたところを番人に見つか-

八本の尾を叩き切られたが残-

1本の尾に穀物をつけて逃げ

師-人間は農業ができるようになったと云う

(陶陽

秀前掲書二七九頁)

32

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 14: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

いる現存する五篤の中には玄王

相土

湯及び中興の

武丁の名が見えている

殿の始租誕生を歌う詩として古来よ-引かれるのは

「玄

鳥」の冒頭の二句である

天命玄鳥降而生商

天は燕に命じ下士

へ降らせて商租を生ませた

鄭集がこの二句を

「天が燕を下士

へ降らせたというのは

その燕が残した卵を有城氏の女簡秋が呑んで殿租契を生ん

だからである」

と解して以来これが定説となっているし

かし森三樹三郎氏が既に指摘しているようにこの二句だ

けを見ている限-

「燕の卵を呑んだ」という事寛は直ちに

導き出せないのであ-この説話が商頚が作られた春秋時

代の始租神話そのままであるかどうかは頗る疑わしいし

かし玄鳥なる鳥が天と下士の間を往来して南畝を生ませた

ことはこの詩からも讃み取れるのであ-少な-とも春秋

の来園では殿租が天地通婿で生まれたとぎれていたと言う

ことはできよう

「長襲」にはやは-殿租とされる玄王とその孫とされ

段周開園の紳話と

「紳代史」(大野)

る相土が登場する

溶哲維商長顎其群洪水

巴だ高教下土方外大

国是瞳幅限既長有域方渚

帝立子生商(1章)

玄王桓掩受小国是達受大国是達率履不越途

観能登相土烈烈海外有載(二章)

きぎし

明徳なる商王その

現れて久しい洪水が贋が

った時南は下士の四方に功を敷き外の大国とを区

切-中国の虞さは遠大になったO有城氏もその時勢

力を埼し上帝は有城の子を立てて南国を作られた

(一章)

玄王は武徳があ-小国に封ぜられてもよ-治め

大国に封ぜられてもよ-治め薩に従

って越度な-

しめ

教法を現して行なわせた相土は武威輝かし-海外

の諸国を平定した(二幸)

この詩の

「玄王」は毛俸

鄭隻の如-殿租契のことで

「玄鳥」詩の商租と同

一であると解するのが普通であるが

白虎通

文質

(l名瑞賓)篤は玄王を湯と解してお-漢書⑳

鰻柴志は契(高)と玄王は別人で共に段租であると解する

13

中国文筆報

第四十六筋

相土は周鰻

校人注引世本で

「初めて乗馬を作

った」

と云

いこの詩で武勇の王として描かれていることと関連があ

るものと思われるしかし玄王

相土共に具鰹的に如何な

る事鏡があるのかはあま-括かれず神話としての考察を

かな-難しいものとしている

相土から十

1代後の子孫とされ夏案を伐

って殿王朝を

隆盛

へ導いたと俸えられる湯は同じ「長顎」に見えている

帝命不達至於湯秀湯降不遅聖数日頗o昭倣遅

遅上帝是砥帝命式千九園(三牽)

武王載端有虞乗鉄如火烈烈ー則莫我敢局萄有

三幸莫逐莫達七九有有載葦顧既伐昆吾夏架o

(六章)

上帝の命は誤-な-湯に至って天命と合合した

湯の生まれること期に麿じ聖徳は日々に高まった

天にも明らかに至る徳は久し-止まず上帝も愛敬し

て九州に法を示させた(三章)

武王湯は旗印を立て固-銭を撞-火の如-勢い

とど

もと

盛んなれば誰も敢えて長めることはできない竜株

ひこば

に三つの

生ずるといっても生長しきることは

ないO湯は九州を平らげ垂の葦図

顧閲と昆吾氏

竃の夏架を伐

った(六章)

湯が

「天命」を得た後に諸国を征討して九州を統

一したと

いう内容であ-大雅における文王や武王と同じ-始租

の神的資質を引き継いで天下統

一の事業を完成させるので

ある

これらを全鰻的に眺めてみると商租の神的誕生1

相土

湯の天下平定という流れは大雅における周王朝開園の物

語と同様のパターンであ-また請王を武徳の王と稀える

のに終始して請王にとってマイナスイメージを興えるよ

うな話が記されないのも大雅の文王や武王と同様である

商頭の諸篇が大雅以上に尖鋭な政治的意圏を以って作られ

たことは白川静氏も

「末に興

った膨折たる国家意識を背

景としてその抗争老たる刑楚に封する敵封感情の昂揚

を目的とし」たと指摘する通-であ-諸王の武勇ばか-

をことさら強調するのも肯けることであるところがも

しか-の如-商頭諸第が宋人の

「神代史」であるとすると

14

殿の諸王の文化的功績が殆ど歌われていないのは何とも不

思議な事賓である常時

「南賛歌舌」

の園であったはずの

楚と争うのに自らの文化的先進性とその由来を誇示しな

いということが果たして考えられるであろうか

結局宋人の殿開園神話を西周人の周開園神話と比べた

時の問題鮎は(一)後に

「契」と呼ばれるようになる殿租

の正睦(二)両者とも同様の構造を持ちながら殿開園の英

雄たちに文化的功唐が見られない理由tの二鮎にまとめら

れるo前者については戦国時代の楚国における殿開園神

話を記す楚辞

天問や殿嘘卜辞に見える殿の高組神など

にこの問題を解-鍵があろうと思われる後者については

まず宋園と同じ春秋列国である魯園で作られた詩経

魯頚

を参照するとある程度の推測が得られる

問官有他賓資枚枚赫赫妻嫁其徳不回上帝是

依無災無害禰月不遅是生后頑隆之百福蚕種

重移穂塀寂穿奄有下図倖民稼橋有稜有黍有

侶有拒奄有下士績南之緒o(1章)

后稜之孫資維大王o居岐之陽賓始易商至干文

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

武濃大王之緒致天之眉千枚之野無武無虞上

帝臨女敦商之族克威厳功王日叔父建爾元子

伴侯干魯大啓爾字鳥周室輔O(二章)

奥深-清い宗廟は堅固で美しい輝かしい妻糠は

その徳も貞正であ

った上帝も心をよせて無事に子

を生ましめ十月十日を遅れることもなかったここ

さいわい

に后積を生むと天は多-の

降したそれは黍

もちbぴ

おくて

わせはやうえ

おそうえ

まめ

や穿後に領下の閲を

くろきび

治め民に耕作させた稜や黍もあれば楢や

ある下士を治めて后稜は南の事業を縫いだ(一章)

后稜の子孫はかの大王宜父岐山の南に居任した

時始めて殿

への臣展開係を慕

った文王と武王に至

-大王の事業を縫いだ殿の天命の終わ-は牧野の

地でやって来た「武心を抱いた-心配してはならぬ

上帝も見ておられるぞ」武王は殿に勝

ってその人民

を治めその功績は先王たちにも等しい成王は言

た「叔父周公よ

そなたの長子伯禽を立て魯園の

侯とし大いにその土地を閃かせ周室の輔けとさせ

15

中開文革報

第四十六冊

よ」と

(二章)

「関宮」全九章の

うち二幸O魯図はこの詩にも云う如-局

公の長子伯禽が封ぜられた図であり周と同族であるから

曹然周租后稜に始まる諸先王を構えているわけであるが

后稜の農業創始を

一章全部を費やして

「南の緒を鰹ぐ」と

賞揚する割には文王

武王の殿周革命に封しては素束な

い描き方である寧ろ大雅の詩篇よ-も先王の文化的功績

に重きを置-といえる

1万の宋園は肘王の庶兄微子啓が武王に封ぜられた園で

ある宋園は殿の穫柴を修め殿の習俗を堅持し績けたと

俸えられる

所詮は被征服園である自らの租先を高ら

かに賞讃することに封して何らかの政治的願力が働いたこ

とは想像に難-ない「七筈の詩が亡伏した」という商魂

譜の記事は或いはこのことに関係があるのではないか

この失われた詩の中には

西周の

「生民」

「公劉」詩の如

-殿代よ-俸わる文化神を歌う詩があったのではないか

この推測をよ-精確に検討するにはやは-宋園以外の

園に俸わった殿王朝開園神話の一つとしての楚辞

天問を

参照する必要があるそこで次章ではまず殿嘘卜辞に見え

る高組神について検討し次に楚鮮

天間の殿王朝開園を

問う部分について考察した後これらと商項とを相互に比

較することにしたい

三卜辞及び楚鮮

天問の殿王朝開園神話

卜辞は占卜のための文句を記した文字資料であ-もと

よ-神話の記録を目的としたものではない従

って殿人の

間に俸えられていた殿王朝開園の物語を卜辞によって復元

することは言うまでもな-不可能であるただそこには高

租神や先王をはじめ様々な神の名が見えてお-これを後

の時代の殿王朝開閉神話と比較することによってその神

話がどれ位原初の姿に近いかを推定することはある程度可

能である

さて殿人にとっての最高碑は周知の如-上帝であ-

卜辞にも

「帝」として見えていて風雨などの自然現象を

支配し人事に禍福をもたらす存在であることが知られて

⑲いる

16

この上帝に封しては直接条把が行なわれることはないと

い-のが通説であるが島邦男氏によれば絶無という諸で

はな-締把が行われる例が三例あるこの締紀は上帝の

みならず高租神や先王に封しても行われてお-例えば

羅振玉

『殿虚書契緯編』

一-二-

一片に

点締子王亥

貞-王亥に繭のまつ-をせんか

董作賀

『乙篇』四五四九片に

葵未卜両税乙

英未に卜す租乙に蹄のまつ-をせんか

とあることから

恐ら-張光直氏の云う如-

「殿の人びと

『帝』は先租の絶稀であ

ったかあるいは先租の観念

の1つの抽象化されたもの」

ということになろう

上帝と同様の祭紀が行われる租神の-ち「高租」と呼

ばれるのは愛

王亥の二人である

愛は変とも揮され王⑮

図経が

「暑」と塵韻であることなどを理由に帝尊と解して

以来これが定説となっているO帝聾は後の時代の文献に俸

える所では自らの文化的事業や武勇に関しては何も記さ

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

ずただ殿組契と周蔵后榎の共通の父祖であると云うだけ

であ-上帝的な存在であ

ったとするのが諸家の1致した

見解であるしかし殿代に於ては

「帝」と帝替即ち愛は区

別されている以上完全に同

一であ

ったとはいえず上帝

と人王をつなぐ役割を持つ始租神として奉られたものと思

われる前述の如-愛が抽象化したものが上帝であ-

逆に言えば上帝が人格神化したものが愛なのである

一方の王亥はどうであろうか山海経

大荒東経に

有困民国-王亥託干有易河伯僕牛有易殺王亥

取僕牛

困民国で-主

亥は有易園と河伯園に自ら飼い馴ら

した牛を預けた有易園の人は王亥を殺し牛を奪

この候の郭瑛注が引-古本竹書紀年には

殿王子亥賓干有易而淫蔦有易之君鯨臣殺而放之

是故殿主

(一作上)甲徴候師子河伯以伐有易滅之

途殺其君紹臣也

殿の王亥は有易園

へ客として赴いたが行ないが悪

- 17-

中国文学報

第四十六放

有易の君主摘臣が彼を殺してしまったそれで段

の上甲微が河伯図の軍を借-て有易を伐ちこれを滅

ぼし君主鋸臣を殺した

と記されているまた初学記撃

九引世本には

「骸が

牛を飼い馴らした」とあ-この膜も王亥であると考えら

れている少な-とも東周末期に於ては王亥が牧牛を行な

ったという俸説があったのであ-王亥を論ずる人の多-

はこれに注目し彼を殿の文化紳であると考えている

「高

租」と特別扱いされる租神の一人であることを考えれば

王亥が文化面で多大な功績を上げ原始状態から文明状態

へと殿氏族を更展させたことは十分に考えられる

もしそうであるならば前章でその存在を示唆した

「殿

の失われた文化紳」はまさにこの王亥ということになる

既に述べた如-詩経

商煩の段王朝開園神話に封しては

それと系統を異にする楚辞

天問という比較資料もあるの

であるから次にこちらの方を見てみることにしよう

fTD

天問は古来極めて錯簡の多い書と言われる

その中で

殿周開園に関する部分は比較的次第がまとまっている湯

以前の駿の先王が措かれるのは55-聖早であ-簡秋と尊

の通婿から始まっている

55簡秋在董卓何宜玄鳥致胎女何喜

筒状は高い槙童にいたが尋はどうして見そめたの

か燕が滑-物を持

ってきたのを筒状はどうして喜

んだのか

古来詩経

商頒

「玄鳥」と同じ-簡秋香卵の説話を云うも

のと解されるがこれも

「玄鳥」詩と同じ-この二句だ

けから呑卵の話を導き出すのは難しいしかしこの通解が

行なわれた高い

「董」は天地の間を繋ぐにふさわしい場所

であ-鳥が天から

「胎」を授けることなど天地通姫を

描-ことには襲わ-はない天問では上帝には

「帝」とい

う呼稀を使

ってお-ここでの

「魯」はー辞の

「愛」と同

じく上帝の人格化したものと思われる

この二句は不思議なことに簡秋と啓が誰を生んだのか全

く言わないテキストに脱落がなければ次の章の登場人

物を簡秋の子と考えるのが最も素直であろうところが次

に登場するのは

「玄王」でも

「契」でもない

18

56該乗季徳頗父是滅胡絡弊干有屈牧夫牛羊0

57干協時舞何以懐之平脅鼻膚何以肥之

58有屈牧豊云何而逢撃林先出其命何徒

壬亥はその父季の徳を縫いだが父は立涯な人であ

ったどうして王亥はとうとう有易園に落ちぶれそ

ゐ牛羊を養

っていたのかO

たて

あわ

いだ

協せて舞う女を見てど-してその女を

のか

平らかな脇腹に細やかな皮膚どうしてこの女

まじ

ったのか

王亥は有易園の牧童にどのようにして合

ったのか

寝込みを襲われて先に逃げ出したがどこから逃げ出

して助かったのか

56章の

「該」を王逸は

「竜也」と解しているが晴代に至

って王関連が人名ではないかと疑問を呈出L

t

王国経が卜

軒との対照によって王亥であると断じて以来この説が支配

的であるこの四句も前途の山海経や竹書紀年と共に王

亥が牧神であ

ったことを示すものとしてよ-引かれる57

章は難解であり注揮家ごとに説が異なると言

ってもよい

股周開園の神話と

「紳代史」(大野)

ほどであるが王亥の婚姻のことを云うとする需介甫氏

黒須重彦氏の説に徒う58章は王亥が殺されそうにな-な

がら辛-も逃れたことを云い前に引いた山海経などの所

侍と関係があるものと思われる

この三幸の記述から王亥の迫害と文化創造のモチーフを

見出すことはさほど困難なことではないし簡秋と孝によ

る殿租の神的な誕生も前章までに述べた例と同様に何ら

かの形で王亥に英雄的資質をもたらすものと考えられる

簡秋が生んだのが王亥であると断定できれば話は簡単なの

であるが56章には王亥の父としての

「季」が登場してお

り従

って天問に於ては簡狭

暑-季1王亥という系譜が

成立していたことになるしかし卜辞に見える

「季」は高

租でない租神の一人にすぎず

「高租王亥」が

「季」を父と

していたとは考え難いo

l鮭に卜解における租紳相互間の

父子関係は不明な部分が多-本来は寧ろ横

一列に並ぶ関

係であ

ってどれも

「租先」に襲わ-はないのであ-果

たした功績や役割の違いによってそれぞれに分化したもの

と考えた方がよい卜辞における

「季」の神威は他の租紳

19

中国文革報

第四十六桝

と襲わらないが

天問では尊と王亥との橋渡し的な性格に

襲わったのである

59恒乗季徳蔦得夫朴牛何徒費班緑不但遠来

王恒も李の徳を鰹ぎ王亥の養

った僕牛を得たど

あまね

はどこ

うして狩-に行

って獲物を

-

民に

ただ行

って

締るだけに止まらなかったのか

「恒」は王遠江では

「常也」と云うがこれも王国経が卜

辞に見える王恒のことであると解して以来諸家概ねこれ

に徒う「班稀」は近年の解帯では

「官位」「栄達」等に解

され

「王恒が有易図で出世しょうとした」意であるとす

るがす

っき-しない解輝であるー辞に見える王恒は

弓の形の中に

「恒」字を入れたものもあ-寧ろ

「湯は狩

-に往-際ただ行

って締るだけではな-民に編-施し

を輿えた」とする王逸注の方が原初的な意味に近いと思わ

れる但し主語は湯ではな-王恒である張光直氏は王恒

と罪に何らかの関係があるのではないかと考えるが

それ

よ-は駿人の狩猟柵であ

ったと考えた方が良いかも知れな

いただ王恒の事境を記した文献が他に存在せず容易に

結論を得難いのは残念なことである

60昏微遵述有狭不寧何繁鳥葦棟負子韓情

61絃弟遠軽危害顔見O何襲化以作許後嗣而逢長

上甲微は父王亥の事鏡を鮭ぎ有易園は安定を保て

ず滅びたどうして有易の人民は妹に止まる鳥のよう

に苦しんでいるのに上甲微はその子女にまで横暴な

ことをしたのか

目の陪んだ請弟はみな道ならぬことをしその兄上

甲微に危害を加えたのにどうしてうま-ごまかして

その子孫が長-祭えることになったのか

この二章も本づ-所がはっき-せず難解であるが「昏微」

はやは-王国経が上甲微のことであるとしてお-その事

蹟を云うものと考えられる上甲微は卜辞で系譜が明らか

な請王のうちで

一番古い租先に普た-いわば

「人王」の

租であるがここでは王亥と同様の迫害モチーフが再び現

⑳れその事鏡は既に神話化されていたものと見られる「何

襲化以作詐後嗣而逢長」の二句はそ-した神話であるが

故の不合理性を問うているのである

- 20-

62成湯東巡有等宴極何乞彼中臣而吉妃是得

63水漬之木得彼中子夫何悪之腰右筆之婦

64湯出重泉夫何皐尤不勝心伐帝夫誰使挑之

湯は東方

へ巡狩Lt有等園までやって来たど-し

てあの中臣伊声に乞い求めて良い妃を得たのか

水蓮の木から有等氏の君主は伊声を得たとい-が

どうして伊声を嫌

って湯の妃に付き添わせたのか

湯は重泉の牢獄から出て来たがそれは何の罪だっ

たのか正義を求める心を抑えられず実を伐

ったが

誰が彼をそうさせたのか

商頭における湯は夏架や尾吾氏を伐

った英雄として非常に

多-の紙幅を割いて賞揚されていたのであるが天間では

僅か三幸で終わ-しかもその年分は彼の名臣伊声のこと

に費され天下を平定した聖王にしてはかなり冷淡な描き

方である多-とも王亥や上甲微などと同等の重さしか持

っていないといえるしかしこの簡単な記述は神話的な趣

きに富んでいる伊声は呂氏春秋

本味簾で

「有佐氏の女

が空桑の中から嬰兄を得て

それを君主に献じ君主は

般周開乾の神話と

「紳代史」(大野)

料理人に彼を育てさせた」云々と書かれるような俸説をも

つがその原型とみられる記事が63章にあ-64章の

「湯

出重泉」も森安太郎氏が

「陽

(太陽神)が海の下を-ぐっ

て再び現れ出る様子」

と解したほどであるその虞偽は措

-としても

「重泉に囚われてから脱出」

というのがこれ

まで屡々登場してきた迫害1事業完成のモチーフであるこ

とは明白であ-この迫害こそ棄てられた后稜と同じ-英

雄を英雄たらしめる神話素の一つである殿人にとって湯

「人王」であったはずであるが楚人にとっての夏殿革

命は既に神話となっていた宋人にとっても同じであ

った

と思われるしかし東周時代の為政者の意識は最早神話を

古代人の如-

「心象における事資」として受け取ることを

許さなかった神話の神話たる所以である英雄の迫害も

政治家としての彼等にとっては

「不合理」以外の何もので

もな-統治強化の障碍でしかなかったであろうそれ故

その

「不合理」を宋人は頒詩から治し去-楚人は

「天に

問」うたのである東周の殿開園神話はその鮎で西周人

の神話と歴史が

一鰻になった

「神代史」であ

った詩経

21

中国文筆報

第四十六冊

雅の周王朝開園の物語とは成因がやや異な-神話そのも

のを改襲した

「神代史」であるといえよう

再び天間に戻ろうここで語られる殿王朝開園神話を綜

合すると腰租誕生1夏殿革命という流れは商頭でのそれ

とはぼ

一致するのであるが商頚では全-無税されている

王亥

王恒や上甲微の事浜を多-記している所が大いに異

なるこれらの先王は卜軒に於ても租神として柁られてお

-殊に愛

(餐)王亥は

「高租」と崇められていたのであ

るから天問における殿租誕生や牧牛創始の偉大な功績も

殿代からその根摸となるべき停東があったものと考えられ

る殿の未森たる被征服図

宋図で語られなかった文化神

が周の政治的願力が比較的少なかったであろ-楚園に於

て生き残

っていたのであ-「王亥を構える頒詩は政治的

要請によって胴去されたのではないか」という前章で捉

起した推測は更に確貴性を樹して-るのである

このように文化神を語る神話は政治的な事情によって

改襲されやすいという

一つの傾向が次第に明らかになって

きたのであるが天間に見える周王朝開園神話を詩経

雅のそれと比べてみるとその傾向は

一層はっき-する

これについては次章で検討することにしてその前に前

章で提起したもう

一つの問題即ち契と後に呼ばれるよう

になる殿紐の正鰻について卑見を示しておきたい

1般には詩経

商頒

「玄鳥」

「長顎」の鄭隻や楚鮮

天問の王逸注史記

殿本紀などから筒状が生んだ殿租

が契であるとされ詩経や楚軒の注揮家も特に疑問を抱い

ていないしかしこれまで見てきた詩経や天問には契の名

は全-見えていない国語を見ると周語下には

玄王勤商十有四世而興

玄王は商のために働き十四世かかって興起した

鄭語には商

契能和合五教以保干百姓者也

商契は五教をよ-調和させ人民を守-養

った人で

魯語上には

契為司徒而民韓-上甲微能帥契者也o

契は司徒の官となって人心を和らげ--上甲微は

22

たす

契をよ-

た人である

自玄王以及主薬莫若湯

文王から主薬

(湯の父)に至るまで湯よ-すぐれた

者はいない

とあるこれらを見ると契とい-名は周

楚以外の

園で用いられし

かも

「司徒として五教によって人心を安

定させた」という事鏡が語られている抽象的な形ではあ

るが文化面での功寮が取-上げられているのである

そうすると陳夢家氏の

「契と刻は互訓であ-共に亥

と普通である故に契は即ち王亥である」とする説が有力

な説として浮上して-るOこれまでの考察から王亥は殿

の高租にして文化所であ-従

って契というのは王亥の周

連諸国での呼び名であ-「五教」云々は王亥の文化神的

な面が周遠諸国に於て襲化したものと考えられるのである

もう

1万の

「司徒」という面に注目すると楊寛氏は

「司

徒」は

「司土」であるとして契は社紳

(土地紳)であった

と考えている「司徒」を

「司土」と表記するのは西周金文

に多-見られる用法であ-本来は土地や農業を司る官で

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

あったらしいまた史記

殿本紀には

「実は南を佐けて治

水に功があった」とあ-梁玉縄の疑う如き司馬遷の臆説

でな-古-からの停承に基づいているものであるならば

契に夏南の如き下士造成神的な面もあった可能性は捨てき

れない司土の官は農業にも関係が深いことから契は土

地神にして農神の性格をも持つことにな-このことは王

亥が牧牛の創始者であることと関係があるのかも知れない

なお尚書尭典には

帝日「乗努民阻飢o汝后榎播時百穀O」帝日

「契百姓不親五品不遜汝作司徒敬敷五教在寛」

もろもろ

舜は言った「棄よ

民は飢え苦しんでいる

汝は后頑の官とな-

この百穀を播け」と舜は言

った「契よ人民は互いに仲良-せず父子

君臣

夫婦

長幼

朋友の序に従わない汝は司徒の官とな

つつし

-五教を敬んで廉め心を寛-して治めよ」と

とあ-同じ-尚書の周官には

司徒掌邦教敷五典擾兆民

司徒は閲の教化を掌-五教を廉め多-の民を順

23

中国文畢報

第四十六肋

わせる

とあ

って司徒が教化の官であるかの如-書かれているが

これは后積が農官とされたために契は

「五教を康めた」面

のみが取-上げられそれが司徒の官名に結びついてかか

る誤解を生んだものであ-司徒の本来の意味ではないと

考えられる

周やその支配下にあった宋園では殿租に玄王という名

が使われてお-玄鳥による神的な誕生と商の興起のた

めに轟-したとい-事暁が語られる

魯園では

「契」

「玄

王」両方が見えるがー契と言う場合は文化的な功績が描か

れ玄王と言う場合は始租としての面に注目されている

恐ら-

「玄王」とは契=

王亥の始租としての面が強調され

た時の呼稀であ

ったと思われる文化人類学的にも「玄」

という名は始源の闇や滞沌を連想させるものであ-例え

ば老子

六章の

玄牝門天地板

玄牝の門(女陰)は天地寓物の根源である

の如-である

宋園や周では殿租の文化神的な面が抹殺さ

れたために始租神としての

「玄王」の呼稀が定着し魯

鄭などの周連列国では儒教的に襲化した文化神として

「契」と呼ばれ楚国では殿代の呼稀

「王亥」が原形に近

い形で保存されて

「該」と呼ばれたのであろう

四楚鮮

天問の周王朝開園神話

まず天問における殿周開園神話の大筋の流れを圏示する

と附固

一のようになる我々の常識で考えるならば夏殿

革命の次に殿のその後の衰亡を歌いそれから周王朝

へと

移る構成をとるのが普通であるが天問では夏殿革命から

いきな-周の衰亡

へと飛びそこから殿の衰亡

へと戻る間

くりかえ

「天命は

」というテーゼを挟み込んでいるこの

ような操作によってどの王朝も同じように興亡を繰-近

すというテーゼが

7層際立つのであ-

T見乱雑に見える

排列が安は高度なレトリックを用いた結果であるという

ことがわかる

次に殿周の開園が歌われている各章を時間順に並べ

かえて相互に封比してみると附圏二のようになるこの固

24

殻周開園の耐話と

「神代史」(大野)

附圃- (丸内の数字は葦の通し番競)

舜と女梱 ⑱~

「験萌在初」

1

度の先王 ~

t

夏殿革命 ~

周の先王

l

殿周革命 ⑮~cent)

iiiiia段の衰亡 ~ 周の興亡

一- 一 ノ ー「天命反側」

附圏二

段 簡秋と唇の通婚

王亥 有易で牛羊を牧す

王亥の婚姻

王亥 殺されかける

王位 王亥の牛を得る

上甲微 父の遺業を鮭ぐ

肢弟が上甲微を迫害

一寸 どうして子孫が栄えたのか」

~ 楚の興亡

周 ⑯ 后硬 氷上に捨てられる

上帝をも驚かす武勇

-「どうして子孫が栄えたのか」

成湯 伊声を得る

伊デの生い立ち

湯 壷泉から出て案を伐つ

- 25-

⑳ 文王 天命 もて段を覆す

岐山に移る殿の惑婦

文王 村の無道を天に告げる

文王 太公望を得る

武王 急いで殿を伐つ

武王の朝合

周公 武王をよしとせず

武玉 村を伐つ

中隊文革報

第四十六筋

一見して知ることができるのは周の先王には僅か二章

しか使わず殿周革命に九章も費やしてお-殿王朝の方

が租神に多-の章を割いて夏殿革命には三章しか使わな

いのと対照的であるということである

周王朝開園を云う章をもう少し詳し-見てい-と

76積維元子帝何竺之投之干水上鳥何燐之

77何漏弓挟矢殊能渚之既驚帝切激何逢長之

后稜は上帝の長子であるのに上帝はどうして彼に

危害を加えたのか彼を氷の上に捨てると鳥はどう

してこれを暖めたのか

どうして弓をひきしぼ-矢を挟みすぐれた才能で

武婿となったのか上帝をも驚かすほどひどいことを

したのにどうしてその子孫は長-栄えたのかQ

后積が上帝の子であるのに迫害され鳥によって助けられ

たというのは詩経

大雅

「生民」と同様であるが周租后

礎の両的資質を云-のみであ

って農業費明には全-解れ

られていない77章は王逸注では前二句を后稜後二句を

武王の事績とするが洪興租補注は全部を武王の事績とし

朱子はその両方を疑問であるとす

78章以下では文王の

ことを云う章が績いてお-この章を武王の事虞とする課

には従えない聞

多や衰珂

氏は全部を后頑の事鏡とする

が必ずしも后榎に限定することはできない少な-とも

古公以前の

「神代」の先王のうちの誰かであることは確か

であろう後二句の

「上帝をも驚かすようなことをしなが

らどうして子孫が栄えたのか」という疑問が殿の租神と

「人王」の境目である上甲微を語る61章の後二句と似るか

らである周の先王を歌うのはこの二幸で終わ-であ-

そこでは先王たちの文化的功績は全-歌われておらず殿

の先王に比べて極めて冷淡な扱いである

78章以下は殿周革命にまつわる様々の問が寛せられるが

詩経

大雅に見えておらずまた考古学的な裏付けもない

俸説的な事件もい-つか見えているとはいえ神話的な奇

怪さには乏しいといえる0

79遷蔵就岐何能依O殻有感婦何所説

貴職していた重器を移して岐山にやって充たがどう

して人民がそれに従

ったのか殿には人を舷惑させる

26

女がいたというが何のために議話しょうとしたのか

前句についてはこれを文王に懸ける説

大王に懸ける課

あるが前後で文王のことを歌

っているので大王の事蹟と

するのには難があるとはいえその内容は詩経

大雅

「崩」

に云う古公宜父の事鏡に近-どちらに限定することもで

きない「大王から文王までの問」とする他ないであろ-

後二句は肘の妃である坦己を云うとされるがその何につ

いて問うているのかは明らかではないしかし両者とも

その

「答」となるべき俸説がこの時代に前後して現れてお

-前者については

1章で引いた孟子

染着王下後者に

ついては太平御覧奄

1三五引世本に

「村が有蘇氏を伐

った

時有蘇氏は坦己を妃にさし出した肘はこれを愛して言

うことを何でも聞いたために武王が肘もろとも殺した

云うのがこれに普たる

66到峯村窮叔旦不嘉O何親撰車足周之命以各嵯

肘の首をはねるに至-周公且はこれをよしとしな

かったどうして周自ら謀

って殿を討とうとしたのに

その行動は人民に支持されたのか

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

後二句は極めて難解であるがいま黒須重彦氏の解樺に従

う他の諸家にはテキストの文字操作で意味を通らせよ-

とする者も多い前二句を王逸は

「武王の舟に白魚が飛び

込んだので群臣が

『吉兆だ』と言ったのに封Lt周公が

『吉兆ではあるが吉兆と思

ってはならぬ』と戒めたことを

云う

と解しているがこれは史記

周本紀の記事を敦術

したものであって漢初の五行思想の産物である寧ろ所

謂伯夷

叔奔停説の前駆形と考えた方がよい

ここに引いた事件が果たして史寛であ

ったのか西周時

代に生まれた俸説か或いは東周以後の俸説であるのかは

容易に判断できないしかしいずれにしても西周人の

「神

代史」からは無税されていた事件が本来の形ではないに

しても再び記録される動きをここに見ることができるので

あ-結語で述べる

「神代史の再神話化」の萌芽であると

いえるO

このような新しい動きはあるものの天問の周開園神話

も始祖の神的誕生1英雄的事業の達成という基本的な構造

には全-襲わ-はないしかし全鰻を通じて諸王の文化的

27

中閲文革報

第四十六筋

功績には全-解れられていないばか-か周の先王=

租秤

に封しても極めて冷淡であ-殿に封する態度とは明らか

に異な

っているのである

このことは昔時の楚園が周文化よ-も殿文化の方により

親しみその信仰

習俗等を保持していたことの一つの讃

接であろう楚文化と殻文化の関係の深さは既に様々な面

から指摘されてお-例えば楚辞

九歌に見える「雲中君」

「河伯」の神がト辞にも

「雲」「河」神として見えているこ

とや西周末期のものと見られる楚の青銅鐘は殿の鍔と形

が似てお-その銘文も殿金文に似た雄滞な書鰻であるこ

とな

どが挙げられるこのよ-な現象が生じた過程として

は(一)歴代から楚は殿に臣屈してその文化を受け入れ

周の時代になっても表向きは周に臣属しながらも殿の文化

を保持し績けた(二)周代以後に国力を埼大した楚園は

への対抗上その文化を拒み隣接する宋園の殿文化を積

極的に導入したという二つの説が考えられる前者の立

場を取る者はその根接として詩経

商頒

「殿武」の

撞彼殿武奮伐剰楚突入其阻衷利之放有戟其

所湯孫之緒(一章)

敏疾なる武丁は奮起して剤楚を伐ち険しい山地

に攻め入って刑楚の兵士を虜にしその地を平げ

湯王の子孫として手柄を立てた

という部分を畢げることが多い

前述の如-商頭目鰻が

宋園の楚国

への対抗心から作られたものであ-我が国の

紳功皇后遠征説話と同じ-どこまで史寛を反映している

かは未知数であるしかも卜辞などの殿代の地下資料から

は昔時の殿楚関係を示すものはまだ見つかっていない

一方後者については史記

楚世家に周の夷王の時に

楚王熊粟が

「我は牽夷な-中国の詮親に興らず」と言っ

たという記事もあ-現時鮎ではこちらの説の方が有力で

あると思われるいずれにしても周とは言語や風土を異

にする楚閲で生まれた天問には意固したか否かはともか

-周文化の重税と殿文化

への傾斜が讃み取れるのであ-

周王朝側の論理で殿の文化碑の功績を壷-抹殺された詩経

商頭や周の文化神を構える詩経

大雅とは好封照を見

せているのである

28

結語及び除論

これまで述べ来

ったことを要約すると詩経や楚辞

問に見える殿周開園神話は始租の所的誕生1迫害1事業

(文化創造

天下統

一)の完遂という構造を持ち既に西洋

の英雄神話に於て指摘されている基本構造をここにも見出

すことができるただ西洋では

一人で行なわれることが多

い英雄としての事業が中国では教代に亙

って行なわれる

ことが多いという違いはあるところが殿の開園と周の

開園また詩経と天問の相互間で詳し-比較してみると

神々の文化的功績は神話が記録された常時の政治的な事情

によって抹殺されることがあるという事資に束づ-この

ことは中国に於ては剣を振るって活躍する英雄よ-も

文化を創始する

「聖王」の方が重きをなしてお-氏族や

国の威光を左右するものであ

ったということの一つの謹左

といえよう

詩経

大雅における周王朝開園神話は高租にして文化

神である后稜-公劉を神話的要素に富む叙事詩によって語

段周開園の紳話と

「神代史」(大野)

っているが

「人王」の代に至ると

殊に王李に新著に見

られる如-諸王にとってマイナスイメージを輿えかねな

い史寛は壷-制去され武力革命の成功を

「神代」から引

き継がれた輝かしい事業として稀讃している周王朝の開

園神話とそれに績-殿周革命の史糞は詩が記録されるま

での間に

「神代史」

へ改愛されたのであるそこに支配強

化のための王室神聖化という高度な政治的意圏が働いてい

るのは確資であろう

段の遺民の園である春秋の宋園における段王朝開園神話

詩経

商項の諸篇は最終的には周王朝側の人々によって

記録

編輯されたものであ-それ故殿人の信仰した文化

紳は義-抹殺され支配者としての周王朝の論理に基づ-

「神代史」に改変されているOそれに封して楚辞

天問の

殻王朝開園神話には卜辞にも見える租紳たちの神話的雰囲

気に富む物語が多-残

ってお-逆に天問の周王朝開園神

話では周の先王の文化的功績を無税していて宋国との政

治的

風土的立場の違いを明瞭に浮かび上がらせているの

である

- 29-

中国文学報

第四十六筋

か-の如-

神話時代やそれに績-歴史が為政者の手に

よって

「神話化」される場合は中開の諸秤の中で重い比

重を占める文化神が記録者の政治的立場に従

って改奨され

「人王」に封しては

「都合の悪い」史貴を切-捨てて

「神

代史」

へと仕立てられるのであるが東周時代になるとそ

れとは逆に「人王」にも神話素の一つとして解揮可能な俸

説が様々な書物に記録されるようになる既に引用した文

王の安里幽閉

伯夷

叔斉の餓死などがそれであ-

「人

王」の物語もこれによって組両と同様の典型的神話

へ近づ

いてい-のであるこれらが記録されたのは諸子百家の書

物であ-昔時の遊説家たちが民間に流布していた停説を

敬-上げて自説を述べるために用いたものと考えられる

これらの停説が古い形をそのまま保

っているか否かは全-

保護がないとはいえ政治力撃の働きに-いレベルに於て

「神代史」に再び神話的物語が付け加えられるようにな

たということはいえるいわば

「神代史の再神話化」であ

-

1般に

「中国古代王朝神話」として

1つの物語にまと

められているのはこうして

「再神話化」された結果の産物

なのであるこれらは確かに

「神話」としての要素を豊富

に含んでいるのであるがこれを中国古代神話の原型と見

なすことは不可能であ-上述の如-複雑な要因が絡み合

っているのである

こうして

「神代史」はたとえ元の形とは異なるにせよ

再び

「神話」としての光彩を放ち始めたところがこの

「神話」をまたも

「歴史」に固定してしまったのが他なら

ぬ史蓬であることは周知の通-である

しかし

「神代史の再神話化」の原動力とな

った

民間

に語-経がれた王朝停説のエネルギーもこれで絡恨したわ

けではなかったこうしたエネルギーはその後も小説に記

録された種々の歴史俸説などを生み出し形を襲えて生き

績けたのである

ところでこれまで本文中に取-上げなかった

一つの重

要な問題があるそれは

「楚園に古-から停わる楚人自身

の神々はど-な

っていたのか」という問題である

楚辞

天問にはその末尾に楚図の俸説と思われるものが

記されてはいるが多-の注帯家が匙を投げているはど難

30

解であ-筆者も今敢えてこれに挑戦するほどの飴裕はな

いoしかし離騒ではその冒頭で「私は帝高陽の未森である」

と歌

ってお-少な-とも屈原の時代では楚人は穎頭高陽

氏を租神としていたと考えられているが文化神に関する

記述は見えない

一方同じ頃に楚園で成立したと考えら

れている山海経

大荒西経には街頭の子孫の神々の事業

が豊富に記されている例えば重

寮の天地分離

太子長

琴の音禁孝明などである

これらの事章から得られる

一つの推測をここで述べると

楚辞に於ては楚人自らの文化両を表立

って取-上げられな

い事情があ

ったものと思われる楚語で書かれた「原楚鮮」

には書かれていたがそれを漢語に翻弄した際に宋図か

ら導入した殿の文化神に置き換えたのかも知れないそし

て自らの文化紳とその物語を速い

「大荒」の物語として

カムフラージ

ュしたのが他ならぬ山海経なのではなかろ-

かこの書が地理書の形をとっていることや他書に見ら

れない神話停説を豊富に載せていることなどは丁度我が

国の

『出雲園風土記』を思わせるものがあるまた殿の

殿周開国の神話と「神代史」(大野)

文化紳王亥が

「困民国」の人とな

っていた-楚の租神で

あるはずの蘭頂が

「額頭囲」なる図にいたとされているこ

となどもこの仮説の根嬢となろう

しかし最早紙幅も轟きているこの問題は山海経を中心

として改めて考察することにしたい

ば織井慶紀著池田末利編

『中図神話の文化人類学的

研究』(1九九〇平河出版社)があるoまたユング心理学の

立場から日本神話を分析したものとして河合隼雄

『中空構

造日本の深層』(一九八二中央公論社)等がある

近世以前の諸席の議論は専らこの怪異雫が信ずるに足るか

否かの次元に終始するが近代的な研究としては聞一多

「萎

娠履大人跡考」(『聞一多全集』第一射一九四八開明書店)

白鳥清

「段周感生神話の解揮」(『東洋学報』十五巷四親tT

九二五東洋協合学術調査部)出石誠彦

「上代支部の異常

出生説話について」(『支那神話俸説の研究』所収tl九四三

中央公論社)等がある

「帝上帝也」

「帝高華氏之帝也従於帝而見干天婿事賛敏也」

孔疏に

「頑柁郊礁之時英夫高辛氏帝率興供行妻娠随帝之

後践履帝迩行事敬而敏疾放鳥神歌饗紳既饗其条則

31

中国文筆報

第四十六筋

愛而拓之

於是為天神所美大為福緑所依止twz=得懐任則

震動而有身」と云う

例えば嗣西族の

『東巴控』に見える縛文字にこのことが窺

える附固三参照また河南省に俸わるロ東俸説によると

女桐が天から降ってきて伏義が地下から出てきたと云う

(陶陽

鍾秀

『中国創世神話』一九八九上海人民出版社二

一四頁)

附圏三

primeJ 一一一

~PJ虹互L

LJL

堅 室④

上部の 一へ は天下部の 皿 は大地を

表す圃①は中間に天地交合の気がありこれ

より荷物が生ずる固②の中間は蛙で天地交

合後の襲化を表す圃⑨では天地の間に男が上

女が下になっており男女の交合と同様にして

天地が人類を生んだことを表す

(陶陽 鍾秀 『中国創世神話』214頁)

「惟虞東学詩云人之初生皆裂胎而出騒失所依故堕地

郎帝惟羊連胞而下共産猪易故詩以

『如達』馬比o又常

熟陶太常元淳日凡嬰兄在母腹中皆有皮以豪之俗所謂胞

衣也生時其衣先破兄鰻手足少蔚放生之難O惟羊子之生

胸仇完具堕地而後母篤破之故共生易o后硬生時蓋戒於胸

中形鮭末露有如羊子之生者放言

『加速』今按前二説

是也下言

『不味不副』蓋謂其胞衣之不折裂也」(『毛詩俸

集通帯』巷二十五)

「徐君宮人娠而生卵以箆不詳秀之水演O猪孤母有犬名

鵠蒼へ猟干水溝へ得所弄卵衝以東蹄猪孤母以馬具凍俊

之逐沸成見生時正値へ故以為名徐君宮中聞之乃更録

取長而仁智襲君徐固」(博物志

異聞篇引徐値王志)

「高句凝着其先出自克明東明本北夷嚢離王子離王出

行其侍兄於後任娠離王達欲殺之侍見目『前見天上

有菊如大鶏子乗降我困以有嫉』王囚之後連生男玉

置之家牢家以口束嘘束不死o王以為所乃聴収養」(梁

諸夷俸)

北欧や古代

ハンガリー等に見られる豊富な例がKケレ-

ニイtCGユング

『神話撃入門』

一九五1(杉浦忠夫訳

1九七五晶文社)に引かれている

例えば壮族に俸わる

「種子と犬の尾」の物語では人々

「九尾狗」に天上の穀物を盗みに行かせたところ穀物を

九本の尾に-つつけて蹄ろ-としたところを番人に見つか-

八本の尾を叩き切られたが残-

1本の尾に穀物をつけて逃げ

師-人間は農業ができるようになったと云う

(陶陽

秀前掲書二七九頁)

32

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 15: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

中国文筆報

第四十六筋

相土は周鰻

校人注引世本で

「初めて乗馬を作

った」

と云

いこの詩で武勇の王として描かれていることと関連があ

るものと思われるしかし玄王

相土共に具鰹的に如何な

る事鏡があるのかはあま-括かれず神話としての考察を

かな-難しいものとしている

相土から十

1代後の子孫とされ夏案を伐

って殿王朝を

隆盛

へ導いたと俸えられる湯は同じ「長顎」に見えている

帝命不達至於湯秀湯降不遅聖数日頗o昭倣遅

遅上帝是砥帝命式千九園(三牽)

武王載端有虞乗鉄如火烈烈ー則莫我敢局萄有

三幸莫逐莫達七九有有載葦顧既伐昆吾夏架o

(六章)

上帝の命は誤-な-湯に至って天命と合合した

湯の生まれること期に麿じ聖徳は日々に高まった

天にも明らかに至る徳は久し-止まず上帝も愛敬し

て九州に法を示させた(三章)

武王湯は旗印を立て固-銭を撞-火の如-勢い

とど

もと

盛んなれば誰も敢えて長めることはできない竜株

ひこば

に三つの

生ずるといっても生長しきることは

ないO湯は九州を平らげ垂の葦図

顧閲と昆吾氏

竃の夏架を伐

った(六章)

湯が

「天命」を得た後に諸国を征討して九州を統

一したと

いう内容であ-大雅における文王や武王と同じ-始租

の神的資質を引き継いで天下統

一の事業を完成させるので

ある

これらを全鰻的に眺めてみると商租の神的誕生1

相土

湯の天下平定という流れは大雅における周王朝開園の物

語と同様のパターンであ-また請王を武徳の王と稀える

のに終始して請王にとってマイナスイメージを興えるよ

うな話が記されないのも大雅の文王や武王と同様である

商頭の諸篇が大雅以上に尖鋭な政治的意圏を以って作られ

たことは白川静氏も

「末に興

った膨折たる国家意識を背

景としてその抗争老たる刑楚に封する敵封感情の昂揚

を目的とし」たと指摘する通-であ-諸王の武勇ばか-

をことさら強調するのも肯けることであるところがも

しか-の如-商頭諸第が宋人の

「神代史」であるとすると

14

殿の諸王の文化的功績が殆ど歌われていないのは何とも不

思議な事賓である常時

「南賛歌舌」

の園であったはずの

楚と争うのに自らの文化的先進性とその由来を誇示しな

いということが果たして考えられるであろうか

結局宋人の殿開園神話を西周人の周開園神話と比べた

時の問題鮎は(一)後に

「契」と呼ばれるようになる殿租

の正睦(二)両者とも同様の構造を持ちながら殿開園の英

雄たちに文化的功唐が見られない理由tの二鮎にまとめら

れるo前者については戦国時代の楚国における殿開園神

話を記す楚辞

天問や殿嘘卜辞に見える殿の高組神など

にこの問題を解-鍵があろうと思われる後者については

まず宋園と同じ春秋列国である魯園で作られた詩経

魯頚

を参照するとある程度の推測が得られる

問官有他賓資枚枚赫赫妻嫁其徳不回上帝是

依無災無害禰月不遅是生后頑隆之百福蚕種

重移穂塀寂穿奄有下図倖民稼橋有稜有黍有

侶有拒奄有下士績南之緒o(1章)

后稜之孫資維大王o居岐之陽賓始易商至干文

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

武濃大王之緒致天之眉千枚之野無武無虞上

帝臨女敦商之族克威厳功王日叔父建爾元子

伴侯干魯大啓爾字鳥周室輔O(二章)

奥深-清い宗廟は堅固で美しい輝かしい妻糠は

その徳も貞正であ

った上帝も心をよせて無事に子

を生ましめ十月十日を遅れることもなかったここ

さいわい

に后積を生むと天は多-の

降したそれは黍

もちbぴ

おくて

わせはやうえ

おそうえ

まめ

や穿後に領下の閲を

くろきび

治め民に耕作させた稜や黍もあれば楢や

ある下士を治めて后稜は南の事業を縫いだ(一章)

后稜の子孫はかの大王宜父岐山の南に居任した

時始めて殿

への臣展開係を慕

った文王と武王に至

-大王の事業を縫いだ殿の天命の終わ-は牧野の

地でやって来た「武心を抱いた-心配してはならぬ

上帝も見ておられるぞ」武王は殿に勝

ってその人民

を治めその功績は先王たちにも等しい成王は言

た「叔父周公よ

そなたの長子伯禽を立て魯園の

侯とし大いにその土地を閃かせ周室の輔けとさせ

15

中開文革報

第四十六冊

よ」と

(二章)

「関宮」全九章の

うち二幸O魯図はこの詩にも云う如-局

公の長子伯禽が封ぜられた図であり周と同族であるから

曹然周租后稜に始まる諸先王を構えているわけであるが

后稜の農業創始を

一章全部を費やして

「南の緒を鰹ぐ」と

賞揚する割には文王

武王の殿周革命に封しては素束な

い描き方である寧ろ大雅の詩篇よ-も先王の文化的功績

に重きを置-といえる

1万の宋園は肘王の庶兄微子啓が武王に封ぜられた園で

ある宋園は殿の穫柴を修め殿の習俗を堅持し績けたと

俸えられる

所詮は被征服園である自らの租先を高ら

かに賞讃することに封して何らかの政治的願力が働いたこ

とは想像に難-ない「七筈の詩が亡伏した」という商魂

譜の記事は或いはこのことに関係があるのではないか

この失われた詩の中には

西周の

「生民」

「公劉」詩の如

-殿代よ-俸わる文化神を歌う詩があったのではないか

この推測をよ-精確に検討するにはやは-宋園以外の

園に俸わった殿王朝開園神話の一つとしての楚辞

天問を

参照する必要があるそこで次章ではまず殿嘘卜辞に見え

る高組神について検討し次に楚鮮

天間の殿王朝開園を

問う部分について考察した後これらと商項とを相互に比

較することにしたい

三卜辞及び楚鮮

天問の殿王朝開園神話

卜辞は占卜のための文句を記した文字資料であ-もと

よ-神話の記録を目的としたものではない従

って殿人の

間に俸えられていた殿王朝開園の物語を卜辞によって復元

することは言うまでもな-不可能であるただそこには高

租神や先王をはじめ様々な神の名が見えてお-これを後

の時代の殿王朝開閉神話と比較することによってその神

話がどれ位原初の姿に近いかを推定することはある程度可

能である

さて殿人にとっての最高碑は周知の如-上帝であ-

卜辞にも

「帝」として見えていて風雨などの自然現象を

支配し人事に禍福をもたらす存在であることが知られて

⑲いる

16

この上帝に封しては直接条把が行なわれることはないと

い-のが通説であるが島邦男氏によれば絶無という諸で

はな-締把が行われる例が三例あるこの締紀は上帝の

みならず高租神や先王に封しても行われてお-例えば

羅振玉

『殿虚書契緯編』

一-二-

一片に

点締子王亥

貞-王亥に繭のまつ-をせんか

董作賀

『乙篇』四五四九片に

葵未卜両税乙

英未に卜す租乙に蹄のまつ-をせんか

とあることから

恐ら-張光直氏の云う如-

「殿の人びと

『帝』は先租の絶稀であ

ったかあるいは先租の観念

の1つの抽象化されたもの」

ということになろう

上帝と同様の祭紀が行われる租神の-ち「高租」と呼

ばれるのは愛

王亥の二人である

愛は変とも揮され王⑮

図経が

「暑」と塵韻であることなどを理由に帝尊と解して

以来これが定説となっているO帝聾は後の時代の文献に俸

える所では自らの文化的事業や武勇に関しては何も記さ

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

ずただ殿組契と周蔵后榎の共通の父祖であると云うだけ

であ-上帝的な存在であ

ったとするのが諸家の1致した

見解であるしかし殿代に於ては

「帝」と帝替即ち愛は区

別されている以上完全に同

一であ

ったとはいえず上帝

と人王をつなぐ役割を持つ始租神として奉られたものと思

われる前述の如-愛が抽象化したものが上帝であ-

逆に言えば上帝が人格神化したものが愛なのである

一方の王亥はどうであろうか山海経

大荒東経に

有困民国-王亥託干有易河伯僕牛有易殺王亥

取僕牛

困民国で-主

亥は有易園と河伯園に自ら飼い馴ら

した牛を預けた有易園の人は王亥を殺し牛を奪

この候の郭瑛注が引-古本竹書紀年には

殿王子亥賓干有易而淫蔦有易之君鯨臣殺而放之

是故殿主

(一作上)甲徴候師子河伯以伐有易滅之

途殺其君紹臣也

殿の王亥は有易園

へ客として赴いたが行ないが悪

- 17-

中国文学報

第四十六放

有易の君主摘臣が彼を殺してしまったそれで段

の上甲微が河伯図の軍を借-て有易を伐ちこれを滅

ぼし君主鋸臣を殺した

と記されているまた初学記撃

九引世本には

「骸が

牛を飼い馴らした」とあ-この膜も王亥であると考えら

れている少な-とも東周末期に於ては王亥が牧牛を行な

ったという俸説があったのであ-王亥を論ずる人の多-

はこれに注目し彼を殿の文化紳であると考えている

「高

租」と特別扱いされる租神の一人であることを考えれば

王亥が文化面で多大な功績を上げ原始状態から文明状態

へと殿氏族を更展させたことは十分に考えられる

もしそうであるならば前章でその存在を示唆した

「殿

の失われた文化紳」はまさにこの王亥ということになる

既に述べた如-詩経

商煩の段王朝開園神話に封しては

それと系統を異にする楚辞

天問という比較資料もあるの

であるから次にこちらの方を見てみることにしよう

fTD

天問は古来極めて錯簡の多い書と言われる

その中で

殿周開園に関する部分は比較的次第がまとまっている湯

以前の駿の先王が措かれるのは55-聖早であ-簡秋と尊

の通婿から始まっている

55簡秋在董卓何宜玄鳥致胎女何喜

筒状は高い槙童にいたが尋はどうして見そめたの

か燕が滑-物を持

ってきたのを筒状はどうして喜

んだのか

古来詩経

商頒

「玄鳥」と同じ-簡秋香卵の説話を云うも

のと解されるがこれも

「玄鳥」詩と同じ-この二句だ

けから呑卵の話を導き出すのは難しいしかしこの通解が

行なわれた高い

「董」は天地の間を繋ぐにふさわしい場所

であ-鳥が天から

「胎」を授けることなど天地通姫を

描-ことには襲わ-はない天問では上帝には

「帝」とい

う呼稀を使

ってお-ここでの

「魯」はー辞の

「愛」と同

じく上帝の人格化したものと思われる

この二句は不思議なことに簡秋と啓が誰を生んだのか全

く言わないテキストに脱落がなければ次の章の登場人

物を簡秋の子と考えるのが最も素直であろうところが次

に登場するのは

「玄王」でも

「契」でもない

18

56該乗季徳頗父是滅胡絡弊干有屈牧夫牛羊0

57干協時舞何以懐之平脅鼻膚何以肥之

58有屈牧豊云何而逢撃林先出其命何徒

壬亥はその父季の徳を縫いだが父は立涯な人であ

ったどうして王亥はとうとう有易園に落ちぶれそ

ゐ牛羊を養

っていたのかO

たて

あわ

いだ

協せて舞う女を見てど-してその女を

のか

平らかな脇腹に細やかな皮膚どうしてこの女

まじ

ったのか

王亥は有易園の牧童にどのようにして合

ったのか

寝込みを襲われて先に逃げ出したがどこから逃げ出

して助かったのか

56章の

「該」を王逸は

「竜也」と解しているが晴代に至

って王関連が人名ではないかと疑問を呈出L

t

王国経が卜

軒との対照によって王亥であると断じて以来この説が支配

的であるこの四句も前途の山海経や竹書紀年と共に王

亥が牧神であ

ったことを示すものとしてよ-引かれる57

章は難解であり注揮家ごとに説が異なると言

ってもよい

股周開園の神話と

「紳代史」(大野)

ほどであるが王亥の婚姻のことを云うとする需介甫氏

黒須重彦氏の説に徒う58章は王亥が殺されそうにな-な

がら辛-も逃れたことを云い前に引いた山海経などの所

侍と関係があるものと思われる

この三幸の記述から王亥の迫害と文化創造のモチーフを

見出すことはさほど困難なことではないし簡秋と孝によ

る殿租の神的な誕生も前章までに述べた例と同様に何ら

かの形で王亥に英雄的資質をもたらすものと考えられる

簡秋が生んだのが王亥であると断定できれば話は簡単なの

であるが56章には王亥の父としての

「季」が登場してお

り従

って天問に於ては簡狭

暑-季1王亥という系譜が

成立していたことになるしかし卜辞に見える

「季」は高

租でない租神の一人にすぎず

「高租王亥」が

「季」を父と

していたとは考え難いo

l鮭に卜解における租紳相互間の

父子関係は不明な部分が多-本来は寧ろ横

一列に並ぶ関

係であ

ってどれも

「租先」に襲わ-はないのであ-果

たした功績や役割の違いによってそれぞれに分化したもの

と考えた方がよい卜辞における

「季」の神威は他の租紳

19

中国文革報

第四十六桝

と襲わらないが

天問では尊と王亥との橋渡し的な性格に

襲わったのである

59恒乗季徳蔦得夫朴牛何徒費班緑不但遠来

王恒も李の徳を鰹ぎ王亥の養

った僕牛を得たど

あまね

はどこ

うして狩-に行

って獲物を

-

民に

ただ行

って

締るだけに止まらなかったのか

「恒」は王遠江では

「常也」と云うがこれも王国経が卜

辞に見える王恒のことであると解して以来諸家概ねこれ

に徒う「班稀」は近年の解帯では

「官位」「栄達」等に解

され

「王恒が有易図で出世しょうとした」意であるとす

るがす

っき-しない解輝であるー辞に見える王恒は

弓の形の中に

「恒」字を入れたものもあ-寧ろ

「湯は狩

-に往-際ただ行

って締るだけではな-民に編-施し

を輿えた」とする王逸注の方が原初的な意味に近いと思わ

れる但し主語は湯ではな-王恒である張光直氏は王恒

と罪に何らかの関係があるのではないかと考えるが

それ

よ-は駿人の狩猟柵であ

ったと考えた方が良いかも知れな

いただ王恒の事境を記した文献が他に存在せず容易に

結論を得難いのは残念なことである

60昏微遵述有狭不寧何繁鳥葦棟負子韓情

61絃弟遠軽危害顔見O何襲化以作許後嗣而逢長

上甲微は父王亥の事鏡を鮭ぎ有易園は安定を保て

ず滅びたどうして有易の人民は妹に止まる鳥のよう

に苦しんでいるのに上甲微はその子女にまで横暴な

ことをしたのか

目の陪んだ請弟はみな道ならぬことをしその兄上

甲微に危害を加えたのにどうしてうま-ごまかして

その子孫が長-祭えることになったのか

この二章も本づ-所がはっき-せず難解であるが「昏微」

はやは-王国経が上甲微のことであるとしてお-その事

蹟を云うものと考えられる上甲微は卜辞で系譜が明らか

な請王のうちで

一番古い租先に普た-いわば

「人王」の

租であるがここでは王亥と同様の迫害モチーフが再び現

⑳れその事鏡は既に神話化されていたものと見られる「何

襲化以作詐後嗣而逢長」の二句はそ-した神話であるが

故の不合理性を問うているのである

- 20-

62成湯東巡有等宴極何乞彼中臣而吉妃是得

63水漬之木得彼中子夫何悪之腰右筆之婦

64湯出重泉夫何皐尤不勝心伐帝夫誰使挑之

湯は東方

へ巡狩Lt有等園までやって来たど-し

てあの中臣伊声に乞い求めて良い妃を得たのか

水蓮の木から有等氏の君主は伊声を得たとい-が

どうして伊声を嫌

って湯の妃に付き添わせたのか

湯は重泉の牢獄から出て来たがそれは何の罪だっ

たのか正義を求める心を抑えられず実を伐

ったが

誰が彼をそうさせたのか

商頭における湯は夏架や尾吾氏を伐

った英雄として非常に

多-の紙幅を割いて賞揚されていたのであるが天間では

僅か三幸で終わ-しかもその年分は彼の名臣伊声のこと

に費され天下を平定した聖王にしてはかなり冷淡な描き

方である多-とも王亥や上甲微などと同等の重さしか持

っていないといえるしかしこの簡単な記述は神話的な趣

きに富んでいる伊声は呂氏春秋

本味簾で

「有佐氏の女

が空桑の中から嬰兄を得て

それを君主に献じ君主は

般周開乾の神話と

「紳代史」(大野)

料理人に彼を育てさせた」云々と書かれるような俸説をも

つがその原型とみられる記事が63章にあ-64章の

「湯

出重泉」も森安太郎氏が

「陽

(太陽神)が海の下を-ぐっ

て再び現れ出る様子」

と解したほどであるその虞偽は措

-としても

「重泉に囚われてから脱出」

というのがこれ

まで屡々登場してきた迫害1事業完成のモチーフであるこ

とは明白であ-この迫害こそ棄てられた后稜と同じ-英

雄を英雄たらしめる神話素の一つである殿人にとって湯

「人王」であったはずであるが楚人にとっての夏殿革

命は既に神話となっていた宋人にとっても同じであ

った

と思われるしかし東周時代の為政者の意識は最早神話を

古代人の如-

「心象における事資」として受け取ることを

許さなかった神話の神話たる所以である英雄の迫害も

政治家としての彼等にとっては

「不合理」以外の何もので

もな-統治強化の障碍でしかなかったであろうそれ故

その

「不合理」を宋人は頒詩から治し去-楚人は

「天に

問」うたのである東周の殿開園神話はその鮎で西周人

の神話と歴史が

一鰻になった

「神代史」であ

った詩経

21

中国文筆報

第四十六冊

雅の周王朝開園の物語とは成因がやや異な-神話そのも

のを改襲した

「神代史」であるといえよう

再び天間に戻ろうここで語られる殿王朝開園神話を綜

合すると腰租誕生1夏殿革命という流れは商頭でのそれ

とはぼ

一致するのであるが商頚では全-無税されている

王亥

王恒や上甲微の事浜を多-記している所が大いに異

なるこれらの先王は卜軒に於ても租神として柁られてお

-殊に愛

(餐)王亥は

「高租」と崇められていたのであ

るから天問における殿租誕生や牧牛創始の偉大な功績も

殿代からその根摸となるべき停東があったものと考えられ

る殿の未森たる被征服図

宋図で語られなかった文化神

が周の政治的願力が比較的少なかったであろ-楚園に於

て生き残

っていたのであ-「王亥を構える頒詩は政治的

要請によって胴去されたのではないか」という前章で捉

起した推測は更に確貴性を樹して-るのである

このように文化神を語る神話は政治的な事情によって

改襲されやすいという

一つの傾向が次第に明らかになって

きたのであるが天間に見える周王朝開園神話を詩経

雅のそれと比べてみるとその傾向は

一層はっき-する

これについては次章で検討することにしてその前に前

章で提起したもう

一つの問題即ち契と後に呼ばれるよう

になる殿紐の正鰻について卑見を示しておきたい

1般には詩経

商頒

「玄鳥」

「長顎」の鄭隻や楚鮮

天問の王逸注史記

殿本紀などから筒状が生んだ殿租

が契であるとされ詩経や楚軒の注揮家も特に疑問を抱い

ていないしかしこれまで見てきた詩経や天問には契の名

は全-見えていない国語を見ると周語下には

玄王勤商十有四世而興

玄王は商のために働き十四世かかって興起した

鄭語には商

契能和合五教以保干百姓者也

商契は五教をよ-調和させ人民を守-養

った人で

魯語上には

契為司徒而民韓-上甲微能帥契者也o

契は司徒の官となって人心を和らげ--上甲微は

22

たす

契をよ-

た人である

自玄王以及主薬莫若湯

文王から主薬

(湯の父)に至るまで湯よ-すぐれた

者はいない

とあるこれらを見ると契とい-名は周

楚以外の

園で用いられし

かも

「司徒として五教によって人心を安

定させた」という事鏡が語られている抽象的な形ではあ

るが文化面での功寮が取-上げられているのである

そうすると陳夢家氏の

「契と刻は互訓であ-共に亥

と普通である故に契は即ち王亥である」とする説が有力

な説として浮上して-るOこれまでの考察から王亥は殿

の高租にして文化所であ-従

って契というのは王亥の周

連諸国での呼び名であ-「五教」云々は王亥の文化神的

な面が周遠諸国に於て襲化したものと考えられるのである

もう

1万の

「司徒」という面に注目すると楊寛氏は

「司

徒」は

「司土」であるとして契は社紳

(土地紳)であった

と考えている「司徒」を

「司土」と表記するのは西周金文

に多-見られる用法であ-本来は土地や農業を司る官で

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

あったらしいまた史記

殿本紀には

「実は南を佐けて治

水に功があった」とあ-梁玉縄の疑う如き司馬遷の臆説

でな-古-からの停承に基づいているものであるならば

契に夏南の如き下士造成神的な面もあった可能性は捨てき

れない司土の官は農業にも関係が深いことから契は土

地神にして農神の性格をも持つことにな-このことは王

亥が牧牛の創始者であることと関係があるのかも知れない

なお尚書尭典には

帝日「乗努民阻飢o汝后榎播時百穀O」帝日

「契百姓不親五品不遜汝作司徒敬敷五教在寛」

もろもろ

舜は言った「棄よ

民は飢え苦しんでいる

汝は后頑の官とな-

この百穀を播け」と舜は言

った「契よ人民は互いに仲良-せず父子

君臣

夫婦

長幼

朋友の序に従わない汝は司徒の官とな

つつし

-五教を敬んで廉め心を寛-して治めよ」と

とあ-同じ-尚書の周官には

司徒掌邦教敷五典擾兆民

司徒は閲の教化を掌-五教を廉め多-の民を順

23

中国文畢報

第四十六肋

わせる

とあ

って司徒が教化の官であるかの如-書かれているが

これは后積が農官とされたために契は

「五教を康めた」面

のみが取-上げられそれが司徒の官名に結びついてかか

る誤解を生んだものであ-司徒の本来の意味ではないと

考えられる

周やその支配下にあった宋園では殿租に玄王という名

が使われてお-玄鳥による神的な誕生と商の興起のた

めに轟-したとい-事暁が語られる

魯園では

「契」

「玄

王」両方が見えるがー契と言う場合は文化的な功績が描か

れ玄王と言う場合は始租としての面に注目されている

恐ら-

「玄王」とは契=

王亥の始租としての面が強調され

た時の呼稀であ

ったと思われる文化人類学的にも「玄」

という名は始源の闇や滞沌を連想させるものであ-例え

ば老子

六章の

玄牝門天地板

玄牝の門(女陰)は天地寓物の根源である

の如-である

宋園や周では殿租の文化神的な面が抹殺さ

れたために始租神としての

「玄王」の呼稀が定着し魯

鄭などの周連列国では儒教的に襲化した文化神として

「契」と呼ばれ楚国では殿代の呼稀

「王亥」が原形に近

い形で保存されて

「該」と呼ばれたのであろう

四楚鮮

天問の周王朝開園神話

まず天問における殿周開園神話の大筋の流れを圏示する

と附固

一のようになる我々の常識で考えるならば夏殿

革命の次に殿のその後の衰亡を歌いそれから周王朝

へと

移る構成をとるのが普通であるが天問では夏殿革命から

いきな-周の衰亡

へと飛びそこから殿の衰亡

へと戻る間

くりかえ

「天命は

」というテーゼを挟み込んでいるこの

ような操作によってどの王朝も同じように興亡を繰-近

すというテーゼが

7層際立つのであ-

T見乱雑に見える

排列が安は高度なレトリックを用いた結果であるという

ことがわかる

次に殿周の開園が歌われている各章を時間順に並べ

かえて相互に封比してみると附圏二のようになるこの固

24

殻周開園の耐話と

「神代史」(大野)

附圃- (丸内の数字は葦の通し番競)

舜と女梱 ⑱~

「験萌在初」

1

度の先王 ~

t

夏殿革命 ~

周の先王

l

殿周革命 ⑮~cent)

iiiiia段の衰亡 ~ 周の興亡

一- 一 ノ ー「天命反側」

附圏二

段 簡秋と唇の通婚

王亥 有易で牛羊を牧す

王亥の婚姻

王亥 殺されかける

王位 王亥の牛を得る

上甲微 父の遺業を鮭ぐ

肢弟が上甲微を迫害

一寸 どうして子孫が栄えたのか」

~ 楚の興亡

周 ⑯ 后硬 氷上に捨てられる

上帝をも驚かす武勇

-「どうして子孫が栄えたのか」

成湯 伊声を得る

伊デの生い立ち

湯 壷泉から出て案を伐つ

- 25-

⑳ 文王 天命 もて段を覆す

岐山に移る殿の惑婦

文王 村の無道を天に告げる

文王 太公望を得る

武王 急いで殿を伐つ

武王の朝合

周公 武王をよしとせず

武玉 村を伐つ

中隊文革報

第四十六筋

一見して知ることができるのは周の先王には僅か二章

しか使わず殿周革命に九章も費やしてお-殿王朝の方

が租神に多-の章を割いて夏殿革命には三章しか使わな

いのと対照的であるということである

周王朝開園を云う章をもう少し詳し-見てい-と

76積維元子帝何竺之投之干水上鳥何燐之

77何漏弓挟矢殊能渚之既驚帝切激何逢長之

后稜は上帝の長子であるのに上帝はどうして彼に

危害を加えたのか彼を氷の上に捨てると鳥はどう

してこれを暖めたのか

どうして弓をひきしぼ-矢を挟みすぐれた才能で

武婿となったのか上帝をも驚かすほどひどいことを

したのにどうしてその子孫は長-栄えたのかQ

后積が上帝の子であるのに迫害され鳥によって助けられ

たというのは詩経

大雅

「生民」と同様であるが周租后

礎の両的資質を云-のみであ

って農業費明には全-解れ

られていない77章は王逸注では前二句を后稜後二句を

武王の事績とするが洪興租補注は全部を武王の事績とし

朱子はその両方を疑問であるとす

78章以下では文王の

ことを云う章が績いてお-この章を武王の事虞とする課

には従えない聞

多や衰珂

氏は全部を后頑の事鏡とする

が必ずしも后榎に限定することはできない少な-とも

古公以前の

「神代」の先王のうちの誰かであることは確か

であろう後二句の

「上帝をも驚かすようなことをしなが

らどうして子孫が栄えたのか」という疑問が殿の租神と

「人王」の境目である上甲微を語る61章の後二句と似るか

らである周の先王を歌うのはこの二幸で終わ-であ-

そこでは先王たちの文化的功績は全-歌われておらず殿

の先王に比べて極めて冷淡な扱いである

78章以下は殿周革命にまつわる様々の問が寛せられるが

詩経

大雅に見えておらずまた考古学的な裏付けもない

俸説的な事件もい-つか見えているとはいえ神話的な奇

怪さには乏しいといえる0

79遷蔵就岐何能依O殻有感婦何所説

貴職していた重器を移して岐山にやって充たがどう

して人民がそれに従

ったのか殿には人を舷惑させる

26

女がいたというが何のために議話しょうとしたのか

前句についてはこれを文王に懸ける説

大王に懸ける課

あるが前後で文王のことを歌

っているので大王の事蹟と

するのには難があるとはいえその内容は詩経

大雅

「崩」

に云う古公宜父の事鏡に近-どちらに限定することもで

きない「大王から文王までの問」とする他ないであろ-

後二句は肘の妃である坦己を云うとされるがその何につ

いて問うているのかは明らかではないしかし両者とも

その

「答」となるべき俸説がこの時代に前後して現れてお

-前者については

1章で引いた孟子

染着王下後者に

ついては太平御覧奄

1三五引世本に

「村が有蘇氏を伐

った

時有蘇氏は坦己を妃にさし出した肘はこれを愛して言

うことを何でも聞いたために武王が肘もろとも殺した

云うのがこれに普たる

66到峯村窮叔旦不嘉O何親撰車足周之命以各嵯

肘の首をはねるに至-周公且はこれをよしとしな

かったどうして周自ら謀

って殿を討とうとしたのに

その行動は人民に支持されたのか

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

後二句は極めて難解であるがいま黒須重彦氏の解樺に従

う他の諸家にはテキストの文字操作で意味を通らせよ-

とする者も多い前二句を王逸は

「武王の舟に白魚が飛び

込んだので群臣が

『吉兆だ』と言ったのに封Lt周公が

『吉兆ではあるが吉兆と思

ってはならぬ』と戒めたことを

云う

と解しているがこれは史記

周本紀の記事を敦術

したものであって漢初の五行思想の産物である寧ろ所

謂伯夷

叔奔停説の前駆形と考えた方がよい

ここに引いた事件が果たして史寛であ

ったのか西周時

代に生まれた俸説か或いは東周以後の俸説であるのかは

容易に判断できないしかしいずれにしても西周人の

「神

代史」からは無税されていた事件が本来の形ではないに

しても再び記録される動きをここに見ることができるので

あ-結語で述べる

「神代史の再神話化」の萌芽であると

いえるO

このような新しい動きはあるものの天問の周開園神話

も始祖の神的誕生1英雄的事業の達成という基本的な構造

には全-襲わ-はないしかし全鰻を通じて諸王の文化的

27

中閲文革報

第四十六筋

功績には全-解れられていないばか-か周の先王=

租秤

に封しても極めて冷淡であ-殿に封する態度とは明らか

に異な

っているのである

このことは昔時の楚園が周文化よ-も殿文化の方により

親しみその信仰

習俗等を保持していたことの一つの讃

接であろう楚文化と殻文化の関係の深さは既に様々な面

から指摘されてお-例えば楚辞

九歌に見える「雲中君」

「河伯」の神がト辞にも

「雲」「河」神として見えているこ

とや西周末期のものと見られる楚の青銅鐘は殿の鍔と形

が似てお-その銘文も殿金文に似た雄滞な書鰻であるこ

とな

どが挙げられるこのよ-な現象が生じた過程として

は(一)歴代から楚は殿に臣屈してその文化を受け入れ

周の時代になっても表向きは周に臣属しながらも殿の文化

を保持し績けた(二)周代以後に国力を埼大した楚園は

への対抗上その文化を拒み隣接する宋園の殿文化を積

極的に導入したという二つの説が考えられる前者の立

場を取る者はその根接として詩経

商頒

「殿武」の

撞彼殿武奮伐剰楚突入其阻衷利之放有戟其

所湯孫之緒(一章)

敏疾なる武丁は奮起して剤楚を伐ち険しい山地

に攻め入って刑楚の兵士を虜にしその地を平げ

湯王の子孫として手柄を立てた

という部分を畢げることが多い

前述の如-商頭目鰻が

宋園の楚国

への対抗心から作られたものであ-我が国の

紳功皇后遠征説話と同じ-どこまで史寛を反映している

かは未知数であるしかも卜辞などの殿代の地下資料から

は昔時の殿楚関係を示すものはまだ見つかっていない

一方後者については史記

楚世家に周の夷王の時に

楚王熊粟が

「我は牽夷な-中国の詮親に興らず」と言っ

たという記事もあ-現時鮎ではこちらの説の方が有力で

あると思われるいずれにしても周とは言語や風土を異

にする楚閲で生まれた天問には意固したか否かはともか

-周文化の重税と殿文化

への傾斜が讃み取れるのであ-

周王朝側の論理で殿の文化碑の功績を壷-抹殺された詩経

商頭や周の文化神を構える詩経

大雅とは好封照を見

せているのである

28

結語及び除論

これまで述べ来

ったことを要約すると詩経や楚辞

問に見える殿周開園神話は始租の所的誕生1迫害1事業

(文化創造

天下統

一)の完遂という構造を持ち既に西洋

の英雄神話に於て指摘されている基本構造をここにも見出

すことができるただ西洋では

一人で行なわれることが多

い英雄としての事業が中国では教代に亙

って行なわれる

ことが多いという違いはあるところが殿の開園と周の

開園また詩経と天問の相互間で詳し-比較してみると

神々の文化的功績は神話が記録された常時の政治的な事情

によって抹殺されることがあるという事資に束づ-この

ことは中国に於ては剣を振るって活躍する英雄よ-も

文化を創始する

「聖王」の方が重きをなしてお-氏族や

国の威光を左右するものであ

ったということの一つの謹左

といえよう

詩経

大雅における周王朝開園神話は高租にして文化

神である后稜-公劉を神話的要素に富む叙事詩によって語

段周開園の紳話と

「神代史」(大野)

っているが

「人王」の代に至ると

殊に王李に新著に見

られる如-諸王にとってマイナスイメージを輿えかねな

い史寛は壷-制去され武力革命の成功を

「神代」から引

き継がれた輝かしい事業として稀讃している周王朝の開

園神話とそれに績-殿周革命の史糞は詩が記録されるま

での間に

「神代史」

へ改愛されたのであるそこに支配強

化のための王室神聖化という高度な政治的意圏が働いてい

るのは確資であろう

段の遺民の園である春秋の宋園における段王朝開園神話

詩経

商項の諸篇は最終的には周王朝側の人々によって

記録

編輯されたものであ-それ故殿人の信仰した文化

紳は義-抹殺され支配者としての周王朝の論理に基づ-

「神代史」に改変されているOそれに封して楚辞

天問の

殻王朝開園神話には卜辞にも見える租紳たちの神話的雰囲

気に富む物語が多-残

ってお-逆に天問の周王朝開園神

話では周の先王の文化的功績を無税していて宋国との政

治的

風土的立場の違いを明瞭に浮かび上がらせているの

である

- 29-

中国文学報

第四十六筋

か-の如-

神話時代やそれに績-歴史が為政者の手に

よって

「神話化」される場合は中開の諸秤の中で重い比

重を占める文化神が記録者の政治的立場に従

って改奨され

「人王」に封しては

「都合の悪い」史貴を切-捨てて

「神

代史」

へと仕立てられるのであるが東周時代になるとそ

れとは逆に「人王」にも神話素の一つとして解揮可能な俸

説が様々な書物に記録されるようになる既に引用した文

王の安里幽閉

伯夷

叔斉の餓死などがそれであ-

「人

王」の物語もこれによって組両と同様の典型的神話

へ近づ

いてい-のであるこれらが記録されたのは諸子百家の書

物であ-昔時の遊説家たちが民間に流布していた停説を

敬-上げて自説を述べるために用いたものと考えられる

これらの停説が古い形をそのまま保

っているか否かは全-

保護がないとはいえ政治力撃の働きに-いレベルに於て

「神代史」に再び神話的物語が付け加えられるようにな

たということはいえるいわば

「神代史の再神話化」であ

-

1般に

「中国古代王朝神話」として

1つの物語にまと

められているのはこうして

「再神話化」された結果の産物

なのであるこれらは確かに

「神話」としての要素を豊富

に含んでいるのであるがこれを中国古代神話の原型と見

なすことは不可能であ-上述の如-複雑な要因が絡み合

っているのである

こうして

「神代史」はたとえ元の形とは異なるにせよ

再び

「神話」としての光彩を放ち始めたところがこの

「神話」をまたも

「歴史」に固定してしまったのが他なら

ぬ史蓬であることは周知の通-である

しかし

「神代史の再神話化」の原動力とな

った

民間

に語-経がれた王朝停説のエネルギーもこれで絡恨したわ

けではなかったこうしたエネルギーはその後も小説に記

録された種々の歴史俸説などを生み出し形を襲えて生き

績けたのである

ところでこれまで本文中に取-上げなかった

一つの重

要な問題があるそれは

「楚園に古-から停わる楚人自身

の神々はど-な

っていたのか」という問題である

楚辞

天問にはその末尾に楚図の俸説と思われるものが

記されてはいるが多-の注帯家が匙を投げているはど難

30

解であ-筆者も今敢えてこれに挑戦するほどの飴裕はな

いoしかし離騒ではその冒頭で「私は帝高陽の未森である」

と歌

ってお-少な-とも屈原の時代では楚人は穎頭高陽

氏を租神としていたと考えられているが文化神に関する

記述は見えない

一方同じ頃に楚園で成立したと考えら

れている山海経

大荒西経には街頭の子孫の神々の事業

が豊富に記されている例えば重

寮の天地分離

太子長

琴の音禁孝明などである

これらの事章から得られる

一つの推測をここで述べると

楚辞に於ては楚人自らの文化両を表立

って取-上げられな

い事情があ

ったものと思われる楚語で書かれた「原楚鮮」

には書かれていたがそれを漢語に翻弄した際に宋図か

ら導入した殿の文化神に置き換えたのかも知れないそし

て自らの文化紳とその物語を速い

「大荒」の物語として

カムフラージ

ュしたのが他ならぬ山海経なのではなかろ-

かこの書が地理書の形をとっていることや他書に見ら

れない神話停説を豊富に載せていることなどは丁度我が

国の

『出雲園風土記』を思わせるものがあるまた殿の

殿周開国の神話と「神代史」(大野)

文化紳王亥が

「困民国」の人とな

っていた-楚の租神で

あるはずの蘭頂が

「額頭囲」なる図にいたとされているこ

となどもこの仮説の根嬢となろう

しかし最早紙幅も轟きているこの問題は山海経を中心

として改めて考察することにしたい

ば織井慶紀著池田末利編

『中図神話の文化人類学的

研究』(1九九〇平河出版社)があるoまたユング心理学の

立場から日本神話を分析したものとして河合隼雄

『中空構

造日本の深層』(一九八二中央公論社)等がある

近世以前の諸席の議論は専らこの怪異雫が信ずるに足るか

否かの次元に終始するが近代的な研究としては聞一多

「萎

娠履大人跡考」(『聞一多全集』第一射一九四八開明書店)

白鳥清

「段周感生神話の解揮」(『東洋学報』十五巷四親tT

九二五東洋協合学術調査部)出石誠彦

「上代支部の異常

出生説話について」(『支那神話俸説の研究』所収tl九四三

中央公論社)等がある

「帝上帝也」

「帝高華氏之帝也従於帝而見干天婿事賛敏也」

孔疏に

「頑柁郊礁之時英夫高辛氏帝率興供行妻娠随帝之

後践履帝迩行事敬而敏疾放鳥神歌饗紳既饗其条則

31

中国文筆報

第四十六筋

愛而拓之

於是為天神所美大為福緑所依止twz=得懐任則

震動而有身」と云う

例えば嗣西族の

『東巴控』に見える縛文字にこのことが窺

える附固三参照また河南省に俸わるロ東俸説によると

女桐が天から降ってきて伏義が地下から出てきたと云う

(陶陽

鍾秀

『中国創世神話』一九八九上海人民出版社二

一四頁)

附圏三

primeJ 一一一

~PJ虹互L

LJL

堅 室④

上部の 一へ は天下部の 皿 は大地を

表す圃①は中間に天地交合の気がありこれ

より荷物が生ずる固②の中間は蛙で天地交

合後の襲化を表す圃⑨では天地の間に男が上

女が下になっており男女の交合と同様にして

天地が人類を生んだことを表す

(陶陽 鍾秀 『中国創世神話』214頁)

「惟虞東学詩云人之初生皆裂胎而出騒失所依故堕地

郎帝惟羊連胞而下共産猪易故詩以

『如達』馬比o又常

熟陶太常元淳日凡嬰兄在母腹中皆有皮以豪之俗所謂胞

衣也生時其衣先破兄鰻手足少蔚放生之難O惟羊子之生

胸仇完具堕地而後母篤破之故共生易o后硬生時蓋戒於胸

中形鮭末露有如羊子之生者放言

『加速』今按前二説

是也下言

『不味不副』蓋謂其胞衣之不折裂也」(『毛詩俸

集通帯』巷二十五)

「徐君宮人娠而生卵以箆不詳秀之水演O猪孤母有犬名

鵠蒼へ猟干水溝へ得所弄卵衝以東蹄猪孤母以馬具凍俊

之逐沸成見生時正値へ故以為名徐君宮中聞之乃更録

取長而仁智襲君徐固」(博物志

異聞篇引徐値王志)

「高句凝着其先出自克明東明本北夷嚢離王子離王出

行其侍兄於後任娠離王達欲殺之侍見目『前見天上

有菊如大鶏子乗降我困以有嫉』王囚之後連生男玉

置之家牢家以口束嘘束不死o王以為所乃聴収養」(梁

諸夷俸)

北欧や古代

ハンガリー等に見られる豊富な例がKケレ-

ニイtCGユング

『神話撃入門』

一九五1(杉浦忠夫訳

1九七五晶文社)に引かれている

例えば壮族に俸わる

「種子と犬の尾」の物語では人々

「九尾狗」に天上の穀物を盗みに行かせたところ穀物を

九本の尾に-つつけて蹄ろ-としたところを番人に見つか-

八本の尾を叩き切られたが残-

1本の尾に穀物をつけて逃げ

師-人間は農業ができるようになったと云う

(陶陽

秀前掲書二七九頁)

32

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 16: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

殿の諸王の文化的功績が殆ど歌われていないのは何とも不

思議な事賓である常時

「南賛歌舌」

の園であったはずの

楚と争うのに自らの文化的先進性とその由来を誇示しな

いということが果たして考えられるであろうか

結局宋人の殿開園神話を西周人の周開園神話と比べた

時の問題鮎は(一)後に

「契」と呼ばれるようになる殿租

の正睦(二)両者とも同様の構造を持ちながら殿開園の英

雄たちに文化的功唐が見られない理由tの二鮎にまとめら

れるo前者については戦国時代の楚国における殿開園神

話を記す楚辞

天問や殿嘘卜辞に見える殿の高組神など

にこの問題を解-鍵があろうと思われる後者については

まず宋園と同じ春秋列国である魯園で作られた詩経

魯頚

を参照するとある程度の推測が得られる

問官有他賓資枚枚赫赫妻嫁其徳不回上帝是

依無災無害禰月不遅是生后頑隆之百福蚕種

重移穂塀寂穿奄有下図倖民稼橋有稜有黍有

侶有拒奄有下士績南之緒o(1章)

后稜之孫資維大王o居岐之陽賓始易商至干文

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

武濃大王之緒致天之眉千枚之野無武無虞上

帝臨女敦商之族克威厳功王日叔父建爾元子

伴侯干魯大啓爾字鳥周室輔O(二章)

奥深-清い宗廟は堅固で美しい輝かしい妻糠は

その徳も貞正であ

った上帝も心をよせて無事に子

を生ましめ十月十日を遅れることもなかったここ

さいわい

に后積を生むと天は多-の

降したそれは黍

もちbぴ

おくて

わせはやうえ

おそうえ

まめ

や穿後に領下の閲を

くろきび

治め民に耕作させた稜や黍もあれば楢や

ある下士を治めて后稜は南の事業を縫いだ(一章)

后稜の子孫はかの大王宜父岐山の南に居任した

時始めて殿

への臣展開係を慕

った文王と武王に至

-大王の事業を縫いだ殿の天命の終わ-は牧野の

地でやって来た「武心を抱いた-心配してはならぬ

上帝も見ておられるぞ」武王は殿に勝

ってその人民

を治めその功績は先王たちにも等しい成王は言

た「叔父周公よ

そなたの長子伯禽を立て魯園の

侯とし大いにその土地を閃かせ周室の輔けとさせ

15

中開文革報

第四十六冊

よ」と

(二章)

「関宮」全九章の

うち二幸O魯図はこの詩にも云う如-局

公の長子伯禽が封ぜられた図であり周と同族であるから

曹然周租后稜に始まる諸先王を構えているわけであるが

后稜の農業創始を

一章全部を費やして

「南の緒を鰹ぐ」と

賞揚する割には文王

武王の殿周革命に封しては素束な

い描き方である寧ろ大雅の詩篇よ-も先王の文化的功績

に重きを置-といえる

1万の宋園は肘王の庶兄微子啓が武王に封ぜられた園で

ある宋園は殿の穫柴を修め殿の習俗を堅持し績けたと

俸えられる

所詮は被征服園である自らの租先を高ら

かに賞讃することに封して何らかの政治的願力が働いたこ

とは想像に難-ない「七筈の詩が亡伏した」という商魂

譜の記事は或いはこのことに関係があるのではないか

この失われた詩の中には

西周の

「生民」

「公劉」詩の如

-殿代よ-俸わる文化神を歌う詩があったのではないか

この推測をよ-精確に検討するにはやは-宋園以外の

園に俸わった殿王朝開園神話の一つとしての楚辞

天問を

参照する必要があるそこで次章ではまず殿嘘卜辞に見え

る高組神について検討し次に楚鮮

天間の殿王朝開園を

問う部分について考察した後これらと商項とを相互に比

較することにしたい

三卜辞及び楚鮮

天問の殿王朝開園神話

卜辞は占卜のための文句を記した文字資料であ-もと

よ-神話の記録を目的としたものではない従

って殿人の

間に俸えられていた殿王朝開園の物語を卜辞によって復元

することは言うまでもな-不可能であるただそこには高

租神や先王をはじめ様々な神の名が見えてお-これを後

の時代の殿王朝開閉神話と比較することによってその神

話がどれ位原初の姿に近いかを推定することはある程度可

能である

さて殿人にとっての最高碑は周知の如-上帝であ-

卜辞にも

「帝」として見えていて風雨などの自然現象を

支配し人事に禍福をもたらす存在であることが知られて

⑲いる

16

この上帝に封しては直接条把が行なわれることはないと

い-のが通説であるが島邦男氏によれば絶無という諸で

はな-締把が行われる例が三例あるこの締紀は上帝の

みならず高租神や先王に封しても行われてお-例えば

羅振玉

『殿虚書契緯編』

一-二-

一片に

点締子王亥

貞-王亥に繭のまつ-をせんか

董作賀

『乙篇』四五四九片に

葵未卜両税乙

英未に卜す租乙に蹄のまつ-をせんか

とあることから

恐ら-張光直氏の云う如-

「殿の人びと

『帝』は先租の絶稀であ

ったかあるいは先租の観念

の1つの抽象化されたもの」

ということになろう

上帝と同様の祭紀が行われる租神の-ち「高租」と呼

ばれるのは愛

王亥の二人である

愛は変とも揮され王⑮

図経が

「暑」と塵韻であることなどを理由に帝尊と解して

以来これが定説となっているO帝聾は後の時代の文献に俸

える所では自らの文化的事業や武勇に関しては何も記さ

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

ずただ殿組契と周蔵后榎の共通の父祖であると云うだけ

であ-上帝的な存在であ

ったとするのが諸家の1致した

見解であるしかし殿代に於ては

「帝」と帝替即ち愛は区

別されている以上完全に同

一であ

ったとはいえず上帝

と人王をつなぐ役割を持つ始租神として奉られたものと思

われる前述の如-愛が抽象化したものが上帝であ-

逆に言えば上帝が人格神化したものが愛なのである

一方の王亥はどうであろうか山海経

大荒東経に

有困民国-王亥託干有易河伯僕牛有易殺王亥

取僕牛

困民国で-主

亥は有易園と河伯園に自ら飼い馴ら

した牛を預けた有易園の人は王亥を殺し牛を奪

この候の郭瑛注が引-古本竹書紀年には

殿王子亥賓干有易而淫蔦有易之君鯨臣殺而放之

是故殿主

(一作上)甲徴候師子河伯以伐有易滅之

途殺其君紹臣也

殿の王亥は有易園

へ客として赴いたが行ないが悪

- 17-

中国文学報

第四十六放

有易の君主摘臣が彼を殺してしまったそれで段

の上甲微が河伯図の軍を借-て有易を伐ちこれを滅

ぼし君主鋸臣を殺した

と記されているまた初学記撃

九引世本には

「骸が

牛を飼い馴らした」とあ-この膜も王亥であると考えら

れている少な-とも東周末期に於ては王亥が牧牛を行な

ったという俸説があったのであ-王亥を論ずる人の多-

はこれに注目し彼を殿の文化紳であると考えている

「高

租」と特別扱いされる租神の一人であることを考えれば

王亥が文化面で多大な功績を上げ原始状態から文明状態

へと殿氏族を更展させたことは十分に考えられる

もしそうであるならば前章でその存在を示唆した

「殿

の失われた文化紳」はまさにこの王亥ということになる

既に述べた如-詩経

商煩の段王朝開園神話に封しては

それと系統を異にする楚辞

天問という比較資料もあるの

であるから次にこちらの方を見てみることにしよう

fTD

天問は古来極めて錯簡の多い書と言われる

その中で

殿周開園に関する部分は比較的次第がまとまっている湯

以前の駿の先王が措かれるのは55-聖早であ-簡秋と尊

の通婿から始まっている

55簡秋在董卓何宜玄鳥致胎女何喜

筒状は高い槙童にいたが尋はどうして見そめたの

か燕が滑-物を持

ってきたのを筒状はどうして喜

んだのか

古来詩経

商頒

「玄鳥」と同じ-簡秋香卵の説話を云うも

のと解されるがこれも

「玄鳥」詩と同じ-この二句だ

けから呑卵の話を導き出すのは難しいしかしこの通解が

行なわれた高い

「董」は天地の間を繋ぐにふさわしい場所

であ-鳥が天から

「胎」を授けることなど天地通姫を

描-ことには襲わ-はない天問では上帝には

「帝」とい

う呼稀を使

ってお-ここでの

「魯」はー辞の

「愛」と同

じく上帝の人格化したものと思われる

この二句は不思議なことに簡秋と啓が誰を生んだのか全

く言わないテキストに脱落がなければ次の章の登場人

物を簡秋の子と考えるのが最も素直であろうところが次

に登場するのは

「玄王」でも

「契」でもない

18

56該乗季徳頗父是滅胡絡弊干有屈牧夫牛羊0

57干協時舞何以懐之平脅鼻膚何以肥之

58有屈牧豊云何而逢撃林先出其命何徒

壬亥はその父季の徳を縫いだが父は立涯な人であ

ったどうして王亥はとうとう有易園に落ちぶれそ

ゐ牛羊を養

っていたのかO

たて

あわ

いだ

協せて舞う女を見てど-してその女を

のか

平らかな脇腹に細やかな皮膚どうしてこの女

まじ

ったのか

王亥は有易園の牧童にどのようにして合

ったのか

寝込みを襲われて先に逃げ出したがどこから逃げ出

して助かったのか

56章の

「該」を王逸は

「竜也」と解しているが晴代に至

って王関連が人名ではないかと疑問を呈出L

t

王国経が卜

軒との対照によって王亥であると断じて以来この説が支配

的であるこの四句も前途の山海経や竹書紀年と共に王

亥が牧神であ

ったことを示すものとしてよ-引かれる57

章は難解であり注揮家ごとに説が異なると言

ってもよい

股周開園の神話と

「紳代史」(大野)

ほどであるが王亥の婚姻のことを云うとする需介甫氏

黒須重彦氏の説に徒う58章は王亥が殺されそうにな-な

がら辛-も逃れたことを云い前に引いた山海経などの所

侍と関係があるものと思われる

この三幸の記述から王亥の迫害と文化創造のモチーフを

見出すことはさほど困難なことではないし簡秋と孝によ

る殿租の神的な誕生も前章までに述べた例と同様に何ら

かの形で王亥に英雄的資質をもたらすものと考えられる

簡秋が生んだのが王亥であると断定できれば話は簡単なの

であるが56章には王亥の父としての

「季」が登場してお

り従

って天問に於ては簡狭

暑-季1王亥という系譜が

成立していたことになるしかし卜辞に見える

「季」は高

租でない租神の一人にすぎず

「高租王亥」が

「季」を父と

していたとは考え難いo

l鮭に卜解における租紳相互間の

父子関係は不明な部分が多-本来は寧ろ横

一列に並ぶ関

係であ

ってどれも

「租先」に襲わ-はないのであ-果

たした功績や役割の違いによってそれぞれに分化したもの

と考えた方がよい卜辞における

「季」の神威は他の租紳

19

中国文革報

第四十六桝

と襲わらないが

天問では尊と王亥との橋渡し的な性格に

襲わったのである

59恒乗季徳蔦得夫朴牛何徒費班緑不但遠来

王恒も李の徳を鰹ぎ王亥の養

った僕牛を得たど

あまね

はどこ

うして狩-に行

って獲物を

-

民に

ただ行

って

締るだけに止まらなかったのか

「恒」は王遠江では

「常也」と云うがこれも王国経が卜

辞に見える王恒のことであると解して以来諸家概ねこれ

に徒う「班稀」は近年の解帯では

「官位」「栄達」等に解

され

「王恒が有易図で出世しょうとした」意であるとす

るがす

っき-しない解輝であるー辞に見える王恒は

弓の形の中に

「恒」字を入れたものもあ-寧ろ

「湯は狩

-に往-際ただ行

って締るだけではな-民に編-施し

を輿えた」とする王逸注の方が原初的な意味に近いと思わ

れる但し主語は湯ではな-王恒である張光直氏は王恒

と罪に何らかの関係があるのではないかと考えるが

それ

よ-は駿人の狩猟柵であ

ったと考えた方が良いかも知れな

いただ王恒の事境を記した文献が他に存在せず容易に

結論を得難いのは残念なことである

60昏微遵述有狭不寧何繁鳥葦棟負子韓情

61絃弟遠軽危害顔見O何襲化以作許後嗣而逢長

上甲微は父王亥の事鏡を鮭ぎ有易園は安定を保て

ず滅びたどうして有易の人民は妹に止まる鳥のよう

に苦しんでいるのに上甲微はその子女にまで横暴な

ことをしたのか

目の陪んだ請弟はみな道ならぬことをしその兄上

甲微に危害を加えたのにどうしてうま-ごまかして

その子孫が長-祭えることになったのか

この二章も本づ-所がはっき-せず難解であるが「昏微」

はやは-王国経が上甲微のことであるとしてお-その事

蹟を云うものと考えられる上甲微は卜辞で系譜が明らか

な請王のうちで

一番古い租先に普た-いわば

「人王」の

租であるがここでは王亥と同様の迫害モチーフが再び現

⑳れその事鏡は既に神話化されていたものと見られる「何

襲化以作詐後嗣而逢長」の二句はそ-した神話であるが

故の不合理性を問うているのである

- 20-

62成湯東巡有等宴極何乞彼中臣而吉妃是得

63水漬之木得彼中子夫何悪之腰右筆之婦

64湯出重泉夫何皐尤不勝心伐帝夫誰使挑之

湯は東方

へ巡狩Lt有等園までやって来たど-し

てあの中臣伊声に乞い求めて良い妃を得たのか

水蓮の木から有等氏の君主は伊声を得たとい-が

どうして伊声を嫌

って湯の妃に付き添わせたのか

湯は重泉の牢獄から出て来たがそれは何の罪だっ

たのか正義を求める心を抑えられず実を伐

ったが

誰が彼をそうさせたのか

商頭における湯は夏架や尾吾氏を伐

った英雄として非常に

多-の紙幅を割いて賞揚されていたのであるが天間では

僅か三幸で終わ-しかもその年分は彼の名臣伊声のこと

に費され天下を平定した聖王にしてはかなり冷淡な描き

方である多-とも王亥や上甲微などと同等の重さしか持

っていないといえるしかしこの簡単な記述は神話的な趣

きに富んでいる伊声は呂氏春秋

本味簾で

「有佐氏の女

が空桑の中から嬰兄を得て

それを君主に献じ君主は

般周開乾の神話と

「紳代史」(大野)

料理人に彼を育てさせた」云々と書かれるような俸説をも

つがその原型とみられる記事が63章にあ-64章の

「湯

出重泉」も森安太郎氏が

「陽

(太陽神)が海の下を-ぐっ

て再び現れ出る様子」

と解したほどであるその虞偽は措

-としても

「重泉に囚われてから脱出」

というのがこれ

まで屡々登場してきた迫害1事業完成のモチーフであるこ

とは明白であ-この迫害こそ棄てられた后稜と同じ-英

雄を英雄たらしめる神話素の一つである殿人にとって湯

「人王」であったはずであるが楚人にとっての夏殿革

命は既に神話となっていた宋人にとっても同じであ

った

と思われるしかし東周時代の為政者の意識は最早神話を

古代人の如-

「心象における事資」として受け取ることを

許さなかった神話の神話たる所以である英雄の迫害も

政治家としての彼等にとっては

「不合理」以外の何もので

もな-統治強化の障碍でしかなかったであろうそれ故

その

「不合理」を宋人は頒詩から治し去-楚人は

「天に

問」うたのである東周の殿開園神話はその鮎で西周人

の神話と歴史が

一鰻になった

「神代史」であ

った詩経

21

中国文筆報

第四十六冊

雅の周王朝開園の物語とは成因がやや異な-神話そのも

のを改襲した

「神代史」であるといえよう

再び天間に戻ろうここで語られる殿王朝開園神話を綜

合すると腰租誕生1夏殿革命という流れは商頭でのそれ

とはぼ

一致するのであるが商頚では全-無税されている

王亥

王恒や上甲微の事浜を多-記している所が大いに異

なるこれらの先王は卜軒に於ても租神として柁られてお

-殊に愛

(餐)王亥は

「高租」と崇められていたのであ

るから天問における殿租誕生や牧牛創始の偉大な功績も

殿代からその根摸となるべき停東があったものと考えられ

る殿の未森たる被征服図

宋図で語られなかった文化神

が周の政治的願力が比較的少なかったであろ-楚園に於

て生き残

っていたのであ-「王亥を構える頒詩は政治的

要請によって胴去されたのではないか」という前章で捉

起した推測は更に確貴性を樹して-るのである

このように文化神を語る神話は政治的な事情によって

改襲されやすいという

一つの傾向が次第に明らかになって

きたのであるが天間に見える周王朝開園神話を詩経

雅のそれと比べてみるとその傾向は

一層はっき-する

これについては次章で検討することにしてその前に前

章で提起したもう

一つの問題即ち契と後に呼ばれるよう

になる殿紐の正鰻について卑見を示しておきたい

1般には詩経

商頒

「玄鳥」

「長顎」の鄭隻や楚鮮

天問の王逸注史記

殿本紀などから筒状が生んだ殿租

が契であるとされ詩経や楚軒の注揮家も特に疑問を抱い

ていないしかしこれまで見てきた詩経や天問には契の名

は全-見えていない国語を見ると周語下には

玄王勤商十有四世而興

玄王は商のために働き十四世かかって興起した

鄭語には商

契能和合五教以保干百姓者也

商契は五教をよ-調和させ人民を守-養

った人で

魯語上には

契為司徒而民韓-上甲微能帥契者也o

契は司徒の官となって人心を和らげ--上甲微は

22

たす

契をよ-

た人である

自玄王以及主薬莫若湯

文王から主薬

(湯の父)に至るまで湯よ-すぐれた

者はいない

とあるこれらを見ると契とい-名は周

楚以外の

園で用いられし

かも

「司徒として五教によって人心を安

定させた」という事鏡が語られている抽象的な形ではあ

るが文化面での功寮が取-上げられているのである

そうすると陳夢家氏の

「契と刻は互訓であ-共に亥

と普通である故に契は即ち王亥である」とする説が有力

な説として浮上して-るOこれまでの考察から王亥は殿

の高租にして文化所であ-従

って契というのは王亥の周

連諸国での呼び名であ-「五教」云々は王亥の文化神的

な面が周遠諸国に於て襲化したものと考えられるのである

もう

1万の

「司徒」という面に注目すると楊寛氏は

「司

徒」は

「司土」であるとして契は社紳

(土地紳)であった

と考えている「司徒」を

「司土」と表記するのは西周金文

に多-見られる用法であ-本来は土地や農業を司る官で

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

あったらしいまた史記

殿本紀には

「実は南を佐けて治

水に功があった」とあ-梁玉縄の疑う如き司馬遷の臆説

でな-古-からの停承に基づいているものであるならば

契に夏南の如き下士造成神的な面もあった可能性は捨てき

れない司土の官は農業にも関係が深いことから契は土

地神にして農神の性格をも持つことにな-このことは王

亥が牧牛の創始者であることと関係があるのかも知れない

なお尚書尭典には

帝日「乗努民阻飢o汝后榎播時百穀O」帝日

「契百姓不親五品不遜汝作司徒敬敷五教在寛」

もろもろ

舜は言った「棄よ

民は飢え苦しんでいる

汝は后頑の官とな-

この百穀を播け」と舜は言

った「契よ人民は互いに仲良-せず父子

君臣

夫婦

長幼

朋友の序に従わない汝は司徒の官とな

つつし

-五教を敬んで廉め心を寛-して治めよ」と

とあ-同じ-尚書の周官には

司徒掌邦教敷五典擾兆民

司徒は閲の教化を掌-五教を廉め多-の民を順

23

中国文畢報

第四十六肋

わせる

とあ

って司徒が教化の官であるかの如-書かれているが

これは后積が農官とされたために契は

「五教を康めた」面

のみが取-上げられそれが司徒の官名に結びついてかか

る誤解を生んだものであ-司徒の本来の意味ではないと

考えられる

周やその支配下にあった宋園では殿租に玄王という名

が使われてお-玄鳥による神的な誕生と商の興起のた

めに轟-したとい-事暁が語られる

魯園では

「契」

「玄

王」両方が見えるがー契と言う場合は文化的な功績が描か

れ玄王と言う場合は始租としての面に注目されている

恐ら-

「玄王」とは契=

王亥の始租としての面が強調され

た時の呼稀であ

ったと思われる文化人類学的にも「玄」

という名は始源の闇や滞沌を連想させるものであ-例え

ば老子

六章の

玄牝門天地板

玄牝の門(女陰)は天地寓物の根源である

の如-である

宋園や周では殿租の文化神的な面が抹殺さ

れたために始租神としての

「玄王」の呼稀が定着し魯

鄭などの周連列国では儒教的に襲化した文化神として

「契」と呼ばれ楚国では殿代の呼稀

「王亥」が原形に近

い形で保存されて

「該」と呼ばれたのであろう

四楚鮮

天問の周王朝開園神話

まず天問における殿周開園神話の大筋の流れを圏示する

と附固

一のようになる我々の常識で考えるならば夏殿

革命の次に殿のその後の衰亡を歌いそれから周王朝

へと

移る構成をとるのが普通であるが天問では夏殿革命から

いきな-周の衰亡

へと飛びそこから殿の衰亡

へと戻る間

くりかえ

「天命は

」というテーゼを挟み込んでいるこの

ような操作によってどの王朝も同じように興亡を繰-近

すというテーゼが

7層際立つのであ-

T見乱雑に見える

排列が安は高度なレトリックを用いた結果であるという

ことがわかる

次に殿周の開園が歌われている各章を時間順に並べ

かえて相互に封比してみると附圏二のようになるこの固

24

殻周開園の耐話と

「神代史」(大野)

附圃- (丸内の数字は葦の通し番競)

舜と女梱 ⑱~

「験萌在初」

1

度の先王 ~

t

夏殿革命 ~

周の先王

l

殿周革命 ⑮~cent)

iiiiia段の衰亡 ~ 周の興亡

一- 一 ノ ー「天命反側」

附圏二

段 簡秋と唇の通婚

王亥 有易で牛羊を牧す

王亥の婚姻

王亥 殺されかける

王位 王亥の牛を得る

上甲微 父の遺業を鮭ぐ

肢弟が上甲微を迫害

一寸 どうして子孫が栄えたのか」

~ 楚の興亡

周 ⑯ 后硬 氷上に捨てられる

上帝をも驚かす武勇

-「どうして子孫が栄えたのか」

成湯 伊声を得る

伊デの生い立ち

湯 壷泉から出て案を伐つ

- 25-

⑳ 文王 天命 もて段を覆す

岐山に移る殿の惑婦

文王 村の無道を天に告げる

文王 太公望を得る

武王 急いで殿を伐つ

武王の朝合

周公 武王をよしとせず

武玉 村を伐つ

中隊文革報

第四十六筋

一見して知ることができるのは周の先王には僅か二章

しか使わず殿周革命に九章も費やしてお-殿王朝の方

が租神に多-の章を割いて夏殿革命には三章しか使わな

いのと対照的であるということである

周王朝開園を云う章をもう少し詳し-見てい-と

76積維元子帝何竺之投之干水上鳥何燐之

77何漏弓挟矢殊能渚之既驚帝切激何逢長之

后稜は上帝の長子であるのに上帝はどうして彼に

危害を加えたのか彼を氷の上に捨てると鳥はどう

してこれを暖めたのか

どうして弓をひきしぼ-矢を挟みすぐれた才能で

武婿となったのか上帝をも驚かすほどひどいことを

したのにどうしてその子孫は長-栄えたのかQ

后積が上帝の子であるのに迫害され鳥によって助けられ

たというのは詩経

大雅

「生民」と同様であるが周租后

礎の両的資質を云-のみであ

って農業費明には全-解れ

られていない77章は王逸注では前二句を后稜後二句を

武王の事績とするが洪興租補注は全部を武王の事績とし

朱子はその両方を疑問であるとす

78章以下では文王の

ことを云う章が績いてお-この章を武王の事虞とする課

には従えない聞

多や衰珂

氏は全部を后頑の事鏡とする

が必ずしも后榎に限定することはできない少な-とも

古公以前の

「神代」の先王のうちの誰かであることは確か

であろう後二句の

「上帝をも驚かすようなことをしなが

らどうして子孫が栄えたのか」という疑問が殿の租神と

「人王」の境目である上甲微を語る61章の後二句と似るか

らである周の先王を歌うのはこの二幸で終わ-であ-

そこでは先王たちの文化的功績は全-歌われておらず殿

の先王に比べて極めて冷淡な扱いである

78章以下は殿周革命にまつわる様々の問が寛せられるが

詩経

大雅に見えておらずまた考古学的な裏付けもない

俸説的な事件もい-つか見えているとはいえ神話的な奇

怪さには乏しいといえる0

79遷蔵就岐何能依O殻有感婦何所説

貴職していた重器を移して岐山にやって充たがどう

して人民がそれに従

ったのか殿には人を舷惑させる

26

女がいたというが何のために議話しょうとしたのか

前句についてはこれを文王に懸ける説

大王に懸ける課

あるが前後で文王のことを歌

っているので大王の事蹟と

するのには難があるとはいえその内容は詩経

大雅

「崩」

に云う古公宜父の事鏡に近-どちらに限定することもで

きない「大王から文王までの問」とする他ないであろ-

後二句は肘の妃である坦己を云うとされるがその何につ

いて問うているのかは明らかではないしかし両者とも

その

「答」となるべき俸説がこの時代に前後して現れてお

-前者については

1章で引いた孟子

染着王下後者に

ついては太平御覧奄

1三五引世本に

「村が有蘇氏を伐

った

時有蘇氏は坦己を妃にさし出した肘はこれを愛して言

うことを何でも聞いたために武王が肘もろとも殺した

云うのがこれに普たる

66到峯村窮叔旦不嘉O何親撰車足周之命以各嵯

肘の首をはねるに至-周公且はこれをよしとしな

かったどうして周自ら謀

って殿を討とうとしたのに

その行動は人民に支持されたのか

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

後二句は極めて難解であるがいま黒須重彦氏の解樺に従

う他の諸家にはテキストの文字操作で意味を通らせよ-

とする者も多い前二句を王逸は

「武王の舟に白魚が飛び

込んだので群臣が

『吉兆だ』と言ったのに封Lt周公が

『吉兆ではあるが吉兆と思

ってはならぬ』と戒めたことを

云う

と解しているがこれは史記

周本紀の記事を敦術

したものであって漢初の五行思想の産物である寧ろ所

謂伯夷

叔奔停説の前駆形と考えた方がよい

ここに引いた事件が果たして史寛であ

ったのか西周時

代に生まれた俸説か或いは東周以後の俸説であるのかは

容易に判断できないしかしいずれにしても西周人の

「神

代史」からは無税されていた事件が本来の形ではないに

しても再び記録される動きをここに見ることができるので

あ-結語で述べる

「神代史の再神話化」の萌芽であると

いえるO

このような新しい動きはあるものの天問の周開園神話

も始祖の神的誕生1英雄的事業の達成という基本的な構造

には全-襲わ-はないしかし全鰻を通じて諸王の文化的

27

中閲文革報

第四十六筋

功績には全-解れられていないばか-か周の先王=

租秤

に封しても極めて冷淡であ-殿に封する態度とは明らか

に異な

っているのである

このことは昔時の楚園が周文化よ-も殿文化の方により

親しみその信仰

習俗等を保持していたことの一つの讃

接であろう楚文化と殻文化の関係の深さは既に様々な面

から指摘されてお-例えば楚辞

九歌に見える「雲中君」

「河伯」の神がト辞にも

「雲」「河」神として見えているこ

とや西周末期のものと見られる楚の青銅鐘は殿の鍔と形

が似てお-その銘文も殿金文に似た雄滞な書鰻であるこ

とな

どが挙げられるこのよ-な現象が生じた過程として

は(一)歴代から楚は殿に臣屈してその文化を受け入れ

周の時代になっても表向きは周に臣属しながらも殿の文化

を保持し績けた(二)周代以後に国力を埼大した楚園は

への対抗上その文化を拒み隣接する宋園の殿文化を積

極的に導入したという二つの説が考えられる前者の立

場を取る者はその根接として詩経

商頒

「殿武」の

撞彼殿武奮伐剰楚突入其阻衷利之放有戟其

所湯孫之緒(一章)

敏疾なる武丁は奮起して剤楚を伐ち険しい山地

に攻め入って刑楚の兵士を虜にしその地を平げ

湯王の子孫として手柄を立てた

という部分を畢げることが多い

前述の如-商頭目鰻が

宋園の楚国

への対抗心から作られたものであ-我が国の

紳功皇后遠征説話と同じ-どこまで史寛を反映している

かは未知数であるしかも卜辞などの殿代の地下資料から

は昔時の殿楚関係を示すものはまだ見つかっていない

一方後者については史記

楚世家に周の夷王の時に

楚王熊粟が

「我は牽夷な-中国の詮親に興らず」と言っ

たという記事もあ-現時鮎ではこちらの説の方が有力で

あると思われるいずれにしても周とは言語や風土を異

にする楚閲で生まれた天問には意固したか否かはともか

-周文化の重税と殿文化

への傾斜が讃み取れるのであ-

周王朝側の論理で殿の文化碑の功績を壷-抹殺された詩経

商頭や周の文化神を構える詩経

大雅とは好封照を見

せているのである

28

結語及び除論

これまで述べ来

ったことを要約すると詩経や楚辞

問に見える殿周開園神話は始租の所的誕生1迫害1事業

(文化創造

天下統

一)の完遂という構造を持ち既に西洋

の英雄神話に於て指摘されている基本構造をここにも見出

すことができるただ西洋では

一人で行なわれることが多

い英雄としての事業が中国では教代に亙

って行なわれる

ことが多いという違いはあるところが殿の開園と周の

開園また詩経と天問の相互間で詳し-比較してみると

神々の文化的功績は神話が記録された常時の政治的な事情

によって抹殺されることがあるという事資に束づ-この

ことは中国に於ては剣を振るって活躍する英雄よ-も

文化を創始する

「聖王」の方が重きをなしてお-氏族や

国の威光を左右するものであ

ったということの一つの謹左

といえよう

詩経

大雅における周王朝開園神話は高租にして文化

神である后稜-公劉を神話的要素に富む叙事詩によって語

段周開園の紳話と

「神代史」(大野)

っているが

「人王」の代に至ると

殊に王李に新著に見

られる如-諸王にとってマイナスイメージを輿えかねな

い史寛は壷-制去され武力革命の成功を

「神代」から引

き継がれた輝かしい事業として稀讃している周王朝の開

園神話とそれに績-殿周革命の史糞は詩が記録されるま

での間に

「神代史」

へ改愛されたのであるそこに支配強

化のための王室神聖化という高度な政治的意圏が働いてい

るのは確資であろう

段の遺民の園である春秋の宋園における段王朝開園神話

詩経

商項の諸篇は最終的には周王朝側の人々によって

記録

編輯されたものであ-それ故殿人の信仰した文化

紳は義-抹殺され支配者としての周王朝の論理に基づ-

「神代史」に改変されているOそれに封して楚辞

天問の

殻王朝開園神話には卜辞にも見える租紳たちの神話的雰囲

気に富む物語が多-残

ってお-逆に天問の周王朝開園神

話では周の先王の文化的功績を無税していて宋国との政

治的

風土的立場の違いを明瞭に浮かび上がらせているの

である

- 29-

中国文学報

第四十六筋

か-の如-

神話時代やそれに績-歴史が為政者の手に

よって

「神話化」される場合は中開の諸秤の中で重い比

重を占める文化神が記録者の政治的立場に従

って改奨され

「人王」に封しては

「都合の悪い」史貴を切-捨てて

「神

代史」

へと仕立てられるのであるが東周時代になるとそ

れとは逆に「人王」にも神話素の一つとして解揮可能な俸

説が様々な書物に記録されるようになる既に引用した文

王の安里幽閉

伯夷

叔斉の餓死などがそれであ-

「人

王」の物語もこれによって組両と同様の典型的神話

へ近づ

いてい-のであるこれらが記録されたのは諸子百家の書

物であ-昔時の遊説家たちが民間に流布していた停説を

敬-上げて自説を述べるために用いたものと考えられる

これらの停説が古い形をそのまま保

っているか否かは全-

保護がないとはいえ政治力撃の働きに-いレベルに於て

「神代史」に再び神話的物語が付け加えられるようにな

たということはいえるいわば

「神代史の再神話化」であ

-

1般に

「中国古代王朝神話」として

1つの物語にまと

められているのはこうして

「再神話化」された結果の産物

なのであるこれらは確かに

「神話」としての要素を豊富

に含んでいるのであるがこれを中国古代神話の原型と見

なすことは不可能であ-上述の如-複雑な要因が絡み合

っているのである

こうして

「神代史」はたとえ元の形とは異なるにせよ

再び

「神話」としての光彩を放ち始めたところがこの

「神話」をまたも

「歴史」に固定してしまったのが他なら

ぬ史蓬であることは周知の通-である

しかし

「神代史の再神話化」の原動力とな

った

民間

に語-経がれた王朝停説のエネルギーもこれで絡恨したわ

けではなかったこうしたエネルギーはその後も小説に記

録された種々の歴史俸説などを生み出し形を襲えて生き

績けたのである

ところでこれまで本文中に取-上げなかった

一つの重

要な問題があるそれは

「楚園に古-から停わる楚人自身

の神々はど-な

っていたのか」という問題である

楚辞

天問にはその末尾に楚図の俸説と思われるものが

記されてはいるが多-の注帯家が匙を投げているはど難

30

解であ-筆者も今敢えてこれに挑戦するほどの飴裕はな

いoしかし離騒ではその冒頭で「私は帝高陽の未森である」

と歌

ってお-少な-とも屈原の時代では楚人は穎頭高陽

氏を租神としていたと考えられているが文化神に関する

記述は見えない

一方同じ頃に楚園で成立したと考えら

れている山海経

大荒西経には街頭の子孫の神々の事業

が豊富に記されている例えば重

寮の天地分離

太子長

琴の音禁孝明などである

これらの事章から得られる

一つの推測をここで述べると

楚辞に於ては楚人自らの文化両を表立

って取-上げられな

い事情があ

ったものと思われる楚語で書かれた「原楚鮮」

には書かれていたがそれを漢語に翻弄した際に宋図か

ら導入した殿の文化神に置き換えたのかも知れないそし

て自らの文化紳とその物語を速い

「大荒」の物語として

カムフラージ

ュしたのが他ならぬ山海経なのではなかろ-

かこの書が地理書の形をとっていることや他書に見ら

れない神話停説を豊富に載せていることなどは丁度我が

国の

『出雲園風土記』を思わせるものがあるまた殿の

殿周開国の神話と「神代史」(大野)

文化紳王亥が

「困民国」の人とな

っていた-楚の租神で

あるはずの蘭頂が

「額頭囲」なる図にいたとされているこ

となどもこの仮説の根嬢となろう

しかし最早紙幅も轟きているこの問題は山海経を中心

として改めて考察することにしたい

ば織井慶紀著池田末利編

『中図神話の文化人類学的

研究』(1九九〇平河出版社)があるoまたユング心理学の

立場から日本神話を分析したものとして河合隼雄

『中空構

造日本の深層』(一九八二中央公論社)等がある

近世以前の諸席の議論は専らこの怪異雫が信ずるに足るか

否かの次元に終始するが近代的な研究としては聞一多

「萎

娠履大人跡考」(『聞一多全集』第一射一九四八開明書店)

白鳥清

「段周感生神話の解揮」(『東洋学報』十五巷四親tT

九二五東洋協合学術調査部)出石誠彦

「上代支部の異常

出生説話について」(『支那神話俸説の研究』所収tl九四三

中央公論社)等がある

「帝上帝也」

「帝高華氏之帝也従於帝而見干天婿事賛敏也」

孔疏に

「頑柁郊礁之時英夫高辛氏帝率興供行妻娠随帝之

後践履帝迩行事敬而敏疾放鳥神歌饗紳既饗其条則

31

中国文筆報

第四十六筋

愛而拓之

於是為天神所美大為福緑所依止twz=得懐任則

震動而有身」と云う

例えば嗣西族の

『東巴控』に見える縛文字にこのことが窺

える附固三参照また河南省に俸わるロ東俸説によると

女桐が天から降ってきて伏義が地下から出てきたと云う

(陶陽

鍾秀

『中国創世神話』一九八九上海人民出版社二

一四頁)

附圏三

primeJ 一一一

~PJ虹互L

LJL

堅 室④

上部の 一へ は天下部の 皿 は大地を

表す圃①は中間に天地交合の気がありこれ

より荷物が生ずる固②の中間は蛙で天地交

合後の襲化を表す圃⑨では天地の間に男が上

女が下になっており男女の交合と同様にして

天地が人類を生んだことを表す

(陶陽 鍾秀 『中国創世神話』214頁)

「惟虞東学詩云人之初生皆裂胎而出騒失所依故堕地

郎帝惟羊連胞而下共産猪易故詩以

『如達』馬比o又常

熟陶太常元淳日凡嬰兄在母腹中皆有皮以豪之俗所謂胞

衣也生時其衣先破兄鰻手足少蔚放生之難O惟羊子之生

胸仇完具堕地而後母篤破之故共生易o后硬生時蓋戒於胸

中形鮭末露有如羊子之生者放言

『加速』今按前二説

是也下言

『不味不副』蓋謂其胞衣之不折裂也」(『毛詩俸

集通帯』巷二十五)

「徐君宮人娠而生卵以箆不詳秀之水演O猪孤母有犬名

鵠蒼へ猟干水溝へ得所弄卵衝以東蹄猪孤母以馬具凍俊

之逐沸成見生時正値へ故以為名徐君宮中聞之乃更録

取長而仁智襲君徐固」(博物志

異聞篇引徐値王志)

「高句凝着其先出自克明東明本北夷嚢離王子離王出

行其侍兄於後任娠離王達欲殺之侍見目『前見天上

有菊如大鶏子乗降我困以有嫉』王囚之後連生男玉

置之家牢家以口束嘘束不死o王以為所乃聴収養」(梁

諸夷俸)

北欧や古代

ハンガリー等に見られる豊富な例がKケレ-

ニイtCGユング

『神話撃入門』

一九五1(杉浦忠夫訳

1九七五晶文社)に引かれている

例えば壮族に俸わる

「種子と犬の尾」の物語では人々

「九尾狗」に天上の穀物を盗みに行かせたところ穀物を

九本の尾に-つつけて蹄ろ-としたところを番人に見つか-

八本の尾を叩き切られたが残-

1本の尾に穀物をつけて逃げ

師-人間は農業ができるようになったと云う

(陶陽

秀前掲書二七九頁)

32

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 17: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

中開文革報

第四十六冊

よ」と

(二章)

「関宮」全九章の

うち二幸O魯図はこの詩にも云う如-局

公の長子伯禽が封ぜられた図であり周と同族であるから

曹然周租后稜に始まる諸先王を構えているわけであるが

后稜の農業創始を

一章全部を費やして

「南の緒を鰹ぐ」と

賞揚する割には文王

武王の殿周革命に封しては素束な

い描き方である寧ろ大雅の詩篇よ-も先王の文化的功績

に重きを置-といえる

1万の宋園は肘王の庶兄微子啓が武王に封ぜられた園で

ある宋園は殿の穫柴を修め殿の習俗を堅持し績けたと

俸えられる

所詮は被征服園である自らの租先を高ら

かに賞讃することに封して何らかの政治的願力が働いたこ

とは想像に難-ない「七筈の詩が亡伏した」という商魂

譜の記事は或いはこのことに関係があるのではないか

この失われた詩の中には

西周の

「生民」

「公劉」詩の如

-殿代よ-俸わる文化神を歌う詩があったのではないか

この推測をよ-精確に検討するにはやは-宋園以外の

園に俸わった殿王朝開園神話の一つとしての楚辞

天問を

参照する必要があるそこで次章ではまず殿嘘卜辞に見え

る高組神について検討し次に楚鮮

天間の殿王朝開園を

問う部分について考察した後これらと商項とを相互に比

較することにしたい

三卜辞及び楚鮮

天問の殿王朝開園神話

卜辞は占卜のための文句を記した文字資料であ-もと

よ-神話の記録を目的としたものではない従

って殿人の

間に俸えられていた殿王朝開園の物語を卜辞によって復元

することは言うまでもな-不可能であるただそこには高

租神や先王をはじめ様々な神の名が見えてお-これを後

の時代の殿王朝開閉神話と比較することによってその神

話がどれ位原初の姿に近いかを推定することはある程度可

能である

さて殿人にとっての最高碑は周知の如-上帝であ-

卜辞にも

「帝」として見えていて風雨などの自然現象を

支配し人事に禍福をもたらす存在であることが知られて

⑲いる

16

この上帝に封しては直接条把が行なわれることはないと

い-のが通説であるが島邦男氏によれば絶無という諸で

はな-締把が行われる例が三例あるこの締紀は上帝の

みならず高租神や先王に封しても行われてお-例えば

羅振玉

『殿虚書契緯編』

一-二-

一片に

点締子王亥

貞-王亥に繭のまつ-をせんか

董作賀

『乙篇』四五四九片に

葵未卜両税乙

英未に卜す租乙に蹄のまつ-をせんか

とあることから

恐ら-張光直氏の云う如-

「殿の人びと

『帝』は先租の絶稀であ

ったかあるいは先租の観念

の1つの抽象化されたもの」

ということになろう

上帝と同様の祭紀が行われる租神の-ち「高租」と呼

ばれるのは愛

王亥の二人である

愛は変とも揮され王⑮

図経が

「暑」と塵韻であることなどを理由に帝尊と解して

以来これが定説となっているO帝聾は後の時代の文献に俸

える所では自らの文化的事業や武勇に関しては何も記さ

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

ずただ殿組契と周蔵后榎の共通の父祖であると云うだけ

であ-上帝的な存在であ

ったとするのが諸家の1致した

見解であるしかし殿代に於ては

「帝」と帝替即ち愛は区

別されている以上完全に同

一であ

ったとはいえず上帝

と人王をつなぐ役割を持つ始租神として奉られたものと思

われる前述の如-愛が抽象化したものが上帝であ-

逆に言えば上帝が人格神化したものが愛なのである

一方の王亥はどうであろうか山海経

大荒東経に

有困民国-王亥託干有易河伯僕牛有易殺王亥

取僕牛

困民国で-主

亥は有易園と河伯園に自ら飼い馴ら

した牛を預けた有易園の人は王亥を殺し牛を奪

この候の郭瑛注が引-古本竹書紀年には

殿王子亥賓干有易而淫蔦有易之君鯨臣殺而放之

是故殿主

(一作上)甲徴候師子河伯以伐有易滅之

途殺其君紹臣也

殿の王亥は有易園

へ客として赴いたが行ないが悪

- 17-

中国文学報

第四十六放

有易の君主摘臣が彼を殺してしまったそれで段

の上甲微が河伯図の軍を借-て有易を伐ちこれを滅

ぼし君主鋸臣を殺した

と記されているまた初学記撃

九引世本には

「骸が

牛を飼い馴らした」とあ-この膜も王亥であると考えら

れている少な-とも東周末期に於ては王亥が牧牛を行な

ったという俸説があったのであ-王亥を論ずる人の多-

はこれに注目し彼を殿の文化紳であると考えている

「高

租」と特別扱いされる租神の一人であることを考えれば

王亥が文化面で多大な功績を上げ原始状態から文明状態

へと殿氏族を更展させたことは十分に考えられる

もしそうであるならば前章でその存在を示唆した

「殿

の失われた文化紳」はまさにこの王亥ということになる

既に述べた如-詩経

商煩の段王朝開園神話に封しては

それと系統を異にする楚辞

天問という比較資料もあるの

であるから次にこちらの方を見てみることにしよう

fTD

天問は古来極めて錯簡の多い書と言われる

その中で

殿周開園に関する部分は比較的次第がまとまっている湯

以前の駿の先王が措かれるのは55-聖早であ-簡秋と尊

の通婿から始まっている

55簡秋在董卓何宜玄鳥致胎女何喜

筒状は高い槙童にいたが尋はどうして見そめたの

か燕が滑-物を持

ってきたのを筒状はどうして喜

んだのか

古来詩経

商頒

「玄鳥」と同じ-簡秋香卵の説話を云うも

のと解されるがこれも

「玄鳥」詩と同じ-この二句だ

けから呑卵の話を導き出すのは難しいしかしこの通解が

行なわれた高い

「董」は天地の間を繋ぐにふさわしい場所

であ-鳥が天から

「胎」を授けることなど天地通姫を

描-ことには襲わ-はない天問では上帝には

「帝」とい

う呼稀を使

ってお-ここでの

「魯」はー辞の

「愛」と同

じく上帝の人格化したものと思われる

この二句は不思議なことに簡秋と啓が誰を生んだのか全

く言わないテキストに脱落がなければ次の章の登場人

物を簡秋の子と考えるのが最も素直であろうところが次

に登場するのは

「玄王」でも

「契」でもない

18

56該乗季徳頗父是滅胡絡弊干有屈牧夫牛羊0

57干協時舞何以懐之平脅鼻膚何以肥之

58有屈牧豊云何而逢撃林先出其命何徒

壬亥はその父季の徳を縫いだが父は立涯な人であ

ったどうして王亥はとうとう有易園に落ちぶれそ

ゐ牛羊を養

っていたのかO

たて

あわ

いだ

協せて舞う女を見てど-してその女を

のか

平らかな脇腹に細やかな皮膚どうしてこの女

まじ

ったのか

王亥は有易園の牧童にどのようにして合

ったのか

寝込みを襲われて先に逃げ出したがどこから逃げ出

して助かったのか

56章の

「該」を王逸は

「竜也」と解しているが晴代に至

って王関連が人名ではないかと疑問を呈出L

t

王国経が卜

軒との対照によって王亥であると断じて以来この説が支配

的であるこの四句も前途の山海経や竹書紀年と共に王

亥が牧神であ

ったことを示すものとしてよ-引かれる57

章は難解であり注揮家ごとに説が異なると言

ってもよい

股周開園の神話と

「紳代史」(大野)

ほどであるが王亥の婚姻のことを云うとする需介甫氏

黒須重彦氏の説に徒う58章は王亥が殺されそうにな-な

がら辛-も逃れたことを云い前に引いた山海経などの所

侍と関係があるものと思われる

この三幸の記述から王亥の迫害と文化創造のモチーフを

見出すことはさほど困難なことではないし簡秋と孝によ

る殿租の神的な誕生も前章までに述べた例と同様に何ら

かの形で王亥に英雄的資質をもたらすものと考えられる

簡秋が生んだのが王亥であると断定できれば話は簡単なの

であるが56章には王亥の父としての

「季」が登場してお

り従

って天問に於ては簡狭

暑-季1王亥という系譜が

成立していたことになるしかし卜辞に見える

「季」は高

租でない租神の一人にすぎず

「高租王亥」が

「季」を父と

していたとは考え難いo

l鮭に卜解における租紳相互間の

父子関係は不明な部分が多-本来は寧ろ横

一列に並ぶ関

係であ

ってどれも

「租先」に襲わ-はないのであ-果

たした功績や役割の違いによってそれぞれに分化したもの

と考えた方がよい卜辞における

「季」の神威は他の租紳

19

中国文革報

第四十六桝

と襲わらないが

天問では尊と王亥との橋渡し的な性格に

襲わったのである

59恒乗季徳蔦得夫朴牛何徒費班緑不但遠来

王恒も李の徳を鰹ぎ王亥の養

った僕牛を得たど

あまね

はどこ

うして狩-に行

って獲物を

-

民に

ただ行

って

締るだけに止まらなかったのか

「恒」は王遠江では

「常也」と云うがこれも王国経が卜

辞に見える王恒のことであると解して以来諸家概ねこれ

に徒う「班稀」は近年の解帯では

「官位」「栄達」等に解

され

「王恒が有易図で出世しょうとした」意であるとす

るがす

っき-しない解輝であるー辞に見える王恒は

弓の形の中に

「恒」字を入れたものもあ-寧ろ

「湯は狩

-に往-際ただ行

って締るだけではな-民に編-施し

を輿えた」とする王逸注の方が原初的な意味に近いと思わ

れる但し主語は湯ではな-王恒である張光直氏は王恒

と罪に何らかの関係があるのではないかと考えるが

それ

よ-は駿人の狩猟柵であ

ったと考えた方が良いかも知れな

いただ王恒の事境を記した文献が他に存在せず容易に

結論を得難いのは残念なことである

60昏微遵述有狭不寧何繁鳥葦棟負子韓情

61絃弟遠軽危害顔見O何襲化以作許後嗣而逢長

上甲微は父王亥の事鏡を鮭ぎ有易園は安定を保て

ず滅びたどうして有易の人民は妹に止まる鳥のよう

に苦しんでいるのに上甲微はその子女にまで横暴な

ことをしたのか

目の陪んだ請弟はみな道ならぬことをしその兄上

甲微に危害を加えたのにどうしてうま-ごまかして

その子孫が長-祭えることになったのか

この二章も本づ-所がはっき-せず難解であるが「昏微」

はやは-王国経が上甲微のことであるとしてお-その事

蹟を云うものと考えられる上甲微は卜辞で系譜が明らか

な請王のうちで

一番古い租先に普た-いわば

「人王」の

租であるがここでは王亥と同様の迫害モチーフが再び現

⑳れその事鏡は既に神話化されていたものと見られる「何

襲化以作詐後嗣而逢長」の二句はそ-した神話であるが

故の不合理性を問うているのである

- 20-

62成湯東巡有等宴極何乞彼中臣而吉妃是得

63水漬之木得彼中子夫何悪之腰右筆之婦

64湯出重泉夫何皐尤不勝心伐帝夫誰使挑之

湯は東方

へ巡狩Lt有等園までやって来たど-し

てあの中臣伊声に乞い求めて良い妃を得たのか

水蓮の木から有等氏の君主は伊声を得たとい-が

どうして伊声を嫌

って湯の妃に付き添わせたのか

湯は重泉の牢獄から出て来たがそれは何の罪だっ

たのか正義を求める心を抑えられず実を伐

ったが

誰が彼をそうさせたのか

商頭における湯は夏架や尾吾氏を伐

った英雄として非常に

多-の紙幅を割いて賞揚されていたのであるが天間では

僅か三幸で終わ-しかもその年分は彼の名臣伊声のこと

に費され天下を平定した聖王にしてはかなり冷淡な描き

方である多-とも王亥や上甲微などと同等の重さしか持

っていないといえるしかしこの簡単な記述は神話的な趣

きに富んでいる伊声は呂氏春秋

本味簾で

「有佐氏の女

が空桑の中から嬰兄を得て

それを君主に献じ君主は

般周開乾の神話と

「紳代史」(大野)

料理人に彼を育てさせた」云々と書かれるような俸説をも

つがその原型とみられる記事が63章にあ-64章の

「湯

出重泉」も森安太郎氏が

「陽

(太陽神)が海の下を-ぐっ

て再び現れ出る様子」

と解したほどであるその虞偽は措

-としても

「重泉に囚われてから脱出」

というのがこれ

まで屡々登場してきた迫害1事業完成のモチーフであるこ

とは明白であ-この迫害こそ棄てられた后稜と同じ-英

雄を英雄たらしめる神話素の一つである殿人にとって湯

「人王」であったはずであるが楚人にとっての夏殿革

命は既に神話となっていた宋人にとっても同じであ

った

と思われるしかし東周時代の為政者の意識は最早神話を

古代人の如-

「心象における事資」として受け取ることを

許さなかった神話の神話たる所以である英雄の迫害も

政治家としての彼等にとっては

「不合理」以外の何もので

もな-統治強化の障碍でしかなかったであろうそれ故

その

「不合理」を宋人は頒詩から治し去-楚人は

「天に

問」うたのである東周の殿開園神話はその鮎で西周人

の神話と歴史が

一鰻になった

「神代史」であ

った詩経

21

中国文筆報

第四十六冊

雅の周王朝開園の物語とは成因がやや異な-神話そのも

のを改襲した

「神代史」であるといえよう

再び天間に戻ろうここで語られる殿王朝開園神話を綜

合すると腰租誕生1夏殿革命という流れは商頭でのそれ

とはぼ

一致するのであるが商頚では全-無税されている

王亥

王恒や上甲微の事浜を多-記している所が大いに異

なるこれらの先王は卜軒に於ても租神として柁られてお

-殊に愛

(餐)王亥は

「高租」と崇められていたのであ

るから天問における殿租誕生や牧牛創始の偉大な功績も

殿代からその根摸となるべき停東があったものと考えられ

る殿の未森たる被征服図

宋図で語られなかった文化神

が周の政治的願力が比較的少なかったであろ-楚園に於

て生き残

っていたのであ-「王亥を構える頒詩は政治的

要請によって胴去されたのではないか」という前章で捉

起した推測は更に確貴性を樹して-るのである

このように文化神を語る神話は政治的な事情によって

改襲されやすいという

一つの傾向が次第に明らかになって

きたのであるが天間に見える周王朝開園神話を詩経

雅のそれと比べてみるとその傾向は

一層はっき-する

これについては次章で検討することにしてその前に前

章で提起したもう

一つの問題即ち契と後に呼ばれるよう

になる殿紐の正鰻について卑見を示しておきたい

1般には詩経

商頒

「玄鳥」

「長顎」の鄭隻や楚鮮

天問の王逸注史記

殿本紀などから筒状が生んだ殿租

が契であるとされ詩経や楚軒の注揮家も特に疑問を抱い

ていないしかしこれまで見てきた詩経や天問には契の名

は全-見えていない国語を見ると周語下には

玄王勤商十有四世而興

玄王は商のために働き十四世かかって興起した

鄭語には商

契能和合五教以保干百姓者也

商契は五教をよ-調和させ人民を守-養

った人で

魯語上には

契為司徒而民韓-上甲微能帥契者也o

契は司徒の官となって人心を和らげ--上甲微は

22

たす

契をよ-

た人である

自玄王以及主薬莫若湯

文王から主薬

(湯の父)に至るまで湯よ-すぐれた

者はいない

とあるこれらを見ると契とい-名は周

楚以外の

園で用いられし

かも

「司徒として五教によって人心を安

定させた」という事鏡が語られている抽象的な形ではあ

るが文化面での功寮が取-上げられているのである

そうすると陳夢家氏の

「契と刻は互訓であ-共に亥

と普通である故に契は即ち王亥である」とする説が有力

な説として浮上して-るOこれまでの考察から王亥は殿

の高租にして文化所であ-従

って契というのは王亥の周

連諸国での呼び名であ-「五教」云々は王亥の文化神的

な面が周遠諸国に於て襲化したものと考えられるのである

もう

1万の

「司徒」という面に注目すると楊寛氏は

「司

徒」は

「司土」であるとして契は社紳

(土地紳)であった

と考えている「司徒」を

「司土」と表記するのは西周金文

に多-見られる用法であ-本来は土地や農業を司る官で

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

あったらしいまた史記

殿本紀には

「実は南を佐けて治

水に功があった」とあ-梁玉縄の疑う如き司馬遷の臆説

でな-古-からの停承に基づいているものであるならば

契に夏南の如き下士造成神的な面もあった可能性は捨てき

れない司土の官は農業にも関係が深いことから契は土

地神にして農神の性格をも持つことにな-このことは王

亥が牧牛の創始者であることと関係があるのかも知れない

なお尚書尭典には

帝日「乗努民阻飢o汝后榎播時百穀O」帝日

「契百姓不親五品不遜汝作司徒敬敷五教在寛」

もろもろ

舜は言った「棄よ

民は飢え苦しんでいる

汝は后頑の官とな-

この百穀を播け」と舜は言

った「契よ人民は互いに仲良-せず父子

君臣

夫婦

長幼

朋友の序に従わない汝は司徒の官とな

つつし

-五教を敬んで廉め心を寛-して治めよ」と

とあ-同じ-尚書の周官には

司徒掌邦教敷五典擾兆民

司徒は閲の教化を掌-五教を廉め多-の民を順

23

中国文畢報

第四十六肋

わせる

とあ

って司徒が教化の官であるかの如-書かれているが

これは后積が農官とされたために契は

「五教を康めた」面

のみが取-上げられそれが司徒の官名に結びついてかか

る誤解を生んだものであ-司徒の本来の意味ではないと

考えられる

周やその支配下にあった宋園では殿租に玄王という名

が使われてお-玄鳥による神的な誕生と商の興起のた

めに轟-したとい-事暁が語られる

魯園では

「契」

「玄

王」両方が見えるがー契と言う場合は文化的な功績が描か

れ玄王と言う場合は始租としての面に注目されている

恐ら-

「玄王」とは契=

王亥の始租としての面が強調され

た時の呼稀であ

ったと思われる文化人類学的にも「玄」

という名は始源の闇や滞沌を連想させるものであ-例え

ば老子

六章の

玄牝門天地板

玄牝の門(女陰)は天地寓物の根源である

の如-である

宋園や周では殿租の文化神的な面が抹殺さ

れたために始租神としての

「玄王」の呼稀が定着し魯

鄭などの周連列国では儒教的に襲化した文化神として

「契」と呼ばれ楚国では殿代の呼稀

「王亥」が原形に近

い形で保存されて

「該」と呼ばれたのであろう

四楚鮮

天問の周王朝開園神話

まず天問における殿周開園神話の大筋の流れを圏示する

と附固

一のようになる我々の常識で考えるならば夏殿

革命の次に殿のその後の衰亡を歌いそれから周王朝

へと

移る構成をとるのが普通であるが天問では夏殿革命から

いきな-周の衰亡

へと飛びそこから殿の衰亡

へと戻る間

くりかえ

「天命は

」というテーゼを挟み込んでいるこの

ような操作によってどの王朝も同じように興亡を繰-近

すというテーゼが

7層際立つのであ-

T見乱雑に見える

排列が安は高度なレトリックを用いた結果であるという

ことがわかる

次に殿周の開園が歌われている各章を時間順に並べ

かえて相互に封比してみると附圏二のようになるこの固

24

殻周開園の耐話と

「神代史」(大野)

附圃- (丸内の数字は葦の通し番競)

舜と女梱 ⑱~

「験萌在初」

1

度の先王 ~

t

夏殿革命 ~

周の先王

l

殿周革命 ⑮~cent)

iiiiia段の衰亡 ~ 周の興亡

一- 一 ノ ー「天命反側」

附圏二

段 簡秋と唇の通婚

王亥 有易で牛羊を牧す

王亥の婚姻

王亥 殺されかける

王位 王亥の牛を得る

上甲微 父の遺業を鮭ぐ

肢弟が上甲微を迫害

一寸 どうして子孫が栄えたのか」

~ 楚の興亡

周 ⑯ 后硬 氷上に捨てられる

上帝をも驚かす武勇

-「どうして子孫が栄えたのか」

成湯 伊声を得る

伊デの生い立ち

湯 壷泉から出て案を伐つ

- 25-

⑳ 文王 天命 もて段を覆す

岐山に移る殿の惑婦

文王 村の無道を天に告げる

文王 太公望を得る

武王 急いで殿を伐つ

武王の朝合

周公 武王をよしとせず

武玉 村を伐つ

中隊文革報

第四十六筋

一見して知ることができるのは周の先王には僅か二章

しか使わず殿周革命に九章も費やしてお-殿王朝の方

が租神に多-の章を割いて夏殿革命には三章しか使わな

いのと対照的であるということである

周王朝開園を云う章をもう少し詳し-見てい-と

76積維元子帝何竺之投之干水上鳥何燐之

77何漏弓挟矢殊能渚之既驚帝切激何逢長之

后稜は上帝の長子であるのに上帝はどうして彼に

危害を加えたのか彼を氷の上に捨てると鳥はどう

してこれを暖めたのか

どうして弓をひきしぼ-矢を挟みすぐれた才能で

武婿となったのか上帝をも驚かすほどひどいことを

したのにどうしてその子孫は長-栄えたのかQ

后積が上帝の子であるのに迫害され鳥によって助けられ

たというのは詩経

大雅

「生民」と同様であるが周租后

礎の両的資質を云-のみであ

って農業費明には全-解れ

られていない77章は王逸注では前二句を后稜後二句を

武王の事績とするが洪興租補注は全部を武王の事績とし

朱子はその両方を疑問であるとす

78章以下では文王の

ことを云う章が績いてお-この章を武王の事虞とする課

には従えない聞

多や衰珂

氏は全部を后頑の事鏡とする

が必ずしも后榎に限定することはできない少な-とも

古公以前の

「神代」の先王のうちの誰かであることは確か

であろう後二句の

「上帝をも驚かすようなことをしなが

らどうして子孫が栄えたのか」という疑問が殿の租神と

「人王」の境目である上甲微を語る61章の後二句と似るか

らである周の先王を歌うのはこの二幸で終わ-であ-

そこでは先王たちの文化的功績は全-歌われておらず殿

の先王に比べて極めて冷淡な扱いである

78章以下は殿周革命にまつわる様々の問が寛せられるが

詩経

大雅に見えておらずまた考古学的な裏付けもない

俸説的な事件もい-つか見えているとはいえ神話的な奇

怪さには乏しいといえる0

79遷蔵就岐何能依O殻有感婦何所説

貴職していた重器を移して岐山にやって充たがどう

して人民がそれに従

ったのか殿には人を舷惑させる

26

女がいたというが何のために議話しょうとしたのか

前句についてはこれを文王に懸ける説

大王に懸ける課

あるが前後で文王のことを歌

っているので大王の事蹟と

するのには難があるとはいえその内容は詩経

大雅

「崩」

に云う古公宜父の事鏡に近-どちらに限定することもで

きない「大王から文王までの問」とする他ないであろ-

後二句は肘の妃である坦己を云うとされるがその何につ

いて問うているのかは明らかではないしかし両者とも

その

「答」となるべき俸説がこの時代に前後して現れてお

-前者については

1章で引いた孟子

染着王下後者に

ついては太平御覧奄

1三五引世本に

「村が有蘇氏を伐

った

時有蘇氏は坦己を妃にさし出した肘はこれを愛して言

うことを何でも聞いたために武王が肘もろとも殺した

云うのがこれに普たる

66到峯村窮叔旦不嘉O何親撰車足周之命以各嵯

肘の首をはねるに至-周公且はこれをよしとしな

かったどうして周自ら謀

って殿を討とうとしたのに

その行動は人民に支持されたのか

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

後二句は極めて難解であるがいま黒須重彦氏の解樺に従

う他の諸家にはテキストの文字操作で意味を通らせよ-

とする者も多い前二句を王逸は

「武王の舟に白魚が飛び

込んだので群臣が

『吉兆だ』と言ったのに封Lt周公が

『吉兆ではあるが吉兆と思

ってはならぬ』と戒めたことを

云う

と解しているがこれは史記

周本紀の記事を敦術

したものであって漢初の五行思想の産物である寧ろ所

謂伯夷

叔奔停説の前駆形と考えた方がよい

ここに引いた事件が果たして史寛であ

ったのか西周時

代に生まれた俸説か或いは東周以後の俸説であるのかは

容易に判断できないしかしいずれにしても西周人の

「神

代史」からは無税されていた事件が本来の形ではないに

しても再び記録される動きをここに見ることができるので

あ-結語で述べる

「神代史の再神話化」の萌芽であると

いえるO

このような新しい動きはあるものの天問の周開園神話

も始祖の神的誕生1英雄的事業の達成という基本的な構造

には全-襲わ-はないしかし全鰻を通じて諸王の文化的

27

中閲文革報

第四十六筋

功績には全-解れられていないばか-か周の先王=

租秤

に封しても極めて冷淡であ-殿に封する態度とは明らか

に異な

っているのである

このことは昔時の楚園が周文化よ-も殿文化の方により

親しみその信仰

習俗等を保持していたことの一つの讃

接であろう楚文化と殻文化の関係の深さは既に様々な面

から指摘されてお-例えば楚辞

九歌に見える「雲中君」

「河伯」の神がト辞にも

「雲」「河」神として見えているこ

とや西周末期のものと見られる楚の青銅鐘は殿の鍔と形

が似てお-その銘文も殿金文に似た雄滞な書鰻であるこ

とな

どが挙げられるこのよ-な現象が生じた過程として

は(一)歴代から楚は殿に臣屈してその文化を受け入れ

周の時代になっても表向きは周に臣属しながらも殿の文化

を保持し績けた(二)周代以後に国力を埼大した楚園は

への対抗上その文化を拒み隣接する宋園の殿文化を積

極的に導入したという二つの説が考えられる前者の立

場を取る者はその根接として詩経

商頒

「殿武」の

撞彼殿武奮伐剰楚突入其阻衷利之放有戟其

所湯孫之緒(一章)

敏疾なる武丁は奮起して剤楚を伐ち険しい山地

に攻め入って刑楚の兵士を虜にしその地を平げ

湯王の子孫として手柄を立てた

という部分を畢げることが多い

前述の如-商頭目鰻が

宋園の楚国

への対抗心から作られたものであ-我が国の

紳功皇后遠征説話と同じ-どこまで史寛を反映している

かは未知数であるしかも卜辞などの殿代の地下資料から

は昔時の殿楚関係を示すものはまだ見つかっていない

一方後者については史記

楚世家に周の夷王の時に

楚王熊粟が

「我は牽夷な-中国の詮親に興らず」と言っ

たという記事もあ-現時鮎ではこちらの説の方が有力で

あると思われるいずれにしても周とは言語や風土を異

にする楚閲で生まれた天問には意固したか否かはともか

-周文化の重税と殿文化

への傾斜が讃み取れるのであ-

周王朝側の論理で殿の文化碑の功績を壷-抹殺された詩経

商頭や周の文化神を構える詩経

大雅とは好封照を見

せているのである

28

結語及び除論

これまで述べ来

ったことを要約すると詩経や楚辞

問に見える殿周開園神話は始租の所的誕生1迫害1事業

(文化創造

天下統

一)の完遂という構造を持ち既に西洋

の英雄神話に於て指摘されている基本構造をここにも見出

すことができるただ西洋では

一人で行なわれることが多

い英雄としての事業が中国では教代に亙

って行なわれる

ことが多いという違いはあるところが殿の開園と周の

開園また詩経と天問の相互間で詳し-比較してみると

神々の文化的功績は神話が記録された常時の政治的な事情

によって抹殺されることがあるという事資に束づ-この

ことは中国に於ては剣を振るって活躍する英雄よ-も

文化を創始する

「聖王」の方が重きをなしてお-氏族や

国の威光を左右するものであ

ったということの一つの謹左

といえよう

詩経

大雅における周王朝開園神話は高租にして文化

神である后稜-公劉を神話的要素に富む叙事詩によって語

段周開園の紳話と

「神代史」(大野)

っているが

「人王」の代に至ると

殊に王李に新著に見

られる如-諸王にとってマイナスイメージを輿えかねな

い史寛は壷-制去され武力革命の成功を

「神代」から引

き継がれた輝かしい事業として稀讃している周王朝の開

園神話とそれに績-殿周革命の史糞は詩が記録されるま

での間に

「神代史」

へ改愛されたのであるそこに支配強

化のための王室神聖化という高度な政治的意圏が働いてい

るのは確資であろう

段の遺民の園である春秋の宋園における段王朝開園神話

詩経

商項の諸篇は最終的には周王朝側の人々によって

記録

編輯されたものであ-それ故殿人の信仰した文化

紳は義-抹殺され支配者としての周王朝の論理に基づ-

「神代史」に改変されているOそれに封して楚辞

天問の

殻王朝開園神話には卜辞にも見える租紳たちの神話的雰囲

気に富む物語が多-残

ってお-逆に天問の周王朝開園神

話では周の先王の文化的功績を無税していて宋国との政

治的

風土的立場の違いを明瞭に浮かび上がらせているの

である

- 29-

中国文学報

第四十六筋

か-の如-

神話時代やそれに績-歴史が為政者の手に

よって

「神話化」される場合は中開の諸秤の中で重い比

重を占める文化神が記録者の政治的立場に従

って改奨され

「人王」に封しては

「都合の悪い」史貴を切-捨てて

「神

代史」

へと仕立てられるのであるが東周時代になるとそ

れとは逆に「人王」にも神話素の一つとして解揮可能な俸

説が様々な書物に記録されるようになる既に引用した文

王の安里幽閉

伯夷

叔斉の餓死などがそれであ-

「人

王」の物語もこれによって組両と同様の典型的神話

へ近づ

いてい-のであるこれらが記録されたのは諸子百家の書

物であ-昔時の遊説家たちが民間に流布していた停説を

敬-上げて自説を述べるために用いたものと考えられる

これらの停説が古い形をそのまま保

っているか否かは全-

保護がないとはいえ政治力撃の働きに-いレベルに於て

「神代史」に再び神話的物語が付け加えられるようにな

たということはいえるいわば

「神代史の再神話化」であ

-

1般に

「中国古代王朝神話」として

1つの物語にまと

められているのはこうして

「再神話化」された結果の産物

なのであるこれらは確かに

「神話」としての要素を豊富

に含んでいるのであるがこれを中国古代神話の原型と見

なすことは不可能であ-上述の如-複雑な要因が絡み合

っているのである

こうして

「神代史」はたとえ元の形とは異なるにせよ

再び

「神話」としての光彩を放ち始めたところがこの

「神話」をまたも

「歴史」に固定してしまったのが他なら

ぬ史蓬であることは周知の通-である

しかし

「神代史の再神話化」の原動力とな

った

民間

に語-経がれた王朝停説のエネルギーもこれで絡恨したわ

けではなかったこうしたエネルギーはその後も小説に記

録された種々の歴史俸説などを生み出し形を襲えて生き

績けたのである

ところでこれまで本文中に取-上げなかった

一つの重

要な問題があるそれは

「楚園に古-から停わる楚人自身

の神々はど-な

っていたのか」という問題である

楚辞

天問にはその末尾に楚図の俸説と思われるものが

記されてはいるが多-の注帯家が匙を投げているはど難

30

解であ-筆者も今敢えてこれに挑戦するほどの飴裕はな

いoしかし離騒ではその冒頭で「私は帝高陽の未森である」

と歌

ってお-少な-とも屈原の時代では楚人は穎頭高陽

氏を租神としていたと考えられているが文化神に関する

記述は見えない

一方同じ頃に楚園で成立したと考えら

れている山海経

大荒西経には街頭の子孫の神々の事業

が豊富に記されている例えば重

寮の天地分離

太子長

琴の音禁孝明などである

これらの事章から得られる

一つの推測をここで述べると

楚辞に於ては楚人自らの文化両を表立

って取-上げられな

い事情があ

ったものと思われる楚語で書かれた「原楚鮮」

には書かれていたがそれを漢語に翻弄した際に宋図か

ら導入した殿の文化神に置き換えたのかも知れないそし

て自らの文化紳とその物語を速い

「大荒」の物語として

カムフラージ

ュしたのが他ならぬ山海経なのではなかろ-

かこの書が地理書の形をとっていることや他書に見ら

れない神話停説を豊富に載せていることなどは丁度我が

国の

『出雲園風土記』を思わせるものがあるまた殿の

殿周開国の神話と「神代史」(大野)

文化紳王亥が

「困民国」の人とな

っていた-楚の租神で

あるはずの蘭頂が

「額頭囲」なる図にいたとされているこ

となどもこの仮説の根嬢となろう

しかし最早紙幅も轟きているこの問題は山海経を中心

として改めて考察することにしたい

ば織井慶紀著池田末利編

『中図神話の文化人類学的

研究』(1九九〇平河出版社)があるoまたユング心理学の

立場から日本神話を分析したものとして河合隼雄

『中空構

造日本の深層』(一九八二中央公論社)等がある

近世以前の諸席の議論は専らこの怪異雫が信ずるに足るか

否かの次元に終始するが近代的な研究としては聞一多

「萎

娠履大人跡考」(『聞一多全集』第一射一九四八開明書店)

白鳥清

「段周感生神話の解揮」(『東洋学報』十五巷四親tT

九二五東洋協合学術調査部)出石誠彦

「上代支部の異常

出生説話について」(『支那神話俸説の研究』所収tl九四三

中央公論社)等がある

「帝上帝也」

「帝高華氏之帝也従於帝而見干天婿事賛敏也」

孔疏に

「頑柁郊礁之時英夫高辛氏帝率興供行妻娠随帝之

後践履帝迩行事敬而敏疾放鳥神歌饗紳既饗其条則

31

中国文筆報

第四十六筋

愛而拓之

於是為天神所美大為福緑所依止twz=得懐任則

震動而有身」と云う

例えば嗣西族の

『東巴控』に見える縛文字にこのことが窺

える附固三参照また河南省に俸わるロ東俸説によると

女桐が天から降ってきて伏義が地下から出てきたと云う

(陶陽

鍾秀

『中国創世神話』一九八九上海人民出版社二

一四頁)

附圏三

primeJ 一一一

~PJ虹互L

LJL

堅 室④

上部の 一へ は天下部の 皿 は大地を

表す圃①は中間に天地交合の気がありこれ

より荷物が生ずる固②の中間は蛙で天地交

合後の襲化を表す圃⑨では天地の間に男が上

女が下になっており男女の交合と同様にして

天地が人類を生んだことを表す

(陶陽 鍾秀 『中国創世神話』214頁)

「惟虞東学詩云人之初生皆裂胎而出騒失所依故堕地

郎帝惟羊連胞而下共産猪易故詩以

『如達』馬比o又常

熟陶太常元淳日凡嬰兄在母腹中皆有皮以豪之俗所謂胞

衣也生時其衣先破兄鰻手足少蔚放生之難O惟羊子之生

胸仇完具堕地而後母篤破之故共生易o后硬生時蓋戒於胸

中形鮭末露有如羊子之生者放言

『加速』今按前二説

是也下言

『不味不副』蓋謂其胞衣之不折裂也」(『毛詩俸

集通帯』巷二十五)

「徐君宮人娠而生卵以箆不詳秀之水演O猪孤母有犬名

鵠蒼へ猟干水溝へ得所弄卵衝以東蹄猪孤母以馬具凍俊

之逐沸成見生時正値へ故以為名徐君宮中聞之乃更録

取長而仁智襲君徐固」(博物志

異聞篇引徐値王志)

「高句凝着其先出自克明東明本北夷嚢離王子離王出

行其侍兄於後任娠離王達欲殺之侍見目『前見天上

有菊如大鶏子乗降我困以有嫉』王囚之後連生男玉

置之家牢家以口束嘘束不死o王以為所乃聴収養」(梁

諸夷俸)

北欧や古代

ハンガリー等に見られる豊富な例がKケレ-

ニイtCGユング

『神話撃入門』

一九五1(杉浦忠夫訳

1九七五晶文社)に引かれている

例えば壮族に俸わる

「種子と犬の尾」の物語では人々

「九尾狗」に天上の穀物を盗みに行かせたところ穀物を

九本の尾に-つつけて蹄ろ-としたところを番人に見つか-

八本の尾を叩き切られたが残-

1本の尾に穀物をつけて逃げ

師-人間は農業ができるようになったと云う

(陶陽

秀前掲書二七九頁)

32

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 18: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

この上帝に封しては直接条把が行なわれることはないと

い-のが通説であるが島邦男氏によれば絶無という諸で

はな-締把が行われる例が三例あるこの締紀は上帝の

みならず高租神や先王に封しても行われてお-例えば

羅振玉

『殿虚書契緯編』

一-二-

一片に

点締子王亥

貞-王亥に繭のまつ-をせんか

董作賀

『乙篇』四五四九片に

葵未卜両税乙

英未に卜す租乙に蹄のまつ-をせんか

とあることから

恐ら-張光直氏の云う如-

「殿の人びと

『帝』は先租の絶稀であ

ったかあるいは先租の観念

の1つの抽象化されたもの」

ということになろう

上帝と同様の祭紀が行われる租神の-ち「高租」と呼

ばれるのは愛

王亥の二人である

愛は変とも揮され王⑮

図経が

「暑」と塵韻であることなどを理由に帝尊と解して

以来これが定説となっているO帝聾は後の時代の文献に俸

える所では自らの文化的事業や武勇に関しては何も記さ

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

ずただ殿組契と周蔵后榎の共通の父祖であると云うだけ

であ-上帝的な存在であ

ったとするのが諸家の1致した

見解であるしかし殿代に於ては

「帝」と帝替即ち愛は区

別されている以上完全に同

一であ

ったとはいえず上帝

と人王をつなぐ役割を持つ始租神として奉られたものと思

われる前述の如-愛が抽象化したものが上帝であ-

逆に言えば上帝が人格神化したものが愛なのである

一方の王亥はどうであろうか山海経

大荒東経に

有困民国-王亥託干有易河伯僕牛有易殺王亥

取僕牛

困民国で-主

亥は有易園と河伯園に自ら飼い馴ら

した牛を預けた有易園の人は王亥を殺し牛を奪

この候の郭瑛注が引-古本竹書紀年には

殿王子亥賓干有易而淫蔦有易之君鯨臣殺而放之

是故殿主

(一作上)甲徴候師子河伯以伐有易滅之

途殺其君紹臣也

殿の王亥は有易園

へ客として赴いたが行ないが悪

- 17-

中国文学報

第四十六放

有易の君主摘臣が彼を殺してしまったそれで段

の上甲微が河伯図の軍を借-て有易を伐ちこれを滅

ぼし君主鋸臣を殺した

と記されているまた初学記撃

九引世本には

「骸が

牛を飼い馴らした」とあ-この膜も王亥であると考えら

れている少な-とも東周末期に於ては王亥が牧牛を行な

ったという俸説があったのであ-王亥を論ずる人の多-

はこれに注目し彼を殿の文化紳であると考えている

「高

租」と特別扱いされる租神の一人であることを考えれば

王亥が文化面で多大な功績を上げ原始状態から文明状態

へと殿氏族を更展させたことは十分に考えられる

もしそうであるならば前章でその存在を示唆した

「殿

の失われた文化紳」はまさにこの王亥ということになる

既に述べた如-詩経

商煩の段王朝開園神話に封しては

それと系統を異にする楚辞

天問という比較資料もあるの

であるから次にこちらの方を見てみることにしよう

fTD

天問は古来極めて錯簡の多い書と言われる

その中で

殿周開園に関する部分は比較的次第がまとまっている湯

以前の駿の先王が措かれるのは55-聖早であ-簡秋と尊

の通婿から始まっている

55簡秋在董卓何宜玄鳥致胎女何喜

筒状は高い槙童にいたが尋はどうして見そめたの

か燕が滑-物を持

ってきたのを筒状はどうして喜

んだのか

古来詩経

商頒

「玄鳥」と同じ-簡秋香卵の説話を云うも

のと解されるがこれも

「玄鳥」詩と同じ-この二句だ

けから呑卵の話を導き出すのは難しいしかしこの通解が

行なわれた高い

「董」は天地の間を繋ぐにふさわしい場所

であ-鳥が天から

「胎」を授けることなど天地通姫を

描-ことには襲わ-はない天問では上帝には

「帝」とい

う呼稀を使

ってお-ここでの

「魯」はー辞の

「愛」と同

じく上帝の人格化したものと思われる

この二句は不思議なことに簡秋と啓が誰を生んだのか全

く言わないテキストに脱落がなければ次の章の登場人

物を簡秋の子と考えるのが最も素直であろうところが次

に登場するのは

「玄王」でも

「契」でもない

18

56該乗季徳頗父是滅胡絡弊干有屈牧夫牛羊0

57干協時舞何以懐之平脅鼻膚何以肥之

58有屈牧豊云何而逢撃林先出其命何徒

壬亥はその父季の徳を縫いだが父は立涯な人であ

ったどうして王亥はとうとう有易園に落ちぶれそ

ゐ牛羊を養

っていたのかO

たて

あわ

いだ

協せて舞う女を見てど-してその女を

のか

平らかな脇腹に細やかな皮膚どうしてこの女

まじ

ったのか

王亥は有易園の牧童にどのようにして合

ったのか

寝込みを襲われて先に逃げ出したがどこから逃げ出

して助かったのか

56章の

「該」を王逸は

「竜也」と解しているが晴代に至

って王関連が人名ではないかと疑問を呈出L

t

王国経が卜

軒との対照によって王亥であると断じて以来この説が支配

的であるこの四句も前途の山海経や竹書紀年と共に王

亥が牧神であ

ったことを示すものとしてよ-引かれる57

章は難解であり注揮家ごとに説が異なると言

ってもよい

股周開園の神話と

「紳代史」(大野)

ほどであるが王亥の婚姻のことを云うとする需介甫氏

黒須重彦氏の説に徒う58章は王亥が殺されそうにな-な

がら辛-も逃れたことを云い前に引いた山海経などの所

侍と関係があるものと思われる

この三幸の記述から王亥の迫害と文化創造のモチーフを

見出すことはさほど困難なことではないし簡秋と孝によ

る殿租の神的な誕生も前章までに述べた例と同様に何ら

かの形で王亥に英雄的資質をもたらすものと考えられる

簡秋が生んだのが王亥であると断定できれば話は簡単なの

であるが56章には王亥の父としての

「季」が登場してお

り従

って天問に於ては簡狭

暑-季1王亥という系譜が

成立していたことになるしかし卜辞に見える

「季」は高

租でない租神の一人にすぎず

「高租王亥」が

「季」を父と

していたとは考え難いo

l鮭に卜解における租紳相互間の

父子関係は不明な部分が多-本来は寧ろ横

一列に並ぶ関

係であ

ってどれも

「租先」に襲わ-はないのであ-果

たした功績や役割の違いによってそれぞれに分化したもの

と考えた方がよい卜辞における

「季」の神威は他の租紳

19

中国文革報

第四十六桝

と襲わらないが

天問では尊と王亥との橋渡し的な性格に

襲わったのである

59恒乗季徳蔦得夫朴牛何徒費班緑不但遠来

王恒も李の徳を鰹ぎ王亥の養

った僕牛を得たど

あまね

はどこ

うして狩-に行

って獲物を

-

民に

ただ行

って

締るだけに止まらなかったのか

「恒」は王遠江では

「常也」と云うがこれも王国経が卜

辞に見える王恒のことであると解して以来諸家概ねこれ

に徒う「班稀」は近年の解帯では

「官位」「栄達」等に解

され

「王恒が有易図で出世しょうとした」意であるとす

るがす

っき-しない解輝であるー辞に見える王恒は

弓の形の中に

「恒」字を入れたものもあ-寧ろ

「湯は狩

-に往-際ただ行

って締るだけではな-民に編-施し

を輿えた」とする王逸注の方が原初的な意味に近いと思わ

れる但し主語は湯ではな-王恒である張光直氏は王恒

と罪に何らかの関係があるのではないかと考えるが

それ

よ-は駿人の狩猟柵であ

ったと考えた方が良いかも知れな

いただ王恒の事境を記した文献が他に存在せず容易に

結論を得難いのは残念なことである

60昏微遵述有狭不寧何繁鳥葦棟負子韓情

61絃弟遠軽危害顔見O何襲化以作許後嗣而逢長

上甲微は父王亥の事鏡を鮭ぎ有易園は安定を保て

ず滅びたどうして有易の人民は妹に止まる鳥のよう

に苦しんでいるのに上甲微はその子女にまで横暴な

ことをしたのか

目の陪んだ請弟はみな道ならぬことをしその兄上

甲微に危害を加えたのにどうしてうま-ごまかして

その子孫が長-祭えることになったのか

この二章も本づ-所がはっき-せず難解であるが「昏微」

はやは-王国経が上甲微のことであるとしてお-その事

蹟を云うものと考えられる上甲微は卜辞で系譜が明らか

な請王のうちで

一番古い租先に普た-いわば

「人王」の

租であるがここでは王亥と同様の迫害モチーフが再び現

⑳れその事鏡は既に神話化されていたものと見られる「何

襲化以作詐後嗣而逢長」の二句はそ-した神話であるが

故の不合理性を問うているのである

- 20-

62成湯東巡有等宴極何乞彼中臣而吉妃是得

63水漬之木得彼中子夫何悪之腰右筆之婦

64湯出重泉夫何皐尤不勝心伐帝夫誰使挑之

湯は東方

へ巡狩Lt有等園までやって来たど-し

てあの中臣伊声に乞い求めて良い妃を得たのか

水蓮の木から有等氏の君主は伊声を得たとい-が

どうして伊声を嫌

って湯の妃に付き添わせたのか

湯は重泉の牢獄から出て来たがそれは何の罪だっ

たのか正義を求める心を抑えられず実を伐

ったが

誰が彼をそうさせたのか

商頭における湯は夏架や尾吾氏を伐

った英雄として非常に

多-の紙幅を割いて賞揚されていたのであるが天間では

僅か三幸で終わ-しかもその年分は彼の名臣伊声のこと

に費され天下を平定した聖王にしてはかなり冷淡な描き

方である多-とも王亥や上甲微などと同等の重さしか持

っていないといえるしかしこの簡単な記述は神話的な趣

きに富んでいる伊声は呂氏春秋

本味簾で

「有佐氏の女

が空桑の中から嬰兄を得て

それを君主に献じ君主は

般周開乾の神話と

「紳代史」(大野)

料理人に彼を育てさせた」云々と書かれるような俸説をも

つがその原型とみられる記事が63章にあ-64章の

「湯

出重泉」も森安太郎氏が

「陽

(太陽神)が海の下を-ぐっ

て再び現れ出る様子」

と解したほどであるその虞偽は措

-としても

「重泉に囚われてから脱出」

というのがこれ

まで屡々登場してきた迫害1事業完成のモチーフであるこ

とは明白であ-この迫害こそ棄てられた后稜と同じ-英

雄を英雄たらしめる神話素の一つである殿人にとって湯

「人王」であったはずであるが楚人にとっての夏殿革

命は既に神話となっていた宋人にとっても同じであ

った

と思われるしかし東周時代の為政者の意識は最早神話を

古代人の如-

「心象における事資」として受け取ることを

許さなかった神話の神話たる所以である英雄の迫害も

政治家としての彼等にとっては

「不合理」以外の何もので

もな-統治強化の障碍でしかなかったであろうそれ故

その

「不合理」を宋人は頒詩から治し去-楚人は

「天に

問」うたのである東周の殿開園神話はその鮎で西周人

の神話と歴史が

一鰻になった

「神代史」であ

った詩経

21

中国文筆報

第四十六冊

雅の周王朝開園の物語とは成因がやや異な-神話そのも

のを改襲した

「神代史」であるといえよう

再び天間に戻ろうここで語られる殿王朝開園神話を綜

合すると腰租誕生1夏殿革命という流れは商頭でのそれ

とはぼ

一致するのであるが商頚では全-無税されている

王亥

王恒や上甲微の事浜を多-記している所が大いに異

なるこれらの先王は卜軒に於ても租神として柁られてお

-殊に愛

(餐)王亥は

「高租」と崇められていたのであ

るから天問における殿租誕生や牧牛創始の偉大な功績も

殿代からその根摸となるべき停東があったものと考えられ

る殿の未森たる被征服図

宋図で語られなかった文化神

が周の政治的願力が比較的少なかったであろ-楚園に於

て生き残

っていたのであ-「王亥を構える頒詩は政治的

要請によって胴去されたのではないか」という前章で捉

起した推測は更に確貴性を樹して-るのである

このように文化神を語る神話は政治的な事情によって

改襲されやすいという

一つの傾向が次第に明らかになって

きたのであるが天間に見える周王朝開園神話を詩経

雅のそれと比べてみるとその傾向は

一層はっき-する

これについては次章で検討することにしてその前に前

章で提起したもう

一つの問題即ち契と後に呼ばれるよう

になる殿紐の正鰻について卑見を示しておきたい

1般には詩経

商頒

「玄鳥」

「長顎」の鄭隻や楚鮮

天問の王逸注史記

殿本紀などから筒状が生んだ殿租

が契であるとされ詩経や楚軒の注揮家も特に疑問を抱い

ていないしかしこれまで見てきた詩経や天問には契の名

は全-見えていない国語を見ると周語下には

玄王勤商十有四世而興

玄王は商のために働き十四世かかって興起した

鄭語には商

契能和合五教以保干百姓者也

商契は五教をよ-調和させ人民を守-養

った人で

魯語上には

契為司徒而民韓-上甲微能帥契者也o

契は司徒の官となって人心を和らげ--上甲微は

22

たす

契をよ-

た人である

自玄王以及主薬莫若湯

文王から主薬

(湯の父)に至るまで湯よ-すぐれた

者はいない

とあるこれらを見ると契とい-名は周

楚以外の

園で用いられし

かも

「司徒として五教によって人心を安

定させた」という事鏡が語られている抽象的な形ではあ

るが文化面での功寮が取-上げられているのである

そうすると陳夢家氏の

「契と刻は互訓であ-共に亥

と普通である故に契は即ち王亥である」とする説が有力

な説として浮上して-るOこれまでの考察から王亥は殿

の高租にして文化所であ-従

って契というのは王亥の周

連諸国での呼び名であ-「五教」云々は王亥の文化神的

な面が周遠諸国に於て襲化したものと考えられるのである

もう

1万の

「司徒」という面に注目すると楊寛氏は

「司

徒」は

「司土」であるとして契は社紳

(土地紳)であった

と考えている「司徒」を

「司土」と表記するのは西周金文

に多-見られる用法であ-本来は土地や農業を司る官で

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

あったらしいまた史記

殿本紀には

「実は南を佐けて治

水に功があった」とあ-梁玉縄の疑う如き司馬遷の臆説

でな-古-からの停承に基づいているものであるならば

契に夏南の如き下士造成神的な面もあった可能性は捨てき

れない司土の官は農業にも関係が深いことから契は土

地神にして農神の性格をも持つことにな-このことは王

亥が牧牛の創始者であることと関係があるのかも知れない

なお尚書尭典には

帝日「乗努民阻飢o汝后榎播時百穀O」帝日

「契百姓不親五品不遜汝作司徒敬敷五教在寛」

もろもろ

舜は言った「棄よ

民は飢え苦しんでいる

汝は后頑の官とな-

この百穀を播け」と舜は言

った「契よ人民は互いに仲良-せず父子

君臣

夫婦

長幼

朋友の序に従わない汝は司徒の官とな

つつし

-五教を敬んで廉め心を寛-して治めよ」と

とあ-同じ-尚書の周官には

司徒掌邦教敷五典擾兆民

司徒は閲の教化を掌-五教を廉め多-の民を順

23

中国文畢報

第四十六肋

わせる

とあ

って司徒が教化の官であるかの如-書かれているが

これは后積が農官とされたために契は

「五教を康めた」面

のみが取-上げられそれが司徒の官名に結びついてかか

る誤解を生んだものであ-司徒の本来の意味ではないと

考えられる

周やその支配下にあった宋園では殿租に玄王という名

が使われてお-玄鳥による神的な誕生と商の興起のた

めに轟-したとい-事暁が語られる

魯園では

「契」

「玄

王」両方が見えるがー契と言う場合は文化的な功績が描か

れ玄王と言う場合は始租としての面に注目されている

恐ら-

「玄王」とは契=

王亥の始租としての面が強調され

た時の呼稀であ

ったと思われる文化人類学的にも「玄」

という名は始源の闇や滞沌を連想させるものであ-例え

ば老子

六章の

玄牝門天地板

玄牝の門(女陰)は天地寓物の根源である

の如-である

宋園や周では殿租の文化神的な面が抹殺さ

れたために始租神としての

「玄王」の呼稀が定着し魯

鄭などの周連列国では儒教的に襲化した文化神として

「契」と呼ばれ楚国では殿代の呼稀

「王亥」が原形に近

い形で保存されて

「該」と呼ばれたのであろう

四楚鮮

天問の周王朝開園神話

まず天問における殿周開園神話の大筋の流れを圏示する

と附固

一のようになる我々の常識で考えるならば夏殿

革命の次に殿のその後の衰亡を歌いそれから周王朝

へと

移る構成をとるのが普通であるが天問では夏殿革命から

いきな-周の衰亡

へと飛びそこから殿の衰亡

へと戻る間

くりかえ

「天命は

」というテーゼを挟み込んでいるこの

ような操作によってどの王朝も同じように興亡を繰-近

すというテーゼが

7層際立つのであ-

T見乱雑に見える

排列が安は高度なレトリックを用いた結果であるという

ことがわかる

次に殿周の開園が歌われている各章を時間順に並べ

かえて相互に封比してみると附圏二のようになるこの固

24

殻周開園の耐話と

「神代史」(大野)

附圃- (丸内の数字は葦の通し番競)

舜と女梱 ⑱~

「験萌在初」

1

度の先王 ~

t

夏殿革命 ~

周の先王

l

殿周革命 ⑮~cent)

iiiiia段の衰亡 ~ 周の興亡

一- 一 ノ ー「天命反側」

附圏二

段 簡秋と唇の通婚

王亥 有易で牛羊を牧す

王亥の婚姻

王亥 殺されかける

王位 王亥の牛を得る

上甲微 父の遺業を鮭ぐ

肢弟が上甲微を迫害

一寸 どうして子孫が栄えたのか」

~ 楚の興亡

周 ⑯ 后硬 氷上に捨てられる

上帝をも驚かす武勇

-「どうして子孫が栄えたのか」

成湯 伊声を得る

伊デの生い立ち

湯 壷泉から出て案を伐つ

- 25-

⑳ 文王 天命 もて段を覆す

岐山に移る殿の惑婦

文王 村の無道を天に告げる

文王 太公望を得る

武王 急いで殿を伐つ

武王の朝合

周公 武王をよしとせず

武玉 村を伐つ

中隊文革報

第四十六筋

一見して知ることができるのは周の先王には僅か二章

しか使わず殿周革命に九章も費やしてお-殿王朝の方

が租神に多-の章を割いて夏殿革命には三章しか使わな

いのと対照的であるということである

周王朝開園を云う章をもう少し詳し-見てい-と

76積維元子帝何竺之投之干水上鳥何燐之

77何漏弓挟矢殊能渚之既驚帝切激何逢長之

后稜は上帝の長子であるのに上帝はどうして彼に

危害を加えたのか彼を氷の上に捨てると鳥はどう

してこれを暖めたのか

どうして弓をひきしぼ-矢を挟みすぐれた才能で

武婿となったのか上帝をも驚かすほどひどいことを

したのにどうしてその子孫は長-栄えたのかQ

后積が上帝の子であるのに迫害され鳥によって助けられ

たというのは詩経

大雅

「生民」と同様であるが周租后

礎の両的資質を云-のみであ

って農業費明には全-解れ

られていない77章は王逸注では前二句を后稜後二句を

武王の事績とするが洪興租補注は全部を武王の事績とし

朱子はその両方を疑問であるとす

78章以下では文王の

ことを云う章が績いてお-この章を武王の事虞とする課

には従えない聞

多や衰珂

氏は全部を后頑の事鏡とする

が必ずしも后榎に限定することはできない少な-とも

古公以前の

「神代」の先王のうちの誰かであることは確か

であろう後二句の

「上帝をも驚かすようなことをしなが

らどうして子孫が栄えたのか」という疑問が殿の租神と

「人王」の境目である上甲微を語る61章の後二句と似るか

らである周の先王を歌うのはこの二幸で終わ-であ-

そこでは先王たちの文化的功績は全-歌われておらず殿

の先王に比べて極めて冷淡な扱いである

78章以下は殿周革命にまつわる様々の問が寛せられるが

詩経

大雅に見えておらずまた考古学的な裏付けもない

俸説的な事件もい-つか見えているとはいえ神話的な奇

怪さには乏しいといえる0

79遷蔵就岐何能依O殻有感婦何所説

貴職していた重器を移して岐山にやって充たがどう

して人民がそれに従

ったのか殿には人を舷惑させる

26

女がいたというが何のために議話しょうとしたのか

前句についてはこれを文王に懸ける説

大王に懸ける課

あるが前後で文王のことを歌

っているので大王の事蹟と

するのには難があるとはいえその内容は詩経

大雅

「崩」

に云う古公宜父の事鏡に近-どちらに限定することもで

きない「大王から文王までの問」とする他ないであろ-

後二句は肘の妃である坦己を云うとされるがその何につ

いて問うているのかは明らかではないしかし両者とも

その

「答」となるべき俸説がこの時代に前後して現れてお

-前者については

1章で引いた孟子

染着王下後者に

ついては太平御覧奄

1三五引世本に

「村が有蘇氏を伐

った

時有蘇氏は坦己を妃にさし出した肘はこれを愛して言

うことを何でも聞いたために武王が肘もろとも殺した

云うのがこれに普たる

66到峯村窮叔旦不嘉O何親撰車足周之命以各嵯

肘の首をはねるに至-周公且はこれをよしとしな

かったどうして周自ら謀

って殿を討とうとしたのに

その行動は人民に支持されたのか

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

後二句は極めて難解であるがいま黒須重彦氏の解樺に従

う他の諸家にはテキストの文字操作で意味を通らせよ-

とする者も多い前二句を王逸は

「武王の舟に白魚が飛び

込んだので群臣が

『吉兆だ』と言ったのに封Lt周公が

『吉兆ではあるが吉兆と思

ってはならぬ』と戒めたことを

云う

と解しているがこれは史記

周本紀の記事を敦術

したものであって漢初の五行思想の産物である寧ろ所

謂伯夷

叔奔停説の前駆形と考えた方がよい

ここに引いた事件が果たして史寛であ

ったのか西周時

代に生まれた俸説か或いは東周以後の俸説であるのかは

容易に判断できないしかしいずれにしても西周人の

「神

代史」からは無税されていた事件が本来の形ではないに

しても再び記録される動きをここに見ることができるので

あ-結語で述べる

「神代史の再神話化」の萌芽であると

いえるO

このような新しい動きはあるものの天問の周開園神話

も始祖の神的誕生1英雄的事業の達成という基本的な構造

には全-襲わ-はないしかし全鰻を通じて諸王の文化的

27

中閲文革報

第四十六筋

功績には全-解れられていないばか-か周の先王=

租秤

に封しても極めて冷淡であ-殿に封する態度とは明らか

に異な

っているのである

このことは昔時の楚園が周文化よ-も殿文化の方により

親しみその信仰

習俗等を保持していたことの一つの讃

接であろう楚文化と殻文化の関係の深さは既に様々な面

から指摘されてお-例えば楚辞

九歌に見える「雲中君」

「河伯」の神がト辞にも

「雲」「河」神として見えているこ

とや西周末期のものと見られる楚の青銅鐘は殿の鍔と形

が似てお-その銘文も殿金文に似た雄滞な書鰻であるこ

とな

どが挙げられるこのよ-な現象が生じた過程として

は(一)歴代から楚は殿に臣屈してその文化を受け入れ

周の時代になっても表向きは周に臣属しながらも殿の文化

を保持し績けた(二)周代以後に国力を埼大した楚園は

への対抗上その文化を拒み隣接する宋園の殿文化を積

極的に導入したという二つの説が考えられる前者の立

場を取る者はその根接として詩経

商頒

「殿武」の

撞彼殿武奮伐剰楚突入其阻衷利之放有戟其

所湯孫之緒(一章)

敏疾なる武丁は奮起して剤楚を伐ち険しい山地

に攻め入って刑楚の兵士を虜にしその地を平げ

湯王の子孫として手柄を立てた

という部分を畢げることが多い

前述の如-商頭目鰻が

宋園の楚国

への対抗心から作られたものであ-我が国の

紳功皇后遠征説話と同じ-どこまで史寛を反映している

かは未知数であるしかも卜辞などの殿代の地下資料から

は昔時の殿楚関係を示すものはまだ見つかっていない

一方後者については史記

楚世家に周の夷王の時に

楚王熊粟が

「我は牽夷な-中国の詮親に興らず」と言っ

たという記事もあ-現時鮎ではこちらの説の方が有力で

あると思われるいずれにしても周とは言語や風土を異

にする楚閲で生まれた天問には意固したか否かはともか

-周文化の重税と殿文化

への傾斜が讃み取れるのであ-

周王朝側の論理で殿の文化碑の功績を壷-抹殺された詩経

商頭や周の文化神を構える詩経

大雅とは好封照を見

せているのである

28

結語及び除論

これまで述べ来

ったことを要約すると詩経や楚辞

問に見える殿周開園神話は始租の所的誕生1迫害1事業

(文化創造

天下統

一)の完遂という構造を持ち既に西洋

の英雄神話に於て指摘されている基本構造をここにも見出

すことができるただ西洋では

一人で行なわれることが多

い英雄としての事業が中国では教代に亙

って行なわれる

ことが多いという違いはあるところが殿の開園と周の

開園また詩経と天問の相互間で詳し-比較してみると

神々の文化的功績は神話が記録された常時の政治的な事情

によって抹殺されることがあるという事資に束づ-この

ことは中国に於ては剣を振るって活躍する英雄よ-も

文化を創始する

「聖王」の方が重きをなしてお-氏族や

国の威光を左右するものであ

ったということの一つの謹左

といえよう

詩経

大雅における周王朝開園神話は高租にして文化

神である后稜-公劉を神話的要素に富む叙事詩によって語

段周開園の紳話と

「神代史」(大野)

っているが

「人王」の代に至ると

殊に王李に新著に見

られる如-諸王にとってマイナスイメージを輿えかねな

い史寛は壷-制去され武力革命の成功を

「神代」から引

き継がれた輝かしい事業として稀讃している周王朝の開

園神話とそれに績-殿周革命の史糞は詩が記録されるま

での間に

「神代史」

へ改愛されたのであるそこに支配強

化のための王室神聖化という高度な政治的意圏が働いてい

るのは確資であろう

段の遺民の園である春秋の宋園における段王朝開園神話

詩経

商項の諸篇は最終的には周王朝側の人々によって

記録

編輯されたものであ-それ故殿人の信仰した文化

紳は義-抹殺され支配者としての周王朝の論理に基づ-

「神代史」に改変されているOそれに封して楚辞

天問の

殻王朝開園神話には卜辞にも見える租紳たちの神話的雰囲

気に富む物語が多-残

ってお-逆に天問の周王朝開園神

話では周の先王の文化的功績を無税していて宋国との政

治的

風土的立場の違いを明瞭に浮かび上がらせているの

である

- 29-

中国文学報

第四十六筋

か-の如-

神話時代やそれに績-歴史が為政者の手に

よって

「神話化」される場合は中開の諸秤の中で重い比

重を占める文化神が記録者の政治的立場に従

って改奨され

「人王」に封しては

「都合の悪い」史貴を切-捨てて

「神

代史」

へと仕立てられるのであるが東周時代になるとそ

れとは逆に「人王」にも神話素の一つとして解揮可能な俸

説が様々な書物に記録されるようになる既に引用した文

王の安里幽閉

伯夷

叔斉の餓死などがそれであ-

「人

王」の物語もこれによって組両と同様の典型的神話

へ近づ

いてい-のであるこれらが記録されたのは諸子百家の書

物であ-昔時の遊説家たちが民間に流布していた停説を

敬-上げて自説を述べるために用いたものと考えられる

これらの停説が古い形をそのまま保

っているか否かは全-

保護がないとはいえ政治力撃の働きに-いレベルに於て

「神代史」に再び神話的物語が付け加えられるようにな

たということはいえるいわば

「神代史の再神話化」であ

-

1般に

「中国古代王朝神話」として

1つの物語にまと

められているのはこうして

「再神話化」された結果の産物

なのであるこれらは確かに

「神話」としての要素を豊富

に含んでいるのであるがこれを中国古代神話の原型と見

なすことは不可能であ-上述の如-複雑な要因が絡み合

っているのである

こうして

「神代史」はたとえ元の形とは異なるにせよ

再び

「神話」としての光彩を放ち始めたところがこの

「神話」をまたも

「歴史」に固定してしまったのが他なら

ぬ史蓬であることは周知の通-である

しかし

「神代史の再神話化」の原動力とな

った

民間

に語-経がれた王朝停説のエネルギーもこれで絡恨したわ

けではなかったこうしたエネルギーはその後も小説に記

録された種々の歴史俸説などを生み出し形を襲えて生き

績けたのである

ところでこれまで本文中に取-上げなかった

一つの重

要な問題があるそれは

「楚園に古-から停わる楚人自身

の神々はど-な

っていたのか」という問題である

楚辞

天問にはその末尾に楚図の俸説と思われるものが

記されてはいるが多-の注帯家が匙を投げているはど難

30

解であ-筆者も今敢えてこれに挑戦するほどの飴裕はな

いoしかし離騒ではその冒頭で「私は帝高陽の未森である」

と歌

ってお-少な-とも屈原の時代では楚人は穎頭高陽

氏を租神としていたと考えられているが文化神に関する

記述は見えない

一方同じ頃に楚園で成立したと考えら

れている山海経

大荒西経には街頭の子孫の神々の事業

が豊富に記されている例えば重

寮の天地分離

太子長

琴の音禁孝明などである

これらの事章から得られる

一つの推測をここで述べると

楚辞に於ては楚人自らの文化両を表立

って取-上げられな

い事情があ

ったものと思われる楚語で書かれた「原楚鮮」

には書かれていたがそれを漢語に翻弄した際に宋図か

ら導入した殿の文化神に置き換えたのかも知れないそし

て自らの文化紳とその物語を速い

「大荒」の物語として

カムフラージ

ュしたのが他ならぬ山海経なのではなかろ-

かこの書が地理書の形をとっていることや他書に見ら

れない神話停説を豊富に載せていることなどは丁度我が

国の

『出雲園風土記』を思わせるものがあるまた殿の

殿周開国の神話と「神代史」(大野)

文化紳王亥が

「困民国」の人とな

っていた-楚の租神で

あるはずの蘭頂が

「額頭囲」なる図にいたとされているこ

となどもこの仮説の根嬢となろう

しかし最早紙幅も轟きているこの問題は山海経を中心

として改めて考察することにしたい

ば織井慶紀著池田末利編

『中図神話の文化人類学的

研究』(1九九〇平河出版社)があるoまたユング心理学の

立場から日本神話を分析したものとして河合隼雄

『中空構

造日本の深層』(一九八二中央公論社)等がある

近世以前の諸席の議論は専らこの怪異雫が信ずるに足るか

否かの次元に終始するが近代的な研究としては聞一多

「萎

娠履大人跡考」(『聞一多全集』第一射一九四八開明書店)

白鳥清

「段周感生神話の解揮」(『東洋学報』十五巷四親tT

九二五東洋協合学術調査部)出石誠彦

「上代支部の異常

出生説話について」(『支那神話俸説の研究』所収tl九四三

中央公論社)等がある

「帝上帝也」

「帝高華氏之帝也従於帝而見干天婿事賛敏也」

孔疏に

「頑柁郊礁之時英夫高辛氏帝率興供行妻娠随帝之

後践履帝迩行事敬而敏疾放鳥神歌饗紳既饗其条則

31

中国文筆報

第四十六筋

愛而拓之

於是為天神所美大為福緑所依止twz=得懐任則

震動而有身」と云う

例えば嗣西族の

『東巴控』に見える縛文字にこのことが窺

える附固三参照また河南省に俸わるロ東俸説によると

女桐が天から降ってきて伏義が地下から出てきたと云う

(陶陽

鍾秀

『中国創世神話』一九八九上海人民出版社二

一四頁)

附圏三

primeJ 一一一

~PJ虹互L

LJL

堅 室④

上部の 一へ は天下部の 皿 は大地を

表す圃①は中間に天地交合の気がありこれ

より荷物が生ずる固②の中間は蛙で天地交

合後の襲化を表す圃⑨では天地の間に男が上

女が下になっており男女の交合と同様にして

天地が人類を生んだことを表す

(陶陽 鍾秀 『中国創世神話』214頁)

「惟虞東学詩云人之初生皆裂胎而出騒失所依故堕地

郎帝惟羊連胞而下共産猪易故詩以

『如達』馬比o又常

熟陶太常元淳日凡嬰兄在母腹中皆有皮以豪之俗所謂胞

衣也生時其衣先破兄鰻手足少蔚放生之難O惟羊子之生

胸仇完具堕地而後母篤破之故共生易o后硬生時蓋戒於胸

中形鮭末露有如羊子之生者放言

『加速』今按前二説

是也下言

『不味不副』蓋謂其胞衣之不折裂也」(『毛詩俸

集通帯』巷二十五)

「徐君宮人娠而生卵以箆不詳秀之水演O猪孤母有犬名

鵠蒼へ猟干水溝へ得所弄卵衝以東蹄猪孤母以馬具凍俊

之逐沸成見生時正値へ故以為名徐君宮中聞之乃更録

取長而仁智襲君徐固」(博物志

異聞篇引徐値王志)

「高句凝着其先出自克明東明本北夷嚢離王子離王出

行其侍兄於後任娠離王達欲殺之侍見目『前見天上

有菊如大鶏子乗降我困以有嫉』王囚之後連生男玉

置之家牢家以口束嘘束不死o王以為所乃聴収養」(梁

諸夷俸)

北欧や古代

ハンガリー等に見られる豊富な例がKケレ-

ニイtCGユング

『神話撃入門』

一九五1(杉浦忠夫訳

1九七五晶文社)に引かれている

例えば壮族に俸わる

「種子と犬の尾」の物語では人々

「九尾狗」に天上の穀物を盗みに行かせたところ穀物を

九本の尾に-つつけて蹄ろ-としたところを番人に見つか-

八本の尾を叩き切られたが残-

1本の尾に穀物をつけて逃げ

師-人間は農業ができるようになったと云う

(陶陽

秀前掲書二七九頁)

32

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 19: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

中国文学報

第四十六放

有易の君主摘臣が彼を殺してしまったそれで段

の上甲微が河伯図の軍を借-て有易を伐ちこれを滅

ぼし君主鋸臣を殺した

と記されているまた初学記撃

九引世本には

「骸が

牛を飼い馴らした」とあ-この膜も王亥であると考えら

れている少な-とも東周末期に於ては王亥が牧牛を行な

ったという俸説があったのであ-王亥を論ずる人の多-

はこれに注目し彼を殿の文化紳であると考えている

「高

租」と特別扱いされる租神の一人であることを考えれば

王亥が文化面で多大な功績を上げ原始状態から文明状態

へと殿氏族を更展させたことは十分に考えられる

もしそうであるならば前章でその存在を示唆した

「殿

の失われた文化紳」はまさにこの王亥ということになる

既に述べた如-詩経

商煩の段王朝開園神話に封しては

それと系統を異にする楚辞

天問という比較資料もあるの

であるから次にこちらの方を見てみることにしよう

fTD

天問は古来極めて錯簡の多い書と言われる

その中で

殿周開園に関する部分は比較的次第がまとまっている湯

以前の駿の先王が措かれるのは55-聖早であ-簡秋と尊

の通婿から始まっている

55簡秋在董卓何宜玄鳥致胎女何喜

筒状は高い槙童にいたが尋はどうして見そめたの

か燕が滑-物を持

ってきたのを筒状はどうして喜

んだのか

古来詩経

商頒

「玄鳥」と同じ-簡秋香卵の説話を云うも

のと解されるがこれも

「玄鳥」詩と同じ-この二句だ

けから呑卵の話を導き出すのは難しいしかしこの通解が

行なわれた高い

「董」は天地の間を繋ぐにふさわしい場所

であ-鳥が天から

「胎」を授けることなど天地通姫を

描-ことには襲わ-はない天問では上帝には

「帝」とい

う呼稀を使

ってお-ここでの

「魯」はー辞の

「愛」と同

じく上帝の人格化したものと思われる

この二句は不思議なことに簡秋と啓が誰を生んだのか全

く言わないテキストに脱落がなければ次の章の登場人

物を簡秋の子と考えるのが最も素直であろうところが次

に登場するのは

「玄王」でも

「契」でもない

18

56該乗季徳頗父是滅胡絡弊干有屈牧夫牛羊0

57干協時舞何以懐之平脅鼻膚何以肥之

58有屈牧豊云何而逢撃林先出其命何徒

壬亥はその父季の徳を縫いだが父は立涯な人であ

ったどうして王亥はとうとう有易園に落ちぶれそ

ゐ牛羊を養

っていたのかO

たて

あわ

いだ

協せて舞う女を見てど-してその女を

のか

平らかな脇腹に細やかな皮膚どうしてこの女

まじ

ったのか

王亥は有易園の牧童にどのようにして合

ったのか

寝込みを襲われて先に逃げ出したがどこから逃げ出

して助かったのか

56章の

「該」を王逸は

「竜也」と解しているが晴代に至

って王関連が人名ではないかと疑問を呈出L

t

王国経が卜

軒との対照によって王亥であると断じて以来この説が支配

的であるこの四句も前途の山海経や竹書紀年と共に王

亥が牧神であ

ったことを示すものとしてよ-引かれる57

章は難解であり注揮家ごとに説が異なると言

ってもよい

股周開園の神話と

「紳代史」(大野)

ほどであるが王亥の婚姻のことを云うとする需介甫氏

黒須重彦氏の説に徒う58章は王亥が殺されそうにな-な

がら辛-も逃れたことを云い前に引いた山海経などの所

侍と関係があるものと思われる

この三幸の記述から王亥の迫害と文化創造のモチーフを

見出すことはさほど困難なことではないし簡秋と孝によ

る殿租の神的な誕生も前章までに述べた例と同様に何ら

かの形で王亥に英雄的資質をもたらすものと考えられる

簡秋が生んだのが王亥であると断定できれば話は簡単なの

であるが56章には王亥の父としての

「季」が登場してお

り従

って天問に於ては簡狭

暑-季1王亥という系譜が

成立していたことになるしかし卜辞に見える

「季」は高

租でない租神の一人にすぎず

「高租王亥」が

「季」を父と

していたとは考え難いo

l鮭に卜解における租紳相互間の

父子関係は不明な部分が多-本来は寧ろ横

一列に並ぶ関

係であ

ってどれも

「租先」に襲わ-はないのであ-果

たした功績や役割の違いによってそれぞれに分化したもの

と考えた方がよい卜辞における

「季」の神威は他の租紳

19

中国文革報

第四十六桝

と襲わらないが

天問では尊と王亥との橋渡し的な性格に

襲わったのである

59恒乗季徳蔦得夫朴牛何徒費班緑不但遠来

王恒も李の徳を鰹ぎ王亥の養

った僕牛を得たど

あまね

はどこ

うして狩-に行

って獲物を

-

民に

ただ行

って

締るだけに止まらなかったのか

「恒」は王遠江では

「常也」と云うがこれも王国経が卜

辞に見える王恒のことであると解して以来諸家概ねこれ

に徒う「班稀」は近年の解帯では

「官位」「栄達」等に解

され

「王恒が有易図で出世しょうとした」意であるとす

るがす

っき-しない解輝であるー辞に見える王恒は

弓の形の中に

「恒」字を入れたものもあ-寧ろ

「湯は狩

-に往-際ただ行

って締るだけではな-民に編-施し

を輿えた」とする王逸注の方が原初的な意味に近いと思わ

れる但し主語は湯ではな-王恒である張光直氏は王恒

と罪に何らかの関係があるのではないかと考えるが

それ

よ-は駿人の狩猟柵であ

ったと考えた方が良いかも知れな

いただ王恒の事境を記した文献が他に存在せず容易に

結論を得難いのは残念なことである

60昏微遵述有狭不寧何繁鳥葦棟負子韓情

61絃弟遠軽危害顔見O何襲化以作許後嗣而逢長

上甲微は父王亥の事鏡を鮭ぎ有易園は安定を保て

ず滅びたどうして有易の人民は妹に止まる鳥のよう

に苦しんでいるのに上甲微はその子女にまで横暴な

ことをしたのか

目の陪んだ請弟はみな道ならぬことをしその兄上

甲微に危害を加えたのにどうしてうま-ごまかして

その子孫が長-祭えることになったのか

この二章も本づ-所がはっき-せず難解であるが「昏微」

はやは-王国経が上甲微のことであるとしてお-その事

蹟を云うものと考えられる上甲微は卜辞で系譜が明らか

な請王のうちで

一番古い租先に普た-いわば

「人王」の

租であるがここでは王亥と同様の迫害モチーフが再び現

⑳れその事鏡は既に神話化されていたものと見られる「何

襲化以作詐後嗣而逢長」の二句はそ-した神話であるが

故の不合理性を問うているのである

- 20-

62成湯東巡有等宴極何乞彼中臣而吉妃是得

63水漬之木得彼中子夫何悪之腰右筆之婦

64湯出重泉夫何皐尤不勝心伐帝夫誰使挑之

湯は東方

へ巡狩Lt有等園までやって来たど-し

てあの中臣伊声に乞い求めて良い妃を得たのか

水蓮の木から有等氏の君主は伊声を得たとい-が

どうして伊声を嫌

って湯の妃に付き添わせたのか

湯は重泉の牢獄から出て来たがそれは何の罪だっ

たのか正義を求める心を抑えられず実を伐

ったが

誰が彼をそうさせたのか

商頭における湯は夏架や尾吾氏を伐

った英雄として非常に

多-の紙幅を割いて賞揚されていたのであるが天間では

僅か三幸で終わ-しかもその年分は彼の名臣伊声のこと

に費され天下を平定した聖王にしてはかなり冷淡な描き

方である多-とも王亥や上甲微などと同等の重さしか持

っていないといえるしかしこの簡単な記述は神話的な趣

きに富んでいる伊声は呂氏春秋

本味簾で

「有佐氏の女

が空桑の中から嬰兄を得て

それを君主に献じ君主は

般周開乾の神話と

「紳代史」(大野)

料理人に彼を育てさせた」云々と書かれるような俸説をも

つがその原型とみられる記事が63章にあ-64章の

「湯

出重泉」も森安太郎氏が

「陽

(太陽神)が海の下を-ぐっ

て再び現れ出る様子」

と解したほどであるその虞偽は措

-としても

「重泉に囚われてから脱出」

というのがこれ

まで屡々登場してきた迫害1事業完成のモチーフであるこ

とは明白であ-この迫害こそ棄てられた后稜と同じ-英

雄を英雄たらしめる神話素の一つである殿人にとって湯

「人王」であったはずであるが楚人にとっての夏殿革

命は既に神話となっていた宋人にとっても同じであ

った

と思われるしかし東周時代の為政者の意識は最早神話を

古代人の如-

「心象における事資」として受け取ることを

許さなかった神話の神話たる所以である英雄の迫害も

政治家としての彼等にとっては

「不合理」以外の何もので

もな-統治強化の障碍でしかなかったであろうそれ故

その

「不合理」を宋人は頒詩から治し去-楚人は

「天に

問」うたのである東周の殿開園神話はその鮎で西周人

の神話と歴史が

一鰻になった

「神代史」であ

った詩経

21

中国文筆報

第四十六冊

雅の周王朝開園の物語とは成因がやや異な-神話そのも

のを改襲した

「神代史」であるといえよう

再び天間に戻ろうここで語られる殿王朝開園神話を綜

合すると腰租誕生1夏殿革命という流れは商頭でのそれ

とはぼ

一致するのであるが商頚では全-無税されている

王亥

王恒や上甲微の事浜を多-記している所が大いに異

なるこれらの先王は卜軒に於ても租神として柁られてお

-殊に愛

(餐)王亥は

「高租」と崇められていたのであ

るから天問における殿租誕生や牧牛創始の偉大な功績も

殿代からその根摸となるべき停東があったものと考えられ

る殿の未森たる被征服図

宋図で語られなかった文化神

が周の政治的願力が比較的少なかったであろ-楚園に於

て生き残

っていたのであ-「王亥を構える頒詩は政治的

要請によって胴去されたのではないか」という前章で捉

起した推測は更に確貴性を樹して-るのである

このように文化神を語る神話は政治的な事情によって

改襲されやすいという

一つの傾向が次第に明らかになって

きたのであるが天間に見える周王朝開園神話を詩経

雅のそれと比べてみるとその傾向は

一層はっき-する

これについては次章で検討することにしてその前に前

章で提起したもう

一つの問題即ち契と後に呼ばれるよう

になる殿紐の正鰻について卑見を示しておきたい

1般には詩経

商頒

「玄鳥」

「長顎」の鄭隻や楚鮮

天問の王逸注史記

殿本紀などから筒状が生んだ殿租

が契であるとされ詩経や楚軒の注揮家も特に疑問を抱い

ていないしかしこれまで見てきた詩経や天問には契の名

は全-見えていない国語を見ると周語下には

玄王勤商十有四世而興

玄王は商のために働き十四世かかって興起した

鄭語には商

契能和合五教以保干百姓者也

商契は五教をよ-調和させ人民を守-養

った人で

魯語上には

契為司徒而民韓-上甲微能帥契者也o

契は司徒の官となって人心を和らげ--上甲微は

22

たす

契をよ-

た人である

自玄王以及主薬莫若湯

文王から主薬

(湯の父)に至るまで湯よ-すぐれた

者はいない

とあるこれらを見ると契とい-名は周

楚以外の

園で用いられし

かも

「司徒として五教によって人心を安

定させた」という事鏡が語られている抽象的な形ではあ

るが文化面での功寮が取-上げられているのである

そうすると陳夢家氏の

「契と刻は互訓であ-共に亥

と普通である故に契は即ち王亥である」とする説が有力

な説として浮上して-るOこれまでの考察から王亥は殿

の高租にして文化所であ-従

って契というのは王亥の周

連諸国での呼び名であ-「五教」云々は王亥の文化神的

な面が周遠諸国に於て襲化したものと考えられるのである

もう

1万の

「司徒」という面に注目すると楊寛氏は

「司

徒」は

「司土」であるとして契は社紳

(土地紳)であった

と考えている「司徒」を

「司土」と表記するのは西周金文

に多-見られる用法であ-本来は土地や農業を司る官で

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

あったらしいまた史記

殿本紀には

「実は南を佐けて治

水に功があった」とあ-梁玉縄の疑う如き司馬遷の臆説

でな-古-からの停承に基づいているものであるならば

契に夏南の如き下士造成神的な面もあった可能性は捨てき

れない司土の官は農業にも関係が深いことから契は土

地神にして農神の性格をも持つことにな-このことは王

亥が牧牛の創始者であることと関係があるのかも知れない

なお尚書尭典には

帝日「乗努民阻飢o汝后榎播時百穀O」帝日

「契百姓不親五品不遜汝作司徒敬敷五教在寛」

もろもろ

舜は言った「棄よ

民は飢え苦しんでいる

汝は后頑の官とな-

この百穀を播け」と舜は言

った「契よ人民は互いに仲良-せず父子

君臣

夫婦

長幼

朋友の序に従わない汝は司徒の官とな

つつし

-五教を敬んで廉め心を寛-して治めよ」と

とあ-同じ-尚書の周官には

司徒掌邦教敷五典擾兆民

司徒は閲の教化を掌-五教を廉め多-の民を順

23

中国文畢報

第四十六肋

わせる

とあ

って司徒が教化の官であるかの如-書かれているが

これは后積が農官とされたために契は

「五教を康めた」面

のみが取-上げられそれが司徒の官名に結びついてかか

る誤解を生んだものであ-司徒の本来の意味ではないと

考えられる

周やその支配下にあった宋園では殿租に玄王という名

が使われてお-玄鳥による神的な誕生と商の興起のた

めに轟-したとい-事暁が語られる

魯園では

「契」

「玄

王」両方が見えるがー契と言う場合は文化的な功績が描か

れ玄王と言う場合は始租としての面に注目されている

恐ら-

「玄王」とは契=

王亥の始租としての面が強調され

た時の呼稀であ

ったと思われる文化人類学的にも「玄」

という名は始源の闇や滞沌を連想させるものであ-例え

ば老子

六章の

玄牝門天地板

玄牝の門(女陰)は天地寓物の根源である

の如-である

宋園や周では殿租の文化神的な面が抹殺さ

れたために始租神としての

「玄王」の呼稀が定着し魯

鄭などの周連列国では儒教的に襲化した文化神として

「契」と呼ばれ楚国では殿代の呼稀

「王亥」が原形に近

い形で保存されて

「該」と呼ばれたのであろう

四楚鮮

天問の周王朝開園神話

まず天問における殿周開園神話の大筋の流れを圏示する

と附固

一のようになる我々の常識で考えるならば夏殿

革命の次に殿のその後の衰亡を歌いそれから周王朝

へと

移る構成をとるのが普通であるが天問では夏殿革命から

いきな-周の衰亡

へと飛びそこから殿の衰亡

へと戻る間

くりかえ

「天命は

」というテーゼを挟み込んでいるこの

ような操作によってどの王朝も同じように興亡を繰-近

すというテーゼが

7層際立つのであ-

T見乱雑に見える

排列が安は高度なレトリックを用いた結果であるという

ことがわかる

次に殿周の開園が歌われている各章を時間順に並べ

かえて相互に封比してみると附圏二のようになるこの固

24

殻周開園の耐話と

「神代史」(大野)

附圃- (丸内の数字は葦の通し番競)

舜と女梱 ⑱~

「験萌在初」

1

度の先王 ~

t

夏殿革命 ~

周の先王

l

殿周革命 ⑮~cent)

iiiiia段の衰亡 ~ 周の興亡

一- 一 ノ ー「天命反側」

附圏二

段 簡秋と唇の通婚

王亥 有易で牛羊を牧す

王亥の婚姻

王亥 殺されかける

王位 王亥の牛を得る

上甲微 父の遺業を鮭ぐ

肢弟が上甲微を迫害

一寸 どうして子孫が栄えたのか」

~ 楚の興亡

周 ⑯ 后硬 氷上に捨てられる

上帝をも驚かす武勇

-「どうして子孫が栄えたのか」

成湯 伊声を得る

伊デの生い立ち

湯 壷泉から出て案を伐つ

- 25-

⑳ 文王 天命 もて段を覆す

岐山に移る殿の惑婦

文王 村の無道を天に告げる

文王 太公望を得る

武王 急いで殿を伐つ

武王の朝合

周公 武王をよしとせず

武玉 村を伐つ

中隊文革報

第四十六筋

一見して知ることができるのは周の先王には僅か二章

しか使わず殿周革命に九章も費やしてお-殿王朝の方

が租神に多-の章を割いて夏殿革命には三章しか使わな

いのと対照的であるということである

周王朝開園を云う章をもう少し詳し-見てい-と

76積維元子帝何竺之投之干水上鳥何燐之

77何漏弓挟矢殊能渚之既驚帝切激何逢長之

后稜は上帝の長子であるのに上帝はどうして彼に

危害を加えたのか彼を氷の上に捨てると鳥はどう

してこれを暖めたのか

どうして弓をひきしぼ-矢を挟みすぐれた才能で

武婿となったのか上帝をも驚かすほどひどいことを

したのにどうしてその子孫は長-栄えたのかQ

后積が上帝の子であるのに迫害され鳥によって助けられ

たというのは詩経

大雅

「生民」と同様であるが周租后

礎の両的資質を云-のみであ

って農業費明には全-解れ

られていない77章は王逸注では前二句を后稜後二句を

武王の事績とするが洪興租補注は全部を武王の事績とし

朱子はその両方を疑問であるとす

78章以下では文王の

ことを云う章が績いてお-この章を武王の事虞とする課

には従えない聞

多や衰珂

氏は全部を后頑の事鏡とする

が必ずしも后榎に限定することはできない少な-とも

古公以前の

「神代」の先王のうちの誰かであることは確か

であろう後二句の

「上帝をも驚かすようなことをしなが

らどうして子孫が栄えたのか」という疑問が殿の租神と

「人王」の境目である上甲微を語る61章の後二句と似るか

らである周の先王を歌うのはこの二幸で終わ-であ-

そこでは先王たちの文化的功績は全-歌われておらず殿

の先王に比べて極めて冷淡な扱いである

78章以下は殿周革命にまつわる様々の問が寛せられるが

詩経

大雅に見えておらずまた考古学的な裏付けもない

俸説的な事件もい-つか見えているとはいえ神話的な奇

怪さには乏しいといえる0

79遷蔵就岐何能依O殻有感婦何所説

貴職していた重器を移して岐山にやって充たがどう

して人民がそれに従

ったのか殿には人を舷惑させる

26

女がいたというが何のために議話しょうとしたのか

前句についてはこれを文王に懸ける説

大王に懸ける課

あるが前後で文王のことを歌

っているので大王の事蹟と

するのには難があるとはいえその内容は詩経

大雅

「崩」

に云う古公宜父の事鏡に近-どちらに限定することもで

きない「大王から文王までの問」とする他ないであろ-

後二句は肘の妃である坦己を云うとされるがその何につ

いて問うているのかは明らかではないしかし両者とも

その

「答」となるべき俸説がこの時代に前後して現れてお

-前者については

1章で引いた孟子

染着王下後者に

ついては太平御覧奄

1三五引世本に

「村が有蘇氏を伐

った

時有蘇氏は坦己を妃にさし出した肘はこれを愛して言

うことを何でも聞いたために武王が肘もろとも殺した

云うのがこれに普たる

66到峯村窮叔旦不嘉O何親撰車足周之命以各嵯

肘の首をはねるに至-周公且はこれをよしとしな

かったどうして周自ら謀

って殿を討とうとしたのに

その行動は人民に支持されたのか

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

後二句は極めて難解であるがいま黒須重彦氏の解樺に従

う他の諸家にはテキストの文字操作で意味を通らせよ-

とする者も多い前二句を王逸は

「武王の舟に白魚が飛び

込んだので群臣が

『吉兆だ』と言ったのに封Lt周公が

『吉兆ではあるが吉兆と思

ってはならぬ』と戒めたことを

云う

と解しているがこれは史記

周本紀の記事を敦術

したものであって漢初の五行思想の産物である寧ろ所

謂伯夷

叔奔停説の前駆形と考えた方がよい

ここに引いた事件が果たして史寛であ

ったのか西周時

代に生まれた俸説か或いは東周以後の俸説であるのかは

容易に判断できないしかしいずれにしても西周人の

「神

代史」からは無税されていた事件が本来の形ではないに

しても再び記録される動きをここに見ることができるので

あ-結語で述べる

「神代史の再神話化」の萌芽であると

いえるO

このような新しい動きはあるものの天問の周開園神話

も始祖の神的誕生1英雄的事業の達成という基本的な構造

には全-襲わ-はないしかし全鰻を通じて諸王の文化的

27

中閲文革報

第四十六筋

功績には全-解れられていないばか-か周の先王=

租秤

に封しても極めて冷淡であ-殿に封する態度とは明らか

に異な

っているのである

このことは昔時の楚園が周文化よ-も殿文化の方により

親しみその信仰

習俗等を保持していたことの一つの讃

接であろう楚文化と殻文化の関係の深さは既に様々な面

から指摘されてお-例えば楚辞

九歌に見える「雲中君」

「河伯」の神がト辞にも

「雲」「河」神として見えているこ

とや西周末期のものと見られる楚の青銅鐘は殿の鍔と形

が似てお-その銘文も殿金文に似た雄滞な書鰻であるこ

とな

どが挙げられるこのよ-な現象が生じた過程として

は(一)歴代から楚は殿に臣屈してその文化を受け入れ

周の時代になっても表向きは周に臣属しながらも殿の文化

を保持し績けた(二)周代以後に国力を埼大した楚園は

への対抗上その文化を拒み隣接する宋園の殿文化を積

極的に導入したという二つの説が考えられる前者の立

場を取る者はその根接として詩経

商頒

「殿武」の

撞彼殿武奮伐剰楚突入其阻衷利之放有戟其

所湯孫之緒(一章)

敏疾なる武丁は奮起して剤楚を伐ち険しい山地

に攻め入って刑楚の兵士を虜にしその地を平げ

湯王の子孫として手柄を立てた

という部分を畢げることが多い

前述の如-商頭目鰻が

宋園の楚国

への対抗心から作られたものであ-我が国の

紳功皇后遠征説話と同じ-どこまで史寛を反映している

かは未知数であるしかも卜辞などの殿代の地下資料から

は昔時の殿楚関係を示すものはまだ見つかっていない

一方後者については史記

楚世家に周の夷王の時に

楚王熊粟が

「我は牽夷な-中国の詮親に興らず」と言っ

たという記事もあ-現時鮎ではこちらの説の方が有力で

あると思われるいずれにしても周とは言語や風土を異

にする楚閲で生まれた天問には意固したか否かはともか

-周文化の重税と殿文化

への傾斜が讃み取れるのであ-

周王朝側の論理で殿の文化碑の功績を壷-抹殺された詩経

商頭や周の文化神を構える詩経

大雅とは好封照を見

せているのである

28

結語及び除論

これまで述べ来

ったことを要約すると詩経や楚辞

問に見える殿周開園神話は始租の所的誕生1迫害1事業

(文化創造

天下統

一)の完遂という構造を持ち既に西洋

の英雄神話に於て指摘されている基本構造をここにも見出

すことができるただ西洋では

一人で行なわれることが多

い英雄としての事業が中国では教代に亙

って行なわれる

ことが多いという違いはあるところが殿の開園と周の

開園また詩経と天問の相互間で詳し-比較してみると

神々の文化的功績は神話が記録された常時の政治的な事情

によって抹殺されることがあるという事資に束づ-この

ことは中国に於ては剣を振るって活躍する英雄よ-も

文化を創始する

「聖王」の方が重きをなしてお-氏族や

国の威光を左右するものであ

ったということの一つの謹左

といえよう

詩経

大雅における周王朝開園神話は高租にして文化

神である后稜-公劉を神話的要素に富む叙事詩によって語

段周開園の紳話と

「神代史」(大野)

っているが

「人王」の代に至ると

殊に王李に新著に見

られる如-諸王にとってマイナスイメージを輿えかねな

い史寛は壷-制去され武力革命の成功を

「神代」から引

き継がれた輝かしい事業として稀讃している周王朝の開

園神話とそれに績-殿周革命の史糞は詩が記録されるま

での間に

「神代史」

へ改愛されたのであるそこに支配強

化のための王室神聖化という高度な政治的意圏が働いてい

るのは確資であろう

段の遺民の園である春秋の宋園における段王朝開園神話

詩経

商項の諸篇は最終的には周王朝側の人々によって

記録

編輯されたものであ-それ故殿人の信仰した文化

紳は義-抹殺され支配者としての周王朝の論理に基づ-

「神代史」に改変されているOそれに封して楚辞

天問の

殻王朝開園神話には卜辞にも見える租紳たちの神話的雰囲

気に富む物語が多-残

ってお-逆に天問の周王朝開園神

話では周の先王の文化的功績を無税していて宋国との政

治的

風土的立場の違いを明瞭に浮かび上がらせているの

である

- 29-

中国文学報

第四十六筋

か-の如-

神話時代やそれに績-歴史が為政者の手に

よって

「神話化」される場合は中開の諸秤の中で重い比

重を占める文化神が記録者の政治的立場に従

って改奨され

「人王」に封しては

「都合の悪い」史貴を切-捨てて

「神

代史」

へと仕立てられるのであるが東周時代になるとそ

れとは逆に「人王」にも神話素の一つとして解揮可能な俸

説が様々な書物に記録されるようになる既に引用した文

王の安里幽閉

伯夷

叔斉の餓死などがそれであ-

「人

王」の物語もこれによって組両と同様の典型的神話

へ近づ

いてい-のであるこれらが記録されたのは諸子百家の書

物であ-昔時の遊説家たちが民間に流布していた停説を

敬-上げて自説を述べるために用いたものと考えられる

これらの停説が古い形をそのまま保

っているか否かは全-

保護がないとはいえ政治力撃の働きに-いレベルに於て

「神代史」に再び神話的物語が付け加えられるようにな

たということはいえるいわば

「神代史の再神話化」であ

-

1般に

「中国古代王朝神話」として

1つの物語にまと

められているのはこうして

「再神話化」された結果の産物

なのであるこれらは確かに

「神話」としての要素を豊富

に含んでいるのであるがこれを中国古代神話の原型と見

なすことは不可能であ-上述の如-複雑な要因が絡み合

っているのである

こうして

「神代史」はたとえ元の形とは異なるにせよ

再び

「神話」としての光彩を放ち始めたところがこの

「神話」をまたも

「歴史」に固定してしまったのが他なら

ぬ史蓬であることは周知の通-である

しかし

「神代史の再神話化」の原動力とな

った

民間

に語-経がれた王朝停説のエネルギーもこれで絡恨したわ

けではなかったこうしたエネルギーはその後も小説に記

録された種々の歴史俸説などを生み出し形を襲えて生き

績けたのである

ところでこれまで本文中に取-上げなかった

一つの重

要な問題があるそれは

「楚園に古-から停わる楚人自身

の神々はど-な

っていたのか」という問題である

楚辞

天問にはその末尾に楚図の俸説と思われるものが

記されてはいるが多-の注帯家が匙を投げているはど難

30

解であ-筆者も今敢えてこれに挑戦するほどの飴裕はな

いoしかし離騒ではその冒頭で「私は帝高陽の未森である」

と歌

ってお-少な-とも屈原の時代では楚人は穎頭高陽

氏を租神としていたと考えられているが文化神に関する

記述は見えない

一方同じ頃に楚園で成立したと考えら

れている山海経

大荒西経には街頭の子孫の神々の事業

が豊富に記されている例えば重

寮の天地分離

太子長

琴の音禁孝明などである

これらの事章から得られる

一つの推測をここで述べると

楚辞に於ては楚人自らの文化両を表立

って取-上げられな

い事情があ

ったものと思われる楚語で書かれた「原楚鮮」

には書かれていたがそれを漢語に翻弄した際に宋図か

ら導入した殿の文化神に置き換えたのかも知れないそし

て自らの文化紳とその物語を速い

「大荒」の物語として

カムフラージ

ュしたのが他ならぬ山海経なのではなかろ-

かこの書が地理書の形をとっていることや他書に見ら

れない神話停説を豊富に載せていることなどは丁度我が

国の

『出雲園風土記』を思わせるものがあるまた殿の

殿周開国の神話と「神代史」(大野)

文化紳王亥が

「困民国」の人とな

っていた-楚の租神で

あるはずの蘭頂が

「額頭囲」なる図にいたとされているこ

となどもこの仮説の根嬢となろう

しかし最早紙幅も轟きているこの問題は山海経を中心

として改めて考察することにしたい

ば織井慶紀著池田末利編

『中図神話の文化人類学的

研究』(1九九〇平河出版社)があるoまたユング心理学の

立場から日本神話を分析したものとして河合隼雄

『中空構

造日本の深層』(一九八二中央公論社)等がある

近世以前の諸席の議論は専らこの怪異雫が信ずるに足るか

否かの次元に終始するが近代的な研究としては聞一多

「萎

娠履大人跡考」(『聞一多全集』第一射一九四八開明書店)

白鳥清

「段周感生神話の解揮」(『東洋学報』十五巷四親tT

九二五東洋協合学術調査部)出石誠彦

「上代支部の異常

出生説話について」(『支那神話俸説の研究』所収tl九四三

中央公論社)等がある

「帝上帝也」

「帝高華氏之帝也従於帝而見干天婿事賛敏也」

孔疏に

「頑柁郊礁之時英夫高辛氏帝率興供行妻娠随帝之

後践履帝迩行事敬而敏疾放鳥神歌饗紳既饗其条則

31

中国文筆報

第四十六筋

愛而拓之

於是為天神所美大為福緑所依止twz=得懐任則

震動而有身」と云う

例えば嗣西族の

『東巴控』に見える縛文字にこのことが窺

える附固三参照また河南省に俸わるロ東俸説によると

女桐が天から降ってきて伏義が地下から出てきたと云う

(陶陽

鍾秀

『中国創世神話』一九八九上海人民出版社二

一四頁)

附圏三

primeJ 一一一

~PJ虹互L

LJL

堅 室④

上部の 一へ は天下部の 皿 は大地を

表す圃①は中間に天地交合の気がありこれ

より荷物が生ずる固②の中間は蛙で天地交

合後の襲化を表す圃⑨では天地の間に男が上

女が下になっており男女の交合と同様にして

天地が人類を生んだことを表す

(陶陽 鍾秀 『中国創世神話』214頁)

「惟虞東学詩云人之初生皆裂胎而出騒失所依故堕地

郎帝惟羊連胞而下共産猪易故詩以

『如達』馬比o又常

熟陶太常元淳日凡嬰兄在母腹中皆有皮以豪之俗所謂胞

衣也生時其衣先破兄鰻手足少蔚放生之難O惟羊子之生

胸仇完具堕地而後母篤破之故共生易o后硬生時蓋戒於胸

中形鮭末露有如羊子之生者放言

『加速』今按前二説

是也下言

『不味不副』蓋謂其胞衣之不折裂也」(『毛詩俸

集通帯』巷二十五)

「徐君宮人娠而生卵以箆不詳秀之水演O猪孤母有犬名

鵠蒼へ猟干水溝へ得所弄卵衝以東蹄猪孤母以馬具凍俊

之逐沸成見生時正値へ故以為名徐君宮中聞之乃更録

取長而仁智襲君徐固」(博物志

異聞篇引徐値王志)

「高句凝着其先出自克明東明本北夷嚢離王子離王出

行其侍兄於後任娠離王達欲殺之侍見目『前見天上

有菊如大鶏子乗降我困以有嫉』王囚之後連生男玉

置之家牢家以口束嘘束不死o王以為所乃聴収養」(梁

諸夷俸)

北欧や古代

ハンガリー等に見られる豊富な例がKケレ-

ニイtCGユング

『神話撃入門』

一九五1(杉浦忠夫訳

1九七五晶文社)に引かれている

例えば壮族に俸わる

「種子と犬の尾」の物語では人々

「九尾狗」に天上の穀物を盗みに行かせたところ穀物を

九本の尾に-つつけて蹄ろ-としたところを番人に見つか-

八本の尾を叩き切られたが残-

1本の尾に穀物をつけて逃げ

師-人間は農業ができるようになったと云う

(陶陽

秀前掲書二七九頁)

32

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 20: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

56該乗季徳頗父是滅胡絡弊干有屈牧夫牛羊0

57干協時舞何以懐之平脅鼻膚何以肥之

58有屈牧豊云何而逢撃林先出其命何徒

壬亥はその父季の徳を縫いだが父は立涯な人であ

ったどうして王亥はとうとう有易園に落ちぶれそ

ゐ牛羊を養

っていたのかO

たて

あわ

いだ

協せて舞う女を見てど-してその女を

のか

平らかな脇腹に細やかな皮膚どうしてこの女

まじ

ったのか

王亥は有易園の牧童にどのようにして合

ったのか

寝込みを襲われて先に逃げ出したがどこから逃げ出

して助かったのか

56章の

「該」を王逸は

「竜也」と解しているが晴代に至

って王関連が人名ではないかと疑問を呈出L

t

王国経が卜

軒との対照によって王亥であると断じて以来この説が支配

的であるこの四句も前途の山海経や竹書紀年と共に王

亥が牧神であ

ったことを示すものとしてよ-引かれる57

章は難解であり注揮家ごとに説が異なると言

ってもよい

股周開園の神話と

「紳代史」(大野)

ほどであるが王亥の婚姻のことを云うとする需介甫氏

黒須重彦氏の説に徒う58章は王亥が殺されそうにな-な

がら辛-も逃れたことを云い前に引いた山海経などの所

侍と関係があるものと思われる

この三幸の記述から王亥の迫害と文化創造のモチーフを

見出すことはさほど困難なことではないし簡秋と孝によ

る殿租の神的な誕生も前章までに述べた例と同様に何ら

かの形で王亥に英雄的資質をもたらすものと考えられる

簡秋が生んだのが王亥であると断定できれば話は簡単なの

であるが56章には王亥の父としての

「季」が登場してお

り従

って天問に於ては簡狭

暑-季1王亥という系譜が

成立していたことになるしかし卜辞に見える

「季」は高

租でない租神の一人にすぎず

「高租王亥」が

「季」を父と

していたとは考え難いo

l鮭に卜解における租紳相互間の

父子関係は不明な部分が多-本来は寧ろ横

一列に並ぶ関

係であ

ってどれも

「租先」に襲わ-はないのであ-果

たした功績や役割の違いによってそれぞれに分化したもの

と考えた方がよい卜辞における

「季」の神威は他の租紳

19

中国文革報

第四十六桝

と襲わらないが

天問では尊と王亥との橋渡し的な性格に

襲わったのである

59恒乗季徳蔦得夫朴牛何徒費班緑不但遠来

王恒も李の徳を鰹ぎ王亥の養

った僕牛を得たど

あまね

はどこ

うして狩-に行

って獲物を

-

民に

ただ行

って

締るだけに止まらなかったのか

「恒」は王遠江では

「常也」と云うがこれも王国経が卜

辞に見える王恒のことであると解して以来諸家概ねこれ

に徒う「班稀」は近年の解帯では

「官位」「栄達」等に解

され

「王恒が有易図で出世しょうとした」意であるとす

るがす

っき-しない解輝であるー辞に見える王恒は

弓の形の中に

「恒」字を入れたものもあ-寧ろ

「湯は狩

-に往-際ただ行

って締るだけではな-民に編-施し

を輿えた」とする王逸注の方が原初的な意味に近いと思わ

れる但し主語は湯ではな-王恒である張光直氏は王恒

と罪に何らかの関係があるのではないかと考えるが

それ

よ-は駿人の狩猟柵であ

ったと考えた方が良いかも知れな

いただ王恒の事境を記した文献が他に存在せず容易に

結論を得難いのは残念なことである

60昏微遵述有狭不寧何繁鳥葦棟負子韓情

61絃弟遠軽危害顔見O何襲化以作許後嗣而逢長

上甲微は父王亥の事鏡を鮭ぎ有易園は安定を保て

ず滅びたどうして有易の人民は妹に止まる鳥のよう

に苦しんでいるのに上甲微はその子女にまで横暴な

ことをしたのか

目の陪んだ請弟はみな道ならぬことをしその兄上

甲微に危害を加えたのにどうしてうま-ごまかして

その子孫が長-祭えることになったのか

この二章も本づ-所がはっき-せず難解であるが「昏微」

はやは-王国経が上甲微のことであるとしてお-その事

蹟を云うものと考えられる上甲微は卜辞で系譜が明らか

な請王のうちで

一番古い租先に普た-いわば

「人王」の

租であるがここでは王亥と同様の迫害モチーフが再び現

⑳れその事鏡は既に神話化されていたものと見られる「何

襲化以作詐後嗣而逢長」の二句はそ-した神話であるが

故の不合理性を問うているのである

- 20-

62成湯東巡有等宴極何乞彼中臣而吉妃是得

63水漬之木得彼中子夫何悪之腰右筆之婦

64湯出重泉夫何皐尤不勝心伐帝夫誰使挑之

湯は東方

へ巡狩Lt有等園までやって来たど-し

てあの中臣伊声に乞い求めて良い妃を得たのか

水蓮の木から有等氏の君主は伊声を得たとい-が

どうして伊声を嫌

って湯の妃に付き添わせたのか

湯は重泉の牢獄から出て来たがそれは何の罪だっ

たのか正義を求める心を抑えられず実を伐

ったが

誰が彼をそうさせたのか

商頭における湯は夏架や尾吾氏を伐

った英雄として非常に

多-の紙幅を割いて賞揚されていたのであるが天間では

僅か三幸で終わ-しかもその年分は彼の名臣伊声のこと

に費され天下を平定した聖王にしてはかなり冷淡な描き

方である多-とも王亥や上甲微などと同等の重さしか持

っていないといえるしかしこの簡単な記述は神話的な趣

きに富んでいる伊声は呂氏春秋

本味簾で

「有佐氏の女

が空桑の中から嬰兄を得て

それを君主に献じ君主は

般周開乾の神話と

「紳代史」(大野)

料理人に彼を育てさせた」云々と書かれるような俸説をも

つがその原型とみられる記事が63章にあ-64章の

「湯

出重泉」も森安太郎氏が

「陽

(太陽神)が海の下を-ぐっ

て再び現れ出る様子」

と解したほどであるその虞偽は措

-としても

「重泉に囚われてから脱出」

というのがこれ

まで屡々登場してきた迫害1事業完成のモチーフであるこ

とは明白であ-この迫害こそ棄てられた后稜と同じ-英

雄を英雄たらしめる神話素の一つである殿人にとって湯

「人王」であったはずであるが楚人にとっての夏殿革

命は既に神話となっていた宋人にとっても同じであ

った

と思われるしかし東周時代の為政者の意識は最早神話を

古代人の如-

「心象における事資」として受け取ることを

許さなかった神話の神話たる所以である英雄の迫害も

政治家としての彼等にとっては

「不合理」以外の何もので

もな-統治強化の障碍でしかなかったであろうそれ故

その

「不合理」を宋人は頒詩から治し去-楚人は

「天に

問」うたのである東周の殿開園神話はその鮎で西周人

の神話と歴史が

一鰻になった

「神代史」であ

った詩経

21

中国文筆報

第四十六冊

雅の周王朝開園の物語とは成因がやや異な-神話そのも

のを改襲した

「神代史」であるといえよう

再び天間に戻ろうここで語られる殿王朝開園神話を綜

合すると腰租誕生1夏殿革命という流れは商頭でのそれ

とはぼ

一致するのであるが商頚では全-無税されている

王亥

王恒や上甲微の事浜を多-記している所が大いに異

なるこれらの先王は卜軒に於ても租神として柁られてお

-殊に愛

(餐)王亥は

「高租」と崇められていたのであ

るから天問における殿租誕生や牧牛創始の偉大な功績も

殿代からその根摸となるべき停東があったものと考えられ

る殿の未森たる被征服図

宋図で語られなかった文化神

が周の政治的願力が比較的少なかったであろ-楚園に於

て生き残

っていたのであ-「王亥を構える頒詩は政治的

要請によって胴去されたのではないか」という前章で捉

起した推測は更に確貴性を樹して-るのである

このように文化神を語る神話は政治的な事情によって

改襲されやすいという

一つの傾向が次第に明らかになって

きたのであるが天間に見える周王朝開園神話を詩経

雅のそれと比べてみるとその傾向は

一層はっき-する

これについては次章で検討することにしてその前に前

章で提起したもう

一つの問題即ち契と後に呼ばれるよう

になる殿紐の正鰻について卑見を示しておきたい

1般には詩経

商頒

「玄鳥」

「長顎」の鄭隻や楚鮮

天問の王逸注史記

殿本紀などから筒状が生んだ殿租

が契であるとされ詩経や楚軒の注揮家も特に疑問を抱い

ていないしかしこれまで見てきた詩経や天問には契の名

は全-見えていない国語を見ると周語下には

玄王勤商十有四世而興

玄王は商のために働き十四世かかって興起した

鄭語には商

契能和合五教以保干百姓者也

商契は五教をよ-調和させ人民を守-養

った人で

魯語上には

契為司徒而民韓-上甲微能帥契者也o

契は司徒の官となって人心を和らげ--上甲微は

22

たす

契をよ-

た人である

自玄王以及主薬莫若湯

文王から主薬

(湯の父)に至るまで湯よ-すぐれた

者はいない

とあるこれらを見ると契とい-名は周

楚以外の

園で用いられし

かも

「司徒として五教によって人心を安

定させた」という事鏡が語られている抽象的な形ではあ

るが文化面での功寮が取-上げられているのである

そうすると陳夢家氏の

「契と刻は互訓であ-共に亥

と普通である故に契は即ち王亥である」とする説が有力

な説として浮上して-るOこれまでの考察から王亥は殿

の高租にして文化所であ-従

って契というのは王亥の周

連諸国での呼び名であ-「五教」云々は王亥の文化神的

な面が周遠諸国に於て襲化したものと考えられるのである

もう

1万の

「司徒」という面に注目すると楊寛氏は

「司

徒」は

「司土」であるとして契は社紳

(土地紳)であった

と考えている「司徒」を

「司土」と表記するのは西周金文

に多-見られる用法であ-本来は土地や農業を司る官で

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

あったらしいまた史記

殿本紀には

「実は南を佐けて治

水に功があった」とあ-梁玉縄の疑う如き司馬遷の臆説

でな-古-からの停承に基づいているものであるならば

契に夏南の如き下士造成神的な面もあった可能性は捨てき

れない司土の官は農業にも関係が深いことから契は土

地神にして農神の性格をも持つことにな-このことは王

亥が牧牛の創始者であることと関係があるのかも知れない

なお尚書尭典には

帝日「乗努民阻飢o汝后榎播時百穀O」帝日

「契百姓不親五品不遜汝作司徒敬敷五教在寛」

もろもろ

舜は言った「棄よ

民は飢え苦しんでいる

汝は后頑の官とな-

この百穀を播け」と舜は言

った「契よ人民は互いに仲良-せず父子

君臣

夫婦

長幼

朋友の序に従わない汝は司徒の官とな

つつし

-五教を敬んで廉め心を寛-して治めよ」と

とあ-同じ-尚書の周官には

司徒掌邦教敷五典擾兆民

司徒は閲の教化を掌-五教を廉め多-の民を順

23

中国文畢報

第四十六肋

わせる

とあ

って司徒が教化の官であるかの如-書かれているが

これは后積が農官とされたために契は

「五教を康めた」面

のみが取-上げられそれが司徒の官名に結びついてかか

る誤解を生んだものであ-司徒の本来の意味ではないと

考えられる

周やその支配下にあった宋園では殿租に玄王という名

が使われてお-玄鳥による神的な誕生と商の興起のた

めに轟-したとい-事暁が語られる

魯園では

「契」

「玄

王」両方が見えるがー契と言う場合は文化的な功績が描か

れ玄王と言う場合は始租としての面に注目されている

恐ら-

「玄王」とは契=

王亥の始租としての面が強調され

た時の呼稀であ

ったと思われる文化人類学的にも「玄」

という名は始源の闇や滞沌を連想させるものであ-例え

ば老子

六章の

玄牝門天地板

玄牝の門(女陰)は天地寓物の根源である

の如-である

宋園や周では殿租の文化神的な面が抹殺さ

れたために始租神としての

「玄王」の呼稀が定着し魯

鄭などの周連列国では儒教的に襲化した文化神として

「契」と呼ばれ楚国では殿代の呼稀

「王亥」が原形に近

い形で保存されて

「該」と呼ばれたのであろう

四楚鮮

天問の周王朝開園神話

まず天問における殿周開園神話の大筋の流れを圏示する

と附固

一のようになる我々の常識で考えるならば夏殿

革命の次に殿のその後の衰亡を歌いそれから周王朝

へと

移る構成をとるのが普通であるが天問では夏殿革命から

いきな-周の衰亡

へと飛びそこから殿の衰亡

へと戻る間

くりかえ

「天命は

」というテーゼを挟み込んでいるこの

ような操作によってどの王朝も同じように興亡を繰-近

すというテーゼが

7層際立つのであ-

T見乱雑に見える

排列が安は高度なレトリックを用いた結果であるという

ことがわかる

次に殿周の開園が歌われている各章を時間順に並べ

かえて相互に封比してみると附圏二のようになるこの固

24

殻周開園の耐話と

「神代史」(大野)

附圃- (丸内の数字は葦の通し番競)

舜と女梱 ⑱~

「験萌在初」

1

度の先王 ~

t

夏殿革命 ~

周の先王

l

殿周革命 ⑮~cent)

iiiiia段の衰亡 ~ 周の興亡

一- 一 ノ ー「天命反側」

附圏二

段 簡秋と唇の通婚

王亥 有易で牛羊を牧す

王亥の婚姻

王亥 殺されかける

王位 王亥の牛を得る

上甲微 父の遺業を鮭ぐ

肢弟が上甲微を迫害

一寸 どうして子孫が栄えたのか」

~ 楚の興亡

周 ⑯ 后硬 氷上に捨てられる

上帝をも驚かす武勇

-「どうして子孫が栄えたのか」

成湯 伊声を得る

伊デの生い立ち

湯 壷泉から出て案を伐つ

- 25-

⑳ 文王 天命 もて段を覆す

岐山に移る殿の惑婦

文王 村の無道を天に告げる

文王 太公望を得る

武王 急いで殿を伐つ

武王の朝合

周公 武王をよしとせず

武玉 村を伐つ

中隊文革報

第四十六筋

一見して知ることができるのは周の先王には僅か二章

しか使わず殿周革命に九章も費やしてお-殿王朝の方

が租神に多-の章を割いて夏殿革命には三章しか使わな

いのと対照的であるということである

周王朝開園を云う章をもう少し詳し-見てい-と

76積維元子帝何竺之投之干水上鳥何燐之

77何漏弓挟矢殊能渚之既驚帝切激何逢長之

后稜は上帝の長子であるのに上帝はどうして彼に

危害を加えたのか彼を氷の上に捨てると鳥はどう

してこれを暖めたのか

どうして弓をひきしぼ-矢を挟みすぐれた才能で

武婿となったのか上帝をも驚かすほどひどいことを

したのにどうしてその子孫は長-栄えたのかQ

后積が上帝の子であるのに迫害され鳥によって助けられ

たというのは詩経

大雅

「生民」と同様であるが周租后

礎の両的資質を云-のみであ

って農業費明には全-解れ

られていない77章は王逸注では前二句を后稜後二句を

武王の事績とするが洪興租補注は全部を武王の事績とし

朱子はその両方を疑問であるとす

78章以下では文王の

ことを云う章が績いてお-この章を武王の事虞とする課

には従えない聞

多や衰珂

氏は全部を后頑の事鏡とする

が必ずしも后榎に限定することはできない少な-とも

古公以前の

「神代」の先王のうちの誰かであることは確か

であろう後二句の

「上帝をも驚かすようなことをしなが

らどうして子孫が栄えたのか」という疑問が殿の租神と

「人王」の境目である上甲微を語る61章の後二句と似るか

らである周の先王を歌うのはこの二幸で終わ-であ-

そこでは先王たちの文化的功績は全-歌われておらず殿

の先王に比べて極めて冷淡な扱いである

78章以下は殿周革命にまつわる様々の問が寛せられるが

詩経

大雅に見えておらずまた考古学的な裏付けもない

俸説的な事件もい-つか見えているとはいえ神話的な奇

怪さには乏しいといえる0

79遷蔵就岐何能依O殻有感婦何所説

貴職していた重器を移して岐山にやって充たがどう

して人民がそれに従

ったのか殿には人を舷惑させる

26

女がいたというが何のために議話しょうとしたのか

前句についてはこれを文王に懸ける説

大王に懸ける課

あるが前後で文王のことを歌

っているので大王の事蹟と

するのには難があるとはいえその内容は詩経

大雅

「崩」

に云う古公宜父の事鏡に近-どちらに限定することもで

きない「大王から文王までの問」とする他ないであろ-

後二句は肘の妃である坦己を云うとされるがその何につ

いて問うているのかは明らかではないしかし両者とも

その

「答」となるべき俸説がこの時代に前後して現れてお

-前者については

1章で引いた孟子

染着王下後者に

ついては太平御覧奄

1三五引世本に

「村が有蘇氏を伐

った

時有蘇氏は坦己を妃にさし出した肘はこれを愛して言

うことを何でも聞いたために武王が肘もろとも殺した

云うのがこれに普たる

66到峯村窮叔旦不嘉O何親撰車足周之命以各嵯

肘の首をはねるに至-周公且はこれをよしとしな

かったどうして周自ら謀

って殿を討とうとしたのに

その行動は人民に支持されたのか

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

後二句は極めて難解であるがいま黒須重彦氏の解樺に従

う他の諸家にはテキストの文字操作で意味を通らせよ-

とする者も多い前二句を王逸は

「武王の舟に白魚が飛び

込んだので群臣が

『吉兆だ』と言ったのに封Lt周公が

『吉兆ではあるが吉兆と思

ってはならぬ』と戒めたことを

云う

と解しているがこれは史記

周本紀の記事を敦術

したものであって漢初の五行思想の産物である寧ろ所

謂伯夷

叔奔停説の前駆形と考えた方がよい

ここに引いた事件が果たして史寛であ

ったのか西周時

代に生まれた俸説か或いは東周以後の俸説であるのかは

容易に判断できないしかしいずれにしても西周人の

「神

代史」からは無税されていた事件が本来の形ではないに

しても再び記録される動きをここに見ることができるので

あ-結語で述べる

「神代史の再神話化」の萌芽であると

いえるO

このような新しい動きはあるものの天問の周開園神話

も始祖の神的誕生1英雄的事業の達成という基本的な構造

には全-襲わ-はないしかし全鰻を通じて諸王の文化的

27

中閲文革報

第四十六筋

功績には全-解れられていないばか-か周の先王=

租秤

に封しても極めて冷淡であ-殿に封する態度とは明らか

に異な

っているのである

このことは昔時の楚園が周文化よ-も殿文化の方により

親しみその信仰

習俗等を保持していたことの一つの讃

接であろう楚文化と殻文化の関係の深さは既に様々な面

から指摘されてお-例えば楚辞

九歌に見える「雲中君」

「河伯」の神がト辞にも

「雲」「河」神として見えているこ

とや西周末期のものと見られる楚の青銅鐘は殿の鍔と形

が似てお-その銘文も殿金文に似た雄滞な書鰻であるこ

とな

どが挙げられるこのよ-な現象が生じた過程として

は(一)歴代から楚は殿に臣屈してその文化を受け入れ

周の時代になっても表向きは周に臣属しながらも殿の文化

を保持し績けた(二)周代以後に国力を埼大した楚園は

への対抗上その文化を拒み隣接する宋園の殿文化を積

極的に導入したという二つの説が考えられる前者の立

場を取る者はその根接として詩経

商頒

「殿武」の

撞彼殿武奮伐剰楚突入其阻衷利之放有戟其

所湯孫之緒(一章)

敏疾なる武丁は奮起して剤楚を伐ち険しい山地

に攻め入って刑楚の兵士を虜にしその地を平げ

湯王の子孫として手柄を立てた

という部分を畢げることが多い

前述の如-商頭目鰻が

宋園の楚国

への対抗心から作られたものであ-我が国の

紳功皇后遠征説話と同じ-どこまで史寛を反映している

かは未知数であるしかも卜辞などの殿代の地下資料から

は昔時の殿楚関係を示すものはまだ見つかっていない

一方後者については史記

楚世家に周の夷王の時に

楚王熊粟が

「我は牽夷な-中国の詮親に興らず」と言っ

たという記事もあ-現時鮎ではこちらの説の方が有力で

あると思われるいずれにしても周とは言語や風土を異

にする楚閲で生まれた天問には意固したか否かはともか

-周文化の重税と殿文化

への傾斜が讃み取れるのであ-

周王朝側の論理で殿の文化碑の功績を壷-抹殺された詩経

商頭や周の文化神を構える詩経

大雅とは好封照を見

せているのである

28

結語及び除論

これまで述べ来

ったことを要約すると詩経や楚辞

問に見える殿周開園神話は始租の所的誕生1迫害1事業

(文化創造

天下統

一)の完遂という構造を持ち既に西洋

の英雄神話に於て指摘されている基本構造をここにも見出

すことができるただ西洋では

一人で行なわれることが多

い英雄としての事業が中国では教代に亙

って行なわれる

ことが多いという違いはあるところが殿の開園と周の

開園また詩経と天問の相互間で詳し-比較してみると

神々の文化的功績は神話が記録された常時の政治的な事情

によって抹殺されることがあるという事資に束づ-この

ことは中国に於ては剣を振るって活躍する英雄よ-も

文化を創始する

「聖王」の方が重きをなしてお-氏族や

国の威光を左右するものであ

ったということの一つの謹左

といえよう

詩経

大雅における周王朝開園神話は高租にして文化

神である后稜-公劉を神話的要素に富む叙事詩によって語

段周開園の紳話と

「神代史」(大野)

っているが

「人王」の代に至ると

殊に王李に新著に見

られる如-諸王にとってマイナスイメージを輿えかねな

い史寛は壷-制去され武力革命の成功を

「神代」から引

き継がれた輝かしい事業として稀讃している周王朝の開

園神話とそれに績-殿周革命の史糞は詩が記録されるま

での間に

「神代史」

へ改愛されたのであるそこに支配強

化のための王室神聖化という高度な政治的意圏が働いてい

るのは確資であろう

段の遺民の園である春秋の宋園における段王朝開園神話

詩経

商項の諸篇は最終的には周王朝側の人々によって

記録

編輯されたものであ-それ故殿人の信仰した文化

紳は義-抹殺され支配者としての周王朝の論理に基づ-

「神代史」に改変されているOそれに封して楚辞

天問の

殻王朝開園神話には卜辞にも見える租紳たちの神話的雰囲

気に富む物語が多-残

ってお-逆に天問の周王朝開園神

話では周の先王の文化的功績を無税していて宋国との政

治的

風土的立場の違いを明瞭に浮かび上がらせているの

である

- 29-

中国文学報

第四十六筋

か-の如-

神話時代やそれに績-歴史が為政者の手に

よって

「神話化」される場合は中開の諸秤の中で重い比

重を占める文化神が記録者の政治的立場に従

って改奨され

「人王」に封しては

「都合の悪い」史貴を切-捨てて

「神

代史」

へと仕立てられるのであるが東周時代になるとそ

れとは逆に「人王」にも神話素の一つとして解揮可能な俸

説が様々な書物に記録されるようになる既に引用した文

王の安里幽閉

伯夷

叔斉の餓死などがそれであ-

「人

王」の物語もこれによって組両と同様の典型的神話

へ近づ

いてい-のであるこれらが記録されたのは諸子百家の書

物であ-昔時の遊説家たちが民間に流布していた停説を

敬-上げて自説を述べるために用いたものと考えられる

これらの停説が古い形をそのまま保

っているか否かは全-

保護がないとはいえ政治力撃の働きに-いレベルに於て

「神代史」に再び神話的物語が付け加えられるようにな

たということはいえるいわば

「神代史の再神話化」であ

-

1般に

「中国古代王朝神話」として

1つの物語にまと

められているのはこうして

「再神話化」された結果の産物

なのであるこれらは確かに

「神話」としての要素を豊富

に含んでいるのであるがこれを中国古代神話の原型と見

なすことは不可能であ-上述の如-複雑な要因が絡み合

っているのである

こうして

「神代史」はたとえ元の形とは異なるにせよ

再び

「神話」としての光彩を放ち始めたところがこの

「神話」をまたも

「歴史」に固定してしまったのが他なら

ぬ史蓬であることは周知の通-である

しかし

「神代史の再神話化」の原動力とな

った

民間

に語-経がれた王朝停説のエネルギーもこれで絡恨したわ

けではなかったこうしたエネルギーはその後も小説に記

録された種々の歴史俸説などを生み出し形を襲えて生き

績けたのである

ところでこれまで本文中に取-上げなかった

一つの重

要な問題があるそれは

「楚園に古-から停わる楚人自身

の神々はど-な

っていたのか」という問題である

楚辞

天問にはその末尾に楚図の俸説と思われるものが

記されてはいるが多-の注帯家が匙を投げているはど難

30

解であ-筆者も今敢えてこれに挑戦するほどの飴裕はな

いoしかし離騒ではその冒頭で「私は帝高陽の未森である」

と歌

ってお-少な-とも屈原の時代では楚人は穎頭高陽

氏を租神としていたと考えられているが文化神に関する

記述は見えない

一方同じ頃に楚園で成立したと考えら

れている山海経

大荒西経には街頭の子孫の神々の事業

が豊富に記されている例えば重

寮の天地分離

太子長

琴の音禁孝明などである

これらの事章から得られる

一つの推測をここで述べると

楚辞に於ては楚人自らの文化両を表立

って取-上げられな

い事情があ

ったものと思われる楚語で書かれた「原楚鮮」

には書かれていたがそれを漢語に翻弄した際に宋図か

ら導入した殿の文化神に置き換えたのかも知れないそし

て自らの文化紳とその物語を速い

「大荒」の物語として

カムフラージ

ュしたのが他ならぬ山海経なのではなかろ-

かこの書が地理書の形をとっていることや他書に見ら

れない神話停説を豊富に載せていることなどは丁度我が

国の

『出雲園風土記』を思わせるものがあるまた殿の

殿周開国の神話と「神代史」(大野)

文化紳王亥が

「困民国」の人とな

っていた-楚の租神で

あるはずの蘭頂が

「額頭囲」なる図にいたとされているこ

となどもこの仮説の根嬢となろう

しかし最早紙幅も轟きているこの問題は山海経を中心

として改めて考察することにしたい

ば織井慶紀著池田末利編

『中図神話の文化人類学的

研究』(1九九〇平河出版社)があるoまたユング心理学の

立場から日本神話を分析したものとして河合隼雄

『中空構

造日本の深層』(一九八二中央公論社)等がある

近世以前の諸席の議論は専らこの怪異雫が信ずるに足るか

否かの次元に終始するが近代的な研究としては聞一多

「萎

娠履大人跡考」(『聞一多全集』第一射一九四八開明書店)

白鳥清

「段周感生神話の解揮」(『東洋学報』十五巷四親tT

九二五東洋協合学術調査部)出石誠彦

「上代支部の異常

出生説話について」(『支那神話俸説の研究』所収tl九四三

中央公論社)等がある

「帝上帝也」

「帝高華氏之帝也従於帝而見干天婿事賛敏也」

孔疏に

「頑柁郊礁之時英夫高辛氏帝率興供行妻娠随帝之

後践履帝迩行事敬而敏疾放鳥神歌饗紳既饗其条則

31

中国文筆報

第四十六筋

愛而拓之

於是為天神所美大為福緑所依止twz=得懐任則

震動而有身」と云う

例えば嗣西族の

『東巴控』に見える縛文字にこのことが窺

える附固三参照また河南省に俸わるロ東俸説によると

女桐が天から降ってきて伏義が地下から出てきたと云う

(陶陽

鍾秀

『中国創世神話』一九八九上海人民出版社二

一四頁)

附圏三

primeJ 一一一

~PJ虹互L

LJL

堅 室④

上部の 一へ は天下部の 皿 は大地を

表す圃①は中間に天地交合の気がありこれ

より荷物が生ずる固②の中間は蛙で天地交

合後の襲化を表す圃⑨では天地の間に男が上

女が下になっており男女の交合と同様にして

天地が人類を生んだことを表す

(陶陽 鍾秀 『中国創世神話』214頁)

「惟虞東学詩云人之初生皆裂胎而出騒失所依故堕地

郎帝惟羊連胞而下共産猪易故詩以

『如達』馬比o又常

熟陶太常元淳日凡嬰兄在母腹中皆有皮以豪之俗所謂胞

衣也生時其衣先破兄鰻手足少蔚放生之難O惟羊子之生

胸仇完具堕地而後母篤破之故共生易o后硬生時蓋戒於胸

中形鮭末露有如羊子之生者放言

『加速』今按前二説

是也下言

『不味不副』蓋謂其胞衣之不折裂也」(『毛詩俸

集通帯』巷二十五)

「徐君宮人娠而生卵以箆不詳秀之水演O猪孤母有犬名

鵠蒼へ猟干水溝へ得所弄卵衝以東蹄猪孤母以馬具凍俊

之逐沸成見生時正値へ故以為名徐君宮中聞之乃更録

取長而仁智襲君徐固」(博物志

異聞篇引徐値王志)

「高句凝着其先出自克明東明本北夷嚢離王子離王出

行其侍兄於後任娠離王達欲殺之侍見目『前見天上

有菊如大鶏子乗降我困以有嫉』王囚之後連生男玉

置之家牢家以口束嘘束不死o王以為所乃聴収養」(梁

諸夷俸)

北欧や古代

ハンガリー等に見られる豊富な例がKケレ-

ニイtCGユング

『神話撃入門』

一九五1(杉浦忠夫訳

1九七五晶文社)に引かれている

例えば壮族に俸わる

「種子と犬の尾」の物語では人々

「九尾狗」に天上の穀物を盗みに行かせたところ穀物を

九本の尾に-つつけて蹄ろ-としたところを番人に見つか-

八本の尾を叩き切られたが残-

1本の尾に穀物をつけて逃げ

師-人間は農業ができるようになったと云う

(陶陽

秀前掲書二七九頁)

32

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 21: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

中国文革報

第四十六桝

と襲わらないが

天問では尊と王亥との橋渡し的な性格に

襲わったのである

59恒乗季徳蔦得夫朴牛何徒費班緑不但遠来

王恒も李の徳を鰹ぎ王亥の養

った僕牛を得たど

あまね

はどこ

うして狩-に行

って獲物を

-

民に

ただ行

って

締るだけに止まらなかったのか

「恒」は王遠江では

「常也」と云うがこれも王国経が卜

辞に見える王恒のことであると解して以来諸家概ねこれ

に徒う「班稀」は近年の解帯では

「官位」「栄達」等に解

され

「王恒が有易図で出世しょうとした」意であるとす

るがす

っき-しない解輝であるー辞に見える王恒は

弓の形の中に

「恒」字を入れたものもあ-寧ろ

「湯は狩

-に往-際ただ行

って締るだけではな-民に編-施し

を輿えた」とする王逸注の方が原初的な意味に近いと思わ

れる但し主語は湯ではな-王恒である張光直氏は王恒

と罪に何らかの関係があるのではないかと考えるが

それ

よ-は駿人の狩猟柵であ

ったと考えた方が良いかも知れな

いただ王恒の事境を記した文献が他に存在せず容易に

結論を得難いのは残念なことである

60昏微遵述有狭不寧何繁鳥葦棟負子韓情

61絃弟遠軽危害顔見O何襲化以作許後嗣而逢長

上甲微は父王亥の事鏡を鮭ぎ有易園は安定を保て

ず滅びたどうして有易の人民は妹に止まる鳥のよう

に苦しんでいるのに上甲微はその子女にまで横暴な

ことをしたのか

目の陪んだ請弟はみな道ならぬことをしその兄上

甲微に危害を加えたのにどうしてうま-ごまかして

その子孫が長-祭えることになったのか

この二章も本づ-所がはっき-せず難解であるが「昏微」

はやは-王国経が上甲微のことであるとしてお-その事

蹟を云うものと考えられる上甲微は卜辞で系譜が明らか

な請王のうちで

一番古い租先に普た-いわば

「人王」の

租であるがここでは王亥と同様の迫害モチーフが再び現

⑳れその事鏡は既に神話化されていたものと見られる「何

襲化以作詐後嗣而逢長」の二句はそ-した神話であるが

故の不合理性を問うているのである

- 20-

62成湯東巡有等宴極何乞彼中臣而吉妃是得

63水漬之木得彼中子夫何悪之腰右筆之婦

64湯出重泉夫何皐尤不勝心伐帝夫誰使挑之

湯は東方

へ巡狩Lt有等園までやって来たど-し

てあの中臣伊声に乞い求めて良い妃を得たのか

水蓮の木から有等氏の君主は伊声を得たとい-が

どうして伊声を嫌

って湯の妃に付き添わせたのか

湯は重泉の牢獄から出て来たがそれは何の罪だっ

たのか正義を求める心を抑えられず実を伐

ったが

誰が彼をそうさせたのか

商頭における湯は夏架や尾吾氏を伐

った英雄として非常に

多-の紙幅を割いて賞揚されていたのであるが天間では

僅か三幸で終わ-しかもその年分は彼の名臣伊声のこと

に費され天下を平定した聖王にしてはかなり冷淡な描き

方である多-とも王亥や上甲微などと同等の重さしか持

っていないといえるしかしこの簡単な記述は神話的な趣

きに富んでいる伊声は呂氏春秋

本味簾で

「有佐氏の女

が空桑の中から嬰兄を得て

それを君主に献じ君主は

般周開乾の神話と

「紳代史」(大野)

料理人に彼を育てさせた」云々と書かれるような俸説をも

つがその原型とみられる記事が63章にあ-64章の

「湯

出重泉」も森安太郎氏が

「陽

(太陽神)が海の下を-ぐっ

て再び現れ出る様子」

と解したほどであるその虞偽は措

-としても

「重泉に囚われてから脱出」

というのがこれ

まで屡々登場してきた迫害1事業完成のモチーフであるこ

とは明白であ-この迫害こそ棄てられた后稜と同じ-英

雄を英雄たらしめる神話素の一つである殿人にとって湯

「人王」であったはずであるが楚人にとっての夏殿革

命は既に神話となっていた宋人にとっても同じであ

った

と思われるしかし東周時代の為政者の意識は最早神話を

古代人の如-

「心象における事資」として受け取ることを

許さなかった神話の神話たる所以である英雄の迫害も

政治家としての彼等にとっては

「不合理」以外の何もので

もな-統治強化の障碍でしかなかったであろうそれ故

その

「不合理」を宋人は頒詩から治し去-楚人は

「天に

問」うたのである東周の殿開園神話はその鮎で西周人

の神話と歴史が

一鰻になった

「神代史」であ

った詩経

21

中国文筆報

第四十六冊

雅の周王朝開園の物語とは成因がやや異な-神話そのも

のを改襲した

「神代史」であるといえよう

再び天間に戻ろうここで語られる殿王朝開園神話を綜

合すると腰租誕生1夏殿革命という流れは商頭でのそれ

とはぼ

一致するのであるが商頚では全-無税されている

王亥

王恒や上甲微の事浜を多-記している所が大いに異

なるこれらの先王は卜軒に於ても租神として柁られてお

-殊に愛

(餐)王亥は

「高租」と崇められていたのであ

るから天問における殿租誕生や牧牛創始の偉大な功績も

殿代からその根摸となるべき停東があったものと考えられ

る殿の未森たる被征服図

宋図で語られなかった文化神

が周の政治的願力が比較的少なかったであろ-楚園に於

て生き残

っていたのであ-「王亥を構える頒詩は政治的

要請によって胴去されたのではないか」という前章で捉

起した推測は更に確貴性を樹して-るのである

このように文化神を語る神話は政治的な事情によって

改襲されやすいという

一つの傾向が次第に明らかになって

きたのであるが天間に見える周王朝開園神話を詩経

雅のそれと比べてみるとその傾向は

一層はっき-する

これについては次章で検討することにしてその前に前

章で提起したもう

一つの問題即ち契と後に呼ばれるよう

になる殿紐の正鰻について卑見を示しておきたい

1般には詩経

商頒

「玄鳥」

「長顎」の鄭隻や楚鮮

天問の王逸注史記

殿本紀などから筒状が生んだ殿租

が契であるとされ詩経や楚軒の注揮家も特に疑問を抱い

ていないしかしこれまで見てきた詩経や天問には契の名

は全-見えていない国語を見ると周語下には

玄王勤商十有四世而興

玄王は商のために働き十四世かかって興起した

鄭語には商

契能和合五教以保干百姓者也

商契は五教をよ-調和させ人民を守-養

った人で

魯語上には

契為司徒而民韓-上甲微能帥契者也o

契は司徒の官となって人心を和らげ--上甲微は

22

たす

契をよ-

た人である

自玄王以及主薬莫若湯

文王から主薬

(湯の父)に至るまで湯よ-すぐれた

者はいない

とあるこれらを見ると契とい-名は周

楚以外の

園で用いられし

かも

「司徒として五教によって人心を安

定させた」という事鏡が語られている抽象的な形ではあ

るが文化面での功寮が取-上げられているのである

そうすると陳夢家氏の

「契と刻は互訓であ-共に亥

と普通である故に契は即ち王亥である」とする説が有力

な説として浮上して-るOこれまでの考察から王亥は殿

の高租にして文化所であ-従

って契というのは王亥の周

連諸国での呼び名であ-「五教」云々は王亥の文化神的

な面が周遠諸国に於て襲化したものと考えられるのである

もう

1万の

「司徒」という面に注目すると楊寛氏は

「司

徒」は

「司土」であるとして契は社紳

(土地紳)であった

と考えている「司徒」を

「司土」と表記するのは西周金文

に多-見られる用法であ-本来は土地や農業を司る官で

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

あったらしいまた史記

殿本紀には

「実は南を佐けて治

水に功があった」とあ-梁玉縄の疑う如き司馬遷の臆説

でな-古-からの停承に基づいているものであるならば

契に夏南の如き下士造成神的な面もあった可能性は捨てき

れない司土の官は農業にも関係が深いことから契は土

地神にして農神の性格をも持つことにな-このことは王

亥が牧牛の創始者であることと関係があるのかも知れない

なお尚書尭典には

帝日「乗努民阻飢o汝后榎播時百穀O」帝日

「契百姓不親五品不遜汝作司徒敬敷五教在寛」

もろもろ

舜は言った「棄よ

民は飢え苦しんでいる

汝は后頑の官とな-

この百穀を播け」と舜は言

った「契よ人民は互いに仲良-せず父子

君臣

夫婦

長幼

朋友の序に従わない汝は司徒の官とな

つつし

-五教を敬んで廉め心を寛-して治めよ」と

とあ-同じ-尚書の周官には

司徒掌邦教敷五典擾兆民

司徒は閲の教化を掌-五教を廉め多-の民を順

23

中国文畢報

第四十六肋

わせる

とあ

って司徒が教化の官であるかの如-書かれているが

これは后積が農官とされたために契は

「五教を康めた」面

のみが取-上げられそれが司徒の官名に結びついてかか

る誤解を生んだものであ-司徒の本来の意味ではないと

考えられる

周やその支配下にあった宋園では殿租に玄王という名

が使われてお-玄鳥による神的な誕生と商の興起のた

めに轟-したとい-事暁が語られる

魯園では

「契」

「玄

王」両方が見えるがー契と言う場合は文化的な功績が描か

れ玄王と言う場合は始租としての面に注目されている

恐ら-

「玄王」とは契=

王亥の始租としての面が強調され

た時の呼稀であ

ったと思われる文化人類学的にも「玄」

という名は始源の闇や滞沌を連想させるものであ-例え

ば老子

六章の

玄牝門天地板

玄牝の門(女陰)は天地寓物の根源である

の如-である

宋園や周では殿租の文化神的な面が抹殺さ

れたために始租神としての

「玄王」の呼稀が定着し魯

鄭などの周連列国では儒教的に襲化した文化神として

「契」と呼ばれ楚国では殿代の呼稀

「王亥」が原形に近

い形で保存されて

「該」と呼ばれたのであろう

四楚鮮

天問の周王朝開園神話

まず天問における殿周開園神話の大筋の流れを圏示する

と附固

一のようになる我々の常識で考えるならば夏殿

革命の次に殿のその後の衰亡を歌いそれから周王朝

へと

移る構成をとるのが普通であるが天問では夏殿革命から

いきな-周の衰亡

へと飛びそこから殿の衰亡

へと戻る間

くりかえ

「天命は

」というテーゼを挟み込んでいるこの

ような操作によってどの王朝も同じように興亡を繰-近

すというテーゼが

7層際立つのであ-

T見乱雑に見える

排列が安は高度なレトリックを用いた結果であるという

ことがわかる

次に殿周の開園が歌われている各章を時間順に並べ

かえて相互に封比してみると附圏二のようになるこの固

24

殻周開園の耐話と

「神代史」(大野)

附圃- (丸内の数字は葦の通し番競)

舜と女梱 ⑱~

「験萌在初」

1

度の先王 ~

t

夏殿革命 ~

周の先王

l

殿周革命 ⑮~cent)

iiiiia段の衰亡 ~ 周の興亡

一- 一 ノ ー「天命反側」

附圏二

段 簡秋と唇の通婚

王亥 有易で牛羊を牧す

王亥の婚姻

王亥 殺されかける

王位 王亥の牛を得る

上甲微 父の遺業を鮭ぐ

肢弟が上甲微を迫害

一寸 どうして子孫が栄えたのか」

~ 楚の興亡

周 ⑯ 后硬 氷上に捨てられる

上帝をも驚かす武勇

-「どうして子孫が栄えたのか」

成湯 伊声を得る

伊デの生い立ち

湯 壷泉から出て案を伐つ

- 25-

⑳ 文王 天命 もて段を覆す

岐山に移る殿の惑婦

文王 村の無道を天に告げる

文王 太公望を得る

武王 急いで殿を伐つ

武王の朝合

周公 武王をよしとせず

武玉 村を伐つ

中隊文革報

第四十六筋

一見して知ることができるのは周の先王には僅か二章

しか使わず殿周革命に九章も費やしてお-殿王朝の方

が租神に多-の章を割いて夏殿革命には三章しか使わな

いのと対照的であるということである

周王朝開園を云う章をもう少し詳し-見てい-と

76積維元子帝何竺之投之干水上鳥何燐之

77何漏弓挟矢殊能渚之既驚帝切激何逢長之

后稜は上帝の長子であるのに上帝はどうして彼に

危害を加えたのか彼を氷の上に捨てると鳥はどう

してこれを暖めたのか

どうして弓をひきしぼ-矢を挟みすぐれた才能で

武婿となったのか上帝をも驚かすほどひどいことを

したのにどうしてその子孫は長-栄えたのかQ

后積が上帝の子であるのに迫害され鳥によって助けられ

たというのは詩経

大雅

「生民」と同様であるが周租后

礎の両的資質を云-のみであ

って農業費明には全-解れ

られていない77章は王逸注では前二句を后稜後二句を

武王の事績とするが洪興租補注は全部を武王の事績とし

朱子はその両方を疑問であるとす

78章以下では文王の

ことを云う章が績いてお-この章を武王の事虞とする課

には従えない聞

多や衰珂

氏は全部を后頑の事鏡とする

が必ずしも后榎に限定することはできない少な-とも

古公以前の

「神代」の先王のうちの誰かであることは確か

であろう後二句の

「上帝をも驚かすようなことをしなが

らどうして子孫が栄えたのか」という疑問が殿の租神と

「人王」の境目である上甲微を語る61章の後二句と似るか

らである周の先王を歌うのはこの二幸で終わ-であ-

そこでは先王たちの文化的功績は全-歌われておらず殿

の先王に比べて極めて冷淡な扱いである

78章以下は殿周革命にまつわる様々の問が寛せられるが

詩経

大雅に見えておらずまた考古学的な裏付けもない

俸説的な事件もい-つか見えているとはいえ神話的な奇

怪さには乏しいといえる0

79遷蔵就岐何能依O殻有感婦何所説

貴職していた重器を移して岐山にやって充たがどう

して人民がそれに従

ったのか殿には人を舷惑させる

26

女がいたというが何のために議話しょうとしたのか

前句についてはこれを文王に懸ける説

大王に懸ける課

あるが前後で文王のことを歌

っているので大王の事蹟と

するのには難があるとはいえその内容は詩経

大雅

「崩」

に云う古公宜父の事鏡に近-どちらに限定することもで

きない「大王から文王までの問」とする他ないであろ-

後二句は肘の妃である坦己を云うとされるがその何につ

いて問うているのかは明らかではないしかし両者とも

その

「答」となるべき俸説がこの時代に前後して現れてお

-前者については

1章で引いた孟子

染着王下後者に

ついては太平御覧奄

1三五引世本に

「村が有蘇氏を伐

った

時有蘇氏は坦己を妃にさし出した肘はこれを愛して言

うことを何でも聞いたために武王が肘もろとも殺した

云うのがこれに普たる

66到峯村窮叔旦不嘉O何親撰車足周之命以各嵯

肘の首をはねるに至-周公且はこれをよしとしな

かったどうして周自ら謀

って殿を討とうとしたのに

その行動は人民に支持されたのか

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

後二句は極めて難解であるがいま黒須重彦氏の解樺に従

う他の諸家にはテキストの文字操作で意味を通らせよ-

とする者も多い前二句を王逸は

「武王の舟に白魚が飛び

込んだので群臣が

『吉兆だ』と言ったのに封Lt周公が

『吉兆ではあるが吉兆と思

ってはならぬ』と戒めたことを

云う

と解しているがこれは史記

周本紀の記事を敦術

したものであって漢初の五行思想の産物である寧ろ所

謂伯夷

叔奔停説の前駆形と考えた方がよい

ここに引いた事件が果たして史寛であ

ったのか西周時

代に生まれた俸説か或いは東周以後の俸説であるのかは

容易に判断できないしかしいずれにしても西周人の

「神

代史」からは無税されていた事件が本来の形ではないに

しても再び記録される動きをここに見ることができるので

あ-結語で述べる

「神代史の再神話化」の萌芽であると

いえるO

このような新しい動きはあるものの天問の周開園神話

も始祖の神的誕生1英雄的事業の達成という基本的な構造

には全-襲わ-はないしかし全鰻を通じて諸王の文化的

27

中閲文革報

第四十六筋

功績には全-解れられていないばか-か周の先王=

租秤

に封しても極めて冷淡であ-殿に封する態度とは明らか

に異な

っているのである

このことは昔時の楚園が周文化よ-も殿文化の方により

親しみその信仰

習俗等を保持していたことの一つの讃

接であろう楚文化と殻文化の関係の深さは既に様々な面

から指摘されてお-例えば楚辞

九歌に見える「雲中君」

「河伯」の神がト辞にも

「雲」「河」神として見えているこ

とや西周末期のものと見られる楚の青銅鐘は殿の鍔と形

が似てお-その銘文も殿金文に似た雄滞な書鰻であるこ

とな

どが挙げられるこのよ-な現象が生じた過程として

は(一)歴代から楚は殿に臣屈してその文化を受け入れ

周の時代になっても表向きは周に臣属しながらも殿の文化

を保持し績けた(二)周代以後に国力を埼大した楚園は

への対抗上その文化を拒み隣接する宋園の殿文化を積

極的に導入したという二つの説が考えられる前者の立

場を取る者はその根接として詩経

商頒

「殿武」の

撞彼殿武奮伐剰楚突入其阻衷利之放有戟其

所湯孫之緒(一章)

敏疾なる武丁は奮起して剤楚を伐ち険しい山地

に攻め入って刑楚の兵士を虜にしその地を平げ

湯王の子孫として手柄を立てた

という部分を畢げることが多い

前述の如-商頭目鰻が

宋園の楚国

への対抗心から作られたものであ-我が国の

紳功皇后遠征説話と同じ-どこまで史寛を反映している

かは未知数であるしかも卜辞などの殿代の地下資料から

は昔時の殿楚関係を示すものはまだ見つかっていない

一方後者については史記

楚世家に周の夷王の時に

楚王熊粟が

「我は牽夷な-中国の詮親に興らず」と言っ

たという記事もあ-現時鮎ではこちらの説の方が有力で

あると思われるいずれにしても周とは言語や風土を異

にする楚閲で生まれた天問には意固したか否かはともか

-周文化の重税と殿文化

への傾斜が讃み取れるのであ-

周王朝側の論理で殿の文化碑の功績を壷-抹殺された詩経

商頭や周の文化神を構える詩経

大雅とは好封照を見

せているのである

28

結語及び除論

これまで述べ来

ったことを要約すると詩経や楚辞

問に見える殿周開園神話は始租の所的誕生1迫害1事業

(文化創造

天下統

一)の完遂という構造を持ち既に西洋

の英雄神話に於て指摘されている基本構造をここにも見出

すことができるただ西洋では

一人で行なわれることが多

い英雄としての事業が中国では教代に亙

って行なわれる

ことが多いという違いはあるところが殿の開園と周の

開園また詩経と天問の相互間で詳し-比較してみると

神々の文化的功績は神話が記録された常時の政治的な事情

によって抹殺されることがあるという事資に束づ-この

ことは中国に於ては剣を振るって活躍する英雄よ-も

文化を創始する

「聖王」の方が重きをなしてお-氏族や

国の威光を左右するものであ

ったということの一つの謹左

といえよう

詩経

大雅における周王朝開園神話は高租にして文化

神である后稜-公劉を神話的要素に富む叙事詩によって語

段周開園の紳話と

「神代史」(大野)

っているが

「人王」の代に至ると

殊に王李に新著に見

られる如-諸王にとってマイナスイメージを輿えかねな

い史寛は壷-制去され武力革命の成功を

「神代」から引

き継がれた輝かしい事業として稀讃している周王朝の開

園神話とそれに績-殿周革命の史糞は詩が記録されるま

での間に

「神代史」

へ改愛されたのであるそこに支配強

化のための王室神聖化という高度な政治的意圏が働いてい

るのは確資であろう

段の遺民の園である春秋の宋園における段王朝開園神話

詩経

商項の諸篇は最終的には周王朝側の人々によって

記録

編輯されたものであ-それ故殿人の信仰した文化

紳は義-抹殺され支配者としての周王朝の論理に基づ-

「神代史」に改変されているOそれに封して楚辞

天問の

殻王朝開園神話には卜辞にも見える租紳たちの神話的雰囲

気に富む物語が多-残

ってお-逆に天問の周王朝開園神

話では周の先王の文化的功績を無税していて宋国との政

治的

風土的立場の違いを明瞭に浮かび上がらせているの

である

- 29-

中国文学報

第四十六筋

か-の如-

神話時代やそれに績-歴史が為政者の手に

よって

「神話化」される場合は中開の諸秤の中で重い比

重を占める文化神が記録者の政治的立場に従

って改奨され

「人王」に封しては

「都合の悪い」史貴を切-捨てて

「神

代史」

へと仕立てられるのであるが東周時代になるとそ

れとは逆に「人王」にも神話素の一つとして解揮可能な俸

説が様々な書物に記録されるようになる既に引用した文

王の安里幽閉

伯夷

叔斉の餓死などがそれであ-

「人

王」の物語もこれによって組両と同様の典型的神話

へ近づ

いてい-のであるこれらが記録されたのは諸子百家の書

物であ-昔時の遊説家たちが民間に流布していた停説を

敬-上げて自説を述べるために用いたものと考えられる

これらの停説が古い形をそのまま保

っているか否かは全-

保護がないとはいえ政治力撃の働きに-いレベルに於て

「神代史」に再び神話的物語が付け加えられるようにな

たということはいえるいわば

「神代史の再神話化」であ

-

1般に

「中国古代王朝神話」として

1つの物語にまと

められているのはこうして

「再神話化」された結果の産物

なのであるこれらは確かに

「神話」としての要素を豊富

に含んでいるのであるがこれを中国古代神話の原型と見

なすことは不可能であ-上述の如-複雑な要因が絡み合

っているのである

こうして

「神代史」はたとえ元の形とは異なるにせよ

再び

「神話」としての光彩を放ち始めたところがこの

「神話」をまたも

「歴史」に固定してしまったのが他なら

ぬ史蓬であることは周知の通-である

しかし

「神代史の再神話化」の原動力とな

った

民間

に語-経がれた王朝停説のエネルギーもこれで絡恨したわ

けではなかったこうしたエネルギーはその後も小説に記

録された種々の歴史俸説などを生み出し形を襲えて生き

績けたのである

ところでこれまで本文中に取-上げなかった

一つの重

要な問題があるそれは

「楚園に古-から停わる楚人自身

の神々はど-な

っていたのか」という問題である

楚辞

天問にはその末尾に楚図の俸説と思われるものが

記されてはいるが多-の注帯家が匙を投げているはど難

30

解であ-筆者も今敢えてこれに挑戦するほどの飴裕はな

いoしかし離騒ではその冒頭で「私は帝高陽の未森である」

と歌

ってお-少な-とも屈原の時代では楚人は穎頭高陽

氏を租神としていたと考えられているが文化神に関する

記述は見えない

一方同じ頃に楚園で成立したと考えら

れている山海経

大荒西経には街頭の子孫の神々の事業

が豊富に記されている例えば重

寮の天地分離

太子長

琴の音禁孝明などである

これらの事章から得られる

一つの推測をここで述べると

楚辞に於ては楚人自らの文化両を表立

って取-上げられな

い事情があ

ったものと思われる楚語で書かれた「原楚鮮」

には書かれていたがそれを漢語に翻弄した際に宋図か

ら導入した殿の文化神に置き換えたのかも知れないそし

て自らの文化紳とその物語を速い

「大荒」の物語として

カムフラージ

ュしたのが他ならぬ山海経なのではなかろ-

かこの書が地理書の形をとっていることや他書に見ら

れない神話停説を豊富に載せていることなどは丁度我が

国の

『出雲園風土記』を思わせるものがあるまた殿の

殿周開国の神話と「神代史」(大野)

文化紳王亥が

「困民国」の人とな

っていた-楚の租神で

あるはずの蘭頂が

「額頭囲」なる図にいたとされているこ

となどもこの仮説の根嬢となろう

しかし最早紙幅も轟きているこの問題は山海経を中心

として改めて考察することにしたい

ば織井慶紀著池田末利編

『中図神話の文化人類学的

研究』(1九九〇平河出版社)があるoまたユング心理学の

立場から日本神話を分析したものとして河合隼雄

『中空構

造日本の深層』(一九八二中央公論社)等がある

近世以前の諸席の議論は専らこの怪異雫が信ずるに足るか

否かの次元に終始するが近代的な研究としては聞一多

「萎

娠履大人跡考」(『聞一多全集』第一射一九四八開明書店)

白鳥清

「段周感生神話の解揮」(『東洋学報』十五巷四親tT

九二五東洋協合学術調査部)出石誠彦

「上代支部の異常

出生説話について」(『支那神話俸説の研究』所収tl九四三

中央公論社)等がある

「帝上帝也」

「帝高華氏之帝也従於帝而見干天婿事賛敏也」

孔疏に

「頑柁郊礁之時英夫高辛氏帝率興供行妻娠随帝之

後践履帝迩行事敬而敏疾放鳥神歌饗紳既饗其条則

31

中国文筆報

第四十六筋

愛而拓之

於是為天神所美大為福緑所依止twz=得懐任則

震動而有身」と云う

例えば嗣西族の

『東巴控』に見える縛文字にこのことが窺

える附固三参照また河南省に俸わるロ東俸説によると

女桐が天から降ってきて伏義が地下から出てきたと云う

(陶陽

鍾秀

『中国創世神話』一九八九上海人民出版社二

一四頁)

附圏三

primeJ 一一一

~PJ虹互L

LJL

堅 室④

上部の 一へ は天下部の 皿 は大地を

表す圃①は中間に天地交合の気がありこれ

より荷物が生ずる固②の中間は蛙で天地交

合後の襲化を表す圃⑨では天地の間に男が上

女が下になっており男女の交合と同様にして

天地が人類を生んだことを表す

(陶陽 鍾秀 『中国創世神話』214頁)

「惟虞東学詩云人之初生皆裂胎而出騒失所依故堕地

郎帝惟羊連胞而下共産猪易故詩以

『如達』馬比o又常

熟陶太常元淳日凡嬰兄在母腹中皆有皮以豪之俗所謂胞

衣也生時其衣先破兄鰻手足少蔚放生之難O惟羊子之生

胸仇完具堕地而後母篤破之故共生易o后硬生時蓋戒於胸

中形鮭末露有如羊子之生者放言

『加速』今按前二説

是也下言

『不味不副』蓋謂其胞衣之不折裂也」(『毛詩俸

集通帯』巷二十五)

「徐君宮人娠而生卵以箆不詳秀之水演O猪孤母有犬名

鵠蒼へ猟干水溝へ得所弄卵衝以東蹄猪孤母以馬具凍俊

之逐沸成見生時正値へ故以為名徐君宮中聞之乃更録

取長而仁智襲君徐固」(博物志

異聞篇引徐値王志)

「高句凝着其先出自克明東明本北夷嚢離王子離王出

行其侍兄於後任娠離王達欲殺之侍見目『前見天上

有菊如大鶏子乗降我困以有嫉』王囚之後連生男玉

置之家牢家以口束嘘束不死o王以為所乃聴収養」(梁

諸夷俸)

北欧や古代

ハンガリー等に見られる豊富な例がKケレ-

ニイtCGユング

『神話撃入門』

一九五1(杉浦忠夫訳

1九七五晶文社)に引かれている

例えば壮族に俸わる

「種子と犬の尾」の物語では人々

「九尾狗」に天上の穀物を盗みに行かせたところ穀物を

九本の尾に-つつけて蹄ろ-としたところを番人に見つか-

八本の尾を叩き切られたが残-

1本の尾に穀物をつけて逃げ

師-人間は農業ができるようになったと云う

(陶陽

秀前掲書二七九頁)

32

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 22: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

62成湯東巡有等宴極何乞彼中臣而吉妃是得

63水漬之木得彼中子夫何悪之腰右筆之婦

64湯出重泉夫何皐尤不勝心伐帝夫誰使挑之

湯は東方

へ巡狩Lt有等園までやって来たど-し

てあの中臣伊声に乞い求めて良い妃を得たのか

水蓮の木から有等氏の君主は伊声を得たとい-が

どうして伊声を嫌

って湯の妃に付き添わせたのか

湯は重泉の牢獄から出て来たがそれは何の罪だっ

たのか正義を求める心を抑えられず実を伐

ったが

誰が彼をそうさせたのか

商頭における湯は夏架や尾吾氏を伐

った英雄として非常に

多-の紙幅を割いて賞揚されていたのであるが天間では

僅か三幸で終わ-しかもその年分は彼の名臣伊声のこと

に費され天下を平定した聖王にしてはかなり冷淡な描き

方である多-とも王亥や上甲微などと同等の重さしか持

っていないといえるしかしこの簡単な記述は神話的な趣

きに富んでいる伊声は呂氏春秋

本味簾で

「有佐氏の女

が空桑の中から嬰兄を得て

それを君主に献じ君主は

般周開乾の神話と

「紳代史」(大野)

料理人に彼を育てさせた」云々と書かれるような俸説をも

つがその原型とみられる記事が63章にあ-64章の

「湯

出重泉」も森安太郎氏が

「陽

(太陽神)が海の下を-ぐっ

て再び現れ出る様子」

と解したほどであるその虞偽は措

-としても

「重泉に囚われてから脱出」

というのがこれ

まで屡々登場してきた迫害1事業完成のモチーフであるこ

とは明白であ-この迫害こそ棄てられた后稜と同じ-英

雄を英雄たらしめる神話素の一つである殿人にとって湯

「人王」であったはずであるが楚人にとっての夏殿革

命は既に神話となっていた宋人にとっても同じであ

った

と思われるしかし東周時代の為政者の意識は最早神話を

古代人の如-

「心象における事資」として受け取ることを

許さなかった神話の神話たる所以である英雄の迫害も

政治家としての彼等にとっては

「不合理」以外の何もので

もな-統治強化の障碍でしかなかったであろうそれ故

その

「不合理」を宋人は頒詩から治し去-楚人は

「天に

問」うたのである東周の殿開園神話はその鮎で西周人

の神話と歴史が

一鰻になった

「神代史」であ

った詩経

21

中国文筆報

第四十六冊

雅の周王朝開園の物語とは成因がやや異な-神話そのも

のを改襲した

「神代史」であるといえよう

再び天間に戻ろうここで語られる殿王朝開園神話を綜

合すると腰租誕生1夏殿革命という流れは商頭でのそれ

とはぼ

一致するのであるが商頚では全-無税されている

王亥

王恒や上甲微の事浜を多-記している所が大いに異

なるこれらの先王は卜軒に於ても租神として柁られてお

-殊に愛

(餐)王亥は

「高租」と崇められていたのであ

るから天問における殿租誕生や牧牛創始の偉大な功績も

殿代からその根摸となるべき停東があったものと考えられ

る殿の未森たる被征服図

宋図で語られなかった文化神

が周の政治的願力が比較的少なかったであろ-楚園に於

て生き残

っていたのであ-「王亥を構える頒詩は政治的

要請によって胴去されたのではないか」という前章で捉

起した推測は更に確貴性を樹して-るのである

このように文化神を語る神話は政治的な事情によって

改襲されやすいという

一つの傾向が次第に明らかになって

きたのであるが天間に見える周王朝開園神話を詩経

雅のそれと比べてみるとその傾向は

一層はっき-する

これについては次章で検討することにしてその前に前

章で提起したもう

一つの問題即ち契と後に呼ばれるよう

になる殿紐の正鰻について卑見を示しておきたい

1般には詩経

商頒

「玄鳥」

「長顎」の鄭隻や楚鮮

天問の王逸注史記

殿本紀などから筒状が生んだ殿租

が契であるとされ詩経や楚軒の注揮家も特に疑問を抱い

ていないしかしこれまで見てきた詩経や天問には契の名

は全-見えていない国語を見ると周語下には

玄王勤商十有四世而興

玄王は商のために働き十四世かかって興起した

鄭語には商

契能和合五教以保干百姓者也

商契は五教をよ-調和させ人民を守-養

った人で

魯語上には

契為司徒而民韓-上甲微能帥契者也o

契は司徒の官となって人心を和らげ--上甲微は

22

たす

契をよ-

た人である

自玄王以及主薬莫若湯

文王から主薬

(湯の父)に至るまで湯よ-すぐれた

者はいない

とあるこれらを見ると契とい-名は周

楚以外の

園で用いられし

かも

「司徒として五教によって人心を安

定させた」という事鏡が語られている抽象的な形ではあ

るが文化面での功寮が取-上げられているのである

そうすると陳夢家氏の

「契と刻は互訓であ-共に亥

と普通である故に契は即ち王亥である」とする説が有力

な説として浮上して-るOこれまでの考察から王亥は殿

の高租にして文化所であ-従

って契というのは王亥の周

連諸国での呼び名であ-「五教」云々は王亥の文化神的

な面が周遠諸国に於て襲化したものと考えられるのである

もう

1万の

「司徒」という面に注目すると楊寛氏は

「司

徒」は

「司土」であるとして契は社紳

(土地紳)であった

と考えている「司徒」を

「司土」と表記するのは西周金文

に多-見られる用法であ-本来は土地や農業を司る官で

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

あったらしいまた史記

殿本紀には

「実は南を佐けて治

水に功があった」とあ-梁玉縄の疑う如き司馬遷の臆説

でな-古-からの停承に基づいているものであるならば

契に夏南の如き下士造成神的な面もあった可能性は捨てき

れない司土の官は農業にも関係が深いことから契は土

地神にして農神の性格をも持つことにな-このことは王

亥が牧牛の創始者であることと関係があるのかも知れない

なお尚書尭典には

帝日「乗努民阻飢o汝后榎播時百穀O」帝日

「契百姓不親五品不遜汝作司徒敬敷五教在寛」

もろもろ

舜は言った「棄よ

民は飢え苦しんでいる

汝は后頑の官とな-

この百穀を播け」と舜は言

った「契よ人民は互いに仲良-せず父子

君臣

夫婦

長幼

朋友の序に従わない汝は司徒の官とな

つつし

-五教を敬んで廉め心を寛-して治めよ」と

とあ-同じ-尚書の周官には

司徒掌邦教敷五典擾兆民

司徒は閲の教化を掌-五教を廉め多-の民を順

23

中国文畢報

第四十六肋

わせる

とあ

って司徒が教化の官であるかの如-書かれているが

これは后積が農官とされたために契は

「五教を康めた」面

のみが取-上げられそれが司徒の官名に結びついてかか

る誤解を生んだものであ-司徒の本来の意味ではないと

考えられる

周やその支配下にあった宋園では殿租に玄王という名

が使われてお-玄鳥による神的な誕生と商の興起のた

めに轟-したとい-事暁が語られる

魯園では

「契」

「玄

王」両方が見えるがー契と言う場合は文化的な功績が描か

れ玄王と言う場合は始租としての面に注目されている

恐ら-

「玄王」とは契=

王亥の始租としての面が強調され

た時の呼稀であ

ったと思われる文化人類学的にも「玄」

という名は始源の闇や滞沌を連想させるものであ-例え

ば老子

六章の

玄牝門天地板

玄牝の門(女陰)は天地寓物の根源である

の如-である

宋園や周では殿租の文化神的な面が抹殺さ

れたために始租神としての

「玄王」の呼稀が定着し魯

鄭などの周連列国では儒教的に襲化した文化神として

「契」と呼ばれ楚国では殿代の呼稀

「王亥」が原形に近

い形で保存されて

「該」と呼ばれたのであろう

四楚鮮

天問の周王朝開園神話

まず天問における殿周開園神話の大筋の流れを圏示する

と附固

一のようになる我々の常識で考えるならば夏殿

革命の次に殿のその後の衰亡を歌いそれから周王朝

へと

移る構成をとるのが普通であるが天問では夏殿革命から

いきな-周の衰亡

へと飛びそこから殿の衰亡

へと戻る間

くりかえ

「天命は

」というテーゼを挟み込んでいるこの

ような操作によってどの王朝も同じように興亡を繰-近

すというテーゼが

7層際立つのであ-

T見乱雑に見える

排列が安は高度なレトリックを用いた結果であるという

ことがわかる

次に殿周の開園が歌われている各章を時間順に並べ

かえて相互に封比してみると附圏二のようになるこの固

24

殻周開園の耐話と

「神代史」(大野)

附圃- (丸内の数字は葦の通し番競)

舜と女梱 ⑱~

「験萌在初」

1

度の先王 ~

t

夏殿革命 ~

周の先王

l

殿周革命 ⑮~cent)

iiiiia段の衰亡 ~ 周の興亡

一- 一 ノ ー「天命反側」

附圏二

段 簡秋と唇の通婚

王亥 有易で牛羊を牧す

王亥の婚姻

王亥 殺されかける

王位 王亥の牛を得る

上甲微 父の遺業を鮭ぐ

肢弟が上甲微を迫害

一寸 どうして子孫が栄えたのか」

~ 楚の興亡

周 ⑯ 后硬 氷上に捨てられる

上帝をも驚かす武勇

-「どうして子孫が栄えたのか」

成湯 伊声を得る

伊デの生い立ち

湯 壷泉から出て案を伐つ

- 25-

⑳ 文王 天命 もて段を覆す

岐山に移る殿の惑婦

文王 村の無道を天に告げる

文王 太公望を得る

武王 急いで殿を伐つ

武王の朝合

周公 武王をよしとせず

武玉 村を伐つ

中隊文革報

第四十六筋

一見して知ることができるのは周の先王には僅か二章

しか使わず殿周革命に九章も費やしてお-殿王朝の方

が租神に多-の章を割いて夏殿革命には三章しか使わな

いのと対照的であるということである

周王朝開園を云う章をもう少し詳し-見てい-と

76積維元子帝何竺之投之干水上鳥何燐之

77何漏弓挟矢殊能渚之既驚帝切激何逢長之

后稜は上帝の長子であるのに上帝はどうして彼に

危害を加えたのか彼を氷の上に捨てると鳥はどう

してこれを暖めたのか

どうして弓をひきしぼ-矢を挟みすぐれた才能で

武婿となったのか上帝をも驚かすほどひどいことを

したのにどうしてその子孫は長-栄えたのかQ

后積が上帝の子であるのに迫害され鳥によって助けられ

たというのは詩経

大雅

「生民」と同様であるが周租后

礎の両的資質を云-のみであ

って農業費明には全-解れ

られていない77章は王逸注では前二句を后稜後二句を

武王の事績とするが洪興租補注は全部を武王の事績とし

朱子はその両方を疑問であるとす

78章以下では文王の

ことを云う章が績いてお-この章を武王の事虞とする課

には従えない聞

多や衰珂

氏は全部を后頑の事鏡とする

が必ずしも后榎に限定することはできない少な-とも

古公以前の

「神代」の先王のうちの誰かであることは確か

であろう後二句の

「上帝をも驚かすようなことをしなが

らどうして子孫が栄えたのか」という疑問が殿の租神と

「人王」の境目である上甲微を語る61章の後二句と似るか

らである周の先王を歌うのはこの二幸で終わ-であ-

そこでは先王たちの文化的功績は全-歌われておらず殿

の先王に比べて極めて冷淡な扱いである

78章以下は殿周革命にまつわる様々の問が寛せられるが

詩経

大雅に見えておらずまた考古学的な裏付けもない

俸説的な事件もい-つか見えているとはいえ神話的な奇

怪さには乏しいといえる0

79遷蔵就岐何能依O殻有感婦何所説

貴職していた重器を移して岐山にやって充たがどう

して人民がそれに従

ったのか殿には人を舷惑させる

26

女がいたというが何のために議話しょうとしたのか

前句についてはこれを文王に懸ける説

大王に懸ける課

あるが前後で文王のことを歌

っているので大王の事蹟と

するのには難があるとはいえその内容は詩経

大雅

「崩」

に云う古公宜父の事鏡に近-どちらに限定することもで

きない「大王から文王までの問」とする他ないであろ-

後二句は肘の妃である坦己を云うとされるがその何につ

いて問うているのかは明らかではないしかし両者とも

その

「答」となるべき俸説がこの時代に前後して現れてお

-前者については

1章で引いた孟子

染着王下後者に

ついては太平御覧奄

1三五引世本に

「村が有蘇氏を伐

った

時有蘇氏は坦己を妃にさし出した肘はこれを愛して言

うことを何でも聞いたために武王が肘もろとも殺した

云うのがこれに普たる

66到峯村窮叔旦不嘉O何親撰車足周之命以各嵯

肘の首をはねるに至-周公且はこれをよしとしな

かったどうして周自ら謀

って殿を討とうとしたのに

その行動は人民に支持されたのか

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

後二句は極めて難解であるがいま黒須重彦氏の解樺に従

う他の諸家にはテキストの文字操作で意味を通らせよ-

とする者も多い前二句を王逸は

「武王の舟に白魚が飛び

込んだので群臣が

『吉兆だ』と言ったのに封Lt周公が

『吉兆ではあるが吉兆と思

ってはならぬ』と戒めたことを

云う

と解しているがこれは史記

周本紀の記事を敦術

したものであって漢初の五行思想の産物である寧ろ所

謂伯夷

叔奔停説の前駆形と考えた方がよい

ここに引いた事件が果たして史寛であ

ったのか西周時

代に生まれた俸説か或いは東周以後の俸説であるのかは

容易に判断できないしかしいずれにしても西周人の

「神

代史」からは無税されていた事件が本来の形ではないに

しても再び記録される動きをここに見ることができるので

あ-結語で述べる

「神代史の再神話化」の萌芽であると

いえるO

このような新しい動きはあるものの天問の周開園神話

も始祖の神的誕生1英雄的事業の達成という基本的な構造

には全-襲わ-はないしかし全鰻を通じて諸王の文化的

27

中閲文革報

第四十六筋

功績には全-解れられていないばか-か周の先王=

租秤

に封しても極めて冷淡であ-殿に封する態度とは明らか

に異な

っているのである

このことは昔時の楚園が周文化よ-も殿文化の方により

親しみその信仰

習俗等を保持していたことの一つの讃

接であろう楚文化と殻文化の関係の深さは既に様々な面

から指摘されてお-例えば楚辞

九歌に見える「雲中君」

「河伯」の神がト辞にも

「雲」「河」神として見えているこ

とや西周末期のものと見られる楚の青銅鐘は殿の鍔と形

が似てお-その銘文も殿金文に似た雄滞な書鰻であるこ

とな

どが挙げられるこのよ-な現象が生じた過程として

は(一)歴代から楚は殿に臣屈してその文化を受け入れ

周の時代になっても表向きは周に臣属しながらも殿の文化

を保持し績けた(二)周代以後に国力を埼大した楚園は

への対抗上その文化を拒み隣接する宋園の殿文化を積

極的に導入したという二つの説が考えられる前者の立

場を取る者はその根接として詩経

商頒

「殿武」の

撞彼殿武奮伐剰楚突入其阻衷利之放有戟其

所湯孫之緒(一章)

敏疾なる武丁は奮起して剤楚を伐ち険しい山地

に攻め入って刑楚の兵士を虜にしその地を平げ

湯王の子孫として手柄を立てた

という部分を畢げることが多い

前述の如-商頭目鰻が

宋園の楚国

への対抗心から作られたものであ-我が国の

紳功皇后遠征説話と同じ-どこまで史寛を反映している

かは未知数であるしかも卜辞などの殿代の地下資料から

は昔時の殿楚関係を示すものはまだ見つかっていない

一方後者については史記

楚世家に周の夷王の時に

楚王熊粟が

「我は牽夷な-中国の詮親に興らず」と言っ

たという記事もあ-現時鮎ではこちらの説の方が有力で

あると思われるいずれにしても周とは言語や風土を異

にする楚閲で生まれた天問には意固したか否かはともか

-周文化の重税と殿文化

への傾斜が讃み取れるのであ-

周王朝側の論理で殿の文化碑の功績を壷-抹殺された詩経

商頭や周の文化神を構える詩経

大雅とは好封照を見

せているのである

28

結語及び除論

これまで述べ来

ったことを要約すると詩経や楚辞

問に見える殿周開園神話は始租の所的誕生1迫害1事業

(文化創造

天下統

一)の完遂という構造を持ち既に西洋

の英雄神話に於て指摘されている基本構造をここにも見出

すことができるただ西洋では

一人で行なわれることが多

い英雄としての事業が中国では教代に亙

って行なわれる

ことが多いという違いはあるところが殿の開園と周の

開園また詩経と天問の相互間で詳し-比較してみると

神々の文化的功績は神話が記録された常時の政治的な事情

によって抹殺されることがあるという事資に束づ-この

ことは中国に於ては剣を振るって活躍する英雄よ-も

文化を創始する

「聖王」の方が重きをなしてお-氏族や

国の威光を左右するものであ

ったということの一つの謹左

といえよう

詩経

大雅における周王朝開園神話は高租にして文化

神である后稜-公劉を神話的要素に富む叙事詩によって語

段周開園の紳話と

「神代史」(大野)

っているが

「人王」の代に至ると

殊に王李に新著に見

られる如-諸王にとってマイナスイメージを輿えかねな

い史寛は壷-制去され武力革命の成功を

「神代」から引

き継がれた輝かしい事業として稀讃している周王朝の開

園神話とそれに績-殿周革命の史糞は詩が記録されるま

での間に

「神代史」

へ改愛されたのであるそこに支配強

化のための王室神聖化という高度な政治的意圏が働いてい

るのは確資であろう

段の遺民の園である春秋の宋園における段王朝開園神話

詩経

商項の諸篇は最終的には周王朝側の人々によって

記録

編輯されたものであ-それ故殿人の信仰した文化

紳は義-抹殺され支配者としての周王朝の論理に基づ-

「神代史」に改変されているOそれに封して楚辞

天問の

殻王朝開園神話には卜辞にも見える租紳たちの神話的雰囲

気に富む物語が多-残

ってお-逆に天問の周王朝開園神

話では周の先王の文化的功績を無税していて宋国との政

治的

風土的立場の違いを明瞭に浮かび上がらせているの

である

- 29-

中国文学報

第四十六筋

か-の如-

神話時代やそれに績-歴史が為政者の手に

よって

「神話化」される場合は中開の諸秤の中で重い比

重を占める文化神が記録者の政治的立場に従

って改奨され

「人王」に封しては

「都合の悪い」史貴を切-捨てて

「神

代史」

へと仕立てられるのであるが東周時代になるとそ

れとは逆に「人王」にも神話素の一つとして解揮可能な俸

説が様々な書物に記録されるようになる既に引用した文

王の安里幽閉

伯夷

叔斉の餓死などがそれであ-

「人

王」の物語もこれによって組両と同様の典型的神話

へ近づ

いてい-のであるこれらが記録されたのは諸子百家の書

物であ-昔時の遊説家たちが民間に流布していた停説を

敬-上げて自説を述べるために用いたものと考えられる

これらの停説が古い形をそのまま保

っているか否かは全-

保護がないとはいえ政治力撃の働きに-いレベルに於て

「神代史」に再び神話的物語が付け加えられるようにな

たということはいえるいわば

「神代史の再神話化」であ

-

1般に

「中国古代王朝神話」として

1つの物語にまと

められているのはこうして

「再神話化」された結果の産物

なのであるこれらは確かに

「神話」としての要素を豊富

に含んでいるのであるがこれを中国古代神話の原型と見

なすことは不可能であ-上述の如-複雑な要因が絡み合

っているのである

こうして

「神代史」はたとえ元の形とは異なるにせよ

再び

「神話」としての光彩を放ち始めたところがこの

「神話」をまたも

「歴史」に固定してしまったのが他なら

ぬ史蓬であることは周知の通-である

しかし

「神代史の再神話化」の原動力とな

った

民間

に語-経がれた王朝停説のエネルギーもこれで絡恨したわ

けではなかったこうしたエネルギーはその後も小説に記

録された種々の歴史俸説などを生み出し形を襲えて生き

績けたのである

ところでこれまで本文中に取-上げなかった

一つの重

要な問題があるそれは

「楚園に古-から停わる楚人自身

の神々はど-な

っていたのか」という問題である

楚辞

天問にはその末尾に楚図の俸説と思われるものが

記されてはいるが多-の注帯家が匙を投げているはど難

30

解であ-筆者も今敢えてこれに挑戦するほどの飴裕はな

いoしかし離騒ではその冒頭で「私は帝高陽の未森である」

と歌

ってお-少な-とも屈原の時代では楚人は穎頭高陽

氏を租神としていたと考えられているが文化神に関する

記述は見えない

一方同じ頃に楚園で成立したと考えら

れている山海経

大荒西経には街頭の子孫の神々の事業

が豊富に記されている例えば重

寮の天地分離

太子長

琴の音禁孝明などである

これらの事章から得られる

一つの推測をここで述べると

楚辞に於ては楚人自らの文化両を表立

って取-上げられな

い事情があ

ったものと思われる楚語で書かれた「原楚鮮」

には書かれていたがそれを漢語に翻弄した際に宋図か

ら導入した殿の文化神に置き換えたのかも知れないそし

て自らの文化紳とその物語を速い

「大荒」の物語として

カムフラージ

ュしたのが他ならぬ山海経なのではなかろ-

かこの書が地理書の形をとっていることや他書に見ら

れない神話停説を豊富に載せていることなどは丁度我が

国の

『出雲園風土記』を思わせるものがあるまた殿の

殿周開国の神話と「神代史」(大野)

文化紳王亥が

「困民国」の人とな

っていた-楚の租神で

あるはずの蘭頂が

「額頭囲」なる図にいたとされているこ

となどもこの仮説の根嬢となろう

しかし最早紙幅も轟きているこの問題は山海経を中心

として改めて考察することにしたい

ば織井慶紀著池田末利編

『中図神話の文化人類学的

研究』(1九九〇平河出版社)があるoまたユング心理学の

立場から日本神話を分析したものとして河合隼雄

『中空構

造日本の深層』(一九八二中央公論社)等がある

近世以前の諸席の議論は専らこの怪異雫が信ずるに足るか

否かの次元に終始するが近代的な研究としては聞一多

「萎

娠履大人跡考」(『聞一多全集』第一射一九四八開明書店)

白鳥清

「段周感生神話の解揮」(『東洋学報』十五巷四親tT

九二五東洋協合学術調査部)出石誠彦

「上代支部の異常

出生説話について」(『支那神話俸説の研究』所収tl九四三

中央公論社)等がある

「帝上帝也」

「帝高華氏之帝也従於帝而見干天婿事賛敏也」

孔疏に

「頑柁郊礁之時英夫高辛氏帝率興供行妻娠随帝之

後践履帝迩行事敬而敏疾放鳥神歌饗紳既饗其条則

31

中国文筆報

第四十六筋

愛而拓之

於是為天神所美大為福緑所依止twz=得懐任則

震動而有身」と云う

例えば嗣西族の

『東巴控』に見える縛文字にこのことが窺

える附固三参照また河南省に俸わるロ東俸説によると

女桐が天から降ってきて伏義が地下から出てきたと云う

(陶陽

鍾秀

『中国創世神話』一九八九上海人民出版社二

一四頁)

附圏三

primeJ 一一一

~PJ虹互L

LJL

堅 室④

上部の 一へ は天下部の 皿 は大地を

表す圃①は中間に天地交合の気がありこれ

より荷物が生ずる固②の中間は蛙で天地交

合後の襲化を表す圃⑨では天地の間に男が上

女が下になっており男女の交合と同様にして

天地が人類を生んだことを表す

(陶陽 鍾秀 『中国創世神話』214頁)

「惟虞東学詩云人之初生皆裂胎而出騒失所依故堕地

郎帝惟羊連胞而下共産猪易故詩以

『如達』馬比o又常

熟陶太常元淳日凡嬰兄在母腹中皆有皮以豪之俗所謂胞

衣也生時其衣先破兄鰻手足少蔚放生之難O惟羊子之生

胸仇完具堕地而後母篤破之故共生易o后硬生時蓋戒於胸

中形鮭末露有如羊子之生者放言

『加速』今按前二説

是也下言

『不味不副』蓋謂其胞衣之不折裂也」(『毛詩俸

集通帯』巷二十五)

「徐君宮人娠而生卵以箆不詳秀之水演O猪孤母有犬名

鵠蒼へ猟干水溝へ得所弄卵衝以東蹄猪孤母以馬具凍俊

之逐沸成見生時正値へ故以為名徐君宮中聞之乃更録

取長而仁智襲君徐固」(博物志

異聞篇引徐値王志)

「高句凝着其先出自克明東明本北夷嚢離王子離王出

行其侍兄於後任娠離王達欲殺之侍見目『前見天上

有菊如大鶏子乗降我困以有嫉』王囚之後連生男玉

置之家牢家以口束嘘束不死o王以為所乃聴収養」(梁

諸夷俸)

北欧や古代

ハンガリー等に見られる豊富な例がKケレ-

ニイtCGユング

『神話撃入門』

一九五1(杉浦忠夫訳

1九七五晶文社)に引かれている

例えば壮族に俸わる

「種子と犬の尾」の物語では人々

「九尾狗」に天上の穀物を盗みに行かせたところ穀物を

九本の尾に-つつけて蹄ろ-としたところを番人に見つか-

八本の尾を叩き切られたが残-

1本の尾に穀物をつけて逃げ

師-人間は農業ができるようになったと云う

(陶陽

秀前掲書二七九頁)

32

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 23: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

中国文筆報

第四十六冊

雅の周王朝開園の物語とは成因がやや異な-神話そのも

のを改襲した

「神代史」であるといえよう

再び天間に戻ろうここで語られる殿王朝開園神話を綜

合すると腰租誕生1夏殿革命という流れは商頭でのそれ

とはぼ

一致するのであるが商頚では全-無税されている

王亥

王恒や上甲微の事浜を多-記している所が大いに異

なるこれらの先王は卜軒に於ても租神として柁られてお

-殊に愛

(餐)王亥は

「高租」と崇められていたのであ

るから天問における殿租誕生や牧牛創始の偉大な功績も

殿代からその根摸となるべき停東があったものと考えられ

る殿の未森たる被征服図

宋図で語られなかった文化神

が周の政治的願力が比較的少なかったであろ-楚園に於

て生き残

っていたのであ-「王亥を構える頒詩は政治的

要請によって胴去されたのではないか」という前章で捉

起した推測は更に確貴性を樹して-るのである

このように文化神を語る神話は政治的な事情によって

改襲されやすいという

一つの傾向が次第に明らかになって

きたのであるが天間に見える周王朝開園神話を詩経

雅のそれと比べてみるとその傾向は

一層はっき-する

これについては次章で検討することにしてその前に前

章で提起したもう

一つの問題即ち契と後に呼ばれるよう

になる殿紐の正鰻について卑見を示しておきたい

1般には詩経

商頒

「玄鳥」

「長顎」の鄭隻や楚鮮

天問の王逸注史記

殿本紀などから筒状が生んだ殿租

が契であるとされ詩経や楚軒の注揮家も特に疑問を抱い

ていないしかしこれまで見てきた詩経や天問には契の名

は全-見えていない国語を見ると周語下には

玄王勤商十有四世而興

玄王は商のために働き十四世かかって興起した

鄭語には商

契能和合五教以保干百姓者也

商契は五教をよ-調和させ人民を守-養

った人で

魯語上には

契為司徒而民韓-上甲微能帥契者也o

契は司徒の官となって人心を和らげ--上甲微は

22

たす

契をよ-

た人である

自玄王以及主薬莫若湯

文王から主薬

(湯の父)に至るまで湯よ-すぐれた

者はいない

とあるこれらを見ると契とい-名は周

楚以外の

園で用いられし

かも

「司徒として五教によって人心を安

定させた」という事鏡が語られている抽象的な形ではあ

るが文化面での功寮が取-上げられているのである

そうすると陳夢家氏の

「契と刻は互訓であ-共に亥

と普通である故に契は即ち王亥である」とする説が有力

な説として浮上して-るOこれまでの考察から王亥は殿

の高租にして文化所であ-従

って契というのは王亥の周

連諸国での呼び名であ-「五教」云々は王亥の文化神的

な面が周遠諸国に於て襲化したものと考えられるのである

もう

1万の

「司徒」という面に注目すると楊寛氏は

「司

徒」は

「司土」であるとして契は社紳

(土地紳)であった

と考えている「司徒」を

「司土」と表記するのは西周金文

に多-見られる用法であ-本来は土地や農業を司る官で

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

あったらしいまた史記

殿本紀には

「実は南を佐けて治

水に功があった」とあ-梁玉縄の疑う如き司馬遷の臆説

でな-古-からの停承に基づいているものであるならば

契に夏南の如き下士造成神的な面もあった可能性は捨てき

れない司土の官は農業にも関係が深いことから契は土

地神にして農神の性格をも持つことにな-このことは王

亥が牧牛の創始者であることと関係があるのかも知れない

なお尚書尭典には

帝日「乗努民阻飢o汝后榎播時百穀O」帝日

「契百姓不親五品不遜汝作司徒敬敷五教在寛」

もろもろ

舜は言った「棄よ

民は飢え苦しんでいる

汝は后頑の官とな-

この百穀を播け」と舜は言

った「契よ人民は互いに仲良-せず父子

君臣

夫婦

長幼

朋友の序に従わない汝は司徒の官とな

つつし

-五教を敬んで廉め心を寛-して治めよ」と

とあ-同じ-尚書の周官には

司徒掌邦教敷五典擾兆民

司徒は閲の教化を掌-五教を廉め多-の民を順

23

中国文畢報

第四十六肋

わせる

とあ

って司徒が教化の官であるかの如-書かれているが

これは后積が農官とされたために契は

「五教を康めた」面

のみが取-上げられそれが司徒の官名に結びついてかか

る誤解を生んだものであ-司徒の本来の意味ではないと

考えられる

周やその支配下にあった宋園では殿租に玄王という名

が使われてお-玄鳥による神的な誕生と商の興起のた

めに轟-したとい-事暁が語られる

魯園では

「契」

「玄

王」両方が見えるがー契と言う場合は文化的な功績が描か

れ玄王と言う場合は始租としての面に注目されている

恐ら-

「玄王」とは契=

王亥の始租としての面が強調され

た時の呼稀であ

ったと思われる文化人類学的にも「玄」

という名は始源の闇や滞沌を連想させるものであ-例え

ば老子

六章の

玄牝門天地板

玄牝の門(女陰)は天地寓物の根源である

の如-である

宋園や周では殿租の文化神的な面が抹殺さ

れたために始租神としての

「玄王」の呼稀が定着し魯

鄭などの周連列国では儒教的に襲化した文化神として

「契」と呼ばれ楚国では殿代の呼稀

「王亥」が原形に近

い形で保存されて

「該」と呼ばれたのであろう

四楚鮮

天問の周王朝開園神話

まず天問における殿周開園神話の大筋の流れを圏示する

と附固

一のようになる我々の常識で考えるならば夏殿

革命の次に殿のその後の衰亡を歌いそれから周王朝

へと

移る構成をとるのが普通であるが天問では夏殿革命から

いきな-周の衰亡

へと飛びそこから殿の衰亡

へと戻る間

くりかえ

「天命は

」というテーゼを挟み込んでいるこの

ような操作によってどの王朝も同じように興亡を繰-近

すというテーゼが

7層際立つのであ-

T見乱雑に見える

排列が安は高度なレトリックを用いた結果であるという

ことがわかる

次に殿周の開園が歌われている各章を時間順に並べ

かえて相互に封比してみると附圏二のようになるこの固

24

殻周開園の耐話と

「神代史」(大野)

附圃- (丸内の数字は葦の通し番競)

舜と女梱 ⑱~

「験萌在初」

1

度の先王 ~

t

夏殿革命 ~

周の先王

l

殿周革命 ⑮~cent)

iiiiia段の衰亡 ~ 周の興亡

一- 一 ノ ー「天命反側」

附圏二

段 簡秋と唇の通婚

王亥 有易で牛羊を牧す

王亥の婚姻

王亥 殺されかける

王位 王亥の牛を得る

上甲微 父の遺業を鮭ぐ

肢弟が上甲微を迫害

一寸 どうして子孫が栄えたのか」

~ 楚の興亡

周 ⑯ 后硬 氷上に捨てられる

上帝をも驚かす武勇

-「どうして子孫が栄えたのか」

成湯 伊声を得る

伊デの生い立ち

湯 壷泉から出て案を伐つ

- 25-

⑳ 文王 天命 もて段を覆す

岐山に移る殿の惑婦

文王 村の無道を天に告げる

文王 太公望を得る

武王 急いで殿を伐つ

武王の朝合

周公 武王をよしとせず

武玉 村を伐つ

中隊文革報

第四十六筋

一見して知ることができるのは周の先王には僅か二章

しか使わず殿周革命に九章も費やしてお-殿王朝の方

が租神に多-の章を割いて夏殿革命には三章しか使わな

いのと対照的であるということである

周王朝開園を云う章をもう少し詳し-見てい-と

76積維元子帝何竺之投之干水上鳥何燐之

77何漏弓挟矢殊能渚之既驚帝切激何逢長之

后稜は上帝の長子であるのに上帝はどうして彼に

危害を加えたのか彼を氷の上に捨てると鳥はどう

してこれを暖めたのか

どうして弓をひきしぼ-矢を挟みすぐれた才能で

武婿となったのか上帝をも驚かすほどひどいことを

したのにどうしてその子孫は長-栄えたのかQ

后積が上帝の子であるのに迫害され鳥によって助けられ

たというのは詩経

大雅

「生民」と同様であるが周租后

礎の両的資質を云-のみであ

って農業費明には全-解れ

られていない77章は王逸注では前二句を后稜後二句を

武王の事績とするが洪興租補注は全部を武王の事績とし

朱子はその両方を疑問であるとす

78章以下では文王の

ことを云う章が績いてお-この章を武王の事虞とする課

には従えない聞

多や衰珂

氏は全部を后頑の事鏡とする

が必ずしも后榎に限定することはできない少な-とも

古公以前の

「神代」の先王のうちの誰かであることは確か

であろう後二句の

「上帝をも驚かすようなことをしなが

らどうして子孫が栄えたのか」という疑問が殿の租神と

「人王」の境目である上甲微を語る61章の後二句と似るか

らである周の先王を歌うのはこの二幸で終わ-であ-

そこでは先王たちの文化的功績は全-歌われておらず殿

の先王に比べて極めて冷淡な扱いである

78章以下は殿周革命にまつわる様々の問が寛せられるが

詩経

大雅に見えておらずまた考古学的な裏付けもない

俸説的な事件もい-つか見えているとはいえ神話的な奇

怪さには乏しいといえる0

79遷蔵就岐何能依O殻有感婦何所説

貴職していた重器を移して岐山にやって充たがどう

して人民がそれに従

ったのか殿には人を舷惑させる

26

女がいたというが何のために議話しょうとしたのか

前句についてはこれを文王に懸ける説

大王に懸ける課

あるが前後で文王のことを歌

っているので大王の事蹟と

するのには難があるとはいえその内容は詩経

大雅

「崩」

に云う古公宜父の事鏡に近-どちらに限定することもで

きない「大王から文王までの問」とする他ないであろ-

後二句は肘の妃である坦己を云うとされるがその何につ

いて問うているのかは明らかではないしかし両者とも

その

「答」となるべき俸説がこの時代に前後して現れてお

-前者については

1章で引いた孟子

染着王下後者に

ついては太平御覧奄

1三五引世本に

「村が有蘇氏を伐

った

時有蘇氏は坦己を妃にさし出した肘はこれを愛して言

うことを何でも聞いたために武王が肘もろとも殺した

云うのがこれに普たる

66到峯村窮叔旦不嘉O何親撰車足周之命以各嵯

肘の首をはねるに至-周公且はこれをよしとしな

かったどうして周自ら謀

って殿を討とうとしたのに

その行動は人民に支持されたのか

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

後二句は極めて難解であるがいま黒須重彦氏の解樺に従

う他の諸家にはテキストの文字操作で意味を通らせよ-

とする者も多い前二句を王逸は

「武王の舟に白魚が飛び

込んだので群臣が

『吉兆だ』と言ったのに封Lt周公が

『吉兆ではあるが吉兆と思

ってはならぬ』と戒めたことを

云う

と解しているがこれは史記

周本紀の記事を敦術

したものであって漢初の五行思想の産物である寧ろ所

謂伯夷

叔奔停説の前駆形と考えた方がよい

ここに引いた事件が果たして史寛であ

ったのか西周時

代に生まれた俸説か或いは東周以後の俸説であるのかは

容易に判断できないしかしいずれにしても西周人の

「神

代史」からは無税されていた事件が本来の形ではないに

しても再び記録される動きをここに見ることができるので

あ-結語で述べる

「神代史の再神話化」の萌芽であると

いえるO

このような新しい動きはあるものの天問の周開園神話

も始祖の神的誕生1英雄的事業の達成という基本的な構造

には全-襲わ-はないしかし全鰻を通じて諸王の文化的

27

中閲文革報

第四十六筋

功績には全-解れられていないばか-か周の先王=

租秤

に封しても極めて冷淡であ-殿に封する態度とは明らか

に異な

っているのである

このことは昔時の楚園が周文化よ-も殿文化の方により

親しみその信仰

習俗等を保持していたことの一つの讃

接であろう楚文化と殻文化の関係の深さは既に様々な面

から指摘されてお-例えば楚辞

九歌に見える「雲中君」

「河伯」の神がト辞にも

「雲」「河」神として見えているこ

とや西周末期のものと見られる楚の青銅鐘は殿の鍔と形

が似てお-その銘文も殿金文に似た雄滞な書鰻であるこ

とな

どが挙げられるこのよ-な現象が生じた過程として

は(一)歴代から楚は殿に臣屈してその文化を受け入れ

周の時代になっても表向きは周に臣属しながらも殿の文化

を保持し績けた(二)周代以後に国力を埼大した楚園は

への対抗上その文化を拒み隣接する宋園の殿文化を積

極的に導入したという二つの説が考えられる前者の立

場を取る者はその根接として詩経

商頒

「殿武」の

撞彼殿武奮伐剰楚突入其阻衷利之放有戟其

所湯孫之緒(一章)

敏疾なる武丁は奮起して剤楚を伐ち険しい山地

に攻め入って刑楚の兵士を虜にしその地を平げ

湯王の子孫として手柄を立てた

という部分を畢げることが多い

前述の如-商頭目鰻が

宋園の楚国

への対抗心から作られたものであ-我が国の

紳功皇后遠征説話と同じ-どこまで史寛を反映している

かは未知数であるしかも卜辞などの殿代の地下資料から

は昔時の殿楚関係を示すものはまだ見つかっていない

一方後者については史記

楚世家に周の夷王の時に

楚王熊粟が

「我は牽夷な-中国の詮親に興らず」と言っ

たという記事もあ-現時鮎ではこちらの説の方が有力で

あると思われるいずれにしても周とは言語や風土を異

にする楚閲で生まれた天問には意固したか否かはともか

-周文化の重税と殿文化

への傾斜が讃み取れるのであ-

周王朝側の論理で殿の文化碑の功績を壷-抹殺された詩経

商頭や周の文化神を構える詩経

大雅とは好封照を見

せているのである

28

結語及び除論

これまで述べ来

ったことを要約すると詩経や楚辞

問に見える殿周開園神話は始租の所的誕生1迫害1事業

(文化創造

天下統

一)の完遂という構造を持ち既に西洋

の英雄神話に於て指摘されている基本構造をここにも見出

すことができるただ西洋では

一人で行なわれることが多

い英雄としての事業が中国では教代に亙

って行なわれる

ことが多いという違いはあるところが殿の開園と周の

開園また詩経と天問の相互間で詳し-比較してみると

神々の文化的功績は神話が記録された常時の政治的な事情

によって抹殺されることがあるという事資に束づ-この

ことは中国に於ては剣を振るって活躍する英雄よ-も

文化を創始する

「聖王」の方が重きをなしてお-氏族や

国の威光を左右するものであ

ったということの一つの謹左

といえよう

詩経

大雅における周王朝開園神話は高租にして文化

神である后稜-公劉を神話的要素に富む叙事詩によって語

段周開園の紳話と

「神代史」(大野)

っているが

「人王」の代に至ると

殊に王李に新著に見

られる如-諸王にとってマイナスイメージを輿えかねな

い史寛は壷-制去され武力革命の成功を

「神代」から引

き継がれた輝かしい事業として稀讃している周王朝の開

園神話とそれに績-殿周革命の史糞は詩が記録されるま

での間に

「神代史」

へ改愛されたのであるそこに支配強

化のための王室神聖化という高度な政治的意圏が働いてい

るのは確資であろう

段の遺民の園である春秋の宋園における段王朝開園神話

詩経

商項の諸篇は最終的には周王朝側の人々によって

記録

編輯されたものであ-それ故殿人の信仰した文化

紳は義-抹殺され支配者としての周王朝の論理に基づ-

「神代史」に改変されているOそれに封して楚辞

天問の

殻王朝開園神話には卜辞にも見える租紳たちの神話的雰囲

気に富む物語が多-残

ってお-逆に天問の周王朝開園神

話では周の先王の文化的功績を無税していて宋国との政

治的

風土的立場の違いを明瞭に浮かび上がらせているの

である

- 29-

中国文学報

第四十六筋

か-の如-

神話時代やそれに績-歴史が為政者の手に

よって

「神話化」される場合は中開の諸秤の中で重い比

重を占める文化神が記録者の政治的立場に従

って改奨され

「人王」に封しては

「都合の悪い」史貴を切-捨てて

「神

代史」

へと仕立てられるのであるが東周時代になるとそ

れとは逆に「人王」にも神話素の一つとして解揮可能な俸

説が様々な書物に記録されるようになる既に引用した文

王の安里幽閉

伯夷

叔斉の餓死などがそれであ-

「人

王」の物語もこれによって組両と同様の典型的神話

へ近づ

いてい-のであるこれらが記録されたのは諸子百家の書

物であ-昔時の遊説家たちが民間に流布していた停説を

敬-上げて自説を述べるために用いたものと考えられる

これらの停説が古い形をそのまま保

っているか否かは全-

保護がないとはいえ政治力撃の働きに-いレベルに於て

「神代史」に再び神話的物語が付け加えられるようにな

たということはいえるいわば

「神代史の再神話化」であ

-

1般に

「中国古代王朝神話」として

1つの物語にまと

められているのはこうして

「再神話化」された結果の産物

なのであるこれらは確かに

「神話」としての要素を豊富

に含んでいるのであるがこれを中国古代神話の原型と見

なすことは不可能であ-上述の如-複雑な要因が絡み合

っているのである

こうして

「神代史」はたとえ元の形とは異なるにせよ

再び

「神話」としての光彩を放ち始めたところがこの

「神話」をまたも

「歴史」に固定してしまったのが他なら

ぬ史蓬であることは周知の通-である

しかし

「神代史の再神話化」の原動力とな

った

民間

に語-経がれた王朝停説のエネルギーもこれで絡恨したわ

けではなかったこうしたエネルギーはその後も小説に記

録された種々の歴史俸説などを生み出し形を襲えて生き

績けたのである

ところでこれまで本文中に取-上げなかった

一つの重

要な問題があるそれは

「楚園に古-から停わる楚人自身

の神々はど-な

っていたのか」という問題である

楚辞

天問にはその末尾に楚図の俸説と思われるものが

記されてはいるが多-の注帯家が匙を投げているはど難

30

解であ-筆者も今敢えてこれに挑戦するほどの飴裕はな

いoしかし離騒ではその冒頭で「私は帝高陽の未森である」

と歌

ってお-少な-とも屈原の時代では楚人は穎頭高陽

氏を租神としていたと考えられているが文化神に関する

記述は見えない

一方同じ頃に楚園で成立したと考えら

れている山海経

大荒西経には街頭の子孫の神々の事業

が豊富に記されている例えば重

寮の天地分離

太子長

琴の音禁孝明などである

これらの事章から得られる

一つの推測をここで述べると

楚辞に於ては楚人自らの文化両を表立

って取-上げられな

い事情があ

ったものと思われる楚語で書かれた「原楚鮮」

には書かれていたがそれを漢語に翻弄した際に宋図か

ら導入した殿の文化神に置き換えたのかも知れないそし

て自らの文化紳とその物語を速い

「大荒」の物語として

カムフラージ

ュしたのが他ならぬ山海経なのではなかろ-

かこの書が地理書の形をとっていることや他書に見ら

れない神話停説を豊富に載せていることなどは丁度我が

国の

『出雲園風土記』を思わせるものがあるまた殿の

殿周開国の神話と「神代史」(大野)

文化紳王亥が

「困民国」の人とな

っていた-楚の租神で

あるはずの蘭頂が

「額頭囲」なる図にいたとされているこ

となどもこの仮説の根嬢となろう

しかし最早紙幅も轟きているこの問題は山海経を中心

として改めて考察することにしたい

ば織井慶紀著池田末利編

『中図神話の文化人類学的

研究』(1九九〇平河出版社)があるoまたユング心理学の

立場から日本神話を分析したものとして河合隼雄

『中空構

造日本の深層』(一九八二中央公論社)等がある

近世以前の諸席の議論は専らこの怪異雫が信ずるに足るか

否かの次元に終始するが近代的な研究としては聞一多

「萎

娠履大人跡考」(『聞一多全集』第一射一九四八開明書店)

白鳥清

「段周感生神話の解揮」(『東洋学報』十五巷四親tT

九二五東洋協合学術調査部)出石誠彦

「上代支部の異常

出生説話について」(『支那神話俸説の研究』所収tl九四三

中央公論社)等がある

「帝上帝也」

「帝高華氏之帝也従於帝而見干天婿事賛敏也」

孔疏に

「頑柁郊礁之時英夫高辛氏帝率興供行妻娠随帝之

後践履帝迩行事敬而敏疾放鳥神歌饗紳既饗其条則

31

中国文筆報

第四十六筋

愛而拓之

於是為天神所美大為福緑所依止twz=得懐任則

震動而有身」と云う

例えば嗣西族の

『東巴控』に見える縛文字にこのことが窺

える附固三参照また河南省に俸わるロ東俸説によると

女桐が天から降ってきて伏義が地下から出てきたと云う

(陶陽

鍾秀

『中国創世神話』一九八九上海人民出版社二

一四頁)

附圏三

primeJ 一一一

~PJ虹互L

LJL

堅 室④

上部の 一へ は天下部の 皿 は大地を

表す圃①は中間に天地交合の気がありこれ

より荷物が生ずる固②の中間は蛙で天地交

合後の襲化を表す圃⑨では天地の間に男が上

女が下になっており男女の交合と同様にして

天地が人類を生んだことを表す

(陶陽 鍾秀 『中国創世神話』214頁)

「惟虞東学詩云人之初生皆裂胎而出騒失所依故堕地

郎帝惟羊連胞而下共産猪易故詩以

『如達』馬比o又常

熟陶太常元淳日凡嬰兄在母腹中皆有皮以豪之俗所謂胞

衣也生時其衣先破兄鰻手足少蔚放生之難O惟羊子之生

胸仇完具堕地而後母篤破之故共生易o后硬生時蓋戒於胸

中形鮭末露有如羊子之生者放言

『加速』今按前二説

是也下言

『不味不副』蓋謂其胞衣之不折裂也」(『毛詩俸

集通帯』巷二十五)

「徐君宮人娠而生卵以箆不詳秀之水演O猪孤母有犬名

鵠蒼へ猟干水溝へ得所弄卵衝以東蹄猪孤母以馬具凍俊

之逐沸成見生時正値へ故以為名徐君宮中聞之乃更録

取長而仁智襲君徐固」(博物志

異聞篇引徐値王志)

「高句凝着其先出自克明東明本北夷嚢離王子離王出

行其侍兄於後任娠離王達欲殺之侍見目『前見天上

有菊如大鶏子乗降我困以有嫉』王囚之後連生男玉

置之家牢家以口束嘘束不死o王以為所乃聴収養」(梁

諸夷俸)

北欧や古代

ハンガリー等に見られる豊富な例がKケレ-

ニイtCGユング

『神話撃入門』

一九五1(杉浦忠夫訳

1九七五晶文社)に引かれている

例えば壮族に俸わる

「種子と犬の尾」の物語では人々

「九尾狗」に天上の穀物を盗みに行かせたところ穀物を

九本の尾に-つつけて蹄ろ-としたところを番人に見つか-

八本の尾を叩き切られたが残-

1本の尾に穀物をつけて逃げ

師-人間は農業ができるようになったと云う

(陶陽

秀前掲書二七九頁)

32

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 24: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

たす

契をよ-

た人である

自玄王以及主薬莫若湯

文王から主薬

(湯の父)に至るまで湯よ-すぐれた

者はいない

とあるこれらを見ると契とい-名は周

楚以外の

園で用いられし

かも

「司徒として五教によって人心を安

定させた」という事鏡が語られている抽象的な形ではあ

るが文化面での功寮が取-上げられているのである

そうすると陳夢家氏の

「契と刻は互訓であ-共に亥

と普通である故に契は即ち王亥である」とする説が有力

な説として浮上して-るOこれまでの考察から王亥は殿

の高租にして文化所であ-従

って契というのは王亥の周

連諸国での呼び名であ-「五教」云々は王亥の文化神的

な面が周遠諸国に於て襲化したものと考えられるのである

もう

1万の

「司徒」という面に注目すると楊寛氏は

「司

徒」は

「司土」であるとして契は社紳

(土地紳)であった

と考えている「司徒」を

「司土」と表記するのは西周金文

に多-見られる用法であ-本来は土地や農業を司る官で

殿周開園の神話と

「神代史」(大野)

あったらしいまた史記

殿本紀には

「実は南を佐けて治

水に功があった」とあ-梁玉縄の疑う如き司馬遷の臆説

でな-古-からの停承に基づいているものであるならば

契に夏南の如き下士造成神的な面もあった可能性は捨てき

れない司土の官は農業にも関係が深いことから契は土

地神にして農神の性格をも持つことにな-このことは王

亥が牧牛の創始者であることと関係があるのかも知れない

なお尚書尭典には

帝日「乗努民阻飢o汝后榎播時百穀O」帝日

「契百姓不親五品不遜汝作司徒敬敷五教在寛」

もろもろ

舜は言った「棄よ

民は飢え苦しんでいる

汝は后頑の官とな-

この百穀を播け」と舜は言

った「契よ人民は互いに仲良-せず父子

君臣

夫婦

長幼

朋友の序に従わない汝は司徒の官とな

つつし

-五教を敬んで廉め心を寛-して治めよ」と

とあ-同じ-尚書の周官には

司徒掌邦教敷五典擾兆民

司徒は閲の教化を掌-五教を廉め多-の民を順

23

中国文畢報

第四十六肋

わせる

とあ

って司徒が教化の官であるかの如-書かれているが

これは后積が農官とされたために契は

「五教を康めた」面

のみが取-上げられそれが司徒の官名に結びついてかか

る誤解を生んだものであ-司徒の本来の意味ではないと

考えられる

周やその支配下にあった宋園では殿租に玄王という名

が使われてお-玄鳥による神的な誕生と商の興起のた

めに轟-したとい-事暁が語られる

魯園では

「契」

「玄

王」両方が見えるがー契と言う場合は文化的な功績が描か

れ玄王と言う場合は始租としての面に注目されている

恐ら-

「玄王」とは契=

王亥の始租としての面が強調され

た時の呼稀であ

ったと思われる文化人類学的にも「玄」

という名は始源の闇や滞沌を連想させるものであ-例え

ば老子

六章の

玄牝門天地板

玄牝の門(女陰)は天地寓物の根源である

の如-である

宋園や周では殿租の文化神的な面が抹殺さ

れたために始租神としての

「玄王」の呼稀が定着し魯

鄭などの周連列国では儒教的に襲化した文化神として

「契」と呼ばれ楚国では殿代の呼稀

「王亥」が原形に近

い形で保存されて

「該」と呼ばれたのであろう

四楚鮮

天問の周王朝開園神話

まず天問における殿周開園神話の大筋の流れを圏示する

と附固

一のようになる我々の常識で考えるならば夏殿

革命の次に殿のその後の衰亡を歌いそれから周王朝

へと

移る構成をとるのが普通であるが天問では夏殿革命から

いきな-周の衰亡

へと飛びそこから殿の衰亡

へと戻る間

くりかえ

「天命は

」というテーゼを挟み込んでいるこの

ような操作によってどの王朝も同じように興亡を繰-近

すというテーゼが

7層際立つのであ-

T見乱雑に見える

排列が安は高度なレトリックを用いた結果であるという

ことがわかる

次に殿周の開園が歌われている各章を時間順に並べ

かえて相互に封比してみると附圏二のようになるこの固

24

殻周開園の耐話と

「神代史」(大野)

附圃- (丸内の数字は葦の通し番競)

舜と女梱 ⑱~

「験萌在初」

1

度の先王 ~

t

夏殿革命 ~

周の先王

l

殿周革命 ⑮~cent)

iiiiia段の衰亡 ~ 周の興亡

一- 一 ノ ー「天命反側」

附圏二

段 簡秋と唇の通婚

王亥 有易で牛羊を牧す

王亥の婚姻

王亥 殺されかける

王位 王亥の牛を得る

上甲微 父の遺業を鮭ぐ

肢弟が上甲微を迫害

一寸 どうして子孫が栄えたのか」

~ 楚の興亡

周 ⑯ 后硬 氷上に捨てられる

上帝をも驚かす武勇

-「どうして子孫が栄えたのか」

成湯 伊声を得る

伊デの生い立ち

湯 壷泉から出て案を伐つ

- 25-

⑳ 文王 天命 もて段を覆す

岐山に移る殿の惑婦

文王 村の無道を天に告げる

文王 太公望を得る

武王 急いで殿を伐つ

武王の朝合

周公 武王をよしとせず

武玉 村を伐つ

中隊文革報

第四十六筋

一見して知ることができるのは周の先王には僅か二章

しか使わず殿周革命に九章も費やしてお-殿王朝の方

が租神に多-の章を割いて夏殿革命には三章しか使わな

いのと対照的であるということである

周王朝開園を云う章をもう少し詳し-見てい-と

76積維元子帝何竺之投之干水上鳥何燐之

77何漏弓挟矢殊能渚之既驚帝切激何逢長之

后稜は上帝の長子であるのに上帝はどうして彼に

危害を加えたのか彼を氷の上に捨てると鳥はどう

してこれを暖めたのか

どうして弓をひきしぼ-矢を挟みすぐれた才能で

武婿となったのか上帝をも驚かすほどひどいことを

したのにどうしてその子孫は長-栄えたのかQ

后積が上帝の子であるのに迫害され鳥によって助けられ

たというのは詩経

大雅

「生民」と同様であるが周租后

礎の両的資質を云-のみであ

って農業費明には全-解れ

られていない77章は王逸注では前二句を后稜後二句を

武王の事績とするが洪興租補注は全部を武王の事績とし

朱子はその両方を疑問であるとす

78章以下では文王の

ことを云う章が績いてお-この章を武王の事虞とする課

には従えない聞

多や衰珂

氏は全部を后頑の事鏡とする

が必ずしも后榎に限定することはできない少な-とも

古公以前の

「神代」の先王のうちの誰かであることは確か

であろう後二句の

「上帝をも驚かすようなことをしなが

らどうして子孫が栄えたのか」という疑問が殿の租神と

「人王」の境目である上甲微を語る61章の後二句と似るか

らである周の先王を歌うのはこの二幸で終わ-であ-

そこでは先王たちの文化的功績は全-歌われておらず殿

の先王に比べて極めて冷淡な扱いである

78章以下は殿周革命にまつわる様々の問が寛せられるが

詩経

大雅に見えておらずまた考古学的な裏付けもない

俸説的な事件もい-つか見えているとはいえ神話的な奇

怪さには乏しいといえる0

79遷蔵就岐何能依O殻有感婦何所説

貴職していた重器を移して岐山にやって充たがどう

して人民がそれに従

ったのか殿には人を舷惑させる

26

女がいたというが何のために議話しょうとしたのか

前句についてはこれを文王に懸ける説

大王に懸ける課

あるが前後で文王のことを歌

っているので大王の事蹟と

するのには難があるとはいえその内容は詩経

大雅

「崩」

に云う古公宜父の事鏡に近-どちらに限定することもで

きない「大王から文王までの問」とする他ないであろ-

後二句は肘の妃である坦己を云うとされるがその何につ

いて問うているのかは明らかではないしかし両者とも

その

「答」となるべき俸説がこの時代に前後して現れてお

-前者については

1章で引いた孟子

染着王下後者に

ついては太平御覧奄

1三五引世本に

「村が有蘇氏を伐

った

時有蘇氏は坦己を妃にさし出した肘はこれを愛して言

うことを何でも聞いたために武王が肘もろとも殺した

云うのがこれに普たる

66到峯村窮叔旦不嘉O何親撰車足周之命以各嵯

肘の首をはねるに至-周公且はこれをよしとしな

かったどうして周自ら謀

って殿を討とうとしたのに

その行動は人民に支持されたのか

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

後二句は極めて難解であるがいま黒須重彦氏の解樺に従

う他の諸家にはテキストの文字操作で意味を通らせよ-

とする者も多い前二句を王逸は

「武王の舟に白魚が飛び

込んだので群臣が

『吉兆だ』と言ったのに封Lt周公が

『吉兆ではあるが吉兆と思

ってはならぬ』と戒めたことを

云う

と解しているがこれは史記

周本紀の記事を敦術

したものであって漢初の五行思想の産物である寧ろ所

謂伯夷

叔奔停説の前駆形と考えた方がよい

ここに引いた事件が果たして史寛であ

ったのか西周時

代に生まれた俸説か或いは東周以後の俸説であるのかは

容易に判断できないしかしいずれにしても西周人の

「神

代史」からは無税されていた事件が本来の形ではないに

しても再び記録される動きをここに見ることができるので

あ-結語で述べる

「神代史の再神話化」の萌芽であると

いえるO

このような新しい動きはあるものの天問の周開園神話

も始祖の神的誕生1英雄的事業の達成という基本的な構造

には全-襲わ-はないしかし全鰻を通じて諸王の文化的

27

中閲文革報

第四十六筋

功績には全-解れられていないばか-か周の先王=

租秤

に封しても極めて冷淡であ-殿に封する態度とは明らか

に異な

っているのである

このことは昔時の楚園が周文化よ-も殿文化の方により

親しみその信仰

習俗等を保持していたことの一つの讃

接であろう楚文化と殻文化の関係の深さは既に様々な面

から指摘されてお-例えば楚辞

九歌に見える「雲中君」

「河伯」の神がト辞にも

「雲」「河」神として見えているこ

とや西周末期のものと見られる楚の青銅鐘は殿の鍔と形

が似てお-その銘文も殿金文に似た雄滞な書鰻であるこ

とな

どが挙げられるこのよ-な現象が生じた過程として

は(一)歴代から楚は殿に臣屈してその文化を受け入れ

周の時代になっても表向きは周に臣属しながらも殿の文化

を保持し績けた(二)周代以後に国力を埼大した楚園は

への対抗上その文化を拒み隣接する宋園の殿文化を積

極的に導入したという二つの説が考えられる前者の立

場を取る者はその根接として詩経

商頒

「殿武」の

撞彼殿武奮伐剰楚突入其阻衷利之放有戟其

所湯孫之緒(一章)

敏疾なる武丁は奮起して剤楚を伐ち険しい山地

に攻め入って刑楚の兵士を虜にしその地を平げ

湯王の子孫として手柄を立てた

という部分を畢げることが多い

前述の如-商頭目鰻が

宋園の楚国

への対抗心から作られたものであ-我が国の

紳功皇后遠征説話と同じ-どこまで史寛を反映している

かは未知数であるしかも卜辞などの殿代の地下資料から

は昔時の殿楚関係を示すものはまだ見つかっていない

一方後者については史記

楚世家に周の夷王の時に

楚王熊粟が

「我は牽夷な-中国の詮親に興らず」と言っ

たという記事もあ-現時鮎ではこちらの説の方が有力で

あると思われるいずれにしても周とは言語や風土を異

にする楚閲で生まれた天問には意固したか否かはともか

-周文化の重税と殿文化

への傾斜が讃み取れるのであ-

周王朝側の論理で殿の文化碑の功績を壷-抹殺された詩経

商頭や周の文化神を構える詩経

大雅とは好封照を見

せているのである

28

結語及び除論

これまで述べ来

ったことを要約すると詩経や楚辞

問に見える殿周開園神話は始租の所的誕生1迫害1事業

(文化創造

天下統

一)の完遂という構造を持ち既に西洋

の英雄神話に於て指摘されている基本構造をここにも見出

すことができるただ西洋では

一人で行なわれることが多

い英雄としての事業が中国では教代に亙

って行なわれる

ことが多いという違いはあるところが殿の開園と周の

開園また詩経と天問の相互間で詳し-比較してみると

神々の文化的功績は神話が記録された常時の政治的な事情

によって抹殺されることがあるという事資に束づ-この

ことは中国に於ては剣を振るって活躍する英雄よ-も

文化を創始する

「聖王」の方が重きをなしてお-氏族や

国の威光を左右するものであ

ったということの一つの謹左

といえよう

詩経

大雅における周王朝開園神話は高租にして文化

神である后稜-公劉を神話的要素に富む叙事詩によって語

段周開園の紳話と

「神代史」(大野)

っているが

「人王」の代に至ると

殊に王李に新著に見

られる如-諸王にとってマイナスイメージを輿えかねな

い史寛は壷-制去され武力革命の成功を

「神代」から引

き継がれた輝かしい事業として稀讃している周王朝の開

園神話とそれに績-殿周革命の史糞は詩が記録されるま

での間に

「神代史」

へ改愛されたのであるそこに支配強

化のための王室神聖化という高度な政治的意圏が働いてい

るのは確資であろう

段の遺民の園である春秋の宋園における段王朝開園神話

詩経

商項の諸篇は最終的には周王朝側の人々によって

記録

編輯されたものであ-それ故殿人の信仰した文化

紳は義-抹殺され支配者としての周王朝の論理に基づ-

「神代史」に改変されているOそれに封して楚辞

天問の

殻王朝開園神話には卜辞にも見える租紳たちの神話的雰囲

気に富む物語が多-残

ってお-逆に天問の周王朝開園神

話では周の先王の文化的功績を無税していて宋国との政

治的

風土的立場の違いを明瞭に浮かび上がらせているの

である

- 29-

中国文学報

第四十六筋

か-の如-

神話時代やそれに績-歴史が為政者の手に

よって

「神話化」される場合は中開の諸秤の中で重い比

重を占める文化神が記録者の政治的立場に従

って改奨され

「人王」に封しては

「都合の悪い」史貴を切-捨てて

「神

代史」

へと仕立てられるのであるが東周時代になるとそ

れとは逆に「人王」にも神話素の一つとして解揮可能な俸

説が様々な書物に記録されるようになる既に引用した文

王の安里幽閉

伯夷

叔斉の餓死などがそれであ-

「人

王」の物語もこれによって組両と同様の典型的神話

へ近づ

いてい-のであるこれらが記録されたのは諸子百家の書

物であ-昔時の遊説家たちが民間に流布していた停説を

敬-上げて自説を述べるために用いたものと考えられる

これらの停説が古い形をそのまま保

っているか否かは全-

保護がないとはいえ政治力撃の働きに-いレベルに於て

「神代史」に再び神話的物語が付け加えられるようにな

たということはいえるいわば

「神代史の再神話化」であ

-

1般に

「中国古代王朝神話」として

1つの物語にまと

められているのはこうして

「再神話化」された結果の産物

なのであるこれらは確かに

「神話」としての要素を豊富

に含んでいるのであるがこれを中国古代神話の原型と見

なすことは不可能であ-上述の如-複雑な要因が絡み合

っているのである

こうして

「神代史」はたとえ元の形とは異なるにせよ

再び

「神話」としての光彩を放ち始めたところがこの

「神話」をまたも

「歴史」に固定してしまったのが他なら

ぬ史蓬であることは周知の通-である

しかし

「神代史の再神話化」の原動力とな

った

民間

に語-経がれた王朝停説のエネルギーもこれで絡恨したわ

けではなかったこうしたエネルギーはその後も小説に記

録された種々の歴史俸説などを生み出し形を襲えて生き

績けたのである

ところでこれまで本文中に取-上げなかった

一つの重

要な問題があるそれは

「楚園に古-から停わる楚人自身

の神々はど-な

っていたのか」という問題である

楚辞

天問にはその末尾に楚図の俸説と思われるものが

記されてはいるが多-の注帯家が匙を投げているはど難

30

解であ-筆者も今敢えてこれに挑戦するほどの飴裕はな

いoしかし離騒ではその冒頭で「私は帝高陽の未森である」

と歌

ってお-少な-とも屈原の時代では楚人は穎頭高陽

氏を租神としていたと考えられているが文化神に関する

記述は見えない

一方同じ頃に楚園で成立したと考えら

れている山海経

大荒西経には街頭の子孫の神々の事業

が豊富に記されている例えば重

寮の天地分離

太子長

琴の音禁孝明などである

これらの事章から得られる

一つの推測をここで述べると

楚辞に於ては楚人自らの文化両を表立

って取-上げられな

い事情があ

ったものと思われる楚語で書かれた「原楚鮮」

には書かれていたがそれを漢語に翻弄した際に宋図か

ら導入した殿の文化神に置き換えたのかも知れないそし

て自らの文化紳とその物語を速い

「大荒」の物語として

カムフラージ

ュしたのが他ならぬ山海経なのではなかろ-

かこの書が地理書の形をとっていることや他書に見ら

れない神話停説を豊富に載せていることなどは丁度我が

国の

『出雲園風土記』を思わせるものがあるまた殿の

殿周開国の神話と「神代史」(大野)

文化紳王亥が

「困民国」の人とな

っていた-楚の租神で

あるはずの蘭頂が

「額頭囲」なる図にいたとされているこ

となどもこの仮説の根嬢となろう

しかし最早紙幅も轟きているこの問題は山海経を中心

として改めて考察することにしたい

ば織井慶紀著池田末利編

『中図神話の文化人類学的

研究』(1九九〇平河出版社)があるoまたユング心理学の

立場から日本神話を分析したものとして河合隼雄

『中空構

造日本の深層』(一九八二中央公論社)等がある

近世以前の諸席の議論は専らこの怪異雫が信ずるに足るか

否かの次元に終始するが近代的な研究としては聞一多

「萎

娠履大人跡考」(『聞一多全集』第一射一九四八開明書店)

白鳥清

「段周感生神話の解揮」(『東洋学報』十五巷四親tT

九二五東洋協合学術調査部)出石誠彦

「上代支部の異常

出生説話について」(『支那神話俸説の研究』所収tl九四三

中央公論社)等がある

「帝上帝也」

「帝高華氏之帝也従於帝而見干天婿事賛敏也」

孔疏に

「頑柁郊礁之時英夫高辛氏帝率興供行妻娠随帝之

後践履帝迩行事敬而敏疾放鳥神歌饗紳既饗其条則

31

中国文筆報

第四十六筋

愛而拓之

於是為天神所美大為福緑所依止twz=得懐任則

震動而有身」と云う

例えば嗣西族の

『東巴控』に見える縛文字にこのことが窺

える附固三参照また河南省に俸わるロ東俸説によると

女桐が天から降ってきて伏義が地下から出てきたと云う

(陶陽

鍾秀

『中国創世神話』一九八九上海人民出版社二

一四頁)

附圏三

primeJ 一一一

~PJ虹互L

LJL

堅 室④

上部の 一へ は天下部の 皿 は大地を

表す圃①は中間に天地交合の気がありこれ

より荷物が生ずる固②の中間は蛙で天地交

合後の襲化を表す圃⑨では天地の間に男が上

女が下になっており男女の交合と同様にして

天地が人類を生んだことを表す

(陶陽 鍾秀 『中国創世神話』214頁)

「惟虞東学詩云人之初生皆裂胎而出騒失所依故堕地

郎帝惟羊連胞而下共産猪易故詩以

『如達』馬比o又常

熟陶太常元淳日凡嬰兄在母腹中皆有皮以豪之俗所謂胞

衣也生時其衣先破兄鰻手足少蔚放生之難O惟羊子之生

胸仇完具堕地而後母篤破之故共生易o后硬生時蓋戒於胸

中形鮭末露有如羊子之生者放言

『加速』今按前二説

是也下言

『不味不副』蓋謂其胞衣之不折裂也」(『毛詩俸

集通帯』巷二十五)

「徐君宮人娠而生卵以箆不詳秀之水演O猪孤母有犬名

鵠蒼へ猟干水溝へ得所弄卵衝以東蹄猪孤母以馬具凍俊

之逐沸成見生時正値へ故以為名徐君宮中聞之乃更録

取長而仁智襲君徐固」(博物志

異聞篇引徐値王志)

「高句凝着其先出自克明東明本北夷嚢離王子離王出

行其侍兄於後任娠離王達欲殺之侍見目『前見天上

有菊如大鶏子乗降我困以有嫉』王囚之後連生男玉

置之家牢家以口束嘘束不死o王以為所乃聴収養」(梁

諸夷俸)

北欧や古代

ハンガリー等に見られる豊富な例がKケレ-

ニイtCGユング

『神話撃入門』

一九五1(杉浦忠夫訳

1九七五晶文社)に引かれている

例えば壮族に俸わる

「種子と犬の尾」の物語では人々

「九尾狗」に天上の穀物を盗みに行かせたところ穀物を

九本の尾に-つつけて蹄ろ-としたところを番人に見つか-

八本の尾を叩き切られたが残-

1本の尾に穀物をつけて逃げ

師-人間は農業ができるようになったと云う

(陶陽

秀前掲書二七九頁)

32

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 25: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

中国文畢報

第四十六肋

わせる

とあ

って司徒が教化の官であるかの如-書かれているが

これは后積が農官とされたために契は

「五教を康めた」面

のみが取-上げられそれが司徒の官名に結びついてかか

る誤解を生んだものであ-司徒の本来の意味ではないと

考えられる

周やその支配下にあった宋園では殿租に玄王という名

が使われてお-玄鳥による神的な誕生と商の興起のた

めに轟-したとい-事暁が語られる

魯園では

「契」

「玄

王」両方が見えるがー契と言う場合は文化的な功績が描か

れ玄王と言う場合は始租としての面に注目されている

恐ら-

「玄王」とは契=

王亥の始租としての面が強調され

た時の呼稀であ

ったと思われる文化人類学的にも「玄」

という名は始源の闇や滞沌を連想させるものであ-例え

ば老子

六章の

玄牝門天地板

玄牝の門(女陰)は天地寓物の根源である

の如-である

宋園や周では殿租の文化神的な面が抹殺さ

れたために始租神としての

「玄王」の呼稀が定着し魯

鄭などの周連列国では儒教的に襲化した文化神として

「契」と呼ばれ楚国では殿代の呼稀

「王亥」が原形に近

い形で保存されて

「該」と呼ばれたのであろう

四楚鮮

天問の周王朝開園神話

まず天問における殿周開園神話の大筋の流れを圏示する

と附固

一のようになる我々の常識で考えるならば夏殿

革命の次に殿のその後の衰亡を歌いそれから周王朝

へと

移る構成をとるのが普通であるが天問では夏殿革命から

いきな-周の衰亡

へと飛びそこから殿の衰亡

へと戻る間

くりかえ

「天命は

」というテーゼを挟み込んでいるこの

ような操作によってどの王朝も同じように興亡を繰-近

すというテーゼが

7層際立つのであ-

T見乱雑に見える

排列が安は高度なレトリックを用いた結果であるという

ことがわかる

次に殿周の開園が歌われている各章を時間順に並べ

かえて相互に封比してみると附圏二のようになるこの固

24

殻周開園の耐話と

「神代史」(大野)

附圃- (丸内の数字は葦の通し番競)

舜と女梱 ⑱~

「験萌在初」

1

度の先王 ~

t

夏殿革命 ~

周の先王

l

殿周革命 ⑮~cent)

iiiiia段の衰亡 ~ 周の興亡

一- 一 ノ ー「天命反側」

附圏二

段 簡秋と唇の通婚

王亥 有易で牛羊を牧す

王亥の婚姻

王亥 殺されかける

王位 王亥の牛を得る

上甲微 父の遺業を鮭ぐ

肢弟が上甲微を迫害

一寸 どうして子孫が栄えたのか」

~ 楚の興亡

周 ⑯ 后硬 氷上に捨てられる

上帝をも驚かす武勇

-「どうして子孫が栄えたのか」

成湯 伊声を得る

伊デの生い立ち

湯 壷泉から出て案を伐つ

- 25-

⑳ 文王 天命 もて段を覆す

岐山に移る殿の惑婦

文王 村の無道を天に告げる

文王 太公望を得る

武王 急いで殿を伐つ

武王の朝合

周公 武王をよしとせず

武玉 村を伐つ

中隊文革報

第四十六筋

一見して知ることができるのは周の先王には僅か二章

しか使わず殿周革命に九章も費やしてお-殿王朝の方

が租神に多-の章を割いて夏殿革命には三章しか使わな

いのと対照的であるということである

周王朝開園を云う章をもう少し詳し-見てい-と

76積維元子帝何竺之投之干水上鳥何燐之

77何漏弓挟矢殊能渚之既驚帝切激何逢長之

后稜は上帝の長子であるのに上帝はどうして彼に

危害を加えたのか彼を氷の上に捨てると鳥はどう

してこれを暖めたのか

どうして弓をひきしぼ-矢を挟みすぐれた才能で

武婿となったのか上帝をも驚かすほどひどいことを

したのにどうしてその子孫は長-栄えたのかQ

后積が上帝の子であるのに迫害され鳥によって助けられ

たというのは詩経

大雅

「生民」と同様であるが周租后

礎の両的資質を云-のみであ

って農業費明には全-解れ

られていない77章は王逸注では前二句を后稜後二句を

武王の事績とするが洪興租補注は全部を武王の事績とし

朱子はその両方を疑問であるとす

78章以下では文王の

ことを云う章が績いてお-この章を武王の事虞とする課

には従えない聞

多や衰珂

氏は全部を后頑の事鏡とする

が必ずしも后榎に限定することはできない少な-とも

古公以前の

「神代」の先王のうちの誰かであることは確か

であろう後二句の

「上帝をも驚かすようなことをしなが

らどうして子孫が栄えたのか」という疑問が殿の租神と

「人王」の境目である上甲微を語る61章の後二句と似るか

らである周の先王を歌うのはこの二幸で終わ-であ-

そこでは先王たちの文化的功績は全-歌われておらず殿

の先王に比べて極めて冷淡な扱いである

78章以下は殿周革命にまつわる様々の問が寛せられるが

詩経

大雅に見えておらずまた考古学的な裏付けもない

俸説的な事件もい-つか見えているとはいえ神話的な奇

怪さには乏しいといえる0

79遷蔵就岐何能依O殻有感婦何所説

貴職していた重器を移して岐山にやって充たがどう

して人民がそれに従

ったのか殿には人を舷惑させる

26

女がいたというが何のために議話しょうとしたのか

前句についてはこれを文王に懸ける説

大王に懸ける課

あるが前後で文王のことを歌

っているので大王の事蹟と

するのには難があるとはいえその内容は詩経

大雅

「崩」

に云う古公宜父の事鏡に近-どちらに限定することもで

きない「大王から文王までの問」とする他ないであろ-

後二句は肘の妃である坦己を云うとされるがその何につ

いて問うているのかは明らかではないしかし両者とも

その

「答」となるべき俸説がこの時代に前後して現れてお

-前者については

1章で引いた孟子

染着王下後者に

ついては太平御覧奄

1三五引世本に

「村が有蘇氏を伐

った

時有蘇氏は坦己を妃にさし出した肘はこれを愛して言

うことを何でも聞いたために武王が肘もろとも殺した

云うのがこれに普たる

66到峯村窮叔旦不嘉O何親撰車足周之命以各嵯

肘の首をはねるに至-周公且はこれをよしとしな

かったどうして周自ら謀

って殿を討とうとしたのに

その行動は人民に支持されたのか

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

後二句は極めて難解であるがいま黒須重彦氏の解樺に従

う他の諸家にはテキストの文字操作で意味を通らせよ-

とする者も多い前二句を王逸は

「武王の舟に白魚が飛び

込んだので群臣が

『吉兆だ』と言ったのに封Lt周公が

『吉兆ではあるが吉兆と思

ってはならぬ』と戒めたことを

云う

と解しているがこれは史記

周本紀の記事を敦術

したものであって漢初の五行思想の産物である寧ろ所

謂伯夷

叔奔停説の前駆形と考えた方がよい

ここに引いた事件が果たして史寛であ

ったのか西周時

代に生まれた俸説か或いは東周以後の俸説であるのかは

容易に判断できないしかしいずれにしても西周人の

「神

代史」からは無税されていた事件が本来の形ではないに

しても再び記録される動きをここに見ることができるので

あ-結語で述べる

「神代史の再神話化」の萌芽であると

いえるO

このような新しい動きはあるものの天問の周開園神話

も始祖の神的誕生1英雄的事業の達成という基本的な構造

には全-襲わ-はないしかし全鰻を通じて諸王の文化的

27

中閲文革報

第四十六筋

功績には全-解れられていないばか-か周の先王=

租秤

に封しても極めて冷淡であ-殿に封する態度とは明らか

に異な

っているのである

このことは昔時の楚園が周文化よ-も殿文化の方により

親しみその信仰

習俗等を保持していたことの一つの讃

接であろう楚文化と殻文化の関係の深さは既に様々な面

から指摘されてお-例えば楚辞

九歌に見える「雲中君」

「河伯」の神がト辞にも

「雲」「河」神として見えているこ

とや西周末期のものと見られる楚の青銅鐘は殿の鍔と形

が似てお-その銘文も殿金文に似た雄滞な書鰻であるこ

とな

どが挙げられるこのよ-な現象が生じた過程として

は(一)歴代から楚は殿に臣屈してその文化を受け入れ

周の時代になっても表向きは周に臣属しながらも殿の文化

を保持し績けた(二)周代以後に国力を埼大した楚園は

への対抗上その文化を拒み隣接する宋園の殿文化を積

極的に導入したという二つの説が考えられる前者の立

場を取る者はその根接として詩経

商頒

「殿武」の

撞彼殿武奮伐剰楚突入其阻衷利之放有戟其

所湯孫之緒(一章)

敏疾なる武丁は奮起して剤楚を伐ち険しい山地

に攻め入って刑楚の兵士を虜にしその地を平げ

湯王の子孫として手柄を立てた

という部分を畢げることが多い

前述の如-商頭目鰻が

宋園の楚国

への対抗心から作られたものであ-我が国の

紳功皇后遠征説話と同じ-どこまで史寛を反映している

かは未知数であるしかも卜辞などの殿代の地下資料から

は昔時の殿楚関係を示すものはまだ見つかっていない

一方後者については史記

楚世家に周の夷王の時に

楚王熊粟が

「我は牽夷な-中国の詮親に興らず」と言っ

たという記事もあ-現時鮎ではこちらの説の方が有力で

あると思われるいずれにしても周とは言語や風土を異

にする楚閲で生まれた天問には意固したか否かはともか

-周文化の重税と殿文化

への傾斜が讃み取れるのであ-

周王朝側の論理で殿の文化碑の功績を壷-抹殺された詩経

商頭や周の文化神を構える詩経

大雅とは好封照を見

せているのである

28

結語及び除論

これまで述べ来

ったことを要約すると詩経や楚辞

問に見える殿周開園神話は始租の所的誕生1迫害1事業

(文化創造

天下統

一)の完遂という構造を持ち既に西洋

の英雄神話に於て指摘されている基本構造をここにも見出

すことができるただ西洋では

一人で行なわれることが多

い英雄としての事業が中国では教代に亙

って行なわれる

ことが多いという違いはあるところが殿の開園と周の

開園また詩経と天問の相互間で詳し-比較してみると

神々の文化的功績は神話が記録された常時の政治的な事情

によって抹殺されることがあるという事資に束づ-この

ことは中国に於ては剣を振るって活躍する英雄よ-も

文化を創始する

「聖王」の方が重きをなしてお-氏族や

国の威光を左右するものであ

ったということの一つの謹左

といえよう

詩経

大雅における周王朝開園神話は高租にして文化

神である后稜-公劉を神話的要素に富む叙事詩によって語

段周開園の紳話と

「神代史」(大野)

っているが

「人王」の代に至ると

殊に王李に新著に見

られる如-諸王にとってマイナスイメージを輿えかねな

い史寛は壷-制去され武力革命の成功を

「神代」から引

き継がれた輝かしい事業として稀讃している周王朝の開

園神話とそれに績-殿周革命の史糞は詩が記録されるま

での間に

「神代史」

へ改愛されたのであるそこに支配強

化のための王室神聖化という高度な政治的意圏が働いてい

るのは確資であろう

段の遺民の園である春秋の宋園における段王朝開園神話

詩経

商項の諸篇は最終的には周王朝側の人々によって

記録

編輯されたものであ-それ故殿人の信仰した文化

紳は義-抹殺され支配者としての周王朝の論理に基づ-

「神代史」に改変されているOそれに封して楚辞

天問の

殻王朝開園神話には卜辞にも見える租紳たちの神話的雰囲

気に富む物語が多-残

ってお-逆に天問の周王朝開園神

話では周の先王の文化的功績を無税していて宋国との政

治的

風土的立場の違いを明瞭に浮かび上がらせているの

である

- 29-

中国文学報

第四十六筋

か-の如-

神話時代やそれに績-歴史が為政者の手に

よって

「神話化」される場合は中開の諸秤の中で重い比

重を占める文化神が記録者の政治的立場に従

って改奨され

「人王」に封しては

「都合の悪い」史貴を切-捨てて

「神

代史」

へと仕立てられるのであるが東周時代になるとそ

れとは逆に「人王」にも神話素の一つとして解揮可能な俸

説が様々な書物に記録されるようになる既に引用した文

王の安里幽閉

伯夷

叔斉の餓死などがそれであ-

「人

王」の物語もこれによって組両と同様の典型的神話

へ近づ

いてい-のであるこれらが記録されたのは諸子百家の書

物であ-昔時の遊説家たちが民間に流布していた停説を

敬-上げて自説を述べるために用いたものと考えられる

これらの停説が古い形をそのまま保

っているか否かは全-

保護がないとはいえ政治力撃の働きに-いレベルに於て

「神代史」に再び神話的物語が付け加えられるようにな

たということはいえるいわば

「神代史の再神話化」であ

-

1般に

「中国古代王朝神話」として

1つの物語にまと

められているのはこうして

「再神話化」された結果の産物

なのであるこれらは確かに

「神話」としての要素を豊富

に含んでいるのであるがこれを中国古代神話の原型と見

なすことは不可能であ-上述の如-複雑な要因が絡み合

っているのである

こうして

「神代史」はたとえ元の形とは異なるにせよ

再び

「神話」としての光彩を放ち始めたところがこの

「神話」をまたも

「歴史」に固定してしまったのが他なら

ぬ史蓬であることは周知の通-である

しかし

「神代史の再神話化」の原動力とな

った

民間

に語-経がれた王朝停説のエネルギーもこれで絡恨したわ

けではなかったこうしたエネルギーはその後も小説に記

録された種々の歴史俸説などを生み出し形を襲えて生き

績けたのである

ところでこれまで本文中に取-上げなかった

一つの重

要な問題があるそれは

「楚園に古-から停わる楚人自身

の神々はど-な

っていたのか」という問題である

楚辞

天問にはその末尾に楚図の俸説と思われるものが

記されてはいるが多-の注帯家が匙を投げているはど難

30

解であ-筆者も今敢えてこれに挑戦するほどの飴裕はな

いoしかし離騒ではその冒頭で「私は帝高陽の未森である」

と歌

ってお-少な-とも屈原の時代では楚人は穎頭高陽

氏を租神としていたと考えられているが文化神に関する

記述は見えない

一方同じ頃に楚園で成立したと考えら

れている山海経

大荒西経には街頭の子孫の神々の事業

が豊富に記されている例えば重

寮の天地分離

太子長

琴の音禁孝明などである

これらの事章から得られる

一つの推測をここで述べると

楚辞に於ては楚人自らの文化両を表立

って取-上げられな

い事情があ

ったものと思われる楚語で書かれた「原楚鮮」

には書かれていたがそれを漢語に翻弄した際に宋図か

ら導入した殿の文化神に置き換えたのかも知れないそし

て自らの文化紳とその物語を速い

「大荒」の物語として

カムフラージ

ュしたのが他ならぬ山海経なのではなかろ-

かこの書が地理書の形をとっていることや他書に見ら

れない神話停説を豊富に載せていることなどは丁度我が

国の

『出雲園風土記』を思わせるものがあるまた殿の

殿周開国の神話と「神代史」(大野)

文化紳王亥が

「困民国」の人とな

っていた-楚の租神で

あるはずの蘭頂が

「額頭囲」なる図にいたとされているこ

となどもこの仮説の根嬢となろう

しかし最早紙幅も轟きているこの問題は山海経を中心

として改めて考察することにしたい

ば織井慶紀著池田末利編

『中図神話の文化人類学的

研究』(1九九〇平河出版社)があるoまたユング心理学の

立場から日本神話を分析したものとして河合隼雄

『中空構

造日本の深層』(一九八二中央公論社)等がある

近世以前の諸席の議論は専らこの怪異雫が信ずるに足るか

否かの次元に終始するが近代的な研究としては聞一多

「萎

娠履大人跡考」(『聞一多全集』第一射一九四八開明書店)

白鳥清

「段周感生神話の解揮」(『東洋学報』十五巷四親tT

九二五東洋協合学術調査部)出石誠彦

「上代支部の異常

出生説話について」(『支那神話俸説の研究』所収tl九四三

中央公論社)等がある

「帝上帝也」

「帝高華氏之帝也従於帝而見干天婿事賛敏也」

孔疏に

「頑柁郊礁之時英夫高辛氏帝率興供行妻娠随帝之

後践履帝迩行事敬而敏疾放鳥神歌饗紳既饗其条則

31

中国文筆報

第四十六筋

愛而拓之

於是為天神所美大為福緑所依止twz=得懐任則

震動而有身」と云う

例えば嗣西族の

『東巴控』に見える縛文字にこのことが窺

える附固三参照また河南省に俸わるロ東俸説によると

女桐が天から降ってきて伏義が地下から出てきたと云う

(陶陽

鍾秀

『中国創世神話』一九八九上海人民出版社二

一四頁)

附圏三

primeJ 一一一

~PJ虹互L

LJL

堅 室④

上部の 一へ は天下部の 皿 は大地を

表す圃①は中間に天地交合の気がありこれ

より荷物が生ずる固②の中間は蛙で天地交

合後の襲化を表す圃⑨では天地の間に男が上

女が下になっており男女の交合と同様にして

天地が人類を生んだことを表す

(陶陽 鍾秀 『中国創世神話』214頁)

「惟虞東学詩云人之初生皆裂胎而出騒失所依故堕地

郎帝惟羊連胞而下共産猪易故詩以

『如達』馬比o又常

熟陶太常元淳日凡嬰兄在母腹中皆有皮以豪之俗所謂胞

衣也生時其衣先破兄鰻手足少蔚放生之難O惟羊子之生

胸仇完具堕地而後母篤破之故共生易o后硬生時蓋戒於胸

中形鮭末露有如羊子之生者放言

『加速』今按前二説

是也下言

『不味不副』蓋謂其胞衣之不折裂也」(『毛詩俸

集通帯』巷二十五)

「徐君宮人娠而生卵以箆不詳秀之水演O猪孤母有犬名

鵠蒼へ猟干水溝へ得所弄卵衝以東蹄猪孤母以馬具凍俊

之逐沸成見生時正値へ故以為名徐君宮中聞之乃更録

取長而仁智襲君徐固」(博物志

異聞篇引徐値王志)

「高句凝着其先出自克明東明本北夷嚢離王子離王出

行其侍兄於後任娠離王達欲殺之侍見目『前見天上

有菊如大鶏子乗降我困以有嫉』王囚之後連生男玉

置之家牢家以口束嘘束不死o王以為所乃聴収養」(梁

諸夷俸)

北欧や古代

ハンガリー等に見られる豊富な例がKケレ-

ニイtCGユング

『神話撃入門』

一九五1(杉浦忠夫訳

1九七五晶文社)に引かれている

例えば壮族に俸わる

「種子と犬の尾」の物語では人々

「九尾狗」に天上の穀物を盗みに行かせたところ穀物を

九本の尾に-つつけて蹄ろ-としたところを番人に見つか-

八本の尾を叩き切られたが残-

1本の尾に穀物をつけて逃げ

師-人間は農業ができるようになったと云う

(陶陽

秀前掲書二七九頁)

32

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 26: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

殻周開園の耐話と

「神代史」(大野)

附圃- (丸内の数字は葦の通し番競)

舜と女梱 ⑱~

「験萌在初」

1

度の先王 ~

t

夏殿革命 ~

周の先王

l

殿周革命 ⑮~cent)

iiiiia段の衰亡 ~ 周の興亡

一- 一 ノ ー「天命反側」

附圏二

段 簡秋と唇の通婚

王亥 有易で牛羊を牧す

王亥の婚姻

王亥 殺されかける

王位 王亥の牛を得る

上甲微 父の遺業を鮭ぐ

肢弟が上甲微を迫害

一寸 どうして子孫が栄えたのか」

~ 楚の興亡

周 ⑯ 后硬 氷上に捨てられる

上帝をも驚かす武勇

-「どうして子孫が栄えたのか」

成湯 伊声を得る

伊デの生い立ち

湯 壷泉から出て案を伐つ

- 25-

⑳ 文王 天命 もて段を覆す

岐山に移る殿の惑婦

文王 村の無道を天に告げる

文王 太公望を得る

武王 急いで殿を伐つ

武王の朝合

周公 武王をよしとせず

武玉 村を伐つ

中隊文革報

第四十六筋

一見して知ることができるのは周の先王には僅か二章

しか使わず殿周革命に九章も費やしてお-殿王朝の方

が租神に多-の章を割いて夏殿革命には三章しか使わな

いのと対照的であるということである

周王朝開園を云う章をもう少し詳し-見てい-と

76積維元子帝何竺之投之干水上鳥何燐之

77何漏弓挟矢殊能渚之既驚帝切激何逢長之

后稜は上帝の長子であるのに上帝はどうして彼に

危害を加えたのか彼を氷の上に捨てると鳥はどう

してこれを暖めたのか

どうして弓をひきしぼ-矢を挟みすぐれた才能で

武婿となったのか上帝をも驚かすほどひどいことを

したのにどうしてその子孫は長-栄えたのかQ

后積が上帝の子であるのに迫害され鳥によって助けられ

たというのは詩経

大雅

「生民」と同様であるが周租后

礎の両的資質を云-のみであ

って農業費明には全-解れ

られていない77章は王逸注では前二句を后稜後二句を

武王の事績とするが洪興租補注は全部を武王の事績とし

朱子はその両方を疑問であるとす

78章以下では文王の

ことを云う章が績いてお-この章を武王の事虞とする課

には従えない聞

多や衰珂

氏は全部を后頑の事鏡とする

が必ずしも后榎に限定することはできない少な-とも

古公以前の

「神代」の先王のうちの誰かであることは確か

であろう後二句の

「上帝をも驚かすようなことをしなが

らどうして子孫が栄えたのか」という疑問が殿の租神と

「人王」の境目である上甲微を語る61章の後二句と似るか

らである周の先王を歌うのはこの二幸で終わ-であ-

そこでは先王たちの文化的功績は全-歌われておらず殿

の先王に比べて極めて冷淡な扱いである

78章以下は殿周革命にまつわる様々の問が寛せられるが

詩経

大雅に見えておらずまた考古学的な裏付けもない

俸説的な事件もい-つか見えているとはいえ神話的な奇

怪さには乏しいといえる0

79遷蔵就岐何能依O殻有感婦何所説

貴職していた重器を移して岐山にやって充たがどう

して人民がそれに従

ったのか殿には人を舷惑させる

26

女がいたというが何のために議話しょうとしたのか

前句についてはこれを文王に懸ける説

大王に懸ける課

あるが前後で文王のことを歌

っているので大王の事蹟と

するのには難があるとはいえその内容は詩経

大雅

「崩」

に云う古公宜父の事鏡に近-どちらに限定することもで

きない「大王から文王までの問」とする他ないであろ-

後二句は肘の妃である坦己を云うとされるがその何につ

いて問うているのかは明らかではないしかし両者とも

その

「答」となるべき俸説がこの時代に前後して現れてお

-前者については

1章で引いた孟子

染着王下後者に

ついては太平御覧奄

1三五引世本に

「村が有蘇氏を伐

った

時有蘇氏は坦己を妃にさし出した肘はこれを愛して言

うことを何でも聞いたために武王が肘もろとも殺した

云うのがこれに普たる

66到峯村窮叔旦不嘉O何親撰車足周之命以各嵯

肘の首をはねるに至-周公且はこれをよしとしな

かったどうして周自ら謀

って殿を討とうとしたのに

その行動は人民に支持されたのか

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

後二句は極めて難解であるがいま黒須重彦氏の解樺に従

う他の諸家にはテキストの文字操作で意味を通らせよ-

とする者も多い前二句を王逸は

「武王の舟に白魚が飛び

込んだので群臣が

『吉兆だ』と言ったのに封Lt周公が

『吉兆ではあるが吉兆と思

ってはならぬ』と戒めたことを

云う

と解しているがこれは史記

周本紀の記事を敦術

したものであって漢初の五行思想の産物である寧ろ所

謂伯夷

叔奔停説の前駆形と考えた方がよい

ここに引いた事件が果たして史寛であ

ったのか西周時

代に生まれた俸説か或いは東周以後の俸説であるのかは

容易に判断できないしかしいずれにしても西周人の

「神

代史」からは無税されていた事件が本来の形ではないに

しても再び記録される動きをここに見ることができるので

あ-結語で述べる

「神代史の再神話化」の萌芽であると

いえるO

このような新しい動きはあるものの天問の周開園神話

も始祖の神的誕生1英雄的事業の達成という基本的な構造

には全-襲わ-はないしかし全鰻を通じて諸王の文化的

27

中閲文革報

第四十六筋

功績には全-解れられていないばか-か周の先王=

租秤

に封しても極めて冷淡であ-殿に封する態度とは明らか

に異な

っているのである

このことは昔時の楚園が周文化よ-も殿文化の方により

親しみその信仰

習俗等を保持していたことの一つの讃

接であろう楚文化と殻文化の関係の深さは既に様々な面

から指摘されてお-例えば楚辞

九歌に見える「雲中君」

「河伯」の神がト辞にも

「雲」「河」神として見えているこ

とや西周末期のものと見られる楚の青銅鐘は殿の鍔と形

が似てお-その銘文も殿金文に似た雄滞な書鰻であるこ

とな

どが挙げられるこのよ-な現象が生じた過程として

は(一)歴代から楚は殿に臣屈してその文化を受け入れ

周の時代になっても表向きは周に臣属しながらも殿の文化

を保持し績けた(二)周代以後に国力を埼大した楚園は

への対抗上その文化を拒み隣接する宋園の殿文化を積

極的に導入したという二つの説が考えられる前者の立

場を取る者はその根接として詩経

商頒

「殿武」の

撞彼殿武奮伐剰楚突入其阻衷利之放有戟其

所湯孫之緒(一章)

敏疾なる武丁は奮起して剤楚を伐ち険しい山地

に攻め入って刑楚の兵士を虜にしその地を平げ

湯王の子孫として手柄を立てた

という部分を畢げることが多い

前述の如-商頭目鰻が

宋園の楚国

への対抗心から作られたものであ-我が国の

紳功皇后遠征説話と同じ-どこまで史寛を反映している

かは未知数であるしかも卜辞などの殿代の地下資料から

は昔時の殿楚関係を示すものはまだ見つかっていない

一方後者については史記

楚世家に周の夷王の時に

楚王熊粟が

「我は牽夷な-中国の詮親に興らず」と言っ

たという記事もあ-現時鮎ではこちらの説の方が有力で

あると思われるいずれにしても周とは言語や風土を異

にする楚閲で生まれた天問には意固したか否かはともか

-周文化の重税と殿文化

への傾斜が讃み取れるのであ-

周王朝側の論理で殿の文化碑の功績を壷-抹殺された詩経

商頭や周の文化神を構える詩経

大雅とは好封照を見

せているのである

28

結語及び除論

これまで述べ来

ったことを要約すると詩経や楚辞

問に見える殿周開園神話は始租の所的誕生1迫害1事業

(文化創造

天下統

一)の完遂という構造を持ち既に西洋

の英雄神話に於て指摘されている基本構造をここにも見出

すことができるただ西洋では

一人で行なわれることが多

い英雄としての事業が中国では教代に亙

って行なわれる

ことが多いという違いはあるところが殿の開園と周の

開園また詩経と天問の相互間で詳し-比較してみると

神々の文化的功績は神話が記録された常時の政治的な事情

によって抹殺されることがあるという事資に束づ-この

ことは中国に於ては剣を振るって活躍する英雄よ-も

文化を創始する

「聖王」の方が重きをなしてお-氏族や

国の威光を左右するものであ

ったということの一つの謹左

といえよう

詩経

大雅における周王朝開園神話は高租にして文化

神である后稜-公劉を神話的要素に富む叙事詩によって語

段周開園の紳話と

「神代史」(大野)

っているが

「人王」の代に至ると

殊に王李に新著に見

られる如-諸王にとってマイナスイメージを輿えかねな

い史寛は壷-制去され武力革命の成功を

「神代」から引

き継がれた輝かしい事業として稀讃している周王朝の開

園神話とそれに績-殿周革命の史糞は詩が記録されるま

での間に

「神代史」

へ改愛されたのであるそこに支配強

化のための王室神聖化という高度な政治的意圏が働いてい

るのは確資であろう

段の遺民の園である春秋の宋園における段王朝開園神話

詩経

商項の諸篇は最終的には周王朝側の人々によって

記録

編輯されたものであ-それ故殿人の信仰した文化

紳は義-抹殺され支配者としての周王朝の論理に基づ-

「神代史」に改変されているOそれに封して楚辞

天問の

殻王朝開園神話には卜辞にも見える租紳たちの神話的雰囲

気に富む物語が多-残

ってお-逆に天問の周王朝開園神

話では周の先王の文化的功績を無税していて宋国との政

治的

風土的立場の違いを明瞭に浮かび上がらせているの

である

- 29-

中国文学報

第四十六筋

か-の如-

神話時代やそれに績-歴史が為政者の手に

よって

「神話化」される場合は中開の諸秤の中で重い比

重を占める文化神が記録者の政治的立場に従

って改奨され

「人王」に封しては

「都合の悪い」史貴を切-捨てて

「神

代史」

へと仕立てられるのであるが東周時代になるとそ

れとは逆に「人王」にも神話素の一つとして解揮可能な俸

説が様々な書物に記録されるようになる既に引用した文

王の安里幽閉

伯夷

叔斉の餓死などがそれであ-

「人

王」の物語もこれによって組両と同様の典型的神話

へ近づ

いてい-のであるこれらが記録されたのは諸子百家の書

物であ-昔時の遊説家たちが民間に流布していた停説を

敬-上げて自説を述べるために用いたものと考えられる

これらの停説が古い形をそのまま保

っているか否かは全-

保護がないとはいえ政治力撃の働きに-いレベルに於て

「神代史」に再び神話的物語が付け加えられるようにな

たということはいえるいわば

「神代史の再神話化」であ

-

1般に

「中国古代王朝神話」として

1つの物語にまと

められているのはこうして

「再神話化」された結果の産物

なのであるこれらは確かに

「神話」としての要素を豊富

に含んでいるのであるがこれを中国古代神話の原型と見

なすことは不可能であ-上述の如-複雑な要因が絡み合

っているのである

こうして

「神代史」はたとえ元の形とは異なるにせよ

再び

「神話」としての光彩を放ち始めたところがこの

「神話」をまたも

「歴史」に固定してしまったのが他なら

ぬ史蓬であることは周知の通-である

しかし

「神代史の再神話化」の原動力とな

った

民間

に語-経がれた王朝停説のエネルギーもこれで絡恨したわ

けではなかったこうしたエネルギーはその後も小説に記

録された種々の歴史俸説などを生み出し形を襲えて生き

績けたのである

ところでこれまで本文中に取-上げなかった

一つの重

要な問題があるそれは

「楚園に古-から停わる楚人自身

の神々はど-な

っていたのか」という問題である

楚辞

天問にはその末尾に楚図の俸説と思われるものが

記されてはいるが多-の注帯家が匙を投げているはど難

30

解であ-筆者も今敢えてこれに挑戦するほどの飴裕はな

いoしかし離騒ではその冒頭で「私は帝高陽の未森である」

と歌

ってお-少な-とも屈原の時代では楚人は穎頭高陽

氏を租神としていたと考えられているが文化神に関する

記述は見えない

一方同じ頃に楚園で成立したと考えら

れている山海経

大荒西経には街頭の子孫の神々の事業

が豊富に記されている例えば重

寮の天地分離

太子長

琴の音禁孝明などである

これらの事章から得られる

一つの推測をここで述べると

楚辞に於ては楚人自らの文化両を表立

って取-上げられな

い事情があ

ったものと思われる楚語で書かれた「原楚鮮」

には書かれていたがそれを漢語に翻弄した際に宋図か

ら導入した殿の文化神に置き換えたのかも知れないそし

て自らの文化紳とその物語を速い

「大荒」の物語として

カムフラージ

ュしたのが他ならぬ山海経なのではなかろ-

かこの書が地理書の形をとっていることや他書に見ら

れない神話停説を豊富に載せていることなどは丁度我が

国の

『出雲園風土記』を思わせるものがあるまた殿の

殿周開国の神話と「神代史」(大野)

文化紳王亥が

「困民国」の人とな

っていた-楚の租神で

あるはずの蘭頂が

「額頭囲」なる図にいたとされているこ

となどもこの仮説の根嬢となろう

しかし最早紙幅も轟きているこの問題は山海経を中心

として改めて考察することにしたい

ば織井慶紀著池田末利編

『中図神話の文化人類学的

研究』(1九九〇平河出版社)があるoまたユング心理学の

立場から日本神話を分析したものとして河合隼雄

『中空構

造日本の深層』(一九八二中央公論社)等がある

近世以前の諸席の議論は専らこの怪異雫が信ずるに足るか

否かの次元に終始するが近代的な研究としては聞一多

「萎

娠履大人跡考」(『聞一多全集』第一射一九四八開明書店)

白鳥清

「段周感生神話の解揮」(『東洋学報』十五巷四親tT

九二五東洋協合学術調査部)出石誠彦

「上代支部の異常

出生説話について」(『支那神話俸説の研究』所収tl九四三

中央公論社)等がある

「帝上帝也」

「帝高華氏之帝也従於帝而見干天婿事賛敏也」

孔疏に

「頑柁郊礁之時英夫高辛氏帝率興供行妻娠随帝之

後践履帝迩行事敬而敏疾放鳥神歌饗紳既饗其条則

31

中国文筆報

第四十六筋

愛而拓之

於是為天神所美大為福緑所依止twz=得懐任則

震動而有身」と云う

例えば嗣西族の

『東巴控』に見える縛文字にこのことが窺

える附固三参照また河南省に俸わるロ東俸説によると

女桐が天から降ってきて伏義が地下から出てきたと云う

(陶陽

鍾秀

『中国創世神話』一九八九上海人民出版社二

一四頁)

附圏三

primeJ 一一一

~PJ虹互L

LJL

堅 室④

上部の 一へ は天下部の 皿 は大地を

表す圃①は中間に天地交合の気がありこれ

より荷物が生ずる固②の中間は蛙で天地交

合後の襲化を表す圃⑨では天地の間に男が上

女が下になっており男女の交合と同様にして

天地が人類を生んだことを表す

(陶陽 鍾秀 『中国創世神話』214頁)

「惟虞東学詩云人之初生皆裂胎而出騒失所依故堕地

郎帝惟羊連胞而下共産猪易故詩以

『如達』馬比o又常

熟陶太常元淳日凡嬰兄在母腹中皆有皮以豪之俗所謂胞

衣也生時其衣先破兄鰻手足少蔚放生之難O惟羊子之生

胸仇完具堕地而後母篤破之故共生易o后硬生時蓋戒於胸

中形鮭末露有如羊子之生者放言

『加速』今按前二説

是也下言

『不味不副』蓋謂其胞衣之不折裂也」(『毛詩俸

集通帯』巷二十五)

「徐君宮人娠而生卵以箆不詳秀之水演O猪孤母有犬名

鵠蒼へ猟干水溝へ得所弄卵衝以東蹄猪孤母以馬具凍俊

之逐沸成見生時正値へ故以為名徐君宮中聞之乃更録

取長而仁智襲君徐固」(博物志

異聞篇引徐値王志)

「高句凝着其先出自克明東明本北夷嚢離王子離王出

行其侍兄於後任娠離王達欲殺之侍見目『前見天上

有菊如大鶏子乗降我困以有嫉』王囚之後連生男玉

置之家牢家以口束嘘束不死o王以為所乃聴収養」(梁

諸夷俸)

北欧や古代

ハンガリー等に見られる豊富な例がKケレ-

ニイtCGユング

『神話撃入門』

一九五1(杉浦忠夫訳

1九七五晶文社)に引かれている

例えば壮族に俸わる

「種子と犬の尾」の物語では人々

「九尾狗」に天上の穀物を盗みに行かせたところ穀物を

九本の尾に-つつけて蹄ろ-としたところを番人に見つか-

八本の尾を叩き切られたが残-

1本の尾に穀物をつけて逃げ

師-人間は農業ができるようになったと云う

(陶陽

秀前掲書二七九頁)

32

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 27: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

中隊文革報

第四十六筋

一見して知ることができるのは周の先王には僅か二章

しか使わず殿周革命に九章も費やしてお-殿王朝の方

が租神に多-の章を割いて夏殿革命には三章しか使わな

いのと対照的であるということである

周王朝開園を云う章をもう少し詳し-見てい-と

76積維元子帝何竺之投之干水上鳥何燐之

77何漏弓挟矢殊能渚之既驚帝切激何逢長之

后稜は上帝の長子であるのに上帝はどうして彼に

危害を加えたのか彼を氷の上に捨てると鳥はどう

してこれを暖めたのか

どうして弓をひきしぼ-矢を挟みすぐれた才能で

武婿となったのか上帝をも驚かすほどひどいことを

したのにどうしてその子孫は長-栄えたのかQ

后積が上帝の子であるのに迫害され鳥によって助けられ

たというのは詩経

大雅

「生民」と同様であるが周租后

礎の両的資質を云-のみであ

って農業費明には全-解れ

られていない77章は王逸注では前二句を后稜後二句を

武王の事績とするが洪興租補注は全部を武王の事績とし

朱子はその両方を疑問であるとす

78章以下では文王の

ことを云う章が績いてお-この章を武王の事虞とする課

には従えない聞

多や衰珂

氏は全部を后頑の事鏡とする

が必ずしも后榎に限定することはできない少な-とも

古公以前の

「神代」の先王のうちの誰かであることは確か

であろう後二句の

「上帝をも驚かすようなことをしなが

らどうして子孫が栄えたのか」という疑問が殿の租神と

「人王」の境目である上甲微を語る61章の後二句と似るか

らである周の先王を歌うのはこの二幸で終わ-であ-

そこでは先王たちの文化的功績は全-歌われておらず殿

の先王に比べて極めて冷淡な扱いである

78章以下は殿周革命にまつわる様々の問が寛せられるが

詩経

大雅に見えておらずまた考古学的な裏付けもない

俸説的な事件もい-つか見えているとはいえ神話的な奇

怪さには乏しいといえる0

79遷蔵就岐何能依O殻有感婦何所説

貴職していた重器を移して岐山にやって充たがどう

して人民がそれに従

ったのか殿には人を舷惑させる

26

女がいたというが何のために議話しょうとしたのか

前句についてはこれを文王に懸ける説

大王に懸ける課

あるが前後で文王のことを歌

っているので大王の事蹟と

するのには難があるとはいえその内容は詩経

大雅

「崩」

に云う古公宜父の事鏡に近-どちらに限定することもで

きない「大王から文王までの問」とする他ないであろ-

後二句は肘の妃である坦己を云うとされるがその何につ

いて問うているのかは明らかではないしかし両者とも

その

「答」となるべき俸説がこの時代に前後して現れてお

-前者については

1章で引いた孟子

染着王下後者に

ついては太平御覧奄

1三五引世本に

「村が有蘇氏を伐

った

時有蘇氏は坦己を妃にさし出した肘はこれを愛して言

うことを何でも聞いたために武王が肘もろとも殺した

云うのがこれに普たる

66到峯村窮叔旦不嘉O何親撰車足周之命以各嵯

肘の首をはねるに至-周公且はこれをよしとしな

かったどうして周自ら謀

って殿を討とうとしたのに

その行動は人民に支持されたのか

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

後二句は極めて難解であるがいま黒須重彦氏の解樺に従

う他の諸家にはテキストの文字操作で意味を通らせよ-

とする者も多い前二句を王逸は

「武王の舟に白魚が飛び

込んだので群臣が

『吉兆だ』と言ったのに封Lt周公が

『吉兆ではあるが吉兆と思

ってはならぬ』と戒めたことを

云う

と解しているがこれは史記

周本紀の記事を敦術

したものであって漢初の五行思想の産物である寧ろ所

謂伯夷

叔奔停説の前駆形と考えた方がよい

ここに引いた事件が果たして史寛であ

ったのか西周時

代に生まれた俸説か或いは東周以後の俸説であるのかは

容易に判断できないしかしいずれにしても西周人の

「神

代史」からは無税されていた事件が本来の形ではないに

しても再び記録される動きをここに見ることができるので

あ-結語で述べる

「神代史の再神話化」の萌芽であると

いえるO

このような新しい動きはあるものの天問の周開園神話

も始祖の神的誕生1英雄的事業の達成という基本的な構造

には全-襲わ-はないしかし全鰻を通じて諸王の文化的

27

中閲文革報

第四十六筋

功績には全-解れられていないばか-か周の先王=

租秤

に封しても極めて冷淡であ-殿に封する態度とは明らか

に異な

っているのである

このことは昔時の楚園が周文化よ-も殿文化の方により

親しみその信仰

習俗等を保持していたことの一つの讃

接であろう楚文化と殻文化の関係の深さは既に様々な面

から指摘されてお-例えば楚辞

九歌に見える「雲中君」

「河伯」の神がト辞にも

「雲」「河」神として見えているこ

とや西周末期のものと見られる楚の青銅鐘は殿の鍔と形

が似てお-その銘文も殿金文に似た雄滞な書鰻であるこ

とな

どが挙げられるこのよ-な現象が生じた過程として

は(一)歴代から楚は殿に臣屈してその文化を受け入れ

周の時代になっても表向きは周に臣属しながらも殿の文化

を保持し績けた(二)周代以後に国力を埼大した楚園は

への対抗上その文化を拒み隣接する宋園の殿文化を積

極的に導入したという二つの説が考えられる前者の立

場を取る者はその根接として詩経

商頒

「殿武」の

撞彼殿武奮伐剰楚突入其阻衷利之放有戟其

所湯孫之緒(一章)

敏疾なる武丁は奮起して剤楚を伐ち険しい山地

に攻め入って刑楚の兵士を虜にしその地を平げ

湯王の子孫として手柄を立てた

という部分を畢げることが多い

前述の如-商頭目鰻が

宋園の楚国

への対抗心から作られたものであ-我が国の

紳功皇后遠征説話と同じ-どこまで史寛を反映している

かは未知数であるしかも卜辞などの殿代の地下資料から

は昔時の殿楚関係を示すものはまだ見つかっていない

一方後者については史記

楚世家に周の夷王の時に

楚王熊粟が

「我は牽夷な-中国の詮親に興らず」と言っ

たという記事もあ-現時鮎ではこちらの説の方が有力で

あると思われるいずれにしても周とは言語や風土を異

にする楚閲で生まれた天問には意固したか否かはともか

-周文化の重税と殿文化

への傾斜が讃み取れるのであ-

周王朝側の論理で殿の文化碑の功績を壷-抹殺された詩経

商頭や周の文化神を構える詩経

大雅とは好封照を見

せているのである

28

結語及び除論

これまで述べ来

ったことを要約すると詩経や楚辞

問に見える殿周開園神話は始租の所的誕生1迫害1事業

(文化創造

天下統

一)の完遂という構造を持ち既に西洋

の英雄神話に於て指摘されている基本構造をここにも見出

すことができるただ西洋では

一人で行なわれることが多

い英雄としての事業が中国では教代に亙

って行なわれる

ことが多いという違いはあるところが殿の開園と周の

開園また詩経と天問の相互間で詳し-比較してみると

神々の文化的功績は神話が記録された常時の政治的な事情

によって抹殺されることがあるという事資に束づ-この

ことは中国に於ては剣を振るって活躍する英雄よ-も

文化を創始する

「聖王」の方が重きをなしてお-氏族や

国の威光を左右するものであ

ったということの一つの謹左

といえよう

詩経

大雅における周王朝開園神話は高租にして文化

神である后稜-公劉を神話的要素に富む叙事詩によって語

段周開園の紳話と

「神代史」(大野)

っているが

「人王」の代に至ると

殊に王李に新著に見

られる如-諸王にとってマイナスイメージを輿えかねな

い史寛は壷-制去され武力革命の成功を

「神代」から引

き継がれた輝かしい事業として稀讃している周王朝の開

園神話とそれに績-殿周革命の史糞は詩が記録されるま

での間に

「神代史」

へ改愛されたのであるそこに支配強

化のための王室神聖化という高度な政治的意圏が働いてい

るのは確資であろう

段の遺民の園である春秋の宋園における段王朝開園神話

詩経

商項の諸篇は最終的には周王朝側の人々によって

記録

編輯されたものであ-それ故殿人の信仰した文化

紳は義-抹殺され支配者としての周王朝の論理に基づ-

「神代史」に改変されているOそれに封して楚辞

天問の

殻王朝開園神話には卜辞にも見える租紳たちの神話的雰囲

気に富む物語が多-残

ってお-逆に天問の周王朝開園神

話では周の先王の文化的功績を無税していて宋国との政

治的

風土的立場の違いを明瞭に浮かび上がらせているの

である

- 29-

中国文学報

第四十六筋

か-の如-

神話時代やそれに績-歴史が為政者の手に

よって

「神話化」される場合は中開の諸秤の中で重い比

重を占める文化神が記録者の政治的立場に従

って改奨され

「人王」に封しては

「都合の悪い」史貴を切-捨てて

「神

代史」

へと仕立てられるのであるが東周時代になるとそ

れとは逆に「人王」にも神話素の一つとして解揮可能な俸

説が様々な書物に記録されるようになる既に引用した文

王の安里幽閉

伯夷

叔斉の餓死などがそれであ-

「人

王」の物語もこれによって組両と同様の典型的神話

へ近づ

いてい-のであるこれらが記録されたのは諸子百家の書

物であ-昔時の遊説家たちが民間に流布していた停説を

敬-上げて自説を述べるために用いたものと考えられる

これらの停説が古い形をそのまま保

っているか否かは全-

保護がないとはいえ政治力撃の働きに-いレベルに於て

「神代史」に再び神話的物語が付け加えられるようにな

たということはいえるいわば

「神代史の再神話化」であ

-

1般に

「中国古代王朝神話」として

1つの物語にまと

められているのはこうして

「再神話化」された結果の産物

なのであるこれらは確かに

「神話」としての要素を豊富

に含んでいるのであるがこれを中国古代神話の原型と見

なすことは不可能であ-上述の如-複雑な要因が絡み合

っているのである

こうして

「神代史」はたとえ元の形とは異なるにせよ

再び

「神話」としての光彩を放ち始めたところがこの

「神話」をまたも

「歴史」に固定してしまったのが他なら

ぬ史蓬であることは周知の通-である

しかし

「神代史の再神話化」の原動力とな

った

民間

に語-経がれた王朝停説のエネルギーもこれで絡恨したわ

けではなかったこうしたエネルギーはその後も小説に記

録された種々の歴史俸説などを生み出し形を襲えて生き

績けたのである

ところでこれまで本文中に取-上げなかった

一つの重

要な問題があるそれは

「楚園に古-から停わる楚人自身

の神々はど-な

っていたのか」という問題である

楚辞

天問にはその末尾に楚図の俸説と思われるものが

記されてはいるが多-の注帯家が匙を投げているはど難

30

解であ-筆者も今敢えてこれに挑戦するほどの飴裕はな

いoしかし離騒ではその冒頭で「私は帝高陽の未森である」

と歌

ってお-少な-とも屈原の時代では楚人は穎頭高陽

氏を租神としていたと考えられているが文化神に関する

記述は見えない

一方同じ頃に楚園で成立したと考えら

れている山海経

大荒西経には街頭の子孫の神々の事業

が豊富に記されている例えば重

寮の天地分離

太子長

琴の音禁孝明などである

これらの事章から得られる

一つの推測をここで述べると

楚辞に於ては楚人自らの文化両を表立

って取-上げられな

い事情があ

ったものと思われる楚語で書かれた「原楚鮮」

には書かれていたがそれを漢語に翻弄した際に宋図か

ら導入した殿の文化神に置き換えたのかも知れないそし

て自らの文化紳とその物語を速い

「大荒」の物語として

カムフラージ

ュしたのが他ならぬ山海経なのではなかろ-

かこの書が地理書の形をとっていることや他書に見ら

れない神話停説を豊富に載せていることなどは丁度我が

国の

『出雲園風土記』を思わせるものがあるまた殿の

殿周開国の神話と「神代史」(大野)

文化紳王亥が

「困民国」の人とな

っていた-楚の租神で

あるはずの蘭頂が

「額頭囲」なる図にいたとされているこ

となどもこの仮説の根嬢となろう

しかし最早紙幅も轟きているこの問題は山海経を中心

として改めて考察することにしたい

ば織井慶紀著池田末利編

『中図神話の文化人類学的

研究』(1九九〇平河出版社)があるoまたユング心理学の

立場から日本神話を分析したものとして河合隼雄

『中空構

造日本の深層』(一九八二中央公論社)等がある

近世以前の諸席の議論は専らこの怪異雫が信ずるに足るか

否かの次元に終始するが近代的な研究としては聞一多

「萎

娠履大人跡考」(『聞一多全集』第一射一九四八開明書店)

白鳥清

「段周感生神話の解揮」(『東洋学報』十五巷四親tT

九二五東洋協合学術調査部)出石誠彦

「上代支部の異常

出生説話について」(『支那神話俸説の研究』所収tl九四三

中央公論社)等がある

「帝上帝也」

「帝高華氏之帝也従於帝而見干天婿事賛敏也」

孔疏に

「頑柁郊礁之時英夫高辛氏帝率興供行妻娠随帝之

後践履帝迩行事敬而敏疾放鳥神歌饗紳既饗其条則

31

中国文筆報

第四十六筋

愛而拓之

於是為天神所美大為福緑所依止twz=得懐任則

震動而有身」と云う

例えば嗣西族の

『東巴控』に見える縛文字にこのことが窺

える附固三参照また河南省に俸わるロ東俸説によると

女桐が天から降ってきて伏義が地下から出てきたと云う

(陶陽

鍾秀

『中国創世神話』一九八九上海人民出版社二

一四頁)

附圏三

primeJ 一一一

~PJ虹互L

LJL

堅 室④

上部の 一へ は天下部の 皿 は大地を

表す圃①は中間に天地交合の気がありこれ

より荷物が生ずる固②の中間は蛙で天地交

合後の襲化を表す圃⑨では天地の間に男が上

女が下になっており男女の交合と同様にして

天地が人類を生んだことを表す

(陶陽 鍾秀 『中国創世神話』214頁)

「惟虞東学詩云人之初生皆裂胎而出騒失所依故堕地

郎帝惟羊連胞而下共産猪易故詩以

『如達』馬比o又常

熟陶太常元淳日凡嬰兄在母腹中皆有皮以豪之俗所謂胞

衣也生時其衣先破兄鰻手足少蔚放生之難O惟羊子之生

胸仇完具堕地而後母篤破之故共生易o后硬生時蓋戒於胸

中形鮭末露有如羊子之生者放言

『加速』今按前二説

是也下言

『不味不副』蓋謂其胞衣之不折裂也」(『毛詩俸

集通帯』巷二十五)

「徐君宮人娠而生卵以箆不詳秀之水演O猪孤母有犬名

鵠蒼へ猟干水溝へ得所弄卵衝以東蹄猪孤母以馬具凍俊

之逐沸成見生時正値へ故以為名徐君宮中聞之乃更録

取長而仁智襲君徐固」(博物志

異聞篇引徐値王志)

「高句凝着其先出自克明東明本北夷嚢離王子離王出

行其侍兄於後任娠離王達欲殺之侍見目『前見天上

有菊如大鶏子乗降我困以有嫉』王囚之後連生男玉

置之家牢家以口束嘘束不死o王以為所乃聴収養」(梁

諸夷俸)

北欧や古代

ハンガリー等に見られる豊富な例がKケレ-

ニイtCGユング

『神話撃入門』

一九五1(杉浦忠夫訳

1九七五晶文社)に引かれている

例えば壮族に俸わる

「種子と犬の尾」の物語では人々

「九尾狗」に天上の穀物を盗みに行かせたところ穀物を

九本の尾に-つつけて蹄ろ-としたところを番人に見つか-

八本の尾を叩き切られたが残-

1本の尾に穀物をつけて逃げ

師-人間は農業ができるようになったと云う

(陶陽

秀前掲書二七九頁)

32

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 28: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

女がいたというが何のために議話しょうとしたのか

前句についてはこれを文王に懸ける説

大王に懸ける課

あるが前後で文王のことを歌

っているので大王の事蹟と

するのには難があるとはいえその内容は詩経

大雅

「崩」

に云う古公宜父の事鏡に近-どちらに限定することもで

きない「大王から文王までの問」とする他ないであろ-

後二句は肘の妃である坦己を云うとされるがその何につ

いて問うているのかは明らかではないしかし両者とも

その

「答」となるべき俸説がこの時代に前後して現れてお

-前者については

1章で引いた孟子

染着王下後者に

ついては太平御覧奄

1三五引世本に

「村が有蘇氏を伐

った

時有蘇氏は坦己を妃にさし出した肘はこれを愛して言

うことを何でも聞いたために武王が肘もろとも殺した

云うのがこれに普たる

66到峯村窮叔旦不嘉O何親撰車足周之命以各嵯

肘の首をはねるに至-周公且はこれをよしとしな

かったどうして周自ら謀

って殿を討とうとしたのに

その行動は人民に支持されたのか

段周開国の神話と

「神代史」(大野)

後二句は極めて難解であるがいま黒須重彦氏の解樺に従

う他の諸家にはテキストの文字操作で意味を通らせよ-

とする者も多い前二句を王逸は

「武王の舟に白魚が飛び

込んだので群臣が

『吉兆だ』と言ったのに封Lt周公が

『吉兆ではあるが吉兆と思

ってはならぬ』と戒めたことを

云う

と解しているがこれは史記

周本紀の記事を敦術

したものであって漢初の五行思想の産物である寧ろ所

謂伯夷

叔奔停説の前駆形と考えた方がよい

ここに引いた事件が果たして史寛であ

ったのか西周時

代に生まれた俸説か或いは東周以後の俸説であるのかは

容易に判断できないしかしいずれにしても西周人の

「神

代史」からは無税されていた事件が本来の形ではないに

しても再び記録される動きをここに見ることができるので

あ-結語で述べる

「神代史の再神話化」の萌芽であると

いえるO

このような新しい動きはあるものの天問の周開園神話

も始祖の神的誕生1英雄的事業の達成という基本的な構造

には全-襲わ-はないしかし全鰻を通じて諸王の文化的

27

中閲文革報

第四十六筋

功績には全-解れられていないばか-か周の先王=

租秤

に封しても極めて冷淡であ-殿に封する態度とは明らか

に異な

っているのである

このことは昔時の楚園が周文化よ-も殿文化の方により

親しみその信仰

習俗等を保持していたことの一つの讃

接であろう楚文化と殻文化の関係の深さは既に様々な面

から指摘されてお-例えば楚辞

九歌に見える「雲中君」

「河伯」の神がト辞にも

「雲」「河」神として見えているこ

とや西周末期のものと見られる楚の青銅鐘は殿の鍔と形

が似てお-その銘文も殿金文に似た雄滞な書鰻であるこ

とな

どが挙げられるこのよ-な現象が生じた過程として

は(一)歴代から楚は殿に臣屈してその文化を受け入れ

周の時代になっても表向きは周に臣属しながらも殿の文化

を保持し績けた(二)周代以後に国力を埼大した楚園は

への対抗上その文化を拒み隣接する宋園の殿文化を積

極的に導入したという二つの説が考えられる前者の立

場を取る者はその根接として詩経

商頒

「殿武」の

撞彼殿武奮伐剰楚突入其阻衷利之放有戟其

所湯孫之緒(一章)

敏疾なる武丁は奮起して剤楚を伐ち険しい山地

に攻め入って刑楚の兵士を虜にしその地を平げ

湯王の子孫として手柄を立てた

という部分を畢げることが多い

前述の如-商頭目鰻が

宋園の楚国

への対抗心から作られたものであ-我が国の

紳功皇后遠征説話と同じ-どこまで史寛を反映している

かは未知数であるしかも卜辞などの殿代の地下資料から

は昔時の殿楚関係を示すものはまだ見つかっていない

一方後者については史記

楚世家に周の夷王の時に

楚王熊粟が

「我は牽夷な-中国の詮親に興らず」と言っ

たという記事もあ-現時鮎ではこちらの説の方が有力で

あると思われるいずれにしても周とは言語や風土を異

にする楚閲で生まれた天問には意固したか否かはともか

-周文化の重税と殿文化

への傾斜が讃み取れるのであ-

周王朝側の論理で殿の文化碑の功績を壷-抹殺された詩経

商頭や周の文化神を構える詩経

大雅とは好封照を見

せているのである

28

結語及び除論

これまで述べ来

ったことを要約すると詩経や楚辞

問に見える殿周開園神話は始租の所的誕生1迫害1事業

(文化創造

天下統

一)の完遂という構造を持ち既に西洋

の英雄神話に於て指摘されている基本構造をここにも見出

すことができるただ西洋では

一人で行なわれることが多

い英雄としての事業が中国では教代に亙

って行なわれる

ことが多いという違いはあるところが殿の開園と周の

開園また詩経と天問の相互間で詳し-比較してみると

神々の文化的功績は神話が記録された常時の政治的な事情

によって抹殺されることがあるという事資に束づ-この

ことは中国に於ては剣を振るって活躍する英雄よ-も

文化を創始する

「聖王」の方が重きをなしてお-氏族や

国の威光を左右するものであ

ったということの一つの謹左

といえよう

詩経

大雅における周王朝開園神話は高租にして文化

神である后稜-公劉を神話的要素に富む叙事詩によって語

段周開園の紳話と

「神代史」(大野)

っているが

「人王」の代に至ると

殊に王李に新著に見

られる如-諸王にとってマイナスイメージを輿えかねな

い史寛は壷-制去され武力革命の成功を

「神代」から引

き継がれた輝かしい事業として稀讃している周王朝の開

園神話とそれに績-殿周革命の史糞は詩が記録されるま

での間に

「神代史」

へ改愛されたのであるそこに支配強

化のための王室神聖化という高度な政治的意圏が働いてい

るのは確資であろう

段の遺民の園である春秋の宋園における段王朝開園神話

詩経

商項の諸篇は最終的には周王朝側の人々によって

記録

編輯されたものであ-それ故殿人の信仰した文化

紳は義-抹殺され支配者としての周王朝の論理に基づ-

「神代史」に改変されているOそれに封して楚辞

天問の

殻王朝開園神話には卜辞にも見える租紳たちの神話的雰囲

気に富む物語が多-残

ってお-逆に天問の周王朝開園神

話では周の先王の文化的功績を無税していて宋国との政

治的

風土的立場の違いを明瞭に浮かび上がらせているの

である

- 29-

中国文学報

第四十六筋

か-の如-

神話時代やそれに績-歴史が為政者の手に

よって

「神話化」される場合は中開の諸秤の中で重い比

重を占める文化神が記録者の政治的立場に従

って改奨され

「人王」に封しては

「都合の悪い」史貴を切-捨てて

「神

代史」

へと仕立てられるのであるが東周時代になるとそ

れとは逆に「人王」にも神話素の一つとして解揮可能な俸

説が様々な書物に記録されるようになる既に引用した文

王の安里幽閉

伯夷

叔斉の餓死などがそれであ-

「人

王」の物語もこれによって組両と同様の典型的神話

へ近づ

いてい-のであるこれらが記録されたのは諸子百家の書

物であ-昔時の遊説家たちが民間に流布していた停説を

敬-上げて自説を述べるために用いたものと考えられる

これらの停説が古い形をそのまま保

っているか否かは全-

保護がないとはいえ政治力撃の働きに-いレベルに於て

「神代史」に再び神話的物語が付け加えられるようにな

たということはいえるいわば

「神代史の再神話化」であ

-

1般に

「中国古代王朝神話」として

1つの物語にまと

められているのはこうして

「再神話化」された結果の産物

なのであるこれらは確かに

「神話」としての要素を豊富

に含んでいるのであるがこれを中国古代神話の原型と見

なすことは不可能であ-上述の如-複雑な要因が絡み合

っているのである

こうして

「神代史」はたとえ元の形とは異なるにせよ

再び

「神話」としての光彩を放ち始めたところがこの

「神話」をまたも

「歴史」に固定してしまったのが他なら

ぬ史蓬であることは周知の通-である

しかし

「神代史の再神話化」の原動力とな

った

民間

に語-経がれた王朝停説のエネルギーもこれで絡恨したわ

けではなかったこうしたエネルギーはその後も小説に記

録された種々の歴史俸説などを生み出し形を襲えて生き

績けたのである

ところでこれまで本文中に取-上げなかった

一つの重

要な問題があるそれは

「楚園に古-から停わる楚人自身

の神々はど-な

っていたのか」という問題である

楚辞

天問にはその末尾に楚図の俸説と思われるものが

記されてはいるが多-の注帯家が匙を投げているはど難

30

解であ-筆者も今敢えてこれに挑戦するほどの飴裕はな

いoしかし離騒ではその冒頭で「私は帝高陽の未森である」

と歌

ってお-少な-とも屈原の時代では楚人は穎頭高陽

氏を租神としていたと考えられているが文化神に関する

記述は見えない

一方同じ頃に楚園で成立したと考えら

れている山海経

大荒西経には街頭の子孫の神々の事業

が豊富に記されている例えば重

寮の天地分離

太子長

琴の音禁孝明などである

これらの事章から得られる

一つの推測をここで述べると

楚辞に於ては楚人自らの文化両を表立

って取-上げられな

い事情があ

ったものと思われる楚語で書かれた「原楚鮮」

には書かれていたがそれを漢語に翻弄した際に宋図か

ら導入した殿の文化神に置き換えたのかも知れないそし

て自らの文化紳とその物語を速い

「大荒」の物語として

カムフラージ

ュしたのが他ならぬ山海経なのではなかろ-

かこの書が地理書の形をとっていることや他書に見ら

れない神話停説を豊富に載せていることなどは丁度我が

国の

『出雲園風土記』を思わせるものがあるまた殿の

殿周開国の神話と「神代史」(大野)

文化紳王亥が

「困民国」の人とな

っていた-楚の租神で

あるはずの蘭頂が

「額頭囲」なる図にいたとされているこ

となどもこの仮説の根嬢となろう

しかし最早紙幅も轟きているこの問題は山海経を中心

として改めて考察することにしたい

ば織井慶紀著池田末利編

『中図神話の文化人類学的

研究』(1九九〇平河出版社)があるoまたユング心理学の

立場から日本神話を分析したものとして河合隼雄

『中空構

造日本の深層』(一九八二中央公論社)等がある

近世以前の諸席の議論は専らこの怪異雫が信ずるに足るか

否かの次元に終始するが近代的な研究としては聞一多

「萎

娠履大人跡考」(『聞一多全集』第一射一九四八開明書店)

白鳥清

「段周感生神話の解揮」(『東洋学報』十五巷四親tT

九二五東洋協合学術調査部)出石誠彦

「上代支部の異常

出生説話について」(『支那神話俸説の研究』所収tl九四三

中央公論社)等がある

「帝上帝也」

「帝高華氏之帝也従於帝而見干天婿事賛敏也」

孔疏に

「頑柁郊礁之時英夫高辛氏帝率興供行妻娠随帝之

後践履帝迩行事敬而敏疾放鳥神歌饗紳既饗其条則

31

中国文筆報

第四十六筋

愛而拓之

於是為天神所美大為福緑所依止twz=得懐任則

震動而有身」と云う

例えば嗣西族の

『東巴控』に見える縛文字にこのことが窺

える附固三参照また河南省に俸わるロ東俸説によると

女桐が天から降ってきて伏義が地下から出てきたと云う

(陶陽

鍾秀

『中国創世神話』一九八九上海人民出版社二

一四頁)

附圏三

primeJ 一一一

~PJ虹互L

LJL

堅 室④

上部の 一へ は天下部の 皿 は大地を

表す圃①は中間に天地交合の気がありこれ

より荷物が生ずる固②の中間は蛙で天地交

合後の襲化を表す圃⑨では天地の間に男が上

女が下になっており男女の交合と同様にして

天地が人類を生んだことを表す

(陶陽 鍾秀 『中国創世神話』214頁)

「惟虞東学詩云人之初生皆裂胎而出騒失所依故堕地

郎帝惟羊連胞而下共産猪易故詩以

『如達』馬比o又常

熟陶太常元淳日凡嬰兄在母腹中皆有皮以豪之俗所謂胞

衣也生時其衣先破兄鰻手足少蔚放生之難O惟羊子之生

胸仇完具堕地而後母篤破之故共生易o后硬生時蓋戒於胸

中形鮭末露有如羊子之生者放言

『加速』今按前二説

是也下言

『不味不副』蓋謂其胞衣之不折裂也」(『毛詩俸

集通帯』巷二十五)

「徐君宮人娠而生卵以箆不詳秀之水演O猪孤母有犬名

鵠蒼へ猟干水溝へ得所弄卵衝以東蹄猪孤母以馬具凍俊

之逐沸成見生時正値へ故以為名徐君宮中聞之乃更録

取長而仁智襲君徐固」(博物志

異聞篇引徐値王志)

「高句凝着其先出自克明東明本北夷嚢離王子離王出

行其侍兄於後任娠離王達欲殺之侍見目『前見天上

有菊如大鶏子乗降我困以有嫉』王囚之後連生男玉

置之家牢家以口束嘘束不死o王以為所乃聴収養」(梁

諸夷俸)

北欧や古代

ハンガリー等に見られる豊富な例がKケレ-

ニイtCGユング

『神話撃入門』

一九五1(杉浦忠夫訳

1九七五晶文社)に引かれている

例えば壮族に俸わる

「種子と犬の尾」の物語では人々

「九尾狗」に天上の穀物を盗みに行かせたところ穀物を

九本の尾に-つつけて蹄ろ-としたところを番人に見つか-

八本の尾を叩き切られたが残-

1本の尾に穀物をつけて逃げ

師-人間は農業ができるようになったと云う

(陶陽

秀前掲書二七九頁)

32

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 29: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

中閲文革報

第四十六筋

功績には全-解れられていないばか-か周の先王=

租秤

に封しても極めて冷淡であ-殿に封する態度とは明らか

に異な

っているのである

このことは昔時の楚園が周文化よ-も殿文化の方により

親しみその信仰

習俗等を保持していたことの一つの讃

接であろう楚文化と殻文化の関係の深さは既に様々な面

から指摘されてお-例えば楚辞

九歌に見える「雲中君」

「河伯」の神がト辞にも

「雲」「河」神として見えているこ

とや西周末期のものと見られる楚の青銅鐘は殿の鍔と形

が似てお-その銘文も殿金文に似た雄滞な書鰻であるこ

とな

どが挙げられるこのよ-な現象が生じた過程として

は(一)歴代から楚は殿に臣屈してその文化を受け入れ

周の時代になっても表向きは周に臣属しながらも殿の文化

を保持し績けた(二)周代以後に国力を埼大した楚園は

への対抗上その文化を拒み隣接する宋園の殿文化を積

極的に導入したという二つの説が考えられる前者の立

場を取る者はその根接として詩経

商頒

「殿武」の

撞彼殿武奮伐剰楚突入其阻衷利之放有戟其

所湯孫之緒(一章)

敏疾なる武丁は奮起して剤楚を伐ち険しい山地

に攻め入って刑楚の兵士を虜にしその地を平げ

湯王の子孫として手柄を立てた

という部分を畢げることが多い

前述の如-商頭目鰻が

宋園の楚国

への対抗心から作られたものであ-我が国の

紳功皇后遠征説話と同じ-どこまで史寛を反映している

かは未知数であるしかも卜辞などの殿代の地下資料から

は昔時の殿楚関係を示すものはまだ見つかっていない

一方後者については史記

楚世家に周の夷王の時に

楚王熊粟が

「我は牽夷な-中国の詮親に興らず」と言っ

たという記事もあ-現時鮎ではこちらの説の方が有力で

あると思われるいずれにしても周とは言語や風土を異

にする楚閲で生まれた天問には意固したか否かはともか

-周文化の重税と殿文化

への傾斜が讃み取れるのであ-

周王朝側の論理で殿の文化碑の功績を壷-抹殺された詩経

商頭や周の文化神を構える詩経

大雅とは好封照を見

せているのである

28

結語及び除論

これまで述べ来

ったことを要約すると詩経や楚辞

問に見える殿周開園神話は始租の所的誕生1迫害1事業

(文化創造

天下統

一)の完遂という構造を持ち既に西洋

の英雄神話に於て指摘されている基本構造をここにも見出

すことができるただ西洋では

一人で行なわれることが多

い英雄としての事業が中国では教代に亙

って行なわれる

ことが多いという違いはあるところが殿の開園と周の

開園また詩経と天問の相互間で詳し-比較してみると

神々の文化的功績は神話が記録された常時の政治的な事情

によって抹殺されることがあるという事資に束づ-この

ことは中国に於ては剣を振るって活躍する英雄よ-も

文化を創始する

「聖王」の方が重きをなしてお-氏族や

国の威光を左右するものであ

ったということの一つの謹左

といえよう

詩経

大雅における周王朝開園神話は高租にして文化

神である后稜-公劉を神話的要素に富む叙事詩によって語

段周開園の紳話と

「神代史」(大野)

っているが

「人王」の代に至ると

殊に王李に新著に見

られる如-諸王にとってマイナスイメージを輿えかねな

い史寛は壷-制去され武力革命の成功を

「神代」から引

き継がれた輝かしい事業として稀讃している周王朝の開

園神話とそれに績-殿周革命の史糞は詩が記録されるま

での間に

「神代史」

へ改愛されたのであるそこに支配強

化のための王室神聖化という高度な政治的意圏が働いてい

るのは確資であろう

段の遺民の園である春秋の宋園における段王朝開園神話

詩経

商項の諸篇は最終的には周王朝側の人々によって

記録

編輯されたものであ-それ故殿人の信仰した文化

紳は義-抹殺され支配者としての周王朝の論理に基づ-

「神代史」に改変されているOそれに封して楚辞

天問の

殻王朝開園神話には卜辞にも見える租紳たちの神話的雰囲

気に富む物語が多-残

ってお-逆に天問の周王朝開園神

話では周の先王の文化的功績を無税していて宋国との政

治的

風土的立場の違いを明瞭に浮かび上がらせているの

である

- 29-

中国文学報

第四十六筋

か-の如-

神話時代やそれに績-歴史が為政者の手に

よって

「神話化」される場合は中開の諸秤の中で重い比

重を占める文化神が記録者の政治的立場に従

って改奨され

「人王」に封しては

「都合の悪い」史貴を切-捨てて

「神

代史」

へと仕立てられるのであるが東周時代になるとそ

れとは逆に「人王」にも神話素の一つとして解揮可能な俸

説が様々な書物に記録されるようになる既に引用した文

王の安里幽閉

伯夷

叔斉の餓死などがそれであ-

「人

王」の物語もこれによって組両と同様の典型的神話

へ近づ

いてい-のであるこれらが記録されたのは諸子百家の書

物であ-昔時の遊説家たちが民間に流布していた停説を

敬-上げて自説を述べるために用いたものと考えられる

これらの停説が古い形をそのまま保

っているか否かは全-

保護がないとはいえ政治力撃の働きに-いレベルに於て

「神代史」に再び神話的物語が付け加えられるようにな

たということはいえるいわば

「神代史の再神話化」であ

-

1般に

「中国古代王朝神話」として

1つの物語にまと

められているのはこうして

「再神話化」された結果の産物

なのであるこれらは確かに

「神話」としての要素を豊富

に含んでいるのであるがこれを中国古代神話の原型と見

なすことは不可能であ-上述の如-複雑な要因が絡み合

っているのである

こうして

「神代史」はたとえ元の形とは異なるにせよ

再び

「神話」としての光彩を放ち始めたところがこの

「神話」をまたも

「歴史」に固定してしまったのが他なら

ぬ史蓬であることは周知の通-である

しかし

「神代史の再神話化」の原動力とな

った

民間

に語-経がれた王朝停説のエネルギーもこれで絡恨したわ

けではなかったこうしたエネルギーはその後も小説に記

録された種々の歴史俸説などを生み出し形を襲えて生き

績けたのである

ところでこれまで本文中に取-上げなかった

一つの重

要な問題があるそれは

「楚園に古-から停わる楚人自身

の神々はど-な

っていたのか」という問題である

楚辞

天問にはその末尾に楚図の俸説と思われるものが

記されてはいるが多-の注帯家が匙を投げているはど難

30

解であ-筆者も今敢えてこれに挑戦するほどの飴裕はな

いoしかし離騒ではその冒頭で「私は帝高陽の未森である」

と歌

ってお-少な-とも屈原の時代では楚人は穎頭高陽

氏を租神としていたと考えられているが文化神に関する

記述は見えない

一方同じ頃に楚園で成立したと考えら

れている山海経

大荒西経には街頭の子孫の神々の事業

が豊富に記されている例えば重

寮の天地分離

太子長

琴の音禁孝明などである

これらの事章から得られる

一つの推測をここで述べると

楚辞に於ては楚人自らの文化両を表立

って取-上げられな

い事情があ

ったものと思われる楚語で書かれた「原楚鮮」

には書かれていたがそれを漢語に翻弄した際に宋図か

ら導入した殿の文化神に置き換えたのかも知れないそし

て自らの文化紳とその物語を速い

「大荒」の物語として

カムフラージ

ュしたのが他ならぬ山海経なのではなかろ-

かこの書が地理書の形をとっていることや他書に見ら

れない神話停説を豊富に載せていることなどは丁度我が

国の

『出雲園風土記』を思わせるものがあるまた殿の

殿周開国の神話と「神代史」(大野)

文化紳王亥が

「困民国」の人とな

っていた-楚の租神で

あるはずの蘭頂が

「額頭囲」なる図にいたとされているこ

となどもこの仮説の根嬢となろう

しかし最早紙幅も轟きているこの問題は山海経を中心

として改めて考察することにしたい

ば織井慶紀著池田末利編

『中図神話の文化人類学的

研究』(1九九〇平河出版社)があるoまたユング心理学の

立場から日本神話を分析したものとして河合隼雄

『中空構

造日本の深層』(一九八二中央公論社)等がある

近世以前の諸席の議論は専らこの怪異雫が信ずるに足るか

否かの次元に終始するが近代的な研究としては聞一多

「萎

娠履大人跡考」(『聞一多全集』第一射一九四八開明書店)

白鳥清

「段周感生神話の解揮」(『東洋学報』十五巷四親tT

九二五東洋協合学術調査部)出石誠彦

「上代支部の異常

出生説話について」(『支那神話俸説の研究』所収tl九四三

中央公論社)等がある

「帝上帝也」

「帝高華氏之帝也従於帝而見干天婿事賛敏也」

孔疏に

「頑柁郊礁之時英夫高辛氏帝率興供行妻娠随帝之

後践履帝迩行事敬而敏疾放鳥神歌饗紳既饗其条則

31

中国文筆報

第四十六筋

愛而拓之

於是為天神所美大為福緑所依止twz=得懐任則

震動而有身」と云う

例えば嗣西族の

『東巴控』に見える縛文字にこのことが窺

える附固三参照また河南省に俸わるロ東俸説によると

女桐が天から降ってきて伏義が地下から出てきたと云う

(陶陽

鍾秀

『中国創世神話』一九八九上海人民出版社二

一四頁)

附圏三

primeJ 一一一

~PJ虹互L

LJL

堅 室④

上部の 一へ は天下部の 皿 は大地を

表す圃①は中間に天地交合の気がありこれ

より荷物が生ずる固②の中間は蛙で天地交

合後の襲化を表す圃⑨では天地の間に男が上

女が下になっており男女の交合と同様にして

天地が人類を生んだことを表す

(陶陽 鍾秀 『中国創世神話』214頁)

「惟虞東学詩云人之初生皆裂胎而出騒失所依故堕地

郎帝惟羊連胞而下共産猪易故詩以

『如達』馬比o又常

熟陶太常元淳日凡嬰兄在母腹中皆有皮以豪之俗所謂胞

衣也生時其衣先破兄鰻手足少蔚放生之難O惟羊子之生

胸仇完具堕地而後母篤破之故共生易o后硬生時蓋戒於胸

中形鮭末露有如羊子之生者放言

『加速』今按前二説

是也下言

『不味不副』蓋謂其胞衣之不折裂也」(『毛詩俸

集通帯』巷二十五)

「徐君宮人娠而生卵以箆不詳秀之水演O猪孤母有犬名

鵠蒼へ猟干水溝へ得所弄卵衝以東蹄猪孤母以馬具凍俊

之逐沸成見生時正値へ故以為名徐君宮中聞之乃更録

取長而仁智襲君徐固」(博物志

異聞篇引徐値王志)

「高句凝着其先出自克明東明本北夷嚢離王子離王出

行其侍兄於後任娠離王達欲殺之侍見目『前見天上

有菊如大鶏子乗降我困以有嫉』王囚之後連生男玉

置之家牢家以口束嘘束不死o王以為所乃聴収養」(梁

諸夷俸)

北欧や古代

ハンガリー等に見られる豊富な例がKケレ-

ニイtCGユング

『神話撃入門』

一九五1(杉浦忠夫訳

1九七五晶文社)に引かれている

例えば壮族に俸わる

「種子と犬の尾」の物語では人々

「九尾狗」に天上の穀物を盗みに行かせたところ穀物を

九本の尾に-つつけて蹄ろ-としたところを番人に見つか-

八本の尾を叩き切られたが残-

1本の尾に穀物をつけて逃げ

師-人間は農業ができるようになったと云う

(陶陽

秀前掲書二七九頁)

32

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 30: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

結語及び除論

これまで述べ来

ったことを要約すると詩経や楚辞

問に見える殿周開園神話は始租の所的誕生1迫害1事業

(文化創造

天下統

一)の完遂という構造を持ち既に西洋

の英雄神話に於て指摘されている基本構造をここにも見出

すことができるただ西洋では

一人で行なわれることが多

い英雄としての事業が中国では教代に亙

って行なわれる

ことが多いという違いはあるところが殿の開園と周の

開園また詩経と天問の相互間で詳し-比較してみると

神々の文化的功績は神話が記録された常時の政治的な事情

によって抹殺されることがあるという事資に束づ-この

ことは中国に於ては剣を振るって活躍する英雄よ-も

文化を創始する

「聖王」の方が重きをなしてお-氏族や

国の威光を左右するものであ

ったということの一つの謹左

といえよう

詩経

大雅における周王朝開園神話は高租にして文化

神である后稜-公劉を神話的要素に富む叙事詩によって語

段周開園の紳話と

「神代史」(大野)

っているが

「人王」の代に至ると

殊に王李に新著に見

られる如-諸王にとってマイナスイメージを輿えかねな

い史寛は壷-制去され武力革命の成功を

「神代」から引

き継がれた輝かしい事業として稀讃している周王朝の開

園神話とそれに績-殿周革命の史糞は詩が記録されるま

での間に

「神代史」

へ改愛されたのであるそこに支配強

化のための王室神聖化という高度な政治的意圏が働いてい

るのは確資であろう

段の遺民の園である春秋の宋園における段王朝開園神話

詩経

商項の諸篇は最終的には周王朝側の人々によって

記録

編輯されたものであ-それ故殿人の信仰した文化

紳は義-抹殺され支配者としての周王朝の論理に基づ-

「神代史」に改変されているOそれに封して楚辞

天問の

殻王朝開園神話には卜辞にも見える租紳たちの神話的雰囲

気に富む物語が多-残

ってお-逆に天問の周王朝開園神

話では周の先王の文化的功績を無税していて宋国との政

治的

風土的立場の違いを明瞭に浮かび上がらせているの

である

- 29-

中国文学報

第四十六筋

か-の如-

神話時代やそれに績-歴史が為政者の手に

よって

「神話化」される場合は中開の諸秤の中で重い比

重を占める文化神が記録者の政治的立場に従

って改奨され

「人王」に封しては

「都合の悪い」史貴を切-捨てて

「神

代史」

へと仕立てられるのであるが東周時代になるとそ

れとは逆に「人王」にも神話素の一つとして解揮可能な俸

説が様々な書物に記録されるようになる既に引用した文

王の安里幽閉

伯夷

叔斉の餓死などがそれであ-

「人

王」の物語もこれによって組両と同様の典型的神話

へ近づ

いてい-のであるこれらが記録されたのは諸子百家の書

物であ-昔時の遊説家たちが民間に流布していた停説を

敬-上げて自説を述べるために用いたものと考えられる

これらの停説が古い形をそのまま保

っているか否かは全-

保護がないとはいえ政治力撃の働きに-いレベルに於て

「神代史」に再び神話的物語が付け加えられるようにな

たということはいえるいわば

「神代史の再神話化」であ

-

1般に

「中国古代王朝神話」として

1つの物語にまと

められているのはこうして

「再神話化」された結果の産物

なのであるこれらは確かに

「神話」としての要素を豊富

に含んでいるのであるがこれを中国古代神話の原型と見

なすことは不可能であ-上述の如-複雑な要因が絡み合

っているのである

こうして

「神代史」はたとえ元の形とは異なるにせよ

再び

「神話」としての光彩を放ち始めたところがこの

「神話」をまたも

「歴史」に固定してしまったのが他なら

ぬ史蓬であることは周知の通-である

しかし

「神代史の再神話化」の原動力とな

った

民間

に語-経がれた王朝停説のエネルギーもこれで絡恨したわ

けではなかったこうしたエネルギーはその後も小説に記

録された種々の歴史俸説などを生み出し形を襲えて生き

績けたのである

ところでこれまで本文中に取-上げなかった

一つの重

要な問題があるそれは

「楚園に古-から停わる楚人自身

の神々はど-な

っていたのか」という問題である

楚辞

天問にはその末尾に楚図の俸説と思われるものが

記されてはいるが多-の注帯家が匙を投げているはど難

30

解であ-筆者も今敢えてこれに挑戦するほどの飴裕はな

いoしかし離騒ではその冒頭で「私は帝高陽の未森である」

と歌

ってお-少な-とも屈原の時代では楚人は穎頭高陽

氏を租神としていたと考えられているが文化神に関する

記述は見えない

一方同じ頃に楚園で成立したと考えら

れている山海経

大荒西経には街頭の子孫の神々の事業

が豊富に記されている例えば重

寮の天地分離

太子長

琴の音禁孝明などである

これらの事章から得られる

一つの推測をここで述べると

楚辞に於ては楚人自らの文化両を表立

って取-上げられな

い事情があ

ったものと思われる楚語で書かれた「原楚鮮」

には書かれていたがそれを漢語に翻弄した際に宋図か

ら導入した殿の文化神に置き換えたのかも知れないそし

て自らの文化紳とその物語を速い

「大荒」の物語として

カムフラージ

ュしたのが他ならぬ山海経なのではなかろ-

かこの書が地理書の形をとっていることや他書に見ら

れない神話停説を豊富に載せていることなどは丁度我が

国の

『出雲園風土記』を思わせるものがあるまた殿の

殿周開国の神話と「神代史」(大野)

文化紳王亥が

「困民国」の人とな

っていた-楚の租神で

あるはずの蘭頂が

「額頭囲」なる図にいたとされているこ

となどもこの仮説の根嬢となろう

しかし最早紙幅も轟きているこの問題は山海経を中心

として改めて考察することにしたい

ば織井慶紀著池田末利編

『中図神話の文化人類学的

研究』(1九九〇平河出版社)があるoまたユング心理学の

立場から日本神話を分析したものとして河合隼雄

『中空構

造日本の深層』(一九八二中央公論社)等がある

近世以前の諸席の議論は専らこの怪異雫が信ずるに足るか

否かの次元に終始するが近代的な研究としては聞一多

「萎

娠履大人跡考」(『聞一多全集』第一射一九四八開明書店)

白鳥清

「段周感生神話の解揮」(『東洋学報』十五巷四親tT

九二五東洋協合学術調査部)出石誠彦

「上代支部の異常

出生説話について」(『支那神話俸説の研究』所収tl九四三

中央公論社)等がある

「帝上帝也」

「帝高華氏之帝也従於帝而見干天婿事賛敏也」

孔疏に

「頑柁郊礁之時英夫高辛氏帝率興供行妻娠随帝之

後践履帝迩行事敬而敏疾放鳥神歌饗紳既饗其条則

31

中国文筆報

第四十六筋

愛而拓之

於是為天神所美大為福緑所依止twz=得懐任則

震動而有身」と云う

例えば嗣西族の

『東巴控』に見える縛文字にこのことが窺

える附固三参照また河南省に俸わるロ東俸説によると

女桐が天から降ってきて伏義が地下から出てきたと云う

(陶陽

鍾秀

『中国創世神話』一九八九上海人民出版社二

一四頁)

附圏三

primeJ 一一一

~PJ虹互L

LJL

堅 室④

上部の 一へ は天下部の 皿 は大地を

表す圃①は中間に天地交合の気がありこれ

より荷物が生ずる固②の中間は蛙で天地交

合後の襲化を表す圃⑨では天地の間に男が上

女が下になっており男女の交合と同様にして

天地が人類を生んだことを表す

(陶陽 鍾秀 『中国創世神話』214頁)

「惟虞東学詩云人之初生皆裂胎而出騒失所依故堕地

郎帝惟羊連胞而下共産猪易故詩以

『如達』馬比o又常

熟陶太常元淳日凡嬰兄在母腹中皆有皮以豪之俗所謂胞

衣也生時其衣先破兄鰻手足少蔚放生之難O惟羊子之生

胸仇完具堕地而後母篤破之故共生易o后硬生時蓋戒於胸

中形鮭末露有如羊子之生者放言

『加速』今按前二説

是也下言

『不味不副』蓋謂其胞衣之不折裂也」(『毛詩俸

集通帯』巷二十五)

「徐君宮人娠而生卵以箆不詳秀之水演O猪孤母有犬名

鵠蒼へ猟干水溝へ得所弄卵衝以東蹄猪孤母以馬具凍俊

之逐沸成見生時正値へ故以為名徐君宮中聞之乃更録

取長而仁智襲君徐固」(博物志

異聞篇引徐値王志)

「高句凝着其先出自克明東明本北夷嚢離王子離王出

行其侍兄於後任娠離王達欲殺之侍見目『前見天上

有菊如大鶏子乗降我困以有嫉』王囚之後連生男玉

置之家牢家以口束嘘束不死o王以為所乃聴収養」(梁

諸夷俸)

北欧や古代

ハンガリー等に見られる豊富な例がKケレ-

ニイtCGユング

『神話撃入門』

一九五1(杉浦忠夫訳

1九七五晶文社)に引かれている

例えば壮族に俸わる

「種子と犬の尾」の物語では人々

「九尾狗」に天上の穀物を盗みに行かせたところ穀物を

九本の尾に-つつけて蹄ろ-としたところを番人に見つか-

八本の尾を叩き切られたが残-

1本の尾に穀物をつけて逃げ

師-人間は農業ができるようになったと云う

(陶陽

秀前掲書二七九頁)

32

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 31: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

中国文学報

第四十六筋

か-の如-

神話時代やそれに績-歴史が為政者の手に

よって

「神話化」される場合は中開の諸秤の中で重い比

重を占める文化神が記録者の政治的立場に従

って改奨され

「人王」に封しては

「都合の悪い」史貴を切-捨てて

「神

代史」

へと仕立てられるのであるが東周時代になるとそ

れとは逆に「人王」にも神話素の一つとして解揮可能な俸

説が様々な書物に記録されるようになる既に引用した文

王の安里幽閉

伯夷

叔斉の餓死などがそれであ-

「人

王」の物語もこれによって組両と同様の典型的神話

へ近づ

いてい-のであるこれらが記録されたのは諸子百家の書

物であ-昔時の遊説家たちが民間に流布していた停説を

敬-上げて自説を述べるために用いたものと考えられる

これらの停説が古い形をそのまま保

っているか否かは全-

保護がないとはいえ政治力撃の働きに-いレベルに於て

「神代史」に再び神話的物語が付け加えられるようにな

たということはいえるいわば

「神代史の再神話化」であ

-

1般に

「中国古代王朝神話」として

1つの物語にまと

められているのはこうして

「再神話化」された結果の産物

なのであるこれらは確かに

「神話」としての要素を豊富

に含んでいるのであるがこれを中国古代神話の原型と見

なすことは不可能であ-上述の如-複雑な要因が絡み合

っているのである

こうして

「神代史」はたとえ元の形とは異なるにせよ

再び

「神話」としての光彩を放ち始めたところがこの

「神話」をまたも

「歴史」に固定してしまったのが他なら

ぬ史蓬であることは周知の通-である

しかし

「神代史の再神話化」の原動力とな

った

民間

に語-経がれた王朝停説のエネルギーもこれで絡恨したわ

けではなかったこうしたエネルギーはその後も小説に記

録された種々の歴史俸説などを生み出し形を襲えて生き

績けたのである

ところでこれまで本文中に取-上げなかった

一つの重

要な問題があるそれは

「楚園に古-から停わる楚人自身

の神々はど-な

っていたのか」という問題である

楚辞

天問にはその末尾に楚図の俸説と思われるものが

記されてはいるが多-の注帯家が匙を投げているはど難

30

解であ-筆者も今敢えてこれに挑戦するほどの飴裕はな

いoしかし離騒ではその冒頭で「私は帝高陽の未森である」

と歌

ってお-少な-とも屈原の時代では楚人は穎頭高陽

氏を租神としていたと考えられているが文化神に関する

記述は見えない

一方同じ頃に楚園で成立したと考えら

れている山海経

大荒西経には街頭の子孫の神々の事業

が豊富に記されている例えば重

寮の天地分離

太子長

琴の音禁孝明などである

これらの事章から得られる

一つの推測をここで述べると

楚辞に於ては楚人自らの文化両を表立

って取-上げられな

い事情があ

ったものと思われる楚語で書かれた「原楚鮮」

には書かれていたがそれを漢語に翻弄した際に宋図か

ら導入した殿の文化神に置き換えたのかも知れないそし

て自らの文化紳とその物語を速い

「大荒」の物語として

カムフラージ

ュしたのが他ならぬ山海経なのではなかろ-

かこの書が地理書の形をとっていることや他書に見ら

れない神話停説を豊富に載せていることなどは丁度我が

国の

『出雲園風土記』を思わせるものがあるまた殿の

殿周開国の神話と「神代史」(大野)

文化紳王亥が

「困民国」の人とな

っていた-楚の租神で

あるはずの蘭頂が

「額頭囲」なる図にいたとされているこ

となどもこの仮説の根嬢となろう

しかし最早紙幅も轟きているこの問題は山海経を中心

として改めて考察することにしたい

ば織井慶紀著池田末利編

『中図神話の文化人類学的

研究』(1九九〇平河出版社)があるoまたユング心理学の

立場から日本神話を分析したものとして河合隼雄

『中空構

造日本の深層』(一九八二中央公論社)等がある

近世以前の諸席の議論は専らこの怪異雫が信ずるに足るか

否かの次元に終始するが近代的な研究としては聞一多

「萎

娠履大人跡考」(『聞一多全集』第一射一九四八開明書店)

白鳥清

「段周感生神話の解揮」(『東洋学報』十五巷四親tT

九二五東洋協合学術調査部)出石誠彦

「上代支部の異常

出生説話について」(『支那神話俸説の研究』所収tl九四三

中央公論社)等がある

「帝上帝也」

「帝高華氏之帝也従於帝而見干天婿事賛敏也」

孔疏に

「頑柁郊礁之時英夫高辛氏帝率興供行妻娠随帝之

後践履帝迩行事敬而敏疾放鳥神歌饗紳既饗其条則

31

中国文筆報

第四十六筋

愛而拓之

於是為天神所美大為福緑所依止twz=得懐任則

震動而有身」と云う

例えば嗣西族の

『東巴控』に見える縛文字にこのことが窺

える附固三参照また河南省に俸わるロ東俸説によると

女桐が天から降ってきて伏義が地下から出てきたと云う

(陶陽

鍾秀

『中国創世神話』一九八九上海人民出版社二

一四頁)

附圏三

primeJ 一一一

~PJ虹互L

LJL

堅 室④

上部の 一へ は天下部の 皿 は大地を

表す圃①は中間に天地交合の気がありこれ

より荷物が生ずる固②の中間は蛙で天地交

合後の襲化を表す圃⑨では天地の間に男が上

女が下になっており男女の交合と同様にして

天地が人類を生んだことを表す

(陶陽 鍾秀 『中国創世神話』214頁)

「惟虞東学詩云人之初生皆裂胎而出騒失所依故堕地

郎帝惟羊連胞而下共産猪易故詩以

『如達』馬比o又常

熟陶太常元淳日凡嬰兄在母腹中皆有皮以豪之俗所謂胞

衣也生時其衣先破兄鰻手足少蔚放生之難O惟羊子之生

胸仇完具堕地而後母篤破之故共生易o后硬生時蓋戒於胸

中形鮭末露有如羊子之生者放言

『加速』今按前二説

是也下言

『不味不副』蓋謂其胞衣之不折裂也」(『毛詩俸

集通帯』巷二十五)

「徐君宮人娠而生卵以箆不詳秀之水演O猪孤母有犬名

鵠蒼へ猟干水溝へ得所弄卵衝以東蹄猪孤母以馬具凍俊

之逐沸成見生時正値へ故以為名徐君宮中聞之乃更録

取長而仁智襲君徐固」(博物志

異聞篇引徐値王志)

「高句凝着其先出自克明東明本北夷嚢離王子離王出

行其侍兄於後任娠離王達欲殺之侍見目『前見天上

有菊如大鶏子乗降我困以有嫉』王囚之後連生男玉

置之家牢家以口束嘘束不死o王以為所乃聴収養」(梁

諸夷俸)

北欧や古代

ハンガリー等に見られる豊富な例がKケレ-

ニイtCGユング

『神話撃入門』

一九五1(杉浦忠夫訳

1九七五晶文社)に引かれている

例えば壮族に俸わる

「種子と犬の尾」の物語では人々

「九尾狗」に天上の穀物を盗みに行かせたところ穀物を

九本の尾に-つつけて蹄ろ-としたところを番人に見つか-

八本の尾を叩き切られたが残-

1本の尾に穀物をつけて逃げ

師-人間は農業ができるようになったと云う

(陶陽

秀前掲書二七九頁)

32

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 32: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

解であ-筆者も今敢えてこれに挑戦するほどの飴裕はな

いoしかし離騒ではその冒頭で「私は帝高陽の未森である」

と歌

ってお-少な-とも屈原の時代では楚人は穎頭高陽

氏を租神としていたと考えられているが文化神に関する

記述は見えない

一方同じ頃に楚園で成立したと考えら

れている山海経

大荒西経には街頭の子孫の神々の事業

が豊富に記されている例えば重

寮の天地分離

太子長

琴の音禁孝明などである

これらの事章から得られる

一つの推測をここで述べると

楚辞に於ては楚人自らの文化両を表立

って取-上げられな

い事情があ

ったものと思われる楚語で書かれた「原楚鮮」

には書かれていたがそれを漢語に翻弄した際に宋図か

ら導入した殿の文化神に置き換えたのかも知れないそし

て自らの文化紳とその物語を速い

「大荒」の物語として

カムフラージ

ュしたのが他ならぬ山海経なのではなかろ-

かこの書が地理書の形をとっていることや他書に見ら

れない神話停説を豊富に載せていることなどは丁度我が

国の

『出雲園風土記』を思わせるものがあるまた殿の

殿周開国の神話と「神代史」(大野)

文化紳王亥が

「困民国」の人とな

っていた-楚の租神で

あるはずの蘭頂が

「額頭囲」なる図にいたとされているこ

となどもこの仮説の根嬢となろう

しかし最早紙幅も轟きているこの問題は山海経を中心

として改めて考察することにしたい

ば織井慶紀著池田末利編

『中図神話の文化人類学的

研究』(1九九〇平河出版社)があるoまたユング心理学の

立場から日本神話を分析したものとして河合隼雄

『中空構

造日本の深層』(一九八二中央公論社)等がある

近世以前の諸席の議論は専らこの怪異雫が信ずるに足るか

否かの次元に終始するが近代的な研究としては聞一多

「萎

娠履大人跡考」(『聞一多全集』第一射一九四八開明書店)

白鳥清

「段周感生神話の解揮」(『東洋学報』十五巷四親tT

九二五東洋協合学術調査部)出石誠彦

「上代支部の異常

出生説話について」(『支那神話俸説の研究』所収tl九四三

中央公論社)等がある

「帝上帝也」

「帝高華氏之帝也従於帝而見干天婿事賛敏也」

孔疏に

「頑柁郊礁之時英夫高辛氏帝率興供行妻娠随帝之

後践履帝迩行事敬而敏疾放鳥神歌饗紳既饗其条則

31

中国文筆報

第四十六筋

愛而拓之

於是為天神所美大為福緑所依止twz=得懐任則

震動而有身」と云う

例えば嗣西族の

『東巴控』に見える縛文字にこのことが窺

える附固三参照また河南省に俸わるロ東俸説によると

女桐が天から降ってきて伏義が地下から出てきたと云う

(陶陽

鍾秀

『中国創世神話』一九八九上海人民出版社二

一四頁)

附圏三

primeJ 一一一

~PJ虹互L

LJL

堅 室④

上部の 一へ は天下部の 皿 は大地を

表す圃①は中間に天地交合の気がありこれ

より荷物が生ずる固②の中間は蛙で天地交

合後の襲化を表す圃⑨では天地の間に男が上

女が下になっており男女の交合と同様にして

天地が人類を生んだことを表す

(陶陽 鍾秀 『中国創世神話』214頁)

「惟虞東学詩云人之初生皆裂胎而出騒失所依故堕地

郎帝惟羊連胞而下共産猪易故詩以

『如達』馬比o又常

熟陶太常元淳日凡嬰兄在母腹中皆有皮以豪之俗所謂胞

衣也生時其衣先破兄鰻手足少蔚放生之難O惟羊子之生

胸仇完具堕地而後母篤破之故共生易o后硬生時蓋戒於胸

中形鮭末露有如羊子之生者放言

『加速』今按前二説

是也下言

『不味不副』蓋謂其胞衣之不折裂也」(『毛詩俸

集通帯』巷二十五)

「徐君宮人娠而生卵以箆不詳秀之水演O猪孤母有犬名

鵠蒼へ猟干水溝へ得所弄卵衝以東蹄猪孤母以馬具凍俊

之逐沸成見生時正値へ故以為名徐君宮中聞之乃更録

取長而仁智襲君徐固」(博物志

異聞篇引徐値王志)

「高句凝着其先出自克明東明本北夷嚢離王子離王出

行其侍兄於後任娠離王達欲殺之侍見目『前見天上

有菊如大鶏子乗降我困以有嫉』王囚之後連生男玉

置之家牢家以口束嘘束不死o王以為所乃聴収養」(梁

諸夷俸)

北欧や古代

ハンガリー等に見られる豊富な例がKケレ-

ニイtCGユング

『神話撃入門』

一九五1(杉浦忠夫訳

1九七五晶文社)に引かれている

例えば壮族に俸わる

「種子と犬の尾」の物語では人々

「九尾狗」に天上の穀物を盗みに行かせたところ穀物を

九本の尾に-つつけて蹄ろ-としたところを番人に見つか-

八本の尾を叩き切られたが残-

1本の尾に穀物をつけて逃げ

師-人間は農業ができるようになったと云う

(陶陽

秀前掲書二七九頁)

32

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 33: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

中国文筆報

第四十六筋

愛而拓之

於是為天神所美大為福緑所依止twz=得懐任則

震動而有身」と云う

例えば嗣西族の

『東巴控』に見える縛文字にこのことが窺

える附固三参照また河南省に俸わるロ東俸説によると

女桐が天から降ってきて伏義が地下から出てきたと云う

(陶陽

鍾秀

『中国創世神話』一九八九上海人民出版社二

一四頁)

附圏三

primeJ 一一一

~PJ虹互L

LJL

堅 室④

上部の 一へ は天下部の 皿 は大地を

表す圃①は中間に天地交合の気がありこれ

より荷物が生ずる固②の中間は蛙で天地交

合後の襲化を表す圃⑨では天地の間に男が上

女が下になっており男女の交合と同様にして

天地が人類を生んだことを表す

(陶陽 鍾秀 『中国創世神話』214頁)

「惟虞東学詩云人之初生皆裂胎而出騒失所依故堕地

郎帝惟羊連胞而下共産猪易故詩以

『如達』馬比o又常

熟陶太常元淳日凡嬰兄在母腹中皆有皮以豪之俗所謂胞

衣也生時其衣先破兄鰻手足少蔚放生之難O惟羊子之生

胸仇完具堕地而後母篤破之故共生易o后硬生時蓋戒於胸

中形鮭末露有如羊子之生者放言

『加速』今按前二説

是也下言

『不味不副』蓋謂其胞衣之不折裂也」(『毛詩俸

集通帯』巷二十五)

「徐君宮人娠而生卵以箆不詳秀之水演O猪孤母有犬名

鵠蒼へ猟干水溝へ得所弄卵衝以東蹄猪孤母以馬具凍俊

之逐沸成見生時正値へ故以為名徐君宮中聞之乃更録

取長而仁智襲君徐固」(博物志

異聞篇引徐値王志)

「高句凝着其先出自克明東明本北夷嚢離王子離王出

行其侍兄於後任娠離王達欲殺之侍見目『前見天上

有菊如大鶏子乗降我困以有嫉』王囚之後連生男玉

置之家牢家以口束嘘束不死o王以為所乃聴収養」(梁

諸夷俸)

北欧や古代

ハンガリー等に見られる豊富な例がKケレ-

ニイtCGユング

『神話撃入門』

一九五1(杉浦忠夫訳

1九七五晶文社)に引かれている

例えば壮族に俸わる

「種子と犬の尾」の物語では人々

「九尾狗」に天上の穀物を盗みに行かせたところ穀物を

九本の尾に-つつけて蹄ろ-としたところを番人に見つか-

八本の尾を叩き切られたが残-

1本の尾に穀物をつけて逃げ

師-人間は農業ができるようになったと云う

(陶陽

秀前掲書二七九頁)

32

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 34: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

うけ

「既にして天照大神天

ましまして日-葦原中国に

もちの

いまし

みま

あ-と聞-宜し-

夜見争就

きて候

月夜見奪歓

もと

を受けて降-ます己にして保食碑の許に到-たまふ保食

かうべ

むか

紳乃ち

廻らして園に衝

ひしかばう則ち口よ-飯出づ又

はた

海に響ひしかば則ち鰭

の虞もの鰭の狭

もの亦口よ-班

あら

にこ

づ又山に轡ひしかばう則ち毛の免

もの毛の柔

もの亦ロ

くさぐさのもの

ももとりの

あぎ

みあへ

よ-出づ夫れ品

-僻

へて百

に貯

へて

てま

いかり虫もはてり

つる是の時に月夜見辛

て日-稜らはしきかも

部しきかも-廼ち劇を抜いて撃殺したまひき

--是

rtまか

の時に保食紳賓に己に

-唯しその神の頂に牛馬化為れ

ひたひ

-厳

上に栗生

れ-眉の上に霊生れ-眼の中に稗生れ

ほと

まめ

-腹の中に稲生れ-陰

の中に穿及び大

小豆生れ-」

(日本書紀

1黒板勝美の訓読によるO)なお古事記

おほげつひめの

巻にも須佐之男命と

の物語として同様の話が見

える

「后稜是播百穀O硬之孫日叔均始作牛耕O」

「撃仲氏任自彼殿商釆妹子周日嬢干京O乃及王季

維徳之行大任有身へ生此文王」(二章)

「維此王季帝度其心菊其徳育其徳克明克明克歎

克長克君王此大邦克順克比o比干文王へ其徳廃悔匪受

帝祉施干孫子」(四章)

「備古公道道

於行義諸侯順之」

即ち異常出産1試錬1

「龍との闘い」1麹容

(囚われの女

段周開園の神話と「神代史」(大野)

性や賓物などの獲得)というパターンであるEノイマン

『意識の起源史』上

一九七

一(林道義訳

1九八四紀伊

閥屋書店)参照

「神代史」という用語は本来は記紀面詰における皇室の

租先両の物語をさす

(上田正昭

『日本神話』

一九七〇岩波

新書

四頁参照)

ここでは

「王権の系譜と神々の系譜とが

結びついて政治性をおびるようになった物語」という意味で

この用語を借用した

蔽讃剛

「周人的嘱起及其克商」(『文史雄誌』

1奄三期

1

九四一中国学術研究合)

張光直

「殿周関係的再検討」(『中国青銅時代』所収

一九

八二中文大学出版社五一~五二頁)

「昔者大王居那氷人俊之事之以皮幣不得充満事之

以犬馬不得兎蔦事之以珠玉不得兎蔦乃魔共著老而告

之日『狭人之所欲者吾土地也吾聞之君子不以其所以

義人老害人O二三子何患乎無君O我賂去之』去那臓巣山

邑干岐山之下居蔦那入日『仁人也不可失也』従之老如

郎巾rJL

「武乙三十五年周王季伐西落鬼戎停二十覆王」

「文丁殺季歴」

例えば郭若愚

『股契拾接』二-

1六四片

「英卯卜共やu「

哉周O(契卯に卜す其れ殿将官

は周を傷けんか)」董作寅

殿蛙文字乙篇』八八一〇片

「寅卜伐周

(束卜す周を伐

33

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 35: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

中国文畢報

第四十六冊

たんか)」等がある

(島邦男

『段嘘卜新研究』

1九五八中

国撃研究合う四

1二~四一三貢参照)

「武乙三十四年周王季歴来朝武乙賜地三十里玉十穀

馬八疋」

董作案『股嘘文字甲篇』四三六片

「命周侯今月亡E3O(周侯

に命ずるに今月は桐がないか)」(島邦男前掲書同頁及

び張光直前掲書六〇頁参照)

例えば

「今秋王西克

往戟

O(今秋周壬西征して密

へ往か

んか)」

(周原十

l碗害百三十八戟卜甲)また周原十

一窮賓

二十二親ー甲に

「虫

(義)伯」とあ-崇侯のことではない

かと考えられている(徐錫童

『周原甲骨文綜逓』

一九八七へ

三秦出版社二

一七~二

一入京及び

一七五頁参照)

「崇侯虎帯西伯於殿約日『西伯積善累徳諸侯皆轡之賂

不利於帝』帝附乃囚西伯於安里闘犬之徒息之乃求有等

氏美女破戒之文馬有熊九駒他奇怪物困段嬰臣費仲而

戯之附村大説

『此

1物足以揮西伯へ況其多乎』乃赦

西伯賜之弓矢斧銭使西伯得征伐」(史記

周本紀)なお

港南子

道庭訓に同趣旨の話が見え左俸

嚢公三十

一年や

呂氏春秋

首時篇にその前駆形とみられる記事がある

「有士二人虞於孤竹日伯夷叔斉O-二子西行如周

至於岐陽則文王己残臭武王即位観周徳Ohellip-伯夷叔琴

-

相貌而笑日『諦異乎我此非吾所謂道也

今周見

放之僻乳也而連晶之正典治0--姦

伐以要利以此紹殿

是以乳易暴equiv-今天下問周徳衰臭o輿其遠乎周以漫吾身

也不若避之以潔吾行』二子北行至首暢山之下而餓蔦」

(呂氏春秋

誠廉篇)なお論語

季氏簾に

「伯夷叔斉餓千

首陽之下Lt孟子

離婁上に

「伯夷辞村居北海之漬」とあ-

呂覚の前駆

形とみられる

「至戴公時常宣王大夫正考父老校商之名項十二篇於周

大師O=-孔子銀詩之時則得五第而己」

「天使

下而生商者謂鹿追卵城氏之

女簡狭呑之而生

契」

森三樹三郎

『支那古代神話』

一九四四大雅堂

一四一頁

「詩云

『玄王桓掩受小国是達受大国是達』言湯王天

下大小閲諸侯皆爽見湯能通達以鮭義也」

「腐

稜始生玄王

公劉

-之徳O」教師古住に

「由殿

之始租-女

王亦般之先組承窯帝之後故日玄王」と

云う

「相土作乗馬」張潜輯本の注には

「四馬親車起子相土」

と云-

白川静

『詩経研究』

1九八一朋友書店三九三頁

「有馬御慶之言老許行自楚之勝鍾門而告文公日『遠

方之人間君行仁政麻受

一基而為低』--陳良之徒陳相輿其

弟辛負未満而白米之勝三陳相見許行而大悦壷棄共学

而轡鷲o陳相見孟子遺許行之吉日孟子日

-

「今也南蟹駿舌之人非先王之道子倍子之師而寧之亦異

34

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 36: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

乎骨子臭」(孟子

顔文公上)

奮注は全入章とするがうち

1章が三十八句と異常に長い

ことが古-から疑問とざれてお-いま全九章とする朱子の

草分けに従う

「蒸櫨公婿許偉公以見楚子於武城許男面縛衝堂大夫

衰経士輿磯楚子問諸逢伯封日『昔武王寛厳教子啓

如是O武王親揮其縛受其壁而疎之焚其磯薩而命之使

復其所』楚子従之」

(左俸

偉公六年)史記

宋微子世家

の記事もこれに本づ-0

「武王封相子武庚緑父以績殿妃」(史記

宋微子世家)

また孟子

公孫丑上の

「助長」や韓非子

五衰篇の「守株」

の故事で宋人が愚か者として描かれていることも周国語図

と異質な習俗を固持していた傍詮とされる

例えば董作寅

『乙篇』三六八二五五七八片

「自今至干

庚寅帝令圃-自今至干庚寅帝不其令雨(これよ-庚寅までに

帝は雨を降らせ給うか否か)」同七七九三片

「帝其降我莫

-帝不我降真(帝は我等に草書を降し給うか

否か)」

五四〇八片

「我伐馬方帝受我又

(我等が馬方を征討する

帝は我等を佑け給うか)」等がある(島邦男前掲書

一八九~

一九七頁及び陳夢家

『段虚卜辞綜逓』

一九五六科

学出版

社五六一~五七

一頁参照)

島邦男前掲書一九八~二〇〇頁

島邦男前掲書二〇

1頁参

般周開園の神話と「紳代史」(大野)

張光直

「商周神話之分類」前掲書所収

一六四頁諸は小

一郎

間瀬収芳の諾

(一九八九平凡敵)による

この他

「高敵乙」というものもあるがこれを

「高租大乙

(港)」と讃むか

「高なる租乙」と讃むかで意見が分かれてい

る王

国維

「殿卜辞中所見先公先王考及緯考」(『敬重集林』巻

九所収)

王園維前掲書及び陳夢家

「商代的神話興産術」(『燕京撃

報』二〇期五〇二~五〇入貢)

注⑭

に引いた

「高祖乙

」を

「高私大乙」と考えるならば

王朝の興隆に不可歓な姶租紳

文化紳

武神が

「高租」の名

を輿えられていたことになる

「楚人哀惜屈原困共論述故英文義不次叙云爾」(王逸

『楚辞章句』天間俸序)

王開運

『楚辞揮』

王国維前掲書

漂介甫

『屈賦新編』下集t

T九七八中華書局

黒須重彦

『楚辞』

1九八二学習研究社

(『中国の古典』

20)島

邦男前掲書二四三五

陳夢家

『殿虚卜軒綜逓』三四五頁

詳介甫黒須重彦等o

「魯得也o班偏也言湯往田猟不但駆馳往束也遠

35

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 37: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

中国文畢報

第四十六珊

凱以所獲得禽獣偏施疎意於百姓也」

張光直

「談王亥興伊デ的条日並再論殿商王制Lt前掲書所

一〇頁

王逸注

はこれを孟子

寓章上などに見える舜が親兄弟に

迫害された話に結びつけて解しているがこれとて迫害モチ

ーフであることに轡わ-はない

「有侠氏女子採桑得嬰鬼子空桑之中献之其君其君令

好人義之」

森安太郎

「殿の湯王と夏の実王」

(

『黄帝停説』所収

1九

七〇朋友書店

7五頁)

「神話所適者是

『紳刑的行事』但是這些

『紳僧』不足

渦心空跳出来的而是原始人民的生活状況和心理状況之必然的

産物」(玄珠

『中国神話研究ABC』

一九二九世界書局

五頁)

陳夢家前掲書三三九頁

楊寛

「中国上古史導論」(『古史耕』第七樹上所収三六九

貢)

張亜初

劉雨

『西周金文官制研究』

一九八六中華書局

八~九頁

「契長而佐南治水有功」

「案契佐治水未見所出豊田商議契故耶」

(薬玉維

『史記志疑』巻二)

鏡井慶紀「宇宙創造神話のモチーフにおける日中神話」(節

掴書所収)九九~一〇三文参照

「濁大挟持

也言后機長大持大強弓挟箭矢突

然有殊異婿相之才帝謂紺也言武王能奉東后稜之業

致天罰加訣於約切激而敷其過何逢後世鮭嗣之長也」

「武王多才多重言漏弓挟矢而牌之以殊能者武王也

--此吉武王伐附震驚而切真之不離君臣之義」

「注以馬后稜補以箆武王未知執是今姑閑之」

一多

『天問疏謹』

一九八五上海古籍出版社

衰珂

『中開神話史』

l九八八上海文蛮出版社

五九~

六〇頁

王逸注滞天栖

『楚鮮校揮』(1九八九上海古籍出版聾

等⑲

洪興租補注譜介甫黒須重彦等

「村伐有蘇有蘇人以姐己女蔦糾愛眼己坦己之言是従

武王殺之」

「白魚入干王舟群臣成日

『休故』周公日『椎体勿体』

故日

『叔且不嘉』也」

白川静

『甲骨文の世界』

一九七二平凡社

(東洋文庫二〇

四)二四1-二四二頁

白川静

『金文の世界』

一九七

一平凡社(東洋文庫

一八四)I

二六五頁

例えば劉玉堂

「楚文化的歴史考察」

(張正明主編

『楚文化

志』所収

一九八八湖北人民出版社)三頁等

36

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)

Page 38: Title 殷周開國の神話と「神代史」 中國文學報 …...雲、上帝不寧、不康産和、居然生子。(二章) 誕寛之陰巷、牛羊排字之。誕寛之平林、合伐平林O

この事件は武王の武力英雄としての突出を防ぎ理想的な

「中庸」

へと結末を導-役割をもつと解帯できる

例えば鍾硫龍

『上古神話演義』

1九三四常華出版公司

また衰珂

『中開古代神話』

一九六〇中華書局など

「瀬頑生老童老童生重及寮

帝令重献上天合葬邦下地

下地是生唾虞於西極以行日月星辰之行次」

「有梅山其上有人境目太子長琴0億預生老董老童生

祝融祝融生太子長琴是虞梅山へ始作葉風」

呉其昌は

「困」を

「困」の誤-とし「困民」「格民」「義

民」は

一撃の韓であると考える(「ー辞所見殿先公先王三譲

考」『燕京学報』第十四期

一九三三四二貢)もし

「困」

「困」であるとするならこれは寧ろ

「殿」の換え字であ

るのかも知れないO

37

放周開園の神話と「神代史」(大野)