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統営、魅力的な南の港町 韓国の文化と芸術 ISSN 1225-4592 秋号 2015 VOL. 22 NO. 3 統営 特集 統営、意外な魅力 海と島に寄り添って暮らす人々 自由を夢見た芸術家の都

Koreana Autumn 2015 (Japanese)

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eaSt aSia’S edUcation WorrieS: eSSaYS BY Cheng Kai-ming, Takehiko Kariya, Yang Rui, Young Yu Yang, S. Gopinathan & Catherine Ramos, Nicola Yelland and Qian Tang

Breaking oUt of the rUt: engaging north koreaJoongAng Ilbo Chairman Seok-Hyun Hong offers thoughts on paths to draw Pyongyang out of isolation

the evolving US-Japan relationShipJ. Berkshire Miller on Abe’s recent Washington visit

plUSSpecial feature: india’s quest for fdi Three writers look at the drive for foreign investment under Narendra Modiin focus: northeast asia’s history problem Jie-Hyun Lim, Alexis Dudden and Mel Gurtov analyze the intractable issues around attempts to suppress historical truths in South Korea and Japn heiko Borchet German Security Co-operation with AsiaBook reviews by Christopher Capozzola, John Delury, Taehwan Kim, Nayan Chanda and John Swenson-Wright

a JoUrnal of the eaSt aSia foUndation | WWW.gloBalaSia.org | volUme 10, nUmBer 2, SUmmer 2015

Overstrained, Outdated and in Need of Reform

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統営、魅力的な南の港町

韓国の文化と芸術

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海と島に寄り添って暮らす人々

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韓国のイメージ

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変わらぬ秋の願い

1年12ヶ月365日、ハンカウィのようにありますように!」韓国人は秋夕になるとこんな素朴な願いを語り合う。秋夕は陰暦の8月15日、ハンカウィとも言う。秋夕は旧正月と共に韓国人にとって一年のうちで最も

大切な年中行事だ。秋夕は秋真っ盛りの実り豊かな季節でもある。秋夕の頃になると、うだるような暑さも過ぎ去り、さわやかな青空が天高

く澄み渡り、平野には黄金色に実った稲穂が頭をたれている。一年間、汗水流してつくった穀物が熟す。故郷を離れて暮らす人々は、老いた両親が先祖代々の土地を耕して暮らしている故郷の秋を想う。今年の秋夕は陽暦では9月27日の日曜日だ。秋夕の公休日は三日間だ

が、今年は秋夕の当日が日曜日と重なるため、振り替え休日制度により29

日までの4連休となる。国民の75%が故郷を訪れるという秋夕の民族大移動が今年もやって来た。高速道路は混み合い、列車のチケットもあっという間に売り切れる。この豊穣と感謝の祭りの日、人々は 夏の間に茂った先祖の墓の雑草を刈り、ご先祖様に感謝の祭礼を行う。この祭りの日の祝いの膳や祭礼用の供え物に欠かせないのがソンピョン(松餅)だ。秋夕を象徴する食べ物ソンピョンは、主食である米を粉にしてお湯で捏ねて皮を作り、その中に豆、小豆、ゴマ、松の実、ナツメなどの具を入れ蒸して作る餅だ。心をこめて作った餅が互いにくっつかず、薫り高い松の香りがするようにと蒸し器の中には餅と一緒に松の葉を入れて蒸すので、松の餅と呼ばれる。辛い労働と収穫、この国の山野に広く広がり育つ松の木の香り、モチを作る人々の手の跡…そして分かち合って共に食べる人々の笑顔、ソンピョンにはこの国に暮らす人々の人生がそのまま詰まっている。しかし世の中も移り変わり、ソンピョンを直接作って食べるよりは餅屋で買ってきてそのまま供える家庭が増え、都市から田舎に帰郷するかわりに、故郷の老いた両親が都会に暮らす子供たちの家を訪れる「逆帰省」の風景も珍しくなくなった。ソンピョンよりは菓子やハンバーガーを好む新世代、暮らしはこんな風に変わりつつある。それでも満月は秋の澄んだ夜空に今宵も顔を出し、豊穣を願う祈りだけは変わらない。「1年12ヶ月365日、ハンカウィのようにありますように!」

キム・ファヨン金華榮、文学評論家、大韓民国芸術院会員

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発行人 柳現錫編集理事 尹錦鎭 編集長 金鍾徳編集諮問委員 裵炳雨 崔寧仁 韓敬九 金華榮 金英那 高美錫 宋惠眞 宋永萬 Emanuel Pastreich Werner Sasse 監修者 嘉原和代翻訳者 坂野慎治 金明順 朴美貞クリエイティブディレクター 金三編集 金貞恩、盧倫永、朴信恵アートディレクター 李栄馥デザイナー 金智賢、李成基、葉蘭敬 編集金熒允編集会社韓国ソウル特別市麻浦区西橋洞385-10. 秋思軒ビル3階 Tel : 82-2-335-4741Fax : 82-2-335-4743www.gegd.co.kr

印刷三星文化印刷韓国ソウル特別市城東区聖水洞2街278-32Tel : 82-2-468-0361~5

Koreana ホームページhttp://www.koreana.or.kr

価格韓国内:6000ウォン韓国外:9USドル定期購読料:詳しくは『Koreana』84ページをご参照ください。

© 韓国国際交流財団2015『Koreana』に掲載されているすべての記事の著作権は韓国国際交流財団に帰属し、著作権法により保護されています。『Koreana』の記事を転載する場合には、事前に『Koreana』編集室に電子メール([email protected])かFAX(82-2-3463-6086)で転載許可を申請してください。『Koreana』の記事を引用したり、非営利目的で使用する場合にも『Koreana』からの転載であることが分かるようにクレジットを明示してください。

掲載された記事は筆者の個人的な意見であり、『Koreana』や韓国国際交流財団の公式見解ではありません。

1987年8月8日文化観光部-1033で登録された季刊誌『Koreana』はアラビア語、インドネシア語、英語、スペイン語、中国語、ドイツ語、フランス語、ロシア語でも発刊されています。

今季の『KOREANA』の最終原稿を校正している最中に、南北に分断された韓国の情勢は新たな局面に突入した。軍事的な緊張が最高潮に高まる中で始まった会議は8月24日の深夜まで、3日間も続いたマラソン交渉の結果、韓国と北朝鮮はついに軍事的な衝突を避け、緊張緩和と関係改善のための合意にたどりついた。過去の南北関係の歴史を振り返ると、性急な楽観主義は禁物である。今回の

合意も短期的な猶予になるだろうと懸念する声もある。また南北の離散家族の再会が一回行事に終わるかもしれないし、軍事境界線でのプロパガンダ放送が再開されるとも限らない。しかし南北双方の国民が関係改善を渇望するという事実を疑う人はいないだろうと思う。特に今回の南北膠着状態の中で非武装地帯(DMZ)の「自由の村」住民は緊張の日々であったろう。「二つの韓国」は社会・文化的な観点から南北の領土問題に関するイシューを掲載するコラムである。冷戦の結果として生まれた南北最前線の村を見て、作曲家ユン・イサン(尹伊桑)を記念して毎年平壌と統営で開かれる音楽祭を連想するのも悲しいことである。今回の特集では政治的な理由で、生きて故郷の土を踏めなかった尹伊桑の生

まれ故郷、慶尚南道統営を取り上げている。統営は多くの芸術家や作家の生まれ故郷であり、16世紀の朝鮮時代に無敵の李舜臣将軍が指揮を執った三道水軍統制営(海軍総司令部)があった所でもある。開港後には、日本と西洋の文物をいち早く受け入れた都市で、異国情緒が最も感じられる統営に読者のみなさんを招待したい。

一つの村と一つの祭を渇望編集長からの手紙

『統営の海の声』ソ・ヒョンイルキャンバスの油絵45.5cm ⅹ 53.0cm. 2011

韓国の文化と芸術 秋号 2015

日本語版編集長 金鍾徳

Published quarterly by The Korea Foundation

韓国国際交流財団ソウル市瑞草区南部循環路 2558

外交センタービル

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特集統営魅力的な南の港町

特集 1

統営、意外な魅力韓敬九

特集 2

海と島に寄り添って暮らす人々姜済尹

特集 3

自由を夢見た芸術家の都李昌起

特集 4

12工房新しい感覚で華やかに李吉雨

特集 5

情感あふれる港町魅惑的な山海の珍味宋永萬

フォーカス

パリで演奏される宗廟祭礼楽宋恵真

アートレビュー

「発願、切なる祈りと願いを込めて」仏教美術の後援者たち申紹然

韓国大好き

韓国文化の味に魅せられた村岡ゆかりダルシ・パケット

オン・ザ・ロード

和順、穏やかで神秘的なオーラに包まれた大地郭在九

遠くの目

若者が開く日韓のこれからの50年のために山崎宏樹

グルメを楽しむ

チョノ稲穂が色づくと旬到来朴賛逸

ライフスタイル

コーヒーの虜になった韓国人金龍燮

韓国文学の旅

パン生地を捏ねるパンジュクの時間―あなたへの和解の仕草―張斗寧

『ククス』キム・スム

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韓国人が住んでみたい三大都市の一つ、統営。統営は一言では言い表せない場所だ。朝鮮半島の南海岸に位置する人口14万の小さな都市だが、さまざまな姿に変貌を遂げてきた。海上交通の要衝、計画された軍事都市、伝統工芸と商業の中心地。日本統治時代には、多くの日本人が住む地域でありながら、独立運動と社会運動が盛んに行われた。数多くの優れた作家や画家、音楽家などを輩出した芸術の都でもある。美味しい海の幸がたくさん捕れ、季節を問わず美食家を惹きつけてやまない。文化運動によって町おこしに成功し、国連持続可能な開発のための教育センターを誘致することで、観光とレジャーの都市、音楽を通じたユネスコ創造都市になることを夢見ている。

特集1 統営

意外な魅力統営

ハン・ギョング韓敬九、ソウル大学校 自由専攻学部教授安洪范写真

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統営(トンヨン)は島ではないが、狭い峠が陸地につながっているため、島のような雰囲気を漂わせる。壬辰倭乱(文禄・慶長の役、1592~1598)以前は、頭龍浦

と呼ばれる静かな漁村だった。文禄・慶長の役で朝鮮王朝が初めて勝利を収めた玉浦海戦も、近くの巨済島沖で起き、三大勝利の一つである閑山島海戦は、1592年7月に統営沖で行われた。艦隊の集中的な運用の必要性を感じた朝廷は、1593年8月にイ・スンシン(李舜臣、1545~1598)を三道水軍統制使に任命した。

統制使とは、慶尚道・全羅道・忠清道の三道と五つの水営(水軍節度使が駐在する軍営)の将兵と艦隊、すなわち大半の朝鮮水軍を率いて朝鮮半島南部の海上作戦を指揮する役職だ。

海上交通の要衝、激戦地統制使の本陣である統制営は閑山島に設置されたが、何度か場所を変え、1604年に現在の統営市がある場所に落ち着いた。その後、1895年に廃止されるまで、ほぼ300年間存続した。「統

日が昇るころの統営市内と弥勒島、統営沖の島々が一幅の水墨画のようだ。

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営」という都市名は、海軍司令部を意味する「統制営」または「統営」に由来するもので、統営邑(邑は町に相当)は1955年から1994年までイ・スンシン提督の贈り名(諡号)を冠して「忠武(チュンム)」市と呼ばれていた。朝鮮後期に統営で商業が大きく発展したのも、日本統治時代

に日本人が大勢やって来て暮らしたのも、統営が交通の要衝だったからだ。釜山や対馬とも近く、釜山から全羅道方面へ向かう拠点となっていた。そのため、統営は朝鮮戦争の際、北朝鮮軍の攻撃を受けた。北朝鮮軍は統営を占領し、巨済島から馬山と釜山へ攻撃を仕掛けよう目論んだのだ。そのため、韓国軍と国連軍は大変な危機に陥った。しかし、巨済島を守るために緊急出動した海兵部隊は上陸作戦を行い、北朝鮮軍を追い散らして統営を奪回する。1950年、仁川上陸作戦の1カ月前のことだ。統営は、韓国で初めて上陸作戦が行われた場所でもあるのだ。韓国海兵隊は、従軍記者のマーガレット・ヒギンズ(1920~1966、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン)の報道により「鬼を狩る海兵」の異名をとった。

平和を渇望する軍事都市「汝平和を欲さば、戦への備えをせよ」統営は、三道水軍統制営の移転により、計画的につくられた軍事都市だ。しかし、統営は二度と残酷な戦争を許さないという意志と覚悟をもって侵略を未然に防ぎ、平和を維持するためにつくられた平和都市でもある。都市の中心には、機能的な目的に加えて、朝鮮水軍の力と意志を表す建物が堂々と鎮座している。これが「洗兵(セビョン)館」だ。その入口の門は「止戈(チグァ)門」といい、すべてを守って平和を維持するという願いが込められている。統制営は、設立当初から財政面において自立せざるを得なか

った。戦乱の最中、中央政府からの支援を期待できなかったイ・スンシンは、屯田で兵糧を確保して民間人を救い、魚を捕って製塩することで軍備をまかなった。また「12工房」を設けて職人を集め、武器や軍需品を製造した。工房は軍需品だけでなく、農具や日用品も製造した。一部は中央に献上し、一部は販売して統制営の財政に回した。統営の伝統工芸が有名になったのも、今日「統営ヌビ」と呼ばれる刺し子が有名なのも、すべて統制営のおかげといえる。軍服に使われる刺し子の需要が急激に伸び、統営の女たちは夫や息子の軍服を作ったため、誰もが刺し子の名人になったという。

商工業の発展と旺盛な生活力統制営の工房は、軍需品にとどまらず日用品や献上品の生産

にいっそう力を入れるようになった。特に、朝鮮第21代国王・英祖(在位1724~ 1776)と第22代国王・正祖(在位1776~

1800)の時代には、独自に鋳銭するほど手工業の基盤が発展した。また、住民が共同で商品を生産するようになり、伝統社会における一種の初期工業化が始まった。手工業が拡大し、朝鮮時代の男性がかぶったカッ(冠)や小盤

と呼ばれるお膳、螺鈿(らでん)漆器などの高級品が、全国的に名声を博した。それに伴って商品を取引する市が発展し、人口も増加した。軍船の製造・修理技術は商用船舶にも用いられ、船舶に必要な物品を保管する倉庫も建てられた。海を介してヒトとモノの往来が増えたため、統制使は1872年

に河口を広く埋め立てて、市場の敷地を拡大した。米、呉服、雑貨、タバコ、ナマコを専門的に扱う店ができ、統営は慶尚道沿海地域の商業中心地となった。その結果、統営の都心部も自然と拡大した。土地が不足し、近くの島にまで居住地が広げられ、人口は18世紀末から19世紀末の100年で2倍に増加した。一戸当たり人数は7.2人に上り、当時のソウルの4.4人よりもはるかに密度が高かった。統営は大韓帝国末期に人口が全国で12位となり、晋州や木浦よりも大きな都市だった。

いち早く目覚めた意識と誇り、収奪されながらも成長統営の人々は、生活力が旺盛なだけではなかった。強い誇り

を持ち、意識も高かった。それは、おそらく300年近く続いた統制営の存在があったからだろう。統制使の品階(階級)は従二品で、地方長官である観察使と同格だった。周辺の晋州、昌原、金海、鎮海、泗川、巨済など11の地域と23の水軍陣を率い、有事の際には各地域の長と軍隊を指揮した。統営は、地域の軍事・行政・文化の中心で伝統工業と商業の中心でもあった。朝鮮王朝が1895年、西洋の文物を受け入れるために甲午改革を断行すると、その一環として統制営が廃止された。これは大きな衝撃だった。代々、水軍に従事してきた官吏や軍人は、一挙に職を失った。12工房で働いていた職人の大半は、ソウルなど他の地域に引っ越し、一部は近くで仕事を続けたものの、伝統工業はどんどん廃れていった。一方、朝鮮王朝が開港すると、新しい漁場を求めて日本から漁民が押し寄せてきた。日本人は政治的・行政的支援を受け、新たな技術や機具、資本などを持ち込んだ。そして良い漁場を独占し、商業と金融を掌握し始めた。日本人居住者も増え、岡山県のように補助金を与えて組織的に植民を図り、独自の集落を形成することもあった。伝統的な漁業が近代化する中、多くの苦境を乗り越え、着実

に成長した。1966年には欲知島に漁業基地が設けられ、その

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今では小さくて古びた街に見えるかもしれないが、かつて統営は大規模な新都市だった。朝鮮王朝で初めての計画された都市であり、伝統工業と交易の発展により社会の経済的な変化をリードした。地域の中心として文化的土壌もしっかりしていた。開港後には、日本と西洋の文物を比較的早く受け入れたことで、異国情緒が最も感じられる地域の一つとなった。水産業と商業で富を築き、近代化の最先端を走る都市だったのだ。朝鮮王朝で初めての計画された都市であり、伝統工業と交易の発展により社会の経済的な変化をリードした。地域の中心として文化的土壌もしっかりしていた。開港後には、日本と西洋の文物を比較的早く受け入れたことで、異国情緒が最も感じられる地域の一つとなった。水産業と商業で富を築き、近代化の最先端を走る都市だったのだ。

1830年代の統営の古地図。中心に統営城、河口の入り江、弥勒島とつながる昔の橋・掘梁橋。そして、大小さまざまな島が、周りの海を囲んでいる。この地図は今年2月、海外の競売サイトで統営亀甲船ホテル代表のソル・ジョングク氏が購入した。

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翌年には統営市内に種苗センターが設置され、養殖業が広がった。統営は、恵まれた自然環境を背景に「水産一番地」として名を馳せた。統営は依然として近代水産業と沿岸海上交通の中心ではあったものの、経済的・文化的な比重は高度経済成長期に相対的に小さくなった。その上、水産業は幾度かの危機に見舞われた。赤潮の発生により養殖場の魚介類が大量死し、カキの輸出が中断することもあった。1980年代から1990年代にかけて人口がほとんど増加しないなど、停滞期が続いた。2000年代半ばに造船業が好況を迎え、一時は水産業よりも大きな役割を占めた。だが、統営は長い間、開発の対象にならず、そのおかげで自然を守ることができた。

美しくて魅力的、意外な驚きがある所統営は芸術の都だ。詩人キム・チュンス(金春洙、1922~ 2004)、詩人ユ・チファン(柳致環、

1908~ 1967)、画家チョン・ヒョンニム(全爀林、1916~ 2010)、劇作家ユ・チジン(柳致真、1905~ 1974)、作曲家ユン・イサン(尹伊桑、1917~ 1995)、小説家パク・キョンリ(朴景利、1926~2008)、小説家キム・ヨンイク(金溶益、1920~1995)など、数多くの著名な文人と芸術家が、統営で生まれたり育ったりしている。詩人ぺク・ソク(白石、1912~1995)や画家イ・ジュンソプ(李仲燮、1916~1956)なども、統営と関係が深い。統営では彼らにちなんだ場所や記念碑が、通りや公園などそこかしこで見受けられる。小さな都市からこれほど多くの文人や芸術家が輩出されたことを、不思議に思う人も多い。美し

い風景、あるいは12工房の伝統のおかげともいわれている。しかし彼らの登場が、ある一定の時期に集中している点に注目すべきだろう。今では小さくて古びた街に見えるかもしれないが、かつて統営は大規模な新都市だった。朝鮮王朝で初めての計画された都市であり、伝統工業と交易の発展により社会の経済的な変化をリードした。地域の中心として文化的土壌もしっかりしていた。開港後には、日本と西洋の文物を比較的早く受け入れたことで、異国情緒が最も感じられる地域の一つとなった。水産業と商業で富を築き、近代化の最先端を走る都市だったのだ。統制営の建物は、洗兵館だけを残して取り壊され、そこに学校、裁判所、税務署などが建てられた。日本風の近代的な街並みができ、道路や港湾施設が整備された。1931年には統営運河と

1 河口の入り江に亀甲船(左)と板屋船(上)の模型が泊まっている。亀甲船は、イ・スンシン将軍が日本水軍の接近を防ぐため、亀の甲羅を模して上部を覆った戦艦。甲板に指揮塔「将台」を設けた板屋船とともに、文禄・慶長の役で海戦を勝利に導くなど大きく貢献した。

2 統営の中心にある洗兵館は、1604年に造られた朝鮮三道水軍統制営本営の客舎。洗兵とは「天の川を引いてきて武器を洗う」という意味で、二度と戦争が起こらないようにとの願いが込められている。

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海底トンネルが完成した。1930年代半ば、統営邑に3000人、統営郡全体には6000人ほどの日本人が住んでいた。西洋の文物も早い時期から入ってきた。イングランド国教会

やオーストラリア長老教会の宣教師が1894~1895年に統営で布教活動を始めた。1905年には教会、1911~ 1912年には幼稚園が設立された。初等教育機関にあたる普通学校はできなかったが、宣教師は進明講習所を設け、学齢期を過ぎた女性に教育を受けさせて夜間学校も開設した。これらの教育機関は、実業教育とともにキリスト教の精神に基づく民族教育を行い、統営の人々の社会運動の精神的支柱となった。また統営の人々は、早くから宣教師を通じて西洋の文物に接することができた。統営は三・一運動、青年運動、労働争議、小作争議、新幹会運動(民族運動)など、さまざまな運動が行われた場所でも

ある。特に新幹会運動は、全国で最も強い綱領の下で展開された。統営は教育への関心が高く、日本への留学者がソウルに次いで多かったという。青年運動も活発に行われ、自主的な募金でレンガ造り2階建ての統営青年会館が建てられた。終戦直後には、自主的な民族国家の建設のために激しい運動も起きている。そうした統営の社会運動の伝統があったからこそ、国連環境開発会議のよる「アジェンダ21」を地域レベルで実現するための民官協治機関「青い統営21」が設立され、国連持続可能な開発のための教育センターが誘致されたのだろう。「青い統営21」は、撤去の危機にさらされていたマウル(集落)を「トンピラン壁絵マウル」という全国的な名所として復活させるなど、統営を魅力ある観光地としてアピールした。これからも統営は、多彩な姿と意外な魅力で、新たな姿に生まれ変わっていくだろう。

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特集2 統営

海と島に寄り添って暮らす人々統営は、山と海と島が程よく調和している。山としては艅航山と弥勒山。海を抱いた河口の入り江。その前にあるいつも賑やかな市場は、新鮮な魚介類さながらに活きのいい統営を演出する。統営沖から始まる多島海には、大小さまざまな島が宝石のように散りばめられている。絵のような風景の中で生きる人々。 その暮らしのひとコマをのぞいてみよう。

カン・ジェユン 姜済尹、詩人、プレシアン人文学習院「島学校」校長崔貞善 写真

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船に引き揚げたかたくちいわしを網から外している。統営沖のかたくちいわし船団は新鮮さを保つために船の上で加工する。

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1 漁師は、統営の沿岸で捕れた活きのいい魚のうち、かなりの量を日干しにする。干した魚は手間暇かかるが、良い値がつくので実入りがいい。

2 網の手入れをする漁村の女性。漁で傷ついた網は、丁寧に手入れしなければ使えなくなる。

寝ても覚めても、何はともあれ海」。統営(トンヨン)は美しい港町だ。統営半島の前をふさぐように防波堤の役割をしてくれる弥勒島のおかげで、統営の港は波風が穏やかで安全だ。特に、街の中心まで深く入り込んだ河口は、統営の心臓部といえる。そこから漁船が随時出入りす

る。一晩かけて捕った魚や貝などの海産物は、河口の港に隣接した中央市場で売られる。海の香りあふれる豊かな水産物の集散地という地位を保てるのは、この河口港と漁船のおかげだ。

弥勒山とトンピラン・マウル弥勒山は、統営を穏やかに包み込んでいる。龍華寺や兜率庵のような千年の古刹を抱き、長い間統営の人々に崇められてきた霊山だ。激しい風や高い波から統営の人々を守ってきた山だけに、山自体が信仰の対象となっている。現在はケーブルカーで楽に登れるようになった。弥勒山の頂上からは、統営市内と統営沖の島々、遠く三千浦、南海、固城、泗川、巨済の島々ま

で壮大なパノラマが広がる。弥勒山の頂上には昔、外敵の侵入を監視する三道水軍統制営が、煙と火で信号を送る烽燧台を設けていた。そのため、山のふもとにある集落の名は「烽燧ゴル(ゴルは谷の意)」となった。弥勒山の南側の中腹には、弥来寺がある。山の景観を損なうことなく静かに佇む寺。その外観の美

しさもさることながら、最大の宝は何といっても周辺のヒノキの森だ。ヒノキは日本統治時代に日本人

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によって植えられ、今は寺が買い上げて管理している。約5万坪に及ぶヒノキの森は、癒しの森だ。森の道を歩けば、身も心も清らかになった感じがする。最近話題になっている統営のランドマークといえば「トンピラン・マウル」だ。トンピランとは東側の崖

を表し、マウルは集落という意味。統営で最も貧しい集落だったトンピランが注目を集めるようになったのは、ある市民団体のリーダーが主導した村おこし事業のおかげだ。統営市は2007年に集落をすべて撤去し、公園をつくるという「トンピラン再開発計画」を立てた。だがそのリーダーは、寂れた集落、路地、暮らしの痕跡が消えてしまうのを残念に思い、統営市に再開発ではなく保存することを提案した。やみくもに集落を撤去するよりも「地域の歴史と庶民の暮らしが溶け込んだユニークなストリートカルチャーをつくり、再び光を当てよう」と関係者を説得した。古びた集落や路地も大切に守るべき文化だと考えたのだ。そうして大学生が古い家の塀に絵を描き始めると「トンピラン・マウル」は壁絵マウル(集落)として名が知られ、観光客が押し寄せるようになった。古い壁に絵を描いただけで活気を取り戻したのだ。古いものを保存することで、消えてしまいそうだった集落を蘇らせた。それだけに風景だけでなく、そこに込められた精神も美しい。

統営沖と欲知島統営沖には500あまりの島がある。島を取り巻く海では、水産物の養殖が盛んだ。中でもカキとホ

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ヤの養殖は全国一で、生産量の60~70%を統営が占めている。統営のカキは水のきれいな海で育つため、風味豊かだ。冬が旬の生ガキは、ミルクのように濃厚でコクがある。統営がカキの本場となったのは、1960年代に統営市の光道面において、筏式垂下法でカキの養殖を始めてからだ。春になると、養殖場でホヤを揚げる船が、まるで海に咲く美しい紅い花のようだ。私たちがホヤを手軽に楽しめるようになったのは、1970年代以降、統営をはじめとする沿岸部で養殖が始められてからだ。以前は沿岸に住む人しか食べられないほど、海女や潜水士が採る天然物のホヤは貴重で、内陸に住む人にはなかなか届かなかった。都市部ではよくホヤを刺身で食べるが、沿岸部ではスープや和え物、ビビンバなど多彩な料理で楽しまれている。欲知島の周辺には大小さまざまな島が点在しているが、さえぎるもののない海が眼前に広がってい

る。多島海の美しさと大海の爽快感を同時に満喫できる貴重な島だ。この島には1500人あまりが住んでいる。主峰である天王峰(392m)は登山道が整備されており、登山客が絶えない。頂上からは周辺の数多くの島々を一望できる。特に吊り橋の先にある一枚岩から眺める景色は、まさに絶景。島全体が山岳地形なため、美しい森も多い。中でも最も美しいとされるのは、自富浦のツブラジイの群落地だ。韓国の暖帯林の中で、ツブラジイやスダジイのようなブナの群落が残っているのは珍しい。かつて欲知島は、数千隻の漁船がひしめく南海岸最大の漁業基地だった。しかし今では、捕る漁業

大学生が古い家の塀に絵を描き始めると「トンピラン・マウル」は壁絵マウル(集落)として名が知られ、観光客が押し寄せるようになった。古い壁に絵を描いただけで活気を取り戻したのだ。古いものを保存することで、消えてしまいそうだった集落を蘇らせた。

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から育てる漁業へと変わっている。近隣の海はタイやクロソイ、マハタなどを育てる網いけす養殖場が密集している。最近はサバの養殖も盛んに行われている。サバの養殖は欲知島で初めて成功し、今では近くの蓮花島まで広がっている。サバの刺身は一度食べると、風味豊かな甘みが、それまで食べたすべての刺身の味を忘れさせるほど。自富浦のもう一つのの名物は、70~80歳代のおばあさんたちが作った地元企業「おばあさんバリスタ」だ。おばあさんたちが島で採れたサツマイモでクッキーを焼き、自家焙煎のコーヒーをいれてくれる。

大毎勿島、楸島、蓮花島、牛島の人々大毎勿島には、海の景色が途切れることのないトレッキングコースがある。海岸の崖に沿った道は、

何とも穏やかでのんびりしている。林道を抜けると、おとぎ話みたいに草地が現れる。目の前に広がる海。島の裏手は、変わった形の大きな岩が並ぶ。その切り立った岩の間に伸びるスダジイやツバキのような常緑樹は、まるで緑の花のようだ。将軍峰展望台に上がると、小毎勿島と灯台島が手の届きそうなところに見える。絶景と名高い小毎勿島の美しさが実感できる。森を知るには森の外から。小毎勿島と灯台島を眺めるのに、大毎勿島ほど良いところはない。大毎勿島の海女たちは、アワビ、サザエ、ウニ、石花(カキなどの付着性の貝類)などの海の幸を捕る。船着場に陣取り、年配の海女さんが捕った手のひらほどのカキをさかなに一杯。これも、島と海ならではの旅の楽しみだ。

1 自富浦の70~ 80歳代のおばあさんたちが「おばあさんバリスタ」という小さなカフェで、島のサツマイモでクッキーを焼き、コーヒーを淹れている。おばあさんの真心のこもったコーヒーが、旅人をいっそう愉快にさせる。

2 一時は撤去の危機にさらされたトンピラン・マウル。若い芸術家が古い塀に絵を描き始めると、壁絵マウル(集落)として有名になった。今では全国から観光客が押し寄せる統営の名所

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楸島では、ビクニンがたくさん捕れる。ここでは、竹を筒状または底のない徳利状に編んだ筌(うけ、うえ)という漁具で捕る。他地域ではプラスチック製の筌を使うが、楸島だけは今も伝統的な竹製の筌で漁を続けている。これは環境にやさしい漁法といえる。楸島のビクニン漁は、秋の終わり頃から冬にかけて行われる。その時期になると、島全体でビクニンを干す風景が見られる。丘の斜面をはじめ道端、塀、畑、空き家の庭まで、どこもかしこもビクニンが干されている。どこの家でも、洗濯物よりビクニンの方が多いほどだ。ビクニンは、そのまま出荷することもあるが、ほとんどは干物にされる。手間はかかるが、干した方が断然高値で売れるからだ。酒を飲み過ぎて調子が悪いとき、ビクニンのスープは最高の薬になる。蓮花島は、一つの山だ。その山の斜面に人が集まって暮らしている。蓮花峰の頂上に立つと、眼下に広がるヨンモリ(龍頭)海岸の素晴らしい風景に息をのむ。蓮花里に住むおばあさんたちは、手作りのマッコリを売っている。このマッコリ一杯が、旅人の渇きを癒してくれる。蓮花島の向かいにあるのは、牛島。牛島の海岸沿いの道は、とにかく美しい。島の周りを囲むように続く緩やか道を行くと、目の前に森のトンネルと海が交差する。この島の名物は、漁師の妻が作る海藻料理だ。ヒジキごはんにテングサ、オオオゴノリ、ユナなど各種海藻をのせて醤油などで味付けした海藻ビビンバは、最高の健康食。アメフラシ、カメノテ、フジツボを使った海鮮料理も、島でしか味わえない特別な一品だ。

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1 蓮花島の海岸は曲がりくねっており、ほとんどが岩で風景が美しい。絶壁に沿って海を見下ろしながら、トレッキングを楽しめる。2011年にできた蓮花島吊り橋は、足元のエメラルドグリーンの海が美しい。

2 蓮花島で生まれ育ち、30年以上外航船に乗ったという老漁師は、認知症の老母の世話をしながら網を繕う。島のそばの養殖場では、網が破れて破産する人もいる。そんな人たちの役に立ちたいと考えて、網の手入れを始めたという。

一人の老人が、蓮華島の船着場でつぼ網を繕っている。これは今ではほとんど使われない漁具で、定置網の一種だ。日差しが強い日中。老人は小さなパラソルを帽子のように頭にかぶった。奇抜な発想だ。どこで手に入れたのか聞くと「インターネットで普通に売ってるよ」という。老人は蓮華島で生まれ育った。兵役を終えてから、外航船の機関士とし

て30年以上勤めた。島に戻ってきたのは、老母が認知症になってからだ。老いた息子は、92歳の老母を甲斐甲斐しく世話する。老人が網を繕っているのは、自分のためではない。蓮華島と牛島を隔てる海には、魚の網いけす養殖場があちこちにある。養殖場では時々、網が破れて育てていた魚が大量に逃げてしまう。そうなると、養殖場の主は莫大な損害を被り、破産することもある。老人はそんな大変な目に遭い、失意のどん底に陥った島の人を何人か見てきた。そうして考え付いたのが網の修繕だ。また誰かの養殖場の網が破れて魚が逃げれば、この網を持って行き、少しでも損害を減らしてほしい。そんな気持ちで、何の見返りもないが、常に網の手入れを怠らない。老人は、魚が逃げていく方向の両側にこの網を張っておけば、その一部で

も捕まえられると考えている。養殖場が駄目になると「他のところでは潰しが効かないだろうに…」と、そこで働く人を心配する。そういう気持ちから、少しでも力になりたいと思う。まさに菩薩の心だ。

菩薩の心を持つ蓮華島の老漁師

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©K

ang Je-yoon

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特集3 統営

日本統治時代に統営で生まれ、音楽家、詩人、画家、小説家として一世を風靡した芸術家。彼らが芸術的な才能を花開かせた根底には、統営の自立性、近代性そして経済的な豊かさがあった。今から約400年前、頭龍浦という人里離れた漁村から始まった南海の小さな港町。多くの人が足を運ぶ統営。そこに行けば、誰もが詩人・芸術家気分を味わえるからだ。

自由を夢見た芸術家の都 イ・チャンギ 李昌起、詩人、文学評論家安洪范 , 崔貞善 写真

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統営(トンヨン)の人々は、自分たちの街が「文化芸術の都」だと胸を張る。「芸術の都」と聞くと、

すぐにフィレンツェ、パリ、ウィーンなどを思い浮かべるような人は、統営がそうした都市と肩を並べるほど脚光を浴び、文化の華を咲かせことがあるのかと疑問に思うだろう。ある地域が、特定の場所としてアイデ

ンティティを持つ条件とは何か。それは、その場所を体験する人が、関連ある人物の活動を理解し、意味ある場所として受け止め、精神的なイメージを共有することにある。つまり、そこで何が起きたのか。あるいは誰が暮らしていたのか。そんな出来事、または人とのつながり、その価値を納得させる必要がある。例えば、モーツァルトは主にウィーンで活動したが、生まれ故郷のザルツブルクが「モーツァルトの街」になっている。統営は自然発生的にできた都市ではな

い。15世紀末、7年にわたる文禄・慶長の役がやっと終わり、その後の戦略的な必要に応じてつくられた軍事都市だ。そんな統営が、どうして文化芸術の都を自負するようになったのだろうか。

植民地と近代の衝突文化芸術の都・統営が誇る代表的な芸術家を挙げてみよう。音楽家ユン・イサン(尹伊桑、1917~ 1995)、劇作家ユ・チジン(柳致真、1905~ 1974)、詩人ユ・

チファン(柳致環、1908~ 1967)、詩人キム・チュンス(金春洙、1922~

2004)、詩人キム・サンオク(金相沃、1920~ 2004)、小説家パク・キョンリ(朴景利、1926~ 2008)、小説家キム・ヨンイク(金溶益、1920~ 1995)、画家チ ョ ン・ ヒ ョ ン ニ ム( 全 爀 林、1916~ 2010)など。皆、統営で生まれたり育ったりした芸術家だ。彼らは誰もが認める卓越した成果を収め、韓国現代芸術の全盛期をリードした人物。そして、彼らの生きた時期は、すべて20世紀の前半、つまり日本統治時代と重なっている。統営は1895年に三道水軍統制営としての地位を失ったものの、南海岸沿岸

の漁業の中心地として成長していた。対馬暖流の影響から漁業資源が豊かで、早くから水産業が発達し、経済的にも好況を迎えていた。また統営の人たちは、日本統治時代以前から移住してきた日本人と交流し、新しい文化に接していた。三・一運動以降の新教育ブームは、きちんとした仕事に就けない小地主や船主の子どもたちを日本へと留学させた。

芸術の光と影統営では1920年代、東京へ留学した者を中心に文学サークルが結成され『掃除夫(ソジェブ)』という同人誌が発行された。これを主導したのはユ・チジン、ユ・

1 ユン・イサン記念館には、生前使っていた楽器や楽譜などの遺品が展示されている。この記念館は、統営の中心に位置する生家の隣にあり、音楽と祖国への思いと生前の姿をしのぶ意味ある場所だ。

2 慶尚南道巨済市の屯徳面芳下里で生まれ、統営で育ったユ・チファンは「生命と虚無と抵抗の詩人」として知られている。ユ・チファンは詩に故郷への思いを込め、死後は故郷の先祖の墓地に眠っている。

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チファン兄弟だ。漢方薬店をしていた父親が事業に失敗し、弟のユ・チファンは留学の途中で帰国せざるを得なかった。だが、彼はすでに当時の詩壇を風靡していた日本のアナキストとチョン・ジヨン(鄭芝溶、1902~ 1950)の影響を受けていた。1939年に発行されたユ・チファンの初詩集『青馬詩抄(チョンマシチョ)』には、代表作『旗』が収録されている。中学の国語の教科書にも載っている「それは、声なき叫喚」で始まる作品だ。しかし、彼は生計を立てるために職を転々とし、1940年には家族を連れて満州で農場の管理人になるなど大変な苦労をした。弟ユ・チファンとは違い、ユ・チジンは日本で立教大学英文科を卒業した。

演劇を志した彼は、帰国後に劇芸術研究会を立ち上げ、本格的な新劇運動を展開した。彼は劇作と演出を担当し、日本の弾圧によって劇芸術研究会が解散に追い込まれるまで主導した。日本の植民地による収奪と民族の窮乏の過程が、写実主義的な手法で描かれている。「無意味詩」という独特な文学世界で、韓国の現代詩壇を彩った詩人キム・チュンス。彼は、ユ・チファンの妻が先生をしていた幼稚園に通っていたことから、結婚式で花を持ちフラワーボーイを務めた。キム・チュンスは、これといった目標を立てずに日本に留学し、リルケに心酔した。だが太平洋戦争末期に日本に

1 「花の詩人」として広く知られるキム・チュンスの遺品展示館には、遺族が寄贈した800点ほどの遺品が展示されている。埠頭の道沿いにある展示館は、1階に著書、原稿、手紙など、2階に生前使用した家具、服、書籍などの生活用品が、当時を再現したように展示されている。

2 パク・キョンリは『金薬局の娘たち』や『土地』など傑出した作品を残し、韓国現代文学を代表する小説家。「愛というものが、最も純粋で密度も濃いのは憐憫だ…」と語った写真と遺品が、故郷の海を見下ろす記念館で出迎えてくれる。

よる徴収・徴用が厳しくなると、馬山の妻の実家で隠遁生活を送るようになる。そして終戦によって祖国が解放されると、ユ・チファンに会うために統営へ向かう。キム・チュンスは、次のように回想している。「解放直後、統営出身の芸術家と芸術を志す者が故郷に集まり、統営文人協会を立ち上げた。詩人のユ・チファンさんが会長を務めた。今は西ドイツに国籍を移してしまった作曲家のユン・イサン、詩人のキム・サンオク、亡くなった劇作家のパク・ジェソン(朴在成)、もう一人の作曲家チョン・ユンジュ(鄭潤柱)、そして画家チョン・ヒョンニムさんが主なメンバーだった」。統営という小さな都市で、レベルの高

い芸術家が、何人も意気投合したことは驚きだ。だが、彼らが民族舞踊を発掘し、演劇公演、ハングル講習、文学講演を行う一方で、夜間学校まで運営したことは更に驚きだ。彼らは「解放された祖国での文化運動による民族精神の高揚という壮大な目標をそれぞれの胸に刻んでいた」。しかし、キム・チュンスはこう振り返る。「この運動は2年も続かなかった。あの頃の私たちはとても若く、血気盛んだった」。彼らの若さと血気は、情熱と覇気と受

け止められているが、時代の波はその人生に暗い影を落とすこともあった。ユ・チジンは、日本が劇団を解散させると新た1

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な劇団を立ち上げ、総督府の指示に従った演劇を主導し、後日『親日人名辞典』に載せられた。親日文学の論争から外れていたユ・チファンも最近、満州に滞在していた時期に書いた親日詩が見つかり、彼のいわゆる「志士的逃避」は色あせた。ユン・イサンは、1967年の「東ベルリン事件」によって韓国政府から思想の不純な者とされ、二度と恋しい故郷の土を踏むことができなかった。韓国の国家情報院は、後に歴史の真実究明を行い「東ベルリン事件は、当時の政府が政権を維持するため政治的に利用したものだ」と発表した。ユン・イサンにとって故郷・統営とは何だっただろうか。

私の故郷・統営「父はよく私を連れて夜釣りに出かけました。私たちは船の真ん中に座って、魚が跳ねる音と、他の釣り人の歌声に耳を傾けました。その歌声は船から船へとずっと続いていきました。あの歌声はいわゆる『南道唱』と呼ばれる沈鬱な歌で、水面がその余韻を遠くまで届けました。海はまるで共鳴板のようで、空は星でいっぱいでした」(作曲家ユン・イサン『傷ついた龍』より)。「私は中学生になると、ソウルで勉強することになりました。鍾路の和信百貨店の前だとか、光化門通りのどこかだとか、そういうところを歩きながら、ふと真昼に空でカモメの鳴き声を、それも一羽や二 2

2 ©Toji Cultural Foundation

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統営という小さな都市で、レベルの高い芸術家が、何人も意気投合したことは驚きだ。だが、彼らが民族舞踊を発掘し、演劇公演、ハングル講習、文学講演を行う一方で、夜間学校まで運営したことは更に驚きだ。彼らは「解放された祖国での文化運動による民族精神の高揚という壮大な目標をそれぞれの胸に刻んでいた」。

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ナポリ』と呼ぶ。それほど海の色は青く澄んでいる」(小説家パク・キョンリ『金薬局の娘たち』より)。

覇気と情熱の都市藍色の海を抱く統営には、彼らが残し

た足跡と彼らを称える文化スポットが、分厚い本一冊分になるほどに充実している。作曲家ユン・イサンを称えて毎年、国際音楽祭が開かれる統営国際音楽堂。中央路の生家近くにあるユン・イサン記念公園。望日峰のふもとにある青馬文学館。海岸道路にあるキム・チュンス遺品展示館。統営大橋の向かいにあるパク・キョンリ記念館。鳳坪洞五叉路のチョン・ヒョンニム美術館。このように整った文化空間ばかり

ではない。朝鮮戦争中に画家イ・ジュンソプ(李仲燮、1916~ 1956)が展示会を開いた港南洞のソンニム喫茶。詩人ユ・チファンが愛する女性に5000通もの恋文を送ったことで知られる中央洞郵便局。その向かいにあったといわれる、彼女が営んでいた手芸店の路地。統営の女性に思いを寄せた詩人ペク・ソクが、その想いをどうすることもできず、さまよった場所に建てられた詩碑。そんな何とも切ない場所もある。そうかと思えば、統営を創造都市に変

える未来志向的なスポットもある。河口の海を中庭のように見下ろす「トンピラン壁絵マウル」だ。都心から追いやられた貧しい人々が暮らすマウル(集落)で再開発の対象地域だったが、文化が息づく空間に様変わりしている。古くて狭くるしい路地がユニークな絵で彩られ、趣のある空間に生まれ変わると、観光客が押し寄せた。寄り添うように密集した小さな家々の壁は、志を持つ芸術家の創作空間になっている。ひっそりした漁村に過ぎなかった統営は、17世紀には国を守る軍事都市、20

世紀には水産業で経済を復興させた商業都市、そして今は文化と芸術の都へと変貌を遂げている。そんな統営が気になるなら、今度はその目で統営の人々の文化と芸術への覇気と情熱を隅々まで確かめ、じっくり味わってみてはいかがだろうか。

1 弥勒山のふもとの烽燧ゴルにあるチョン・ヒョンニム美術館は、画家チョン・ヒョンニムと息子チョン・ヨングンの作品をモチーフにした美しい外壁が目を引く。「多島海の海の色の画家」、「色彩の魔術師」などと呼ばれるチョン・ヒョンニムの絵といつでも会うことができる。

2 河口の入り江を見下ろす丘にあるトンピラン・マウルは、狭い路地に密集している古い家の壁に描いた壁絵で、最近活気を取り戻している。一年を通して観光客が絶えない「村おこしプロジェクト」の成功例として注目を浴びている。

羽じゃなくて数十羽の鳴き声を聞いたんです。その瞬間、私の目の前に浮かんだ空と海は、故郷の荘佐島でした。幾重にも重なった白い雲の塊と閑麗水道に向かって伸びた藍色の海でした」(詩人キム・チュンス『詩人になりロバに乗って』より)。「故郷は、作家にとって創作の源泉にもなる。私の作品の青い時代といえるあの頃のカンバスを色濃く染めた青色は、まさに私の脳裏に焼き付いていた忠武港の光とそれに接する空だった」(画家チョン・ヒョンニム『故郷の空と海の色は、私の作品の偉大な師』より)。「統営は、多島海のそばにある小さな漁港だ。釜山と麗水を行き来する航路の中間地点として、地元の若者は『朝鮮の

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1 伝統的な木の家具に用いる装飾金具は、木の継ぎ目、扉のちょうつがい、単純な飾りなどを指す。まず白銅の板に形を描いて、押し切りで切った後、糸鋸で裁断する。そして模様を刻んで、銀糸や銅をはめ込む。数百、数千という手間暇をかけて完成する作品だ。

2 統営12工房の伝統を受け継ぐ螺鈿(らでん)匠ソン・バンウン氏は現在、クヌムジル(切断技法)を完璧に使いこなす唯一の匠だ。統営の螺鈿製品は華やかで美しく、一時は多くの女性が望む人気の品だった。

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特集4 統営

統営の伝統工芸品は華やかだ。優れた美的感覚と巧みな技術が調和し、見る者の心をつかむ。雄大な山を抱いた大小の美しい島々が絵のように広がる自然。そこで育まれた感性のおかげだろうか。朝鮮時代後期の数百年もの間、全国随一を誇った「12工房」の職人の腕は、今も脈々と受け継がれている。

12工房新しい感覚で華やかに

イ・ギルウ 李吉雨、ハンギョレ新聞選任記者徐憲康 写真

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16 04年に設置された朝鮮の三道水軍統制営は、さまざまな技術を持つ職人を近くに移り住ませた。一つの地域に多様な分野の職人を集め、組織的な工房の体系

を作ったのは、韓国の歴史上初めてのことだった。12工房といっても、12種類を意味するわけではない。韓国では、裾幅の広いチマ(スカート)を「12幅のチマ」、幾重にも重なった山中に続く峠を「12の峠」といい、12には「多い」という意味合いがある。

扇子から弓袋まで、全国随一の品々統制営傘下の工房の職人は、各種生活用品と戦闘に必要な物品を作った。それぞれの工房では、次のようなものが作られていた。「扇子房」では、王が端午節に贈り物とした扇子。「笠子房」では、馬尾毛を編んで作ったカッと呼ばれる男性用の冠。「総房」では、頭髪の乱れを防ぐため額に巻きつける網巾、正式な冠の下に着ける宕巾、儒生がかぶる冠の一つである儒巾など。「箱子房」では柳の枝や竹の箱。「画員房」は画室で、戦闘に必要な地図や儀仗用の装飾画。「小木房」では家具や各種文房具。「冶匠房」は鍛冶屋で、金物や武器。「朱錫房」では、スズや白銅などで家具用の各種装飾金具。「銀房」では金・銀製品。「漆房」では各種工芸品の漆塗り。「筒箇房」では弓袋。「靴

子房」では靴。「鞍子房」では馬の鞍。「貝付房」では螺鈿(らでん)製品。「周皮房」では皮製品。「尾扇房」では円形の扇子。そうした統営の工房では、国に献上したり全国的に販売するほど水準の高い品が生産された。そのため19世紀後半には、各地方の工房の中で生産と財政規模が最も大きく、最高水準の製品を生産する手工業団地となった。特に統営の螺鈿たんすと小盤(一人用お膳)は、現代に至って

も全国から大きな人気を集めた。統営出身の小説家パク・キョンリ(朴景利、1926~ 2008)は、自分の遺品の中で次の三つを大事にしてほしいと遺言を残した。古いミシン、国語辞典、統営の小木匠(木製家具の匠)が作ったたんすだった。彼女は「ミシンは私の生活、国語辞典は私の文学、統営のたんすは私の芸術」と説明した。統営の小盤は、成人男性が米俵を一つ担いで乗っても、びく

ともしないほど丈夫だという。カッが両班(特権階級)の装身具だった時代、統営製のカッはおしゃれな両班の必需品だった。朝鮮第26代王・高宗(在位1863~1897、後の大韓帝国初代皇帝)の父で、当時最高の権力を誇った興宣大院君(1820~1898)は、統営に人を送り「統営カッ」をあつらえた。1895年に統制営が廃止されると、12工房も閉鎖されてしまう。職人は全国へ散

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り散りになり、一部は統営に定着した。朝鮮戦争(1950~1953)が終わると、統営の工芸品は再び

全国的な名声を得る。全国民が「豊かに暮らそう」というスローガンを唱えた1960年代、統営の工芸品は富の象徴だった。裕福な家には、螺鈿のたんすや文箱など必ず統営の家具があった。当時、統営には3~4軒ごとに工房があったといわれるほど、螺鈿製品の生産が盛んだった。多くの若者が大学に行く代わりに螺鈿細工を学んだ。統営の人口が4万人だった時代、螺鈿職人の数が1000人を超えるほどだった。しかし、そんな統営の工芸品にも激しい現代化の波が押し寄せた。螺鈿たんすは、モダンなデザインのものに取って代わられた。人気がなくなり、職人もいなくなった。お金にならないため、学ぼうとする若者も減った。政府は国の予算から支援金を出し「重要無形文化財」という名で職人を優遇し始めた。「人間文化財」とも呼ばれる職人が45の工芸部門で指定され、そのうち4部門の技能保有者が統営出身あるいは統営と関係がある。笠匠、螺鈿匠、豆錫匠、簾匠だ。彼らは、統営12工房の真の後継者といえる。

一万回の手間隙をかける工芸品重要無形文化財10号・螺鈿匠ソン・バンウン(宋芳雄、

1940~)氏は、今も螺鈿漆器を作る際に自分の唾を使う。人の温もりがこもった唾は、膠(にかわ)の粘りを良くし、アワビの殻を砕いた螺鈿を漆塗りの表面に固定するのに効果的だ。筆にお湯をつけて塗ることが多いが、彼は今でも唾を使っている。「筆を使うと温もりが長く続かず、水分量も一定しません。伝統的な手法に従って唾を使うのが、一番いいんですよ」。「30斗分の膠を口にして、初めて一人前の螺鈿匠になれる」という言葉のように、ソン・バンウン氏は長年にわたって膠を舐め続けてきた。彼は「クヌムジル(切断技法)」の大家だ。クヌムジルは、細く切り出した螺鈿を刃物で切って貼り、木の家具に模様をつける技術だ。彼の師は父親だ。螺鈿匠第1代重要無形文化財技能保有者ソン・ジュアン(宋周安、1901~ 1981)氏は、19

歳からクヌムジルを彼にだけ伝授した。「良い製品を作るためには、まず質の良い螺鈿を用意しなければなりません。アワビは雄より雌の方が、きれいな色をしています。特に統営の海で採れるアワビは、最高級の螺鈿が作れます」。彼が螺鈿漆器の家具を一つ作るには、小さなものでも平均6カ月、たんすのような大きなものは3年以上かかる。重要無形文化財114号・簾匠チョ・デヨン(趙大用、1950~)氏は若い頃、全国から簾(すだれ)を買い求める人が殺到したことを今も覚えている。「値の張る簾を買うために、女性は頼母子

1 5代目として家業を継いで竹の簾(すだれ)を作るチョ・スンミ氏は、簾匠チョ・デヨン氏の娘。8年前から仕事を習い始め、伝承工芸大展で文化財庁長賞を受賞するほどの腕になった。若い世代らしく伝統的な簾を生活用品に取り入れ、さまざまな変化を試みている。

2 簾匠チョ・デヨン氏の簾は、竹を細く裂く竹ひご作りから始まる。竹ひごを絹糸で編んで模様を入れる簾は、作品を一つ仕上げるのに100日以上かかる。風通しがよく、夏の日除けとして使われた竹の簾は、奥ゆかしい美しさで広く愛用された。

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講をしていました。当時は一般家庭の必需品でしたから」。絹糸で竹ひごを編み、さまざまな模様を入れる作業は、巧みな技術と強い忍耐力が必要だ。絹糸に巻かれた投げ玉(簾を編むとき縦糸に巻いて垂らす小石)が、ゆらゆらとぶら下がる編み台で、細い竹ひごを絹糸で一つ一つ編んでいく。満足できる簾を一つ作るには、一日中作業しても少なくとも100日はかかる。デヨン氏は、四代目に当たる。彼の曽祖父は160年前、武科(武官の科挙)に合格したが、職務に就くまで時間があったため、簾を編んで朝鮮第25代国王・哲宗(在位1849年~1863年)に献上した。祖父も村長を務める傍ら、曽祖父から簾を編む技術を学んだ。父親は、図面を描いて簾を編む応用技法を創案した。デヨン氏は、小さい頃から父を手伝い、簾を作る方法を教わっ

た。父が竹材の仕込みをするときには、一緒に竹を取ってきて、枝をとり除き、専用の刀でひご作りをした。そして、模様のない簾を編んだ。重要無形文化財64号・豆錫(装飾金具)匠キム・グクチョン(金

克千、1951~)氏と、統営カッの伝統を今に受け継ぐ重要無形

統営の工芸は、次なる飛躍へと前進している。統営の螺鈿たんすは、すでに海外の収集家の関心を集めている。さらに、海外のブランドに心を奪われていた地元の若者も、本当に価値のある統営の製品に目を向けるようになった。その中心にあるのが工芸品だ。

1 統営ヌビ(刺し子)の400年の伝統を継ぐ「新世代の職人」チョン・スッキ氏のヌビ・カバン。ヌビに漆塗りをした高い実用性、モダンなデザインで、カバンやネクタイなどさまざまな作品を発表している。また、若いヌビ職人チョ・ソンヨン氏、ニューヨークで活躍するデザイナー、イ・スリョン氏らとのコラボレーションで、ヌビの活用と価値を高めている。

2 幼い頃、螺鈿漆器工房が並ぶ街で育ったシン・ミソン氏は、遅ればせながら螺鈿漆器を学び、その魅力に引き付けられた。現代的なデザインの弁当箱や宝石箱など小さな作品で、若い世代にアピールできるよう努力している。

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文化財4号・笠匠チョン・チュンモ(鄭春模、1940~)氏も伝統を守るという一念で、この道一筋に歩んできた。職人の後継者は、ほとんどがその子どもたちだ。それほど難しく、やっていくのが大変だということだ。

伝統工芸を脈々と受け継ぐ人々チョ・スンミ(39)氏は結婚後、遅ればせながら家業を継ぐことを決めた。父は簾匠チョ・デヨン氏。彼女は、結婚して違う地方に住んでいたが「簾作りは難しく、誰もやろうとしない。娘のお前が跡を継ぐしかないと思わないか」という父の頼みを断れなかった。女性にとって体力的に大変な仕事だ。孤独な道を行く父を、クリーニング屋と船着場での雑用をしながら支えてきた母イム・ソンエ(63)氏。そんな母の丹誠が、苦難に耐えて父の跡を継ぐ上で、大きな心の支えになった。8年前から仕事を習い始めたスンミ氏は、2年前に伝承工芸大展で大統領賞を受賞するほどの腕となった。伝統的な簾を作るだけでなく、竹簾をインテリア小物にも取り入れた。茶器セットの敷物として、華やかな模様も入れた。「簾は、見えるようで見えないような、あるようでないような、本当に不思議なものです」。チョン・スッキ(45)氏は、工芸と関わりのある家に生まれたわけではないが、最近注目されている統営の「新世代の職人」だ。スッキ氏は、伝統的な「統営ヌビ(刺し子)」を現代風にアレンジしている。二枚の布の間に綿を入れ、ひと針ひと針丁寧に縫い合わせた刺し子は、朝鮮時代の軍人にとっては敵の矢から身を守る軍服として、漁師にとっては冬の冷たい海風から身を守る防寒服として、母親にとっては赤ちゃん用の子守帯やおくるみとして、また寝具などとしても幅広く使われてきた。スッキ氏は、刺し子をカバンや財布、リュック、ネクタイ、キッチン用品など、若い感覚のおしゃれな生活用品に変身させた。また、刺し子に伝統的な漆塗りをして、長持ちする布地に生まれ変わらせた。今風のデザインに防水用の内袋が施されたカバンなど彼女の作品は、高級ホテルや免税店、国立博物館、複合アートセンター「芸術の殿堂」内のギフトショップ、さらには青瓦台の総合観光広報館「サランチェ」にも並んでおり、韓国工芸品の水準を引き上げるのに一役買っている。「運よくニッチ市場が見えたんです。統営の伝統的な刺し子を用いた生活用品は、売れると判断しました」。統営の工芸は、次なる飛躍へと前進している。統営の螺鈿た

んすは、すでに海外の収集家の関心を集めている。さらに、海外のブランドに心を奪われていた地元の若者も、本当に価値のある統営の製品に目を向けるようになった。その中心にあるのが工芸品だ。

夫の友人が2年前、台風で飛ばされ海上を漂っていた傷だらけのコンテナを拾って来た。船を修理する夫の仕事場の庭でコンテナのへこみを直し、きれいに色を塗った。内部にはきちんと壁紙を貼って、自分の工房にした。主婦シン・ミソン(46)氏は6歳の時、統営沖で漁を

していた父親が、嵐によって船とともに海に消えた悲しい記憶がある。祖母と母は、廃品を拾って暮らしていた。そんな苦しい生活のため、商業高校をなんとか卒業すると、すぐに就職した。その後、結婚して1男1女の母となった。3年前のある日、街で螺鈿漆器の作り手となる教育生を募集する横断幕が目を引いた。統営市が設けた螺鈿漆器教室だった。幼い頃、家の近所で嗅いだ膠の匂いが思い出された。螺鈿漆器の工房からの匂いだ。何かに導かれるように、迷いもなく入門した。ミソン氏は、自分のコンテナ工房で螺鈿漆器の技術を磨いた。入門してから1年で慶南工芸品大展の大賞を受賞した。今年も銀賞に輝いた。ミソン氏が昨年出品した工芸品は、二段のお重箱。漆塗りの小さめの重箱に螺鈿細工を施した。伝統的な模様ではなく、現代的なデザインを試みた。「漆塗りは、埃との戦いです。工房に埃があると、塗った面が滑らかになりません」。そのため、螺鈿漆器の職人は昔、服も着ずに漆を塗ったという。服の埃を避けるためだ。「螺鈿漆器は大変だからこそ面白いんです」。ミソン氏は、統営市が朝鮮時代の「12工房」の伝統を守るため、2008年に始めた「クラフト12プロジェクト」によって螺鈿漆器の職人になった。

コンテナ工房と新世代の職人

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統営の食べ物はおいしい。韓国ではよく、慶尚道にはおいしいものがないといわれるが、統営は別だ。季節ごとに新鮮な海の幸を使った料理は、全国のグルメの舌をうならせる。朝鮮時代には三道水軍統制営が設置されていたという独特の条件が、統営を美食の宝庫にしたのだろうか。

特集5 統営

情感あふれる港町、魅惑的な山海の珍味ソン・ヨンマン宋永萬、暁亨出版代表安洪范 写真

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今は昔、1960年代の初め頃、現在「統営」と呼ばれている由緒ある地名は、当初「忠武」と呼ばれていた。小学4年生だったある日のこと、私は姉の地図帳で忠武

という港町を見つけた。人口7万の忠武は「東洋のナポリ」というしゃれた呼び名がついていた。幼心に行ってみたいと思った。しかし、それは現実的に無理なこと。地球の反対側のナポリであれ、閑麗水道のナポリであれ、私には遠い世界の話でしかなかった。私が大学生の時分、統営へ行くには懐具合も交通の便もよくなかった。今でこそ大田~統営間に高速道路ができ、ソウルから4時間ほどで行けるようになった。しかし10年ほど前までは、大邱、馬山、晋州と遠回りして一日がかりでやっとたどり着く、遥か南の都市だった。

路地ごとに美食があふれる統営統営の街は、全体的にこぢんまりしていて、情感があふれて

いる。思いもよらない幸運が潜んでいそうな港町の裏通り。河口を抱くトンピランの丘は、いつの季節も若者で賑わう観光スポットになっている。活気と好奇心は、食べ物にも新たなトレンドを生み出した。甘くてしょっぱい刺激で満ちている。忠武キムパプ(のり巻)、タコ天、クルパン(はちみつパン)の店が河口に軒を連ねている。忠武キムパプは、どの店も「元祖」だ。具を入れずに白飯だけ

を海苔で巻いたキムパプ、甘辛いイカの和え物、よく漬かった大根キムチのセット。今ではコンビニや高速道路のサービスエリアでも食べられる「国民食」になっている。もともと忠武キムパプは、釜山と麗水を行き来する旅客船で生まれた。中間の寄港地の統営には、昼頃に着く。キムパプを売るおばあさんたちが、しばし船に乗り込む。しかし、夏場のキムパプは傷みやすい。そこで妙案。傷みにくくするために、白飯だけをのりで巻き、キムパプの中に入れる具は別にして売る。「窮すれば則ち変じ、変ずれば則ち通ず」だ。統営クルパン。名はクルパンだが、クル(はちみつ)は入って

いない。パン生地にあんを入れ、ボール状にして油で揚げ、水飴をたっぷり塗って黒ゴマをまぶす。貧しい時代に女学生の小腹を満たしたおやつだ。貧しかったその当時は皆、甘いものに目がなかった。ずいぶん豊かになったが、今でも観光客は甘いものに弱い。クルパンを友達へのお土産にと、たくさん買って帰る。私は、これまでに15回ほど統営を訪れたが、食べ歩きをした

ことがない。「ごはん一粒残さず、ありがたく頂きなさい」と教わったせいか、味を楽しむ繊細な味覚もマメさも持ち合わせていないためか…。風景を楽しむために咂~6回、仕事のために喂~7回、統営を訪れた。統営の旅は、海外旅行よりも心が踊る。

至る所に見るもの、食べるもの、乗るもの、買うものが充実しているので、訪れる日が待ち遠しい。旅先で、三食きちんと楽しむことは難しいものだ。それでも統営では、仕方なしに食事を済ませた記憶がほとんどない。

海が香る統営の海の幸統営の食事は違うのだ。朝には、酔い覚ましのフグ汁とシレギ

(ダイコンの葉)汁が待っている。どこの食堂に入っても裏切られることはない。昼は海藻やホヤのビビンバなど、海産物をふんだんに使った料理、あるいは閑麗の海風が染み込んだ弥勒山の青菜を添えた韓定食。夕方には、宝石のような澄んだ海の幸がずらりと並ぶ海鮮の宴を堪能できる。血気盛んな20代後半、初めての休暇で訪れた統営。そこで初めて刺身らしい刺身を食べた。私は忠清道の内陸とソウルで育ったため、知っている魚といえば、塩漬けにしたものか、イシモチやサンマくらいなものだった。当時は余裕のある家でも、そうでない家でも、焼き魚か塩辛しか食卓に上ることはなかった。

1980年代半ばには新聞社が主催する「21世紀経済科学特講」のため、統営、晋州、馬山あたりをよく訪れた。俗にいうソウルの名門大学や経済学の教授、科学に精通した先生方が遠くから足を運んだので、その地域にとってはありがたいことだった。昼食や夕食の時には、おすすめの店に連れて行ってもらった。その時初めてコノワタを知った。ナマコは好きだったが、その内臓の塩辛・コノワタの存在を初めて知り、食べてみた。同行したソウル大学校経済学部の故カン・グァンハ(姜光夏、1947~2012)教授も初めてだと言った。カン教授も内陸の大邱出身だから知らないのも無理はない。その日、私達は盛り上がって、ヒレ酒を何杯も飲んだ。クロダイ、ブリ、ニベ、アワビの刺身などが並んだ。ウニとカラスミもあったので、日本人が「天下の三大珍味」と称する海産物すべてにお目にかかったことになる。閑麗水

道の海の賓客が、一堂に会した豪華な夜だった。家族と一緒に旅行しても、一人

で楽しむ所がある。国内外どこを旅しても必ず訪れる場所。それはフリーマーケットや人情あふれる市場だ。統営では魚市場が好きだ。新鮮な刺身がその場で味わえる。持ち帰って宿で食べてもいい。方言での威勢のいいやりとりに、魚をさばく手も忙しい。統営沖で捕れるあらゆる魚介類が、プラスチックのたらいの中で口をぱくぱくして

1 海岸の岩で育ち、花のように咲くため、石花と呼ばれるカキ。統営の海で養殖に成功し、全国民に愛される海産物になった。チョジャン(唐辛子酢味噌)で楽しむ新鮮な生カキ、カキのスープ、カキご飯、カキのチヂミなど、さまざまな料理を味わえる。

2 養殖に成功するまで、海女が採ったものしかない貴重な食材だったホヤ。今では手ごろな値段で手に入りやすく、人気の高い刺身用の食材。内陸の人は、主に生のままチョジャンで食べるが、統営など沿岸部では、さまざまな食材をのせたビビンバを好む。

情感あふれる港町、魅惑的な山海の珍味

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1 いろいろな野菜や牛肉を入れた典型的なキムパプ(のり巻)とは違い、忠武キムパプは白飯だけを海苔で巻き、甘辛いイカの和え物と一緒に食べる。忠武キムパプは、忠武市と呼ばれていた統営が昔の名前を取り戻した後も、依然として忠武キムパプと呼ばれ、誰からも愛される料理になっている。

2 統営のクルパン(はちみつパン)は、オミ社というクリーニング店の横の屋台から始まった。そのクルパンが大変な人気で、クリーニング店はなくなったが、店名だけはクルパン店が受け継いでいる。そのオミ社クルパンの人気によって、統営市に数多くのクルパン店ができたのだ。

3 河口と中央市場が統営の重要な観光地になり、多くの人が訪れる河口には、数多くの忠武キムパプ店とクルパン店が軒を連ねている。どこが元祖なのか分からないが「元祖」と名乗る店が多い。

早春のヨモギと一緒に煮たメイタガレイのヨモギ汁は、深く澄んだコクが絶品。「秋のコノシロ」、「春のメイタガレイ」といわれるほどだ。その他にも、嫁に食わすなといわれる初夏のウニ、朝食の代名詞となっているフグ汁、夏のスタミナ食の象徴・ハモの刺身、冬の賓客といわれるカキ。これらすべてが統営を代表する食べ物。特にカキは全国の生産量の70%を占めており、まさに統営の宝だ。

いる。マダイ、コノシロ、ヒラメ、タコ、テナガダコなど、捕れたてで活きがいい。ホヤ、ユムシ、ナマコ、サザエ、アワビも鮮度抜群。ナマコはあまりにも新鮮で、歯ごたえがたまらない。

統営で味わう旬の味よく統営を訪れるため、季節ごとに旬の魚が味わえる。春にはスズキの刺身、夏にはウナギとニベの刺身も食べた。ぷりぷりしてコクもある。しかし、秋に食べるコノシロとサバの刺身とは比べものにならない。餌が豊富な夏に栄養をたっぷり取った

秋のコノシロは、脂がのって歯ごたえもある。「サバの生き腐れ」とはよくいったもので、サバは水から揚げるとすぐに死んでしまう。そのため、サバの刺身は、なかなかお目にかかれない。だから、塩サバがよく食べられるのだ。最近は、欲知島や蓮華島の沖合にサバの養殖場が見事に広がっている。先日、欲知島を旅行した際に見た養殖場は、壮観だった。海面に浮かぶ丸い土俵のような形がユニークだ。海で捕ったサバを網に入れたまま引っ張って来て、一定期間エサをやり育てるという。狭いいけすで養殖されるため運動量が少なく、しっかり脂の乗った魚に育つ。

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冬の海産物は皆おいしい。その中でもタラ汁とビクニン汁は、統営の人にとって特別なものだ。冬の通過儀礼ともいえる。特にタラは、冷たい風が吹き始める立冬から立春まで、弥勒島の長承浦の近海に現れる。寒流の黒潮に乗ってくるタラは、2月のものが最高だ。澄んだスープのタラ汁は、淡泊でさっぱりした味が絶品だ。刺激的な味を嫌う中高年に人気が高い。筆者も若い頃は、ぼやけたような味があまり好きではなく、赤いスープのテグメウンタン(タラの辛いスープ)の方が好きだった。統営では、海産物だけ食べるのは味気なく、酒とともに楽しむ。酒のさかながうまいと、酒はさらに進む。夜が更けると、胸焼けがする。そんなときは、二日酔いに効くヘジャングク(酔い覚ましのスープ)をあちこちで食べられる。それがビクニン汁だ。東の海岸部ではコムチ汁と呼ばれている。若い頃によく行った東海岸の江陵と束草でも、コムチ汁が朝の食卓に上がった。青草湖のそばで物干し竿に干されていたビクニンが、山陽地区の丘にある集落でも目に付く。早春のヨモギと一緒に煮たメイタガレイのヨモギ汁は、深く澄

んだコクが絶品。「秋のコノシロ」、「春のメイタガレイ」といわれるほどだ。その他にも、嫁に食わすなといわれる初夏のウニ、

朝食の代名詞となっているフグ汁、夏のスタミナ食の象徴・ハモの刺身、冬の賓客といわれるカキ。これらすべてが統営を代表する食べ物。特にカキは全国の生産量の70%を占めており、まさに統営の宝だ。ところで統営の食文化は、どのようにして発達したのだろうか。いろいろな説がある。例えば、人口14万あまりの小さな港町が数多くの優れた文化芸術家を輩出し、その繊細で感性豊かなDNAが宿っているから。あるいは、約400年前の朝鮮時代に三道水軍統制営が設置され、ソウルから派遣された高級官僚とその女中が、優れた料理の腕を振るったため。そして、外来文化が盛んに入ってきて、地元の文化と融合したおかげ…。しかし、何といっても恵まれた地理的条件と気候が、根底にあったからではないだろうか。巨済島が南からの激しい海の流れを和らげ、欲知島と蓮華島が番兵さながら風を受け止める。そして、弥勒山がいつも見守り、閑山島が抱き保護する。そうして絶妙な河口が形作られた。南望山の頂上から西湖を一望すれば、誰もが文人墨客。風流・風雅を楽しむ芸術的な感覚が生まれるだろう。恵まれた自然は美しい空間をつくり、そこで育まれた詩的センスとエスプリは、優れた味わいを醸し出す。

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宗廟祭礼楽(宗廟とは朝鮮時代の歴代王と王妃、そして功臣達を祀る国家儀式)が今年9月18日と19日の両日間、パリ国立シャイヨー劇場の舞台に上がる。韓仏国交樹立130周年を記念する2015-2016韓・フランス相互交流年の開幕公演であり、国立シャイヨー劇場の開幕公演だ。宗廟祭礼楽は、儒教を統治理念とした朝鮮時代に「孝」を国レベルの規範として実践するため、宗廟で執り行った祭祀のための儀式用音楽と舞踊で、2001年にユネスコ「世界無形文化遺産」に定められた。敬虔な宗廟の建物とともに荘厳かつ無駄のない美しさ、自然と人間の永遠性を象徴する韓国伝統総合芸術の白眉と言える。

パリで演奏される宗廟祭礼楽 ソン・ヘジン

宋恵真、淑明女子大学校 伝統音楽専攻教授徐憲康 写真

フォーカス

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朝鮮時代には儒教の教えに従って生前の両親に孝行を尽くし、亡くなった後もまるで祖先が生きているかのように敬愛する孝行がかなり重んじられたが、宗廟祭礼は国王自ら「孝」を実践する手本として執り行われた王室最高の儀礼だった。歴代王と王妃たちの忌日だけではなく、

国家的重要なことがあるたびにこれを先代に告ぐため、年数回執り行われたこの祭礼には、国王と太子、領議政(李氏朝鮮における議政府3議政の一つで、最高の中央官職。現在の国務総理)をはじめ、主要官吏が参列して儀典に記された規定に沿ってお香を焚いて神仏を招き、供物を捧げて楽しませた後、お送りするという手順で行われた。この際、祭礼の空間に配置された宮廷楽師たちは、儀式と手続に従って楽器を奏で、これに合わせて先祖の功徳を褒め称える歌を歌い、舞員たちは音楽に合わせて佾舞(イルム)という特別な舞を舞った。この演奏と歌、舞を総括して宗廟祭礼楽と言い、1964年国家の重要無形文化財第1号に指定され、今日まで受け継がれている。

儒教儀礼の奏楽伝統と宗廟祭礼楽 宗廟祭礼で奏楽は、北東アジアの長い儒教儀礼の伝統から始まった。儒教儀礼では、中国の古代か

らさまざまな材料で作った楽器で楽隊を構成し、これに合わせて公徳を称える歌を歌いながら一定の数

宗廟祭礼が行われる間、舞員が音楽にあわせて武舞を踊っている。武舞を踊る舞員は武士のように剣と槍を持って踊る。定大業之楽の旋律に似合う武舞は武士の威厳が感じられる舞である。

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の舞員たちが隊列を整えて踊った。楽隊を構成する楽器は、金、石、糸、竹、瓢、土、革、木の八つの材料で作るが、これを「八音」

と言い、八音楽器の合奏は、自然に存在する音の調和を象徴する。一方、祭礼では八音楽器を備えた二つの楽隊を祭礼空間の上月台と下月台に配置するが、これはそれぞれ陽と陰の位置を意味し、両楽隊が交互に演奏して陰陽の調和を表す。正殿の高い位置の上月台に配置された楽隊を登歌(トゥンガ:上月台に配置され歌の無い音楽を演奏する楽団)と言い、低い位置に配置された楽隊を軒架(ホンガ:下月台にて歌のある音楽を演奏する楽団)と言う。また、登歌と登歌の間の正殿の片隅に舞員たちが列を作って舞うことによって、天地の間に人々が交わる「天・地・人」の構図が完成される。このように象徴的な意味が反映された祭礼楽の構成は、古代中国の雅樂から始まったものであり、韓国では12世紀に初めて受け入れられた。その後、朝鮮の世宗代になって中国古代雅樂についての総合的な研究を踏まえて、全面的な再整備が行われた。

宗廟祭礼楽の起源現在、演奏されている宗廟祭礼楽は朝鮮の世宗(セジョン、朝鮮第4代王、1418~1450)が1449

年作曲し、彼の息子の世祖(セジョ、1455~1468)代に一種の編曲過程を経て、1464年から宗廟祭祀で演奏され始めた新しい祭礼楽だ。つまり、純粋な雅楽演奏の伝統を破り、世宗が新しく作曲し

1 宗廟祭礼で楽士たちが玄琴(コムンゴ)を演奏している。1500年の歴史を持つ玄琴は、桐の共鳴筒の上に、絹で紡がれた6本の弦を張った弦楽器で、12本の伽耶琴(カヤグム)と並んで韓国の代表的な伝統弦楽器だ。その音色が荘重で優雅であるためよく「貴族の楽器」と呼ばれる。

2 宗廟祭礼が行われる間、楽師たちが大笒を奏でている。朝鮮時代の宗廟祭礼では宮廷楽士たちが音楽を奏でた。祭礼に使われる音楽は22曲の独立楽曲で、その賛歌のテーマによって保太平之樂(ポテピョンジアク)と定大業之樂(チョンデオプジアク)に区分されている。

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た「朝鮮式宮廷音楽」がこの宗廟祭礼楽として位置づけられるようになったのだ。世宗はハングルを創製した後、初の作品として「龍飛御天歌(ヨンビオチョンガ)」という朝鮮建国の

大叙事詩を完成し、これを歌舞楽として展開するための新しい作業に取り組んだが、この過程で雅楽の様式と朝鮮伝来の音楽伝統を結びつけた新しい実験をすることになる。つまり、中国古代の雅楽と似ていながらも内容的には違いをはっきりさせた「朝鮮式宮廷音楽」を試みたのだ。楽隊の配置と八音楽器を備えた編成、隊列を組んで踊る舞員の数と舞具、楽・歌・舞で構成される形、音楽の始め方と終わり方など、外形的な様式は雅楽に従い、内容面では八音楽器の構成に雅楽器のほかに、中国伝来の唐楽器および朝鮮の楽器を含めたり、楽曲の拍子と旋律、歌詞などは古来の郷楽(ヒャンアク)からとって新しい音楽を創作した。つまり、雅楽様式と朝鮮伝来の音楽を融合させた新しい宮廷音楽の誕生だった。世宗は、これを「新しい音楽」という意味の「新楽」と名づけており、この手の朝鮮式音楽が宮廷の宴会とさまざまな儀礼に使われることを希望した。このような世宗の意向は世祖代になって具体的に実現された。世祖は、世宗の公徳を称えるために創作した「保太平之樂(ポテピョンジアク)」と「定大業之樂(チョ

ンデオプジアク)」を整えて宗廟祭祀に使い始めたが、この曲が今日に伝承される宗廟祭礼楽だ。宗廟祭礼楽に採用されてから、王室の音楽人たちによってもっとも重要な宮廷音楽として途絶えることなく受け継がれ、現代まで着実に引き継がれてきた韓国ならではの音楽遺産だ。

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宗廟祭礼の楽・歌・舞宗廟祭礼楽を構成する楽・歌・舞の楽は、楽器の編成と登歌と軒架の配置を意味する。宗廟祭礼楽

の楽器編成は、雅楽器と唐楽器、郷楽器をいずれも適切に使う。現行の宗廟祭礼楽には、編鐘(ピョンジョン)、編磬(ピョンギョン)、方響(パンヒャン)、柷(チュク)、敔(オ)、拍(パク)、唐觱篥(タンピリ)、大笒(テクム)、奚琴(へグム)、牙箏(アジェン)、杖鼓(チャング)、鉦(チン)、太平簫(テピョンソ)、節鼓(チョルゴ)、晉鼓(ジンゴ)の15種の楽器が登歌と軒架に配置されるが、朝鮮時代にはこの他に伽倻琴(カヤグム)、玄琴(コムンゴ)、月琴(ウォルグム)、唐琵琶(タンビパ)、鄕琵琶(ヒャンビパ)、大笒(テクム)、中笒(チュングム)、小笒(ソクム)など約20種の楽器が加えられた。歌は楽章、つまり歌だ。宗廟祭礼楽の楽章には、祭祀を行う意味と追悼の対象である朝鮮王朝の歴

厳粛な儒教儀礼、最初から最後まで大きな変化もなくゆるゆると流れる音楽、風変わりな楽器の音響、聞き取れない歌詞など、現代韓国人の聴衆にも不慣れな要素があるが、にもかかわらず宗廟祭礼楽は、時空を超えた「永遠性」を味わうことのできる独特で高尚な、人類の音楽遺産であるのは間違いない。

1 朝鮮の歴代王と王妃たちに捧げる宗廟祭礼は、祭需の供物、並べ方でも一般家庭の祭祀とは格が違う。米、粟、キビなどの穀物と豚、羊、牛などの供物はいずれも生ものを供えた。最も新鮮な食べ物を先代王に捧げるという意味だった。

2 神仏を迎える準備を終えた祭官たちがそれぞれ所定の位置に整列している。続いて線香をあげて魂魄を呼び戻す晨祼礼(シングランネ:王が祭室まで赴き香を焚き神を迎え入れる儀式)を執り行う。朝鮮時代の宗廟祭礼には、王と太子、高官を含む約300人の祭官が参列した。

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代王たちが民を守るため献身した内容と国の太平に尽力した功労、子孫繁栄の祈念などの内容が詳細に描写されている。「真心を尽くして執り行う祭祀を通じて限りない福を享受したいという子孫たちの心」がこの宗廟祭礼楽歌詞の主な内容だが、そのほかにも「先祖たちが福を授ければその恩を一生忘れない」という誓いだとか、「子孫たちまでも栄えるようにしてくださり、永遠に彼らの成功をご覧いただきたい」という念願、そして「親孝行をする子孫たちにめでたいことがたくさんあって健康長寿できるようにしください」という願い事も含まれている。同時に、祭祀を受ける先祖に対して褒め称えたり、賛美したりする内容が主になっている。現行の宗廟祭礼楽は、サブタイトルのある22曲の短い独立楽曲からなっているが、その歌のテーマによって大きく定大業と保太平に分類される。このように宗廟祭礼楽の楽章は、宗廟祭礼が敬いと真心、礼と楽、清潔な飲食と酒を備えて王室の祖先を追悼することにより、王室と国家が末永く栄えることを祈念するための儀式であることがわかる。さらに、「宗廟に祭祀を行い、子孫を保持する(宗廟祭之子孫保持)」という「中庸」の教えのように、祭礼を通じて先祖たちの軌跡を辿り、その後代が先代の尊い志を見習うようにする教育的目標も強くにじませている。

舞は佾舞(イルム)を意味する。宗廟祭礼の舞は、複数の舞員たちが隊列を整えて舞う舞であるから佾舞と言い、文舞と武舞で構成

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される。この舞を舞う際には、いずれも紅いトゥルマギ(チョゴリとパジ)の上に羽織る外套)の紅周衣(ホンジュイ)に藍色の帯である藍糸帯(ナムサデ)を締め、木靴を履いて頭には幞頭(ポクトゥ)をかぶる。手に取る小道具は儀物(イムル)と言い、文舞を舞う際には左手に楽器の一種である籥(ヤク)を持ち、右手にキジの羽である翟(チョク)を持つ。指孔が三つしかない管楽器である「籥」は、三つの孔ですべての音の調和をなすという意味を込めており、「翟」は1尺あまりの木の棒にキジの羽を縛って結び目を作ったもので、いずれも平和と秩序を象徴する。文舞は舞員たちが籥と翟をぶつけ合ってリズミカルな音響を流しながら踊る。舞員たちは、それぞれ

自分の位置に立って両腕を上げたり下げたりし、上半身を前にかがめたり伸ばしたりし、右側と左側にゆっくり回る動作を持続的に繰り返す。地味ながらもつつましく見える動作だ。文舞は 迎神礼(ヨンシンレ:神を迎える儀式)から初獻礼(チョホンレ:神をもてなす儀式)まで舞うが、進饌礼(ジンチャンレ:神に供物を捧げる儀式)では豊安之樂(プンアンジアク)に合わせ、残りの手続きでは保太平之樂の演奏に合わせて踊る。 亞獻礼(アヒョンレ:神を喜ばせる儀式)と終獻礼(チョンホンレ:最後の酒の杯を上げる儀式)のための武舞は、前列から4列目までは剣を、後ろから4列目までは槍を手に執る。武舞の動作は、胸の前で手を合わせて準備姿勢をとった後、音楽が始まるとまず左に胴体を回し、再び右に方向を変えて両手を広げ右手を頭の上に挙げたり下げたりする比較的に簡単な動きを繰り返す。しかし、定大業之樂の豪気溢れる旋律にふさわしい武舞の動作では、武士の威厳が

宗廟正殿で歴代の王と王妃に対する祭祀が行われる間、上下月台では舞員の舞と楽士の音楽演奏が続き、儀式に荘重で流麗な威厳を添える。

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うかがえる。宗廟祭礼楽の佾舞は、世宗時代に中国古代の楽舞を研究して再演、創作したもので、雅楽の佾舞と外見的な仕組みは類似しているが、固有の特徴を持ち合わせるようになった。宗廟祭礼楽は、1970年代半ばから現在まで毎年5月の第一日曜日に執り行われる宗廟祭礼で祭礼

とともに演奏されている。そのほか、音楽と舞は伝統音楽の主なレパートリーで、国立国楽院などの劇場で楽しめる。最近一般人の関心が高まったことを受けて、解説付きの宗廟祭礼楽公演だどか、舞台の上で宗廟祭礼楽の儀式を再演しながら祭礼楽を演奏する新しい演出が次第に広がっている。一方、宗廟祭礼楽は、あまりにも公演の規模が大きいため海外舞台で披露することは極めてまれな

ケースだ。2002年「日韓W杯共同開催」をきっかけに開かれた日韓宮廷音楽交流演奏会、2007年9月イタリア・トリノ音楽祭とドイツアジア・太平洋主宰文化行事で公演されただけだ。約90分間にわたって全曲が演奏される今回のパリ公演は、これまで演奏を中心に構成された海外公演とは一線を画して、縮約された形の儀礼を一部含め、舞踊団の人員を大幅に増やしており、舞の動きを前面に掲げた新しい演出になる予定だ。厳粛な儒教儀礼、最初から最後まで大きな変化もなく、ゆるゆると流れる音楽、風変わりな楽器の音響、聞き取れない歌詞など、現代韓国人の聴衆にも不慣れな要素があるが、にもかかわらず宗廟祭礼楽は、時空を超えた「永遠性」を味わうことのできる独特で高尚な、人類の音楽遺産であるに間違いない。この「容易ではない」公演がパリの聴衆たちにどう受け止められるか期待される。

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仏教は紀元後4世紀頃の三国時代に伝来して以来、これまで韓国の固有の文化と相まって発展してきた。韓国人は仏の力をかりて疾病、飢餓、戦争、自然災害な

どを克服しようとし、そのような願いはさまざまな信仰の対象を作り出し、仏教儀式として受け継がれてきた。そしてそれは韓国の歴史と文化が発展する原動力ともなった。展示の序章「プロローグ:発願の意味」では、三国時代(B.

C.37-A.D.668)と統一新羅時代(668-935)の仏教美術を通じて祈願することの意味と、主に国家と王室が仏教を後援していた時代的背景を解説している。当時の人々は寺刹を建てて石塔を建立し、本堂の中に仏像と仏画を奉安し、経典を刊行する仏

事に参加することで功徳を積もうとした。今日、韓国の寺刹で出会う仏教美術品の大部分はまさにこのような発願の産物であり、多くの後援者がいたからこそ製作が可能だった。もっとも一般的な発願の内容は国が平安で自分と家族、ひいてはすべての人々が悟りを得て極楽往生をすることだった。

国家の最高権力が寺刹を建て仏教を後援する三国時代から統一新羅時代にいたるまでの古代国家での仏教は、中央集権国家の精神的な求心点となっていたため、寺刹建立の最も強力な後援者は国家と王室だった。この時期、寺札の石塔の中には舎利具を奉安したが、統一新羅の王室が発願した

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「�発願、切なる祈りと�願いを込めて」��仏教美術の後援者たち国立中央博物館で開かれた「発願、切なる願いを込めて」(5月23日~8月2日)展は仏教美術の後援者たちを通して、韓国社会における仏教と美術、そして後援者との関わりを考える企画展だ。展示は各時代別に主要な後援階層に焦点を当てて5部構成されており、後援者の社会的地位や経済力がそのまま作品に反映している点が興味深い。

アートレビュー

シン・ソヨン申紹然、国立中央博物館学芸研究士

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1 慶州九黄里皇福寺址の三層石塔(国宝37号)の中から発見された金銅舎利函と遺物は692年と706年の2回にわたり奉安された。舎利函の金銅外函の蓋の内側には692年に孝昭王が母の神睦太后と共に先王である神文王の冥福を祈って石塔を建立したと刻まれている。

2 13世紀の「木造観音菩薩坐像」は計15個の木材で作られた優雅で自然体な仏像だ。目には水晶をはめ込み、仏像の中には木で作られた瓶、穀物、鉱物、織物などが奉安されている。高さ67.6cm、国立中央博物館所蔵

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代表的な舎利具は皇福寺址といわれる現在の慶州九黄洞の三層石塔の舎利具だ。舎利函の金銅外函の蓋の内側には692年孝昭王が母の神睦太后と共に先王である神文王の冥福を祈って石塔を建立したと記録されている。当時6歳だった孝昭王の年齢を考えれば実質的な塔の建立者は神睦太后であり、塔の建立目的は国王と王室の権威を確立し、王位継承の正当性を示す為の、政治的な意味が込められていたものと思われる。706年聖徳王が奉安した舎利函の表面には99基の小さな塔が彫られているが「無垢浄光大陀羅尼経」に従い作られたものだ。舎利函の中に入っていた銀合、金合、金製の仏坐像と金製の仏立像、金銅高杯と銀製高杯、緑色硝子片と硝子玉などは王室から発願した仏教美術品がいかに豪華だったかを物語っている。高麗時代(918-1392)になると個人的な祈願がはじまる。「1

部:国王と貴族、経典を刊行する」は高麗の王室、貴族、中央官僚のような最高権力者たちの後援が集中した経典関連の仏事

を紹介している。高麗時代には青や赤で色をつけた紙に金や銀で絵を描き、字を書き写す写経が流行した。その発願文には王室の安寧を祈願するだけでなく、自分と家族の福を願う個人的な願い事も書かれている。注目される作品としては、中国元の国に行き官職についた安賽罕が1334年に発願した「大方廣仏華厳経普賢行願品」だ。安賽罕は発願文で父母の恩恵と元の皇室で自分が二品の階級に上がったことを感謝し、家内と国の安寧を祈願している。経典の絵は中国元代に流行して高麗にも伝わったチベットモンゴル仏教美術の様式を備えており、これは親元系の人物であった後援者の立場などとも関連が深い。

官僚から平民まで仏を拝む「2部:官僚から卑民まで、仏を拝む」では、13世紀から仏像内にいろいろな物品を入れる腹蔵儀式が登場しはじめ、それに連れて後援者の数も増えて階層も拡大していった。腹蔵とは仏

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今日に伝わる数多くの寺刹の仏教美術品は国家の平和と安寧、あるいは自分の父母や家族の極楽往生を願う誰かの強い祈りが込められて製作されたものだ。それと同時に仏事に参加するということは、悟りを得ようと努力する者たちにとって限りない功徳を積むためのものでもあった。困難が降りかかれば互いに力を合わせてこれを克服していく韓国人の共同体意識は功徳を積んで他人を助けようという利他主義的な仏教信仰と結合し、素晴らしい仏教美術品を生みだした。

像の中に発願文、舎利、経典、織物、穀物など、多様な物品を入れることで仏像が単なる金属や木材で作られた彫刻ではなく�仏�それ自体だという認識を示している。13世紀の「木造観音菩薩坐像」(国立中央博物館所蔵)は計15個の木材をつないで作られた優雅で自然体な仏像だ。目には水晶をはめ込み、仏像の中には木で作った瓶、穀物、鉱物、織物などが奉安されている。1333年に作られた「金銅阿弥陀三尊仏」は菩薩像の底に張鉉とその妻の宣氏が主要後援主だと記録されている。また腹蔵を作る際の発願文には中央の高位官僚から平民以下の卑民にいたるまで数百人の名前が書き込まれており、文字を書ける人は直接署名を残し、そうでない人々は誰かが代わりに名前を書いた。仏像は少数の人が後援し造成されたのに対し、腹蔵物は身分の上下を問わず多くの人々が供養し完成させたことが分かる。「3部:地域社会の信徒たち、音と香を捧げる」は、読経の時間を知らせる鐘、供養の時間を知らせる鉄鼓、儀式に必要な香椀と燭台など寺刹で日常的に使用される仏教関連の工芸品の後援者に関する内容だ。ここでは特に地方で影響力の大きかった郷吏の後援によるものが目に付くが、「大恵院銘銅鐘」(宝物1781号)や、「青銅銀入絲香椀」(国宝214号)に見られるように地方の行政官の役割が浮上したことが分かる。地域社会の仏教信仰共同体である香徒もまた仏教工芸品の主要後援者であったが、構成員の階層、職位、経済力

1 高麗時代に安賽罕が1334年に発願した「大方廣仏華厳経普賢行願品」(宝物第752号)は紙に金で文章を書き絵を描いたものだ。2巻の折帖本でとじた時の大きさは34.0×11.5cm、湖林博物館の所蔵

2 慶尚南道固城玉泉寺所蔵の「壬子銘飯子」(宝物495号)は直径55cm、幅14cmの青銅鼓だ。高麗時代の1252年に、中央の高位官僚たちの後援で製作された。

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に伴い仏教工芸品の水準や規模も異なっていた。中央の高位官僚の集まりで後援し製作した宝物495号慶尚南道固城玉泉寺所蔵の飯子は、開城の名匠・韓仲叙が製作に参加し、その大きさや精巧さからも後継者の経済力がうかがえる。反面、下級官僚や武官、女性や地方の香徒で構成された場合は規模や繊細さにおいてそれに及ばない 。

王室の女性が後援の主体となる「4部:王室の女性、発願の主体となる」は、仏教を抑制し儒教を尊ぶ朝鮮時代(1392-1910)の政策にもかかわらず、王朝建国以後も相当な期間にわたり活発に行われた王室の女性たちの仏事を紹介している。代表的な事例として、明嬪金氏が発願

して建てられた京畿道南揚州の水鐘寺の塔から出土した金銅仏龕と三尊仏があ る。 光 海 君( 在 位 期 間 1608-

1623)の即位で実家の家族と息子の永昌大君を失った仁穆大妃が1622年に発願した「金光明最勝王経」は、表紙に刺繍を施し大妃自ら親筆で経典を写経した

ものだ。自身と娘の貞明公主が西宮に幽閉されている時に発願し、幼くして非業な死を遂げた息子の

極楽往生を願う母の思いが込められている。京畿道揚州檜厳寺の「薬師三尊図」は仏教を中興させようと努めた文定王后が発願した絵だ。文定王后は明宗(在位期間1545-1567)の母として孫の世子の冥福を祈り、王の長寿と王子の誕生を祈願し、檜厳寺に400点の仏画を製作させたが「薬師三尊図」はその中の1点だ。

1 朝鮮時代の1622年に仁穆大妃が発願した「金光明最勝王経」は絹地表紙に刺繍を施して大妃が自ら親筆で経典を写経したものだ。10巻の折帖本でとじた時の大きさが34.6×12.0cm。京畿道の有形文化財34号。東国大学博物館の所蔵

2 京畿道南揚州の水鍾寺の八角五層石塔から造成の発願文と共に出土した金銅仏龕と三尊仏(宝物1788号)は、朝鮮時代の1493年に太宗の後宮であった明嬪金氏が発願して作られたものだ。仏龕の高さは21cm

3 慶尚北道義城郡大谷寺の「甘露図」は、1764年に寺を財政的に支援していた寺刹契の後援で製作された。画面の真ん中には大きな祭壇があり、その下には儀式を行う法師と土下座した悪鬼、そして儀式に参加する王、王妃、文武百官、信徒たちの姿が描かれている。絹に彩色、大きさは211.5×277cm

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僧侶と民衆が仏教復興の中心に立つ「5部:僧侶と民衆、仏教復興の中心に立つ」は、僧侶と一般民衆が中心となった朝鮮後期の仏事を展示している。朝鮮時代には壬辰倭乱(文禄・慶長の役、1592-1598)と丙子胡乱(清国による侵略、1636)の2度の大きな戦乱が終わると、多くの寺院が再建された。国が危機に陥った時に勇敢に戦った僧軍の活躍により、戦後に僧侶の社会的地位が向上し、僧侶が主導し民衆が後援する仏事の形が普遍化した。大邱近郊の龍淵寺の「霊山会場図」は1777年に製作されたもので、霊鷲山で説法をする釈迦牟尼仏の姿を描いた画記を通じて多くの僧侶が参与したことが確認できる。またこの時期には亡くなった人の極楽往生を祈願する儀式が盛行し甘露図のような仏画も製作された。慶尚北道義城郡大谷寺の「甘露図」は1764年に寺札を財政的に支援していた寺刹契の後援で製作された。画面の真ん中には大きな祭壇があり、そ

の下には儀式を行う法師と土下座した悪鬼、そして儀式に参加する王、王妃、文武百官、信徒たちの姿が描かれている。下段には死の場面と民衆の生活が風俗画のように描かれているが、良人たちの後援によって製作された仏画の中に彼らの姿が投影されている点が興味深い。今日に伝わる数多くの寺刹の仏教美術品は国家の平和と安寧、

あるいは自分の父母や家族の極楽往生を願う誰かの強い祈りが込められて製作されたものだ。それと同時に仏事に参加するということは、悟りを得ようと努力する者たちにとって限りない功徳を積むためのものでもあった。困難にあえば互いに力を合わせてこれを克服していく韓国人の共同体意識は功徳を積んで他人を助けようという利他主義的な仏教信仰と結合し、素晴らしい仏教美術品を生みだした。

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お酒を飲むと人との距離感は埋まりやすい。だとすれば両文化も近づけることができるのではない

か。村岡ゆかりさんはそれができると信じている。日本の神戸出身の飲食研究家の村岡さんは2010年にソウルに来た。彼女はマッコリをはじめ韓国伝統酒の愛好家であり、韓国と日本の両国で活動している。1200人の会員を擁する日本マッコリ愛好家コミュニティー会長であり、第2の故郷である韓国で韓国の伝統酒文化に息を吹き込んだ努力が認められて、韓国農林畜産食品部から表彰を受けた。

熱心な料理愛好家料理に関する村岡さんの関心は子供時代から始まった。「母は料理が上手だったんです。そのためかもっとも古い記憶の中でも私は料理に興味があったんですね。小学校1年生のある日、母が私に包丁を与えながら使い方の練習をしろと言ったんですよ。それなのに肝心の包丁テクニックは教えてくれなかったんです。母は傍

らで黙って見守るだけでそのコツは私自ら見つけるようにしてくれたのです」。成長するにつれて村岡さんの高級料理に対する情熱も育っていった。彼女は酒造りで有名なところで成長し

た。「私が育った神戸は水が清く美味しいことで有名なんです。『ミヤミ酒』(天水)という名前が付くくらいでしたから。この天水で作ったお酒は日本でも最高とされているんですよ。それで小さい頃からお酒と酒造に自ずと馴染んでいたわけです」。村岡さんは、大学卒業後カナダで5年間、木材輸入会社で仲介業務に携わった。しかし30歳を機に、料理研究家になりたかった夢を追うことを決めた。「あの頃、私はお酒と料理に対しては人一倍関心がありました。各国のお酒の味はその地域の料理ともっとも相性が良いということがわかりました。後で日本でクッキングスクールを開いたんですが、その時教えた料理のすべてが酒の肴にぴったりだったんですよ」と彼女は言う。1

村岡ゆかりさんは韓国の味がわかる。日本人としては初めて韓国伝統酒ソムリエになった彼女は、マッコリ、焼酎、薬酒、果実酒など数多くの韓国伝統酒を学習し、味わい、楽しんできた。飲食と酒に対する情熱と文化交流に対する強い信念に支えられて、韓国内外の人々と共に新しい感覚の世界へ導くために取り組んでいる。

韓国文化の味に魅せられた村岡ゆかり

韓国大好き

ダルシ・パケットDarcy Paquet、フリーランス安洪范写真

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1 韓国伝統酒ソムリエとして村岡ゆかりが働いているソウル仁寺洞(インサドン)の伝統酒ギャラリー(Sool Gallery)に各地域の代表的な酒が展示されている。上から時計回りに全州(チョンジュ)の名酒・梨薑酒(イガンジュ)、忠清南道礼山(チュンチョンナムド・イェサン)のチュサアップルワイン、安東焼酎、済州島のコソリ酒。

2 神戸の酒造りのある村で幼少期を送った村岡さんは、韓国のお酒に対する愛情の深さが桁違いだ。2010年韓国伝統酒と料理を学ぶために韓国に来た彼女は、2014年伝統酒ソムリエ資格を獲得した。 2

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韓国伝統酒の魅力アジアを始め世界の大勢の人と同じよ

うに、村岡さんも2004年日本で放映された韓国ドラマ「チャングムの誓い」にはまった。この時代劇は、宮廷料理人になったある若い女官についての話だ。主人公は、後に王を治療する最初の女医になる。ドラマで特に村岡さんの興味を引いたのは、料理と医学との関連性だった。「韓国には『薬食同源』『医食同源』という言葉があります。バランスの取れた料理とお酒は薬になりうるし、病気を予防してくれるという意味ですね。この概念は韓国料理だけではなくて、伝統酒にも反映されています。何よりも印象深かったのは韓国伝統酒の作り方が健康に良い食材に焦点を当てているということだったんです」。村岡さんの韓国に対する関心が次第に大きくなる中で、韓流の影響でマッコリが日本で幅広く人気を集めるようになり始めた。「大勢の日本人がマッコリが好きになったんですね。最初は輸入マッコリを飲んでいたけれど、韓国で味わった新鮮なマッコリがずっと美味しかったことがわかったんです」と彼女は説明した。マッコリの魅力の一つは、出来上がった瞬間から絶え間なく味が変わり続けるということだ。マッコリに含まれる数多くの乳酸菌の活動によって持続的に発酵が起こるからだ。一般的にマッコリは作られてから3日から5日の間がもっとも味が良いという。「日本のマッコリア(マッコリのマニア)は、毎月韓国に飛んできます。近いからですね。ところが最近は、ますます多くの人が日本でマッコリを作り始めました。韓国人だけではなく日本人もですね」。

韓国での新しい生活2010年、村岡さんは韓国の伝統酒と

料理についてもっと深く学ぶため韓国行きを決心した。言語の重要性を身にしみて感じ、まず西江(ソガン)大学校の2年間のインテンシブ韓国語講座で勉強しながら、

自由時間には伝統酒についての知識を積んで行った。

2012年語学コースを卒業する頃、西江大学校近くの弘益(ホンイク)大学街に突然マッコリブームが巻き起こった。「マッコリの酒屋は概ね伝統的なインテリアをしているんです。ですが、この頃から新しいスタイルのマッコリバーが登場し始めて、若者たちから高い人気を得ました。このブームがもっと長く続けばよかったんですが、今、若者たちは手作りビール(クラフトビール)に乗りかえったんです」。たとえマッコリブームは一時的なものではあったにせよ、若い消費者たちにマッコリに対する新しい認識を植え付けるのに役立った。以後村岡さんは忙しくなった。2013年

に彼女はコンサルティング会社のグローバル・ユー(Global U Co. Ltd.)の運営をスタートしたが、それが彼女の主な収入源だ。しかし、彼女は多忙な中でも自分がやりたい仕事を追い求め続け、2014年に伝統酒ソムリエ資格試験を受けた。韓国

の伝統酒歴史、酒の科学的知識と流通する多くのブランドについて評価する筆記試験を受けたあと、彼女は2次試験の受験者となった。「外国人はおろか、多くの韓国人たちでさえマッコリが伝統酒を指す名前だと勘違いします。ところで、韓国伝統酒は薬酒の清酒(チョンジュ)、焼酎、マッコリ、果実酒の4種類があります」と彼女は説明する。「試験はすべての伝統酒を網羅して取り扱っているし、ブラインドテストとストリーテーリングまで含まれます。審査委員たちに酒の歴史と背景を説明しなければならないんですね」。韓国人と外国人を別々に分けて行われ

る試験は、準備不足の人には至難の業。「試験中に緊張しすぎて時間が飛ぶように過ぎたんですよ。」と村岡さんは振り返った。ところが彼女は試験に無事合格し、日本人としては初めて韓国伝統酒ソムリエになった。そのような努力が功を奏して2014年11

月に村岡さんは、李桐弼(イ・ドンピル)農林畜産食品部長官から表彰状を受賞した。続いて彼女は、今年2月から仁寺洞(インサドン)の伝統酒ギャラリーで教育プログラムとビジネスセンターの仕事を手助けしている。「韓国人は韓国語の発音が少し下手な外国人から自分たちの伝統酒について教わることを興味深く思うんです。そうかと思えば自分たちの飲酒文化について外国人より詳しくないことをやや恥ずかしく思うかもしれないんですね。ですからもっと一所懸命学習するようです」と彼女は微笑みながら言う。

韓国伝統酒体験韓国の酒は数多くの薬酒、焼酎、果実酒はもちろんのこと、マッコリだけでも1000種類を超える。そのうち、一番好きなお酒は何かと聞くと村岡さんは微笑む。「よく聞かれる質問が『一番好きな韓

1 もち米、麦、米、キビ、粟、ハトムギなど多様な穀物が伝統酒を醸す原料に使われる。穀物を蒸し器で蒸してご飯を炊き、麹と混ぜて発酵させる。

2 村岡さんは、一週間に2度伝統酒ギャラリーで韓国伝統酒を知らせる仕事をしている。彼女は、韓国のお酒は体に良い食材で作られて、健康に良いと説明する。

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国の伝統酒は何か』ということです。正直そんなものはないんですよ。お酒を飲むたびに味が違ってくるものだから」。「一番好きなのは、特定のお酒が生産されるところで郷土料理と一緒に飲むことです」と彼女は言う。「そうすれば、飲酒の経験を最大限に享受できます」。彼女は周辺環境などが食べ物や飲み物に影響を及ぼすと主張する。気分や外の天気さえも。「酒造りに用いられた水が野菜栽培や料理に使われると、まったく異なる味を体験することができます」。村岡さんは強烈なインパクトを受けた特別な経験を思い出した。「ソン・ミョンソプ(宋明燮)という方が製造する伝統マッコリを飲んだことがあるんですね。お米と麦を使って造りますけど、人工甘味料のアスパルテームや糖分はまったく入っていないんです。名前はシンプルに「ソン・ミョンソプマッコリ」です。容器もお酒のよう

にとても素朴で地味なのです」。村岡さんは、全羅北道にあるその酒造場を韓国に来た直後に訪れた。あるテレビ局が開催したイベントに参加するついでに行くことになったのだ。「私たちのために特別な夕食が用意されていました。そしてマッコリが出されたんですね。その味が、特に料理と調和をなした味があまりにも印象的だったんです。本当に伝統マッコリの持ち味が最大限に引き出されたわけです」。数年間村岡さんは、多くの酒造場と蒸

留所に足を運んだ。「韓国伝統酒に限っては、私は技術や機械装置より心を込めることがもっと大切だと思うんです。自分たちが作るお酒の細かいところまで最大の情熱を持って取り組む方たちが最高のお酒を造ります。彼らがお酒と料理について情熱的に説明して、さまざまな飲み方を勧めることから感じ取ったんです。彼らの酒造りの話を聞いてから味わえば、

より味わい深くなります」。

文化間の橋渡しお酒は時に慰めになったり、人々を親密にしたりもする。「ある伝統酒の醸造家が私にこう言ったんですよ。『悲しいときはあなたのそばに静かに座って悲しみを分かち合う友達になります。また、嬉しいときはあなたと共に嬉しさを分かち合います』と」。村岡さんの情熱は、単にお酒を愛する

ことだけではない。「私が若いとき文化間の架け橋の役割をすることが夢だったんです。もちろん、韓国と日本の関係はいろいろと多くの問題点があり、自分一人では問題を解決できないはずです。しかし、伝統酒を通して人々をお互いに近づける小さな役割ができるならば、私も何かをやっているんだなという感じがするでしょう」。

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オン・ザ・ロード

和順穏やかで神秘的なオーラに包まれた大地「大地のオーラが和やかで風は至純だ」という意味を盛り込んだ和順(ファスン)は、この世に暮らす人間にはもってこいの地だった。太古から人間を抱いているその地は、数百個のドルメンを痕跡として残しており、新しい世の中の念願を込めて千仏千塔を築き上げた人々の切実さを秘めている。川に沿ってくねくねと広がる砂浜、神秘的な雰囲気が立ち込めた細良池(土堰堤)。現代生活の疲れを癒してくれる母の懐が懐かしくなれば、和順へ出かけてみよう。

クァク・ジェグ郭在九、詩人安洪范写真

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ドルメンは青銅器時代の支配層の墓で、小さいものから、大きいもので重さが数十、数百トンに上るものまである。このように巨大石を採石して、運んで墓を作るためには、大勢の労働力が必要だったはずだ。韓国には極めて多くのドルメンが残っており、世界的に見て最も密集した分布を示している。和順(ファスン)をはじめ、高廠(コチャン)、江華島(カンファド)のドルメン群が2000年にユネスコ世界文化遺産に登録された。

穏やかで神秘的なオーラに包まれた大地

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人生の早瀬を渡ってみたらいくつかの飛び石に出くわすはずだ。1981年に私はその中の一つの飛び石を渡った。同年1月1日に10年間の習作期を経て、中央日

報の新春文芸に当選した。新春文芸は、韓国だけに存在するユニークな新人作家の登竜門で、その伝統は1930年代の日本植民地時代まで遡る。韓国を強制併合した日本帝国主義は、韓国人の母語使用を禁止するなど政治的に弾圧したが、当時韓国の主要新聞社が先頭に立って新春文芸を作り、それに当選すればすぐ作家や詩人として認められた。新年最初に発刊される新聞に自分の名前が刻まれた詩や小説が発表されるのは大変光栄などと言える。80年間余維持されたこの制度を今日の韓国の文学青年たちも依然として最も意味のある登竜門として受け止めている。私の詩『砂平(サピョン)駅で』もそのようにして生まれた。

終電車はなかなか来なかった待合室の外には夜通し雪が積もり白い紫色のヒロハハツドイを映す窓ガラスごとに鋸屑暖炉が焚かれていた

(中略)午前零時を越えると不慣れからくる居心地悪さも悲しみもすべて雪原だがもみじのような葉をいくつか車窓につけて夜行列車はまたどこへ流れていくのか懐かしい瞬間を思い起こしながら私は一握りの涙を光の中に投げかけてやった

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1 「雲が止まるところ」という意味の雲住寺(ウンジュサ)には、9世紀統一新羅時代に道詵(トソン)国師が一夜で建てた千仏先塔があったと伝わる。名前と同じくらい神秘的な雲住寺の谷のあちらこちらに仏塔がさまざまな姿で位置している。

2 雲住寺の仏像の大部分が弥勒菩薩だ。また、一般的な仏像とは異なり、台座、光背のような形式を備えていない。釈迦が救済し切れなかった衆生を救済するという弥勒菩薩に対する信仰は、未来に対する希望を反映する。

3 臨對亭(イムデジョン)の園林(庭園)は、韓国伝統庭園の原型を示している。美しく手入れされた森には、東屋と池があり、その東屋に多くの文人が訪れ詩を詠んだ。

砂平、駅のない江村1980年代韓国の政治状況は窮乏を極めていた。習作期の文学青年としての私の夢は、同時代を生きる韓国人みんなが苦痛の時間を渡って、希望の地平にたどり着くことだった。その時、私は南海岸のある島へ短い旅をした。帰り道、バスに乗ったが、大勢の乗客たちの間ですぐ隣に立っている若い女性の横顔が目に入った。彼女は静かに微笑んでいた。窓の外には小川が流れ、平穏な砂浜が広がっており、ポプラの木が川に沿って立ち並んでいた。二十代の私は、内気で人見知りだった。初対面の女性に声をかけるなんて想像すらできないことだった。そんな私が彼女に声をかけた。「笑顔が美しいですね。何を見て笑ったんですか」彼女が私に目をやった。「あそこの川辺の砂浜で小さい頃、水遊びしながらよく遊んだんですよ。友達やお婆さんのことも思い出したんです」彼女と私は終点で降りて、コーヒー一杯を一緒に飲んだ。幼

い彼女が水遊びをした故郷の地名が「砂平」ということをその時聞いた。砂平は砂の多い平和な江村だ。私はその頃書いた詩に砂平という印象深い地名を借用したのだ。当然この江村には鉄道駅がない。砂平の小さい川辺の村を歩くことから私の和順の旅は始まった。村は依然として美しかった。立葵と月見草、鳳仙花が咲いていた。ある農家の縁側でお婆さんが孫娘の爪をホウセンカで染めている。満員バスで出会った彼女も今は耳順を優に超えただろう。キジュトック(米粉にマッコリを入れて膨らませた餅)を売る餅屋の前に一群の人々が並んでいる。初めて会った彼らに「おはようございます!」と挨拶をしたらみんな笑顔で応じてくれる。歳月の川の神秘さよ、40年間以上すっかり忘れられていた彼女の名前がふと思い浮かんだのだ。私は彼らに彼女の家を知ってい

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るかと尋ねたが、実はそれは質問ではなくて歳月のため息交じりの独り言のようなものだった。和順という名前は「大地のオーラが和やかで風は至純だ」とい

う意味を盛り込んでいる。この世で気楽に人生を生きたいと思う人にとっては、この上なく恵まれた環境の地だ。先史時代の人々がこのような良い地の気運に気づかずにはいられなかっただろう。和順の南側の山の麓に位置した宝剣峙(ポコムジェ)周囲には596個のドルメンが密集している。2000年に世界文化遺産として指定されたこのドルメン群は、複数のドルメンが集まっている上、上石の採石場が一緒に発見され、ドルメンを作る作業が一目でわかるようなところだ。孝山里(ヒョサン二)から大薪里(テシン二)をつなぐ5kmのドルメン群落道は、世界でもっとも神秘的で審美的なトラッキングコースの一つとして位置づけられている。孝山里の入り口に車を停めてゆっくり歩く。近くて遠いドルメ

ンの姿が時空を超えて過去の空間に入り込むような気がした。先史時代の体験場が目に入る。このドルメンを建てた住民たち

の生き方が伺えるところだ。ここで発掘された土器の破片と種の年齢は2500年前後と記録は物語っている。櫛目文土器を眺めていたら、ふとその文様が詩の原型ではないのか、という気がした。文字が発明される前でも、人々に心はあったはずだから。ある日は悲しくて、ある日はさびしくて、またある日はうれしかったはずだから。その感情を櫛目文に刻んだならば、それこそ今私たちが言う詩のイメージになるのではないか。

ドルメン群と櫛目文土器 官庁(カンチョン)岩と呼ばれるドルメンの周りには合わせて

196個のドルメンが集まっている。隣接する宝城(ポソン)郡の郡守が和順を訪れてこのドルメンの上で役所の業務を行ったという逸話がある。宝剣峙(海抜188.5m)の頂上に位置した月淵岩のドルメン群落は、遥か昔の人々がこの峠を越える際に月光のように明るく峠道を照らしたという来歴がある。昔の旅人が月夜にこの峠を越える際、満月のように明るく輝くドルメンの姿は、それ自体で心の慰めとなったようだ。ピンメ岩のドルメンは、石

を投げかけるという意味がある。全長7m、高さ4m、重さ200トンを超えるこのドルメンは、世界一の規模を誇る。天井石の裏面を磨いた跡があり、支石で支えられている。支石と天井石の間に一定の空間があるという。ドルメンの上に位置した穴に左手で石を投げ込むと縁談が持ち上がるという伝説が伝わる。三神婆さん(サムシンハルミ:生命や生産の女神)と呼ばれ、韓国の歴史の誕生を司った麻姑婆さん(マゴハルミ)の家がここだったという伝説は、このドルメンの規模がどれだけ大きかったかを物語る。計133個のドルメンがピンメ岩の周りに集まっている。朝鮮王朝時代の勢力のあった驪興・閔(ヨフン・ミン)氏家は、このドルメンに自分たちの祖先が埋められた地

1 砂平(サピョン)村・堂山の木陰の下の東屋で村人たちがひと夏の暑さをしのぎながら談笑しいる。

2 雲住寺の臥仏は、座仏が12.7m、立像が10.26mにもなる巨大な仏像だ。大きな岩に仏像を彫刻した後、岩から仏像を取外そうとして失敗した痕跡が随所に見られ。ここに、二つの仏様が立ち上がる日に、新しい世界が開かれるという伝説が伝わる。

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細良池(セリャンジ)は、山桜の咲く春の風景が特に美しい。山一面がパステルカラーに染まった姿が水面に映って美しい絶景を作り出す。最近アメリカのCNNが選定した「韓国で必見の美しい50ヶ所」に含まれた。

だという文言を刻んだ。作業ツールもろくにない時代に、先人たちはどのような思いでこのつらく過酷な作業を全うしたのだろうか。カクシ岩の採石場とキムテ岩を眺めながら強い感動を覚えた。ドルメンの遺跡地から818番の道路を南西側に向かって18kmほど車を走らせると雲住寺に至る。韓国内の寺院の中でこれほど神秘なる履歴と伝説を持つ寺も珍しい。新羅末期、道詵(トソン)国師(新羅末期の僧侶)が一夜で千仏千塔を建てたという説と麻姑婆さんが作ったという説がある。15、6世紀までは、この寺に千個の仏塔と千個の仏像が存在したという記録があるが、1942年には石塔30基と石仏213座が残っていたという。現在は17

基の石塔の石仏70座が残っている。寺の入り口に入った瞬間から縁起の良いオーラに包まれる。小説家・黄晳暎(ファン・ソクヨン、1934~)と宋基淑(ソン・ギスク、1935~)は雲住寺をそれぞれの小説の背景にしたが、雲住寺を世の中に広く知らせた人物はドイツ人のヨアヒム・ヘルマン(JochenHiltmann)だ。ハンブルク国立音楽大学教授だった彼は、自分の父親を看護していた韓国人の看護士の献身的な看護に心を打たれて彼女と結婚した。ソン・ヒョンスクという名前の看護士は、ハンブルク国立美術大学を卒業して画家として大成し、帰国展示会も成功裏に終わった。

1980年代半ば頃、ソン・ヒョンスクの故郷である潭陽(タムヤン)でヘルマンに会った。潭陽の山の中にある妻の実家で長身の彼が土壁に作られたとても小さな竹のドアを開けて、前かがみになり出てくる姿がかなり印象深かった。彼は雲住寺が放つ「汎宇宙エネルギー」に魅せられ、3年間雲住寺の昔の姿を写真に収めた。さらに、そこの伝説と説話を理解するため、仏教と道学、風水まで勉強するに至った。1985年彼はドイツ雑誌『スプレン(Spuren)』に「Miruk, Die HeiligenSteine Koreas: 英文Miruk, The

Holy Stones of Korea」というタイトルで初めて雲住寺を紹介し、1987

年同じタイトルでフランクフルトのクムラン(Qumran)出版社から発刊した。この本は1997年学古斎(ハクコジェ:韓国の美術文化財専門出版社)から韓国語翻訳版が出版され知識人の間で韓国文化の歴史に対する深い反省を呼び起こした。雲住寺は私たちにとって何なのか、そのあり方を探し求める真剣な議論も行われた。彼は『Miruk』で「雲住寺が位置する千佛洞(チョンブルドン)は私を感動させる。どんな現代芸術作品もそれほど私を感動させたものはない」と綴っている。

山桜が咲き乱れる春の「日の出」直前に細良池を訪れると絶景を満喫できる。湖の上に水霧が出て、山桜の影がかかる地上は、もう一つの龍華浄土となる。ドルメンの中に横たわる人々が夢見た世界、雲住寺(ウンズサ)に千仏千塔を築いた人たちが長年夢見た世界に、しばしここで出会うことができる。

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雲住寺、千仏千塔の伝説を宿す谷雲住寺の境内でもっとも目を引いたのは、互いに背を合わせ

たまま仏龕の中に座っている仏様の姿と円盤模様の石で築かれた7階建ての石塔だろう。私はこの背面仏を見るたびに、何を象徴しているのか、と考えたりする。先を見据えて先へ進む者は悟りを開き、釈迦になれるだろう。円盤模様の石で築かれた塔は由来がないため、宇宙人の作品だという説まである。シャーマニズムと仏教が相接する接点をヒントにした石工の芸術的インスピレーションが読み取れる痕跡ではないだろうか。臥仏は雲住寺のシンボルだ。第一の釈迦といわれるこの仏様は、男女の姿で横たわっている。両仏像の頭が相接する地点には長い溝がえぐられているが、この溝は男女の生殖器模様にそれぞれ似ている。かなり以前に小説家の朴婉緖(パク・ワンソ、1931~2011)、李璟子(イ・キョンジャ、1948~)の両氏ととも

に臥仏に着いた時、李璟子氏が「ああ、居心地いいな」と言って、その溝に仰向けになったことが思い出された。太古から人々は、この臥仏が立ち上がる日には真の仏国土の国、龍華浄土に往生すると信じた。ヘルマンはこれを「敵対勢力と闘争し続けると同時に、怨恨を詩の力に昇華させた感動がある」と美しく記述した。私たち皆が、新しい世界を夢見て生きる限り、雲住寺の臥仏のイメージは私たちにとっていつまでも現在進行形だ。和順には、韓国の印象派画家の先駆者・吳之湖(オ・ジホ、

1905~1982)画伯の記念館がある。吳之湖の絵の中で私は少女像(1929)が好きだが、この作品の少女を見つめていると、祖母の顔を思い起こす。ドルメンに埋葬さられたある女性の頭像も、この少女に似ていたのだろう。千仏洞を訪れた先人たちの中にもこれと似た顔が多かったことだろう。

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ソウルでの勤務は今回が二度目だ。前回は2007年から約6年間勤務して、今回は2014年10月からの勤務となるので、通算で7年以上をソウルで過ごしたことになる。故郷の神戸を除けば、ソウルは私が最も長く暮らした街だと言える。まさに第二の故郷だ。今回ソウルで暮らしてみて

感じることは、前回に比べて韓国の日本への関心の割合が低下しているということだ。世界全体のグローバル化が進んでいることから、日本にとっても韓国にとってもお互いの関心の比重が相対的に下がることは当たり前と言えば当たり前の話で、そのことを強いて取り上げる必要はないのかもしれない。しかし、日韓両国の文化交流の促進を使命とするソウル日本文化センターをとりまく状況が変わっているなかで、日韓国交正常化50周年の節目の年に我々に何ができるのかあらためて考えてみたい。節目の年とはいえ、メディアを通して見る現在の日韓関係は、改善の兆しはあるものの、良好とは

言えない。ただ、メディアのなかで特に韓国の新聞記事の日本語版を読む際には注意が必要であることを指摘しておきたい。これだけインターネットが発達して日本語で韓国の新聞記事が読めるようになると、韓国に関心のある日本人はどうしてもそちらの記事に目が行ってしまう。しかしよく考えてみれば、韓国の新聞はあくまで韓国の国内向けに記事を書いているのであり、新聞各社は「日本」と比較することで韓国の人々に対し「もっとがんばろう」という意味の啓発を行っている場合が少なくない。韓国の新聞は日本人向けに書かれているわけではないにもかかわらず、日本語に翻訳されて日本人が読むことにより、韓国人向けに例えとして書かれている「日本」の記事が日本人には不快に思えてしまうのだ。このことが日韓関係悪化の一因になってはいないだろうか。さらに、ごく一部の反日的な事件であっても、メディアではそれだけが大きく取り扱われてしまうこともある。ソウルで長年暮らしていて、私自身が韓国人から反日的な態度をとられたことは一度もない。むしろ政治的な軋轢を迷惑に感じている人が多いくらいだ。ただ、日本に好意的な韓国人であっても公の場では日本を批判する場合が少なくない。韓国人も日本人と同様、本音と建て前を使い分けていると思うのだが、こういったことはメディアでは報道されない。だからこそ、日本人、韓国人それぞれが直接相手の国に行って互いの文化を肌で感じることが重要となってくる。いまや日韓の間では1年間に500万人の人々が往来する時代だ。日韓が国交正常化を果たした1965年当時は1年間の移動人口が1万人規模であったことを考えれば、実に500倍という変化だ。日韓の間では文化交流・民間交流が着実に拡大しており、現在は多様なチャンネルが存在しているとも言えそうだが、両国の人口を考えれば人々の往来にはまだまだ伸び代がある。国際交流基金は日本と世界各国との文化交流を推進し、

若者が開く日韓のこれからの50年のために

遠くの目

山崎宏樹やまさき・ひろき、国際交流基金ソウル日本文化センター 所長

いまや日韓の間では1年間に500万人の人々が往来する時代だ。日韓が国交正常化を果たした1965年当時は1年間の移動人口が1万人規模であったことを考えれば、実に500倍という変化だ。

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日本の友人を増やすことを目指しているが、そのためにはまず、日韓の間においても両国の人々がお互いの文化に直接触れる機会をもっと増やしていかなければならない。その意味で、国際交流基金では今年、50周年を記念した事業をいくつか実施している。例えば、日本の国立新美術館と韓国の国立現代美術館が共催し、国際交流基金と韓国国際交流財団が協力する「アーティスト・ファイル2015 隣の部屋⸺日本と韓国の作家たち」展は、日本(7月29日~10月12

日)と韓国(11月10日~2月14日)で開催される大型の展覧会で、日韓の新進気鋭のアーティスト各6

名が参加している。また、韓国でも人気のある作家・村上春樹を特集する事業も実施する。蜷川幸雄演出による舞台『海辺のカフカ』をLGアートセンターで11月24日から28日まで上演するとともに、11

月17日と18日には「村上春樹の世界―クラシック音楽、ジャズ、そしてビートルズ」を新村にあるクムホアートホール延世で開催する。若者の町・新村には、ソウル日本文化センターが運営する文化情報室もあり、日本関連図書やDVDなどを日韓両言語で紹介しているので、多くの方々に訪れてもらいたい。ソウル日本文化センターは50周年を契機に人材育成の面からの若者支援を強化することも考えている。日韓両国がお互いの関心の比重を下げたとしても、日本と韓国はアジアを代表する国々であり、両国が将来にわたってよりよい協力関係を築くことが世界的に見て重要であることに変わりはない。そして両国が将来にわたる協力関係を築くためには若者の力が必要だ。若手日本研究者の訪日支援や若手文化人対話事業など、若者を対象に幅広い分野でネットワークやパートナーシップが構築されるよう支援することで、日韓の間の相互理解と協力関係が進み、両国の間に横たわる問題が相対的に小さくなっていくことを願っている。日韓国交正常化50周年のキャッチフレーズは「共に開こう 新たな未来を」だ。新たな未来を切り開く若者たちのために我々は彼らが歩むべき道筋をつける努力をしなければならない。そして、若者たちならばきっと、我々の期待をはるかに超える新たな未来をつくりあげてくれるに違いない。

1 『海辺のカフカ』韓国公演ポスター2 ソウル日本文化センター文化情報室3 「アーティスト・ファイル2015 隣の部屋⸺日本と韓国の作家たち」日本展ポスター

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秋を代表する魚のチョノ(コノシロ)はそのまま網で焼いて食べるのが一番美味しい。朝晩、冷たい秋風が吹き始める頃になるとチョノも脂がのり、さらに香ばしくなる。

チョノ稲穂が色づくと旬到来

グルメを楽しむ

パク・チャニル朴賛逸、料理研究家、フードコラムニスト安洪范写真

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秋になると韓国ではとある魚に対するラブコールが始まる。マスコミで先を競うように季節の珍味としてこの魚を紹介し、人々の食欲を刺激する。それがチョノ、日本名コノシロだ。一年中、いろいろな魚を味わうことのできる韓国でこれほど一つの魚に熱狂するのも珍しいことだ。韓国人は昔

から全国どこでもイシモチ、サバ、サンマ、ニシン、メンタイ、イカのような魚を食してきた。しかしコノシロはこれまで広範囲で愛されてきた魚というわけではなかった。よって昨今のコノシロ人気はマスコミの報道が大きな影響を与えたものだと思われる。毎年、秋になると南海岸と西海岸の各地で開かれるコノシロ祭りのニュースが相次いで報道され、それが旅行客の足を向かせているのだ。

秋の代表的な魚となるまで、その人気の秘密韓国は四面が海に囲まれた半島だが、以前は海辺の産地以外の内陸部の大都市では旬の魚を食べるこ

とは難しかった。たとえばタラやニベは夏が旬の魚として知られているが、ソウルをはじめとする内陸部ではそれほど広く人気はなかった。反面、コノシロは秋の魚にもかかわらず大都市はもちろん全国的にその人気が広がった数少ないケースに属する。何よりもコノシロは値段が安く、調理も簡単だ。刺身にすれば刺身好きの韓国人の好みにピッタリだし、焼き物にすれば香ばしく脂ののった深い味が楽しめる。それに最近のマスコミの集中的な報道も一役買ったといえる。コノシロはだいたい大人の手の平よりは小さいが、時にはそれよりもさらに小さかったり、あるいは大きかったりする。秋の初めからくたくさん捕れるが、稲が黄金色に色づき頭を垂れる頃がコノシロの旬だ。コノシロは敏感な性質で捕まるとすぐに死んでしまうので、一昔前の都市では刺身で食べることが難しかった。しかし今日では生きたまま輸送する技術が発達し、また2000年代の初め養殖に成功したことで物流が大きく改善され、現在では大都市でもコノシロの刺身を食べることができるようになった。子供の頃にコノシロを食べて育った南の海岸都市出身の人々が、故郷を離れて都会にでてもコノシロを食べようとしたのだ。コノシロは増え続ける消費量に対応するために養殖が増えている。天然物はほとんど15cm前後で色も黄金色を帯びているのに比べて養殖のコノシロはサイズが少し小さく、背中の青い色が濃い。しかし味は天然物も養殖も区別がつかないほどだ。コノシロは澄んだ水よりも砂がたくさん混じった暗い海を好む。最近では水温の変化により東海岸でも捕れるが、やはり西海岸から南海岸へと続く海で多く捕れ、この地域では養殖も盛んだ。コノシロはだいたい秋が旬だというが、夏の終わり頃から市中に出始め10月末まで供給が続く。11月に入ると小骨が多くなり、コノシロの人気も落ちる。産地別に旬も異なり、慶南産は8月中旬から9月初旬まで刺身がお勧めだ。西海岸産は秋の最盛期10月に焼き魚にして食べるのが一番だ。

香ばしく脂ののった味が一品のチョノ(コノシロ)は刺身にしたり、焼いて食べたりいろいろな調理方法が楽しめる魚だ。朝鮮時代の実学者ソ・ユグ(徐有榘、1764-1845)によれば、身分に関係なく万人に好まれ、値段を問わずに買いあさったのでチョノ(銭魚)と呼ばれたという。捕まえるとすぐに死んでしまう性質で全国的な流通が難しかったコノシロだが、輸送手段と養殖技術の発達により今では秋の魚として多くの韓国人の舌を虜にしている。

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夏の終わりから秋の初めに市場に出回るコノシロは刺身で食べるのが一番だ。水がまだぬるく、まだまだ身に十分な脂肪がのっていないからだ。この時期のコノシロは味が淡白で骨が柔らかいので骨ごと背ごしにし刺身で食べると良い。…朝晩、つめたい秋風が吹き始めるころになると焼き魚にするのに格好なコノシロが出回り始める。

代表的な調理法夏の終わりから秋の初めに出回るコノシロは刺身で食べるのが一番だ。水がまだぬるく身にあまり脂が

のっていないからだ。この時期のコノシロは味がさっぱりしていて骨が柔らかく、背ごしにし刺身で食べるのが良い。別名「セコシ」とも呼ばれるコノシロの刺身は唐辛子味噌をつけてゴマの葉、青唐辛子、ニンニクなどと一緒に食べたり、いろいろな野菜と酢味噌和えにして食べる。全羅地方ではこれにゴマをたっぷりとかけてより香ばしい味を出す。秋が深まるとコノシロは体が大きくなり骨も固くなるので骨付きで食べるのには適さない。朝夕、冷たい北風が吹き始めると、焼き魚にするのにちょうど良いコノシロがたくさん市場に出回る。コノシロの脂はほとんどが不飽和脂肪酸で成人病を予防するEPAなどの成分を大量に含んでいる。秋になると脂肪酸の含量が3倍くらいまで高くなるが、これが香ばしい味の秘密だ。特に秋に焼いて食べるのに良いコノシロをトックチョノと呼ぶ。主に釜山と鎮海の沖で捕れるトックチョノは普通のコノシロよりも大きく顔が丸くて平たい。

「コノシロの頭にはゴマが三杯」とか、「コノシロを焼いた匂いに家出した嫁も帰ってくる」など、昔から民間に伝わる諺はコノシロの味をより魅力的に感じさせてくれる。また「コノシロは嫁が実家に帰ったときに密かに焼いて食べる」という話もコノシロが大衆に広く愛されてきた庶民的な魚であることを意味している。嗅覚を刺激するという意味のこのような諺はコノシロの味をより立体的に記憶させてくれる。特に炭火の上で網にのせて団扇で煽りながら焼いた分厚いコノシロの味はいつまでも忘れられない美味しさだ。コノシロの刺身は噛めば噛むほど香ばしく、淡白な味わいが口の中に広がる。特に秋の初めに捕まえた小ぶりのコノシロを骨ごと切って食べると、骨が奥歯に触れてサクサクした歯ざわりが感じられ食感も良い。南海岸の漁師たちはコノシロ漁に出かけてお腹が空いてくると「トンマリ(まるごと)」と言って小さなコノシロの内臓を取り除き丸ごと唐辛子味噌をつけて、あるいはキムチに包んで食べる。生で食べるコノシロは味覚だけでなく歯ざわりも重要だ。コノシロを十分に楽しむもう一つの調理法は塩辛にすることだ。コノシロの内臓を塩に漬けた塩辛は全羅道地方の料理の濃い味付けの決め手となるものだ。実学者の徐有榘はその農村経済政策書である『林園経済志』でもコノシロについて言及しているが、商人がコノシロを塩に漬けてソウルに持って行き売っているとある。脂ののったコノシロは非常に良い塩辛の材料だ。ソウルでも風味豊かなコノシロの塩辛を楽しみたいものだ。

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1 魚を三枚おろしにして刺身にするが、しかしチョノは骨付きのまま刺身にして食べる唯一の魚だ。初秋のチョノは骨が柔らかく淡白なので、背ごしにして、酢コチュジャンにつけて食べる。

2 チョノを食べる方法はいろいろとあるが酢であえて食べるのも人気だ。新鮮なチョノを食べやすい大きさに切って、そこにゴマの葉のような野菜と酢コチュジャンを入れて甘酸っぱく合えて食べる。チョノの淡白さと各種野菜の香りが合わさったその味は一品だ。

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韓国では朝起き抜けにコーヒーを飲む人が多い。モーニングコーヒーの習慣が身についてしまった人たち。出勤時にテイクアウトコーヒーを片手に出社し、食後、カフェに立ち寄ったり、インスタントコーヒーを飲んだりする人たちも多い。けだるい昼下がりの3~4時ごろになると、職場や家庭でもコーヒータイムを楽しむ。友達に会ったときもコーヒーを飲み、恋人たちのデートもカフェから始まる。

コーヒーの虜になった韓国人

ライフスタイル

キム・ヨンソプ金龍燮、鋭い想像力研究所長安洪范写真

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疾病管理本部の「2013年国民健康栄養調査」によると、韓国の成人が週単位で一番多く摂取する食品はコーヒーだ

った。ご飯は一週間に7回、白菜キムチは一週間に11.8回食べているのに対して、コーヒーは一週間になんと12.3回も飲んでいることがわかった。主食のご飯よりも、韓国を代表する伝統食品のキムチよりも、コーヒーが多く消費されているというわけだ。統計上で、韓国人にとって主な食文化といえば、最早キムチでもご飯でもなく、コーヒーと言っても過言ではない。私たちはいつの間にこのようにコーヒーにはまったのだろうか。

韓国のコーヒー史韓国に初めてコーヒーが伝わったのは1890年前後とされている。そのころコーヒーは「カビ」あるいは「カベ(咖啡)」と呼ばれ、西洋から入った湯薬のように苦い味の飲料、「洋湯グク(スープ)」とも呼ばれた。初めコーヒーは王室で楽しむ嗜好品だった。高宗(コジョン、1863~ 1907)が1896年、露館播遷(1896年2月11日~1897年2月20日、高宗がロシア公使館に移り朝鮮王朝の執政をとったことをいう)後、ロシア公使館でコーヒーを初めて味わったという記録がある。韓国初のバリスタは高宗にコーヒーを淹れていたフランス系ドイツ人、アントワネット・ソンタグ(Antoinette、Sontag)と推定される。駐韓ロシア公使のカール・ ヴェーバー( Karl I. Weber)

の親戚で、ソウルに住んでいたソンタグは高宗の信任と後援を得て1902年に西洋式ソンタグホテルをオープンした。ソンタグホテルは当時、外交中心街の貞洞(チ

ョンドン)に位置していたため、政治と外交の表舞台となった。このような理由からホテルではコーヒーが提供されていた。ソンタグホテルはその後、梨花学堂(梨花女子大学校の前身)の寮として使われだが撤去された。そこから最も近い梨花女子高100周年記念館には今もカフェが一つある。私はよくそこに足を運んでコーヒーを飲む。110年前にこの席でコーヒーを飲んだであろう人々に思いをはせながら……。韓国初の茶房(タバン)は、1909年南大門駅

(現在のソウル駅)に開店した「喫茶店」だが、「喫

茶店」は日本式表記を使ったタバンの元祖だ。当時、南大門には京義線(キョンイソン)の建設ブームに乗って多くの日本人が来ていて、そこにタバンができたものと思われる。韓国人が開店した最初のタバンは、1927年映画監督の李慶孫(イ・キョンソン、1905~ 1977)が鍾路区・寛勳洞に構えた「カカドュ」だ。韓国でコーヒーが大衆的に広がったのは1920年代以降だ。当時、明洞(ミョンドン)と 忠武路(チュンムロ)、鍾路(チョンノ)あたりにコーヒー販売店が続々とでき、人々が本格的にコーヒーを消費し始めた。

1920~ 30年代になると、知識人や芸術家たちがタバンを開店した。タバンは新しい文化を受け入れて人々の交流の場となった。小説家・李箱(イ・サン、1910~1937)は、芸者の錦紅(クムホン)と1933年鍾路1街清進洞(チョンジンドン)入口に「チェビ(ツバメ)」というタバンをオープンした。劇作家の柳致眞(ユ・チジン、1905~

1974)は小公洞(ソゴンドン)に「プラタナ」を、映画俳優の卜惠淑(ポク・ヘスク、1904~ 1982)は仁寺洞(インサドン)で「ヴィーナス」というタバンをそれぞれ営んだ。王室の嗜好品として、知識人や芸術家たちの文化として受け入れられたコーヒーは上から下へ、贅沢品から大衆化に根を下ろした文化だ。したがって、初期のころには値段も馬鹿にならないほど高かった。依然として韓国では、会社や家に客が訪ねてくるとコーヒーでもてなすことがマナーとなっている。

あなたの好みのコーヒーはどんなタイプ?韓国のコーヒー文化は1960年代のタバンコー

ヒー、1970年代のインスタントコーヒー、1980

年代スティックコーヒー、1980年代カフェ、2000年代はコーヒー専門店がリードした。また2000年代以降はドリップコーヒー、エスプレッソマシン、カプセルコーヒーマシンなどの使用が増加し、コーヒー消費が一層多様化した。よりおいしいコーヒーを飲むために、家庭で自らコーヒー豆を焙煎したり、自家焙煎コーヒー豆を購入しコーヒー豆を挽いて飲む人たちもいる。高価なエスプレッソマシンを買うなど、コーヒー器具にも興味を持つ人たちが増えたかと思えば、コーヒーについて学習する人たちも増えてバリスタ資格を持

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っている人も多い。しかし依然として、ミルクと砂糖入りのスティックタイプのインスタントコーヒーを飲む人たちも多い。紙コップ式の自販機コーヒーも今なお存在し、世界的なコーヒーチェーンも依然根強い人気がある。現在コーヒーショップは、全国で約3万軒に上

る。コーヒーショップは魅力的な空間だ。コーヒーとともにスペースまで買うことができるからだ。Wi-Fiスポットも増えてきているため、コーヒー一杯の価格で何時間でも「サランバン」にもなり、オフィスにもなってくれる。おかげさまでカフェをオフィス代わりに使う、いわゆる「コフィス(Coffice)族」も急増している。コーヒーの高級化で忘れかけられたようなコー

ヒー自販機も韓国内に依然4万個程度残っている。

90年代には、自販機コーヒー一杯の値段が100

ウォンくらいだったから、一枚のコインでもコーヒーを十分楽しめたわけだ。最盛期に比べて半分以下に減ってきてはいるものの、コーヒー自販機は今なお私たちがコーヒーを消費する手段の一つだ。さらに、コーヒーショップ全体の市場規模よりインスタントコーヒーや缶コーヒーをはじめとするコンビニコーヒーなどが占める市場規模の方がはるかに大きい。市場調査会社の調査によると、2012年ベース

でインスタントコーヒーとコンビニコーヒーの市場規模は2兆2千億ウォン弱であるのに対して、コーヒー専門店の市場規模は1兆5800億ウォンだった。これは今でも多くの人たちが日常的に安くて手軽に楽しめるインスタント・スティックコーヒ

私たちにとってコーヒーは単なる嗜好品ではなく、コーヒーを飲む場所が与える意味も大きい。20世紀初め、西洋文化の伝播とともにタバン(茶房:韓国の昔なじみの喫茶店)は韓国伝統のサランバン(出会い、集いの場)の役割を受け継いできた。休戦直後の1953年ソウルに214ヵ所、1960年には1041ヵ所のタバンがあった。コーヒーのみならず、双和湯(サンファタン:韓国の代表的な漢方茶)を初め、韓国伝統茶も多く売れたことからすると、人々がコーヒーという新しい飲み物に限らず、社交や文化的な空間としてタバンを好んでいたものと思われる。

1 ソウル弘益大学校近くのあるカフェでは直接コーヒーを焙煎する。このカフェではコーヒーを炒る際、伝統的な方法にこだわって古い機械を使う。目で見て、香りを嗅ぎながら、自分の飲むコーヒーについてより詳しく知ってもらいたいという店主の心が込められている。

2 捨てられた靴工場の内部空間を改造して開店したカフェの2階で客がコーヒーを飲んでいる。

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韓国の文�と芸� 69

ーを好んでいるということをうかがわせるものだ。韓国のスティックコーヒーは、海外でも品質が認められて大きな人気を博している。

韓国人にとってコーヒーの持つ意味韓国人が特にコーヒーにこだわるのはカフェイ

ン効果のためだという分析がある。夜勤が多く、寝る時間を惜しんで勉強することを美徳としている韓国人にとって、コーヒーは朦朧とした意識を覚醒させるだけでなく、やる気を出させるカンフル剤のような役割をしているのだ。私たちにとってコーヒーは単なる嗜好品ではな

く、コーヒーを飲む場所が与える意味も大きい。20世紀初め、西洋文化の伝播とともにタバン(茶房:韓国の昔なじみの喫茶店)は韓国伝統のサランバン(出会い、集いの場)の役割を受け継いできた。1953年の休戦直後に214軒、1960年には1041軒のタバンがあった。コーヒーのみならず、双和湯(サンファタン:韓国の代表的な漢方茶)を初め、韓国の伝統茶も多く売れたことからすると、人々がコーヒーという新しい飲み物に限らず、社交や文化的な空間としてタバンを好んでいたものとみられる。文献によると、1909年安重根(アン・ジュングン、

1879~ 1910)義士が、ハルビン駅で伊藤博文(1841~ 1909)を暗殺する直前に待機していたところもタバンであり、韓国現代史の民主化運動や政治的に大きな事件の場所としてもタバンがよく登場する。1980~90年代、大学街にも多くのタバンがあった。仕切りの高いタバンに立ち込めるタバコの煙の中で、大学生たちが政情や愛について話し合った時代だった。私たちにとってコーヒーはもはや単なる飲料ではない。日常の憩いと、浪漫と思索の時間を与えてくれる魅力的な必須品となった。ここ数年間で急増した若者に人気のマカロン、チョコレート、ケーキ、アイスクリームなど、高級スイーツ旋風も急増するコーヒーの消費に支えられたところが大きい。スイーツとコーヒーの相性が抜群だからだ。韓国人は1秒に728杯のコーヒーを飲んでいる。

これを年間に換算すると、229億杯に上る。あなたがこの文章を読んでいる今も多くの韓国人がコーヒーを淹れて、コーヒーを味わい、コーヒーを前に誰かとおしゃべりをしているだろう。コーヒーにはまった韓国人のコーヒートレンドは、これからも続くことだろう。

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84 Koreana 秋号 2015

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