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Text : Kengo HayashiPhoto : Kengo Hayashi
Illustration : Kengo Hayashi + Yutaka Mimura
膨張するポスト・コロニアルシティ
jakarta indonesia
INDONESIA
Urban wisdom databaseThe Whole Earth Urban Historical Research Project
Reference
JAKARTA
(万人)
DKI JAKARTA( 現在)
Historical GrowthofJAKARTA*5
20 世紀初頭
19世紀
17 世紀18 世紀
1950 年
1940 年Average Temp*2
DKI JAKARTA
DKI JAKARTA
17 世紀に交易センターとして拡張をはじめた植民地都市ジャカルタは、戦後、国民国家の首都として、人口を吸収し、巨大化を続けている。
N
km0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
Area*3
Population*1
8,389,443
740.29
Annual Rainfall*4
1
0
℃
10
20
30
40
2 3 4 5 6 7 8 9 10 11
Daily Maximum
Daily Minimum
12
mm 1
200
400
2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
(年)
都市の拡充(高度成長期)
10.1 10 100 1000
1650
1600
1700
近世
近代
現代
1750
1800
1850
1900
1950
2000
2050
1699 年の地震によるチリウン川の排水の悪化、人口の密集などにより、衛生状態が悪化し、疫病が流行。 とりわけ、1730 年以降、海岸沿いに魚の養殖池がつくられたことで、マラリアが蔓延する。[Fig.2] このため、多くの人が南へと移住し、市内人口は減少した。 さらに、1740 年に中国人虐殺事件が起こり、以後、城壁外に華人の居住区が制限されたことも人口減少の一因である。
交易センターから近代的な植民地行政都市へと、漸次、都市の性格を変貌させていく。 電報業務の開始、鉄道の敷設、蒸気船寄港に備えた近代港湾の建設、市内路面電車の開通など、各種インフラ事業が、次々と開始される。さらに、植民地行政官や技術者養成のための学校制度の導入が図られる。 このように、20 世紀の経済成長を生み出すための基盤が成立した。[Fig.4]
環境が悪化した城壁内から、南部のウェルトゥフレーデンへと市域を拡大。それに伴って、新たに要塞、政庁庁舎などを建設し、行政センターを移転する。その際、資材不足のため城壁内の建物を破壊して南部へと運び、利用する。[Fig.3] この市域拡大に伴って、市内人口が増加するが、市域周辺部への移動は、19 世紀を通しても、引き続き行われる。
香辛料などの資源の分配を独占的に行うためのアジア交易の軍事、行政センターとして、港町スンダクラパ(現ジャカルタ北岸)が注目される。 その結果、オランダ東インド会社の総督に就任したクーン(Jan Pieterszoon Coen)によって、城壁都市がつくられる。[Fig.1] チリウン川を中心に堀を巡らし、城壁および5つの水門が建設された。城壁内が市内とされ、外部から多様な民族が流入し、人口が増加する。
ヨーロッパ人向けに、水道の整備や住宅地開発など公共サービスの充実が図られ、それに伴い、市域も南西部へと拡大する。 旧城壁内は、19 世紀を通して空洞化していたが、この時期には、金融や貿易関係の企業、外国領事館が建ち並ぶオフィス街として再び栄える。路面電車を使った南部の住宅地からの通勤が行われるなど、都市内の機能分化が進む。[Fig.5]
独立後、農村より生活の安定を求めて人口集中が起こる。1960 年以降は、首都開発が盛んになされ、南東部を主としながら、これまでの市域を中心に同心円状に都市域が拡大していく。[Fig.6] その結果、ますます人口集中が助長され、スクウォッターの形成など、環境の悪化が慢性的な問題となる。 1973 年には、都心の人口集中を抑止するため、ジャカルタ周辺域も含めた「ジャカルタ広域都市圏構想=ジャボタベック構想」をまとめ、さらに広域で都市化が進められていく。
約 50km四方の大都市圏ジャボタベックは、現在では、交通網が整備され、都心と往復可能な通勤圏となっている。その結果、人口は 2000 万を超え、ますますジャカルタの一極化は、進行している。[Fig.7] また、ジャカルタ都心部の人口も 800 万人以上の人口を抱え、将来的にはメガシティになることが予測されている。 このような人口増加の中で、交通渋滞などの都市機能の麻痺、スプロールによる自然破壊、洪水、貧困層の劣悪な居住区などの都市問題が発生している。
1.Badan Pusat Statistik, Indonesia, Population census 20002.World Meteorological Organization, World Weather Information Service, http://www.worldweather.org/043/c00310.htm3.Departemen Dalam negeri Republik Indonesia4.World Meteorological Organization, World Weather Information Service, http://www.worldweather.org/043/c00310.htm5.Landsat TM 1989/05/03 (東京大学生産技術研究所、竹内研究室所蔵をもとに村松研究室作成)6. 都市史図集編集委員会編『都市史図集』、彰国社、19997.P.H.van der Brug, Malaria in Batavia in the 18th century, In Tropical Medicine and International Health, Sep. 1997, pp.892-9028.Koninklijk Instituut voor de Tropen9.Koninklijk Instituut voor de Tropen10.Koninklijk Instituut voor de Tropen11.Christopher Silver, Planning the Megacity: Jakarta In the Twentieth Century, 2008, p3712.Christopher Silver, Planning the Megacity: Jakarta In the Twentieth Century, 2008, p232
(2000)
膨張する都市圏(高度成長期)
1990-2008 年
一極化する首都(成長期)
1950-1990 年
1900-1940 年
都市機能の変容(高度成長期)
1850 年-1900 年
都心の移転(成長期)
1808-1850 年
疫病の流行(衰退期)
1700-1800 年
交易センターの成立(成長期)
1619-1645 年
Fig.8 ジャカルタ周辺地域の人口増加率 *12
Fig.1 バタヴィア、1629 年 *6 Fig.2 北部の海岸沿いの養殖池、1788 年 *7
Fish pond
Fig.3 バタヴィア、1853 年 *8
トラム
Fig.4 バタヴィア、1887 年 *9
Fig.5 トラム網、1939 年 *10
Fig.7 17 世紀から 1960 年代に至る都市成長 *11
km2
人