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ケーススタディ ~その 2~ 1

ケーススタディ ~その2~sdmogikoku2005.run.buttobi.net/bg5.pdf · 1、East Timor 1)地図 2)基礎データ 人口 約92.5万人(04年) 首都 ディリ 人種

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ケーススタディ ~その 2~

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1、East Timor

1)地図

2)基礎データ

人口 約 92.5 万人(04 年)

首都 ディリ

人種 テトゥン族等大半がメラネシア系種族で、その他マレー系、中華系等。

言語 国語は、テトゥン語及びポルトガル語。実用語に、インドネシア語及び英語。その他

互いに異なる種族語が使用されている。

宗教 キリスト教 99.1%(大半がカトリック)、イスラム 0.79%

略史 16 世紀以前 リウライ(王)が割拠する王国乱立。

16 世紀前半 ポルトガル、東ティモールに白檀を求めて来航、ティモール島

を征服。

17 世紀半ば オランダ、西ティモールを占領。

1701 年 ポルトガル、ティモール全島を領有。

1859 年 リスボン条約で、ポルトガルとオランダの間でそれぞれ東西ティ

モールを分割。

1942 年 日本軍、ティモール全島を占領

1945 年 インドネシア共和国独立(8 月 17 日)。西ティモールはインドネ

シアとして独立。

1974 年 ポルトガル本国でクーデター発生、植民地政策を転換。東テ

ィモールでは、独立をにらんで政党が結成される。

1975 年 独立派(フレテリン等)、東ティモール民主共和国の独立宣言。

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インドネシア国軍及び併合派と独立派の間の抗争が激化。ラ

モス・ホルタ、マリ・アルカティリらは、フレテリンの海外支部を活

動拠点とする。

1976 年 インドネシア政府、東ティモールを第 27 番目の州として併合。

フレテリンの軍事部門であるファリンティルがゲリラ活動を展開。

1981 年 ファリンティル司令官にシャナナ・グスマンが就任。独立各派の

統合組織である民族抵抗革命評議会(CRRN)が発足、シャ

ナナ・グスマンが議長に任命される。(その後、1992 年にマウベ

レ抵抗民族評議会(CNRM)に転身、1998 年にティモール抵

抗民族評議会(CNRT)となり、2000 年に解散。)

1991 年 11 月 サンタクルス事件

1992 年 11 月 シャナナ・グスマン司令官逮捕。(99 年 9 月に釈放)

1998 年 5 月 スハルト・インドネシア大統領が退陣、ハビビ副大統領が大統

領に就任。

1999 年 6 月 国連東ティモール・ミッション(UNAMET)設立の国連安保

理決議を採択。

8 月 30 日、直接投票実施

9 月 4 日の結果発表直後から、右結果に反対する勢力の破壊・暴

力行為が急増し現地情勢は急激に悪化。

15 日、国連安保理が多国籍軍(INTERFET)の設立を認め

る決議 を採択。

10 月 20 日、インドネシア国民協議会は東ティモールの分離を認める

決定を採択。

25 日、国連安保理は国連東ティモール暫定行政機構

(UNTAET)の設立を決定する決議を採択。

2000 年 7 月 東ティモール暫定政府(ET TA)発足

10 月 国民評議会(National Council)発足

2001 年 8 月 30 日憲法制定議会選挙実施

9 月 20 日 東ティモール行政府(ETPA)発足

2002 年 3 月 22 日 憲法公布

4 月 14 日 大統領選挙実施、シャナナ・グスマン氏が当選

5 月 20 日 東ティモール民主共和国独立

9 月 27 日 国連加盟

3)地域機構および国際機関の取り組み&当該事例の特徴

【ポルトガルの撤退から多国籍軍受け入れ表明まで】

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もともと東ティモールはオランダに統治されていた周辺の地域とは異なり、ポルトガルの植民地でした。

1970 年代初め、ポルトガルが独立までの具体的なプロセスを定めないまま非植民地化を進めたため、こ

の地域に政治的な空白が生まれます。1975 年に社会主義勢力によって「東ティモール民主国」の独

立が宣言されますが、自国領に囲まれた地域に社会主義国家ができることを好まない当時のインドネシ

ア・スハルト政権は武力侵攻を開始し、1977 年に東ティモールを 27 番目の州とする併合宣言を行いまし

た。冷戦終結後もスハルト政権は独立派にたいする弾圧をゆるめませんでしたが、隣国オーストラリアがこ

の併合を黙認していたこともあり国際的な批判が高まることはありませんでした。しかし、ディリ事件1や独立

運動指導者のノーベル平和賞受賞2などを契機に世界の注目が同地域に集まり、この問題の解決を求

める声が強くなりました。1998 年、スハルト退陣3を受け新たに就任したハビビ政権は、軍事費等のコストが

かかるこの問題の構造的解決を図り、就任直後に東ティモールを軍事・外交以外の自治権を大幅に認

める「特別州」へと転換する方針を示し、駐留軍の削減等に着手しました。

1999 年 1 月 27 日、ハビビ政権は、インドネシアの枠内で大幅な自治権を与えることを盛り込んだ政府

提案を受け入れないなら、インドネシアからの分離独立を認める方向で 10 月の国民協議会に提案する、

という閣議決定を行いました。この決定は、独立運動を行ってきた現地の勢力や当地での人権侵害に批

判的だった国際社会に「独立容認」の表明として歓迎された。しかしインドネシア政府としては当初から独

立付与を前提としていたわけではなく、独立運動の沈静化を条件に大幅な自治権を得るか、もしくはゼロ

から独立を目指すかという選択を住民に迫ることで、独立に伴うコストを自覚させ、自主的な残留表明の

言質を取ることが狙いでした4。したがって、住民に対して直接的に意思確認を行うことなどは想定されて

いませんでした。

1 月の閣議決定を受け、国連が仲介するインドネシアとポルトガルの協議が 2 月から再開され、自治案

の内容および自治案を受け入れるか否かの住民の意思確認の方法について話し合われました。当初、

強硬に反対していたインドネシア政府も 終的には住民投票の実施に合意し、8 月 8 日(後に 8 月 30

日に延期)に投票日が設定されました。これを受け安保理は直接投票を実施する国連東ティモール・ミッ

ション(UNAMET)を設立しました。しかし、1 月の閣議決定後から加熱していた現地の独立派と併合派

の対立が、この合意を受けてさらに激化し、投票日まで武力抗争は続くこととなります。

1999 年 8 月 30 日の住民投票は、国連東ティモール支援団(UNAMET)によって準備され、ほぼ

順調に行われました。結果は 78.5%の住民が自治案に反対、21.5%が自治案受け入れに賛成でした。

ハビビ大統領はこの選挙結果の受け入れを表明し、安保理をはじめとする国際社会も投票の有効性を

認めたため、東ティモールの独立は確定的となりました。

しかし、現地の併合支持派は選挙結果を受け入れず、破壊行動を激化させました。投票直後から併

合派民兵による殺害、放火、略奪が起こり、東ティモール全域が騒乱状態に陥りました。この併合派民

1 1991 年、独立派勢力に対してインドネシア国軍が発砲、200 人近い犠牲者を出した。 2 独立運動指導者のカルロス・ベロ司教(カトリック教会)と、独立運動の対外的スポークスマンであるジョゼ・ラモス・ホル

タが 1996 年にノーベル平和賞を受賞した。 3 1998 年のインドネシアの政局に関しては「アジアの安全保障 1998-1999」(平和安全保障研究所編)P28 以下「焦点

二 インドネシアの経済・政治危機」を参照。 4 ハビビ政権のアラスタ外相は、自治提案が拒否されるか暗礁に乗り上げるかすれば、分離独立を国民評議会に提案す

るのが民主的であり、住民投票の実施は内戦や紛争の原因になるので好ましくない、と政府決定の趣旨を説明している。

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兵にインドネシア国軍の一部が武器を供与し、さらには加担している5との情報が国連の関係者などからも

報告され、国軍への信頼は失墜していきました。当初、インドネシア政府は自力での治安回復を目指し国

際社会もそれに期待していました。しかし、事態に好転する兆しのないまま国軍関与の報告が重ねられ、

次第にインドネシア政府に対し多国籍軍受け入れの要求は強まりました。9 月 12 日、インドネシア政府は

多国籍軍の受け入れを正式に表明しました。

【INTERFET と UNTAET】

インドネシア政府が多国籍軍受け入れを表明したことを受け、安保理は9月15日に東ティモール国際

軍(INTERFET)の派遣を承認する決議を全会一致で採択しました6。INTERFETは国連憲章第 7

章にもとづいて活動し、PKFがその任務を引き継ぐまで現地に配備されるとされ、その後併合派民兵の

掃討と武装解除を進め、約一ヶ月でほぼ全域を制圧しました。一方、インドネシアの国民評議会は、10

月 20 日に東ティモールを 27 番目の州とした 1978 年の国民評議会決議を無効とし東ティモールの独

立を承認しました。これを受けて安保理は 10 月 25 日に国連東ティモール暫定統治機構(UNTAET)

の設置決議案を採択しました7。2001 年 8 月 30 日、憲法制定議会議員選挙が実施され、その後 2002

年には憲法制定議会による憲法制定、大統領選挙(4 月 14 日)を経て国連による暫定統治は終了し、

同年 5 月 20 日に東ティモールは独立しました。そして、独立により任務が終了するUNTAETに代わり、

東ティモールの安定と行政能力の確保、及び法の執行への支援と治安維持への貢献を目的に、軍事、

警察分野に加え、民政部門を含むUNTAETに比べ規模の縮小された国連東ティモール支援団

(UNMISET)が設立されました。

独立後の東ティモールの歩みは順調とは言えず、政治、経済面で解決すべき問題が山積しています。

また、西ティモールからの旧併合派民兵の流入、及びそれらのゲリラ活動も深刻であり、引き続き国際

社会の支援が求められています。

【UNTAET と UNMISET】

以下、東ティモールに派遣された国連のミッションに関して、説明を加えたいと思います。

・国連東ティモール暫定統治機構(UNTAET:United Nations Transitional Authority of East

Timor)

UNTAET は東ティモールの全体的な行政に対して責任を持ち、すべての立法権と行政権を行使す

る権限を与えられています。その規模は、軍事要員 6,281 人、文民警官 1,288 人、軍事監視要員 118

人、国連職員 737 人、現地文民スタッフ 1,745 人で、本部はディリにおかれました。その職務権限は、

以下のようなものです。

・安全を提供し、東ティモール全域に法と秩序を維持すること。

5 1999 年の閣議決定まで、併合派住民を動員して民兵を組織することはインドネシア国軍の情報機関にとって通常の任

務であった。この関係は政府の方針が変化した後も容易には変わらず、政府・国軍幹部・現地部隊の間で意思統一がう

まく行われなかった。 6 S/RES/1264、SC/6727、S/PV.4045 参照 7 S/RES/1272

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・効果的な行政を確立すること。

・民間及び行政サービスの発展を援助すること。

・人道援助やリハビリ、開発援助の調整およびそれらの送達を確実にすること。

・自治のための能力開発を援助すること。

・持続可能な開発のための状況の確立を援助すること。

・国連東ティモール支援団(UNMISET:United Nations Mission of Support in East Timor)

UNMISET は、国連東ティモール暫定行政機構(UNTAET)の後継ミッションとして設立されました。

その規模は軍事要員 469 人、軍事監視要員 41 人、文民警官 135 人、国連職員 264 人、現地スタ

ッフ 523 人、国連ボランティア 100 人で、本部はディリにおかれました。その職務権限は、以下のようなも

のです。

・日常生活および東ティモールの政治的安定性に必須の行政組織に援助を提供すること。

・暫定的法の執行および治安の維持を提供し、新たな東ティモールの法執行機関および東ティモー

ル警察の展開を援助すること。

・東ティモールの対外的、対内的安全の持続を与えること。

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2、Liberia

1)地図

2)基礎データ

人口 約 340 万人(2003 年/世界人口白書)

首都 モンロビア(MONROVIA)

人種 ゴラ族、クペレ族、クル族、バサ族等 16 部族

言語 英語(公用語)、その他各部族語

宗教 国民の 90%が原始宗教、その他にキリスト教とイスラム

略史 19 世紀初頭 アメリカより解放された奴隷の移住地として発展

1847.7 アフリカ 初の共和国として独立

1971.7 トルバート大統領就任

1980.4 ドゥ曹長クーデターにより国家元首に就任

1985.10 総選挙によりドゥ元首大統領に選出される(民政移管)

1988.3 政府転覆未遂事件発生

1988.7 〃

1989.12 内戦勃発

1990.9 ドゥ大統領殺害

1995.8 アブジャ合意(全紛争当事者 8 派)

1996.8 新たな和平プロセス日程合意(~97 年 6 月までの 9 ヶ月延

長)

1997.8 大統領・副大統領・上院・下院選挙

第 3 共和制発足(チャールズ・テイラー大統領就任)

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1998.10 ECOMOG(ECOWAS 監視団)、和平を目途に完全撤退

2002.2 反政府勢力(LURD)が蜂起

2003.6 反政府勢力、LURD「リベリア和解民主連合」及び MODEL

「リベリア民主運動」が蜂起、首都モンロビアに進攻

17 日、政府と反政府軍による停戦合意署名(於:ガーナ)

2003.8 テイラー大統領、ナイジェリアへ亡命

ECOWAS による ECOMIL 軍の派遣

18 日、包括和平合意締結

2003.9 国連安保理決議 1509 による UNMIL(国連リベリアミッション)

の設置

2003.10 移行政府発足(ブライアント移行政府議長就任)

3)地域機構および国際機関の取り組み&当該事例の特徴

【独立からテイラーの大統領就任まで】

リベリアは 1822 年からアメリカの解放奴隷によって入植が開始8され、1847 年にアフリカ初の共和国と

して独立しました。以降、少数の入植者の子孫(アメリコ・ライベリアン)が、人口の 95%を占める現地住

民を差別的に支配する体制が続いていました。

1980 年 4 月 12 日、クラン族とギオ族を中心とする人民救済評議会(PRC)がサミュエル・ドゥに率いら

れて軍事クーデターを起こし、アメリコ・ライベリアンの支配体制は打倒されました。現地住民による新たな

政権の誕生に国民は多くの期待を寄せましたが、ドゥ政権はクラン族のみを重用し、他の民族を迫害する

こととなります。ドゥ政権は 1980 年 4 月 25 日に憲法を停止して軍法を制定し、PRCの任命した新憲法

起草委員会に作成させた新憲法案に対する国民投票を 1984 年 7 月 3 日に実行しました。しかし、一人

に有権者登録を何回でも認めるなどの不正を行っても新憲法案可決に必要な 3 分の 2 以上の票を取

れず、有効者投票数を当初より 30 万票減らす訂正発表により数合わせがなされました。新憲法のもとで

暫定大統領となったドゥは、1975 年 10 月に大統領選挙と総選挙を実施しますが、ここでも数々の不正9

が行われました。こうして、民政移管のためであった憲法の制定および選挙を通じてもドゥ政権の独裁軍

事政権としての性格は変わらないままでした。また、クーデターの未遂も再三起こり、その首謀者の出身

民族に対する略奪、虐殺なども行われました。

1989 年 12 月 24 日、チャールズ・テイラーに指導されたリベリア民族愛国戦線(NPFL)がコートジ

ボワールから侵攻を開始します。NPFLはドゥ政権に抑圧されていたギオ族やマノ族の支持を得て勢力を

8 リベリアは約3百ドル分の物品でシエラレオネから購入された。しかし現地の住民は言語の問題などからわずかな物品で

土地を売却したという事実を理解できていなかったこともあり、彼らを「土民」や「野蛮人」という蔑称で呼んでいたアメリコ・

ライベリアンとの間で衝突が絶えなかった。 9 指摘されているものとしては、1)正規の選挙管理委員会ではなくドゥの出身部族で構成された新設の特別選挙管理委

員会(SECOM)により選挙が管理されたこと、2)有力な大統領候補を擁する政党の登録が妨害されたこと、3)法令で

は予定されていない投票所での投票がSECOM職員の承認のもと行われたこと、4)投票箱が操作され持ち去られ取り替

えられ焼却されたこと、5)SECOMは開票に二週間かかると発表し、しかも開票はドゥ支持者から構成される新設の開票

委員会により集中的になされたこと、があります。

8

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拡大しました。さらに、NPFLで内部分裂が起こり、プリンス・ジョンソンがリベリア独立民族愛国戦線

(INPFL)を組織します。NPFLとINPFLは1990年の7月には首都モンロビア以外を制圧しました。モン

ロビアでは女性や子どもを含め、テイラーのNPFLはクラン族を、ドゥのリベリア国軍(AFL)はギオ族とマ

ノ族を殺害し、これにINPFLが加わるという内戦状態に陥り、これによって大量の難民が近隣諸国に流

出しました。

1990 年 5 月 28~30 日に開催された西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)の 高会議で、1978

年の不可侵議定書に基づき10常設仲介委員会が設置され、1990 年 8 月7日に和平プランを提示する

とともに、その中でECOWAS監視団(ECOMOG)の設立を決議しました。AFLとINPFLは停戦を受け

入れましたが、NPFLはそれを拒否し、テイラーを大統領とする暫定政府の樹立を宣言しました。さらに

NPFLの提案を取り入れた妥協案も拒絶され、ECOMOGは停戦合意のないまま 8 月 24 日から展開を

開始することとなりました。

常設仲介委員会は 8 月 27 日、17 の政治勢力を召集して全リベリア会議を開催しました。これにより、

ガンビアに暫定政府を置いていたエイモス・ソーヤーを暫定大統領、テイラーを議長、ジョンソンを副議

長とする国民暫定政府(IGNU)が樹立されました。しかし、この会議に代表者を送らなかったNPFLは同

政府を承認せず、ECOMOG派遣を強く非難しました。これによりソーヤーの暫定政権を支持していたリ

ベリア民主統一戦線(ULIMO:旧政府軍の関係者から構成)はNPFLと対立せざるを得ない状況とな

りました。1990 年 9 月 10 日、ドゥ大統領がINPFLによって殺害11され、またECOMOGとNPFLの間の

戦闘は激化しました。

1991 年 10 月 30 日、コートジボワールの首都ヤムスクロでソーヤーとテイラー出席のもと、五カ国委

員会(ガンビア、トーゴ、セネガル、ギニアビサウ、コートジボワール)の仲介で、選挙過程の検証、各紛

争当事者の武装解除などについて定めたヤムスクロ和平協定が締結されました。しかし、NPFLは再び

協力を拒否し、内戦は激化します。ECOWASはNPFLをヤムスクロ協定に従わせるため、NPFLに対し

武器禁輸措置とNPFL支配地域の生産物の加盟国への輸出禁輸措置をとり、安保理は 1992 年 11

月 19 日にECOWASに対するものを除きリベリアに対する武器禁輸を決定する決議を採択しました12。

1993 年 7 月 25 日、国連とアフリカ統一機構(OAU)の支援のもと、IGNUとNPFL、ULIMOとの間

で、国連監視団に監視された停戦、各派の武装解除などを約束しヤムスクロ協定を再確認するコトヌー

協定が結ばれました。これに対し安保理は 9 月 22 日、安保理決議 866 を採択してコトヌー協定の軍事

的側面を実施するためECOMOGと協力して任務を遂行する国連リベリア監視団(UNOMIL)を設置し

ました。

しかし、和平協定の実施は大幅に遅れ、停戦は頻繁に破られ、当事者は内部分裂を繰り返し、

UNOMIL は職務権限の延長を余儀なくされます。その後、ECOWAS 議長の仲介により武装解除の

交渉が進められ、1994 年 9 月 12 日にアコソンボ協定、12 月 21 日にはアクラ協定、1995 年 8 月 19

10 ただし、その根拠とされた不可侵議定書第5条2項は「加盟国間の紛争」に関する規定であり、内戦に対する常設委

員会の権限は 初から疑問であった。 11 1990年9月9日、ECOMOG本部を訪問しようとしたドゥは同本部前でINPFLに連れ去られ、翌日惨殺された。以降、

AFLはニメリー将軍に指揮されることとなった。 12 S/RES/788

9

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日にアブジャ協定が結ばれ、紛争当事者は停戦と一年以内の総選挙に合意しました。また安保理は

1995 年 11 月 10 日、UNOMIL の職務権限に若干の修正を加えました。

大統領選挙および総選挙は 1997 年 7 月 19 日に実施され、大統領選挙ではテイラーが圧勝し、議

会は国民愛国党(NPP、旧 NPFL)が第一党となりました。この選挙は自由、公正かつ信頼にたるもの

であったと評価され、UNOMIL はその役割を終え、1997 年 9 月 30 日までに完全撤退しました。

【テイラー政権の崩壊から UNMIL の展開まで】

こうして民主的なプロセスを経て誕生したテイラー政権ですが、同政権は国内および国際社会の期待

を裏切ります。同政権は選挙直後からリベリア国民に行う頻繁な人権侵害や政治対立者への妨害や

排除、国軍改革の不徹底等13により、国内に反体制派を生むこととなります。1999年4月にはギニアから

の支援を受けた武装勢力がリベリア国内に侵入し、2000 年 2 月にはこのうちのいくつかの勢力が集まり反

政府組織和解とデモクラシーのためのリベリア連合(LURD)を結成、テイラー政権との間での衝突が

本格的な内戦に発展します。また 2003 年は春ころからはコートジボワールの支援を受けたもう一つの有

力な反政府勢力、リベリアデモクラシー運動(MODEL)の活動も活発になります。

このリベリア紛争は単に政府対反政府組織という構造にとどまらず、リベリア周辺諸国を巻き込むもの

でした。それは LURD や MODEL がそれぞれ隣国のギニア、コートジボワールの支援を受けていたこと

もありますが、むしろテイラー政権自身が第一次リベリア内戦終結後も周辺諸国の反政府勢力を支援

し続けていたことに起因します。例えばシエラレオネ紛争への関与では、テイラー自身は否定しているもの

の、シエラレオネの天然資源ダイヤモンドの違法奪取、および安保理により石油・武器およびダイヤモンド

の禁輸措置が取られていたシエラレオネ革命統一戦線(RUF)への武器・資金供与が指摘されています。

安保理はこれに対し、2001 年 3 月 7 日に安保理決議 1343 を採択し、国連憲章第 7 章にもとづく行動

として、リベリア政府を名指しして RUF への支援の即時中止とそのための様々な措置を要求するとともに、

他の加盟国に対しリベリアからのダイヤモンドの取引を阻止する措置やリベリア政府要人に自国領域の

通過を認めない措置をとらなければならないとしました。

2001 年半ばから LURD はリベリア北部を中心に攻勢を強め、2002 年に入ると、首都モンロビア近郊

まで軍を進めます。こうした中でテイラーは、2002 年 2 月 5 日、国家非常事態宣言を発しするまでに追い

詰められました。

2002 年 7 月、ブルキナファソのウガドゥクで、和平プロセスの構築を目的として会合が開かれました。こ

の会合は、リベリア政府は参加しなかったものの、LURD指導者やリベリア国内の野党、市民団体、そし

てテイラー政権下で海外に亡命していた政治的指導者も参加し、リベリアの様々な政治団体の協力関

係を構築する上で大きな役割を果たしました。この会合後に発表されたコミュニケでは、リベリア政府軍と

LURDの間の即時停戦、リベリア全土における治安維持と停戦監視のための国際軍の展開、すべての

武装勢力の武装・動員解除を行うメカニズムの確立、リベリア国軍の再建、国際的に受け入れられる自

13 例えば 1997 年 12 月には前国会副議長とその家族が政府機関により拉致、拷問され殺害されたと報じられている。ま

たリベリア民主統一開放戦線ジョンソン派(ULIMO-J)のルーズベルト・ジョンソン(テイラー政権下では地方開発大臣)

が 1998 年 3 月に大統領警護隊によって自宅を襲撃され、7 月にはULIMO-Jのメンバー6 名が誘拐、殺害されている。こ

のためジョンソン他 20 名のメンバーが 9 月にリベリアの米国大使館に駆け込むという状況が生じていた。

10

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由で公正、透明性の高い選挙が要求されました。そして、このコミュニケの内容の実効的実施を確保す

るため、米国、英国、フランス、ナイジェリア、ブルキナファソおよびセネガルからなる国際コンタクトグループ

が求められ、2002 年 9 月にリベリア国際コンタクトグループ(ICGL)が結成されました14。

リベリアに対する非軍事的措置が強化される一方、2002 年末から 2003 年初頭にかけて安保理や

ECOWAS ではリベリア問題について会合を持ち和平プロセスを進展させようという動きがありました。しかし、

こうした動きとは対照的にリベリア国内では戦闘がさらに激化し、2002 年 2 月には LURD が首都モンロビ

アから 20 キロ足らずのところまで攻め込み、2003 年 3 月からは LURD に加えて MODEL もコートジボワ

ール国境付近から政府軍に対する攻撃を開始しました。2003 年 4 月の時点で、リベリアは全土の 6 割を

反政府勢力が支配する状況となり、戦闘に伴う文民への被害や難民の流出、両陣営による人権侵害

などが深刻な事態となり、国際社会からのいっそうの批判を招くこととなりました。

米国は2003年3月に、リベリア政府が国連の示した包括的アプローチに協力しない場合は両国の間

に大きな影響が出ることを警告しました。4 月下旬には不安定化するコートジボワール情勢で米国がフラ

ンスを支持する引き換えに、フランスがリベリア制裁に賛成するという取引が成立しました15。こうして安保

理は 2003 年 5 月 6 日に、安保理決議 1343 の措置を継続するとともに、新たにすべての国に対してリベ

リアとの木材の取引を禁止し、制裁委員会が決定したいかなる個人もその領域内を通過させないように

する措置をとるよう決定した安保理決議 1478 を採択しました。一方、2003 年 3 月 3 日にはテイラーがシ

エラレオネ特別裁判所に人道に対する罪違反、ジュネーブ諸条約第 3 条違反、同条約第 2 追加議定

書違反およびその他の国際人道法違反で起訴されている事実が明らかとなりました16。2003 年 6 月 4

日からガーナのアクラでECOWAS主催の和平交渉が開始されましたが、一方では米国から副大統領

に権限を委譲するよう圧力をかけられ、他方でシエラレオネ紛争への関与から訴追の対象となり、大統領

職を辞しても当局に逮捕され裁判所に引き渡される可能性が強まったことから、その席上テイラーには海

外に亡命する以外選択肢はほとんど残っていませんでした。

2003 年 6 月 17 日、リベリア政府、LURD、MODEL の三者間でアクラ停戦協定が締結されました。

この中で、協定当事者は協定署名翌日から停戦すること、協定当事者と国連、AU および ICGL の各

代表が参加する ECOWAS 合同検証チーム(JVT)を設置すること、ならびに停戦監視機関として

ECOWAS 議長が代表を務め、協定当事者と国連、AU および ICGL の各代表がメンバーとなる合同

監視委員会(JMC)を設置することに合意しました。また、協定当事者は国際安定化軍(ISF)の設置と

展開の必要性にも同意しました。加えてこの協定で も重要なのは、協定当事者は、協定署名から 30

日以内に、ISF の展開、武装解除・動員解除・再統合プログラムの開始、国軍の再建、人権問題・和

解、人道問題、社会経済改革、テイラーを排して暫定政権を樹立すること、を内容とする包括和平協

定に合意することとされている点です。つまり、この協定の中心はテイラーの即時退陣についての合意であ

り、その後に形成される暫定政府が大統領・議会選挙の準備と実行を行うこととされたのです。

14 こうした動きに対抗して、テイラー政権も 2002 年 2 月に発していた国家非常事態を 9 月に終了させ、同年 8 月から 9

月にかけて「国民平和和解会議」を開催している。しかし、この会合には重要な利害関係者である海外に亡命していた政

治指導者が含まれていなかったため、その信頼性に関しては疑念も生まれていた。 15 前年のイラク派兵で決裂していた両国の協力関係は、ここで一応修復された。 16 訴追の事実がこの時期に発表された理由として、アクラでの和平交渉にテイラー大統領が出席しているときに、他の交

渉当事者に対し彼らが戦争犯罪に問われている人物と交渉しているのだということを示すためであったとされている。

11

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停戦協定締結直後の 6 月下旬、モンロビア周辺で政府軍とLURDとの戦闘が再開され、またテイラ

ー退陣に関する合意を実施しないECOWASの態度を不満としてLURDが一時的に和平プロセスへの

不参加を表明するなどしたため、和平協定の締結は遅れました。LURDの攻勢はさらに続き、モンロビア

攻略によってテイラーは 8 月 2 日、辞任を表明し 8 月 11 日に大統領離任式を挙行、大統領職をブラ

ー副大統領に委譲して国際軍の到着を待たずそのままナイジェリアへ出国・亡命しました。そして 8 月 18

日、アクラにおいて包括和平協定が調印されました。この和平協定の内容は、停戦監視、DDR、国軍

再建、政治犯と捕虜の解放、人権問題と真実和解委員会の設置、人道問題、選挙改革とリベリア国

民暫定政府(NTGL)・国民暫定立法議会(NTLA)・の設置、紛争後の復興・再建、恩赦など多岐

にわたっています。また、第二条でリベリア政府、LURD、MODELの停戦を再確認し、その監視方法と

してECOWAS主導の多国籍軍の導入が規定されています。このECOWAS介在軍の任務は停戦を確

保しつつ、戦闘当事者に分離地帯を創設して人道的支援供与と人の移動の自由を目的とした安全な

回廊を提供することでした。一方、停戦協定のISFの設置に関しては、その任務を停戦監視や和平協

定における安全保障関連規定の違反を調査することと並んで、協定の遵守確保のための必要な措置を

とることと規定されています。ECOWAS介在軍とISFの任務の一部に重複が見られますが、これはISFが

ECOWAS介在軍の展開後にその任務を継承するかたちで展開することが想定されていたためです。また、

国連PKOとの関連では、「強化された国連リベリアミッション」の早急な設置が協定当事者によって求め

られています17。

安保理は 2003 年 8 月 1 日にリベリアへの多国籍軍派遣を認める安保理決議 1497 を採択しました。

この多国籍軍は国連憲章第 7 章のもとで活動するとされ、その主な職務権限は、(a)DDR の初期段階

の条件確立を含む停戦協定の実施支援、(b)テイラー辞任とその後の政権樹立後の期間における治

安維持の支援、(c)人道的支援供与の環境確保、(d)多国籍軍に置き換わる長期駐留型の国連安

定化軍の導入準備、とされました。そして、その職務権限の実施に当たっては「必要なあらゆる措置」を

とることが認められています。このようにして設置が許可された ECOWAS 先遣隊はその後、ECOWAS リ

ベリアミッション(ECOMIL)と名づけられ、8 月 4 日から首都モンロビアへの展開を開始しました。

2003 年 9 月 19 日、事務総長報告を受けて、安保理は国連リベリアミッション(UNMIL)の設置を許

可する安保理決議 1509 を採択しました。UNMILは 2003 年 10 月 1 日からECOMILから権限を委譲さ

れ、12 ヶ月の期間で展開すると規定されています。

【UNOMIL と UNMIL】

・国連リベリア監視団(UNOMIL:United Nations Observer Mission in Liberia)

UNOMIL はコトヌー協定の軍事的側面を実施するため、二年間の期間で設置されました。その規模

は、軍事監視要員 303 人、軍事医療要員 20 人、軍事技師 45 人、国連職員 105 人、現地スタッフ

550 人、国連ボランティア 58 人で、本部はモンロビアにおかれました。その主な職務権限は以下のとおり

17 当初、リベリアにおける軍事活動は三段階から構成されることが想定されていた。第一段階としてECOWAS先遣隊が

展開し、それに引き続いて多国籍軍が、そして 後に国連PKOが展開するというものである。実際には、ECOWAS先遣

隊の派遣時期と多国籍軍の派遣時期が重なったことにより、ECOWAS先遣隊と多国籍軍が同一視され、ECOWAS先

遣隊から国連PKOへという二段階構想に事実上修正された。

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です。

・停戦協定違反とされる出来事に関するレポートを受け取り、調査し、違反を修正できない場合は和平

協定に従い設立される違反委員会および事務総長に報告すること。

・他の和平協定当事者の和平協定の遵守を監視し、協定の公平な適用を検証し、特にリベリア国内

への武器および軍事用品の持ち込み禁止の遵守および兵士の宿営・武装解除・動員解除の監視を

支援すること。

・和平協定の規定に従い行われる議会選挙および大統領選挙の選挙過程を検証すること。

・現在行われている国連人道援助活動と連携して、人道的支援活動を適切に援助すること。

・動員解除のための計画を進展させ、必要な経費を算定すること。

・すべての国際人道法の重大な違反を、事務総長に報告すること。

・ECOMOG の軍事技師に地雷除去を訓練し、ECOMOG と協力して地雷の鑑識を行い、地雷およ

び不発弾の除去を援助すること。

・強制行動への参加以外で、ECOMOG の複数の責務に、非公式に、および違反委員会においては

公式にそれらの履行をともに行うこと。

・国連リベリアミッション(UNMIL:United Nations Mission in Liberia)

UNIMIL は ECOMIL の後継機関として、平和構築および平和強制を含む広範な職務権限を持っ

て、12 ヶ月間の期間で設置されました。その規模は 250 人の軍事監視要員と 160 人の参謀将校を含む

15,000 人の軍事要員と 1115 人の文民警察官、それに適当な民生部門で構成され、本部はモンロヴィ

アにおかれました。その職務権限は以下のとおりです。

(a)停戦協定の実施支援

・停戦協定の履行および停戦協定違反を監視すること。

・全ての武装勢力支配地域との継続的な接触を確立し、維持すること。

・宿営の建設を援助し、それらの安全を提供すること。

・JMC の作業を援助すること。

・特に子ども兵および女性における特別な必要に注意を払い、また非リベリア人兵士の統合に焦点を

当て、全ての関係機関および援助提供国との協力のもと、包括的 DDRR 行動計画を作成すること。

・DDRR 計画の一環として、自発的武装解除を行い、武器や弾薬を回収し、破壊すること。

・JMC と連絡を保ち、包括的和平協定および停戦協定のもとでの JMC の機能に助言を与えること。

・特に港や空港、生活に必要な基盤設備などの重要な公共施設に安全を提供すること。

(b)国連スタッフおよび関連施設、文民の警護

・その能力の範囲内で、国連の職員および施設、設備、物資を警護し、国連職員の移動の安全およ

び自由を確保すること、およびリベリア政府の努力を侵害することなく、差し迫った身体の危機に直面し

ている文民を保護すること。

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(c)人道的援助および人権援助

・必要な安全状況の確立も含め、人道的援助条項を促進すること。

・UNMIL の能力の範囲内で、全ての国連機関および関連機関、政府組織、NGO との密接な協力

のもと、特に難民、帰還難民、国内で居住地を失った人々、女性、子ども、武装解除された子ども

兵への相当な注意を払い、リベリア国内における人権保障および促進に向けた国際的な取り組みに

寄与すること。

・UNMILにおいて、人権の促進および保障、監視活動を行うために十分な人権意識、能力、報告を

確保すること。

(d)治安回復への援助

・民主的な治安維持と調和するリベリア警察の監視および再構成に関して、リベリア暫定政府に協力

すること、文民警察官の訓練計画を進展させること、また ECOWAS や国際機関、関心を示す国と協

力して文民警察官の訓練を行うこと。

・ECOWAS や国際機関、関心を示す国と協力して新しい、再構成されたリベリア軍の構成において、

暫定政府を支援すること。

(e)和平プロセス履行に関する支援

・中央および地方レベルにおける有効な行政組織の設立を含む、全土にわたる国の影響力の再構築

に関して、ECOWAS や他の国際的なパートナーと協力して暫定政府を支援すること。

・ECOWAS や他の国際的なパートナーと協力して、国内の法的枠組みや司法・懲罰機関を含む政

府機関の強化に関する戦略を促進することにおいて暫定政府を支援すること。

・適正な天然資源の管理を回復することに関して、暫定政府を支援すること。

・遅くとも 2005 年末までの選挙スケジュール整備に関して、ECOWAS や他の国際的なパートナーと

協力して、暫定政府を支援すること。

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3、Lebanon

1)地図

2)基礎データ

人口 440 万人(2002 年推定)

首都 ベイルート

人種 アラブ人

言語 アラビア語(仏語及び英語が通用)

宗教 キリスト教(マロン派、ギリシャ正教、ギリシャ・カトリック、ローマ・カトリック、アルメニア

正教)、イスラム(シーア派、スンニ派、ドルーズ派)等 18 宗教

略史 16 世紀 オスマン・トルコの支配下に入る

1920 年 仏の委託統治領となる

1943 年 仏より独立

1975 年 レバノン内戦始まる

1978 年 イスラエルのレバノン侵攻

1989 年 ターイフ合意(国民和解憲章)成立

1991 年 内戦終結

2000 年 イスラエル軍南レバノンから撤退

3)地域機構および国際機関の取り組み&当該事例の特徴

【紛争の背景】

レバノンには 18 もの宗派が混在し、そのそれぞれの宗派がコミュニティーを形成して政治的、社会的

垣根を作ってきました。1943 年、国際連合の委任統治国であったフランスから独立するにあたり、レバノン

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の政治ポストを 1932 年の人口調査の結果をもとに配分する「国民協約」が作られ、大統領はマロン派の

キリスト教徒、首相はスンニ派のムスリム、国会議長はシーア派のムスリムにそれぞれ割り当てられ、また

議会の議席はキリスト教徒対ムスリムで 6 対 5 になるよう分配されることとなりました。しかしやがてムスリムの

人口増加でキリスト教徒との人口比が逆転するにいたり、1932 年の人口調査をもとに決められた国民協

約は民意を反映しないという不満が特にドルーズ派18ムスリムの間に高まり、新選挙法の制定を要求した

のに対し、マロン派キリスト教徒がこれに反発し、1975 年、レバノン右派(主として保守派キリスト教徒)と

左派(主として進歩的ムスリム、左翼的キリスト教徒も含む)の間の内戦に発展しました。レバノン政府の

軍事力が弱体であったのに対し、各宗派や政党は私兵、民兵を擁し、国内を支配しました。その主なも

のは、右派勢力として、ファランヘ党などのキリスト教徒民兵組織「レバノン戦線」がベイルート以北の地

域を、「自由レバノン」または「南レバノン軍」と呼ばれる民兵組織が南レバノンを支配しました。また、左派

勢力としては、シーア派ムスリムの民兵「アマル19」、スンニ派の 15 組織からなる民兵「国民運動」、ドル

ーズ派ムスリムの民兵「進歩社会主義者党」が内戦に加わりました。

こうした状況をさらに複雑にしたのがパレスチナ解放機構(PLO)、シリア、イスラエルといった外国の軍

事勢力です。

1970 年のヨルダン内戦の結果、ヨルダンからパレスチナ難民がレバノンに流入し、それとともに PLO の

武装兵力、パレスチナ・コマンドがレバノン南部に移駐します。パレスチナ軍の法的地位はレバノンとの間で

保証されますが、次第に対イスラエルのゲリラ活動の拠点としてその活動が活発になるにつれ、パレスチ

ナ人に同情的なムスリムとその活動を抑えようとするキリスト教徒との対立は深まります。そして、1975 年 4

月、キリスト教徒対ムスリム左派およびパレスチナ人との全面衝突にいたりました。

一方、レバノンを大シリアの一部とみなすシリアは 1976 年 4 月、内戦収拾のため、本格的な軍事介入

を開始します。これを受けてアラブ連盟理事会は、レバノン大統領の要請に基づき、「アラブ抑止軍」の

派遣を決定します。その兵力はシリアを中核とし、リビア、サウジアラビア、スーダン、イエメン、アラブ首長

国連合を加えた 3 万人とされました。

1978年3月、南レバノンから侵入したパレスチナ・コマンドがイスラエル西部の都市テル・アヴィヴで民間

バスを襲撃し、イスラエル人乗客に多数の死傷者を出しました。この事件の報復措置としてイスラエルはレ

バノン領内の PLO 拠点の掃討を決定し、3 月 14 日、イスラエル軍がレバノンに侵入し、リタニ川以南を

占領しました。

【UNIFIL の設立】

イスラエル軍のレバノンへの侵攻を受けて安保理は、1978 年 3 月 19 日、イスラエル軍の即時撤退およ

びレバノン国連暫定軍(UNIFIL:United Nations Interim Force in Lebanon)の設立を含む安保

理決議 425 を採択しました。UNIFILは約 4500 人の軍事要員から構成され、本部はナクラにおかれまし

た。UNIFILの職務内容は以下のようなものです。

(a)イスラエルに対し、レバノンの領土保全に対する軍事行動の停止、レバノン全域からの即時撤兵の

18 シーア派の分派。 19 AMAL。希望という意味。イラクからレバノンに移住したムーサー・アル・サドルが 1959 年に「非抑圧者の運動」を設立、

シーア派住民の権利擁護を訴え、シーア派社会の福利向上を目指した。この組織が後にAMALとなった。

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要請が遵守されているか否かを決定すること。

(b)イスラエル軍の撤退を確認し、国際平和と安全を回復し、レバノン政府が同地域における有効な

権限を回復することを援助すること。

(c)(b)項に照らして確定されるその活動地域を設定し、維持すること。

(d)戦闘の再発を防止し、その活動地域がいかなる種類の敵対的活動にも利用されることのないよう

善を尽くすこと。

(e)上記の任務遂行にあたり、国際休戦監視機構(UNTSO)監視員の協力を得ること。なお、同監

視員は、UNIFIL の任務終了後も、休戦境界線における機能を維持すること。

UNIFIL により関係当事者間で停戦が合意され、イスラエル軍の撤退は 4 月 11 日から 6 月 13 日ま

でに、段階的に行われることとなりました。しかし、撤退の 終段階(6 月 13 日)においてイスラエル軍が撤

退地域の大部分を、UNIFIL ではなくハダト少佐の率いるキリスト教系民兵組織「自由レバノン軍」に引

き渡しました。自由レバノン軍はイスラエル軍に兵站その他の面で援助を受けており、両者の関係性は明

白でした。自由レバノン軍は撤退地への UNIFIL の展開を武力の威嚇により拒み、このため UNIFIL は

同地域への展開が不可能となりました。また、他の UNIFIL の展開地域においても自由レバノン軍や、

他の武装民兵組織、さらにはイスラエル軍による妨害が行われ、その活動は妨げられました。

1982 年、エジプトとの和平を実現したイスラエルは、6 月 4 日から再びレバノンへの侵攻を開始し、6 日

朝、イスラエル軍参謀長は UNIFIL 司令官に対し、28 分後から、イスラエルの領土を PLO の砲撃の射

程外に置くためイスラエル軍が軍事行動に移ること、およびイスラエル軍が UNIFIL の拠点とその付近を

通過する際、妨害を加えないでほしいとの通告を行いました。UNIFIL は道路に障害物を置くなどしてイス

ラエル軍の進行を食い止めようと試みましたが、圧倒的な兵力の前に、UNIFIL の拠点は通過、迂回さ

れました。イスラエル軍は安保理の相次ぐ停戦、撤退要請にも関わらず北進を続け、8 月末には PLO を

国外に退去させることに成功しました。

1993 年 9 月 13 日のパレスチナ暫定自治に関する合意により、イスラエルと PLO との間に和平が結ば

れましたが、原理主義組織ヒズボラとイスラエルとの対立は続きました。また、 近のパレスチナ情勢の悪

化などにより、UNIFIL は現在まで展開を続けています。

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4、Democratic Republic of Congo

1)地図

2)基礎データ

人口 5,380 万人(2004 年)

首都 キンシャサ(Kinshasa)

人種 バンツー系、ナイル系等

言語 フランス語(公用語)、キコンゴ語、チルバ語、リンガラ語、スワヒリ語

宗教 カトリックを中心としたキリスト教(85%)、イスラム(10%)、その他伝統宗教(5%)

略史 1908 年 ベルギー領

1960 年 ベルギーより独立(コンゴ共和国)、コンゴ動乱

1965 年 モブツ政権成立(クーデター)

1967 年 コンゴ民主共和国に国名変更

1971 年 ザイール共和国に国名変更

1977 年 シャバ紛争(78 年まで)

1990 年 複数政党制導入

1991 年 キンシャサ市内暴動発生

1996 年 バニィヤムレンゲ(ツチ系)の武装蜂起、

他 の 反 政 府 勢 力 が 合 流 、 コ ン ゴ 民 主 解 放 勢 力 同 盟

(AFDL)結成

1997 年 ローラン・デジレ・カビラ大統領就任、

モブツ大統領国外逃亡、

国名変更(コンゴ民主共和国)

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1998 年 コンゴ民主共和国紛争勃発

2001 年 ローラン・デジレ・カビラ大統領暗殺、

息子のジョセフ・カビラ大統領就任

2002 年 プレトリア包括合意

2003 年 暫定政権成立

3)地域機構および国際機関の取り組み&当該事例の特徴

【ベルギーからの独立、ONUC の設立】

19 世紀初めにベルギー領となったコンゴでは、1950 年代から第三世界で高まった民族独立運動の

影響を受け、1950 年代後半から多くの政党が形成されました。その際、後の独立時に も影響のあった

政党としては、バコンゴ族に基盤を持つカサブブの率いるバコンゴ族同盟、カタンガ州のバルバカ族を中心

とするチョンベのカタンガ部族連合、そしてコンゴ全体の民族主義を唱えるルムンバを党首とするコンゴ国

民運動の三つがあげられます。これらの異なる支持基盤を持つ3政党はそれぞれに異なった構想を持っ

ていました。バコンゴ族同盟はコンゴ全体よりバコンゴ族の居住地域を中心に、クワンゴ・クウィール地域の

独立を望んでいました。カタンガ部族同盟は連邦国家のコンゴを望んでいました。これらに対してルムンバは

コンゴ全域を一つの中央集権国家として即時に独立すべきであると主張していました。

ベルギー政府はコンゴからの強い独立要求を受け、1960 年 1 月 20 日から 27 日にかけて、ブリュッセ

ルで上記の三政党を含む諸政党の代表者 44 人を集め、円卓会議を開催し、その結果コンゴが同年 6

月 30 日に独立することが合意されました。独立直前に行われた選挙ではコンゴ国民運動が第一党とな

ったものの、絶対多数にはいたらなかったため、予定される独立政府の構成はコンゴ国民運動とバゴンゴ

族同盟の連立内閣となりました。6 月 30 日にカサブブを大統領、ルムンバを首相とするコンゴ政府が正式

に成立し、7 月 7 日には国連への加盟も実現しました。

しかし、7 月 6 日のコンゴ国軍兵士によるベルギー人将校への命令拒否20を発端に、この動きがコンゴ

全土に広がり、国内が無秩序状態となります。この混乱の中で、当時まだコンゴのカタンガ州に多く移住

していたベルギー人に対しコンゴ人から暴行が加えられたといわれています。ベルギー政府は在留自国

民の保護を理由として、7 月 9 日、カタンガ州のベルギー軍基地から進攻を開始しました。7 月 11 日、カ

タンガ州首相のチョンベがカタンガ州の独立を宣言し、独立したばかりのコンゴは早くも分裂を始めます。

7 月 12 日、カサブブとルムンバは国連の軍事援助を要請し、安保理は 7 月 14 日、ベルギー軍の撤

退を要求すると同時に国連軍の派遣を決定し、7 月 22 日、事務総長の作成した設立計画承認するか

たちでコンゴ国連軍(ONUC)の設立を決定しました。ONUCは 8 月 12 日からカタンガ州に展開し、9 月 9

日までにベルギー軍の撤退を実現しました。

【憲政の危機からモブツ政権の誕生】

こうして ONUC はある程度の成果を挙げましたが、9 月に入って事態は悪化します。9 月 5 日、カサブ

20 コンゴ国軍はもともと独立する以前のコンゴ公安軍であり、上級将校のポストのほとんど全部はベルギー人将校により占

められていた。この状況は独立後も基本的に変わっていなかった。

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ブ大統領がルムンバを首相から解任する大統領令を発し、これを拒否したルムンバは逆にカサブブを大統

領から解任する宣言を行いました。これに対しコンゴ議会はカサブブとルムンバ双方の解任宣言が無効で

ある決定したため、カサブブは 9 月 13 日議会を解散し、議会の活動を停止させました。大統領と首相が

対立を深める中、9 月 14 日、コンゴ国軍参謀長であるモブツがクーデターを起こし、カサブブを支持する

という宣言を行いました。ルムンバは彼の支持基盤であるコンゴ東部のスタンレーヴィルへ行くため、ONUC

に対して飛行機の提供を申し出ましたが、ONUCは既に9月6日にレオポルドヴィル空港を封鎖しており、

中立原則を理由にこの申し出を拒否しました。独自にレオポルドヴィルへ向かったルムンバは、10 月 27 日

にモブツ指揮下のコンゴ国軍に逮捕されます。

その後、ルムンバの支持者はスタンレーヴィルに集まり、ルムンバ政権の下で副首相であったギゼンガが

12 月 12 日、スタンレーヴィル政府の樹立を宣言します。こうしてコンゴ国内にはレオポルドヴィル、カタンガ、

スタンレーヴィルにそれぞれの政府が並立する状況となりました。こうした中でレオポルドヴィル政府はスタ

ンレーヴィルに対抗する必要から、カタンガと強調の姿勢を見せ、1961 年ルムンバをカタンガに移送、カタン

ガ政府は 2 月にルムンバを殺害します。

一方国連総会には前年度に一挙に 17 カ国の新独立国が加盟し、またルムンバの殺害を受け、途上

国を中心とした国連の権限を強化しコンゴ問題を解決しようとする急進派グループの動きが活発化しまし

た。そして 2 月 21 日、全てのベルギー人ならびにその他の外国軍軍人、準軍事要員、国連司令部の

管轄下に属さない政治顧問、および傭兵の撤退のため必要な措置をとることを促し、また、内戦防止のた

め必要であれば自衛の範囲を越えて 後の手段として武力の行使を認める安保理決議 161 を採択しま

す。この安保理決議 161 はカサブブ、チョンベの双方から内政干渉であると非難されましたが、両者の間

で 1961 年 3 月に行われた会談が失敗すると、カサブブはチョンベとの交渉をあきらめ、スタンレーヴィル政

府との和解政策を目指すようになります。その結果、8 月 2 日にアドーラを首相とする連立政権が発足し

ます。

しかしアドーラ政府が成立したことにより、再び中央政府とカタンガの対立が顕在化します。中央政府

は 8 月 26 日に傭兵でカタンガ当局の権威の下にある外国人の追放を決め、ONUCにその実施を求めま

した。ONUCは 8 月 28 日、傭兵の一斉検挙作戦(ラムパンチ作戦:Operation Rumpunch)を行います。

この作戦はチョンベ「大統領」の承認のもと抵抗を受けずに遂行されましたが、カタンガ当局指導者やカ

タンガ警察の強制的武装解除を含めたより強力な措置がとられるべきであるとの指摘が国連の現地幹部

および中央政府からなされました。これをうけ、ONUCは 9 月 13 日、再び外国人傭兵の一斉検挙作戦

(モルソー作戦:Operation Morthor)を行いました。モルソー作戦はチョンベの承認を得られず、カタン

ガ部隊の強硬な抵抗にあいました。結果、ONUCの現地責任者としては、カタンガ当局と停戦協定を結

ばざるを得ない状況21となり、9 月 20 日両者間で停戦協定が結ばれました。

こうして結ばれた停戦協定も、カタンガ部隊によって頻繁に破られ、またモルソー作戦の失敗により中

央政府の権威は失墜、カタンガ以外でも分離独立運動が発生しました。こうした状況を打開するため、安

保理はカタンガ分離独立運動の正統性を明確に否定し、外国人軍人、準軍事要員、国連司令部の

管轄下に属さない政治顧問および傭兵を逮捕し、裁判にかけるまで拘留、または追放するため、必要な

21 9 月 17 日、この停戦交渉に向かう途上、ハマーショルド事務総長は飛行機墜落事故により殉職した。

20

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場合には武力措置の行使を含む強硬な行動をとる権限を事務総長に与えた安保理決議 169 を採択し

ました。安保理決議 169 をカタンガ側は国連による宣戦布告とみなし、反国連宣伝を強化すると共に、国

連派遣要員に対する誘拐、暴力事件が増加するようになります。

12 月 12 日、エリザベートヴィル空港でのONUCとカタンガ警察隊との衝突22を機に、カタンガ側はエリ

ザベートヴィルの道路を封鎖しました。12 月 5 日、ONUCは交通通信の回復を目的として、厳重な警告

の後、道路封鎖の解除を行いました。この作業中にカタンガ軍の攻撃を受けたONUCが応戦したことが

引き金となって、カタンガ軍によるONUC各部隊への全面攻撃が開始されました。12 月 14 日にはONUC

の増強が完了し、16 日までに主要道路と拠点を、19 日には紛争に深く関与していたユニオン・ミニエル

社23本部を制圧し、一方的に停戦を発表しました。軍事的劣勢に立ったチョンベは米国の後押しもあり、

コンゴの領土保全、カタンガ州におけるコンゴ基本法の適用、中央政府の権利行使、国連決議の尊重

およびその遂行に対する協力などを定めたキトナ協定に調印し、形式的にはカタンガの独立運動は終了

しました。

実質的なコンゴ統一のため、中央政府とカタンガとの間で 1962 年 3 月~5 月にかけて交渉が行われ

ましたが、交渉は決裂し、失敗に終わりました。これを受けて事務総長は「国民和解計画」を作成し、8

月下旬中央政府およびカタンガに提案され、8 月 23 日にはアドーラが、9 月 2 日にはチョンベがその受

諾を表明しました。しかし、チョンベは「国民和解計画」の受け入れを表明しつつもその履行を意図的に

引き伸ばし、また ONUC の失踪事件やカタンガへの傭兵の再度の流入などが起こる事態となりました。

ONUC は 1962 年 12 月 24 日から 1963 年 1 月 21 日にかけてカタンガへの大規模な展開を開始し、

これによりカタンガ部隊の組織的戦闘力は消失し、実質的にもカタンガの分離独立運動は終了しました。

その後国連の活動は非軍事的側面にのみ限られ、規模を縮小しながら 1964 年 6 月 30 日まで活動を

続けました。

【第一次、第二次コンゴ内戦】

1965 年 11 月、モブツが再びクーデターを起こして独裁を確立し、1971 年、国名をザイール共和国と

改めます。その後30年余りにわたりモブツの独裁は続きます。しかし、冷戦の終結や民主化要求の高まり、

自身の健康問題などもあって 1990 年代に入り、急速にその権力基盤が弱まりました。

1990 年 4 月、モブツは複数政党制への移行を発表しますが、生活苦に対する国民の不満から首都

キンシャサにおいて 1991 年 9 月暴動が発生します。民主化のために設立された国民会議では、1992 年

2 月民主社会進歩党のチセケディ党首が首相に選出されましたがモブツは一方的に解任を宣言し、3

月ビリンドワを首相に指名します。二つの内閣が並立することとなりますが、1994 年 1 月に設立された共

和国高等評議会・暫定議会での合意を受けて、1994 年 7 月 6 日にケンゴ内閣が組織され、この構造

は解消されます。

22 エリザベートヴィル空港において、酩酊した一人のカタンガ警察隊の隊員が女性に対し暴力を振るったため、ONUCが

治安維持の権限からこの隊員を武装解除した。空港にいた他の警察隊員はこのONUCの行為を攻撃とみなし、塹壕から

ONUCに対して発砲を開始、ONUCはやむなく空港にいた警察隊全体を武装解除した。 23 カタンガ州は豊富な地下資源を有しており、その開発に当たるベルギー企業「上部カタンガ・ユニオン・ミニエル社」がそ

の権益確保のため紛争に深く関与していた。このような外国の支援がなければ分離独立運動は成立し得ないとさえ言われ

ていた。

21

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1994 年 4 月、議会は有権者登録に際して、ザイール東部に居住するツチ族系バニャムレング族の国

籍剥奪と国外追放を決議します。これを機に、バニャムレング族の武装組織コンゴ・ザイール開放民主勢

力連合(ADFL)は同じツチ族系のルワンダ軍の支援を受け、旧ルワンダ軍やザイール政府軍と戦闘を

開始します。1996 年 11 月 4 日、ADFLはゴマを制圧し、徐々に勢力を拡大します。ザイール政府が有

効な対策を取れないまま、国連や南アを介しての交渉も失敗します。対照的にADFLは国内の主要都

市を次々に制圧し、1997 年 5 月 17 日に首都を攻略します。モブツは前日の 5 月 16 日に故郷のバトリ

テに逃れ、その後国外に逃亡しますが、9 月 7 日、モロッコの病院で死亡しました。こうしてADFLのカビ

ラ議長が大統領に就任し、コンゴ民主共和国が樹立されます。

しかし、カビラ政権は早くも1998年7月、政権内部の権力闘争からルワンダ人のコンゴ国軍司令官が

解任されたことをきっかけに揺らぎ始めます。1998 年 8 月 2 日、ADFL の主力部隊が離反して反政府

勢力となりキンシャサを攻撃し、カビラの片腕であったカラハ元外相が ADFL 側に付き、反政府軍は数

日でコンゴ東部の主要都市を支配下におさめます。同 16 日、「全ての専制政治の終結」を目標に、コン

ゴ民主運動(RCD)を旗揚げしました。こうして再び内戦に陥ったコンゴに対し、1998 年 8 月から周辺諸

国がいっせいに介入を開始します。

ルワンダとウガンダは、反政府勢力を支援するかたちで介入を開始しました24。ルワンダは 1994 年に生

じたツチ族に対するフツ族によるジェノサイドの責任を追及するため、同じツチ族を中心とする反政府勢力

を支援しながら、依然として自国の脅威となってコンゴ東部に難民とともに逃亡・滞在している旧ルワンダ

政府軍やInterhamweと呼ばれるフツ族出身の兵士の追撃をその主な理由としました。ウガンダもコンゴ

北東部に根拠地をおくウガンダの反政府勢力、民主同盟軍(ADF)の動向を注視していました。

一方、ジンバブエ、アンゴラ、ナミビアはコンゴ政府の要請と南部アフリカ開発共同体(SADS)の地域

的機関の決定25を介入の根拠としました。もっともそれ以外にも 3 カ国にとっては介入の実質的理由があ

りました。アンゴラには自国の反政府勢力UNITAがコンゴ南西部を根拠地として活動を活発化させる警

戒感があり、自国の安全保障上の観点から介入の必要性がありました。ナミビアには独立後雇用機会を

持たず、社会的再統合が不完全であったSWAPO軍の旧兵士を国軍に吸収し、コンゴに派遣して彼ら

の不満をそらすという狙いがありました。ジンバブエの場合は、コンゴ介入に反対する南アフリカとの南部ア

フリカにおける主導権争いが深く関係していました。

こうして「アフリカにおける世界大戦」ともよべる状況の中、その和平に向けた本格的な動きが見られた

のは 1998 年 9 月 10 日からアジスアベバで開催された南部アフリカ開発共同体(SADS)の会合でした。

ここにおいて、停戦協定案、停戦協定履行方法案、停戦監視メカニズム案という 3 つの草案が作成され、

1999 年 1 月には関係国の閣僚がルサカで会合を開き、これら三つの文章を検討しています。ルサカ和平

プロセスと呼ばれる和平合意に向けた動きは 1998 年から 1999 年にかけて継続していました。一方、中立

的な国際鄭和軍やアフリカ諸国により構成される平和維持軍を現地に展開させるという構想は、紛争の

24両国は 1990 年、フツ族中心の当時のルワンダ政府に対抗して、ツチ族がルワンダ愛国戦線(RPF)を結成して武力闘

争を開始した際、ウガンダがRPFを支援してルワンダ政府軍の打倒とツチ族中心のルワンダ政府の成立に貢献したことで

密接な関係を築くこととなった。 25 1998 年 8 月 18、19 日に行われたSADSの国防相会合で、コンゴがSADS諸国に援助を要請し、それにジンバブエ、

アンゴラ、ナミビアが応えたのである。ただし、この法的正当性は、当時SADSの議定書が未発行であり疑問である。

22

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比較的初期段階から登場していました。1998 年 9 月 30 日にリビアのシルテにおいてウガンダ、チャド、ニ

ジェール、エリトリア、リビアの各首脳が参加した会合では、コンゴ領域内の外国軍に代わって「アフリカ

軍」を派遣する可能性が論じられ、10 月 18 日にナイロビで開催されたケニア、ウガンダ、タンザニアの三

カ国首脳会談では、敵対行為の即刻中止・停戦協定の交渉・周辺諸国の安全保障を考慮した措置・

外国軍の撤退・政治対話の開始といった内容に加え、OAU と国連のもとでの国際的平和維持軍の展

開が求められました。そして、紛争当事者が参加したものとしては 1999 年 4 月 18 日に、リビアのシルテ

で締結された協定でも規定されています。このシルテ和平協定にはウガンダ、チャド、エリトリア、リビア、コ

ンゴ民主共和国が署名し、その中で「コンゴ領内でウガンダ、ルワンダ、ブルンジ各軍が存在する地域に

中立的なアフリカ平和維持軍を展開させる」とともに、「アフリカ平和維持軍の到着とともにウガンダ、ルワ

ンダ各軍は撤退する」ことが定められています。この協定にはルワンダ、ブルンジなどの当事者が参加して

いないこともあり、その実効性は薄いものですが、紛争解決におけるアフリカ諸国のイニシアティブを示す

重要なものです。

こうして、コンゴ、ウガンダ、ルワンダなどの関係国がルサカ和平プロセスに賛同してこれを推し進めてい

った結果、1999 年 7 月 10 日に、関係国間においてルサカ停戦協定が締結されます。この協定にはコン

ゴ民主共和国、ルワンダ、ウガンダ、アンゴラ、ナミビア、ジンバブエが署名し、後にコンゴ民主共和国内

の反政府勢力もこれに署名しました。ルサカ停戦協定は軍事的、政治的側面までも規定し、特に後の

国連 PKO との関連では合同軍事委員会(JMC)の設置が注目されます。JMC は各当事者から選出さ

れる 2 名の代表と OAU が指名する中立的立場の議長からなり、停戦時における当事者の位置を確認

して兵力の非 k 話および停戦違反の調査を支援し、武装集団の武装解除メカニズムを構築して非合法

に武装したコンゴ住民を含めた当事者の武装解除を検証するとともに、全ての外国軍の整然とした撤退

を監視・検証するなど、国連や OAU オブザーバーグループとともに平和維持活動を実施する任務を負

っており、ルサカ協定の実施過程において中心的役割を演じることが期待されていました。またルサカ協定

は国連に対し、国連憲章 7 章に基づく、平和維持活動と平和強制活動をその職務権限に含む平和維

持軍の派遣を求めています。

ルサカ協定の締結を受け、国連事務総長は安保理に対し、コンゴにおける三段階からなる国連プレゼ

ンスに関する報告を行い、8 月 10 日安保理はその第一段階を認める安保理決議 1258 を採択しました。

そして、2000 年 2 月 24 日に第二段階である MONUC の設置を認める安保理決議 1291 が採択され

ました。

【ONUC と MONUC】

・コンゴ国連軍(ONUC:United Nations Operation in the Congo)

ONUC は当初、ベルギー軍撤退の促進と国内の法と秩序の維持をその職務権限として設置されま

した。その規模はコンゴ政府に対する技術援助を実施する文民要員約 2000 人を含めて 19,828 人に達

し、本部はレオポルドヴィルにおかれました。当初の職務権限はベルギー軍撤退の促進と国内の法と秩

序の維持でしたが、後に以下の 5 点に増強されました。

・コンゴ共和国の領土保全と政治的独立を維持すること。

23

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・コンゴ中央政府による法と秩序の回復および維持を援助すること。

・コンゴにおける内戦の発生を回避すること。

・全ての外国人軍事要員、準軍事要員および国連の管理下にない政治顧問、ならびに全ての傭兵

のコンゴからの速やかな撤退と排除を確保すること。

・技術的支援の供与

・国連コンゴ民主共和国ミッション(MONUC:United Nations Organization Mission in the

Democratic Republic of the Congo)

MONUC は~設置されました。その規模は 16,700 人の軍事要員、475 人の文民警官、その他の適

当な民生部門から構成されるとされ、本部はキンシャサ(旧レオポルドヴィル)におかれました。その職務権

限は以下のようなものです。

・停戦協定の履行を監視し、停戦違反を調査すること。

・全当事者の軍の現地本部とのリエゾンを確保すること。

・決議採択後 45 日以内に停戦協定履行に関する行動計画を策定すること。

・当事者の軍隊の兵力引き離しと、再展開を監視し検証すること。

・人道的支援と人権監視を促進すること。

・戦争捕虜の開放に努力すること。

・武器・弾薬の供給に関する停戦協定規定の遵守を監視すること。

・国民対話の促進者と協力して支援を提供すること。

・地雷除去活動の開始を調整すること。

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コラム 各 PKO の PKO 諸原則との関係

UNIFIL では当初、同意・中立・武力不行使原則が強く打ち出され、そのため自衛のための 小限

の兵力で展開しました。しかし、レバノンにおいては全ての紛争当事者からの協力が得られず、武力不行

使原則のもとでは例外的存在であるはずの自衛のための武力行使が例外ではなくなります。また、そのよ

うな職務権限をはじめから持っていなかったこともありますが、圧倒的なイスラエル軍の武力を前にして、ほ

とんど無力であり、結果イスラエルの進攻をとめることができませんでした。

一方、ONUC でも同じく PKO の諸原則が適用され、実際決議においても職務権限にそれらの原則

から外れる文言はありません。ただし、ONUC が現実に行った武力行使を見てみると、その行使の方法は、

治安維持を目的として、時には空軍力を使っての大規模な武力行使であり、カタンガ側の制圧に使われ

ています。これは武力不行使原則に合致するものとは言いがたく、またレバノンの場合と比べると中立原則

にも大きな格差が見られます。

一方、UNTAET、UNIMIL、MONUC などでは、その設置決議中に憲章第 7 章の援用が見られ

ます。これらは全ての PKO 原則を破棄する目的のものと見るのは正しくありませんが、その職務権限との

関連から見れば特に武力行使の拡大を狙ったものと見ることができます。UNTAET や UNIMIL に関し

ては、その派遣以前に多国籍軍が派遣されており、職務権限および要員の継続性という側面からも、武

力不行使原則が緩和されていることが分かります。このように 近の PKO においては、その職務権限遂

行のために憲章 7 章が援用されている場合が多くなっています。

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5、Angora

1)地図

2)基礎データ

人口 1310 万人(2002 年:世銀)

首都 ルアンダ(約 350 万人、2000 年 1 月アンゴラ政府推計)

人種 オヴィンブンドウ族(約 38%)、キンブンドゥ族(約 25%)、バコンゴ族(約 15%)、混

血(3.5%)等

言語 ポルトガル語(公用語)。その他ウンブンドゥ語等

宗教 大半はキリスト教及び伝来の宗教

略史 1483 ポルトガル人が到達

16 世紀中葉 ポルトガルが海岸地方を支配

1951 ポルトガルの海外州となる

1975.11.11 MPLA がアンゴラ人民共和国の独立宣言

1979.9. ネト大統領病死

ドス・サントス大統領就任

1991.5 アンゴラ包括和平協定調印(ビセス合意)

1992.9 同国初の民主的大統領及び議会議員選挙

1994.11 ルサカ和平協定調印

1997.4 統一国民和解政府樹立

2002.4.4 停戦合意に関する覚書の署名

26

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3)地域機構および国際機関の取り組み&当該事例の特徴

【Introduction】

アンゴラは、16世紀にポルトガルが入植を開始し、以来20世紀中ごろまでポルトガルの植民地とされて

きました。しかし、第二次大戦後、世界中で植民地における独立運動が活発化し、その流れを受けて

1950 年代からアンゴラにおいても独立運動が開始されました。ただしその独立までに要した期間は 40 年

間以上におよび、その間一時的な停戦はあったものの国内において武力紛争が続きました。ここではまず、

ポルトガル植民地時代から独立運動開始までの流れと、その後の武力紛争に関連したアクター26の解

説を行いたいと思います。

アンゴラの植民地開発は当初特許会社に任せられていましたが、1933 年に「植民地法」が制定され

本国がその行政に携わるようになりました。1951 年にはポルトガル植民地が「海外州」と改称され、その

結びつきはより一層強化されました。1858 年に奴隷制は廃止されていましたが、契約労働という名のもと

で事実上の強制労働は依然として行われていました。1902 年にはバイルンド民族の、1913 年にはバゴン

ゴ民族の抵抗等が起き、1914 年には「共和国植民地法」が制定され、ポルトガル語を話すことができ、

“文明化”された黒人にはポルトガル市民権が付与されるようになりましたが、原住民の教育はおろそかにさ

れたままでした。

1954 年、バゴンゴ民族の権威回復と強制労働制の廃止を要求して、「北部アンゴラ人民連合

(UPNA)」が結成されました(1958 年に「アンゴラ人民連合(UPA)」に改称)。

1956 年、A.A.ネトを中心として植民地支配に対して全アンゴラの独立を要求する全国民主義的性

格の強い「アンゴラ開放人民運動(MPLA)」が結成されました。MPLAは 1961 年から武力闘争を開

始し、また首都ルアンダの貧民窟住民や都市部のインテリ、そして全人口の 20%あまりを占めるブンダ民

族の支持を得ていました。

1962 年、H.A.ロベルトが「アンゴラ開放国民戦線(FNLA)」を結成しました。FNLAはアンゴラ北

部のバゴンゴ民族を中心とする民族主義的性格の強い政治組織で、反共主義的なイデオロギーを持っ

ていたために、隣国のザイール(現コンゴ民主共和国)およびザイールを援助していた米国に支持されまし

た。そしてFNLAは 1963 年に「アンゴラ亡命革命政府(GRAE)」を樹立しました27。

1964 年J.M.ザビンビがロベルトのバゴンゴ民族主義に反発してFNLAを去り、1966 年「アンゴラ全

面独立国民連合(UNITA)」を結成しました。その支持層はアンゴラ中部と南部のオビンブンドゥ民族

(全人口の 40%)でした。

【独立と独立をめぐる諸国の関係】

MPLA はザイールおよび OAU が GRAE を承認したことを受け、FNLA に対して統一を呼びかけまし

たが、アメリカの後押しを受けていた FNLA は MPLA の壊滅をはかります。そのため、1963 年 MPLA

は本部をコンゴ共和国の首都ブラザビルに移し、アンゴラ東部からザンビアの協力を受けてゲリラ活動を

開始し、1968 年勢力を盛り返した MPLA は本部を再びアンゴラ領内に移し、また OAU 開放委員会は

26 アンゴラにおける武力紛争は複雑であり、以下、アンゴラと 1)宗主国ポルトガル、2)アメリカとソ連(キューバ)、3)近隣

諸国と諸国内の武装組織、4)国連、5)アンゴラ内の武装組織、との関係という観点を持って読んでほしいと思います。 27 同政府は 1963 年 6 月にザイール、同年 8 月にアフリカ統一機構(OAU)から承認されました。

27

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GRAE の承認を撤回、1974 年には OAU において MPLA 政府が承認されました。

1974 年 4 月 25 日、ポルトガルにおいて軍事クーデターが発生しました。1975 年 1 月 15 日にポルト

ガル政府と FNLA、MPLA、UNITA との間でアルボール協定が結ばれ、同年 11 月 11 日に独立す

ることが決定し、同年 1 月 31 日には暫定政府が樹立されました。しかし、1975 年半ばから三派間での対

立が激化し、主にソ連および東欧諸国から支援を受けていた MPLA 政府と、アメリカ・イギリス・中国・北

朝鮮・ルーマニア・ザイール等から支援を受けていた FNLA と南アフリカから支援を受けていた UNITA

の連合政権が別々に独立を宣言しました。

アンゴラ国内で三派間による紛争が激化し始めた 1975 年半ばから、南アフリカはFNLA=UNITA政

権の支援を目的として同国支配下のナミビアからアンゴラに対し軍事介入を開始し、一方これに対抗し

てMPLAはキューバ軍の支援を要請しました。翌 1976 年南アフリカ軍は撤退し、MPLAはアンゴラ国内

における実効的支配を確立、大多数の国からアンゴラ政府として承認されました。しかし、1976 年にナミビ

ア内の武装組織SWAPOが本部をアンゴラの首都ルアンダに移し、ゲリラ基地をアンゴラ国内に設置し

始めます。南アフリカはナミビアのゲリラ追討とUNITA支援を目的として1978年ころより再びアンゴラに侵

攻を開始します。1981 年に発足したアメリカのレーガン政権は南アフリカとの友好関係を重視し、UNITA

を「自由の戦士」と呼んで軍事援助を与えました28。またアンゴラからキューバ軍が撤退しないかぎり、南

アフリカはナミビアの独立29を認めなくても良いとする「リンケージ政策」を主張したため、南アフリカ軍はア

ンゴラに駐留を続け、キューバ軍の撤退を迫りました。一方アンゴラはキューバ軍の撤退より先にナミビア

の独立を認めるべきと主張し、米ソの代理戦争と化した紛争は膠着状態に陥ります。

【冷戦の終息と国連の介入】

東西冷戦が解消に向かい始めたのに伴い、1988 年 12 月 13 日、アメリカとソ連の仲介でアンゴラ、キ

ューバ、南アフリカの各代表により、安保理決議 435 に従ったナミビアの独立手続きの開始日を 1989 年

4 月 1 日とするブラザビル議定書が締結されました。さらに同年 12 月 22 日にはナミビアの独立手続きの

開始と領土保全・政治的独立の尊重、内政不干渉に関する三カ国協定およびキューバ軍の段階的な

完全撤退に関するキューバ=アンゴラ二国間協定30が締結されました。

1989 年 12 月 20 日、安保理はキューバ軍撤退協定の遵守を検証するため、31 ヶ月の期間で国連ア

ンゴラ検証団(UNAVEM)を設立、UNAVEMは 1989 年 1 月 3 日にルアンダに到着し、同月 10 日か

らキューバ軍の撤退が開始されました。1991 年 5 月 25 日、予定より早くキューバ軍の撤退は完了しまし

た。当時のデクヤエル事務総長は安保理に対し、UNAVEMの職務権限を拡大しその職務期間を延

長することを勧告し、安保理はこれを承認、UNAVEMの呼称を 第二次国連アンゴラ監視団

(UNAVEMⅡ)に変更しました。一方、アンゴラ政府とUNITAは、ポルトガルを仲介者、米ソをオブザ

ーバーとして和平交渉を進め、1991 年 5 月 1 日にアンゴラ和平協定を締結しました。1992 年 3 月 24

28 1986 年時のアンゴラの財政支出に占める軍事費の割合は国家予算の 46,2%に及んでいたが、その支出を支えていた

のは石油であり、その 大の輸出先はアメリカであった。MPLA政府軍とキューバ軍によってUNITAのゲリラ攻撃から守

られた石油が、UNITAの援助国アメリカに輸出されていたのである。 29 S/RES/435。国連の管理と監視の下で自由で公正な選挙を通じた独立を予定。 30 これらの協定によればキューバ軍は 1991 年7月 1 日までに完全撤退することとなっている。

28

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日、安全保障理事会はUNAVEMⅡの職務権限を選挙過程の検証にまで拡大し、新たに選挙部門を

設けるというガリ事務総長の勧告を承認しました。

1992 年 9 月 29 日と 30 日に総選挙と大統領選挙が行われ、10 月 17 日に選挙結果が発表されま

した。総選挙では政府側が勝利をおさめ、(220 議席中、MPLA が 129 議席、UNITA が 70 議席)大

統領選挙では過半数を獲得した候補者がいなかったためドス=サントス大統領(得票率 49,57%)と

UNITA のザビンビ議長(得票率 40,07%)との間で決選投票が行われることとなりました。国連事務総

長特別代表は、選挙は概して自由かつ公正なものであったと確認しましたが、UNITA は選挙に不正が

あったとして、その後政府に対する武力攻撃を再開しました。

1994 年 11 月 20 日、新たな包括的和平提案であるルサカ議定書がアンゴラ政府とUNITAの間に

締結され、11 月 22 日に停戦が発効しました。これを受けてガリ事務総長は安保理に対し当事者を援助

するため新たに第三次国連アンゴラ監視団(UNAVEMⅢ)を設立することを勧告し、1995 年 2 月 8 日

安保理はこの提案を承認しました。しかし、ルサカ議定書の履行は遅々として進まず、1996 年 12 月 11

日、安保理はUNAVEMⅢを 1997 年 2 月から段階的に撤退させることを承認しました。

1997 年 4 月 11 日、なんとか統一国民和解政府が成立したことを受けて、安保理は 4 月 16 日、

UNAVEMⅢが新たな監視団に移行することを決議し、6 月 30 日、国連アンゴラ監視団(MONUA)の

設立を承認しました。しかし、UNITAは統一国民和解政府が成立した後も動員解除を拒否し、一方政

府軍もUNITAの資金源であったダイヤモンドの産出地に攻撃を加えたために、アンゴラは再び内戦状

態に陥ります。このため安保理は 1997 年 8 月 28 日、UNITAに対してその幹部と家族の海外渡航禁

止、在外事務所の閉鎖、航空機・航空機部品・燃料の禁輸、アンゴラ政府の許可を得ない航空機・離

着陸の禁止などの非軍事的強制措置を決定し(S/RES/1127)、さらに 1998 年 6 月 12 日、UNITAに

対し、在外資産凍結、UNITA指導者との公式接触の禁止、UNITA支配領域からのダイヤモンド輸

入禁止、採鉱設備の輸出禁止、採鉱サービスの供与禁止などの措置の追加(S/RES/1173)を決定し

ました。

しかし、依然として内戦は継続し、1998 年 8 月統一国民和解政府からUNITA所属の全閣僚が解

任され、UNITA所属の全議員が職務を停止されて、統一国民和解政府は崩壊しました。さらに 1998

年 12 月と 1999 年 1 月にMOUNAのチャーターした航空機が何者かに相次いで撃墜され、1999 年 2

月にはアンゴラ政府がMONUAの受け入れを撤回したため、安保理は 1999 年 2 月 26 日MONUAの

活動終了を決議しました。1999 年 10 月 15 日、安保理は何らかの形で現地における国連の介在を維持

する必要から、国連アンゴラ事務所(UNOA)の設置を許可31しました。

2002 年 2 月 22 日、UNITA のザビンビ議長が政府軍との戦闘で死亡したことが確認され、3 月 5

日にはザビンビ議長のあとを継いだデンボ軍曹の死亡が確認されました。そして同年 4 月 4 日にはアンゴ

ラ政府と UNITA との間で停戦協定が締結され、同年 12 月までに UNITA に対する安保理の制裁措

置は解除されました。

31 UNOAは軍事要員を含まないため、PKOには含まれない。

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【各国連ミッション】

以下では、アンゴラに派遣された国連のミッションに解説を加えたいと思います。

・第一次国連アンゴラ監視団(UNAVEMⅠ:United Nations Angola Verification Mission)

UNAVMⅠはキューバ軍撤退協定32の遵守を検証するために 31 ヶ月の期間で設置されました。

UNAVEMⅠは 10 カ国から提供された 大 70 人の軍事監視要員から構成され、本部はルアンダにお

かれました。

・第二次国連アンゴラ監視団(UNAVEMⅡ)

UNAVEMⅡは停戦発効の日から総選挙および大統領選挙完了の翌日までを期限として、

UNAVEMⅠの職務権限と新たに加えられた職務権限の実施を目的として設置されました。新たに加え

られた職務権限は 1)停戦監視に関する当事者の合意の検証、と 2)停戦期間中のアンゴラ警察の監

視に関する当事者の合意の検証、です。また後に選挙過程の監視もその職務権限に加えられました。

UNAVEMⅡは 90 カ国から提供された要員から構成され、安保理の許可した 大規模は軍事監視要

員 350 人、文民警察官 126 人、国連職員 220 人、現地職員 155 人、医療補助員 12 人、軍医 14

人、選挙監視要員 400 人で本部はルアンダにおかれました。

・第三次国連アンゴラ監視団(UNAVEMⅢ)

UNAVEMⅢはルサカ議定書の実施を支援する目的で設置されました。UNAVEMⅢは 38 カ国から

提供された要員から構成され、安保理が承認した 大規模は軍事監視要員 350 人、軍事要員および

後方支援要員 7000 人、文民警察官 260 人、国連職員 420 人、現地職員 300 人、国連ボランティ

ア 75 人で、本部はルアンダにおかれました。その職務権限の特徴は、以下のようなものです。

(a)政治:当事者に斡旋、仲介を提供し、必要な場合には和平プロセスに弾みをつけるための適切な

イニシアティブをとることによって、ルサカ議定書の実施を援助する。UNAVEMⅢはまた、全土への国家

行政の拡大と国民和解のプロセスを監視し、検証する。

(b)軍事:

(ⅰ)兵力引き離しを監視し、管理し、検証し、停戦を監視すること。

(ⅱ)アンゴラ政府と UNITA から受け取った、それぞれの軍に関する情報を検証すること

(ⅲ)すべての部隊の移動を監視し、検証すること。

(ⅳ)当事者と協力して、宿営施設の設立を援助すること

(ⅴ)UNITA 軍の撤退、宿営および動員解除を検証し、監視すること。

(ⅵ)UNITA の武器の回収と保管を監視すること

(ⅶ)アンゴラ政府軍の兵営への移動を検証すること。

(ⅷ)アンゴラ新政府軍設立の完了その他の任務を検証し、監視すること。

(ⅸ)人と物の自由な移動を検証すること。

(c)アンゴラ国家警察の中立性、市民の武装解除、緊急対応警察隊の宿営、および UNITA の指導

者層のための警護の手配について、検証し、監視すること。

(d)和平プロセスと直結している人道活動、とりわけ、舞台の宿営と動員解除および彼らの市民生活へ

32 S/20345

30

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の再統合に関連する活動、並びに地雷除去活動への参加、を調整し、促進し、支援すること。

(e)大統領選挙第2回投票の実施のために必要不可欠な条件がすべて満たされたことを公式に宣言す

ること、および、選挙プロセス全体を支援し、検証し、監視すること。

・国連アンゴラ監視団(MONUA:United Nations Observer Mission in Angola)

MONUA は、アンゴラの統一国民和解政府を多方面から支援する目的で設置されました。MNUA

は 36 カ国から提供された要員から構成され、安保理が承認した 大規模は軍事監視要員 253 人、軍

事要員および後方支援要員 3026 人、文民警官 403 人で、本部はルアンダにおかれました。その職務

権限の特徴は、以下のようなものです。

(a)政治:

・全土にわたる国内行政の正常化を監視すること

・州および地方レベルでの良質の行政、司法を提供し、その目的で設立された行政機関に参加

すること

・アンゴラ政府と UNITA の間で結ばれたルサカ議定書およびそれに続く諸協定に提示された

UNITA の国家機構への統合を監視し、検証すること。また両者に紛争が発生した場合は、そ

の解決と処理を援助すること。

・他の部門と協力して、人口密集地および緊張地域に駐留することで、信頼醸成および国民和

解を促進すること

(b)警察:

・アンゴラ警察の中立性を検証すること

・UNITA の人員の国家警察への編入を検証すること

・急遽採用された警察の宿営割り当ておよび臨時の配置を検証すること

・人と物の自由な流通を検証すること

・市民的、政治的権利および自由の尊重に特別の注意を与えること

・特に、元 UNITA 支配地域において、アンゴラ国家警察と共同パトロールを実施すること。

・刑務所を検査し、必要ならば一時的に警察署に滞在すること。

・市民から回収した武器の収集を監視し、検証すること。

・市民から回収した武器の適切な保管および破壊を監督すること

・UNITA の指導者層のための警護の手配を監督すること。

(c)人権:

・人権の振興および人権侵害の防止に寄与すること。

・人権分野における国の組織および NGO の能力開発を援助すること。

・人権侵害の申し立てを十分に調査し、適切な行動に着手すること。

(d)軍事:

・停戦期間の政権への様々な側面からの遵守を検証すること。

・攻撃的な集団の動きに関する申し立て、UNITA の武装した人員の存在および武器の貯蔵庫

に関する調査

31

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・検問所および UNITA の指令所の分解を監視すること。

・UNITA 兵士のアンゴラ国軍への統合を監視すること。

(e)人道

・元 UNITA 兵士の動員解除および彼らの社会的再統合を支援すること。

・緊急の状況を監視し、人道的必要に対処する能力を維持すること。

・主要な州において、現地アドヴァイザーの確立されたネットワークを通じ、人道的活動に関する

情報、提供者との連絡および調整のための中心的地点を提供すること。

【アンゴラにおける国連 PKO の失敗】

アンゴラでは、UNAVEMⅠこそキューバ軍の完全撤退が実現したことで成功を収めましたが、その

後の PKO は成果を挙げられず、むしろ失敗であったといえます。その要因としては、アンゴラ国内における

民族間の根強い不信感、そしてより直接的な原因として UNITA が 1992 年の総選挙および大統領選

挙の結果を否認したことが挙げられます。

まず、アンゴラ国内の民族対立について話を進めます。UNITA の支持母体であるオビンブンドゥ民族

はポルトガルの植民地支配の時代から社会の 下層に位置付けられ、独立後も周辺的地位に置かれ

たままでした。一方の MPLA の支持母体であるブンダ民族は既に植民地時代から他の民族に対し優越

的地位を得ていました。このためオビンブンドゥ民族にはブンダ民族および MPLA に対し根強い不信感

があり、これが内戦の長期化を招き、PKO の失敗につながることになりました。

次に 1992 年の選挙についてです。まず、総選挙(投票率 91.34%)の結果を詳しく見てみると、

MPLA:129 議席(得票率 53.74%)

UNITA:70 議席(得票率 34.00%)

SRP(社会革新党):6 議席(得票率 2.27%)

FNLA:5 議席(得票率 2.40%)

LDP(自由民主党):3 議席(得票率 2.39%)

その他:DPR(民主更新党)、ADC(民主同盟連合)、SDP(社会民主党)、PAJCOA(アンゴラ

青年・労働者・農民同盟)、FDA(アンゴラ民主フォーラム)、ADP・ANA(進歩民主党・アンゴラ

民族同盟)、ANDP(アンゴラ民族民主党)が 1 議席ずつ

となりました。一方、大統領選挙の結果(上位 4 名と得票数)は、

J.E.ドス・サントス(MPLA、得票率 49.58%、得票数 1,953,335)

J.M.ザビンビ(UNITA、得票率 40.07%、得票数 1,579,298)

A.A.ネト(アンゴラ民主党、得票率 2.16%、得票数 85,249)

H.A.ロベルト(FNLA、得票率 2.11%、得票数 83,135)

でした。

この結果から分かるように、UNITA は総選挙において確かに MPLA に敗れはしたものの、第 3 位の

SRP との差は歴然としており、第 1 党の MPLA と連立政権を組む可能性や、第 3 党以下の政権と協

力して次回選挙において連立政権を樹立する可能性は十分にありえたのです。また、大統領選挙におい

32

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ても次回以降の選挙で、第 3 位以下の候補者と協力し、勝利をおさめる可能性もありました。しかし、

UNITA は選挙結果が公表される 10 月 17 日より前の 10 月 3 日に選挙に不正があったとの声明を発

表し、その後政府に対する武力攻撃を再開しています。また、武装解除に関しても、比較的実施速度の

速かった MPLA に比べ、UNITA は意図的に武装解除を遅らせています。つまり、ザビンビは選挙実施....

以前から....

、選挙において勝利できなければ選挙結果を否認するつもりであったのではないでしょうか。

当然のことながら、選挙とは敗者がその選挙結果を受け入れない限り成立しません。つまり、関連する

当事者が民主的な勢力であることを前提としているわけですが、UNITA(とザビンビ)はその前提に当て

はまらなかったのです。このことは 1992 年の選挙以前から指摘されていました。UNITA の外部との同盟

関係は SWAPO や中国、アメリカ、南アフリカ、そしてイスラエルにまで及び、その政治的信念に一貫性

は認められませんでした。ザビンビは『いっときの信念と不変の野心を持つ政治的カメレオン』と評され、

UNITA 内での権力は個人崇拝の奨励によりザビンビ周辺に集中し、重要なポストは彼の親族が占め

ていました。また、ザビンビが政府軍との戦闘で死亡してからわずか 41 日後にアンゴラ政府と UNITA と

の停戦協定が締結されていることを考えると、アンゴラ問題は単なる内戦というよりもザビンビの権力獲得

に対する私闘であったと見ることができます。

アンゴラにおける PKO 失敗は、国内の民族間対立を宥和する対策が不十分であったこと、および国

際社会がUNITAを民主的勢力と誤認しその対策を誤ったことに主に起因します。「選挙」という手法は

国家を再建するプロセスにおいて、新たな政府に正統性を与える手法として今日 も多く用いられている

手法ですが、すべての場合にその有効性が確保されるわけではないことがアンゴラの事例から読み取れ

るのではないでしょうか。

33

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6、Cambodia

1)地図

2)基礎データ

人口 1350 万人(02 年)

首都 プノンペン

人種 カンボジア人(クメール人)が 90%

言語 カンボジア語

宗教 仏教(一部少数民族はイスラム)

略史 9~13 世紀 現在のアンコール遺跡地方を拠点にインドシナ半島の

大部分を支配。

14 世紀以降 タイさらにヴェトナムの攻撃により衰微。

1884 年 フランス保護領カンボジア王国。

1953 年 カンボジア王国としてフランスから独立。

1970 年 反中親米派、シアヌーク政権打倒。王制廃しクメール共和国

樹立。

親中共産勢力クメール・ルージュ(KR)との間で内戦

1975 年 KR が内戦勝利。民主カンボジア政権樹立。同政権下で大

量の自国民虐殺。

1979 年 ヴェトナム軍侵攻で KR 敗走、親ヴェトナムのプノンペン政権

擁立。

以降、プノンペン政権と民主カンボジア三派連合(KR に王党

派・共和派が加勢)の内戦。

34

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1991 年 パリ和平協定。

1993 年 国連監視下で選挙、王党派フンシンペック党勝利。新憲法で

王制復活。ラナリット第一首相(王党派)、フン・セン第二首相

(人民党:旧プノンペン政権)の 2 人首相制連立政権。

1997 年 首都プノンペンで両首相陣営武力衝突。第一首相失脚。

1998 年 総選挙。第一次フン・セン首班連立政権。

2003 年 7 月 総選挙。1 年後の 04 年 7 月、第二次フン・セン首班連立政

権発足。

2004 年 10 月 シアヌーク国王引退、シハモニ新国王即位。

3)地域機構および国際機関の取り組み&当該事例の特徴

【独立から中越紛争】

カンボジアは周辺をヴェトナム、シャムに囲まれ、長くそれらの領属関係に置かれてきました。そのため

1954 年に独立を達成後、その外交方針は中立を重視したものであり33、シアヌークのもとバランス外交を

展開してきました。しかし、カンボジアの中立政策は国際的に保障されたものではなく、当時の微妙な国際

情勢のバランスの上に成り立っていたものであり、結局ヴェトナム戦争に巻き込まれることとなります。

1970 年、シアヌークは前年に断交していた米国との国交を再開し、米軍にカンボジア領内のホーチミ

ン・ルートの使用を許可しました。しかし、その意図は国内の共産勢力に対抗するためのものであって、ヴ

ェトナム戦争において米国側にコミットするものではありませんでした。対インドシナ戦略の一環としてカンボ

ジアに親米政権を必要としていた米国は、その年に発生したロン=ノル首相のクーデターを支援して中

立を維持しようとするシアヌーク体制の転覆をはかり、カンボジア国内への大規模な爆撃、侵攻作戦を開

始して北ヴェトナム正規軍および南ヴェトナム解放戦線の根拠地を攻撃しました。こうして同年クメール共

和国が樹立されます。

中国の周恩来首相は「反ロン=ノル、反米」を共通項としてカンボジア共産党、ヴェトナム共産党、シ

アヌーク支持派をまとめ、こうしてインドシナ共産勢力と王政支持派が協力してロン=ノル政権と戦うという

カンボジア内戦が始まりました。1973 年のパリ和平協定によってヴェトナム戦争は終結し、ヴェトナムだけ

でなくカンボジア、ラオスを含むインドシナ三カ国からの前外国軍の撤退が義務付けられ、さらにカンボジア

とラオスの独立も保障されました。カンボジア国内でも1975年4月17日、解放軍がプノンペンに入城し、

内戦は終結しました。解放直後、軍事力に勝るクメール・ルージュ(KR:ポル=ポト派)がシアヌーク派を

抑え実験を握り、1976 年 1 月民主カンプチア政府34が成立しました。

ポル=ポト政権は中国の援助のもとヴェトナムに対する攻撃を繰り返し、一方カンボジア国内では 1978

年 12 月 3 日、ヴェトナムの援助を受けてヘム=サムリンを中心に旧人民党系の古参幹部および東部管

区を抑えていた親越派の軍人たちがカンプチア救国民族統一戦線を結成し、プノンペンに向けて進攻を

開始しました。ヴェトナムはポル=ポト政権との交渉の試みや、中国、ラオスの仲介などの後、ポル=ポト

33 カンボジアは米国と経済援助協定、ソ連と経済援助協定、中国と軍事援助協定を結んでいた。 34 民主カンプチア政府は搾取のない真に民主主義が支配する幸福な社会を、集団労働形式で建設して行くことを目標

としていた。この政権の下、数百万のカンボジア人が虐殺された。

35

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政権に外交手段を用いてヴェトナムの国境侵犯をやめさせることはできないと判断し、武力を持って対抗

することを決定しました。1978 年 12 月 25 日、ヴェトナムはカンボジア国内の反ポル=ポト派と共同で、カ

ンボジアに越境攻撃を開始します。ヴェトナム軍の支援を受けたカンプチア救国民族統一戦線は、1979

年 1 月 7 日、プノンペンを占領し、翌日、カンプチア人民評議会(ヘム=サムリン政権)を樹立し、カンプ

チア人民共和国が成立しました。ヴェトナムのカンボジア侵攻をうけ、中国は制裁と称してヴェトナムに対し

1979 年 2 月から大規模な侵攻を開始し、中越紛争が発生しました35。

【カンボジア問題をめぐる各国の姿勢】

当初、ASEAN諸国は懸念を表明し中立を模索していましたが、難民の責任追及を契機としてヴェト

ナムへの姿勢は硬化し、1980 年にヴェトナム軍がタイ領を越境したことをうけ も強硬化しました。

ASEANは基本的に36、ヴェトナムの侵略を地域の安全への脅威かつ国連憲章違反とみなしていまし

た。

中国にはソ連およびヴェトナムによる南北からの包囲の打破という戦略的必要があり、この目的に合致

する勢力と連携するという観点から、タイと協力関係を結びました。中越紛争以後、中国はカンボジア問

題の国際化をはかり、西側諸国の支持を得ることに成功しました。

一方、ソ連は中国の封じ込めの拠点として、同時に退潮期にあったアメリカのアジアにおける影響力に

対抗するための拠点として、ヴェトナムを確保する必要がありました。そこで、ヴェトナム軍の行動を人道的

側面と自衛権の立場37から擁護し、ヴェトナムおよびプノンペン政府に多額の援助を与えました。

こうした複雑な背景を持つカンボジア問題は、安保理を機能麻痺に追いやり、解決への進展はなかな

か見られませんでした。

【国連での動き、第一回 PCC の開催】

1979 年 1 月から安保理においてカンボジア問題は議論されましたが、ヴェトナムを支援するソ連の拒否

権行使により、決議は採択されず進展は見られませんでした。こうして機能が麻痺した安保理に代わり、

カンボジア問題は総会で引き続き議論されることとなりました。同年 11 月総会は、全外国軍のカンボジア

からの撤退、およびカンボジア人民の自決権を尊重し、カンボジアの主権、領土保全、独立と他国の内

政干渉原則の尊重を求める総会決議 34/22 を採択しました。

1981 年 6 月、タイなどが中心となってシアヌーク派とソン=サン派(旧クメール共和国派)をまとめ、さら

にアメリカの圧力からこれらの反共二派にポル=ポト派を加えた民主カンプチア同盟が結成されます。三

派連合は 1981 年 9 月に連立政権を樹立します。この三派連合政権の樹立を機に、国連総会ではいっ

35 中国軍は 3 月に撤退。 36 ASEAN諸国の中で、必ずしもコンセンサスが取れていたわけではない。 も強硬な姿勢をとったのはタイで、カンボジア

がヴェトナムに取り込まれることで実質ヴェトナムと国境を接することとなり、ヴェトナムの次の標的となることを恐れて中国と緊

密に協力した。一方、インドネシアは東南アジアにとって長期的な脅威は中国であるとして、ヴェトナムとの妥協点を探った。

ただし、ASEAN諸国内ではタイの主張を支持する立場が多数であり、独自にヴェトナムとの妥協点を探る動きを見せたの

はインドネシアとマレーシアのみである。 37 ヴェトナムはこのとき二つの戦争が同時に進行しているという「二戦論」をとった。一つはカンボジアの侵略に対する自衛

権行使の戦争である。一方、カンボジア国内で起きている非人道的状況に対しては、カンボジア人自身が抵抗している、と

いうものである。

36

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そう ASEAN 支持が強まりました。1981 年、7 月、包括的政治的解決を目指すカンボジア国際会議が

ニューヨークで開催されました。会議には 79 カ国が参加し、シアヌーク派およびソン=サン派も参加を許

可されました。しかしカンボジア人民共和国政府が参加できなかったことを理由にヴェトナムやソ連は会議

をボイコットしています。この会議ではまず1)停戦および選挙過程に関する紛争当事者の合意を形成する

交渉を要求し、2)カンボジアの独立、主権、領土保全、非同盟、中立の尊重、および内政不干渉原

則を確認する「カンプチアに関する宣言」が採択され、その 終日には10カ国からなるアド・ホック委員会

の設立を盛り込んだ決議が採択されました。アド・ホック委員会はその後、特に和平への動きが活発化し

た 1986 年以降、各国との協議を精力的に続けています。

1980 年代中ごろから、冷戦構造の解消に伴い、カンボジアを取り巻く国際情勢にも変化が現れます。

ソ連は 80 年代に入り、中ソの関係改善を図り始め、中国への歩み寄りを見せます。また、1985 年にゴル

バチョフ政権が誕生し、米ソのデタントが促進されます。こうしてカンボジア問題発生当初は積極的にヴェ

トナムを擁護し、多額の援助を与えていたソ連にとって、ヴェトナムとの同盟関係の重要性は低下し、両国

間の関係は冷え込みます。一方、ヴェトナムは 1984 年に三派連合政府軍に対し大規模な乾期攻勢を

かけ、これに驚いた ASEAN 諸国はヴェトナムへの姿勢を軟化させます。

ヴェトナムは、1985 年 1 月の第 10 回インドシナ三国外相会議において 5 年ないし 10 年以内に撤退

を完了することを表明し、同年 8 月の第 11 回インドシナ三国外相会談においてその期限を 1990 年末と

明確にしました。これをうけ総会内でも政治的解決の枠組みの中にカンボジア人民共和国を含めることを

容認する姿勢が打ち出されました。ヴェトナムは 1987 年 11 月に 2 万人を、1988 年 5 月には 5 万人を撤

退させています。

1988 年に入ってインドネシアのイニシアティブ38のもと、ジャカルタでカンボジア全派が参加する第一回

非公式協議(JIMⅠ)が開催されました。ここでは1)問題は政治的手段によって解決されること、2)民

族自決と民族和解を達成すること、3)ヴェトナム軍とポル=ポト派復権阻止をリンクさせること、4)外国

による内政干渉と三派連合政府への武器供給を停止すること、5)撤退のタイムテーブルと国際監視、

が確認されました。続く 1989 年 2 月にもJIMⅡが開催され、そこで民族 高評議会(SNC)の設置が

合意されました。

1989年7月30日から、ヴェトナム軍の完全撤退を翌月に控えて、カンボジアに関するパリ会議(PCC)

が開催されました。この会議にはカンボジア四派と19カ国、および国連事務総長を含む国連代表が参加

しました。ここでは暫定政権およびそれを監視する国際監視メカニズムに関する話し合いが行われました

が、カンボジア各派間が互いに非協力的な態度に終始したため、合意は形成されませんでした。

【UNTAC 設置から総選挙まで】

PCCでの交渉が失敗したことを受けて、1989 年 11 月、オーストラリアからナミビアをモデルとした「信託

統治」案が提出されます。このオーストラリア案は 1990 年 1 月のP5 の次官級非公式会議で承認され、

五回の協議を経た後、同年 8 月、P5 提案として発表されます。このP5 提案は 1990 年 9 月に開催され

38 インドネシアは、1987 年に「交渉に当たっての前提条件のない、政治的レベルでもない、非公式の、カンボジア全派が参

加する会合」を開催することヴェトナムに提案し、合意を取り付けた。

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たJIMⅡでも承認され、9 月 20 日の安保理ではSNC議長の早期選出、和平のためのパリ国際会議の

早期開催などを求める安保理決議 668 が採択されました39。

1990 年 10 月に再び PCC が開催され、10 月 23 日 UNTAC の設置を盛り込んだ「カンボジア紛争

の包括的政治解決に関する協定」など 4 つの和平文書に調印しました。こうしてカンボジアは 1993 年前

半に予定される総選挙と新政府の樹立まで国連の統治下に入ることとなりました。

安保理はパリ協定の署名に先立ち、10 月 16 日に紛争各派の停戦を確保する目的で小規模の国連

カンボジア先遣隊(UNAMIC)を派遣することを決定し、UNAMICは 1991 年 11 月 9 日から活動を開

始しました。1992 年 2 月 28日、安保理は事務総長のUNTAC活動計画を承認するかたちで、UNTAC

の設置を許可する安保理決議 745 を採択し、UNTACはUNAMICに代わり 3 月 15 日から活動を開始

しました。

UNTAC の職務権限には軍事部門での活動も含まれており、武装解除・動員解除も行うこととなって

いましたが、ポル=ポト派は一貫してこれを拒否しました。安保理の度重なる武装解除要請にもかかわら

ずその姿勢に変化はなく、そのため 1992 年 10 月、残る3派の武装解除も約 30%進んだ時点で凍結さ

れました。さらに安保理は同年 11 月、安保理決議 792 によってポル=ポト派への経済制裁を検討する

姿勢を打ち出しました。しかし、ポル=ポト派による攻撃が続いたため、1993 年 5 月には回収された武器

の一部が返却される事態にまで陥りました。

こうした状況にもかかわらず、有権者登録や難民の帰還などは順調に実施されました。UNTAC は選

挙日程を変更せず、ポル=ポト派抜きで 1993 年 5 月 23~28 日に選挙が実施されました。この結果

1993 年 7 月 1 日にはフンシンペック党(王政派)と人民党(旧カンボジア人民共和国派)を中心とするカ

ンボジア暫定政府が発足しました。安保理は 11 月 4 日、安保理決議 880 により、UNTAC の使命が

達成されたことを確認し、全ての部隊が 12 月 31 日までに撤退することを決定しました。

【UNAMIC と UNTAC】

・国連カンボジア先遣隊(UNAMIC:United Nations Advance Mission in Cambodia)

UNTAC は紛争当事者間の停戦を確保するため、UNTAC 派遣までの期間設置されました。その規

模は 116 人の軍事要員、75 人の国際スタッフ、75 人の現地スタッフで、本部はプノンペンにおかれました。

その職務権限は、UNTAC が設置、配備されるまでの間、カンボジア4派の停戦維持を支援すること、

およびカンボジア人の地雷探知・除去訓練です。

・ 国 連 カ ン ボ ジ ア 暫 定 統 治 機 構 ( UNTAC : United Nations Transitional Authority in

Cambodia)

UNTAC はパリ協定の履行を確保する目的で、18 ヵ月の期間で設置されました。その規模は 15,547

人の軍事要員、3,500 人の文民警察、893 人の軍事監視要員、1,149 人の国際文民スタッフ、465 人

の国連ボランティア、4830 人の現地職員で、本部はプノンペンに置かれました。その職務権限は人権、

39 その後PCC開催までの流れとしては、1991 年 4 月、国連事務総長からの停戦の呼びかけに応じ、同年 5 月 1 日から

カンボジア4派が自主停戦することに応じ、7月にはSNCの議長をシアヌークとすることで合意がなされた。

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選挙、軍事、文民行政、文民警察、難民帰還、復興の 7 つに別れ、広範な活動を展開しました。

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参考文献

・全体として

□国連による平和と安全の維持[解説と資料] 国際書院 横田洋三編

□人道的介入‐正義の武力行使はあるか‐ 岩波新書 上敏樹

・東ティモール

□アジアの安全保障 2000-2001 平和安全保障研究所編

〃 2001-2002 〃

〃 2002-2003 〃

〃 2003-2004 〃

・リベリア

□西アフリカ諸国経済共同体のリベリア「平和維持軍」(ECOMOG)と国際法‐地域的機関の PKO と

国連の役割‐ 札幌学院法学第 12 巻第 2 号 松本祥志

□第二次リベリア内戦における国連平和維持活動の展開‐ECOMIL から UNMIL へ‐ 神戸法学雑

誌 酒井啓亘

・レバノン

□レバノン紛争と国連の平和維持活動‐国連暫定軍と多国籍軍‐ 法学論叢(京都大学法学会)第

116 巻 1~6 号 香西茂

□現代イスラムの潮流 集英社新書 宮田律

・コンゴ民主共和国

□分離運動と国連 「コンゴ問題」を素材として(一)、(二) 名古屋大学法学論集 145,148 孫占

□国連平和維持活動に関わる武力行使の規制(一)、(二)-コンゴ国連軍による武力行使の再検討

- 同志社法学第 49 巻 1,2 号 新井京

□コンゴにおける国連平和維持活動(1)、(2)-国連コンゴ民主共和国ミッション(MONUC)の実践と

その法的意義- 国際協力論集(神戸大学国際協力研究科) 酒井啓亘

・アンゴラ

□アンゴラ問題とナミビア問題における国際連合平和維持活動の比較 政経研究(日本大学法学

会)第 39 巻 4 号 中野進

□アンゴラ問題と自決権(1)、(2) 富士大学紀要第 36 巻第 1,2 号 中野進

・カンボジア

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□カンボジア紛争をめぐる国連の対応(一九七九-一九九一) 立命館法学 248 号 一柳直子

□国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)活動の評価とその教訓(一)、(二)-カンボジア紛争をめ

ぐる国連の対応(一九九一-一九九三) 立命館法学 252,254 号

・参考 URL

http://www.un.org/Depts/dpko/dpko/index.asp

⇒各 PKO のマンデート、指標などを見ることができます(英語)。関連文書へのリンクもあり、リサーチの

際はぜひ。

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