27
第1章 山科区の沿革 山科区のあゆみ 山科地域にあった安朱村ほか 22 村が,明治 22 年の町村制施行 ですべて山科村となり,大正 15 10 月には宇治郡山科町となり ました。 その後,昭和6年 4 月に宇治郡山科町から京都市東山区に編入 され,昭和 26 年6月に東山区役所山科支所が開設されました。 昭和 33 年以降に始まった名神高速道路の建設で,国道1号線と 結合する京都東インターチェンジが設けられ,昭和 42 年には国道1号線(五条バイパス) 及び外環状線が開通し,交通の要衝として急速に発展。山科地域の急激な人口の増加が始 まったことをうけ,昭和 51 10 月,東山区から旧山科地域が山科区として分区され,現在 の山科区となりました。 近年は,平成9年の地下鉄東西線の開通,平成 10 年の山科駅前再開発整備事業の完了な どのビッグプロジェクトが成功するとともに,平成 10 年の山科地域体育館及び平成 12 年の 山科総合福祉会館及びエコランド音羽の杜の建設,平成 20 年の阪神高速8号京都線(稲荷 山トンネル)開通などにより,都市機能が充実し,まちの様相は大きく変貌しつつあります。 山科区のシンボルマーク 平成 18 10 月1日,山科区誕生 30 周年を記念し,一般公募のうえ, 制定しました。 「水と緑と歴史に彩られたまち山科」をイメージしており,山科の 「Y」をモチーフとして,芽生えた双葉から「緑」,取り囲む楕円形で 「水」, 巡る様子で「歴史」を表現しています。 また,全体を斜めにすることで躍動感を表し,山科区の進歩と発展を願うデザイン となっています。 山科区の人口・世帯数の推移 (全て 10 ) (単位:人) 世帯数 (単位:世帯) 総数 昭和 55 136,318 66,572 69,746 45,900 昭和 60 136,954 66,439 70,515 46,299 平成2年 136,070 65,446 70,624 47,635 平成7年 137,104 65,496 71,608 50,951 平成 12 137,624 65,589 72,035 53,741 平成 17 136,670 65,206 71,464 56,429 平成 22 136,045 64,866 71,179 58,321 平成 29 134,706 63,733 70,973 61,084 出典:国勢調査(平成 29 年のみ京都市推計人口) 山科区のシンボルマーク 山科区の全景

山科区の沿革 - Kyoto...第1章 山科区の沿革 山科区のあゆみ 山科地域にあった安朱村ほか 22 村が,明治22年の町村制施行 ですべて山科村となり,大正

  • Upload
    others

  • View
    0

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: 山科区の沿革 - Kyoto...第1章 山科区の沿革 山科区のあゆみ 山科地域にあった安朱村ほか 22 村が,明治22年の町村制施行 ですべて山科村となり,大正

第1章 山科区の沿革

◆ 山科区のあゆみ

山科地域にあった安朱村ほか 22村が,明治 22年の町村制施行

ですべて山科村となり,大正 15年 10月には宇治郡山科町となり

ました。

その後,昭和6年 4月に宇治郡山科町から京都市東山区に編入

され,昭和 26年6月に東山区役所山科支所が開設されました。

昭和 33年以降に始まった名神高速道路の建設で,国道1号線と

結合する京都東インターチェンジが設けられ,昭和 42年には国道1号線(五条バイパス)

及び外環状線が開通し,交通の要衝として急速に発展。山科地域の急激な人口の増加が始

まったことをうけ,昭和 51年 10月,東山区から旧山科地域が山科区として分区され,現在

の山科区となりました。

近年は,平成9年の地下鉄東西線の開通,平成 10年の山科駅前再開発整備事業の完了な

どのビッグプロジェクトが成功するとともに,平成 10年の山科地域体育館及び平成 12年の

山科総合福祉会館及びエコランド音羽の杜の建設,平成 20 年の阪神高速8号京都線(稲荷

山トンネル)開通などにより,都市機能が充実し,まちの様相は大きく変貌しつつあります。

◆ 山科区のシンボルマーク

平成 18年 10月1日,山科区誕生 30周年を記念し,一般公募のうえ,

制定しました。

「水と緑と歴史に彩られたまち山科」をイメージしており,山科の

「Y」をモチーフとして,芽生えた双葉から「緑」,取り囲む楕円形で

「水」, 巡る様子で「歴史」を表現しています。

また,全体を斜めにすることで躍動感を表し,山科区の進歩と発展を願うデザイン

となっています。

◆ 山科区の人口・世帯数の推移

(全て 10月)

人 口 (単位:人) 世帯数

(単位:世帯) 総数 男 女

昭和 55 年 136,318 66,572 69,746 45,900

昭和 60 年 136,954 66,439 70,515 46,299

平成2年 136,070 65,446 70,624 47,635

平成7年 137,104 65,496 71,608 50,951

平成 12 年 137,624 65,589 72,035 53,741

平成 17 年 136,670 65,206 71,464 56,429

平成 22 年 136,045 64,866 71,179 58,321

平成 29 年 134,706 63,733 70,973 61,084

出典:国勢調査(平成 29年のみ京都市推計人口)

山科区のシンボルマーク

山科区の全景

Page 2: 山科区の沿革 - Kyoto...第1章 山科区の沿革 山科区のあゆみ 山科地域にあった安朱村ほか 22 村が,明治22年の町村制施行 ですべて山科村となり,大正

2

~トピックス~「昔あった建物いろいろ」

大正 10 年から昭和 45 年まで,山科中央

公園の近くに大きな敷地をもった鐘紡の工場

がありました。現在ここには,山科団地,安

祥寺中学校,山科郵便局,山科消防署などが

建ち並んでいます。

昭和 34 年製作のコメディ映画「危険旅行」

で京津線の線路やこの食堂がロケに使われ話題

になりました。中村登監督の作品で,高橋貞二

や有馬稲子,トニー谷などが出演。この写真は

昭和 28 年,「まるきん食堂」の開店時のもので

す。昭和 41 年頃まで山科駅前にありました。

山科映画劇場は昭和2年,山科京極付近に

開館しました。当時は,鐘紡の女工さんもよ

く観に行ったそうです。この建物は昭和 50

年頃までありました。写真は東海道線電化を

祝うため義士行列が出されて,映画劇場前で

記念撮影をしたときのものです。この義士行

列は現在の義士まつりのルーツになりまし

た。

昭和 43 年頃から昭和 45 年頃まで,現在

の音羽病院がある場所に,山科観光ホテルが

開業していました。昭和 55 年に同病院とな

り,現在に至っています。

出典:写真集モノクロームヤマシナ(平成 18 年3月発行)

① 鐘紡山科工場

② 山科駅前の食堂

③ 山科の映画館

④ 山科観光ホテル

Page 3: 山科区の沿革 - Kyoto...第1章 山科区の沿革 山科区のあゆみ 山科地域にあった安朱村ほか 22 村が,明治22年の町村制施行 ですべて山科村となり,大正

3

第2章 山科区の出来事(平成 22年 5月~)

公式テキスト『京都山科 東西南北』刊行年(平成 22年)以降の,山科区の出来事を

まとめました。

◆ 清水焼団地が創立 50周年

平成 23年,東山区の五条坂等から移転し誕生した「清水焼団地」が創立

50周年を迎えました。平成 22年7月には,同団地の茶碗をモチーフにした

キャラクター「きよまろ」が誕生しました。

「きよまろ」は,「もてなすくん」(※)とともに,山科区制 40 周年記念

事業応援大使としても活躍しました。

※「もてなすくん」については,公式テキスト p13を御覧ください。

◆ 山科こども歌舞伎塾 結成

平成 23年,山科区内の幼稚園児等により平成 21年から公演が始まった「山科こども歌舞

伎」を,過去に出演した卒園生を集め後進に継承し,本格的な歌舞伎に高めようと,「山科

こども歌舞伎塾」が結成されました。

※ 現在は活動を休止しています

◆ 地下鉄・市バス応援キャラクター「小野 ミサ」「小野 陵」誕生

平成 23 年,地下鉄・市バス応援キャラクターの「小野ミサ」が誕生しました。名前は,

地下鉄東西線小野駅に由来しており,既に登場していた「太秦 萌」の幼馴染という設定で

す。

また,平成 28年には,「小野 ミサ」の兄という設定で,新たなキャラクター「小野 陵」

が誕生しました。

◆ 「京阪京津線」が開業 100周年

平成 24 年8月,山科区の御陵駅と大津市の浜大津駅を結ぶ「京

阪京津線」が開業 100周年を迎えました。

同年6月には,100周年を記念し,平成9年の京都市営地下鉄東

西線乗り入れに伴い廃線となった山科区内の駅(日ノ岡駅,九条山

駅)など,浜大津駅から三条駅までの 12 キロを歩いて辿る「記念

ウォーク」が開催されました。

きよまろ

山科区内を走る京津線

<小野ミサ プロフィール>

身長:154cm 体重:46kg

京都市内の高校に地下鉄を使って通う高校 2年生。太秦萌の幼なじみで,あ

るアニメの影響で軽音部に所属し,ギターを担当。二人兄妹の妹で,音楽と植

物が好きなちょっとクールな 女の子。育てている植物はハイ苔で作った苔玉。

運動は苦手なため,ついついエスカレーターを使っちゃう派です。

○c Kyoto Municipal Transportation

<小野陵 プロフィール>

小野ミサの兄。烏丸ミユと同じ大学に通っており,学部は違うが同級生。デ

ザイン系の勉強をしており,デジタルガジェットに精通しているギークでもあ

る。妹のミサには基本そっけなく対応するが,ついつい甘やかす一面も。無駄

なことを嫌う合理主義で,定刻どおりに来る地下鉄が好き。

小野 ミサ

小野 陵

Page 4: 山科区の沿革 - Kyoto...第1章 山科区の沿革 山科区のあゆみ 山科地域にあった安朱村ほか 22 村が,明治22年の町村制施行 ですべて山科村となり,大正

4

◆ 山科図書館が開館 60周年

平成 24年,山科図書館が開館 60周年を迎えました。

開館 60 周年の記念事業の一環として,キャラクター「ぶっくろう」が

誕生したほか,館内に,山科の歴史や文化などを記した本や冊子を集めた

「山科コーナー」が設置されました。

◆ 鏡山循環系統バスが本格運行を開始

平成 27年3月鏡山地域と山科駅を循環するバスが 19年ぶりに復活しました。

平成8年の休止後,“地域の足”として,住民による復活を求める活動が高まり,平成 25

年3月から実証運転が実施されました。現在は,「鏡山循環系統バス」

として,平成 27年3月から本格運行が行われています。

バスの復活以降も,1便あたり 20人の利用数を継続させるため,「お

試し無料乗車券」付広報ビラの作成やチラシの全戸配布,地域の催し

会場での宣伝などの啓発活動を継続しました。その努力が実を結び,

平成 29年 10月 1日からは,従来の 1日 2便(午前 10時台・午後 3時

台)に加え,1便が増便(午後0時台)されることになりました。

◆ 伏見城の採石場跡が発見される

平成 25 年6月,山科区大塚葭ヶ谷の山中で,豊臣秀吉や徳川家康の居城であった伏見城

の石垣の普請に使われた採石場跡が発見されました。

織豊政権期~江戸時代前期の儒医小瀬甫庵が書いた秀吉の伝記『甫庵太閤記』に,伏見城

を築く際に,山科の山中で採石したとの記述があり,発見された遺構は文献史料を裏付ける

ものと考えられています。

採石場跡からは,石を効率的に割るための矢穴があけられた花崗岩 24 個が点在していた

ことが明らかになり,その内,複数個の石には,当該期の大名が採石者を示すために彫った

記号「一に〇」や「四つ目」という刻印が残されています。

◆ 「京都市・大津市間の災害時における避難所の相互利用に関する協定」が締結

平成 26年4月,京都市と大津市は,「京都市・大津市間の災害時における避難所の相互利

用に関する協定」を締結しました。

協定の締結に伴い,山科区音羽学区と大津市藤尾学区の住民が災害時に互いの避難所を利

用できるようになったほか,京都市と大津市は,必要に応じて両市の職員を相手方の避難所

に配置することができるようになりました。

なお,府県境を越えての避難所の相互利用に関する協定の締結は,全国で初めてです。

◆ 山科本願寺の遺構が国史跡に追加指定

平成24年からの新たな発掘調査により,山科本願寺跡の中心部分である御本寺部分から,

石風呂を伴う建物跡等が確認されたことを受け,平成 27 年 12 月,「山科本願寺跡及び南殿

跡」として国史跡の追加指定が行われました。

※山科本願寺については,テキスト p38~p40 を御覧ください。

鏡山循環系統バス

ぶっくろう

Page 5: 山科区の沿革 - Kyoto...第1章 山科区の沿革 山科区のあゆみ 山科地域にあった安朱村ほか 22 村が,明治22年の町村制施行 ですべて山科村となり,大正

5

◆ 山科区公式アプリ「やましなプラス+」運用開始

平成 29 年5月,政令市の行政区で初の総合的な情報を発信する

地域密着型スマートフォン・アプリ「やましなプラス+」の運用を開

始しました。山科区に関する地域情報をニュースやイベントカレンダ

ーで配信するとともに,地下鉄や京阪バスの「ルート検索」,「防災マ

ップ」,区役所窓口の待ち人数表示,歩数に応じてお買い物で使える

ポイントが貯まる「健康ウォーキング」などの便利でお得な機能を提

供しています。

◆ 勧修寺ぶどうイメージキャラクター かんちゃん誕生

平成 29 年4月,山科の特産品の一つである勧修寺ぶどうのPRキャラク

ター「カンちゃん」が誕生しました。ピンクのうさぎの頭がぶどうになって

いるユニークなキャラクターで,勧修寺樹園地組合が製作しました。

◆ 山科中学校創立 70周年

平成 29年4月,山科区初の新制中学校である山科中学校が開校して 70周年を迎えまし

た。山科中学校は,昭和 22 年4月に学制改革により創設,山階・勧修・鏡山・音羽・醍

醐の5小学校を校区として,山階小学校内に併設され,昭和 24 年4月に現在地(当時は

東山区山科東野八反畑町)に移転しました。

◆ 坂上田村麻呂の化身 山科の新ヒーロー「マーロウ」が誕生

平成 29年7月に,山科にゆかりのある征夷大将軍,坂上田村

麻呂をモチーフに,「勧修おやじの会」が新ヒーロー「マーロウ」

を制作しました。「勧修おやじの会」は坂上田村麻呂公園(勧修寺

東栗栖野町)の管理を平成 25年から行っています。マーロウは

「いじめっ子の心の中にある悪」を退治し,山科の活性化,子

育て環境の向上を目指して活動しています。

◆ 京都橘大学開学 50周年

京都橘大学は平成 29年 10月 20日に大学開学 50周年を迎えました。

平成 29 年3月には,山科駅前商店街の一角に京都橘大学サテライト・ラボラトリー『た

ちラボ山科』を開設。『たちラボ山科』は,京都橘大学が立地する山科区とのより一層の連

携を目指し設置され,商店街の活性化や観光振興など地域課題を探る学生の拠点として様々

な活動を展開しています。

◆ 京都市営地下鉄東西線開業 20周年

平成 29年 10月 12日,京都市営地下鉄東西線開業 20周年を迎えました。

平成9年 10 月に「二条~醍醐間」が開業,山科区から市中心部へのアクセスが飛躍的に

向上しました。

平成 16 年 11 月には醍醐駅から六地蔵駅まで,平成 20 年1月には二条駅から太秦天神川

駅までが延伸開通しました。

なお,山科駅~御陵駅間の施工に当たり採用された「4本超近接回転移行シールドトンネ

ル」は,世界初の事例として,平成7年度の「土木学会技術賞」を受賞しました。

カンちゃん

マーロウ

Page 6: 山科区の沿革 - Kyoto...第1章 山科区の沿革 山科区のあゆみ 山科地域にあった安朱村ほか 22 村が,明治22年の町村制施行 ですべて山科村となり,大正

6

◆ 「やましな駅前陶灯路」,京都橘大学「七夕陶灯路」が 10周年

京都の伝統産業である清水焼にロウソクを浮かべて灯りをともし,

それらを並べて幻想的な空間を演出する灯りのイベント,「やましな駅

前陶灯路」(やましな駅前陶灯路実行委員会主催),京都橘大学「七夕陶灯

路」が平成 29 年 10 月と平成 30 年 7 月に,それぞれ 10 周年を迎えま

した。2つの陶灯路は今では山科の夜の風物詩として定着しています。

◆ 東山自然緑地における花の名所づくり

山科区に位置する琵琶湖疏水沿いに整備された緑道である「東山自然緑地」を,平成 28

年度から平成 32年度までの5年間で,『四季の花木を楽しめる京都の新しい花の名所』とす

るため,再整備を行っています。平成 29 年9月に市民の意見を踏まえて「東山自然緑地再

整備計画」を策定し,順次,計画に基づいて再整備を実施しています。

平成 30 年5月には,安朱橋より東側について,新しいトイレの設置や園路舗装等,再整

備工事が概ね完了し,ますます魅力的な公園に生まれ変わりつつあります。

◆ 「琵琶湖疏水通船復活事業」実施

明治期の先人たちが築き上げた貴重な産業遺産である琵琶湖疏水。

明治 23年の竣工以来,旅客・貨物とも大いに利用された通船は,交

通網の発達に伴い昭和 26年にその姿を消しました。

公民の連携により立ち上げた「琵琶湖疏水船下り実行委員会」では,

平成 27年春に試行事業という形で 64年振りとなる通船復活を実現さ

せ,以来,これまでに5度の試行事業を実施してきました。

平成 30年3月から本格運行を開始し,蹴上-大津間を山科を経由

して航行しています。

◆ 第 13代ミス小野小町が決定

隨心院では,世界三大美女に数えられる小野小町ゆかり

のお寺として,聡明さから醸し出される美しさをもつ“現

代の小野小町”を選出しています。審査基準は「美心」。

平成 29 年 11 月には,山科区の京都薬科大学に通う米岡

夏那子さんと,東京で女優・タレントとして活躍する高嶋

香帆さんが第 13代ミス小野小町に選ばれました。

ミス小野小町は,隨心院のはねず踊りなどの行事のみな

らず,警察の啓発活動でビラ配りを行うなど地域の依頼を

受けて様々な活動を行うほか,山科区のPR活動にも従事

しています。

第 13 代ミス小野小町(米岡夏那子さん(左),

高嶋香帆さん(右))

やましな駅前陶灯路

Page 7: 山科区の沿革 - Kyoto...第1章 山科区の沿革 山科区のあゆみ 山科地域にあった安朱村ほか 22 村が,明治22年の町村制施行 ですべて山科村となり,大正

7

◆ 段田安則さん,吉岡里帆さんが「やましな栄誉賞」を受賞

やましな栄誉賞は,文化,スポーツ及び産業の各分野において,全国的に活躍されてい

る山科ゆかりの方を山科区民の総意として表彰しているものです。

平成 30年3月,俳優の段田安則さん,吉岡里帆さんが第 16回やましな栄誉賞を受賞し

ました。

段田 安則さん 京都市立花山中学校卒業。 NHK 大河ドラマ「真田丸」、人気ドラマ「ドクターX ~外科医・大門未知子~第 5シリーズ」のほか、舞 台や映画、テレビドラマに多数出演するなど実力派 俳優として活躍されている。

吉岡 里帆さん 京都市に生まれ、学生生活を山科で過ごす。 NHK 連続テレビ小説「あさが来た」で好演後、ドラ マ「カルテット」「ごめん、愛してる」に出演。 今年はドラマ「健康で文化的な最低限度の生活」に 主演するなど、今、最も旬な俳優として注目されて いる。

<参考> 歴代やましな栄誉賞受賞者

受賞年 受賞者

平成 15年 松井 大輔さん(プロサッカー選手)

平成 16年 中島 知子さん(タレント)

平成 17年 今井 政之さん(陶芸家)

平成 18年 平井 直人さん(元プロサッカー選手)

平成 19年 藤山 直美さん(女優)

平成 20年 田端 泰子さん(歴史学者)

平成 21年 該当者なし

平成 22年 大八木 誉之さん(新潟国体(バスケットボール)優勝)

平成 23年 森田 理香子さん(プロゴルファー)

平成 24年 粟崎 高行さん(第8回国際アビリンピック銅メダル)

平成 25年 永井 奈都さん(プロゴルファー)

平成 26年 森田 理香子さん(プロゴルファー)※特別大賞

平成 27年 竹本 昌生さん(警察犬訓練士)

平成 28年 波留 敏夫さん(元プロ野球選手)

平成 29年 特別賞のみ

平成 30年 段田 安則さん(俳優)

吉岡 里帆さん(俳優)

※第7回(平成 21 年)は該当者なし,第 15回(平成 29 年)は特別賞のみ。

また,やましな栄誉賞の該当者がいない回も,賞の回数に数えられています。

市民しんぶん山科区版 平成 30 年3月 15 日号

Page 8: 山科区の沿革 - Kyoto...第1章 山科区の沿革 山科区のあゆみ 山科地域にあった安朱村ほか 22 村が,明治22年の町村制施行 ですべて山科村となり,大正

8

◆ 山科バルフェスタが第 10回を迎える

山科商店会が平成 26年から開催している「山科バルフェスタ」が平成 30年 10 月に第 10

回を迎えます。山科区内の飲食店が出展する「山科屋台」や,山科にゆかりのある団体,個

人によるパフォーマンスなども盛り上がりを見せ,山科の定番行事となっています。

◆ ラクト山科が 20周年を迎える

山科駅前地区は,JR東海道線,京阪電鉄京津線の駅前に隣接するとともに,バス路線

が集中し,幹線道路が走るという交通の要衝であり,古くから多くの商店街が立地し,発

展してきました。しかし,高度経済成長期に山科区全体が急激な都市化が進んだにもかか

わらず,山科駅前地区については,商店街の近代化の遅れが目立ち,商業活動の停滞感が

生じていました。

そうした状況を踏まえて,道路,地下道,駅前広場などの公共施設の整備,住宅やホテ

ル,商業施設などを配置することで新しいまちづくりを進めるため山科駅前再開発が進み,

平成 10年に「ラクト山科」が誕生しました。

ラクト A 棟には「ホテルブライトンシティ京都山科(平成 30 年 9 月 30 日をもって営業

終了)」の宿泊施設が,ラクト B棟には大丸山科店がキーテナントの「ラクト山科ショッピ

ングセンター」の商業施設,プールゾーン,フィットネスゾーンと多目的ゾーンで構成さ

れた「ラクトスポーツプラザ」が,ラクト C 棟には山科区内における生涯学習や文化の発

信拠点の「アスニー山科」が,ラクト D 棟

には遊戯施設,医療機関等が入りました。

その他にも,市営駐車場、市営駐輪場な

どがあり,山科を象徴する施設として、近

隣住民のみならず、観光客の方にもすっか

り定着してきています。

平成 30 年には,ラクト山科誕生 20 周年

を迎え,様々なイベント,ショッピングセ

ンターでのセール等を行います。

ラクトA(左奥の建物はラクトB)

▲ 施工前の山科駅前の様子 平成4年 12 月 31 日,山科駅前にあ

った公設市場の最終営業日,駅前通公設

市場北側入り口から,西方の和楽園商店

街を写しています。 駅前通公設市場の跡地には,ラクトB

が建設されました。

Page 9: 山科区の沿革 - Kyoto...第1章 山科区の沿革 山科区のあゆみ 山科地域にあった安朱村ほか 22 村が,明治22年の町村制施行 ですべて山科村となり,大正

9

第3章 山科区の「碑(いしぶみ)」

山科区には,1532 年に焼失してしまった山科本願寺をはじめ,目に見える形では残っていな

い歴史が多くあります。

「碑(いしぶみ)」とは,先人の事跡などを後世に伝えるため石に刻み,建てられたものです。

第3章では,京都市歴史資料館が管理するデータベース「いしぶみデータベース」より,山科

区内に建立された「碑」と,それにまつわる歴史をご紹介します。 (注 )区内全ての碑を掲載しているわけではありません。

碑文については,「いしぶみデータべース」でご覧ください。

赤穂義士旧跡(安朱堂ノ後町) 弘化 4年建立

瑞光院はもと上京区堀川頭今宮御旅所下る瑞光院前町に所在

し,現在地へは昭和 37年に移転。江戸時代初期に因幡国若桜藩

主(のち讃岐国丸亀藩主)山崎家が一寺を建立,藩祖山崎家盛

(1567~1614)の院号瑞光院殿から瑞光院と命名された。明暦 3

(1657)年に山崎家が廃絶すると瑞光院もまた廃寺となった。の

ちに播磨国赤穂藩主浅野内匠頭長矩(1665~1701)の妻が瑞光院

二世陽甫宗隣と叔父姪の間柄で,かつこの地が遠祖浅野長政の

邸宅地であったことから,浅野家の武運長久祈願寺として再興

された。元禄 14(1701)年の松の廊下事件で長矩が切腹したのち,

院主宗湫禅師は赤穂藩家老大石良雄と謀りその衣冠を境内に埋

めて供養塔を建てた。浪士切腹ののち,その遺髪は境内に埋め

られ,上に遺髪塚が建てられた。

しかし文政年間に火災に遭い荒廃に帰し,有志により仮殿が

建てられ再興された。以上同寺の履歴は田中緑紅『忠臣蔵名所』

(1958年京を語る会刊)に依拠するところが大きい。

この石標は赤穂義士旧跡瑞光院と瑞光院建立以前から旧地瑞

光院前町にあったという浅野稲荷を示すものである。

旭山古墳群(北花山旭山町) 1981年建立

旭山古墳は,六条山山頂から南斜面にかけて,径 10メートル

程度の円墳が 20基余り点在している古墳群である。調査された

古墳はいずれも 7 世紀初頭のもので,横穴式石室から須恵器の

杯・壺・甕,土師器の甕や鉄釘,金環,刀子などが出土してい

る。この石標は旭山古墳群を示すものである。

Page 10: 山科区の沿革 - Kyoto...第1章 山科区の沿革 山科区のあゆみ 山科地域にあった安朱村ほか 22 村が,明治22年の町村制施行 ですべて山科村となり,大正

10

粟田口名号碑(山科区日ノ岡朝田町) 享保 2年建立

安祥院開基木食養阿(?~1763)は,享保 2(1717)年に京都の葬

送地や刑場(六墓五三昧)に慰霊のため「南無阿弥陀仏」の名号

碑を建立した。この碑はその一で,粟田口の刑場に立てたもの

であるが,のち遺棄され,昭和 8(1933)年の国道改修工事の際

に折れた上半部のみが出土し現在地に据え置かれた。昭和

40(1965)年に下半部を補い復元されている。

「木食養阿上人絵伝」(安祥院蔵)には「三条粟田口御仕置所

は別而重罪超過の所なればとて,石塔も亦余所に過れて大サ壱

丈三尺余」と記す。なお,北面下半部に西光院中興西隠の建碑

と記すことは不詳。

大石遺愛梅(山科区安朱堂ノ後町)

瑞光院はもと上京区堀川頭今宮御旅所下る瑞光院前町に所

在し,現在地へは昭和 37 年に移転。江戸時代初期に因幡国若

桜藩主(のち讃岐国丸亀藩主)山崎家が一寺を建立,藩祖山崎家

盛(1567~1614)の院号瑞光院殿から瑞光院と命名された。明暦

3(1657)年に山崎家が廃絶すると瑞光院もまた廃寺となった。

のちに播磨国赤穂藩主浅野内匠頭長矩(1665~1701)の妻が瑞

光院二世陽甫宗隣と叔父姪の間柄で,かつこの地が遠祖浅野長

政の邸宅地であったことから,浅野家の武運長久祈願寺として

再興された。元禄 14(1701)年の松の廊下事件で長矩が切腹した

のち,院主宗湫禅師は赤穂藩家老大石良雄と謀りその衣冠を境

内に埋めて供養塔を建てた。浪士切腹ののち,その遺髪は境内

に埋められ,上に遺髪塚が建てられた。しかし文政年間に火災

に遭い荒廃に帰し,有志により仮殿が建てられ再興された。

以上同寺の履歴は田中緑紅『忠臣蔵名所』(1958 年京を語る

会刊)に依拠するところが大きい。

この碑は大石良雄遺愛の梅を富岡鉄斎夫人春子が育ててい

たのを,瑞光院へ植え替えたものことを記念するものであろう。

Page 11: 山科区の沿革 - Kyoto...第1章 山科区の沿革 山科区のあゆみ 山科地域にあった安朱村ほか 22 村が,明治22年の町村制施行 ですべて山科村となり,大正

11

大石良雄遺髪塚碑(西野山桜ノ馬場町) 安永 4年建立

播磨赤穂藩主浅野家の家老大石良雄(1659~1703)は,江戸城

内での刃傷沙汰で領地召し上げとなったため,縁戚で浅野家に

仕える進藤源四郎の縁故により,進藤の出身地である山科に居

を構えた。この石標は,大石の遺髪を埋めた塚に建て,その隠

棲の跡を示すものである。

大宅廃寺跡(大宅奥山田)1987年建立

昭和 33(1958)年の発掘調査で,講堂・金堂・中門・南門と推定

される南北に並ぶ四棟の寺院建物跡が見つかり,大宅廃寺と命名

された。この寺は白鳳期に創建され,平安時代に全焼した後,再

び小規模な堂舎が建てられたと推定されている。中臣鎌足(614~

69)建立の山階精舎(山階寺)や豪族大宅氏の氏寺などにも比定さ

れるが確定されていない。この石標はその寺跡を示すものである。

小野小町化粧井戸(小野御霊町)

この地には,絶世の美人として知られる平安前期の歌人小野

小町(生没年未詳)の別荘があったという伝承があり,藪中の井

戸水を小町が利用したことに因んで,その水を化粧水と名付け

たという。この石標はその井戸を示すものである。

小野寺十内室丹子招魂碑(安朱堂ノ後町)

赤穂浪士のひとり小野寺十内(1643~1703)の妻丹(?~1703)

は,夫の切腹後,西方寺(現京都市左京区)に夫の墓を建て,ひ

そかに江戸泉岳寺から夫の首を掘り起こし西方寺に葬った。そ

のあと食を断ち自死したと伝える。丹の墓は本圀寺塔頭了覚院

に建てられたが,了覚院が廃寺になったあと,富岡鉄斎が墓を

引き取ろうとして果たさず,瑞光院にこの招魂碑を妻春子の名

で建立したという。

以上同寺の履歴と招魂碑建立の経緯は田中緑紅『忠臣蔵名所』

(1958 年京を語る会刊)に依拠するところが大きい。なお,丹は

寛政 2(1790)年刊『近世畸人伝』にも大きくとりあげられ,貞女

の範と賞揚されている。

Page 12: 山科区の沿革 - Kyoto...第1章 山科区の沿革 山科区のあゆみ 山科地域にあった安朱村ほか 22 村が,明治22年の町村制施行 ですべて山科村となり,大正

12

御日山神宮碑(日ノ岡一切経谷) 安永 8年建立

日向大神宮は社伝によれば,5世紀末に日向国高千穂の峰から

神霊を勧請して創建されたという。江戸時代初めに徳川家康の

後援により再興され今に至る。伊勢神宮と同じ神明造の内宮・

外宮があり「京の伊勢」といわれて尊崇された。この碑は,そ

の歴史を記した碑である。

花山道路碑(山科区厨子奥花鳥町) 1927年建立

京都大学花山天文台は,昭和 4(1929)年 10 月に京都帝国大学

理学部附属天文台として宇治郡山科町の花山山頂に設置された

が,それに先立ち同天文台への自動車道路が,十六師団隷下の

伏見に駐屯していた工兵第十六大隊により昭和 2(1927)年 10 月

に開通した。この道路は花山道路とよばれ,幅員 3間(約 5.4メ

ートル)で,山麓の京津国道沿線蹴上から天文台まで,延長 2000

メートルにわたる。途中の 8 地点には,トレーミ曲路,オーマ

ー谷,ブルーノ点,コペルニクス転回,ケプラー点,ガリレオ

道,ニュートン凹路,ハーシェル道と,天文学者の名が付けら

れている(『天界』103号掲載「花山天文台」)。この碑は昭和 2

年に工兵第十六大隊によって開かれた花山道路を記念するもの

である。なお,昭和 34(1959)年に開通した東山ドライブウエイ

では,蹴上から約 1 キロメートルの間はこの花山道路と同じ経

路を利用している。

義士遺髪復旧碑(安朱堂ノ後町) 1913年建立

この碑は,明治 43年に京都府師範学校が瑞光院の赤穂義士遺

髪塚に桜を寄進し,植樹するとき土中から遺髪が出てきた。こ

れを元のとおり遺髪塚へ戻した経緯を記した碑である。

愚堂国師入定地(北花山河原町)

愚堂東寔(ぐどうとうしょく,1577~1661)は,美濃国(現在の

岐阜県)に生まれ,妙心寺聖沢院の庸山景庸(1559~1626)に師事

した後,妙心寺住持を三度勤めた臨済宗の高僧。後水尾院(1596

~1680)や徳川家光(1604~51)・保科正之・中院通村など多くの

公家・武家から帰依され,死去の翌年には国師号を授けられ大

Page 13: 山科区の沿革 - Kyoto...第1章 山科区の沿革 山科区のあゆみ 山科地域にあった安朱村ほか 22 村が,明治22年の町村制施行 ですべて山科村となり,大正

13

円宝鑑国師と追諡されている。また正伝寺(岐阜県八百津町)・

中山寺(三重県伊勢市)など,各地に多くの寺院を開いた。近世

初頭における臨済宗復興の先駆的人物であったが,万治元

(1658)年に華山寺を建立して退隠し,この地で入滅した。この

石標は,その愚堂東寔の入滅地を示すものである。

大日寺跡(勧修寺北大日)1976年建立

この地から,第二次大戦前に緑釉骨壺や土器・瓦などが発見

されており,丘陵南斜面の二町四方の地が大日寺寺地であった

と推定されている。『今昔物語集』にはこの寺の僧広道の往生伝

が記されている。この石標は,平安前・中期,この地にあった

大日寺跡地を示すものである。

たたら遺跡(御陵大岩) 1972年建立

日本古来の方法による製鉄をたたら製鉄という。この遺跡は,

比良山系から湖西・湖南地域に分布する製鉄遺跡の一つ,如意

ヶ岳南麓遺跡群に含まれる御陵大岩町遺跡である。これらの地

域の製鉄は 6・7世紀を最盛期とし,鉄鉱石を原料としていたと

考えられている。この石標は,たたら製鉄の遺跡を示すもので

ある。

琵琶湖疏水煉瓦工場跡(御陵原西町)1989年建立

明治 18(1885)年に始められた琵琶湖疏水工事では,あらゆる

箇所で煉瓦を使用する予定であった。しかし,当時の京都には

大量の煉瓦を製造できる工場がないうえ,品質・経費などの諸

事情を考慮した結果,京都府は自営自給することを決め,原料

の採取と製品の運搬に便利なこの地を選び,煉瓦工場を新設し

た。工場は,明治 19(1886)年の 7 月から明治 22 年 10 月末に閉

鎖されるまで稼働し,この間に約 1368万 7000個の煉瓦を焼き,

そのうち約 1073万 600個が疏水工事に使用された。この石標は,

琵琶湖疏水工事に用いた煉瓦を焼いた工場の跡地を示すもので

ある。

Page 14: 山科区の沿革 - Kyoto...第1章 山科区の沿革 山科区のあゆみ 山科地域にあった安朱村ほか 22 村が,明治22年の町村制施行 ですべて山科村となり,大正

14

仏光寺旧址(東野百拍子町)

仏光寺は,建暦 2(1212)年,流罪を解かれ越前から帰京した親

鸞(1173~1262)が,この地に建てた堂舎に始まる。順徳天皇

(1197~1242)から「興隆正法寺」という寺号を賜り,当初は興

正寺と号した。その後,第七代了源(1295~1335)が東山渋谷の

今比叡に移し,寺号を仏光寺に改めた。一説によると山科興正

寺を建立したのも了源という。なお,仏光寺が現在地(下京区高

倉仏光寺)に移転したのは天正 14(1586)年である。この石標は,

仏光寺前身興正寺跡を示すものである。

宮道朝臣列子墓(勧修寺西栗栖野町)1972年建立

宮道列子(?~907)の墓は,栗栖野丘陵にある中臣十三塚古墳

群の一つ。円墳で周囲に空堀がある。列子は,宇多天皇(867~

931)女御で,醍醐天皇生母である藤原胤子(876~96)の母。『今

昔物語集』によると藤原高藤(838~900)が,南山科に鷹狩りを

した際,雨宿りしたのが宇治郡大領宮道弥益(生没年未詳)の家

で,その娘列子と出会い二人の間に胤子らが誕生した。列子は

天皇の外祖母として手厚く葬られた。この石標は宮道朝臣列子

の墓を示すものである。

明治天皇御遺跡(安朱桟敷町)

明治天皇(1852~1912)は,明治元(1868)年 9 月の東幸,同 2

年 3 月の還幸,同 11 年 10 月の還幸の途中,毘沙門堂領地内で

東海道沿いのこの地にあった茶店奴茶屋に駐輦した。奴茶屋は,

片岡丑兵衛という勇猛な弓の達人が,街道に出没した盗賊を討

ち取り,文安 4(1447)年,茶店を建てて旅人を送迎したことには

じまると伝える。以後,茶店,宿場,本陣として利用された。

この石標は,明治天皇が立ち寄った奴茶屋を示すものである。

なお,奴茶屋は,平成(1994)年に山科駅前再開発に伴い建物を

取り壊し移転した。

Page 15: 山科区の沿革 - Kyoto...第1章 山科区の沿革 山科区のあゆみ 山科地域にあった安朱村ほか 22 村が,明治22年の町村制施行 ですべて山科村となり,大正

15

山階寺跡(御陵大津畑町) 2008年建立

この石標は,藤原鎌足によって創建された山階寺の地を示す

ものである。山階寺については,石標の横に設置された解説パ

ネルに最新の研究成果が記されているのでこれに譲る。

【解説パネル】

山階寺は七世紀後半、藤原鎌足により創建された寺院。中大

兄皇子(天智天皇)と共に大化改新を成し遂げた鎌足の「山階

陶原家付属の持仏堂」が始まりと推定される。

奈良時代の興福寺に関する史料(『興福寺流記』所引「宝字記」)

には、「鎌足は改新の成功を祈って、釈迦三尊像・四天王像を造

ることを発願した。事が成就した後、山階の地で造像を行った。

やがて重病になり、妻の鏡女王の勧めで伽藍を建て仏像を安置

した。これが山階寺の始まりである」と記されている。

その所在地は大宅廃寺説や中臣遺跡説もあるが、山科駅西南、

御陵大津畑町を中心とした地域にあったとする説が有力である。

付近から有力な遺跡は見つかっていないが、この辺りは大槻里

と呼ばれ、西隣の陶田里にかけてが陶原であったらしい。鎌足

の子の不比等が育った「山科の田辺史大隅らの家」も近くにあ

った。

山科寺はその後、大和に移り厩坂寺と呼ばれ、更に平城京に

移り興福寺となる。このため興福寺は山階寺とも呼ばれた。天

智天皇の腹心であり、藤原氏の始祖となる鎌足は、山階と深い

関係があったのである。

山科本願寺跡(西野山階町)1977年

本願寺八世蓮如(1415~99)は,寛正 6(1465)年に大谷の親鸞廟

が比叡山の攻撃により破壊されると,各地で布教を行った後,

文明 10(1478)年,名主海老名氏から寺地の寄進を受けた山科の

地に本願寺を再建して布教の本拠地とした。天文元(1532)年,

細川晴元(1514~63)率いる軍勢による攻撃で焼け落ちた。この

石標は山科本願寺跡を示すものである。なお,附近には山科本

願寺土塁跡が残されている。

Page 16: 山科区の沿革 - Kyoto...第1章 山科区の沿革 山科区のあゆみ 山科地域にあった安朱村ほか 22 村が,明治22年の町村制施行 ですべて山科村となり,大正

16

山科本願寺土塁跡,山科本願寺土塁跡南西角

(西野阿芸沢町)1972年建立

本願寺八世蓮如(1415~99)は,文明 10(1478)年山科に本願寺

を再建した。寺域は,堂舎が立ち並ぶ御本寺,僧侶や職人・商

人の居住する内寺内,外寺内の三つの郭から構成され,周囲に

は土塁や堀が廻らされていた。この地は内寺内の北西部に当た

る。この石標は山科本願寺の土塁跡を示すものである。

Page 17: 山科区の沿革 - Kyoto...第1章 山科区の沿革 山科区のあゆみ 山科地域にあった安朱村ほか 22 村が,明治22年の町村制施行 ですべて山科村となり,大正

17

付録 元山科図書館長による

「山科ゆかりの文学シリーズ」

「山科ゆかりの文学シリーズ」は,元山科図書館館長 仁科周博氏に山科区公式

アプリ「やましなプラス+」に寄稿していただいているコラムです。

山科が舞台となって登場する古典文学,小説などの紹介を中心に,平成 30 年9月時点

で第8回まで掲載しています。

Page 18: 山科区の沿革 - Kyoto...第1章 山科区の沿革 山科区のあゆみ 山科地域にあった安朱村ほか 22 村が,明治22年の町村制施行 ですべて山科村となり,大正

山科ゆかりの文学シリーズ①

松尾芭蕉と山科-『野ざらし紀行』の旅-

「ええっ!あの松尾芭蕉が山科に来てたの?」

「知らなかった!」という方も多いのではない

でしょうか。

貞亨 2年(1684)の春、松尾

芭蕉(1644 年-1694 年)は、『野

ざらし紀行』の旅の途中、山科

から小関越(おぜきごえ)を通

り大津に向かったといわれて

います。

このとき芭蕉は、山にすみれが咲いているのを

見て、「山路(やまじ)来て 何やらゆかし すみれ

草」という『野ざらし紀行』を代表する秀句を詠

んでいます。山路で出会ったすみれの可憐な花が

旅路の心をひきつけ、芭蕉は詩心を動かされたの

でしょう。

ところで、この句は、

平安時代の歌人大江

匡房(おおえのまさふ

さ)が詠んだ和歌、「箱

根山 薄紫のつぼすみ

れ ふたしほみしほ

たれか染めけん」を下

敷きにしているとい

われています。そうだとすると、芭蕉が見たすみ

れの種類は、つぼすみれだったのでしょうか。

大津では、「辛崎(唐崎)の 松は花より 朧(お

ぼろ)にて」という幻想的な句を残しています。

大津から唐崎の名木の松を眺めた情景を詠んだも

のです。

*松尾 芭蕉(まつお ばしょう)[1644~1694]

江戸時代前期の俳人。現在

の三重県伊賀市出身。藤堂

良忠に仕えて俳諧を学び、

京都で北村季吟に師事。の

ち江戸に下り、深川の芭蕉

庵に住み、談林風の俳諧を

脱却して、蕉風と呼ばれる

芸術性の極めて高い句風を

確立。各地を旅して発句や紀行文を残し、旅先の

大坂で病没。俳諧(連句)の芸術的完成者であり、

後世では俳聖として世界的にも知られる、日本史

上最高の俳人の一人である。

*「野ざらし紀行」

芭蕉の最初の紀行文。貞亨元年(1683)8 月から

翌年 4 月まで、江戸から東海・近畿などを旅し、

折々の旅情をまとめたもの。

Page 19: 山科区の沿革 - Kyoto...第1章 山科区の沿革 山科区のあゆみ 山科地域にあった安朱村ほか 22 村が,明治22年の町村制施行 ですべて山科村となり,大正

19

山科ゆかりの文学シリーズ②

仮名手本忠臣蔵「山科閑居の段」

『時は元禄(げんろく)15 年、師走半ばの 14

日、江戸の夜風を震わせて、響くは山鹿流(やま

がりゅう)の陣太鼓…』

この名調子を聞けば、年末の風物詩『忠臣蔵』

の赤穂浪士討入りの名場面が目に浮かびます。

歌舞伎や文楽で演じられ不朽の名作とされる

『仮名手本忠臣蔵

(かなでほんちゅう

しんぐら)』全十一段

の中から、「山科閑居

の段」をご紹介いた

しましょう。

*** 山科閑居の段 ***

大石内蔵助は息子の主税(ちから)とともに、

主君・浅野内匠頭の無念を晴らそうと、ひそかに

山科の閑居で、吉良上野介邸討入の準備をしてい

た。

主税は小浪(こなみ)といいなずけであったが、

浅野家がお取り潰しになったことから、二人の間

はすっかり疎遠(そえん)になっていた。主税と

添い遂げられないことを悲しむ娘を見て、母の戸

無瀬(となせ)は、この上は、改めて、娘・小浪

を主税の嫁にしてもらおうと、供も連れずに母娘

ふたりで、内蔵助たちのいる山科へと向った。

内蔵助と主税は不在。内蔵助の妻・お石は、結

婚の申し出を拒絶する。というのも、かつて殿中

松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に切つけたと

き、小浪の父の本蔵(ほんぞう)がこれを制止し、

とどめを刺すことができなかったからである。内

蔵助たちは本蔵を恨みに思っていた。

「本蔵の首と引き換えなら結婚を許す」という

お石の言葉に、娘の幸せを叶えたい本蔵は、自ら

主税の槍(やり)に突かれて死ぬ。息絶える間際

に、本蔵は婿(むこ)への引出物として、吉良邸

の絵図面を内蔵助に手渡す。この絵図面により討

ち入りを果たすのである。

「山科閑居の段」は、忠臣蔵の中でもたいへん重

要な場面で、歌舞伎で演じるのは一座の最高位の

女形、文楽では最高位の太夫(たゆう)でなくて

は語ることができないとされています。

お芝居では、登場人物は、大石内蔵助を「大星

由良之助(おおほしゆらのすけ)」、吉良上野介(き

らこうずけのすけ)を「高師直(こうのものなお)」

とするなど、実名は他の名前に置き換えられてい

ます。

大石内蔵助(おおいしくらのすけ)閑居(かん

きょ)の地・山科では、毎

年 12 月 14 日、討ち入りの

日にちなみ「山科義士まつ

り」が盛大に行われます。

この日、義士行列と並ん

で見逃せないのが「山科こども歌舞伎」(※)です。

子どもたちの演じる忠臣蔵は、かわいらしく、し

かし豊富な稽古に裏打ちされた名演技は感動もの

です。

【仮名手本忠臣蔵】

元禄時代に起こった赤穂浪士 47 人による仇討ち

を劇化したもの。寛永元年(1748 年)人形浄瑠璃

(じょうるり)芝居の竹本座で初演。47 人をイロ

ハ仮名 47文字にたとえ、武士の「手本」とした題

名。

※現在は活動を休止しています。

Page 20: 山科区の沿革 - Kyoto...第1章 山科区の沿革 山科区のあゆみ 山科地域にあった安朱村ほか 22 村が,明治22年の町村制施行 ですべて山科村となり,大正

20

山科ゆかりの文学シリーズ③

「深堀り京都さんぽ」

通も唸(うな)る穴場満載のコミック・エッセ

イ、グレゴリ青山さんの『深掘り京都さんぽ』(京

都ガイド本大賞・リピーター賞受賞)から、“知ら

れざる山科”を紹介いたしましょう。

グレゴリ青山さんは、1966 年京都市生まれ・亀

岡市在住。自身の旅やまち歩きの体験をコミッ

ク・エッセイで描いている漫画家・イラストレー

ターで、『京都「トカイナカ」暮らし』『薄幸日和』

『ねうちもん京都』など、京都にまつわる作品も

数多く執筆されています。

今回、グレゴリさんは、古くからの友人で山科

出身の「梅ちゃん」の「いっぺん来て!いいとこ

やし」の言葉に誘われて、梅ちゃんのガイドで山

科を歩くことに。「深掘り京都さんぽ」の中でその

様子が紹介されています。山科の方ならピンとく

る地元スポットが数多く紹介されていますよ!

* 深掘り京都さんぽ~知られざる山科編~*

グレゴリさん

と梅ちゃんが最

初に訪れたのは、

地下鉄東西線「御

陵」駅から北へ徒

歩 10 分の旧鶴巻

邸。ふだん公開さ

れていないのであまり知られていないのですが、

知る人ぞ知る近代日本を代表する名建築です。グ

レゴリさん、さすが目のつけどころが違います。

旧鶴巻邸から疏水沿いの遊歩道を歩き、美しい

紅葉にグレゴリさん「おおおッめっちゃキレイ」

と大感激。毘沙門さんでも「すごい“秋の京都紅

葉ツアー”のパンフレットの表紙を飾るような景

色や」と“知られざる山科”にすっかり魅了され

てしまいます。

この後、かなりディー

プな山科に出会います。

地下鉄東西線に乗って

「東野」駅へ。ここから

北西へ 10 分ほど歩くと

西野の住宅街の中に謎

に包まれた石積みの巨大なオブジェのようなもの

が。「な・・・何これ」・・・さて皆さんは何だか

わかりますか?これって、第1回の山科検定の問

題にも出てましたよね。

最後は、梅ちゃんの

言う「山科人の大切な

場所」、山科団地の「た

こ公園」!

突如現れた巨大なタコ

の滑り台に、グレゴリ

さんと梅ちゃんは童心にかえって大はしゃぎして

しまうのです。

*****

グレゴリさんの“知られざる山科”、いかがでし

たか?この本、さらりと見所を紹介しているよう

でいて実はなかなか奥が深いのです。旧鶴巻邸を

はじめ、もてなすくんや毘沙門堂の動く襖絵、国

史跡指定の山科本願寺跡(さっきの答えわかりま

した?)、そして、山科っ子なら誰もが知ってる「た

こ公園」など、“山科の大切なもの”がしっかりと

押さえられています。

でも、山科にはまだまだたくさんの“宝もの”

がありますよね。今度、グレゴリさんが山科に来

る機会があったら、みんなで山科の素敵なところ

をたくさん紹介してあげましょう。

Page 21: 山科区の沿革 - Kyoto...第1章 山科区の沿革 山科区のあゆみ 山科地域にあった安朱村ほか 22 村が,明治22年の町村制施行 ですべて山科村となり,大正

21

山科ゆかりの文学シリーズ④

「小野小町の七変化(へんげ)」

平安時代前期の代表的歌人で「六歌仙」の一人、

“絶世の美女”として知られる小野小町。小町が

多くの男性と交わした恋の歌から、宮中での華や

かな生活がしのばれます。しかし、謡曲(ようき

ょく・能の台本)などでは、全盛期とは一転し、

老いて落魄(らくはく・落ちぶれた様)した晩年

の小町の姿が描かれています。

「花の色は うつりにけりな いたづらに わ

が身世にふる ながめせしまに」

【『百人一首』・『古今和歌集』】

歌意:桜の花の色は、むなしく衰え色あせてし

まった、春の長雨が降っている間に。ちょうど私

の美貌(びぼう)が衰えたように、恋や世間のも

ろもろのことに思い悩んでいるうちに。

容姿の移ろいとともに様々に変化していく境遇

を、小町はこのような歌で表しています。

時代は下って元禄 3 年(1690)、大津の地で、松

尾芭蕉は「名月や海にむかへば七小町」という句

を詠んでいます。

琵琶湖の水面を眺め、小野小町が絶世の美女か

ら老衰へ七変化する様を描いた謡曲「七小町」を

ふまえて、時間とともに推移する湖水の妖艶(よ

うえん)さを吟(ぎん)じたものです。

「七小町」のうち、『通小町』で語られる「深草

少将の百夜(ももよ)通い」は、山科・小野の地

に伝えられています。

小野小町を恋慕う深草少将に、小町は自分のこ

とをあきらめさせようと「百夜訪ねて来てくれた

なら、お心に従いましょう」と告げると、少将は

それから小町のもとへと毎晩通うが、最後の夜に

力尽きて息絶えます。

男の愛情をもてあそんだ小町の驕慢(きょうま

ん)な性格が描かれており、このようなイメージ

が盛者必衰の無常観と結びついて、後世、老いて

落魄した小町の説話が生まれたとのではないかと

考えられています。

小町は、宮仕えを辞した後、山科の小野で過ご

したと言われおり、山科を代表する門跡寺院の一

つである隨心院は、「小野小町」ゆかりのお寺とし

ても知られています。

毎年 3月の最終日曜日、「はねず踊り」が催され、

華やかに着飾った少女たちが梅の小枝を手に持ち、

「百夜通い」の童

歌に合せて舞い踊

ります。

梅の名所としても知られる隨心院。小野小町の

生涯に思いを馳せながら、訪れてみてはいかがで

しょうか。

■七小町

七つの謡曲、『洗草子(あらいそうし)小町』『通

(かよい)小町』『卒塔婆(そとば)小町』『鸚鵡

(おうむ)小町』『関寺(せきでら)小町』『雨乞

小町』『清水小町』をいい、若かりし頃の恋や老い

て落魄した逸話、秀でた歌人だったことなどが巧

に盛り込まれ、小町の人物像を伝えています。

Page 22: 山科区の沿革 - Kyoto...第1章 山科区の沿革 山科区のあゆみ 山科地域にあった安朱村ほか 22 村が,明治22年の町村制施行 ですべて山科村となり,大正

22

山科ゆかりの文学シリーズ⑤

宮沢賢治の京都修学旅行と“山科のたけのこ”

「銀河鉄道の夜」や「雨ニモマケズ」などの作品

で知られる、詩人で童話作家の宮沢賢治(みやざ

わけんじ)。本格的に詩や童話を書く前の少年期か

ら青年期にかけて、数多くの短歌を詠(よ)んで

います。賢治の学生時代の京都修学旅行と、その

ときに詠んだ “山科のたけのこ”の短歌を紹介し

ます。

大正 5 年(1916)3 月、盛岡高等農林学校農学

科 2年の宮沢賢治は、修学旅行で京都を訪れます。

修学旅行の主な目的は、関東・関西方面の農事試

験場・農学校を見学することでしたが、京都では

観光も楽しみました。賢治の同級生の修学旅行日

報によると、一行は 3月 23 日から 27日まで京都

方面に滞在、 26 日の日報には、山科について次

のような記述が見られます。

「宿から京津電車で大津へ向かう。山科辺を過

ぐ。大石良雄に有名たり名所旧跡多し追分過ぎて

大津に着く。滋賀県立農事試験場参観。三井寺、

石山寺参拝。京都へ向かう。帰りは二途に分かれ

た。我々は電車で大津へそれから和船で疏水を下

った。疏水の三つのトンネルは明治 15 年頃の工事

としては大事業であったと思われた。有名なるイ

ンクライン・南禅寺を見て宿に帰った」

賢治はこの修学旅行

で、“山科のたけのこ”

の歌を詠みましたが、

大津から船で疏水を下

って山科を訪れたのか

もしれません。

「山しなの たけのこばたの うすれ日に そ

らわらひする商人のむれ」

「たけのこばた」は、たけのこの畑で、肥土を

ふっくりと盛って栽培されています。山科盆地に

はそのたけのこ畑がとくに多かったのです。

早春のたけのこ畑は明るく、林立する竹幹の葉

を通して漏れる「うすれ日」のやわらかな光の底

に、「はしり相場」の一もうけに胸打ち震わせる商

人の群れを、賢治は見たのです。

当時、“山科のたけのこ”は全国ブランドの高級

品でした。旧追分宿の奈良街道と旧東海道の分岐

点には、明治 40 年、山科藤尾筍(たけのこ)組合

がその功績を称えて建立した頌徳(しょうとく、

徳をたたえる)碑が立っています。碑の東側が筍

の入札場(集荷場)でした。東北の農民生活の向

上に力をつくした賢治は、たけのこの栽培とその

商品価値に対して強い関心があったのかもしれま

せん。

大正時代、あの宮沢賢治が“山科のたけのこ“に

興味をもち、この地を訪れていたかも知れないと

思うと、とてもロマンティックな気分になります。

■宮沢賢治(1896-1933)

明治 29 年、岩手県花巻生れ。1921(大正 10)年

から 5 年間、花巻農学校教諭。仏教(法華経)信

仰と農民生活に根ざした創作を行い、農業技術指

導、レコードコンサートの開催など、農民の生活

向上をめざし粉骨砕身するが、理想かなわぬまま

過労で肺結核が悪化、最後の 5 年は病床で、作品

の創作や改稿を行った。

Page 23: 山科区の沿革 - Kyoto...第1章 山科区の沿革 山科区のあゆみ 山科地域にあった安朱村ほか 22 村が,明治22年の町村制施行 ですべて山科村となり,大正

23

山科ゆかりの文学シリーズ⑥

五木寛之『冬のひまわり』

この小説のヒロイン・ 遠野 麻子 は、山科の本

願寺別院近くの古い宿屋「加賀屋」の娘。

物語は、恋と人生に深い悩みをかかえる麻子が、

親鸞ゆかりの日野・法界寺の阿弥陀堂の中で祈る

ところから始まります。誠実で信心深い夫・良介

とともに加賀屋で穏やかに暮らしていた麻子には、

東京でデザイン会社を経営する 森谷 透 という

ずっと想い続ける人がいました。

麻子と森谷が初めて出会ったのは鈴鹿サーキッ

ト。麻子 16 歳、森谷 20歳の夏のことでした。

その日の出来事がいつまでも忘れられない二人

は、鈴鹿でオートバイの耐久レースが開かれる真

夏の一日だけ、思い出の場所であるメインスタン

ドの海の見える一角で、逢瀬を重ねてきました。

夫の良介は、二人の関係を知りながら、麻子を

愛し、大切に見守っています。

森谷に出会ってから 20 年の歳月が流れた夏の

日、また鈴鹿で耐久レースがやって来ました。良

介の子を身ごもっていた麻子は、「これからもずっ

と森谷を愛し続けるのか、それともきっぱりと関

係を絶って夫のもとに帰るのか」を決心しようと

します。

その日、森谷は鈴鹿のメインスタンドのいつも

の場所で麻子を待ちましたが、麻子は反対側のパ

ドック席で彼を見守っていました。

「8 時間のこの耐久レースが終わるまで、彼が

その場所を動かず立ち続けていたならば、わたし

は森谷のところへ走っていこう。靴をぬぎすてて、

サングラスもほうり出して、一直線にあの人にぶ

つかってゆく。会いたかった、と言おう。さびし

かった、と言おう。そして、うれしい!と大声で

叫んでしまおう。だが、しかし。レースが終了す

る前、あのチェッカーフラッグが振られる前に彼

の姿があの場所から消えたなら、それは彼がわた

したちの約束の場所を見捨てたことになる。もし、

そうなったら私は山科へ帰ろう」…麻子は、心に

そう誓います。

真夏の炎天下、麻子を待ち続ける森谷。

しかし、レースが終わるまでに力尽きて倒れ、

麻子の視界から消えてしまいます。

(帰らなくては・・・)

物語の最後、麻子は「ながいあいだ、ごめんな

さい。わたし、もうどこにもいきません」と心に

誓い、夫・良介のもとに帰ってゆきます。

物語は、静かな山科と熱気あふれる夏の鈴鹿サ

ーキットを行き来します。それはまるで、古風で

控えめ目だが、夏が来るたびに森谷への想いに烈

しくゆれる麻子の心と対をなしているようです。

小説では、山科駅前の雑踏、音羽山の麓(ふも

と)の山里の様子、蓮如聖人の墓所にかつて池が

あったことなど、山科の風景も丹念に描かれてい

ます。

このコラムを執筆するに当たって、小説の舞台

となった加賀屋を探すため、山科のまちを何度も

歩き、古い地図も調べてみました。しかし、どう

しても見つけることができませんでした。

ただ、本願寺別院界隈には、『冬のひまわり』に

描かれた風情ある雰囲気がそっくり残っていて、

心ゆくまで小説の世界に浸ることができました。

ひょっとすると、仏教・浄土思想に関する著作も

多い五木氏は、日野で始

まり、山科で終える物語

を通して、親鸞(日野)

と蓮如(山科)をつない

でいるのかもしれません。

これほど山科の情景が多く語られている小説は

他にないように思えます。きっと五木氏も、山科

のまちを何度も歩いたのでしょう。

Page 24: 山科区の沿革 - Kyoto...第1章 山科区の沿革 山科区のあゆみ 山科地域にあった安朱村ほか 22 村が,明治22年の町村制施行 ですべて山科村となり,大正

24

山科ゆかりの文学シリーズ⑦

6 月 10 日は山科駅の「不如帰(ほととぎす)記念日」

ねんてんさんの愛称で親しまれている俳人の坪

内稔典(つぼうちねんてん)氏、彼のエッセイ集

『ヒマ道楽』のなかに、小説『不如帰(ほととぎ

す)』が紹介されています。徳富蘆花(とくとみろ

か)著『不如帰』は、国民的人気を博した明治期

最大のベストセラーで、家族制度の悲劇を扱った

小説です。ヒロイン浪子は当時不治の病であった

肺結核にかかり、夫、武男が日清戦争へ出征中に

離縁されてしまいます。

小説のなかで、悲劇のヒロイン浪子と夫武男の

最後の別れとなる舞台は旧国鉄山科。小説のクラ

イマックスシーンです。

-----------------------------------

『ヒマ道楽』―東海道本線山科駅よりー

小説『不如帰』では、肺結核にかかったため浪

子が離縁される。当時、肺結核は不治の病、子ど

もが産めなくなるので家がつぶれる、というのが

離縁の理由であった。離婚後、浪子は父に連れら

れて京都に旅行した。この世の見納めの旅だった。

宇治の萬福寺(まんぷくじ)を見学したあと、

人力車で山科駅に来た浪子は、大津に出るために

上りの列車に乗って出発を待っていた。その時、

下りの列車が入ってきた。入れ違いに浪子の列車

が動き出した。止まった列車の窓に頬杖(ほおづ

え)をついている洋装の男がいた。

「まッ あなた!」

「おッ 浪さん!」

こは武男なりき。

車は過ぎんとす。狂せるごとく、浪子は窓の外に

のび上がりて、手に持てるすみれ色のハンケチを

投げつけつ。武男も身を乗り出し、浪子の投げた

すみれ色のハンケチを激しく振る。

------------------------------------

ねんてんさんは次のように話しています。

「二つの列車がすれ違ったのは明治 28 年 6 月 10

日。毎年、6月 10 日前後に、私は東海道線の山科

駅に行きたくなる。なんと、実際に何度か行った。

ホームのベンチで文庫本を広げ、『人間はなぜ死ぬ

のでしょう!生きたいわ!千年も万年も行きたい

わ!』と言った浪子のセリフなどを読んだ。変か

なあ、こんな私は。」

ねんてんさんのように、小説の世界で遊ぶって

とても素敵なことだと思いませんか。私は 6月 10

日を、山科駅の「不如帰記念日」にしてほしいと

願っています。

【徳富蘆花:明治元年(1868)~昭和 2年(1927)】

熊本県生まれ。明治 31年(1898)より『不如帰』

を「国民新聞」に連載、ベストセラーとなり映画

や演劇などで数多く上演された。邸宅は、蘆花恒

春園として一般公開されている。

*旧国鉄山科駅

明治 12 年(1879)開

設。駅は地下鉄東西

線「小野」駅付近に

あったが、東海道本

線のルート変更にと

もなって大正 10 年

に現在の場所に移さ

れた。

Page 25: 山科区の沿革 - Kyoto...第1章 山科区の沿革 山科区のあゆみ 山科地域にあった安朱村ほか 22 村が,明治22年の町村制施行 ですべて山科村となり,大正

25

山科ゆかりの文学シリーズ⑧

『今昔物語集』より~勧修寺のロマンス

(玉の輿伝説)~

「今ハ昔」と語り出すおなじみの『今昔物語集』。

今回は、ロマンの香り高い巻 22第 7「高藤内大臣

語(たかふじないだいじんのこと)」を紹介いたし

ます。高藤は、藤原良門(よしかど)の子で冬嗣

(ふゆつぐ)の孫という高貴な生まれの貴公子。

高藤が若き日、鷹狩りに出かけた折に、南山科で

宇治郡大領(郡司、土地の豪族)の宮道弥益(み

やじいやます)の娘・列子(れっし)と、一夜の

夢のような契りをかわすところから話が始まりま

す。

-----------------------------------------

今ハ昔。藤原良門の子で冬嗣の孫にあたる高藤

という人がいた。15、6歳の頃、南山科に鷹狩り

に行ったところ、夕刻になって一転にわかにかき

曇り雷雨が激しくなり、高藤は供の馬飼いととも

に、西の山沿いの人家に雨宿りに駆け込んだ。

その家は身分の高くない者の家であったが、由

緒のありそうな家で、高藤は主人の歓待を受けた。

この家の娘は、13、4歳ばかりであったが、極め

て美麗で気高く見えた。高藤はこの娘に心ひかれ、

秋の長い夜を二人で契り明かした。

翌日、京の家に帰った高藤は、心配した父の良

門に鷹狩りを禁じられた。高藤は娘のことが心に

かかって恋しく思ったが、家の場所をただ一人知

っている馬飼いの男も田舎に帰ってしまったので、

なすべき方法もないままに6年の月日が過ぎた。

そのころ、馬飼いの男が田舎から上京してきたの

で、高藤はこの男に案内させて娘のもとに向うと、

娘は前よりも一段と女らしさが加わり別人かと見

まがうほどに美しくなっている。そして、かたわ

らに5、6歳くらいの言い様もないほどかわいら

しい女の子(胤子・いんし)がいた。かつて高藤

が娘と契りをむすんだ際に生まれた子であった。

高藤は二人を都へ迎え入れた。

さて、この高藤は大変立派な人物で大納言にま

で出世した。姫君の胤子は、宇多天皇の女御にな

って醍醐天皇を生んだ。また、男子二人のうち兄・

定国は右大将、弟・定方は右大臣となった。宮道

弥益は四位に叙せられ、修理大夫(しゅうりだい

ふ)に任じられた。醍醐天皇が即位すると、高藤

は大納言からさらに内大臣にまで昇った。

弥益の家は寺にしたが、今の勧修寺がそれであ

る。また、向かいの東の山のほとりに、弥益の妻

が堂を建てたが、その名を大宅寺(現在不明)と

いう。この弥益の家のあたりをなつかしく慕わし

いものとお思いになったからであろうか、醍醐天

皇の陵は、その家の近くにある。

かりそめの鷹狩りの雨宿りがきっかけでこのよ

うなめでたいことになったのだが、これは(偶然

の出来事ではなく)みな前世からの因縁であった

のだ、トナム語り伝ヘタルトヤ。

-------------------------------------------

勧修寺は宮道弥益の家跡を寺としたもので、醍

醐天皇生母の胤子は21歳の若さで死去し、その

追悼のため醍醐天皇により建立されたといわれて

います。

藤原高藤の子孫の一門は、朝廷の要職を担う者

を多く輩出し、宮廷社会で活躍しました。そして、

この一門は、勧修寺を精神的な拠所(よりどころ)

として結束したので、勧修寺流藤原氏とよばれて

います。

【今昔物語集】

平安時代後期の日本最大の説話集。作者未詳。全

31 巻。「今ハ昔」の冒頭句、「トナム語り伝ヘタル

ニヤ」の末尾句で語られる。全体は、天竺(イン

ド)、震旦(中国)、本朝仏法、本朝世俗の4部に

大別して千余編を収める。仏教史、霊験譚(たん)、

因果応報譚が多い。また世俗界の話柄も豊富。俗

語を交えた自由な和漢混淆(わかんこんこう)文

で書かれ、僧、武士、農民、医師、遊女、盗賊、

乞食から鳥、獣、妖怪変化までに及んでいる。

Page 26: 山科区の沿革 - Kyoto...第1章 山科区の沿革 山科区のあゆみ 山科地域にあった安朱村ほか 22 村が,明治22年の町村制施行 ですべて山科村となり,大正

公式テキスト時点修正事項

公式テキスト ページ数

項目 正誤表

誤 正

7 A○4E A 母子地蔵 疏水の完成から9年後の 疏水の完成から 13年後の

12 A○20E A 京都お箸の文化資料館 閉館した。

14 おもしろ 街道に敷かれた車石

敷設する前に刻んだものか,

車の往来によって削られた

ものかについては,諸説があ

ります。

車の往来によって削られた

もと言われています。

22 イラスト 至 奥醍醐 至 上醍醐

25 A○64E A 大宅一里塚

植えられていたエノキの木

は,平成 28 年9月に倒木し

た。 56 区民誇りの木(E06)エノキ

29 おもしろ 東野にあった「桐材問屋」 現在は,写真の看板について

は取り除かれている。

32 A○79E A 清水焼団地

現在は,「陶器まつり」及び

「楽陶祭」は,統合され,10

月第3金・土・日曜日に「清

水焼の郷まつり」と名前を変

えて開催されている。

45 山科区の年間行事一覧表

33 A○81E A 砥粉工場 現在では「砥之粉」という記

載がよく用いられている。

36 A○92E A 上村堤防(水堤防) 大正後期 明治の後半

39 A○98E A 山科本願寺南殿跡

山科本願寺跡の中心部分で

ある御本寺部分から石風呂

を伴う建物跡等が確認され

たことにより,平成 27年 12

月「山科本願寺跡及び南殿

跡」として国史跡の追加指定

が行われた。

54 山科の指定・登録文化財

39 イラスト 蓮如上人御指図井戸 蓮如上人御指図井

45

山科区の

年間行事

一覧表

わらじ市

現在は,時期及び名称を変え

て開催されている。 三条街道わくわくフェ

スティバル

46 A○109E A 愛宕常夜灯

醍醐街道(東野百拍子町)の

常夜灯は現在撤去されてい

る。

Page 27: 山科区の沿革 - Kyoto...第1章 山科区の沿革 山科区のあゆみ 山科地域にあった安朱村ほか 22 村が,明治22年の町村制施行 ですべて山科村となり,大正

27

50 山科の出

来事(学

区 別 一

覧)

近代(明治)/安朱 1901 母子地蔵堂建立 1903 母子地蔵堂建立

近代(明治)/共通 1876 戊申戦争 1876 戊辰戦争

51 近世(江戸)/百々 1700 大石良雄,山科閑居 1701大石良雄,山科閑居

55 山科区の埋蔵文化財包蔵地一覧 新たに,「大塚・小山石切丁

場跡」が追加された。

56 区民誇りの木( B04 )クロマツ 現在は存在しない。