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Title 戰國・秦代の軍事編成 Author(s) 藤田, 勝久 Citation 東洋史研究 (1987), 46(2): 231-262 Issue Date 1987-09-30 URL https://doi.org/10.14989/154198 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

Title 戰國・秦代の軍事編成 東洋史研究 (1987), 46(2): 231-262 ...232 いとおもう。たのかという問題である。そこで本稿では、郡勝統治の一端を明らかにするために、戦園・秦代の軍事編成を論じてみた

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Title 戰國・秦代の軍事編成

Author(s) 藤田, 勝久

Citation 東洋史研究 (1987), 46(2): 231-262

Issue Date 1987-09-30

URL https://doi.org/10.14989/154198

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

Kyoto University

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全-け久局、。ル

第四十六巻

第二関

昭和六十二年九月護行

戟園・秦代の軍事編成

一戦園秦の兵制

二秦始皇陵兵馬備の軍隊編成

三秦始皇陵兵馬備の構成

回戦園・秦代の軍事編成

- 1ー

tま

中園古代統一園家の形成過程において郡鯨制がどのようにして施行され、またそれが新しい地方統治機構としてどのよ

うな特色をもつのかということは、中園古代社舎の理解にとって重要な問題である。私は先に開中開設の水利機構を手が

かりとして戟園秦の郡勝制形成過程を考察し、内史|豚制という行政機構が整備されてゆくことを推定したが、郡鯨制下

(

1

)

の統治機構についてはなお多くの課題が蔑されている。そのうちの一つは、どのようにして農民男子の軍事編成を達成し

231

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232

たのかという問題である。そこで本稿では、郡勝統治の一端を明らかにするために、戦園・秦代の軍事編成を論じてみた

いとおもう。

(

2

)

これまで秦漢時代の兵制は難問の一つとされ、戦園時代の兵制も文献ではあまり詳しく知ることができなかった。とこ

ろが一九七五J六年に睡虎地奏墓竹簡が出土することによって、秦漢時代の軍事制度の再検討がおこなわれ、戦園・秦代

(

3

)

の兵制はしだいに明らかになりつつある。しかしながら睡虎地秦簡の記述は断片的であり、兵制に闘してなお解明されて

いない黙も多い。このような史料不足を補うものとして、さらに一九七四J七七年にかけて快西省臨撞鯨で秦始皇陵兵馬

備坑が護掘され、奏代の軍陵編成を具睦的に考察する有力な手がかりが提供された。この秦兵馬備の軍陵編成は、すでに

4)

意仲一氏と曾布川寛氏とによる考察があるが、南氏の見解は大きく異なっている。

そこで本稿は、このような研究朕況から、まず戦園秦の兵制を整理して問題貼を確認し、

位置づけを再検討して、それがどのように文献史料とかかわるのかを考察してみたい。

つぎに秦兵馬備の軍隊編成の

そしてこれらを前提として、臨執

- 2 ー

園・秦代の郡廊制下における軍事編成を明らかにしようと試みるものである。

戦園秦の兵制

中園古代では春秋末から戦園時代にかけて軍制上の饗化があり、従来まで貴族が軍事に参加していたのに劉し、戦闘の

(

5

)

横大によって庶民にまで軍役負携が及ぶようになったといわれている。戦園秦においても、

『史記』巻六秦始皇本紀末尾

の献公十年(前三七五)僚に「戸籍を漏り相伍すー」とあり、また孝公時に商鞍饗法で農民男子の編成強化をはかったこと

がよく知られている。そこで近年の兵制研究の成果をふまえて、まず戟園秦の兵籍、従軍、軍功爵の問題を検討しておこ

6〉

第一に、戦園秦の兵籍を示す史料として、睡虎地秦簡〈編年記〉がある。

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(秦昭王)州五年・:十二月甲午の鶏鳴の時、喜産まれる

0

・::今(王〉元年、喜停す。二年。三年、巻軍。八月、喜、

撒史。〔四年〕口軍。十一月、喜口安陸口史。:::十六年。・:自ら年を占す。

〈編年記〉は、秦の大事記と墓主喜の経歴

・家族の記述とみなされているが、これによると喜は昭王四十五年(前二六

一一〉に生まれ、秦王政元年(前二四六〉に「停」とあるように、数え年十七歳で兵籍に附けられている。そこで秦の徴兵年

(

7

)

齢は十七歳とする読があるが、それは『史記』秦始皇本紀十六年(前二三一〉九月僚に「-初めて男

これには異論がある。

子をして年を書かしむ」とあり、これは〈編年記〉の記事と一致することから、年齢申告による徴兵はこの年以降に始ま

(

8

)

ったとみなされることによる。したがってすでに渡遁信一郎氏が指摘されるように、秦王政十六年以前の徴兵は身長制に

よって行なわれ、喜が十七歳で兵籍に附けられたのは、この年に

一定の身長基準を越えたためと考えるほうが安嘗とおも

(

9

)

われる。

第二に、兵籍に附けられた男子は徴兵され従軍することになるが、

- 3一

〈編年記〉によると、喜は兵籍に附された二年後に

巻の軍に従軍している。これは兵籍後すぐに徴兵することを示唆するものか、あるいはこの年の戦争による従軍か不明で

(

)

あるが、徴兵の貫肢がうかがえよう。そこで徴兵された男子は、どこに編成されるかということがつぎに問題となる。こ

れについて重近啓樹氏は、護兵の際に必要な秦の銅虎符が、

(

ず豚における地方軍の編成を想定されている。また戟園秦では孝公十二年(前三五O)の商鞍第二次第法で、

(ロ〉

鯨制を施行し、成人男子の掌握をはかつている。したがって商鞍厭制の施行以後では、豚を単位として男子の軍事編成を

「新罫」虎符、

「杜」虎符のように牒名を記すことから、ま

開中地匡に

行なったと考えてよかろう。

第三に、このようにして徴兵された成人男子には、軍功爵の規定が適用されている。そのもっとも早い例は、孝公三年

(前三五九)の商鞍第一次襲法にさかのぼり、そこでは農民男子再編にかかわる一連の規定の中で箪功爵が位置づけられ

(

)

ている。この軍功爵の機能が軍事編成にとって重要なものであり、商一鞍饗法以後にも貫施されていることは、すでに『一商

233

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234

(

M

)

君室田』境内篇や裸民篇などの惇えによって指摘されている。ところがさらに睡虎地秦簡の出土によって、昭王以後から秦

(

)

王政の時期まで、軍功霞が巌格に寅施され機能していることがあらためて確認された。それはまず〈秦律十八種〉に軍昏

(

)

律が二係あり、一僚は、従軍によって霞位と賞賜を受けることを述べ、もう一僚は、獲得した軍震をもって父母や妻の奴

(

)

隷身分を庶民に購うことを述べている。また

〈秦律十八種〉俸食律には、有爵の官士大夫以上、不更と(答表にあたる)謀

人、上造以下の官佐・吏、無霞の者は、等級によって食物支給の基準が異なることが示されている。さらに〈封診式〉に

(1)

は奪首の項目があり、軍功において首級が重んじられたことを示している。したがって戟園秦では、一商鞍爵制いらい、軍

功震が軍事編成の重要な制度として機能していたことが確認できるのである。

以上のように、戦園秦の兵籍、従軍、軍功昏について新しい知見が得られ、兵制の概略がうかがえるようになった。そ

れは要約すると、戦園秦は他の戦圏諸園と劉抗するために男子の徴兵を行ない、その基準は従来の身長制にかえて、秦王

政十六年に年齢制とする方策をとった。また徴兵した男子を集結する車位は、一商鞍鯨制の施行いらい鯨がその役割を措つ

- 4ー

たとおもわれる。そしてそのとき従軍した男子には軍功爵の規定があり、その制度は秦王政の時代までかなり巌格に機能

していたということになろう。しかしながら戦園秦の兵制には、なおつぎのような重要な問題が残されている。

その一一は、照に集結された常備軍の軍隊編成はどのようなものであり、とくにその兵種はどのように区分されているか

ということである。よく知られているように、漢代の兵制では前漢末の『漢官儀』(『漢奮儀』もほぼ同文)の記載によって、

(

)

衛土、材官、騎士、軽車等が軍吏身分の専門兵士か、それとも一般徴兵の兵卒かということが論争貼となっている。した

がってその淵源となる戦園・秦代の寧陵編成の考察においては、その兵種の匿分が問題となり、漢代の兵制とどのように

関連するのかということを明らかにする必要がある。

その二は、軍事編成における軍功曾の一意義を明らかにすることである。そもそも戟園秦が他の戦圏諸園に比べて優勢と

(

)

『韓非子』和氏篇にいうような「耕鞍の士」という濁自の軍事編成にあるといわれている。このような

なった背景には、

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軍事力の基盤を説明するために、たとえば守屋美都雄氏は

「秦漢の震は本来園家が民を耕戦にはげませるために設けた

(

)

褒賞であり、中央集権園家形成のための道具であった」として、軍功唇の機能を重視されているのである。しかしこれに

劃して西嶋定生氏は、震制に軍功の機能があることを認めつつも、その本質を新鯨徒民にともなう民曾賜興に求められ、

(

)

従来とは異なる覗貼を提示された。そして新鯨の皇制を爵制的秩序で包揖することによって、皇帝支配が貫現すると説明

されたのである。しかしながら西嶋氏の見解については、すでにみてきたように軍功倭の機能が戦園末まで確認されるこ

(

)

とから再検討の絵地があり、また今日ではその醤制的秩序形成過程の根擦においてもいくつかの問題黙が生じている。し

たがってつぎに問題となるのは、

「耕戟の土」を特徴とする戦園秦の軍事編成はどのようなものであり、そのとき軍功爵

はどのように位置づけられるのかを明らかにすることである。

本稿は以上の二黙を論ずることを目的とするが、まず前者については、秦始皇陵兵馬備の軍隊編成を補助資料として利

- 5 ー

用したい。

秦丘ハ馬偶坑は始皇帝陵の東側一

・五キロに位置し、大牢が東向きの木製戦車、陶備、陶馬と賞用青銅武器を埋蔵した大

型陪葬坑である。全瞳は一一抗、二鋭、三競備坑に分かれ、各備坑の内容は秦伺坑考古陵と蓑仲一氏によって詳細に報告さ

(

M

)

れている。これまでの護掘調査によると、兵馬伺全瞳で戟車一

OO徐蓋、陶馬六

OO韓、各種武士備七

OOO睦あまりと

推定され、その特徴はきわめて精巧な製陶技術と寓貫性にあるといわれている。たとえば兵馬伺は等身大で製作され、兵

備の冠、甲衣、服飾、髪型、ひげなどには各々匡別があるという。これらの特徴から、兵馬備の軍陣は現貫の軍隊編成を

模寓したものと考えられている。そこでもし兵馬備の軍陣が地上の秦代軍陵を反映しているとすれば、兵馬備軍陣の構成

を検討することによって、戦園・秦代の軍事編成の特徴を知る手がかりになるのではないかと考えるのである。

235

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秦始皇陵兵馬備の軍隊編成

(

)

まず秦兵馬備の概略を確認しておこう(園1参照)。

一一抗偶坑は、東西二三

0メートル、南北六二メートルでもっとも大きく、東西雨端に五僚の門道がある。全鐙は東側が

正面で、門の中には東西南端に幅三・五メートルの長廊と、南北南端に幅二メートルの側廊があり、その聞に幅三・五メ

ートルの九僚の地下通路が東西にのびている。東西南端の長廊には三列の軽装の歩兵備を主とした軍が東向きに並んでお

二列縦陵の兵備で、外側一列が側面を向き軍陣の爾翼を

り、西端の一列だけ後方を向いている。また南北雨端の側廊は、

構成している。中心部は東側前方に六蓋の戟車と歩兵備があり、試掘によって歩兵儒の編成が規則正しいことから、全鐙

は戦車?と歩兵から成る約六

000畿の長方形の軍陣と推定されている。

二競儒坑は、一一抗備坑の東端北側二

0メートルに位置し、東西南側には三僚の門道があり、門道を入れて東西一二四メ

ートル、南北九八メートルである。全鐙は兵種のちがいによって四部分に分かれ、曲形軍陣を構成している。まず第

I部

- 6 ー

分は東北端で、

四面に幅三・五メ

ートルの環廊と、内部に東西四僚の幅二・三メートルの地下通路がある。長廊内には立

射式考丘(備と武士儒、地下通路には障脆式考兵備があり、全瞳で三三四瞳の湾兵備編成の軍陣を構成している。第

E部分

は南宇部で、東西爾側に幅三・二メートルの長廊があり、内部は東西八僚の幅三・二メートルの地下通路がある。長廊に

は兵備が置かれているが、地下通路はすべて戦車編成の方障を構成しており、右前隅に翻車一乗がある。第E部分は中央

部で、西端に幅三・二メートルの側廊と、内部に三僚の地下通路がある。地下遁路は、戦車、歩兵、騎兵混合編成の長方

形軍陣を構成している。

第町山部分は北部で、

西側に幅三・二メートルの側廊があり、

内部には東西三僚の地下通路があ

る。地下通路は騎兵編成の長方形軍陣を構成し、東側前方に副車二蓋が配置されている。以上、

二競儒坑の全鐙では戦車

九八乗、陶車馬三六五匹、陶鞍馬一一六匹、武士伺九

OO除瞳と報告されている。

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I 1V ~t

237

2貌備坑事 3税制

門道

側廊

1貌儲坑

園 1 秦兵馬偏坑の概略園

長廊歩兵備主鐙の三列部隊側廊歩兵備の雨翼部隊

地下通路戦車と歩兵が交互配列の長方形軍陣

第 I部分 弓脅兵備編成の方陣

第E部分戟車編成の方陣

第E部分戟事,歩兵,騎兵混合編成の長方形軍陣第W部分騎兵編成の長方形軍陣

関車戟車1乗,武士儒4陸

儀伎兵備64鐙

1競偶坑

2競偶坑

3競備坑

このように大規模な一説、二競儒

坑に劃して、三競伺坑は小規模で特

殊な形肢である。備坑は、

一一蹴備坑

の西端北側二五メートルに位置し、

凹字形の軍陣で、東西一七・六メl

トル、南北一二・四メートルであ

る。東側に一僚の門道があり、正面

中央に車馬房、その左右南側に南北

方向の長廊があって、それぞれ長廊

西側に脇部屋が連接している。北の

- 7ー

脇部屋の入口と南の長廊の北口から

門楯が各一本護見され、もとは惟幕

がかけられていたという。車馬房に

は影色された駒車一乗と大型武士備

四睡が置かれ、そのうち一睡にも彰

色がほどこされていた。また翻車左

側地面に、車上の華蓋にあたるとお

もわれる直径四二センチの木製で諜

漆の彩色された園環があり、これは

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明車の乗員の身分が一説、二挽偶坑の戦車乗員に比べて高いことを示すと考えられている。このほかに長廊と脇部屋には

武士伺六四健が配列され、同時に儀佼護衛用の武器である銅交が出土した。以上のことから、三競伺坑の軍陣は警備護衛

一晩、二挽備坑を統帥する軍幕であろうと推測されている。

このほか二競、三競備坑の開に、未完成の腹坑が接見されたが、ここには陶備は置かれておらず、その用途は不明であ

の衛兵で

る。それでは以上のような秦兵馬備の軍陣は、どのような軍隊編成を示唆するのであろうか。まず兵馬伺は始皇一帝陵の一連

百官公卿表上(以下、百官表と略)に

の陪葬坑であるから、その所在は京師周漫に位置している。そこで『漢書』巻一九、

よると、秦漠時代の京師周謹には、付郎中令に所属する宮殿の侍衛軍、

MH衛尉に所属する宮城内と城門の警備軍(南軍〉、

(

)

同中尉に所属する京師の警備軍(北軍)の一一一種の軍隊が存在した。したがって兵馬備が賓際の軍隊編成を反映していると

すれば、この三種のいずれかに一該賞するはずである。

(

)

これについてまず蓑仲一氏は、始皇一帝陵圏全盟の考古遺物の配置から、兵馬備は中尉に所属する京師の屯衛軍にあたる

- 8ー

と位置づけられた。すなわち陵墓の内部には地下宮殿があり、それを内城と外城とが圏んでいる。陵の北側・西側には寝

殿や墓主の霊魂に飲食を供える官の住まいがあり、さらに域内西側には銅車馬坑と苑園の遺跡、域外東側には廠苑を示す

遺跡が存在している。したがって陵園は、始皇帝生前の地上王闘をそのまま地下にもちこんだもので、域外東側に位置す

とくに三挽伺坑は指揮部にあたる軍幕とする。ただし三挽偶坑の衛兵が少人数

であるのは、象徴的な一意味しかもたないからであるという。また宮殿や宮門を守衛する近衛兵の軍隊は、始皇陵園の調査

が終っていないので未だ護見されていないとする。蓑氏は京師屯衛軍の構成として、『史記』秦始皇本紀、二世皇帝一元年

(

)

僚にみえる郡園の材土の徴兵を指摘され、兵馬備の役割は、京師の護衛によって皇一帝の樺威を守らせようと意園したと読

る兵馬備は京師を護衛する屯衛軍であり、

明されている。

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これに劃して曾布川寛氏は、蓑氏の読と異なり、園像皐的解樺から兵馬備はすべて近衛兵で編成されていると比定され

(勿〉

た。曾布川氏は、まず身長一・七五J一・九六メートルの武士備の瞳格が立涯にすぎ、兵馬備の装備・服装が整いすぎて

装飾過剰とみなされることから、選抜された儀伎的機能を併せもつ宮城警備の近衛兵と推測され、これらは寅際の兵士を

モデルに使用したと主張される。またより有力な根援として、付武士備が脅を着用していないこと、∞武将伺、軍吏備の

冠の形式は近衛兵のものであるというこ黙を提示され、全鐙をつぎのように説明された。すなわち一読備坑は、歩兵主置

の大規模な近衛兵は衛士しか考えられないとして、衛士の軍隊とする。二挽伺坑は、郎中令属下の大夫、郎、謁者のう

ち、とくに郎の一部である郎中の軍とする。その理由は、

現備坑の三部隊と一致すること、

ωに郎は寅質的に郎中が大半を占め、

付に郎中には車〈戦車〉、戸(歩兵〉、騎(騎兵〉三絡がおり、二

ほぼ千人の員数は二挽儒坑の数と一致することな

どによる。また三競偶坑は、衛尉属下の少員数の放責とされ、未完の慶坑を同じく街尉属下の公車司馬の軍隊とすれば、

- 9一

秦の近衛兵は全員が等身大で表現されることになるといわれる。その兵馬儒の役割は、軍陵編成が東向きであるため、秦

が滅ぼした六園の人々の霊魂の叛範に劃する防衛ではないかと考えられている。

このように秦兵馬備の位置づけは、これまで京師を防衛する中尉の軍陵とする読と、衛尉・郎中令の近衛兵とする読と

に大きく分かれている。そこで秦兵馬備の軍陣の再検討をする必要があるが、そのとき以下の貼に留意したい。それは武

士備の睡格が立涯にすぎ服装の装飾過剰とする基準は、現在まで他に比較すべき秦代の軍隊が無いために、比定の根擦に

(

ω

)

はならないということである。先述のように秦代兵制の身長制の名残りからすれば、優秀な軍陵は身長の高い者が編成さ

それをただちに所属に結びつけることは困難であろう。したがってここでは、まず兵馬偏全盟の兵種の匿

れるとしても、

分という黙から、どちらの読がより安嘗であるかということを考察してみたい。

まず近衛兵とする説から考えてみよう。曾布川氏は丘(馬備が近衛兵である理由として、韓格・装備・服装のほかに、

ハ円

由同をつけないこと、

∞武将備の一式冠は侍中が用いる鶴鶏冠に比定され、侍中は郎中に加官される場合があること、日開軍

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240

吏備などの二式冠は僕射・門吏が用いる却非冠に比定され、僕射も郎に加官される場合があること、を指摘されている。

しかしながら戦園秦においても一般軍隊の中に兜を着用しない兵卒が存在しており、

カブトを着用しないことでただちに

近衛兵とする根擦とはならないとおもわれる(後述〉。また兵馬備のような出土文物の冠の形式を文献の名稽に比定するこ

とは困難であり、偲にそれらの冠の形式が鶏鵠冠、却非冠にあたるとしても、その冠を着用する兵備は全鐙の一部にすぎ

一一蹴偶坑で匪倒的な員数を占めるのは無冠で結髪の歩兵備であり、また二競偶坑にも無冠の兵衛が

存在していた。これら無冠の兵偶もまた衛士、郎中の近衛兵とするには、なお今後の検討が必要とおもわれる。したがっ

て兵備の形式からみると、以上の特徴をもってただちに近衛兵と判定することはできないと考える。

ない。報告によると、

そこでつぎに兵馬備金鐙の配置から、丘ハ種の区分と近衛兵との関係を検討してみよう。曾布川氏は、歩兵主鐙の大規模

な近衛兵は衛土しか考えられないとして

一一抗備坑を衛尉属下の衛土の軍隊に比定され、

- 10ー

また三説儒坑を少員数の街尉腐

下の放貫とされ、

寅際のモデルを模寓したものとみなされていた。そこで『漢書』百官表をみると、衛尉の属官には公車

司馬、衛士、放賞三令丞がある。このうち衛土については、前漢景一帝末までに二蔦人に達し、少ないときでも一高J一高

(況)

五千人といわれている。したがってこの員数から類推すれば、

一一抗儒坑の約六

OOO盟の兵伺が街土の全てであるかは、

すぐには判断しがたい。また三令丞の軍のうち、衛土が六

OOO人に射して、旋責が六八人というのは、同じ衛尉腐下の

軍隊としては員数があまりにもちがいすぎ、さらに未完の贋坑で衛尉の三属官が充足されるという読明は推測の域をでな

いとおもわれる。

また二競坑を郎中の軍隊とされることについては

つぎのような疑問があげられる。まず百官表によると、郎中令の属

官には大夫、郎、謁者などがあり、このうち門戸を守衛する郎にはさらに議郎、中郎、侍郎、郎中が所属している。この

ように郎中令属下に多くの属官がありながら、曾布川氏があえて郎中だけの軍隊とされたのは、付郎は質質的に郎中。か大

学を占め、その員数がほぼ千人で二抗偶坑の兵伺の敷とほぼ一致すること、。郎中には車、戸、騎三絡がおり、二親儒坑

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の兵種と一致することである。しかしながら郎中の軍が郎の大牢を占めるとしても、郎中令属下に多くの属官がいたので

あり、郎中の軍のみを丘一馬備として表現するということは不自然ではないだろうか。さらに三持の兵種が二競痛坑の編成

と一致することについては、後述のように鞍園から秦漢時代にかけて戦車、騎兵、歩兵の構成をもつのは、郎中に限らず

一般軍隊においても同様なのである。以上の黙から、秦兵馬備の軍陣が近衛兵すべての模潟であるとする曾布川氏の設に

は疑問が残るのである。

それでは京師を警備する中尉の軍隊とする読はどうであろうか。意氏は陵圏全睦の配置から兵馬備を位置づけられた

が、その構成について郡園の材士を指摘するだけではなお根援が不十分である。そこでさらに中尉の軍陵構成を知る必要

がある。まず『漢書』百官表をみると、

中尉。秦官。京師を徴循するを掌り、雨丞、侯、司馬、千人有り。

とあり、雨丞以下、侯、司馬、千人の属官がいることがわかる。また漬口重園氏は『漢奮儀』によって、中尉の軍陵は事

(mM)

その兵士は直轄地である内史地匡の番上より成り立っていたと考註されている。これに加え

-11ー

駕、従騎、走卒からなり、

て、漢代中尉の軍陵構成はつぎのように見えている。

ω上、乃ち上郡・北地・臨西の車騎、巴萄の材官及び中尉の卒三蔦人を設し、皇太子の衝と震し、覇上に軍す。(『漢書』

巻一吉岡脅紀下、十一年秋七月僚〉

ω中尉の材官を護し、衛将軍に属せしめ、長安に軍すe

(

『史記』巻一

O孝文本紀、三年六月繰)

ω三輔の騎士を裂し、上林を大捜す。長安の城門を閉め、索す。

(『漢書』巻六武喬紀、征和元年僚)

(

)

つまり漢初の中尉には、卒、材官が所属しており、一一一輔には騎士が存在していた。したがって以上の史料を線合すれ

241

ば、中尉の軍陵は材官、車駕、騎士、卒などからなる複合的な構成であることがわかり、このような構成は秦制を縫承し

(川品〉

ていると考えられる。それを傍謹するものとして、中尉と同じ役割をもっ戦園秦の一般軍隊の構成をみておきたい。それ

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242

(

はつぎのように見出せる。

ω車・・・騎・・・百人・・・千人。

ω舟骨かかfF除降、車千乗、騎高匹。::士卒::(『史記』巻七O張儀列停)

ω稽甲百除首問、車千乗、騎寓匹。虎賞の土:::(同右)

川刊骨撃百tw、戦車千乗。・秦卒の勇、車騎の衆::・(『史記』を七九抱一雌列停、

このように戦園秦の一般軍隊は、すでに戦車、騎兵、歩兵をふくむ兵種をもっている。さらに戦園秦の兵種は、睡虎地

(

)

(

)

秦簡

〈秦律雑抄〉にうかがえる。

駕臨という名稽があり、別僚に軽車、超

(『史記』各六九蘇秦列俸)

『戟園策』秦策一一一)

張・引強(脅兵)、

〈秦律雑抄〉除吏律には、士吏、震湾立国夫、

(

(

)

中卒という名稽がみえている。重近啓樹氏によると、これらの兵士は鯨に属する常備軍と推定されてい

るが、ここでは戦園秦の一般軍隊に設湾直面夫や軽車、中卒などをふくむことがわかる。

- 12ー

以上のことから、戦園秦の一般軍隊はすでに戦車、騎兵、湾兵、歩兵の構成をもっており、

そのような兵種をふくむ軍

隊編成は、京師を警備する中尉の軍隊と共通するものであった。したがってこのような戦園秦いらいの軍隊構成と同様な

兵種をもっ秦兵馬備の一続、二競偶坑の軍陣は、近衛兵だけに限定する必要はなく、中尉や鯨制下の一般軍陵と同じ性質

と考えることができよう。しかも陵圏全践の配置からみれば、陵墓の域外にある兵馬備は、京師の中尉の軍隊を反映する

とみなすほうが安嘗であるとおもわれる。

このように秦兵馬備の軍陵編成を検討してみると、京師の一般軍隊である中尉軍を反映すると考えられるのであるが、

それでは兵馬備にはまったく近衛兵をふくまないのであろうか。あるいはまた兵馬偏の役割は、どのようなものであろう

か。つづいて兵馬備の内部構成をさらに考察してみよう。

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秦始皇陵兵馬備の構成

(

)

秦兵馬備の内部構成について、意仲一氏は兵種によって一一一種に分類されている。第一は戦車乗員の兵儒、第二は騎兵

備、第三は歩兵偶であり、歩兵伺はさらに甲衣・冠などの特徴によって軍吏偶と兵士備とに匡分されている。ここでは兵

馬伺全置の兵種の分析につづいて、甲衣、帯冠、無冠の相違などに注意しながら、まず一説、二競兵備の特徴を考察して

みよう。

御手は袖なしの鎧と長冠をかぶ

り、二名の乗員は甲衣と冠を身につけている。これに射して約六

OOO鐙といわれる歩兵備は、帯冠か無冠かで二種に分

一一蹴儒坑は、戦車と歩兵を組み合わせた長方形軍陣であった。戦車は乗員が三名で、

類できる。まず軍吏備とされている帯冠の兵偶は、

ω前掛式の甲衣、長冠を着用する武官情。

ω肩鎧を着用し、長冠をかぶる披甲陶情。

ω戟抱を着て、長冠をかぶる武官備。

などに区分される。一方、無冠の兵備は、

- 13ー

ω卒まげで肩鎧を着用した披甲陶備。

ω頭の右側に髪を束ねて結警とした兵備。

とに大きく分けられる。このうち一挽伺坑で匪倒的に多いのは棺警の兵備で、全瞳の約八

O%を占めるといわれ、さらに

(

)

甲衣によって等級がある。したがって一説伺坑全瞳では、待冠の戦車御手・武官備と、多数を占める無冠の兵備とに大別

できるという特徴がある(園2多照)。

243

つぎに二親備坑は、

四部分に編成されていた。第

I部分をみると、兵備は四種に分類できる。

一は後方西北隅に置かれ

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244

2 1

4 3

「文物j 1975-11期始皇陵秦偶坑考古渡掘除 「臨湿原幸、秦筒坑試掘第一致筒報」出典

た二瞳の軍吏備で、

一瞳は魚鱗甲と隻巻

尾長冠を着用した将軍備、もう

一種は魚

鱗甲と皐巻尾長冠を着用した軍吏備であ

り、間者は身分がほぼ同じく方陣を統率

する備と考えられている。二に中心部の

1挨儒坑の結髪歩兵備と帯冠儒

碍脆式持弓備は、無冠であるが、頭髪は

右側に大きく警を作り、肩鎧を着用し帯

剣することで

一般結警の歩兵備とは匡別

されている。この帯創は

『史記』巻五

- 14ー

秦本紀、

簡公六年(前四O九)僚に

「吏

をして-初めて帯剣せしむ」とあるよう

に、吏の身分を示すと考えられる。した

薗 2

がって碍脆備もまた

一般歩兵と異なるこ

とがわかる。また回廊の兵備は、三に鎧

を着用し長丘ハを持つ武土備と

四に戦抱

で結警の立射式兵備とに分けられる。

マコ

まり第

I部分の構成は、軍吏にあたる帯

冠の統率儒・帯剣の碍脆伺と、

無冠の

般兵士備とに区分することができるので

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ある。第

E部分の戦車編成では、各戦車に御手一人と甲士二人が配置されている。御手備は手の甲までおおう裾の長い銅鎧を

着用し、長冠をかぶっている。これに劃して左右南側の甲士備は鎧を着用し、頭髪を束ねた結髪に帽子をかぶっており、

御手より低い身分を示すという。また車陣右前隅にある翻車一乗は、車陣の前腫車の役割をもつのではないかと推測され

ている。したがって第

E部分の戦車御手備は、少なくとも帯冠であることによって、

一般結警の兵伺とは異なる身分を示

すと考えられる。

E部分は、戦車、歩兵、騎兵の混合編成であった。一般戦車の乗員は、長冠をかぶる御手備と甲土二人であるが、御

手は第

E部分の戦車御手とは少し異なる袖なしの軽装の鎧を着用している。騎兵備は、騎射に適した袖なし形の短甲を着

用し、頭に卒髭一?をつつむ騎兵特有の半球肢の帽子をかぶっている。この帽子は賓載に即した形献であろうが、明らかに一

(

般歩兵の結警の髪型とは匡別されており、冠の役割をもっ帽子ではないかと考えられる。したがって第

E部分の構成で

は、一般歩兵備と匿別される存在として、常冠の戦車御手と牟球帽の騎兵備があげられる。

- 15ー

第N部分の騎兵備の特徴は、第皿部分の騎兵備と同様である。ただ騎兵障の前方に副車二蓋があり、この副車は騎兵統

帥の左車ではないかと推定されている。副車の乗員は二名で、御手は袖なしの長甲と長冠を着用し、車右の甲士備は長冠

をかぶっている。

以上のように一蹴、二競兵備の構成をみると、

つぎのような特徴が見出せる。

第一の特徴は、各部分には統率用の戦車あるいは統率者とおもわれる武官備が配置されていることである。たとえば一

揖伺坑では、東側に戦車が配列され、

また前掛式甲衣の武官備などが存在した。

二競備坑では、

I部分に二韓の武官

245

備、第

E部分に関車一乗、第

E部分に戦車、第N部分に副車二蓋が配置されていた。したがって一揖、二競伺坑は、全世

として曲形障を構成していながら、各部分にはそれぞれ統率者をふくむことがわかる。

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246

第二の特徴は、兵備の甲衣・冠などによって、待冠とそれに準ずる兵備と、無冠で結髪の一般歩兵備とに大別できるこ

とで、それぞれさらにいくつかの等紐に区分されることが想定されていた。そのうち軍吏備とみなされるのは、冠を着用

(

)

する戦車御手伺、将軍備、軍吏何であり、これに準ずる身分の備として帯剣した時脆考兵備、帽子着用の騎兵備があげら

れる。これに封して多数を占める一般歩兵備は、無冠で頭髪を右側に束ねて結髪とすることが特徴である。したがって得

冠や待剣、帽子の備と匡刑される歩兵備の結髪は、車なるフア

γ

ションではなく、軍隊編成における何らかの身分を示し

ているのではないかと考えられる。

それでは一般歩兵備の結髪は、どのような身分を示唆するのであろうか。

まず『史記』巻七

O張儀列俸によると、戦園

秦の軍陵についてつぎのように述べている。

秦は掛川甲百飴高、車千乗、騎市内匹なり。虎貧の士、時胸科頭、貫聞奮戟の者は、勝げて計うべからざるに至る。

- 16ー

ここでいう「科頭」とは、表掴集解によると「科頭。謂不著兜整入敵」とあり、兜をつけないことと解している。また

『後漢書』東夷停第七五の

「魁頭露紛」に附された注では、

「魁頭。猶科頭也。謂以髪繁焼成科結也」とあり、頭髪を束

ねて科結とすることと解剖押している。したがって後世の注に従えば、少なくとも兜を着用しないか、あるいは頭髪を束ね

た多数の兵とみなすことができよう。さらに漢代の史料であるが、『漢書』巻四三陸買俸に「魁結」とあり、後漢の服度

注は「魁昔椎。今兵士椎頭髪也」といい、顔師古注では「結謹白髪。椎警者一撮之撃。其形如椎」という。つまり椎警と

いう結髪は、

漢代兵士の髪型だというのである。

以上のことから、戦園秦と漢代の兵に結髪の者がいたことがわかり、その結髪の兵という共通貼から、秦兵馬伺の一般

歩兵備の結髪の一意味は、軍吏とは異なる一般丘一土の髪型を示唆するのではないかと想定するのである。

ところが結髪については、兵士の髪型のほかにつぎのような記事が注目される。それは睡虎地秦簡〈封診式〉賊死の項

(HH)

に、殺された結髪の男子の検死が報告されている。すなわち某亭の求盗甲の報告によると、男子は「結髪」で、令吏某の

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愛書では、

男子は丁社、祈色、長七尺一寸、髪の長さ二尺。

とある。このことから戦園秦の某亭の管轄範圏において、二尺の髪を編んで結髪とした丁祉の男子が存在していたことが

わかる。さらにこの結髪が一般男子において車なるファ

ッシ

ョンではなく、重要な意味をもつことを推測させる史料があ

る。すなわち睡虎地秦簡

〈法律答問〉四五四簡、一八七頁に、

士五甲、闘い、却を抜きて伐ち、人の髪結を斬る。何にか論ぜん。嘗に完して城互と震すベし。

とあり、人の結髪を切ると罰せられている。したがって秦における結髪は、一般男子の身分を一示すとともに、単なるフア

(

ヅションをこえて、男子の身分に閲する重要な意味をもっていたことが推定できるのである。

このように秦兵馬伺にみえる多数の無冠で結髪の兵備の意味を考えてみると、

まず戟園秦から漢代の一般兵士の髪型と

- 17ー

共通黙をもち、

また結髪という黙では秦の一般男子も同様であることが知られる。この南者がただちに同様な意味をもつ

かどうかは不明であるが、秦兵馬備において無冠の兵備が軍吏備もしくはそれに準ずる儒と明確に匡別されていたことを

考慮すれば、この結髪の兵伺は同じ特徴をもっ一般徴兵の男子を反映しているのではないかと考える。もしこの保定が正

しいとすれば、秦兵馬伺の一一抗、二挽偶坑の軍陣は内部構成の特徴においても、軍吏と一般徴兵とをふくむ一般軍隊を反

映していることになるのである。しかしながらこれを結論するためには、さらに兵馬備の役割について考察しておかなく

てはならない。その手がかりとして、残る三競備坑の構成を検討してみよう。

すでにみてきたように翻車戦車一乗、武土偶六八瞳の小規模な軍陣であった。

鋭、二挽兵備の指揮部にあたると考えられたのであるが、一挽、二親の各部分にはそれぞれ統率者が配置されており、こ

れに劃して三挽儒坑を全鎧の指揮部とするにはあまりにも小さすぎよう。そこでもう一つの特徴に注目すれば、三挽儒坑

現伺坑は、

そのため哀仲一氏は、

247

の駆車は一般戦車よりも高い身分を示し、

また武士備は儀伎護衛の役割をもっとみなされていた。

したがって三挽偶坑

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248

一説、二披備坑の戦闘寧圏とは少し性格が異なり、曾布川氏の主張されるような護衛の兵備とする可能性がある。そ

れでは三競儒坑の少数の兵備は、この位置にあって何を護衛しようとしているのであろうか。もう一度、始皇帝陵圏全鐙

t土の配置を考えてみよう。

(日明〉

まず始皇帝陵園の西側には、二分の一のスケールと秦兵馬備に比べて小さいが、銅車馬と御者が配置されていた。その

(

)

銅車馬坑の役割は、楊寛氏によると、皇帝の霊魂が先君の廟に巡行するために用意されたものと考えられている。そこで

陵墓西側に皇帝が巡行するために設けられたのが銅車馬坑という特徴に注目すれば、陵墓東側に設けられた兵馬備は、東

方に皇帝が巡行するために用意されたと推測することもできよう。しかも宗廟への巡行から類推すれば、その巡行はある

程度怪常的で、また廟への巡行よりはるかに

E大な巡行ということになる。そこでこのような篠件をみたす巡行として、

私は始皇帝の天下巡遊のために用意された陪葬坑が兵馬備であり、三挽伺坑の儀伎兵が待機して護衛しようとしている封

- 18ー

象は、始皇帝その人ではないかと考えるのである。

始皇帝の天下巡避に際して、どのような行列で行進したかはよくわからない。わずかに『史記』巻五五留侯世家に、皇

(

)

一帝一を博浪沙で狙撃したとき、誤って「副車」に嘗ったとあり、

丞相李斯と中車府令の超高がつき従い、

『史記』巻八七李斯列俸に、三十七年十月の最後の巡遊に

(

)

死後は「輯椋車」に乗せて蹄還したことがみえている。

この中車府令について

『漢書』百官表をみると、太僕の属官に

「車府令」があり、したがって太僕の属官であると考えられる。そこでさらに陵

園東側の上焦村一帯で喪見された馬腹坑に注目すると、偶坑は兵馬伺坑と同じく東側を向き、ここから「宮厩」「中腹」

(

)

コニ腹」などの文字を刻む陶器が出土している。これは同じく百官表によると、太僕属下に

「大願令」

「左腹」

「大廠」

があり、太僕に属する廠苑ではないかといわれている。

したがって陵圏全盟の配置から、外城東門の東側に、始皇帝の天

下巡遊にかかわる太僕属下の廠苑があり、さらに廠苑の東北部に兵馬備の軍陣が東向きに配置されていることになる。こ

のような特徴をみれば、兵馬伺の軍陣は城門東側の鹿苑と接績して、後部の三競伺坑はとくに儀伎護衛の兵備が待機して

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いるとみなすことができよう。

また『史記』秦始皇本紀、二世元年(前二O九)僚に、

先一帝、郡鯨を巡行し、以て彊を示し、海内を威服す。

とあり、皇帝一の威勢を示すために寧陵が附障したことが想定できる。したがってこのように秦兵馬備は、始皇帝の天下巡

遊のために用意された軍隊と考えれば、一読、二競偶坑が帯冠と無冠の兵備から成る戦闘軍圏であることや、三挽偶坑が

儀佼用の兵伺をふくむ特殊な軍障であることが理解できるとおもわれる。そのとき全世の兵士の数量からすれば、兵馬備

の約七

OOO睦は京師の軍陵の一部と考えられ、また軍後の兵卒をふくまないとみなされることから、

(日〉

とくに精鋭の軍陵が表現されているのではないかと想定される。

一般軍隊の中でも

要するに、秦兵馬備の内部構成とその役割を考察してみると、それは藍倒的多数が職闘軍国である京師の一般軍陵、す

なわち中尉の軍陵を反映しており、その役割は始皇一一帝の天下巡遊に備えるためではないかと推定してみた。そしてその特

徴として、帯冠の軍吏備とそれに準ずる兵備とは、その兵種からいえば湾兵偶、騎兵備、戦車御手伺にあたり、無冠で結

髪の一般歩兵備と匡別されていた。したがって秦兵馬備の軍隊編成が、中尉に代表される京師の一般軍隊を反映している

とすれば、前者の軍吏備は文献でいう材官、騎士、軽草に針臆することになり、これらの兵備は一般兵備と異なる身分で

(

)

あることを一ホじていたのである。

- 19ー

戦園・秦代の軍事編成

これまで戦園秦の郡鯨制下における常備軍の編成を知るために、秦兵馬備を手がかりとして検討してきた。そこでは秦

兵馬備は京師の一般軍隊である中尉の寧陵を反映しているとおもわれ、直接的に郡鯨制下の常備軍を示すものではない

249

が、その内部構成に共通性が認められるのではないかと考えられる。

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250

しかしながら戦闘秦の軍隊の特徴は

「耕戦の士」という特殊な形態にあるといわれ、常備軍以外の戦闘の例がみえて

いる。また重近啓樹氏は、戦園秦の軍隊に常備軍と臨時徴護による軍との形態があり、これらは匡別すべきことを指摘さ

(臼)

れている。したがって戦闘

・秦代の軍事編成を全般としてとらえるためには、さらに常備軍と臨時徴設との関係を明らか

にしなければならない。そこでつづいて臨時徴瑳の形態を考えてみよう。

『史記』巻七五白起列停、昭王四十七年(前二六O)僚に、

まず代表的な例として、

秦玉、越の食道絶えるを聞き、

民に寄各と一級を賜い

悉く長卒に詣らし

年十五以上を設し、

王自ら河内に之く。

め、越の救及び糧食を遮紹せしむ。

とある。この記事は、長卒の戦いに際して越への救援と軍糧補給を絶つために、昭王自ら河内へ行き、年十五歳以上の者

(

)

(

)

をことごとく徴渡して長卒に向かわせたというものである。このとき十五歳をもって秦の徴兵年齢とみなす設があるが、

- 20ー

ハ門この年齢は睡虎地秦簡

〈編年記〉にみえる十七歳より早いこと、∞この時期はまだ身長制によって徴兵されていたと考

えられることから、兵籍以前の男子を徴設したものとおもわれる。またここでは「十五歳以上」の者をことごとく徴設し

正規の徴兵範囲を越えて徴瑳した事例とみなすことができよう。このように戦闘奏では、常備軍以外の

たのであるから、

男子の徴裂を行なっている。

これに針躍して、戦園秦では反射に丘ハの削減を示唆する例がある。

すなわち『史記』秦始皇本紀十一年(前二三六)燦

に、将軍王毅らが諸軍を合わせて一軍としたのちに、

軍、斗食より以下を蹄し、什に二人を推して軍に従わしむ。

とある。つまりここでは合流した軍陵の八割の人員を蹄し、選揮した精兵を残すことによって兵の削減を行なっているの

である。

」のように戦闘秦においては

臨時の男子徴設や軍陵の人員削減を行なっており、これらは常備軍とは異なる軍事編成

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によるものと考えられる。それでは正規の徴兵と、臨時の徴震との関係はどのようなものであり、両者をふくむ秦の軍事

編成の特徴はどのような黙に見出せるのであろうか。私はその手がかりとして、従軍に際してみられた賜霞に注目したい

とおもう。

すでにみてきたように、白起列停の記事では、臨時の徴護に際して民に各ミ霞一級を賜うものであった。

のような賜唇では、従軍後の農民男子は爵がてフンク上がって再び軍功唇の秩序にふくまれることになり、また兵籍以前

したがってこ

や兎老の無俸の者は、賜醤によって軍功爵の秩序にふくまれることになる。

しかしながら軍功爵は、

これまでみてきたと

うか。

ころでは兵籍に附けられ従軍すると軍功霞の秩序にふくまれるものであり、卒時においても爵は保持されていたのであろ

(

すでに西嶋定生氏が指摘されるように、卒時における徒民授寄の事例や、

」れについては、

納粟授爵の事例があ

る。また牒内の某里に有爵者が存在する例として、睡虎地秦簡

〈封診式〉に「某里公土」

(

)

ている。このことから戦園奏では卒時においても農民男子に爵が保持されており、それが再び臨時の徴震によって徴兵さ

「里人公士」などの名稽がみえ

- 21ー

れるときは、あらためて軍功爵の秩序に組み込まれることが想定できるのである。

」のように考えれば

『史記』巻七九奈津列俸に

夫れ商君、孝公の痛に権衡を卒らかにし、度量を正し、軽重を調え、肝陪を決裂し、民に耕戟を敬う。是を以て兵動

レて地贋く、兵休んで園富む。放に奏、天下に散なし。

とある軍事瞳制の特徴と合致し、また

『漢書』食貨志上にいう「耕栽の賞を念にする」ことにつながり、まさしく『韓非

子』和氏篇の「耕戦の土」の特徴を表わしているとみなすことができるとおもわれる。そのとき農民男子がきたるべき園

民皆兵によって軍事鐙制に組み込まれることを想定して卒時の霞の保持が有数であるとすれば、爵にともなうもう一つの

(回)

特徴である刑罰減克の恩典は、主君への軍事的奉仕に劃する功動という俸統的性格の延長として理解されるであろう。

251

以上のように、常備軍と臨時徴震との関係は、本来兵役を終えて蹄農した農民を「耕戦の土」として再び徴渡する鐙制

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252

であり、その雨者を結ぶものが昏制ではないかと想定してみたのである。これは従来までの兵制にはみられなかった新し

い統治方式であり、これが戦園秦の郡豚制下における農民男子の軍事編成ではないかと考えるのである。

このような郡豚制下の軍事編成を史料的に確認することは、

ほとんど不可能である。

しかしながら秦末の農民叛凱にお

いて、その叛凱基盤は本来あるべき秦代郡豚制下の軍事編成を示唆するとみなせば、ここにこの軍事編成を具鐙的な事例

(

)

において検誼することができる。

まず陳勝

・呉康の叛凱経過をみておこう。

『史記』巻四八陳渉世家によると、二世皇帝元年七月に里の閏左の諦成を漁

陽に設し、九百人が大津郷に駐屯したとき、

陳勝

・臭庚はともに屯長であった。叛凱を起こすきっかけとして二人は尉を

殺し

陳勝は将軍となり、

呉康は都尉となった。

そして大津郷を牧め、

(漢代浦郡の)新廓を攻める。

つやついて鐙牒、飽

照、苦服、柘師師、議鯨を攻め、

(戦園遊園の醤都である)陳牒に至るまでに、

- 22ー

車六七百乗、

騎千齢、卒数寓人の勢力になっ

たという。したがって泰代郡鯨制下には、戦車、騎兵、卒の軍陵が存在していたのであり、陳勝らはその郡鯨制下の軍隊

を奪取することによって、山富初の叛飢基盤としていることがわかる。この陳勝の軍は、陳牒に至って少しその構成を蟹え

(印)

ている。すなわち陳鯨では郡守と牒令とが不在で、守丞が防衛していたという。陳勝の軍はこれを降して陳鯨に入り、そ

こではじめて三老・豪傑を召して計略を謀り、王位に聞いて園競を「張楚」としている。このことは陳鯨に入って郡鯨制

下の民政系統の機構と接燭したことを示している。

要するに陳勝軍の叛凱基盤をみると、まず郡鯨制下の軍陵を奪取することから出設し、嘗初は箪後の軍糧補給や臨時徴

設の封象となる郷里の農民男子への配慮がみられないが、陳鯨に至って民政系統の機構をふくむようになったと考えられ

る。いまこのような陳勝軍の叛範基盤の機構を、その背景となった場所とのかかわりにおいて示せば、

(

)

(

(

)

(

)

将軍||都尉||尉||屯長』|l成卒

〔陳勝〕〔奥庚〕〔数人〕〔諦戊〕

つぎのようになる。

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これに射して劉邦軍の叛乱基盤は異なっている。

『史記』巻八高租本紀、二世元年僚によると、叛乱のきっかけは浦の

父老に申巾書を射て投降を呼びかけ、浦の父老・子弟たちが怖の鯨令を殺して劉邦を迎え入れたことにはじまる。そこで劉

邦は推されて浦公となり、配下の少年・

豪吏が浦の子弟二三千人を率いて、胡陵照・方輿鯨を攻め、さらに豊販を守衛す

したがって劉邦軍は、叛見蛍初から捕鯨の父老・子弟たちを掌握していたことがわかる。すなわち換言

すれば、劉邦軍の叛見基盤は嘗初から臨時徴裂の封象となる豚制下の農民男子を配下に組み込んでいるのである。そして

(

)

すでに守匡美都雄氏が指摘されるように、

るに至っている。

劉邦軍と父老たちとの接燭はその後もつづいている。

たとえば漢元年(前二O

六〉に威陽に入ったとき、劉邦は諸鯨の父老・豪傑を招き法三章を約している。

また翌二年には閥外の父老を撫順して還

四年(前二

O一ニ〉には様陽に至って父老を存問して置酒していることなどは、

その一例である。

したがってこのよう

な劉邦と父老・

豪傑との接舗は、劉邦軍が郡鯨制下の軍事系統の掌握だけではなく、叛凱の嘗初から廓制下の軍糧補給と

〈臼)

臨時徴震の封象となる農民男子を組み込む一意園を示唆しているのである。

- 23ー

このように秦末の叛観基盤をみると、嘗初の陳勝軍は郡豚制下の軍陵編成を示しており、嘗初の劉邦軍は鯨制下の農民

男子の軍事編成を示していると考えられる。したがって以上のことから、戦園

・秦代では正規の徴兵と臨時徴護とによる

軍事編成が行なわれており、その両者の軍事編成は秦末郡鯨制下の叛範においても機能していることが検誼できるのであ

)

る。そしてそのときこの雨者を結ぶものが、秦においてとくに重んじられたという爵であり、爵制的秩序はこのような戦

園・秦の軍事編成と一致するのではないかと考える。このように想定すれば、戟園末まで軍功爵が重視され、卒時の鯨制

(白山〉

さらには秦園の特殊な軍事編成に合致するとおもわれる。

下において農民男子が晶討を保持していることが読明でき、

253

中園古代の郡鯨統治の一端を明らかにするために、本稿では睡虎地秦筒、秦始皇陵兵馬備の軍陣を手がかりとして、戦

Page 25: Title 戰國・秦代の軍事編成 東洋史研究 (1987), 46(2): 231-262 ...232 いとおもう。たのかという問題である。そこで本稿では、郡勝統治の一端を明らかにするために、戦園・秦代の軍事編成を論じてみた

254

まず戦闘秦の常備軍は徴兵された農民男子をふくみ、一商鞍豚制いらいは豚

を車位として構成されていたとおもわれる。そのとき従軍した農民男子には軍功霞の規定が設けられており、その機能が

・秦代の軍事編成を考察した。要約すると、

戦闘末まで重視されたことは睡虎地秦簡によって確認することができる。そこで問題となるのは、第

一に豚制下の常備軍

の軍隊編成はどのようなものであり、第二に常備軍をふくむ戦園・秦代の軍事編成の特徴はどのようなものかということ

であった。

一の郡鯨制下の常備軍の編成については、秦始皇陵兵馬偶の軍陣から類推しうる。すなわち秦兵馬偶の位置づけは、

一続、二挽備坑は京師の

一般箪陵である中尉の軍陵を反映し、三競備坑は始皇陵城門東側の太

意仲一氏の読を修正して、

僕属下の廠苑と接描相して、始皇帝の天下巡遊に備える儀伎護衛の役割をもつのではないかと想定した。そのとき注目され

ることは、兵馬備軍陣の内部構成が大きく二つに区別されていることである。

車御手備、武官偶、騎兵備、鴎脆湾丘(備で、稽冠、幣創などで他の歩兵備と匡則されていることが特徴である。もう一つ

一つは軍吏とそれに準ずるとおもわれる戦

- 24ー

は一般歩兵何で、その特徴は無冠で髪を頭の右側に束ねた結髪という駐にある。秦兵馬備の軍陣が中尉の軍隊を反映する

のであれば、前者は材官、騎士、軽車にあたることになり、後者は卒と呼ばれる一般徴兵の男子を指すことになる。この

ように秦兵馬偏は直接的に郡鯨制下の軍隊編成を示すものではないが、内史地区の一般戦闘軍隊という黙において鯨制下

の軍隊と同じ性格をもっており、郡照制下の軍隊編成を類推しうるとおもわれる。

第二に戦園・秦代の軍事編成の特徴については、常備軍と臨時徴震との関係に注目して考察した。その結果、臨時徴震

に賜信の記事があることから、きたるべき園民皆兵を想定して、従軍時と鯖農後とに爵制的秩序が機能しているのではな

いかと推定した。このように考えれば、戦園末まで軍功震が重視され、また卒時においても農民男子に爵位が保持されて

いることが理解されるとおもう。さらにこのような臨時徴援の農民男子を危急の際の戦闘力として位置づけてレること

は、戦闘秦の「耕戦の土」という軍事編成とも合致すると考える。

したがって戟園・秦代の郡豚制下では、軍功爵の秩序

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によってその軍事編成を達成していたことになる。

以上が本稿の要旨であるが、郡牒制下の統治機構については注意しておくべきことがある。その一一は、京師地匿におけ

る内史と中尉との関係である。

『漢書』百官表によると、内史は京師地匡の民を治め、中尉は京師地匿の治安維持を捨嘗

しており、これはちょうど秦漢郡牒における太守と都尉の開係に嘗る。

したがって内史地匿の統治機構は、民政と軍政と

(

の二系統に分かれており、その内史属下の鯨制の機構も嘗初は軍政的性格が強いことを示している。このことから戦園秦

の郡鯨制は、まず軍政優位のもとに統治機構があらわれ、

しだいに民政機構が整えられるようになったのではないかと考

えられる。

そのこは、常備軍と臨時徴設との軍事編成を検註するために秦末の叛範基盤を考察した際、秦の本援地である開中とそ

の近迭の郡鯨制下に父老・豪傑などが存在し、かつ叛観軍がかれらと計略を謀っていたことである。このことは前述のよ

うな農民男子の編成は軍事睦制において機能するものであり、照制下の民政には父老や豪傑を媒介とする払跡地があること

(

)

を示唆している。したがってこのような統治方式では、軍事編成において農民男子を掌握しているとしても、戦園いらい

- 25ー

の地方秩序は完全に自律性を失うことはなく、緊落内部の異なる階層をふくむ農民のありかたは、漢代以降にもちこされ

てゆくことが想定される。

このように秦代郡勝制下の統治機構については、なお残された課題も多いが、今後は戦園秦の統一過程における統治の

ありかたや、地域別に郡勝の杜禽構造を考察することによって、中園古代吐舎の特質を明らかにしたいとおもう。

?註

九 2 拙八器稿

恩簿ヱ。土高

退 E己

主AT のi玄 関

函富水早利平

墨蔀

署需

zi 園程

書の

刊で行考曾 察

(

2

)

秦漢時代の兵制と径役の問題黙については、拙稿「前漢の

宮間役労働とその運営形態」(『中園史研究』

8、一九八四)参

照。

255

Page 27: Title 戰國・秦代の軍事編成 東洋史研究 (1987), 46(2): 231-262 ...232 いとおもう。たのかという問題である。そこで本稿では、郡勝統治の一端を明らかにするために、戦園・秦代の軍事編成を論じてみた

256

(

3

)

子豪亮一・李均明

「秦関所反映的軍事制度」

(『雲夢秦簡明

究』所校、中華書局、一九八一)、熊餓基「試論秦代箪事制

度」(『秦漢史論叢』第

一瞬、

侠西人民出版社、一九八一)、

重近麿樹

「秦漢の兵制について地方軍を中心として」(静

岡大翠人文撃部『人文論集』%、一九八六)など。

(

4

)

亥仲一「秦始皇陵東側第二・三挽偶坑軍陣内容試探」(『中

園考古率舎第一次年曾論文集一九七九』所枚、文物出版社、

一九八O〉、同

「秦始皇陵兵馬何」(『秦始皇陵兵馬伺』所

枚、文物出版社、一九八三、八重垣渉誇は

『秦始皇陵兵馬

伺』卒凡社、

一九八三)、骨布川克「秦始皇陵と兵馬伺に関

する試論」(『東方皐報』京都旬、一九八六)参照。

(

5

)

春秋から戦園時代の軍制の鑓化については、岡崎文夫「参

園伍都の制について」(「羽田博士頒議記念東洋史論叢』所

収、一九五

O)、楊寛『戟園史』(上海人民出版社、一九八

O)第六章など参照。

(6〉睡虎地秦倒の緯文は、雲夢陵虎地秦墓縞馬組『雲夢睡虎地

秦墓』(文物出版社、一九八一〉の経末潟県番放と、陸虎地

秦墓竹筒整理小組編『陸虎地秦墓竹筒』

(文物出版社、一九

七八)の頁放を並記し、略字は注記にしたがって改めた部分

がある(以下、同じ)。〈編年記〉一

J四九側、三J八頁。そ

の史料開性格については、黄盛琢「雲夢秦簡《編年記》地理

輿歴史問題」(一九七七、のち『歴史地理輿考古論叢』所

牧、湾魯書祉、

一九八二)参照。

(7〉

子豪亮

・李均明前掲「秦簡所反映閏軍事制度」。

《8〉波逸信一郎「呂民春秋上農篇愈測|秦漢時代の祉舎編成」

(『京都府立大皐皐術報告』人文お、一九八一)。

(

9

)

身長を基準とすることについて、睡虎地秦筒

〈法律答問〉

三七六筒、一五三頁に、

甲盗牛。盗牛時高六尺。政

一歳。復丈。高六尺七寸。問甲

何論。蛍完城旦。

とあり、身長が一定基準を越えると刑が袋わる

ことがわか

る。また男子の申告については、〈秦律雑抄〉一一一六

O筒、一

四三頁に、

匿致童。及占簿不審。典・老樹耐。

とあり、典

・老が関興している。さらに申告による負捲は、

〈法律答間〉五三五節、二二二頁に、

何謂匿戸及敷重弗待。匿戸弗箔使。弗令戸賦之謂也。

とあり、世間使と戸賦であることが知られる。

(

m

)

黄盛時岬前掲

「雲夢秦筒《編年記》

地理輿歴史問題」では、

『史記』秦始皇本紀二年僚に「時間公明耐卒攻巻。斬首三蔦。」

とあることから、得籍されるとすぐに兵役義務があり、戦役

が終ると踊ると考えている。

〈日)

重近前掲「秦漢の兵制について」

参照。

(ロ)

商鞍豚制については、拙稿前掲

「中園古代の開中開設」参

照。

(臼)

『史記』巻六八商君列俸によると、

農民の負播内容は、分

異の規定から賦があること、軍功爵は兵役を前提とするこ

と、力役苑除の規定から力役義務があることがわかる。

した

がって一商戦第一次第法は農民男子再編の政策であり、軍功爵

はこの一連の規定とともに機能していることが特徴である。

- 26ー

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257

ただし爵制の起源について以下の黙が注意される。一は、爵

稽のいくつかは商鉄製法以前にみえている。たとえば『史

記』巻一五、六園年表には腐共公、懐公、出公の時に「庶

長」「左庶長」の名稽がみえ、また高敏「従雲夢秦簡看秦的

賜爵制度」(『雲夢秦簡初探』所枚、河南人民出版社、一九

七九)、楊覚前掲『戦園史」第六章で、春秋時代に事情の爵稽

がみえること、三否、湾、燕、楚など融制圏諸園においても爵

秩等級の存在したことが指摘されている。一一は、『史記』巻

五秦本紀、孝公元年僚に戟士を招き、功賞を明らかにするこ

とがみえており、論功褒賞も荷鞍以前に試みられている。し

たがって西嶋定生『中園古代喬園の形成と構造|二十等爵制

の研究』(東京大患出版舎、

一九六一)一

O九J一八頁で指

摘されているように、軍功爵制は一商鞍の創設ではなく、それ

以前の爵穏や軍功褒賞を縫承していることが明らかである。

(

M

)

守屋美都雄「漢代爵創の源流として見たる商鞍爵制の研

究」(一九五七、のち『中園古代の家族と園家』所枚、東洋

史研究倉、一九六八〉、朱紹侯『軍功爵制試探』(上海人民出

版社、一九八

O)など参照。

(日)高敏前掲「従雲夢秦簡着秦的賜届肘制度」、千豪一先・李均明

前掲「秦関所反映的軍事制度」参照。

(日)〈秦律十八種〉二二

01一筒、九二頁に、

従軍蛍以品目論及賜。来奔而死。有皐濃耐零其後。及漉耐著

者。皆不得受其霞及賜。其巳奔。賜未受而死及濯耐悪者。

鼠賜。軍爵律

とあり、同一一一一一一J一一一筒、九三頁に、

欲錦爵二級以菟親父母信用毅巨妾者一人。及隷臣斬首信用公

士。調館公土而菟故妻隷臣一人者。許之。菟以信用庶人。:・

・寧爵

(口)〈秦律十八種〉俸食律、二四六J七筒、一

O一頁。同二四

八街、一

O二頁。同二四九筒、一

O三頁、参照。

(四〉〈封診式〉奪首、六一一

J一一一筒、二五六J七頁。また〈封

診式〉六

一四J六筒、

二五七J八頁にも、首級の争いの項目

がある。

(印)拙稿前掲「前漢の箔役労働とその運営形態」参照。

(却〉『韓非子』和氏篇に、

喬君数秦孝公以遠什伍。設告坐之過。燭詩書而明法令。塞

私門之請。而途公家之労。都用品附宣之民。而額耕戟之士。孝

公行之。主以寧安。園以富強。

(幻)守屋前掲「漢代爵制の源流として見たる商鞍爵制の研究」

六二一貝。

(幻)西嶋前掲『中園古代一帝園の形成と構造』第四章、第五章。

(お)籾山明「爵制論の再検討」(『新しい歴史皐のために』一七

八、一九八五〉では、付に民爵賜輿は「女子百戸牛酒」「繭

五日」と切り離して考察すべきとし、同に爵の停統的性格は

主君への軍事的奉仕に封する功勅の意味をもつため、爵制的

秩序は皇帝と良民男子との開に成立する秩序であり、郷里の

匙曾秩序形成を必ずしも意園したものではないと指摘されて

いる。また新豚徒民を民爵賜輿の典型とすることについて、

拙稿前掲「中園古代の関中開設」では、師例制施行は警察洛を

行政的に統轄する形態で設置され、新たに開設された地域を

- 27ー

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258

新燃とする場合は稀であることを論じた。したがって秦漢時

代の爵制的秩序は、新際だけでなく、替緊落をも包括する秩

序として説明されなければならないと考える。

〈川品)始皇陵秦偶坑考古渡掘隊「臨澄豚秦偶坑試掘第一一説簡報」

(『文物』一九七五|一一期)、同

「秦始皇陵東側第二鋭兵馬

何坑鍛探試掘簡報」(『文物』一九七八|五期)、秦偶坑考古

隊「秦始皇陵東側第三鋭兵馬偶坑清理簡報」(『文物』一九

七九|一一一期)、案仲一前掲論文。

(お)報告は基本的に蓑氏にしたがい、秦偶坑考古隊の記述を補

ぅ。なお曾布川氏は前掲論文において、将軍備の名穏や冠の

名穏に疑問を提出されているが、本稿では便宜上、考古報告

の名稽にしたがい、全飽の配置や丘(種の区別を中心に論ずる

ものである。

(mm

〉掛田口重園「前漢の南北軍に就いて」、「雨漢の中央諸軍に就

いて」(『秦漢陪唐史の研究』所牧、東京大皐出版禽、一九

六六)参照。

(幻〉裳仲一前掲「秦始皇陵兵馬偶」参照。

(お)『史記』巻六秦始皇本紀、二世元年僚に、

設徴其材士五蔦人病屯術威陽。令数射。狗馬禽献。首食者

多。度不足。下調郡脈。制時輪寂菜畑倒襲。皆令自粛糧食。威

陽三百里内。不得食其穀。

(mm)

曾布川前掲「秦始皇陵と兵馬備に関する試論」参照。なお

曾布川氏の論貼は多岐にわたっているが、本稿ではとくに僧

冠か無冠かの兵種の匿別に注目し、陵圏全鐙での位置づけの

m五百性を検討するものである。

(ぬ〉秦兵馬備のほかに、楊家湾漢墓の兵馬偶(楊家湾漢墓設掘

小組「成陽楊家相円漢墓設掘簡報」『文物』一九七七|一

O

期)や、徐州獅子山兵馬偶坑(徐州博物館「徐州獅子山兵馬

偏坑第一次設掘簡報」『文物』一九八六

l一一一期)などがあ

り、今後比較検討の劉象となるが、秦代の一般軍隊の例では

L

(凱)演口前掲「爾漢の中央諸軍に就いて

」参照。

(日記)潰口氏は同右論文の注7において、『北堂書紗』巻五四執

金五口(中尉〉の原注に、

漢奮儀云。執金吾。車駕出。従六百騎。走六千二百人也。

とあるのを、『三園士山』巻一一一一王朗停、袈松之注の「執金吾

従騎六百。走卒倍駕」によって修正し、中尉の構成は車駕、

従騎、走卒千二百人と考査されている。

(お〉このほかに中尉だけではないが、『史記』径一

O孝文本

紀、十四年冬僚に、

中尉周含篤衛賂軍。郎中令張武震車騎将軍。軍滑北。車千

乗。騎卒十薦。

とあり、また『漢書』各六武帯紀、元鼎六年冬十月僚に、

愛隣西

・天水・安定騎士及中尉・河南

・河内卒十寓人。

(川品)中尉は京師の警備を掌るとともに、内史地区の長官である

内史が民政を掌るのに謝して、内史地匿の軍事を捲嘗する役

割をもっ。これは郡豚における太守と都尉との関係にあた

る。したがって戦闘秦の戟闘を捻う一般軍隊の構成をみれ

ば、中尉の軍隊構成を類推することができよう。

(お)秦の軍事力について、蘇秦は合縦を推進するために低く見

- 28-

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259

積り、張儀は濯機を推進するために高く見積る傾向がある

が、内容の兵種分類は戟園秦の寅肢を示すと考えられる。な

お戟園故事の史料的性格については、拙稿「馬王堆吊書『戟

園縦横家書』の構成と性格」(『愛媛大同学教養部紀要』第一

九抗、一九八六)参照。

〈お)『陸虎地秦墓竹筒』軽装版(文物出版社、一九七八〉一一一

七頁、〈秦律雑抄〉の解説によると、その律文は〈秦律十八

種〉とは別の秦律を抜粋した資料で、軍事関係が多いと指摘

されている。

(幻〉〈秦律雑抄〉三三

OJ一筒、一二八頁。

(お〉〈秦律雑抄〉三三六J七筒、二三頁。

(ぬ〉重逗前掲「秦漢の兵制について」参照。

(

ω

)

裳仲一前掲「秦始皇陵兵馬伺」参照。

(MU

〉前掲「臨漬豚秦偶坑試掘第一一抗簡報」によると、たとえ

ま、

ω肩鎧を着用し、帽子をかぶる兵備。

ω肩鎧を着用する兵備。

防戦砲を着用する兵備。

などに区分される。

(必)『績漢書』輿服志第三

O下に、

古者有冠無償。其戴也。加首有類。所以安物。・::三代之

世。法制滋彰。下至戟図。文武盟用。秦雄諸侯。の加其

武終首飾。

am絡拍。以表貴賎。其後檎精作顔題。

とある。なお冠については、王園維「胡服考」(『幅削堂集林』

第二二)、林巳奈夫「漢代男子のかぶりもの」(『史林』必|

5、一九六三)参照。

(目白)州市冠について、『漢書』巻一高一帝紀下、八年春三月僚に、

爵非公乗以上。現得冠劉氏冠。

とあり、爵八等の公乗以上でなければ槽冠することができ

ない。また西嶋前掲『中園古代脅園の形成と構造』による

と、この上の爵九等の五大夫以上が官爵であり、したがって

無冠は官吏でないことを示すと同時に民爵保持者であること

を示すことになる。

(川叫)〈封診式〉賊死、六三五J四二筒、二六四J五頁に、

愛書。某亭求盗申告因。署中某所有賎死。結髪。不智何男

子一人。来告。即令令史某往診。令史某愛書。:::男子丁

妊。析色。長七尺一寸。髪長二尺。

(必)『史記』巻六秦始皇本紀二十六年僚に、「更名民田勝首」

とあり、民を黙首という。これについて態酌注は「務亦繋黒

也」といい、『説文』では「秦謂民篤斡首。謂黒色」とあ

る。また『資治通鑑』巻七、秦紀二始皇帝三十一年僚の注に

引く孔穎達注に「凡民以黒巾覆頭。故謂之品開首」という。さ

らに居延漢衡の吏卒出入簿に「黒色」という身慢の特徴が記

されており、この場合は髪か眼もしくは皮膚の色を指すと考

えられている(永田英正「居延漢衡の集成一一一」『東方皐報』

京都目、一九七九)。したがって斡首とは、頭髪か黒巾を意

味するとおもわれる。また結髪について、『漢書』巻五四李

陵俸に「雨人皆胡服椎結」とあり、旬奴も椎髪であるとい

い、これは胡服騎射の採用と関連があるかもしれない。結髪

については、このほかに白鳥康吉「毘細亜北族の鱒髪に就い

- 29ー

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260

岩波書庖、

一九七

O〉

て」(『白鳥庫士回全集』第五巻所校、

参照。

(必)険西省秦備考古隊・秦始自主兵馬偶博物館編『秦陵二放銅車

馬』

(《考古典文物》編輯部出版、

一九八三)参照。

ハU)

楊寛『中園古代陵寝制度史研究』(上海古籍出版社、一九

八五)二八J三O頁。日本版は西嶋定生監霧、尾形勇・太

田有子共誇『中園皇帯陵の起源と努遷』(息子生祉、

一九八

一)。

〈必)『史記』巻五五留侯世家に、

ハ張〉良嘗皐躍准陽。東見倉海君。得力士。居同鍛椎重百二

十斤。秦皇帝東灘。良輿客狙撃秦皇-帝博浪沙中。誤中副

車。

〈品切)『史記』巻八七李斯列俸に、

始皇三十七年十月。行出品附曾稽。盟海上。北抵浪邪。丞相

斯・中車府令越古同粂行符璽ムヱ事。皆従。:::置始皇居翻椋

車中。百官奏事上食如故。

(印)秦偶坑考古除「秦始皇陵東側馬腹坑鎖探清理簡報」(『考

古輿文物』一九八

Ol四期)、越康民「秦始皇陵東側設現五

座馬阪坑」

(『考古典文物』

一九八一二1l五期)。曾布川氏は前

掲論文で、これらの馬股坑が始皇陵の陪葬坑か疑問とされる

が、丘(馬備の八

00メートル西側で、同じく等身大の陶備が

東向きであることから、兵馬伺と同じ性質の陪葬坑とみなし

てよいのではないかと考える。

(日)すでに中尉の軍隊でみたように、高脅期に卒のみで三篤人

の員数がいた。また兵備は軍後の卒ではなく、多くは鎧を着

用し、武器を手にした待機の姿勢をとることから、兵馬備は

京師の軍隊の中でも精鋭軍園を表現しているとおもわれる。

また個々の兵備の顔つきが異なることは、一人一人のモデル

を篤寅したとするより、各地域の人々の編成を考慮したヴァ

リエーションとみなすことができるのではないかと考える。

(臼〉拙稿前掲「前漢の徳役労働とその運営形態」では、衛士、

材官、騎士、軽車などは徳役の卒ではないことを論じたが、

その後、志野敏夫「漢の衡土と饗遺故術土儀」(早稲田大翠

大同学院『文相学研究科紀要』別加口集、哲皐

・史皐篇、一九八

四)、大庭傍

「地湾出土の騎士簡加|『材官孜』補正」(『末

、氷先生米脅記念献呈論文集』所枚、一九八五)は、それぞれ

衛士、材官・騎士等が一般箔役と区別される存在であること

を再確認されている。

(臼)重近前掲「秦漢の兵制について」参照。

(

M

)

西嶋前掲『中園古代一帝園の形成と構造』第五章、五一一一

l

四頁では、「民十五以上」とは秦圏全ての民とされるが、

『史記』巻七三白起列俸によると、すでに秦の斥兵、

奇兵二

高五千人、一軍五千騎、経兵などの戟嗣員が出動しているこ

とから、ここでは別ルlトの糧道を紹つために臨時に徴渡し

た河内の民と考える。

(日)高敏「関子秦時服役者年齢問題的探討」(前掲『雲夢秦繍

初探』所収)、楊寛前掲『戟園史』。

(日)卒時における賜爵の事例は、西嶋前掲『中園古代喬園の形

成と構造』に詳しい。ただし『史記』秦本紀、昭王二十一年

僚に、

- 30ー

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261

(司馬)錯攻貌河内。

爵。赦罪人遷之。

とある例は、新たに獲得した占領地における徒民賜爵であ

る。また同書秦始皇本紀四年僚に「百姓内粟千石。奔爵一

級」とある例は、天下の疫病につづく記事であるが、翌五年

に貌園を攻め東郡を置く大規模な戦闘が行なわれていれば、

軍担調達の意味も想定できよう。したがってこの二例は直接

的に軍功によるものではないが、融制園秦の東方進出にかかわ

る軍事的背景をもつことが注目される。

(幻〉〈封診式〉六一四筒、三五七頁に「公士鄭才某皇」とある

ほかに、「莱里土伍」「莱里公土」「塁人士五」「里人公

土」などの例がある。その爵制的秩序について、高敏前掲

「従雲夢秦簡看秦的賜爵制度」では、〈封診式〉鯨妥六二二

J五筒、二六一

J二頁に「莱里五大夫乙家吏」が存在するこ

とから、高位の有爵者は枇曾的身分と一致するといわれる

が、子豪育児・李均明前掲「秦簡所反映的軍事制度」では、付

〈封診式〉告臣に士五甲が男子丙を匡としていること、同

〈封診式〉群盗に公土某が家に蔦銭を所有していること、国

〈法律答問〉に上造が一羊を盗む例があることなどから、爵

位と祉曾的身分とは必ずしも一致しないと考えている。

(回)籾山前掲「爵制論の再検討」参照。

(臼〉これまで陳勝については、影山剛「陳渉の慌について」

(『福井大事昼惑星'部紀要』印、

一九六一〉、木村正雄

「秦末

の諸叛飢」ハ一九七一、のち『中園古代農民叛飢の研究』所

一枚、東京大星出版舎、一九八三〉などがあり、劉邦について

貌献安邑。

秦出其人。

募徒河東賜

は、西嶋定生「中園古代脅図形成の一考察|漢の高祖とその

功臣」(一九四九、のち『中園古代園家と東アジア世界』所

牧、東京大皐出版舎、一九八三)、増淵龍夫「漢代における

民間秩序の構造と任侠的習俗」(一九五一、のち『中園古代

の祉舎と園家』所牧、弘文堂、一九六

O)、守屋美都雄「漢

の高祖集園の性格について」(一九五二、のち『中園古代の

家族と園家』所枚、東洋史研究曾、一九六八)などで論じら

れている。これらの研究は、主として叛飢の出身階級と人間

関係を中心に考察されているが、本稿では視黙をかえて、叛

飢基盤の軍隊構成に注目するものである。

(

ω

)

陳は

『史記』品位囚

O楚世家、悪王十年僚に「是裁也。滅陳

而豚之。L

とあり、馬非百『秦集史』(中華書局、一九八二)

郡豚士山下では、陳に守・令がいるのであるから陳郡の治所で

あるという諌其駿氏の設を引いている。

(

m

m

)

守屋美都雄「父老」(一九五五、のち前掲『中園古代の家

族と園家』所枚〉参照。

(臼〉『史記』巻五三稿用相圏世家によると、粛何は漢二年に開中

を守り、開中の卒を興して軍糧補給をするなど、たえず軍需

物資の補給に留意している。

(臼)このほかに項梁・項沼の叛鋭は、嘗初から諸侯園の軍隊編

成を採用しており、陳勝・劉邦集圏の郡勝制下の叛飢基盤と

は異なっている。したがって戟園時代では郡鯨制だけではな

く、封園の役割も重要であるとおもわれ、その一端は拙稿

「『史記』穣侯列俸に闘する一考察」(『東方皐』七

一輯、一

九八六)でふれている。

- 31ー

Page 33: Title 戰國・秦代の軍事編成 東洋史研究 (1987), 46(2): 231-262 ...232 いとおもう。たのかという問題である。そこで本稿では、郡勝統治の一端を明らかにするために、戦園・秦代の軍事編成を論じてみた

262

(臼)『商君書』傑民籍。なおその考設については、

好並隆司

「商君書篠民篇棒読」(『岡山大翠文翠部紀要』四四挽、一

九八一ニ)がある。

(白山〉拙稿前掲「前漢の箔役労働とその運営形態」では、

兵役後

に鋳農する民と、専門兵士とに分かれ、その待役の鐙系はつ

ぎのようになると推定した。

nli---jil--

ni--ili--:・日山

術士

・材官騎士等

もしこの仮設が正しいとすれば、本稿で論じた秦代の農民編

成は、前漢にもうけつがれていることになろう。なお前稿の

循役年齢に関する居延漢簡の利用は、

尾形勇

「漢代屯田制の

一考察」

(『史皐雑誌』

ηI4、一九六三)、陳公柔

・徐率芳

「大湾出土的商漢田卒簿籍」(『考古』

一九六一一一

l一二期)で梱

包番貌にもとづき朋書の性質が考察されてのち、

今日では中

園位曾科皐院考古研究所編『居延漢餅甲乙縞』

上下(中華書

局、一九八

O)で出土地が明らかとなり、あらためて卒名籍

の再検討をする必要があると考えている。

(同山)拙稿前掲「中園古代の開中開設」参照。

(目別)増淵前掲

「漢代における民閉秩序の構造と任侠的習俗」で

は、父老と土豪

・豪侠の維持する秩序は社舎的性質が同じと

いわれるが、秦末

・漢初では雨者の役割は区別されているよ

うであり、東耳目次「漢代における家族と郷里」

(『名古屋大

皐東洋史研究報告』4、

一九七六)のように、父老

・豪傑を

区別して考察する硯黙が縫承されるべきであろう。

- 32ー

Page 34: Title 戰國・秦代の軍事編成 東洋史研究 (1987), 46(2): 231-262 ...232 いとおもう。たのかという問題である。そこで本稿では、郡勝統治の一端を明らかにするために、戦園・秦代の軍事編成を論じてみた

MILITARY ORGANIZATION IN THE WARRING

     

STATES AND QIN PERIODS

FUTITA Katsuhisa

  

This essay eχamines military organization under the prefectural sys-

tern in the ぺA'^arringStates and Qin periods. It is an attempt to clarify

one aspect of the mechanism of local control in ancient China。

  

It can be considered that the standing army of the Warring States

and Qin was formed by conscripting male agricultural workers into units

based on the prefectures from the time that Lord Shang Yang (商鋏)

systematized the prefectures. Since it is believed that the terracotta

warriors at the tomb of Qin Shi Huang show the military forces of the

capital, it can be surmised that such a standing army was composed of

both o伍cials with caps and soldiers without caps。

  

Furthermore, there was a provision for granting o伍cial titlesto male

agricultural workers for outstanding military service, and this system was

important until the end of the Warring States period. This was perhaps

the very system of military organization of agricultural workers (geng

zhanzhi shi耕戦之士) that characterized the Qin state and that tried to

combine soldiers from a standing army with farmers that returned to

their fields using the provision of granting titles for military service.

LOCAL SOCIETY AND THE SELECTION OF

 

OFFICIALS IN THE LATER HAN PERIOD

HiGASHI Shinji

  

Previous research on the Han selection process has been done from

the point of view of the central government. This essay attempts to

research the system of “Local Recommendation and Selection”(Xiangiu・

Hこ心僻l郷皐里選) that took place in the local communities of the Later

                 

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