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http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/ Title 群司制の成立(上) Author(s) 田中, 卓 Editor(s) Citation 社會問題研究. 1952, 2(4), p.36-62 Issue Date 1952-10-01 URL http://hdl.handle.net/10466/7500 Rights

Title 群司制の成立(上) 田中, 卓 · 2017-10-14 · に 、 郡 司 の 性 格 が よ り 密 接 に 國 民 生 活 に 鱗 れ て ゐ る と い ふ 鮎 に お

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http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/

   

Title 群司制の成立(上)

Author(s) 田中, 卓

Editor(s)

Citation 社會問題研究. 1952, 2(4), p.36-62

Issue Date 1952-10-01

URL http://hdl.handle.net/10466/7500

Rights

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三六

(上)

一傭即

「}許」系統

の表記法

について

二節

「柵郡」用由子の込椥皿削

(以ト評本號㌍)

三節

(以下次號)

第四節

郡司

の名稔

五蔀

造と郡司

六節

郡司制

の成立

びは

わが國律令政治盤制下において、地方旺割

が國螂にわかたれ、國に國司、郡に那司の任命を

み、郡司は國司

の下に

隷属して郡内

の政務を掌

る地方官

であつたことは申すまでもない。また從來

の學界において、國司の研究に較ぺて郡

(註

「)

(詳二)

司のそれが頗る立ち遅れを示してゐたにも拘らす、近來、坂本太郎博士や吉村茂樹氏等

の優れた研究によつて格段

進展が見られたことも周知のことがらであ

る。郡司の任務が、國司に比して末端に位し、それだけ資料にカいて訣け

るところが多く、從

つて制度皮的な意味においては輕覗せられてきた

ことも理由

のないことではないが、麟

って想

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に、郡司の性格

がより密接に國民生活に鱗れてゐるといふ鮎においてはむしろ地方政治

の先端

に立ち、ま充實施せら

.

れた律令官制

一般

に観念的

.理想的、從

つて多分に革新的様相を示すのに封して、より且ハ壁

・現實的、從

つて保

守的傾向

さへも帯びてをり、謂は『理念と現實と

の紐帯

の役割を果してゐる鮎において、更に郡司

の社.會史的な考察

が、今後において重要な課題とせられるであらう。しかし、右

の課題をそのま

玉直ちに研究の盟上にのぼすといふこ

とは、現在の私の力量では未だ及ばぬところである。それ故、本稿においては、その序論とも云ふべき、郡司制

の成

髄立といふ問題に焦鮎をしぼり、卑見を述べて博雅

の御叱正を乞ひたいと考

へる。

さて、この問題を採り上げようとする基本的な私

の意岡は如上め通りであるが、しかし、何

よりも先づ郡司制

の成

カ立に筆を染めようとするのは、

〃成立〃といふ當初

の問題より取扱

ふことが

一般的な研究

の順序

としてふさはしい、

といふ軍なる理由のみからではない。實は、,むしろ、最近

の學界において、郡司制の成立、特

にその成立年代につい

て相封立し允見解が現はれ、それは引いて日本紀

の大化二年正月の所謂大化改新詔の信類性をめぐる激しい論孚を惹

起し來り、その臨趨の如何が上代史學杢般に及ぼす影響は勘からぬ旭

のがあると思はれるので、自

らの菲才をも顧み

す、問題の渦中に敢てこの

一篇を捧げんとするものである。

ふところの論事とは、坂本太郎博士と井上光貞氏との聞にかはされ艶ものであ

るが、内容

の重要なるは云はすも

がな、殊に斯界

の樺威と俊秀の鏡く相搏つ筆職として、近來稀にみる興味深いものであ

つた。

それ故、私も先に

【大

   じ

   ロ 

化改新詔の信葱性と郡評

の問題」と題して所信の]端を報告焚表し、更に

「大化改新詔の信愚性をめぐる論宰」にお

いて紹介と批判の概要を述べπ。從

つて、論孚の経緯を再び繰返す

ことの繁はこ」に避けまうと思

ふが、私の右の紹

介と前後して.更に井上氏の坂本博士に封する嚴しい反批制が蛮表せられてゐるし、また後蓮

の考察

の便を考

へて、

 ぶま 

に示

の通

る。

ω

「大

の信

(昭和二十

六年十

一月、史學會

大會部會磯表)

郡司制

の成立(上)(田中)

三七

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0

郡司制

の成山皿(上)(田中)

一二八

「大

の信

の問

つい

て」

(昭和二十

七年

二月、歴史地理第八十

三巻第

一號)

㈹…

「郡

の成

つい

て」

(昭

和二十七年

四月、古代學第二號)

「再

改新

の信

て1

坂本

太郎博士

に捧

ぐー」

(昭和二+

七年七月、歴史

地理第八+三巷第

二號4

、私

の述

る論

は、

より

の恩師

上學

の卓

に負

ふと

ろ多

であ

,

これ

の論

、實

は津

田左

士及

坂本

て封

に樹

の偉

「大

改薪

究」

てな

こと

は申

い。

(ご

「郡司

の非律令的性質

」へ歴史地理第五+三巻第一號)昭和四年

一月刊

(二)

「郡司制度

の研

究」(史學雑誌第四+七拳第+一號)昭和十

一年十

一月刊

(三)

和二十七年

六月

二十九日、大阪歴史學會大會

におけ

る蕨究報告。

(四)

藝林

三巻第

四號、昭和二+七年六月刊

く五)

上氏

の論交…Mの如きは、實

は坂本博士

の論文⑧以前

の丁執筆

にか玉り、從

つて必ずし毒論職がこ

の順

に行はれたと

いふわけ

ではな

い。論職

の順

は㈲

ー㈹ー-⑪

であり、ゆ

及び⑪

に封す

る坂本博十

の反論は未

だ登表

せられてゐな

い。

一節

「評

」系

-

おけ

が國

の地

・縣

て匠

に縣

て、

の地域

圭宰

こと

は周

の事實

であ

る。

、國

と縣

の關

㍉縣

の御

へる読

、或

の下

る説

て縣

「アガ

タ」

(主長は縣主)

「コホ

リ」

(主長は稻置)

の二義

てと

ヘオこ

などがあ

つて、未だ諸説

一致を見ない。之については述ぶべ登私見もあるけれども、いまはそれには鰯れす、唯

れらの國および縣が、大化改新以後において、例外はあるにもせよ、それろ\

可成りの高い率を以て共に郡に再編成

せられた

一從

つてか

玉る再編成

の結果を基礎として大化前代を見透せば、國と縣との間に明瞭な上下の統屡關係を認

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O

る読

ころ

る)

ふ事

てお

にと

どめ

い。

、大

の郡

て從

の國

.縣

ので

が、

玉る郡

の規

二年

の改

さ'れ

る。

凡郡

、域二四十里

一爲二大郡↓三十里以下四里

以上爲二中郡

↓三里爲二小郡

其郡司並取下國造睦識清廉堪=時務

一者鉛

爲二大領

・ゆ領

強幹聰敏

工・書竿

一者震

主政

・主帳

ψ

之を以て、果して郡制

の創始と考

へてよいかどうかは、改新詔の信悪性に關聯して、後述の如く頗る議論

の存する

ところであるが、

少くと竜不安時代初期

(大化以後百五六十年の頃)において、

郡司の始まりを孝徳天皇

の御代に置く

といふことは

した見解であり・類聚國史峰

(延暦+七年三月丙申詔)に

難波朝庭・始置

二諸聾

伍揮二有労禰

於郡領殉Lと見え、蘂

三代蕊

(弘仁二年二月廿晶

躰購

)に

「夫郡響

、難波朝庭始置

其職宥

労之人、

世序二其官幻」と記されてゐる。しか竜その事實を且ハ壁的に裏書きする資.料として次

の事例を指摘し得

る。

(繁難では

あるが、後

の考察

の便宜のために必要な全文を掲げてをく。)

ω

大同本紀魏

(大化五年)

難波長柄讐、前宮御世

、飯野

・多氣

相惣

一郡也

。其時、多氣之有爾鳥墓立

郡時爾、以邑

酉年

]始立二度相郡↓鳳二大建冠肺圭奈聾

 

任一督浩

↓以一」少山中神

主針間

任二助造

殉皆是大幡

主命夫葉

、度會脚圭先

祀也。

太神

宮儀

.

(一本、肝)

從一一纏向珠城朝庭

一以來

、至一手

難波長柄鰻前宮御宇

天萬竪

日天皇御世

↓有

爾鳥墓村造一一神痔

 且、

爲=難紳

政行

一仕奉支。

而難潴朝庭

天下立レ評給時

仁、坦二十郷

一分亘度會

乃山

田原立二屯倉

一昼、新家蓮

阿久%督領

・礒蓮牟良助督仕奉

支。颯二十窺

一分

竹村立一竜

,

oo

(膏隅八敷)oo(一本、奉)

廠績痺廣背督領

.礒部屓夜

手助督仕督支。同朝庭御時仁、初太聯

宮司所一構坤痔司

門中臣香積蓮須氣

仕奉支。

是人時仁、

度會山田原

浩」嘘御厨

一亙

・改ぎ㎞騨痔

止一云 名門一産油號二潮御厨↓帥望號二太…神宮司

一支。

宮儀

郡↓司制

の.灰立(ヒ「)(用[中)

三九

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郡司制

の成

立(上)(田中)

四Q

(天智天皇確制三年)

ooo

近江

大漣朝庭天命開別天

皇御代仁、

甲子年↓小

乙中

久米勝麻呂仁多氣

郡四箇郷申

割星

立二飯

野高宮村屯倉

一E

評督領仕奉支。帥

爲ご公郡

一之。右元

三箇郡囁

二一塵↓太御

冨供奉支。所割分由顯如

」件。

ω

信太郡

(白羅四年)

難波長柄豊前大宮

駅宇天皇之世

、.癸丑年

、小山上物部河丙∵

乙上物部會津等

、請二惣

領高

向大夫

↓分二筑波

・茨城郡

七百戸

一置二信

太郡

↓此地本

日高見國也

行方郡

.

(自維四年)

難波長柄豊前大宮駅宇天

皇之世、癸丑年、茨城國造小乙下

壬生蓮麻呂

・那

珂國造大建壬生直夫子等、請二惣領高向大夫

・中臣幡織

大夫等

↓割こ茨城地八里合

七百蝕戸↓別置二郡家℃

8

香島

(大化五年)

難波長柄竪前大朝駅宇

天皇之世、己繭年、大乙上中臣鋒子

・大

乙下申臣部兎子等

、請二惣領高向大夫

{割二下総

國海上國造部内輕野

以南

一里

、那賀國造部内塞田鳳北

五里

↓別置二脚

郡噌

ω

多珂郡

(白維四年)

oo

其後

二難波長柄

幽量剛大宮臨軒天皇之世↓癸丑年、多珂

國造石城直美夜部

・石城評造部志許赤等

請二申惣領高向大夫「以二所部遠隔、

往來不

便輔分置二多珂

.石城二郡

播磨

宍禾郡

難波長柄

讐前

天皇之世

、分

揖保郡

 作二宍禾郡

】之時、山

部比治任爲一一里長↓依二此人名

一日一一比治里鱒

.⑳

・紳

秘書

多氣

(大化二年)

難波長柄豊崎宮御宇天皇丙午年、竹蓮

・礒部直

二氏、建二此郡

】焉。

三代實絡

躍欝

観誕

5

天萬豊

日天阜御

、立二高安郡叩

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印ちζれらを讃として、孝徳天皇の御代に、實際に各地にわたり、郡の建てられた事實を知ることが出來る。それ故

之を大化改新詔の實施とみて、如何にもふさはしいものと申してよい。

しかるに薮に、重大な疑問が提出せられた。それは、日本紀以外の、

大實以前の金石文或

は蕉記について考

へる

に、大化當時に改新詔に謂

ふ如を郡及び郡司の名構用字は認め難いとする井上氏

の論

であるσ

同氏は最初、郡系統

表字法は大寳令以後糧

用せられ寒

のであるとい義

郡字始用説と假構する)をたてられ馨

、(墜

)後

に坂本埜

の反論

(論丈融

)の

一部を卒直鮨

悶めて、前論を保留すると共に郡用宇を浮御原令に始まつを

みなし{

いとい薪

(浮御原令郡字始用論

と舞

する)を提唱せられた。

(騰丈)何れにせよ、井上氏書

つては、大化當

,

時、或は近江令時代において、郡系統

の用字を認めないといふ態度に攣りはないのであ

るから、この論が正しいとす

れば、改新詔に示された郡

・郡司の規定

の信羅性が甚しく動接するであらう

こともやむを得ま

い。それでは郡系統以

前に、如何なる表字法が行はれたかといふに、井上氏にょれば、それは

「評」系・統であり、郡司の長官

.次官を示す

語も改新詔に云ふ如臭

領.・少領と翼

つたもので、之を表記すれ袋

の響

になると蒙

。(論

=

C頁)

i、…

「洲

載法

一智

の認

旧脊

劉藝

-

この譲

は亘

鮮か垂

められてゐる。しかし

ll娼

謝-

!倒

--、,馴

i剖

ながら、仔細に吟味すると、幾っかの支讐

-1-…

-ードー-,

!…

-ー

-,-,…

「因障冷,「細

-剥賦

コ∵口刷⊥

誹毅犠観霧輪礪琶脳鷺、

づ、

一般

に大

の内

ると

され

る文鰍

て竜

て、

へば前

の常

の如

はな

く郷

の表

る事例

は少

く汝

は別

に後

こと

て、

は評

系統

の事

みを

一ま

て考

る。

郡司制

の成

立(上)(田中)

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郡司制

の成立(上)(田中)

太神

儀式

(前

揚所引

⑩)

金銅響

菩嚢

像記雛

.

辛亥年七月十日記、笠許君名大古臣、辛丑日崩去辰時故、見在布奈太利古臣.又伯在建古臣二人志願。

常陸國風土記

(前掲所引……)

皇太神宮儀式帳

(前描所引の)

大同本記禦

爾奨

久、己詣

別命・賜・伊叢

部河量

↓躍

鰭..印大墜

命、神國造契

支.

大同本記

(前掲所引④)

績日本轟

阿波膿

野唇

方・阿婆

三響

姓] 一昌芭

等姓慮

殺簾

講瓦真

唯舞

着二費字百

洗之後諦

直瞬馨

披讃

朝庭・

凡直

】已

畢、

(云た)

金剛場陀羅尼経馨

(天武天十四年)

o

歳次丙戌年五月、川内國志貴評内知識、爲

二七世父母及

一切衆

生↓敬造二金剛場施羅尼紹

一部↓籍

二此善因

↓往生津圭、終成正豊。

造碑

(持統天皇三年)

Qo

永昌元年己丑四月,飛鳥

潭御原大宮、那須國造追

大壼那須直章提、評督被レ賜、歳次康

子年正月

二壬子日辰節診、

故煮斯麻呂等立

レ碑、(云々)

本農諮賦

-む

(前略)紀寺奴釜

人等訴

云、紀衰

祁臣之女糎

費、嫁二木國氷高評人内

原直牟羅↓生一兇身費

・狛費↓

二人蒙

レ魚則

臣虞分、居コ住

寺家

(持統天皇四年)

造二工竿食

↓後至

庚寅編戸之歳

↓三綱按

籔….名爲二奴牌↓(云々)

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ラー1

鐘銘

(交武天皇二年)

o

戊戌年

四月十三日壬寅牧、糟屋評造春

米蓮廣國篶鐘

本轟叢麟

 

末比費

・久費

・波

豆、衣評督

衣君縣

・助督

衣君豊自美

、又肝衝難波

、從一一肥

人等

持レ兵刹

謝劫覚

レ國使

刑部眞木等↓於

5是勅二筑

志物領↓准レ犯決

器。

.

ると

ころ

そ右

二例

るが

の内

には

玉論

と吟

る事

もあ

るや

簡軍

一々

の場

い。

づ①

る便

上、

と關

の深

い㈹

事例

う。

の事

に揚

π

玉明瞭

に見

「督

造」・「助

造」に3

て・ωとの關係言

推し、之集

司の前身の長亨

次寡

あξ

との異読を述べられてゐる。(護

もではあるが、私はその設に與し得秩

。望

、ご畠

と樹の記芝

複し混齪する如妾

脈が認めら

れるけれど込、ω

より明らかなる鮎は、孝徳天皇朝の建郡

の時、

度會郡には新家連阿久多

(督領)・礒連牟良

(助

督)、多氣郡には麻績蓮廣背

(督領;礒部眞夜手

(助督)がそれみ\・長官

・次官に任ぜられ允こと、次に同じ天皇の御

代、中臣香積蓮須氣が度會山田原の御厨.即ち太神宮司に奉仕したといふことであり、㈹より明らかなる貼は、己酉年

(即ち大化五年)に度相郡を立て、大建冠紳主奈波

(督造)・少山中神主針聞

造・がそれみ\

長官

・次官に任ぜられ

,

たといふことである。

こ玉で問題は、同じ度會郡の長官

・次官に任ぜられ掩人名が全然異ると

いふ鮎であるが、之は

④が建郡當初の大化

の任命者を示すのに封し、㈹はそれより十鐵年以上も後

の任命者を示レてゐるといふ鮎を理解す

れば、何ら不審とすべきでない。郎ち㈲

「以二己酉年一(大牝五年)始立二度相郡一」といふ記事

に引かれて考

へると、

ω

の場合と矛盾するけれども、この樹の文は、

その前の

一、多氣之有爾鳥墓立レ郡時」といふ

一節

と共に、

甚だ文脈の

一を歓き意味の績かないものであつて、必すしも構文

の前後によつてのみ理解さるべを笛所

ではない。注意すべ登

郡司制の成立(上×田中)

四三

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郡司制の戒立(上X田中)

四四

は、實に

「大建」「少山中」の冠位であつて、

この冠位の施行年代より推せば、

之ぱ天智天皇構制三年以降、天武天

皇十四年以前σ闇のこととしなければならない。(そして同様な冠位と郡司任命年代との

一致する事例

は、四

前椙的)

「甲子年」(夫智天皇縮制三年)と

「小乙中」の間にも正しく認められる。)之によつて、個の大同本記の記事は、後

のある時代

の、度會郡の長官

・次官を示す遮のであり、的

の大化當時におけるそれと、決して矛盾するものでないこ

とは明らかであらう。更に、井上氏はωの

「中臣香積蓮須氣仕奉支」

の文章を、

「中臣香積連

がスケとな

つた」と解

し、之を以て神宮司

の前身に懲スケ

(次官)が設けられてゐたことが分り、スケがあればカミ

(長官.もあ

つたであ

らうとして、それらを

「督造

・助造」に比定せられたのであるが、

この中臣香積連須氣

の須氣

は、次官のスケではな

 

 

 

 

くて、人名と見るべをであらう。成程、

「新家連阿久多督領

・礒蓮牟良助督仕奉支」

の例があ

るから、

の場

合も

 

 

 

「須氣仕奉皮」と解し得ないことはないが、口りにおける人名の記載法を見

るに、新家連阿久多

・礒蓮牟良

・麻績蓮廣

 

ハ ニ 

・礒部眞夜手ー

最後の礒部眞夜手には姓が訣けてゐるが、之は礒部直八夜手ではないかとも思はれるー

とあつ

て、

づ氏

・姓

・名

てを

る例

い。

.須

(複

 

)・連

へ姓

)・須

'名

)

と見

のが安

であ

、之

に中

べき

はあ

るま

い。

 蓮香積

の敬稽の意に取れないことはないが、前後の文より

この場合は容認し難いし、また中臣氏が早く複氏を生じて

ゐたことは中臣宮地連

(日本紀推占天皇

山-山ハ年山ハ日刀}内E欺)・中臣犠

田連

(羅

綱)竃

事例に照して明ちかである。

それ故、

この文意

は太神宮司を初め紳痔司と構し、中臣香積連須氣が奉仕したといふことを述べたのであ

つて、長官

・次官

の問題など

は、

この場合關係のないことがらである。假りに百歩を譲

つて

「須氣」を次官と解するにして込、本來ならば

この場

合は當然

「カミ」(長官)の名を掲ぐべきところであつて、

「スケ」の名のみ見える不審は解消

しがたい。しか旭二所

太磐

例文に尋

積嘉

氣翻

剛載

」(舞

朗)と見えるのであるから、須氣を名とみるべきことは、先づ

ころ

う。

つて

・スケ

の類

より

・助

を大

の前

の長官

・次

と考

こと

は不

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適當であるし、更に前述の如き冠位施行年代より推せば、㈲

の二人は大紳宮司の前身などではなくて、明らかに天智

'

天皇稻制三年以後に任命せられた者でなければならぬ。そして二所太神宮例文の大宮司次第

の條

を見るに、須氣の在

任四十年

の後には大朽蓮馬養

の名が見え、神圭奈波

・騨霊針聞

の名ぱ認められない。從

つて、.この爾者が大宮司の長

・次官であ

つた讃嫉はなく、むしろ反封の論擦が張いと申してよい。しかも、更に有力な讃櫨

を附加するならば、

度相郡の郡領に紳主氏が任ぜられたことには理由がある。もと、度會氏が神圭の氏を稻し%のは、乙乃古命の二男飛

鳥が驚

天皇の御代量

太神宮の紳主墜

賜はつて吉

のこととせられてゐるが、(二所双碑

宮例丈

)この埜

氏が礒部云

氏と驚

係の深かつ奮

とは・森

圭墾

「薩

籍負二簿

姓亡(豊受大紳宮覇

宜補任次第

)と見え歪

とによつて

.知られる。礒氏は度會建郡當初

の郡領

(助督)であり、礒部氏は同じく多氣郡の郡領

(助督)である。しかもかやう

な・家柄と氏を誤る-1

事實誤

つたといふより便宜改氏したのであらうがー

といふことは、爾

氏が緊密な同族關係に

つだことを示してをP、從

つてこの神圭氏より郡領を出し%として何

らの不審もない。そして、督造に任ぜられ%,

といふ神圭奈波について吟味するに、この人、實は孝徳天皇

の御代に豊受大紳宮の大神主であ

つ允神主吉田の男であ

 

 

ることは、曲豆受大紳宮禰亘補任次第

の大紳圭組父の條に、

「右紳主、二門吉田男大建冠奈波男也」とあることによつ

て知られる。しかも奈波

の名が補任次第に豊受大神宮の神圭として見えてゐないことは、前述

の大宮司次第に見えな

いのと同様であ

つて、これはこの人が郡領であつたためと解せられ、清極的ながらも如上の解

繹を支持するに足るも

 

ロロ

のが

う。

(孝徳天皇朝)iI

大建

1

-狙

(持統天皇朝)込

ふ系

ら推

、奈

が天

・天

皇朝の人物であ

ることはいよノ\疑なく、井上氏の大神宮司前身詮

の成立しが飽いことは戴に明らかであらう。かや

うにして私は、樹

の記事を卒直に且

つ些細に吟味することにょって、

「督造

・助造」を郡司の名構と考

へる噛のであ

り、之を大紳宮司

の前身

の長官

・次官

と推定する説は信じ難い。扱、もとにか

へり、ω

について見

るに、之は既述P

通りであ

つて、文中

「督領

・助督」を郡司の長官

、次官

と考

へるに異論はないであらう。働

の造像記の

「辛亥年」

郡司制の成立(上X田甲)

四五

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郡司制

の成立(上〉(田中)

を崇

峻天

の.四

る読

こと

は潅

いが

、像

の形

「七

「辛

丑」

ると

いふ理由で、之を孝徳天書

錐二年とするのが通読である。

(績古京遣丈・

大日本金石史)

てこの

「埜詐

君名大古臣」とは、詳

しくは

「笠評君」の

「笠臣大古」の意味患

はれ、

この笠評は蓋し吉備國の

「蕩

」(鯉

涯)の後身に當

るらしい

から、笠評君

の笠臣大古とは、忠らく笠國造の出身であらう。

こ玉に

「評君」と見えるのは、

明らかに郡領のごとで

あり、君の字を考慮すれば、先づ長官

の稻として差支

へあ

るまい。次に燭の

「石城評造」についても問題があ

る。井

上氏はこの評造に書

「これは正式の官名では蚕

のではなからうか。」(論丈

D

一〇九頁)喜

しい簿

を試みてをられる

が、

「評造」の語は11にも見え、この場合は明瞭な金石文であ

つて、正式

の官名でないといふ根擦はないのであ

るか

{

ら、先づ通常

の官名と考

へるのが自然であり、且

つかやうな幾種類かの用字

の老察において正式か否かといふ風激臆

.

測を介入せしあては判断

の基準を失ふであらう。ま%更に

「多珂國造」と

「石城評造」が並べて使ひ分けられてゐる

鮎よりしても、官名として國造と評造とを同

一覗しがたい竜のがあり、當時においてはむしろ爾者共存して、未だ必'

すしも

一方

の梅威のみが確立してはゐなか

つ充

のであらう。

倫、

「造」が長官

の意味に用ゐられπ

ことは齊明天皇紀

四年の籍

「授二都岐沙羅柵蒲

位二階、讐

一階

と見えることによつても智

れる。

れにせよ素庭

解す

ヒタ

る限

り、

・11

正式

の長

こと

と申

い。

に…四

「評

は、

を郡

r

の長官

るの

に異

が、

に關

N読

る。

これ

いと

ある輝 )ごの

「飯野

・多氣

」の坪の字は・恐らく評に導

るものとみてよからう・元來、評の字は簗

 

 

 

 

「薪

(中略)其

レ内

二啄

一、

7外

二邑勒

一、

亦中

二郡

一也

二六啄

・五

二邑

㌔」

と見

(殆ど同文が蜜

・盈

新馨

等にもみえる)日本紀(離鍛

+)に拳

島の記事の内些

、迎ゴ討背置

驕Lと記されてゐるから、之が竜と朝鮮にて使用され免用字であることは推量せちれる。そし

て評を日本入が

「ゴホ

リ」と訓んだ

ことは、日本紀の割註に

「忌

」毒

ることによつて知られ、新撰姓氏録

(讐

「評連」、坂素

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囎)の

首L、東大寺家地相馨

(李安遺丈第

H巻二〇頁)の

L

の評も

「泉

リ」と呼ばれた

ことは、同じく姓氏録

'

(巻二十四)の

「響

」との封砦

よつて聞違あ

るま

。き

ろで、この評誓

と同じであらうとい奮

とを、朝鮮及

    

-

び支那の地名の用例上より推定せられ掩のは、實

に宮崎道三郎博士であつた。帥ち朝鮮では大野

のことを坪と唱

へ、

.

ま元爾雅や全韻玉篇にょれば大野を干或は坪と云ふことが知られ、大野

にある聚落を某坪或は某準と呼ぶ例が朝鮮

.

麦那には多い。しかも牛と坪は相通じ、之は評と同音であ

るから、評の字は恐らくは坪

(雫)

の假字であらう。宮崎

博士の推定は以上の如くであ

るが、評H坪といふ實例を示される迄には至らなかつた。しかるに、この燭の坪は、之

 

を㈹

(前揚所引

④)と封

の意

に相

るも

であ

こと

らか

であ

に…四

(前掲所引④)

「飯

:

 

::評督領」を参照すれば、坪11評な

ることけ疑を入れない。それ故、

この事例は、嘗

ての宮崎博士の優れた推定読

を有力に裏づけると共に、

之を評系統の

一例

に加

へることが是認せられてよいであらう。

但し、

こ玉に

「飯野

・多

氣∵

度會坪」と三郡

の名が見えることは」飯・野郡成立以後、帥ち天智天皇稻制三年以後の記載様式であることに注意

しておかねばなるまい。次に酌及び倒

コ許督Lは

(軍猫ならば或は次官である場合のこと竜考

へられるが、)12の場

「暮

・助督」の例

もあるから、恐らくは之を書

とみてま

であらう・魁

「士心貴評」が後

の「志難

(擁名V

であり、働の

「氷暮

」が後の

口罧

」(霜

)であること笛

ない。,

の吟

つて

こと

は、

一に、

以降

大寳

以前

、郡

の用

「評

ふ表

が各

て廣

こと

に、

の長官

・次

の名

をあ

が種

の表

つて

ると

こと

る。

一の問

は疑

の齢

がな

く措

を、

の郡

の表

サ年

の如

であ

う。

ヨ ノ

ち長

、督

()

噌⊥

・4

!~

(

)・君

(働

)・造

(倒

・11

)・督

(㈹

).督

(m∵

・12

)

の五

(

(

(山

・12

)・助

(個

)

種類

る。

て、

の鍬

わ%

る用

ff脚

郡司制

の成立(上)(田中)

四七

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郡司制

の成立

(呈×

田中)

翻轡「

代薩鋼劃圏園醐-圃一圏

雛ガ翻穐

錨繕

蹴二年

(評)瀦領

助督

謝購鞍

霧難

難贈雛三 灘領

雛難蝦欄

矯難儲論鍵難耕麩

堕灘

(評)縮造

「助造

.露

度相郡

剛肌羅

天皇三免

(評)督

一下野國那須郡

ものであることは、裏

によつ萌

らかで

文武天白黒二年

(評)造

.

…筑前羅

屋郡

}

あらう。響

、かや差

官職名

ー文喋

.犀

評)督

-

助置

瞬摩國矯

は・嘗垂

田垂

の説かれた如二

「鞭

恐らく

呼があ

つ奪

あらうが、

その用宇肇

を葦

より見るに割合自由であつ確

)幾

っかの文字が時

と場合によつて使用せられてゐたと思はれる。國司に關して之を見れば、孝徳天皇白雑元年紀に

「穴戸國司草壁蓮醜

経」、

天智天皇邸位前紀に

「播磨國司岸田臣麻呂」、

持統天皇五年紀に

「伊豫國司田中朝臣法麻

呂」等と見え、

「國司」とは國司

の長官を指したものと思はれるが・それを略して書かれる例があつたのであら確略

之を略さすに記

せば

「國司守」であるが、かやうな書法が天武天皇釦位前紀に四ヶ所、同天皇三年紀

一ヶ所、また

「國守」と記す

が齊明天皇四年紀と天武天皇郎位前紀にそれん\

一ケ所認められる。之は大實令制の

「守」と同じ表字であるが、

(それだからとて直ちに之を大實令制による修字と見る理由はない。)

しかも

一方、持統天皇八年紀には

「國司頭至

Ψ月」とあり、長官が「頭」とも記されてゐる。まだ伊豫捻領と伊豫國司が同

一人物であることが持統天皇紀三年及び五

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の條

て知

るか

「捻

と樗

こと

へら

いQ

に常

記.の

[、國

(蒲方)や罐

國風土記

「宰」

(賀占郡

讃容郡)も國司のことと思はれ、古事記

「針閾

之宰」(輔鑛

)

を呆

紀に

「播磨

國司」(清寧天皇

・顯宗天

皇・仁賢天皇の條)と芒

てゐるのも之を撃

る。因に、宰の

;†薗

司の長官をも指す言

に論く學誉

ある

が、之は前述の如く、國司が國司守の省略として用ひられる場合があるのと同様の例であ

つて、宰

の場合

いて

長宴

示す際は

「宰頭」と書い奪

うであ

る・それは住莫

の乙丑年

(恐らく天智天

皇稗制四年

)

の記事に

「宰頭

・御

代」

こと

つて知

られ

が、

Nに

「宰

」「,御

こと

は前

「國

レ目

ひ、更に

「助」の用字が郡司の場合の

「助督

・助造」と

一致することも興味深い。しかし國司

の次官を

「介」とも

 ま  

いた

こと

は大

二年

の詔

るか

ら、

「,助

「介

も通

玉に

う。

更に之を呆

紀に存

る筑紫大宰府誉

の用字に3

てみるに、纂

大宰

(籍

+)

を以乏

に當ててゐることの

明らかと思

へる場含の例(天武天皇元年

・五年・十一年

・十

二年・持統天皇三年・四年の條

)もあるが、之は前述の響

「大芒

だけでは不充分であつ

て、省略

の形である。正しくは

「大宰」の下隻

示斎

語が存

ればならぬ。帥ち

「纂

大宰幽

(難

條)「筑奨

」(雑

い欝

)等の

「帥」∴

がそれである。しかも日本紀には蚕

L(鱗

七年.)、「筑

」(天智天皇

十年の條)とも見え、之簿

を省略した稽呼であらうが、

こ走

「帥」と

「甕

の通用が智

れ、

爾者を使ひ分ける何らの法則恵認められない。

以上は官職について、その稻呼は定ま

つたであらうけれども表字は種

凌通用せられたといふ事例

を示したのである

が、之が人名や地名に關しては、用宇の甚だ自由であること翫に周知

の事實

と申してよい。かやうな

一般

の風潮

の中

において、郡司の長官

・次官

の名稽用字に…幾通りかの種類があ

つたとしても、何ら不思議とすべを

でなく、殊に中央

の顯官とは違

ひ、地方の末端に位して最も革新の進度のにぶい郡司の場合にあ

つては、長官

・次官

の用字の如き込、

地方によつて或は時期…によつて種

々に書かれたことと思はれる。しかし種

々と云つても、そこにおのつから限度はあ

郡司制の成立(」)(田中)

四九

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一郡司餌制

の成

(上)(田

止甲)

五〇

て、

、督

・領

・君

・造

ふ用

れノ黛

の如

「カ

ミ」

の意

'

ふさはしいものであり、之を箪猫に或は組合ぜて郡司の長官

の名稻としたことは自然な工夫と認められよう。從

これら各種

の名稻用字は、官名として正式

と云へば何れも正式

であり、通用と云へば何れも通用であ

つて、

一を以

て他を悉く排するといふ風な性質のものではない。

この勲、井上氏が

「制度の場合は同訓に種々の記載法が行われる

は秩

(論丈

D〕

一〇七頁)と考

へられだこと繁

充分壽

提であり、を

る前提に蒙

れて難

の如く響

の長官

・書

,

の名稻用字を整理せられたといふこと自壁に論諮の過失が秘められてゐたと申せよう。しかし、それにも拘らす、同

氏が如上

の数種の用字例を示されて、「もし、

これらの間になんらかの法則が見出されなければ、

結局、

津田博士の

いわれるやうに、制度

においてもま艶國語の

一つの訓に、激種の文字が用いられていたという飴地を残す

こと

る」(論丈b二

七ー

一〇八頁)

として、敢て

「ある種

の法則」を見出さうとされ嶺

重さは雰

に注呈

られねば蒼

と蒼

ば、

この法則の見出されざる限り、逆に氏

の譲

には

「肇

もう

;

の手績きが磐

ている」(鯛彰

ことと

の基

が崩

こと

るか

る。

に幸

不幸

の如

の考

-

て大

砦限

の所

は遺

ら無

と申

す他

つて

一慮

白紙

て再

べ唐

階…に

つ%

であ

る。

註(一)

最近

一説と

して井上光貞

「國造制

の成立

」(史學雑誌第六+巻第+一號)参照。

但し私見は

や〉設

を異

にする。

問題

は國及び

縣名

の愉悔出

の仕方

にあり

、別

の…機↑會

に詳爪訥した

い。

(二)

中川経雅

の大帥宮儀式解

においては

コ礒部置、夜手」

と訓むが、御巫涛直

の太紳宮本記偏

正鉛

にあつては

ー礒部膏.八夜手L

り、

「但・兀書

二直

八ノ

ニ字ヲ合セテ眞ノ

一字

二作

ハ窟誤ナリ。」

と記

し、

天李四年隠伎國正親帳

の役遺郡少領

「礒部直萬

三)得畿

鰐」と見えるのが・ 

の例ー

(四

)

「味

の原

義」(史學雑誌第+七編第

一號)。佃

〉、の説

は更

に早

…學協

誌(第二+.一巻第四.第工號)及

び東洋

學藝

へ第、一七九號)

'

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にも登表せられた由であ

るα

(五)

のことは文字使用者

の意圖とは別

であり、從

つて坂本博士

の所

コ剴切なる丈字

を選ばん爲

に、時

の爲政者は苦心と焦慮

.

とを以

て客種

の丈字を用

ゐて見

のではなからうか。L(「大化改親の鼎債究」五〇七頁)と

いふ推測と必ずしも抵蝸しな

い。

(六)

國司

に限らず

H般

の官職

にお

いても同様

な省略が行はれた

やうである。拙稿

「住吉大祉憩代記

の研

究疸考」(藝林第三巻第三號)

滲照。

(七)

本書

の信葱性

につ

いては拙著

「住吉大融榊代記

の研究」を蓼照。

(八)

の詔

には

「介」

が三ケ所

みえるが、何れも

一國

に■介が

二人ゐたやうに記され、大賓

令制

とは粗違する。

その黙却

つて信用

るに足

るも

のと思はれ、また

「介」

の用字も別

に疑

ふ根猿は

ない。

「郡

系統

の事

に關…し

し鞄

、前

であ

が、

ば大

の表

が登

つた

ふに

、實

は必

も左

い。

に馬

る事例

であ

が、

・少

「郡

の名

は節

て論

こと

し、

づ専

「郡

の楡

る。

の場

、出

の性

(甲

)日

(乙

)

以外

の記録

二類

に大

こと

が便

う。

らば

の郡

る改

日本

記載

であ

つて、

の限

日本

の記

全盤

の信

るに

ら、

より

る郡

の事例

は、

ど愼

一々の場

て特

に槍

を加

る必

る。

(甲

)日

る郡用

限定

の中

より

るな

ば、

の如

表示せられるであらう。

合、後の考察の響

上、「縣」用宇についても馨

を附記し毒

く。(野

愈鰯

郁咽伽馳齢瓢燗甥、れ)

の成

(上)(一出出丁)

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の成

(・上)(田

臨甲)

陶癩劉

郡劉

難鈎

徹劉

考湘獅

.亜

弊 襟

郡±

-謙

睡-」

撚繍墾

-「

[蕪

5

=購墾

、二

二旧.

4

2

2

1

-

m

-

一藁

4

1

"

2

用明

"轟

竺2

"

-

%

箭明

-

"

白垂極

2

;

ゆ皿

大領ε

5

孝徳

=

り、一3

3

8

-

5

」-

明「

3二

4

34壷

天鎧

.

…鵜

-

藤縮

臼郵

工「

臼.糊,)ヨ

[工二、。㎝持統 甘

鞠名と副纈師恥ー

 細

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づ、この表によつて直ちに氣付かれる第

一は、郡字の使用度が巻十四雄略天皇紀より俄に顯著となるといふこと

である。それ以前の巻にも郡字は数ケ所見えるけれども、何れも例外として詮明のつくものである。帥ち乖仁天皇紀

の場合は妻

で脊

云Lの畜

にあり、景行天皇紀

の一は

「象

在二尾張國年角…轟

熱田社

(五十一年)といふ「今」

より

の追記であるし、他

一は

「七十除子皆封二國郡一」といふ如く

「國郡」と熟する竜ので嚴密な意味での軍猫の郡

用字ではない。成務天皇紀の場合

(四皮)も同じく

「國郡」の熟語であ

つて、

之は

「縣邑」或は

「國縣」と封

をなす

用法である。神功皇后紀に見える

「淡郡」についても、之は皇后が神主となり紳と問答を交され%際

の神語の

一節中

にあP、その構文の修飾法より考

へて恐らくは日本紀編纂堂時

の定型化し允祀詞調

の用語の反影と思はれるから例外

と見られよう。しかるに雄略天皇紀に入ると、三嶋都

・飛鳥戸郡

・古人郡

・栗太郡

・鯨社郡等

と、明瞭な郡名が記載

せられ出し、

この傾向は最後まで績くが、殊に齊明天皇紀以下に著しい。しかも他面、郡の主要なる前身に當ると考

られる縣の用字について撞するに、神武天皇紀より仁徳天皇紀までが殊に多

いことが知られるが、郡字が

一般化する

雄略天皇紀以廷

て籍

天)・仲矛蘇

(雄略・思、小

峻天皇紀)・河内三野縣

(酷欝

練)・穫

(繧

天)・驚

下異

紙白正)三

嶋縣(蒲

天Y

縣(蒲

天)・葛城縣(無

天)・倭國六縣(蕪

天)・高市縣(譲

天)・磯糠

(骸

天)等の

縣名が記されてをり、之によれば、縣用宇の盛蓑を或る時代にょつて匠切ることは難しいやうである。但し、悸國六

縣は所年祭

・月次祭

・廣瀬大忌祭

の醜詞に見え、高市.・葛木

・十市

・志貴

・山邊

・曾布の六縣

を指すが、天年二年

大倭國正税帳

にも添御縣

・志癸御縣

・十市御縣

・山遽御縣等とそ

の名を留め、特別の扱ひをうけてゐたことは明らか

であるから、

一憾

この倭國六縣を別にして考

へると、日本紀の場合、固有名詞を件

ふ縣名は安閑

天阜紀以前といふこ

とになる。そこで、日本紀

の用字法に則して解繹すれば、神武天皇

の御代以降、元來、縣

の稽

呼であ

つたものが、雄

 

 

略天皇

の御代頃より、郡字が急激に使用せられ出し、爾者ぱ暫く郡主縣從

の形で併用せられるが、宣化天皇

の御代頃

より郡用字が專

ら行はれることになつた、といふことが云へさうである。しかし、醗

つて思ふに、雄略天皇紀より俄

郡司制の成立(上)(田中)

五三

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,

郡司制の成立(上)(田中)

五四

に郡字が出現して從來の縣字と入れ替る程の状態を示すといふことは、實際にその當時にか」る用字の攣更があつた

と見

るよりも、之を日本紀編纂者の修字と考

へることが安當であらう。何とならば、從來、日本紀用宇に關して巻第

十三

(允恭

・安康天皇紀)と巻第十四

(雄略天皇紀)との間には顯著な匿別があり、日本紀

の編述については爾者を

  ご

戴断

して考

へることが通説とみなされてゐるからである。郎「ち、如上、郡

の用字を吟味することによつて、計らすも

從來

の通設を更に別の面より支持する結果とな

つたのであるが、之を反面より申せば、郡字の始用

を雄略天皇

の御代

と推定することの無意味なる所以をも立讃することとなつ元。しかしながら、縣字が

(悸國六縣を除いて)安閑天皇

紀を

以て沿…え去ることの蝋祝明は、從」來の日本・紀用字法

の研究結冊呆を以てして・も一甚だ宏同、易でない。

この鮎…に私'は

一つの

問題を感じるのであるが」

この感じは、安閑天皇紀より二代後

の欽明天皇紀に器いて、郡字が頻出し、牛島關係の記

事に

コ郡令L

・「郡領」竺寸の用語が見えること、更に後に昌云及する豫…定の

「難波郡」がこの皿巷より現れ↓初uのること竺寸

を考

へ合せることにょつて、

一暦切實な懲のとなるであらう。しかし、

これらの鮎はすべて後述に護り、

こ玉には問

題を指摘するにとどめたい。

以上之を要するに、日本紀の全髄を通じて郡宇の使用を槍討した結果ヤ郡字は雄略天皇紀より俄に現れるけれども

之は

日本紀編纂者の態度と關係のある問題で、

この時代に郡字始用期を求める根櫨は成立せす、從

つて日本紀

の用字

自盤を基にして郡字使用時期の上限を定めることは不可能に近い。たΨ僅かに、欽明天皇紀を中心として

考察

に、或はこの時代に那字使用の兆が認められるのではなからうかといふ希望的推測

の絵地が許

され

さうに思はれる、

[

といふのみである。

しかし、果して

この日本紀の記事の中より、ほΨ確實

に郡字の使用せられたとみなされる時代の下限さ

へも、全く

L

推芒

得蚕

であらうか・

この問讐

へ途

めには・同旨

本紀の中で吾

料的便値の高いとみ蒼

れる箇所を封

象として、郡字の使用に後

の潤色修字がないかどうかを槍討するより他に道はない。その意味で、

先に坂本博士は日

,蝉

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本紀の中吉

若干の信用し得べき郡の用字を指摘せら発

のであるが、(論丈⑭

)それを譲

し、・更に私見を附加させて

いたΨくならば、凡そ次の通りである。

天武天皇元年紀

媒第二十八)は壬申の齪當時

の余人であつた安斗智徳や調蓮淡海等の日記を材料にし、構丈の

基本も殆ど日記に櫨

るものであ

つたことは、繹日本紀所引私記の記載法から明らかであるが、か玉る史料奪重

態度を示す本紀において、殊に

「…聯家」〔六同〕の如を特…微ある用語を含む

「郡」字が十六ヶ所もあり、之が悉く

原史料には

「評」とでもあつたのを日本紀編者がすべて訂正したとは考

へ難い。

天武天皇績紀

熟第二十九)には

「郡」字が二十二ヶ所見え、

(那家は一同)殊に後世の通

用と異

つ充古風な丈字

を用ゐた郡名

(粗摸國高倉郡・美濃國礪波郡

・艶伊國伊丹郡.倭國萬城下郡)、後世

一郡として存在しない郡名

、倭國餉波

郡)、

和銅六年以前の記載様式

にょる國郡名

(丹波國詞沙郡、等があるが、

日本紀編者が大寳以後

の現行制度によ

 

 

り某

を某

れば

所屡

のも

へる

のに

こと

のな

のは

、「、郡

も原

に基

のと

る。

の詔

「四方

二大

一、

=祓

一、

一匹

、布

一常

以外

、各

一口、鹿

一張

一口、

一口、

一.口、

一具

一束

、且

レ戸

一條

。」

は、

「凡諸

二大

一者

レ郡

¶一刀

一口、皮

一張

一口、

一。

一條

コ馬

一疋

一。」

じ趣

るが

、後

「難

が前

「刀子

・鎌

・矢

・稻

等、と明

に記

され

る貼

ても

の基

らく

は詔

が飛

令・に編

ゐた

いか

る。

に確

「郡

(養

「郡

」)と

こと

おけ

る郡

の用

に足

るであ

う。

天武天皇紀十二年正月丙午

の詔に

「明神御大八洲日本根子天皇勅命者、

諸國司

・國造

・郡司及百姓等諸可レ嘉

尖、」と見える荘重な形式

の書を出しも、

後世の手の加はつ掩懲のとは思

へないから、

こ玉に存す

「郡司」

郡司制の成立(上)(田中)

五五

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郡訂制

の成立(上)(田中)

五六

懲信

う。

天皇

一月

の詔

「大

、小

、鼓

、幡

、及

レ存

二私

一、

一一干

 

郡・家

一。」

は、

老軍

「凡

私家

レ得

レ有

三鼓、

、、弩

、覇

少角

一、

唯…樂鼓

レ在

二禁

一。」

つい

ても

Ψ前

こと

が考

へら

の確

はれ

ら、「郡

の文

を認

て差

へあ

るま

い。

持統

「郡

一ヶ

え、

の場

も後

の通

と異

つた古

(陸取國

優嗜曇郡

・紀伊閃阿塊

.讃岐國御城

。筑後國上陽 陣郡

・越前國角

鹿郡

。近江國釜須

・河内國

更荒

・伊豫國

風速郡

・肥後國

皮石郡)

は需巫鞄

二年

以前

の記載

様式

る國

(河内國大鳥

郡)等

が見

これ

ても

こと

が考

へられ

う。

持統天皇紀八年三月甲午の詔に

「凡以

無位人一任

郡司一者、

以二進廣武一授一矢

領一、

進大滲

一授二小領一。」と

見えるが、之は郡司の任用を直接に問題とし、また四十八階冠位

の施行年代と

一致する等

の鮎から、営時

の詔と

して疑ひ得ないものであり、「郡司」の文字も信用すべをであらう。

かやうに考察して來る

と、持続天皇、更に潮

つて天武天皇の御代當時に郡字の使用せられたごとがほ『推定せられ

るのであ

るが、惜しいかな、確認するすべを訣く。そのため、上揚すべての郡の事例を、目本紀編者の改遜修飾の結

果であらうと断じ、敢て反論を押し進めること竜出來ないわけではない。井上氏の立場は即ちそれであつて、

(但

  ニ 

①を除く)特に問題と思はれる詔の中の郡字について込、績日本紀と類聚三代格所引の詔との異同、天武天皇紀四年

+月庚寅

の詔覧

える「初位あ

用奪

を傍讃として、必芒

も之を寧

るに足らすと

し去られ允。

(論皮⑰三七

-三八頁

)

しかし受

に、天武

・持統天皇紀堰

められた詔勅文は、所謂

「詔書」(天武天皇紀十

年四月辛丑

)

にょつて嬰

が傳

へられてゐ

πに相違ないから、その用字についても左様に輕硯せらるべをものではあるまい。いま爾天皇

紀の詔勅丈を悉く楡討

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るに、地名につ塗

、例

へば、「紀伊」(讐

醜蓮

の用字の如き、

來は恐らく

」或

「起

であ

つたと思はれ

る)修字

の加

へられたと考へられる節もないではないが、

か玉る明瞭な

固有名詞

を除けば、文章の表

普通名詞

の用字等において何ら疑

ふべを箇所を見出し得ない。

「難波宮治天下天皇

・近江宮治天下天皇」

(持統天皇紀三

年五月甲戌詔)

「治天下」の畢

の認められることは、當代の文章として如箆

もふさはし苦

風の用語と申さね

   ニ 

ぱならぬ。井上氏

の指摘せられた天武天皇四年詔の

「初位」

の如をも、仔細に見れば之を大寳令官位の

「初位」を反

影する修飾と見る必要は覆

。コ初位」の用語は

「加二換前謬

一階H爲二大票

建二讐

(藤

)を初め、冒

諸入、奮

以上」(天武天皇四

年正月戊申)、「公契

諸人、溜

以上」(翌

虹)、青

寮謬

」(襟

駅麗

)、「公卿以

下至三響

・」(持統天皇六

年正月壬午)管

屡、見え、これらは何鷲

「初位」美

實書

位のそれで讐

く、最秘盆

とい

ふ意味で用ゐられてゐる。詔の中の

「初位」込その意味であつて

「小建

」を指し、決して誤

つ元後

の修飾ではない。

かやう窮

「初位」と記すの覆

ければ「雀

」と書くべ高

であるから、(天武天皇九年正月癸巳・同十年正月丁

亥・同十年十月庚寅・同十二年正目丙午)

ても

「初

、【、少

「少

も誤

いと

う。

、天

四年

「初

に解

て何

ら差

へは

ので

る。

の詔

の中

の郡

の用

(3

・4

・5

。7・

rl

r覧

〔・

(

)

に信

の高

いも

のと

へた

い。

の他

のω

・②

・伺

は、

る程度

、.原

の評

允場

へら

いか

ら、

へな

の詔

の郡

ば、

のつ

ら之

の役

は果

であ

らう。

る郡

の使

楡討

て、

は暫

・持

の御

に郡

の使

ゐた

と思

る理

であ

る。

(荷

の際

難波

・筑

一層

の考

が裏

であ

るが

の便

は更

に次

て詳

る。)

郡司制

の成立(上)(田中)

五七

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郡司制

の成立

(トじ(田中)

五八

に(乙

)日本

以外

の文

つい

て郡

の使

を考

へる

こと

る。之

つい

、既

に坂

の見

が存

で、(墜

先づそれ裏

げよう。

紀響

が蓄

の記事の圭覆

材料にし奮

思はれ娑

斗智轡

記(繁

縄計擁

義)に萌

朝竺

蜥)覧

え、之を原日記に朝罪

とあ鬼

のを、私記もしく韓

紀の馨

が誤つ轟

字に改め鑑

どとは萬に

一も考

へられない。大寳以前の文離で郡宇を用ゐた讃であ

る。

常陸風土記の古老の設は孝徳天皇朝の建郡を各郡

について述べ、それは大膿に古制を傳

へた文と解

ら'れ

'

が、常に郡字を使

つてゐる。

正倉院文書他田日奉部紳護

の解に、租父が

「難波朝庭少領司」、父が

「飛鳥朝庭少領司、・:・藤原朝庭爾大領司」

に任ぜられたことが見える。

播磨國風土記にも古制の片鱗が残

つてゐるが、常に郡字を用ゐてゐる。

これらの事例を通覧するに、働

・倒

・㈲は何れも大寳以後

の編纂.にか」り、そのため表現が果して古制を陣

へてゐ

るか否かといふ疑の淺る弱鮎がある。しかし後

の編著に墨古制

の遺

る例は量

々あり、先に評系統

の事例

に引用し艶皇

太神宮儀式帳

()

)

-

・」生)・常陸國風土記

(燭)・大同本記

(倒

・⑥、)・績日本紀

(働

・10

・12)等

は何れも然りである。

(

(

それ故、②

・④

の事例、更に加

へて前掲の建郡に關する事例

(ω-

図yをも参考にして、大賓以前における郡宇の使

用を推定することは必すしも誤ではない。之が誤とせられるためには、蓮に、大寳以前には郡字が絶封に使用

せられ

なかつたといふ讃明を要す

る筈であり、箪に若干の資料によつて評字の使用が認められるといふだけでは、郡字を排

除す

る理由にはならない。何とならば、評竜郡竜丈字としては

一般

にゴホリと訓まれたに違

ひなく、しか込同訓を表

-

すのに異字が用ひられてよい事例は前節に蓮べた通りであるから、評と郡と、爾字相並んで使

はれたといふ可能性が

張いからであ

る。次に個は郡字自髄の問題でないから、大領

・少領等

の…郡司の名縛を論する際

に言及す

ることとする

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'

が、就中、注目すべきはωであるQ

この安斗智徳日記が普通に考

へられるやうに壬申

の徽當時

の日記であ

るならば、

これに見える郡字を以て有力な誰充とし得

ることは疑ない。しかるにこ玉に疑問は、井上氏が鋭くも指摘せられた通

り・(論女D三三

⊥二四頁

)替

本紀所引の私記レさ

淡海・

智徳管

記L

(惟蟻)と見え・安斗智徳の「,編

」(天

武天皇元年紀には「蓮」)といふヵバネ、

「從五下」といふ位階が、

何れ懲壬申

の年より可成り後

の記載様式を示してゐ

るrことである。その艶め之を、日本紀編纂

の終末期

(帥ち大費以後)に参考資料として撰上せられ宛ものとみ、その

際稿本に文飾が加

へられたか懲知れないといふ臆測も可能とな

る。

これは臆測としては甚だ興味深い。それ故更に考

ふるに、繹呆

は日記の表響

「安斗智徳呈

」とヵバネを省略する引用が他に三ケ所も見えるの警

し、(蟻

炸野

訓)かのカバネと位階の附加された膿

のそれが連名で調

海、安斗宿響

日起

と記されてゐる

のは如何な

る意味であらうか。

この場合、私記が

「案云」として引用する文章は、私記の筆者

が調蓮淡海と安斗宿禰

智徳

の別

汝の日記を取捨綜合した遮のであるのか、それとも

「調蓮淡海、安斗宿禰智徳等日記」といふ

一書が存在し

元のであらうか。思ふに、前者の如く二書が別に存するならば、記事もそれノμ\異同があるであらうから、私記

の筆

者も別箇に引用するのが普通のやうに考へられるのにそのことなく、また

「調蓮淡海日記」は他に所見なく、從

つて

私記撰述當時に軍濁に存しだといふ誰糠もない。それ故、之を或は爾人等

の名を連

ねる共著

の日記であつ%とみなさ

,

れないこともない。假りに共同

の選述といふことになれば「之は恐らく日本紀編纂に資するだ

めの再編と考

へられや

すく、果して然らばそれ~C~の稿本に修字が加

へられ艶ことは寧ろ當然

のこととならう。・かや

うな修字

一例を、私

はこの

「調蓮淡海、安斗・宿禰智徳等日記」

の記事の中に指摘することが出來る。邸ち、「,石次見

,丘ハ起一、乃逃還之。既

而天皇問二唐入等

日、(中略)時天皇謂二親王一云汝。」と見える文中

「天皇」・「親王」

の用語がそれであ

る。

この日記

の記事は、天武天皇元年紀の

「磐鍬見二兵起一乃逃還之、既而天皇謂二商市皇子一口、」云々に當るから、日記の

「天皇」

が天武天皇を申し上げ、

「親王」が高市皇子を指すことは明らかであるが、孚齪當時、天武天皇は未だ大海入皇子で

郡司制の成立(上)(囲中).

,

.五九

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郡司制の成立(ト一)(田・甲)

山ハ0

あつて

「天皇」ではなく、高市皇子もま鬼

「親王」ではない。殊に問題は

「親王」の稽號であらう。親王の明瞭な規

定は大賓令に記されてゐるが、之が初見は日本紀天武天皇四年二月己丑の條である。その後、天武天皇紀に十九同、

持統天皇紀に五同、大安寺縁起の天武天皇十三年の條に

一同見え、何れも之を疑

ふ理由はないから、天武天皇の御代

    

の初期には親王の構號が成立してゐたことが認められる。しかし、日記に記す

「天皇謂二親王こ

といふ書法を吟味す

るに、之は

「親王、諸王及諸臣」等といふ場合の

「親王」の如き汎稻ではなく、親王ーー高市皇子に他ならす、そのπ

 

 

めには既に高市親王といふ樗が

一般化してゐ允時代の記載法であるやうに思はれる。若し然らば、

「某親王」といふ

記載法は績日本紀文武天皇四年六月甲午の條の

「刑部親王」を初見とするから、この日記

の再編せられた時期も可成

り年代

の下つた頃と考

へることが出來よう。かやうに推測すれば、井上氏

の指摘せられた表題

の疑鮎とも詮

一に

し、「調蓮淡海、安斗宿禰智徳等日記」に文飾を

認められないこともないといふ結論が導かれ

る。しかし、

一方、壬

の齪

の吉野方紹指揮官

であられた高市皇子を、謝手定後特に

「親王」の樽號を以て奪稽するやうになっ%といふこ

とも考

へられないわけではない。更にま鞄前述の通り、

「調蓮淡海、安斗宿禰智徳等日記」と

「安斗智徳日記」とが

或は別書であるか込知れないのであるから、前者に修飾があつたとしても、後者が左様とは限

らす、しか竜

「郡」字

は後者に見られるといふことも考慮に入れておかねばならぬ。また調蓮淡海と蓮名の

「安串宿禰智徳日記」がやはり

輩猫

の一書であ

つて、問題の

「安斗智徳日記」と同

一であつ允としても、日記

の表題は別人が後に書を加

へたと遮考

 ヰ 

 

へられるから、表題の記載様式にょつて記事内容の文飾を推論することは必すしも正しくない。

しかし、

いま

に、調蓮淡海の

「,蓮」(天武天皇元年祀には「首」)、安斗宿禰智徳の

「宿禰」、

及び

【、從五上」・「從五下」といふ記載を

基にしてこの日記表題

の書かれた年代を推せば、調蓮淡海に關する績日本紀の記事から、

一磨

和銅

六年四月より養老

・ノ

七年正月といふことになる。

この聞に日本紀の撰進(養老四年)があり、

それ以前に風土記の貢

へ和銅六年)、紀朝臣

清人等による修史

(和銅七年)等があ

つて、或

はこの日記患日本紀編纂

の重要な

=貧料としてこの當時に上進せられた

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かも知れぬ。若しさうとすれば、表題はこの時、官府において附記された畳え書登程度

のものとも思はれる。

「從五

上」「從五下」等と位の字の省略が見られるのもそのためかも知れぬ。

ところで、か玉る日記の上進に際して、果し

て原文に修飾が加

へられ、しかもその丈飾が

【郡」字にまで及んだかどうか。前述の

「親王」に關する私見の否定面

を生かせば、文飾読

に傾くやうである。しかし、之は所詮水掛け論に終り、明瞭には何れと込決定することは出來な

いであらう。從

つてこの場合、ωを大實以前における郡用字の決め手とすることは難しいと申さねばならぬ。しかし

さればと云つて之を無意味とすべきでもなく、天武天皇時代の郡字使用を推定するに足る他の徴誰が次第に固められ

て來

るならば、…從つて之もまた猫立の史料的債値を復活し來

るであらうことを期待してよい。

之を要するに、日本紀以外の文獄において、大實以前に

「郡」字を使用したといふ事實を遺物

(金石文や原古丈書

)に徴して明示することは出來・ないが、その事實を推測するに足る資料は段

々とあり、逆に

「那」字の使用を否定

し去る根懐恵ないといふことにならう。

以上、(甲)日本紀と

(乙)それ以外の記録文書より、「郡」字の使用年代を槍討したのであるが、その結果、少く

とも天武天皇

の御代頃にはこの用字を認めてよく、更にその可能性を問題とすれば

一暦年代を湖

るであらうと思はれ

る。しかもこのことは、決して

「評」字の使用と背反するといふものでなく、郡字と評字と爾者

は相並んで行はれた

と考

へられる。しかし、相並ぶと云

つて懲、そこにおのつから主と從

の關係もあらうし、ま充相

並ぶに至る理由込あ

らう。

これらを更に明らかにすることが、實

は郡司制

の成立を研究するための重要な基礎作業であるから、以下節を

の問

を考

こと

る。

(未完

)

註、一)

田英松

・輻

田瓦輔

・鴻巣隼雄

・菊澤季生

・太田善聴

。小島

憲之氏等

の諸設何れも皆然

りであ

る。侮綜合的な最近

の研究と

して西宮

一民氏

「紳代紀

の成

立に就

いて」(蓮林第二巻第二號)を摩照。

但し、

同氏

が巻十四以降を含

む第∬系列を巻十三以前

、.

を含

む第-系列より古く推定せられてゐる.貼は如何

であら

うか。郡

と縣

の用掌法

からは

その揃

になるやう

に思はれ

るので、

,

郡司制

の成立(上×田中)

山2

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司制

の・威立

(上)(田止甲)

六二

考を侯

つ。

(二)

井上氏は①

を無覗

し難き反讃

として認

められ、之を幕

にして新

たに浮御原令郡字始用説を提案

せられた。

しかし

この新提案

も成立し得

いことは後述

の通りである。

(三)

市川寛氏

「『御宇』用字考」(國語.國交第三巻第六號)参照。肯、後蓮

の際

にも鯛れ

る通り、私は大化元年紀

(七月

丙子

・八月癸

).同

ご年紀

(二月戊申

・八月癸酉)

の詔等

にみえる

「御字」・「御寓」

の用字

を日本紀編者

の修字と来・へる

のであ

が、之

と比較して竜、

こ〉に

「治天下」用字

の認

められ

ることは原丈を傳

へるも

のとして注目

せられよう。

(四)

榊皇正統証

には丈武天皇

の條

「皇子

を親

王と云

ふ事此時

に始まる」

と見

え、如

是院隼代記

にも同様

に記

され、綾

日本紀

記載も之を裏書

琶す

るやうである。それで或は、

この時以前

の日本紀

に見

える

「親

王」用字を大寳以後

の修字とみなす新設も

成り立

たな

いわけではあ

るま

い。然りとすれば安斗智徳日記

の用字

に關す

る信葱性は甚

だ低下す

ること

にならう。私

はこの鮎

も充分

考慮してみたけれども、樹、天皇

・持統天皇紀

に屡

々見

える

「親

王」を後

の修字と疑

ふ勇氣

はな

い。詔

の中

に見

える事

(天武天皇四年二月己

・八年ご月乙卯

・十年四月辛

・十

一年

三月辛酉

・十

一年十

一月乙巳

・十

二年

正月丙午

・十

三年閏

四月丙戌

.特統

天皇四年

七月甲申

・七年十

月戊

午)

に於て殊

に然

りであ

る。恐らく

「親王」

の語は.天皇

天皇

の御代、

かの顯

著な皇親中心主義

を反影して使用

せられ始めた竜

ので、之は

「諸

王」・「諸臣」と相封す

一の階層

を示す用語であつた

のであ

らう。

それが更

一毅化

し個別化して

「某親

王」

いふやう

に皇

兄弟

・皇子

の地位を示す敬穏として使

用せられるに至

りた

が丈武天皇

の御

代であ

つたも

のと思はれ

る。

(五)

古語

拾遺

の爲本

の省頭

「從

五位下齋部

宿禰廣成撰」

とあ

るを以

て、本書

の内容

を廣成が

「從

五位下」

陞絞

の大同

三年十

月以降に下す説も成

立す

るが、

しかし通誼之を後入

の書

き加

へとして是認

しな

いことも滲考とす

べきであ

らう。