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( ) 1 ( ) 2 稿 ( ) 3 ( ) 4 ( ) 5 ( ) 6 ( ) 7 稿 87

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戦国期上総国における国衆の成立と展開

︱山室氏を中心に︱

はじめに

戦国大名と﹁国衆﹂の関係をいかに位置づけるかという課題は、現在の戦国史研究において活発に議論されている問題

の一つといえよう

(

)1

。筆者は、これまで下総千葉氏の家中にありながら独自の領域支配を展開してきた、下総国分氏や下総

海上氏の実態を追究してきた

(

)2

。これは戦国期の下総千葉氏がいかなる地域権力であるかを考える上でも重要であり、更に

言えば、戦国期の領域権力のあり方を明らかにすることにもつながるといえよう。しかし、その全体像の把握はいまだ今

後の課題となっているのが現状であろう。

そこで、本稿では千葉氏の領国にありながらも、小田原北条氏とも関係が確認される上総国飯櫃城︵千葉県芝山町︶を

本拠にした山室氏について検討する。山室氏については、仏像の胎内銘を検討するなかで山室氏にも言及した木村修氏の

研究

(

)3

、﹃松尾町の歴史﹄上巻

(

)4

・﹃芝山町史﹄通史編中

(

)5

といった自治体史などで取り上げられてきた

(

)6

。そのため、戦国期の系

譜や政治的動向は定説を得ている感もある。しかし、近年の﹃戦国遺文﹄房総編の刊行

(

)7

などによって、系譜関係に見直し

がはかられている点や、千葉氏の権力構造における立場などあまり検討がなされていない事項が存在するので、本稿で改

87

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めて取り上げる意義もあろう。本稿では、こうした研究動向を踏まえ、山室氏の系譜関係や政治的動向、地域権力として

のあり方などを明らかにすることを目的にする。

なお、山室氏の系譜や動向を検討するなかで利用される﹃山室譜伝記

(

)8

﹄︵以下、﹃譜伝記﹄と略記する︶については、近

世成立の記録であることや情報の錯誤も見受けられることから、本稿では戦国期の文書や記録を中心に考察し、﹃譜伝記﹄

は参考にとどめたい。

関係史料の検出

本節では、山室氏に関係する確実な史料を列挙し、その概要を把握する

(

)9

①﹃本土寺過去帳﹄文明二年︵一四七〇︶七月二十四日条

(

)10

ここでは、﹁山室法名妙室霊、二木ニテ被打﹂とみえる。﹁二木﹂は、千葉県松戸市二木に比定され、山室一族が合戦で

討たれたことが分かる。

②﹃千学集抜粋﹄永正二年︵一五〇四︶十一月十五日の記事

(

)11

本記事は、千葉妙見社︵千葉市︶で行われた千葉昌胤の元服の様子が書かれている。ここで、馬・太刀を奉納している

人物として、﹁山室孫四郎﹂がみえる。

③天文十八年︵一五四九︶八月十六日付逸見左京亮宛千葉常真︵勝住︶判物写

(

)12

山室前相違候者、一色成就

︵ママ︶

森可進候、

就御所望、山室一跡之地之事、進置候処、不可有相違候之、仍以前如申、井田致

︵刑部大輔︶

忠信候者、相当之所可進之事、御心

得尤候、一筆如件、

駒沢史学86号(2016) 88

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天文拾八年己酉

八月十六日

︵千葉勝住︶

︵花押︶

逸見左京亮殿

本文書は、下総千葉氏の御一家である椎崎千葉常真︵勝住︶が小弓公方家臣逸見氏に出したものである。千葉常真は逸

見氏に対し、﹁山室一跡之地﹂を与えると伝えている。﹃戦房﹄は、この﹁山室﹂を後掲の勝清に比定する。この時期、千

葉氏は小弓公方と対立関係にあったが、椎崎千葉氏は千葉氏を裏切り、小弓公方に属していた。

④﹃千学集抜粋﹄天文十九年︵一五五〇︶十一月二十三日の記事

(

)13

本記事は、下総千葉氏当主親胤が大檀那を務めた千葉妙見社の遷宮の様子が書かれている。ここで、遷宮式に参列して

いる人物として、﹁山室﹂が確認できる。

⑤︵永禄四年・一五六一︶関東幕注文

(

)14

永禄三年︵一五六〇︶からの長尾景虎︵上杉謙信︶関東侵攻に際し

(

)15

、長尾氏︵上杉氏︶に味方した人物として、﹁上総衆﹂

の﹁山室治部少輔﹂がみえる。

⑥︵年未詳︶三月八日付西門院宛山室勝清書状

(

)16

去年順賢房御下之時分、御懇書慎令拝見候、抑去以後者不能面上候、千年万年之様、朝々

墓︵暮︶

々御床敷奉存候、次当国

弓矢無際限候、我等苦労可有御推量候、巨細彼御坊申含候条、令略候、恐惶敬白

三月八日

治部少輔勝清︵花押︶

謹上

西門院

御同宿中

本文書は、﹁治部少輔勝清﹂が西門院︵和歌山県︶に対し、西門院からの書状を拝見したことや上総国の様子について知

石渡洋平 戦国期上総国における国衆の成立と展開89

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らせたものである。本文書には山室と明記されていないが、⑤の山室治部少輔と同一人物と考えられることから、山室勝

清と比定されている

(

)17

⑦永禄十年︵一五六七︶四月十三日付虚空蔵菩薩立像胎内銘

(

)18

︵上段︶

山室安芸守小屋御料人

大檀那山室越中守源朝臣氏勝内上・式部卿密蔵人

親父入道飛騨守氏朝・氏秀・氏光・氏定・忠茂

山室常陸守内上・同勘解由左衛門尉内上

奉仏像建立当寺住代士奥州宮城郡塩竃実名弘円

仏師

記︵紀︶

米︵粉︶

河住人浄慶・子息熊房飯櫃住人

戸村丹波守内女・内藤左衛門尉・岩沢新左衛門尉

山室左京亮

□□□□□□

源也蓮花作

井田二郎右衛門尉

造木合力也

︵下段︶

木村但

馬守女

石井正左衛門・伊藤監物丞

橋本□□□大木四郎兵衛内女

宝城寺常住而蔵主道春□

駒沢史学86号(2016) 90

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円乗真堯宝槇真乗常福

三位母

金蓮遠満東覚円左弥八郎・小増新四郎

中将三位伊勢河乗印

新治郎

吉岡小五郎老母

番匠大隈守・番匠哿瀬平右衛門

小七郎

奉加帳甲乙

丹︵旦︶

那千余人

赤石常陸守

敬白

永禄十年丁卯

四月十三日

弥五郎老母

本史料は、加茂普賢院︵芝山町︶所蔵の仏像の胎内銘であり、仏像造営に際し、山室一族が参加していることがわかる

(

)19

この胎内銘に記されている山室一族は、大檀那を務めた山室越中守氏勝、親父入道飛騨守、氏朝、氏秀、氏光、氏定、忠

茂、安芸守、常陸守、勘解由左衛門尉、左京亮である。

⑧永禄十一年︵一五六八︶正月上旬付福智寺不動明王胎内銘

(

)20

本仏像は、⑦の虚空蔵菩薩立像の脇侍の一つである。本仏像の造像にあたって、大檀那を山室越中守︵氏勝︶が務めて

いる。その他、山室一族としては、式部卿がみえる。

⑨︵年月日未詳︶福智寺毘沙門天像胎内銘

(

)21

本仏像も⑧同様、⑦の虚空蔵菩薩立像の脇侍の一つである。本仏像の造像の大檀那を山室越中守︵氏勝︶が務めている。

⑧と同じく、山室一族と推測される式部卿がみえる。なお、本胎内銘には年月日が記されていないが、⑦・⑧との関連か

ら、永禄十一年前後であろうと指摘されている

(

)22

⑩︵年未詳︶十月二十八日付西門院宛山室氏勝書状

(

)23

石渡洋平 戦国期上総国における国衆の成立と展開91

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如仰未申通候処、預御尊書候、恐悦之至候、然而

亡母妙快御廻向之由承及候、誠以御芳志無極候、我等若輩故歳来無沙

汰令申候、此般御代官越御申候、殊仁

進物贈賜候、畏入奉存候、雖軽微候、鳥目令進献候、巨

砕︵細︶

彼御方御雑談可被成

候間、令略候、恐々謹言、

山室孫四郎

拾月廿八日

氏勝︵花押︶

西門院

御同宿中

本書状は、山室氏勝が西門院と﹁亡母妙快御廻向﹂の件をやり取りしているものである。署名は、﹁山室孫四郎氏勝﹂で

ある。

⑪戌︵天正二年・一五七四︶九月十八日付石毛助九郎宛千葉家黒印状

(

)24

本文書は、海上八幡宮︵千葉県銚子市︶の御神事銭の負担者を書きあげたもので、そのなかに﹁山室兵部丞﹂とみえる。

負担者は十五人であり、負担額の内訳は五十文一人、七十文一人、百文二人、百二十文五人、百五十文一人、二百五十文

三人、三百五十文一人、一貫文一人となる。このうち、筆頭で一貫文を負担しているのが山室兵部丞であり、その負担額

の多さは先学でも注目されている

(

)25

⑫天正五年︵一五七七︶五月二十六日付多古町唐竹妙光寺曼荼羅本尊銘

(

)26

日蓮宗寺院の唐竹妙光寺の﹁大乗妙典一千部読誦開眼﹂の曼荼羅本尊銘に﹁山室治部左衛門﹂とみえる。山室一族が日

蓮宗寺院とかかわりがあったことが分かる

(

)27

⑬︵年未詳︶十一月十三日付山室宮内少輔宛北条氏政書状写

(

)28

息子孫四郎長々就

在府

︵小田原︶

、為休息、其方舎弟孫三郎可被指越由候、得其意候、惣並之事ニ

候間、五十日之可為休息候、

恐々謹言、

駒沢史学86号(2016) 92

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十一月十三日

氏政︵花押影︶

山室宮内少

︵朝保ヵ︶

輔殿

本書状は、年未詳で写でもあるが、氏政の花押形から天正十四年︵一五八六︶から天正十七年︵一五八九︶の間のもの

とされる

(

)29

。内容は、北条氏政から山室宮内少輔に対し、宮内少輔子息の孫四郎の小田原在府が長いので、休息のため弟の

孫三郎を交替要員とする申し出を了承したというものである。

⑭西門院文書目録写

(

)30

本史料は、西門院へ宛てて文書を出した人物が書き上げられており、人物によっては発給年等が判明する。そのなかで、

﹁山室孫四郎氏勝﹂・﹁治部少輔勝清﹂・﹁山室宮内少輔朝保﹂・﹁山室勘解由左衛門尉源氏俊﹂という山室一族の名が確認され

る。以

上、管見の限り、①から⑭までの一四点が﹃譜伝記﹄を除いた戦国期山室氏の関連史料である。次節以降は、これら

の文書を用いて検討を加えていく︵引用の際には①など番号のみを記す︶。

山室惣領家の家督と系譜

戦国期の山室氏の系譜関係については、﹃譜伝記﹄や胎内銘をもとにして、伊藤一男氏や木村修氏ら先学によって復元が

試みられている

(

)31

。戦国期の山室氏の家督は、常隆︱氏勝︱光勝︱光慶と継承されたと位置づけられている。しかし、現在

の定説は﹃譜伝記﹄に拠るところが多く、改めて同時代史料から復元をすることが必要といえる。

すでに、滝川恒昭氏が指摘するように、山室氏は代々仮名孫四郎を称した

(

)32

。その事実は、⑦で大檀那を務め、その時期

山室惣領家の当主と推測される氏勝が⑩で孫四郎とあることおよび⑬の文書の存在から裏付けられる。

石渡洋平 戦国期上総国における国衆の成立と展開93

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ここで改めて注目したいのは、②の段

階で﹁山室孫四郎﹂とみえることである。

②の記事そのものは先学において取り上

げられてきたが

(

)33

、系譜関係という側面で

は言及がされてこなかった。

それでは、この孫四郎は歴代のなかで

どのように位置づけられようか。孫四郎

を称した山室氏としては、先述したよう

に氏勝がいる。氏勝がみえる史料で年代

が確実なのは、⑦で永禄十年︵一五六七︶である。⑦の段階でいまだ氏勝の﹁親父入道飛騨守﹂が存命であることを踏ま

えると、⑦より六十三年前の②の孫四郎を氏勝と比定することは困難であろう。孫四郎の仮名が歴代のものであるとすれ

ば、②の孫四郎が氏勝の﹁親父入道飛騨守﹂と考えることも可能である。この﹁親父入道飛騨守﹂は、一次史料では実名

が確認されないが、﹃譜伝記﹄によれば、常隆と名乗り、戦国期の山室氏が本拠とした飯櫃城の初代城主という

(

)34

。これもあ

くまで参考であるが、﹃譜伝記﹄では弘治元年︵一五五五︶に常隆の年齢がすでに五十代と記されており、常隆の誕生は明

応の末年から永正の初年との指摘もある

(

)35

。﹃譜伝記﹄の記載に拠って、②の孫四郎が常隆とすると、幼年にあたるので、別

人物の可能性が高い。ただし、﹃譜伝記﹄の記述が参考にとどまることから、別の点でも検討が必要であろう。その際、や

はり年齢は本問題を考える上で重要である。②の孫四郎は仮名を称し、幼名でないことから、少なくとも元服後と推測で

きよう。②の永正二年︵一五〇四︶の時点で、仮に十五歳で元服直後だとしても、⑦の段階に至っては七十八歳となる。

﹁親父入道飛騨守﹂が②の孫四郎である可能性は捨てきれないものの、年齢面を考慮すれば、﹁親父入道飛騨守﹂の一世代

駒沢史学86号(2016) 94

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前の人物と比定しておくのが穏当といえよう。

更に、ここで検討しなければならないのが⑤の山室治部少輔である。この治部少輔については、⑦の史料などから当時

の当主が氏勝なので、治部少輔氏勝だと考えられてきた

(

)36

。しかし、⑥・⑭と⑤が関連していると考えられたことから、治

部少輔の実名は勝清と比定されるに至った

(

)37

。この治部少輔勝清は、永禄四年︵一五六一︶段階、山室惣領家の家督に就い

ていたと推測されるが、問題となるのは血縁関係であろう。この点は明確にされていないのが現状であるが、氏勝の父と

して飛騨守が確認されること、年代的に氏勝と同世代であることといった点を踏まえると、氏勝の兄としておくのが妥当

といえよう

(

)38

。⑦段階で

勝清が確認されないの

は、それ以前に死去した

か、後述するように永禄

四年段階で上杉方であっ

た山室家が千葉氏に再び

従属するにあたり、勝清

が家督を氏勝に譲与した

かといったことが想起さ

れる。いずれにしても、

山室惣領家の家督は、孫

四郎︱飛騨守︵常隆か︶

︱治部少輔勝清︱氏勝と

石渡洋平 戦国期上総国における国衆の成立と展開95

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継承されたと位置づけられよう。

家督以外の一族の系譜では、⑦が注目される。ここでは、﹁親父入道飛騨守氏朝・氏秀・氏光・氏定・忠茂﹂と記されて

おり、記載のあり方から飛騨守の子息として氏朝以下の人物がいたとも推測される。﹃譜伝記﹄によれば、常隆には氏勝・

氏計・氏清の三子がいたというが、氏勝以外一次史料でみえず、氏朝以下の人物が飛騨守︵常隆︶の子息という可能性も

あろう

(

)39

。この点は確定できないものの、問題提起しておきたい。

⑦ではその他に、安芸守、常陸守、勘解由左衛門尉、左京亮がみえる。木村修氏は、﹃譜伝記﹄の記載をもとに、安芸守

を勝広︵氏勝二男︶に、常陸守を氏勝嫡子とされる光勝に、勘解由左衛門尉を教勝と比定する

(

)40

。このうち、安芸守は﹃譜

伝記﹄以外にみえないので、勝広の可能性があるとはいえるが、確定できない。常陸守は﹃譜伝記﹄によれば、光勝と考

えられるが、なお血縁関係は要検討であり、この点は後述する。教勝については、⑭にみえる﹁山室勘解由左衛門尉源氏

俊﹂との関係が問題となる。⑦の勘解由左衛門尉が氏俊とも考えられるが、⑭については西門院へ文書を出した年代が記

されていないので、⑦の勘解由左衛門尉の実名が氏俊であったもしくは氏俊に連なる系統の人物であったとしておくのが

妥当であろう。

では、氏勝の跡を継いだとされる嫡子常陸守光勝について検討する。﹃譜伝記﹄によれば、光勝は氏勝の跡を継ぎ、天正

十八年︵一五九〇︶の小田原合戦のなかで自刃したとされ、光勝の嫡子宮内卿光慶は合戦後に菱田殿部田︵芝山町殿部田︶

に居したという

(

)41

。これら﹃譜伝記﹄の記載をもとに、氏勝︱光勝︱光慶と家督が継承されたと考えられてきた

(

)42

。しかし、

⑬の存在から﹃譜伝記﹄の系譜および先学の位置づけは一考を要する。

⑬は、先に述べたように天正十四年︵一五八六︶から天正十七年︵一五八九︶の間のものとされる。ここで分かること

は、本史料が出された段階で山室宮内少輔、その息子孫四郎、宮内少輔弟孫三郎がいたことである。注目したいのは、孫

四郎という仮名であり、これは氏勝が称していた。すなわち、⑬の孫四郎は氏勝に連なる系統であり、⑬の孫四郎の父宮

駒沢史学86号(2016) 96

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内少輔も同様なことが想起される。言い換えれば、⑬の宮内少輔と孫四郎は氏勝と同様、惣領家の系統であり、氏勝の跡

を継いだ人物なのではないかということである。この点、先学においては﹁宮内﹂という共通性からか、⑬の宮内少輔を

﹃譜伝記﹄にみえる宮内卿光慶と比定してきた

(

)43

。しかし、すでに滝川恒昭氏が宮内少輔について、﹁年代からみれば氏勝の

子の世代に相当しよう﹂と指摘するように

(

)44

、⑦から約二十年後の史料とすると、氏勝の子の世代と考えるのが妥当である。

よって、宮内少輔と宮内卿とが異なり、世代も合わないことから、⑬の宮内少輔は光慶とは比定できない。

とすれば、光勝に比定するのが妥当かというと、⑦において光勝が名乗っていた常陸守の存在が確認されるので、光勝

とも考えられない。仮に、⑬の宮内少輔がのちに常陸守を称した光勝として、⑦の常陸守が光勝と同系統︵具体的には父

親︶と想定すると、氏勝嫡子という血縁関係において﹃譜伝記﹄の記載は一考を要することになる。それでは、宮内少輔

は誰なのかというと、⑭にみえる﹁山室宮内少輔朝保﹂その人なのではないかと推測される

(

)45

。現在のところ宮内少輔を称

する山室一族の史料が⑭以外確認されないので、⑬の宮内少輔を朝保と比定しておきたい。つまり、氏勝の跡は宮内少輔

︵朝保︶に惣領家の家督が継承され、宮内少輔の跡の家督継承予定者が孫四郎︵実名不明︶だったのではないかということ

である。なお、⑬以前に⑪に山室兵部丞、⑫に山室治部左衛門がみえるが、惣領家の官途が宮内少輔であることを踏まえ

ると、庶流の一族と推測できようか。⑦の常陸守は﹃譜伝記﹄によれば光勝であるが、いずれにしても⑪・⑫と同様に惣

領家の人物ではなく、庶流の山室一族としておくのが穏当といえよう

(

)46

ここまでのことを整理すると、従来山室氏の家督は常隆︱氏勝︱光勝︱光慶と継承されたといわれてきたが、筆者は孫

四郎︱飛騨守︵常隆か︶︱勝清︱氏勝︱宮内少輔︵朝保︶と継承され、宮内少輔の跡は孫四郎が家督継承予定であったと

考える。

石渡洋平 戦国期上総国における国衆の成立と展開97

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山室氏の政治的動向と領域支配

戦国期の山室氏の初見は①であり、山室一族の﹁妙室﹂が下総国の二木︵松戸市二木︶で討死している。この合戦につ

いては、黒田基樹氏が﹁千葉氏領国北部における領域確定の動向を示すもの﹂で、千葉氏は﹁上杉方の森屋相馬氏・府川

豊島氏、武蔵の上杉勢力との抗争﹂を展開していたと指摘している

(

)47

。山室妙室が千葉方か上杉方かは①だけでは判断がつ

かないが、少なくとも文明二年︵一四七〇︶段階で山室一族がいたと分かる。

②では、山室孫四郎が千葉氏に従っていたことが分かる。ここで注目したい点は、山室氏が千葉氏の家中に属していた

ことである。これは、山室氏の領域権力としての立場を位置づける上でも重要である。すなわち、山室氏は⑦のように千

葉氏の関与が確認されない領域支配を展開していた存在であるが、国分氏や海上氏と同様、あくまで千葉氏の家中構成員

だったのである。その立場については、④の史料をもとに黒田基樹氏が千葉氏当主被官である直臣衆であることを明らか

にしている

(

)48

山室氏は③で反千葉方の椎崎千葉氏から逸見氏へ﹁山室一跡﹂を与えるといわれており、基本的に千葉氏に従い続けて

いることが分かる。この立場に変化がみてとれるのが⑤である。ここでは、越後の長尾景虎に味方した一族として、山室

治部少輔がみえる。山室氏は存続のために、千葉氏から離反したといえる。その後、⑬のように山室氏は千葉氏・北条氏

に従っているが、帰参の時期は明確にできない。ただし、⑦の仏像造立は、黒田氏が﹁それ以前における里見氏との抗争

によって破壊された寺院の再興を示すもの﹂で、﹁周囲が味方化したことによって戦争地域から解放されたことにともなう

もの﹂と指摘しているように

(

)49

、⑦以前には千葉氏に帰参したことは確かであろう。

なお、⑦の仏像造立については、木村修氏が﹁領域支配の安定と発展という付加価値を期待しうる事業であった﹂と指

摘している

(

)50

。この点、筆者も海上氏を検討するなかで指摘したように

(

)51

、寺社の造営・再興など支配領域の成り立ちを保つ

駒沢史学86号(2016) 98

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ことで地域権力は存続しえたのである。山室氏は領域権力として、戦後処理の一環で、領内寺社の再興を行っていたとい

える。

この領内寺社の再興や仏像の造立は、山室氏の家中とされる怒賀︵奴賀︶源太左衛門尉を大檀那としても行われている

(

)52

この時期、山室氏は当主とその一族︵御一家︶および家中が支配領域の戦後処理にあたっていたといえよう。別の視点か

ら述べれば、山室氏は御一家と怒賀︵奴賀︶氏らの家中を構成する権力であったのである。この領内寺社の再興や仏像の

造立には、千葉氏の関与はみられないので、山室氏は千葉氏の直臣衆という立場にありながらも、その支配領域について

は独自の領域支配を認められていた存在と推測できる。千葉氏の直臣衆にありながらも地域拠点を形成していた存在とし

て、井田氏

(

)53

と鏑木氏

(

)54

がいることが指摘されている

(

)55

。なお、天正後期には領域支配を展開していたことが確認される多古城

︵千葉県多古町︶の牛尾氏

(

)56

が山室氏と戦争を起こしていることが﹃譜伝記﹄に記されている

(

)57

。これは、山室・牛尾両氏の立

場を踏まえれば、領域権力同士の境目確定における争いと位置づけられよう。

千葉氏の直臣衆でありながら領域支配を展開した山室氏は、⑬以前に北条氏にも従うようになっていた。⑬では、山室

氏が北条氏へ証人︵人質︶を提出しており、これは戦国大名と国衆の関係を端的に示すものである

(

)58

。⑬の時点で、山室氏

は北条氏の他国衆として存在していた。山室氏が北条氏の他国衆になった時期は明確でないものの、滝川恒昭氏は﹁天正

年代後半、北条氏権力が下総に浸透していくなかで、周辺にあった坂田城主井田氏などとともに北条氏に従属したものと

推察される﹂という見解を示している

(

)59

。井田氏は山室氏同様、千葉氏の直臣衆であり、支配領域が隣接しているので滝川

氏の説は首肯できよう。

天正十八年︵一五九〇︶の小田原合戦では、北条氏に従って没落した。それを直接示す史料は確認されていないが、﹃譜

伝記﹄の記載などを参照すれば

(

)60

、山室一族は菱田殿部田︵芝山町︶に居して、存続していったといえる。

このように、山室氏は千葉氏の家中構成員︵直臣衆︶という立場ながらも、永禄期後半には地域拠点を形成する領域権

石渡洋平 戦国期上総国における国衆の成立と展開99

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力として、家中を構成し、千葉氏の関与がみられない独自の支配を展開した存在であり、天正期後半には同様な立場にあっ

た井田氏らとともに北条氏の他国衆となった地域権力と位置づけられる。

山室氏が直臣衆=千葉氏被官という立場ながら、領域権力化した時期や背景については、史料的制約から明確にするの

は難しい。しかし、山室氏の関連史料からは戦乱との関係がみてとれよう。すなわち、長尾景虎︵上杉謙信︶の侵攻のな

かで、山室氏は家中と支配領域の存立をはかるために千葉氏を離反するという行動をみせているし、その後は戦乱後にあっ

て支配領域を成り立たせるため寺社の造営・復興を行っていた。家中、寺社、また山室氏関連史料では確認できないが村

といった支配基盤から、山室氏がそれぞれの存立を行いうる現地の領主として認識されたことが千葉氏の直臣衆ながら領

域権力化した一背景であろう。そのため、小田原北条氏もそのような山室氏を一勢力と把握し、他国衆として編成したと

推測できよう。

加えて、遠山成一氏が指摘するように、山室氏の支配領域内には東下総︵具体的には千葉氏の東下総の支配拠点森山城︶

と千葉氏の本拠本佐倉城︵酒々井町︶を結ぶ中継地点である菱田が存在した

(

)61

。こうした陸上交通の要衝が支配領域内に存

在した点も、山室氏の性格や領域権力化を考える上で重要であろうが、具体的にその事実を示す史料が管見に触れないた

め、今後の課題としておきたい

(

)62

山室氏のこうしたあり方が戦国大名や国衆の成立という全体的な問題のなかでいかに位置づけられるかは、山室氏の﹁屋

形﹂たる千葉氏の実態を踏まえ、今後検討すべきといえる。

おわりに

本稿では、上総山室氏について系譜関係や政治的動向、領域支配などの面を検討した。系譜関係では家督継承について

駒沢史学86号(2016) 100

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再検討を加え、従来の説とは異なり、孫四郎︱飛騨守︵常隆︶︱勝清︱氏勝︱宮内少輔︵朝保︶と家督が継承され、宮内

少輔の跡は孫四郎︵実名不明︶が継承予定であったと位置づけた。政治的動向および領域支配では、山室氏は千葉氏の家

中構成員︵直臣衆︶という立場ながらも、永禄期後半には地域拠点を形成、家中を構成して、千葉氏の関与がみられない

独自の支配を展開した存在であり、天正期後半には同様な立場にあった井田氏らとともに北条氏の他国衆になったと指摘

した。山室氏の領域権力化については、山室氏の史料から推測できる範囲での位置づけになったが、戦乱との関係性を指

摘した。

従来は﹃譜伝記﹄について、例えば﹁事実を無視した創作性の強い史伝書であると一概に規定することに躊躇を覚える

(

)63

といったように、史料批判を行い、積極的に利用する姿勢がみてとれる。筆者もこのような研究動向を否定しないが、本

稿では一次史料を中心に改めて戦国期の山室氏について検討を加えた。﹃譜伝記﹄の記載内容との比較検討など未だ解決

すべき課題は多いが、ひとまずは擱筆する。

(1)

岩田書院刊行の﹁論集

戦国大名と国衆﹂に代表される。

(2)

拙稿﹁戦国期下総国分氏における矢作惣領家と庶流﹂︵﹃十六世紀史論叢﹄創刊号、二〇一三年︶・同﹁戦国期下総海上氏の展開と動

向︱一族・家中・領域支配︱﹂︵﹃駒沢史学﹄第八三号、二〇一四年︶。

(3)

木村修﹁中世末期の造仏とその背景︱上総国武射郡を例として︱﹂︵﹃千葉県立中央博物館研究報告人文科学﹄二巻二号、一九九三

年︶。

(4)

﹃松尾町の歴史﹄上巻︵松尾町、一九八四年︶のうちⅡ中世の武士と村落5﹁﹃山室譜伝記﹄の世界﹂︵伊藤一男氏執筆分︶。

(5)

﹃芝山町史﹄通史編中︵千葉県山武郡芝山町、二〇〇四年︶のうち第三編第四章﹁戦国時代の房総と芝山地域﹂︵奥住淳氏、佐脇敬

一郎氏執筆分︶。

石渡洋平 戦国期上総国における国衆の成立と展開101

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(6)

その他、﹃坂田城跡総合調査報告書︿史料調査﹀上総井田文書﹄︵横芝町教育委員会、一九九六年︶第二部第四章﹁﹃山室譜伝記﹄の

伝承と史実﹂︵伊藤一男氏執筆︶、滝川恒昭﹁山室宮内少輔﹂︵戦国人名辞典編集会編﹃戦国人名辞典﹄、吉川弘文館、二〇〇六年︶、千

野原靖方編著﹃戦国房総人名辞典﹄︵崙書房出版、二〇〇九年︶などが山室氏に言及している。

(7)

黒田基樹・佐藤博信・滝川恒昭・盛本昌広編﹃戦国遺文﹄房総編第一巻~第四巻︵東京堂出版、二〇一〇年~二〇一三年︶。以下、

同書からの引用は﹃戦房﹄所収文書番号と略記する。

(8)

﹃山室譜伝記﹄は、﹃芝山町史﹄資料集別編︵千葉県山武郡芝山町、二〇〇〇年︶所収のものを使用する。以下、同書からの引用は

﹃譜伝記﹄〇〇頁と略記する。

(9)

こうした試みは、前掲註︵4︶・︵5︶などで、すでに行われているが、行論の都合上改めて関係史料を掲げる。

(

)

﹃千葉縣史料﹄中世篇本土寺過去帳︵千葉県、一九八二年︶二四六頁。

10(

)

﹃妙見信仰調査報告書︵二︶﹄︵千葉市立郷土博物館、一九九三年︶八二頁~八三頁。

11(

)

﹁逸見文書﹂﹃戦房﹄八一八号。文書の内容については、黒田基樹﹁井田氏の動向﹂︵﹃中世常陸・両総地域の様相︱発見された井田

12

文書︱﹄、茨城県立歴史館、二〇一〇年︶参照。

(

)

前掲註︵

︶一〇一頁。

13

11

(

)

﹁上杉家文書﹂﹃戦房﹄一〇六八号。

14(

)

長尾景虎︵上杉謙信︶の関東侵攻については、佐藤博信﹁越後上杉謙信と関東進出︱関東戦国史の一齣︱﹂︵同﹃古河公方足利氏の

15

研究﹄、校倉書房、一九八九年︶、黒田基樹﹁上杉謙信の関東侵攻と国衆﹂︵同﹃戦国期東国の大名と国衆﹄、岩田書院、二〇〇一年︶

等を参照。

(

)

﹁西門院文書﹂﹃戦房﹄一〇七一号。

16(

)

この比定は﹃戦房﹄でなされた。

17(

)

加茂普賢院蔵。﹃戦房﹄一二四〇号。

18(

)

前掲註︵3︶木村論考が具体的な検討を行っている。

19(

)

加茂普賢院蔵。﹃戦房﹄一二八〇号。

20(

)

加茂普賢院蔵。﹃戦房﹄一二八二号。

21

駒沢史学86号(2016) 102

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(

)

﹃芝山町史﹄資料集2中世編︵芝山町、一九九四年︶二七五頁。

22(

)

﹁西門院文書﹂﹃戦房﹄一二八一号。

23(

)

﹁松本昌之家文書﹂﹃戦房﹄一四九二号。

24(

)

前掲註︵4︶﹃松尾町の歴史﹄上巻一一四頁。

25(

)

﹃芝山町史﹄資料集2中世編︵芝山町、一九九四年︶二二五~二二六頁。

26(

)

この点については、前掲註︵4︶﹃松尾町の歴史﹄上巻一一五頁~一一六頁で詳しく検討されている。なお、同書は⑤の治部少輔と

27

⑫の治部左衛門を同一人物とするが、官途が異なるので、一考を要しよう。

(

)

﹁下総文書﹂﹃戦房﹄二三八二号。

28(

)

前掲註︵5︶﹃芝山町史﹄通史編中一四四頁で指摘されている。

29(

)

﹁静嘉堂文庫本南行雑録五﹂﹃戦房﹄二四三一号。

30(

)

前掲註︵3︶木村論考、註︵4︶﹃松尾町の歴史﹄上巻。

31(

)

前掲註︵6︶滝川﹁山室宮内少輔﹂。

32(

)

例えば、前掲註︵5︶﹃芝山町史﹄通史編中八七頁。

33(

)

﹃譜伝記﹄一一頁。

34(

)

﹃譜伝記﹄二三頁。前掲註︵5︶﹃芝山町史﹄通史編中九三頁の指摘による。

35(

)

前掲註︵5︶﹃芝山町史﹄通史編中九四頁など。

36(

)

﹃戦房﹄には比定の理由までは記されていないが、本稿のようなことを根拠にしていると思われる。

37(

)

黒田基樹﹁千葉胤富・邦胤の政治動向﹂︵﹃風媒花﹄№

、二〇一二年︶は、氏勝を勝清の子と推測しているが、﹁親父入道飛騨守﹂

38

25

の存在から一考を要しよう。

(

)

前掲註︵3︶木村論考では山室氏の一族と位置づけている。

39(

)

前掲註︵3︶木村論考。

40(

)

﹃譜伝記﹄二一四頁~二四九頁等。

41(

)

前掲註︵4︶﹃松尾町の歴史﹄上巻一〇九~一一二頁、註︵5︶﹃芝山町史﹄通史編中九二~九五頁など。

42

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(

)

註︵

︶参照。

43

42

(

)

前掲註︵6︶滝川﹁山室宮内少輔﹂。

44(

)

﹃戦房﹄の比定も⑭を根拠にしていると考えられる。

45(

)

この点、近世以降に存続した山室一族が自らの由緒のために、自己の系統と惣領家の系統を結びつけた可能性もあろう。

46(

)

黒田基樹﹁千葉氏の本佐倉城移転とその背景﹂︵﹃風媒花﹄№

、二〇一〇年︶。

47

23

(

)

黒田基樹﹁下総千葉氏権力の政治構造﹂︵同﹃戦国期領域権力と地域社会﹄、岩田書院、二〇〇九年、初出二〇〇五年︶。

48(

)

前掲註︵

︶黒田論考。

49

38

(

)

前掲註︵3︶木村論考。

50(

)

前掲註︵2︶拙稿﹁戦国期下総海上氏の展開と動向︱一族・家中・領域支配︱﹂。

51(

)

飯櫃徳蔵寺蔵。﹃戦房﹄一二七八号。山室氏の家中構成員については、﹃譜伝記一一頁~一九頁の﹁幕下諸侍の事﹂をもとに、前掲

52

註︵6︶﹃坂田城跡総合調査報告書︿史料調査﹀上総井田文書﹄七五頁で明らかにされている。

(

)

井田氏については、前掲註︵

︶黒田論考などを参照。

53

12

(

)

鏑木氏については、﹃古城村誌﹄前後篇︵古城村誌復刊刊行会、一九七三年︶前編第四章﹁守護時代﹂︵高木卯之助氏執筆︶・﹃干潟

54

町史﹄︵千葉県香取郡干潟町、一九七五年︶第三章﹁鎌倉時代から戦国時代の終末までのあゆみ﹂などを参照。

(

)

前掲註︵

︶黒田論考。

55

48

(

)

牛尾氏については、丸井敬司﹁千葉牛尾氏に関する考察﹂︵﹃館報﹄︿千葉市立郷土博物館﹀第五号、一九九三年︶・﹃多古町史﹄下巻

56︵多古町、一九八五年︶四〇〇頁~四〇九頁﹁多古城主牛尾胤仲﹂などを参照。なお、牛尾氏の領域支配の実態とその領主的性格や近

世への展開などは今後の課題であり、別稿で検討したい。

(

)

﹃譜伝記﹄二〇頁~三一頁。

57(

)

戦国大名と国衆の関係については、黒田基樹﹃戦国大名

政策・統治・戦争﹄︵平凡社新書、二〇一四年︶第五章﹁戦国大名と国衆﹂

58

を参照。

(

)

前掲註︵6︶滝川﹁山室宮内少輔﹂。

59(

)

﹃譜伝記﹄二四七頁~二五九頁など。

60

駒沢史学86号(2016) 104

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(

)

遠山成一﹁戦国後期下総における陸上交通について︱﹁下総道﹂をめぐって︱﹂︵﹃千葉史学﹄第二四号、一九九四年︶。なお、同論

61

考では政治情勢の変化から菱田の交通の要地という性格は多古へ移り、近世初期には菱田は宿としての戦略的重要性は下がったとも

指摘され、時期的に限られていたようである。

(

)

房総の交通や流通の問題と地域権力の成立と展開をいかに位置づけていくかも今後改めて考える必要があろう。それは、前掲註

62︵2︶拙稿﹁戦国期下総海上氏の展開と動向︱一族・家中・領域支配︱﹂でも言及したように、徳川家康の関東入国と知行割・家臣団

配地にも関わる。すなわち、戦国期の地域拠点が必ずしも、そのまま継承されるわけではないのである。この点、柴裕之﹁豊臣政権

の関東仕置と徳川関東領国︱本多忠勝の上総万喜入城を通じて︱﹂︵同﹃戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配﹄、岩田書院、二〇一四

年、初出二〇一二年︶が家康による本多忠勝の万喜城配地を﹁江戸湾の水上交通・流通をふまえた上総国の地理的位置を視野に﹂入

れたものと位置づけているのは重要であろう。本論とは逸れるため、ここでの指摘にとどめるが、今後もこうした視点による検討が

必要であることを付言しておきたい。

(

)

前掲註︵3︶木村論考。

63

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