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契丹文墓誌より見た遼史 愛新覚羅烏拉熙春 ……………………………………………… 史研究の新しい課題 1 第一 氏族と落 …………………………………………………………… 第一章 契丹の氏族 6 ……………………………………………………………… 第一節 耶律氏 7 ……………………………………………………………… 第二節 輦氏 11 ………………………………………………………………… 第三節 蕭氏 16 1.述律氏 2.拔里氏 3.述律氏と拔里氏の関係 4.乙室已氏 5.その他の姓氏 5.1 迭剌氏(奚人の姓氏) 5.2 勃里氏 5.3 烏隗氏 5.4 迷里吉氏 5.5 甌昆氏 5.6 蔑古乃氏 5.7 僕隗氏 5.8 楮特(初魯得)氏 6.奚人姓氏の問題 ……………………………………… 第四節 「述律」と「右大」の関係 41 ……………………………………………………………… 第五節 迭剌 44 …………………………………………………………… 第六節 審密五 50

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契丹文墓誌より見た遼史

愛新覚羅烏拉熙春 著

………………………………………………緒 論 遼史研究の新しい課題 1

第一部 氏族と部落

……………………………………………………………第一章 契丹の氏族 6

………………………………………………………………第一節 耶律氏 7

………………………………………………………………第二節 遙輦氏 11

…………………………………………………………………第三節 蕭氏 16

1.述律氏

2.拔里氏

3.述律氏と拔里氏の関係

4.乙室已氏

5.その他の姓氏

5.1 迭剌氏(奚人の姓氏)

5.2 勃里氏

5.3 烏隗氏

5.4 迷里吉氏

5.5 甌昆氏

5.6 蔑古乃氏

5.7 僕隗氏

5.8 楮特(初魯得)氏

6.奚人姓氏の問題

………………………………………第四節 「述律」と「右大部」の関係 41

………………………………………………………………第五節 迭剌部 44

……………………………………………………………第六節 審密五部 50

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…………………………………………………………………第七節 小結 51

………………………………………………………第二章 契丹の社会組織 55

………………………………………………………第一節 斡魯朶と捺缽 55

………………………………………第二節 部落氏族制から部落家族制へ 58

………………………………………………第三節 部族から国家への發展 63

1.皇族

2.腹心部

3.惕隱司

4.后族が北府を、皇族が南府を統領する

…………………………………………………………………第四節 横帳 69

1.橫帳の本義

2.橫帳の性質

3.「第一橫帳(第一等國姓)」と「第二橫帳(第二等國姓)」

4.橫帳と二院皇族の関係

5.「帳」「宮」「院」の関係

………………………………………………………………第五節 国舅帳 78

1.國舅帳の設立

2.國舅別部大・小翁帳と國舅大・少父房

2.1 國舅別部大小翁帳

2.1.1 國舅別部小翁帳(淳欽皇后の実の弟阿古只の一系)

2.1.2 國舅別部小翁帳(淳欽皇后の異父仲兄室魯の一系)

2.1.3 國舅別部小翁帳(忽没里の一系)

2.1.4 國舅別部大翁帳(淳欽皇后の異父長兄敵魯の一系)

2.2 国舅大少父房

3.聖宗朝以降の國舅諸帳の構成

……………………………………………………………第六節 承帳制度 90

1.幼子の承帳

2.子孫が絶えたための近親の子による承帳

3.子孫が絶えたための皇子による承帳

4.籍沒による承帳

……………………………………………………………第七節 婚姻制度 95

第二部 皇族と外戚

…………………………………………………………第一章 遼朝の皇族 102

………………………………………………………第一節 六院夷離菫房 106

1.諧領蒲古只の長子曷魯隱迪魯古

1.1 曷魯隱迪魯古の長子敵輦鐸臻

1.2 曷魯隱迪魯古の次子涅剌昆古

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1.3 曷魯隱迪魯古の第三子鐸袞突呂不

2.匣馬葛

2.1 耶律迪烈と撻体娘子

2.2 特免奪里不郎君と司家奴

………………………………………………………………第二節 孟父房 144

1.敵輦巖木古の長子胡古只

2.敵輦巖木古の次子末掇

3.敵輦巖木古の第四子國隱寧麻討

………………………………………………………………第三節 仲父房 157

1.敵輦鐸只夷離菫

2.老袞綰思燕王

3.信寧魯不古

………………………………………………………………第四節 季父房 180

1.率懶剌葛

2.雲独昆迭剌

3.阿辛寅底石

…………………………………………………………第二章 遼朝の外戚 200

…………………………………第一節 国舅別部小翁帳(国舅夷離畢帳) 200

…………………………………………第二節 国舅別部大翁帳(拔里氏) 207

……………………………………第三節 国舅別部小翁帳(国舅尚父帳) 216

1.室魯の子孫

2.阿古只の子孫

1.孝穆

1.1 孝穆の子孫

1.2 孝穆の娘

2.孝先

3.孝誠

3.1 知章

3.2 知微

3.3 知行

3.4 知善

3.5 知玄

3.6 孝誠の娘

4.孝友

5.孝惠

6.蕭和の娘

第三部 習俗と文化

…………………………………………………第一章 契丹人の命名習俗 258

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…………………………………………………………第一節 漢風の名 258

1.性別を区別しない名

2.性別を区別する名

3.その他

……………………………………………………第二節 契丹人の「字」 260

…………………………………………………第三節 「名」の性別標識 277

……………………………………………第四節 契丹の女性の名の特徴 280

…………………………………第五節 部族名をもって「名」付ける習俗 281

…………………………………第六節 入金以後の契丹人が改冠した漢姓 284

…………………………………………………第二章 契丹人の親族呼称 287

…………………………………………第一節 「兄弟姉妹」を表す呼称 289

……………………………………………………第二節 妻に対する呼称 293

………………………………………第三章 契丹人の女性に対する尊称 299

…………………………………………………第四章 契丹人の婚姻習俗 309

…………………………………………………………第一節 兄死妻嫂 309

……………………………………………………………第二節 甥舅婚 310

……………………………第三節 「再婚其舍」と非耶律氏族の間の通婚 312

……………………………………………第四節 契丹人と漢人との通婚 312

…………………………………第五章 契丹の自称及び漢人に対する呼称 316

…………………………………………………………第一節 契丹の自称 316

…………………………………………第二節 契丹の漢人に対する呼称 321

………………………………………………………………………参考書目 326

……………………………………………………………………………後記 329

序論 遼史研究の新しい課題

契丹は北方に起源し、文教を発展させる余裕がなかったので、その記述は本来寥寥たる

もので、聖宗の時に至って始めて国史を修撰した。聖宗朝までの契丹古史はおそらく追述

綴補に基づくものだが、興宗・道宗時代にはすでに国史が成立していた。遼末金初の兵乱

を経て、典章散失しほとんど遺るものがなかった。元朝が『遼史』編纂に参考し得たのは、

耶律儼・陳大任二家の書だけだったが、『遼史』を見る限り、それら原資料がすでに疎略

を免れないものであった。史官はほかに史料を捜す余裕もなく、かつ遼史に対する理解も

乏しかったので、遼の二百余年の歴史の記述は『宋史』の十分之一にも及ばず、正誤並び

に存し、抵牾の互見するところばかりであった。後世の学者はそこに捉われて真偽を辨じ

えず、とりわけ契丹の古史に渉るものは想像が実證より多いことが免れない。

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近年、遼代の出土資料が陸続と発見され、遼史研究に再生の機会をもたらしている。と

くに契丹文墓誌釈読の迅速な進展はこの再生の機会を勃然たらしめるものである。本書は

契丹文墓誌釈読の成果を遼代漢文史料と漢文石刻に結合して相互に比較し証明する方法を

採り、長期にわたる契丹歴史上の眾説紛紜として定論無い諸問題、さらには先人が未だ踏

み込んだことのない領域を全く新しい視角から観察し、研究した成果である。

本書第一部「氏族と部落」が対象とするのは遼の皇族耶律氏、遙輦氏、遼の后族諸姓氏

及び契丹諸部落の内容、性質、相互関係などの問題である。契丹の社会組織を分析するこ

とでその通時的な推移及び共時的な構造上の特徴を観察し、遼の皇族の橫帳、遼の后族の

国舅帳の構成および時代によって段階的に異なる特徴を解明する。

第二部「皇族と外戚」が対象とするのは、契丹文墓誌に出現する遼の皇族、后族の重要

人物の房族世系であり、これを基礎に『遼史』の皇族表と外戚表に增補訂正を行う。

第三部「習俗と文化」が対象とするのは契丹文墓誌に反映された契丹人の命名習俗、契

丹人の親族呼称及び女性に対する尊称、契丹人の婚姻習俗、契丹人の自稱及び漢人に対す

る呼称、言語の角度より観察した契丹と近鄰諸民族の間の文化的関係である。

以上の三方面の内容は均しく契丹人自身の記述を主要な根拠とし、契丹文と漢文双方の

資料を対比することで詳細な究明を加え、帰納して成ったものである。本書の最大の特色

は契丹文字資料を広汎に利用して契丹の歴史を考証したことであり、これは先人が未だ曾

て開墾したことのない領域であり、著者が今後も努力を継続する方向でもある。本書の研

究成果は遼代漢文史料が記述する史実の再認識、先人が漢文史料に捉われて提出した論点

の再検討に対し、真偽を分別し、闕漏を補填する価値をもつものである。

契丹人の歴史を研究するには、契丹人の視野から契丹人の世界を観察せねばならない。

契丹文墓誌は豊富な史実考証の材料を有するが、契丹文墓誌解読の結果が表明するところ

では、同時代の漢文史料と比べて、契丹文墓誌はモンゴル史研究における『元朝秘史』と

同様に漢文史料には見られない契丹人自身の歴史の真相を具えている。遼代には、契丹・

漢二者の政治文化並行の政策が実施され、大は国号から、小は文翰に至るまで、双管の制

でないものは一つもなかった。しかし詳細に立ち入ってみると、その奧妙さは今まで通論

として理解されてきたところのように単純ではない。たとえば国号について、漢文史料に

は「大契丹」と「大遼」が何度も交代し、甚だしくは並用された時もあったようにあるが、

興宗時代より天祚帝時代に至る全ての契丹文墓誌には、「大契丹」が見えるだけで、「大

遼」は見えない。さらに后族の姓氏について、漢文史料には契丹人は耶律氏でなければ蕭

氏であり、この二姓以外のものはほとんどいないとあるが、契丹文墓誌には耶律氏と並ぶ

ような、耶律氏と通婚する各氏族を総括する姓氏は一つも出現しない。契丹文、漢文は遼

代に並行していたが、決して対訳に用いられていただけではないのである。要するに、契

丹文が表現するものは、契丹人自身の世界であるが、漢文が表現するものは、契丹人が漢

人に見せた別の一個の世界だったのである。契丹人が遼の領域に属さない漆水郡と蘭陵郡

をそれぞれ耶律氏と蕭氏的の地望とみなしたのは、通説のように「中原文化を仰慕した」

からでは決してなく、諸般の政治的措置の一つであったに過ぎない。契丹文字資料からこ

うした「仰慕之情」がみじんも窺われないことがそれを明らかにしている。

長期にわたって、遼史研究は定説に捉われて相互に踏襲された誤った結論が深く根を張

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り、それに盲従するものは多かったが、懐疑を呈するものは無かった。これが遼史研究が

進展しなかった原因の一つである。

たとえば、遼の皇族耶律氏の本義に対する解釈として、日本・中国・ヨーロッパの多く

の学者はみなそれをモンゴル語の「牡牛」に比定してきたが、その論拠は歴史比較言語学

的根拠をもたない虚構の基礎に建てられた推測であった。ここから進んで遼の后族蕭氏の

本義をモンゴル語の「牝馬」と解釈することは、さらに想像が実証より多い臆断である。

「白馬青牛」伝説の起源は非常に遅く、後に契丹の始祖伝説に附会されたものである。近

年これに対する専論がすでにあるが、耶律氏と蕭氏の本義につき異議を提出することは今

なお無い。契丹文墓誌の解読が証明するところでは、「耶律」の本義は「牛」とは全く関

係なく、契丹社会を牛をトーテムとする耶律氏と馬をトーテムとする蕭氏という二つの半

族によって構成されるとする論点は完全に無稽の談である。相互に矛盾し、錯誤が頻出す

る遼代漢文史料の範囲内で、いわゆる新研究を進めることは、一つの論点を満足させても

他には及ばず、その論点と矛盾するその他の資料の存在を解釈できず、真の意味での研究

の突破口を獲得できないものである。『遼史』巻 33 營衛志下/部族下の八部を組成する氏

族の名稱の中に審密の存在が記録されていないことを根拠に、「二審密は八部の外に在り、

独立自存である」とする誤解が主張されているが、契丹文墓誌は拔里氏が耶律氏とともに

一部の中に在ったことを証明している。遼代の人物の房族世系に関する記述の紊乱がつと

に多く指摘されているが、その原因は決して簡単に史官の記述あるいは伝聞の誤に一概に

帰することはできない。たとえば遼太祖淳欽皇后の仲兄室魯及びその後裔の房族の問題は、

漢文史料には記述がない(あるいは意図的に隱諱されたのかもしれない)が、室魯はもと

淳欽皇后の母が前夫との間に生んだ仲子であり、母の改嫁に隨って後父のところに行った。

室魯は子が無く、異父弟阿古只の子を過継して後とした、このため室魯の後裔が属する房

族は曖昧でわかりがたいという結果になったのである。契丹文墓誌だけがこの史実を明確

に記録し、それによって一連の関連問題が氷解するのである。

現在までの契丹の歴史に関する研究が依拠するものはもっぱら漢文史料である。限られ

た漢文史料であれこれ臆測し、各の一家の見を持ち、高下正誤を分かちがたいというのが、

契丹文史料を遼史研究に應用しうる以前の遼史研究の情況であった。筆者の遼史研究の代

表作である「匣馬葛考」が、『遼史』では五里霧中にあった匣馬葛の房族世系を考証し得

たのは、契丹文墓誌に対する先行研究に基づくものである。漢文史料の不足で隘路に行き

詰まった遼史研究を展開するために、21 世紀に入ると、契丹文字の遼史研究に対する重

要性が認識されるようになった。ここ数年発表された論文のうちには、部分的に解読され

た契丹文字資料を遼史の難解な問題の考証に用いようと試みる努力が看取される。しかし、

契丹文字資料によって遼史研究の道を切り開くのは、言うは易いが、行うことは甚だ困難

である。困難の最たるものは、これらの資料を使用する前提条件として、それらを正確に

解読せねばならないということである。この点をなしえないと、かえって迷路に陥ってし

まうことになる。すでに発表されている契丹文字資料の解読には、それ自身多くの問題が

存在している。単に言語文字学の釈読成果として論ずるならば、証明を要する一つの意見

となしうる。しかし、確実なものとしてそれを史学考証の論拠として用いることは、問題

にならないわけにはいかない。現在の契丹文字の解読成果について見ると、原資料に対す

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る理解が確実無謬のレヴェルに到達しているとはいいがたい。このためいくつかの曖昧模

糊とした釈読はそれを論拠として特定の史実を論断するには不適当である。いくつかこう

した事例を挙げておこう。

(1)契丹の「橫帳」の本義と性質に関する多くの研究は、全て契丹語を解さずに錯誤

に至った結論である。契丹小字は三つの表音字で「橫」の音韻 hətur を書きつづり、

二つの表音字で「帳」の音韻 gʷər を書きつづる。hətur は女真語の「橫」を示す hətun

の音韻形式に近い、gʷər はモンゴル語系統の言語にある「家」を示す gerと似ている。こ

れによれば、よく連用されている は間違いなく『遼史』にいう「横帳」に

ほかならない。筆者の遼史研究のもう一つの代表作である「契丹横帳考」が発表されるま

で、漢文資料に囚われた説はみな「橫帳」の本義を「黄帳」・「大帳」・「特設之帳」など

と論じていた。契丹小字墓誌に現れる hətur g̫ ər も、「族系」と誤釈されていた。実際の

ところ、漢文の「橫帳」は契丹語の「橫」と「帳」の直訳に由来するもので、通説の如き

奇怪な意味はない。hətur g̫ ər を「族系」と誤釈したばかりに、契丹小字の「惕隱司」を

表示する ja dəu-n(直訳は「兄弟[所有格]」)を「橫帳」であると誤解を重ね、

橫帳の本義は皇帝と兄弟と呼び合う人であるとする曲解に至っている。ja dəu-nはそもそ

も契丹の官職名 digin(惕隱、突厥語 tägin[子弟]に由来する)の意訳なので、所有

格が付けられると官府名となる。『遼史』に明確に記述されるように、橫帳諸皇族の遼太

祖との関係は決して兄弟に限られるものではない。こうした歴史の真実を無視した解釈は、

遼史研究に混乱をもたらすだけというよりない。

(2)遼朝の国号は、1982年からずっと「哈喇契丹」と誤釈されてきたが、「哈喇」hala

は契丹小字・契丹大字 hulʤi を誤った推定音であり、その推定の過程は歴史言

語学の基本的常識から外れるものであるため、最近は再び「哈喇」を自己否定し「胡老」hulao

に改め、「遼」の意訳とする説が現れた。しかし hulaoの推定の根拠は契丹大字 ulʤi と

音韻上まったく関係がない女真大字 hutu を lao と誤解することに基づくものなので、

さらにそれを地理名称である「遼」の意訳と関連づけようとして、モンゴル語の hola(遠

い)と同一視する努力も比較言語学の基本的常識の欠如を暴露するものである。遼朝の国

号 hulʤi kitai にある hulʤi は、1206年にチンギス=カンが建てた国号 yeke mongol ulusに

ある ulusと、さらに闕特勤(Kül Tegin)碑にある ulysないしソクド語の Ulušとも深遠的

な連繋をもっている、その本義はともに「国家や領地を形成する人眾」から「国家」への

語義変遷を辿ってきたものと考えられる。hulʤi kitai の後に続く gurは、漢語の「国」を

契丹語化して読んだものである。hulʤi kitai gur は契丹王朝が成立した後の国家政権を指

すもので、契丹人が建国初において部分的に中原漢族王朝の典章制度を参考したことは、

この gurの後続が物語っている。それに反して、1206年チンギス=カンは yeke mongol ulus

を建てる際に、漢制を参照しなかったので、その国号に漢語の借用語「国」を付けなかっ

たのである。契丹人は王朝樹立以前には、hulʤi kitai のみを自称としたが、建国後はじめ

て漢語借用語 gurが hulʤi kitai に付けられるようになった。このことは、部落連盟から国

家への発展に正に対応するものである。

(3)金朝の国号も契丹小字の誤訳によって「女真国」と誤断された。それを土台とし

て、金朝太祖の年号「天輔」が行使されるまで「女真国」を自称し、年号「収国」が史官

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の杜撰に出自するものだという追随説も現れた。しかし「女真」と誤訳された単語

は、契丹小字墓誌におけるすべての出現環境を検討すれば、①太祖の出身部落「陶猥

思迭剌部霞瀨益石烈耶律彌里」、②「惕隱司」、③「(耶律氏)家族を相続する」の前にもっ

ぱら出現するのであり、遼太祖の出身部落が「女真迭剌部」となり、遼朝の皇族政教を司る

機構が「女真惕隱司」となり、遼朝皇族たる耶律氏の家族が「女真家族」となる可能性が

全くないことはいうまでもなかろう。この単語が示す音韻から簡単に『遼史』に載る契丹

語の「金」を意味する「女古」にあたることがわかる。この単語はさらに「金帳」・「金

系図」など数多くの連語に出現される。とくに「金家族」は、チンギス=カン家族がかつ

て「金家族」と自称したことにも一致するもので、北族における古来共有の伝統が見受け

られる。故に、契丹小字墓誌 の実際の意味は「金国」となり、女真人は「女

真国」という国号を使用したことは一度もなかったことになる。加えて、金太祖の年号「収

国」を史官の杜撰とする説も、女真大字石刻『海龍女真国書摩崖』(初刻年代は金太宗天

會元年十月)に現れる「収国」年号を無視することによる臆断にすぎない。

(4)筆者の「『耶律迪烈墓誌銘』与『故耶律氏銘石』所載墓主人世系考─兼論契丹人

的名與字─」が 2003年に発表されるまで、契丹人の「字 」を示すはずっと「第

あざな

二等級」と誤釈されてきた。これによって遼朝に「第二等級の国姓」なるものが存在した

という謬論が導かれ、さらに太祖の子孫が「第一等国姓」であると推論された。契丹語を

誤解して得られた結論である。歴史の真実から乖離した説は短命に終わり、今日では筆者

の解読結果が受容されるようになっている。

(5)契丹文墓誌に見える宋魏国妃の弟を、『遼史』に見える撻不也駙馬の後を継ぎ道

宗の第二女に尚した人物とする推論がある。しかしその人物は『遼史』に殺害年次が見え

るが、墓誌にはそれ以降にある人物の葬礼に出席したことが見える。契丹文墓誌に頻見す

るような記述を全面的に理解できなかったための誤断である。

(6)契丹小字の「院」を表示する単語を「斡魯朶」「宮」と誤釈する説があり、

それによって、契丹社会組織の「院」「宮」の性質・意味が近いとする誤った推論が出現

した。この謬説の遠因は、「斡魯朶」を表示する契丹小字が長期にわたって「亡くな

る」と誤釈されてきたことにある。

(7)契丹文墓誌に聖宗の庶子侯古が六院褭古直舍利房の後を継いだという記述がある

ことだけを見て、皇帝の庶子は斡魯朶に所属しえず二院のみに所属しうると推論する説が

ある。しかし、契丹文墓誌にはなお多く皇族の子孫が橫帳三父房を承継する記述があり、

これは庶子身分か否かとは全く無関係である。

以上挙げた事例はみな契丹文字資料を遼史研究に用いるという志向と実際の操作との間

に容易ならぬ艱難が存在することを物語っている。遼史の研究において視野を非漢文資料

まで広げる初志はむろんのこと間違いではないが、これら非漢文資料を利用するにあたっ

て、その解読結果が史実に吻合するか否かを判定する能力が不可欠の前提条件である。正

確な解読結果は当然ながら遼史研究の視野を新天地に向ける窓口を開けることができる

が、錯誤した解読結果はかえってそれを誤った道に誘い込ませるのである。

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遼史の研究は、すでに決定的な時期に入っている。研究者が漢文資料の垣根を破り、誤

謬に陥ることなく、真の理解を獲得するのに、唯一行いうる研究方法は契丹人の立場に立

ってこの時代の歴史を理解することである。しかしこうした研究方法の成立の基礎は、契

丹文字の記録した内容の正確な解釈に立脚せねばならない。契丹文字の研究成果は遼史の

空白を補填し、遼史に存在する訛誤を糾正しうる。しかし、真に契丹文字に含蓄された史

実を正確に解読し遼史研究に用いることは、たやすいことではない。

第一に、女真大字に対する立ち入った研究の素養が必要である。それは女真大字が表音

方式及び文字構成において契丹文字を参考しているからである。解読済みの女真大字は契

丹文字よりずっと多い、その字義と字音の両方の関連性をもとに契丹文字を考釈すれば、

豊富な成果が得られる。女真大字に関する最新の研究成果を知らず、誤りを含む資料を無

批判に傍証とすると、必ずや誤りを加重することにならざるを得ない。上述のごとく、女

真大字の『四夷館女真訳語』における誤った表音をもって契丹大字の音韻を推定し、

さらにそれに基づき契丹大字の遼朝国号を解釈するのでは、正確な結論は望むべくもない。

第二に、アルタイ言語に対する研究の素養が必要である。これは、契丹語がこれらの言

語と深い関係をもつからである。これまで解読された契丹語には、モンゴル語系がもつ特

徴がはっきり読み取れる。契丹文字資料を利用する前提としての、言語学から契丹語の文

法現象を分析する『契丹語言文字研究』(愛新覚羅烏拉熙春著、東亜歴史文化研究会、2004

年)のような基本作業が必要である。

第三に、中古漢語音韻学に対する研究の素養が必要である。これは契丹文墓誌の内容が

中原の漢族王朝と文化上の密切な関係をもっていて、大量の漢語音訳語が含まれているか

らである。これらの音訳語の正確な解読は、墓誌の時代・墓主の帰属・遼朝の名物制度な

どの考証において極めて重要である。例えば、契丹小字『大金習撚鎮国上将軍墓誌銘』(か

つて『金代博州防御使墓誌銘』とよばれていた)の墓主が任ぜられた刺史州

(忻州)が「沁州」と誤訳され、『涿州刺史墓誌』(かつて『澤州刺史墓誌』とよばれて

いた)の墓主が任ぜられた刺史州 (涿州)が「澤州」と誤訳されたりした原

因は、遼金時代の北方漢語における音韻対訳ルールを知らなかったからである。その誤訳

の結果は、さらにこれら墓誌資料を利用して立ち入った研究を進めようとする学者を誤ら

せてしまう。

このように、少なくとも以上の三つの條件を満たして、はじめて契丹人自身の記述とい

う斬新な角度から契丹人の歴史を再検討することが可能になる。筆者は長年満洲・女真系

統の言語文字と歴史文化方面の研究に従事し、これを基礎に研究を契丹に拡張し、契丹文

墓誌を解読する過程で絶えず遼史研究の新問題を発見した。

本書はこの研究領域に踏み込んだ第一段階の綜合的成果であるといえよう。今後の契丹

文墓誌の不断の発見に従って、新しい資料は現段階の研究内容を修正・傍証・充実させ、

さらに本研究が第二段階に発展するための十分な活力を提供しうるであろう。これが遼史

研究の新しい課題であり、我々に示された輝かしい情景である。歴史言語学、古文字学の

綜合的研究を堅実な基礎として開拓された遼史研究は、嶄新な面貌と蓬勃たる発展によっ

て、中国断代史研究中における最も生命力に富んだ領域となるであろう。