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1 麻しんの流行とハワイ島の火山噴火のニュースを見て 中村千里 ハワイ島のキラウェア火山から溶岩が住宅地に迫っているニュースはご存じの通り。こ の島の西部にコナ地区があり世界に名だたるコナコーヒーの生産地としてあまりにも有名 です。このコーヒーの由来は、1824 年にハワイ王国のカメハメハ二世とカママル王妃がイ ギリスを歴訪中、二人とも麻しんに罹患して帰らぬ人となり、二人の遺体を乗せた英国艦が ハワイに帰る途中でブラジルのリオ・デジャネイロに立ち寄った際に、同乗のオアフ島知事 ボギがコーヒーの木を持ち帰ったことによります。オアフ島での栽培は上手くいかなかっ たのですが、ある宣教師がハワイ島のコナに持ち込んだところコーヒーの木が瞬く間に成 ⾧し今日につながっているようです。 さて、麻しんは小児科医にとって日常遭遇する病気であると若かりしときは思っていま した。しかし、いつの間にかめったにお目にかかれない稀な感染症になってしまい実際に診 療した経験のない医者も増えていることに驚きました。そこで現時点での麻しんについて 過去から未来を簡単に纏めておこうと思います。 「はしか」の語源は「はしかい」(かゆい)に由来し、「麻疹」は中国由来の語で、発疹の 形や色が麻の実に似ていることによるようですが、江戸時代以前は「赤もがさ」と呼ばれて いたようで、当時恐れられていた天然痘「もがさ」を意識して名付けられたようです。 また、英語の rubeola はラテン語の rubeus つまり宝石の ruby からきているそうで、あの赤 い発疹が昔から目立っていたと推測されます。日本語と同じく英語にも二つの表記がある 理由は分かりませんが、measles の語源も masel の複数形 maseles とのことでドイツ語の Masern(瘢痕、しみ)と同じようです。 さて、麻しんはいつの時代から存在していたのか定かではありませんが、日本で確実視さ れている最初の流行は998年の藤原道⾧全盛時代にありました。その後江戸時代の13 回の流行を含めて38回の流行が記録に残っているとのことなので、昔から世間を騒がす 重大ニュースになっていたと想像されます。あの徳川綱吉も 1709 年享年64歳で亡くなり ましたが死因は今で言う成人麻しんでした。江戸末期の文久年(1862 年)には約23万人 が江戸だけで亡くなったとの記録もあるようです。このようにある意味で日常的な病気で あったと思われる麻しんは、「はしかみたいなもの」、「はしかに罹って一人前」、「7歳まで は神の子」、はしかは「命定め」等々昔から言われてきたものです。近代になってもワクチ ン開発以前は15歳までに90%の子どもが罹患するのではないかとの報告もあるようで す。では、ワクチンの開発はどのような経緯をとったのでしょうか? 1954 年に John Enders が Edmonston 少年より得た試料から組織培養を用いて麻疹ウイ ルスの分離に成功し、1963 年にワクチンが承認されました。当初は副作用の問題でKL,KKL など不活化ワクチンが併用されたり、異形麻疹の問題で高度弱毒生ワクチンへ移行したり 等の試行錯誤がありましたが、現在でも使用されている AIK-C ワクチンは北里研究所の牧 野慧先生命名によるもので、Enders の Edmonston 株が使われていることに驚かされます。

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麻しんの流行とハワイ島の火山噴火のニュースを見て 中村千里

ハワイ島のキラウェア火山から溶岩が住宅地に迫っているニュースはご存じの通り。こ

の島の西部にコナ地区があり世界に名だたるコナコーヒーの生産地としてあまりにも有名

です。このコーヒーの由来は、1824 年にハワイ王国のカメハメハ二世とカママル王妃がイ

ギリスを歴訪中、二人とも麻しんに罹患して帰らぬ人となり、二人の遺体を乗せた英国艦が

ハワイに帰る途中でブラジルのリオ・デジャネイロに立ち寄った際に、同乗のオアフ島知事

ボギがコーヒーの木を持ち帰ったことによります。オアフ島での栽培は上手くいかなかっ

たのですが、ある宣教師がハワイ島のコナに持ち込んだところコーヒーの木が瞬く間に成

⾧し今日につながっているようです。

さて、麻しんは小児科医にとって日常遭遇する病気であると若かりしときは思っていま

した。しかし、いつの間にかめったにお目にかかれない稀な感染症になってしまい実際に診

療した経験のない医者も増えていることに驚きました。そこで現時点での麻しんについて

過去から未来を簡単に纏めておこうと思います。

「はしか」の語源は「はしかい」(かゆい)に由来し、「麻疹」は中国由来の語で、発疹の

形や色が麻の実に似ていることによるようですが、江戸時代以前は「赤もがさ」と呼ばれて

いたようで、当時恐れられていた天然痘「もがさ」を意識して名付けられたようです。

また、英語の rubeola はラテン語の rubeus つまり宝石の ruby からきているそうで、あの赤

い発疹が昔から目立っていたと推測されます。日本語と同じく英語にも二つの表記がある

理由は分かりませんが、measles の語源も masel の複数形 maseles とのことでドイツ語の

Masern(瘢痕、しみ)と同じようです。

さて、麻しんはいつの時代から存在していたのか定かではありませんが、日本で確実視さ

れている最初の流行は998年の藤原道⾧全盛時代にありました。その後江戸時代の13

回の流行を含めて38回の流行が記録に残っているとのことなので、昔から世間を騒がす

重大ニュースになっていたと想像されます。あの徳川綱吉も 1709 年享年64歳で亡くなり

ましたが死因は今で言う成人麻しんでした。江戸末期の文久年(1862 年)には約23万人

が江戸だけで亡くなったとの記録もあるようです。このようにある意味で日常的な病気で

あったと思われる麻しんは、「はしかみたいなもの」、「はしかに罹って一人前」、「7歳まで

は神の子」、はしかは「命定め」等々昔から言われてきたものです。近代になってもワクチ

ン開発以前は15歳までに90%の子どもが罹患するのではないかとの報告もあるようで

す。では、ワクチンの開発はどのような経緯をとったのでしょうか?

1954 年に John Enders が Edmonston 少年より得た試料から組織培養を用いて麻疹ウイ

ルスの分離に成功し、1963 年にワクチンが承認されました。当初は副作用の問題で KL,KKL

など不活化ワクチンが併用されたり、異形麻疹の問題で高度弱毒生ワクチンへ移行したり

等の試行錯誤がありましたが、現在でも使用されている AIK-C ワクチンは北里研究所の牧

野慧先生命名によるもので、Enders の Edmonston 株が使われていることに驚かされます。

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日本での接種は KL 法で 1966 年から開始しましたが、異形麻疹問題で 1969 年高度弱毒生

ワクチンに切り替えられ、1978 年から定期接種に組み込まれました。この時代の麻疹を取

り巻く状況を下図(国立感染症研究所 2002 年報告書による)に示しておきます。

この2002年の報告書の冒頭には、「現在の我が国における麻疹患者数はかつてより著し

く減少しているものの、未だ年間約10-20万人と推計されている。小児にとって麻疹は重

症度の高い疾患であり、近年は成人での発症も問題となっていることから、その対策は国

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民全体の健康を守るという点でも重要である。」と記載されています。

以上のように麻しんとの戦いは持続的に行われており、ワクチン開発以前からも徐々に

麻しん患者数は減少していましたが、ワクチンの導入によってより一層患者数は少なくな

ったため国は接種率を上げることに傾注していました。しかし、目標の接種率95%にはほ

ど遠かったこともあり断続的な発生を防ぐことは出来ませんでした。2001年に推計27.8万

人の発生(約20名の死亡者数)があった日本に対し、当時アメリカを始めとする先進国で

はMMRワクチンを2回接種する方式になっており麻しんの発生数は、アメリカ合衆国100

人(2001年)、カナダ28人(1999年)、イギリス72人(2001年)と効果を上げていました。日

本小児科医会から「1歳のお誕生日には麻しんワクチンのプレゼントを」というキャンペ

ーンが全国展開された時でもあります。

その後、2~3年かけて患者数は減少し、2012年を麻しん排除の目標にしてようやく2006

年6月から日本でも麻しん風しん混合ワクチン(MRワクチン)による2回接種が開始され

ました。2006年には患者数も1万人を割っており、ワクチン2回接種の効果が非常に期待さ

れたときでもあります。そもそもWHOは地球上から根絶させる病気に、天然痘、麻し

ん、ポリオに的を絞っていました。麻しんウイルスの自然宿主は人間のみであり、亜型の

ない単一の血清型で8群24の遺伝子に分類されていることから、人間に対してワクチンを

効果的に使えば根絶可能であると考えられるからです。しかし、皮肉なことに2006年末か

ら茨城県や千葉県から全国に麻しんの流行が広がってしまいました。2007年4月から7月ま

でに厚生労働省に報告された麻しんによる休校数は全国で263校あり、特に、高校73校、

大学83校も休校になったことやワクチン不足に検査試薬不足で大きな社会問題になったの

が記憶に残ります。2001年の流行は小児が中心だったのと対照的に成人麻しんの比率が高

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くなりました。日本のリトルリーグの野球少年がアメリカで麻しんを発病して大騒ぎにな

り、カナダでも修学旅行生が発病したため一行が山のホテルに缶詰めにされたエピソード

等で「日本は麻しんの輸出国」であると非難されたものです。2007年の定点からの累積報

告数は4,010でしたので推定2.5−3.5万人の発生数と思われます。そこで、年末の12月に

「麻しんに関する特定感染症予防指針」が出され、従来は定点の報告からは推定数しか判

明しませんが、2008年からは全数報告が義務づけられ実数の把握ができるようになりまし

た。また、5年間の時限立法で中学1年生の第3期と高校3年生の第4期が設けられ、2回接種

をこの年代まで拡大しました。

このように、2008年全国の発生数は11,005人で、残念ながら神奈川県が最多の3,500名

を超えており平塚市でも100名程の発生がありましたが、以後は急激に減少しています。

2015年3月に日本はWHOから麻しん排除国の認定を受けており、「日本は麻しんの輸入

国」に変身したところであります。これほど患者数が減ると実際に麻しんを診察した経験

の無い小児科医や内科医、皮膚科医が増えてくるのもやむを得ないかもしれません。特に

近年は成人麻しんの比率が高く、それもワクチンの影響を受けた修飾麻しんが多いので充

分に留意して診断する必要がありそうです。2017年9月から2018年2月までにWHOに報告

された麻しんの報告順位は、1位インド(18、515名)、2位ウクライナ(6,184名)、3位ナ

イジェリア(3,157名)、以下、セルビア、パキスタン、インドネシア、ギリシア、フィ

リピン、中国、マレーシアと続くので実際の症例をお探しならお勧めです。

2018年3月に台湾から沖縄に輸入された麻しんの流行がマスコミを賑わしています。5月

2日現在までの患者報告数は102名ですから過去と比較してもまだ序の口にあたりますが、

今後の動向を注視していきたいと思います。そして、過去の教訓を生かしてワクチン不足

や検査試薬不足の混乱を起こさないように報道にも配慮をお願いしたいものです。本稿で

は麻しんの歴史の一端を紐解いてみましたが、再認識できたことを言えば「予防接種はこ

れ程までに感染症を減らすことが出来るのか!」に尽きます。この効能を広く世間に周知

してもらうことこそ報道の使命だと思うのは私だけでしょうか?

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全数報告後の麻しん発生数