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ショパン聞想即興曲をめく.って -フォンタナの軌跡一 国立音楽大学大学院研究年報第十一輯抜刷 平成11年3月31日発行

-フォンタナの軌跡一 井atwien.com/.../uploads/99Chopin_Fantasie-Impromptu.pdfFran@ois)Chopin(1810年3月1日ワルシャワ近郊Zelazowawola生(1)~1849年10 月17日パリ没)の親友であり、パリにおいて一時期ショパンの秘書として大きな役

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  • ショパン聞想即興曲をめく.って- フ ォ ン タ ナ の 軌 跡 一

    今 井 顕

    宰日 樂 研 究国立音楽大学大学院研究年報第十一輯抜刷

    平成11年3月31日発行

  • ショパン聞想即興曲をめく.って- フ ォ ン タ ナ の 軌 跡 一

    今 井 顕

    ●はじめにユリアン(ジュリアン)・フオンタナJulianFontana(1810年ワルシャワ生~

    1869年12月24日パリ没)はフレデリック・ショパンFryderykFranciszek(Fr6dgricFran@ois)Chopin(1810年3月1日ワルシャワ近郊Zelazowawola生(1)~1849年10月17日パリ没)の親友であり、パリにおいて一時期ショパンの秘書として大きな役割を果たした。フオンタナ自身にも音楽家としての素養があり、ピアニストまたピアノ教師として自活していた。ショパンと年齢も同じ、故郷も同じ、さらに通った学校も同じ、というフォンタナは、遠く祖国を離れているショパンにとって:、、他の人とは通じ合えない部分でも共通の話題を持てる、またとない存在であった。そのように多大な信頼をおかれていたフォンタナだが、ショパンの存命中は秘書

    として多くの写譜を作成したほか、ショパン没後に彼の遺稿をもとに未発表の作品を出版した。出版の際に底本として使用された資料は、必ずしもショパンが最終稿として完結させたものとは限らず、決定稿となる以前の段階の草稿にフォンタナが独自の校訂を追加して出版したものも含まれている。その中の「幻想即興曲」は1962年までフオンタナ版でしか知ることができなかっ

    たが、フオンタナもその存在を知らなかった最終稿が1960年に発見されて以来、今日ではその真の姿を享受できるようになり、ヘンレ版やウィーン原典版その他の原典版シリーズではショパン自身の手によって完成された最終稿が反映されるようになった。ショパンの、まだ最終稿ではない草稿(あるいはその筆写譜)を底本としてフオンタナが加筆校訂した楽譜と、その草稿以降にショパンが独自に創作作業を進展させた最終稿とを比較検討することによって、ショパンと音楽的にも密着した位置にいたフオンタナが、ショパンのスタイルをどれぐらい理解していたかをくみ取ることができよう。またそのことは、他のフオンタナ版の楽譜にどの程度の音楽的信頼を寄せられるかを推察するにも大きな助けとなるだろう。

    ●フォンタナの生涯フォンタナの正確な生年月日は不明である。その生涯に関しては残念ながら詳し

    い資料が見あたらない。フオンタナはワルシャワ大学で法律を、ワルシャワ音楽院でショパンの先生でも

    あるヨーゼフ・エルスナーJosefEIsnerのもとで音楽を学んだ。ショパンとの親

    - 9 一

  • 交はこの音楽院およびリセ(中高等学校)の時代に始まっている。しかし音楽はあくまでも副次的なもので、本業は法律家をめざしていたものと推測される。フオンタナは1830年にフランスで勃発した七月革命に影響されて起きたポーラン

    ド独立運動に穂極的に参加したため、この蜂起が1831年に鎮圧された後、ハンブルクに亡命せざるを得なくなった。1832年にはパリに赴き(21ピアノ教師を務めるかたわら演奏活動を開始する。1835年にパリで行った一連のコンサートは成功を修め、ヴイルトウオーゾピアニストとして評価された。1833年~37年にはフランスおよびイギリス両国でピアノ教師として活動している。1838年から41年の終わりにかけ、フオンタナとショパンの関係は非常に親密にな

    る。フオンタナはショパンの私設秘書として写譜や出版社との交渉、またショパンの住居や私生活に関するさまざまな手配を行った。フオンタナはショパンの作品約80曲の写譜を行っている。これらの厚意に対してショパンは、フオンタナに作品40の2つのポロネーズを献呈した。フォンタナのショパンに対する一連の助力が純粋に友人としての好意であったか、あるいは両人の間にビジネスとして金銭的な処理を行う取り交わしがあったかは不明である。1841年フオンタナはハヴァナに旅立ち、1851年までハヴァナおよびニューヨーク

    で暮らし、ヴァイオリニストのカミッロ.シヴォリ(3)とともにアメリカで演奏活動を行った。1852年には再度ヨーロッパに移住し、パリ郊外モンジュロンMontgeronに居を定め、同地でポーランド出身の詩人アダム・ミツキェヴイチAdgmMizkiewiczをはじめ、文壇に多くの知己を得た。この頃フォンタナは結婚し、生活のために音楽の道を断念せざるを得なくなった

    が、それと前後して突然聴覚が衰えてしまった。その上に妻が死亡するという不幸が重なり、貧困と孤独のうちにピストル自殺した。フォンタナは作曲もした。重要なものはピアノのための作品だが41歌曲(英語

    の歌詞によるポーランド民謡集)も存在する。著作には、ポーランドの正字法と民族天文学に関する研究論文各1編のほか、ポーランドの新聞に寄稿した歴史や政治に関する論説がある。

    ●フォンタナが出版した遺作の作品ショパンの没後、フォンタナはショパンの母親や姉妹の同意を得た上で、遺作と

    なって残された未発表作品の一部を校訂し、作品66~74の番号をつけて1855年と57年にベルリンのシュレジンガー社より出版した(51これらの作品を出版する理由としてフオンタナはその初版譜の序文で以下のような事を述べている(6lこの文中フオンタナは主語に「我々」と複数形を使用しているが、末尾の署名はフオンタナ単独である。以下の抄訳では文脈に沿って「我々」をフオンタナ個人を示す単数形鰍」とした。イタリック体(斜体)の部分は原本に準拠したものである。

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  • 近年複数の出版社が出版の権利も有さないまま素性の不明確な筆写譜よりFr・ショパンの残したいくつかの作品を出版した。彼[ショパン]の親族はこの法に反した行為を軽蔑したが、このような菰正な出版物が巨匠の着想を歪曲し、彼の遺産をけがすものであることを周知徹底しなければならない、と考えた。それゆえ作曲家が作成した手稿をもとに厳正な版を準備することが、親族にとって擢な義務であると信ずるに至った。フランスとベルギー以外すべての国々における版権を有するシュレジンガー社による本版がその答えである。ショパン家が居住していたワルシャワの音楽院において1830年までJ・

    エルスナーが教鞭を執っていた。この博識な作曲家のもとで、その頃すでにピアニストとして卓越していたショパンは対位法と作曲の講座すべてを履修した。私は彼の級友であるという幸せを得、それ以来彼の芸術的な影響下にいる喜びを満喫した。パリにおける長年の共同生活はわれら青年同志の友情をさらに固いものとし、芸術家[ショパン]の好意と信頼を得るもととなった。この証左として、彼が自作を出版する際に通常は私の協力を求め、彼がパリを離れているときには滞在地より私宛に手稿を送り、出版に伴う作業をしばしば私に全面的に委任した。私と親交のある彼の親族より、ショパンが残した音楽過産を収集して選集を制作する、という栄誉ある依頼を受けた。ショパンに最期の時が訪れたとき、彼がそれまでのように未出版の作品を私に託したかどうかまで私には判断できない。彼が亡くなる時、私はフランスから離れていたのである。それはどうあれ、私は彼自身から、本版に集められた/鵠のうち複数のものを蝋する意冠功yあったことを聞いている。しかし数曲は友人への贈り物として書かれたため、彼らへの思いやりからそれらの出版を蹄蹄していた。また彼の癖として、完成した作品を発表するまで長く手元に保管しているうちに、その時の気分や無頓着さから、そのまま書類鞄の中で忘れ去られてしまうものもあった。今日、作曲家の思い出の作品から利益を得ようとする山師の新たな挑戦を未然に防ぎ、また友人たちがショパンの名声を讃えるために彼の残した作品を複製して公開する際、その作品本来の特徴が歪められてしまわないようにするためには、これらの作品を[ショパンが創作したままの形で]出版することが避けられない事態となった。ショパンの友人たちの利欲と競争心がこのような結果を招くのである(*もこうした不愉快な状況の機先を制するためには、オリジナルの手稿にその原点を求めなければならない。それに加え私は本版にまとめられている作品のうち、ほとんどのものを作曲者の演奏で何回も耳にしているばかりか、私自身も作曲者同席の場で演奏したこともあり、その際の記憶に基づき、彼が創作したままの姿を提供

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  • する。このような状況は、すべてショパンの手によるものとはいえ2あるいは3種類の異稿から判断しなくてはならない場合や、しばしば遭遇する読解できない筆跡を解明する際、私にとって大きな助けとなった。[中略]本版には重い病の床に至りながらも継続された、彼の全生涯にわたる創

    作活動からの作品が集められている。大部分は彼の没後に親族が収集した書類の中に含まれていたものだが、友人の所有していたアルバムや、さまざまな時代に作曲家が私に贈呈してくれた作品も含まれている。この選集はショパンがその創作活動の中で育んだ、価値のないものはすべて放棄する、という考え方に沿っており、25年にわたる親交を通じて私に理解できるようになった彼の好みは、芸術家としての気まぐれも含めてすべて明確にされている。またこの偉大な芸術家のさまざまな場面での才能を研究したい人のために、重要な情報はそのままにしておくよう心がけた。近々彼の遺作選集の第2集(最終集)としてポーランド語の歌詞がつけ

    られた76のメロディーが出版される。(*)私は本版に含まれているうち数曲の、ショパンの熱狂者たちの手によっ

    てあわれなまでの状態に歪められてしまった筆写譜を目にしたことがある。そればかりか1854年にパリで催された公開コンサートにおいて、単に少しばかりショパンの作品を紹介する興味を満たさんが為に、無惨なまでに歪曲された演奏が行われたことにも触れておきたい。

    フオンタナがこれらの作品に与えた作品番号と作曲順に厳密な関連はない。たとえば本稿の中心「幻想即興曲」には66の作品番号が与えられているが、この作品は実は他の一連の即興曲(作品29,36および51)より先だって創作されたものである。このようにフォンタナによって避作作品へ与えられた作品番号は作曲年代に関す

    る誤解を招きやすいため、今日では単に「遺作opusposthum」として作品番号なしで出版される形態が主流になっている。どの作品がフオンタナの手によって出版されたかに関しては【資料l】の一覧表を参照されたい。

    ●フォンタナの信頼度フォンタナがショパンの秘瞥としてさまざまな雑用をこなしていたことは前述の

    通りである。ショパンの作品の写譜や出版社とのさまざまな交渉に関して、ショパンはフオンタナに全幅の信頼を寄せていた。ショパンが滞在地からフオンタナに宛てて書いた複数の書簡から明確に読み取れるように、出版社との交渉において一契約金額については細かく指示しているものの-ほぼ全権を委任している。写譜の作業は事務的で不毛な手作業であり、ショパンもその事は承知していた

    が71音楽的素養なくしては遂行不可能なことも事実である。1839年8月8日にショパンがノアンから出した手紙の中で、フオンタナがショパンの指示なく前奏曲集

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  • (作品28)の出版譜の校正を行ったことに関しても

    [前略]プレイエルが手紙で君はとてもよく人の世話をするし、《プレリュード集》の校正をしてくれたと言ってきました。[後略]

    と快く容認している(8{また1841年6月初めに同じくノアンから出された手紙でショパンはフォンタナに《タランテラ》の写譜を依頼しているが、その際に拍子の設定と、それに沿った書き換えを行うよう指示している。すなわち

    [前略]《タランテラ》を送ります。お手数でも全部写し取って下さい。しかし、まずシュレジンガーへ行って-トルーペナの方がよいかも知れぬ-彼のところの《タランテラ》(イ長調の)のはいっているロッシーニの歌曲集を見てきて下さい。タランテラは八分の六拍子か八分の十二か、ぼくは知らないのです。どちらに書いてもいいのだが、ロッシーニと同じがいいと思う。だから、もし八分の十二で書かれていたら-あるいはたぶん普通は三連音符だが--、写すときに二小節を一小節にして書いて下さい。わかったか、わからないかね、君、こんなぐあいだ。(譜例)それからもう一つ。繰返しのしるしをつけないで全体をそのまま写して下さい。[後略]

    というものである(9%ショパンは音楽活動以外のアパート捜しや家賃の交渉、内装の指示その他もしば

    しばフォンタナに依頼しており、ショパンがフオンタナの資質の中に忠実な秘書としての価値を見いだしていたことは確実である。しかしショパンはフオンタナの音楽性にどこまでの信頼をおいていたのだろうか。上述の書簡、とりわけ《タランテラ》に関する指示からも、ショパンは自作の作品の記譜に関してはフオンタナにある程度まかせていたことがうかがえる。だが印刷楽譜の校正はショパンの筆跡を印刷楽譜上で忠実に再現するために必要な作業だし、《タランテラ》に関する作業も、記譜上のリズム書式を変更したところで、それによって楽曲そのもののテンポや内容が変化するものではない。フオンタナはショパン没後に未発表作品を出版する際、自分の考えでショパンの

    音楽内容に深くかかわる表現記号などを、加筆校訂していった。フオンタナには長年にわたるショパンとの親交という事実と、その写譜をまかされてきた、という経験および自負心から、校訂の際「ショパンならこうするだろう」「ショパンはこのような指示も、私の手によるものならば許してくれるに違いない」という心情をもたなかったとは-フオンタナもごく普通の人間である以上一思い難い。

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  • 初版への序文からもうかがえるように、ショパンの作品に手を加えるに当たってフオンタナにショパンを凌駕しようとする野心(ショパンの作品の細部をさらに改善しようと試みる、などの行為)があったとは考えられないし、出版の際に使用する底本がまだ不完全な草稿のような場合には、それに手を加えることが避けられないケースもあったと思われるが、フオンタナ自身の音楽的資質とは実際どの程度のものだったのだろうか。当時パリに住み、ショパンとも親交のあったアダム・ミツキエヴィチの義理の兄弟のテオフィル・レナルトヴィチの証言によると

    フオンタナは彼が遺作として公刊したショパンの作品を演奏しました。アダムはサロンの手前のドアのところでそれを聴いていました。でも彼にしてみればとても満足のできるような演奏ではありません。音符が強く叩かれる度に、苛立ちを覚えてしまうのです。ところがマルスリーヌ(チヤルトルイスカ)が彼の請いを容れてピアノに向かうと、聴衆はまったく違った印象を受けたのです[後略]

    というように、距離が近かった割にはショパンの特質を充分に吸収していたとは思えないのである皿フオンタナがショパンの没後出版した作品に、どの程度フォンタナによる校訂が

    行われたかを解明するのは容易ではない。しかし作品67の4のマズルカ、作品69の1,作品69の2および作品70の3のワルツはパデレフスキー版でもフオンタナの手によるものと、ショパンのオリジナルの楽譜双方が印刷されており、その差を比較することができる。

    とりわけ「幻想即興曲」においては以下に説明する事情から、フオンタナの音楽性を考察し、彼の手によって校訂されたショパンの作品がどの程度その真の姿を伝えているか、あるいは歪曲されてしまっているかを考察できる。

    ●閃想即興曲作曲と出版の経緯ショパンのレパートリーの中でもとりわけ人気が高く、公開の場でも演奏される

    機会の多い通称「幻想即興曲」は、ショパンの存命中には出版されなかった。「幻想即興曲」という名称はショパン自身の考えではなく、フオンタナが出版の際につけたものである。ショパンはこの作品に特定の名称を与えておらず、作品冒頭にテンポ指示の形でAll。[Allegro]agitatoとしか記入されていない。この作品の決定稿には「パリ、金曜日、1835年」という日付がショパンの手によっ

    て書かれている。したがってこの作品はショパン自身の意思によって出版された他の3曲の即興曲(作品29:1837年頃、作品36:1839年、作品51:1842年)よりも先行して創作されたものとなる。

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  • なぜショパンがこの作品を出版しなかったかに関しては諸説が存在する。アーサー・ヘドリーは、1834年に出版されたイグナツ・モシェレス(11)の即興曲との類似性に気がついた結果、モシェレスを模倣した、と誹誇されるのを回避するため出版を断念したのだろう、と推測している('2↓該当するモシェレスの即興曲の旋律は以下のものである。

    Vivace

    この作品の最終稿を入手したアルトゥール・ルービンステインArturRubinsteinの説は「ショパンはこの作品をデステ男爵夫人に献呈した形になっているが、本質は売却したと同然であり、したがってショパンはこの作品の出版をあきらめる以外になかった」というものである('3Lフオンタナがショパンの遺作を出版する際に使用したのはこの「1835年」の記載

    がある決定稿ではなく、それ以前の段階の草稿であったと推測される。この草稿自体は紛失されてしまったが、われわれはその草稿をもとに作成された筆写譜を見ることができる。そのひとつはショパンの友人で優秀なチェリストであったオーギュスト・フランショムAugusteFranchommeによって作成されたもの、そしてもうひとつはフェルナン・デ.コトバ(コスバ?)FernanddeCotba(Cosba?)伯爵によって作成されたものだが、ここにはスラーなどの指示や強弱記号がまだほとんど記載されておらず、この草稿が最終稿でないことは一見して明白である。フォンタナが手にしたものが、フランショムやコトバが写譜の際に使用したショパンの手稿と同一のものかどうかは不明だが、いずれにせよこの時点での草稿にフオンタナは自分自身の判断で‘‘ショパン風'の演奏指示を記入していった。

    ●フォンタナ版の問題点フオンタナによって加筆された"ショパン風'演奏指示の多くは行き過ぎであっ

    たり、また作品の風味をそこないかねない危険をはらんだものだが、1855年の初版刊行以来、世の音楽家たちはそれを使用する以外に選択肢がないまま時間が過ぎてしまった。しかし1960年にショパンの友人フランシヨムの曾孫にあたるフイリップ・クテュリエ夫人MadamePhillipeCouturierよりこの作品の最終稿と推察される手稿がパリにおけるオークション(10に提出され、それを同年6月10日ルービンステ

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  • インが入手し、これをもとにしたルービンステイン版を出版するに至って、状況は大きく変化したのである。ルービンステインはこの手稿を一般に公開し、現在"原典版"として出版されている楽譜はこの最終稿に基づいて編集され、それまでの「フォンタナ仕様の幻想即興曲」はショパンの真正「即興曲・遺作」として生まれ変わったのである。このように作品本来の姿が明らかになったにもかかわらず、そのことに関する情

    報がいまひとつ音楽界に浸透していないように見受けられる。またようやくオリジナルの形となった作品をまのあたりにしながらも今までの慣習を捨てきれず、フオンタナの編集による不完全なものを演奏すべ

  • <1~3小節>フオンタナが冒頭左手のGIS-GISのオクターブをなかば孤立させ、作品の流れは3小節から開始されるように受けとめられる指示を行っているのに対し、ショパンは2~3小節のスラーによって流れを連結している。

    <5~12小節>ショパンの最終稿にある強弱指示の方がフオンタナの校訂したものよりきめ細かになっている。「agitato」の指示は「急いで」と解釈するよりは、息を短く、フレーズを短めのタイミングにまとめることによって表現されるべきだろう。小節ごとに反復されるショパンのクレシェンドは、正にその息づかいを表している。フオンタナによる指示は、もともとのテンポを速く設定した、という基本に適うよう、フレーズをショパンより大きめにまとめ、その中であたかもつむじ風が渦巻くかのような強弱が指示されている。これがagitatoの意味するところかどうかに関しては意見が分かれるところである。5~6小節において、当初ショパンの草稿にあった強弱記号が最終稿にて変更されている点が興味深い。

  • また24小節におけるバス音の進行H-HISはフオンタナが独自に変更したものであり、オリジナルでは草稿、最終稿ともHIS-HISとなっている。

    <29~32小節>ショパンのフレーズの方が息が圧倒的に長い。フオンタナの書法では歌い方におおらかさが失われてしまう。

    <35~36小節>ショパンの最終稿では左手に多くの工夫と変更が施され、より成熟した音楽となっている。

    <37~41小節>フオンタナとショパンにおけるスラーの差に留意されたい。フォンタナは短いスラーを多用しているもののペダルの指示も加筆しており、実際の演奏としてはショパンの最終稿をもとにした場合とそれほどの差は生じないだろう。しかし楽譜からの視覚的印象が演奏者の心理、ひいては演奏に及ぼす影靭には、決して侮れないものがある。また37~39小節では左手の音が最終稿において変更されているばかりでなく、フレージングにも両者の差が見受けられる。なお40小節右手の最初四つの十六分音符はショパンの最終稿ではdis-cis-a-Aと解釈できるのだが、これはショパンの不明確な記譜に原因があり、バス音に対応したdis-cis-gis-GISが正しい01

  • た演奏の方がより長い息の流れとなる。45小節左手にある複旋律はフオンタナによるものだが、よりシンプルですっきりしているショパンの最終稿と比較しても、思ったほどの芸術的メリットはなさそうである。

    <48~50小節>右手の主旋律の扱いは、ショパンの方がより繊細である。また49小節にある装飾音の書法も、ショパンが草稿より最終稿の形に変更したものの方(三十二分音符のかわりに八分音符を使用する)がよりおおらかな流れを想定しやすい。バスラインはショパンの方がシンプルでわかりやすい。

    <51~58小節>所見とコメントは43小節以降のものに関する記述内容と同じである。

    <57~60小節>フオンタナ版では59小節で突然表情が変わり、音量も増加しながら60小節のfへ導かれていく。それに反してショパンの最終稿では57小節がpp,そしてpocoritenutoによって少々流れが静められた後も(atempoはあるものの)sottovoceで密やかに歌い続けられる。59小節後半のメロディーにつけられたフレージングも、この場所に繊細な表情を望んだショパンの心情を反映している。60小節の/が始まる位置も、ショパンの最終稿では微調整されている。

    <60~74小節>60小節にある/を起点として、その後の旋律は大らかに歌われるのであって、中間部冒頭の単なる反復にすべきではないと考えられる。ショパンの最終稿63小節に何も強弱記号がなく、60小節に対応する72小節にも/が書かれていないのがその理由である。69小節にある装飾音を八分音符に変更して表示している点も、大らかな流れの音楽に反するものではない。62小節にある突然のppはフオンタナの好むところだが、ショパンの最終稿には見受けられない。

    <71~82小節>所見とコメントは59~70小節に関する記述内容と同じである。

    <83小節>フオンタナは再現部の冒頭となる83小節にPrestoの単語を加筆したが、不可解である。83~118小節の部分はどの底本でも省略されており、最終稿には該当部分にショパンの筆跡によってDalSegnoalpinlentoepoiと書かれている。よって

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  • 当初Allegroagitatoだったものが再現部でPrestoとなるのは不自然なのだが、フォンタナは再現部のテンポを冒頭より速くすべきだと考えていたのだろうか?

    <コーダ>フオンタナが知る由もないが、ショパンは最終稿において左手の音型を大幅に変更し、それまでの流れをそのまま継承したコーダを構成している。そのように演奏すると、フオンタナ版では多かれ少なかれ避けられなかった一種の「騒がしさ」が感じられなくなる。強弱やスラーを比較しても、シンプルなショパンの最終稿に対してフオンタナ版では煩わしさが先行してしまう。フオンタナ版は全般に目先の効果にとらわれすぎる傾向が見受けられ、随所にある/とpの交代などはその典型的な例である。

    ●おわりにフオンタナの業績は大きく、現代に生き、ショパンの音楽を心から愛する者から

    感謝を捧げるに価する人物である。しかしフオンタナはあくまでフオンタナでしかなく、ショパンとの質的な差は歴然としており、フオンタナの手による指示を盲信することは避けなければならない。もっともショパンの天性に匹敵するだけの才能をフオンタナに求める方が酷というものだろう。作曲家は五線譜に音符ばかりではなく、演奏に関するさまざまな指示も記入して

    いく。曲想が変化し、少し落ちつくべきところにmenomossoと書くかpialentoを記入するか、あるいはsostenuto"tranquillo程度の言葉でよしとするかは、作曲家の直感と感性に委ねられている。作曲家が求める音楽の表情を演奏家に過不足なく的確に伝達できる楽譜を作成する作業においても、習熟や経験から身についた知恵を越えた能力の優劣が存在する。一種の研ぎ澄まされたバランス感覚と言えるものだろう。楽譜として完成したグラフィック画面が使用者に伝える第一印象には、想像以上の作用があり、詳細に書き入れれば書き入れるほど良い、というものではない。作曲家が楽譜に記入する演奏指示の裏には、単なる目先の効果や、その場限りの

    おもしろさの追求を越えた心情がこめられている場合が少なくない。作曲家の心の流れは、意図的に計算されて書き込まれたものよりも、無意識のうちに書かれた指示などから汲みとれることが多いようだ。演奏家はこれらを素直に、真筆に受けとめ、これらを自分の都合や趣味に合わせて安易に変更してしまわないよう、作品に常に謙虚に対時しなければいけない。また出版社も同様で、編集、編纂、あるいは校訂という名目のもとに作曲家の筆跡を安易に翻訳せず、可能な限りそのままの形で印刷された楽譜の発行をさらに促進してほしいものである。「幻想即興曲」の例からわかるように、あれほどショパンの近くで、ショパンの

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  • 好みや心の動きを誰よりも深く察知できる立場にいたフオンタナでさえ、ショパンの音楽的真意を汲みきれなかった。ましてや、没してすでに永い巨匠たちの楽譜に手を入れる行為には、まかり間違えば「冒涜」になりかねない危険がともなうことを肝に銘ずるべきである。「幻想即興曲」においてフオンタナの音楽的傾向に多少なりとも触れられたことが、彼が出版した他の遺作作品の演奏と解釈の助けになれば幸いである。なおフオンタナが校訂して出版した作品すべてに、幻想即興曲で見受けられるように大規模な加筆が行われているわけではなく、ショパンの手稿通りに再現されている作品もそのなかに多数含まれているもの、と信じたい。

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  • ● 註(1)ショパンの遺作の作品集初版にフオンタナが執筆した序文には「ほとんどの伝

    記に誤って記載されているが、ショパンは1810年ではなく、1809年3月1日に生まれた」とわざわざ脚注の形で明記されている。

    (2)RiemannsMusikLexikon(Mainz,B.Schott'sS6hne,1961/1972)およびB.Scharlitt,diOpj"sgesammelteB7jg/b(Leipzig,Breitkopf&Hgrtel,1911)にはロンドンに行ったと記述されている。

    (3)ErnestoCamilloSivori、1815年10月25日ジエノヴア生~1894年2月19日ジエノヴァ没。イタリアのヴァイオリニスト、作曲家。パガニーニ以後最も刺激的な19世紀のヴァイオリンの巨匠。パガニーニにも師事したことがあり、1841年~42年には18ヶ月間、ヨーロッパ全土におよぶ演奏旅行を行い、1846年~50年にはアメリカでも活動した。

    (4)<葬送行進曲Marchefungbre,op.1>、<夢想Reverie,op.2>、、<キューバの島の思い出Souvenirsdel'rledeKuba,op.12>と名づけられた2つの幻想曲など。

    (5)1857年に出版されたのは作品74の歌曲集だが、オリジナルであるポーランド語の歌詞のものである。これをドイツ語に訳したものは1859年に発行された。これらの初版譜には16曲の歌曲しか含まれておらず、17曲目(作品74の17)は1872年に出版された改訂版において追加されたもので、フォンタナとは関係がない。

    (6)文章の体裁から序文と推測されるが、手元の資料では確定できない。ドイツ初版ではドイツ語とフランス語の併記、フランス初版(パリのJ.Meissonnierfils社、1856)ではフランス語のみで印刷されている。双方とも署名は「Paris,Mai1855.JULESFONTANA」となっている。

    (7)1841年6月はじめにノアンにいるショパンからフオンタナに宛てた手紙や、1841年10月18日に同じくノアンからの手紙などの文面からうかがい知ることができる。

    (8)アーサー・ヘドレイ編「ショパンの手紙」小松雄一郎訳(白水社、1965)253頁。

    (9)前掲書、273~274頁。(10)ジャン=ジャック・エーゲルディンゲル『弟子から見たショパンーそのピア

    ノ教育法と演奏美学」米谷治郎・中島弘二訳(音楽之友社、1983)215頁。(11)IgnazMoscheles(1794年5月30日プラハ生~1870年3月10日ライプツイヒ没)

    ピアニスト、ピアノ教師、作曲家。リストによって完成された近代ピアノ奏法の父であり、19世紀のもっともすぐれたピアニストのひとり。作品には8曲のピアノ協奏曲および多くの練習曲があり、シントラーの「ベートーヴェン伝」を英訳した。

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  • (12)ArthurHedley,CノiOpi"(London,J.M.Dent&SonsLtd,1966)155-156頁。

    (13)ショパン『即興曲集j(音楽之友社発行、ウィーン原典版、1973「はじめに」11頁。

    (14)このオークションはパリのH6telDrouotで行われた。(15)編纂者イグナチ・ヤン・パデレフスキーIgnacyJanPaderewskiは1860年11

    月18日にクリルフカ(ポーランド)で生まれ、1941年6月29日にニューヨークで没した。

    (16)詳細はウィーン原典版「即興曲集」注解を参照。(17)conanimaをpil]ammato、つまり「テンポを速めに」あるいは「元気良

  • ●参考文献・BernardSCHARLITT,Fy・iedricb"Qpi7zsgesammelteBFja/b,(Leipzig,Breitkopf&Hgrtel,1911),305p・HenrykOPIENSKI,"Opi"'sletters,translatedbyE.L.Voynich,(NewYork,AlfredA.Knopf,1931),x,420p・KrystynaKOBYLANSKA,F》・§d@ric"opi",t/ie"z(ztiscb-6jogrqp/iischesWを7・huerzeic/mis,(Miinchen,G.HenleVerlag,1977),xii,362p

    ・BronislawEdwardSYDOW,SeJectedCb7TeSpo"ぬ〃ceqfF"deriyh"Op加,translatedandeditedwithadditionalMaterialandacommentarybyArthurHedley,(London,WilliamHeinemamLtd,1962),xxx,400p・ArthurHEDLEY,"Opj",(London,J.M.Dent&SonsLtd,1966),vii i ,214p・アーサー・ヘドレイ編『ショパンの手紙」小松雄一郎訳(白水社、1965)538,7頁

    ・フレデリック・ニークス『フレデリック・ショパン-人および音楽家としてのj田部節訳、小山郁之進監修(全音楽譜出版社、1966)374頁

    ・アーサー・ヘドリー『フレデリツク・ショパン」野村光一訳(音楽之友社、1983)291,15頁

    ・ジャン=ジャック・エーゲルディンケル『弟子から見たショパンーそのピアノ教育法と演奏美学」米谷治郎・中島弘二訳(音楽之友社、1983)378,27頁

    ●参考楽譜・手稿、A"。αgitato,composdpourM里旦laBaronned'EsteparFFChopinの書き込みが第1ページ上部にある。楽譜は2ページ。ArturRubinstein所蔵。ヘンレ社の資料4525/2814の複製

    ・筆写譜、ImpromptudeChopinというタイトルが最初のページに上部に書かれている、AugusteFranchommeによる。楽譜は5ページ。ヘンレ社の資料4332/2627および4503/2793の複製

    ・筆写譜、A"eg7、oqgitato,FernanddeCotba伯爵による。楽譜は4ページに空白のページ1ページ。この空白ページには左上にMueMarieLichtensteinenlapriantd'enfaireusagep.Elleseule(?)、右下にManuscritdeFr.Chopin/Berlinle5.Juilletl839の書き込みがある。東ドイツペータース社より提供

    ・ドイツ初版譜、⑱UVRESPOSTHUMES/POURLE/PIANO/DE/FRm.CHOPIN/PUBLIESSURMANUSCRITSORIGINAUXAVECAUTORISATION/DESAFAMILLE,/PARJULESFONTANA/[中略]/BERLIN,CHEZAD.MT.SCHLESINGER,34LINDEN、プレート番号S.4392、

    - 2 4 -

  • ヘンレ社の資料1545/1563の複製フランス初版譜、田UVRES/POSTHUMES/POUR/PIANO/DE/FRm.CHOPIN/PUBLIESSURMANUSCRITSORIGINAUXAVECAUTORISATION/DESAFAMILLE/PARJULESFONTANA/[中略]/Paris,J.MEISSONNERFILS,6diteur-commissionnaire,18,rueDauphine.、プレート番号J.M.3523、ヘンレ社の資料2768/1451の複製Chopin,Impmmptus,editedbyJanEkier(Wien,WienerUrtextEdition,UT50058,1977)Chopin,Impr・omptus/i"・KI(zuiel・,Urtextausgabe,herausgegebenvonAkiraImai(Leipzig,EditionPetersNr.9901,1986)

    - 2 5 -

  • 【資料1】フォンタナが出版した遺作作品一覧(註)創作時期が複数提示されている作品は、それに関して諸説が存在するもの。

    作品74の17に関しては本文の註(5)を参照されたい。作品番号一

    6667

    名 称幻想即興曲4つのマズルカ

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    1855/57-

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    1833/1835/18361840/1841/1842/1843

    1829/18301817/1825/1827

    不明1828/18291827

    1827/18291826/18301826/18301826/1830

    1828182918381831183018291830

    1830/1831184118471830184518371845183618311831(1835)

    1855/571855/571855/571855/571855/571855/571855/571855/571855/571855/571855/571855/57

    7013つのワルツ

    7113つのポロネーズ

    72の172の272の3

    ノクターン葬送行進曲3つのエコセーズ

    G|畦ロンド歌曲「のぞみ」歌曲「春」歌曲「濁れる川」歌曲「あそび」歌曲「どこであいましょう」歌曲「私の見えぬところに」

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    1855/57-

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    g|舵一ClA-flD歌曲「使者」歌曲「かわいい若者」 〔Ule歌曲「メロディ」歌曲「闘士」 恥一.一壁a|且ClFl㈲

    歌曲「二人の死」歌曲「私のいとしい人」歌曲「愁い」歌曲「指輪」歌曲「花婿」歌曲「リトワニアの歌」(歌曲「枯葉よ」)註5

    74の15-

    74の16(74の17)

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