Title 土木の變前後 : 經濟問題を中心として見た明蒙交渉
Author(s) 萩原, 淳平
Citation 東洋史研究 (1951), 11(3): 193-212
Issue Date 1951-10-20
URL https://doi.org/10.14989/138931
Right
Type Journal Article
Textversion publisher
Kyoto University
193
一
史1拍丸卑見
第十
一番第三耽
昭和甘六年十月敬行
土
木
の
奨
前後
・=経済問題を中心として鬼瀬明菜交渉
1-
萩
原
淳
平
まえがき
1'北方遊牧地帝におけるオイラート部族
エバオイラートの明に封する経済的要求
三'明朝とオイラートの外交政策と土木
の襲
むナび
ま
え
が
き
.ヽ
Hh
土木の輿と5えば明朝にとつては洪武
・永楽の創菜時代を経過してヽまさに安定と繁柴の時期ともSえる中期
に入ったころ起った事件である。この事件で中開皇帝が北族に捕虜となつ喪ことは'明朝
1代を通じてもまた中
国と北方アジア民族との交渉史上においても、まさに特筆すべきことであ.つた.
194
正統十四年七月
二
四EI九)、
エセン
(地先)の侵入収始まをこの事愛は'′直接的にはキンゴル巌と明朝との
交渉史の一環をなすものであるが'昔時eL北方地帯は統
1勢力の形勢過程にあうたため1北方白捜す.でに諸勢力
の政治的に封立があつで複雑な様相を不してSた.この事轡に関するかぎ-におSても'肝
・オイラート(瓦刺)
・モンゴル
(縫鞄)の三者と'その間の政治
・軍事
・経済な
どあらゆる面の分析が行われなければ'問題は理解
しがたいであろう。しかし北言
鰻に関しては,すでに和田清博士め雷
&
あ-,君
明要
渉に関して畠
6
杵憲
博士の論i&
要
されて5るので、美
で
は
時代監
統前後
(十毒
零
墨
に賢
し、硯警
経済問
題におきながら土木の鍵を理解し、併せて農耕民族との交渉にあらわれた遊牧民族の性格の1端を考察して見た
Sと思う。
①
和田清
「光良瞭三衛に賄する研究」
(滴鮮地理歴史研究報食草十二・十三)
.「明代
の蒙古」
(東亜史論叢)等
②
田村算法
「明と蒙古との鰯係についての1両叔」
(史拳雑誌五十二ノこ
'二)
2--
・t'北方遊牧地帝におけるオイラート
さて順序として土木の愛の中心人物であるエセン計出したオイラート部族について簡単にふれてみようQオイ
ラー豪
の悪
意
に関しては,すでにウラヂミルツオフの研艶
あるOこれによればオイ
ラー姦
算
代にはヤ
叶わゆる四トウメン
(四万戸)のオイラー4人とし雪
他の哀古部族とは
一鷹別個の待遇を受けていたOしたが
って元6.の崩壊にあたつては濁立して覇をとなえるのに有利な立場にあった。また経済的地理的にも嵩まれてS・
たため'元朝崩壊後モンゴル諸部族tと-に元朝の後衛に封抗しっつ.北方地帯統
1着となる催件をも具えてい.
195
た.このオイラート部から明初以束'マアムード
(馬喰木)およびその手トカy
(瞭歓)が出るとt、かれLdは漸
,I
-猟盛となってきたO中でもトカンは'宜徳の末には多年の競争相手である耗担
(モンゴル本族)の和寧王アfL
タイ
(阿魯台
)J
をたおし'由続のはじめにはその飴類のアタイ
(阿台)ノル'・・h.ベ
(粛兄只伯)らまで併呑したO
なおこれと前後してオイラ」ト部内の安寧者である賢竜王
・安楽王の両者をもたおし'その部を吸収して敢力的
統
tにも成功した.
I
さてトカγを受けつSだのがエセンでかるが,この父子の奇
y
ゴりア統
1あ努力に射し二つの障賓があったO・
∵つはかれらがやンゴル本族のような背景をもってSなSことであや'他推その経済的基盤がまだ貧鯵であっ夜
ことである。前者は中ソゴル仝部族の内に培われ夜Sわゆるチンギスカーンの
「黄金の氏族」に封する尊崇の念
で'この観念は挨-ことのできない根強さがあった.たとえばトカンがア中身イの部衆をことごとく収め.さら
に賢義安楽二王の衆を乗併して自らカーンになろうとした時'入.々はこれをうけ入れなかった.そこでかれはや
むをえす元朝の後衛であるモンゴル部長・Lトブ八八挽々不花)を立てて了やタイの衆を統率せ.Jめ'自らは障忍
②
自重しなければならなかった.
この様な関係はトカンの子のエセンの時代になってもつ.q'けられた.H・セy餅ト
カンの後をつSだころは'オイラートの勢力岐ある程度強固なものになっ
ては5たが'北方諸潮族を統
一して5
-にはまだ軍事的にも酸拾的にも勢力を強化する必要があっ尭Oそれゆえエセγも
「黄金の氏族」に出自するト
トブ
ハ敬カーンとして推戴してい-方針をとった。こ
の目的のためにエセγの姉がトトブハの妻となるとSう婚
姻政策もとられた。したがって資質的にはともか-'表面上では常に両者は頼提携してSた.賢錬狩Jjれば'両
者は舞えず行骨共にして潜S?明朝にとって按トトブ八はオイラート・カーンとして記されてSる。このように明
人にとつてはトトブ八とエセンとは
]身同鰻であるかのように考えられてSるが、賢は両者の陶係は、をれほど
-.."-8-
196
園満ではなかったようである.玉顔の言にトトブ
ハは奇策多しとあるように'・決して凡庸の君主ではなかったら
し
い。それゆえかれはエセンのかSらSカーンとしては満足せず'工.セソの専横を快Lとむし革がったのである。
むもろ元朝の後衛たること窒
息鼓して羊や心
を倒す横合をたえずねらってSたと考えられる。
.
このようなかれらの自尊心は廟鮮に封するかれの勅書に
「太組成青息皇皇八方を統厳し'粗砕締皇帝
(華租)
即位の時には天下は命打順はなSものはなかつ衆。・・・-今われ租宗の蓮をう叶て即位し己に十年・・・・・・」(李朝賢錬)
とみえてSることからもうかがわれよう。しかし常時のト}ブ
ハはその軍事的政治的勢力はエセンに及ばなかつ
夜ので心ならずも名目上のカーンに甘んじなければならなかったようである。ところが正統十
一年ころからオィ
ラ
ートの勢力が束方へ携大Lt三衛および満洲
・女虞方面にまで侵入するに海よんで了
トブ
八はこの横に乗じ-
白己の勢力を束方に確宜しはじめた。すなわち十三年ごろには'もと.の和寧王アpタイの根接地である今
のウジ
ェムチン・フ
ル雲
イル方面から少ぐi)もダヤン衛方面にもJ・什ブ
ハの勢力はしだいに大きくなりつつあっ鷲
さ
らに三衛女賞方面に関しては明賢録に連子
・達賊などとよぼれる勢力が大き-なってSるが'土木の襲常時遼
東方面に侵入したトトブ
ハの軍隊を賢録で嬢達賊とよんでゐることから考えれば、この方面の勢力関係も自ら明
瞭となる。この政治的軍事的背景をえ夜トトブ
八は、嘗然
エセンとの間に勤立関係を不しはじめか。エヤンの南
⑨
倭計量にしばしば反封したの庭
サトブ
ハであるが、かれは単に明に封して軟論を主張する代表者で遜ったばか-
でな-'進んで明と通じあるSは明の助けをえてエセンを倒しモンゴルの回復を計ろうと意固したものではなか
ったか。土木の襲前後の土センとトトブ
ハの関係は'∴香春録によれば
「外寮み内忌む」とSう状態で内面的率が
村営烈しかったらし.S。わずか二三年後の景泰二年には太子er擁立間超に端を硬して両者の間の紛李が'
1時は
トサブ
ハの優勢をさえ思わしめながらもけつきよく
エセγの勝利に経った.・このようにしておよそ十軌間の野方
一・4′_-
197
が報Sられてエセンの衰
カは遮舵トトブ
ハの占有する俸続的権威にうち勝って'エセ
γは大元田盛可汗として各
賞共に北方地帯の統
一者とな-えたのであった。
以上にょつてエセンの金モンゴサ、アの統
1に封してチンギス・カーンの子孫のもつ俸銃的権威がいかに大きな
障樽をなし女か、を述べたO攻に北方アジア統
1に封する他の弱鮎、すなわち経済的基礎の費錫性と5う今
1つ甲
問題につSて考えてみたS。Ljの経済的映格は、もちろん
エL4Jンの北方地帯統
一に封する軍事的政治的行動と層
.
按な関係を有してSるので.ある鮎では政治的軍事的行動と経済的要求とが相関々係をもちながらエセンの行動
るが、土木の撃もけつきよ-この経済的交渉の破綻から生じたと考えられる。し允がってエセγの行動も軍事的
政給的な面と関聯せしめつつ主として経済的面から考察してゆきたい.,
で
明史瓦刺侍によれば'正統四年にトカンが死んでエセソが大師推王の億をつSだ時に北部は皆服属
した
とあ
る。この北部の範囲がどこまでであったかは明らかでなSが、だ5たSアルタイ山附近か'
ハン女イ山南方であ
ろう。とにか-
エセンが第
一に鋒先を向けたのはハミ
(吟萄)である.I(・ミはかつて明の成組が息傾王を封じて
④
西域の要道をかため諸藩を統領せしめ允事があるばか-で忽上
古爽東西交通要路上の婁要地鮎である。とくに
遊牧民族にとって捻、その経済的基礎の1つは隊商貿易の形を取った商業資本によって申開と西方諸閲との間の
主な貿易を猪占するか'または他民族女とへば回々人らの商業貿易を保護すること虹よってうる利得に依存する
ことも多かつ夜。したがって交通路すなわち隊商路上の重要地鮎の確保は1興隆と繁梁を求める者
にせっては必
要か-べからざるも.のせあっ允Oこの経済地理的意味と'また一つにはオイラートの本地から近い鮎からも
ハ1、
の確保はオイーラ十トに<とって第
1に着手すべき政策でもあ
っMoで、、確保の企圏はオイラー下にあつても'ずで
′.
198
にエセン以前に早くもあらわれてお少、トカ
γの席代にも武力による攻撃を行った少'あるいは結婚政策で懐柔
⑧
をはかったshしてSる。
エセンも附近の部族が服属するとまず
ハ,,,征伐を行ったOと-に正統八年九月から十月
ど.ろにかけては親戚関係にある息順王の支軒下のハミを攻めて王母をとらえている.王母を人質として王を脅か
す政策は政治的Tと-に経済的支配権をうるために有利な方淡ではあるが.'もちろん二回だけの武力的な瀞利で
は支配は完全とはSえ払かった。しかしハ,,,が重要な地鮎であればあるだけ'あらゆる勢力が集中するので.エ
センもたえサバミの支配には努力した。正統十年にも、・さらに十三年の夏にも数ヶ月にわた-ハミ方面にいてLTT
の地方め経皆に努めてSる.かれはまね赤斤蒙古に封しても正統八年十月には馬匹・帝等を港-結親を求めr
九
6
年八月にも同じ努力を重ねている。皇女沙州に封しても同じころ、同じ錬な政策をとっている。
このようにしてハミ方面の重要地鮎を確保したオイラートは'内周の統
一の進むにつれて遊牧民族本束の伸槻
貿易としての商業的性格堅不してきた。すなわち数多の部族の平定は封鎖的経済における障壁の打破
をも
たら
し'7ハミ方面の経略はこの方面を中心とする重要交通路隊商路の確保凌SみLt隊商貿易を容易に促進できるよ
うな契横をつ--出したのである。これは戦線を東方へ撰大することと相まって直接明朝との経済的交渉を深め
`
る原因ともなってきたと考
へられる。
I- 母 11
①
ゥラヂミルツオフ著'外務省謝査部謬
「蒙古社食制度
史」三〇七京三四〇貢以下
.
②
明史韓粗俸
③
詳し-は和田済
「光良瞭三衛に維する研究」.
0(滞鮮
地理歴史報食滞十三)三
1入京
④
明史
西域停上
客
明史
西域停こ
199
〓
オイラ〓・Lの明に封する経済的要求
オイラートと明尚との交易につ>ては.、隊商貿易にょる交易形態以前に明国のSわゆる朝貢の形式によす交易
が
エセン以前から断縛的ながら行かれて5たことを述べなければならなS.・食とえばエセンがまだそれほど勢力、
を得て5なか・つ允正統EI年には'モンゴル勢力であるトトブハ王の朝貢俵にしたがってエふ
ン白身も来朝してい
るが.その時の操子と-に朝貢貿易品について正廠EI年正月の賢録の記載によってみると
可汗のトトブハ王に賜ったものとしては、織金田。爪堺龍防御八.撃衣
二
織金胸管麟頗青紅採炭六。五色
院八。絹二十五。金韻聾石械髭帽
一項.金級大鵬塵鯉等事件仝伽藍香間珊瑚帽療
1串9聾金株紡貯練衣六。
A_
/I
金銀湛身堺龍直領
一。常時花井口封襟曳撒
一。織金胸管麟麟井因襲四季花裕穫比甲各」。織金虎井圏金賓相
花雲屑通裾隊裸各
一。金村犀角麟麟撃藤
一。紅旬皮措金荷包二.滅銀摺織刀井帝
1。銅線虎尾三.尖蛋頭賓
靴
]贋.・・秋本而島木暴琵琶
1。花梨木火摸息
一。取扱刑噌辞笛各
一。黄身勇字魚批顔
1.魚尾携帯飛虎招旗
メ.二。
・があげられてお-'可汗の妃二人には、
貯練織金獅子虎豹薬事花組毎人八世.各色横線轍隅陪
;rhlL
な
ど及賜わ-へそ孤曙か丞相や右丞相のトカン、太子推王エセンらにもそれぞれ種々の噺を賜わった.
これにょると非常灯多種類の.賜晶が.明の朝廷から北方の貴族たち疫おくられている?しかし'これらの賜晶は
主としてオイ㌢-ナ側の馬あるSは撃
舘鼠等の宅及顛海よび玉石などと交換r,れ夜のであるが'・オイラート杵
′
①
とつては,このような賜品はオイラ.-・1貴族自身の装飾品奮珍品として多く使用され鷲
敷とえぼ土木
の軽
の
- 7・-
200
後'和議が成立して英宗が北京へ締る垂
卵のことであるが'
エrセソが英宗のために宴を開いた障、
エセンは妻妾
②
をして英宗に酒を奉らしめると同時に自らも琵琶を弾じ七潜り'翌日にはバヤソチムール
(伯顔帖木見)屯宴を
設けて英宗に額している。このように宴合が行われる時には食物や服装はもとよ-楽器の類にいたるまでいづれ
も中国式のもので'かれらめ豪蒼な生活もうかがわれる。これらのものはこ
とごと-中歯との朝貢貿易に+{つて
えたものでれつて、これらの賜晶は多くオイラートの貴族階級の香拶用にあてられたのであろか.したがって
1
部をのぞけば純粋の商業貿易の封象としての商品となったのではなかったようである。しかしながら朝貢の形式
にょる女易はこの正統四年正月以後もエセンによってたえす行われている.'Sわばこれもオイラ」トの明繭に封
する経済的要求の一つであった。
▲
ヽ
もっともこのような朝貢貿易は単にオイラートにかぎらず常時紅海Sてもモンゴルをはじめ冗良吟三衛な
ど明′
4<
園との間に行われ'廉く
J椴的な交換経済の株式であってオイラートにとつてと-に重要であ格とSうわけでは
ない。オイラートにとってもまた明朝にとってもよ-重要なのは'西域の隊商路を利用した商発着による明嵐と
の経済的交渉である。この隊商貿易を荷った者は回々人であった。
明代の回々人の活動に関しては日知録あるSは賢録にみえるが'それによれば元朝がほろんで間もない洪武年
間に菜古人色目人は多-姓を漢姓に改めた。かれらは官に仕えれば蘇変な地位にのぼ-、民間にあつては富商大
③
賓となってSる。元代回々人の商業活動の目覚しさからみれば'これらの富商大貫の中杵は色目人の中に回々人
㌦
,-8-¶
が多-含まれてSたであらうことが推察される.
一方
正統のころになると'このような漢人化した回々人とは別
∫
にオイラート治下の回々人の商業活動が清華になって-る。ただもエセンの勢力がまだそれほど束方へ涜大され
てSないころ'すなわちエセンが初めてハミ征伐を行ったこ
ろには'回々商人の活動は主としてエセシ
の朝貢使
201
④
節と共に人ミを塵て甘粛方面かち申開
へ入ってきて5るOところが正統七年こ
ろには某モンゴサアがエセンの威
力に墜迫されて二面
は
一鹿オイラートに屈服し'オイラトトの虎威をかつて女直征伐をして5るほぜで、少-と
も某モンゴリアへの交通路は確保されてきた。この情勢にもとづいてオイラートの明図
への朝貢使節が急激に増
加してきたOすなわち従来はオイラートの使者の明に来朝するものは僅かに五人に満たなかったものが.使臣だ
-
けでも千人にのぼ-'こ
の外交易のために来る者が非常に多-なった。そこで明朝では今後定数滋定めて'それ
以外芙
開させザ猫是
から掃えす棟等
㌘
讐
とったQこのよう
豊
悟望
ソゴルに警
晶
朝の政策が受
動的滑極的になったことをSみすると同時に、オイラートの勢力がしだSに東方にのび二父通路が確保された観
果、大同方面から朝貢あるいは貿易をする傾向が生iy
しかもその人数が急激に増加して衆たことを物語ってい
るO明朝側の制限にもかかわらず同じ正統七年の翌二月にはエセン使者の股木鳳吟ら二千二百飴人が北京に赴む
SてSる。この使節の来朝も大同からであるが、朝貢は大同方面が中心とな-ますます頻繁となっている。さら
に正統七年九月には
″正副使定数を除-ほかは'凡を牧人および貿易の人はことごと-留めて猫兄姪におらしめ「・・・・・・従人海よ
㍉
⑥
び貿易の人はおのおの緒法にしたがって・・・・・・″
とSうあ歩きまで、使者および商人が大同方面から多-くるようになったため明朝ではとれが封策に瞥心してS
允oこのように僅か二二二年の中に明閲をしてその勤策にか-も苦心せしめるほどかれらが増加したのは二光代
⑦
の例
を見るまでもな-.遊牧民族の性格が西方貿易ルートを通して隊商貿易に従事し、白身商業資本
家
とな
る
か、あるSは回々人または
一般西域人らの隊商貿易を保護することによって利益をうることにあっ允のである。
同時に隊商々人たちにしてみれば、隊商路の治安を維持するためには'遊牧民族の間に強力な統
一勢力が出現す
- 9
202
ることが望しいのであるO.Hセンがまずアルタイ山附近の部族を平定し、陵商路上の重襲地鮎である八.ミ・赤斤
〟
蒙古
・汐州方面を経略したころからつかれの軍事行動が意外に急速且つ容易に促進しえたのも.,ふっにはこれら
国々人を主とする隊商々人の積極的協力があったためではなかろうか。ともあれエセンの勢力の凍大に相魔じて
回々商人et隊商的規模も大きくな久
遠-サマルカy.fL方面から往来する棟になつ&.
鼻
正統十三年十二月の
⑧
繕部の上奏によれば、トトブ(及びエセンの使臣と共に回々商人阿里鎖魯静ら計三..五九八名がやっ
て衆
て
S
る.その内回々商人は八三〇名が爽たと報告されてゐる。しかしこれは同じ十三年十二月壬申の来朝の記録に阿
里鋳魯榎等七四二とあ-'報告よ-減少して5るが後者が来朝の賢数であろう。このように七百人ないし八宵人
-らいが隊商を編成して商菓貿易にやってき夜ことが知られる.こう⊥て隊商路を通⊥てエセン治下の回々人の
.商業上の経済活動が年を迫って烈しくなってきたのも、間接的でほあるが'オイラTtの明園に射す渇経済的要
求のtつのあらわれとみられよう。
次に注意すべき事は朝貢貿易と隊商貿易のほかに、エセγの西方ハミ方面の経略をほじ妙として、棄モyゴり
アへの侵入二
二衛の撃破、北朝鮮、藩洲
への進出など絶えざる戦闘の摸大に相廠じて、中庸から軍需品を輸
入
レ
てSる事であか.正統七年十月の巡撫丸同量府着金都御史の羅事信の上層によれば'
J/
・この頃開-所によれば'オイラートの貫俵が北京へやって来ると官吏や軍人などの中で無頼秒者達が尋と
馬とを交換Lrそれがややもすると千を以て教えられる。.オイラートの冥俵は弓を得ると'これをひそかに
衣や俵の中へかぐして国境を越え女のち、はじめて出す堂うである〟
と常時武器の密費買が行われた様子を述べ、これに綾いて琴号倍は自らの意見として、″
北方人充ちは常日頃こ
の武界を利用するが、これは申開人が財物に食慾である馬に行われる交易であってよろし-なS.そこでこの帝
・-1QL-
203
貿易取締の封策として二
万では弓を作ってこれを膏-馬藍只うr.8国人をとりしま.ると共に'他方北方人の貢使
たちを居庸関でと-しらべる勅を出してほしS〃
と上奏しつこ
の結果、帯金
・山西行都司に密貿易取締りの勅が
下っている。こ
の勅町野してr
更に都察院右都御史王女などのとりしらべ方法に封する上奏が出てSる所からも
弓などの武器がオイラートに流入しっつある事がわかる。しかしこの時はまだそれ層多-なかったと見えて.敬
締も厳重ではなか・つた。
八年九月の直隷州衛千戸陳鏑の言によれば'
″北方の使者が北京に到る時にはその沿道の人身が、ひそかに寒
冷銅織を赦して膏買するが'これは許してならなS〃とSふ状態であって単に弓のみではなく'銅鉛製の軍器を
も含んでいた棟である。これに封しては絶部を通して禁令が出てSち.
′
この様な傾向が更に強くな-,
軍器類も鼻腔的に朗らかにな-,
取締
も厳重にな
った0.は八年
も末の十
二
月_
で、大同宜府筒石等廃絶兵官の永寧伯譜虞などに輿えられた勅やは、
〟オイラー・Lの使臣た.ちは
姦
甲刀箭及び多
-由連禁の織器を行李の中に持っているが、これは大同宜府の食慾の者たちが密貿易をす渇ためであるPこれ
畦
長官なfn)の統令が行きと
どかないからで'かさねて禁令を出せ″とあ-'また民間で織辞をオイラートに葡る者
は禁衣衛でとらえて監禁すべLとSう勅も出てSる。もちろん銭器と言っても
一概に武器と蜂限ら滋Sので、そ
の中・には昆常生活上必需品'と-に遊牧社食に.おいて疫移動に際しても破損の少なS織製の鍋釜なども含まれて
5るであろう
.首穣雑録に'″
この織鍋は虞東から寓飴里を経て北京に来たもので'
1鍋は絹二疋で膏られるの
に、北方の使臣たちは
1疋にまけさせよタとした挺め、鍋室賀る者は門をしめて膏らなかった″
とあるように'
鋳鍋の需要も多かったであろうが、ここで禁令の封象となった織器とは主として姦甲刀箭等の武津であり.この
武器が輸出禁軌晶のために密貿易の形で書
見され夜ことを不してSる.
・- ll -
204
さらに十年には、オイラートの使臣は大同宜府の舎利の徒からひそかに買った軒のであるが'.兵甲弓矢銅鏡な
どの諸物を帯びる棟になった。ここで注意すF'(きこ.とは、十年には銅銃が北方に入っている事である。明代も英
宗頃に用Sられた銃は金属性有筒式であ聖
火桑は畿射カとして用SられるSわゆる近代式の銃でかることは,
⑨
すでに矢野仁
㌻博士の指摘されているところであ
る。この銃器に関しては'これよ-先、正統七年頃は北方遊牧
民族は強悼であるが、ただ我が中国の火器をおそれてSるとある。明側の火器を中心とする兵器琴が北方遊牧民
族にまき聖
かれらにとつては脅威の状態にあったのである。この火器が九年頃からしだSに量を槍しっつ北方
■
に持ち去られたのである。十
1年になるとこの様な兵器をオイラートに膏るために'明側の官吏軍人や民間人た
ちがひそか把専門の技術家を通して軍器を作製し'オイラー十の使者が掃える日にこっそ-待ちうけて育ってい
る。
申開人側の兵器密造が大規模になると共に密貿易も盛んになって衆た.この傾向は賢銀の示す所によれば.●
其の後も.たえず盛んに行われ土木の轡の直前すなわち十四年のはじめまで績Sた。
この兵甲弓矢をはじめ銃等の銅製あるいは織製の金属器類は'常時の北方遊牧民族の間におSては生産の技術
はもちろん生産能力の鮎で'はるかに中国に及ばなかったと思われる。したがってそれだけまた金属製晶に封す
る北方遊牧民族の要求も烈しかったのである。なかでも銅鏡など墜光来明初中尉に俸来し'永楽帝の南征の時に-
さらに改良が加えられて近代兵器化したばか-で、オイラートなどにとっては15わば新兵器である。ことに土
センのようにたます戦闘を続けてSるものにとって、この新兵器は明側に封する経済的要求の最も重要なものの
1つであったに相違ないのである.
次
に兵器類のほかに衣服糧食の類に関するオイラートの経済的要求をあげなければなちない..もちろんかれら
廷光来固有のものとして'衣服は牛軍馬などの毛皮類で作-、食糧も肉類や乳製品を主とするが、しかしかれら
一・12・-
205
のうちでも貴族
・支配者階級はこのような衣服食糧では満足しなS.やはり申閲の絹放物や綿布あるいは米賓を
欲求する。かれらの穀食の経験は相雷古い棟であるが'正統六年十月の賓録にもオイラートの使者夜ちが大同を
経て来朝し、米変牛羊などの諸物を求めてSるととでも知られる.このようなtJとは'人間の食耀のみならずか
れらが戦闘に常に用いる馬既の食糧に関しても、野生の革等に限らないようである。正統十年十月戸部の上奏に
ょればへサトブ八の朝貫の使者および回々帝人たちの使用して衆海馬蛇の糧堅且類のような濃厚飼料の償用が見
えてゐる。戦闘の行われる時'農耕民族に封する経済的要求の中には以上のよう払糧食類も含まれている.
衣服類に関しても叉賢録中にしばしば衣服とか爵
・麻あるSは靴軍などが北方へ番って行かれてぬ
る事が見え
る。と-に吊は朝貢貿易品として北方の馬などと交換が行われ、また隊商貿易においでも大きな意味を持O.もの
F'ある。土木の轡後の事であるが梼和使節として北方に行った楊書とエセンの問答によると'″
我がガ
の馬の億
をけづ少'しかも我が方によこす吊は努裂して幅の足少な叶のがあるのば
1線どうしたことか″とエセγがせめ
一・,
たのに封して楊善は
″けづったのではあ-ません.太師の方の馬が年々増して代償が沸5きれませんが'海こと
わりするにも忍びません?せこで少しへらしたのです″
主著し57771RSわけをしてSるが」衣服糧食をエセンは多
-明側に依存していたのである。これを最も明瞭に物語ってSるのは賢銀正統十二年十
1月の記載で.屯ンゴル
人の阿見胎壷が蹄順して来た時の冨kilェヤツが南優をはかつ海事があ-'それに封もてト・Lブ
ハが「.これを止め
て'我々の服用は多-明にああSでSるから明朝を改めるべきで偲なSと止めてSる.この十二年の痔
の商俊の
計塞栓賢行には移されなかったが'十四年土木の愛の直前の時の事は明史縫取俺にもでてお-'エセyの南俊計
塞舵TLトブ八が反封した理由も服食類を明観にあおSでSることがあげられている.I
このよう
に正統九年頃から宜府大同方面に射して軍港衣食類の要求が次第に増し充のであるが'このオイ」7-
・-18
208
トの明に野する経済的要求が積極的となった原因として、オイラートの束方すなわち三衛に封する経略があげら
れる。
エセンは西方の征服にあたって5る頃三衛に封して桧平和的な滴婚政策を取ってSたが、西方の経営があ
J
る程度成功すると正統十年ごろから三衛を倭伐しはじめた。そして十
一年には刀食吟を攻め、十二年には泰寧柔
類爾衛ばか-でな-栢飴衛南部地域にも攻め入-'さらに十三年ごみには三衛の束隣女直方面にまで手をのばし
てきた。このようにエセンの軍事行動が束方へ携大tた事は明朝に封する経済的要求を質的にも急激に増加させ-
る原因と払つたと思われる。と-
監且府大同方面は地理的に接近し古来交通上の要衝をしめていた事からもオイ
ラートと明朝との交渉の中心となったようである。
なおここでエセンの経済的要求が急激に増加したこiJに勤し回々商
.人の活躍が為っ
た事をつけ加えて海かねば
ならなS.先に回.々商人が隊商貿易に従事したことを速べたが国々人の活躍に望
l通-あった.すなわを'その
1つは純僻の隊商貿易に従事する商人であり'他はエセンの直接の部下となって政治
・垂事
・外交方面'とくに
封外経済問題を捧常する宮人としての回々人である。こ、の新で明側の資料も明らかに除別している。すなわち商
人の場合は貿易の人とか'回々雪月商人.あるいは賛買回々某などと書-が、同じ回々人でも使臣業が朝貫もV.
何々を賜うと言う形式で書かれてSるのは宮人としての回々人であるチ.夜とえげその1人へ皮児馬黒麻につい
て見ると、正統八年九月都指揮平茸として粂脆鬼らと共に明園に衆朝している.賓録によれば、トかれらが数千里
を達しとせず苦労を重ねつ、つ大同方面から衆朝して来たとある。常時は吉
Jyあ勢力が'ほぼ内モ・Yrn>了に行
きわたりつつあつたが'しかもなお'をの主勢力は依然と心てオイラート本地にあったので'それがため敷千里t
を経過して来朝したのであろう。ところが十年九月には正使として爽朝し'つづ5て十年中には十
一月'十二月
に、十
1年には正月に'十二年には十月十
一月十二月に来朝してゐ盲。これらはいづれもエセンの十年ごろから
一一14
207
はじまった束方三衛方面の遠征と密接な関係を有しており'
ただ束朝の画数が槍加したばか
少でなく∵北
方
地
帯における戦闘に不通雷な冬期を利用して衆朝し軍事上の経済的要求を満たすことにより'次の戦闘への準備を
なしたと解される.′すなわち兵器糧食類の輸入とか'あるSは戦勝による戦利品と明側の物資との交換とかのた
めである。皮兄馬兵藤
の来朝のうち、十年十二月の場合は馬八百甲、青嵐皮十三筒、銀鼠皮
1甫六千覇鼠些
l
首をもたらしたが'明朝ではその数が多量にすぎるので馬捻良馬をえらぴ'育銀鼠皮は各
一帯を、また解鼠皮は
全部を収め'魂飴はことどと-使臣をしてみづから膏らせた。この碧
口代-に何を持ち蹄えっ舟か臥不明であ廿
が'注意すべきはと-に青嵐壁は官貿易
1嵩に封して賢に十二苗が自由膏買されて・Sることである。また十二年
十
1月の場合には'二千四百七十二人の多数で束朝し貢馬は賢に四千
一百七十二世の多きを数えてSる。これは
三衛に封する第二次の優麗、すなわち十二年の遠征の結果、戦利品の馬を明側にも允らしたものと思われる.こ
~
のような国々人の活躍は皮鬼馬黒麻のほかにも'舞とへば遠来登'阿古壁へ賢
二火'拾黒馬具蘇らがあやついづ
れもエセγの束方への携大とともに、その活躍が急激に盛んに怒ってきたこ
とを軒の語っている.
1・-16-
①
俺達
1`蒙昔
の骨梁についてグ
「蒙古革」鱒三筋
⑧
賓錬正統十四年七月庚牛。
「北従事蹟」には
止宿を奉
⑥ ⑧ ④ ⑨
野て弾唱す」とある.
日知銀
貨錬正統六年五月成成
賓錬七年正.月戊寅
賓錬七年九月乙丑
⑦
飯塚胎ニヵ遊牧民の側部と隊商歯糞グ
「歴史畢研究」
一三二戟
⑧
賓線十三年十二月庚申及び壬申
・
.
⑨
矢野仁
7`支那に於ける近世火器の倦衆に就いてケ
「近代文部
の政治と文化」三二〇東以下
⑲
和田蹄
力北良恰三衛に掬する研究グ
〕208
三
明朝とオイラItの外交政策と菜
の奨
.ヽ
以上でオイラート治下の回々人の活躍をも含めて,Hセγの明朝に封する経済的要求が北方の情勢と関聯
し
っ
つ'朝貢貿易と隊商貿易と軍事上の経済的要求から束る密貿易と三つの形で両も第
1時永緯的に第二は正統七年
頃から、第三は九年頃からいづれも年を追うて激増してきたことを述べたが'これらの北方の経贋
要求叱封J
て明朝はいかなる態度をとつたであろうかO
英宗のオイラートに封してとつた政策な-態度を考察する前に、
r慮明初からの封蒙古政策を省みる必要があ
ろう.明初の政策は洪武
・永楽二帝を中心とする武力的な経略によって輝しい成果牧めた。その結果は封蒙古境
界線が長城をこえてほぼ今日の多倫
・商都
・武川
・.五原の1線にまで進出し夜のであるOLかしこの時を以て限
界鮎に達し'その後宜徳五年六月.iJろからは'まず開平衛を猫石に移したのを手はじめにrLだSに境鼎線を後
退させた.これと.ともにJ乗騒音に封しては慣例を設けて例えばアワダイがオイラートに敗れて部曲が離散しそ
の1部の把的らが明朝に爽鰐すると明朝では官職を輿え紗鱒を賜-供具を給し以後乗蹄する者の慣例として,5る
現状椎特の安定を求める政策をとった。これは明和の積極政策から滑極的、,受動的政策
への韓換を意味し'_ノ北方
地帯
への政治的意欲の喪失を意味する。とはいえ威租の樹立し東境界線は蒙古内部におSてモンゴルとオイラー
トとの勢力交替などがあつたにもかかわ・らず、その後正統までつだいたい維持されてきた.そして英宗即位の常
時も組宗の立てた輝かしい功績七その遺産を受け継いで北方に勤しで政治的経済的優越性を誇示しっつ自己の鰻
面を保持してSた.しかしこのような明朝の蒙古族に封する優越性を誇示しょうとする息憩と'オイラ
ートの中
歯に封する経済的要求とが現賢におSて大きな矛盾を生じて増たのがへ英宗の時であったのであるOすなわち、、
一一16-
209
すでに述べたように明朝はこのときオイラートに封して現状椎棒の安定を革吟'積極的打開策をとらずオイラー
トの経済的要求.には制限をもって臨む方針を取った.その具鰻的な政策としてほ'薮づ親巽貿易に関して.朝貢
①
の人数及び回数の増加に射して明周の適境附近にあつては饗魔の加重を訴え'中央にあつてはオィ、ラートの食利
に騨易すると5ふ理由で朝貢の人数を制限し、あるSは織牌を輿
へ'面倒な植法を設けたりして膚貿易の制限を
強化した.険商貿易に関してもほぼ同株な態度で制限を行つな。またオイラートの軍事経済上で必要とした密貿
易に封しても度々禁令を硬して中国商人とともにオイラーtの.密貿易者の取締を行つ七
いる。・
この明朝の貿易制限に対してオイラートは'官貿易と並行しっつ小規模の掠奪侵入を企てている.これらの本
一
法行動はオイラー・1の経済的要求解決の一方準
として用いられ夷ものであろうが'このため明朝では達境地方の,-
②
軍備を携大充賢し'また唐草等
の
防禦策につとめている0.。
しかし∵このころオイラートとしては北方地帯におS
て雁えす戦闘を行っていたので明朝に勤し大規模な武力侵入を行うこ
とを溝抄、むしろ平和的解決に努めている.
もっともエセンの明に封する侵窺計葺は'正統十四年の土木の襲以前からあった棟で、賢録の偉える所
でも
九
年'十二年に記されているが、賢現しなかった。むしろ逆にエセンとしてか自分の子供と明の帝堂との間に婚姻
関係を結ぶようにへひそか解計塞しているOこのことは香春録をはじめ豊明北虜考
・殊域周番線
・EI英考
・名山
蔵
・明度記事本末な
どにみえてSる。土木の奨後の景泰元年二
四五〇)七月十四日の伯顔帖木見が山
羊4'ンの幼
子晶
して,これ餅明朝と婚姻関係姦
ばんとし墓
であ紬
と述べてSることによっても警
れる。Jこのよう
にエセンが明朝に封して平和的な婚姻政策によって政治的とくに経済的穿求の解決をはかろうとしたのは、tやは
ー
り北方白線の内部的情勢によるものであろう'北方白鰻の政治的情勢とは、オイラーJ・のエセγとモンゴルのト
サブ八との関係が衝突の危険にさらされはじめたからである.しかも封明関係に潜・いて通ずるものがお
っ夜.十
-1TJ.
210
四年正月のトトブ
八に輿えられた英宗の図書な
どによって知られることは、トトブ
八が明朝に封しては燐る黍練
であって'草に明朝と卒和外交を望むにとどまらなSで'進んで明朝と安協し'明朝の助をえ
てエセンに封抗し
ようとした形勢が見られる。このことは北方地帯白鰻の内部の封立の烈しさが'政治的にも経済的にもたがSに
明園に依存せねばならなS形勢をうみだしたのである。Sわばエセンとトトブ
八は封明関係とくにその経済的交
渉9成敗Sかんによって北方地帯における優越をある程度左右するこJJLが出蘇る状態にあつたともSえる.しか
るにむしろト・Lブ
ハの方がエセンよ-封明交渉において平和的に囲滑にSつてSた。そこでエセンはその経済的
な目的を達するために、.あま-好まなS最后の非常手段に訴えて正統十四年七月明尚に武力侵入を行ったのであ
ると解される。以上で土木の愛の原因の一端を述.,(軒が'次に轡後d経過をつけ加えよう.
賢録十四年八月発亥の記載によれば'
エセンは九龍堺龍衣院疋、卦よび賞珠六把'金二百両'銀四百両をえて
海-'戊辰には五千両をエセン個人がえ、そのほか、伯顔略本兄たどに賜った額を合計すれば二万二千両をえて
いる。明史訂刺侍では単に白金三万と記してSるが,敷皮にわたり金銀そのはかSわゆる朝貢貿易品に屠する莫
大な物品が事轡によって立センに途られている。これは捕虜になった英宗の身代金として公に迭られたもので卦
るが'このほかに賢錬十四年九月には巡撫山西右副都御朱鑑の音
として
″エセンは種々の手段を用Sて姦甲、浄
械'金銀、毘錦'牛羊駿馬など
の物十万ばか-を持ちきった″とあるように兵籍などの密貿易晶も獲得したので
ある.古穣雑録では'それにつSて
″衣甲兵器をオイラート人が満載して持ち締ったが昔から胡人で中歯の利を
得ること'この拳よ-盛んなことはまだなSであろう。胡人もまたみづから望外のことであると言
って
Sる〃-
一
と'土木の轡の性格の1瑞が経済的要求にあるということを知-うるとともに、この事愛がオイラートにとって
預胡以上の成功を収めたことが理解されようCさらに北傍線によれば[濁石衛をエセンの人馬が串で糧食を運搬
\~
18-
211
1↓
して5るのをみて感じるところあり'詩を斌すと前書きし'遭境はオイラートの侵入にあって'惨害を受けたが
倉魔はなお存してオイラートの糧食を助けると述べてSる.野録景泰元冬
青
の参賛軍務右副都御史羅
通
の奏
の'″近頃北方人が侵入して爽て'わが食糧を食う″
とSうことからみれば、明観の遵卓守備軍の禽食を食とし
たことが知られよう。このほかr
エセンは寧夏をはじめ虞々にたびたび小規模の掠奪侵入を試みて菅
*
かた土
木の襲以前におSても平和的交易と並行してしばしば掠奪偉人を行ってSる。これらの小規模な'Sわゆる掠奪
偉人は兵器糧食衣服などが平和的形態での交換経済の方法では必要量の限界を満しえないために'その不足を補
㌢
目的の行動であることがうかがえる。し慕
ってその要求が滴され,その目的が達成さ.れると,中国に豊
-
替ることを必要としないのである。土木の轡も賢は本質的な性格におSては、このような小規模の侵入と同じも
ののように思われる。ただ北方地帯の情勢がこの屡求を非常に大がか少なものとしたたや
掠奉も大規模であっ
たの.Pある.しかし結果的には'むしろ望外の牧獲を得たので透って'-その目的は英宗を捕虜にすることでもな
ければ・、もちろん申開を領有支配することでもなかったであろう.
エセン捻中開侵入を短時日で
一慮ひきあげ北
方の情勢にそなえたので透る。しかしこの侵入に思わぬ大牧達を冶げたエセン豊
泉泰三年狩はトトブハとの戦に
も成功したのである。
.
また、エセンと英宗の関係については、事聾を境として戦勝者封戦敗者の立場がとられるべきであるのに依然臣
君の間柄がつづき、エセンは英宗のとりあつかSにはむしろ窮したかたちであった。このこ七は賢錬中にもたび
たびみえるが'明昏楊善俺の1番をあげれば充分であろう。すなわち官童が事襲前の関係をとりあげてエセンに
臣下の櫓をとることを諭すと'
エセンは英宗を賓主として過した。のみならず妹を英宗の配偶者としたいがと官
童に相談し'自らの誠意を不したのに勤しへ英崇が従わないと'かえって敬服してSるほどである.
・-19-
212
また北億録に収めてある李賢の上奏に'李賓が北方オイラートの勢力内に入ると'・オイラー下人は皆喜び道に
むかえ歌をうたいへあるいは乳酪をすすめる裸ど、かれらは皆和好を願ってSる.と述べて、Sる9こ
のように土
木の轡の後も'
エセンをはじめオイラー下側はSずれも平和的交渉を希望していたことがわかる.
①
ノ明賓錬
正統七牢正月成寅
③
タ
ダ七年十
一月十二月など
③
香春銀
④
明安藤
十四年正月己商
チ
ぎT
わ女yL墓
鹿にお.小で,北ま
ィラ1-の情勢に中心霊
きつ言
木の襲毒
察して濡
Oこれまで
一般に
土木の麺の原因としては、オイラートの食欲性から生じ舟ものとか、
エ、センが婚姻政策に失敗したことに端を畿
したものとかいわれてSる.これは確にその一端ではあろうが、それだけではなS.
オィラートが明齢に射してのぞんだものは朝買貿易であか隊商貿易'密貿易であづた.これは北方地帯の内部
情勢の襲化に深い開聯がある0
このようにオイラート側の平和的外交交渉によって'その経済的要求を満そうと
したことに勤し明朝の封北族政策は矛盾するものであっ夜
.。この矛盾がしだSに烈し-なって速に破綻にまで導
r
Sたと解すべきではないであろうかo
北方遊牧民族の中観
への掠奪侵入は、その規模の大小を問わず単なる食欲好戦とのみみるのは誤りである.そ
れらの背後には常に朝野な経済的な要求が含まれてSる.しかしそれは平和的な交換経済の株式で解決出来る場
合もあれば、
一方的な要束の場合にはいわゆる武力侵入も生するのである.I
- 20- i
ONTHEWAROFTU・MU(土木)
JunPeiHagiuIw a
TheWarofT'u-muwhichtookplace-inJuly,1449,wasoneof
themostremarkableeventsihthehistoryofrelationsbetweenChina
undertheMing(明)dynastyandMongolia.Ananalysisofthisevent
revealsthattherewasamuchcomplicatedsituationcausedbycon・
丑ictsbetweentheMongolesandtheOitats.Relationsbetweenthe
Mingdynastyaddthevariousnorthern tribesseem tohavebeenin・
Auented,directlyf)rindirectly,by'themuchcomplicatedsituation
withinthenortherntribesthemselves.Hencesuchektroadinaryrela・
tions,political,militaryandespeciallyeconmic,betweentheMing
andthenortherntribes.Theau也or'thinksthattradebetweenthem
tookthreefdrms,i.e.,tribute,caravaritradeandcontraband.The
northerntribestwer.eratheranxioustokeeppeacefulrelationswiththeMing,whiletheMingrestricteditstradewiththenortherntribes
incontradictiontothelatter'srequestforpromotingeconomicrela・
tions.Andthisdiscrepancyinpolicybetweenthetwoprecipitated
theWarofrT'u・mu.Theauthorconcludesthatitwasnotmere
avariCLeandbellicosityonthepartofthenorthem tribesbuttheir
econmicnecessitythatledthem towar.
耳
、 r I・-