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u-toyama.ac.jp€¦ · Web view『雪中梅』 M22 廣津柳浪 (1861年7月15日(文久元年6月8日)-1928年(昭和3年)10月15日)日本の小説家。 ... 「においも深き紅梅の枝を折るとて、庭さき近く端居して、あれこれとえらみ居しに、にわかに胸先苦しく頭ふらふらとし

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3

目次

P2 キャスト

P3~P21 「仮面」基礎情報

レジュメ集

P23~P34 結核文学から見る「仮面」

P35~P38 仮面の登場人物

P39~P46 鷗外の仮面

P47~P57 博士の言葉の一考察

キャスト

杉村茂 廣川歩実

山口栞 津田知美

金井夫人 森澤奈緒

遠藤徹 松村聡美

みよ 荒屋愛莉

佐吉 大門利佳

三太 小堀麻実

看護婦A 渡部杏美

看護婦B 伊藤麻由

書生 パブコーアナスタシア

スタッフ

演出 荻村成昭

演出補佐 兼定明日美、伊藤麻由、津田知美

音響 高藤実代、兼定明日美

照明 青井詩織、表千尋、利長明日海

道具 小堀麻実、兼定明日美、荒屋愛莉、津田知美、森澤奈緒

衣装 大門利佳、伊藤麻由、渡部杏美、廣川歩実、松村聡美

舞台監督 荻村成昭

広報・総監督 金子幸代

(姉弟仮面(結核)山口栞金井夫人遠藤徹 三太みよ 佐吉杉村茂上司・部下夫婦)人物相関図

(夫婦)

仮面

初出:「スバル」第4号 1909年4月1日発行

頁数:森林太郎「鷗外全集 第4巻」(岩波書店 1987.3)

あらすじ:金井夫人が医学博士杉村茂のもとを訪ね、弟山口栞の病気が結核ではないかと心配していると杉村から慢性気管支炎だと告げられる。姉が診察所を去る間際山口がやって来て診察をうけていると急患佐吉が入り間もなく亡くなってしまい、その間に山口は杉村の手控を見、自分の病気が結核であると知る。ひどく動揺している山口に対し、杉村は過去に自身が結核に罹り治癒したと打ち明け、山口は気力を取り戻す。山口は誰にも病名を明かさない代わりに学校へ通い続けること、杉村は医者としてではなく山口の治療にあたり山口の周囲に危険を及ぼさせないようにすることを約束する。そして、佐吉の妻みよが訪れ、杉村と山口は彼女の気丈な態度に感銘を受ける。

人物紹介:

杉村茂 医学博士。過去に結核に罹り治癒したことを十七年間誰にも明かさずにいた。四十八九歳。

山口栞 文科大学生。和歌山の実家の都合を考え、病身ながらも勉学に励む。二十四五歳の好男子。

金井夫人 文科大学教授の妻。山口の姉。三十歳くらい。杉村に妻のないことを夫と不思議がっている。

遠藤徹 医学博士、杉村博士の助手。三十歳くらい。すぐに佐吉の家へ危篤を知らせるなどよく気が付く。

佐吉 植木屋。杉村宅へ木を植えに来ている。足場から落ちて腹部をひどく打ち危篤となる。二十五六歳の強壮な男。

三太 植木屋。佐吉を看取る。佐吉が今際の際に残した言葉を聞き届ける。二十五六歳。

みよ 佐吉の妻。19歳の美人。夫をなくした直後も気丈に切り抜けていくみよの態度は山口に敬服の念を抱かせ、また博士に本能的人物と称された。

初の看護婦 二人の看護師のうちのひとり。『仮面』は彼女の台詞から始まる。

第二の看護婦 二人の看護師のうちのひとり。佐吉が担ぎ込まれたとき診察箱を持って登場。

書生 二人 杉村宅の書生。佐吉を担架に乗せ担いで登場する。

男女の患者大勢 待合と診察所に控えている。佐吉が担ぎ込まれたとき博士の仕事部屋を押し合い覗き四五人が部屋の中に入る。

【注】

言葉

意味

485

4

文科大学

旧制の帝国大学の文学部の名称。哲学・史学・文学を教授。

485

5

医学士

学士の一つで、医科大学卒業生の称号。

485

10

書生

学生や生徒といった学業を修める時期にある者。 また、他人の家に世話になり家事を手伝いながら勉学する者。

485

12

駿河台

東京都千代田区神田にある地名。

485

12

応接間

来客と会ったり談話したりするための部屋。応接室。応接所。

485

12

煙草箱

タバコを入れておくための小型の箱。

485

12

マツチ箱

マッチの棒を入れる小箱で、側面に発火剤などを塗ったもの。

496

2

待合

駅や病院などで時間や順番を待つ部屋。待合室の略。

485

13

長椅子

ソファーやベンチなど、横に長く作った椅子。

486

1

カミン

Kamin(独) 壁に取り付けられた暖炉。

486

1

シエルフ

Shelf(英) 洋風の暖炉の上に作られた棚。

486

1

置時計

机などに置く時計。

486

1

花道

歌舞伎劇場の舞台装置のひとつ。

486

2

束髪

1885(明治18)年以降に女性の間で流行した水油を使った髪の結い方。

486

2

吾妻 (あづま)コオト

和服用の婦人の外套。ラシャやセルで作られており、1894(明治27)年頃から用いられるようになった。「コート」はovercoat(英)から。

486

2

襟巻

寒さを防ぐため、装飾のために首のまわりに巻くもので、布や毛皮などで作られている。

486

2

マツフ

Muff(英) 左右から手を入れる円筒状の装飾的な手袋。毛皮製のものが大半を占める。

486

2

白足袋

絹や木綿などの白い布で作った足袋。

486

3

上草履

屋内で履くための草履。

486

8

拠 (よんどころ)ない

そうするより外にしようがない。やむを得ない。余儀ない。

486

11

八字髭

八の字の形をしたひげ。八の字髭。

486

11

鼻目金

耳に掛けるつるがなく、鼻筋をはさんで掛けるようにした眼鏡。

487

3

葉巻

良質のタバコの葉を太めに重ねて棒状に巻いて作ったタバコ。

487

3

兜兒 (かくし)

隠(かくし)と同じ意味。衣服の内側に内側に作った物入れや小さな袋。ポケット。

487

11

気菅支加答兒 (きかんしかたる)

Katarrh(独)気管支カタル。気管支炎に同じ。ウイルスや細菌によって起こる気管支粘膜の炎症。発熱、悪寒、気管支内の疼痛、咳と痰、食欲不振、頭痛などの症状を伴う。

487

15

結核

結核症、特に肺結核の略称。結核菌の感染により生じる慢性の伝染病。主に患者の咳や痰(たん)の飛沫に含まれる結核菌により感染する。感染後は肺に病巣をつくり、さらに他の臓器に結核菌が運ばれ、各部の結核症を起こす。

488

3

新患

新しい患者。

488

9

胸膜炎

肋膜炎。胸膜に起こる炎症。

488

9

癒着

離れている皮膚や膜などが炎症などのためにくっつくこと。

488

14

慢性気管支炎

数年間にわたり、数か月単位の痰や咳の発作を繰り返し、少しずつ進行する気管支の病気。

489

11

炭斗 (すみとり)

炭を小出しにして入れておくための容器。炭入れ。炭かご。

489

11

暖炉

薪や石炭をたいて室内を暖める装置。ストーブ。洋風の部屋の壁に作りつけるものを区別して言う。

489

14

伯 (べる)林 (りん)

Berlin(独) ドイツの首都。

489

16

外套

防寒などのために衣服の上に着る上着。オーバーコート、マント。

490

5

電車

電動車、また電動車を動力車として仕立てた列車。日本での最初の運転は1890(明治23)年。営業用は1895(明治28)年から。

490

8

人力

人力車の略。人を乗せて人の力で引く二輪車で、一人乗りと二人乗りがある。明治時代には主要な交通手段だった。

491

1

敏捷

賢くて理解や判断が早いこと。

491

1

強壮

心身が強く盛んであること。特に体が丈夫であることを指す。

491

1

Lの字の金章

文学部・文学科の学生の襟章。Lとは文学literature(英)の頭文字。

491

2

コカルド

Kokarde(独) 制帽の帽章。

492

13

駒込

東京都豊島区東部から文京区北部にまたがる地名。

493

4

フランネル

Flannel(英) 紡毛織物のひとつで、柔軟で軽く表面がやや毛羽だった布。

493

10

控所

ひかえて待つための場所。

494

1

Chopin (ショパン)

Fryderyk Franciszek Chopin 作曲家、ピアニスト。独奏者として活躍しながら、ポロネーズ、夜想曲、円舞曲など数々のピアノの名曲を作曲。「ピアノの詩人」

494

11

リンネル

Liniere(仏) 亜麻糸を原料とした織物の総称。薄い布でさらりとしているのが特徴。リネン。

494

15

腹腔

脊椎動物の体腔の一部で、横隔膜より下で骨盤腔に至る部分。胃・腸・肝臓・膵臓・腎臓・膀胱・卵巣・子宮。

495

3

立石

庭などに飾りとしてまっすぐ立てるように置いた石のこと。

495

8

担架

病人や負傷した人を乗せて運ぶための道具で、二本の棒の間に人を乗せる布が張ってある。

495

13

印袢 (しるしばん)纏 (てん)

襟、背、腰回りなどに屋号、家紋、姓名などのしるしを染め上げた半纏のこと。主に職人が着用したが、盆暮れなどには雇い主が使用人に着用させた。法被。

496

6

人事 (じんじ)不省 (ふせい)

昏睡状態に陥り意識不明となったり知覚が全くなくなったりすること。

496.

7

腹掛

職人などが身に着ける作業衣。

496

8

カンフル

kampher,kamfer(蘭) 医薬品として用いる精製した樟脳で強心剤のこと。カンフル注射は重病人の心臓のはたらきを強くするためにする。

496

7

打診

医者が胸や背などを指先や打診器でたたき、その音をきいて内臓の状態を診察すること。

496

10

ラパロトミイ

Laparotomie(独) 開腹術のこと。腹壁を切開し腹腔内にある器官や内部の異物を取り除く手術。

496

14

巣鴨

東京都豊島区東部の地名。植木屋が多かった。

496

15

電報

電信をもちいて文字・符号を送ること。また、電信により送られた文書。

496

16

警察

国民の生命や身体、および公安を維持するための行政。また、その機関。

497

1

巡査

警察官の階級の一つで巡査部長の下位に位置する。公安の維持や犯罪の捜査・逮捕などの仕事をする。また、一般に警察官をいう。

497

9

涙声

涙ぐんだ時の今にも泣きそうな声。

498

5

死体検案

医師の治療を受けないで死亡した者について、医師が死亡の事実を医学的に確認すること。その際医師が書く説明書を死体検案書という。

498

9

手を叉きゐる

うで組みをする。また、多くうで組みの動作を伴い深く考えに沈む。手だしをせずにいる。何もしないで見ている。手をつかねる。

499

1

手控

心覚えに手元に控えておくこと。また、覚書を書く手帳。

499

3

Befund (ベフンド) positive (ポジチイフ).

Befund(独)医師の所見 positiv(独逸)陽性の

499

5

心頭

心中。こころ。

499

7

Chaos (カオス)

Chos(独)カオス。混沌。混乱。無秩序。ギリシア神話で宇宙発生以前の原始的な状態を指す。宇宙はこの状態から生じたといわれる。

499

10

一 (いつ)刹那 (せつな)

Ksana(梵)の音訳。きわめて短い時間。一瞬間。一刹那は一念であるが、六十刹那を一念とするときもある。

500

6

慈善事業

宗教的・道徳的動機に基づき、孤児や病人、貧民の救助などのため行われる社会公共的事業。

500

6

Paulsen (パウルゼン)

Friedrich Paulsen(1846~1908)(フリードリヒ)パウルゼン ドイツの哲学者、倫理学者、教育学者。フェヒナーの影響を受けた心霊主義的、有機的宇宙論の哲学の上に、カント、ショーペンハウアーなどをも発展的に継承しようと試みた。ベルリン大学教授。

500

6

うつけた

心が体から抜けてしまったような状態になりぼんやりする。また、ばかげる。

500

8

顕微鏡

微小な物体や細かな組織を拡大し観察する装置の総称。

500

8

標本

生物学の研究に必要な資料となる生物個体のこと。また、標本調査で母集団から抽出された資料をさしていう。

500

8

畳 (たとう)

疊紙 (たとうがみ)の略称。上等な和紙などを二つに折りさらに上下から三つに折ったもの。懐やポケットにいれて鼻紙また歌を詠む際にも用いる。

500

8

顕微鏡写真

顕微鏡の接眼鏡上に特殊装置を持つカメラを取り付け顕微鏡で拡大した物体を撮影した写真。

500

9

見物

見物人の略称。観客。

500

10

油浸装置

油浸レンズ。対物レンズと資料との間を油に浸し使用する顕微鏡。

500

13

不精々々

不承不承。不承知であるが、仕方なしで。いやいやながらするさま。

500

14

札紙

品物の名や値などを記し添付した紙の札。

500

15-16

細菌

顕微鏡を使わなければ見えないほどきわめて微細な大きさの単細胞。各種の病原体になるものも少なくないが、食品加工に用いられたり、有機物の分解など有益なものも多い。主に分裂などによって繁殖する。

500

16

結核菌

1882年コッホが発見した結核症の病原菌。

500

16

Ziehl (チイル) Neelsen (ネエルゼン)の法

代表的な結核菌染色法の一つ。

501

1

見競ぶ

二つ以上の物をあれこれと見て比較する。

501

2

耳を欹つ

耳をかたむける。

502

4

Motiv (モチイヴ)

(独)動機。モティーフ。

502

4

利己主義

自分の利益の追求だけを行為の基準とし他の人や社会一般の利害は考慮に入れないで、他人の迷惑などを考えず、わがまま勝手にふるまう態度。エゴイズム。

502

6

Nietzsche (ニイチエ)

Friedrich Wilhelm Nietzsche(1844~1900)フリードリヒ=ウィルヘルム ニーチェ ドイツの哲学者であり、実存哲学の先駆者。主著『ツァラトゥストラはかく語りき』。

502

8

Jenseits (イエンザイツ) von (フオン) Gut (グウト) und (ウント) Böse (ビヨオセ)

フリードリヒ=ニーチェの著作。副題はVorspiel einer Philosophie der Zukunft(将来の哲学への序曲)邦題は善悪の彼岸。キリスト教を中心としたヨーロッパの伝統道徳がさし示す善悪の基準が、飼いならされた家畜のもつような奴隷道徳であると批判し、善悪を越えた強者、つまり超人の道徳を確立しなければならないと説く。一八八六年に刊行された。

502

9

仮面

『仮面』では本性や本心などを隠し、よそおっているいつわりの態度や姿を比喩的に表している。

502

9

去就を同じうする

進退を同じくする。

502

10

凡俗

品格の卑しいこと。ありふれていてとりえのないこと。

502

11-12

仮面を被ってゐる

本心や本性を隠しいつわりの姿や態度をつくろっている。仮面を被る。

502

13

意気軒昂

意気込みが盛んで元気のある様子。

503

2

転地

病気療養などのため住む土地を変えること。

503

7

Nägeli (ネエゲリイ)

(Karl Wilhelm von Nägeliカール=ウィルヘルム=フォン=ネーゲリ) スイスの植物学者。生命単位として、微小な有機物質ミセルの存在を主張。主な著作に「種の概念の発生」がある。(1817~91)

503

12

上さん

身分のあまり高くない、主に商人や職人などの妻。

503

15

銀杏返し

女性の髪の結い方の一つで、髻(もとどり)の上を二つに分けて、左右に曲げ半円形に結んだもの。江戸中期には一二、三歳から二○歳ぐらいまでの女性、明治以後は中年女性向きの髪形となる。

503

15

半襟

本襟の長さの半分であることから半襟という。装飾や衣服の汚染を防ぐために本襟の上にかぶせる共襟でない布。

503

15

綿入

着物の表地と裏地との間に絹物の場合は真綿、麻は苧屑、木綿は草綿を入れて縫い合わせたもの。

503

15

袢纏

主として江戸時代から用いられた一種の上着。羽織に似ているが、實生活むきに簡略化され、腋に襠(まち)がなく、丈(たけ)もやや短かめで胸紐をつけないで、襟も折り返さず着るもの。

503

15

前掛

体の前面の部分、特に腰から下の前をおおい、後ろで結びとめる紐のついた布。衣服のよごれを防ぐためなどに用いる。

504

7

襦袢 (じゅばん)

gibão(葡) ジバン。和服のはだ着。

504

7

札入

財布。

504

7

十円札

十円紙幣。一八七一年(明治四年)以後発行された、額面一○円の紙幣。

504

7

半紙

古くは縦八寸・横二尺二寸の紙を半截はんさいしたものだが、後に半紙として独立し、縦八寸(二四・二)センチメートル横一尺一寸(三三・三センチメートル)に漉すくようになり現在に及んでいる。用途は広い。明治以後はおもに習字に持ちいられている。

504

16

車輪をまわし、動かしたり進めたりするようになっている乗物や運搬具のうち、特に時代による特色のあるもの。明治時代ではとくに人力車をさす。

505

2

舁き

物などを肩に乗せて運ぶ。

505

5

馬車

人や貨物をのせ、馬にひかせる車。ふつう、人の乗用とするものを指す。

505

14

negativ (ネガチイフ)

(独) 陰性の。

505

14

無妻

男が独身であること。また、妻のない男。

505

15

超人

Übermensch(独)人間以上の完全な人間。キリスト教の定めた善悪を否定し、民衆を支配する権力をふるいながら、自己の可能性を極限まで実現した理想的な人間。ドイツの哲学者ニーチェが特に力説し、人類の目標として、超人の育成と出現とを未来に期待した。

506

3

即興詩

興に乗じ、即座に作られた詩歌。即座の口ずさみ。

506

4

厚薄

多く、物事の度合いが十分であるかないかにいう。あついこととうすいこと。

506

5

静養軒

東京にある西洋料理店。一八七一年(明治四年)大手町に創業された。『普請中』にも出てくる。

506

15

手套

手袋。

506

15

ステツキ

(英Stick)ステッキ。洋風の杖。手に持ち地面について歩行の助けとする。

506

16

鞣革

毛皮から毛と脂肪を取り去って柔らかにした皮革。

507

3

号砲

時刻を知らせる大砲の音。

507

3

竜頭

懐中時計や腕時計のねじを巻くためつまむ部分。

【注釈】

1. P485L2 「杉村茂」【人物】

48~49歳ほどの年齢の医学博士で、駿河台に居を構えている。過去に結核に罹り治癒した事を17年間誰にも明かさなかった人物である。『仮面』にはかなりの虚構が含まれているため、杉村博士=鷗外とは簡単に定義できないが、博士の結核体験が作者鷗外のものであったことは間違いない[footnoteRef:1]。鷗外自身も肺結核に罹っており、それを隠していた点が作中の杉村博士に投影されている。 [1:  山崎國紀『評伝 森鷗外』(大修館書店、2007.7.20)より。]

2. P485L4 「金井夫人」【人物】

文科大学教授である金井の妻で、山口栞の姉である。鷗外の妹の喜美子と類似点が見られる。1888(明治21)年4月、鷗外の妹である喜美子は小金井良精[footnoteRef:2]と結婚しており、『仮面』に登場する「金井夫人」と苗字が似ている。夫も同じ「教授」の職であるが、文科と医科の専攻の違いがある。 [2:  小金井良精(こがねいよしきよ)(1859-1944) 明治から昭和にかけて活躍した解剖学者・人類学者。帝国大学医学部教授で、日本人で初めて解剖学の講義を行った。妻は鷗外の妹の喜美子。]

3. P485L4 「文科大学」【設定】

山口栞は文科大学生、その姉の夫である金井教授は文科大学教授である。文科大学は旧制の帝国大学を構成した各学部の旧称のうちのひとつで、文学部の事を指す。文科大学では哲学・史学・文学を教授していた。1886(明治19)年、帝国大学令の公布により、東京大学と工部大学校が合併し、大学院と法・医・工・文・理の5分科大学からなる「帝国大学」が誕生した。帝国大学令第10条には「分科大学ハ法科大学医科大学工科大学文科大学及理科大学トス」とあり、帝国大学は法科大学・文科大学・理科大学・工科大学・農科大学・医科大学の6種で構成されていた。帝国大学には国家が必要とする高等教育と学問研究が求められ、主に官僚養成を目的に教育活動が行われていた。登場人物の山口栞も叔父の金井教授も最高学府に身を置くエリートである。

4. P485L12 「駿河台」【設定】

杉村博士宅は駿河台にあるという設定になっている。駿河台は現在の東京都千代田区北端の地区で、正式には神田駿河台という。山手台地の一部で、徳川家康の死後、家康に仕えていた駿府(静岡市)詰めの武士がここに居住していたことが地名の由来。旗本屋敷地は明治になって大学の用地に変わり、数々の大学が建てられ学生の街となった。

5. P487L15 「結核」【研究・題材】

明治前期に猛威をふるったコレラにかわり、人々がおそれるようになったのが結核であった。結核による死者は年々増加する一方で、抗生物質が開発される太平洋戦争に至るまで死因の上位を占め続けた病である。結核は空気感染するため、人々が集まる学校や工場などの場所は結核が広まりやすく、日本の近代化を担う若者の生命を危険にさらすこととなる。そのため結核療養所(サナトリウム)などの施設もつくられたが、費用が高いために一般化しなかった。そうした中、真摯に生きる結核患者の姿が文学作品を通して紹介されはじめ、人々の共感と涙をさそった。健康な人々は結核に対し、時に誤った甘美なイメージすら抱いた。『仮面』もそうした時代の流れのなかで書かれた作品のひとつである。山崎國紀氏は「日本は明治、大正、昭和の30年代まで、結核大国であった。特に肺結核が多かったのだが、この病気に罹るとほとんどが死んだ。樋口一葉、石川啄木、正岡子規、みな結核で若くして死んだことは知られている。この明治42年といえば、結核が日本中に猖獗を極めた時期である。この時期、大学教授を兼ねる開業医が、かつて結核にかかり、今は健康であるという提示は、読者、観客の驚きであったと思える。」と述べている[footnoteRef:3]。鷗外自身も結核にかかっており、それを長年隠していた[footnoteRef:4]。鷗外は1910年の日記に「十八日(金)。陰、大臣、病院長、軍医部員を諧行社に招かせ給ふ。予病を力めて陪す。是日痰鏽色になる。熱降りて粥を食ふことを得たり」と書いている。「痰鏽色」とは血液が痰に混じって出ていたことを示しており、鷗外の結核は『仮面』執筆後1年で再発していたようである。鷗外自身も肺結核を隠しながら、死ぬまでの人生10年余りを生きたのである。 [3:  山崎國紀『評伝 森鷗外』(大修館書店、2007.7.20)] [4:  山崎國紀『評伝 森鷗外』(大修館書店、2007.7.20)]

6. P489L13 「駒込」【設定】

東京都豊島区東部から文京区北部にまたがる地区で、現在では文京区側を本駒込、豊島区側を駒込として区別している。金井夫人と夫の金井教授が居を構えているのがこの駒込である。杉村博士の家のある駿河台から駒込までの距離は4.5kmほどで、徒歩だと約1時間かかる距離である。作中では電車を使って杉村邸を訪問しているので、所要時間はかなり短くなっていると思われる。鷗外も駒込に住んでいたことがある。1,890(明治23)年、9月に登志子と結婚し、10月に下谷の家を出て本郷駒込千駄木町57番地に引っ越した。屋号は千朶山房。1892(明治25)年に本郷駒込千駄木21番地に引っ越すも、屋号は同じ。

7. P490L7 夫人「電車が出来ましてからは、もう寒くつて人力には乗れない(略)」【設定】

山口栞がもうじき電車で来るだろうから、帰りの交通手段は違うから一緒に帰れなくとも待っていたらどうか、という杉村博士に対して金井夫人が返した言葉である。夫人や夫の金井教授もみな馬車ではなく電車を使うが、杉村博士は馬車の使用を勧めている。ここで言う「馬車」とは「鉄道馬車」のことである。東京では、市街電車の全身は鉄道馬車であった。1882(明治15)年に新橋・日本橋間において日本で初めての鉄道馬車が開通させた東京鉄道馬車会社は、その後東京電車鉄道と改称し、1903(明治36)年に品川・新橋間において電車路線を開業した。こうして東京の市街電車路線網は拡大していったが、その切り替え時期にあたる1904(明治37)年頃は鉄道馬車と電車の両方が同一の軌道上を走っていた。『仮面』が「スバル」第4号に発表されたのは1909(明治42)年であるが、この頃は電車網の拡大により、電車による通勤・通学が一般的になってきていた。『仮面』本文中には鉄道馬車も電車も同時に走っている描写があるため、『仮面』の舞台は1904(明治37)年頃であると言えるだろう。

8.P493L5「音楽学校の演奏会」

鷗外の帰国以降の音楽体験と知識の収集に関して、1908年(明治41)以降、日記で演奏会の記録を辿ると年に多くて1、2回、その内容は東京音楽学校での教師と生徒による音楽会がほとんどで、例外は1912年(明治45)の東京フィルハルモニイ会、1918年(大正7)日比谷公会堂での軍楽隊の演奏であり、たいていは家族同伴、或いは家族のみ行かせたケースも多い。子供の音楽教育のためという面もあったのだろう。

9.P494L1「Chopin (シヨパン)」【題材】

ショパンは1980年前後『仮面』の杉村博士や山口、森鷗外と同様に結核にかかっている。さらにそれが原因で友人マリア・ウォジンスカとの婚約が破談になっている。その後文学者ジョルジュ・サンドと9年間交流するもうまくいかず結核の症状の悪化もあり、1949年10月17日パリで生涯を閉じる。

10.P499L7学生「わたくしの頭の中は、丸でChaosの状態に陥つてしまつて」【研究】

「仮面と夜」によると、鷗外の直面している不安と緊張が山口の結核として置換されている、即ち山口が形代の役割を背負っている例として、鷗外は自己の不安を山口青年の当面している「Chaosの状態」として引き下げ、逆に己れを杉村博士の高所に引き上げる操作を行ないながら、ニーチェを援用して自己克服を試みた。

11.P500L6「Paulsen (パウルゼン)」【題材】

椋鳥通信にはFriedrich Paulsenの記事が1つある。「Friedrich Paulsenの遺稿の中から、教育学(Paedagogik)が発行せられた。大学の講義に使つてゐた手控を土台にして、女婿Willy kabitzが編纂したものである。宗教教育は信仰(Confession)を離れて、歴史的にするが好いと云つてゐる。書肆はCottaである」(1911年12月1日発信全集P612L8)

12.P500L8「顕微鏡」

林廣近「森鷗外「仮面論」―<伯林はもつと寒い……併し設備が違ふ>」によれば、顕微鏡は近代医学の象徴的道具であり、結核にかかっていることの真実性を保証しうる存在である。

13.P500L10「鼻目金」【題材】

南雲洋介「森鷗外『仮面』論」によると鷗外の「魔睡」[footnoteRef:5](「スバル」1909年6月)に登場する同名の医科大学教授杉村茂も鼻目金が特徴。 [5:  概略:旅行の準備をしていた法科大学教授大川渉のもとへ仲の良い医科大学教授杉村茂が訪れる。そこで大川の細君が母と共に磯貝という医者の元へ向ったことを知った杉村は、磯貝の元へ細君だけは遣るなと忠告する。それを聞いていた細君は大川に細貝の様子が変であったことを告げる。細君の話を聞いた大川は、それは魔睡術にかかったのだと告げ、これ以上細貝の元を訪れるなと細君にいう。その後旅行に出た大川は魔睡術にかかった間の出来事を考え不快感を感じる。]

14.P501L7「千八百九十二年十月二十四日」【研究】

森於菟「鷗外の健康と死」で於菟はこの日付は鷗外本人が自身の羅病を確認した日だと推測しており真杉秀樹「森鷗外の病の光学―『仮面』論」(「鷗外 七三号」森鷗外記念会 2003.11)でも「先妻の結核の事実や年代的な関係、また鷗外が自身の重要事件をしばしば作中に象嵌する傾向からいっても、その妥当性は高い」としている。[footnoteRef:6] [6:  山崎國紀『評伝 森鷗外』(大修館書店、2007.7.20)]

15.P501L13「人に知せたくないのだ」【研究】

森於菟「鷗外の健康と死」に鷗外の主治医の言葉が書かれている。「鷗外さんはすべての医師に自分の身体も体液も見せなかった。僕にだけ許したので、その尿には相当に進んだ萎縮腎の兆候が歴然とあったが、それよりも驚いたのは喀痰で、顕微鏡で調べると結核菌が一ぱい、まるで純培養をみるようであった。鷗外さんはそのとき、君に皆わかったと思うがこのことだけは人に言ってくれるな、子供もまだ小さいからと頼まれた。(中略)信実を知ったのはぼくと賀古翁、それに鷗外さんの妹婿小金井良精博士だけだと思う」とある。[footnoteRef:7] [7:  山崎國紀『評伝 森鷗外』(大修館書店、2007.7.20)]

16.P502L4「利己主義」【研究】

山崎國紀「評伝森鷗外」(大修館書店、2007.7)の「仮面」の項によると「なぜ『利己主義』か。それは己を守ろうとしたことを指している。当時は勿論、一九四〇年代まで、結核は死病であり怖い伝染病だった。結核患者が、その家族に一人でもいると、『肺病筋』とよばれ、忌み嫌われた。」とある。

17.P502L6「Nietzsche (ニイチエ)」【研究】

ニーチェが日本で初めて紹介されたのは明治26年(1893)、ドイツの哲学者ケーベル博士の講義である。その後様々な雑誌でニーチェ思想に関する論文が掲載され明治34年(1901)に美的生活論争[footnoteRef:8]が起こりニーチェの名は高まった。 [8:  本能を満足させるのが「美的生活」であり国家への奉仕を求めて知識や道徳を偏重し、本能を抑圧するのは偽善であるという高山樗牛の主張により道徳教育の批判意見が現われ、それに対して坪内逍遥などが非難した論争。]

鷗外とニーチェの関係を見ると、明治27年の古賀鶴所宛の手紙に「Friedrich Nietzeは余程へんなる哲学者ニ候小生の今迄読居たるHartmannとも関係あり尤もNietzeハ己ニ発狂せり」と記述し、ニーチェの思想を「智識の発達ハ少数人物のみありて此人間以上の人物は何をしてもかまわぬ(善も悪もない)とするもの」(「鷗外全集36巻」P28 書簡番号63)としている。まだニーチェの名が日本で有名でない時期に既に鷗外がニーチェに関する知識を持っていたことが分かる。鷗外の作品内でニーチェが現われるのは『仮面』を始め、『続心頭語』(「二六新報」1901.8)、『芸文巻第二評語集』(「萬年艸」1902.11)、『沈黙の塔』(「三田文学」1910.11)である。また夏目漱石『吾輩は猫である』(「ホトトギス」1905.1~1906.8)にも「超人だ。ニーチェのいわゆる超人だ」という記述などが見られる。

18.P502L8「Jenseits (イエンザイツ)von (フオン)Gut (グウト)und (ウント)Böse (ビヨオセ)」【研究】

長谷川泉「仮面」(「鷗外 19号」1976.7)によると杉村博士指摘したニーチェ「Jenseits von Gut und Böse邦:善悪の彼岸」での「仮面」に関する記述はまず「268」[footnoteRef:9]の「究極において月並みな平凡な体験こそが、人間をこれまで左右して来たすべての威力のうちで最も力強いものであったに違いない、ということである。より似通った、より通常な人々は常に有利な立場にいたし、またいまもそうである。選り抜きの人々、より洗練された人々、より稀有な人々、より理解しがたい人々はともすれば孤立的であり、別々に存在しているから不慮の災厄に逢会し、繁殖することも滅多にない。(以下略)」と「270」の「時には、痴愚すらもが不幸な、余りにも知りすぎた知識に対する仮面である。―そこからして、『仮面に対して』畏敬を持ち、心理学や好奇心を誤って用いることのないようにするには、より洗練された人間性が必要である、ということが明らかになる。」という部分である。[footnoteRef:10] [9:  『善悪の彼岸』ではそれぞれの言葉に通し番号がふられており、これはニーチェ著 木場深定訳『善悪の彼岸』(岩波書店 1970.4)のもの] [10:  山崎國紀『評伝 森鷗外』(大修館書店、2007.7.20)]

19.P502L9「仮面」【研究】

小堀桂一郎「『仮面』とシュニッツラー」(『森鷗外―文業解題(翻訳編)』岩波書店 1982.3)の記述で「戯曲『仮面』の成立にはまた、当時盛んに翻訳・紹介していたシュニッツラーが刺激を与えたに違いない。」とある。小堀は「虚偽と真実との入りくんで分明でない言を発する人物をシュニッツラーはしばしば描き、作中人物ひいては読者をも混濁する心理の薄明の中に誘い込むが、この方法は「仮面」にも見られる。」と述べたうえで仮面の表現について「シュニッツラーの仮面は、真実と虚偽、まじめとあそび、実在と仮象等の織り成す曖昧模糊とした境界に他者を引き入れ、懐疑と困惑の情とをもたらす中で、人生に対し自得するかのような人間のかぶるものであり、作品の面白さの原由も、これら二極間に揺れる人を描くところにある。(中略)これに対し鷗外作品のそれは平静な点で共通するけれども、人生態度に肯定的、上昇的精神が感じられ、『倦んだ世界諦念』やペシミズムは感受できない。シュニッツラーと類似の方法を織り込んでも、鷗外の「仮面」の面白さは、真実と虚偽との融交する曖昧・薄明の中にあるのではなく、運命に対してとる態度の明快さに見いだせる」と指摘している。

20.P502L12 博士「仮面を尊敬」

山崎國紀『評伝森鷗外』によると、「家畜の群」とは「風俗」かつ「他者」である。自己が秘匿せざるを得ない「死病」を抱えている限り、「他者」と同様には生きられない。「他者」と距離を置き、意志的・抑制的に、孤独に耐えて生きなければならない。これが鷗外の若年から最晩年までの処世のモットーであり、「仮面を尊敬」することである。しかし、劇中で告白してしまうと「仮面を尊敬」することにならないが、鷗外は博士を劇中の人物として、鷗外自身と切り離すという装置を用いることにより、一応「仮面を尊敬」するという立場を崩さない。ただ、読者に鷗外自身と受け取られてもよいという覚悟は確かにあっただろう。

21.P502L13 学生「僕も人には結核のけの字も言ひますまい。(中略)和歌山の母が此事を聞いたら、どんなに嘆くだらうと思ふと、目が昏むやうな心持がしてならなかつたのです。誰にも言はない事は母にも言はない。」

山崎國紀『評伝森鷗外』によれば、この学生の対応で「仮面」が結核を秘匿しているという意味を指していると分かり、学生が特に母に知られるのを心配している様子も鷗外の心情を伝えている。鷗外は

22.P503L4 博士「おれは君と共に善悪の彼岸に立つて、君に尽して遣る」

竹盛天雄「仮面と夜」によれば、この台詞は「結核菌をばらまきながらというのと同義であって一寸滑稽なことになってしまう。この卑俗さは、精神的思想的な次元において追尋されるべきものを、日常的処世的次元にすりかえることによって生じているのだ。結核患者の野放し治療と「君主の道徳」との取り合わせは、確かに工合が悪い。しかしこの不都合が鷗外の意識の中で罷り通ったのは、これは彼の「仮面」でなく「素顔」だったのではないかという一事である。」

23.P503L11 初の看護婦「植木屋のお上さん」

劇中に挿入される「植木の上さん」の、夫の急死を目前にした振舞や態度は、『半日』の「穀物屋の婆あさん」の挿話と文脈を同じくする面があり、これが「家畜の群の貴婦人」

24.P503L15 博士「Nägeliは殆どあらゆる死体に、結核の古い痕を認めないことはないと報告してゐる」【研究】

『評伝森鷗外』によれば、「絶対的治療困難とみられていた結核でも、自然治癒はあり得ると述べたことと同じである。これだけでも、当時の人たちの注目を集めるに十分である。」

25.P503L15「銀杏返 (いてふがへし)」【題材】

柳田国男「明治文化史」(原書房 1979.4)には明治22.3年頃には日本髪が流行し、明治30年頃に束髪が庇髪として流行、日露戦争後は二〇三高地髷が流行したとあり、「仮面」の舞台である明治40年頃は「これにかわって女学生でも唐人まげ・桃われ・銀杏返しなどを結うことが行われた」とある。(右図が銀杏返)

26.P503L15「絆纏」【題材】

襟を折りかえさないで着るものだが、「仮面」でのみよは「半襟を掛けたる」とあるので形は通常の絆纏とは異なる。作中ではそれを「新しき絆纏」と表現している。

27.P5005L8「本能的人物」【研究】

南雲洋介「森鷗外『仮面』論」によると「みよが体現する本能的人物、この処世の態度には『高尚な人物に似た処』がある」と述べながらも「実際には彼女は本能から行動をとっているのであり、高尚な人物が意図的に行うそれとは根本で異なっている」と指摘している。

28.P505L9「家畜の群の貴婦人」【研究】

武田勝彦『森鷗外――歴史と文学――』(明治書院、1978年6月)には「超人の母」とは対極の存在と明記されている。南雲洋介「森鷗外『仮面』論」(2008年度卒業論文)には真杉秀樹「森鷗外の病の光学」(「鷗外」通号73 2008.11)の言葉を借りて「因習的な家族関係に埋没し、その中での自己の役割を生きる外に人生の有り様を知らぬ存在」とし、それは作中の金井夫人であると指摘している。

29.P506L5「精養軒」【設定】

1870年に東京築地精養軒がホテルパン部を開店、1872年2月26日に東京築地に「精養軒ホテル」開業した。「精養軒ホテル」は西洋料理、特にフランス料理をおいしく提供することを主眼とし、フランスから料理長としてチャリヘスを招聘したのをはじめ純フランス料理を売り物にする予定だったが、せっかくの開業当日に会津邸からの火災で類焼している。[footnoteRef:11] [11:  小菅桂子『近代日本食文化年表』(雄山閣、2002.9)]

30.P507L3「号砲鳴る。置時計十二時を打つ。」【設定】

1871年(明治4)9月9日より江戸城旧本丸で正午に午砲(ドン)を打ち始める。時間の観念が曖昧で憶測に頼りがちだったためである。以降、午砲を合図に昼食をとる習慣が生まれ、都下では「ドン」と呼ばれ親しまれた。時計が普及して時間の観念が定着するにつれ午砲は無用の長物となり、1922年(大正11)9月15日に廃止、しばらく東京市がこの午砲を引き受けるも間もなく全廃止となった。

同時代評

無署名「四月の雑誌」(「時事新報 文藝週報」1909・4)

 巻頭に、附録として、森鷗外の新作脚本『仮面』を載せてある。どこか知ら睨らみの足りない様な節がないでもないが読んでは面白い脚本だ。結末『君はおれの結核の歴史も一の即興詩で、其意味での仮面だと思つて居るのぢやないか。どうだい』の一句、千鈞の力がある。

無署名「先月の創作」(「趣味」1909・5)

 近来新脚本は雨後の筍のやうに無暗に沢山出るが、殆んど読むに足るものすらない今日かゝる立派な作の出たのは喜ぶべき事だ。仮面と云ふのは博士が肺結核を秘してゐるのと、高い理想を持ちながら俗衆に同じて居ると云ふ二つの意味を寓したものであらう。極さつぱりとした作であるから、舞台上のエフエクトは演つて見ないでは分らぬ。然し幕切れなどは流石に面白いと思つた。

無署名「四月号の各雑誌」(「新小説」1909・5)

 善とは家畜の群のやうな人間と去就を同じくする道に過ぎない……その高尚な人は仮面を被つて居る仮面は尊敬せねばならない。と医学博士の言葉をかり書いて植木職佐吉の妻おみよの仮面の家畜の群に等しき貴婦人には到底真似の出来ない高尚の所を表はしたものらしい。

秋田雨雀「最近の創作」(「新潮」1909・5)

 之は、写実と云ふ点から云へば 余程進歩した形式だと思つた。イブセンなどはずうツと通り抜けたもので、或は斯うして行つたならば、脚本と小説とは余程接近したものになるかも知れぬ。人物の配合もよく出来てる。舞台の使用法も、仲々考へたものらしい。軽いユーモアを以て、理想へばかりイブセン風の思想を冷笑 て居る、と云ふ点が見える。作者の覗つた点もこゝであるかも知れない。イブセンのワイルド、ダツクの中の、グレイーゲルなどは、恰どこれと反対の立場である。ツルース/\と主張して居るグレイーゲルを、傍から冷笑して居る医者が一人ある。この作者はそれに似てゐる。「仮面」に出た大学生が、グレイーゲルのやうな人であつたならば、仮面と云ふ事を説明してる間に、鉄拳でも其の横面へ見舞ふかも知れない。シヨツパンの音楽等を聞きに行くまでもなく、席を蹴立てゝ、部屋を出て了つたかも知れぬ。幕切れに一緒に立つて、時計の龍頭を巻く所などは、軽くやると面白い舞台上の技巧であらうと思はれる。

無署名「最近文藝観 戯曲」(「帝国文学」1909・5)

 一幕物のして能く纏つて居る、舞台にかけても可成り能くエッフエクトをあらはし得ることと思ふ、前号の「半日」と云ふ小説よりは上出来であらう。

中村星湖「四月の小説界」(「早稲田文学」1909・5)

 これも脚本であるが、『廃馬』[footnoteRef:12]に比べると、同じくニイツエニズムを蔵しながら飽くまで現実に即して、無理にお芝居にしない所に価値がある一幕物としては舞台面の注意も十分だと思ふ。筋は山口栞と言ふ文科大学生が肺結核になつた事を知つて落胆するのを杉森茂と言ふ医学博士が、自分も嘗て然うであつたが、人に隠して今まで平気で生きて来た。ニイツェ「善とは家畜の群のやうな人間と去就を同じうする道に過ぎない。それを破らうとするのは悪だ。善悪は問ふべきではない。家畜の群の凡俗を離れて、意志を強くして、貴族的に、高尚に、寂しい、高い所に身を置きたい」と言ふ言葉を引いて「その高尚なる人物は仮面を被つてゐる。仮面は尊敬せねばなるまい。」と結局学生を説き伏せる。舞台の単調を破るために植木屋佐吉の死を挿入してある。ニイツエの議論の仮面も、衆愚に誇る為めの仮面ならばケチな仮面だが、衆愚と懸け隔つ為めの仮面ならば異論はない。 [12: 佐藤紅緑作『廃馬』のこと]

作品を読んでの評価はおおむね良好だった。そしてその中心は筋や思想に関してのものだった。

劇評

『仮面』は1909年(明治42)6月1日から伊井蓉峰一座によって新富座で上演された。同年6月6日、鷗外は、これを観劇に新富座に赴いており、日記に「新富座に往きて伊井一座の仮面を演じるを見る。大向の見物騒擾す」とある。『評伝森鷗外』によれば、「何に、「騒擾」したのか定かではないが、死病だった結核に、自然治癒がありうるような発言をしたときか、または、学生、博士の、いずれかの結核が解かったときに起ったものとみえる。

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・上田敏「『仮面を見て』」(「歌舞伎第百八号」、1909.7.1)

全体の感想として「一体に面白く見られた」と述べており、伊井一座を評価している。

また、俳優の評価について、「役者が思つたより旨いので感服し」たが、俳優が「発音の仕方が所謂新しい標準語と思えない」ため「言語に注意しない癖」があるとしている。演技は評価しているが、発する台詞は酷評している。

・靑々園「六月の劇」『(五)新富座の伊井、村田』(「歌舞伎第百八号」、1909.7.1)

演目として「『仮面』といふ渋いものが挿んである」と印象を端的に述べている。村田、伊井の演技について触れられている。

・秋田雨雀「最近の創作壇」(「新潮」、1909.7.1)

「此の間友人と一緒に新冨座の前を通つて、森鷗外氏の脚本『仮面』の博士と大学生と向ひ合つて、顕微鏡を覗き合つて居る絵を見て、急に見度いと思つて覗いて見た。

実は、初め『仮面』が新冨座で上場されると云ふことを聞いて、事実の如何を疑つた。然し、それが事実であつたので、私は驚喜した」と『仮面』上演に期待を抱くも、実際観劇した印象は「失望」と述べている。

また、芝居の俗受けと、新しい脚本の依る進んだ階級受けを狙ったばかりにどっちつかずになってしまったことを「残念」としている。

・春波生「『仮面』立見の記」(「演芸画報 第3年第8号」、1909.7.1)

劇評の内容は物語の筋を追って展開されている。「『仮面』の如き脚本をどれ程迄にし生かすか、それが見たい」と観劇したが、「恁 (か)う云ふ新らしい試みは、今迄の役者では見込がない」と指摘した。「何うしても古い型が出て来るので、作の真意を発揮することが出来ない」と役者によって作品の主題が薄くなっていると辛口である。

・大愚堂主人「六月の劇壇」(「演芸画報 第3年第8号」、1909.7.1)

新富座

中幕「仮面」是は鷗外漁史の作にて、一番目とは反対の辛らいもの、見物が一向に受けず、ワイ/\騒がれて困るとて除幕に廻したるは卑怯なり、斯かる作物がまだ一般の見物に喜ばれざる事は、始めより分かり切つたことなり、それを承知で出し乍ら、俳優の道楽だけで済ませるは、せっかくの勇気が無駄のやうなり。

・眞山靑果『劇団雑議』「この看客 (けんぶつ)を如何にすべき乎(鷗外氏作『仮面』を見て思ふ)」(「演芸画報 第3年第8号・9号」、1909.7.1)

「鷗外氏の新作仮面は近来注目すべき作品の一つ」で「舞台上の効果から云つても先づ勝れたもの」だが、上場の結果として「俗悪なる民衆」と民衆に「媚びる俳優ら」によって「辱しめられた」と言う。そこで、真の芝居が出来あがる要素である「新しい見物人」を求めるとした。

・水谷竹紫「六月の劇界」(「早稲田文学」、1909.7)

『仮面』を「実に淡々と」した「味はなくとも趣のある蕎麦湯」と評した。

☛劇としての「仮面」は好評とは言い難い。劇そのものより、役者や観客へ向けての意見が多く見受けられた。

俳優とその評価

博士…村田正雄、山口…伊井蓉峰、金井夫人…木村操、みよ…延太郎(丸山操)、

佐吉…藤井六助、三太…福島淸、遠藤医学士…井上政夫、

役/俳優

良い評価

悪い評価

総合

博士/

村田正雄

高田がいいと思ったのだから、村田ならいいだろう。つまりこの役はしっかりと落ち付いた原のある人にして、顕微鏡の取扱いだけは大いに研究してもらいたい。

意外によくなかった。台詞を覚えていないからだろう。肝心のニーチェの引事なども原に入っていないのであろう。

ただ台詞を暗唱しているとしか思われない。別に大した用意も苦心もないようだ。台詞も彼のが一番遠ざかっている。

これを演ずる多少の努力は認められた。

山口/

伊井蓉峰

十分。気の利いた神経質の人にやってほしい

村田より工夫も修練も積んでいたが、愛嬌がありすぎて不安や煩悶でじれている現代的青年とは見えぬ。自分の病名を知ってからの絶望、博士の秘密を聞く間の表情、聞いてしまって破顔一笑するあたり巧みにできた。

・中々熱心にやっている。出来るだけ原作に忠実でありたいと云う心持はよく見える。

これを演ずる多少の努力は認められた。

みよ/

延太郎

(丸山操)

誰にも好かれる様な、若い取廻しのいい女を現わしてもらいたい

×

・甚だ拙劣に之をやっている。普通の女々しい女が強いて冷然と構えているだけだ。これでは普通の女にさえなってはいない。何が何やら、一向不得要領な女である。

金井夫人/

木村操

声に大分寂が附いて来て、大学教授の夫人で齢三十の女性とは受け取れる

極おとなし向きの人柄な細君にしてやればよい

☛発表までの期間が短かったためか、演技はおおむね酷評が多い。特にみよ役の役者が本能的人物を表現されていなかったことに不満がある様子。

「仮面」と鷗外の周辺に就いて

年代

出版

鷗外の状況

1907年

(明治40)

1月「三越」(「趣味」)

9月「うた日記」(春陽堂)刊行

11月13日

 陸軍軍医総監に任じられ、陸軍省医務局長に補せられる

11月22日

 明治三十七八年戦役衛生史編纂委員長を仰せつけられる

12月22日  軍隊衛生視察のため東京を発つ

1908年

(明治41)

10月「脚気問題ノ現状ニ就テ」(「陸軍軍医学会雑誌」)

11月「猛者」(シュニッツレル・「歌舞伎」)

1月10日  弟•篤次郎死去。 11日、帰京。

2月5日   次男•不律死去。

5月30日

臨時脚気病調査会官制公布され、会長を仰せつけられる

6月    コッホ博士夫妻来日、歓迎の事にあたる。

1909年

(明治42)

1月「昴」(「スバル」)創刊

2月 半日(「昴」)

4月「仮面」(「昴」)

6月「一幕物」(易風社)創刊

7月「ヰタ・セクスアリス」(「昴」)

8月「東京方眼図」(春陽堂)刊行

12月「影と形」(「昴」)

4月    長女•茉莉小学校に入学。

5月27日 次女•杏奴生まれる。

7月

長男•於莬第一高等学校を卒業して東京帝国大学に人る。

7月24日 文学博士の学位を授けられる。

8月8日

「昴」の発売禁止により陸軍次官石本新六の戒飭をうける。

11月 妻•しげ子が小説『写真jを「昴」に掲載。

12月27日

軍隊衛生視察で東京を発ち、翌年一月十六日まで関西、中国、九州をまわる。

1910年

(明治43年)

1月「続一幕物」(易風社)

刊行

3月~44年8月「青年」(「昴」)

5月「桟橋」(「三田文学」)

7月「花子」(「三田文学」)

1911年

(明治44年)

3月「さへずり」(「三越」)

3~4月「妄想」(「三田文学」)

7月「流行」(「三越」)

2月11日  三男・類生れる

7月3日

 文藝委員会より「ファウスト」の翻訳の事を嘱せられる

この頃、恩賜財団衛生会設立にあたり、病院を建設して陸軍衛生部に委託すべきことについて尽力した

1912年

(明治45年

 大正元年)

7月「みれん」(シュニッツレル・籾山書店)

8月「羽鳥千尋」(「中央公論」)

  「我一幕物」(「中央公論」)

9月13日

 明治天皇大葬に参列して帰る途上に乃木希典夫妻の死を知る。

9月18日   乃木の葬を青山斉場におくる

鷗外が仮面を書いた時の状況

竹盛天雄は直前の小説『半日』を巡る問題を注視している[footnoteRef:13]。鷗外は私小説的作品『半日』を「スバル」三号(一九〇九・三)上に発表した。前述の問題とは、この作中で姑を厳しく非難する妻のモチーフが、自らであることを知った鷗外の実妻である志げとの間にあった、創作に関しての対立である。 [13: 竹盛天雄『鷗外その紋様』(小沢書店 1984・7)]

佐藤春夫によれば「スバル」に『半日』を寄せたのち、鷗外はその続編ともいえる『一夜』を脱稿したが、この作品は編集者に渡す直前に志げの「家庭内の態度の改善を」を条件として破棄されてしまったようである[footnoteRef:14]。一方で雑誌「スバル」への原稿引き渡しに追われる鷗外が新たに生み出したのが戯曲『仮面』なのである。 [14: 佐藤春夫編『鷗外全集』著作篇第二巻付録(1936・11)]

竹盛は「鷗外が『半日』の次に同一傾向の作品を書いたこと、したがって肩代わり作品『仮面』には、その傾向の補償作用としての意味を見立てることが可能だ」[footnoteRef:15]と推している。 [15: 竹盛天雄『鷗外その紋様』(小沢書店 1984・7)]

また、田中実は[footnoteRef:16]竹盛と同様に『半日』の続編としての可能性をほのめかしているところがある。「鷗外自身にとって仮面がこの時期必要不可欠な手段であり、方法であった」と、西洋に比べ思ったことをそのまま書くことが許されない状況にあったがゆえの必然とみている。 [16: 田中実「先導者としての森鷗外・覚え書―「半日」「假面」「追儺」のころ―」(「国文学論考」通号17 1981・2)]

結核文学から見る「仮面」

始めに

 森鴎外の作品『仮面』は、結核を扱っている。鴎外自身結核であり、生涯結核持ちだったことを家族に隠していたにもかかわらず、まるで結核にかかっていたと告白したのはどうしてだろうか。また、結核を扱った文学の中で、『仮面』はどんな位置づけにあるのだろうか。今回は、「結核」をキーワードに『仮面』を紐解いていく。

目次

0 結核とは(ムダに3Pもあるよ)

1 結核の流れ

2 結核と文学の関係

3 結核文学の分類分け

4 鴎外が「仮面」に至った経緯と創作した意図

5 まとめ(結核文学の中での「仮面」)

0 結核とは

<公益財団法人結核予防会のHPから引用>[footnoteRef:17] [17: http://www.jatahq.org/about_tb/index3.html(2013/11/5/10:16確認)]

☯結核ってなに?

▶結核菌という細菌が体の中に入ることによって起こる病気です。

☯どこが悪くなるの?

▶主に肺です(肺結核)。結核菌が肺の内部で増えて、肺が腫れてしまいます。続いて肺が壊れていき、呼吸する力が低下します。肺以外の臓器が冒されることもあり、腎臓、リンパ節、骨、脳など体のあらゆる部分に影響が及ぶことがあります(肺外結核)。

☯どんな症状がでるの?

▶初期の症状はカゼと似ていますが、せき、痰(たん)、発熱(微熱)などの症状が長く続くのが特徴です。また、体重が減る、食欲がない、寝汗をかく、などの症状もあります。

さらにひどくなると、だるさや息切れ、血の混じった痰(たん)などが出始め、呼吸困難に陥って死に至ることもあります。

☯うつるの?

▶結核は感染症なので、発病するとうつる(又はうつす)可能性があります。ただし、病状によって異なります 。

☯どうやってうつるの?

▶結核を発病している人が、体の外に菌を出すことを「排菌」といいます。せきやくしゃみをすると飛沫(しぶき)と共に結核菌が飛び散り、それを他の人が吸い込むことにより「感染」します。

☯うつるとどうなっちゃうの?(感染って?)

▶結核菌を吸い込んでも必ず「感染」するわけではありません。多くの場合、体の抵抗力により追い出されます。しかし、しぶとく菌が体内に残ることがあります。その場合、免疫が結核菌を取り囲み「核」を作ります。「結核」という名の由来はそこにあります。結核菌が体内に残っていても、ほとんどの場合、免疫によって封じ込められたままであり、一生発病しません。

 こうして菌が体内に潜伏し、封じ込められたまま活動していない状態のことを「感染」といいます。「感染した」だけの状態なら、周囲の人にうつす(感染させる)心配はありません。

☯「感染」と「発病」ってどうちがうの?

▶「感染」したからといって、全ての人が「発病」するとは限りません。「発病」とは感染した後、結核菌が活動を始め、菌が増殖して体の組織を冒してゆくことです。

 症状が進むと、せきや痰(たん)と共に菌が空気中に吐き出される(排菌)ようになります。ただし、「発病」しても「排菌」していない場合は、他の人に感染させる心配はありません。

☯どうなると発病するの?

▶感染した人が発病する確率は、5~10%といわれています。感染してから2年くらいの内に発病することが多いとされており、発病者の60%くらいの方が1年以内に発病しています。

 しかし一方、感染後の数年~数十年後に結核を発症することもあり、いつ発病するかわからないというのが実状です。どういう理由で結核菌が増え始めて発病するのかは、まだよくわかっていません。ただし、抵抗力のない人(お年寄り、過労、栄養不良、他の病気による体力低下等)は注意が必要です。免疫力が弱まっているときは、結核菌が再び活動を始め、発病しやすい状態と考えられています。

☯はやってるの?

▶昔は大変はやっていて、昭和25年まで日本の死亡原因の第1位でした。適切な治療法が開発されてからは、患者数は一時期を除いて減少しています。

 しかし、今でも年間2万3,000人以上の新しい患者が発生し、年間で2,000人以上の人が命を落としている日本の重大な感染症なのです(厚生労働省:平成18年度結核発生動向調査)。さらに世界に目をむけると、毎年実に165万人もの人が結核で亡くなっています ( Global Tubercurosis Control, WHO Roport 2008)。

1 結核の歴史

年代

結核にまつわる出来事

社会の動き

長い間…

遺伝説     VS  伝染説

→同じ家系内に遺伝的   →瘴気(悪い空気)に

 形質として伝わる     よって人に伝染する

18世紀後半~

・西洋諸国の工業化

 英国:産業革命と人口の都市集中

17世紀から結核の死亡率上昇

(製糸・紡績・織布工業の低賃金・重労働劣悪な住宅環境と栄養不良)・日本の産業化・都市化~昭和20年前後

 

→コレラ・赤痢・腸チフス・

疱瘡・急性伝性病・・・

殖産興業、富国強兵の下結核患者増加

1700年代

不可視の微生物or極小動物が原因?

     究明へ

1882年

治療法の研究が開始される

(明治)結核菌の発見!

1950年

治療法の確立

結核の用語の変化

【~明治初期】①労咳(Phthisis)―――――咳や羸痩 (るいそう)[footnoteRef:18]                  [18: 脂肪組織が病的に減少した症候をいう。いわゆるやせの程度が著しい状態。]

【~】②肺病(Consumption)―――灰に関連した病気 且 熱・咳・消耗・羸痩・喀血

③結核[footnoteRef:19](Tuperculosis)―――人間の体内組織に出来た腫瘍の様なもの。 [19: 1839年ドイツにいたスイス人の医学者シェーンラインによって命名。死亡患者の解剖の結果、病巣に結節が必ず見られることを発見したことによる。]

 何かの理由で「肺病」が美しい才能を与える病気であるというイメージが形成された??

肺病のロマン化(才能ある美しい若者が人生の途中で輝きながら死んで行く)

2 結核と文学の関係

日本

ヨーロッパ

結核のイメージ

文学者・芸術家特有の病

 真に才能ある物は結核患者であるべし

佳人(で美人)薄命の神説・天才の神話

 独特で甘美なイメージ

イメージまでの過程

(明治以降)

名だたる著名人(樋口一葉・石川啄木)などが名作を残し、死去

結核は才能ある人が発病する

創造的精神と病気の相関関係

(文学・芸術で名を残す人は結核で死ぬ)を想定したロマンティックな考え方へ

英国ロマン派の詩人たちが次々と倒れる

若者の青春を蝕む宿命の病

人を美しく、天才も開花する病気

結核こそ天才を生む!

ロマンティックな情熱が結核を引き起こす

現実は

普通の人も結核になるし、苦しみながら死んでしまう恐ろしい病気

何故こんなロマンティックなイメージがついたんだろう??

日本の結核にまつわる文学・芸術の歴史を見ていこう。

※   は自身が結核だった作家や芸術家

年代

作者・作品

内容

肺病のイメージの変化

M15

古川魁蕾[footnoteRef:20] [20: 1854(安政元)ー1908年8月20日(明治41)戯作者・新聞記者。本名は精一、号は古江山人・鬼斗生・竹のや雀。江戸生れ。]

『浅尾よし江の履歴』

結核

(医者の間で正しい病名を知らせない習慣が出来上がっていた→肺病に対する恐怖が広まっていった)肺病・宿痾という表現

M16

成島柳北[footnoteRef:21]『熱海文藪』 [21: (1837年3月22日(天保8年2月16日)-1884年(明治17年)11月30日)江戸時代末期(幕末)の江戸幕府・将軍侍講、奥儒者、文学者、ジャーナリスト。明治時代以降はジャーナリストとしても活躍。]

柳北により毎年のように執筆された熱海の遊記。48歳で亡くなる4ヶ月前に発刊

M19

末廣鐡膓[footnoteRef:22]『雪中梅』 [22: 1849年3月15日(嘉永2年2月21日- 1896年(明治29年)2月5日)反政府側の政論家・新聞記者・衆議院議員・政治小説家。]

M22

廣津柳浪[footnoteRef:23]『残菊』 [23: (1861年7月15日(文久元年6月8日)-1928年(昭和3年)10月15日)日本の小説家。]

子供もいる夫婦の話。妻が肺結核になるが、洋行している夫が戻り、最後には病気も回復しハッピーエンドに

肺病のロマン化

M23

斎藤緑雨[footnoteRef:24]『唯我』 [24: 1868年1月24日(慶応3年12月30日)- 1904年(明治37年)4月13日)明治時代の小説家、評論家。]

肺病を美しく書く傾向はみられない

M27

馬場孤蝶[footnoteRef:25]『流暢日記』 [25: 1869年12月10日(明治2年11月8日)- 1940年(昭和15年)6月22日)英文学者、評論家、翻訳家、詩人、慶應義塾大学教授。]

肺病の過程を明らかに示す

M29

泉鏡花『一之巻』

~(M30)『誓之巻』

(各社の報道に若干の不統一➔肺病の正しい認識が国民にいきわたってない→→肺病が隠ぺいされなければならない病気)一葉を見舞った時期に描かれた作品

一葉死ぬ

夭折が美しい

夭折・天才といった特別の意味を与えられる状況

藍井雨江・武島羽衣・大町桂月『病院』

江戸の労咳と、明治の肺病をつらぬいて、結核の原因と症状に関する共通の見方があった。

明治の肺病患者像(美しく貴顕)

1 勉学に秀でた青白い秀才の病

2 経過が風邪、気管支炎、肺病、肺結核性痔瘻と順を追って悪化する病

M31

徳富蘆花『不如帰』

結婚したばかりの浪子が肺結核となり、姑に離婚させられ死んでいく

のち歌や芝居、映像になるほどの影響を与える

ロマン化の分岐点

M35

永井荷風『新任知事』

上流階級

富裕階級の病

死に至る病を宿した胸が美しいという社会的容認があった。

正岡子規『病状六尺』

M41

国木田独歩『病状録』

全体的には抽象的な表現が多い

M42

山川登美子死ぬ

M42

田山花袋『田舎教師』

結核によって田舎教師のまま死んでしまう野心ある青年の悲劇

M43

石川啄木『一握の砂』

M44

長塚節『我が病』

   『病中雑詠』

絶望的心境を記している

T1

啄木死ぬ

M/T/S

竹久夢二

挿画・装丁・詩

物憂い美人

T7

青木繁

結核性肺炎を「おもちや」

➔親しいイメージ・病気への達観

逃れられない運命の果てに肺病による死

=特別な意味がある

T15

横光利一

『春は馬車に乗って』

結核になってしまった妻の看病と、その死を看取る夫の苦悩がテーマ

梶井基次郎『冬の日』

冬の夜に散歩をする肺結核を病んだ孤独な青年尭の心を描いた作品

S3

堀辰雄『病』

結核を「小鳥」

➔非現実的・夢想的なものへと逃避

読者にロマンのイメージをより形づけさせた

ココから読みとれる2つの事

●明治維新以来、次第に詳細を極めるようになった

●小説の一描写から、重要な役割を担うようになった

肺病は脇役の病・小説の背景をなす一つのエピソード→主人公の病・物語を動かすモチーフへとなっていくのだった。他方、時代がすすむにつれ、結核による死をテーマにした作品が氾濫・・・。徐々に陳腐なありきたりの表現へ人々が感じるようになった一面もある。

ちょっと観点をかえて・・・。結核だった人と結核じゃなかった人の描写の違いはあるだろうか。

自身が結核

作者『作品』

表現

廣津柳浪『残菊』

「四、五日は愚か、一週間過ても咳啑嗽は漸次強くなるばかり、熱も解る様子がありません。それに咳漱をいたす毎に、右の背から胸へ掛て、針で軽く刺さるゝ様に、妙な痛みを覚へます」という咳と胸の痛みの描写。

「二つ三つの軽い咳漱一何だか咽喉がムズ痒く覚へたので、ハへツと一つ絞る途端に… … あら血一鮮紅な一塊の血が、私の口から」、「『肺から出る血は、疾の中に糸の様な筋を引くと申しますよ』」という喀血の場面が描かれている

正岡子規『病状苦語』

「○此頃は痛さで身動きが出来ず煩悶の余り精神も穏やかならんので、毎日二三服の麻痺剤を飲んで、それでやう/\暫時の麻痺的愉快を取って居るやうな次第である。(中略)所が病気がだん/\劇しくなる。たゞ体が衰弱すといふだけではないので、だん/\に痛みがつのって来る。背中から左の横腹や腰にかけてあそこやこゝで更る更る痛んで来る事は地獄で鬼の責めを受けるやうに、二六時中少しの間断もない。」という痛みによる苦しみの場面が書かれている。

国木田独歩『病状録』

「白ら慰むるに足も、斯くの如してまで活きざるを得ざる程なら、余は寧ろ自ら殺すの甚だ容易なる覚ゆ。」自殺の誘惑

「余の癇癪は余の病苦の緩和剤なり。医師も友人も只管に『気を落付けよ』と勧むる所以を解せじ。正岡君(子規)の苦痛に堪へかねて泣き喚きしと同じ訳なり。」云々という癇癪や苦痛のことが書かれている。

梶井基次郎『冬の日』

「冬になって尭の肺は柊んだ。落葉が降り溜っている井戸端の漆喰へ、洗面のとき吐く疲は、黄緑色からにぶい血の色を出すようになり、時にはそれは驚く程鮮かな紅に冴えた。尭が間借二階の四畳半で床を離れる時分には、主婦の朝の洗濯は夙うに済んでいて、漆喰は乾いてしまっている。その上へ落ちた疲は水をかけても離れない。尭は金魚の仔でもつまむようにしてそれを⊥ 管の口へ持って行くのである。彼は血の疲を見てもうなんの刺激でもなくなっていた」「その日町へ出るとき赤いものを吐いた、それが路ばたの樺の根方にまだひっかかっていた」云々という血の混じった疾を吐いた描写がされている。

堀辰雄『風立ちぬ』

「病人はベッドの中で身体を横向きにしながら、激しい咳にむせっていた。」「病人は明け方にいつもする、抑えかねたような劇しい咳を出した。」という咳の発作の描写。「私ははじめて節子がけさ私の知らない間に少量の喀血をしたことを聞かされた。彼女は私にはそれを黙っていたのだ。」という喀血の描写もある。

→→喀血、血痰、痛み、咳など綿密な描写。

○結核は不治の病で、ほとんど短詩型文芸か随筆、日記に才能を発揮している。

○死ぬまでの時間が短い人は、短い文章のなかで病と向き合う複雑な心境を託している(長編小説を描く体力が残っていなかったと考えられる。)

自身が結核でない

作者『作品』

表現

田山花袋『田舎教師』[footnoteRef:26] [26: 青年時代からの親友が住職になっている寺を訪ねたときに、1.2年前に寺を間借りしていた青年の墓標があるのを見、その青年が肺病で死んだことを聞いて小説を書いた。]

「医師はやっぱり胃腸だと言った。けれど薬はねっから効こうがなかった。咳がたえず出た。体がだるくってしかたがなかった。ことに、熱が時々出るのにいちばん困った。朝は病気が直ったと思うほどいつも気持ちがいいが、午後からはきっと熱が出る。やむなく発汗剤をのむと、汗がびっしょりと出て、その心持ちの悪いことひととおりでない。顔には血の気がなくなって、肌がいやに黄ばんで見える。かれはいく度も蒼白い手を返して見た。」熱、咳、青白い顔や手、黄ばんだ肌という結核のシンボルを書いている。

徳富蘆花『不如帰』[footnoteRef:27] [27: ヒロインの片岡浪子は大山藏元帥の長女の信子]

「においも深き紅梅の枝を折るとて、庭さき近く端居して、あれこれとえらみ居しに、にわかに胸先苦しく頭ふらふらとして、紅の靄眼前に渦まき、われ知らずあと叫びて、肺を絞りし鮮血の紅なるを吐けるその時! その時こそ「ああとうとう!」と思う同時に、いずくともなくはるかにわが墓の影をかいま見しが。」など他1か箇所のみの表現。悲劇的描写が色濃い。

横光利一

『春は馬車に乗って』[footnoteRef:28] [28: 最初の妻キミがモデル]

「妻は彼から花束を受けると両手で胸いっぱいに抱きしめた。そうして、彼女はその明るい花束の中へ蒼ざめた顔を埋めると、恍惚として眼を閉じた。」青白い顔の描写。

→→吐血、痰などが詳細に書かれない傾向にある。外面的な顔や肌の様子が多い

○小説の形を取る事が多い。

○それぞれの結核患者にモデルが居り、結核を取り上げる動機になっている。

3 結核文学の分類分け

図にしてみました。

※自身が結核だった人のみ名前を挙げています (美化            貧困と苦渋・長患の苦病)

(恋愛      佳人薄命     夭折            天才)

(子規、長塚、国木田、啄木) (一葉、登美子、柳浪)

(破壊的な天才) (昔            今)

(青木、佐伯、竹久、梶井、太宰)

(=肺病と不可分なもの) (国民・一般市民)

(抑圧) (形骸化(イメージのみ残る) )

(高原療養派・軽井沢派・サナトリウム派 堀、立原道造、福永武彦)

この中で鷗外の「仮面」が入るとしたら・・・どこだろう??

自身は結核だったが、人々に知られていない・隠しているという意味では何処に入れるにも微妙な立ち位置。

てことで、「仮面」をもう一度振り返ってみるのが次の章。

4 鴎外が「仮面」に至った経緯と創作した意図(ようやく仮面・・・)

鷗外の動向と結核についてまとめてみました

年代

鷗外の動向/社会情勢

M14

東京帝国大学卒業時に助膜炎を患って静養

M20

鷗外がコッホの指導下に入る

M22

ドイツ帰国後、最初に公に結核に言及

『東京醫事新誌』「助労豫防法之一案」

M23~24

ツベクリン報道合戦(日本には薬液さえ到着していないのにもかかわらず)

→西洋医学に対する依存と信奉が急激に高まった

 増加する肺病患者・死者に対する根強い感情と有効な治療法に対する待望論

M31

九州小倉にある12師団に軍医部長として転勤を命じられる

M32

長男於菟が助膜炎に罹る

M41

1月

弟篤次郎(三木竹次)が喉頭種出血のため死去

2月

次男不律(後死去)・長女茉莉が百日咳で重態

6月

コッホ来日

家族の悲劇の中での来日で、歓待した。

日本の新聞にも取り上げられる

→人や国にとっても結核は危急の問題だった

M42

4月

「仮面」発表

7月

「ヰタ・セクスアリス」発表

8月

「長谷川辰之助」発表

M45

シュニッツラー「みれん」の翻訳を東京日日新聞に連載

→結核を患った青年フェリクスと恋人マリー

看護をしていたが、飽きてフェリクスを捨てる物語

➔結核患者に妙な英雄主義を鼓吹する所があった「仮面」と同じ

8月

「羽鳥千尋」を遺族に送付

身内に不幸が起るという悲しみの中、自身の体に目を向けたのがこのあたりの年代なんじゃなかろうか。さらに病気に自覚的になったというか。結核の描写について確認しよう。

「仮面」引用

夫人。(中略)痰の御検査が願つてございますさうで、今日も十時には御診察を願ひに参ると申してをりましたが、どんな工合でございませうか。あんな風で、血色も宜しうございますし、いつもと少しも変つた様子はございませんが、若し結核ででもごさいましては、容易ならぬ事だと存じまするので、

博士。熱は少しもありませんし、大して御心配なさるには及びませんが、さうかといつて、決して馬鹿にしてならないのです。

夫人。結核ではございますまいか。

夫人。さう仰やれば、いつでしたか、寒い日には胸の痛むことがあると申したことがございましたよ。それでは只今のも胸膜炎でございませうか。

博士。さやう。胸膜の方は、胸膜炎といふ程の事はないのですが、気管支の方が少し悪いのです。

まあ、病名を附ければ、矢張慢性気管支炎です。

夫人。それでは結核ではないのでございますね。

→余り詳しい描写が無いのが好く分かる。

更に博士が結核だったと告白するシーンでは

博士。(中略)おれは十七年の間、今日君に言ふまで、誰にも言った事はないのだ。(緩に。)おれの沈黙が、いかなるMotivから出てゐるか。それは君の判断に任す。利己主義かも知れない。そんならおれは極て冷酷な人間だらう。そんならそれを何故君に話すか。話すのは馬鹿なのかも知れない。(学生は次第に感動する様子にて目かがやく。同時に多少博士を疑ふ為め、謎を解かんとする如く、博士の顔を見ゐる。)君はNietzscheを読んだか。

学生。金井先生の講義に刺戟せられて、Jenseits von Gut und Bo-se丈は読んで見ました。

博士。さうか。あの中にも仮面といふことが度々云つてある。善とは家畜の群のやうな人間と去就を同じうする道に過ぎない。それを破らうとするのは悪だ。善悪は問ふべきではない。家畜の群の凡俗を離れて、意志を強くして、貴族的に、高尚に、寂しい、高い処に身を置きたいといふのだ。その高尚な人物は仮面を被つてゐる。仮面を尊敬せねばならない。どうだ。君はおれの仮面を尊敬するか。

学生。(意気軒昂の態度。)先生。分りました。僕も人には結核のけの字も言ひますまい。実は僕の煩悶は僕自身の為めの煩悶ではないのです。和歌山の母が此事を聞いたら、ぎんなにか歎くだらうと思ふと、目が昏むやうな心持がしてならなかつたのです。誰にも言はない事は母にも言はない。その代、先生、僕が学校に往くのを留めはなさりますまいね。

博士。(顔に微笑の影ほのめく。)うむ。留めない。(間。)医者としてのおれなら、君に学校も止めさせねばならない。転地もさせねばならない。併しそれは家畜の群を治療する時の事だ。君に君の為るが儘の事をさせて置いて、おれは、おれの知識の限を尽して、君の病気が周囲に危険を及ぼさないやうにして、(間、)そして君の病気を直して遣る。おれは君と共に善悪の彼岸に立つて、君に尽くして遣る。

鴎外にとって「仮面」とは:家族にさえ秘密にすべき重大な病

・自分自身が結核であることを隠すための仮面が、世間に対する保身のためのものだったという告白

・選ばれた人が当然被るべくして被った仮面でもあったとい、一種不遜とも思われる仮面への擁護

登場人物(山口)からして見れば:植木屋の急激な死と対比した、緩慢な死としての結核の特性とそれに対する恐怖の念が表白している←世間一般の反応「結核でゆっくりと死んで行くんだ」

伝染病で注意が必要な結核を生涯に渡って英雄的に隠し続けることを主張する鷗外

すでに社会を覆い�