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Title 明治前期における「西洋高等数学」の教育(数学史の研究 ) Author(s) 公田, 藏 Citation 数理解析研究所講究録 (2007), 1546: 230-246 Issue Date 2007-04 URL http://hdl.handle.net/2433/80767 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

Title 明治前期における「西洋高等数学」の教育(数 …明治前期における 「西洋高等数学」 の教育 立教大学名誉教授 公田 藏 (OsamuKota) Professor

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Title 明治前期における「西洋高等数学」の教育(数学史の研究)

Author(s) 公田, 藏

Citation 数理解析研究所講究録 (2007), 1546: 230-246

Issue Date 2007-04

URL http://hdl.handle.net/2433/80767

Right

Type Departmental Bulletin Paper

Textversion publisher

Kyoto University

明治前期における「西洋高等数学」の教育

立教大学名誉教授 公田 藏 (Osamu Kota)

Professor Emeritus, Rikkyo University

1. はじめに

明治 5年の 「学制」公布から明治 20年代の初めまでのわが国における高等数学の教育について述べる. 以下では「高等数学」 を, 明治から昭和初期まで用いられていた意味,すなわち, 当時の中学校で教授されていた内容 (初等代数, 初等幾何, 三角法) より進

んだ数学を表す言葉として用いる.明治前期において高等数学が教えられていたのは, ごく限られた教育機関においてで

あった. 陸海軍関係を除けば, 主要なものは東京大学とその前身校である. これらの学校における数学教育については [9], [11], [12] でも取り扱った. 以下の記述には, これ

らの旧稿と重複する部分もある.

2. 東京開成学校

東京開成学校は東京大学の前身校の一つであるが, その源は安政 3年 (1856) 設立の

幕府の洋学所で,「蕃書調所」 として開校されたのは安政 4年である. その後組織も名称もしばしば改められた.明治 5年の学制公布の際に第一大学区第一番中学となるが, 明治 6年に開成学校と改められ, っいで 「東京」 がつけられた. 東京開成学校は専門の学を教授することを目的としたものであったが, 専門学の授業が行われるようになるのは, 実質的には明治 7年(1874) からである. 明治 10年 (1877) 4月, 東京開成学校は東京医学校と合併して東京大学となる.「大学南校」 と呼ばれていた時期の, 明治 3年閏 10月 (1870) 改正の規則では, 課程

は 9段階に分かれ, 初等 (九等, 最下級) から五等までが普通科, 四等から一等 (最上

級) までが専門科であった. 普通科は語学と数学の教育が主で, 規則に示された数学の内容は

初等 数学 1 加減乗除八等 数学分数比例七等 数学開平開立六等 代数五等 幾何学

1この「数学」 は算術 (arithmetic) の意味である. 明治初期までは,「数学」 はこの意味に用いられ, 数学 (mathematics) を表す言葉としては「算学」 が用いられることが多かった. 本稿では, 当時の文献によって記述した箇所以外では,「数学」 は今日用いられている意味に用いる.

数理解析研究所講究録第 1546巻 2007年 230-246 230

である. 普通科の数学の最初の部分は江戸開成所『数学朝受本』が教科書として使用されたと考える. 専門科は普通科熟達の上で入ることを許され, 法科, 理科, 文科に分かれ, 理科の科目は

究理学 植物学 動物学 化学 地質学 器械学 星学 三角法 円錐法測量 微分 積分

である. 数学だけは分科に分けて記されている. 数学は微分積分までであるが, その内容や程度については不詳である.なお, 明治前期の理工系の高等数学の教育課程は基本的にはこれと同様で, 微分積分

が最終目標であった. また, かなり後まで, 理工系以外の学生に対する数学は, 初等数学のみ, もしくは解析幾何までということが標準のようになる. これは微分積分は高尚な数学で理工系のみに必要なものであると考えられていたことによると思われる.『東京開成学校第二年報 明治七年』 (明治 8年 4月刊) によれば, 明治 7年に法学, 化学, 工学の本科と予科の課程が定められた. 予科課程, 本科課程各三年で, 各学年ごとに学科目と簡単に内容が記されている. 予科の数学の内容は, 算術の復習, 代数, 幾何,三角法, 代数幾何 (アナリチカル, ヂヲメトリー) 2 である. 本科課程の工学科の 「第一年 下級」 の学科目の中には

高等数学 (ハヰヱル, マセマチックス) 3 [四術算 4 及微分積分 (クアトル

ニヤンス, ヱンド, デフヱレンシヤル, ヱンド, ヱンテグラル, カルキユラス)

重学論理及応用 (セオレチカル, ヱンド, アップラヰド, メカニクス)

図画推算学及製図 (グラフヰカル, カルキユラス, ヱンド, ドローウヰング)

などがあり, 別項には明治 7年 9月から 12月までの 4箇月間の各科目の授業内容が簡単に記されている. 教科書や担当者名は記されていないが, 翌年の英文の “The Calendarof the Tokio Kaisei-Gakko, or Imperial University of Tokio 5 , For the Year 1875’ に記載されている前年度 (1874–75) の学年末試験問題から, 明治 7年度の「高等数学」 は機械工学教授の Robert Henry Smithが担当したことがわかる. Smith は Edinbur帥大学出身である.『東京開成学校第三年報 明治八年』には各学科の課目と, 課目によっては教科書が

記されている. 工学本科の 「四術算」 には「ケルランド及テイト両氏」 と書名が注記されている. これは Phihhp Kelland (1810–1879) と Peter Guthrie Tait (1831–1901) の

共著の [8] である. Kelland は Edinburgh大学の数学教授, T田$t$ は自然哲学教授で, Tait

2当時は–2gff|\iota$analyticalg\infty metry$ の訳語として「代数幾何」が用いられた. これは『代微積拾級』の訳糖によったと考える.

3括弧内は原文では振り仮名である.4明治初期には quaternions の訳語は一定せず, 7東京開成学校第二年報\sim では「四術算」 が用いられて

いるが, 内容についての説明の箇所では「四数法」 となっている. 東京数学会社の訳語会が数学の分科としての quaternions の訳語を 「四元法」 と決定するのは, 明治 16年である. 中国数学には 14世紀初頭の朱世傑以来の,「天元術」 の拡張としての「四元術」 があり, これと酷似した「四元法」 という訳語を決定したことは, 当時の訳語会の関係者が中国や日本の伝統数学を重視しなかったか, 知らなかったことを示していると考える.

5Calendar は学校の便覧である. なお, 「東京大学」 という名称になる以前から, 英文では ImperialUniversity of Tokio という名称が用いられていた.

231

は熱烈な四元法の唱道者 (Quaternionist) である. “Calendar, 1875” に収録されている前年度の試験問題の内容から, 明治 7年度にもこの本が 「四術算」 の教科書として用いられたことがわかる.

William Rowan Hamilton (1805–1865) が四元数のアイディアを得たのは 1843年, 四元数に関する Hamilton の最初の著作 “Lectures on Quaternions” が出版されたのは 1852年であるが, Kelland-Tait [8] は, Ham-ilton の著作や T田$t$ の [19] よりも平易な四元法への入門書として著されたものである. 全 10章から成り, 最後の第 10章は Tait, それ以外の章は Kellandが執筆した. 第 10章では力学的な内容が扱われるが, それ以外の章では幾何学的な内容が主題である. 第 2章ではベクトルの和, 差, 実数倍と, 応用として幾何の問題が扱われ, 四元数は第 3章で, ベクトルの積, 商に関連して幾何学的に, 3次元の空間のベクトルにベクトルを対応させる作用素 (operator) として導入される. 第 4章から第 8章までは, 四元法の記号法による, ベクトルを用いての幾何で, 直線, 円, 円錐曲線が扱われている.明治 7年度の学年末試験において, “Quaternions” では 6問出題されたが, “Calendar,

1875’ にはその中の 4問だけが記録され, 脚注に, あとの 2問は記号がなくて印刷できなかったと記されている 6. 記録されている問題から, Kelland-Tait の (少なくとも) 第 6章 (楕円) までの基本的な内容は教授されたと考える. また, 微分積分は 7問出題され,うち 6問が記録されているが, 計算などの技術を問うものだけではなく, 概念について説明させる問題も出題されている. この年度の微分積分の教科書・参考書についての記録はないが, 英国の書物を用いたと考える. 試験問題は, 技能的な面では当時の英国の標準的な教科書であった Todhunter の微分学, 積分学の練習問題よりははるかにやさしいので, 教科書は Todhunter以外の書物ではないかと考えるが, 詳細はわからない.『東京開成学校第三年報 明治八年』では, 工学本科の 「微分」 に「チヤルチ氏」 と

注記されている. これは Albert Ensign Church (1807–1878) の [3] である. Church はWest Point の United States Military Academy 7 出身で同校の数学教授であった. 初版は 1842年, 増補版は 1861年で, 1870年代まで版を重ねたという. 微分, 積分, 変分法の三部から成り, Todhunter の微分学, 積分学とくらべると, 技巧的な問題は少なく, その点では Todhunter より平易であるが, 函数の幕級数展開の可能性や級数の収束性などには無頓着であり, 「$Cauchy$以前」 の微積分の教科書である 8.この年度の「高等数学」は James R. Wasson (ワスソン) が担当した. 内容は代数幾何

と微分積分であった. WassonはWest Point米国陸軍士官学校の出身で, 明治 5年 (1872)

来日, 開拓使仮学校教師, 開拓使測量長をつとめ, 明治 8年 (1875) 10月東京開成学校

6これは当時の活版印刷の状況を伝える一つの資料である.7フランスの \’Ecole polyt&hnique に範をとって 1802年に設立された学校で, アメリカにおける最初の

工学の専門教育機関である.8この書物の微分の部分は岡本則録により邦訳され, 岡本則録増訳『査氏微分積分学 上冊$J(|4])$ とし

て明治 15年に出版された. 邦訳では技巧を要する練習問題や原著に記されていない事項などが大幅に増補され, 原著とは趣の異なったものになっている. しかし, 原著では不十分である, 収束性などについての補筆はない. 邦訳で書き加えられた内容の中には, 原著者があえて記さなかったものがあると考える. なお, 小倉金之助は,「語りつぐ日本の数学」 において, Church の本は Lagrange の解析函数論の影響を受けたものであると述べ,「明治十年代における日本の微積分というものは, 一七一一八世紀における, ヨー

ロッパの長い微積分の歴史をコンデンスしたものでした」 と述べている ([16], pp. 335–336).

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の土木工学教師となり, 明治 10年 1月まで在任した $([26], PP. 71 -73)$ . “Calendar,1876” に収録されている明治 8年度 (1875–76) の試験問題から, 微分積分については,あまり深入りはしていないが, ひととおりのことが教授されたことがわかる.『年報』や“Calendar” には記録されていないが, この年度の 「四術算」 は, その内容から, 重学に関連して Smithが教授したと考える.『東京開成学校第四年報 明治九年』によれば, 明治 9年 7月に学科課程が改正され

た. 予科課程の数学の内容は第一年, 第二年は代数, 幾何, 第三年第一期で三角法及応用, 第二期で円錐曲線法及代数幾何である. 予科の数学の教科書は主としてアメリカのRobinson のものであった. Robinson の “New University Algebra” では三次方程式までが扱われ, 東京開成学校でもこの教科書によって予科の代数で三次方程式が教授された.円錐曲線法とは初等幾何的方法による円錐曲線である 9.工学本科下級の「高等数学」は課目名だけが記され, 内容は記されていない. この年度

のWasson の申報 1 には, 工学本科下級生に対して「代数幾何, 微分, 積分及陸地測量学ヲ卒’」 とある. Smith の申報には担当した個別の課目と内容に関する記載はない.「重学」 の中でベクトルは教えられたと考えるが,「四術算」 そのものについてはわからない.

3. 仏語物理学科

明治初期において最も程度の高い数学が教えられていたのは, 東京開成学校の物理学科, 後の東京大学理学部の仏語物理学科である. これは, 当初の, フランス語による 「諸芸学科 (polytechnique) 」 の計画 11 を縮小 (主として財政上の理由で) してできたもので, 明治 11年に最初の卒業生を出すが, 3回卒業生を出しただけで, 明治 13年には廃止されてしまうのである.『東京開成学校第四年報 明治九年\sim 所載の「物理学科要略」 によれば, 数学の教育

課程の概略は次の通りである.予科

算術 幾何学 代数学 三角法 画法幾何学第一年

追補代数学 平面代数幾何学 立面代数幾何学 画法幾何学 (理論及幾何図)

第二年 高等数学高等代数学 微分

第三年 高等数学積分 数理熱学

物理学科では, ほかに「重学」があり, 第二年の「高等重学」は微分積分を用いての力学である.『東京開成学校第四年報』には第一年から第三年までの数学の各科目の内容が

9藤沢利喜太郎は明治 11年東京大学予備門の卒業であるが, 藤沢は明治 32年 (1899) 夏の講習会での数学教授法の講義の中で, 自分は幾何学的円錐曲線法をドリュー (Drew) の本で教わったが, 大変難しいものであったと述べている $([7], P\cdot 366)$ .

$10$申報はその年度の教育に関する報告書である.11明治 6年 5月の文部省「外国諸芸学校教則」 の内容は, 東京開成学校で計画された「諸芸学科」 の内

容に近いものであろうと思われる. ここで,「外国」 とは外国人教師により教授されることを意味する.

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記されているが, 数学用語の邦訳は現代のものとは異なり難解なので, “Calendar, 1876’に掲載されている仏文のものを次に記す.

PREMI\‘ERE ANN\’EE.Alg\‘ebre compl\’ementaire.

Bin\^ome de Newton. S\’eries. Logarithmes alg\’ebriques. Th\’eorie des D\’eriv\’ees.

Th\’eorie et r\’esolution des \’equations alg\’ebriques et transcendantes.G\’eom\’etne analytique plane.

Ligne droite. Cercle. Courbes du second degr\’e. ThbOrie des centres,diam\‘etres, tangentes, asymptotes, foyers. Construction des courbes en coor-donn\’ees cartbSiennes et polaires. Similitude. Enveloppes. Sections coniqueset cylindriques.

G\’eom\’etrie analytique de l’espace.Ligne droite. Plan. Sph\‘ere. Etude des surfaces du second ordre. El-

lipsoide. Hyperbolo’ide et c\^one asymptote. Paraboloide. Surfaces coniques etcylindriques. Surfaces de r\’evolution.

G\’eom\’etrie descriptive. (Th\’eorie et \’EPure.)Plans tangents aux surfaces coniques et cylindriques, et aux surfaces de

r\’evolutions. Sections planes du c\^one, du cylindre, d’une surface de r\’evolution.Intersection de deux surfaces coniques et cylindriques. Intersection de deuxsurfaces de r\’evolution dont les axes se rencontrent. Intersection de deuxsurfaces quelconques de second ordre. Construction des ombres.

DEUXI\‘EME ANN\’EE.Math\’ematiques SuP\’erieur\infty .

Alg\‘ebre sup\’eneure.ThbOrie des d\’eterminants. Th\’eorie de l’\’elimination.

Calcul diff\’erentiel.Diff\’erentielles des divers ordres des fonctions d’une seule variable ou de

plusieurs variables ind\’ependantes. Th\’eorie des maxima et minima. Th\’eorie

des courbes planes, des courbes gauches, et des surfaces courbes. Etude deslignes trac\’ees sur les surfaces courbes.

TROISI\‘EME ANN\’EE.Math\’ematiques Sup\’erieures.

$Cdc\iota d$ int\’egral.Int\’egration des diff\’erentielles. Th\’eorie des int\’egrales d\’efinies. Application

\‘a la quadrature et \‘a la rectification des courbes. Th\’eorie des int\’egrales mul-tiples. Application \‘a la quadrature des surfaces et \‘a la cubature des volumes.

234

Th\’eorie g\’en\’erale des \’equations diff\’erentielles du premier ordre et des ordressup\’erieurs \‘a deux variables. Int\’egrarion des \’equations aux d\’eriv\’ees partielles.

Th\’eorie math\’ematique de la Chaleur.『東京開成学校第四年報』所載の邦訳は次のようになっている. 用語の邦訳には非常に苦心し

たと思われるが, 難解である.

第一年追補代数学ニ $=$ートン氏合名法 12 不尽聯数 代数対数 派式理論 代数及不直接方程式理論及其解法

平面代数幾何学直線 円 第二級曲線 中心, 経心線, 触線, 漸近線及焼点ノ理論 直線極点ノニ定位式二於フ- 曲線ノ作為法 類似法 包含線 円柱形及円錐形面ノ平蔵

立面代数幾何学直線 平面 球 第二級曲面ノ理論 側円形曲面 双曲線形曲面及其漸近円錐榔物線形曲面 円錐形及円柱形曲面 旋転曲面

画法幾何学 理論及幾何図錐形及柱形曲面及旋転曲面ノ触面 円錐形, 円柱形及旋転曲面ノ平裁 錐形若シクハ柱形二曲面ノ相蔵線 二旋転曲面ノ軸々相遇フ者ノ相裁線 第二級ノー切曲面ノ相裁線 陰画法

第二年 高等数学

高等代数学偉定数理論 除去法理論

微分諸自変数函数ノ諸級微分 増極及減極ノ理論 単曲線, 複曲線及曲面ノ理論 曲面上画線ノ理論

第三年 高等数学

積分微分ノ還原 定積分ノ理論 積分術 7用フ–曲線ノ積及長 7求ムル法 層積分ノ理論 積分術 7用 $\overline{\tau}$曲面ノ平積及曲体ノ立積 7求ノ法微分方程式ノ総論 二個ノ自変数 7有スル第一級及第二級以上ノ微分方程式還原部派式 7有スル方程式還原

数理熱論

東京開成学校や東京大学の『年報』や “Calendar” には仏語物理学科の教科書についての記述はなく,『年報\sim に収録されている教授の申報には, 仏語物理学科の教授のものはない. “Calendar” には前年度の試験問題が記録されているが, 記録されている仏語物理学科の数学の問題の数は少ない.東京大学の 1879–80年の “Calendar” には, 微分, 積分について次の問題が記録されている. これはその前年度 (明治 11–12年度) のもので, 出題者はMangeot教授である.

12 「合名法」 は binomial theorem の訳で, Alexander Wylie (偉烈亜力) と李善蘭が de Morgan の $u_{E1-}$

ements of Algebra” の中国語訳『代数学\sim で用いた用語である. 英語の binomial は, 元来は「二つの名前をもつ」 という意味で, 今日でも生物学では「二名法の」 という意味に用いられている.

235

Composition en Calcul int\’egralI. Nouver toutes les solutions de l’\’equation diff\’erentielle

$x^{3}dy-x^{2}ydx+y^{3}dx-xy^{2}dy=0$

II. Int\’egrer l’\’equation aux d\’eriv\’ees partieles

$\frac{1}{x}\frac{dz}{dx}+\frac{1}{y}\frac{dz}{dy}=\frac{z}{y^{2}}$

III. Etant $donn’\text{\’{e}}$ deux points fixes dans un plan, trouver dans ce plan unecourbe telle que le produit des distances de ces deux points \‘a chacune destangentes \‘a la courbe ait une valeur constante.

Composition en Calcul diff\’erentiel

I. D&omposer en fractions simples la fraction suivante

$\frac{x}{(x+1)(x-2)(x^{2}+1)}$

II. Trouver la somme des quatri\‘emes puissances des racines de $1’\Phi uation$ dutroisi\‘eme degr\’e

$x^{3}-3x+1=0$

III. Touver l’\’equation diff\’erentiele des projections des lignes de courbured’une surface sur le plan des $xy$ .

また, 東京開成学校の 1876年の “Calendar” に記録されている代数の試験問題の中の一問は次の通りである. 出題者は Mangeot教授である.

D\’ecomposer le polyn\^ome \‘a 5 variables

(I) $x^{2}+y^{2}+z^{2}+u^{2}+v^{2}+(x+y+z+u+v)^{2}$ ,

compos\’e de 6 $carr’ae$, en une somme de 5 carrbS de fonctions $homo\grave{y}\text{\’{e}}$ du $1^{er}$

degr\’e.Chercher s’il $y$ a une loi dans la succession de ces fonctions, et en d\’eduire,

par g\’en\’eraltsation, la d&omposition d’un polyn\^ome \‘a $n$ variables, de la forme(I), en une somme de $n$ carr\’es de fonctions homoghes du $1^{er}$ degr\’e.

同じ年度の平面解析幾何の一問を次に記す. 解析幾何では二次曲線以外の曲線も扱われている. 出題者は Fouque教授である.

Trouver l’\’equation de la Lemniscate sachant que cette courbe est le lieug\’eom\’etrique des points tels que le produit des distances de chancun d’eux \‘a

deux points fixes, nommbS foyers, est egal au carr\’e de la moiti\’e de la distancefocale. Construire la courbe.

236

記録された試験問題から, 教授された内容や程度について, ある程度のことはわかる.しかし, 記録された問題の数が少ないので, それだけからでは, 教育課程に示された各項目のすべての内容が実際に教授されたかどうかはわからないが, 大部分の内容はきちんと 授されたと考える. その一つの根拠は, 小倉金之助「明治数学史の基礎工事」 中の次の記述である ([15], p. 189の註 (3) ;[16], $PP$ . 165–166).

仏語物理学科に於ける数学の講義の中、 三輪桓一郎 (明治十三年卒業) 等の次のノートが、今日、東京物理学校に保存されてゐる。

Mangeot: Cours d’alg\‘ebre. ComPl\’ementaire et sp\’eciale. (1877)Dybowski: Cours de g\’eom\’etrie analytique, I, II.

前者は主として根数 虚数 組合せ 二項定理 その応用。 極限 無限級数 対数の理論。 導函数 (函数の変化 極大極小 級数の展開)。 方程式論 (整

函数の性質 デカルトの符号法則 複根 ロールの定理 スチ $n$ルムの

定理 根の分離 $–=$ートンの近似解法 超越方程式)

を収めた、 ブリオーやベルトラン風の高等代数である。 また後者は普通の高等学校程度の平面及び立体解析幾何であるが、相反極線の理論や、 二、 三の特殊な高次曲線に触れてゐる。 共に真面目な講義である。

これは第一年の教育課程の, 画法幾何学以外のものが, しっかりと教授されたことを示している. Mangeot, Dybowski両教授とも Paris の Ecole Normale Sup\’erieure 出身である. Dybowski-教授の解析幾何の問題は “Calendar” には収録されていないが, この小倉の記述と上に記した Fouquet教授の問題から, 解析幾何の内容程度のおよその見当がつく. ブリオー (Charles Auguste Albert Briot, 1817- 1882) , ベルトラン (JosephLouis Rancois Bertrand, 1822–1900) とも代数の教科書は 2巻本で, 第 2巻が高等代数である ([2], [1]). Briot と Bertrandの代数の教科書を比較すると, Briot のほうが内容の取り扱いが少し近代的である 13. 上の引用文中に記された, Mangeot教授の代数の講義ノートの内容の順序は, Briot の代数 [2] と同じ順序であるから, Briot [2] を主たる教科書として講義がなされたと考える. なお, フランスのリセの高等代数では微分が扱われているが, そこでは代数函数とは限らず, 三角函数, 逆三角函数, 指数函数, 対数函数などの初等超越函数も取り扱われ, 微分の逆演算として原始函数も扱われている.記録された画法幾何学や微分, 積分の試験問題から, これらの科目もきちんと教授さ

れたことがわかる. なお, さきに例示した代数の試験問題は, 今日ならば行列や行列式を用いて解くことができるが, Briotや Bertrand の代数の教科書には, この試験問題に直接に関連するような内容が取り扱われていないので, 行列式の部分は他の書物によったと考えられるが, 詳細は未詳である.「数理熱論」 については不詳である.現在国立国会図書館に所蔵されているフランスの数学書の中のいくつかは, もと東京

大学法理文学部の蔵書であり, 明治 13年に仏語物理学科が廃止された後の明治 14年 6月27日に東京大学から東京図書館に「交換受」 されたものである. これらの書物は, もと学

13Briot の代数の第 1巻 (初等代数) は, 後に邦訳されて陸軍士官学校で教科書として使用されている(ブリョー氏『初等代数学』, 陸軍士官学校, 明治 15年).

237

生の教科書参考書として東京大学法理文学部の図書館に複数部所蔵されていたが, 仏語物理学科の廃止に伴い, 東京大学ではそれだけの部数は不要として交換に出されたと思われる. その中には Bertrand の “Trait\’e $d’ Alg\grave{e}bre’$ , Briot の “\’El\’ements d’Arithm\’etique’’,

“Le\caons d’Alg\‘ebre’’, Briot-Bouquet $\sigma$) “Le\caons de Geom\’etrie Analytique” や, Legendreの “\’El\’ements de G\’eom\’etrie’’ (17版, 1873), Amiot の “\’El\’ements de G\’eom\’etrie’’ などが

あるので, 仏語物理学科ではこれらの書物が教科書や参考書として使用されたと考える.当時横須賀造船所費舎ではフランス人の教官による授業が行われており, それを記録した辰巳一のノートの内容や, 横須賀造船所の『平面幾何学 4 ([25]) から, 横須賀造船所饗舎で数学が本格的に教えられていたことが知られている. これは仏語物理学科で数学が本格的にきちんと 授されていたことに対する間接的な証拠である.

4. 初期の東京大学理学部

菊池大麓が明治 10年 (1877) に英国留学から帰国した後は, 東京大学における数学は外国人教師によらない教育になる.東京大学の英文の “The Calendar of the Departments of Law, Science, and Literature”の 2539-2540 (1879–80), および 2540–41 (1880–81)年のものにはそれぞれ前年度の学年末試験問題が掲載されている. 菊池の微分と座標幾何の問題も収録されているが,その数年前の SmithやWassonのものとくらべると, 程度も高くなり, 計算も複雑になっている. 仏語物理学科の試験問題よりも技巧的な計算を要するものが多い. 微分, 積分はもっぱら Todhunter の書物によっている.

“Calendar” の 1880-81年のものには各科目の内容 (Detailed Statement of the Coursesof Instruction) が記されている.「純正及応用数学」の内容は次の通りである.第一年の純正数学は “Plane Analytical Geometry” で, 教科書として Puckle の Conic

Sections が記され, 時間が許すならば Aldis の Solid $G\infty metry$ を始めると記されている.応用数学は初等力学で, 教科書は Todhunter の Elementary Mechanics である.

第二年の純正数学は “Higher Plane and Spherical Trigonometry”, “Solid Geometry”,“Differential and Integral Calculus and Differential Equations” で, 教科書として Chau-venet の Trigonometry, Aldis の So-lid Geometry, Tod-hunter の Differential Calculus と

Integral Calculus, Booleの $D$遼 erential Equationsが示され, 他に参考書としてWilhamsonの Calculus と Price の Infinitesimal Calculusが記されている. 応用数学は力学であるが,特定の書物を教科書参考書として示すことなく講義すると記されている.第三年の純正数学は “Higher Parも$s$ of Algebra, Calculus, and Analytical $G\infty metry$’

で, 主要な教科書参考書として Todhunter の Theory of Equations, Salmon の HigherAlgebra, Conic Sections, および Sohhd Geometry, Frost の Sohid Geometry, Todhunterの Integral Calculus と Calculus of Variations が記されている. 応用数学は第一学期は幾何光学と熱力学で, 前者については教科書は Parkinsonである. 第二, 第三学期は Statics,

Theory of Attractions, Undulatory Theory of Sound and of Light で, 教科書参考書と

14これはいわゆる 「神武紀元」である.

238

して Todhunter の Statics と History of the Theory of Attractions, Airy の Tracts, Lloydの Light が記されている.第四年の純正数学の主たる内容は “Higher Calculus and Higher Differential Equations”と “Modern Geometry and Quaternions” で, 教科書参考書としては, 前者については Boole の Finite Differences, Todhunter の Functions of Laplace, Bessel and Lam\’e 15,Boole の Diffferential Equations, Airy の bacts が, 後者にっいては Townsend の ModernGeometry 16と Kelland-Tait の Quatern-ionsが記されている. ほかに, “Short Review ofJapanese Mathematics” がある.

しかし, カリキ $\iota$ ラムは定められても, 明治 13年度には理学部の数学, 物理学及星学科の第四年の学生は在籍しなかったので, この年度にはここに示された第四年の内容は講義されなかった. 数学科の最初の卒業生が出たのは明治 17年で, 卒業生は高橋豊夫 1名である. なお, 翌年度以降の “Calendar” では, 教科書参考書が追加されたり, 内容が一部改められたりしている. たとえば, 教科書参考書については, 1881–82年度のものでは, 第二年の純正数学に Salmon の Conic Sections, 第三年の応用数学 (力学) に

Thomson-Tait の Natural Philosophy が加えられ, 1882–83年度のものでは, 第四年の純正数学に Cayley の Elliptic Functions がっけ加えられている.高橋豊夫は後に (1931年頃) 在学当時の数学科の内容を次のように話している (小倉

金之助「日本における近代的数学の成立過程」;[16], pp. 52-53)

菊池先生が用いた教科書は、 トドハンターの『方程式論\sim 、 トドハンター

の『微分』、『積分』、 ブールの『微分方程式』、 フロストの『立体解析幾何』であった。 平面解析幾何は教科書を用いなかったが、それはサーモンの『円錐曲線』のような講義であった. . .. . .

他に外国人がおり、イギリスのユーウィングは力学の講義をしたが、この人は日本にとっては、物理学の恩人で、磁気や地震の研究をやった先生です。またアメリカのポールがショヴネー (アメリカの数学者・天文学者) の『球面天文学』をやり、 ほかに寺尾先生の天文学の講義がありました。それからアメリカのメンデンホールが物理学の講義をした。 この人は富士山の頂で重力の観測をやった人です。その他に北尾次郎先生の音響学の講義があった。北尾先生の講義は、微分方程式がどんどん出てきて、 ほかの先生の講義とは、段違いにむずかしかった. . .. . .

『東京大学第四年報 起明治十六年九月止明治十七年十二月 $\ovalbox{\tt\small REJECT}(1883-1884)$ の, 菊池大麓の申報には, 次のような記述がある.

第四年生$I$\高等代数学 7修ム即チ方程式論, インヴェリアント, コーヴェリアント等ノ理ナリ又二次及三次解析幾何学ノ高等ナル部分 7修メタリ本年$I$\始

15正確な表題は, Todhunter, Isaac, An Elementary $I$}$aeat\dot{u}e$ on Laplaoe’s 恥 ncuons, Lam\’e $\epsilon Pi\iota nctions$,and Bessel’s Pbncuons である. なお, “Calendar” では, Lazn\’e が Lami と誤って記されている.

16Richard Townsend (1821–1884) は Dublin の Trinity Collegeの自然哲学の教授であった. Townsendの $u_{ModemG\infty met\iota\oint}$ ([24]) は, 全 2巻, 合計 700ページあり, Euclid の第 6巻までの基礎の上に平面図形の射影的性質を詳細に述べたもので, 序文にはフランスの Chaeles の書物などを参考にしたことが記されている.

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メテ数学卒業生一名 7出セリ而ルニ其論文ノ如キハ未夕甚夕高尚ナルニ至ラス是大 $=$学科ノ性質二由ルモノニシテ固ヨリ僅々三年間ノ専修ニテ充分ナル論文 7草 ‘\check ‘/得 $\sqrt[\backslash ]{}\urcorner 7$期スルハ望ム可カラザル所ナリ

この年度は, 数学科第四年級の 「高等数学」 において, 寺尾寿により日本で初めて複素函数論の初歩が講義された年でもあった. 寺尾は明治 11年仏語物理学科卒業で, 卒業後フランスに留学し, Parisで天文学を F Tisserand について学んだが, Bertrand の数学なども学んでいる. 寺尾の申報には次の記述がある.

数学第四年級ノ高等数学科二於テハ虚数ノ理論二基キテ諸種ノ函数ノ性質ヲ討究 ‘\check ‘’’終二之 7適用シテ楕円函数ノ理論 7授ケー学期 7以\mbox{\boldmath $\tau$}-業 7卒ヘタリ此科=於\tilde \check \gamma 本学ノ教員及卒業生ノ寿力講義 7傍聴スルモノ幾ト十名ノ多キニ至

リシバ甚夕栄誉トスル所ナリ独奈ンセン此科ノ深遽ナル専門家ニモ非 J寿力能ク其ノ蔵奥 7極メ 得ヘキニ非\mbox{\boldmath $\lambda$}且時間二乏キヲ以 $\overline{7^{-}}$十分二学生及傍聴者ノ意 7満タスコト能バサリシバ甚夕遺憾トスル所ナリ

(中略)

数学及物理学第三年級ノ最小平方法科二於テハ首メニプロバビリテーノ諸原則 7授ケベルヌーリーノ定理 (ふりがな : テオレム) 7証明 ‘\check ‘/而ノ後之 7適用シテ誤差ノ理論及最小平方法ノ理論及応用 7授ケー学期 7以\mbox{\boldmath $\tau$}-業 7卒ヘタリ

教科書や講義内容については不詳であるが, フランス系のものであったと考える.また,「物理学受持ノット申報」 には, 次のような記述がある. ノット (Cargill Gilston

Knott, 1856–1922, 東京大学在任は明治 16年 $-23$年 (1883–1890)) は Edinburgh大学出身で, 日本へ赴任するまでは Tait の助手であった.

第四年級物理学ノ授業科目 \nearrow \電気学及磁気学ニシテ毎週四時間概*講義 7以テ之 7授ケ且マックスウヰル氏著電気磁気学若クハトムソン氏著越歴静力学ノ解 ‘\check ‘/難*所 7講明シタリ

Maxwelの電磁気学 ([13]) は, 第 1巻の最初からベクトルを用いているが, 成分による表示も併記している. 第 2巻では, MaxweU の方程式を成分による表示で示した後に,四元法による表示を記している. 従って, ベクトルや四元法の知識がなくても一応読めるようには書かれているが, 四元法を知っているほうが内容を理解しやすい. また, 線積分, 面積分, Stokes の定理など数学そのものを述べた部分もある. Knott がこの本をどのように取り扱ったのかは不詳である.『明治二十一年分理科大学年報\sim の中の菊池大麓の申報には, 次のような記述がある.

第一年生ノ純正数学 $I$\第一期間毎週三時間主トシテ立体解析幾何学 7講スル筈ナリシガデテルミナント及四元法ノ為二意外二時 7要シタルニ依 1) 終二第一期二於テハ立体解析幾何学ノ端緒 7講スルニ止マリタレハ巳ムヲ得ス本年二限 $\iota$) 第二及第三学期二於テモ毎週一時間 ‘ノ ‘ $\backslash$ ノ講義ヲナシ辛クシテ其大意ヲ終レリ本学年ノ経験=依レハ此講義ノ時間 7増加セサルヘカラス

(中略)

240

右等ノ理由有ルヲ以\mbox{\boldmath $\tau$}-来学年二於テハ学科課程二少シク改正 7加フルノ必要アリ

学生ノ学業進歩等二付テハ特二記スヘキ程ノ $\urcorner$ナシ

菊池は「デテルミナント及四元法ノ為=意外二時 7要シタルニ依 )$I$ 」 と記しているが,

これは菊池がこれらについて詳細に講義したためであると考える. そしてそれは, 菊池がその前年の明治 19年 (1886) に, William Kingdon Clifford (1845–1879) の遺稿を最初は R. C. Rowe, ついで Karl Pearsonが整理編集して出版した “Common Sense ofthe Exact Sciences’2 (1885) を翻訳し,『菊池大麓訳 数理釈義\sim として出版したことと関係があると考える. このことについては [9] に述べたのでここでは省略する.数学科の学科課程は明治 21年 7月に改正され, 例えば第一年には毎週 3時間, 1年間の「解析幾何」 が設けられた. この改正によって, 数学科の学科課程は従前のものより整備され, 充実したものとなった. 学科課程の改正には, 上に引用した菊池の申報に記されているような実施上の不具合を直したこともあるが, 留学から帰国した藤沢利喜太郎の意見を取り入れて, 数学科を整備充実することが主たるねらいであったと考える.四元法と楕円函数論は, 明治 30年代までにわが国で教えられた数学の中で最も程度の

高いものであった.

5. 工学寮工部大学校

工部大学校は東京大学工学部の前身校の一つであるが, 最初は工部省工学寮の名称で,工部に奉職する工業士官を教育する学校として明治 6年 (1873) に開校された. 工部大学校と改称されるのは明治 10年 (1877) である 17. 預科 (予科) 学 2年, 専門学 2年, 実地学 2年の計 6年が修業年限で, 理論, 実験・実習, 実地体験を組み合わせた教育課程によって授業が行われた. 明治 18年 (1885) 12月, 工部省廃止に伴い, 工部大学校は文部省に移管される. 翌明治 19年, 東京大学は工部大学校を併合し, 帝国大学となる. 工学寮工部大学校における数学教育については [12] で詳述したので, ここでは簡単に記す.明治 7年 12月の「工学寮学課蛇諸規則」 によれば, 数学は「数学初歩」 (最初は「数術

初業」 と呼ばれていた) と「高等数学」 とから成り, 内容は次の通りである. なお, 以下の引用文は「法令全書」記載の工部省達によったが, 誤記もあり, 当時における数学の知識の普及の程度を知る上でも興味深い資料である.

一数術初業幾何学 ジヲメトリー代数 アルジヱブラ平面三角法 プレーン、 トリゴノメトリー対数 ロガリスムス

弧三角 スフヱリカル、 トリゴノメトリー

17工学寮工部大学校の英文名称は Imperial CoUege of Enginoering, Tokei である. 東京開成学校ではTokio と記されていることから, 当時「東京」 は「とうきょう」,「とうけい」の二通りに読まれていたことがわかる.

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幾何錐円裁面 ジヲメトリカル、 コーンス 18

一高等数術代数 アルジヱブラ三角法 トリゴノメトリー

平面代数幾何 コヲルヂネート、 ジヲメトリー立法形代数幾何 コヲルヂネート、ジヲメトリー、ヲフ、 スリー、 ダイメンシヨンス 19

積分 インテグラル、カルキユロス微分 デフイレンシアル、カルキユロス積分方程式 デフイレンシアル、イクウヱシヨン 2

ほかに, 予科の図学の内容の中に幾何平面図 (プラクチカル, プレーン, ジヲメトリー),幾何立方形図 (プラクチカル, ソリツド, ジヲメトリー), 配景法 (ペルスペクチープ)がある. また, 土木学や機械学などの工学の専門学の科目の中では, 力学や数学の応用に関する内容が扱われた. 数学教師は明治 6年から 11年までは D. H. Marshall, 11年から 13年までは F. Brinkley であった. MarshaU は Edinburgh大学の出身で, Brinkley は英国陸軍の砲兵大尉であった. Brinldey の後は, 数学は専門学の中で応用を主体としたものを除き, 邦人教官の担当となる.工学寮工部大学校では, 初期には各科目とも 2週間ごとに試験 (小試験) が行われ,

毎週土曜日は試験日であった. それらの試験問題は工学寮. 工部大学校の “Calendar” に収録されている. 記録されている試験問題から, 単に応用と結びつくものだけに限らず,本格的な数学が教えられていたこと, および, 年度を追うにしたがって, 数学とは限らず, 各科目とも教育内容が充実し, 程度も上がっていった状況がわかる. 解析幾何, 微分積分では Todhunter の書物が教科書として使用されたと考える.工学寮工部大学校では, W. E. Ayrton (ヱルトン, 1847–1908. 理学 21 及電信学教

師, 在任は明治 6年 $-11$ 年 (1873–1878) ) と John Perry (ペリー, 1850 –1920. 土木学機械学助教師, 在任は明治 8年 $-12$年 (1875–1879)) が, 1876年から方眼紙を積極的に利用した教育を行った. すなわち, ある程度の数学の基礎知識のある生徒に対して, 方眼紙を利用するなどの新しい方法を工夫して, 数学を理学や工学に活用することと, 理学や工学を通して数学を学ぶことを教えたのである. その意味では, AyrtonやPerryが在任した頃の工学寮工部大学校における数学教育は, 東京開成学校東京大学の工学科におけるものより充実していた. しかし, 教えられた数学の内容については, 東京開成学校東京大学の工学科のほうが程度が高かったといわれている.

18 「錐円」 は「円錐」 の誤りである. 英語も正しくは Geometrical Conioe で, 初等幾何学的方法による円錐曲線 (いわゆる円錐曲線法) である.

19 「立法」 は「立方」 の誤記である.$2-$工部省達の最後の 3行はこの順序になっている. 最後の行の積分方程式は微分方程式の誤記である.21この 「理学」 は物理学の意味である. 明治初期には「理学」 は今 日 の哲学の意味にも用いられており,たとえば明治 9年の「東京開成学校諸学科課程」ではそのように用いられていて,「理判 の内容は「心理学, 修身学」 であった. そこでは physics は「物理学」 と記されている. なお, 明治 5年の「学制」第二十七章, 第二十九章の小学校や中学の教科では,「理学」 は物理の意味に用いられている.

242

6. 私学の場合

明治前期に高等数学が教授されていた私学の例としては, 攻玉塾 (後の攻玉社) や東京専門学校 (後の早稲田大学) がある.近藤真琴の攻玉塾は明治 2年開設で, 海軍兵学校の予備学校の性格をもつものであっ

たが, 攻玉塾では明治 4年から微分積分が教えられた.『近藤真琴先生伝』 (攻玉社, 昭和

12年 (1937)) には, 攻玉塾の数学について次のように記されている (同書, pp. 29-30). これは明治 17年 5月の攻玉社調書によったものである.

数学\nearrow \平算、代数学、 平三角、弧三角亦航海測量術 7教フル準備トナスニ止ル。 故二平算、代数 7略 $\grave{\vee}$最\yen 弧三角 7研究セシム。 明治三年ノ半=及ビテ「イフクリツト」ノ幾何学 7加フ。明治四年ヨリ次第二高等代数学、載錐代数、幾何 22 、微分、積分等ノ諸術 7教授ス。是レヨリ漸ク数学専門ノ姿トナル。

初期の高等数学の教科書は Davies のものであった. 攻玉社で専修数学科が開設されたのは明治 19年である.また, 明治 14, 5年頃の東京専門学校の教育課程では, 理学科の修業年限は四年で, 数

学は第一年はTodhunterの小代数学, Todhunter と Chauvenetの幾何学, 第二年は Chau-venet の幾何学, Wilsonの立体幾何学, Chauvenet の三角法で, 第三年は Pudcleの代数幾何, 第四年は Todhmnter の微分積分と重学であった.小倉金之助「明治科学史における東京物理学校の地位」 ([16] に所収) によれば, 東京

物理学校で微分積分が教育課程に加えられたのは明治 24年であるが 23. 明治 23年 7月の攻玉社の専修数学科 (修業年限三年) の教育課程では, 微分方程式, 四元法, 重学まで扱われている. しかし, 攻玉社の専修数学科は明治 28年には廃止されてしまうのである.明治 10年代の半ばには, いくつかの西洋高等数学の書物の邦訳が出版されていた 24.しかし, 東京大学をはじめ, 高等教育機関で教科書として用いられたのは大体において原書のほうであった. これは. 当時の邦訳数学書では数学用語の訳語が一定していなかったことや, 訳文が固くて読みにくいものがあったこともあるが, 当時の高等教育機関での教育においては, 外国書に慣れることが重要であったことによると考える.

7. 東京医学校東京大学医学部

明治初期に理工系以外の学生に対して「高等数学」の内容が実際に教授された例としては, 東京医学校 (明治 10年からは東京大学医学部となる) において, Leopold Schendel( $\backslash .\nearrow\backslash$エンデル, センデル) が教授した数学がある. Schendelは明治 8年 (1875) から明治14年 (1881) まで日本に滞在し, 東京医学校東京大学医学部で数学と物理学を教えたドイツ人である.

22 「載錐代数、幾何」 は,「裁錐、 代数幾何」 ($\infty nic$ sectioms, analytical $g\infty metry$) であろう.23 しかし, フランスの代数の書物では微分を扱っているので, 明治 24年以前から代数の中で微分が扱われていた可能性があるが, このことについては筆者はまだ調べていない.

24高等数学の書物の邦訳と出版に関しては, 川北朝郊と長沢亀之助の大変な努力を忘れてはならない.

243

東京医学校および初期の東京大学医学部は預科 (予科) と本科に分かれ, 数学は主として預科で学ぶことになっており, 預科の下級生は算術から学んだが, Schendel が教えたのは預科の上級と本科の下級生で, 数学については初等代数, 初等幾何から高等代数と解析幾何の初歩で, ほかに物理学を講義した. 微分積分は当時の医学部では教えられなかった. Schendelは申報の中で生徒に「メモランド」 (Memoranda) を付与したと述べているが, その代数の部分はまとめて 1879年 (明治 12年) に横浜で [17] として出版された. これは本文 69ページ, 全 9章の小冊子であり, 序文も目次もないが, 代数の初歩から始めて三次方程式, 四次方程式や, 連分数, 簡単な Diophantos方程式など, かなり高度な内容までが記されている 25. [18] はこの邦訳である.この代数教科書の内容は, Schendelが当初計画していた代数の教育課程であったと考

えるが,『東京大学医学部年報』所載の Schendelの申報から判断すれば, 実際に教授されたのは第 6章の半ば位までであると思われる. 実際の授業の進度の状況と授業時間数の制約とからであろう. Schendel は三次方程式まで講義で扱っているが, 恐らく, 代数方程式の根の公式において複素数が本質的な役割を果たすのは三次方程式であることからであろうと考える.

Schendel の行った講義は, 理工系以外の学生に対する数学としては, 当時としては最も程度の高いものであったと考える.

8. 東京大学予備門と高等中学校

明治 10年 (1877) 4月, 東京開成学校と東京医学校とを併せて東京大学が設立され, 東京英語学校は文部省直轄から東京大学の付属となり, 東京大学予備門と改称された. 東京医学校の予科は医学部予科としてそのまま残った. 東京大学予備門の教則は当初は東京英語学校のものを踏襲したようであるが, 明治 11年 (1878) 6月に大幅に改められ, 修業年限は四年で, 東京大学法学部理学部文学部へ進むための予備にして博く普通の科目を履修せしむるものと位置づけられた. 数学の内容は三角法までで,「高等数学」 はない.予備門の修業年限や教育課程はこの後もしばしば改められた. 明治 15年, 医学部予科が東京大学予備門に併合されたが, 両者の教育課程の大枠はそのままであった. 法, 理,

文の三学部へ進むものと, 医学部へ進むものとに対する教育課程が同様なものとなるのは明治 17年である. この学科課程改正により, 予備門では, すべての生徒に対して 「初

等数学」 に加えて解析幾何が課せられたのであるが, その翌々年の明治 19年の中学校令によって, 事情は変わるのである.明治 19年 (1886) 4月, 小学校令, 中学校令等が公布され, ついで関連の法令が制定

公布され, 学校制度が整備される. 中学校令に続いて制定公布された「尋常中学校ノ学科及其程度」,「高等中学校ノ学科及其程度」 によれば, 修業年限は尋常中学校は五箇年, 高等中学校は二箇年で, 尋常中学校の数学の内容は算術, 代数, 幾何, 三角法 (球

面三角まで) であった 26. 高等中学校の数学の内容は

25Schendel がこの著述をするに当たって参考にした代数学の書物があったと思うが, それが何であるかは今後の研究課題である.

26明治 27年に「尋常中学校ノ学科及其程度」 が改正され, 数学の内容のうち球面三角は削除された.

244

平面解析幾何立体解析幾何ノ初歩方程式論大意微分積分

であるが,「法学志望生ニハ此科 7課セス, 医学文学志望生ニハ第二年 7欠ク」 と注記されている.

明治 21年 7月,「高等中学校ノ学科及其程度」が改正され, 高等中学校の学科は一部,二部, 三部に分かち, 各生徒にこの中の一つを履修させることとなった. 一部は法科, 文科, 二部は工科, 理科, 三部は医科に対応する. この改正により, 一部の中の法科志望者にも数学が課せられたが, 一部と三部は数学は第一年だけであった.その後のことを簡単に述べるならば, 明治 27年 6月, 高等学校令が公布され, 高等中

学校は高等学校と改称された. 高等学校令第二条には,「高等学校 $\ovalbox{\tt\small REJECT}$ \専門学科 7教授スル所トス但帝国大学二入学スル者ノ為二予科 7設クルコトヲ得」 と記され, 高等学校は専門教育を主とし, 大学予科を従とするものと位置づけられたのであるが, 実際には大学予科のほうが主となっていった. 大学予科の修業年限は三箇年である. ついで明治 27年7月,「大学予科規程」が制定・公布されたが, それによれば, 数学は, 第一部 (法科, 文科志望者) では第一学年のみで, しかも法科志望者はこれを欠き, 文科のうち哲学以外の科の志望者はこれを欠くことができることになり, 明治 21年の「高等中学校ノ学科及其程度」 の改正からわずか 6年で, 第一部では,「生徒全員に対して数学を課す」 ということはなくなったのである.このように, 明治前期においては,「高等数学」 はもっぱら理工系の学生生徒のため

のものであった. 明治 20年代以降の高等中学校高等学校において, 医科や農科などを志望するものに対する数学の内容は, 初期には解析幾何だけであったが, 後にはそれに加えて微分法, あるいは微分積分の初歩が教授されるようになる. しかし, 高等学校で「文系」の生徒全員に対して微分積分などの高等数学の初歩が教授されるようになるのは,大正 7年 (1918) 12月の新しい高等学校令になってからの, 大正 8年度からであり, こ

れが昭和 16年 (1941) 度まで続いたのである.

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