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Title カラクラの生涯 Author(s) 若松, 寛 Citation 東洋史研究 (1964), 22(4): 415-449 Issue Date 1964-03-31 URL https://doi.org/10.14989/152655 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

Title カラクラの生涯 東洋史研究 (1964), 22(4): 415-449 Issue ......416 。さらにまたバルラスは]65nrz-Z の長子。ハ l トゥル・タイジ切包昨日叶包含

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Title カラクラの生涯

Author(s) 若松, 寛

Citation 東洋史研究 (1964), 22(4): 415-449

Issue Date 1964-03-31

URL https://doi.org/10.14989/152655

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

Kyoto University

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全-け久局、。ル

第二十二轡第四強昭和三十九年三月霊行

清朝と北アジアの覇権を争ったズンガル討ロ

BH八』mmoロBHハ準喝爾〉

王園の史的研究は、従来その史料的制約によ

- 1一

t主

り、主としてガルダンハ喝爾丹)登場以後に限られている。本稿は、

せたガルダンの祖父カラクラ

O同

EA己白ハ恰蜘忽則、暗爾呼刑〉

端を明かにして、将来の研究に備えたい。

その帥献を補うために、

ズンガル王国を歴史に登場さ

の生涯に焦鮎をあて、

この時期のズンガル王園史の

カラクラについて、古くパルラス司包戸田聞は、

ハラフラの

rRErロロ仰なる異名を持つフトゥガイトゥのYロZm白iFEは、モン)コルのハ

lンに謝する以前の服従貢納義

務からカルムッタ人関色自己品目ロを完全に解放し、濁立させた諸首長宮町田窓口の一人であった。

415

とのベ、明代中期に購名をはせたエセン何回

g(也先〉の死後、四散したカルムヴクハHドゥルベン・オイラットロ

rσg

ow町包囲街並特〉が、その後の永い空白をへて、ズンガル部のカハハ〉ラク(フ)ラに至って復興をとげたことを停えている。

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416

さらにまたバルラスは

。]65nrz-Zの長子。ハ

lトゥル・タイジ切包昨日叶包含

Eは、すでに一六一六年に父から分れて、

イルティシュ同吋門戸田口]戸

に居住していた匂そしてそこでかれはしだいに強力になり、首時カルムックに多かった小首長らを従属させ、

年に二度目のプハ

lラ回日

EE攻撃での幸運によって豊かになった。

一六三四

ライ・一プマからフンタイジのr己ロgE回Eとしての特許司但芯己とエルデ-一・バ

lトル

一六三五年の父

(urRRr巳宮の死後、かれはダ

開丘四三切

BE吋の稿蹴を得た。

とのベ、その子バ

lトゥル・タイジ切

SE『叶

grE八切ミ白昨日

S1Z(巴園爾台吉)

ンガル部の覇織の基礎がおかれたことをのべている。

に至って

カルムヴクにおけるズ

ところが、これまでカラクラが貫在の人物であったかどうかについて疑問をもっ事者があり、むしろ否定的な意見が強

かった。しかし、これが漢文に通じないハワ

lス出・国

odq25の誤解に聾する意見にすぎないことは、かつて矢野仁一

博士によって、また近年護雅夫捕博士によってもっとも明快に論詰された通りである。

- 2ー

さらにまた最近モスクワから出版された沼田

45~E口。ヱ日。

EE℃吉宗?玄

ozE旬EEH。吋

5E25

g吋

1lHSF

25PES-(略稽玄ヱ℃玄。)は、表題のように、一六

O七年から一六三六年にいたる聞のロシアとモンゴルの交渉史

料集であり、この時期に属する計一三五遁にのぼるモスクワ中央政府と地方軍政官

ggoh白の往復文書、あるいはロシ

カルム(マ)ック聞の往復文書等の“記録文書"(〉℃同盟国ZE巾

h。ミ玄何回吋巴)が収録されている。それらはい

カラクラ、バ

lトゥルらの活動を俸与えたものもあり、雨者の父子

アとモンゴル、

ずれも賞時の生々しい記録である。それら文書の中に、

閥係の事買はロシア文書によってももはや動かしがたい。

郎ち一六三五年三月三

O日附のカラクラの宿敵アルツン・ヵ

lンの側近ダイン・メルゲン・ランズ泊白吉三岳可

EE包Z4

がロシア皇帝に宛てた書簡に(文書一一五挽。以下ヨヱ℃三。所牧の文書は軍に

hg-Z0・回目の如く表記する。)、

アルツン・ツア

lリ

~MPEES宇(宮下H

冨0・包ロ)は、黒カルマ

ック

宝ZA山富旬

55と七年間戦った。わたしは

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アルツン・ツア

lリとカラクラ穴白宮司習の子コンタイシャ

-ez昼間即日同を永遠に和睦させた。

とあり、

日〈白

Bq包が

EE岳民-E恰爾呼刑、暗刑忽刑〈O同BAd-同に、

その子穴。号曲昨日間が回

SZ

円。rggFrz

八回弓田宮崎門

HEms-]日巴圃爾浬台吉であることは何らの疑いもない。

本稿は以下三区℃玄O所肢のロシア文書を主材料にして、

カラクラの生涯を明かにするのが目的であるが、その前に、

カラクヲ登場の時期までに、

カルムックが北西モンゴリアにおいていかなる政治情勢におかれていたか簡単にふれておき

p

-

、。

争h

ド、LV

エセンが殺されると、瓦刺(衛位特)部は四散し、

担部がはなばなしい復興をとげて、この混凱に終止符をうった。

一四五四年(景泰五)、

モンゴリアは混乱に陥ったが

まもなく韓

-3-

一方その後の瓦刺部はどうなったのか、特にその住牧地がどこにあったのか。これらの酷について明側の史料はほとん

ど出黙を守っているが、蒙古源流は、

エセン・カガンの死を聞いて

タイスン・カガン、H,

a山田gmA白百ロ(岱聴汗)の若夫人サムル・タイゴ

ω自己円

S13

(薩睦爾太后)は、七歳になるその子メルギュルキス宮巾品目町

E目(萎見苦見吉田山)を伶い、クンゲイ・ジてフカン関宮自己

vgg(庫歪・礼巴恰)にドゥルベン・オイラットロα岳

g015仏(四衛刑特)を攻め、大いに伊獲を得て婦った。

とのベ、エセンの死後、ただちに轄担部は瓦刺部をクンゲイ・ジヤブカン地方に攻め、大勝を収めたことを侍えている。

クンゲイ・ジでフカンとは、和田清博士の推定されるように、「今の烏里雅蘇肇(ロロ司自己回目)の西、西北蒙古の阿雅爾

-札布汗(』白

FZロ)南河の流域地方」であると考えられる。

諾爾(〉可

R

Z掲げ日)に注ぐ坤桂(関口口自由む

417

さらに時代を降って、

一六世紀中葉、内モンゴリアのトゥメト叶民自色(土歎特)部長アルタン汗のドゥルベン・オイ

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418

ラット遠征について、

十家古源流に、

アルタン・カガン

-gロρミ田口(阿勤坦汗)は、御蔵四七、壬子の年(一五五二、嘉靖三一)、ドゥルベン・オイラγ

クンゲイ・ジでフカンにてナイマン・ミンガン・コイヅト

Z包BggEmEロρoヨ仏ハ奈回受明安輝特)の長

トに「灯丘(し、

マニ・ミンガトゥ冨SFBEmEZ(璃尼明喝圃)を殺し、妻ジゲケン・アガ出官庁日ロミム、二子トコイ叶oρoペ

ゲグュテル四百品丘四円をはじめ、全人衆を屈服させ、

降した。

ビニエ

かくしてコニン

OoEロmを占領し、

ドゥルベン・オイラットを

ドゥルベン・オイラットは依然としてその根操地をクンゲイ・ジヤブカン地方に置いていたと考えられる。

ンは和田博土によれば、和等、即ち略則和林である。略則和林がアルタン汗に占領されたことは、永幾年間に外蒙古が瓦

刺に占領されて後、ここに到

って韓組部の外蒙古経略が成功したものと考えられよ九。

とあり、

::z

ドゥルベン・オイラットに進軍し、

、円。コミ

EV吋oコロ仏(土爾庖特)を破

ったとい乱。

は壬成の年(一五六

ついでアルタ

γ汗の曾孫クトゥクトゥ・セチェン・コンタイジ

OEミEBNgρgmS1t(庫園克圃徹辰鴻台土口〉

エルチス阿片山広(額爾済斯)河にトルグlト

嘉靖四一)、

-4-

エルチス河はもちろんイルティシュ

FA℃吋巴巨河に外ならない。

ついで亦甲成の年(一五七回、高暦二)、

アルタン汗の一族プヤン・バガトゥル・コンタイジ

回口U1

同ロゲ同「由同己円

ρo口問

g-b(布延巴固雨洪ム旦口)兄弟はドゥルベン・オイラットを攻め、

カルガイ

O白コ回目(暗爾該)の南にて、エセルベイ・

キャ同白色σ刊日目弘司自由(額色勤貝侍衛〉

特)を降し、別寧はさらにジャラマン・カン

FEESρ自(演技璃汗)山陰にてバガトゥト切ミ伊丹昆ハ巴圃特)を討ち、

さらに迫跡三月にして、トゥパカン・カン叶己Eρgρ自(圃巴宰汗)山陽にチョロス作03印(紳羅斯)をはじめ、ドゥ

ルベ

lト・オトクりんい与

E20「を討って踊ったことが停えられている。

をはじめとするナイマン・ミンガン・コイヅト

Z同日目白ロヨ山口空白ロ

ρ01Lハ八千輝

和田樽土の研究によれば、

カルガイ山は杭愛山に、

トゥパカン、ヵン山は唐努・土播の土播汗山に比定されている。

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ャラマン・カン山の位置は不明だが、或はクンゲイ・ジャ。フカン地方にあったものかと推定される。和田博士は右の記事

にみえるナイマン-ミンガン・コイヅト〈奈量明安輝特リ八千輝一特)を輝特の一部分のようにみておられるら

シラ・ト

Iジ

ω町同神ロコH

コイット

001仏の系譜をのベた傑があり、

そこに、

スタイ・ミンガトゥ

ω己巴

BZmEZ。その子エセルベイ・キャ開852rqs曲。

とあり、

」の系譜は

父子と全く

ナイマン・ミンガン・コイット(八千輝特〉はコイット(輝特)そのものと考えなければならない。

蒙古源流の俸える

ω己陶即日EmEZ(索岱明安圃)

-何

SFSEU?白(額色勅貝侍衡)

一致するから、

以上の如く、

ドゥルベン・オイラットはエセンの死後、

一貫してクンゲイ・ジヤブカン地方に住牧し、明末アルタリJ

とその一族の攻撃を蒙

った頃には、

その住牧地はクンゲイ・ジてフカン地方を中心に、東は杭愛山陽に、西はイルティシ

ユ水源地方に、北は唐努・土播地方に及んでいたと考えられる。

ドゥルベン・オイラットがアルタン汗の攻撃によって外蒙古を失った結果、

を促したであろう。この間の事情を停えるのが衣のパルラスの記事である。

必然的にこの地域における外蒙古族の勃興

-5-

ハラフラの幼年時代、

また従って大龍一七世紀の初頭において、同盟せるオイラット諸族

lそれらの世襲的諸首長は全

て未だ年少で、

モンゴル人はつねにかれらの上に自己の支配権を維持しようと努めていた

lはモンゴルの

回、白山口}同叩一円

rg(カルムック人はかく呼ぶ)との数度の戟いに於て幸運に恵まれず、

に従属せざるをえなくなった。

ついにその支配機を承認し

多少ともそれ

文中のモンゴルの戸白山口}百円。r白ロとカルム

ックとの戦いについては、

カルム

ック俸承のつウパシ・コンタイジ停宮Oロml

司、。ロ日ロロゲ曲目払

ρ。ロ

HS刊日]片山ロゴミロ出」に、

419

侯遠白

355u『包南者は、

モンゴルのサイン・ライカル・カlン冨O口問司、

oEロ81ロE1ρ男

ρ削ロとドゥルベン・オイラットロOHσα

012仏の良

エ1メリン・アダク・シャラ・コルスン開

go--Z包ミ

rzρo-白ロロで戟い、和卒し削。

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420

とあって、パルラスの記事を裏づけている。

ωSJEu-s良心附ロは、

シラ・トゥ

lジによれば、

ライコル・カガンピミ五日

ρ白百ロは壬氏

5己ロロ。A巳の年に生れた。

白祖

壬戊の年は

一五六二年(嘉靖四一)とみられる。ライコル・カガンは欽定外務蒙古田部王公表縛〈園朝香獣類徴

とあり、

初編省首所牧)品位六一停四五曙爾略礼薩克閏汗部総俸にみえる賓瑚爾汗であり、表侍同慨によれば、

初賓湖南馬略爾略右翼長。所部以汗稿。倖子素巴第。始親孔薩克圃汗。

とあり、略雨曙右翼長の地位にあった。犠爾略右翼の牧地は、なお表停同保に、

元太租十六世孫格時森礼礼変爾濠台士口有子七。分掌略爾略左右翼。左翼徒牧闘技河界。右翼伺留居杭愛山ゎ

とあり、杭愛山にあったという。

とすれば、

ドゥルベン・オイラットはアルタン汗の時代に有していた杭愛山陽の地を賛

瑚爾汗に奪われてしまったとみなければならない。資瑚爾汗とドゥルベン・オイラヴトの和卒の時期について、

ウパシ・

- 6ー

コンタイジ停には明かでないが、バルラスによれば数度の戦いの結果であったという。南者の戟いにつぐ和卒の時期は、

資瑚雨汗の生年、内モンゴル族のドゥルベン・オイラット攻撃の時期などから考えて、

やはりパルラスのいうように、

七世紀初頭とみておくのが安嘗と考えられる。和卒の結果、

ドゥルベン・オイラヴトが礼薩克闘汗部に服従・貢納義務を

負ったことは後述する通りである。

この敗北の結果、

ドゥルベン・オイラットはグンゲイ・ジヤブカン地方を捨て、

遠くイルティシュ上流域へと移牧する

ことになるが、移牧の原因は、右の如き数度の戟いの敗北の結果惹起されたことは疑ないが、ドゥルベン・オイラヅトを

さらにイルティシュ下流へと追いやったのは、宗主礼薩克園汗に名目上従うにすぎなかったといわれるアルツン・カlン

の座迫であった。以下のベるカラクラの生涯は買にこのアルツン・カ

Iンの塵迫からドゥルベン・オイラットを解放する

事業に費されたのである。

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カラクラがロシア文書にはじめて蚕をみせるのは

一六一九年(高暦四七〉のことである。今世紀に入

って

ロシア政

府はシベリアを横断して、遠く中園に達する遁商路開拓の必要を感じはじめていた。再度の探査の失敗を繰返した後、一

六一八年五月にトムスク叶

05択を出量したイワン・ペトリンヱ富国口

2旬喜一行が北京に到達した一七世紀最初のロシ

ア使節となった。

使節行の結果は、

ベト

Hン一行が北京よりの輔途、翌一九年、首時ウプサ・ノ

lル吉岡

S380八

dg同EEHに本替をおいて

中国に達するには意外に困難の伴うことが判明しただけだったハ

2・H3FZ0・ωh・

ω♂

ω∞uω@)。

いたアルツン・ヵ

lンのもとに立寄ったさい、

カlンは一行とともに自らの使者タルカン・ラバ叶宅話回ab急白八口同ρg

vug同をロシアに涯遣し、次のような内容の信書をツアーに宛てている。

わたし

(Hアルツン・カIン〉の願いは、われらと汝らの聞に使節が往来し、わが商人は汝の固に、汝らの商人はわが

へと通路が聞けていることであ

った。われらの聞のこの友好関係をカルムックのカラクラ・タイシャ民阻むUPEES一

穴曲一宮沢同I

同阻み島巨曲

、が妨げている。しかしかれらカルムックは多勢ではない。もし大帝がトムスク、トポリスク叶。号事一日、

-7-

タラ叶曲宮の全兵士にわが兵と共に、これら悪人共

g下目、即ちカラクラ・タイシャとその民を攻撃するよう命じられ

るなら、汝の兵は汝の側から、わたしはわが側からかれに兵を出し、われらの聞に悪人共がいなくなり、通路が妨げら

れないようにしよう

(hO穴・

Z0・ωω)。

ここに初めてカラクラ・タイシヤ穴岳民三阻み陶酔日師

、がアルツン〉泊目白八ZHr・〉-昨日目金・ヵ

lンの敵として歴史に登場

する。アルツン・カlンについては、すでに先人の研究があり、詳細はそれにゆずるが、このときのアルツン・カ

lンは

初代のショ

lロイ・ウバシ・コンタイジ

ωo-♀忌同曲目

ρgmzuLU(碩盈烏巴什湾台士口)

の生れである。

であり、

シ一フ・トゥ

lジ

ω日吋但

421

Eコもによれば

丁卯

E-S己曲目の年(一五六七、'隆慶一〉

欽定外藩蒙古田部王公表停車位六三停四七

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422

礼薩克多羅貝勅根敦列俸によれば、碩盈は和托輝特部長であ

ったことがみえ、同部について、表停同様に、

蓋和托輝特矯略爾略極透。西近厄魯特。北近俄羅斯。俗喜開。烏梁海復錯魔其問。捕招射調。依木而居。納賦和礼輝特。

有事則籍之矯兵。故和託輝特。難隷礼薩克圏、汗。貰自矯一部。

とみえ、

和托輝特は略繭略の極遺に位置し、事貰上濁立をなす勢力にあ

ったといわれる。この和托輝特の名は、

ロシア文

書には全くみられず

アルツン・カlンの領地は

三O号obF25ω2bF玄)弓gvnR同国

ω巾玄白PPAV弓O旬rnROゆ『O円u員同℃円吋回0・三百「EF玄OE「O包泊・

などの字面で一不されている。

いずれも

B0・冨O

ロ型o-から、仮生し

局窓白出(地)、「onHh弓28(園)の字を別にすれば、

たものであることは明かであろう。カlンの本管が、格爾略の極遺ともいうべきウプサ・ノlルにあ

ったことは、

カlンに曾見したロシア使節イワン・ベトロフ甲山富田コ2hvO回の詳細な報告によってしることができる。また烏梁

一六

六年、

海の和托輝特に納賦云々の表俸の記事は、

一六三四年、

アルツン・カ

lンの本告を訪ねたロシア使節ヤコブ・トゥハチエ

- 8ー

アスキー凶

5回同,ヨEgnRM南町の報告に、

アルツン・ツア

lリとウルンカンの地

vdHEE国ωゆきヨとは仲が睦じい回

g回2mw。ハhO貝

-Z0・E)

とみえるいす苫

EZは烏梁海をさすものと考えられるから、

その信題性は十分考えられる。

次にふれておかなければならないのは、すでに引用したバルラスのいう「ハラフラの子パ

lトゥル・タイジは、すでに

一六一六年に父から分れてイルティシュ河に居住していた。」

という記事についてである

」の記事は

おそらくパル

ラスが

一六一六年に

バlトゥルの本営に抵達されたロシア使節トミロ・ぺトロフ吋

05goコ2吉田とイワン・クニチン

甲山田同国穴同国国民立国の報告に基づいたものであろう。

わたしもこの報告に基づいて、

もう少し詳しくパ

lトゥルの置かれた

政治的立場について考えてみたい。

ベトロフらは一六一六年晩春、

トボリスクよりイルティシュ河を測って行くこと二月で、大タイシャ、

ボガティリ・タ

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ライ・タイシャ。。hrEO出足跡目白切OE吋rGr↓宮島'国吉岡同の本営に到着した(岩国内-Z0・5)。

トゥル・タイジであることはいうまでもない。大タイシャは、西域圃志単位二九官制て附準喝南部警官制に、

準喝爾全境。分四街並特。各有首領以雄接之。合守其名日大台吉

c

猶前代語蕃部主之競也。

」のボガティリがバ

l

とある大台吉を意味するものであろう。バ

lトゥルが一六一六年にすでに父から濁立していたことはこの名穂を有するこ

とによっても確認されよう。さあにベトロフらによれば

全カルマックの筆頭の民間同自由旬

EZ詠タイシャはこのバ

(Hボ)ガティリ・タライ・タイシャである。(泊。宍・

20・5))

とみられているが、果してそこまでみていいか問題がある。なぜなら、バ

lトゥルの父カラクラがすでに記したように、

西北卒、ンゴリアに雄視するアルツン・ヵ

lンを脅かすに足る勢力を持

っている事賓があるからである。父カラクラのこの

ような買力をおいて、その子バ

Iトゥルがカルムック第一の買力者であったとはいえないであろう。ベトロフらの報告に

よっては、パートゥルの本管の位置ははっきりしないが、それがイルティシュ河の東岸、いまのセミパラチンスクに近い

一七世紀を遁じて盟の産出地として名高いヤムシ湖

EEH340周遊にあ

ったことは

ロシア文書によって明かであ加。

パIトゥルは地理的位置によって、もっとも嘗時のロシア人に知られた存在であったから、西北モンゴリアの情勢に暗い

-9-

ベトロフら、

いやそれが首時のロシア人の知識の全てであっただろうが

によってこのように停えられたのも無理はな

し、

ハートゥルの本営でのベトロフらの見聞によれば

いまカザック大オルグ穴

B25切。~HV自白泊。hvhH

同とキルギズ・オルダ吾曲目当

52g。日vh

同はカルマックに臣従し、

カノレ

マックはこの雨オルダよりも強力である。

(ho只

-Z0・E)

としい

また

423

カルマック人はナガイヱ同

E詩人を毎年殺している。

cvE)

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かし、これも文字通りには信じられない。

キルギズ(乞見士ロ思)を服従させ、またナガイを毎年攻めていたという。し

まずキルギズは昔時アバカン〉

EEZ河流域に住牧し、東はアルツン・カ

1ン

424

とあり、パ

lトゥルはカザック(恰薩克)、

により、西はカルムックによって挟まれ、南者の侵蝕するがままにまかされていたものである。パートゥルが服従させた

キルギズはその中の一部分にすぎなかったことは、さきのアルツシ・カ

lンの使者タルカン・ラバに託されたツ

71の返

警において、

カlンがキルギズからヤサク国内由民(毛皮税〉を徴牧していることに封するツア

lの非難のことばから推察

される(LHO

民-Z0・B)。カザックとナガイがカルムックの敵であったことは、すでに一六

O六年に、

カルムヅグ使節がタ

ラに来て、

ツア

ーにこの雨敵からの守護を歎願している事,貰からも伺える

(hO択・

Z0・80カザックに封しては

なお翌

七年、

カルムック使節がタラに来て、再度カザックからの守護をツア

lに歎願し、加えて、

はじめてアルツン・カ

lンの

名をあげ、

その攻撃からの守護を求めている宣言・

Z0・30

トムスクに来蹄したテレウlト部長

カルムックはアルツン・カ

lン及びカザックと戟って敗走したこと

また九年三月三一目、

が伴えられている

(hO町内・

Z0・3。

さらにまた九年七月二

O目、

カルムックより蹄還したロシア使節パスペルコ・ゴル

-10-

アパク公〉向日程

'EBVのもたらした情報によれば、

ービンロonロgM向。「O旬旬。出国に謝して、

カルムックが三度アルツシ・カlンとカザックに封するツアlの援助を歎願し

ている

(hO民-Z0・HO)

ことによって

一六一六年までにバ

lトゥルらカルム

ックはアルツン・カ

lン及びカザックに封

して激しい戟闘を繰返し、

ひとまずカザックに封しては小康を保つことができた程度と考えられる。しかもアルツン・カ

において、

ーンに封しては失敗だ

「たようにみられる。というのは、ベト

ロフらの報告によれば、ベトロフらは、バ

lトゥルの本営

アルツン・カ

Iンの臣下と中園人達限雪印邸内民国ゆき匡に舎い、かれらはヤサクをとりにやって来たと停えて

いるからである

(hO宍・

20・HS。もっとも中園人については、

ベトロフらが中園人に直接尋ねた所によれば、

アルツン・カ

Iンと中園は宗教と讃書きと言語は同

一である

(FE)。

と聞いていることから、この場合の中国人とは

いわゆる中国人ではなく、

おそらくアルツン・カ

lンの宗主、礼薩克圃

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汗部の人聞を意味するものではあるまいかと思う。

いずれにしても、パlトゥル、が一六一六年に父から濁立していたことは事買であるが、

薩克圏、汗に謝しては服従・貢納の義務を負っていたことは明かである。おそらく父カラクラも同様の運命を克れ得たとは

思われないが、その後間もな〈一六一九年にカラクラがアルツン・カlンを脅かす勢力にあったことはすでにのベた遇り

アルツン・カlンとその宗主礼

なので、このわずかの聞に少くともカラクラは自らをアルツン・カlンの姪桔から解放するだけの働きをしたものと考え

ざるをえない。この解放が束の間にすぎなかったことは次にのべなければならない。

さて一六一九年、

アルツン・カlンの源遺したタルカン・ラバはイワン・ベトリンに伴われて同年五月一六日、

トムス

-11一

クに到着し戸O民・

Z0・ω斗〉、

さらに一ブバは翌二

O年一月一

O目、

ョlドロヴィチ三国阿国民旬。岳戸O℃O

E一ぷの接見を得て、

モスクワに来り、同月二九日、

ツァ

l

、ハイル・フ

使節行の目的をのべている

(NHO甲子

Z0・色)。

一方、事態の緊迫化

を覚ったカラクラもただちにモスクワに使者を源遣し、

一族と全ウルス

uと同吉宮八百0・ロ

HEをあげて、

と歎願した。モンゴル、カルムック南使節の請願を受けたツアーは慮置にきわめて慎重であったことはもちろんである。

モジゴリア問題不干渉の立場を守ることにした。首時のロシア政府としては封ポーランド問題の方がはる

子弟、

大帝の御手の下に入らせ賜わんことを。

結局ツアーは、

かに重要であったからであろう。中園への遁商路開拓の課題は忘れられたわけではない、が、意外に中園への遭は遠くて、

且困難であることはすでに理解ずみである。この課題は西北モンゴリアに統一政権が生れるまで事買上不可能に等しい

ことも理解していたからであろう。一六二

O年、踊還するタルカン・ラバに同行したロシア使節に持たせたツアlの返

カlyがキルギズからヤサクを取っていることを強く非難し、もしカlンが「大帝の御手の下に入る

aE-出口

oh

425

書は

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426

E胃53田

222吋回同国

rH855ミ55」場合にのみ共同してカ

lンの敵に嘗ることがのべられているにすぎなかっ

たカラクラの場合も同様で、カラクラが「大帝の御手の下に入る」場合にのみ請願は聴許されることがのべられているに

すぎないρ

アルツン・カ

lンの使者タルカン・ラパがモスクワを去るとまもなく、

モスクワ政府はトボリスク軍政官に訓

令を宛て、

アルツン・ツア

lリと中園穴甲南島

2234h告の言。とムガール園

312V2234h白℃2回O(

H

アルツン・カlン

領)は遠い。そしてそれらの固からわが園に商人を通わせるには遠い。

ある回O町民向民間作。

それにアルツン・ツア

lリの遊牧民は好戟的で

ことを理由に、

ロシアとモンゴル、

さらには中国との一切の交渉を断紹することを巌命している。カルムックに封しでも

ロシア政府は一六二三年一

O月三

O日附のトボリスク軍政官宛の訓令において、

カルマックは人多く、好戟的である。

かれらをモスクワへ遁しではならない。(hO貝

-Z0・8)

-12

事情は同様である。

と命じ、従来のモンゴル、中園(礼薩克園汗部〉に加えて、ここにカルムックとの交渉断組を巌命している。

は、来るべきアルツン・カ

lンとカラクラの決戦に備えて、自らの門戸を固くして、受ける被害を未然にくい止めようと

何回F

したのであろう。

ロシア政府

かくしてアルツン・カ

lンとカラクラの宇いは一六二

O年から翌年にかけて行われ、結果はカラクラの惨敗に終った。

この戟いに秘かな閥心をよせていたロシア政府はトムスクよりテレウlト寸

ga吋部長アパク公〉

EH?ESVのもとへ

トヤン叶

OEなる者を涯遣し、情報収集に嘗らせた。二一年八月、賠還したかれの報告によれば、

コサック、

全タイシャ、

印ちトイラ吋O雷同とクラガライ穴一石白「宮島とメルゲン・タイシャヨ

42干2ESと他の全てのタイ

シャら、及び黒カルマック人は、皆オピ河にやって来た。:::原文敏:::チュムシュ河口可

25胃

ESoEE白に畳盈

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3-vohORを築いた。:::原文敏:::オピ河とトミ河叶05-voEの問、小ムスク市とクズネッツク城塞村

5a問。貝尻島

02勺hの聞に遊牧するつもりである。かれらがオピ河に集り、畳墨を築いたのは、

り、カラクラ穴間宮司白から妻子を奪ったからだ。ハhOR-Z0・8)

かれらをアルツン・ツア

lリ、が破

この戟闘の詳細は、

人ムクタル富山元一吋告のもたらした情報によれば、次のように停えられている。

口に操ったという。

カラクラ穴間宮弓旬間八

OR回Aロ宮は妻子を奪われるほどの敗北をなめ、逃亡してオピ河の支流チュムシュ河

カラクラの子チョクルきミ勺八の停骨(楚庫繭)

のもとに涯遣されたプハ

lラ

と停えられ、

ムクタルはカルマックのタイシャ、

チョクルとの封話にて衣のように聞いた。

カルマックのタイシャ、

カラクラ穴昌男三曲はアルツン・ツア

lリの攻撃に赴いた。

その敷四千。

アルツン・ツア

l

リの本営三百を攻め、多くの捕虜を奪って踊った。そこでアルツン・ツア

lリはこれを取押えるために、カラクラ・

タイシャに四千の兵を差向け、背後から三千人を差向けた。そしてカラクラ・タイシャの民を皆殺しにした。わずかに

カラクラ・タイシャは子供をつれて逃れた。

そこでわれらカルマックは皆イテイクエ4ER

山に滑い

カムイシュロフ

-13ー

同〈

mgE日旬。回河に滑って、

トゥメニ

叶目。宮内wzvから一

O日行程の地に遊牧しているのだ。

(hoFZ0・S)

右の報告によれば

カラクラは四千の兵を率いてアルツン・カ

Iンの本管に果敢な攻撃をかけ、一度は勝利を得たもの

の、頚勢をたて直したカ

lンのために、前後より二倍の敵に圏まれ、大敗北を喫し、チュムシュ河口に避難したことにな

る。カラクラが攻めたアルツン・カ

1ンの本営、がウプサ・ノ

lルに置かれていたことはすでに明かにした。敗れたカラク

ラはウプサ・ノ

lルを遠く去って、オピ河の支流チュムシュ河口に避難し、ここに畳長を築いて擦り、再起をはかったの

カラクラ軍の移動して操った範圏は、ロシア文書によって、ォピ河とトミ河聞の地方、ロシア軍の守備範固から

トムスク市とクズネッツク城塞村に影響を及ぼす範圏にまであったわけである。カラクラのこれまでの住牧地は

である。

いえば、

427

ロシア文書によってもはアきりしない、が、

おそらくそれは、南及び東はイルティシュ河の水源から直接アルツン・カ

iン

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428

領、印ちモンゴル園に接する地方まで、西はイルティシュ河の東岸まで、北はチュムシュ河に及ぶ範間にあったものと考

えられる。カラクラの住牧地に接して、二ハ一六年にすでに父から濁立していたパ

lトゥル・タイジはイルティシュ河を

カラクラの勢力範圏の中の西北方面の守りにつき、

ロシア側にはイルティシュ流域地方最

下ってヤムシ湖周遣に根捜し、

強のタイシャとして知られていたのであろう。敗れたカラクラは、

アルツン・カ

lンの本営を去って、遠く北に向い、

ビ河とトミ河聞の地方に移動せざるをえなかったのである。

次にこの決戦の時期とバ

lトゥル・タイジの役割を考えてみたい。決戟が一六二

O年五月以前になかったことは、

lのアルツン・カlン、及びカラクラ宛の勅書の日附からしられよう。しかし一

O月までには行われている

3

卸ち二

O年

7

一O月一

O目、

カルムックからウファ匂門官に逃亡してきたバシュキlル人ら切白E56zzの報告に、

カルマックのタイシャらにカザック・オルダのイシム・ツア

lリエ巳泊三

E5亨からの盤迫は大きい。イシムはカルマツ

クを多数殺した。

アルツン・ファ

lリの民もかれらを多数殺した。

そしてウルスを率いた二人のタイシャが妻子と共に

-14一

捕虜になった。

(hoFZ0・h

∞)

と停えているからである。カラクラ軍は二

O年一

O月までにアルツン・カ

lンに敗れて、翌一一一年八月、

レウlト部長アバク公から情報を得た時までにチュムシュ河口に移動していたわけである。

ロシア使節がテ

このバシュキ

lル人らの報告によれば、

カルムックはアルツン・カlンの攻撃に加えて、

カザックのイシム・ツア

lリ

!のー 激プf し

五 堅?迫) をの 受こ けとてでいあ たる同と。し、

カザック・ツア

lリ、

イシムは、

カザック大オルダの君長エシム同

g云汗(一五九八

一六一六年にパlトゥルの本管を訪ねたロシア使節は、バlトゥルがカザックを押えて、ヵ

ルムックはカザックよりも強力であったとのべていたが(参照、九頁〉、ニ

O年にはカザックは逆にカルムックを塵迫す

る勢力にあったことになる。二

O年九月にパ

lトゥルの使者ブガ切旬、日八日0・切口門戸白ら五人がトボリスクに来炉、シベリ

アのロシア領内へ移牧する許可を求め、さらに次のようにのべている。

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パートゥル・タイシャ切恒常国品目vvz足跡自陣自身は、トポリスクから一月行程のイティク山甲山JERO回百円。目置に遊牧してい

河とトボル吋。αO旬河聞に遊牧している。

る。他の多くのタイシャらもカルマック人をつれてツアーの領地たるシベリアの町に移牧した。そしていまイシム甲山自民認

カルマックのタイシャらが汝が園王のシベリアの町近くに移牧したのは、ア

ルツン・ツア

lリとカザック・オルダがカルマヅクのタイシャらを攻撃しているからだ。ハHHO

民-Z0・A

F吋〉

イティク山の位置ははっきりしないが、おそらくイシム河の下流に沿った地にあったとおもわれる。パートゥルはこの時

トボリスクから一月行程のこの地へ、つまり嘗ての根接地ヤムシ湖周透からはるかに北東へと移動せざるをえなかった。

移動をよぎなくさせたのは、アルツン・カlンからの敗北とカザックの塵迫のためであった。バlトゥルが父カラクラに

加ってアルツン・カ

lンと載ったことは全くロシア文書に見えないが、パートゥルの地位、買力からみて、この戟いに加

わらなかったとは考えられない

e

おそらくかれはこの戦いに敗れた後、アルツン・カ

lンの激しい墨迫を逃れて、故地ヤ

ムシ湖よりはるか北東イティク山にまで逃れざるをえなかったのであろう。従ってパlトゥルが父と共にアルツン・カl

ンの本営ウプサ・ノ

1ルを衝いた後、

一轄して敗れてトポリスクから一月行程と帯される地方にまで逃れた事貫から考え

Fhu

i

れば、その聞の移動期聞を考慮すると、

カラクラ軍とアルツン・カ

lンとの決戦は二

O年五月のツアーのトポリスク軍政

官宛の勅書が出されてまもなく行われたのではなかろうかと考えられる。パートゥルはこの後しばらくイティク山を根接

地とすることになる。

そしてこの地でモンゴルを避けつつ

西隣カザックに首らざるをえなかった。

カザックはカルム

ックがアルツン・カlンの激しい攻撃に直面したのを機曾に、この時とばかりカルムック攻撃に乗出したものと考えられ

る。そしてバ

lトゥルはこれに耐えきれず、北の方シベリアの町へと移動せざるをえなくなったのであろう。もっとも、

このカザックの攻撃が、アルツン・ツア

lリと協定の上で行われたする報告があるが、俄に信じ難い。

429

衣に、カラクラと共に戟ったトイラ、メルゲン南タイシャが誰だったか考えてみよう。

まずトイラ・タイシャであるが、これはアルツン・カ

lンとカラクラの決戟を俸えたもう一つの文書宣実・

2ο・包)

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430

タライ・タイシャ吋白Fh怠

-am巨白の説停であることは明かである。

長ダライ・タイシロ色白

FS1r(逮掴台什〉

によ

って、

タライ・タイシャはデルベ

1トロ

rr包ι

であろう。

このことは、バルラス、がデルベ

lトロ刊号え〈り

rrE部の歴史

をのベた中で、

デルベ

lトは族租

ωSEEr-mmと呼ばれているダライ・タイジロ色色叶包含

E迄は箪なる群衆にすぎなか「た。アノレ

タイの南、

ズンガルの東にてズンガルと友好的に暮らしていた。モンゴルとズンガルのカラクラとの戦いにおいてデル

ダライは臣下の大部分を失った。二ハ一二年迄この戟いに不幸な運命を共にした。そして残った

吋叫

民と共にイシム

HREEとトボル叶oσo-の地に集

った。

ベlトは損害を蒙り、

とあるりと巳叶包含

Eが、吋山富島・日出巨白であることは自明である。

ダライがアルツン・カ

lンとの戟いに敗れて

イシ

ム河とトボル河聞の地に逃げたことは、後のロシア側の記録と一致している。

次にメルゲン・タイシャであるが、これも泊。民-Z0・8によれば、

その名は正確には、

メルゲン・テメエ・タイシャ

-16ー

玄巾℃可。出・49Agr・4曲目由自由である。

ドゥルベン・オイラットの系譜をのベた中に、

キ・メルゲン・テメネ阿CBRmmロぽ自白口町はケレイゾト姓同日muユ仏

OBミな

り。

とみえる同日

HHM2mg仲冊目

gmと同一人物であろう。ケイ

レット姓、

シラ・トゥ

lジに、

つまりトルグ

lト部の大酋である

この

一六二O年の戟いは、

ズンガルのカラクラをはじめ、デルベ

lト、

トルグ

lト首長自らが加

ったカルムック軍がア

ルツン・カ

lンのために惨敗した一戦だ

ったのである。敗れたカルムック軍の中、ある者はオピ河とトミ河聞の地方に、

あるものは遠くイシム河とトボル河聞の地方に移牧せざるをえなか

ったの

である。

きて「チュムシュ河口の壁量で冬を越し、

トムスク市とクズ

ネッツク城塞村の聞の地方に住牧するつもり」だ

ったカ

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クラは、二一年春、すでにトムスク市とタズネッツク域塞村の近くに集結している。そしてトムスク市の近くからオピ河

までの地方に住牧する正式の許可を求めるための使者をモスクワに涯遺している。しかし使者は一二年末になっても腸遺

しなかった。との聞にロシア政府はトポリスク軍政官に訓令を宛て、トポリスクよりトムスタに二百人の火器を装備した

増援隊を波遣することを命じてい加。

翌二二年には、バ

lトゥルの根接地であったヤムシ湖が完全にアルツン・カ

lンの手におちていたことが確認される。

シベリア各地を混乱におとしいれざるをえなか

「た。しか

こうした結果、

ロシアの前進基地に接近したカルムックは、

しこうしたことはいたずらにシベリア嘗局を刺激させるのみで、再起を期すカルムッ、クにとって却って不利を招くばかり

ウファ市からイテ

である。今、安じて遊牧できる地はシベリアにしか蔑されていなかったからである。

一六二三年四月、

ィク山に移っていたパ

lトゥル・タイジの本営に、パートゥルをはじめ、

克)、バ

lトゥルの弟パイパギシユ切島

EEE八回白

1ZE由、

ウルリュク

VGB宍〈〔00〕主

ε〔和〕顎扇動

チョクルぷ自宅八口orcH(楚庫爾〉に曾見するために涯遣

されたロシア使節ワシリ

1・ヴォルコフ宮内盟主民∞。旬開向。回の報告によれば、その前年、ニ二年に、

パlトゥル、ウルリ

-17 -

ユクらはウファに使節を涯遣し

ツア

lの御手の下に入る用意があること、

ウフィンスク郡のパジュキlル人の村落を攻

撃するようなことはしないことを申出ている。この申出に謝する回答を携えてヴォルコフはイティク山に来たのであった

、が、ヴォルコフに曾

ったカルムックのマンギット・タイシャ玄室24ESRE白の話によれば、

タライ、H,

g同国

(H切OE叶宮下)は今、ウルスにいない。ムガ

lルのアルツン・ツア

lリと戟うために出かけてしまっ加。

とあり、パ

lトゥルは五月にはすでにアルツン・カ

1ンと一戟を交えるためにイティク山を出たあとだ

った。留守を預る

マンギット・タイシャは改めてロシア使節に前年バ

lトゥルらが涯遺した使節の意味を説明し、

ロシアの援助を求めてい

431

ツアーへの恭順の意志を表明している。

入る」というのは、あくまでかれらの政治的ゼスチュアに過ぎまい。こうした意志を表明することによ

ってロシアの好意

る。パ

lトゥルらはシベリアを混凱させないことを誓い、

「ツアーの御手の下に

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432

をひきつけ、友好的態度をかち得ることによ

って、外敵に封』廃する時に、

ロシア側から自らの背後を街かれないようにす

るための方策であ

ったように思う

u

ロシアにと

っては、敢て西北モンゴリアの宇いに介入する必要は何もなか

ったのであ

一方カルムックにしても敢てロシアに臣従する必然性もなかったからである。

るイティク山を出たパ

lトゥルは箪をイシム河の地に集結した。同二三年六月二八日、

カルムックからトゥメニに踊

った

カザンのタタル商人ウラズボクタ・ウラズリエフて

Ea223u自主自らのもたらした情報によると、

しまカルマックのタイシャら、つまりバガティリ切回日叶E-uvハHバlトゥル〉、

イシム王子

XE虫干

53sdはイシム

SEEP向に遊牧している

w

チョクル

403、一j

℃はイシムの上流に沿って遊牧している

Q

コゼニャク}〈。ωmwE出訳、

ゼングル

ω巾出「可旬、

バブガ切帥AJE、カイカ穴白出欠陥凶、

一方、

カルマックの

タイジャ、

ウルルク叱目yvH旬開

(uu可℃旬。R,)、

かれら全タイシャ

はイルティシュとイシム河問、

カムイシュロフ穴。ヌEEL-O回に向って集結している。

そこに家畜と財産が運んである。

- 18一

かれら全タイシャはムガ

iル人と戟う準備をしている。

妻子、家畜、財産はカムイシュロフ穴白冨EE'吉田に留めてあ

る。

(hHO択

-Z0・8)

とあり、

カルムック軍が再び全勢力をあげてアルツン・カ

lンとの決戟に乗出したことを侍えている。

ク軍の作戦は、

イシム河とイルティシュ河聞のカムイシュロフ地方に集結したパ

lトゥル、

カムイシュロフ

イルティシュ河の西岸に注ぐその支流カムイシュロフ河の流域地方とみられる

d

カルムヅ

チョクル、ウルリュクらの西

}〈ogzE旬。回、tx何

VEE旬。∞は

軍と、

チュムシュ河口に操っていたはずのカラクラの率いる東軍が、東西合して、

アルツン・カ

lンに首り、故地イルテ

ィシュ上流域地方を回復しようとしたものと考えられる。この作戦は、

ロシア側には何も俸えられていないが

おそらく

カラクラの指導の下に行われたものとみられる。

マシギヅト・タイシャのもとから踊還するロシア使節ヴォルコフと共に、

マンギット・タイシャはツア

lに向けて援幼

ウファ経由でモスクワに到着したが、何らみるべき成果を枚めなか

要請の使者を仮遺した。使者は同二三年一

O月八日、

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った公定-Z0・080使者のモスクワ到着をきっかけに、

アルツン・カ

lンの使節のモスクワ入りを殿禁したのである(参照、

同年末、

ツアーは勅令をもって

今後一切カルムック使節と

一二頁)。

モスクワ政府は西北モンゴリアの情勢不

穏を察知して、

シベリア首局に情勢静観を命じたのであった。

」の戟いの結果は

ロシア側の右の如き態度の故か、明白なロシア側の記録が見嘗らない固ただ翌二四年六月五日、ト

ゥメニ市にカルムック使者が到着し、アルツン・カlンの迫害

32Z25を理由に、ツァlの保護を求めたことを記録

おそらくカルムヅク軍が再度非運に見舞われたことを暗示するものであ

するのみである〈hoFZ0・S)。この事買は

ろう

e

この貼、パルラスが

一六二三年にカラクラは再度モンゴルに潰走させられ向。

とのべているのは、結論的にみて安嘗であろう。

カラクラの再度の非運を最後に、かれとアルツン・カ

lン、ショ

lロイ・ウパシ・コンタイジとの宇いは再びロシア文

書に現れることがない。否、アルツン・カlンの姿さえしばらくロシア文書には言及されていない。

ロシア政府の封モン

-19一

ゴル政策の費化もさることながら

やはり基本的には

カルムック・モンゴル聞にこの後小康吠態が維持され

強いて

アルツン・カlンが再びロシア文書に姿を現わすのは、第二代の

パドマ・エルデニ・コンタイジ切包

B:丘町ロ仙台ロ

mgg(俄木布額瀬徳尼〈

OBE2Fロペ

ωzg?吉吋EZ'gh)

ロシア側の注意を惹く出来事に乏しかったからであろう。

である。第二代アルツン・カ

lンが始めてロシア文書に姿を現わすのは一六二九年、

同り、一六一三年九月にな

って突然アルツン・カ

lンの急使がトムスク市に来り、チャギル・カ

lンぷ句与・

5zの盤迫を

恐れて、全オルダをあげてツア

lに臣従し、その保護を求めた。ここに始めてモンゴル側の要請によってロシア・モンゴ

戸山田

Ehv'宍師国はチャハル汗の恒心

-RA白ロリンダンピロぬ仏白ロ八立国・ド由muE同ロ

ロシア側が得た情報によるものであ

433

ル聞の使節往来が再開されることにな

った。

(林丹、霊丹〉のことであろう。リンダン汗がアルツン・カlンを摩一迫したことを貰謹する直接の史料は中園側には見雷

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434

らないが、事態はおそらく、山間簸に瀕した内モンゴリアを再統一せんとしたリンダン汗の同盟者、カルカのツルグル・ツ

オクトゥ

C55zZミ吉、いわゆるツォクトゥ・タイジの2221U(紳克園台土口)とこれに反封するカルカ諸侯聞に惹

起された内乱に閥係があるであろう。アルツン・カ

lンはこの内乱に容込まれて、敢てカルムックと宇う徐裕がなくなっ

てしまったのであろうと考えられる。

一方カルムックにおいては、この間を利用して内部の統一に努めなければならないはずであったが、この努力は、

二五年に起

ったズンガル部の内乱という試錬を経過しなければならなかった。茨にこの事件についてのべよう。

一六

事件は、

カラクラの子チン・タイシャ占ST吋同国

E白の遺産をめぐるパイパギシュ・タイシャとチョクル・タイシャ雨兄

弟の争いに輩端があ加。

一六二五年七月二六日、パートゥルの本営に満一年の滞在の後、トポリスクに踊ったヤコブ・ブゴ-フコフ泊

5回目胃?

hSRO切のもたらした情報によると、

-20-

春にわたしのもとに次のようなニュースが届いた。

チョクル・タイシャはかれの家畜と部民を自分

のものにして、兄弟のパイバギシュの自由にさせなかった。そこでパイバギシュはやって来て、力づくでチン・タイシャ

チョクルとパイパギシュ雨タイシャの兄弟チン・タイシャが死んだ。

の部民と家畜を奪った。

そのためにチョクル・タイシャとパイパギシュの聞に不和が生じた。

そして戟いになるらし

一千人を率いて行った。:::タライ・

ぃ。そこでタライ・タイシャはこれを聞いて、二人のもとへ和解させに赴いた。

タイシャはチョクル・タイシャのもとへ来て、

チョクル・タイシャに五百人を渡すつもりだった。そこでパイパギシュはチョクルに五百人を渡そうとし

かれらの兄弟チン・タイシャの家畜を等分し、

五百人をパイパギシュ・

タイシャに、

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た。ところがチョクルは一千人全部を得ょうとして

カルマックのタイシャドり

メルゲン・テメユヨ伶℃zza詰玄ゆ

zr、

クヤン穴】『国民、

タプイタイ吋白内一盟国位と集って、パイバギシュを攻めに行った。

かれらの兵力は三官円だった。

タライ・

タイシャはチョクルに加わらず去って、夜、秘かにパイバギシュ・タイシャに、チョクル・タイシャが大奉して汝を攻

めに行こうとしているという情報を奥えた。だがチョクル・タイシャは盟湖の近くバイパギシュ・タイシャの所へやっ

て来て、多くの民を殺し、家畜を奪い、残った者は自分の手中に腹めた。そのためにパイパギシュの民は少くなって、

皆避難していた。

カラク-フ・タイシャ穴岳民u詰八日〈曲目v

白喜一包g

足跡自由は、パイパギシュがチョクルに包囲されていると

聞いて

チョクルに封するバイバギシュ援助に向

った。

かれの兵力は一高だ

った。

そζ

でチョクルは掠奪しつつ去

た。バ

イパギシュとチョクルとの聞に起ったこの後のことは、わたし

(Hヤコプ・ブゴラコフ)は知りません。という

のは、

タライ・タイシャはわたしをイティクに行かせたからです。

とある。事件の費端、

途中の経過については改めて繰返すまでもない

ところで、この事件を停えたもう一つの報告が

414

nλ】F

ある。それは、

イティク山にわずか二週間徐りの滞在の後、

トボリスクに踊ったコサック騎兵フィリップ・ヴヤトキン

全自民ロロ切凶見出回らの報告

Z2・Z0・48である。ヴヤトキンらはイティク山滞在中に、ここに来ていたヤコプ・プゴ

かれからも情報を得、またかれら自身もカルムック人から情報を得た結果であるが、その情報は、短期

ラコフに禽って、

滞在の結果にすぎないだけに、ブゴラコフ自身の報告の債値に及ばないものがあるが、

またブゴラコフの報告を補うもの

もある。

ヴヤトキンらの報告によれば、

わたし達はカルムック人達から次のように聞いた。

タライ・タイシャがチョクル・タイシャの方へ行ったのは、カルマックの地にて、チョクルとパイパギシュ南タイシ

ャの兄弟、チン・タイシャが死んだためだ。パ

イバギシュはチン・タイシャの部民一千人全部をその家畜と共に得ょう

チョクル・タイシャは奥えることを望まなかったので、二人の聞に字いが生じた。その後和解ができた@パイ

435

とした。

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436

バギシュはチョクル・タイシャにチン・タイシャの部民六百人を渡し、自分では四百人を受取った。和解の時、

カラク

ラ・タイシャがいた。和解の後、チョクル・タイシャは残りの部民を奪おうとしたが、バイバギシュ・タイシャはかれ

に渡さなかった。そこで、

そのために二人の聞に戟いが始った。

チョクル・タイシャはバイパギシュを攻めに行った。

補注①

メルゲンの兵力は一高であった。そ

かれの兵力は一高であった。そしてメルゲン・テメニ・タイシャの援助を受けた。

れにタブイタイ吋白av--吋息とパトゥトクヤン切

2E、買い『凶国南タイシャの援切を受けた。

を率いていた。ところがパイパギシュ・タイシャは兵力二千に過ぎなかった。戟いは盤湖の近くで行われた。その戟い

かれらはカルムヅク人二千人

で、チョクル・タイシャはパイパギシュ・タイシャの兄弟のヤサクル・タイシャ泊

g-qvhEa罫巨同を殺し、

また多くの

人を殺した。他の者逮はバイパギシュのもとから逃亡してしまったので、パイパギシュにはわずかに一千人しか残らな

かった。:::そこでカラクラ・タイシャはそれを聞いて、パイパギシュの援助に向った。そしてイルティシュ河の彼岸

ンガ

lルに逃げて行った。そこでタライ・タイシャは

ムンガ

lル人の攻撃を危倶して

チョクルとパイバギシュを和

-22-

に陣取った。チョクルとパイパギシュ雨タイシャの聞に戦いがあった時、

かれらのウルスからムンガ

lルの捕虜達がム

解させに行った。

とある。この報告は、

チョタル、バイバギシュ聞における宇いの調停者としてのタライ・タイシャの役割を全く停えてい

ない。その代りにカラクラを調停者に持って来ている。

その上、ブゴラコフの報告と異って、パイバギシュがチン・タイ

シャの遺産をそっくり我物にしようとしたことに事件の輩端を求めている。

そして遺産の分け方も、プゴラコフとは異っ

てパイパギシュが四百人、

チョクルが六百人を受取ったとしている。これに同意しないチョクルが一千人全部を自分の物

にしようとして、兵を起した以後の事件の大筋は南報告とも大きな差違はない。チョクルが丘ハを起す前の事件の霊端と経

過は、プゴラコフはパ

lトゥルのもとに一年滞在していた寅績を考慮し、チョクルがチン・タイシャの遺産を全部我物に

しようとしたために、パイパギシュが不服を唱えて、争いが生じたので、長兄のパ

lトゥルが調停に立ち、二人にチン・

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タイシャの遺産を等分する蜘を出して、害いを一時h

絞めたが、後にチョクルはチン・タイシャの遺産を全部我物にする領

持を捨てきれず、

トルグlトのメルゲン・テメネ、バlトゥト(巴園特)のクヤン・タイシャ切月巴吋喜一泊中国皆同白〈ハ切符邑

湖 F可恒国

曲、4

らの兵、約三高(ヴヤトキシらによれば、

計二高二千〉

の助力を得て、

兵力二千のバイバギシュ軍を盟

つまりヤムシ湖の近くで大撃破したために、バ

lトゥルの調停の失敗したのを聞いたカラクラがパイパギシュ援肪に

乗出したものとみたい。ヴヤトキンらが調停の役をカラクラとみているのは、或はカラクラの意を受けた結果にちがいな

-いタライの調停の役を評慣するさいの差でもあろう。

カ一フクラがチョクル連合軍鎮座に乗出したとき、パートゥルが謝モ

ンゴル方面に首ったにちがいないのも父の命令によるものとも考えられる。いずれにしても、バ

lトゥルがこの宇いによ

モンゴルに虚を衝かれないように謝慮しなければならなかったことは事買であろう。雨報告を通じて、瞳湖、ヤム

って、

シ湖が再びカルムックによって回復されていたことが認められる。ヴヤトキンらの報告にいうムンガ

lルの捕虜は、

回復事業の際に得られたものかもしれない。カ-フグラは、調停がパートゥルの手に負えず、調停途行のために、バ

lトゥ

ル自身がバイバギシュ援助に乗出さざるをえなくなった事情と、この内胤によって濠想されるモンゴルの奇襲を考慮し

て、バ

lトゥルをモンゴル封策に嘗らせ、自らは内組鎮定に乗出したのではないかとみられる。そしてカラクラは兵一高

を率いて、バイバギシュ援助に向ったのであろう。この後の事件の経過について、プゴラコアは「知らない」といってい

、ーー

ーおー

るので、衣にこの事件のその後を考えてみよう。

一六二五年春に始まったこのズンガル部の内観はその後永く結着がつかなかった。

一六二八年九月一一一日

カルムック

からトボリスクに闘ったコサック、

ブルナシュ・ムロムツオフ切出足曲目宮司℃。言包切らの報告によると、

わたし達はカルムックにてチョクルとかれの女婿のウルリュクの子タイチン吋怠

45のもとにいた。

の女婿タイチンが一緒に遊牧していたのは、

タライ、

チョクルとかれ

ウルリュクら他のタイシャ達がチョクルを殺そうとしているから

437

だ。そこでタイチン・タイシャはそのために殺されるのを恐れて、

チョクル・タイシャのもとから父のもとへ全ての民

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438

を率いて逃げた。タライ・タイシャと他のタイシャ還は、多くのカルム

ック人を率いて、

チョクルを逃がさず、殺すた

めに赴いた。そこでチョクル・タイシャはイシム河に逃げ、

トボル河で越冬するつもりでいる。(hHOR-Z0・J

己)

とある。

チョクルの女婿でウルリュクの子としてみえるタイチンは、西域園志容四七雑録一準喝爾部世系、土繭庖特の保

書庫爾代青八ωcrf仏

3E口問であろう。この時、タイチンはバ

lトゥル、ウルリュクらが

にみえる和郡爾勤克の子、

カルムック軍を率いて、チョクルを討とうとしたために、危険を感じて父のもとへ逃げたという。

チョクルはイシム河

一六二五年にチ

逃亡した。この文書において、カラクラに代って、パ

lトゥルがチョクル征伐に向っている。それでは、

ヨクルを討とうとしたカラクラはどうしたのか。買はロシア文書は一六二五年のブゴラコフらの報告以後、

かれの姿を全

く停えていない。ただ想像の及ぶ限りでは、

その後カラ

クラはチョクル征討をパ

lトゥルに委ねて、

かれ自らはイルティ

シュ上流域の地に留まって、

カルムック内部の混観の後片附と宿敵アルツン・カ

lン封策に専心したのではなかろうか。

カラクラはロシアの前進基地に接近する機曾がなく、従ってロシア側に知られなくなったのではなかろうかと

-24-

それ故に、

おもう。

さてトボル河で越冬するつもりのチコクルについて、翌一

O月、若干のトゥメニのタタル人遼は、すでにトボル河上流の

トゥメニから五日行程の黒河戸山岳

E国℃

2K白の山芹で越冬するためにやって来たチョクルに出曾っている(泊。民・

Z。・

Ja)。

チョクルとバイバギシュをめぐるカルム

ックの宇いは、

まもなくチョクルの勝利に終った。戦いの年月がは

っきりしな

いのが残念だが、少くとも一六三

O年王月までにロシア側がカルムックの捕虜となっていた一ナガイ人から得た情報によ

ると、わ

たしはハンデリ・タイシャ

)Ezho℃VE4白旨HH白のもとにいたが、

その時ここへバイバギシュがやって来たが、かれは戟

死し、バイバギシュに代

って、

その兄弟のチョクル

42出】〈405dがタイシャにな

った。ここではチョクルとメルゲ

ン・テメニとハンデリ・タイシャが一緒に遊牧している。

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メルゲン・テメニ連合軍が勝利を握ったことが停えら

れている。なおチョクルがパイパギシュに代

ってタイ

νャとな

ったというのは誤りで、事買は前者が後者のウルスを攻め

とあり、この報告の時期までにバイパギシュは戟死し、

チョクル、

たことを意味するものであろう。

こうして一六二五年に起

ったズンガル部の内乱は永く績き、カルムックを大いに混乱させたことは想像に難くない@

六三

O年を最後としてロシア文書にはカルムックの情報について、以後めぼしいものは何一つ俸えていない。次にロシア

文書にカルム

ヅクについて俸えられているのは

一六三五年、

父カラク一フに代ってパ

lトゥルがコンタイシャ穴。

E,白忠臣曲

〈ρgmS1h(湾台士口八ハ皇太子)と現して、

ズンガル部長の地位に登っている事買についてである。

それ迄の問、

ズン

カルム

ックがいかなる時代の推移を経験したか、全く想像の外はない、が、おそらくこの間にアルツン・

カlンが閥心をモンゴリアに向けざるをえなか

った機曾を利用して、カラクラはパ

lトゥルの助けを得て‘ズンガル部の

再建に努めたであろう巴しかしその努力は困難であったであろう。なぜならカ一フクラ・バ

lトゥルの意に反して、チョク

ル・タイシャが内観の勝利者とな

っていたからである。カラクラがチョクルをどう魔遇したか全く不明であるが、少くと

ガル部をはじめ、

-25-

もバ

lトゥルが父に代

って政権を握

っていた時期には、パートゥルとチョクルが和解していたことは後の歴史にみる通り

いずれにしても、ズンガル部の本格的な再建はパIトゥルの時代に持越されざるをえなか

「たのである。

である。

_,_ ,、

カラクラの残年次を明記した記録は見嘗らないようである。ミルラl

三宮句作勺は、

一六三五年頃死んだ。

としい

また

439

一六三五年頃死んだらしい。なぜなら、

かれの子で

支配の後繕者パーティル・タイシャ切丘町、叶丘町ロ

Eが同年始め

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440

てコンタイシャの

cE巳田口「白と掠し、

父カラクラはもはや現れないからである。

といい、パ

lトゥルが一六三五年にコンタイシャと暁し、

以後、

カラクラの姿がみえないことを以て、

カラヲラの死を一

六三五年、もしくはその頃とみている。バルラスは、

一六三五年の父のゲ向日ロ

rc-Fの死後、切白白昨日叶

mwFPEはり巳巳HF曲目白からの

rEgprzの特許可丘四三と

HWEE-

HFSZHの名を得た。

シ」

L

L、

カ-フクラの死を

一六三五年と断言している。

ロシア文書に始めてコンタイシャの名、が現われるのは、

既に引用

した一六三五年三月一ニO日トムスクに踊着したロシア使節に同行したアルツン・カ

lンの側近ダイン・メルゲン・ラン

ズの使者、が粛らしたランズの書簡における衣の如き一節においてである。

アルツン・ツア

lリは黒カルマックと七年間戟った。

わたしはアルツン・ツア

lリとカラクラの子コンタイシャを永遠

nL

に和睦させた。(泊。同

-Z0・ロヨ

剛山Y

使節一行がアルツン・カ

lンの本営ウプサ・ノ

lルを出費したのは、三五年一月一四日のことである。パートゥルはこの

時既にコンタイシャの蹴を帯びている。従

ってカラクラはこの時迄に死んでいたことになる

G

アル

ツン・カ

lンの和睦の

相手が既にコンタイシャに移

っていることは、バlトゥルが父に代

ってズンガル部の政植を握

っていたことを一ホすもので

あろう

u

ランズのいうアルツン・

ツアlリは既述のオムボ・エルデニであるが、

オムボがカラクラと七年間戦

ったという

意味は、

かれが父ショ

lロイ・ウパシ・コンタイジを縫いでアルツン・カ

lンにな

ってから、宿敵カラクラの死す迄七年

問あったという意味ではなかろうか。しかし残念ながら現在の所、オムボがいつ父を撞いだか確定されていないので、こ

の七年聞をオムボの襲位から七年後を以ってカラクラの死とも決定できない献態にある。いずれにしてもカラクラの死に

よるパ

1トゥルの政機交替は一六三五年一月一四日迄に行われていたことを確認するに今は留めたい。パルラスがいうよ

うに、

カラクラが一六三五年に死し、

その後直ちにバ

lトゥルがダライ・ラマからコンタイジの特許とエルデニ・パ

lト

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ウルの稿観を受けた止するなら、この出来事をわずか二週間内に嘗てはめなければならないが、

補注⑦

持っていない固

」れを今確認する材料を

ランズのことばによれば、

カラクラの姿がロシア文書にみえなくなる一六二五年以後も、

かれの生涯はアルツン・カー

ンとの戟い、郎ちカルムックをモンゴルの時紳から解放するために費されたことになる。カラクラの生涯をかけてのその

努力は、かれの生前には買を結ばず、一切がその子パlトゥルの時代に持越されねばならなくなる。カラクラの晩年は、

アルツン・カlyが内外モンゴリア情勢に目を碍じざるをえなかった時期だけに、封外的には比較的穣かだったとみられ

る。おそらくその聞にかれはズンガル内部の統一に懸命の努力を傾けたであろう。しかしその努力も亦かれの生前には貰

を結ばず、パートゥルに引雄、がれざるをえなかったロパートゥルは父を纏ぐと直ちにモンゴルと和卒し、西隣カザックに

嘗って大成功を牧め国。バlトゥルがこの成功を基にして、再び封モンゴル戟に自ら身を投ずる事情は稿を改めて説くこ

とにしたい

441

註ω司・

ω・司曲

-zgω曲目]ロロ四四ロ

Z20口氏YOHZRZH門町民gcroH

《同FO冨Dロ問。

-573〈o-zanyえ5PFHvogaZ同開w同叶吋少

、吋}H

H-ω・8・

ωHrH仏・

ω目的同cqo同zsmog-33HUFOロ仏025吋auHU・由民・

ω近代支那史ロ京都。一九二六。回以・

2・

ω恰刷忽刺と巴圃爾湾台吉(和田博士還暦記念東洋史論議所攻)。

東京e

一九五一。

山間オイラット。1ZL(術担特〉をさす。一七世紀のロシア文書に

おいて、オピ

oqr河の西岸、アルタイ山岳地常に遊牧してい

-27ー

たテル

lト(テ

νグット)吋叩忘仏〈吋色。間¢仏族(ロシア文香

、吋巾白

3、ごを白カルマック

mgEmR白白富由民国と祷するのに封

して用いられる。

WHW江各国

SERY何回ロod円四回出回口門同国円YHFF仏gzoロ開会出円yg

。何回口Znyg君。Hr印40ロω叩円。ロ

ω同岡田口問(同ロ曲目

ω田口同ロmω叩口四ロ)-

FW円-55m♂(賂稽

CH岡田・7向田・)包円

lg〈・

削東亜史研究(蒙古編)。東京。一九五五。同γω臼・寸志・

刷C円四国・7向ω・・さ同・

帥俺答汗の覇業(東亜史研究・蒙古編沼》・ミω|一三〉。

仰巴調印EV向

ω-w弓〈・

側CH岡田agω'w芯〈・

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帥俺答汗の判明業(東亜史研究・蒙古編℃

-a30

帥FFL・-古・吋

2・

制ロ』白勺白↓uh臼渓Eu玄

OE,obr円貝同国民山40口出向聞VM〈{同国巾町内白・玄-J肖・・

-D印一♂門司,HYH吋印・

同C円民守目AZ--

一可N円l吋N〈・

仰家↑向源流にみえるドゥルベン・オイラソトは、(い22(HrnEコ

言吋)柚叶cミ俗、Eι〉、『24口《rωミ巴

cι〉切仙Zι・ZE目印ロヨ百四

苦ロ』O

三仏

(100三牛〔己認可豆ω-uN色〈〕)u

。問。

-E(己認可

国〈

HTNAH〈岡市岨議)の五部となっている。ジ一フ・トゥlジにお

いては次の六姓旨ミ

E4白ロ

DB04である(巨白宮↓}員VRFnJ勺明・

回目】

lmM)。

口出円『内LUck〕『伺mp。。円Drocu「EW

∞州凶JEZLWH内伺円。可FL・

乙の中

CEvaι

はその系舗をみると、明かに

00山口ι(和碩特)

であり、事賞、問書の他の箇所に

OSTEιvoorLの名がみ

える。(巳回目出叶UFhMRS・2HV・3H・)。但し、乙の爾者の系譜を検

討すると、己』戸同巾ι姓の方は部長パイパガス切回日ユ

Z4但印(奔巴

犠斯)の系譜であり、

0024邑の方は、パイパガスの弟の瀬賞

汗の系議である。羽田明教授の研究によると、厄魯特。明白-o門戸

は和碩特の古名かとみておられるから(厄魯特考・東方事第十

繍)、

C』ぞ旦一は。mmF斗の説仰とも考えられる。

シラ・トヮ

1ジに

CK克己MOg-4E仏雨名がみえるζ

とは、厄魯特

(HH和

碩持)部長を縫いだ本来厄魯特の奔鳴巴斯と、後に青海に移牧

した和碩特という新名をもっ顧質汗の爾方の存在を停えたもの

と考えられよう。

口出円宮内山はわ22と同族と縛えられており

442

(西域国士山谷四

七雑録て準鳴爾部世系)、ウルガ本蒙古源流によれば、一五七

四年、プヤγ・パガトゥル・ヨ

YFイジ兄弟がドゥルベン・オ

イラット遠征をしたとき、トゥパカン・ヵγ山でチョロスのパ

ジラ・シゲチソ切ωkg包間巾m一弓をはじめ、ドゥルベ

lト・オ

トF

ロロ同σEOF04を討ったことがみえる

(Cお守宮

ra〈)。

乙のりPZLog-『を後の都爾伯特部とすれば、都爾伯特部は

滋時チョロス都の廊下であって、チョ

P

ス・ウルス

(HHトゥメ

γ)の分割部分としてのオトク

CHomの閥係にあったと考えら

れる(ウラヂミルツォ

7

、蒙古枇曾制度史、邦謬司・

83。

もっとも

ι。同rz-204について、シュミット本をはじめ、

オルドス三本はいずれもこれを

LD円roロ084に作り、シュミ

ット隷はチョ

P

ス部腐の四穏族〈

roHωSBS巾と輔副んでいる。

(日・』・

ω円75EfognywygLR02・冨ロロmorpω-N5・

何丘町ロH・ヨ口、『crmcζo口問。一日目。rgHnF(ω口Gg豆ロロ四ci

zgHH)・回目SEC223ミ

P2958・ZT〉・

HOHmu

宮田・

ω"由。白

hpp・。・

530おそらくウルガ本が異質を停え

ていると恩われる。チョロス部が四種族からなる廊下をもって

いたという設嬢は何もない。いずれにしてもド内ルベ

Iトはチ

ヨロ九部に含めて扱われるべきものである。

23一正はトルグlトの古名であることはいうまでもない。

(の?ロ釘宮叶旬、白VRF2℃・ミω)。右の如くすれば、シヲ・トゥ

Iジにみえるドゥルベソ・オイラットは、のO同or。間町一冊門】HH

OO卵白門r同協同

EL--『ロミロ門roo〕『FLの五部であって、これは蒙古

源流と完全に一致するc

次にロシア文書にみえるドゥルベγ・オイラフトの内容は、

-28-

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11< 11川母, iミミ F れ~ KaJlMaKH !:;!.媛剰 -!tJ~.:.! ..::..トl!g描

t-::..",,_.t--旬え n1¥ BaCHJlH世 BOJlKOBQ ~軍司日 (瓜OK.No・

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BaTYT' ~ rl l¥ム KylOTQ 均~,,:)、伊矧。

ベ)~.c、 ':ι 令士'( ~、・ 4トミ KQ~鱒今年'11毛い KOIIIOyT' YyHrap' 首 -

Topr、oypT' BaTyT' KylOT 笠即足ヤヰヰ Qosud,]Un 'Yar, Tor'Yud, Batud, Qoyid Q菰骨mp俗的>J..lJ ~主眼ニ討会時前。

tム令長'()1 . -!:'-え K)(lOp6eHCKHe yJlyCbI ..lJ包, ~ヤ 11' l¥ιQ

連主終日程' ベ).oI1I!:;!,~*, Q t:~程..lJムドl!gæ;:初~t(l園田lIl. Dorben

tumen l1Ius の柏い~QP~時 I.{'\ 0 !ιわえ'()1・ 4マ"11'l¥ .. ムミミ

WQ .j;ま品同総会-Ú\~き F ドニ~...vい~:!!'昔話相隠哲三, ::.. 11'・ ι 。

-'.~..lJ 1 ì訴いt(l>J..lJ!:;!.~t(l O!$....) \l 0 ト、-ÞI細 P~:ムわえ'( >・

かえ κ:会lt10 Qわえ K~ミ-ú\~f'ドニ.t!..l.J ;:""'~ミ'通話網Q 唱~<laQ

-!:'-~ミ K~' 者、 4ミ K 骨444t2品。....)1 Qq司E事前ホ..lJムド Q ,て占 ~Q

純量~P 今G' t{¥ ," ~ミ。

~PalIas, op. cit., S.36. gr. rOM60eB, MCTOpHH Y6aIIIH-xYHTa首)(iKHlIH ero BO晶HbI

cO晶paTaMH(TeKcT H nepeBO)() (Tpy)(bI BOPAO,可.VI,

Scn6.,1858;〉CTp.m5.

~lllapa TY)(iKH, CTP, 237.

Eibid., llepeBO)(, CTp. 165. ~::'1< O<ーO-fミ母。"þ- λ. '( ..・n-¥l 1'¥ MBaH BeJlOrOJlOB

Q~話題量~C (瓜OK.No.6)。

高11<l1<-l-¥Jl!to T-:;"""-・ ι 令、 11 H " BaCHJlH白 TIO-

MeHel¥ ..lJ"ト h・て品¥l1'¥ MBaH口eTpOBQ担当糧!と(瓦OK.

No・20,22)。

璽Ta貴国a<mo,tayiji (台吉).

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V 01. II, 1919. pp,34, 46-62. H. fl. lllacTHHll, ~AJlTbIH必aHbI 3alla)(HOa MOHrOJlHH B

XVII B.~ B c6~ <<CoBeTcKoe BOcTOKOBe)(eHHe~ , T. VI, 1949 (未見).

』く陸~U 1 I対4三樹恒也¥1$ぽJ 1;民稿。 1~11 同。 pp.26ー27.

~lllapa TyλiKH, CTp. 237. 事語版本括経縦柏田橋附ロヨ側主聖書~1< 1 !を

国同色F健響詩幽1民園日ご者í}~暴聖堂。

富)(OK.No.22.

~)(OK. No.2, Howorth, op. cit., Part 1, p,616.

意トえれ>"-R-)l ~Q~民悩さま, "T->・て,ι ¥l1'¥ Q~軍$!:;!."-6~

を;!'"K 11'¥ -4誕 6ycypMaHcKaHBepa P ~ t(l..lJ必 Aぱ1-(1:長'時JQ

Eミ

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報告の内容をみれば、明かにラマ教である。例えば、ベトロ

7

らはイスラム教の聖人はチベジトから来たクトゥ

FFR3,MM3白

であるといっている(』の図-Z0・MG)。

5、吋可同吋白は明かに日0・

』ロ

Z4Z(蛍hrw開EI陶献)であり、高位の-フマ慣の骨帯構であ

る。アルツン・ヵ

lンが二ハ一九年にモスクワに減退した使者

タルカソ・ラパ↓

SHE-旬曲。白は、その名の示す泊り宮向日釦

耐明暗帽俗である@哨叫沓き、言語はもちろんモソゴル語であるか

ら、シナ人を文字通りの中国人と同一視する乙とはできない。

たとえ乙れを中関領内に入っていたモンゴル人を指すとして

も、首時の政治情勢からいって、それらモ

γゴル人が西北モ

γ

ゴりアに入っていたとは考えられない。ましてヤサクをとりに

来ていたという事貨かちすれば、これを札薩克園汗部の民と考

えるのが怒常であろう。

倒h

。R-ZD・品H

U

A

H

印日カラクラの使者オヌタイ。国三,白昨

(hOR-

Z0・企)日アヌチャイ〉♂コ向由国

(hOR-Z0・品目)ら三人は、アル

ツγ・ヵ

の使者Fルカ

γ・-フパと-緒にツア1の接見を得

たことになっている

(hOR・20・合)。オ-A

タイらカルムジク使

節がモスクワを出渡したのは二

O年六月二三日のことであっ

た(玄区間】玄0・

2目yωごw

口勺国冨・包)固

ωLHOR・20・おu

一六二

O年五月六日附、ツ

7

1、ミハイル・フ

ョlドロヴィチのアルツソ・カ

lγ宛の勅書。

制』HOR・20・A

HMU

一六二

O年四月二四日附、ツア

l、

フョ

lドロヴィチのアル

γγ

・カ

lγ宛の勅書。

ωhO民-Z0・8h

一六ニ

O年五月二五日附、ツ

7

l、

7

ョlFログィチのカラ

F-フ宛の勅容。

444

.、、ず』レ

d'

、ハイル

ωhOR・2c・怠一一六二

O年五月七日附。

帥ロシア政府がカルムジクとの交渉断絶をカラクヲとアルツン・

カIγとの決戦がすでに済んだ一六二三年に決定しているの

は、カルムツタ勢力が、そ

γゴル閣のような統一政楢とは岡山っ

て、分散勢力であったために、それほど脅威を感じていなかっ

たからであろう。

ロシア政府としては、敗北のカルムック箪が

ロシアの前進基地を混飢させる乙とを恐れたにすぎない。

脚本稿では、

02ち可をシチエログロフ著・吉村柳里誇「シベリ

ア年代史」(東京。一九四一ニ)に従ってぷ蝋翠村e

と謬す。吉

村氏の説明によれば、

02-vO一司とは

コサックが異民族を位服しつつ建設せる城塞を粂ねし村であ

る。武装されている鮎は城塞であるが、移民せられている貼

は寧なる城塞でなく一種の村である。卸ち武装村、或は城塞

村である。(例言、二ハ頁)

附西域同文志糧七天山北路準鳴爾部人名一、締羅斯術社特属一。

刷註⑩、⑧

ωパルラスは、

ζ

の酸いについて簡潔に次のように縛えている。

カ一フタヲは一六二

O年にモ

γゴルのハ

γに遼伍をした。兵四

千を以てハ

γの本管を緩い、多くの停措置を得た。だがモ

γゴ

ルは‘きわめて敏速にかれを逆襲したので、かれは徹底的な敗

北を喫した。のみならず妻子を見捨ざるをえなかった。そし

て一子をつれて逃れ、一六一一一年にオピ河に到り、モンゴル

を恐れてチュムシュ河口に億一品一を廻らさんとした。

(HV

釦-E3

0司・口広・・

ω・ω寸)

同開玄}曲目ν玄。・円、『hu・ωご・ロ喝さs・由{}hsn40勺包囲穴曲師曲HnRO障のの

F

-30-

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445

4・F〉旬冨?〉

JE--由印吋in同1HM

・ミ印・げいこ八年波とするが従えない。

ωイティク山の位置については、二ハ二ハ年、トポリスクよりイ

ジム河流域探査のため源遣されたトポリスクのコサッ夕、ドミ

トリ

l・チェルカ

l

yフ泊富国-弓出酔ぷ巾HVEnO回らの報告によ

ると、かれらは、トポリスクからイシム河沿岸の地ベ

mlェ・

ガロディ

lシチェ盟諸一O巾「OHV門戸国民巾タ白い砂洲。まで往復三

週間と二日を要し、ベロ

Iェ・ガロディ

lシチェからイシム洞

を遡ってイティPX4VHR

山まで足直ぐに騎馬で片道八日行震

であるζ

とを明かにしている

(hOR-Z0・Ha)。従ってトポリ

スクからイティク山まで片道凡そニ

O日行渥というζ

とにな

り、ニ

O年九月、トポりス

PK来たパ

1トゥルの使者プガちの

要したイティク山からトポリスクまでの日数とほぼ一致する。

イティク山がイシム河下流沿岸の地にあったことは明かであろ

』円J

ωhH

。R-Z0・gh

アルツ

y

・ツア

lpはカザッFの地と、カザック人はナガイ

と協約していた

g田英国白内出。

寅際上、アルツ

y

・ヵl

y領とカザック領との地理的位置から

いって、

ζ

の雨者が連絡をとるζ

とはまず考えられない。事寅

は、おそらく、カザックがアルツソ・ツァ

1リのカルムック

攻撃に乗じて、ヵルムッタ攻撃に乗出したために、ロシア側に

右のように受取られたのではあるまいか。カザックとナガイと

の関係については十分に考えられるが、今確認する材料を持た

なL

倒西域同文志倉九天山北路準鳴爾部人名一ニ、都爾伯特街位特属。

帥同》田-Ego-v-nw--ω・会U

パルラスは

H,aFg(太師)を吋回u

と戸

(台士ロ

)K-誤っている。ただしロシア文書では、爾者いずれも

吋白骨自由で表される。

制巳回目v白吋旬、白出

2・2HV・Mg-

M刷』

HOR-zo・g・

側、『白富誌巾・

仰hHO貝-zo・s・

帥例えば、ニ二年秋、ヵルムックのセ

γグル・タイジャの22,可守

dE酔巨曲なる者はウフィ

yスク叱A

吉田内民地方を攻撃し、メ

γュ

キール人の村落を破漉している

(hO同-Z0・g)。

側トルグ

1ト

吋OH4E(土爾庫特)部の酋長。二ハ二ハ年にパ

1

トゥルの本管を訪れたトミロ・ペトロフらの報告によれば、ウ

ルリュF-Fイシャはパ

lトゥルの弟チョグルと共

Kパ1トゥ

ルの内政顧問と、

F25E55富市言昨日出@阻止巳

aはこの語

を岳巾

nZえ

no戸ロ白色

EBと掴押している。回目ιι丘町

MJmgar

y向。ロ問。-32ι(urgpHLDロ仏og〈

D--FHUH夕日γω∞)であ

ったと侍えられている

(hHOR-Z0・Hg。一見信じがたいが、乙

の頃のロシア文書には、ウルリュクがパ

Iトヮルと住枚地を共

にしていたらしい事賞、およびパルラスによれば、パートゥル

の妻の一人にウルリュクの娘ダラ・ウバ・サルチャロ

R同

cr釦

ω∞-znVMWがあったという事責(MM

巳FgD司・

97ω・8)から、

ペトロフらの観察に誤りなしとはしないが、必ずしも信じがた

いものとして退ける乙とはできない。

帥参照、註⑧

制LHO同-Z0・∞品一ヴォルコフは二三年四月一一一二目、ウファを出護

- 31-

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446

し、同年五月二九日にイティタ山に到着している。

同マ

γギット-Fイシャはパ

1トヴル・タイジの兄弟と侍えられ

ているが、かれの名は、西域同文志をはじめ、中国側史料には

全くみえない。

闘LHOR・Z0・∞品・

帥エ自国平芦田℃巾国盟主は、シベリア汗闘の出品凶回目】円RomH同国内叶回Oの最

後の汗、クチュム穴

Hd示品の子。一六世紀後半を通じてオピ河

とその支流イルティシュ河の合流動附近に根強し、ジュチ(北

赤)の子孫と穏し、カザン穴忠臣以東の慶大な地方に強って

シベリア征服を志していたシベリア汗図が世紀末のいわゆるエ

ルマックの東征によって瓦解し、一六

O七年、最後のシベリア

汗クチュムの諸子はロシア寧の盤迫を逃れて各地に分散した。

クチュムの子イシムはこの時トルグ

lト部のウルリュFのもと

に頼った。一六

O八年一月一二日附のタラ軍政官シ

I-フ・ガガ

lり

γ

のEha

「曲

E喝容向の報告によれば、クチュムの兄弟の中、

イシムは、

イシム甲山自国玄はカルマックの自分の妥の父ウルリュク-F

イシャのもとへ逃げた。

(hOR-Z0・U)

とあり、ウルりュクはイシム王子の岳父であった乙とがわか

る。この貼パッデレーが、イシムは二ハ-二年、もしくはその

頃トルグ

1トのホ・ウルリュタの娘と結婚したといっているの

は(回同門注巳

3正。司・

97〈口「口・司・宏一)、年代土誤っている。

(円ア出・国odqO同各祖国王oqo同窓口ロ四ouwpEHHW℃℃・忌2

150N)。イシム王子がウルリュクに身を寄せたのは右の事質

に基づいている。一六一六年にパ

Iトゥルを訪ねたベトロ

7ら

は、バlトゥルの内政顧問をしていたウルリュクと共に、

パー

トヮルの本営にいたイジム王子と曾っている

(hO民-Z0・H∞)。

伺玄ヱ℃玄OUni『司・

ω土・

側同V

曲-upo同ynFTω・ωアFA甲山℃VA。・

2℃・

UD--aT・口。-u吋守合同国

35b呂田、

20・N3・

伺口】曲目】同吋UF且英国・

2廿・岡田]一ショlロイ・ウパシ・コンタイジの

子である。

倒欽定外務蒙古田部王公表侍翁六一停四五、略爾柑噌礼薩克圃汗部

総待。

帥LHOR-Z0・5u・

側LHO同-Z0・斗印一乙の文書において、アルツ

veツ7

Iりはド内

チュ

γ・ヵ

lyh545干民同一回の攻撃を蒙っているというロシ

ア・「サック兵の情報がのせられている。同545za民国民はシャ

スティナロ宮内叶国民同氏の比定する如く、ロむかロヨロロ伺40一・ロロ

NVロ《四

Oモγゴルの汗

Hhg円O勺OR同玄O出可。旬。田》(卸ち、四

Oモンゴル・トゥメンの汗同何回国内O℃OR白玄ozg白V206円

3T

歪出向。回)を指し、明かにチャハルのり

Yダ

γ汗のことである

(Z・コ・ロE25向Mr℃同門円相内0・玄OESO白『内訳出向山コog'HHMU円何回巾

O?

zoE25Mく--E5・325pnJ・ωMIg-)。

制LHOR・HAD-2・

同開

EREE・8・

2・u2勺・ωM|包・

同州巨毛釦吋HLHV5・2℃・陸自・

倒欽定外落鼓古回部王公表徳島哲三四停一入、鳥珠穆給部情聴待。

同制ロ』曲2EPD司・

nHfs司・

ωMIg-〉・コo芦田巾g・3

2巾冨吉区

hH-EX20h出向出×EHEn-∞ω∞ーーロ。ロ臼酌吋・。コ

a・58・日間y

-32-

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447

ニAW

4

総チョタル・タイシャは続出山のわ昨日ら『(楚隊綴〉であるが、パ

イパギシュ、チ

γ・タイシマ雨人は山中磁資料に全く見えない。

しかし、パルラスのズソガル滋系後〈匂州wzmwgo同yar同凶SBgz

g町四}HM〉によれば:ハートゥル・

9イジの兄弟

kwaσ母由一沼田

ny

、吋悶ny校、吋包含

Z稿兄弟の名が見え、その議行繍係は、

mwnyβ-

M

同時幻切巳

σ兵一窓口ダ吋nyZ吋乱含乞の順でみる。との系譜

はミルラーもみおく同様でゑ切るし〈PASmuヨ

ow2MY

印OMWA7-

ロO勺

J

司令合同箆三国'HHh同舟

HvpxpN3)、ωmwHHHHprHH開河

g乞ヌグえの守

幼凸

vwrS4・∞・

ω・8mvにおいては、「一六二五年のベ

2Zロ

バ,S拐の}戸田の死に際して、その泌氏一道人安めぐって、-門担nyo益

r

M

M

3

M

凶山WF田笠宮町H

柄兄泌が防相って、後品鳴が敗れた

Jとのべて

いる。なおパルラスによれば、凶印刷ゲ閉山ち包V

は「一六二五年、

ω円ycr21門知即応凹広と字ったよとあり、J

門的再印刷

51門念仏一幹主につ

いては、「一六二五年死

J〈同

uagggpnp〉とあって、一間

人の移在は、もちろん、間帯件そのものぞ縛えているa

なおミル

予iによれば、「岡山議問ZJ

司陪障問己悶は二八二五年に死し、都民一湾

人ぞ遺す〈〈玄還さH

HJFn-aグ)とあるが、一議人はおそらく

一平入の談りであろう。

続LMG民・

2?吋CM

ヤコブ・プゴラ詰ブはトポリス

Fより二ハ二四

年七月六日にパートゥルのもとへカルムック人捕捕虜護迭のため

に荻滋されたものである。かれはトポリシスタよhJ題担制関ぞ獲し

てカザッタの崎偶然に近いアルブ担・カメニ〉MM

間同一如何》町内

gh巾ZF

でパートゥルに禽っている。アルプ

F

・カメ品の位置ははっ器

ちしないが、

Fポリスタより一月行濃のイチイタ山とそれ滋離

れていない地黙とみられる。パートゥルがバイバギシ品、チョ

クル一関口ル殺の宗いを認得するた仏りに赴いている閥、プゴラコ

ブはバ

1トゥルの命によってイティタ山に待っていたのであ

ザ唱。

締チョクルがパイバギジュの凡であったという聡からすれば、納

者に六}白人、後者whm間百人という数は常識的にみて無還がない

が、はたしてそう淑解していいか復帰摘がないので、プゴラコフ

の報告に立総縫っておきたい。

側ミルラーは、との時の声予イをデルベ;ト務のダ一フイ・タイシ

umLmFguユ佼〈端機綴品開什)と受取っているようであるe

かれは

そのズ

γガル倣系表において、チ努

Fルの般開後そのべた中でも

チgpルは、

}六二八年げ件、デルベγ

L

H

巾MXXmのオルダの

Fイシャ・タ

一フイJ

吋向同時限帥↓昌信込町とテルゲットJZHM

可部吋のオルダのウル

ルタ刷、川辺町民とやって、トポル河に去った。〈ヨヱ℃三OwnA吋My

hwOMW47・コむ℃、吋ゆ合同盟向京空冨

3PXO雄日

ud)

といっている。両市町弘司図、ヰ冊目}吋巾吋はいずれも、仏窃ろ色、

ZH4叫訟

の談、りであろうが、

yいの総惑は、ム司ムヅ定プの朗報告に援づい

て議かれたものであろう。しかし、わたしは、銃げい出掛捕摘したよ

うに、ズシガルのパートヴルげかトルグ

l

Fのホ・ウル手ュタの

女婚であったという家紫、及び乙mWA時間者が親密な隠係にあった

務焚を縛えるトミ開・べ

FFフの級品開によって、ム町ムツをフ

の報告中のbT

苧イをズ

γガル務のダ〈bT)

ヲイe

ぷガテイル、

つまちパ

i

Fゥル-

b

T

イジと考えたい。ウル

H品Fの子タイチ

γも亦チョタルの女繍開明、あったというから、トルグ

1ト鶏とズ

-33-

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448

ンガル部は常に姻戚刷聞係にあったとみられる。伎にこの時のby

-フイをミルヲーに一歩諮って、デルベ

Iト部のそれとみて色、

チョクル征討にパlトゥルが加わっていなかったはずはない。

帥hOR・20・3一この文書自慢には、情報をもたらしたナガイ人

がいつまでハンデリ・タイシャのもとにいたかを推定させる材

料を倣く。文奮が作られたのは

3X℃富。の編者が他の史料に

基づいて推定した結呆によって、一六三

O年五月二五日より以

前のものである

(ZX苫50・3℃・

50・口司E室内』自国巾)。パイパ

ギシュの敗死が、二ハニ八年一

O月からこの聞にあることは自

明である。

仰ヨヱ℃ヨ。・

2℃・

ω2・AT・口03ATg民主

Eh告白・

Z0・N吋由・

仰の・戸富三

ZH-ω即日ヨ]己ロ

mm5352cgロywZ9g-MV刊l

Hm山H1mwr

己門開祖∞回目ロチ]{吋由ω・

ω・ω∞∞・

MV白ZE--同M・

2fω・ωU・

刷hOR・20・

EN・

伺シャスティナ氏によれば、ショlロイ・ウパシ・コ

γタイジの

聞は年を確定することはできないが、一六二

0年代の末にあった

ことは明かであるとされているにすぎない。(ロ宮内叶一国E

P

C司-

nF42℃・印印)。俄木布額爾徳尼について中間史料の体える所

は、順治七年(一六五

O)、俄木布額爾徳尼が行狐と詑稿して、

腕化城界に侵入したこと。順治一二年(一六五五)、曙爾略左

右翼に八札離克が設けられたとき、俄木布額繭徳尼が右翼礼譲

克の一人になったことがのべられているにすぎない(欽定外藩

蒙古回部王公表停翁六一体四五、耐噌爾曜礼藤克圏汗部総侍)。

同川ミル-71はパlトゥルの略停をのべて、

"‘

(バ

lトゥルは)一六三四年、再びプハ

l一フ人と争った。

ζ

の戦いで大損害を蒙ったが、まもなく大勝利を得て、プハ

l

ヲ汗イシムヱ百三角の子ヤンギル泊Z2壱を捕虜にした。

(ヨエ℃FAO-2日】・印。目、

AT・コ03egz玄ES巾日vP20・ミ由)

といい、パルラスはこの設に従って、

かれ(パlトゥル)はモ

γゴルと和解した後、一六三四年に

二度目に勝利を得る乙とのできたプハ

lラとの幸運な戟いに

よって堕かになった。(同》ωzhwmw

。司・

27ω・ω由)

とのべている

0

・もっともミルラl自身は、

ωHwggZ口四月

ca--

mnF2cany-ロZ9ω白ロチ∞wω・ω吋ωにおいて、パートゥルが

カザッ

FEHイシム

HRESと戦って、その子ヤ

γギル』白口四回円

を捕虜にした事件を一六三五年としている。

F

シア文書にはこ

の一事件の詳細を凶押えたものがあり、それによれば、バlトゥル

がカザッタ大オルダのイシム汗ヱ自国平民同℃『と耽って一度敗

北を喫したのが一六三五年春のことであり、二度目に勝利を得

てイシムの子

γγギル王子民副司巾国国』泊国「巴喝を捕虜にしたのが

同年夏の乙とである

(h。R・】日戸】

M30この戦いの詳細につい

ては別稿にゆずるが、事件の事貨は、

パルラス

とは異って、パ

ートゥルが一六三五年一月一四日迄にモンゴルと和睦した後カ

ザック遠征に赴いたことである。バルテス、ミル一フ!のいうプ

ハlラとは西トルキスタ

γを意味する大プハ

1ラ、乙の場合カ

ザックの乙とである。

-34一

補註①メルゲ

γ・テメネ(一一)が一磁の軍隊を有していたこと

は、ジクメ・ナムカ著・橋本光費隷「蒙古剰麻数史」(東京。

一九二七)司-M∞?にも次のようにみえる。

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メルゲ

γ・テベナ京将ぬき進押宮崎守ま〈〈沼氏moロ件。自

30〉

と名づくる者あり。対物を鐙瀦し、二織の綴除ぞ有する一融持

軍なhJe

檎仲は②以上の動かちすれば、カラタラの死長一六三閤伴氏家める

見解も成立つ。佐口議端氏はカ一7hy-7の古川を二ハ三間怒としてお

られる。〈アジア歴史家災「ジュ

γガル」の項)。また

S2G芝

山内自民良事ののタミ同Y

二時・においては、パートゥルmw放機

嫌留の俸は一六三関関係となっている。しかしいずれもその綬嬢

は示きれていない。機かに一六一一…闘停殺も充分考えちれるが、

わたしとしては白下の所、カラPωツの死は一六一一一五年一月一四

日までには事実であった乙と令指繍ずるに必品りたい。

〈附記〉本務は修士論文「ズ

γグ

明、ある。総指導を賜った田村、務凶一関数授に一線く翁掛臓や淡した

449

東洋史研究叢刊之十一

-35-

宋史職宮志葉引佐

紬漉裁線クロース製

Ag本文額二三資

窓嶋崎市建・宋代官制序説六三頁

OO画

名・官制・経済・財政周籍、その後、あらゆる事項につ

いての約三高数千に及ぶカード念、叩ゑ十枇悶綴に排列した

ものである。巻頭には、宮崎市定簿土の「宋代官制序説」

会解題として掲載し、一階々羽後って、栄代は勿論、中閣

の政治・経済・従由国・宮鋭の研究者には、多大の使笈な

右融商御希獲のガは本ゆ踏までわ初出申込み下さい。

〈溺内迭料は本晶簡が負携しますc

)

!京都大準文事部内

5担

事再

蜘再会

七二八番