21
Title 舊岡山藩の社倉法に就て(二、完) Author(s) 黒正, 巖 Citation 經濟論叢 (1923), 16(3): 552-570 Issue Date 1923-03-01 URL https://doi.org/10.14989/128000 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

Title 舊岡山藩の社倉法に就て(二、完) 經濟論叢 (1923), 16(3 ......曲 醗 苑 蕾 岡 山 藩 の 肚 倉 法 に 就 て (二 完) 第 + 六 巻 (第 三 號 】

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Title 舊岡山藩の社倉法に就て(二、完)

Author(s) 黒正, 巖

Citation 經濟論叢 (1923), 16(3): 552-570

Issue Date 1923-03-01

URL https://doi.org/10.14989/128000

Right

Type Departmental Bulletin Paper

Textversion publisher

Kyoto University

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弾鯨

難鱒叢

.加骨

力教

の肚會

論者

に就

階級

に就

いて

督教

文明

の震

.

.

職閣

外醐

小作

調停法案

に就

一説

蕾岡

山藩

の計 倉法

に就

{蘇

米国研究の必要

別年

失業

アダ

・ス

ス生

二百

注學博士

文學博士

注學博士

法學博士

法學榑士

経済學士

経済學士

郷太郎

本庄

榮治

庄榮治

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蕾岡山藩の肚倉法に就て(二完)

+六巻

(第三號

】二八)

五五二

ロ兄

→一一}

グ巳

岡山

の批倉

に就

(二

、完

)黒

第三、肚

倉法

の組

イ、肚倉米の貯蔵法

右の如く岡山藩の肚倉法の成立には

一般人民ご直接の關係なく、純然たる官立の倉山票制度にし

て、藩の特別會計εして形成

せられ泥9

・ある。併し乍ら米蔵は貨幣蓬異b之が貸付取立に際

て運送上種々の据難症竪、長距離を頻繁

に鵜

々移動せしむる塒は、その質及び景

趣甚し

い愛化を

起すを以て、成奇

く各地に分割して侃攣

るの必要がある。警

於て肚倉米は之を

一地方に集

中せす各部の要所

冷々に倉庫を設立し・、特に河海

の水利ある所を選んで保藏した。交通至便の地

にして経費の都合上倉庫を建設し得な

い場合

には、その地の確實なる百姓所有

の藏を借入れて肚

倉に充て倉敷料誉

管理の親署

して年々五斗の粛

を出した。其後肚菜

が次第に嘉

し轟

の小躍

なる倉庫装

る・嘉

困難ε磐

、且つ趾粟

の論

を地方に置あ

必凄奉

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に至ったので、延賓五年十

二月十

二日永忠は評定席に建議して貯蔵注

の改正を行

った。即ち各部

に於て貸付及び救荒の用こして必要なる分量を概算豫産して其れ丈けを各地

に止め置き、騰

りは

全部岡山川筋、金岡、片上の三ケ所

に藏を立て

、之を藏

めた。蓋し右の三所は從來よb藩庫の存

する所

でめつて販萱及

び運送上長も利便の地であったからだ。かくして毎年婆秋の後、前年度の

 肛倉米をぱ大阪叉は岡山の市場に費卸し、其の代銀を秋の牧穫期迄保管して新米を買入れ詰め替

を行ふ事εした。

各藩の社倉には米を貯賊するあり、.変なるあり、粗なるありて各々その揆を

一にしな

いが、叡

は耐久性最も強く貯誠に適す

るの故を以て↓級を以て貯賊するものが最も多敷であった。然るに岡

山藩

の耐食法は

米を貯賊す

るを原則ざして居た。

之はその貸付取立の方法の然らしむ

る所

であ

り、叉毎年新米ε入れ替

へるこど峯な

って居た

、めであらう。後には貨幣を以て蓄積貯藏す

るに

至った様である。斯くの如く亘嶺の米を貯賊して年々

一定の時に市場

に出す

こεは時

により常卒

倉の如

き敷果を齎し、人民の生活

に有利なる場合もあ右が、豊年の際等

には米贋の暴落を促すの

危険がある。又貨幣を以て貯蓄する時は利殖の上

には好都合なるも凶荒

の備

へごしては當聴に於

,

ては極

めて赦果が少か

った`思

ふ。之れも岡山藩耐食注が藩政府

の利便の爲めにせられた方策た

るの

一端を示すも

のであら

う。荷

ほ.岡山藩砒

の目的

が主

ビし

て利殖

によ

って米銀を蓄積す

に在

っ.たから、米償高

き時

に肚倉

米を萱出

、低

き時

に買入

てその間

に利得

をなす

ε同時

に常

孚倉的

の機能

を巖挿す

るの方針を持

て居

紀が

かは不

明であ

る。

奮岡山[藩の計胆倉甲怯に就て(二心兀)

第十轟ハ巻

(第一二號

一二九)

五五一二

'

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ρ

選岡山疏四の肚倉法に就て(二完)

第十六巻

(第三號

=二〇)

五五四

ロ、計㎜倉

の管理纏縫

耐食

は純

把る官聾

の事業

であ

った

からそ

の最

の管理者

`し

て、肚

の獲

業者

る津田

永患

が敢食方肝煎

に任ぜられた。又薩倉が各部

に散在してみた關係上、各砒倉の管理取締は之を郡奉

行をして行

はしめた。而て豫定の期間内

に肚倉

の資本を蓄積する事が出来、社倉の基礎が確立し

盆航倉米も増加するので、少数の郡奉行が夫

々管理経管をす

る事は困難

εな

った.藪

に於て實礫

土の管理や貸付事務は地方自治膣

の公吏たる庄屋等をして行はしむる事にした。その理由εする

所は延賢四年二月永思

の手記によ

って知る事が出水る。

「此かし米以後は御郡奉行さじて構不申候、只今之二升変(畝萎を指す)の.如く庄屋共裁側仕候は

.

買掛

の借銀同前

にて何角

に付宜しく、人情

にも能可有御座候、扱御国替等御座候共

、構なしに

「ヶ所宛北米を御詰櫨被成可燃

`の最初の積にて御座候、二萬石の米を

一石に三升づ

、の

利にてかし候

へば借

り候看の爲

には利なし同前

に候

へ共、

一年

の利は米⊥ハ百石にて御座候

へば

次第

にふ

へ可申

蓬奉存候」

弦に至りて飴程自治的耐食の性質を帯びるようになった、更に同年八月には領内河海

の舟運に

便なる地をトして肚倉を増設し、之れ亦十村肝煎庄屋二人をして管掌

せしめ以て肚倉利用の便を

っπ。斯の如く社倉を郡奉行の手より移して艮間の経管に任じπ理由は、畝変法が民瞥自治で

めり乍ら相當の成績を禦げ得陀こごに鑑み、叉萬

一國主が國替のある時

にも、肚倉

は凋立して地

方に残存せしむるの目的から出たのである。

併乍實礫土は藩が

至然耐食に

干興しないのではな

1{D中 井 竹山の耐倉私議 に も之 ミ同様の 思想が現 ばれて居 る

P.5009照)

(日本纏諮 叢書第 置6巻

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く、藩の地方行政官πる郡奉行をして直接

に管理せしめない事

にしπにすぎnので、最高管理者

εしては枇食方肝煎は嚴存してみたのみならす、上述

の岡山川筋、金

岡、片上に在る藩直騰の三

大倉庫に貯藏せられだる杜倉米は、藩が自由に販費成

分を行

っ花のである。地方公吏は巧に肚倉

米の管理利殖の具に供せられたにすぎ阻。.

津掴来患が賢永四年二月五日⊥八十八歳を以て多くの大業を遺してこの世を去

つだ後は服部圖善

南篠入郎等がその経蟹

に徒事し紀が、その脛紛の才は到底

永患に及ぶ.べ¢もなく、肚倉が果

して

如何なる方面

に浴用せられたかは文献

の徴す

べきものがな

い。耐食法ぽ備荒機關εしては勿論、経

済政策上に何等貢献する所なぎに至b、折角の互額の資本も有耶無耶の内

に費消され、その使途は

全く明でな

い、恐らく藩政府の財政局走る作廻方

の支配下に置かれ、後、作廻方に合併せられたも

の、やうである。かくて天明八年九月五日耐食を解散し、その役員井に之に干與

せし岡山城下の

御用商人に論功行賞を行

った鋤尤もこの制度は純粋の祉倉注に轄化して地方

に久しく存続したも

のもある。

ハ、砒倉米の利殖法

砒倉米の利殖法即ち如何なる方浩で肚倉米を貸付けπかε見

るに、水銀千貫目

の利殖注に就

ては次の如く建議書中

に記してみる。

「右の御借し米も四年の内

には利一、割にて候得共、「世中悪敷時は利も

一割に可仕候、凶年には利

を冤或は返上の年を延し可申候得ば、.外

の借銀借米ごは蓮

ひ各別民の爲に能可有之ご奉存、返

蕾岡山藩の社倉法に就て(二完).

第十六巻

(第三↑號

=二「)

五五五

11)貿 暦七卑 配月五H留 帳、明和三筆 九月廿七 日留

12)天 明八年九 月五 日留帳

』一.一

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,

蕾岡山藩の社倉法に就て(二完)

第十六湯

(第=「號

=二二).五五六

納の義御年貢米の上に右の返上米指⊥候段、民の勢無

16元奉存候得共、久寿見申候得ば只今は

先高百石に付三石二斗餓の御貸米.にて候

へば取立に差て民迷惑も仕問敷ε奉存候」

即ち豫定の耐食元米の蓄積せら

る、迄は年二割の高歩

で貸付けたのであるが、年の豊凶によ

て返納

の緩急を設けた。之・し同時に無制限に貸出しを行はす、詩筒に慮

て貸付を

限定し

てみ

る。然

るにこの方法

によって民間

に米を貸付くる事は種々の弊害を伸ひ、且

つ目的の矯めに手段

を選

ばざるものξして種

々の反封

に遭遇し把こごは、延寳四年二月永忠が仲愛

に返

へしたる手紙

の中

に之を覗ふこεが出来る。即ち

「殿様

(綱歌

}より御貸米の御階出申候は

ゴ最初

に申付候趣意

さへ後.々迄立候得ば誰が如何様

に申

候共在

々の爲には官事に候

ε迄御意稜威置・・一・…・縫命此御貸米悪獣に極b唯今より御止め可被成

この儀

に御座候はゴニ葛石之本の分御取立被成次第

に残る御米は御拾秘蔵か、無左は急

に利分迄

不憂御取立被成

る、外は無御座候、急

に利分迄御取立破戒候は~在

々迷惑可仕ご奉存候事・……

此後-こても最初

の御趣意立不申候はゴ反て在

存の痛

にも成可申候、梁御衆中

に℃碧が財便如く鯉

の障bにも成不申ご奉存候」

斯の如く磁倉米

の貸付は上下の反樹

があったので、永患は國圭綱政し謝して延賓四年二月建議

書を奉

って貸米

の不可ならざる所以を説き.叉

】方に於て概論を反駁し、以

て所期

の目的を達し

五年目には獲存

利水二萬五千五百鯨石を有するに至っ左。藪に於て新

に利水を三歩

芭し濟崩方法

により可成民力を墜近

しな

い様にして貸仕を行

った。延賢四年八月の水患伺書を見

晒ば大髄

その

手紙 の挑 にあ り13) 永 忠 手記 ・

Lヒ

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方法が分る。

「………取立標は

「年

に武

割出しに申付納崩に出

させ可申候尤も世の中宮年は二割之上をも取立

年数暑

相欝

標奇

一額

郡肝煎中御郡奉行中中談冨

・五歩・

し三歩出し或は年をも延申度候事」.

術は同伺書中ほ

の爲めに粟

の鵠

を讐

ない様にし・叉

が凶年なる懸

賞米をし

臆二

ない様にする事を記してみるが、果してそれが如何なる程度に行はれたかは不明である。殊

に凶年

の時に貸米をしなかつ陀のは

民衆の矯めを慮

ってした事

か、それεも回牧困難なるべきを思

って藩庫、肚倉の利益の爲めにした事かは容易に割断がつか諏。更

に延賢六年二月十四日の永患

建議・・れば築

・葦

・撃

・…

倉・覇

・如売

資・蓋

εが・

球πので、之を藩政府直圏

の事業

に流用し、成は藩主の私用に

貸付けるに

ったこ慕

」の.

.

因であ

るご思

ふ.

この貸付

に於

ては肚倉

の財政

よb凋

せるも

のεし

て行

はれ、即

ち肚食

年六

が藩政府及

び藩主に貸付けたこε・し、元利を徴牧した様である。又貸付米減少

の他の原因は、

畝変法が漸次多大の財嚢をなす

に至一・

救荒貸付の方面に

可なりの

効果を

有す

るようにな

った

聴に混

食沓

付が緊縮方針書

》ある茄

へて・黍

より借受の手漿

煩雑・あ

聯.

臨大繭襲馨

難髭

軽羅

雛導誠

が面倒な計

りでなく

.必要

な丈

けを借

り入

るこ

ξが出來

ったから、人民

の肚倉

に依頼す

蕾岡山藩の社倉法に就て〔二完)

第十六巻

(第三號

㎜̀三三)

五五七

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轟 畠遡 

.

僖簡山藩の社倉法ド就て(二完)

第十六趣

(第三號

=二四)

五五八

の度が著

し一減じた。かくして航倉はその利殖法εして

一般人民

に貸付を行ふこごを差し控

へ、

藩の諸事業

に投じ以て之を利殖せんεするに至った。

爾ほ藪に注意す

べきは、砒倉の米銀が急速に増加し、普通の計算を以てしては之を了解す

るこ

ごが出來ぬこε之でめる。即ち耽倉元資

の蓄積期間中

には激発の爲め度々の支出をなして居

るか

ら、二割の貸付けのみによ

って利殖しセεすれば、到底二萬五千絵石の残存利米を得

るこεは田

楽なかった筈である。又この元資を利米三歩即ち

一石に.つき三升

の割で貸付陀のであれば、.次に

べるように莫大の額に増加しないε思ふ。故に豫定よb以上の高牽

の利米をεつたか、叉は肚

倉肝煎

に當る者がコ肛倉米の威分に際し何等

かの方法によって多大の利益を得たもの・しいはねばな

ら澱。殊

に新田開墾

に於てはその徴牧せる扶投銀は實費を償ふに足ら諏有様であるから、恐らく

は肚倉米費買

に際して利得

したものに違ひな

いε思ふ。天明八年九月肚倉解散

に際

し岡山城下の

有力な乃商人九入に謝し肚倉方御用を長らく勤めた赦を以て金子五百疋宛を下賜

されてるるこ巴

は、即ち肚倉米銀の利殖方法の

 而を物語るものであらう。街ほ大阪堂島邊に於て岡山藩が愈窟.

米の庭

分を行

ってはみな

いかご思ひ

一恋調査したが、別に甜録の徴す

べきものがなかったから.

砒倉方が直接投機的貴買は行はなかったものであらう。

最後に肚倉米銀の流通方法鷲して切手を使用して居たここは注意す

べき事柄である。併し乍ら

それが今日の農業倉庫證券の如きものであ

っπか否かは疑問であるし、叉砒倉創設の當初から行

はれてるたかは明かでない、今肚倉米切手

に關す

る記録の

一片を記して見る。

,

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一、御都方御末御銀の分り無之元方

一所に被仰付候事

 

一、右の通りに被伸付候に付御末御銭渡り切手夫々の役人して割唯今までの通に仕、石瓦李七

鄭承厨之奥割今迄の通其上

に勘右衛門彦左衛門右の通申渡候εの奥書判形に.て刳形共裡割

「可仕

一、御都方附

の内御

印帳に不載者共切米切手並

に在方諸役人被下米其外侮暮立家米の切手叉は

不意指紙

にて渡し候銀米等の折紙石丸李七郎前判

にて勘右衛門彦左術門右の通候ご奥羽加

へ判形共種別可仕事

右の外品替b候切手は右の趣に恋

じ可被申談事.

都方は批倉米銀を民間

に謝

して貸付取立を行ひ形式上肚倉

電猫立してみたのであるが、この聴

より米銀の融通は元方師ち航倉の行ふこε、したもの

、如くである。而て右の交書に

手は魅すしも民間

への融通に際して行はれたものではなく、役人の俸給

こして現物

の代りに與

た切手をも含んでみるようである。爾ほ叉この切手が今日の手形の様に流通したものかP叉如何

る性

のものであ

るかは、文献

のよ

べき

ものがな

いから

之を

にす

るこ芭は出

乍併前

の行賞

された御

用商人弊は藩

札の稜

行をな

が如

き富裕

にして且

つ金

融上重大

の勢

力を有す

のであ

るから、

之等

の阯倉

米銀切手

は金融

手形

εして廣

一般

に流通す

こξの出来

たも

のか

も知

諏。後

日の考讃

に俟

つ。

.

魯岡

山蒲

の肚蒼波

匹就て(二完」

第†六巻

(第三號

=二五)

五五九

餐 永 六年:十一一月 目の留帳15)16)轍 翻 こ蘂饗躍雛魏蟹灘辮 紘 灘 ご≒総 締 謙れ た ら しいo

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奮岡山藩

の肚倉法に就て(二完)

†六省

〔第三號

=.エハ)

五六〇

第四、肚

の敷

以上の如く岡山藩

の耐食法は、他藩

のものに比しその規模非常

に大にして、叉受の機能、特徴

も著しき差異を存するこεを知

った。而してこの肚倉法は諸種の方面に如何に運用

せ射れ、如何

なる鹸果を齎したかを明かにするこεは、該制度の特色を明かにす

る上にも最も必要な

こ`、信

る。故に肚倉注が直接に

一般人民

に劃し如何なる致果を齎したかを述

べ、更に藩政府

に封ず

敷果を述ようε思

ふ。藩政府

に封ず

る敷果が軈て

一般人民にも影響する所天であるが、之は措

て論外

ごする。

イ、

一般人民

に謝する礼肥倉法の敷果

D

凶舵救済

に劃す

る肚倉

法の効果

肚倉法が創設せられて以来も度

々藩内に天災がみ

つて至る所

に飢餓の民を生じた。.併し之が覚

めに支出された肚

倉米の額に就

いての記録は極めて少な

い。その記録の少

いこごは即ち

一面

に於

て肚倉米の支出

せられなかったこごを反讃するものであらう。醤藩古記録に存するものは僅

かに

次の敷項に過ぎな

い。

'

・・、麦人(講

颯鞭

ロ」

(著

所論

 い鞍俄

玖肺玩埜

朋蒲

賑恤.

・、§

9

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,

F

月より四月迄

,

.

.

月より.

暮。

常時は耐食

法創

の初期

に方

って居た

から.充

分の給與をな

し得な

った

から

でも

あら

うが、

にしても畝饗

の給與

額が比較的

に多

いのを

見れば、砒倉米

が如何

る方面

に運用

され

たかを推

るに難

くな

い。殊

に天和以後

に於

ては耐

倉は已

に濁立

し互額

の元資

を減

てみた筈

であ

るの

に、右の如

き僅少

の賑恤

をな

した

にす

孤黙

から察

すれば

、雫豪

飲b

に多

く貸付

をな

し叉開墾等

に流用

し、肚倉浅春來

の任務

を滑慮

してみな

った事

が明

かであ

る。其

の後

の記録は余

の寡.聞

てしては知

るに由な

いけれごあ

、肚倉

法の

この方面

に於

る活

の程

度は知

べきのみ。事情

の如

であ

から

凶年飢

の救済策

εし

ては耐食

の敷果は決

て充

分であ

った

εは

いふ事

が出

諏であら

う。

挽質

に鍬す

る敷果

(

川時代

に於ては租

法は

一般

に五公五民を

則εし

て居だ

が、岡山

藩は⊥ハ公四民

を以

て租税を

牧し花。乍併

之は岡山藩

の田地

は豊

であ

って他藩

の五公五民

よゲも農民

の取實

は遙

に大

って必

しも過重

の負謄

ではな

ったけ

れご

も、兎

に角

分配

の不公雫

であ

るこεは

一般

に認

てみた。

こでこの弊を少

くす

る爲

肛倉

法を利用

しようごした

こεは魔女

一年

の建議

第四段

に明

であるQ

薔旧聞山藩の計渦合羽辻仏 ト就で、(二出川)

第十⊥ハ巻

〔第一二號

一一二七)

五⊥八一

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'

態岡山藩の肚倉法に就て三完)

第+六巻

(第三號

一三八)

五六二

「.内

々御国は土代冤高く上えの取

つよきざ申出に御座候得共、只今土代晃御下げ被成候は~御職

入御家中εもにつゴきかね可申候

へば土代発御下げ破戒候畢は不被爲成事ご乍愚意被存候、右

之如く被仰付候はゴ行

々は土代晃御下げ被成候同前に可有御座候哉ご奉存候事」

初め耐食

の元資蓄積の際

に於ても年の豊凶

に抽はらす元利を微粒する謬ではなく緩急

を作

って

みたのだから、肚

倉より米銀を低利で借れば多少租税重課の不公卒を矯

正す

るこεが出來セであ

らう。併

し之は極

めて間接的の作用あるにすぎ諏から、肚倉米銀の貸付によってこの目的を充分

に窪しうるεはいへぬ。それが如何なる程蔑迄奴果があ

ったかは藪に論断す

べき材料が無

い。

生産上に及ぼした敷果

當特の経済状態は農業をして多く生産資本を投じ企業的

に活躍せしむるの餓地は甚君少かつセ

のである。故

に肚倉

の米銀も生産資本εして貸付けられた場合は比較的少い。

その著しいものは

ラ 

い開墾を漿勘しその費用ざして農民に貸興したもの、ろ大百姓の経瞥困難なる者に劉し資金ごし

一人二十石計りを年利五分四ケ年濟崩

にて貸興し党こ蓬、は既墾地の荒蕪に締し把所

へ移住す

・る者即ち散田取りに謝して震旦ハ、住宅、肥料誓

の費用を與

へたるが如き之れである。叉從來、牛.

銀、肥し代な

る生産資本の融通注があ

っ陀が、砒倉成立後は郡會勝

か肚倉から借入れて之を農民

に融通した。武元立雫はその勧農策に於て生産資本

の貸付に

つき次の如く論じて居る。

「牛は農

民第

一の物、牛少くては田地耕し行屈不申候

へは.牛録ξ號し是も御吟味の上御惜し可被下、叉

肥しは作物になくて叶はざるものにて御座候

へば肥代ε名付是も拝借可被仰付候…・:…然

るに只

`

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今の拝借は下方より色々歎き願候

へεも多くは相立.不申文間

々被仰付候ても少々の事

にてト方潤

ひに相成不申、又拝借取立蕉は寛

に過ぎ候故拝借ε申すは唯被遣候物の檬に下方に存居中候、叉

々には拝借被仰付俟てゐ小百姓の手前

へ行屈不申中途にて姦曲の役人導引止

め………し

鋤農策は肚倉法膳止役の作であるから、右の文章によって見れば、直接肚會注の敷果に就

いて

べてみる鐸ではな

いが、耐食の存在せし頃が平銀肥代の借受けにつき比較的便利であ

っπこε

を間接に謹明す

るものではあるま

いか。要するに耽倉は開墾事業を大成し、且

つ農艮

の生産資本

を融通する等、生産土に相翫の歎果を齎したこごは明な事實である。

4

消費纒濟

に及ぼしたる敷黒

く 

常時の百姓の多敷は牧穫より牧後進の問

の生活資料を峡

き、豪農富商より高利

の借銀をなして

みた。肚倉米銀の貸付は

一般貸借

に比し長期且

っ低利にして、年め豊凶によって元利の取立てに

も適宜の方法を用ひたのであるから、之れが人民の消費纏湾上重大の敷果を燃しだこεは云ふ迄

もな

い。殊

に今も昔も攣

りはな

いが、人民が

一朝豊年εなれば奢侈浪費をなし、凶年には救を人に

乞ふごいふ有様

であるから、之が弊を防ぐには緩急を以て貸付をなして元利を徴収し、以て

}般

人民をして安定確貴なる生活をなさしむるに如くはな

いε考

へられだ。惟

ふに岡山藩は從來より

定免取法に依

って租税を牧細し毛見取注.は凶年不作の場合に嚴正に行ふを原則εしてみたのであ

るから、豊年には多く租税を徴牧し凶年

には少く取立てる嬉いふこεは出来なかった。故に租税徴

牧の緩急によって生活を安定ならしむる事はこの制度の下

に於ては不可能

である。この故

に右の

薔岡山薪の肚倉法に就て(二完)

第十六巻

(第三號

=二九)

五六三

17)勧 農策(日 本経済叢書本第 二Q巻 五九 〇頁)

F

F

い、幽

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」、

r

書岡山蒲の記倉法に就て(二完).

第十六巻

(第三號

一四〇)

五六四

如き肚倉米銀の貸付方法は健全なゐ生活を瞥ましむるに多人な

る効果があったε思ふ。永忠が之

を旨

εしてみたこεは次の建議書の交書よb推察

せられる。

「一、惣別下民は世中能塒は有にまかせて遣捨、凶年には行當b難儀仕者之由兼而承り候、左申

仮面世中能特は土免より多く被覆上、凶年には御免過分に御指先破戒候事も難破成候に御座候

へば、此爲めにも右之如一に御借し米を被成、世中能塒は利をば納

め凶年には利を免じ、或は

年を延遣候は

y、只今より四年之内ξても氏の御救に威、第

一世中能、氏之鯨米在之年は利を

付、世中悪敷

飲米無之年は利を少く仕、或は利なしに仕、又は年を延

し候ε有之段、氣昧あひ

もよく民之情

にも宜しく可有御座ε塞存候」

乍併永恵存命中、及びその後暫くの間は、右の如き目的を以て貸出が行はれたけれこも、元来

一定の額に達し花時は之を藩自身の爲めし利用するこεを目的ξして装生した制度でめるから、

貸出の.方面は闊却され、大部分を他弔魑用してしま

った。從て後には

一般人民

の生活に劃す

る効

果は次第

に減少した。而て耐食法磨止役に於ては人民は昔

日の如き困苦

に沈淪す

るに至

ったやう

である。勧農策によれば豪農富商が小百姓に黝し、生活の資こして会戦を貸付け、兼併日々に行

はれ農民は公儀

の権威恩徳よりも金持の恩威

に恐れるようになったごいひ、更

に次の如く論じて

.

る。

「……此兼併遊惰の弊を止

め小景を取立不申候ては国家李治は出京木車候、其仕方を相老候に、彼

未進借銀を下方にて内分に仕る事を嚴敷御停止御座候て皆公儀より拝借可被仰付候、左様

にて

疋塾 . 磁 一

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は御上の拝借出所有御座間舖

ご申し不審付申候得共晶も何程も出所御座候

,・.ケ様に御上より

不残拝借被仰付候て手厚御世話被爲在、小百姓

の手前得-し御吟味

の上其不足程御備付被遣利息

御定の上取立候は嚴敷被仰付

、又能々吟味

の上彌万難澁

にて得挑不申小氏共.へは利息御引被遺

文は元銀をも御減少被下候様被成下候はゴ小氏如何計難有可奉存候」

若し肚倉法がその存綾中清費経済に著大の効果を断

へす齎したものだεすれば、農民の経済生

活にっき互細に亘

って建吉しπ所の鋤農策

は何等か肚倉法に就きて説く所があらねばなら

戯。然

るに塗篇中

一言之に論及したる黙のな

いのを見れば、肚倉法創設當塒の昔

に於ては、εに角相當

の効果があ

ったであらうけれごあ、後程には人民の消費経済εの關係が極めて薄弱のものごなっ

て居たこごを反謹するものではあるま

いか。故

にこの方面に封ず

る耐食法の効果は

一穂的のもの

にすぎなか.つたものであらう。

ロ、藩政.府に封ず

る肚倉法の敷果

藩の直管事業に撤する数果

津田水患が在職五十年の間

に完成しπ諸事業は殆ご全部航倉の力に由

るものである。先づ手初

めごして延賓七年二月上道郡圓仙村海面村沖の海岸斥函の地を開墾

して田地二百九十五町余を作

.

り、更に之が水利の用に供する爲めに東大川ご西大川εを連結する運河を開鑿した。・.」の大事業ば

耐食

よりそ

の.経

費を仰

ぎし故

を以

て倉

田新

及び倉

川ε名

づけた、尤も之

に要

した経

費は正確

に分ら隔。爾來彼

の大事業

は何

れも肚倉米を以

て経管

された

のであるが、何故

かその支出

額は不明

誓岡山藩の祉倉法に就て(二完)

第十六巻

(第=…號

一四

一)

五六五

ユ8)1勧 農葺荘(日 本経 済 叢 書 第2⊂4P.592)

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蓉岡山藩の泄倉法に就て(二完)

第十六巻

(第三號

一四二)

五六大

である。只貞享元年の幸島新田五百六十

一町七反余、元脈五年の沖新

一千五百三十九町五反飴

の開墾に就

いては精細なる支出額が示されて居

る、即ち前者に於ては米にして

一萬石二身七升、

.

銀にして四百十六貰六百七十八匁、後者に於ては米

一萬五千四百十八石老寿二升及び銀札二百四

十五貫四百三十八忽を肚倉に仰いで居る。曇尤も最初の間は肚倉は藩の

一般會計よb濁立してみた

ので新町開墾に要した纏費は、該新

田の物成を以て就倉

に返済し、藩政府は夫役銀・じ構して

…反

三十匁にて人民

に挑下げた。晩食が救蛇の爲めに支出した額ご開墾経費ε比

べる蓬絵りに大なる

差があるではな

いか。・肚倉創設前、財政窮乏の節かの金岡新田の如き他藩

の富豪をして開墾を請

け負曝しめ、辛じてその目的を達したる時代を思

へば隔世の戚がある。

に船手#

に都方に厨する船舶三十醗艘を建造して

一朝の有事に備

へ、又上り米、、廻米

の運送

にも之を使用した。北郷朝鮮國彼が牛窓寄港の際の接待費、領内各地

の土木治水費、嘔山槍地盛

等、皆並倉より出て居

る。斯くて天和二年

から兄様十⊥ハ年迄二†二年間に藩

の生産的不生産的両

事業

に流用された就倉米銀は、銀札二千五百五十八貫飴、米十萬九千四百二十五俵に達した、殊

に岡山城内の普請

には肚倉米二十三萬四千二百隙饒が流用

されたεいふ。叉此期間内

に郡會所に

託して都政特

に土木治水に用ひた額は三十七萬四千四百〇二俵

に達して居

る。省ほ賢永元年の永

息の決算書.には貯蓄銀三干九百八貫、都方有銀七百八十四貫、肚食方有銀六千四百○入貢を存す

εある。此の如

き莫大の銀は實に肚倉米の利殖運用の結果に外ならぬ。街ほ右の都方即ち郡會所

より直接に家中、町方、在方

へ貸付けて居

る額は小判千二百四十

一両、銀子七百○

↓貫、米二萬

19)20)

21)

本誌第 十巻 三號一・四三頁参照

類纂土壌門開墾 の部寛文 七年 の評定留

津 田余恵年譜≠トに般手記線(類 纂武事門)

謝..盛L.,

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入千六百十四俵、姿

†七百三十山ハ俵、籾三百五十三俵

の多きに上る。肚倉法の規模が如何に大

ε

って居把かを知るに足る。從て藩が肚倉法

に出てその大事業

の遂行に如何に便宜を得たかは盲

ふを侯両凡ない。幕府が猜疑の眼を以て岡山藩

の経済力を監視す

った事は無理から諏事で

ある。只遺憾、εする所は最初肚倉創設の目的の

一であ

っ陀郷學

の振興策が財政

の都合上中途で塵

止せられたに拘はらす、肚倉が売買した階に於ても、藩は直接利害關係の在る事業

にのみ莫大の

米銀を流用して再び之が振興を計らなか

った事之れである。

藩の財政に封ずる肚倉の敷果

租税牧納上

の敷果、肚倉法創設當時貸米に就きて世論の反劉あ

った.、εは己に述

べたが、

その第

一の理由は利息徴牧の爲め租税の牧納を困難

ならしむるの虞があるεいふこεであ

っだ。

乍併脛編の才を有する永忠は、よくこの二者を調和して所期の目的を達した。尤も肚倉米を借用せ

し人民が果して如何なる困難

に遭遇したかは資料の徴す

べきものがないけれこも、兎

に角、藩

租税牧人上には大し

て悪影響は難か

陀様で

ある。否、肚倉米銀によって贋大なる開墾が行は

れ、地租版入は著しく増加し、藩の財政的窮乏を救

ふ己いふ結果にな

つπのである。

藩の負債に謝する敷果、蕾藩時代に於ては地租が最大の吸入源であ

ったが、波力の凶年の

爲め曹

に地租牧人の激減せしのみならす、更

に人民

の救助の爲めに賑恤を行

った

、めに、藩政府

は諸方画

から借債をした。即ちかの承慮三年の凶荒に.は幕府より四萬而を借入れて之に充賞して

居る。此外、藩の有する内外債務は豆類に達した事ご思ふ。然るに肚倉法の創設切張、

一朝有事.

蕾岡山藩の社倉法に就て三完)

第+六巻

(第三號

西

=こ

五六七

幽"血

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薄岡山藩の枇倉法に就'㌦{二完 

第+大巻

(第三號

一四四)

五六八

の際

にも藩庫

を開

いて救

済す

るの必要

なき

に至

った計り

でな

く、更

に欝憤

が償

還せら

れ俺

ほ剰

て上記

の如き莫大

の米銀

が藩

庫並

に肚倉

に貯

せら

て非常

る富

裕を致

し、従来

三十

「萬

二千

百石

ε穂せられ

た岡山藩

は優

に四十萬

石以

の實

力を有す

に至た

のでみる。之

れ蓋

し肚倉

の救荒施設

ピして活

せす

、藩

の財

に資

せんが爲

め汲

々ざし

て利殖運用

せら

れた當然

の結

いふべきであ

る。

岡山藩

の財政的破産を

救済し得だ

ものは實

この耐食

であ

った、只其

の後

の彼

の脛瞥運用

が充

分に行

はれな

った爲

に吐倉

は財政

上金融上

の機能を失

ひ、藩

の財政

は再

び窮

乏を告

るに至

ったよう

であ

る。

.由. .酔 ヒ…∬恥P

第五、結

以上私は蕎岡山藩の肚倉注創設

の顛末、その組織及び敷果に就

いて概説した。

是̀に由て見れば

その名柑は耐食でめるが名實相異

るこご著しいものがある。岡山藩

の肚倉注が藩

の殖産興業に資

する所大にして、間接

に人民の貧困ε凶荒ごを緩和す

るこごが出来たであらうけれこも、肚倉本來

の目的だる救荒をば二次的附殖的のものε化して終始しπかに思はる

・・。若し眞

に救荒を主たる

目的εするも

のならば、藩の財政窮乏の折柄豆類の元資を

借入れて

迄も之を

利殖す

るより廣

ろ、從來より孫在する畝萎注の改善獲蓬セ期す

べきである。肚倉法ε畝萎

εを併立せしむる時は

人民

の負櫓は伸々容易でない。畝変法が至然救荒上の敷力なく、その輕管方法が不可であお矯め

に、耐食法に由

ってその短を補ふの趣意より出でたものならばεも角、後になって畝変法ご同

…の

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経管方法により長吏をして耽倉米

の貸付取立を行はしめ、政府は上に在

ってその利殖米を勝手に

販賞庭介せしを見れば、畝変法の管理経楼法が有効であるから、他に口を籍りて肚倉米利殖

の勢

務を民間

に轄嫁したに過ぎのざいふこごが出来よう。更

に進

んで肚倉米銀の利殖及び運用の状態

を考

へれば、岡山藩の批倉は藩政府直管の楼利的融通機關であった

ε断言す

るも不可はな

い。殊

に肚倉の元資が増加するにつれて却て民間

への貸付を減少するに至った如きは、決して民力が売

買して農民達が.情人の必要なきに至

ったから

ではあるま

い。恐ら

くは手数煩雑なる少額宛の貸付

よbも、大弾棋の開墾事業等に投ずるこεが有利であるぎ考

へて貸付緊縮の方針

に出た結果では

あるまいか。歓に最初の貸付

の如きも實は人民の温和を直接の目的ごしたのではなく.耐食

の元

資蓄積の目的じ出でたものではあるま

いか.水患の如き理財家の再び出てなかったこεも考慮す

べきこε乍

ら、耐食法が長くその生命を持鞭するを得す、折角の元資も何時しか消壷されてしま

ひ、耐食法の効果は開墾治水を除

いては殆ざ淺

る所はなかったよヶである。鋤農策は岡山藩の政

治を論究したる唯

一の著書であるが、その

=言肚倉

に論及して居

ない所を見れば、さしもに大規

模の肚倉も全くその影を浸して、効果を後世に遺

さなか

つだものε思はる、。

要す

るに醤間山藩の肚倉法は農業経済時代の弊を匡補せ.ん注す

る肚會政策的理想

の實現こして

創設せられたものではな《、典型的

カメラリスト津田水患が、纒濟力の流質により之を基礎ごして

藩政の振興を計らんこする維濟上財政上の理由より出炭ものでめる。砒倉法の設置は他の目的に

到達せんごする鯛めの二聴

の手段

に過ぎなかった、人或は耐食法は畝嬰.渋の延長であるご論ずる

,

奮闘山藩の肚倉法に就て〔二完)

第+六巻

(第三號

一四五)

五六九

⊥.卍.一 

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」r

醤岡山藩の肚倉法に就て(二完)

第十六巻

(第三號

一四六)

五七〇

けれごも術者は全然別個のものであって、その精神

ごする所は著しく懸紙して居るε思

ふ。從來

岡山藩

の肚倉法は明暦元年(西紀

一六五五年)に創設せられた會津藩の肚倉に次で最も古

い歴史を

有す

るものεせられだ。乍併之は癒倉の名に提はれ把皮相の見でめらう。岡山藩の眞

の肚倉は明

暦…二年創立の畝変法である。所謂岡山藩の肚倉注ば藩政上の

一の資金制度εいふべきか、否、.凶

荒救済を附随的任務ξする官螢の貨殖螢利の金融機關ご云ふ

べきであらう。徳川時代に於て斯の

如き規模ε組織εを有し、斯の如き経済的活躍をなし左る金融機關は他

に之を見るこご.は出來な

い。岡山藩

の肚倉法は備荒貯蓄

の施設達しては殆ご何等の意義を有しな

いものではあるが、その、

金融史上に於ける地位は特筆す

べきものε思

ふ。

.

u