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Title 唐の韓鄂『四時纂要』について Author(s) 天野, 元之助 Citation 東洋史研究 (1965), 24(2): 194-210 Issue Date 1965-09-30 URL https://doi.org/10.14989/152694 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Title 唐の韓鄂『四時纂要』について

Author(s) 天野, 元之助

Citation 東洋史研究 (1965), 24(2): 194-210

Issue Date 1965-09-30

URL https://doi.org/10.14989/152694

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

Kyoto University

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1194

『四時纂要』

長年、

亡侠した書として傍えられた『四時纂要』が、東

京の山本書庖主山本敬太郎氏によって護見され、

九ノ、

年十一月、守屋美都雄博土の解題を附して、

影印本とし

て公刊された。

山本氏所蔵本は、縦二五・七センチ、横ニ二センチの線

装本で、九十葉、二二字十一行、

はじめに「四時纂要序」

あり(撰者名を紋く)、本文は、春令正月、春令二、三月、

入、九月、多令十、十一、十

夏令四、

五、六月、秋令七、

二月の五巻に輯まり、最後に「大宋至道大歳丙申九月十五

日施元吉の離字記」、「杭州潜家彫、立日義」とともに、

ならびに

暦五年柳希潜の践」、

「高暦十八年朴宣の抜」

つし、

フE

り、末行に「慶尚左兵営開刊」とある。すなわちこの度上

梓された『四時纂要』五巻本は、明の蔦暦十八年

(58〉

韓園の蔚山郡下閥面で、宋の太宗至道

二年(活。)杭州の

民間刻本にもとづいて、重刻されたものである。

-68ー

さて本書に附せられた守屋君の「解題L

(四

0ページ)

は、誠に周到なもので、撰者名を依く本書を以て、唐の韓

都の『四時纂要』そのものだとされた黙など、是非一誼す

ベき充賓した内容をも

ってレる。

氏はまた『大阪大同学文民宇部紀要』第九巻(昭和三七

年刊〉に「唐・五代歳時記資料の研究」を護表され、

そこで此の書について述べられた

爪四七

l八四ベ

l

「高

ジ〉。

撰者韓那(また韓誇につくる)の経歴は、全然剣らない

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が、本書の自序に、

『章氏月録』

(奪行規撰『保生月録』〉

を批評しているので、

その貼から唐末五代の人と見られ

る。乙のことは、すでに北京農業大皐数授王続瑚君の『中

(一九五七年中華書局刊、四三ページ、

園農民午書録』

六四年農業出版祉刊(改訂本)四八ページ)に明らかにさ

れている。

つ、ぎに此の書がどこで撰述されたか、従ってそれに盛ら

れた内容が、

それとも華中のことがら

主として華北か、

か、確言できないが、後述するように、書中に説くところ

の農事は、主として北方のものと、私はみている。

さらにその撰述の意園は、本書の序に

余是以編(循)

閤ニ農書「捜一議雑訣「康雅・爾雅則定一

其土産「月令・家令則叙=彼時宜「釆-一活(氾〉勝種樹之

書「接-一握寒試穀之法「市文章氏月録傷ニ於簡閲

(歓)「

費民要術弊在ニ迂疎叶今則捌ニ雨氏之繁蕪「撮エ諸家之術

敷二玄々

195

とある。これには、末尾に撰者の名を閥くが、宋の秘書監

陳駿等原撰『中興館関書目輯考』巻四、農家の僚には、

(四時纂要十巻〉開閉一

、(韓)郭采ニ諸家農書「紀エ風

雲之候「

録一J

種殖之法「下及ニ方書蓄産之事一皆載、天轄

中頒ニ其室田於諸道「郭自序日、

として、上引の文を約言して載せており

(『古逸書録叢輯

之四』の二三葉ウラにみゆ〉、南宋の晃公武『昭徳先生郡驚

讃書士山』

巻第十

一、農家類

四時纂要五巻にも、この自序

に基づいたものが誌され、(王先議合校本、巻十二の九

l十

葉にみゆ〉、撰者韓都が諸家の農書から、

自然の運行を記

し、種植の法から醤薬の慮方・

畜産のことに及び、それも

「月令」風に叙述し、故・寓園鼎君の言葉をかれば、

「全書

およそ四蔦三千字、分かって五巻とし、韓例はほぼ

〔後漢

- 69--

の崖寒の〕『四民月令』と同様、月を逐うてまさに倣すべき

事柄を列奉して

いる。しかしそこには、三つ

の重要な相違

支工りに

「農家

貼がある。ハ円具韓的な農業技術を叙述し、

暦」の性質を象ど

っている。

O占卜・禁忌等が

およそ書

物全瞳の十分の四を占め、迷信的な部分が大いに護展して

いる。伺『四民月令』ほどには濃厚な地主経営の色彩を具

有していないと(「韓那『四時纂要』」『中園農報』一九六二

年五月十日刊、三三ページ〉。また王航瑚氏も、「書中、占

候に廃するもの、及び各種の迷信的な文字が、全書の篇幅

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196

一定の

の十分の回以上を占め、飲食烹笹を談ずるものが、

比重を占め、全韓をみると、韓裁は後の明代民間に流行し

た「通警」(こよみの類)によく似たものである。引用し

た書も、半数以上は迷信に属する性質のもので、ほんとう

の前代の農書は、寅際にはただ『斉民要術』・『山居要

術』

・『保生月録』

・『地利組』等の数種だけ、それも最後

の二重盲は、

農築書録』

各々一候引かれているだけである」と(『中園

一九六四年改訂版、

四九ページゴ

回開一

いま本書巻之

のところを播くと、

まず天文暦

象のことが出て、占卜の

ことが長々とみられる。すなわち

晦朔占・歳首雑占

・月内雑占

・立春雑占

・占月影・占雲気

占風・占雷

・占雨・占六子

・師瞭占

・占八穀と

入七行

(毎行二二字)を費しており、次に正月の行事として、爆

竹・屠蘇、七日器用戒・鬼鳥、十五日驚戒等のことが十五行

見え、

つづいて正月の禁忌として、遠行

・商買

・刑罰

・嫁

要・架屋・喪葬

・醸銀

・躍鼠・食忌等に閲したものが六

O

更に正月の行事が六行出てから、

行を占め、

はじめて農

書らしい記載を見出すことができる。守屋氏の言葉をかれ

ば、植樹

・耕執

・醸造・跨虫法

・耕牛法・治牛羊疫方等に

関したものが一四一行あって、最後に月令に違背したとき

におこる災害のことが五行あって、正月の項が終る。二月

以下も、韓例はほぼ同じで、守屋氏はこのはじめの部分の

占ト・慣行・禁思に属する部分には、中園人の民俗を知る

ために興味ある文が多く含まれていて、有益である。唐・

五代のころ、この種の民俗開係の記事をこれだけ系統立て

て豊富に記した文献は、他に見首らないように思うと、推

奨された(二

0ページ〉。

いったい此の書については、『宋舎要輯稿』食貨農田雑

録に、天稽四年

(HS。)利州路輔運使李肪の上奏からして、

ー70ー

時の天子員宗は館閣に詔して、この書と後貌の買思諒『湾

民要術』を校勘雌印させ、諸路の勧農司に賜うたとある。

」の記事は、

『績資治通鑑長編』巻九五、『宋禽要輯稿』職

官動農使の係、『玉海』巻一七入食貨農書の僚や、『文献

遁考』鰹籍考子部農家類にも、記述されて来たが、この

刊本は今日俸わっていない。明の葉盛『茶竹堂書目』巻五

農園、同じく陳第『世善堂臓書目録』下各家六、同じく楊

士奇ら奉勅撰『文淵閣書目』巻十五農固などに、この書を

著録したが、

・これらが上記の官版であ

ったか、一明らかでな

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ぃ。また故・松崎鶴雄氏によれば、この書は、明の『永祭

大典』中に輯められたが、その後、清になって江西省部郷

の文廷式が、この『大典』本を珍蔵していた。しかし彼の

死後、その遺族がこれを貰り出したとのことである(「永

・集大典に就て」『漏出車』昭和十二年四月現〉。

ところで、今日、宋の太宗至道二年

98〉施元士口の家

刻本に擦った朝鮮本が、世に出た。それは、上記の員宗天

繕四年刊本より足がけ二十五年も早く上梓されたが、家刻

本だけに充分の校勘もされずに出されたので、これまで種

種の書に引かれた文章と封比して、誠に多くの異同が瑳見

され、高園鼎氏も言われたように、

「この影印本には、頗

る錯字・脱字があり、その中の材料の来源も、

一歩進めて

核劉(照合)と考誼をする必要がある」。この勲、すでに守

屋君も手がけられ、南宋の周守忠の

『養生月覧』をはじめ

として、二十種の書籍に引かれた本書引文を検討され、本

書四一1l六八ページに「諸書所見『四時纂要』断章と影印

本の劉照表」を示され、そのなかで十六種の書籍と封照さ

れた。

197

きて此の朝鮮本(影印本〉を見るまで、私も唐代農書と

して注目すべき本書の片鱗でも知らんものと、宋の陳元観

二編に輯む)から

『歳時慶記』

四十巻(『十高巻棲叢書』

十九章句と、

守屋君の未見の明の程一両『四時宜忌』

(『居家必備』巻六に輯む)から十五章句を見出したが、

いずれも占験・俗信

・家庭療法といったようなもので、寅

はがっかりしていた。

」れらの章句は、おそらく上記の『章氏月録』す

なわち唐の奪行規『保生月録」

のか。因みに『章氏月録』は侠して俸わらないが、

馬端臨『文献通考』巻二O六経籍考に、晃公武

『郡

一巻から援用したも

-71一

「十二月に分かち、

毎月の揖

禁讃書志』を引いて、

養・種塞

・祈躍の術を雑記す。李期これが序をつく

る」とある。

(もっとも『昭徳先生郡策費書志』巻

十二農家類

保生月録には、

最後の

一句を閥く〉。

」れについては、『中園農皐書録』

一九六四年刊、

四七1四八ページを併着されたい。

幸い此の書を手にして、私は早速この中から農業関係の

記事を拾い出す仕事を始めたodすると、そこに元の司農司

撰『農桑輯要』に引かれる『四時類要』の文章と一致する

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ところが、極めて多いことを護見した。この結、周藤吉之博

土がすでに「南宋の農書とその性格」〈『宋代経済史研究』

一九六二年刊、

一六ページ)で、「『四時類要』は・:『四時

纂要』の類ではないかと思われる」と瑳言され、また王銃

瑚教授は「この書は、金朝統治下の人が『四時纂要』を基

礎として改編して成ったものだという可能性がある」とさ

一O九ペ

ージ〉、

れたが(『中園農墨書録』一九六四年刊、

守屋博士は『農桑輯要』所引の

『四時類要』の全部につい

て、影印本の中の針膝文を探されて、

三Ol三四ペー

ジに

一覧表を示し、その「摘要」欄でも

って

「類要の方に若干

脱字が多い」とか、「纂要の方が三字多く、すぐれている」

とか、「ほぼ同文。類要によって纂要を

二字補正できる」

とか、「纂要が若干すぐれるが、類要によ

って二字補足で

きるところもある」など、列示され、「『農桑輯要』を手が

かりとして見る限りでは、

『四時類要』と『四時纂要』と

は、同書の異名と見るべき公算が多い」とせられ、そして

「我々は、今後、

『四時纂要』をひもどくに嘗って、それ

を『類要』と針比させつつ、原文の誤脱を相賞多く補正し

うる見通しをもつことができた」とせらる・(三四l三五ベ

ージ〉。

私のように中閣の農業史を勉強している者にと

っては、

この一覧表がこの上無くありがたいのだが、

前述の

書所見『四時纂要』断章と影印本の封照表」とちがって、

誠に不親切な表で、引文との封比を紋き、守屋君自身は影

印本の誤脱を補正されようが、本書を繕く者にとっては

一々封比してみなければな

らない。蔦園鼎氏もいわれたように、この朝鮮本は靴字・

股字の多い本だけに、誠に讃むのに苦第する。しかも本文

『農桑輯要』を坐右において、

一72一

(影印個所)の上下欄がかなりの空白をも

っている。眺め

る本ではなく、この中から準びとらんとする人たちの震を

考えて公刊されるなら、守屋君が努力して封校された成果

の主要なものだけでも、この空白を利用して、活字に組ま

れたなら、どんなにか感謝することだろう。

右はさておき、この朝鮮本から農業関係の記事を拾い出

すと、後魂の〔買思砥〕『湾民要術』、漢の『氾勝之書』(本

後漢の屋寒〔『四民月令』〕の

書には「沼勝室田」とある〉、

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名で引用されたものを護見すると共に、自序にもある如く

『膏民一要術』の繁蕪な部分を刷って、その文を挿入した個

所を少なからず見出す。それには、

『要術』の名の出てい

ないものが多い。まず『費民要術』云とある引文を、

農業

線合研究所で影印出版された金津文庫本『費民要術』

三、依)や『四部叢刊』に輯められた郵氏筆碧棲裁明紗本

『斉民要術』のそれと封校すると、その引文は正

(影印)

確に引かれたとは言えない。この貼、守屋氏も『園準基本

叢書』の『斉民要術』と針校され、その旨述べられた

(二

一一一|二五ペ

ージ〉。

ちなみに解題、二四ページ末行の「中戊前魚下

用子

時」は、「中戊前信用中時二升下戊前魚下時」とす

べきで、脱文があるから補足しておく。

いま正月の僚で、栽培のことを述べた部分は、『要術』・

に擦ったところが津山出て来る。たとえば本書

一七ページ

の「

O種多瓜、是月晦日傍塘直種之、直園二寸深五寸、著

糞種之、苗生以柴引上靖、毎日午後瀧之」は、

二種瓜第十四に出てきて、

「直固二尺」

『要術』巻

本書

とあり、

199

あやまってコ一寸」としたものだ。もちろん尺寸が後貌と

唐とで相違するが(拙稿「中園畝制考」

復刊第三輯、

『東亜経済研究』

八ページ参照)、

ずかるとして、「毎日午後濃之」は、『要術』には「早則瀧

一九五八年刊、

その貼はあ

之」とするから、ここに韓郡の

文章が出てくる。

r、、

尤も、

『要術』巻三種葵

「種多瓜」

の次にのる

「種葵」の文も、

第十七に

「地不厭良、故境調善」

とあるのに、

を脱して「地不厭良、故調善」

「撞」の字

(六行目〉としたのは、や

はり『要術』を引レて誤ったとみられる。尤も十一行自の

「秋括、

須倹露稀

(かわく)」

は、『要術』の「凡指必待

露解」に封躍し、「時」

の方が文字として雅だという感

がする。ところで、この葵の記事には、『要術』にみえな

qa nt

い文字も出てくる。すなわち「晦日種之。神仙種法、臨種

必須乾除子、其子千歳不喝」とあるのが、それである。こ

の段『要術』は、「臨種時必燥曝葵子」とあって、爽注に

「葵子難鰹歳不泡。

然濃種者済而不肥也」とみえ、むしろ

『要術』

の方が科拳的である。そのあとに「深掘、以熟糞

和中半」と

『纂要』は誌すが、ここは『要術』に「深掘以

熟糞封宇和土覆其上、令厚一寸」とあって、より

ハッキリ

している。さらに潰水する程度が、

『要術』では

「下水令

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200

徹津、水量下葵子」

渉、下葵子」

『纂要』

』主

「下水令徴課

とあるが、

「る下水。次加の糞行」

r、と十正行し目く)

出のこて干れ

区4.も。力日 『

糞聖」初U

L包

の方に軍配があが

とする。

『要術』

』主

t主

ところで、

も一つ

術』にみえぬ文が、最後に出てくる。日く「若以穣草(わ

ら)蓋、経多牧子、謂之多葵子、入薬用」と。かく見て来

ると、韓那の文から殆んど新しい事買が出て来ない。別言

すれば、約四百年の聞におこった多瓜や葵の栽培上の進歩

が、殆んど見出せないことになる。

そこで私は九この書にみられる稲と褒の二つを採り上げ

『湾民要術』

稲作について

の記載と較べてみよう。

は、私はすでに拙著『中園農業史研究』二

O六|一二

0ペ

ージで、これを検討したことがある。すなわち二月の「種

早稲」および五月の「栽早稲」の文章(三七|三八ページ

及び八八ページ)は、

『要術』巻二皐稲第十二に擦ったこ

とは、雨書を封比すれば明らかで、しかも『要術』の皐稲

×

(おかぼ〉が、ここでは「早稲L

になっているのは、韓町郁

その人か、それとも朝鮮本の誤刻であろうか。また三月の

「種水稲」の文は、

『要術』各二水稲第十

一と、

その中に

引かれた峯寒『四民月令』の文を綴り合わせたものである

L

」とは、守屋君も設かれている

(二八ページ)。

従って、

「事、稲作に閲する限り、

『四時纂要』には華中

・華南の

ユニークな記事は見嘗らない」と、守屋君も承認された。

ただ此の文中、金津文庫本も四部叢刊本もともに、

寒早種慮時晩即不漬種恐牙焦也」

「若歳

とある爽注の文章の

「早」は、この『纂要』によって「皐」の誤りなることが

知られる。「すなわち『纂要』は、「若歳皐、慮-一時晩「卸勿

浸種。恐芽焦不生。若春有雨、依此種、叉勝部者。L

とし

ている。尤もこれは私の意見で、西山武一君の邦語にも、

-74一

また石盤漢君の『今緯』にも、採り上げられてないところ

であるが。

次に萎についてみれば、正月に「鋤姿。再週魚良。叉種

春委

L

2六ページ)とあるが、これは『要術』巻二大小

婆第十に、「正月三月第市鋤之。三月

・四月鋒市更鋤」と

あり、その爽注に

「鋤安倍枚、皮薄麺多、而鋒第鋤各待再

週矯良也」とみえ、移りに近いところに「星寒日、:::正

月可種春委・碑豆、壷二月止」と『四民月令』が引かれて

いるから、この文には新しいものは出て来ない。

四月の

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「貯委種。要術云、是月揮大小委熟稽、曝乾、白支雑之。

大約安一石、支一把、競以瓦器、順時種之、則牧倍於常」

(七四ページ)の『要術』云の下の十四字は、『湾民要術』

には見えぬが、次の安一石以下の文は、

『要術』牧種第二

に『氾勝之書一』日として引くところ。しかもそれには、瓦

器の下に「竹器」の二字が加わっている。且又そこには、

「取委種、候熟可穫、揮穂大彊者、斬、東立場中之官同燥

慮。曝使極燥。無令有白魚。有執揚治之。取乾支雑臓之」

とあるから、この僚も漢の氾勝之の後塵を拝している。ち

なみに守屋君は、この『要術』を以て王畏の『山居要術』

からの引用文だろうとされたが

っこ|二二ペ

ージ)、氏

は大小委第十のみあたって、巻一牧種第二を見落とされた

からであろう。

また二六ページのそれも『湾民要術』巻六養羊第

五十七に、

一一一ページのそれは巻入作鼓第七十

一五三ページのそれは巻一種穀第三の『氾勝之

書』のものに、それぞれ擦ったと、私は想定している。

201

五月の「膜奏地」の「是月不嘆而種、則寡笑。同六月」

『要術』の「大小委皆須五月・六月嘆

(入四ページ)も、

地(不嘆地而種者、其牧倍薄)」に撮ったことは、明らかだ

(カッコ内は爽注である)。六月の「熱大小姿。今年牧者、

於此月取、至清漕日掃庭除、候地毒熱、衆手出婆薄灘、取

至未時及熱枚、可以二年不蛙。若有

蒼耳砕到、和排噴之、

陳姿、亦須此法更瞬、須在立秋前。秋後則己有識生、恐無

盆失。斉民要術云、宜以富国替、則不蛙」

(九八|九九ベ

ージ)は、注目に値する文章である。移りに引かれた『費

民要術』云は、大小委第十に「今立秋前治詑〈立秋後則議

生〉、膏支箪盛之良(以蕎支蔽容埋之亦佳。

必須

日曝令乾及熱埋之)」の爽注の文に擦っ

たのであろう。従

筈褒法、

-75 -

って「圃容」は、「蔽容」が正しかろう。

ところで、前段の牧褒後、晴れた日に褒を地面にひろ

げ、蒼耳(オナモミ)を碑到して、持ぜてよく嘱し、熱気

を含むのを牧貯すれば、二年は蛙がつかぬとの貯蔵法は、

私の知る限り、これが最初である。尤も晒乾熱臓のこと

は、後漢の王充『論衡』商議篇に、「戴宿姿之種、烈日乾

暴、投於燥器、則姦不生」云々とあるし、

上述の前漢の

『氾勝之書』にも、曝燥するとあり、さらに乾いた支を搾

ぜて防識の措置を敢えている勺

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202

いま韓那のしるす「蒼耳」のことは、その後、元の魯明

善『農桑衣食撮要』六月噴小褒の僚に「宜三伏日嘱極乾

方牧。用蒼耳・錬審問牧之」

明の

Am貞木『種樹

書』には「嘱褒之法、宜烈日之中、乗熱市牧。伯用蒼耳葉

則菟化蛾」

とあり、

或腕葉、碍雑其中、

として、

後代に縫承され

た。なお元の『農桑輯要』巻二大小委では、『四時類要』

の名で之を引用している。

さらに八月の「種大姿。此月中戊吐前並上時、毎畝用子

二升字。下戊前矯中時、毎畝用子三升。下旬及九月初信用下

時、毎畝用子三升牢」も、

『要術』大小変第十にみえ、「並

上時」は正しく「潟上時」とあり、

「郷者畝用子二升牟」

と爽され、明瞭に播種の法として「櫛」が出てくる。なお

八月末九月初の場合には「周子三升牢或四升」としてい

る。ところで次の「種小褒」では、

「宜下回。湾民要術歌

去、高田種小奏、終久不成穏。男児在他郷、那得不憶障」

『要術』大小褒第十の

「歌日」とあるのを引いたものだが、『要術』には「終久」

までは、

「小褒宜下回」

の爽注に

を「橡穆」としている。『纂要』は、つづいて「上戊前魚

上時、種者一畝用子一升字。中戊前震中時、一畝二升。下

戊前震下時、

‘ぇ、

一畝二升牢」とあり、『要術』

「八月上戊祉前震上時。(榔者用子一升牢)」云々とし

」れ又

ている。ところが、そのあとに『纂要』は、

「此月初相手

十日而用種、便相違如此。力団者得不務及時」としている

のは、韓郭の言葉であろう。

つやついて『纂要』は、

潰変種。若天皐無雨淳、以酷衆水弁建矢、薄漬褒種、

夜中十漬露却向辰速牧之、令褒耐阜。若褒生色賞者、傷折

太調。調者鋤令稀。以材料柴穣之、以擁婆根、則褒茂。大

-76 -

小委皆須五六月嘆地。不嘆牧必薄。

とする。これは『要術』に引く『氾勝之書』の「若天皐・:

・:以墾泰一根」の六八字からとったもの。そして「嘆地」のこ

とは、『要術』の文であり、それは既に五月の僚にちょっと

出ている。ところで『纂要』の漬褒種は、

『要術』に引くところは、

『氾勝之書』の

文に擦ったが、

より詳細明瞭で

ある。すなわち『纂要』の「夜牢漬露却向辰速牧之、令褒

耐皐」はハッキリせず、

ここは『要術』に「夜半潰向長速

投之、令輿白露倶下。酢紫令官女耐皐、彊矢令褒忍寒」とあ

る。尤もここの「速投之」は、『纂要』の「速牧之」ーの方

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がよいが、そのあとの「傷折太調」の「折」は『要術』の

「於」、「擁褒根」の「擁」は『要術』の

「墾」に従うべき

である。

ところで、撰者がとりあげた地域について、守屋氏も

セー一一九ページで論ぜられ、この書に輯められた種々の記

事が、華中・・南の生活の賞際をどこまで反映するものか、

今後に課せられた問題だと、慎重な護言をされた。これに

劉し、高園鼎氏は「書中に説くところの農事は、主として

北方に属するものである」とし、また篠田統博士は五月の

耀

(入二ページ)からして、

ちマラリヤは、華北が華中より一カ月早く出る。従ってこ

の記事からみて、華北的なものが多いとみられると、我々

に教えられた(京都大皐人文科皐研究所技術史研究舎に

て)。私も亦、

」れら諸氏に同調し、主として華北が劃象

になったものと理解しており、それは褒の記事が稲のそれ

より豊富であるのも、一つの傍誼となろう。

203

先にも言ったように、この.書

には誤字・脱字が多く、

最初の

ベlジ七行自の

とえば初めにある序をみても、

×

・「陸」は「隣」とすべきもの、同じく十一行自には一字股

x

しており、

次のベ

lジ三行自の

「編閲」は「偏閲L

、四行目

×

×

の「沼勝」は「氾勝」、五行目の「簡閲」は「筒依」の誤か

と思うし、七行自に二字、入行目に

一字を脱している。

x

本文で気づ

いた誤字では、

一ペ

ージ七行自の

「宋賎」

×

-

「米賎」、九ページ六行自の「理敗履」

は「埋敗履し、同じく

×

×

十一行自の「抜狗耳」は「摸狗耳」、十ページ七行目の

「編

×

叙」は「偏叙L

、十八ページ十一行目の「牛寸」は

「宇寸」、

×

二一ページ

一行自の「巳来」は

「己上」、二五ページ三行目

×

の「毛不用至地」は

「尾不用至地」、三四ページ十

一行自の

×

×

「斬草」は「斬衰」、三六ページ十

一行自の「入米」は「八

×

米」、三八ページ四行自の「就土」は

「燥土」、同じく七行

×

×

自の「廻」は

「迫」、三七ページ十行冒の「再鋤撤回」は「再

×

鋤労」、同じく十一行自の「如概者L

は「如概者」、一一一八

×

ベlジ十一行自の「空曳務」は「空曳勢」、

三九ペ

ージ一

一77-

?こ

行自の「不過三週」は「鋤不過三遁」、四三ページ十

一行

×

×

自の「賞警」は「黄精」、四四ページ三行自の「番種」は

×

四五ページ十行自の「左者L

は「左右L

、四六

「糞種」、

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204

×

lジ四行自の「種一方」は「種一子」、玉三ページ入行

×

x

自の「下」は「底」、五四ページ七行自の「炊L

は「扶」、

×

七三ページ二行自の「責花」は「桑花」、七六ページ六行

×

×

目の「正屋漏」は「整屋漏」、八八ページ三行自の

「早稲」

×

は「早稲」、同じく七行自の「紳日」は「及辰日」、九二

ページ六行自の空格二字は

「富血貝」、九三ペ

ージ

一行自の

×

×

「斬草」は「斬衰」、九四ページ六行自の

「食之幹悪」は

x

「食之僻悪」、九六ペ

ージ十行目の「三王寸」は「三五寸L

x

九九ページ三行自の「園警」は「蔽窪田L

、同四行自の「沙

×

轄地」は「沙頼地」、同九行自の「如人樫」は「温如人僅」、

×

×

同十行自の「責」は「糞衣」、同十一行自の「大課:::大

×

乾」は「太浪:::太乾」、一

00ページ三行自の「大気」

×

は「火気」、一

O一ページ一行自の「末深」は「未深」、

x

一O九ページ五行自の「潜」は「傍」、

×

自の「園壷」は「圃室昔、

一一七ページ五行

×

一二二ページ五行自の「並上時」

x

一二

三ペ

ージ二行自の

「傷折」は「傷於」、

×

二云一

ページ三行自の「斬草」は「斬衰」、

×

四行自の「再務」は「再第」、

は「魚上時」、

紗羅」は「食紗羅」、

ノ、

七d、、

ジ公四 ハ-........ 行 l目 ジ

の七一「行ニ濃×目四水のベL --, 1

は重量×ジ

「膿水」、

×

一七一ページ二行目の「糞」は「翼」の誤りで

あろう。

なお一つ、この朝鮮本には、明らかに後代の人の携入し

法」の一文で

三月の僚、

(六四

l六五ペ

ージ)、

「種木綿

たものが見られる。

それは、

末尾の

これを守屋君に俸え

たところ、天野の謹言は、「技術史研究の立場からの指摘

であるが、書物の櫨例から考えても、四時纂要の他の月の

殆んどが、その末尾に、その月に、別の月の時令を賓施し

いかなる災摘が起るかを書いて結びとしているの

に、この三月の部と正広・十二月の部分だけが、蛇足のよ

たら、

-78 -

うに別性質の記事を添えているのも、疑問といえば疑問で

ある」と、解題のなかで述べられた(三八ページ)。

」こでまた、高園鼎氏の見解にふれておきたい。氏はい

「種木綿法は、

とくに人の注意を惹く。唐の時代に雨

贋・雲南・四川では、既に棉をうえ布に織っていたが、北

方ではまだ棉花は無かった。此の僚は、

また三月の最後に

おかれた一候であって、

一般の排列の順序と合わないか

J

り、のちに添えられたもののようである。しかし元・明の

書物には、すでに木棉と書かれているが、ここにはまだ木

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綿と誌され、説くところの栽培技術も『農桑輯要』の水準

に比して低く、かつまた言うところの七月十五日に木綿の

回の四隅で鑓(どら)を打ち〔掴金縛〕、終日角(つ

のぶ

え〉を吹けば、桃(みわた|「青桃」)はおちないとの此の

迷信説法は、それこそ此の書の迷信の精神と一貫するもの

である。このことからして叉、これは後人の加入したもの

で無いようでもあり、少なくとも北宋初年の刻本には、す

でに此の僚があった」と。これは、

高氏が『中園農報』

九六二年五月十日刊に「農史文献簡介」として「韓都

『四

時纂要』」に震表されたもの。故人とな

ってのち、南京農

同月干院中園農業遺産研究所から、氏が『中園農報』に書き残

された十二篇の古農書簡介を纏めて、送り届けられたも

ので、ここに寓氏の遺稿を紹介し

つつ、再曾の機がもてな

くなった氏の冥一帽を祈りたい。

さて本書は、こうした誤字・脆字や後人の撞スにかかるも

のを見出すけれども、守屋君もいわれるように、この書から

他書の誤りをただす役割もはたしてくれる。

たとえば『費

205

民要術』に例をとると、巻一種航第八で腕を福する篠の注

「大欄則不任」とあるが、本書五月の「温蹴」

であるが、

には「過燭則不任持」と出てくる(八九ページ)。また巻

牧種第二に「氾勝之術日、

牽馬、令就穀堆食数口、以馬践

過魚種、無好妨等最也」

(『農桑輯要』所引による〉とある

が、本書九月の「跨好肪姦法」には「凡五穀種、

牽馬、就

穀堆食数日、以馬残魚種、無好妨姦」とあり、馬の践んだ

ものを種子とするというより、馬の残(喰い残し〉を種子

とするという方が、

よさそうに思える。

最後に、

如何に評債される

-79 -

本書が唐代の農書として、

か。私は本書のなかから、若干の史料を拾い出し、

以て本

書を世に示された山本書庖主山本敬太郎氏ならびに大阪大

準教授守屋美都雄博士の功績に劃し、敬意を表したい。

いったい唐代二九

0年間官民183に撰述された農書

としては、

則天武后の『兆人(民)本業』三巻(霊扶二年

(∞∞⑦撰)は、宋の王尭臣ら撰

『崇文総目』巻三によれ

ば、「農俗四時種蒔之法、凡八十事」とあり

(宋の王慮麟

『困皐紀聞』巻五にみゆ)。

李淳風〈快西長安蘇の人〉の

は、『文献通考』

経籍考によれば、

『演賢人(民)要術』

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206

「李淳風が嘗って買思硯の『斉民要術』

を演

(布街〉

た」とあり、

また王畏の『山居要術』三巻、奪行規の『保

生月録』

王従篠の『農家事略』六巻などがあげられ

る(王銃瑚『中園農民平書録』

一九六四年刊、

九l四

O、

四七|四八、

五一ページ〉が、

いずれもみな侠亡して博わ

っていない。したがって、この韓郭の『四時纂要』こそ、

唐代の農書として、先ず以て注目されるのである。

そこで、本書の内容を検討すると、守屋君の指摘された

ように、二十三種の書からの引用がみられるが、農業に闘

するものでは、主として『氾勝之書』

・『四民月令』・『斉民

要術』等とい

った数部の農書から採られたようだが、上の

二書は『要術』に引かれているから、官同園鼎氏もいわれる

ように、

「この書の農業技術の部分は、主として

『湾民要

術』から引かれているが、

しかし文字は、頗る改動されて

いる」。この貼、私も先に指摘しておいたが、私の狭い理解

とくに本蓄で特記すべき農業事項の若干を拾い

の範圏で、

出すと、正月の僚で、

(つぎ木)の三四三字(一

「接樹」

l一九ページ)がある。

」れはm

宋の呉惇『種襲必用』

(胡道静校註本、

r

一九六三年刊〉の一九六篠(五四|五五ページ)に]

全文引かれており、互いに照合して、正誤が護見さ

れる。たとえば『纂要』一八l一九ページの「別取

本色樹皮一片、間半寸」云々は、『必用』では「別

取本色樹皮一片、長尺除、閲三二分」云々と出てく

また「雑種L

のなかに「蕎被」が見出される

(一九ベl

ジ)。

この「雑種L

の全文(二

O字)も、

篠(一九ページ)にそのまま引かれている。

『必用』一一一

AU

。。

また「棟耕牛法」

(二四|二五ページ)・「治牛疫方」

'"

五ページ〉・「牧誤種」

(二八ベ

合一六ペ

ージ)・「貯羊糞」

『斉民要術』巻六養牛馬臨牒第五

ージ)の僚のなかには、

十六・養羊第五十七に見出せぬ文章が出てくる。

二月の僚では、

「種盆」

(七八字。三九l四

0ページ)

が、韓郭の筆にかかるものか。『要術』も高畦にし、潅水・

施肥

さらに中耕のことを誌しているが、最初のつみとっ

‘た主は棄てて、主人は食うなとする貼、本書に一貫する俗

信がここにも窺われる。

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これも、

「種襲必用』四二候(二三ページ)に若

干の省略があるが、引用されている。

一吉い忘れたが、

」の書には、韓郭の名も、

『四時纂要』の書名も見

出せないけれど。

また「種著預」

(四Ol四

一ペ

ージ)で、唐の王畏『山居

要術』と撰者不詳『地利鰹』が引用され、次の寸造署遊間粉

法ιも新しく見られ、

「叉」一として撰者不詳『方山厨録』

の文が出てくる。

ちなみに『山居要術』からの引文は、ここだけで

なく、

四五ページの

二0ページの

「種園簸」、

たんに『要術』とあって今日の

『湾民要術』に見えない部分(例えば一二七ページ

「種蔓脊」にも出、

の「牧地黄」||『要術』巻五伐木第五十五の種地

黄法と異なる1

1

「牧牛膝子」、

一二八ページの

一六八ページの「喜田L)

恐らく

『山居要術』

め文であろう。

尤もこの書は、亡侠の書とされているが、明の陳

207

王政『山居要述』

と著録され

τいるから、明の寓暦ごろにはまだ存在

第『世善堂議書目録』農園類に、

していたようだ。

さらに「種大胡重」の一九

O字(四五|四六ページ)は、

「荘子貌恵王大弧之法」と侍えられるが、これも新出のも

の。

ちなみに貌の恵王の大弧とは、

『荘子』遁這遊篇

にみゆ。

この文も『種謹必用』五一俊(二五1

二六

ページ)に若干の省略はあるが見出され、

『纂要』

×

の「左者四重合帰一本」は、『必用』の「左右四藍、

合篤

一本」が正しかろう。

-81-

「牧茶子」の三三字(四六ペー

ジ)が注目される。これについては、上海の胡道静君の寄

次の「種茶」の

一六七字、

贈にかかる

『中華文史論叢』

第二輯(一九六二年刊〉『こ

輯められた氏の

「誼

『四時纂要』割記」

(一

O四ペ

ージ)

の一文を紹介しておきたい。氏はいう、

「これは

おそら

く我が園古農書中、茶樹の栽培経験に闘する最も早い締結

であろう。茶樹は、秦嶺線以南に産し、

古代の北方農摩者

は、みなどうそれを虚理するか、知らなかった。

それ故、

『斉民要術』は、それを

「五葉果疎菜茄非中園物産者」の

なかに列している。唐代中期の陸鴻漸撰『茶経』三巻は、

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208

茶屋'の専著であるが、その内容は、採

・熔

・者…

・飲に詳し

く、栽植には簡略である。

『四時纂要』に記す種法で、品目田

時の

〔筆〕中南の茶農がすでに掌握していた一系列の栽培

技術と套作法(茶未成問、

四面不妨種雄腕・黍・際等)が

知られる」と。

月では、

「種整」

五五ページ)は、

(一一二三{子、

民要術』巻三種聾第二十七より遥かに詳しくて好い。

(

OO字、

にみられぬものである。

五七ページ)は

また「種菌子」

『要術』

六月には

「種蕎褒」

(三四字、九六ページ)が出てく

蕎褒の俸来期は、

よく問題にされ、文献では『斉

民要術』の巻一の前におかれた「雑説」に、

「先耕

議姿地、

次耕除地。:・:凡蕎姿五月耕。経三十五日

草岡湖、得輔弁種。耕三編、立秋前後皆十日内種之」

云々とあるのが初見のようだが、この「雑読」の著

作年代が明らかでない。

『纂要』には、

立秋が

六月にあるときは、

秋前十日にま

き、立秋が七月だと、秋後十日にまくと述べ

七月の「雑

事」のなかでは

「喬京女を巣(うりよね〉す」

と出てくる

(一一七ページ)。

z司

予寄

なお唐では白居易(楽天

3Nl∞怠)の詩に「濁出

門前草野田、月明蕎褒花如雲」とか

「蕎委舗花日」

とうた

っており、また温庭鵠

351唱。叫)の詩に

「日暮鳥飛散、浦山蕎官会花νと一詠じ、唐代には蕎

姿はかなり栽培されていたことがわかる。

七月の「種葱

〔麓〕」

(八七字、

一O九ページ〉初めの部

分は;

『要術』径三種葱第二十一に撲っているが、こ

-82-

際、雨書ともまず前作に茶豆をまき、五月に掩殺して茶豆

一畝に四|五升

(「纂

を緑肥にあて、

七月によく耕して、

要』は五升とす)をまくが、

ヵ:

そのとき「妙穀」を種子にま

その際、

二脚緩を使うところまで

同じだ

『要術』ではたんに播種溝つくりに殺が用いられ、

ぜて播種する。

穀をまぜた種子は

「販制判」

(貼諸問置ともいう)に入れて

それを叩きつつ播種溝に落としてゆき、

腰につけた

---, 批

契」

(ベツセツ)で覆土してゆくのだが、

『纂要』では、

二脚綴の一一阪はふさいで一方の一

眼から妙穀を等量にまぜ

た種子を、穣脚の後方から落としてゆく。そして葱が出て

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くると、穣の一眼を塞いでいた地中の土で培土するとして

いる。八

月では、

(一七{子。

一二三ページ)で「若不

「首稽」

作睦種、即和委種之不妨。

-「畦種」のことは、

-『斉民要術』巻三種首着第二十九に見

一時熟」と出てくる。すなわち

えるが、委との間作は初見で、注目に値する。

また「種世田」

(八七字。

=一ページ)では、初めの

九字は『要術』巻三種蒜第十九に援ったようだが、後段は

異な

っており、唐代における蒜つくりの進歩が窺われる。

さらに「嬰粟、尤宜山技。亦可睦種」と出ている(一一

三ページ〉。嬰

栗花については、清の呉其溶『植物名貧園考』

巻二六、嬰子粟のなかで、

いない」とし、宋の劉翰らの『開賓本草』と蘇頚の

『園鰹本草』(嘉祐七年奉準)を引いたが、『園経』

には、「九月布子、渉多至春始生苗、極繁茂失。不

「唐以前には著録されて

爾、種之多不出、出亦不茂」云々とあって、『纂要』

209

の播種期(八月)と約一月の相違があるが、{木の蘇

轍(子由)のt

「種薬苗詩」

に、嬰粟は

「輿褒借種、

奥様借熟」

とあり、

明の王象菅(山東済南の人)

『二如亭群芳譜』花譜四嬰粟

O種襲では、「八月中

秋夜、或重陽月下子」云々と誌されているし、また宋

の陳元観『博聞録』は「重九日(九月九日)種、又

中秋夜種、則嬰大子滅。種詑以竹第掃之」と出てく

(『農桑輯要』巻六

器粟に引くところによる)。

さらに宋の臭惇『種審必用』(二ハ入

・一六九係、四

より詳しく下の如く述べている。

「種駕栗花、以雨手重盛撒種、則開花重蓋也。草案

駕粟子、於中秋夜種詑、用竹等掃勾、

則成千葉者」。

五ページ)には、

- 83一

「種駕莱花、

九月九日以竹掃箸或芭掃箸撤、

結盟必

「中秩夜種、則子満盟」と。

大、子必満。又一去、

なお「牧地責」

(七一{子、

一二七ペ

ージ)のことは、先に

燭れたところである。

十月では、

(一

四四ページ〉の末尾に

「耕多葵」

豆是月種之」とあり、五月の「雑事」には「牧・:・:腕豆・:

:・」とみゆ

(九0ページ)。腕豆の名は、『斉民要術』巻二

「腕豆

・江豆・

鐙豆、小豆類

也」とあるだけだ。

『纂要』

は十月にうえ、五月に牧めると

大豆第六のはじめの爽注に、

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210

いう。然るに元の司農司撰『農桑綿要』巻二、

「『務本新書』碗豆二、三月種」

云々とし、また明の李時

碗豆には

腕豆の骨幽には、

腕豆種出西胡。今北土甚多。八、九月下種」

珍の

『本草綱目』巻二四、

「時珍目、

云々とみえ

る。

さらに李長年主編『中園農準遺産選集

(上編)』(一九五八年刊、三四七ペ

ージ)を縮くと、

甲類第四種

清の郭雲陸

(河南滑鯨の人)撰『救荒簡易書』救荒月令

に、碗豆正月種、二月種、八月種、九月種、十月種、十

一月種、

『纂要』のいう十月に種

十二月種と題して説迅しており、

えるものは、ここ

では

〔河南省〕

「長垣豚農人、鮮符牒農

人、十月有種腕豆者」とし

また清の丁宜曾

(山東日照の

人)の『農園便覧』には、

「正月種一腕豆」とともに「十月

種碗豆」

とあり、そして「五月刈碗豆」と出てくる。され

t工

この燦からも、北方のそれを指したものと考えたい。

日最後に十二月の「焼首稽」

も、

(六二{子、

一六七ページ)

『湾民要術』巷三種首着第二十九とちがっていて、興

味ふかいものが見出される。

以上、私の気づいた黙を列示したが、も

っと詳細に讃み

出せば、色々と護見するところがあろう。また守屋君の言

業すなわち

「韓都が先人の書を引く場合には、そのことが

らが、唐五代の現賓に十分適躍すると思われるものを抜翠

したにちがいないから、

その記事もまた唐五代の農業経済

の質態を知るための参考となる」ことを、

言い添えておこ

う(「唐

・五代歳時記資料の研究」『大阪大祭文製部紀要』

第九巻、七五ページ)。

終りに、中外人の本書に針する紹介があるに拘らず、

が閣に無いと守屋君にいわれると、何か私に責任があるよ

うで、思いのままを遠慮せずに書くという諒解を氏から得

-84一

たので

」こに護表する次第である。

七ページ下欄から八ページ上欄にみえる

「種葵」の文章が、

宋の奥様『種婆必用』(『永幾大典』容

-コ二九四K輯む。胡道静

絞註、一九六三年後業出版祉刊)二

0ページ(二七係)「正月晦

日積爽」に、そのまま出て来る。尤もそれには「紳仙種法」を誤

って

「一柳田種法」としている。また七ページ下欄の「(正月)鋤

姿。再週翁良。叉種春委」が、『必用』の

一六ページ

(六係)に

出てくる。

なお本替の四割あまりを占める占候

・占卜・

禁忌の資料の来源

をさくらんと、

まず唐の寝曇悉逮ら奉毅撰

『大麿開元占綬』

一一一

O省と李淳風撲と停える『観象玩占』四九容を、京大人文科摩研

究所で絡いてはみたものの、一向に興味が湧いて来ないので、容

を閉じてしま

った。かの

『幾桑経』の撰者蒲松齢

・柳泉先生は、

康照五三年かれ七五才のとき、上記

『観伯郡玩占』を選録したとい

うけれど。

(一九六五年秋、枚方市菊丘町五の十三

κて〉