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Title 善そのものの認識 : アリストテレスの場合とトマスの場 Author(s) 高田, 三郎 Citation 京都大學文學部研究紀要 = Memoirs of the Faculty of Letters, Kyoto University (1956), 4: 1071-1082 Issue Date 1956-11-20 URL http://hdl.handle.net/2433/72864 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

Title 善そのものの認識 : アリストテレスの場合とトマスの場 …...者〈的な「善そのもの」がおよそ「よい」として諮られるすべてを蔽うものであり検立すればそれが多くの範鴫にわたる一般範曙論であった。彼によれば範時とは有(令〉

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Title 善そのものの認識 : アリストテレスの場合とトマスの場合

Author(s) 高田, 三郎

Citation 京都大學文學部研究紀要 = Memoirs of the Faculty ofLetters, Kyoto University (1956), 4: 1071-1082

Issue Date 1956-11-20

URL http://hdl.handle.net/2433/72864

Right

Type Departmental Bulletin Paper

Textversion publisher

Kyoto University

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アリストテレスの場介とトマメの旧

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古-I司

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「議日そのもの」(ふ芯叶弘山、月見守)

X1+Jm

一日戸、

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「華日のイデア」

(~bp叶。わとども。わ〉

の認識が、。プラトンの『岡家篇」における政治

哲想的・法哲皐的思想の精髄たる、法に代る人としてのいわゆる「哲皐者君主」

において求められるところの、最高の一要

件をなすものであったことは更めていうまでもないいしかも、「者そのもの」の何たるかについては、封話篇は直践に殺附

的な仕方で諮ることを問避し、含みの多い三つの美しい比喰、即ちいわゆる「太陽の比喉」

を遁じて示唆するという途を選んでいる。けだし、蒋そのものを切断散することが魂会開(ふ、止をな)

を意味するような、換言すれば、それの乱輸が魂の会側仰をして物欲ヘ汁古川会)から超脱してひたすらに説けを志向するに

「線分の比怜」「洞窟の比愉」

の制時陥川、(汁向、ミミユ)

十主ム

Lめるような「葬そのもの」の何たるかが、決して安易に直終的な一一一一日表〈な山、。。を許すものではないからであり、

の認識もまた、通常の意味における認識とは異ったものでなくてはならないことも蛍然これに作って橡純

3

この途の許す可能のかぎりを産してこの認識の針象

、一

うした「善」

れるところであろ、つ口

プラトンは然し、

比喰の途を、遁じてとはいえ、

としての「善そのもの」

の解明に努めているのであり、その際、我んγ

が針象としての「普そのもの」によって何が武味さ

れているかを理解すべき最も有力な手懸りを提供する位慣にあるものが、

いわゆる

「イデア論」

的れは彼の形而上接的思相川

銘打そのものの認識(両問」

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構築であったことは、最初の二比喰、なかでも特に「線分の比喰」を通じて感得されるところである。勿論、

喰」そのものが示すように、士宮のイデアは歎準的なイデアによって代表されるごときイデア一般とは次元を鼻、にし、後者

「線分の比

がイデアと呼ばれるのとは同じ意味ではイヂアと呼ばれることのできないごときものであるが、然しそれにも拘らず、一嗣

者はいずれも||線分の比喰に従えば

ll趨感性的ないわゆる「叡知界」(忌汁。内

54&るに嵐して庚義においての

「イデ

ア」たる性格を共通にしているのであるつそしてこのゆえにこそ、教康的諸科皐が、その本来の針象として指示されたイ

デア的なるものへ

『魂を向わしめる』ものであることのゆえを以て、

「善のイデア」の認識を究阪の目的とするところの

『捧読』(?と何百同択さ

的な哲皐の珠備皐とされることができたのであった。

アリノストテレスはこうしたプラトンの

(乃至は恐らくはアカデメイアにおいて定式的問定化の方向を更に押し進めた)

「議日のイデア論一」

のイデア論的思想構築を、彼が自己の人間論的問題のコソテクストにおける「善」

の何たるかを論ずる

にあたり、専らその構成の論珂的側面に基づいて、破推しようとしている。彼の特にその際における武器は主として彼の

の最高の類でありそれ以上の類化を許さないものであるが、もしプラト

γ

範曙論であった。彼によれば範時とは有(令〉

的な「善そのもの」がおよそ「よい」として諮られるすべてを蔽うものであり検立すればそれが多くの範鴫にわたる一般

者〈

&

2凌LS〉

であるとするならば、

これは範曙の定義そのものと異向から背反する。また、京一なイデアに屈するこ

とがらについては軍一な皐が成立すべきであるに拘らず、事寅は「善」

の場Anにあっては然らず、同一の範鴫に属する種

種の「善」

l例えば時の範鴫における善としての好機ーについてさえ種々の県がこれに閥わらなくてはならない。さらに

アカデメイアにおいては桐立の問に前後の関係を含むもの例えば教の系列についてはイヂアを樹てない連て前がとられて

いるが、この場合にあっては、善が種々の範曙にわたる以上賓慢の範時における善と偶有的な範略における苦と1

1前者

は後者に比してより前なるものであるーーを、通するごときイデアは樹てることが許されないはずである110

アリスト

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テレスは主としてこうした論議を用いて思想構築としての

「ムヤボパのイヂア論」を反駁していおリただし、

これによって彼が

プラト

γの「諮問のイデア」

の思想そのものを、リてれのあらゆる動機をも合めて、根祇から抑拭し去ろうとしたものとは必

の何らかの意味における存在の有無の問題に武筏

に関わるものではなく、むしろプラトンの乃まはアカデメイアの哲事者たちの「識はのイヂア論」そのもののいわゆるイデ

ずしも解することができない。

アリストテレユの反駁は「善そのも

ω」

ア論的な理論的構成の尖蛍悦如何に閥わるものであったけけだし、

この論議の側所における『倫閣内愚者』

のコンテクスト

からすれば、問題が「我々の生きることの異の目標が何に求めらるべきであるか」というにある以上、超越的な「識はその

もの」といったものが存在するにしても、

こうした善についての総識は問題の目的に針して何等の意義を持つとは考えら

れず

リての尊入は却って雷雨の寅践折感'の課題をあらぬかたに逸脱せしめるであろうとなして「菩のイデア」

の問題を玲

外に置こうとするにあたって

ω言及にはかならなかったからである。

かくてプラト

y的な

「遣はそのもの」

を帰依づけたア

リストテレスは「議日リてのもの」

の認識とは開わるところのない彼の貰践哲皐を展開してゆく

d

アリストテレスにとっては、

即ち、詩人の求めるところの「よき生」

山HL)

の規定がその

こうしたことがらの認識は協同三すれば異の湾の何たるか

-幸福(mbushhhミ町民)

が果して何において異に存するか、

人間論益一開の意義を賭けた最終的な課題をなすものであったが、

の認識にはかならないがゆえに、それは「最高著」

の認識とも呼ばれている。彼がここでいうつ最高普」

-「究械的な善」

の認識とは、

かくして、我々の生の目的が、以前にも名審にも枇曾的地似にもまた輩なる可能態としての徳にも存するので

はなく、却って、

これらを基盤とはしながらも、目的それ向身としては『人間に閏有な開殺された魂の卓越悦に却して行

われるところの活動』

(P令吋何haha-令向ふで)にあるということの認識に究械する。検

J

一.口すれば人間にとっての最高菩とは

彼にとってはこの

.

品川マ町、日、判町、h

H

h

「ぬぺ向、向一叶UUF、

を指すにはかならなかったのであって、

こうした怠味での最高海の認識の問題に

闘するかぎりプラトン的な意味で

ω「湾リてのもの」

の一郎識の問題の介入の余地は彼にとってはありえない。即ち、

これを

山中川そのものの認識(出向)

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更に詳しくいうならば、

恥ザ企U

山、向

UNQhhQ叶uLE23UHL

といわれる場介の人間的な厳義における知能的点越性

ハL-。向叶

VU)

ま、腕MU山川町・

-ELM-4ds'LFEFa''VEl・

用論的ハも拘ミミ叶24)なりてれと貰践的(りもま叶24)なそれとに匝分されうるであろうが、観照の領域における知性的ヰ越性

としての知

(8ミと

は第一動者としての神にまで至らなくてはならないとされても、

質践的な傾域にあっては、

質践的

な知性的卓越性たる

(司、弘

vdq町内一)

も諸々のいわゆる倫照的徳

(4PRhh~

弘、何叶ミ〉

もその成立のためにプラト

y的な意味での

「者そのもの」

の認識を要するとは考えられていない

ρ

「形而上山申書』に、一紳は第一勧者として

「受されるものが致する

ものを動かすがごとくにして動かす』

ふ内臥ちも古川ぞ。HL)

といわれていることは事賞であるが、

このことは取に一般的

な自然哲感的な意味において語られているにほかならず、決

Lて人間の行動が、紳を何らかの仕方で目的として認識する

ことにより、それへの愛によってその企慨的な方向を特検せしめられるというごときことを訟味するものではなかったの

である。要するにアリストテレスの

『倫理皐脊」における最高普とは我々の

「獲得しうべき者」

(&4RR守内即日長去ら

とし

ての究極的なるものの意であり従って寸人間的な善」

(叶内山H』門司、hbH叶内句。HL

丸叫、QA司令、〉

の腕野を出ることのできないものであつれ人。

超越的な「善そのもの」

llそれが存在するとしても1

1ーを人間の坐の目的(仏なるとするということきことは少くとも

ここでは無意味であるほかはなかったといわなくてはならない。

むしろ、すでにトマスも指摘しているように、

アリストアレユにおけるプラト

γ的な「善そのものし

の求めらるべき凶

有の場所は『形而上製脊」第十二巻十章であるかJ

え知れない。

ここでは、事賞、第一一服凶としての神は旭越的な持であり

最高普であるとされているからであるの

アリストアレメにとっては、

然し、

「形市上島一'脊』

のこの例所にいわゆる最高抗日

-4b-甲コ怒臨む、

rz-市Uヨ日語ぜに

貰践の領域からは舷然と区別された純粋な親問…ミ向ミミミ)

の領域に局する人間活動としての総識にすぎ

ー也、〉二)rC

j

T'KAUJPByuv

OI

てれは.フ一寸トンにおけるごとき、

人聞を一ての人格

ωがれから反慨するに足る氏

ω根源的終験をい対峠す

るものではなく、戎いは、

トマスを提用していうならば、受〈PEO--J

と相結ぶことが必然的であるごとき成る械の認識

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璽1zi!"、

合。m口一止。)を意味するものとはなりえないものであったの

ただし、さきにも胸れたごとく、アリストアレスの税系のうちに、プラトンの倫理的H

形而上般的れれ、機よりする「者その

もの」とそれの認識とに針して輿えらるべき場所が如何なる意味においても全く存在しなかったと速断することは許され

ないであろう。プ一マトン的な「蕎そのもの」が彼の「倫理皐脊」において願わに否認されているのも草にその論現的H

形市

上撃的な「淳のイデア論」的理論構成についてであった。

イデア論一般の理論構成に針して否認的な態度をとる彼が皆川げの

イデア論のそれに射しても賛意を表しえなかったことはむしろ賞然というべきであろう。ただ、他面において、

一般にプ

ラトプのイデア論の種々の契機がアリメトテレスの鱒系の随所にその痕跡を止め、

アリストアレメの悦系構成はプラトン

の思想のアリストテレユ濁自の概念と手法を以てする再叙述たるかの感を輿えることも一再ではないのが賞情であるから、

もしプラトンの笹山の

fデア・吉川そのものの認識という重要な、主張の意闘と動機が彼において跡方もなく抹殺されおわって

いるのだとするならば、

かかる断定は却って我々を蛍惑させるであろう。事賞アソストテレスは、少しく精細にこれを号

察するならば、プラトソの意圃するごとき「善そのもの」の・認識に封する要求を深く内に踏めているのであった。少くと

もそこには、

トマユについて後に見られるごとく、

こうしたプラトン的な思想を容れる可能性への開放があり、或いは、

一歩を進めていうならば、

この思想に封する潜在的な牌.系的待望がある。ただ、彼はこうした問題貼を無雑作に潜勢態の

ままに枚賢したため、

これによって彼の慨系は、少くとも現存のかたちについて見るかぎり、章一大な品交隙を姥す結果とな

った。プ一フト

γ的なつ者そのもの」の思想がアリストテレスの特に賓践哲感の純系的整会性のために、

王山門戸

t

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A

つ「ヲ度当1

身・

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によって要求されていると考えられる理由は、突の三黙に要約されることができよう。ハけ彼の吟えに従っていえば、尻、に

究極的な貰践的シュロギスモスにおける大前提の述語としての「善」は、それ自身如何なる他のものを以てしでも迎認さ

れることのできない、

いわば「述語となって主語とならない」ごときものでなくてはならぬ。もし主語となることができ

拡げそのものの認識(高田)

Eじli..

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一O七六

述諾されることのできるものならばそれは未だ昇、の

lそれはシュロギスモスが寅践的であるかぎり意欲と結びついた認識でなくてはならないとされているーーは賞践的シ

善しー

ず仁牛a也、ム

1

0

-PVナJ

、υ

しかもかかる

「善L

の何らかの意味における認識

ュ官ギザハモユの系列の成立のために不可欠であり、然るに人間の人間的なロゴス的寅践は本質的にシュ行ギスモユ的構造

を持つとされる以上質践的シュロギス'モユの成立なくしては人間の人間的な賞践は不可能とならぎるを得ないであろう。

また、もしこうした意味での究械的な「善」の認識において誤まるならばそれはこの人間の生の会慨を誤らせる結果とな

るであろうことは彼自身の主張するごとくである。

ω何回央に道徳的にすぐれた行総は純粋に「うるわしさのために」矯され

るものでなくてはならないといわれた。このことはアリストアレス自身の功利主義的な賞践哲皐の立場に立っかぎり本来

垣間られることのできないはずのことがらであった心道徳的行松崎をも含めてあらゆる賞践的な生の憐みは人間の究械的な

「よき生」の俊み即ちアオリア的な生のために存するとされこれに役立つかぎりその意義が認められたのだからである。

「うるわしさのために」という契機の導入は彼の貰践哲皐がこうした功利主義に琵きない要求を内包することを示してい

る。斜第一一勤者たる紳は、上に胸れたごとく、

『愛される者が愛する者を動かすごとく』にして会自然界を動かすとされ

るが、人間のそのロゴス性に基づく宇街における獅自の位置を強制するアリユトアレユ'としては、人間がこの

によって動かされる仕方に何らか他の自然物と臭った黙の存することを認めないことは考えられえないところである。も

し人聞が「最高著」としての紳の存在を-アオリア的に認識してしかもそれによって人間に獅自な仕方で動かされることが

「品一防止中日」

ないとなすのであれば、

これはアリユトアレ久の人間論的見解にとって完会に門家一冊着というほかはない。

*

*

*

「善そのもの」をめぐるアリ只トテレスの制服系的安防は第十三世紀のアリ工トテレス・ルヰサンズを代表すろトマス・

アクイナスのアリストアリスムにおいて鋭く衡かれ満たされ、

これによってアリストアレ久の駒山系は重大な改訂を受ける

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幅詩長

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炉、,pl'J主九浩司

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にいたる。それは却って、遡って『圏家篇』におけるプ一ブトソの抗日そのものの主張の倫躍的H

形而上態的意闘をキ

yメト

激的な仕方で活かす途であった。もとよりこのことは、

トマユその人の方法と態度にふさわしく、直姥に批判的な指摘乃

至は是

Eのかたちでは行われず、却ってトマ久自身の刷閥系紋越の過程において、論戦的などというにはおよそ縁の法い、

ともすれば論議の重大な岐路が讃者に看過されるほどの淡々たる静けさの、っちに貰質的に途行された指摘であり更改であ

り濁自の刷版系的見地よりする溌展であった。

『紳感久ソマ』第二部初めにおけるトマスの幸福論・最高著論は、本然とこれを見れば、あたかも『倫珂墜すとの初め

におけるアリ久トアレ久のそれをそのまま祖述するものなるかのごとき仕方で間後する。しかもそこにはアリストアレメ

を離れてのトマメ獅自の自己主張に導くべき用意が最初から忘れられていないことを注意深い讃者は看取するであろう

U

即ち、

トマ久によれば、

人間が人間であるかぎりの固有の活動、

即ち知性的動物たるかぎりの人間の活動||それは

EE町民ωωの伸一。H固め

ω

から区別されて巌密な意味での

E2502巴82と呼ばるべきもの||は、すべて意志と知性の能力たる

]~ZEBREEZEによって決定された目的(由民的〉

へ向う自主的活動であり、

こうした限定された意味においてのすべて

rcggmwOR民05ωは目的のため

(カ『。同)件。門出ロOB)であり、

主日(『ggH)を目指している。

けだし普を求めるのは人間

のみでなく寓物がこれを求めるが、自由意志によってこれを選ぶのは濁り知性的動物たる人間のみに屈するかんである。

だが目的・善の系列は無限に遡りうるものではなく、そこには何らか、それ以上遡ることのできない究械的な目的ハCE55

ョロ一るがなくてはならぬ。

かかる究極目的は人間の会欲求公♀5宅吉伸一ECを満たすもの、それ以外には欲求さるべき何

ものも余されないというごときものでなくてはならぬ。異に究極的たるためにはそれは軍一な目的でなくてはならないの

みならず、

それはまた寓人にとって共通的・普遍的

(ggECEるたるべきであろう。

勿論、

賞際においては各人各株の

仕方で人生の究極目的・最高善は把握されており、それは或いは富、或いは快楽等々に慣かれる。だが最も完会な意味で

普そのものの認識(高岡)

() .じ,七

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じ八

の善とは、

hL」恥険UM砕かかた

4rめを拍伊小とふろのん

(Ergzωコ.2EEZ5門戸山名。巴EE)が究極目的として欲するところ

のものでなくてはならない110このようにトマスの「義己乃至は「最高善」に関する考えを叙述してくれば、そのかぎり

アリストテレスのそれとの聞に殆んど何らの淫庭も見出だされないかのように見える。だが雨者の相還は直ちに明らかと

なってあらわれる。即ち、

アリノストテレユにあっては人間のあらゆる活動の究極目的、即ちりでの意味での最高誠一一は、

「長十

一噛」であり「よく生きること」であり詳しくは川忠ミ同ERa-令伺叶せだったのであり、かくしてそれ自身「活動」令兄ミ忠良ゾ

にほかならなかったが、

トマスに従えば、卒一硝

32伸一昨色。)

が何らかの活動において求められることは一臆アリメトテレ

スのいうごとくであるにしても、そのゆえを以て然し究極目的乃至は最高著が何らかの活動に存するとは無保件にはいい

えないのである。けだし『トルということは二様の意味において語られる。

一つには、我々が到准しようと望むところの

事物(円。∞)

それ自身が意味され、

いま一つには、

この願望される事物への到達戎いはその所有、乃至はそれの使用とか享

受ということが意味される。』この匿別はトマスの出後黙にとって決定的な意味を持つ。

幸一臓が究極目的であるといいう

るのはこの第二の意味においてに過ぎない。もし第一の意味に目的ということを解するとすれば、我令の生の究極目的は、

それにおいて幸福が見出されるごとき究極的な人間的知性的

ilそれは観照

(の。ロ件。ロ困問)一ω巴。)

と賓践(。℃OB巴。〉

との

4

刷傾

域にわたる

l!活動の封象会主RZB)そのものに求められるのでなくてはならない。そしてこのものこそが、

トマメに

よれば、我々の決求を全館的に静もらせるところの

25LEE-斥円台一己主告官民EE)市内人に共通的・

一般的な(戸

574Z5

議日にほかならないのであった。

『目的として求められる事物(日ろ

こそが、そこにおいて幸一順守

g巴EL。)の存立し、人

をして幸福(『

ohwzm)

たらしめる所以のものである。

幸一摘と呼ばれるのは、

このものへの到濯な

3511そしてそれ

を享受する活動ーーにはかならない。』

人聞のあらゆる活動の目指す究極目的としての最高善、そこにおいて人間の全人間的な欲求があますところなく

(件。21

多量処

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軍事1i!i+!it!!if

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-

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]山門ゆる満たされて静もりうるところの最高善は、然るに、被遣の世界に属する如何なる事物においても見出されることは

できず、それは月ω

としては紳を措いてほかに求められることができないο

幸一刷もそれゆえ、充分な窓味においては、紳

に到達しえた場合にのみ可能となるo

即ち、完全な意味での幸福(官止めの訂克己

XEるとは、

知悦(山口EF25〉

の前にお

いてはこの究極的な叡知的目的者

(Eg一一一

mEFEF〉

の完全な認識、摘附言すれば、紳的本質の直腕(戸、町向。己正

gogωgEo)

であり、

これに伴って意志令。-52ω)の而については希望の針象の現存的把援

(gg勺邑5足。)と、

愛の謝象たりしもの

を享受し情ぶこと(守戸田町民。

ko一RS伸一。)において初めて見出だされる。

一一一・一口にしていえば、我φ

の自然的・木性的願望

(EZ'

EF

HaEO江戸問自)

の志向するところの異の意味における幸一臓は

「紳との直接の相まみえ」

において初めて可能となるもの

であり、従って我々の現貰の生においては到達されることのできないところにはかならない。この世において我々の達し

うるかぎりの幸福はかかる異の幸一禍の被造的な影像

(ω~EFEろを出ることはできぬ。それは知性的にはこの目的者につ

いての、我令にあっては不定全ならぎるをえない戎る種の認識(包

Zggm巳巴。

5胃『訟の同ろ

の活動において、また意志的

にはこのものへの彼岸的な到達の希望令官ると愛

75。るを意味する。すでに我φ

の現賞の生において、

然しながら、

我々の認識は必ずしもかかる目的者に向わず、我々の愛もまた必ずしもこうした最高善を究極目的としてそれに向けられ

ているわけではなく却って被造的な富・快築・権力等々に向けられる。我φ

のこの世における活動は、だが、誤りのない

異の意味での最高善を目標としこれに向って会的・決定的に方向づけられるのでなくてはならない。人間の本性

(523)

がこのことを要求しているのである。そこでは認識と愛とは離されることができない。行偽の道義性もここに初めて俄保

されるのであり、道義的にすぐれた行待は彼岸における異の幸福に導くべき紳の息寵に値するもの(ヨ包S。33)となる。

アリストテレスの『倫理墜書』

の誘く幸福とは、

かくして、

ト?スにとってはこの世における影像的な幸福たるを問ない

のではありながら、

トマスはそれにも拘らずかかる「よき生」に充分な意味を昆出だすことができたと共に、

現惟的な

強はそのものの認識(高間)

O -じ1L

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一O

入。

「よき生」が彼岸的な「よき生」

への秩序づけ〈。『色

Eろなしには不可能であることを主張するのである。

アリユトアレ

スの『倫理皐書』はトマユのいう異の意味での「究極目的」

「最高著」を欠いている。

トマ久はそれゆえアリ久トアレユ

σ〉

『倫理墜書』

『注糟』においてもこれを自由に補読しつつ、そしてそれに件う必要な縛稗を加えつつ、彼が以て現世

グコ

的な「よき生」についての比類なき古典となす異殺の哲筆者の著作注糟の歩武を準めるのである。

*

*

このようにしてトマ久は、彼の把援した意味における「善そのもの」をアリユトアレス哲皐に導入することによって、

彼濁自の仕方でアリストテレユ閥系のさきに絢れた空隙を補填するo

その際「善そのもの」とは、

イデア論乃至は普のイ

デア論の理論構成からは自由な、

だがそれにも拘らずプラトソの意圃においての「善のイデアし

の、キリスト教的な形態

にほかならなかった。

然しながら、

こうしたキリ久ト激的な形態における「善そのもの」

の思想それ自身がトマ久そのひ

とに出るものでないことは更めていうまでもない。すでにプでアイノユ哲撃における「善そのもの」と根源者との同一一順

を媒介として、プロテイノスがキリユト致思想に取り入れられて後は、

アウグス-アイヌス的体統と偽デイオニュ

シオユ的

停統の何れにあっても、「善そのもの」(&&乱交司令二宮

22ZEE-fsσgxpω)はキリユト敬的な紳の呼び名にはかなら

なかったのである。即ち、

キリスト敬的なかたちにおいて「著そのもの」はすでにそこにある

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トマメはただこれを採り

あげればよかったのである。

トマスの濁向の意義として我々の注意を喚起しようとしたのは、だかム、トマユがこうしたキ

リ兵ト致的な「善そのもの」を採りあげこれをアリストテレス哲皐に楼織し結合したというごときことにあるのではなく、

却って、彼が寅に「善そのもの」を彼の払血中(自然紳撃をも含み、固有の意味における仲間酔即ち一昨一不紳撃から区別される

ところの)

の中心へ犬胞に理入したという駄に存しているの哲準は、彼にとっては、それみずからによってその異瑚悦の

確立さるべきものとしてそれの異用の解明のために啓示に侯たず、りての意味において神皐から区別されるものであったり

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Page 12: Title 善そのものの認識 : アリストテレスの場合とトマスの場 …...者〈的な「善そのもの」がおよそ「よい」として諮られるすべてを蔽うものであり検立すればそれが多くの範鴫にわたる一般範曙論であった。彼によれば範時とは有(令〉

啓示がそれを敬えるからではなく、哲皐自らがその閥系的思考における整令怜の要求を貫徹するために、

を必要とするというのが彼の見解であった。りての際「普そのもの」の充会的な認輸が人間の現世的能力を超えておりしか

「者そのもの」

も人間はそれにも拘らずこれに向けられてつくられているということが哲皐自身のうちにおいて明らかにされるとしても、

このことは老も彼の介意するところではない。人間の自然的・本性的願望

(ロhH同

CE・]。

円問。

ω同門

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5M〉

が現社的な幸一耐を越え

たものを志向しているとしても、彼にとってはそれが人聞の如質の姿なのであって、

こうした人間像の摘出のゆえを以て、

哲思?と紳皐の混治とか、純粋に知性的たるべき哲墜への啓示の導入とかが云鈍されようとは、彼のおよそ橡想しないとこ

ろであった。

のみならず、もとよりこのようなキリスト敬的な「持そのもの」それ向身はアリストアレ久の聞知すべくも

アリストテレス的なトマユの哲皐へのかかる,「善そのもの」の理入ということがトマスその人に

なかったところであり、

属するものであることもいうまでもないところであるが、同時に然しこれは、

アリストアレユその人の絶えず探究的な・従っていわば将来へ向って開放的な・精

アリストテレユキしアリストアレー向身の到

底預想すべくもなかった遠くにまで、

紳に従って、展開する仕事であったということもおそらくトマスの意識から見矢われていなかったところであると考えら

れる。

『賞践的な領域に閲することがらの真石の判定は、然しやはり、

ことがらの寅際

23d)

とか我々の生活とかに某

づかなくてはならない。なぜならこれらのうちにその異否に劃する決定的なものが存しているからである。上来地一べ来つ

たことがらも、

だから、

ことがらの賓際とか我々の生活の上に適用して考察されることを要するのであって、

もしことが

らの寅際に調和するならば受け容れていいし、もし背致するならば置なる一言論にすぎぬと考えていいのである』

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ァりスト

テレス)0

すでにキリ久ト救の歴史||アウグぞアイヌスの穎著な先縦をも含めて||において、

ことがらの質際が、

メト数的な「善そのもの」

への人聞の希求

(ユ岳山一色。ユ

EMM)

が人間にとって本怜的

(口町民

EU-一の)

であること、そしてかかる

「善そのもの」

に針する何らかの意味における認識

(色一心C仰

cm口一民。古MM河止めの

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と愛が我々の現世的な生にとって異の設

品市川そのものの認識(高岡)

( I

ノ、

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一つ八

味で不可欠的であることを示している。

アリメトテレスはキリユト殺の歴史的な経験の党に照らして補われなくてはなら

ぬO

いうまでもなく哲墜の領域において1110

BEE-OLgEqzgを彼の払阜の閥系のなかに、彼のアリストテリユムの貼暗として、何らアリストテレスの哲準的精

トマスのこうした洞察は、

かくして、

「主はそのもの」とそれに針する人間

一柳からの離反を意識することなしに事入しえたのであった。彼のアリストテレユに劃する一一般に自由なしかも械めて隼重

的な解樺の態度は、

この異教的哲皐者の位置についての彼のこうした見解に基づいていると解される。

アリストアレスの「者のイデア論」批判に劃する彼の態度も以上のような観助から現解さるべきであろう。彼はおそら

くアリストテレスが「善」の完全同義的な仕方における

(qqHLSHL四日

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ロロぞ

20〉

成立の可能を疑いこれに代る示唆として

それぞれの場合の「蕎」

の意味の聞におけるアナロギア的関係の考えを提示することによっていわゆる「詐のイデア論」

の珂論構成に針する反論となしたのを、彼は「合ゃんいかか」と松丸町除恥砂防rb勧わか静LU

かあけとの聞における、彼のいわ

ゆる

pggm一ω認のロロ(EBgEd口一。ロ伸一pg官。旬。ユ

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の意味でのアナロギアに鴨倒伸しており、

「善一般」に針するアソ

ストアレスの否認を老も「善そのもの」に封する否認としては受け収っていないのである

o

彼のアリノメトアレ見解畑作の態

度を一ボす好個の一例といいえよう。