36
Title 雲夢睡虎地秦漢墓被葬者の出自について Author(s) 閒瀨, 收芳 Citation 東洋史研究 (1982), 41(2): 197-229 Issue Date 1982-09-30 URL https://doi.org/10.14989/153860 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

Title 雲夢睡虎地秦漢墓被葬者の出自について 東洋史研究 …...、葬法については、前掲護掘簡報 に「仰身 曲肢」 と報 告さ れている。少し

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Title 雲夢睡虎地秦漢墓被葬者の出自について

Author(s) 閒瀨, 收芳

Citation 東洋史研究 (1982), 41(2): 197-229

Issue Date 1982-09-30

URL https://doi.org/10.14989/153860

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

Kyoto University

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全-け主局、。ル

第四十一巻

第二競

昭和五十七年九月護行

雲夢睡虎地秦漢墓被葬者の出自について

二墓葬上のいくつかの特徴

-

2

3

壁禽

4

獣頭骨の副葬

5

髪、繭形室、蒜頭登

三「編年記」

- 1 ー

1!!l7

『文物』一九七六年第五期の季動「雲夢睡虎遍秦簡概述」、問、第六期の「湖北一雲夢睡虎地十一瞬秦墓護掘聞報」、同、

第九期の「湖北雲夢睡虎地十一座秦墓護掘簡報」に、湖北省雲夢懸城の西郊で戦園末、秦代墓

一一一基が護掘され吟」と、

一一瞬墓から秦律を含む竹筒千百儀枚が出土したことが報じられ、主な竹簡の韓文が問、第六、七、八期に載った。

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198

この報告は、殊に秦律の護見を含むことによって、中園古代史、なかんずく戟園、

秦漢史研涜者、更には法制史研究者

田昌五氏、

果樹卒氏の論文が載り、日本に於ても、

早くも

古賀登氏、

一九七六年第六期に、

堀毅氏が専論を護表され、

以来、絶えることな

などの強い関心を集めた。既に『文物』

翌年には大庭修氏、

鏡宗顕氏の講演録が日本語に書された。

く、この秦墓、竹聞に闘する報告、論文、論文集が護表されて今日に及んでいる。

それらの研究の大勢は、

その重要性からして嘗然、

秦律を中心とするものであるが、

その中にあって、昨年頃より新し

い傾向が現われてきたように見受けられる。それは次の二酷である。第一軸は、これまでの研究の蓄積をふまえて総括が

なされるようになったことである。これを端的に示すのが次の二論文である。

一九八O年)

永田英正「中園における雲夢秦簡研究の現朕」(『木簡研究』第二放、

高明士「雲夢秦簡興秦漢史研究|以日本的研究成果震中心|」(『食貨月刊』復刊第二容第三期、

一九八一年)

- 2 ー

第二黙は、従来、被葬者の出自に言及した論文がすべてそれを楚人としていたのに封し、墓葬などに基づいて、

秦人と推

それに立脚した研究が現われてきたことである。次の諸論文がそれである。

定し、許

俸雲「由新出簡臆所見秦漢祉曾」令中央研究院歴史語言研究所集刊』

第五一本第二分、

「湖北雲夢睡虎地秦墓管見」(『中央大皐文察部紀要』史同学科第二六鋭、

一九八O年〉

池田雄

一九八一年)

九八

き(4)

陳振裕「従湖北部民現的秦墓談秦楚関係」(湖北省社曾科皐院歴史研究所

『楚文化新探』湖北人民出版社、

李謬勤「新出簡吊興楚文化」(同右)

右論文の内、被葬者についての記述が詳しい池田氏と陳氏の論文(以下、

「池田論文」、「陳論文」左略稽させて戴く。〉の主な論黙を要約紹介させて戴く。

「池田論文」

拙稿はこの第二貼にかかわるものであるので、

睡虎地秦墓は楚人の住居であった戦園褒落を破壊していること。副葬品について、秦墓の副葬陶器は釜、孟、甑な

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どの日常生活用器が主であり、楚墓には常に躍器、楽器、兵器、鎮墓獣がみられるが秦墓ではみられない。睡虎地秦

墓は、更に、銅筆、銅蒜頭査、繭形査などの秦文化の典型的な器物を出土する。漆器の様式、紋様も楚墓と相異する

こと。占領地の民を移し、その後に赦罪人を徒す秦の占領政策などからみて、睡虎地秦墓の墓主は秦人であった可能

性が強い。

t二}

秦墓に近接する雲夢古城は言われているような秦漢の安陸勝城ではない。

一一一瞬墓主喜は令丞に直層する有力吏人であり、後漢の制を誼に下級官吏とされてきたのは正しくない。

出土秦簡中、「封診式」が土伍身分に統一されているのは、遷徒の民、

被征服民とかかわった喜の責務の故であろ

帥伺う

約伺

法律関係文書は秦の統一前に開中で作成されたものが少なくない。

「回律」は禁苑の公田管理規定であり、これをもって

一般の土地制度を論じることは問題である。

- 3一

「陳論文」

付ω

伺伺

湖北省で瑳掘された秦墓の特徴を述ベ、その中には秦人墓と楚人墓があるとする。

睡虎地秦墓四蹴、一一一瞬墓の墓主は親属と本人が六園統一戦に従軍している故に秦人である。

出土簡臆は秦楚関係を研究する重要な資料である。

湖北省以外の秦墓、戟園楚墓、湖北省秦墓を比較すると、湖北省秦墓は在地の惇統習俗の影響が強い。

199

「池田論文」の諸論黙は今日までの一般的見解に再検討を求めるものである。その内、

付の墓主を秦人とする黙は更に以下の論述の基礎ともなっている。「陳論文」は秦、楚など異質の停統習俗の接燭に着目

Lてレる。これは停統習俗の面からの新しい研究の展開を示唆するものである。このように、両論文は睡虎地秦墓にかか

わる研究の新しい展墓を開くものということができよう。この場合、被葬者の出自の如何が決定的に重要な意味をもっと

以上の要約からも知れるように、

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200

いえる。こうした意味で、

さきに掲げた諸論文が被葬者を秦人とする根援に附加する形であるが、被葬者の出自につ

いて

これをできるだけ明らかにしておくことは今後の研究の進展に資するところもあろうかと考える。

以上の翻貼のもとに、以下、

睡虎地秦漢墓被葬者の出自にかかわるいくつかの黙について重知的に考察したところを提

示させて戴く。大方の御批圧が得られれば幸いである。なお、先述の一二基の秦墓の外に、同地で更に一

O基の戦園末か

ら漢初に至る墓が護掘された。墓葬様式、副葬品が先の

一二基と共通している。拙稿ではこれら一

一一一基の秦漢墓の被葬者

を同一集圏に属したものとみなしその出自を考察の封象とする。

ニh

墓葬上のいくつかの特徴

1

- 4ー

二蹴墓被葬者の骨格は保存がよく、葬法については、前掲護掘簡報に「仰身曲肢」

と報告されている。

少しく脚を曲

げて葬られているのである。『雲夢睡虎地秦蕃には、本文中で屈肢、登記表中では曲肢と記されている。「陳論文」

「仰身曲肢(徴曲的曲肢葬〉」と記す。『雲夢睡虎地秦墓』

と『睡虎地秦墓竹筒』に掲げられている棺内の篤員によっ

んHV

右脚の大腿骨と腔骨との成す角を計ると約一一

O度である。

先ず、

ー屈肢葬についての概略をみておきたい。屈肢葬は新石器時代、殿代墓葬にみられるが、多分それとは別系で春秩

戦園期に北方で盛行した葬法である。報告書中から屈肢葬の主なものを拾い表にしたのが表ーである。これをみると、映

西奏でより強い葬法であったことがわかる。脚の屈曲の程度も秦墓で強く、完全に折り曲げられたものが多い。中原では

それ程強くない。例として、洛陽焼溝附近の戦園墓、仰身屈肢葬四

Oの内需を示すと、四五度以下の屈曲甚しいもの九、

四五度から九O度までが一四、九O度以上の徴屈一七となっている。

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同~-1 {$}ji 1

周 1 31 臼 |考古皐報1980-4

61文物1980-4

01考古1963-10

1 5 1浬西褒掘報告

23 1 10 1考古典文物1981-1

104 1 5 1考古翠報1957-3

1 0 1文物資料叢刊 2

01考古1976-1

71文物資料叢刊 2

1 154 1上村嶺貌園墓地

1 159 1鄭州二里樹

91文参資料1955-10

1 30 1洛 陽 中 州 路

61考古皐報 8,1954

61 考古1959-7

21考古皐報1957-1

1 4 1考古1981-3

書告報

春秋早

春秋晩戟早

春秋晩秦

戦園

戦闘晩

西漠初

春秋中

西周晩

西周晩春秋早

戟図

春毛火 戟菌

戦園

戦 園 前

戟園

快西長安張家坂 |西

か扶風 雲塘

グ賓鶏繭臨盤

グ長安客省妊

グ鳳朔高在

グ西安牢披

グ大主主朝邑

甘粛盤牽 洞山

河南新鄭唐戸

P 上村嶺

グ貨s1'1、|二里尚

ググ 商社

グ洛陽中州路

ググ焼溝

河北武安午汲

グ郡都百家村

|山西長治分水嶺

四川巴塘礼金頂

地土

表1

園 秦

ないのである。ありあわせの棺に葬ることが考えら

このような戦園期に中原、秦で盛行した屈肢葬の

葬法が南方へは全く入ってこなかった。例えば、新

中園で護掘された戦園楚墓は二千数百基にものぼる

Atw,

山内、葬法の知られるものの内、一つとして屈肢葬は

A匂

な川。この黙から睡虎地

一一読墓被葬者は楚人とは

「徴曲的曲肢葬」とも書かれてい

考え難い。ただ、

るように、これを屈肢葬と断定することに不安が感

じられるかも知れない。しかし、葬法としては明確

に屈肢葬として葬られたことを示す事賓がある。郎

- 5ー

ち、先述の棺内の寓員をみると次の事に気附く。頭

蓋骨頂と棺壁板との聞は二、三糎、多くみても敷糎

の開隔しかない。叉、足先をみると、右足先の骨は

棺壁板に嘗っており、左足は腫まで着いている。

まり、脚を伸ばすとこの被葬者はこの棺内に牧まら '0

れない以上、この事責はJ

この棺が屈肢葬を前提として作られたものであることを示している。

即ち、

一一

競墓主は屈肢

葬によって葬られたのである。この一事をもってしでも一一競墓被葬者は楚人ではないといえる。

201

なお、屈肢葬を前提として棺を作ることは秦では一般的なことである。例えば、西安市字放村で震掘された

一一二基の

A司

,z向HF

戦園墓はすべて木棺墓で、棺長は一般的に一・五から一・七米と報告されている。叉、鳳朔鯨の高証戦闘墓中、

一基の棺

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202

城川リ

0

長一米一

O、三基が一米二Oと報告されている。甘粛省霊蓋鯨では、洞山春秋墓八基の棺長は一米二

Oから

一米五七

ANV

んけい

家荘一蹴春秋墓の棺長は一米五六である。いずれも、

兵器の副葬などからみて成人墓であることは確かである。

2

日斤

叫列

睡虎地秦漢墓から銅鼎二、餓足銅鼎一、鯨鼎三、陶鼎一が出土した。このことから次のような見解も生まれた。即ち、

商慶夫「睡虎地秦簡《編年記》的作者及其思想傾向」は、

「注意に値するの

一一蹴墓主喜の家の祉舎的地位に言及して、

は、随葬の銅鼎一個である。これは権力の象徴であるに違いなく、一般的に言って奴隷主貴族、或いは封建貴族の殉葬口問

A司,

である。墓主の先世は楚園の貴族ではなかったろうかJと述べられている。しかしながら、

一一蹴墓出土銅鼎二個の内、

{潟員、園が掲載されている一個をみると、器桂は口が子母口で蓋と一睡で扇球献を成し、

蓋には三個の環賦紐を有し、脚

は蹄足で短い。これは中原、秦の鼎である。秦に滅ぼされた楚の人が秦鼎を副葬できたとは考えにくい。叉、戦園秦墓で

は鼎などの躍器の副葬が極めて稀なこと、更に、一九七八年河南省泌陽鯨の秦墓から出土した卒安君鼎を鞍園晩期衛園の

、UHM,

hvv

卒安君の鼎で秦人の戦利品として泌陽に賞されたものとする意見があり、叉、競の信安君の鼎が一九七九年、快西省武功

豚から出土した例などがあることからすると

- 6 ー

一一蹴墓出土銅鼎も秦人が中原で得たものとも考えてみなければならな

L、

一一蹴墓の陶鼎である。

他の睡虎地出土鼎の内、器形を知り得るのは、三時肌墓の鍛足銅鼎、九競墓と三五競墓の鍛鼎

続墓の鼎は脚の長いこと、九競墓出土鼎も脚が長くしかも轡曲していることなど、共に楚鼎であることを知る。三五時肌墓

出土鼎も脚が細長く、蓋中央に紐を有し、環形耳である勲、やはり楚鼎である。

しかし、これらの鼎も本来墓主のもので

あったとは考えられない事買がある。即ち、三競墓出土鍛足銅鼎は器内が破損後、釘で修理されており、耳の

-方は後に

別に附けられた鯨耳である。器慢は子母口であるから本来銅蓋があったはずだが、失われて木蓋が被せられている。その

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器瞳との噛合せは子母口の作りとは異なる。底に炊煙痕がある。九競墓の時間鼎も修復されたものと報告されている。この

ようにみてくると、これらの鼎は、楚人が家俸の躍器として副葬したものとは考え難く、

秦人が楚に於て入手し、補修し

て賞用に供していたものと考えられる。陶鼎を出土した一蹴墓は西漢早期墓とされている。この鼎は他と器形が異なり、

脚は蹄足で短く、蓋に鉦が無く、耳が外号している。この鼎によく類似した陶鼎を探して得たのが、女に列奉する墓から

出土したものである。

江蘇省銅山牒江山西漢前期墓、山東省臨、折鯨金雀山九競西漢前期墓、山西省検次市五競秦末墓、侠西省闘鶏蓋溝東匡

K二西漢墓、映西省耀鯨西漢初期墓

この内、映西省の墓は勿論、山西省検次市、江蘇省銅山鯨の墓も秦文化の頼著な墓である。山東省臨祈豚金雀山九時恥墓に

は楚文化の影響がみられる。

以上、鼎についても、その一つ一つを検討すると、楚人の副葬品とは考えられないのである。

- 7 ー

3

睡虎地秦漢墓二二基の内、木棺墓の二九、三

O競墓以外はすべて一樽一

棺墓である。

樽内には棺室の外に二、

三層の頭

箱或いは溢箱が設けられ、この中に大部分の副葬品が牧められていた。ところが、ここで注目したいのは、九競墓に大小

二箇、一一競墓に一箇の壁倉闘が穿たれていることである。九競墓の大高には羊が殉葬され、小禽には陶釜、陶甑各

一、

一競墓の禽には木昭享一、木足泥馬三、泥儒二が牧められていた。

203

墓坑内に壁倉田を穿つことは春秋に始まり、戦園期には全園的に行なわれた。有寵墓は主に無停の小型墓であり、副葬品

A河wa

hu、

を牧める震に禽が穿たれている。春秋戦園期の有樺墓では、普通、棺と停との聞に副葬品が置かれ、禽のある例はない。

穿

異常なことなのであ刷。

遁箱がありながら、

しか

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204

品りム目v

一一瞬墓にかえって壁禽があり、更に奇妙なことに、九競墓の小倉田には生活用容器の陶釜、

陶甑がわざわざ牧められているのである。このことは、移住してきた被葬者集圏が措っていた惇統習俗と考えざるを得な

も、副葬品が最も豊富な九、

し、。そこで、有禽墓の護掘報告を通観したところ、この特異な墓葬の基になったのではないかと思われたのが西安市字放の

AHu,

hp

戦園墓葬である。

一般的に、楚墓の副葬品は陶膿器が主で、秦墓は生活用の器が主である。このことは、「池田論文」「陳

論文」にも述べられている顕著な相異貼であるが、特徴的に壁禽に陶釜、陶甑などの生活用容器を牧めるという黙での密

AWザ

ムHV

一一一一基の牢披戦園墓は洞室墓が一

O一基、竪穴墓が

一一基で、すべて木棺に葬

接な関聯が西安宇披戟園墓にみられる。

られている。有樗墓はない。この一一二基中には副葬品の全くない墓が四五基もある。

り六三基中について、副葬品の最小が一貼、最多が九黙、

四基は食肉のみの副葬である。残

一般的に二貼か三黙である。常鈎のみを副葬した墓が二三基を

- 8ー

その内、

陶容器

数える。主要な副葬品である査、躍などの陶器(金属容器はない。)が副葬されているのは三三基である。

一箇の墓が一七基、二箇の墓が一二基で、三箇以上は四基に過ぎない。副葬場所については、

鏡、帯鈎、玉石器が一般的

に棺内に置かれ、陶器は、二層蓋上などに置かれた例もあるが、大部分は壁寵に牧められていたと報告されている。つま

しかも、それらの墓は、無副葬品墓が四割に達し、全般

り、陶容器一、二箇を壁禽に牧めた墓が多いということである。

的に副葬品の貧しいこの墓群の中にあっては、鄭重に葬られた墓とみなすことができる。

このような字放戦圏墓の副葬品の特徴は、叉、戦園秦の中央地域での民衆の生活の巌しさを推測させる。時期と地域と

の比較他行なってみると、学技に近く、時期の先行する快西省長安鯨盟河西岸客省証の春秋晩期から職園早期にかけての

墓七一艶の副葬品が一三四黙であるのにくらべて、牢放戦国墓一一一一基の副葬品は一二七黙に過ぎない。戟園期の秦の他

古川ザ

ん凶い

地域の墓葬をみると、東部の大嘉照朝邑の戦園墓二六基の副葬品数は

一二五期で一墓卒均五黙である。西部の奏の奮都市知

城南郊(鳳朔豚)で護掘された春秋晩期から秦代に及ぶ四六基の副葬品は千百齢黙に達する。

これらが基数のまとまった

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A屯ザ

'M苧

戦園秦墓の護掘報告のほぼすべてで、そこに中央地域と地方との差をみることができる。

字放戦園墓はその基数の多さにもかかわらず、豊かな墓がなく、該地方の民衆の生活が全般的に低く押さえられていた

ことを窺わせる。このような全般的な貧しさの中で、鄭重な埋葬方法として行なわれたのが、

査、釜、甑といった生活用

容器を倉田に牧めることではなかったろうか。これが習俗化し、やがて、停統的格式となるに至ったのではなかろうか。推

測に過ぎないが、このように考えないと理解しにくいのが睡虎地九披墓の小禽とそこに牧められたロ聞である。九暁墓は一

般職園秦墓とは比較にならぬ豊かな副葬品を牧めながらもなお殊更に停統習俗が重んじられたものと理解される。睡虎地

三一瞬墓は棒室内に棺室と漫箱を有するが、遁箱内の副葬品と別に、棺停の聞に一個の陶釜と二個の陶甑が置かれていた

と報告されている。やはりここで理解した俸統習俗を示し、その強さを窺わせるものである。

一一蹴墓の禽には輯車の明器が牧められていたが、これは、砲を穿つ習俗は維持されたものの、秦に在った時の意味は

失ったものであろう。

- .9一

以上から、睡虎地秦漢墓被葬者の先世の集園は秦の中央地域に居住していたとの推測が許されるのではなかろうか。

4

獣頭骨の副葬

前節まででは、睡虎地秦漢墓の被葬者は楚人ではあり得ず、秦人、多分、戦園秦の中央地域に居住していた人々の後喬

であろうと推測した。しかしながら、睡虎地秦漢墓には、車純に秦人の墓とは言ってしまえない特殊な埋葬習俗がいくつ

か見出される。

205

‘GJマ

殊に顕著なのが家畜の頭骨の副葬である。三、七、二、三六競墓の樽蓋上に、馬頭或いは牛頭が置かれてい向。特に

一一競墓と三六競墓では牛頭骨が停上中央に正しく正面を向けて据えられていた。強い習俗的表現である。そこで、報告

書中から獣頭骨副葬の例を集めてみたのが表2である。犬、馬などの殉葬は殿代からみられ、

頭骨副葬はそれから涯生し

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206

献頭骨副葬表

|墓披 |出土地 時期 内 t宅~ 報告 書

山東寧陽 新石末殻前 毎墓 猪頭他 文 物1959-10// 蓬莱 西 周 4 牛頭 1 文物資料叢刊 3 // // υ 一般 馬頭 ・肢骨 " "

河南段盛 股 牛羊猪狗頭 考古摩報1979-1

河北房山 西周早 牛狗頭 ・肢骨 考 古1974-5// 懐 来 戟図早 1, 2 牛馬羊頭 ・肢骨 // 1966-5 '

甘粛盤整 西 周 7 施中馬頭1 考古里喜報1977-2// // 春 秋 1 牛頭1羊頭2 考 古1981-4

// 永 登 戦 図 殉坑 牛馬羊頭多数 考古輿文物日~~-~ I 内蒙古呼魯斯太 1/ 2 馬頭 27 文物1980-7

グ 桃紅巴技 // 1 牛頭4馬頭9羊頭2 考古翠報1976-1! // // // 2 牛頭4馬頭3羊頭42 "

//

グ西縛畔 戦園晩 馬羊頭 文 物1980-7

グ准格爾 戦園末 ・秦 t毛2 牛頭 1 1/ 1977-5

// // 西漢前 土毛 6 牛頭 1 // //

湖北極虎地 戟園末 3 惇蓋上馬頭1 // 1976-9

// // // 7 // // 雲夢睡虎地秦墓

// // 秦 11 グ 正中牛頭1 文 物1976-6

// // // 36 // // 考 古1981-1

際西臨澄 // 11 街中牛頭1 考古典文物1980-2

内蒙古陳巴爾虎 東 E主 棺蓋上牛頭 文 物1977-5

// // // 1 牛頭12馬頭12狗頭3 " " グ 礼賛諾爾 // 馬羊頭 // 1/

// // 東 漢末 6 棺蓋上牛頭1 考 古1961-12

// // // 8 馬類 1 // 1/

// 1/ // 16 棺蓋上牛頭3馬頭1 // " // 1/ // 19 グ 牛頭1羊頭2 // //

// // // 23 グ 羊頭1 1/ " // // // 29 馬頭1羊頭1 // //

表 2

た習俗と思われる。河

北省懐来鯨の例では

頭骨と四肢骨が揃えら

れている。

表2からわかるよう

に、獣頭骨を副葬する

習俗は中園本土ではほ

とんどみられず、北方

遊牧民の聞で盛行して

- 10-

いる。睡虎地の例は特

異なのである。快西省

では秦代墓に一例ある

ものの、睡虎地につな

がるべき戦園期以前の

例は全くない。このこ

とは、睡虎地秦漢墓被

葬者の先世を滑水盆地

で農耕主瞳の生活を管

んでいた純粋の秦人と

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することをためらわせるものである。

かと言

って内蒙古の北方遊牧民とも亨えられない。表2の内、地理舶に険西秦に極

ん凶い

めて近いのが甘粛省霊牽厭である。霊蓋鯨白草披の西周墓八基の内、七時肌墓の壁禽に馬頭が牧められており、問、

景家荘

4q

の春秋墓一一瞬墓の樟の傍に一箇の牛頭骨と二箇の羊頭骨が副葬されていた。霊蓋鯨は秦の奮都落城、今の鳳朔豚の北、

粛省が快西省へ入り込んだ地域の先端に位置する。暫く霊蓋鯨についてみてみたい。

霊蓋鯨で護掘された墓葬をみると、獣頭骨副葬の外にも睡虎地のいくつかの特殊な墓葬と類似するものが見出される。

片の一つは、惇室上に原木を並べることである。睡虎地の有停墓二

O基と、

そこから東南約四百休の所にある大墳頭一蹴

'up

甚との停頂板上には字国筒般に下の削られた原木が横に並べられている。これを上から寓した寓員をみると原木丸味が並

んでいるようである。これは特異な墓葬で他にその例をみない。ただ、霊蓋豚には類似する墓葬がある。洞山春秋墓であ

る。この八基の墓葬は、停が一式と二式に分けられ、一式は樺蓋が原木で横に並べられ、二式は樟蓋板上に更に数本の原

木が横に置かれる。この一式から二式へ、そして睡虎地の様式へと連績するものとして理解される。叉、霊蓋鯨白草披二

競西周誌は墓室の北端に煤が一面に附着し、草木の燃殻があったと報告されている。

これは睡虎地

一一蹴墓の墓坑四隅に

燃え残りの灰があったことと共通する。燦祭の如きことが行なわれたものと推測されている。睡虎地三六競墓の棒底、

九競墓と大墳頭一競墓の棺底には細砂が敷かれていた。これも、霊葦腺白草披七競墓の棺底に白色細土と紅殊土各一

層、

同九蹴墓墓底に白土が敷かれていたのが、段代以来贋くみられる殊砂は別として、わずかの類例である。

-11ー

以上のように、睡虎地秦漢墓にみられる特異な墓葬様式が霊蓋鯨の西周、春秋墓と逼じ合っている。ただ、南者の聞に

は、時期的に戦園期が抜けており、両者が直接結びつくものかどうかは何とも言えない。ただ、今日までのところ、霊蓋

豚での戦園墓の護掘が報告されていず、春秋墓の護掘報告も、ここに引用したものがそのすべてである。そこに種々の特

207

殊な墓葬様式に於ける睡虎地との共通性がみられるのである。なお今後の考古拳的資料の蓄積に侠つべき黙が多いが、今

日、睡虎地の被葬者の出自を検討する場合、霊蓋厭を手掛りとする必要があるように思われる。そこで以下、霊蓋牒の地

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208

理的、歴史的位置から考察してみたい。

霊蓋鯨の北に贋がる地域は、戦園期に秦と激しい攻防を操り返した義渠戎の地である。又、

秦代に入ると、この返りは

北方の旬奴に射する長城築営の根接地的位置を占める。つまり、霊蓋鯨の過りは秦の戎、旬奴に劃する前線基地的位置に

あり、北方遊牧系民族との交流も考えられる土地柄である。

次に、その民について考えてみる。霊蓋牒の地は漢代の鶏捌鯨で、北地郡に属していた。漢書

・巻二八下・地理志下

北地郡の僚をみると、そこに列奉された鯨名の中には、史記・巻一一

0・旬奴列俸に戎の一として翠げられている向桁

と、除道、略畔道、義渠道という道を附した牒名がある。道は、久村因氏の研究に依れば、

秦代、

蜜夷の地に設けられた

行政匡劃である。このことによって、霊蓋鯨一帯が春秋職園期に笹夷の多く居時する地域であったことを知るのである。

より康く、

秦領内に多くの混夷が存在したことは、好並隆司氏も論述されている。叉、子豪亮氏も「秦王朝関子少数民族

的法律及其歴史作用」で、秦の設展に伴い領内の少数民族が増大したと述べて、出土秦律中に含まれる「屡邦律」他四僚

の少数民族にかかわる候文を通して、秦と少数民族との開係を考察されている。この秦と戎との関係を一示す史料を史記中

から少し拾ってみると、秦本紀に、

- 12ー

裏公、兵を以て周の卒王を迭る。卒王、裏公を封じて諸侯と魚し、これに岐以西の地を賜いて日く、戎は無道にして

我が岐、豊の地を侵奪せり。秦、能く戎を攻逐せり。即ち其の地をたもてと。ともに誓いてこれを封霞す。裏公ここ

に於て始めて園し、:::十二年、戎を伐ちて岐に至り、卒す。

とある。穆公僚には、

謀りて戎王を伐ち、園を盆すこと十二、地を聞くこと千里、

迭に西戎に覇たり。

と記される。商戦費法で名高い孝公僚にも、「西、戎の源王を斬る。」とある。このように、

春秋戦園期を通じて、

秦は戎

地にその領域を横大したのであり、秦領内には、殊に周謹地域にはより多く、異族が混在していたものと考えられる。こ

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うした異族を以下、混夷と呼ぶこととする。

次に、その地の産業については、史記・巻一二九・貨殖列俸に、

烏氏(正義、麻なり。古城は淫州安定豚《今の淫川勝》東四十里に在り。)の保は畜牧し、

衆きに及べば斥貰して:::畜は谷

を用って馬、牛を量るに至る。

とあることから、牧畜の盛んな土地であったことが窺える。

以上、霊蓋鯨を手掛りとして考えると、獣頭骨副葬は生活に占める牧畜の比重の大きい混夷の一部集圏によって行なわ

れていた墓葬習俗の一つではなかったかという推測に達する。睡虎地被葬者の先世達は、秦人ではあっても秦本来の農耕

民ではなく、

秦地の縁迭に土着していた混夷の一つであっ

たと考えた方がよいようである。これを前節での考察と重ね合

わすと、彼ら混夷集園が、戦圏中期の秦の東方への準出、威陽遷都といった情況のもとで、中央地域へと集圏移住せしめ

- 13-

られたものと推測される。

この集園がやがて秦の楚攻略に伴って、大奉雲夢の地へ移動してきたものと考えられる。次にこの貼に関聯して、睡虎

地秦漢墓の副葬品中、特徴の額著な器物を採りあげて考察を進めたい。

5

輩、繭形壷、蒜頭査

睡虎地秦漢墓から、

五箇の蒜頭査、

一四箇の輩、

一箇の繭形査が出土した。

『文物』の護掘簡報はこれらを「秦文化の

典型器物」としている。この三種の器物、特に整については少し詳しくみてみたい。

園ーに一例ずつ掲げたが、整は主に銅製で丸底、頚がややくびれロ縁が農がる。

小の縄目紋(察扶紋)の環耳が附く。

一箇叉は二箇の、

二箇の場合は

一大

AH"'

高さ、腹径共におおよそ一五糎から二

O極までの小型で丸々とした鍋である。繭形

日本では俵査と呼ばれる。それらの名が表わす形の胴の上下に互によく似た形の口と

209

査は卵形査、鴨蛋壷とも報告され、

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210

蒜頭登(大墳頭Ml)

登(睡虎地M9)

繭形査(大~朝邑M 1)

君主,繭形壷,蒜頭登

圏足が附く。蒜頭査は六鱒或いは八郷、

稀に一二艇の

にんにく肢の口をした査で、肩査もあるが主に長頚の

歪である。

一、川uマ

トhv

整の出土報告を一覧表にしたのが表3である。これ

3、4、5である。

を時期別の園にしたのが圃2、

一、

整は秦文化の典

の表、固から次のことがわかる。

型器物というより、正確には巴萄文化の典型器物と呼

ふhv

ばれるべきものである。二、戦園末、

秦代に巴萄より

圃1

西漢期に全固に欄播し、

四、東漢期には急速に衰えて消滅したのである。整が

- 14ー

楚の領域に流入した。

このような推移を辿った原因を整のもつ機能と歴史朕況とから考えてみたい。

携帯に便利であ

警を生んだ四川省の土地柄と畿の器形とから、その機能について次のような特徴が考えられる。

る。時期の古いものは片耳であり、雨耳のものも一般に片耳が大きいので移動、旋の際に家畜や人の背の荷に縛りつける

のに都合がよい。二、その大きさからして個人又は小家族用である。三、

一個でいくつかの機能を果肉つまり、

1各種

の煮炊きができ刷。

2ごとくと一瞳で携帯すれば野行、軍一放での炊事に極めて便利である。3有蓋の例もあるので、穀、

豆などの貯識にも利用されたと考えられる。頚がくびれているので、

口を布で覆い頚を縛れば貯蔵、運搬共に便利であっ

たろう。

4穀、豆を揖き、柔らげるのにも利用できる。

以上の酷から、

警は巴萄の民によって生み出され、その運搬性、

多機能性が流入した秦軍人、遷徒の闘に喜こばれ、

がて楚攻略に伴って楚領域へ賀されたものと考えられる。

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211

表3 警出 土表

出|時期|数|報告書 12222123初1~I

I gg~ :m 121 グ 1湖南長沙| グ 1 21文 物19ωー3グ成都|職園早121文 物1976-311 グ | グ 1 11

グ祭経|敏園晩秦111文物資料叢刊 4 11グ合浦|西漢晩111;文物資、

| グ 1 11 3t4'frJli:1SfilfU 4 11貴州威寧| 汐 1 11 グ成都1西漢前111考古遁訊1957-211グ グ |東 1 11

1 1/ 1121文物,考古(本文)11グ新津| グ 1 31 I gg~ :m 121 グ Iか理豚|東漢晩111文

| グ 1 11中原文物別2-111内蒙古准格爾旗11 1内蒙古出土文物選集

庚東康州 Igg漢早131考古皐報1974-1

時期不明確

9

4

mw

城長

qu A

1

H考

4

4

t

A

)務

HH

古川

(

-15-

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次に、秦軍が巴窃から楚へ進攻した行路について考察したい。先ず、

文献からみてみる。秦が巴間切を滅ぼしたのは、史

、内ヨ,

bp

記・秦本紀、六園年表、張儀列博、華陽園志・萄志によれば、秦の恵王の時である。その後、多くの秦人が巴局へ流入し

ペリ'nv

たことは、華陽園志・萄志に「秦民首門家を移し之を質すにとあることなどから知られる。秦の楚攻撃路を一示す史料には、

先ず、史記・巻六九・蘇秦列俸に、

212

秦、必ず南箪を起こさん。

一軍は武闘を出で

一軍は勲中へ下れば則ち都、部動かん。

とあり。問、各七

0・張儀列俸にも

戟園期君主出土園園2

- 16ー

秦代釜出土園国 3

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西漢代君主出土園

圃5 東漢代繁出土園

~ 17ー

聞4

秦の西に巴萄あり。大船は粟を積みて波山より起ち、江に浮びて己に下れば楚に至るまで三千絵里。:::秦、甲を拳

附て武闘を出で、南面して伐たば則ち北地絶たれん。

品川ザ

とありここには、武闘を出て北から直接楚を攻撃する遁と局より長江を下り西から攻撃する遁とが示されている。

その

攻撃については、問、巻五・秦本紀に、

ハ昭裏王)二十七年(前二八O〉、司馬錯をして瀧西を蛮し萄に因りて楚の勲中を攻めしめ之を抜く。二十八年、大良

造白起、楚を攻めて部、郵を取る。:::三十年、局守若、楚を伐ち、亙郡を取り、江南に及びて品川中郡と魚す。

213

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214

とある。こうした二道からの準攻を裏附ける考古賀料がある。

dd,

'hv

長江を下った道を示すのは、湖北省宜昌市北郊前坪などで瑳掘された戦園間漢墓四三基である。この内の前坪二三競戦

園墓は、巴式矛、奏家刻銅印などの出土から、巴攻略にかかわり、

楚攻撃軍に加わった秦軍官の墓とされている。叉、

西

漠墓からは二箇の輩、

一二箇の蒜頭査が出土している。

武開からの道、買は後述のように、武闘から部、郵を攻撃したのではなく、巴、漢中より漢江を下ったものと考えられ

るが、この道を示すのは、湖北省宜域鯨楚皇域西四

OO米、雷家援の六基の秦漢墓である。宜城鯨は楚の別都郡の地と考

hv

えられる。この内未破壊の三基は戦園墓を削っている。時期については、

秦牢南銭を出土したが漢字雨、五妹銭を出土し

従っ

て、

西漢の文、景の際まで下らないとされている。

秦代墓として考察してよいと考える。楚王城近くで戦園墓を削っているのは、侵攻秦軍人の墓だからであろう。叉、同時

ないので、

秦昭袈王二八年〈前二七九)以降、

- 18-

に設掘された職園墓とは副葬品が著しく異なる。

陶躍器を主桂とする戦園楚墓と異なり、銅器、生活用具、武器が副葬さ

れている。この黙は先述の宜昌戦園墓も同様である。更に、銅肇二箇、銅蒜頭萱四箇が出土した。

これも宜昌西漠墓と劉

躍する。

次に、秦軍が郡(宜城師腕)へ至

った道は武闘から直接達する遁ではなく、漢江の上流、

漢中、

巴からの道であった可能

性が高いと思われるので、その理由を述べてみたい。

先に引いた蘇秦列俸には又次の文がある。

局地の甲、船に乗りて改より浮かび、夏水に乗じて江を下れば五日にして引に至る。

漢中の甲、船に乗りて巴より出

で、夏水に乗じて漢を下れば四日にして五渚に至る。寡人甲を宛の東に積み、随へ下らん。

一方、史記・巻四

0・楚世家、頃

ここにも楚攻骸の二道が示されているが、北方からの攻撃路は漢江沿いとされている。

「奏、楚を伐ち、楚軍敗る。上庸、漢北の地を割きて秦に予う。」とある。

上庸は、久村

裏王一九年(前二八O)僚には、

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因氏の研鮒に依れば、楚の漢中の地で、南鄭を中心とする秦地の東に郷する。秦はこの地の併合により漢江沿いの楚攻略

が容易になったものと思われる。その翌年の昭裏王二八年(前二七九)僚の秦本紀に「大良造由起、楚を攻めて部、

取り、罪人を赦して之を遷す。」とあるのである。

郵を

次に、考古屋e

の方面からこれをみてみると、戦園、秦代の警の出土が、表3、園2、3にみたように、巴萄、映西秦、

楚地に隈られて、三五日の地にはないこと。例えば、蒜頭査の出土など秦文化の影響の強い山西検次の墓群、その他の秦人

ANW

'円V

墓之される墓からも出土しない。快西省からの出土も四川、湖北に比してわずかである。このことは肇が秦本園では一般

化していなかったことを示している。こうした貼からみて、部〈宜城豚)に至った秦軍は、威陽を出て藍回、武闘を経て

直接楚に入ったのではなく、一度、巴萄を経由したものと考えられる。それによって楚地に整が贋がることとなり、

秦か

ら直接攻撃する三菅からは肇が出土しないのである。

- 19ー

繭形壷、蒜頭査の出土表が表4、5である。戦圏、秦代の出土はほとんど快西省である。正しく秦文化の典型器物であ

る。殊に繭形査は、映西戦園墓出土二三箇の内、鳳朔鯨出土の一箇を除いて他はすべて圏足が無いという特色がある。快

西省以外の出地品はすべて圏足を有する。圏足が無ければ地上には置けない。家畜の背に掛ける運搬用容器として生まれ

たものであろう。胴の形は家畜の背で轄がるのを防いだものと想像される。快西省出土のものには稚拙なものがあるが、

漢代、河南省出土のものなどは彩絵を施された工襲品に護達している。

215

以上の考察によって、睡虎地被葬者の先世は秦の縁漫にあった故地を離れ、中央地帯での生活を経て、秦軍の楚攻略に

伴い、巴萄から漢江か長江を下

って雲夢に至った混夷の集圏と推定できるように思われる。睡虎地四時抗墓からは二枚の木

臆家信が出土したが、その内容は共に、遠く離れた戦場の息子たちからの衣類、金銭迭付の念請である。これをみると、

嘗時の兵士の衣類などは自掛であったらしい。このような若者が戦場で活動できたのも、

えた強固な集圏の存在であったと考えられる。

一つには彼らの背後でこれを支

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216

日 |時期 |数 | 報告書 | 険西成陽 i被図 8 考古1962-6グ西安 /,ノ 9 考古皐線的グ大1); I! 3 文物資料殻刊 2 。耀豚 1/ 1 考古1959-3: グ鳳朔 職園晩 1 考古典文物1981-1; グ淳化 // 1 グ 1982→ 1

"大寺~ 西漢初 2 文物資料叢刊 2 グ威陽 西淡 1 文 物1977-

四川成都 秦 1 考古務報1956-4湖北雲夢 // 1 文 物1976-9河南新郷 西淡 1 人 民中 国1973-6

// // (戟図〕 1 中園古 文物山西侯馬 西漢 l 文 物1959-6山東臨祈 西漢早 2 考 古1975-6

江蘇銅山 西漢前 12 文物資本|叢刊 1 グ徐州 西淡 2 考 古1974-2// 1/ I! 14 文物資料叢刊 4

繭形萱出土表表 4次には

物1980-91975-6

考古輿文物1980-21981-1

文物1980-9考古輿文物1982-2文物資料叢刊 2 文物1982-1文物資料叢刊 4 !

考 古1980-2I 文物,考古(本文)I 文 物1973-9I 考古築報1976-2I 文物資料殻刊 4 I 中原文物1982-1! 文物1980-9I 考古遜訊1958-11文物1974-12

1960-3 文物資料援刊 4 文物1978-9I 考古事報1974-1: 庚介| 漢 墓 i

考古1975-6I 考古 jifi訊1958-2I

考 古1979-2I 文物1962-4,5I

蒜頭登出土表

出土地 |時期 |敷 | 報告書

快西鳳朔|戟園晩 | 一

グ威陽 | 秦か臨溜。鳳朔グ費鶏。漢中

" 大森田川背川グ幾経

湖北宜域。雲夢

- 20一

//

//

I!

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1 3

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22225

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司自ム

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1A唱ム噌ム

1

1 1

初漢前

初際漢前む早前早漢

西西西

西秦西西臼西西西西

'川陽

沙豚

z漸泌快検長賀且貝廉

,'南r

r

西南西r

ん必河k

,h

円陸風

西漢前西漢初戟中晩戟末秦

I!

I!

//

//

I!

//

山東臨i斤四川成都

|甘粛盤肇|山西太原

1/ 1/

11 //

表 5

「編年記」を手掛りに、

漢江沿いと長江沿いの二道を一つに絞ってみたい。

「編

記」

一一

瞬墓出土の

「編年記」は五三簡から成り、上下二欄に、

A事hv

年、大事、喜とその家族の事などが記されている。始皇代は

「今元年」で始まり、前の三王は謹が用いられているので、

昭王元年(前三O六)から始皇三

O年(前一一一七〉までの紀

始皇代に書かれたものである。

『考古皐報』

一九七七年第一期に掲載されているかなり鮮明な寓員をみると、

全簡の字盟

には相異が認められ、大きく二部分に分けられる。昭王元年より始皇一一年までの大事を、今、第

一部分とし、そこに書

昭王代の年、

き加えられた私事と始皇

一一

一年以降の全記述を第二部分とする。園6は第三四簡と第四五簡の奉本である。品川四、世五は

下欄の廿七年は始皇代である。

第三四簡の事本は第

一部分の「品川四年攻撃陽」と下欄の第二部分の

「廿七

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園6

「編年記」事本会西、四五関〉

...,,~ -t皆

J.二 d

5,字毛主 歩

者寄

事偽3三すーー。 句

司? ....

長考明舟azh i

ヲP

~ 二ー=ZF ヘ、主主 ¥¥

4民h 与会

点3、

e

年」以降の部分との聞を詰めて掲載した。第四五簡は

「世五年攻大野王」が第一部分で、績く「十二月甲午鶏鳴時喜産」

hp

が第二部分である。南部分には筆蹟の違いが認められる。そこで、第一部分が先ず公的大事記として書かれ、後に、私的

傾向の強い第二部分が書き纏がれ、この時、第一部分に私事が書き加えられたとも考えられる。

しかし、仔細にその内容

- 21ー

を検討すると、第一部分をも含めて「編年記」全瞳が極めて私的な性格の強いものであることに気附く。第

一に、始皇の

語正が避けられていない。二に、

最大の公的大事である天下統一の記述がない。三、大事の中心の戦役の記述にも依落が

ある。四、逆に、史書にない「八年新城鯖」の記述がある。五、昭王二四年僚の「攻林」はその年行なわれた封貌戦役の

一部に過ぎないものとみられる。六、

喜の父母と考えられる公、掘の死に

「終」と書き、三王の死は「死」

と書かれてい

る。昭蓑王に至つては「昭死」である。七、昭王五二年、五三年僚の「王稽張緑死、」「吏誰従軍」は公的大事記としては

奇異である。八、

「〈昭王)廿九年攻安陸」の記事も公的には「攻到(獲の都)」とか「郭陥」

とか書くべき年である。

要するに「編年記」は極めて私的に書かれたものと考えざるを得ない。そこから、次のようなことが考えられる。

誰従軍」は多分、

吏であった喜の父に関係があり、

「吏

で書かれたと解すべきであろう。

「王稽張蘇死」も彼らと喜の父との聞に何らかのかかわりがあったの

史職にあっ

たと思われる。出土

喜は満一八歳以降、

史職を歴任したが、

喜の父も叉、

217

秦簡「秦律十八種・内史雑」に「史の子に非るや敢て皐室に皐ぶなかれ。」とあり、説文解字紋に引く漢の尉律に

「皐偉十

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218

始めて試みて務書九千字を調すれば乃ち史と漏るを得。」

一、二年にやはり史職にあった父より喜に引き継がれたものではなかろうか。

数年後に父

とあるからである。

「編年記」

七己上

は筆蹟の嬰っ

た始皇

時に喜は

二六、

七歳であり

は死す。

戦役の記述も同様に、喜の先世の集圏とのかかわりで考えてみるべきであろう。そう考えれば、先述の「攻安陸」の記

述も決して奇異ではなく、先世の集固が安陸攻略に関係したものと理解できる。更に、その前々年からの「廿七年攻郵L

「廿九年攻安陸」の記事はこの集囲の移動の遁につながっていると考えられる。郵は河南省南陽市(宛)

制開

と漢江との聞にある郵豚の地とされ、二八年傑の口の字は部ではないかとされている。都、

部攻略は先に引いた秦本紀、

昭裏王二八年僚の「楚を攻めて部、部を取る。」の記述と

一致する。勿論、

「編年記」の郡字は不明であるが、部のみでそ

「廿八年攻口」、

の遁筋を知ることができる。そして、

部、郵へ至る道は前章五節で、

漢中から漢江を下る道であったことを考察したので

ある。喜の先世の集圏は巴から漢江を下って楚地に入り、安陸・雲夢へ達したのであろう。

- 22ー

bru

J41

融化という言葉は楊寛氏が「西周時代的楚園」の中で、春秋戦園時代の楚園の設展が全園的統一完成に劃し、南方各民

族の融化を促進したとする論述で用いられた語である。前章まで考察してきた喜の先世達の足逃も、

E大な統

一帯園が形

成される時期の祉曾基層に於て、異質の傍統、文化を措った人ぺか互に融合同化していった過程の一つとしてみることも

できよう。本章ではこの面から睡虎地の墓葬をみてみたい。

第二章では墓葬にみえる秦、混夷の文化をみてきたが、墓墳、棺棒の造りは基本的に楚文化のものである。戟園期に秦

で盛行したのは洞室墓であるが、睡虎地秦漢墓はすべて竪穴墓である。樽の周囲は育膏泥、白膏泥で版築されている。こ

れは楚墓に普遍的なものであるが、奏、中原では全くみられない。しかも、樺室に近い程、より細密な粘土で、より竪く

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棺樽の造りで特に注目されるの

は、棺室と頭箱、漫箱との聞に観音開きの扉が設けられていることである。これは、樽室の構造として極め戸珍しいもの

hHV

である。しかし、楚墓の中にはこの構造の先行例を見出すことができる。湖北省江陵鯨太輝観五

O競戟園楚墓がそれであ

る。やはり、棺室と頭箱との聞が観音開きの扉にな

っている。こうした貼から、睡虎地秦漢墓を造営したのは多くの楚人

達であアたといえる。更に注目すべきは、壁禽の節で述べた一一一蹴墓の禽には観音開きの扉まで附けられていることであ

る。樟門の扉をそこへ雁用したと思われ、造営に従事した楚人の積極的関興が窺える。こうした墓壊、棺樟の造りと、第

掃き固められている。

こうした念入りな作業がこの墓群の保存をよくしたのであろう。

二章で考察した屈肢葬、壁命閥、獣頭骨副葬、樽上の原木などの異質の習俗とを重ね合せて考えると、移住集圏の墓を先住

楚人が造営し、そこに、移住集圏の人々は自己の停統習俗を附加し、楚人は更にそれにも補いを施したものと理解するこ

とができる。

- 23ー

第二章の獣頭骨副葬の節で燭れた棺底に細砂を敷く墓葬習俗であるが、この習俗の睡虎地に於ける自己展開と考えられ

るのが、一一一瞬墓と三六競墓の棺底に敷かれた粟と、七瞭墓の棺底に敷かれた稲の籾殻である。細砂から故地の主穀粟、

現地の主穀稲への移行、併存と考えられる。穀類については、この外に

一一一瞬墓樽蓋上に稲葉が敷かれ、叉、同墓からは

稲の籾も出土している。大墳頭一一瞬墓には竹で編んだ箱(笥〉に入れた稲が副葬されていた。

こうした墓葬内の稲穀の存

在も移住集園が楚地の生活へ融化した法とみることができる。

第二章で種々特殊な埋葬習俗について述べたが、その習俗も漢初の大墳頭一競墓の樽上の原木までで、その後、すべて

消滅する。集圏結合の文化的基盤である俸統習俗は楚文化の中に融けて正に滅びようとしていたのである。その時、かえ

って、集圏内のより上層の人物の埋葬に際して、

樺威を一示す格式として殊更に強調されたのが屈肢葬であり、

牛頭骨副

葬、燦祭であり、責質的には無用な壁禽であったと理解される。

219

移住秦人と先住楚人との融化、並びにその政治的影響を窺わせるのが、嘗南郡の守、騰が治下の豚、道の長に渡した布

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220

告「語書」である。その一節に

郷俗淫失(侠)の民止まず。::・故に、騰、

是が魚に法律

令、回令及び開(好〉私を魚すの方を修して之を下し、吏をして明布せしめ、:::今、法律令己に布さるるに、吏民法

今、法律令己に具われり。

しかるに吏民用うることなく、

を犯し開(好)私を帰す者止まず、私好、郷俗の心襲らず、令、丞飢り以下、

即ち明らかに主の明法を避くるなり。しかも邪避

(僻〉の民を養匿す。

智(知)りて奉論せざるを聞く。

是れ

とある。

この文について「陳論文」は

「楚人はなお頑固に楚園の俸統習俗を堅持している。」と述べられている。

今、こ

こで特に注目したいのは引用部分の末尾である。そこには、鯨の令、

丞以下の官吏が法を犯す者を慮断せず、かえってこ

れを庇護する情況が描き出されている。これは睡虎地の墓葬にみた秦人と楚人との融化の情況が決して特殊なものでな

く、南郡一幣の情況でもあったことを示している。

このことを政治的に考えてみると、秦の地方統治は、牒レベ併の統治

層が在地民衆と一鐙化し、郡守クラスが浮き上っていたのが貫態であると言える。古賀登氏、工藤元男氏の研究に依れ

MW

ば、秦の耕戦陸制の中で、豚はかなりの自立性をもっていたと考えられる。郡の役割りを軽硯することはできないが、や

がて起こる秦末の全園的な内観という紋況のもとでは、個々の鯨が防衛援黙となったはずであ柄その鯨が秦吏と楚民と

- 24ー

の融化によって貫質的には民衆叛凱に劃して無力になっていたと思われる。秦朝短命の原因についても再考の品跡地がある

ょうである。

この反面、被葬者の集園自身にとっては、楚民との融化により、陳勝、

呉贋集圏の蜂起に始まる秦末の大動観にも拘ら

M開

ず、

漢代に入って愈々一笑えることができたのである。それを示すのが雲夢大墳頭一一抗墓である。睡虎地の副葬品数は

一一

瞬墓が竹簡外に七九貼、九時肌墓が六七黙である。大墳頭一一統墓の副葬品は一五九貼に達する。内、漆器のみで八一黙を数

ぇ、耳杯が六二黙を占める。豊かな安定した生活を窺わせる。

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睡虎地秦漢墓の特徴的な、或いは特異ともいえる墓葬様式、副葬品に注目し、その源流を尋ねるという形で被葬者の出

自について検討してきた。

墓主は楚人とは考えられないこと。いくつかの墓から出土した鼎も、

と、楚人の副葬品とすることができないことを示した。とすれば、秦式の副葬品その他の理由から、被葬者が秦人である

ことは間違いなかろう。ただ、すべての墓で梓頂板上に牢割り原木が並べられ、数例の墓ではその上に牛、馬頭骨が据え

一一蹴墓の屈肢葬の検討から、

個々に検討する

られているという特異な墓葬様式、

習俗からみると、

被葬者は秦領内の混夷の一つであったと考えた方がよさそうであ

る。そのことを、甘粛省軍基牒の墓葬と土地柄とから推測してみた。叉、

樗室内には、頭箱、謹箱が設けられて、漆器を

- 25-

はじめとする豊かな副葬品が牧められているにもかかわらず、壁倉闘を穿って、そこに陶製生活用器を牧めるという奇異な

墓葬様式の源を西安字放戦園墓に見出し、そのことと戦圏中期以降の秦の朕況とから、被葬者の先世の混夷集圏が故地か

ら秦の中央地域へ移住せしめられたのではないかと推測してみた。この集圏が四川省に入り、そこから漢江沿いに湖北省

へ準出し、終に雲夢の地へ至ったものと推定されることを、整の出土地、文献、「編年記」によ

って説明してみた。

この墓葬の構造自瞳は楚文化のものである。その一例は棒室内にあまねく設けられた扉である。それが、特異な壁禽の扉

にまで及んでいることなどから、楚攻略に伴ってこの地に移住してきた秦人集固と原住楚人とが融合同化してい

ったもの

一方、

と考えた。これは政治的には、鯨畢位の支配層と住民との一睡化と考えられ、しかも、この情況が南郡一帯に及んでいた

ことが「語書」から窺えた。これは、民衆叛凱に射しては秦の地方統治権力が無力化していたことを示すものと考えられ

る。

221

こうした秦楚文化の融化を導いた契機を考えると、

一つには、秦の園家権力を背景にした移住、定着の面であるが、他

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222

方、そうした移住者を自分らの中へ融化せしめた楚民基層枇舎のもつ力を考えないわけにはいかない。このカを解明して

一つの示唆を輿えてく

いく一つの手掛りは、先に引いた「語書」の「淫俊、邪僻の民」という語であると思われる。叉、

れるのが、宮崎市定氏が秦滅亡の原因について述べ

られた中の次の言葉である。

人民は重役に悩んで苦しまぎれに蜂起したともいわれる。併しながら:::寧ろ秦に征服されたる六園の遺民に、再び

蜂起して秦と天下を争うに足るだけの徐カがあったと見る方が事責に近い。

これらの手掛りをもとに、社曾基層の情況を探ることを通して、秦漢帝園形成の動因について考えていきたい。

註ω《雲夢暖虎地秦墓》編潟組『雲夢睡虎地秦墓』(文物出版祉、

一九八一年〉に出土全簡腐の潟県、

摩文が載っている。

ω新聞紙上ではこれより早く、

『人民日報』一九七六年一一一月二

八日附に裂掘の報道があり、

『光明日報』同年四月六日附に都

博・雲文爾氏、四月一一一一日附に瞬源氏、二九日附に施正氏、五

月二二日附に鄭寅氏の論文が載った。

ωこの外に、被葬者の出自に言及した最近の論文に次のものが

ある。鰐之梅「珍資的雲夢秦繍」

(中華書局編輯部『雲夢秦簡

研究』中華書局、一九八

一年)は末尾で、「出土秦簡的這座墓、

従墓葬形制到随葬縫物、既得有胸中秦人墓的特黙」と述べてい

る。馬抗措「讃雲夢秦簡《編年記》書後」〈同)は被葬者の出自

について、

秦人楚人を決しかね、「在欽乏判断根嬢的保件下、我

伺只好針此保持綴歎了。」と述べる。葉小燕「秦墓初探」(『考

古』一九八二年第一期〉は侠西省春秋墓に始まる秦墓を列寧し

ているが、その内に「雲夢睡虎地戦国晩期至漢初墓」、「大墳頭

秦墓」を含め、その根嫁として、副葬品が秦式であること、

一競墓が仰身屈肢葬であることを翠げている。

ωこの書物は一九八二年八月一一一一日現在、未だ日本の書庖にみ

えていない。籾山明氏が帯来されたものを利用させて戴いた。

「中園古代爽落の展開」〈『歴史準研究・別冊特集

・地域

と民衆』一

九八一年)の中にも、ここに掲げる論黙の内、二、

三の事項、特に第六項について詳しく論述されている。

w雲夢勝文物工作組「湖北雲夢陵虎地秦漢墓褒掘簡報」(『考古』

一九八

一年第

一期)に、既報の一二基の秦墓の西郊に四七基の

土城墓が確認されたこと、その内の八基とその東南数十米の地

での二基、

合せて一

O基の秦漢墓の褒掘結果が報告された。

報分と合せて二二基の秦漢墓の墓葬が明らかになった。なお未

設掘墓が存在することも知られる。

W

墓葬の概要を大まかに述べておくと、二二基すべて、ほぼ同

一規模の小型長方形竪穴土嫌墓で、

二九、三

O続墓が無停の木

- 26ー

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223

棺墓である外は、一惇一棺墓である。停内には棺室と頭箱或い

は透箱、又は雨者を有する。棺惇の造りは基本的に同じである。

墓域は上層に五花土、下層、棺樟の周園には育灰泥、育志向泥が

充填され、二九、三

O貌墓以外は竪く版築されている。副葬品

数は、儲開臓を別として、六四

O徐黙、内、漆器が一二五四勲、陶

器=ニ二黙、銅器五七黙である。

制他の骨格の保存のよい七、三五時抗纂と、痕迩から剣断できる

九時抗墓との葬法はすべて仰臥伸展葬である。

ω所掲。

MW

睡虎地秦墓竹筒整理小組編、文物出版社、一九七八年

ω葉小燕「秦墓初探」(註

ω〉も股骨、座骨の爽角一一

O度と

記す。

同高去尋「黄河下激的屈肢葬問題」(『中薗考古皐報』第二冊、

一九四七年)、韓偉「試論戦園秦的屈肢葬儀淵源及其意義」(『中

園考古皐舎第一次年曾論文集一九七九』文物出版社、一九八

O年〉参照。

MW

「湖北省文物考古工作新政穫」、「三十年来湖南文物考古工

作」〈『文物考古工作三十年一九四九|一九七九』文物出版

社、一九七九年〉

帥唯一の例外ともみられるのが湖北省江陵豚太輝額五

O競楚墓

〈『考古』一九七七年第一期)の側身屈肢葬である。掲載された

圃によると脚の角度は約一六五度に過ぎず、側身葬の信用に自然

に曲ったものとみられる。

帥金星山「西安字放的戟園墓葬」(『考古皐報』一

九五七年第一一一

期)

帥呉銀燦・尚志儒「侠西鳳朔官同荘秦墓地震掘簡報」(『考古輿文

物』一九八一年第一期〉

肋甘粛省博物館文物隊・震肇鯨文化館「甘粛盤華豚商周墓葬」

(『考古』一九七六年第一期)

帥劉得禎・朱建唐「甘粛鐙肇鯨景家荘春秋墓」(『考古』一

九八

一年第四期〉

帥『文史哲』一九八

O年第四期、六八、九頁

帥駐馬信地区文管局・泌陽勝文数局「河南泌陽秦墓」(『文物』

一九八

O年第九期)

帥李恩一動「秦閣文物的新認識」(同右〉。但し、黄盛時坤「新出信安

君鼎、卒安君鼎的園別、年代輿有開制度問題」(『考古輿文物』

一九八二年第二期)はこの鼎を貌器とし、秦迭とみる伴出の漆

器に卒安侯の針刻があることから、貌の卒安君が秦に入って卒

安侯となったとする。

羅臭

「武功豚出土卒安君鼎」(『考古典文物』一九八一年第二

期)が銘文中、卒安君と讃んだ字を次の諸論文は信安君である

とする。李暴動「論新設現的貌信安君鼎」(『中原文物』一

九八

一年第四期〉、妥錫圭「《武功蘇出土卒安君鼎》讃後記」(『考古

典文物』

一九八二年第二期〉、

黄盛藤氏註帥所掲論文。

帥一九六六年、威陽市塔見放戟園墓出土の私官鼎、中殿鼎、卒

鼎、宇斗鼎、素鼎は三菅、東周から秦に賞されたものとされて

いる(威陽市博物館「侠西成陽塔見披出土的銅器」『文物』一

九七五年第六期〉。

帥湖北孝感地区第二期亦工亦農文物考古訓練班「湖北雲夢陸虎

地十

一座秦墓愛掘筒報」(『文物』一

九七六年第九期)圃八、『雲

- 27ー

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224

夢睡虎地秦墓』(註

ω)四二頁、図版二一一一

『雲夢艇虎地秦墓』(註

ω)四五頁、園六四

北雲夢睡虎地秦摸墓護掘筒報」

(註刷)図版二

帥同右、

図版

一O

同楚鼎については、高明「建園以来商尉青銅器的援現及研究」

(『文物』一九五九年第一

O期)、張剣「従河南掘削川春秋楚墓的援

掘談針楚文化的認識」(『文物』

一九八O年第一

O期)、

高至喜・

熊傍新「楚人在湖南的活動遺迩概述|粂論有関楚文化的幾筒問

題」(同)参照。

帥これとよく似た例が四川省出円川際戦闘墓出土の二個の銅鼎で

ある。共に蓋を失い、器慢も甚しく破損しているが、補修と工

夫とによって賞用に供されていた(四川省博物館・青川勝文化

「青川豚出土秦更修田律木・腕|四川青川豚職図墓渡掘簡報」

『文物』一九八二年第一期)。なお、この七二基の戦闘墓は秦よ

りの移住者の集園墓とされているが、なお検討の要があるよう

である。

帥江山秀「江総省銅山豚江山西漢墓清理簡報」(『文物資料叢刊』

て一九七七年〉

帥臨祈金雀山漢墓設掘組「山東臨祈金雀山九時肌漢墓設掘簡報」

(『文物』一九七七年第一一期)

制玉克林「山西検次士口基夜掘記」(『文物』

一九七四年第一

一一期)

帥蘇乗碕『闘鶏輩出仲東区墓葬図説』中園科皐院、一九五四年

帥馬建照「侠西耀豚戦闘、西漠纂葬清理簡報」ハ『考古』一九五

九年第三期)

伺有合間基でも袋身具、武器は遺骸の傍に置かれる。

これは樋口隆康氏より戴いた御数示である。

一概墓が竹筒外に七O徐黙、九貌墓が七

O貼近くである。

附註帥所掲報告。

室官接は竪穴から更に横に室を穿ち、そこに棺を収める背番

で、職図晩期に秦で盛行した。

制中園科皐院考古研究所

『穆西設掘報告』

(文物出版社、

一九

六二年〉

西

省文管舎・大慈豚文化館「朝邑戟圏墓葬褒掘簡報」(『文

物資料叢刊』二、一九七八年)

州制註帥所掲蛸間報。

西

の賓鶏燃で褒掘された戟園墓

一O基(考古研究所険西考

古調査設掘隊「賓鶏和西安附近考古渡掘関報」

『考古遜訊』

九五五年第二期)は副葬品数の報告がないが、副葬品について

の記述からみて、学技戦園墓よりはかなり多いようである。

川間註刷所掲簡報。

雲夢睡虎地秦墓』〈註

ω〉八頁に、

一一一一波墓惇蓋上に種類

不明の動物の骨粉が設見されたと報告されている。これが獣頭

骨であったとすると、五墓の停蓋上に各一箇の獣頭骨が置かれ

ていたことになる。

省博物館文物除「甘粛鐙蛋白草坂西周墓」(『考古皐報』

一九七七年第二期)

伺註制。なお、一一統墓の外に、

二続墓、罵坑て奴隷葬坑

一が

設掘されている。一銭墓は長方形竪穴土城墓で一惇一

一棺。副葬

品は銅鼎三黙を含めて二

O貼。内に、銅柄銭剣一一振の出土が注

目される。時期について、陸器の器形、紋様から春秩早期とさ

- 28ー

Page 30: Title 雲夢睡虎地秦漢墓被葬者の出自について 東洋史研究 …...、葬法については、前掲護掘簡報 に「仰身 曲肢」 と報 告さ れている。少し

225

れているが、銭剣の出土から、時期が下るのではないかと思わ

れる。林甘泉

「従出土文物看春秋戟園閲的吐曾獲革」(『文物』

一九八一年第五期〉参照。

同一九七二年末に妥掘された漢初墓である。鼎、政昔、

蒜頭登な

どの副葬品、棒室上の学割り原木など経虎地秦漢墓との類似性

が極めて強い墓である。更に、睡虎地一一貌墓出土の「編年

記」にみえる遂と同名の印を出土した。被葬者は睡虎地被葬者

と同一集園に属していたと考えられる。ただ、墓葬の細部には

相異するところがある。例えば、

墓城壁が睡虎地より傾斜し、

棺室と頭箱、

透箱聞に睡虎地のような扉がない。棺がぴ

ったり

とした箱型になっていることなどである(湖北省博物館・孝

感地区文教局・雲夢豚文化館「湖北雲夢西漢墓褒掘簡報」

『文

物』一九七三年第九期、湖北省博物館

「雲夢大墳頭一統漢墓」

『文物資料叢刊』四、一九八一年)。

胸『雲夢睡虎地秦墓』(註

ω)圃版六

倒註制。なお、この墓葬の概要を述べると、八基が渓掘され、

すべて小型長方形竪穴土繍墓で、二基が木棺墓、六基が一

棺墓。葬法はすべて仰身屈肢。副葬品は陶器が主で、高、盆、

豆、査、憾など。時期は春秩中期から晩期に及ぶ。

制註帥所掲報告。

伺史記・巻五

・秦本紀、腐共公三三年〈前四四四)僚、

「伐義

渠、虜其王〈集解、態勧日、義渠、北地也。正義、括地中山云、

寧、慶二州、

春秋及戟園時篤義渠戎園之地也。どから、問、武

主元年(前一一一

一O)僚、「伐義渠、丹、

胸中」まで屡々その攻防

の記述がみえる。

郡勝志

・巻三・

寧州・

安定豚僚に「扶蘇墓在豚西北十

八塁。

始皇太子也。監蒙情、築長城。」とある。

和郡勝志

・巻=一・淫州・

鐙肇豚僚に「本漢鶏剣勝、鹿北地

郡:::惰開皇三年属淫州、

天賓元年改鋳鐙豪豚」

とある。

秦の

『道』について」

(中園古代史研究曾編

『中園古代史

研究』吉川弘文館、一九六O年)

伺「中園における皇帝権の成立と展開」

〈『思想』六四四、一九

七八年二月)、『秦漢帝園史研究』(未来社、

一九七八年〉第

篇第二章E「秦園の特質」

雲夢秦筒研究』註同

・旬奴列停、正義は括地志を引いて、「烏氏故城在淫州

安定豚東三十塁。周之故地。後入戎。秦恵王取之、置烏氏豚

也」と記す。

巴奈夫一編

『漢代の文物』

(京都大皐人文科皐研究所、

一九

七六年)五、

EH「煮炊用なベかま類」参照。なお、京都大皐

文皐部陳列館に一箇所蔵されている。

理参考舘に一箇所蔵され、「俵形の水室」と命名されてい

る。

制緩、

釜と報告されているが、

篤員、園、説明に基づいて警に

数えたものもある。報告書相互でも、後に警とされた

例があ

る。例えば、前西南博物院・四川省文物管理委員禽

「四川巴豚

冬多国明戟園和漢墓清理繍報」(『考古逼訊』一九五八年第

一期)

で銅維と報告されたものが四川省博物館編『四川船棺葬設掘報

告』

(文物出版社、一九六O年〉では警とされ、朱捷元

・黒光

「侠西省興卒豚念流繁和臨澄蘇武家屯出土古代金餅」

(『文物』

- 29ー

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226

一九六四年第七期〉で銅釜と報告された器が快西省博物館・文

管曾勘査小組「秦都威陽故城遺枇設現的客祉和銅器」(『考古』

一九七四年第

一期)二六頁に銅警と記されている。

表中の年代比定について、宋治民

「略論四川戟図秦墓葬的分

期」(『中園考古皐曾第一次年禽論文集

一九七九』註同)で改

められているものはこれに従った。

伺李皐動「論新都出土的窃園青銅器」(『文物』一九八二年第一

期)四一一良に、警の設鮮地は多分巴萄であろうと述べられてい

る。伺ソヴィエト領エニセイ河上流にある八世紀頃の突際基より婆

と類似性の強い器形をした銀製の器が出土している(の・切・

民国

ngmph』ug話回ミミH

口、R同古包50hHnh広告hpzonR回曲

H申印H

〉。得岡県をみると、卒底であることを除けば警の形にそっ

くりである。一耳である環耳には警の特色である純白絞の名残

りを止める紋がある。北方遊牧民の聞にわずかに流縛されてい

ったらしい。

制多く炊煙痕がある。四川省成都市東北郊西漢墓出土の例では

甑の下の釜として用いられている(『考古遁訊』一九五八年第

二期)。

伺四川省成都市羊子山一七二披秦墓の副葬品には、警と三脚の

織のごとく(鍛三足架〉が含まれている(『考古屋a

報』一九五

六年第四期)。叉、四川省成都市揚子山(『考古、通訊』一九五五

年第六期〉、河南省拍車問開業嶺村(『考古』一九七四年第二期)各

西漢墓、湖南省長沙市沙湖橋(『考古屋a

報』一九五七年第四期)、

江西省南昌市(『考古』一九七八年第三期〉、庚東省庚州市(『廉

州漢墓』文物出版祉、一九八

一年)、庚西壮族自治区全州豚永

(『廃西出土文物』文物出版社、一九七八年〉各東漢墓から

は三脚の鍛のごとくと警類似の餓釜、銅釜とが

一慢で出土して

いる。四川省からは右の羊子山、

揚子山の外にも雲陽豚から

銭製(『文物参考資料』

一九五五年第

一一期)の、

理師腕から陶

製のごとく(鄭徳坤、H,ZωEO寸。ョ『門リロ-Z30同

t'FP

同hqSAME3hHN。h

b包

Sn~rabs〈O戸

由-

H

宮町)が出土

している。

省成都市羊子山一七二披墓

(註伺)、湖南省長沙市沙湖

橋(『考古皐報』一九五七年第四期)、長沙市徐家湾(『文物』

一九六

O年第三期)、庚東省庚州市筆僑新村(『考古皐報』一

五八年第二期)出土。

奈夫氏のお話しに依ると、

テヘランで、やや縦長だが肇

とよく似た陶製の器で嘗地産の固い豆を棒で掲き柔らげている

のを貧見された由である。頚がくびれているので豆が飛び散ら

ず具合のよいようであったとのお話しである。

伺大庭傭「秦の局地経営」(『龍谷史壇』第三三続二九五O年〉

に秦による巴萄占領と開設とが論述されている。

制『四川船棺葬稜掘報告』(註制〉と、その八二頁註2に掲げ

られた馬培業、鍾鳳年、前貯徳坤三氏の論文は秦が巴萄を滅ぼし

たのを前三二九年のこととし、

楊寛

『戟園史』(一九五五年。

一九八

O年)、宇都宮清士口

『漢代社曾経済史研究』(弘文堂、

九五五年)、久村因「秦漢時代の入萄路について(上)」(『東洋

皐報』第三八巻第二続、一九五五年)は史記・

秦本紀、六園年

表、華陽闘志のとうり前一一一一六年のこととする。

- 30ー

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227

帥久村因「古代田川に土着せる漢民族の来歴について」〈『歴史

皐研究』二

O四、一九五七年二月〉には四川への各種の遜徒が

詳しく論じられている。

制戟園策・楚策とほぼ同文。なお、史記・各四四・貌世家に

「伐楚、道渉谷。」(清・張文虎

『校刊史記集解索隠正義札記』

に「各本渉下街山字、索隠本無」とある。〉の記述があり、そ

の索憶に「渉谷是往楚之険路。従秦向楚有南道、渉谷是西道、

河内是東道。」(瀧川亀太郎

『史記曾注考讃』に「河内省作河

外」とある。〉正義に「劉伯荘云、

秦兵向楚有爾道、渉谷是西

道、河外是東道。」とある。

同湖北省博物館「宜昌前坪戦園雨漢墓」(『考古皐報』

一九七六

年第二期〉

伺楚皇城考古田技掘隊「湖北宜城楚皇城戟園秦漢墓」〈『考古』

九八

O年第二期)。河南省祈川勝からも髪、蒜頭登を出土した

秦墓が設掘されている〈漸川豚文管曾「掘削川勝馬川秦墓褒掘簡

報」『中原文物』一九八二年第一期)。やはり、漢江沿いの攻撃

路につながるものであるう。

同史記・俳句四

0・楚世家、霊王一二年僚、集解「限度日、部、

楚別都也。杜預目、裏陽宜城勝。」漢書

・巻二八上・地理士山上・

南郡の僚「宜城、故廊、恵帝三年更名。」

伺「秦の上庸郡について」〈『東方皐』第一一輯、一九五五年)、

「楚・秦の漢中郡に就いて」〈『史皐雑誌』第六五編第九時抗、一

九五六年)

伺警の庚がりを商品流通の面でみる必要はないと考える。秦代

に廉がった差出土地が楚地に限られ、早く巴萄を手中にした秦

からの出土がかえって少ないからである。人の移動の迩を示す

と考えてよかろう。

何秦から巴萄への道については、久村因「秦漢時代の入萄路に

ついて(上・下〉」(『東洋皐報』第三八各第二、

三獄、一

九五

五年)参照。

伺『|天理参考館五

O周年記念|シルクロードの古代文物』

(天理参考館、一九八

O年)の「俵形の水壷(蛋形萱〉」

(註制)

の解説に、獣形を残した皮袋を陶俸にうつしたものとされる江

上波夫氏の設が紹介されている。

秦墓竹節整理小組「雲夢秦筒緯文付」(『文物』

一九七六

年第六期〉、陸虎地秦墓竹筒整理小組『懸虎地秦墓竹筒』(文

物出版社、一九七七年。問、

一九七八年)、町田三郎「雲夢秦

飽『編年記』

について」(『中園皐禽報』第二二容、一九七九年)

の緯文参照。

『腫虎地秦墓竹筒』(一九七八年)一頁。なお、古賀登氏は

同一人物の手になるとされ(「雲夢陸虎地莱喜墓の秦律等法律

文書副葬事情をめぐって」『史観』第一

OO冊、

一九七九年)、

江村治樹氏は少なくとも三人の手になるとされる(「戦園・秦

漢簡願文字の襲遷」『東方謬報』

京都第五三冊、一九八

一年三

一部分は横査が卒行に整い、微妙な波勢がある。字の大き

さもすべて整っている。第二部分にはそれらが全く認められな

い。第一部分と第二部分では年字の字健が大きく異なる。

『雲夢秦鱒初探』(河南人民出版社、一九七九年〉一四

頁。

伺古賀登氏の註制所掲論文四七頁、

- 31-

『漢長安城と肝陪

・豚郷亭

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228

皇制度』(雄山閣、一九八

O年〉五三九頁。馬薙「讃雲夢秦簡

〈凸繍年記》省後」(註

ω)二八頁。

脚註倒所掲各論文。

紛『睡虎地秦基竹筒』(一九七八年)九頁註M

個別馬潅氏註

ω所掲論文は、樹、薬が用いられるべきとする。

制誰は稼名に縁って推、推捧と注律されている(『腫虎地秦墓

竹筒』一九七七年。一九七八年〉。

国間『光明日報』一九七六年四月六日附掲載の雲夢秦簡整理小組

「雲夢秦簡部分間押文」は「攻廓0・」、問、四月二二日附の隣酒

「雲夢秦簡《大事記》簡述」は

「二十八年攻部」、『陸虎地秦墓

竹筒』(一九七七年。一九七八年〉註穣はつ攻。下一字左中宇不

清、疑策。田耕ク」と記す。

M

開『江漢論壇』一九八一年第五期

的註同参照。

制註川判。郭徳維「江陵楚墓論述」(『考古皐報』一九八二年第二

期)には、この外に、江陵雨護山五五四披墓、江陵李家肇四放

基に門が設けられていると述べられているが、刑州博物館「江

陵雨釜山楚墓褒掘筒報」(『考古』一九八

O年第五期〉にはその

黙の報告はなく、掲げられた五五四競墓の圏にもそれが認めら

れない。

倒書き出しに、南郡守騰が(始白星)二

O年四月二日、豚道沓夫

に布告するとある。

今漣律令己具失而吏民莫用郷俗淫失之民不止L

・・・故騰篤是

而峠附漉律令田令及策関私方而下之L

令吏明布・::L

今漉律令己

布関吏民犯漉策関私者不止L

私好L

郷俗之心不興L

自従令丞以

下智而弗翠論L

是即明遊主之明漉殴L

而養匿邪遊之民L

賀氏は、秦の豚が禁苑、豚倉を掌管することによって耕戟

位制の皐位となっていたとされ

(註帥所掲著書、第E章第六節

「商映の豚制と豚の役割」)、工藤氏は、燃は更に内史の統制帽下

で園家の財貨の相首部分も儲蓄していたとされる(「秦の内史

|主として睡虎地秦墓竹簡による

」『史祭雑誌』第九O編第

三械、一九八

一年〉。

重雄『秦漢政治制度の研究』(日本率術振興舎、一九六

二年)第一篇第二章「秦郡官制」は郡制が軍事的必要から生ま

れたことを論じられ、佐藤武敏

『中園古代工業史の研究』

(古

川弘文館、一九六二年)第五章「中園古代の青銅工業」三、

3

「秦園」は、没郡においても青銅器の製作が行われたこと、角

谷定俊「秦における青銅工業の一考窓

T工官を中心に|」(『駿

蜜史夙干』第五五放、一九八二年)は、工官が中央では内史、地

方では郡守に属したことを論じられている。

伺例えば、史記・巻八・

高祖本紀に「滞令:::乃閉城城守」

ある。

制史記・巻八九

・張耳陳徐列俸に「方二千里莫不響際:::豚殺

其令丞、郡殺其守尉。」とある。

同開註倒。この墓の年代比定については、「池田論文」六六頁補

註2に、秦墓であった可能性が大きいと述べられている。

しか

し、池田氏が賞論文執筆時には見ることができなか

ったと思わ

れる『文物資料叢刊』四所掲の報告

(註伺)に、より詳細な線

接で漢初墓とされているのでこれに従ってよいと考える。

なお

蛇足を一つ加えさせて裁くと、大墳頭

一誠墓出土の銅警は陸虎

- 32ー

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地出土のものより一時期下げた方がよいと考えられる。表3の

警の資料中、計測値、闘の掲示のあるものに錬って、腹径を器

官向で割った値を集計してみたのが表6である。この値には、戟

園剣一

・0、秦代

一-て西漢代一・

二という大まかな流れが

認められる。四川浩陵地区出土のものは秦代としては値が大き

いが、この髪は卒底であるので比較にならない。陸虎地出土筆

秦統一前 睡 M10 1.04

11 11 グ M7 1. 03

1/ /1 11 11 1. 09

グ後 グ M9 1. 04

1/ 11 11 Mll 1.15

11 11 11 M14 1.13

西漢初 11 M39 1.12

|西漢初 |大墳頭M111μ |

の値が一

・O、

一・一であるのに射し、大墳頭

一統墓のは一

二である。警の腹径

・高比の漸増は器形が縦長から腹の張った

安定した形へ移行したことを示している。これは移動性から定

着性への時代趨勢を表わしているようである。

伺「東洋における素朴主義の民族と文明主義の祉倉」(宮崎市

定『アジア史論考』

上巻、朝日新聞社、

一九七六年〉三五頁

- 33ー

時期 | 出土地 |腕/高

戦園早 四川成都 0.96

11 11 11 11 1.02

グ早中 。新都 0.93

11 11 " 11 1. 03

グ中晩 か青川 1. 06

グ晩 グ巴豚 1. 07

1/ 11 侠西鳳朔 1. 07

秦 11 11 1.21

11 グ臨遁 1.14

11 河南泌陽 1.13

11 11 11 1.22

11 四川浩陵 1. 25

西漢初 グ巴勝 1.03

11 /1 庚東庚,H 0.90

11 11 " 11 1. 00

1/ 11 11 11 1. 21

庁前 11 11 1. 31

11 11 11 11 1. 34

11 /1 快西漢中 0.97

11 11 湖北宜昌 1.21

グ中 険西勉豚 1.17

/1 11 雲南青寧 1. 23

西漢 湖北長沙 1. 25

西漢後 四川巴豚 1.15

。 11 庚西卒築 1.16

// 11 湖南長沙 1. 22

グ晩 雲南江川 1. 28

11 11 四川西昌 1. 29

11 11 庚西合浦 1. 35

東漢初 貴州威寧 1. 06

11 目リ 湖北宜畠 1. 22

11 11 庚西卒祭 1.15

東漢 雲南昭遁 1. 27

委腹径高比表6

229

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THE ORIGINS OF THE DEAD BURIED IN THE QIN HAN

 

TOMBS AT SHUIHUDI, YUNMENG COUNTY雲夢睡虎地

Mase Kazuyoshi

  

The excavation of the Qin Han tombs in Shuihudi, Yunmeng County,

Hubei Province and the discovery of the Qinlu 秦律has opened a new

vista in the understanding of China's ancient history. Although many

monographs have been published up until today, it was since last year that

the new studies appeared, concluding that the dead buried were men of

Qin. Clarification, as much as it is possible, of the origins of the dead

can benefit research hereafter. Therefore, I shall present several points

regarding these burials which have been investigated.

  

According to the study of the 日eχed burial in tomb number eleven,

the owner of the tomb could not have been a man of Chu 楚. It was

also clear that the d佃g鼎unearthed from several of the tombs, after

having been eχamined individually, could not have been the funerary

objects of a !・nan of Chu. Thus, judging frOΓΥ1such things as the Qin-style

of the funerary objects and the eχcavated j加7ぱμ簡m, the dead buried

there were probably men of Qin・

  

However, split logs were set up on top of all the outer coffins in

these tombs. And in several of the tombs, a skull of cow or horse had

also been laid down. According to a studj' of this unique style of burial

and its custom, the ancestral tribe of the dead buried there could not have

been purely Qin. Tt is guessed that they had belonged to one of the

various tribes under the leadership of the Qin.

  

Furthermore, in addition to the head and side boxes filled with

abundant funerary objects, there were wall niches dug out to hold ceramic

containers used in daily life. Concerning such an unusual design, f0110-

wing a study of the Warring States tombs found in Banpo 牛波in the

city of Xi'an 西安, it is suggested that this tribe was forcibly moved from

their

 

native

 

land

 

into

 

the central region of the Qin. Following an

investigation of both several of the funerary objects, including the exca-

vation of rnou黎(a Kind of cooking pot) which had been developed in

                   

-1-

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Bashu巴蜀(Sichuan Province), and the literary documents, including the

“Chronicle ”,it is supposed that after entering Bashu, this tribe,going

along the Han River 漢江, arrived at Yunmeng in Chu.

   

Finally, the author has investigated the points at which this emigrant

Qin tribe had assimilated itself to the culture of native Chu peoples.

THE ENHANCED CONTROL OF THE JUNSHOU郡守

AND GUOXIi國相DURING THE FORMER HAN

Kamiya Masakazu

   

Before Jingdi's 景帝reign period, the Junsh。u and guoxiang held

little power as administrative offices within the local government. After

Wudi's武帝reign period, their control had increased. In addition to the

concerns which they had managed previously, they largely absorbed the

functions of the xian K. In doing so, they increased the duties of that

o伍ce

 

and moreover formed a highly coordinated association with the

organizations of officials below the xian level.

   

This was not an institutional revolution that could have occurred at

any time. During the political transition after Wudi's reign, small institu-

tional changes and operational reforms had occurred cumulatively one by

one.

 

Figuring in the background of how the duties of the show and

xiang increased was the beginning during χVudi's reign of a strict and

careful scrutiny of tχ,e sJiangj極秘上計簿. In answer to this, the sJiouand

xianshad grasped the actual affairs of the xian with accuracy. And

moreover had begun to exert an effort to improve even slightly the con-

tents of the 功“″がφ“・The following figures in the background behind

the formation of a highly coordinated association with the organizations

of officials below theぶian level. During Wudi'sreign, the relations

between the shou-エtangand the officials below the xian level had had

to

 

beco°e close because if an officer did not recommend Qchaju)the

ヽr必θ孝or Z必刀廉he ゛as severely punished.

   

Let us study one aspect of the means wherebythe Sho麗andxiaiig

strengthened their control from the perspective of theirparticipation in

                   

-2-