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Title 艾儒略の職方外記に就いて
Author(s) 鮎澤, 信太郞
Citation 地球 (1935), 23(5): 344-356
Issue Date 1935-05-01
URL http://hdl.handle.net/2433/184422
Right
Type Departmental Bulletin Paper
Textversion publisher
Kyoto University
妨
二十三谷
餅五班
高
相
二gI
鮎
樺
信
太
郎
文儒略の職方外紀に就
いて
日日
吹
は
し
が
幸
二、職方外紀の由雄
凹'氷沖地理嚇史上の職方外紐
--こ ヽ
i,li'職 -父
方1'.li
外
詔 紀 略
明菜弼初多-の耶蘇愈士が支郷は凍て耶蘇数を弘布する手段として泰西の諸科学を紹介した乙と
は有名夜軍資である。
こJに注意する文儒略も亦その
一人として殊に重要な人物であわ'をの洪鐸した職方外紀は常時
の東洋に初めて崩介された世界地坪番として貴重をものであ-'且つ支那及び日本の地理豪の間に
求-用ゐられてその地排撃史上は及ぼした影響は決して少-は覆
い。
乃ち以下東洋地5.撃史の
1部として文氏の略歴及びその著す職方外紀に就いて記して見皮
レo
デュ
-オ・ア
レニ
(At6ni一Jutes)か.1挟学名になほしで文儒略(A
i
Ju
tiao)
と云ふ。彼は西紀
山五八二
年伊太利の北部プレシア(Brecia)は仕れ、十八歳の時に耶蘇骨
へ入った。そして丁度北京で利喝饗
(7)
が他罪した
一六
一〇年(常廊三
十八年
)は支郷
へ到着した。
換門に水着した文民は此産で数撃の教師を勤め、後上海
・揚州等を巡遊し、史に駅西及び山村に
布致し、
一六二〇年には杭州は車じ常熟に移み、数週間の中に二首二十人に洗越を施した。
一六二三年
(天啓三年)には嘉宗の命にょ-銃抱製造の烏に僚友畢方酒(FranciscusSambiaso)と
(二)
共に北京
へ迎えられたOrJの年八月にrJゝほ注意する職方外紀が執筆
rbれてゐる.
其後
一六二五年に両州に到-、非常を成功を牧めたが偶々他派の者の不誠燐に依って引起nれカ
事件に連累を被
少'一六三八年には同僚宣教師等と共に換門に流
され多-の耶蘇数徒等は迫審
nれ、
をの敦骨は異教徒に没収nれる朗となった。けれども叉其の翌年(〓ハ三九年)には復活し三相州に
蹄
へることが出凍ね。以後彼は
一六四
1年から
1六四八年まで南支那数匠の副監督を勤め、
一六匹
(≡)
九年八月三日六十八歳を以て異郷の量に他界した。
かくして在支三十九年間、彼は光雄利鞘黛
の人格を基い
'その祁数の手段を尊び'洗文を髄-し
(凹)
職方外紀其他漢文による多-の著述を遺しね
0
(〟)文氏が氷生した非に就してはHenriCol・dierの:i.Impr
imerieSino
・EuropeenneenChineこに械って]六二二叫
とするものがあ-
・芸
は・:・D「諾
始僻二三-
墨
芸
晶
析笠
諺
耶庇等。搾油裳
.両警
葦
笑
。然緋不及
t.Ah5%。L(文揃怖常r.大田紺躯利光血行軌L)と云ひ'刑鴫FSの扱叫は1六一〇叫であるか
ら一六iO年が正しいO
(二)「窟
三叫。蒜
略芳
品
眼仙慧
-
聴川。J(-
奉警
巴
とあり。
(≡)此の功は多-Couling‥TheEncyctopaediaSinicaP・1)に織る。
文
併略の織方外紐に就いて
三四現
二五
..
l
上t.
--
T.▲r′一l
き一r′■-~
、
ー
〓
-1
--
J・--
-
I-
h-
D
-・一1-1・.-・-■-
・-i
---
-
-
旨
ILEF・・菅bLEJLnー-~uL
地
球
節二十三谷
弟五班
三男
二六
(四)文様略の法文著述には、天主仲冬
言行紅略、天主降出引・#
li怨、納経祭敬二谷'淋非止規田巻、鵜物直流
一解'
三山諭単
記
一怨'四串凡
一潜、性述節
一怨、軌単純越、職方外紀五容、蛸方谷阿'推何嬰法四谷、九月、敬相和縦桁'艶破船文、川俊雄仰
)谷、刺粘慣行略
tI怨、似非別行略
一懸ta;納ま正雄桝蒋'瀬棚克也蹴
1塔、晦非堤旨
1容'五十音飴
1巷、聖教四半鯉文
一
谷tH鐸日抄、叫爪へ榊離'泊脱輪粥四番串がある。(徐続他者
「蜘米綿勅批輪西供之仲人」六十七・六十八東参照)
二
職方外紀は同番に載せた基向高の序の終-ほ
「此審刻千渦中聞入多有索者政文君蚕梓之金属藩其
魂如此」とある朗から見ると、我々が今見る天秤三年間版のものよ-以前に研江方面で刻rbれねも
〓)
のかと想はれる。け41ども天啓三年本の文氏自序にはそれに就
5,で
三日もざれてゐ覆
いので乙
-
Jで
は渦中ほて刻したものに耽
5,ては別に論及することが出水をいO
天啓三年に出版nれね職方外紀の由魂に就
5'で四座金審継目提要には
「自序謂利氏新進苗圃闘志
瀧氏奉命御謬儒略史増補以成之蓋国利喝貴腐辿我懲本潤色之不義儒略自作也」とあ-1'即ち利鞘賓
が
一六
〇l年北京
へ入った時献じた常問同誌を属地我が命を奉じ
て御謬し、之を史に文民が増補し
て織方外紀が出水たことは在ってゐるが、此の舘は職方外紀の文氏自序や外紀に附錬された厩辿我
の奏疏
・李之藻の序文等ほ填ると琴bくは間違Sであるらしい.
外紀は載せた李之藻の序文に大略次のやう夜乙とが記るnれてゐる。
即ち孝之藻が
「常勝辛丑に北京に凍た利鞘資の居を訪ねるとその壁間に大地全国が掛ってゐね。
之に就
いて利氏が解詮をして-れねが中間人の及ぼざる所が多-且つその群論は正確であるので蓬
ほ此の地糊を.辞して菌囲閲頻凪としわ。其後久し-縁ってから之を天子(常磨帝)に見せた者があっ
て、天子は駈け此の印刷を要求した。然し共時は既にその版木が南方
へ持ち去られてゐおので人々
ハこ)
は糊刻して求めに臆じね0
愈々叉閏の役人が拝聴から柑た欧羅巴文字の地聞二幅を献じた。此時利鞘韓は比に世を去ってわ
たので
r皮北京に居合せた腐蝕我と熊三枚の二女が命を奉じて澗輝し、之に琴言を附して献じた。」
と
、この考古が職方外紀に幽錬された葵統計二木であらう。
此時の祁楠に耽
いては属地我の奏比に大略次の様をことが記るされてゐる。
「常僻四十年(〓ハ二
一年)九月二円に宥時刻近侍厩戊等が世邪地図二属がJ持参した。企
(腐姐雅)
は同伴の熊三枚と北ハに乙の地図を看るLJ之は大酉洋で刻する桝の蘭問登園の原版で元四崩の中の二
崩である。従って完本ではな
い。若し飲命を裟ひるなら敏を補って完本となし、悉-中間文字に詳
しで御既の健に伏し庇
い。又仰詳し-は寓閉園誌
一肝がある。其藩は先年我等が献上して混
いねも
のである。但し此れも亦皆西岡文字で覧るほ不便であるO
若し命を解るなら此れも原書の費下を蒲ふて中開文字に詳しで空豊に伏したい。」とあ-0
此の第
一の奏鵬が初め提出rTJれ、更は第二の奏班には
「同月五日は厩成等は御茶房伸子魂尊顔に
御前から諦化して某ったLnS展風二顔を持って凍て翻評を依朗した。乃ち我等は此間に触-る中開聞
及西南方図同二崩を補以中岡文字に仰詳し、北ハほ四扇となした。而して間中の藩葛の明瞭を牧-の
む恐れて各問の政敵風俗土産之類に闘する記事を別に
左脳と覆し.V御覧に便する。
文相略
の織方外紀
に就
いて
三四七
二七
地
球
鮮二十三各
節五雛
三只
二八
乙Jは識
んで四則を作ら、登下された原犀風二崩と併せて上進する。然し此れだけでは未だ寓問
の情勢を通察するには完壁を期し難
い。その馬には則ち先年貿献した寓麟同誌
一冊がある.此の藩
の記述する所は棄詳素価、此際御謬して
一審を食み度
いが我等に今、別は副本が無
い.備ほ豊意、
詳櫛をのどまれるなら先年貢献の原審の敬下を願以度
い。
次にこ.J
に我等の製造した象牙の時刻易二見がある。皇上の日常生活の
一助ともしたい。
乃ち今.
原尿凪二局に併せて新静間敵四軸時刻屠二見を種量する.」
と云ふ意味のrJとが記るされ
、・.Jむる。
此等の記事はよると此時四塵紙日提要の云ふ如-利喝貨の衝進した常簡閲誌
山冊は未だ瀧辿我等
に澗評
ruれではゐな
い。
御謬
ruれたのは孝之藻の謂ふ閲の役人が洋船から得た蘭岡地源金岡に外在
らな
い。賓際職方外紀の文民自序にも
「吾友利氏筋進乾固問詰巳而著友瀧氏又春播静間刻地図之命
櫨期間見滞葛岡龍以献郵人士多粟遺之者但未鹿刻本以俸~中略-誠不.S,rj其久所感滅也偶密箇得親所
遺暫義乃吏筋取囲凍所拙手晒方城梗概馬堀補以成
一銅名職方外配」とあって別に欝囲同誌を澗謬し
たとは在ってゐな
い。
即ち文氏の著す職方外配は属地我
。熊三枚等が歯厚四十年に澗鐸した酉刻の歯研地海食閲の曹稿
を文氏が程で其の煙波を惜み史に閣魂の地掛啓や自らの開見にょ-塘補して
.i編としたものであ
る
0獅此音の編纂にあたっ
て洪園揚伸盤があづかつて屠-1而して申開附近の地州を載せずもと中岡
-
11--1-
-ー1,1・-\1-,!・・-
一1-・1--
と通ぜざる桝を記しLJので職方外貌と
名づけたことが
孝之藻の序文に7>・其氏の自序にも
見えてみ
る0次
は我々は職方外紀の原本即ち属地我等が欄課した簡閲地海金岡に就て考
へて見る必要があるの
だが、現在の筆者の管見を以
てしては次の如
き事賓を畢げ
で識者の御示数を仰ぐに飴儀無
いのであ
る0第
一に職方外紀は載せた歯開塾間は利喝環の坤輿苗問金閣と同
一形式のもので'亜細亜洲を中央
にした楠樹形図であって'金-利氏世都岡とよ-似てゐる。両も別は第五怨には利氏世界園の欄外
に記載ruれねものと同様の南北牛球園や日月蝕間がある。然し必ずしも利氏世静岡と全然
一致する
ものではをくその南方大洲墨克峨泥加の如きは利氏世界岡のそれと興って
.L五七
一年のオγ
7-ラ
スの世堺閲と殆ど等し
い。叉、各洲分間の方には船舶
・怪獣等の相姦もある。
姉二は其の内容は利喝貨の坤輿苗圃金岡のものと黄み、
後の南懐仁
(VerbieSt,Ferdinand)の坤
(三)
輿金岡の証記及び坤輿外舵の文費と大憶同文である。商懐仁ほは右の外に坤輿間訟二
怨
の
薯がある
が、今、聾者はrJれを見るFJとが出凍な
い。然し坤輿外配は坤輿間舘の抄本であわ、叉四塵紙日や
ワ・Tリの漢籍解題(WyTie.Atexander;NotesonChineseLiteratureP.・58.59)の坤輿図説の解説等
ほ依れば之も亦文氏の職方外配と殆ど同
.iの文輩であるrJとが推察ruれる。従って属性仁の諸藩が
文氏の職方外紀から出た79のでな-'他の原本から鐸出されたものとすれば職方外紀と右に畢げね
両便仁の諸藩の原本は同
一のものと兄られるかと思ふ。
文伐略の織方外紀に就
いて
三脚九
二九
地
球
第二十三各
節五味
蓋
〇
三〇
(1)榔仁大挙深啓第
一姉'中野
父劫火利酒iliの文氏略僻にも「明満願四十
一年ノ
発卦
ノ
室。先入都門O徐文定公迎蹄上舷′
樽行析
江ノ出食袈数O沸州閥耐肘税迎入関。附中林鋸酉非孔子。」(飾二冊讐
≡
汀)云々とある所から見ても桝江方肘;fJ丈氏は柑常
析湖したものと瓜える。
(二)「粥肝串孔'利氏氷水、余杜寮次数耶弘之、井蛙EE懸和犬地金脚'-中略
-食伐法洲験、
良然'
概略庶人=;=]ガ分迎炎術佃
疎'達岱課以難文'刻悠端緒間断凪、併久之'有的豊御児番、旋奉宜車、川
井版巳枕河南'申米人、聯劉以艇tL
(李之詳述職
力外紀序)とあり'利鶴来が故郷
(報じた手紀にも旦
乙てみることが炎碑のパッドレ-氏によって班忠されたが
、
之は利氏耽
淋囲刊行の次餅を研究するにSL..嬰な漆料であると点ふ。(TheGeOgraPhical
Journal
Oct.)9(7.P.207参照)
(≡)帝位仁の坤料剛舵二怨の抄本である叫興外紬の文辞を叫
舶余聞の駄記と比枚して見ると'坤
興外
紐
の
文の方が余丈であっ
て、坤輿金側
のガは途中
を
省略した伊があるO従て'南棟仁の坤糾問誰は利巧袋
の坤典満的教則
の耽紀を摘出して坤糾全問祝
とした剛体と射って、地脚と阿殻は別々に原本から諏川されたものである〇
三
乙の輩では守山閑話審史部に入れられたものを史に亀朝棒属輿地叢番の採る桝の職方外紀に櫨
る。我問に停はる職方外紀の寓本には大抵文氏の友人であっt'薬向高
・李之藻
・楊延強
・鵜式敷
・
許常駐等の序文と文氏の自序並に奏統計二本が巻頭についてゐる。今様る所のものは叢藩に入って
ゐる馬に文氏の自序と凹雄各藩提要の職方外紀勅題を載せtJ他は金-省略してゐる。
〓)
本音は正念からなり'最初に職方外紀首として五大洲絶間界度榊と云ふのがあ-、次に寓図金岡
と亜知恵洲同とがある。
其の次が忠
一と在って並細亜総説があ-、続
いて糠雨鞄
・鋤泥
・呂宋
・馬蹄iiI・地中梅譜鳥
・印
弟並
・英臥爾
・.FCI爾J.杓誰
・度爾林
・如穂.F・.q鮒鮒紺相投
絵
柵棚珊
鮒以・聖
は蘭似肌僻・蘇門答刺
三
笠
'M
書
L■rI111111▲■-I.JIi
.
ー・1I111Ju叩一
述部・瓜唖の順は記述し、更に叉鋤泥
・呂宋
・馬路古
・地中海諸島の記事が
出てゐるが之は金-同
1の文句であるから印刷の問迅以であらう。
以上で怨
1.を終夕食二は
又巷
一と同じ-忠勤に簡閲
金剛の欧羅
i]だけを精々横大した地間を附し'欧羅巴紙数を替
き出しとしてゐる。之は粕皆に詳し
い79ので欧雅巴の風俗習慣
・票数
・法制
・物産等々に亘って述べられてゐる。各詮に於いては以西
把尼亜
・抑郎察
・意大群並
・亜勘喝尼亜
・法蘭符斯
・放尿尼亜
・翁加里
・大泥亜諸図
・厄助祭亜
・
地中准諸島
・西北泥諸島の頃日を設けて巷二を終-、馨三の利未丑
(アフリカ)にうつるのである
が以下食
一・二の健我に従って利未亜地闘
・利米塩鯉訟
・陀入多
・馬遜可
・弗沙
・丑非利加
・奴米
弟並
・亜毘心域
・馬車莫大巴
・蘭爾程
・工郡
・井巴
二浦島
・望多数島
・潜動納島
・空老携佐島の順
に記し、巻四は並茎利加地岡
・亜蓑利加線紋'次に前並墨利加と北亜塾利加に分けて'前者の中に
李露
・伯博爾
・懲
加
・金加西轍
・後者の中に蓋是可
・稚拙
・新緋郎察
・按革老
・盤地
・寄末岨
・新
亜此俺
・加里伏爾泥亜
・西北譜撃方
・亜董利加諸島の記述がある。そしてrJの巻四には巻末に鼻元
岨尼加線紋が附粧しtrJの記述の終わに
「其人物風土山川高屋典夫鳥獣虎魚供無停訟即南棟度数道
里遠幾何菅推歩兼用不渡越後或有詳之者」とある過少、遜克蝦尼加は就
いては線訟以外には地問も
各地の記述も仝-覆
い。
巷五は最初に豊夜中線ht以て地球を南北に分つね北輿地闘
・南輿地閲を描き
雨間の間に月蝕岡と
日蝕間がある。次に四海組訟
・海名
・梅島
・海族
・海産
・海状
・源舶
・海道の頃日がある。
凹据紙故に於いては凶行
(火菊水土)の組織形状に依って水陸の別があか、その中水の形状に依
文
磁略
の峨ガ
外紀に就いて
三空
三一
地
球
肪二王
二番
筋
滋批
董
T
三二
って又
、
谷
・川
・湖
・梅の別あるrJとを述べ、海名の頃に於
いては愈報の寓閥全問中に見られる渥
名が列嚢
されて居か、梅島の項には=本79初めて乙,の名を現はLt有機等ほ至るまで記るされ、源
族の頃に於
いては魚類に就
い
て記し、海産の頃には奥珠
・珊瑚
・枕拍
・飽塊等ほ就
いt.J記し'泥状
の項は於いて海の探浅
・波の高低
・季節風のこと、潮流のrJと等を記し、拒朗の煤けては航路に就
いて述べてゐる。
金鰹を通じて注意
される乙とはやは-著者の社食的立場からして歯然の乙とであらうが天主教に
就5'で相普許し-論述rbれ
てゐるrJとであるO
巾図人のまだ知らな
い遠方の珍奇を風俗習慣
・土産等ほ就いて述べ'之は興味を感じて諌
U人々
に自ら天主教を宜倖する用意を怠らなかった所にrJの番の特徴がある。
職方外紀は利氏他界間と異って名柄の物語る如-支郷及びその朝貢の諮問'日本等は述べてゐ覆
い。且つ記述が利氏世界問よみ詳細は在ってゐるので地同の中には詳記が老
い.
地園と
説明が分難しカrJとや叉天文撃
・宇宙論等の記述を除
いて純地誌としての鰭我を盤
へたrJ
とは利氏世界問から地排番として長足の進歩ををしわものと云へる。
(1.)蛾研軒略肝譜円
(文明抑流設沓妨三)には
「織方外紀六容J
'とあり'仰餓固着仰排液
の織方外紐銘木は巷之四の末尾に加
(られた孤瓦賦泥加が怨五となってゐる。
絶って大谷となるの
である。
今'文氏が大伴三年に出版した岬五塔になってゐた
か'叉は六容になってゐたか原本を称ることが山水な
い限り知ることが川水な
い。私は守山脚維晋に信組してこゝには五怨本
に始
ったのである。
これは然しいづれにしても内容に追ひはないのであるから大した関越ではな
い。
‡
∫Itll
--i
匹
明史蕃三二六列倖二百
一十四の意大里並の修は欧尿巴の乙とを述べで
「其例言風俗物産多寄且有
職方外配諸藩在不具蓮」とあるによって支那人にrJの職方外紀が如何に外問のことを知る魚の参考
藩として韮要夜ものであっカかを知る乙とが出凍る。
支郷では利慧
兜の作つや世界園やこの職方外紀に依って地球の概形を数
へられ'清朝に在ってか
らも久し-唯
一のせ外地班藩として参考せられた。
(こ
鮪勝正誰がその蛾研酢噛軒番目にr明人相工職方外記‥始知1有二
五界苗圃‥其訟狩属二草創[其後二宵飴
年以筆今旦
購入改元
界
猟疎外記TJ云々(山村昌永晒西洋雅紀邪説)と述べたのは革質であ-、職方
外記が近世支郷世界地相牽史上に如何に重要を位置を占めるものであるかむ物語ったものである。
我問に於いては寛永七年午年の禁藩の中に此の職方外紀も加
へられ其後は公には読むことを祭ぜ
られカ。然し、職方外紀は全部ではな
いが'やがて賛永五年(一七〇八)に至って洗文から日本文は
姿を慶
へて禁を逃れ'我図世堺地排撃史上に確拘光る地盤を築-。即ち、長崎
・四川求林藤の埠補
弾奏通商考の中、食之玉がそれである。西川如且の華夷通商考は始め元撤八年(1六九五)に刊行rJ
れカが、之は増補華夷通商考の作例に
「前審二仰詐人ノ枠
工命ゼシ串ヲ不レ知、予州稿
ニシテ他ノ為
二所.添削丁避テ差謬多ク'叉極寒魚魯ノ韻不1少'今藩林ノ求
工依テ'予ガ定
本ヲ出シテ是ヲ改正シ、
其不足
感ヲ槍益シ'且加フル
ニ園婁ヲ以T(
都テ五仰、最前啓
二勝
レル革造ナリ」とあるに依って
文
様略
の
粍
方
外紀
に
就
い
て
三
塁
11三
地
球
鰐二十三各
第五淡
豊
は
三田
見ると其の刊行に就
いては著者問川如児の踊知せざる朋であったpJとは在ってゐる。が如兄は恐ら
-前の二相本の刊行も自ら為したものかと恩はれる。即ち彼は其復職方外配を以をかほ手に入れ、
之を閥するに既に自分の出した華夷通商考二廿本が此藩は此して飲みは不備をので之を偽作
に事よ
せ.新は和光職方外配を御謬して前本を槍補したものであらう。
前本に増補した朋は殆ど職方外紀の剰帯に轟きでゐる所から見
ても5'よ-
3う考
へられる。然
し潜時職方外配は勿論祭事の
1つである。従って如兄は職方外観は就て
三日もしてゐ覆
い。俳も職
方外配の文輩を所に依つヱ別後させた8㌧蔑分捕ったみして'祭を犯してゐるfJとは乗付れ老
いや
(二)
うに加工を施してゐ
る
。
西川如鬼の華夷通商考は新井白石の西洋紀聞や来歴琴
言
よ-も早-刊行され我問の世界地相番の
板としては情夫とruれるものであら'叉相歯に戯-蔑まれ、後々まで期の方面は多-の影響を及ぼ
(.:;.)
してゐる.此の番の所謂新知識とは賓に文儒略の職方外配の記事は他在らな
い
.
か-して、改めで職方外配輸入の祭を解-までもな
いのであるが'世の進運は仲以世界の情勢を
(川)
知る必妻も亜じたのであらう。享保十六丑年には此藩の輸入が許された
。
其後に至っては療勝正誹
が前掲車中は文儒略噛評の職方外紀と南懐仁の著す坤輿外紀
一巻を解散して
「右二部明米所i
撰、明
活人改元
大洲‥本輝元脊「世多有レ
之、故不承.蚕種蓮TJと
述べてゐる如-此番は世に多-あって世
人周知のもの故正誹むしで別に群蓮
の必要h
t韻
めrbせなかった裸である.叉山村昌永もその輪帯釆
(pr;)
焦異言の参考薄日撲藩の部に職方外配を革げ
、
同番巾に79外配の説を引用櫓評する所が多-1叉配
ほ近-は幕末の志士渡速粥山の偵概論の中にも
「政雄泥並は、職方外配
・坤輿間数譜音は見えたる
囲ほて」(大日本思想令基
一三ノ三三∩東
)云々など.Jあるのを見ても亦現在多-の寄木が散在して
ゐる所か
ら推しでも江月時代我糊に弘-流布したものであることが分る。と同時に普時の地坪家は
及ぼした影響も直接
。間接は甚大なるものJある,Jとを憩ふことが糾兼やう。
二.)楓諜刊行S=
版
「文例抑批准舗節三」に入れられたものに煉る。
(二)
一例を塀げ
れば'
「小人閥'ホトリヤ閥ノ北ノ縦・.Lgこアリト
云
'人ノ堕
六
計り、舜尉官
'rt加…ク、胡女見分ガタシ'土地距多
シ'人件純
二軍
ア
相,或
ハ枇ノ如キノ鹿北ハ人ヲ食事ア-、
故
二小人骨
工此鳥・1利職
フ'栄鵬山野
こテ此鳥ノ卵ヲ且
レパ、州破レ之テ共種知ヲ稚
サントス,l滋」(榊祁聯如油紙考程l<)
1文例北油紙和
小
人些杓不二尺出府和知胡女舶…抑跨粒何行鵬ぶ常之小人松射勝利織戎溺破非卯又以絶抑剃」.盃,々藤
廿外紀撃
1)
「叉大魚身ノ長二三十丈'銚
TE大ナル穴ニッアリ、此穴
ヨリ水
ヲ旺川スIT河ノ如ク弧
シ'大杵ヲ惟
ル大船二
過トキハ、
別井甘
ヲ粉テ水ヲ船中
,r旺入、斬呼
二水油テ船沈没
ス'此政
,f船此魚
.L池フトキハ'刑ヲ槻
IT入テ粘_-1こ投入レバ赴ヲ亦テ去
レ-、
仙蛸キ鹿
こ:E=3ヒ到ル和布トキ'人血ヲ殺
シテ帥
ヲ煎ズルト云」(榊祁
粥如池内考港北)
「魚之放
-宅地仙:==j身長数十丈甘和
二
大孔噴水上川勢黙懸河布過梅舶別掲甘純水舶中仰刻水満舶経過之希求以盛榊純水親授之
辿群数駁川棚廿的逝柁鹿柑之黙約III吋数千斤」云々
(職ガ外紀谷瓦)
(喜
藤目元亦北蝕は鉄工
粥如地所考に就て
「その紀する桝は立として利瑞顎の閉殻に杜ふ伊が多
い。」(
藤川北淡苛目本地州蜘
史三二四1.・=)とされてゐるが、之は
「虫として父儒略
の職方外紀に絶
ったものLと訂正きるべきかと
1-・心
はれる。
(囲)職ガ外記孝保十六#舛柑折押紙純血桝職ガ地榊之内に村レ之桝公準
面
付蔽
(近搬北郷余技節二三
着
十八試)とある。
完.):_利〓日永はーttL、職
ガ外紬とは記さず、私の見る仰のものはいづれも文氏'拭陶附龍と記してみる。秋川し井の内容は他方
叶紀と少しも舛
つてゐな
い。
以上で職方外配の調査を終るが'此の藩は我閥でも正月時代の地排撃史の諸問題が政はれる際に
父帖略
の兜ガ
外紀
に就
いて
志
筑
三太
地
域
節二十三番
沸立雛
毒
ハ
三六
その名はしばしば見えてゐるのであるが未だ耽-立て!述べられたものは無
い。
しかも筆者の浅撃非才は
一暦論述を諏難をものは終らしめた。
殊は外配の原本
(最初の)薗岡地聞け北では某を推考する虜に何等かの手が
Jむに在るかと瓜は
れる
一二
石
事賓を輿げねは過ぎな
い。
叉、外紀の支郷地排撃史上は及ぼせる影響は北では資料を解るrJとの園難をるほ使って評論する
ことの的衆意かったのは宛念である。
たゞ従水をの由来に就て四塵紙日提要の云ふ所が行はれでゐたが'それは観-であることが明か
は田楽ねことJ我囲世外地棚番の慣欠たる西川知見の増補華夷通商考の新知織とされる港五が職方
外敵の御評である乙とむ明かに出水たことは僅かに乙の調査の収穫であると思ふO
(1九三五ユニ三〇
)