23
Title 南洋を東西洋に分つ根據に就いて Author(s) 宮崎, 市定 Citation 東洋史研究 (1942), 7(4): 197-218 Issue Date 1942-08-31 URL http://dx.doi.org/10.14989/145771 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

Title 南洋を東西洋に分つ根據に就いて 東洋史研究 (1942), 7(4): … · Title 南洋を東西洋に分つ根據に就いて Author(s) 宮崎, 市定 Citation 東洋史研究

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Title 南洋を東西洋に分つ根據に就いて

Author(s) 宮崎, 市定

Citation 東洋史研究 (1942), 7(4): 197-218

Issue Date 1942-08-31

URL http://dx.doi.org/10.14989/145771

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

Kyoto University

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197

唯鑓L史研完〈作ご

 

南洋を東西洋に分う根披に草いて

昭和十七年八月醗行

宮.崎ヽ市

 

  

今日の如く、血細亜を東洋、歌羅巴を西洋と搦する習慣が成立する以前、支那には古く東洋・西洋の稀呼があ・

 

j、只それが賓は現今の南洋地方を東西に分ったものに過ぎぬことは、’事新しく説明する迄もたい。扨これが如

 

何なる標準によって東西忙分けられたかに就ては、既に前人の研究が再三。晋表されてゐるのであるが、些か賠に

 

落ぢ蒙れる鮎もある0 で、此に再び取り上げて問題として見たいのである・

   

          

II

                                                  

  

日本で最初にこの・問題を論ぜられたのは故坪井九馬一二博士であるらしい。博士が東洋學赫雑誌第二五六競に載

。せられた希「明代ノしな人が知リタルした海いんど洋ノ諸國=就テ」といふ論文は、賓は未だ寓自0機會を得な

     

[

 

5でゐるが、之を阻這された和田博±0言によれば、坪井博士はこ0中で、東西洋を地理的貰劃と見てはならぬ

ト]必t力就され禿も?χ如くで1 る。

--

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四8

 

次に蒔た。のぱ史學雑誌第三十一編に建厦された高桑駒吉氏o「赤土國考」であt’氏はその第三回の終の所で

  

予は明人0東洋西洋の亘別はもと馬秀人及び波斯人がMonsoon 4^基礎と1 てゐる方法を探った・のであると

    

 

-。考へる。

と云ぴ、馬氷人が馬秀牛島から西を風上と呼び、東を風下と呼んだこと、及び印度方面で波斯の航海者が印度の

東南海獣以東を風下と柵し、以西を風上と柳したこと等を遮べ、

  

是0如く馬秀牛島及び印度洋方面に於て古くからMonsoon yより東酉の亘別があったとすれば、是等0方

                             

                     

  

面に盛に交通した明代0支那人が風上風下の茲別を探ちすして方向0亘別を探り、其の南京金陵に近い浙江

  

省寧波府の錨海を基勘として膨湖島から潮泥に至る針路駐東洋とし、頴建、廣東の沿海を経て交阻支那を過

  

ぎ遜羅、馬秀牛島、爪腫、蘇門答剌、印礼一ふ面に至る針路を西洋とした0でIあらうと思はれるのである。

と結んで居られる。この高桑氏0結論は表現が甚だ不明瞭で、正確な意向を捕捉するに苦しむが、之に對し和田

清博士は東洋學報第十二巻第三読に「明代以前の支那人に知られたるフイリツピン諸島」を腿表され、そルツカ

諸島が必ずしも風下でないことや、壷湾地方が風下にあり乍ら賓は東洋列國の数に入ってゐないことを指摘され、

東西洋0亘別は富時0支那人が航海に用ふる東洋針路、西洋針路の方角から出たものであることを主張された。

    

       

                         

                     

 

次に出たのは東洋學報第二十一巻第一競所載、山本達郎學士の「東西洋といふ蒔呼0起原に就いて」な名論文

?誌略を取り、元人の所謂束洋I西洋と『は臭豊的に何地方を含むやを肺納的忙究明せんと努力』、’東洋は非律賓よ

り爪畦に至る相富廣範園に亘る地方を幽すが、西洋は南方印度の局限された

‘る地域を指しバその中間に中洋とも

2-

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j四

柳す可包地静あ礼この方法が本来の東・西洋の分ち方万鳶っミ後に東両雨針路のl

t東西作が涯分さるxに至ったと塾7して居られる・

ノ以妾則人の所沢を簡・章ながら紹介したのはヽ緊に余がこれから述べ応とする所の重勤が那鐘にあるかを猿告し

おかんが儡であ・つて、

‘之に對し一々。批判を加へるは余o目的とする所でない

 0只個題o重鮎を逸せざらんが篤に、

更に猿め敷言を費してこ

    

      

      

       

i-

           

つつ

     

     

          

   

   

o  o

 

そは、山本學士は東西洋の稀呼は元代に迄遡る可きことを・説かれたが、余似更にバ東西洋の思想は少くも宋代

に淵る可きことを云はんとする。原来東・西洋とは、。より正しく云へば夫々東南洋及び西南洋となる可きも0で

ある。而して宋0周去非の嶺外代答には、明かに東南諸國と西南諸國、こ又は東南海上諸國と西南海上・諸國との對

              

          

I-

           

                                            

 

-I

 

立せる名膳を見出す。これこそ後世の東洋と西洋に相営すゐものであわ’、従って東西南洋は所謂南蜃、海南夷、

西南夷等の範園を承け嗣ぎしもので、皇蔵・・琉球等の古床東夷と稀せられし國は営1 除外さる可き筈である。只

          

              

          

      

II

 

   

  

――

   

      

  

  

西域と南蜃との境界は古来甚だ不明瞭にして、天竺國0如きは、宋書には西南夷ご

                           

I一

    

                    

        

    

χ

西域傅に列せらks ^が如きことあり、之と同様に西南海上諸國及び西洋諸

1 1 曹、その西端は極めて曖昧模糊たら

     

 

                     

                

’`

 

     

       

ざるを得ぬ七とを慄め断拉って&かねばなちぬ。

               

          

      

        

  

                         

         

-!

         

-″

      

、支那には古ぐ四海の名あ久密海は其の】である・南海ぽ他o東海、北海などの如く、最初・轜海そのものを指

し表に相濾ないが、蒔。巴玉大海の演、印ち支那南端の海岸地方をも意味するやうにもなつた。差傅惨公四年の條‐

3-

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2θθ

に楚子の語として

  

  

君處北海。寡人處南海。

とあるのやヽ襄公十三年の條にヽ楚の共王の郭業としIミ

 

撫有蜃夷。奄征南海。

などあるは何れもこの意味である。、秦の始皇帝が南越を平ぐるや、今の廣東附近に南海郡を置きしことは有名万

事賓である。

                                            

 

然るに其後廣東方面よ・CT\、海外諸國との交通貿易盛となるに及んで、海南夷なる語か生じた。梁書諸夷傅の海

南諸國には林邑、扶隋、盤盤、丹丹、干陶利、狼牙脩、婆利、中天竺、等を列してゐ’る。所が擁てこの海南諸國

を南海I呼ぶやうになった。その起原は尋ぬ可くもないが唐の李肇の唐國史補巻下に

  

南海舶外國船也。

                                    

―II

     

とあって、南海を海外諸國0意味に用ひてゐるのを見ると少くも唐の憲宗頃、には、現今の南洋と略同意義の南海

なる語が成立してゐたことを知る0である。

 

こ0南海を更に区分して東西とすることは何時に始まったか明かで。ない。既に宋書夷量傅は南方諸國を

  

南夷

 

扶南國

    

    

h~

                  

                           

  

西南夷

 

呵羅・軍國

 

婆皇國

 

婆達國

 

閔婆達國

 

師子國

 

天竺迦眺黎國

    

     

   

     

  

             

                

  

。y『

といふ風忙、南夷と西南夷に分類するが東南夷がない。明瞭に南海諸國を分うて東南雑國、西京諸國としたの轜

宋の周去非の嶺外代答を以て飴とするそうである。

--4

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嶺外代答には淮1 戊改夏年0 自序がある。そ0 巷二巷三が外1 ほとあり、中に。置南諸脆、」東南諸1 り東南海1 

諸國ヽ西南諸國ヽ。西南海上諸國の・稀呼が散見する・今此等04Ji栴にょっt分類されたる諸國の中で王要なるもの

を取出して表示すれば次の如き結果を得る。プフ

       

    

西

 

 

 

束・

       

    

 

 

 

       

 

  

 

 

 

       

    

 

 

 

       

          

       

    

     

       

.

     

I一一二7

波大王,細1占麻大占

 

三関沙

斯食舎蘭じ城離秦城佛婆華國

 

 

I城

    

フ,抜

     

  

,公11

         

         

 

         

χ

  

       

 

ヽ木会天故翼

 

大西員

    

  

蘭ビ竺臨臓,食天臓

    

  

反1’國

     

     

 

     

          

 

   

,1

    

・」 /,       ①

     

,大佛

   

支’

     

秦羅‘

   

   

     

,國

 

          

。,人・

       

        

,國,

 

右0表によって1 ちに看取さるx事賓は、第一里

西南諸國は即ち西南海上諸國の謂に外ならす、従って東南諸國は亦東南海.上諸國と同意義なる可老こと、第二作

5-

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202

  

然らば淘何なる理由によって二二佛斉を中心として東南海と西南海を分っかの疑問が生するが、。之が解決を示

 

唆するものはヽ三佛脊が正南諸國の中に数へらるゝ事賓を措いて外にない・抑も三佛膏は何地駄正。甫に富るであ

 

らうか。而して斯る場合に吾人は、今日の完成されたる地圖によって方向を摸索してはならぬ0で、飽迄営時‘の

 

人0智識によりて之を探求せねばならぬことは云ふ迄もない。

   

嶺外代答巻三航海外夷の條に

   

三佛斉之来也。正北行舟。歴上下竺輿交洋。乃至中國之境。其欲至廣者。入自屯門。欲至泉州者。入自甲子

   

門。

 

とあり、之によれば三佛斉0正北は、廣州若くは泉州である。廣州と泉州とは径度の差約五度に過ぎぬから、常

  

一.

   

 

時の人には大して問題としないで心よいと思ふが、是非その何れにか決定しようと云ふならば、恐らく泉州を探

  

`ヽる可きであらう。嶺外代答より約五十年程遁れるが、趙汝活諸蕃志巻上三佛斉國の條に

             

                       

o  o

   

三佛膏間於賀臓聞婆之間。管州十有五つ在泉之正南。

        

 

と・!Sl-=^’諸蕃志に於いては著者が提阜頴建鴎市舶なりし丈、凡て方角の起黙を泉州に置いてゐる。例へば

   

大食國在泉之西北。

   

溺泥在泉之東南。

   

流求國富泉州之東。

   

倭國在泉之東北?

 

心如き即ち2 である。甫宋時代泉州は廣東を屡」て支那第一〇貿易港であったかI泉州人の僑外智識が凌那含

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町を代表しなど`一二つて。‘を1 支へ`あるまs°-而して営玲の智識に於いて子午線o方向が今日より見れば少しく歪`ん

ミ泉州の正南ヘス^ ^iiCSi東部が来るものと夢へられてゐな東甫海、西南海の置分ぱ贋一

’‘斯の如き、。営時の

人に考へ』れたるデ午陰によつ七・亘分されたものに外たらない。

 

        

     

IJ

                                                      

゛の襄は営時考^られたる一婆’0位1 が如何なるじのであったかによっても傍1 され得る。ぷち嶺外代答巻三

に憾

     

閥婆之来也・梢励か行舟。過十二・7 石。而昇三佛脊海蓮。合於竺嶼之下。

   

とあり、諸蕃志巻上には

       

     

閔婆國。‐又名菅家龍。於泉州篤o o。

  

。とある・丙巳とは南甫東こ

   

たる理由が一1 判然する。

           

       

    

嶺外代答には西南海上諸國の中砥大食諸叫、印ち麻嘉、白達、`1 一尼等を含む廣大な領域を数へてゐるが、諸

   

泰志には前引の如く、大食を泉州の西北と定めてゐる・ヤ諸蕃志には『東南海、酉南海o名が見えないが、’若し諸蕃

   

志の著者が斯る百分を立てようと思へば、西南縮國から大食を除外した尽違ひない。嶺外代答の著者周去非は桂

   

林通判とあり、-廣西の山間にて傅聞せし’智識なれば、遠西0地0緯度の南北などに就いて、元より精確さを求む

   

可くもない。・’

                         

    

嶺外代答の東南海、西南海は殆ど其俳、島夷鳥4に現はれたる元代の東洋、西洋に営俵まるのであるが、此吃

                           

     

’―

                                 

六部

  

亡冨ヽ’海と洋の二字の用法肥就いて述べねばならぬ″……

-7

-

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.204

 

後世大海に名付くるに洋の字を以てする習慣が定まったが、左代中世に於いては必ずしも然らす、海と洋とは

。殆ど同意義に用ひらる。此。に敢へて説文から説き出す勇気を持たないが、只注意す可きは嶺外代答の中に東大洋

海、南大洋海の語が見ゆる鮎である。即ち同書巻一、三合流の條に

  

海南四郡之西南。其が匯曰交陸洋。中有三合流。〔中略〕其一束流。大于無際。所1 戴が荒海也。商船往来。

  

必衝三流之中。得風一息可臍。苛大瞼無風。舟不可出。必瓦解于三流之中。傅聞恥か恥か。有長砂石塘数萬

  

里。尾聞所洩。流入九幽。昔1 有舶舟。‐篤大西風所引。至于東大海。尾関之聾。震洵無地。俄得大東風以冤。

とありヽ之によれば長砂石塘ヽ即ち萬里石塘以東の南支那海を東烏洋海ヽ又は東大海と呼んrゐたことがみる・

然るにこの束大洋海は更に南に延びて闇婆の束に達すと考へられ、之が南大洋海なるものに接してゐたことは、

同書巻二海外諸蕃國0條に

  

三佛斉之南。南大洋海也。。海中有嶼。萬齢人食居之。愈南不可通矣。間婆之東。束大洋海也。水勢漸低。女

  

大國在焉。愈東則尾閻之所泄。非復人世。

とあり、支那人が盛に海外に交通し出すと共に、廣大無撞なる大海を登見して之に大洋海なる名栃を附したとと

が知られる。

            

 

之と共に航海可能なる大海を呼ぶ忙洋を以てすることが流行し出したが、前文に。

  

海南四郡之西甫。其大海曰交阻浄。”

      

yl

 

      

とあり、但し此頃は未だ洋字に決定せしにあらす、侮と交互に用ひたるにて。、嶺外代答巻一天分逢。o條に

  

欽江南入府〔中略〕分唇一而。其一西南入交趾薦。

-8-

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205

とおりヽ叉巻二海外1 蕃瞬の‥條に、・細蘭海、東大食海、酋大食4 10海名あり、之は夫々、現今の東印慶埓酉印

度洋、地中海を指してゐる。-1

     

-i

              

    

      

        

          

      

   

Iノー

 

              

            

 

 

洋字や流行は他。の諸書にも見られ、一宋史高麗傅に元豊元年安熹等が其地に使せしことを記して

   

自定海。絶洋而東。既至。國人歓呼出迎。

   

とあり、宣和奉陣高麗圖経巻三十四に憾、朝鮮に至唇海道比白水洋、。黄水洋、黒水洋0洋名が見えてゐる。斯く

洋字0流行と霞菰元代に及んで、これ迄の東南海、西南海が、東洋、西洋たる語によりて置き換へられるに至つ

        

I-

                    

                             

た0である。

              

 

元末比成れる島夷誌略に東洋、西洋の語が散見するは山木達郎學土の既瞑指綿せられし所であり、今同氏によI

                              

     

 

 

    

   

 

         

つてヽ東洋ヽ西洋の硲園を表示すれば次の如くにたる。

ふF

/

西尚

 

二八

 

1

        

k1馨列X蛋゛

警策鴬.哭゛

L“望疆/

 

 

 

尻LIしレ

啓Uに

 

 

      

 

¶’

   

右の申パ毘舎耶、‘第三港‐、馬魯1 に就て憾和田博士、山本學士比綿密たる考鐙があるがバ今は別に・さして精牌い

9--

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卯6

             

  

              

!”

   

 

。。。

     

‘i`

さを要求しないので、雨氏の獲られたる結論に従って、ロハ大観の位置を示すに止める。只古里佛に就いて、之も。

営面の問題には大なる開係はないoでゑるが、従来此地が[Duilon -Uされてゐるやうであるから、表中にCalicut

■A]した粘に就いて一言辨じて鳶きたい。

         

        

。。

  

思ふに()uilon又Kaulamは嶺外代答、諸蕃志o故臨、元史外國傅。の倶藍であっ汽島夷誌略の小唄哺は恐ら

く小心哺の誤で新嗅哺或は第二唄哺の意味なる可く、それが明の協涯勝管の小葛蘭、星瑳勝覧の大・小唄哺に接

                       

                                             

b『

績するから、そ0中間に於いて特に、古里佛なる文字を用ひやうとは信ぜられない。

  

一方Calicutは漉涯勝麗、星提勝寛何れも古里を以て曹譚し、之はその上直ちに島夷誌略に接するもの政れば、

島夷誌略0古里佛は帥ち古里なること殆ど問はすして知る可きである。思ふに佛の曹はfuf ^る可く、’↓rの

I韓にょりてkut +W現はし査ものであ

ト譜が

し何れにしてT*  Quilonと(wF耳とは相去る甚だ近ければ、東

  

 10  

西洋の問題には大して障害にたらない。

  

扨島夷誌略が如何なる標準に従って東洋と西洋を涯別しだかにつき、山本學士はその中間に、`何れにも湯せざ

る地域、スマトーフ、馬来半島、逞羅蘭の方面を想定さるxが、逞1 蘭は暫く措くとして、スフトラ東部及び馬来

              

                                   

/r

                      

               

半島南端は取りも直さで、嶺外代答0正甫諸國に外ならない。島夷誌略の東西洋は全く、嶺外代答の東南海、西

 

               

 

                

   

           

南海の涯分を橿承したも0なることが、之で分明すると思ふ。

 

但し東夷誌略・口西洋はそ0西端に於いて著しく貧域を雛小してゐ’ること、亦山本學±0指摘せる通りで、之欧

恐らく地理上の智識が硬達し、印度以西0諸國が必雫しも泉州よ’りも低緯度に存在せざることを知っ。だが篤と思

昔る。このことは亦西洋の語は卸ち原未西南洋0意味なる可きを示す一傍謐とtるであらう。

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加7

    

。一

         

  

無代に入っt永楽より宣徳年間にかけてヽ前肢七回に亘る鄭和の南海1 征奢り、とのAJHJは「三賓大監の西洋

 

下り」として知られてゐるが、そ0往先ぽ必雫し右西洋ばかりでたぐ東洋諸國もその中に加はってゐた。この遠

     

    

                 

         

X。r

  

    

          

一丿

 

征忙隨行せる馬歓0濠涯勝覧巷頭の紀行詩に’

    

間婆叉往西洋去。

    

11

         

 

とあり、同じく鄭和一行に加はること四回に及びたる費信の星様勝覧前集爪畦の條には

   

’古名閥婆。〔中略〕乃篤東洋諸番之衝要。

 

とあって、爪畦0冨彊が鄭和の船を惹奪っけたのである。

       

  

猶馬歓によれば印度洋を以て特に西洋と名づけたるらしく、現今スマトラ島0北部に國せし蘇門答剌國の條に

                                 

 

Ir

               

   

其處乃西洋之總路。

                   

 

とありヽこのt『tり西洋儲國が’瀕まるらしく・その考ス‘’ト。・フ北端’に國せし献彰影國の‘聾に

   

國之西北・海内有一大平頂晩隻牛日可到・名帽仙・其山之西・亦皆吠良・正是10浄也・

 

tU云ひ、西洋とは正しくは現今9s度洋なるを記し、進んで印度西南岸の古里國の條に於いて

   

帥西洋大國。

                               

ふ述ぺてゐる。皇様勝覧に於い七は古里國の條にも、小堺哺o條にも同様な

  

s1

     

I%

   

       

   

西洋諸國之馬頭也・。

11--

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一-

           

   

   

 

の一句がある、。之にょり7明初9東洋こ西洋の範匿は宋の東南お・西甫海ヽぎくぼ元の東洋酉県が区分法を殆ど

  

                         

。・

   

其僚機承してゐるこ’とが知られる。

  

 

然る’に明の後期に至って、突如東西洋の百分に大使革を来した。即ち萬暦戊午四十六年の序文‐を附する張曳0。

   

東西洋考を見るに、始に西洋列國考、東洋列國考を載するが、従前と比して最も大なる相違は’、これ迄東洋諸蕃

   

の甲たりと栃せられた爪畦、即ち下港が西洋の中に加へらるiに至ったことである。今東西洋列國を表出すれば

   

次0如くになる。

  

          

西

  

         

  

            

  

           

美猫呂週思柔唖奮東逞交

洛里

   

    

居務宋悶港聯斉港斎羅陸

/ヘ・‘

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ダチ

 

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パ・カ タ

 

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、心/

 

   

 

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文沙・蘇

  

文丁彭彦大下占

  

  

荒機

  

莱曝蒜

  

紳宜亨甲泥港城

/へ

 

 

   

 

 

 

 

 

 

八’ブ.⌒ス

     

  

 

 

 

 

 

ルごシル

   

 

 

.ハ

 

 

 

 

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K`ノ

     

  

    

 

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、.

              

-

- 12 -

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扨如何なる根徐によってゝ斯く東が洋が匝分された『か・成る程東西洋考忙憾後に東津針町西洋針路。の項がや

                  

                    

-IJ

 

  

  

               

    

ひてヽ航路によって以上諸國を結合してゐるが、叉思ふに、例へば爪畦に赴くには古くから同一の航路であり、

    

最初は矢張スマ・・トラに向ふ針路を取り、途中から又は一旦スマトラに着いてから後に東忙分れて爪畦に到達する‘

    

oであって「、別に明代o航法に大なる便化が遡ったと轜詔められぬ。依て余は再び前に探用したる方法を繰返≒

    

先づ如仔なる線によって東西倖が区分され琴・かを嶮討して見ようと思ふ。

      

              

     

                

                

111

    

‘。先づ文莱卸もボルネオ、更に詳しく云ぺばボルネオ島北岸のブルネイに就て、東西洋考巻五には

      

東洋轟處。西洋所自起也。

          

   

rl

 

■i54≪.i.

;

    

とあり’、同書巻九東洋針路の項にも略M同様な記事があね、明史倦三百二十三

原羅傅も之を探ってゐる。之によ

    

って東西洋轜スルネイを以て境されるが、’更に精確に云へぱ、此壕が東洋列國中に数へられてゐるので、ブルネ

    

イ0西が境界線と歓乞課である。

      

     

ボルネオ島中の國としては外に南岸の文郎馬紳、即ち'< N%エルマシヴが挙げてあぶが、此國は西洋列國に加

    

へられてゐるから。境界線はこの東方を走ってゐると見ねばならぬ。次に西洋列國中に週悶、即ちチ`ル島があ

    

p、東西洋考巻九西洋針路の項に

      

是諸國最遠處也。

     

  

―一

    

Eとあるから、東西洋境界線はこ。の島の東にあ’る筈である。その北の4ルツカ諸島は、東西洋考巻五東洋列國恥に

     

   

 

       

       

                

 

’・

           

‐’!

    

   

。!

  

挙げられた渚美洛居に外ならざれば、境界線はチ`ル島を去ること甚しく轜遠くな。い。トー、

    

メー

 

・跨言蓼夕一範ヽソユイ口胃”今~嘗昔や凍ノ・こぶの凍ず蒲前す皐吼一―緊営、。いzt1 

13--

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θ

 

しく折れ曲ったものになる。

    

然らばこ0線0北端は支那の何れ0地に営るかの問題が生する。末より明初迄ぼ東西分離の起粘は泉州であっ

   

たが、萬暦時代は果して如何といふに、恐らく既にそは廣東に移って居ったも0と思はれる。そは天下郡國利病

   

書巷一二〇海外諸蕃入貢互市の條に

    

’廣州舶船往諸番。出虎頭門。始入大洋。‘分東西二路。

     

恥浄差近。(爽註。周歳印同船。有鶴頂。電飽筒。玖項等物。)

     

10索差遠。(爽註。雨歳一同舶。‐有象牙。犀角。明珠。胡淑等物。)

   

とあり、明章漬圓書編巻五六南海の條に

     

南海居東南委輸之極・篤萬水所宗・故出虎頭甲子二門・則知即。一浄・隨舶所之。東可以至倭國。西可以通西

     

番。

   

とあり、更に同書巻四十九廣東水蜜の中、一定水纂の條に、

    

一肝得寅東八府檀峰而省城適居恥郎師之中・共在東洋橘最随塞貫極東曰拓林・具扁建玄鍾接鸞「中略」西

     

~洋之搦随塞者。極西南曰瓊州。四面皆海。〔中略〕極西日欽廉。接壌交南0

1③

            

   

とあり、最後の例は軍に廣東省沿海0ことを述べたに過ぎぬが、吾人は此等の記録によって廣東を中心としてそ

                

I-i

                          

       

   

の南方の海を東洋西洋に分っ習慣0行はれたることを紅れば足る・而しt之は軍に廣東人の自己中心主義よ’り来

  

 

るのみならす、地理。的にも若干0理由があったことx思はれる。帥ち早く宋代の嶺外代答にも巷一象鼻沙心條に

     

屡聞之舶商。日。自廣州而東。共梅易行。自鷹州而西。其海難行。

4-

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とあり、。紅行の難Iが廣東を中心とし東西I異っtゐた。只泉州港の盛なる時は、諸外國の方向をも泉州を中心

として定めて居った町明中葉以後、泉州衰へて再び庫東が柴へるに至ると、廣東を耶心として南海を東西洋弔

分っ方法が勢力を‘得て。来たもoであらう。されば吾人は、新たに出来せる、諸外國を東西洋に分っ境界線o‐忠鮎

  

  

i!

                 

        

は廣単に外ならぬこぞを推測して誤あるまいと信する。

 

果して然りとせば、吾人は新東西洋境界線が、その南牛に於いて湛しく歪曲するに拘らす、そ’の北中に於いて’

はヽ極めて正確に、殆ど今日0地圖0子午線と全々一致することに驚かざるt得ぬ。帥ち廣東省城は東経百十三

度、ジルネイは東経百十五度なれば、廣東0直南はブルネイ0稽西に富るわけであ。る。一見奇もなきブルネイを

以t東西洋り分岐鮎とするは、この事宵を考慮に入れt葡めて首肯’さ仇得る。

 

若し夫れブル。ネイより更に南に延びたる東西洋境界線が、パンジェルマシレンの東を通るヽあたりは獅可なり、そ

れよび南してチ壬ル島`・の東を走るに至っては、今aO常識より見て不可思議に堪へざらんも、こは要するに時代

0相違で。蛎って、若し明人0 地理上智識曜對しで餓りに多く具昿るを求むるは、寧ろ酷なるものと云ふIff

■toであ

                      

                         

       

トり”ノ。’

          

            

   

以上緩4 せる余の考察にして誤なくんば、束西洋は原床支那人0考へたる四・海のIなる南海を更に東南・西南

  

に分ちたるI名膳であって、‘泉州.、或は廣州を起鮎とし、此黙を通過する南北子午線によって東西’に分たんとした

 

6゛あ゜だ゜而し七営時0地理的智識の不完全なる、によい‘y♂宋元より明初迄は泉州‐‐Iこト’一フ東部の線にlpヽ

-

-15

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明後期吟は廣東-Iブルネイーーチ`ル島の線を以て、笛しく東西に劃し得た.oと信じて居ったoである。而し

                                      

  

     

   

て今の起動が如何にして泉州より廣車に移棒せしかに就ては、未だなほ説いて詳かならざりしものおりと信する

 

支那古来南海の門戸は廣東であった。然るにこの形勢は南宋頃より一鍵して、泉州が槃えて廣東が衰ふる傾向

を生じた。此鮎に就いては故桑原博士が「蒲壽庚の事蹟」0中に極めて明快に指摘して居られる。

‐泉州0開港後四十年許老経ると、宋が南渡心て杭州が南宋一代0行在となった。〔中略〕かくて杭州に近き泉州

 

’は地の利を占めた上に、南宋時代を通じて支那政府は國庫の牧入を堵加せん1 に、頻に外蕃0通商を奨励した

 

から、泉州0貿1 は年一年と長足の妾展をして、廣州と頷頑して譲らざる位置に立ち、更に南宋末から元時代

 

にかけて泉州の勢力は、遂に廣州をも凌駕するに至った。営時支那から海外に出掛ける貿易船、海外から支那

 

にんり来る貿易船は皆泉州に幅湊した。元時代に泉州を観光したMarco PoloやIbn Batutaは何れも泉州を

’常時世界無二の大貿易港と搦してゐ名。(五-六頁)

東西爾洋0分岐勤を泉州に置く思想は賓に斯る時勢を背景とするものに外ならない。而して泉州を通る子午線が

西南に歪み、スフトーフ東部に落っるに至ったのは、これ貿易風の傾きに影響されしも0で、貿易風は正しく南北

の方向を取らすして東北N西南に歪ひこと亦周知の通りである。この意味に於いて高桑駒吉氏‘が、東西洋の百分

      

                                                   

      

Iに貿1 風を考慮に入れたる鮎は以て多とす可きであら(A。

 

泉州0繁条は永撹せす、明の中期以後、西欧人の波米によりて、再び海外貿易港0王座を廣東に譲らねばたら‘

なくなった。明の正徳九年、。西歴一五一四年に始めて葡萄牙人が廣東附近に到着して貿1 を畳みしより、西欧人

の廣束に来る4の漸く多き。を・カへ、殊にI萄牙が襖門を。古偉してから、廣東貿易憾泉州を塵倒してパ東酒交通の

16-

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1561 A. D. Vehetia 1刊/ Ptfilemy地理圖ヨリトリ

タル.が.之・'・>GastaldiべI地甲ユテ酋暦十六世紀前半

ノ智識ナルベシ.o註④參照.

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214

第一の開門となった0である。明末泉州0衰微、廣東0繁柴は、賓に支那對外貿易の對象に於いて、アーフビア。的

勢力と西欧的勢力との交替を意味した。

 

東西洋匝分の境界線の便化も必然的に之と開聯を有する。宋元以来、泉州を起鮎とするは云はゞでフビア的支

那地理學0反映であ』つて、明の後期に及んで廣東を起動とするは、西欧的支那地理學の結論であった。廣東を通

過する子午線がチそル島の西方に落っるといふ想定は、資に酉欧人の智識が根幹をなしてゐたと考へられるので

ある。

 

こ0動を鐙す可き材料は、外に探せば多々硬見し得ると思ふが、今余の手許にあるは次9二三の資料に過ぎな

い。

 

第一は西歴一五六一年ベネチア刊のプトレミー地理圖である。(r(jeografia di Clavdio Alessandrino. Venetia.

M. D. LXI.)同書新圖第二十八、India Tercera Nuova Tavolaと題する旨を見るに、。廣東9ntanは東経一

七五度、チ`ル市Timorは東経約一七三度、チ`ル島東端は東経約一七四度牛に営ってゐる。廣東より子午線

汝南に下せば`その先端改正

’にチ`ル島東方o海上に落っるやうになってゐ

‰④

  

         

                               

    

 

     

 

第二はNordenskinld : Periplus 1897. Stockholm一五五頁に引く所0、Ferando BerteliのTerza Ostro Tavola。

          

    

    

                                  

 

1565 *<る東印度地圖である。この圖にょれば廣東は東経一七六僕、~チ`ル島は何れQ.iii-≫y指すか判然せぬが、

それらしきも9と曼ゆ名島の東端は東経一七九度、チ`ルなる文字o中心は東経一八一度の過にやる。帥ちこの

地圖ではチ`ル島o位置が前のも9より五度程東々へ移動修正されてゐるパ……。

        

 

第三は京都帝國大學截、明萬暦三十年、西歴一六〇二年、利馮賓の坤奥萬國全圖であるが、之によれば廣東は

-18

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215

東芒二三度

~心犬

島録W

車1 こづ度こ東4 乗艦一三六度モぎtチtル島の栓置が更に修正され、廣tキ

   

ー“l

   

       

 

 

                                            

りも約十度東方へ動いて来てゐる 0

             

lx

              

″―

                                         

 

’これ以、後良別に膜説する蛎要しまいが・因’に現ダの地圖に就いt楡すればヽ廣。東とこ作島東端との組度の差

     

 

     

/-

     

’-

               

         

          

χ

        

゛一

は約十四度である。最初は。西欧人も廣東とチ`ル島を略よ同経度と考へて居’つたのが、次第忙修正されて来たこ

とが、以上によって判明したことx思ふ。

  

チザル島が最初賓瓢よりもすっと西にあったやうに考へられたるに準じヽボルネオも叉ヽ古い西洋地圖には’宣

’際よりも著しく西に位置して描かれてゐる。‐前記いベネチア版プトレミー地理圖にはブルネイBurnaがm東と響

度の差十摩の西に描がれ居るがヽ之も次第に修正され’ペルーyリの圖で轜その差が六度に縮ま1ヽ西紀4  六七世

     

‐・

                     

         

註⑤

 

”‘

                   

紀0交オルテリやス0東印度圖では殆ど正確に、廣東0微東南に位置し、之によった利璃寮の地圖にはブルネイ

  

19

            

 

                        

               

・〇名は見えぬが、ボル。ネオ島は略―正七い経度に準じてその東西爾端が描かれてゐる0を見る。つまり西欧人の

考へたる最初0方位によれば、廣東の直南はパロワン島、ボルネオ島の東を過ぎて、チモル島の車へ来た0である。‐

 

車西洋考0成立は利馬寮坤輿仝圖の作成よりも十数年以上遅れると思はれるが、著者張晏は勿論之を見たもの

でなくパ只西欧人より0傅側によってドボルネオが廣東0直南に来ること0新智識を得たるt、その先チ`ル島

の位置に就ては猶著智識1 か有し居ら挙、新奮顛様の智識を以て東西洋0 涯分を立てた結果が、前述の如老妙な

     

       

       

                               

I。S

 

    

ものになったに逢ひない。

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216

 

以下は鈴論になるが、。元代Q島夷志略尖山の條に小東洋の稀呼がtえる・小東洋に町立するといふを山は脊m

ボルネオ島西北海中の大ナツナ島に比定せられるが、余とレてぱ小東洋なる名搦より、何處か呂宋の北方通えて

探したい。或は呂宋島と壷薦との中間f '。ハタン島中のイーフヤ山にはあらすやと思ふoであるが未だ確たる澄擦を

得なしJ四代゜東西洋考゛至゜゛小東洋゜名が再び現はれ`之は明か’`東洋゜些`接すtQ東番■Ellち憂澗ぎ湖島

を指すものである。蓋し東西洋はもと南海の中の分ちなれば、古来東夷の中に加へらる可き豪湾膨湖島は東西洋

の中に入る可からす、只東洋に接するが故に小束洋を以て呼んだものであらう。ヽ

 

小東洋に對して明代大西洋が現はれた。之は利焉喪が支那へ来て自ら大西洋人と名乗ったのが始めと思はるx

がご

中に小東洋と記入してゐる。

 

大西洋、。小西洋o名は其後も残づて、海雍正八年の自序ある陳倫州o海國見聞録には’、欧羅巴を大西洋とし、

印度を小西洋としてゐる。而して所謂小東洋ば小字を去って輩なる東洋とし、別に東南洋、南洋を設け、東南洋

は毫湾、非律賓、ボルネオ方面、南洋は印度支那、ジヤバ、スiv ^if^■方面を指してゐる。此に至‐つて日本は大・

小西洋に對して東洋と稀せられるぐに至ったのである。

         

‐-

 

主として日本を意味する東洋を披大して亜細藍を意味させ、欧羅巴0西洋と相對立せしむるやうにしたのは、

明治以後の日本の學者の力らしい。而もそれは東洋ま學考0仕事であっだ・所謂東洋史學なるも・のゝ成立にっい

て・君、歴史 1K}地理第二十一倦第四競に杉本直治郎學士刃「本邦に於け・る東洋史學・り成立について」の中に個密な

ら考盈が漕・。。ぷ凍漕届一分まは東1 史主ハに支部に僧入さ水天其僚崔用せらtt今。‥【苓

20-

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21マ

と自ら中奉―以7tlt那を中灸としt害海を東四洋にI涯分したものが。統11 にt秀たる東柔史學の成ます&

に及んでヽ支那そのものか東洋

の中に吸収されて了つたひであ

る。

           

`‐l

昧①

 

沙華公國、近佛國jQμ置定加

   

ならす、沙華公國はボルネオ

   

のSarawak ifらんか、‐近佛

   

・國はオルテリウスの地岡書中

   

Indiae Oiientalis Iiisularum

   

que Adjacientium Typus.の

   

中にヽボルネオ東北端の海中

   

にCimbubon Wる群島あり、

   

その晋甚だ相近きが、この地

   

匯は呂宋島の擾甚しく歪。曲し

   

層れば現今勿地名に對比する

   

こと困難である。.J

 

 

佛収文字は’fut. but -^寫し得

   

るが’ ≪" o;kは言崔に。よりで

   

は。極めて近きことあ.o.、高桑

   

駒吉氏「赤土國考」に引ける

        

   

   

 

    

Pelliotの脆によれば、馬来

   

語切島を意味するPulaoa安

   

南化してり巳gとなる由、何

130

東tg洋境界歿yt足系入圓

 

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゛゛鴻皿呼迄呼帳

伽回

£20μQ

-21-

ノヤぐ☆

ヘ匹ノ匹`淋上

、☆

 

こここ忌。j心ご=ソ

ず叩j

 

浪戮

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X、.弓レ

い……こ

゛、ヽヽ、..l゛ヽ、

  

戮`ヽ-、.そxx、

    

  

-

Page 23: Title 南洋を東西洋に分つ根據に就いて 東洋史研究 (1942), 7(4): … · Title 南洋を東西洋に分つ根據に就いて Author(s) 宮崎, 市定 Citation 東洋史研究

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等の暗示を具ふ&手引ともならばやと思って此に附記する。~

③。国寄編は諸1 の記載を雑然と切り鱗ぎしたるもので、此所も何に嫁ったか明かでない。但し岡書編の作成は巻頭の国書1 

  

。家蔵記によれば、嘉靖壬戌四十年より始め、萬暦丁丑五年に告成し仁とあるから、。大豊に於いて萬暦以前の状態と見て差

  

支へなからう。

 

この岡は殆ど同じjf(b

■*£>のを、Nordciskiold : Periplus. 1897. StockholmI四三頁に褐載し、その誕明にThe Easニndies

  

by GastaldhLi Geog≪afiade C. Ptolemaeo. Venctiis. 1548。 -≪jあ.c\、恐らく従ふ可きに似仁り。果して然らば之は西暦

  

十六世紀前半の知識を示すものであ&d十七頁の地圖參照。

   

 

9teliusの地領は、最初にTheaUum Oibis Teiraium. 1595. Anvers. ・Aj出したが其巾に含まれたる各国は吏に古き紀年

  

。を明記するもあり、。第二版以後更に新国を加へた・のでこの東印度国を何年の作成にな*O-*£)のかを詳にし得ない

    

 

尖山は島夷誌略に

             

    

自有宇宙。に茲山盤鎌于小東洋。卓然如文筆。挿雲漢。’雖懸隔数百里。望之微然。

  

-AJあり、この尖山を非律有北逢に求めんとすれば八東西洋考巻五呂宋形勝名蹟の條にある圭嶼が有力な候補となる。

    

圭嶼。認其出。呉吾澄圭嶼和類。因襲今名。

              

      

  

とあり、東西洋考の頃に古の某名を改めてま嶼としたことが分乙。而して支那の圭嶼は同書倦九内港水程に

                                   

一一

                 

    

圭嶼。屹立海中。篤潭之饌。邑人御史周起元。力請鴬道。建塔其上。井構天妃宮。文昌祠。大士閣。

  

とある。圭と筆とはそ・の形極めて相似たれば、誌略の著者が筆と見たるを、後世の人が圭と見立て仁るは極めてあり得可

  

きことに晦する○

          

         

             

  

然らばこの圭嶼は何處にありやといふ問題になるが’・iffl宋島と崔湾tこの中間にパタン島あり、そこにイラヤ山ぼぶと

  

いふ高山がある。Census of the Philippine Islands 1918第一巻九八頁に面する挿入地閻にごの山の標高」一合米とあ

  

h’、その山の南の入江に註して、Safe landing in S. W. monsoon

^と沸れば帆船航行時代には呂来より毫騰に渡る際の要

  

港であったに相違ない。楢同書九五頁には、「天気晴朗の日にはこの山の頂より豪湾の譜山が望見し得る」とあれば、峯

  

`の賃山の頂よよりもこの山が望見し得る筈であり、’島夷誌略の、「数百里を懸隔すと雖も、之を望め・・w癩然仁り」の丈

             

            

   

         

    

I、、

  

Eくよく一致す名。

           

    

、、

         

ヽ‐

   

 

              

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