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This document is downloaded at: 2020-10-13T01:29:09Z Title アジア概念、ヘーゲル『歴史哲学』の場合 (2) Author(s) 川田, 俊昭 Citation 東南アジア研究年報, (23), pp.1-18; 1982 Issue Date 1982-12-20 URL http://hdl.handle.net/10069/26472 Right NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp

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Title アジア概念、ヘーゲル『歴史哲学』の場合 (2)

Author(s) 川田, 俊昭

Citation 東南アジア研究年報, (23), pp.1-18; 1982

Issue Date 1982-12-20

URL http://hdl.handle.net/10069/26472

Right

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アジア概念、ヘーゲル『歴史哲学』の場合 (2) 1

アジア概念、ヘーゲル

『歴史哲学』の場合(2)

川 田 俊 昭

 我々における個性(個別,精神としての)なるものが,(通常における如く  )単に我

々 (人間,人類)における特殊として語られるならば,そこには,1いかなる個性もない

と言わなければならない。

 我々における個性は,“普遍性・客観性(としての個性)”  として捉えられる時,そ

の罪な可能性を秘める時,或はそのことをヨリ明確にする時(個性二普遍性となる時),初

めてそこに個性が在ると考えられるのである。

 従って又,(逆に言えば  )この様な個性を欠いた普遍性・客観性なるものも,当然考

えられ得ないことになる。

 この間の論理は,たとえば,近代ヨーロッパにおける所謂“国民文学と世界文学”なる

周知の命題・課題に相照応させる時,極めて明確・ヨリ説得的なものとなる。

 即ち世界に通用し得る国民文学一著者そのものについて言えば,世界に通じる(国民

的・民族的な)個性  これである。

 個性なくして芸術はない  と同様に,個性(個別性)なくして世界はあり得ない。

 斯かる場合,その個性は,その精神的含蓄乃至その精神そのものが,一国家・一領域に

止まらず世界全体を,しかも(少くとも)その一時代を支配し得るという意味において,

(語弊なくば  )個性はヨリ強力な・優越した精神(の存在,必然)ということが出来よう。

 たとえば,マックス・ウェーバーが次の様に言った時,彼は斯かる精神的優越(その役

割・機能)を,一個性としての“天才”に託したのである。

 即ち,曰く。

 「科学的な天才が研究対象に関わらせる価値は,一つの時代全体の『見方』を規定するd

     以上の様な考え方については,拙稿「経済学説史の方法  経済学の現状につ

    いての批判と展望のための」(1)~(4),殊に(4)(経営と経済、167号),併参。

     そこでは,筆者は「世界性」を(上述の如く)「世界に通ずる普遍性・客観性

    (としての民族性,個性)」として註記している。(やはり,上述の「天才」の機

    能についても同様である。)

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 尚,本稿はその内容の性質よりして,前稿(1)の(後というより)前に位置する。

 筆者の自ずからなる志向として  和辻哲郎『風土  人間学的考察  』を,

主な手掛りとする。(但し,援:用に止まる。)

 筆者の常として,筆者以外の考え方はすべて,必ずカギ・カッコを用いて援用

を行っている。  世の,殊に我国に往々見られる如き,恰も自説の如く他人の

記述,従って又その考え方をそのまま借用(盗用),敷衛することは,なしてい

ない。(援用を多用する所以である。)

 本稿全体に通ずる考察(の基本的性格)は,そこにおける哲学についても,後

進・亜流としての我国に相応しく一一ゲル解釈の一望試み,いわば下請の下

請と称されるべきであろう(か)。

 しかしながら,本稿は世の所謂“常識’における如く ヘーゲル体系につい

て単に空中の壮大な楼閣(我々を突き放すような,おそらく住心地の悪い  客

体として我々を疎外する)のみを思い描くようなことば,していない。(そのよ

うなことは,ヘーゲルについての我々における大いなる偏見の一つである。)

 斯かる偏向には,伝達者である世の哲学者なる者のヘーゲルの核心を把握・説

明し得ない無能さとして,彼等に重大な責任があるというべきである。

 ヘーゲルが彼の精神哲学をドイツに齎した理由の一つとして,彼の先輩,殊にフィヒテ,

シェリングにおけると同様の意思があったことは,確かである。  ヘーゲルは,敢てド

イツを在るべき姿として(主体的に)思念したのである。フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』

(の格調高い口吻)は量,フィヒテだけのものではなかった。(誤解があってはならない。)

 1816年,ヘーゲルのハイデルベルク大学就任演説に,言う。

 「……時世の窮迫は日常生活の小さな俗事の問題を何か非常に重要な事ででもあるかの

ように見ることになり,現実に対する深い諸々の関心とそれらについての闘争とは,精神

の全能力と全勢力並びに色々の外的手段を極度に要求して,その結果ヨリ高い内的生命,

ヨリ純粋な精神的のことに対して頭を自由に持ち続けることは出来ず,又比較的勝れた素

質の人々もそれに煩わされて,二者はその犠牲にせられてしまったのである。この様に,世

界精神は現実に忙殺されたが故に,自分の中に眼を向け自分自身の中に集中するということ

は出来なかったのである。ところカ㍉この現実の流れがせき止められた現在では  ドイ

ツ国民がこの全くの俗事から逃れ出た今日では,自分の国民性を,即ち生き生きとした全生

命の根底を救った現在では,我々は次の事を期待することが出来るであろう。即ち,あら

ゆる関心を吸収していた国家と並んで,教会も又興されるだろうということ,これまで諸

々の思想の諸々の努力とが向けられていた現世の国と共に,又再び神の国も考慮されるだろ

うということ  言い換えると,政治的関心やその他の公共の現実に結びついていた関心

と共に哲学,即ち自由な理性的精神界も又再び栄えるようになるだろう,ということである。

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 アジア概念,ヘーゲル『歴史哲学』の場合(2)                    3

…… N学はドイツ国民の中にその特有性として保持されたということを,我々は哲学史に

おいて見るであろう。……プロシア国家は知性の上に打立てられた国家なのである。……

ドイツ的真面目と誠実とにおいて手をつないで働くこと  そういうことを,我々は時代

の深い精神によって要求されていると考うべきである。我々は一緒にヨリ美しい時代の曙

光を迎えようではないか。そこでは,これまで外部に向って分裂していた精神は自分の内

に向い,自分自身に帰ること〔自己回帰・還帰  筆者〕が出来るのである。又そこでは,

この精神は,諸々の心情が日常の関心以上に高められて,真なるもの,永遠なるもの,神

的なものを半弓することが出来,最も高いものを考察し,又掴むことが出来るような空間

と土壌とを,自分の国として獲得することが出来るのである。」

 国民性……民族精神(民族の在り方としての)と世界精神との一致  ヘーゲルはプロ

シア国家にその実現(と必然)を夢見た!

 が,しかし,(批判哲学の命題を借るまでもなく  )夢は夢,現実は現実。理1生的に

’言って一今,直ちに夢(理念)が現実として可能なわけではない。

 斯くして,プロシア国家(国家主義)の最高に至る過程(民族精神としての)に,ヘー

ゲルは歴史(哲学的歴史)  (理念と現実との交叉,発展・段階としての)Dialektik

を,(更には,芸術・道徳を含む宗教,経済・法律を含む政治……を)考慮したのである。

 換言すれば,ヘーゲルは歴史の過程を自由(精神としての)の発展  「自由の意識の

進展」……「すべての人間がそれ自体自由である」……と見たが,(在るべきものとして

の)「ゲルマン世界」こそ,その完成(段階的に得られるところの)であった。

 ヘーゲルの歴史哲学が,普通,“理想主義的歴史哲学”と評される所以である。

 「世界史は自由の意識を内実とする原理の発展段階を叙述するものであるd(ヘーゲル

『歴史哲学』,岩波文庫版訳,上,139頁。〉

 これをもって,ヘーゲルを反動視するおきまりの通説・世論(ヘーゲル左派以来の)は,

まことに一面的,皮相・軽薄と言わねばならぬ。さすれば一同じ論法をもって,我々は

マルクス(「人間の比較的低次の欲望(自然)」 物的利害を契機としながらも,ヘーゲル

に倣って「人間の完全な再獲得」(マルクス「ヘーゲル法哲学批判序説」)即ち自由を夢見る

                ボ スDialektikの)をも又,反動(の大親分)と看倣さざるを得なくなる。

 それは恰も,W.ゾムバルトをもって,ヒットラーのナチス(国家社会主義National-

sozialistische Deutsche Arbeiterpartei)に直結する通常の短絡に等しい。

 人間が最も合理的・理性的(但し,偏人間的な)となる時,その極限,その実験として

の象徴が,ナチスである。(現今,世界諸国の幾つかが,或はその全部が,同様の途を歩

んでいないという保証は,全くない。)

 ナチスに関わる価値判断は別問題として(一一俗受けする世論では,ナチスは悪の権化と

してこれ又今日既に定説のあるところではあるが),ゾムバルトが,たとえば『ドイツ社会

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主義』に考慮したのは,飽迄,彼の夢見た理想としてのドイツの設計であった。

 それは,ナチスのそれと多くの点で喰違いを見せているばかりか,それを遙かに凌駕し

ている。むしろ,ナチスの綱領の批判でさえある。(ゾムバルトがナチスの興隆を,自己

の思想のためのチャンスと考えたであろうことは,否めないとしても!)

 同著序に,言う。

 「……本書は時流におもねる書ではない。けだし私は,殊更に現政府の政策と,直接関

わるところなからしめたからである。勿論私は,ヒットラー政府に無関心であり,或はこ

れに反対しているからというのではない。決して,決して,そうではない。現政体の個々

の点の分析をやめた理由,現政府の政策や政府要路の人々の意見を,極めて僅か,しかも

多くは単なる例証として顧慮した理由は,むしろ斯かる態度によってのみ,我祖国に最も

よく奉仕することが出来ると信じたからに他ならない。……私が本書において立てた課題

は,現代の種々なる社会問題に国民社会主義的な統一的心構えの立場から得られる如き見解

を求めることにあるのであるが,斯かる課題は,只日常の政治から一定の隔りをもっこと

によってのみ,遂行せられるであろう。と言うのは,斯かる隔たりにおいてのみ,問題の

全体を,その根本的な簡単さとその必然的なつながりとにおいて見ることが出来るからで

である。……支配的政党たるナチスの内からは勿論,その外からも数多くの反対者が現わ

れるであろうことは,疑いないであろう。しかし私は遺憾とは思わない。矛盾によってこ

そ,真理は最も早く現われ出でるからである。……国民運動における信条が一つのドグマ

に固定せず,絶間なき意見の闘いによっ・て,初めて一つの現象となってゆくこと,これこ

そは国民運動における美わしくて希望に富み,真にドイツ的であるところのものである司

 ヘーゲルについても,全く同様のことが言われ得る。彼は決して,(現代の(自称)社会

主義者,“ダラ幹”が反動である程)反動ではない。(むしろ,逆である。)

 彼自身,(意識的に)書いている。

 「……自然の中では,『日の下に新しいものなし』である。……新しいものは,ただ精

神の舞台でやる変化の中にのみ出てくる。……精神界では,実際にモノを変化し得る能力

eine wirkliche Veranderungsfahigkeit,ヨリ良いものへの変化の可能性  完全性への

衝動ein Trieb der Perfektivitatが見せてもらえる。けれども,変化そのものを法則的

なものと見ようとするこの原理は,カトリック教会のような宗教〔ヘーゲルの所謂「客体

的私的宗教」〕や,保守的であることが,少くとも現状維持を計ることが国家の真の任務

だなどと主張するような国家の受けがよくなかった。彼等は一方では,一般に国家の様な

世俗的な事物の変化は認められても,真理の宗教としての宗教は変化からは除外されると

見,又他方では,呑気に,正当なものと見られている状態の変化,変革,破壊〔革命〕を

偶然性とやり方の拙さのセイにし,特に人間の軽杢と間違った情熱とのセイにする。……」

(ヘーゲル『前掲書』,訳135-6頁。)

 勿論,斯かる変革・革命(理性的思惟,精神を中心に現実界を動かすこと)は,(たと

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 アジア概念ヘーゲル『歴史哲学』の場合②                      5

えば,“極左冒瞼主義”における如き  )単なる破壊,外的暴力によってなされるもので

はない。

 「発展の原理は,……根底に内的規定,即自的にある前提があって,それが展開して現

実の存在になるという意味を含んでいる。……この形式的な規定を本当にもつもの・こそ,

実は世界史を自分の舞台,自分の財産,自分を実現するための場所とするところの精神に

他ならない。精神は偶然性の外面的な戯れの中を緋徊するというようなものではない。そ

れはむしろ,徹頭徹尾規定を行うものであり,飽迄も偶然性に左右されないものであって,

却って偶然性を自分の用途に使い,それを支配するものであるd(ヘーゲル『前掲書』,訳

136-7頁。斯かる意味では,フランス革命,ロシア革命……明治維新……は,すべて失

敗であった,と筆者は見る。その何れもが,その直後に著しい反動  絶対主義(専制政治)

を迎えた理由である。)

   科学的社会主義者エンゲルスが『反デューリング論』において,ヘーゲルを高く評

価している所以である。

 即ち,言う。

 「……このヘーゲル体系において初めて,  そして,これはヘーゲルの体系の偉大な

る功績であるが  自然的・歴史的及び精神的の全世界が一つの過程として,即ち絶えざ

る運動,変化・変形及び発展において把握されたものとして叙述され,旦つこの運動及び

発展における内面的関聯を關明せんとする試みがなされたd(岩波文庫肝胆,上,77-8頁。)

   むしろ,ヘーゲルの予想した変革・革命……Dialektik(マルクス……シュムペータ

ーなどに引き継がれたもの)……それは,その実際(ヘーゲルの所謂「内実」)において,

ヨリ革命的  ヨリ深刻・非情(現実的)なものである。

 「……精神の規定の実現過程は意識と意志とによって媒介される。・…・・その対象と目的

も,最初は自然的規定〔「有機的自然」の〕と変らないように見える。けれども,この自然

的規定と見えるものも,その魂をなしているものが精神である以上,自ら無限の要求と無

限の強靱さとをもち,又限りなく豊かな内容をもっている。……精神は自分自身の中にお

いて自分に対立することになる。そこで,精神は自分自身を真に自分自身に敵対する障害

として克服しなければならない。自然にあっては平穏な生産の形をとった発展も,精神に

おいては自分自身に対する仮借のない無限の闘争である。……精神の発展は有機的生命の

発展の様な平凡な,闘争のない単なる発現ではなく,いわば冷酷な自虐の面をもっているd

(ヘーゲル『前掲書』,訳137-8頁。)

 ……(精神における,創造・発展のための……多くの困難・苦難を伴った……)闘争……

闘争……。

   「戦いだ,戦いだ,仮借なき戦いを!

    神々に栄光あれ!」

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                       (ヴェルディ,歌劇『アイーダ』より)

            テロリズム 革命の美名にかくれた“人殺し”一暴力革命,でなく……。

 暴力の爆発によってではなく,叡知によって革命を遂行すること……。 「プロシア国家

は知性の上に打ち立てられた国家なのであるd

                 ゆりかご     「……斯様に私は,個性が揺藍と共に私に贈られた贈物ではなく,私が戦いを

    もって獲得しなければならない理念であることを知ったd(三木清「個性について」)

 ヘーゲルへの一面的な批難……。が,しかし,“真理は常に様々に語られる。”

 “一犬形(影)に吠ゆれば百犬声に吠ゆ。”我日本国民において,とりわけお得意の世論

…… B付和雷同……。

 単なる世論による誹諺は,(商業新聞の投書欄よろしき)その無責任と知的レベルの低さ

によって,かなりの弁解・弁護の余地を残す。

 しかし,他方,知識階級のそれは,その様な余地を残さない(筈である)。

 一体,いつの時代でも,凡庸  二流・三流の人間(即ち俗物・亜流……ニーチェによ

れば哲学者は一流より五流にまで分たれるとのことであるが……恰も我国の大学(のランク)

が三流の下(東大)より五流に分たれると言われる如く)……彼等を等しく特徴づけるのは,

現実的・物的な利害への異状な熱心と執着(所得志向・権力志向),即ち

 (1)彼等自身に相応しいケチな彼等の現実的・物的利益(パン)の保持・保守(即ち,

著しい反動性)

 (2)利益を横取りされることへの恐れ(彼等自身の自らの卑しさからの臆測としての,

“ゲスのかんぐり”よろしき)

 (3)現実の利益だけしか考え得ない彼等自身の精神の貧しさへの反省(うしろめたさ)

……凵X

からくる  第一級の人物に対する一致・共同しての憎悪と嫉妬……そして,妊計である。

「その憎悪と嫉妬とが強ければ強いほど,結合〔結合・団結のための信仰,イデオロギー〕

も堅いd

 俗物・俗流に相応しい  ヘーゲルの所謂「日常生活の小さな俗事の問題」(上述),特

にパンの問題……。

 「……パンのために研究する学者は,たとえ勤勉に励むとしても,自分がある官職の能

力がありその利益に与れるための諸条件を満すという,ただそのことだけが彼には問題な

のである。彼は只管そのためにのみ精神の全力〔ヘーゲルの所謂「精神の全能力と全勢力」

(上述)〕を動員し,自分の物質的状態をこれによって改善し,.小つぼけな名誉欲を満足させ

ようとする。……彼にとっての最も大切な業務となるのは,パンのための研究と自らが呼

ぶ諸学問を,それ以外のすべての諸学問から,つまり精神をただ精神として愉しませる諸

学問〔ヘーゲルの所謂「ヨリ純粋な精神的のこと」(上述)〕から念入りに選り分けること

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 アジア概念,ヘーゲル『歴史哲学』の場合(2)                     7

以外にない。……〔1〕パンのための学問の領域が拡大されることは,彼を不安にする。

新しい仕事が送りつけられてきて,今までの仕事が無駄になってしまうからである。〔2〕

あらゆる重要な改良〔改革,変革……革命〕は彼を恐がらせる。彼がやっと苦心して手に

入れた古い学問の形式が壊されてしまい,それまでの生活で得た仕事の全量を失う危瞼に

追い込まれるからである。……〔3〕如何なる学問においてであれ,祝福された天才が一

人出て光を灯せば,その何れの光でも,彼等の貧しさをありありと映し出してしまう。…

…… ナ,彼等は憤怒と好計と絶望感をもって争う。……それ故,パンのための学者ほど和

解し難い敵はなく,嫉妬深い小役人はなく,熱心な狂信家はないのであるd(シラー「魁界

史とは何か,いかなる目的のために人はこれを学ぶか」)

 カントよりヘーゲルに至る間のドイツ(観念論)の哲学運動は,「哲学革命」(ハイネ)

の呼称に相応しい変革であった。

 就中,ヘーゲルは,古代ギリシアから近代に至るすべての哲学を批判的に吟味し,体系

化した。  即ち,彼はDialektikによって,文字通り「批判Kritik」を行ったのである。

 単なる存在(有,Sein)としてではなく,その発展・進歩の極(目的)にあるもの,乃

至それを志向するもの・・…・換言すれば,“歴史”においてあるべきもの(当爲,Sollen)

  としての精神の強調……それは,ヘーゲル以前……フィヒテ,シェリ9ング……更には

カント(の歴史哲学)にまで遡る。

 「……カントの歴史哲学は彼の目的論の体系に属するものであって,第二,第三批判に

おいて充分に基礎づけられるのであるが,……歴史哲学的小論文(ldee zu einer allgeme-

inen Geschichte in weltbUrgerlich Absicht,1784. Beantwortung der Frage:Was ist

Aufklarung P 1884.)において,彼はそれまで動いていた『有』の領域から『当為』の領

域へ移ったことを明らかに示している。彼によれば,厳密な意味における『歴史』は,出

来事の一定の系列をただその時間的な継起或は因果聯関において把捉するに留まらず,そ

れを内在的目的の観念的統一に関係させる時初めて成立するのである。〔『純粋理性批判』

によって  〕自然法則の妥当性は,所与の自然が法則を持つのでなく,法則の概念が初

めて自然を構成するという洞察によって示された。それと同じく『歴史』も又,既定の事

実や出来事が後から意味や目的を持ってくるのでなく,斯かる意味目的を前提とすること

において初めて可能となるのである。……斯かる立場においてカントは初めて『歴史』を

見出した。〔ヘーゲルの場合と全く同じく(上述)一〕『人類の精神的・歴史的な発展は,

自由の思想の深化発展に他ならぬ。』自己解放の過程,自然的束縛から自立的意識への進

展,それが出来事の真の意義である。斯かる歴史観が漸く内に熟しつつあったカントは,……

人間の状態の価値ではなくして究極目的に規定せられるその存在自身の価値,従って人類

の不断の進歩を主張せざるを得なかったd(和辻哲郎『風土』,221-2頁。)

 筆者は,斯かるカントの特徴のよく出たものとして,むしろ,論文「永遠平和のために

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Zum ewigen Frieden」(1795)を,(筆者の25年前の古き記憶より)挙げる。  「私

の夢想曲『永遠平和のために』……」。

 フィヒテが「カントの極めて重要な著書」と呼ぶ本書(厳密には,論文),それについて

の邦訳(高坂正顕訳,岩波文庫版)の訳者解説は,那辺の事情を適確に把握している。

 即ち

 「……この書の根本思想は,既に古くからカントに萌していたということが出来るであ

ろう。……そのことを『永遠平和のために』に先立つ11年,1784年に現われた『一般歴史

考』〔先の和辻哲郎の挙げた1㊥ezu einer allgemeinen Geschichte in weltbUrgerlichen

Absicht,1784を指す〕が示していると言えよう。この書の課題は,特に世界公民的見地よ

りせる,,in welt聴rgerlichen Absicゼとの限定を加えられているのである。世界公民の

立場は,人類の歴史を通じて,人類を永遠平和に導くのである。……所謂目的の王国を世

界歴史において具体化した理想……『判断力批判』によって基礎づけられた自然の歴史的

合目的性が,その実現〔必然〕を保証しているのである。……自ら自己の『永遠平和のた

めに』の哲学的草案を『私の夢想曲』と呼んだカントは……その実現を歴史の比較的間近

に想定はしなかった。しかし,彼は又,歴史を目的なき無意味な出来事の反復とも考えな

かった。しからずして,彼はここでも,あるべきsein sollenなるが故にあり得るsein

kδnnenとして永遠平和を要請したというべきであろう。……理念は永遠である。それ

は永劫の未来においてのみ自己を実現すると共に,超時間的として直ちに現在に作用する

のである。〔ヘーゲルの所謂「現在的である永遠者」〕現実Wirklichkeitとは正に現実化

することVerwirklichungの他にはない。それがカントの理想主義の精神であろうd(も

っとも,筆者は先に「夢は夢  現実は現実……今直ちに夢が現実として可能なわけでは

ない……」と書いた……が。筆者の場合は一つは叙述の便宜上とはいえ  ヨリ常識的か。

尚,上述(高坂)の強調もあまり過度となると,シェリングの所謂「同一哲学」と同命題

となり,カントとは勿論,ヘーゲルとも遠く隔たることになる。念のため。)

 しかしながら,斯かるカントの立場が,フィヒテ,シェリング……ヘーゲルと直接的に

媒介されるためには,今一つ肝心なものが欠落していた  個別的・現実的存在Existenz

……M者の所謂「個性(精神としての)」,これである。(ヘーゲルについて周知の所謂「理

性的なるものは現実的である」)

 カント(の歴史哲学)においては,“人類”は語られても個性は語られない。個性は一般

的・普遍的範疇としての“人類”に吸収され尽す,と考えられるからである。

 そこにおいて個性は,(やはり,筆者の所謂)「単に我々(人間・人類)における特殊と

して語られる」  に過ぎないからである。

 「……人においてただ理性者としての本質をのみ見,その個性,性格,自然的素質とい

う如きものをすべて偶然事として捨て去る彼の立場の故である。だから彼においては,『人

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 アジア概念,ヘーゲル『歴史哲学』の場合②                     9

類の性格』とは人が理性者であるという最も普遍的な〔筆者の立場からすれば一一過度に

普遍的な〕規定を指すのであって,個別者の特殊の個性〔筆者の「個性(精神としての)」

……「単に我々(人間・人類)における特殊」でなく  同じ言葉の使い方の相異に,注

意せよ!〕を意味するのではないd(和辻『前掲書』,222-3頁。)

 しかし,このことは,同時に,他ならぬカント自身において自家撞着を生ずることとなる。

                    いくばく 「……カント自身においても個性の捨離は,幾可かの不斉合をもたらしていると考えら

れる。彼は,『世界市民的見地における普遍史の構想』〔訳語は異るが  言うまでもなく

先のIdee zu einer allgemeinen Geschichte in weltb肚gerlichen Absichtを指す〕の中で言

っている。『生物のあらゆる自然的素質は一度は充分に合目的々に発展すべきよう規定せら

れている』のであり,そうしてそれは『隠されたる自然の計画』によって導かれているの

である。しからば並在する種々の国民の自然素質の相違という如き個性の問題も,何らか

自然目的に基くものと考えざるを得ないではなかろうか。……自然は風土的な相違を欲し,

従ってそれによる個性の相違を欲したのである。言い換えれば人間の道が種々の形態にお

いて実現せられることを欲したのである。それならばヘルデルJ,Gv. Herderの所謂『並存

の秩序』も又,自然の目的として承認せられなくてはならないであろう。風土的特性と人

類史の使命とは離して考えることが出来ぬのである。」(和辻『前掲書』,223頁。)

 斯かる論理の辿りつくところ  筆者が本研究年報第13,14集(2篇)に「先進国・後

進国における共通」とタイトルして,(ウィットフォーゲルを手掛りに)結論づけたもの

と,略一致する。(殊に個別を共通,即ち自然という普遍的条件の下に考慮する点,上記援

用中の「ヘルデルの所謂『並存の秩序』」の考え方と……。)

 拙稿における同問題に関わる一文を示せば

 「……ウィットフォーゲルの理論における場合,たとえ同一の経済たりと錐も(彼にと

って,むしろ経済こそ『与件』である),その与件  歴史的・制度的……自然的・社会的

…… ^件,就中,自然的条件・自然契機…Naturmomenteの如何に応じて,無限の可能,(ウ

ィットフォーゲルの所謂『無限の変異と濃淡』〔個性,先のヘルデルの「並存の秩序」に同

じ〕を示し得る(と考慮される)。……換言すれば,マルクスの場合における如く,ただに

イギリス  乃至イギリスを先端とする単線的な発展  のみならず,『多くの変異と濃

淡』が明らかにされるべきである。……ウィットフォーゲルの言葉を再援しょう。曰く。

『「同一の経済的基礎  主要な条件に従って同一な  は,種々な経験的状態,自然的条

件,人種関係,外部から働く歴史的影響等々によって,単にこの経験的に与えられた状態

の分析によってのみ把握し得るところの,無限の変異と濃淡」とを示した。……具体的な

る経済史は,斯かる理論的な核心の分析を知ることなしには,一歩も進み得ないが,同時

に又それは,産業資本主義が,或学者の言う諸状態(客観的及び主観的・自然的諸条件と

国際関係の影響)の影響の下で,個々の地方に発展せしめた所の多くの変異と濃淡とを究

明すべきである。我々の現在の考察では,従来と同じくここでも又,第1位に置かれた外

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的な,客観的な自然的諸条件の契機を前面に押し出す。』」

 この点に関し,ウィットフォーゲルがヘーゲルに直接言及している箇所を,(本稿の後に

おける記述の便宜上からも)一緒に併記しよう。

 曰く。

 「……既にヘーゲルの言ったように,人間は,彼に道具を賦与する外的自然の上に,あ

らゆる『権力Macht』を行使するにも拘らず,その目的措定Zwecksetzungenにおいて

自然に『隷属している』ということを意味している。或る大哲学者は,このことを,ヘー

ゲル論理学に関する彼の註釈において,次の如く言い表している。『機械的法則と化学的法

則とに分類された……外的世界の法則は,人間の合目的々活動の基礎をなしている。人は

その実践的活動において客観的世界に対立し,これに依拠し,そして自己の活動はこれに

よって制約される』,と。」(ウィットフォーゲル「経済史の自然的基礎」)(……「経済史の

自然的基礎」……前稿で指摘した如くヘーゲル『歴史哲学』における同問題の篇名は「世

界史の地理的基礎」である。  ウィットフォーゲルがヘーゲルに意識的に倣ったことは

確実である。彼の大著『支那の経済と社会Wirtschaft u. Gesellschaft Chinas』のタイト

ルが,ウェーバーの Wirtschaft u. Gesellschaftにそのまま倣った如く……。)

 もっとも,ウィットフォーゲル(の同著)の場合,自然は直接的に媒介されるのではな

いこと,たとえば彼の強く批判した所謂“環境論”の古典というべくモンテスキューのそ

れとは,一種異るものであることが強調されなければならない。

 何故なら,ウィットフォーゲルの場合,自然は一定の媒介を経て,又その限りにおいて

有意義である。一定の媒介  即ち,何よりマルクスの所謂「生産様式」(=経済,ヘーゲ          プルノヨアル・マルクスの所謂「市民社会」の),これである。

 ヘーゲルに言及しつつ  ウィットフォーゲルの,言う。

 「『生産の仕方』,『物質的生産の仕方』,『物質的生活の生産の様式』と言われるところの

ものの地位及び意義……生産の仕方は,社会的に労働する人間が,その時々に自己の生活

資料を獲得する態様及び様式Art und Weiseである。・…∴生産様式とは『現実的生産過

程』,即ち,人間と自然との,その時々の『物質代謝』の本質的な要素の全体であるが,そ

の際,ヘーゲル以下の人々によれば,その性質は,全く自然の機械的=化学的合法則性な

る外的条件により条件づけられる側面たる,斯かる(生産)過程の物的側面を強調する必

要がある。……歴史分析の体系における物質的生産の仕方なる概念の,全く中枢的な地位

は,これによって与えられている。常に先ず社会的に労働する人間の自然に対する関係が                          り                               コ                    

…… 竭閧ニなる。……生産の仕方が先ず別挟されねばならない。……生産の仕方が先ず第

一だ!しかも,その内部で生産諸力の自然により条件づけられた部分に,明々と光が投げ

かけられることが必要である。だから,すべての歴史記述は,斯かる自然的基礎及び歴史

の経過におけるその変容から出発しなければならないのである。」(ウィットフォーゲル’「前

掲論文」)

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 アジア概念,ヘーゲル『歴史哲学』の場合(2)                    11

 そこにおける自然は,最早単なる自然科学的自然ではないことに注意すべきである。

 斯かるウィットフォーゲルに酷似する考え方として(マルクス以前に遡って)  16世

紀末フランスのボダン(Jean Bodin, De la republique)が挙げられる。

 「ボダンによれば,人間(個人,民族)の行為は『自然的素質』によって規定せられる。

しかるに,自然的素質は風土によって異るものである。だから,夫々特殊な風土を持った

国土は夫々特殊な民族の性格を示している。特に重大なのは,風土の相違によって労働の

仕方の相違がひき起され,それが強く自然的素質に影響するという点にある。……以上の

ボダンの考えは,風土の人間への影響を考える限りにおいて,……〔それ以前〕と異なら

ないのであるが,しかしその影響の仕方について『労働の仕方』を媒介として導入した点

においては全然新しいのである。又その点においては2百年後のモンテスキュー〔 彼

については前出〕……よりも進んでいる……。モンテスキュー……彼の説いたのは主とし

て人の肉体的性質に対する風土の生理学的〔自然科学的,外的〕な影響であって,風土の

人間存在〔内的,精神〕における意義ではない。……ボダンが風土を人間の労働活動の規

定〔社会科学的対象〕としたことは,これよりも一歩を進めているのであるd(和辻『前

掲書』,207-8頁。)

 「労働の仕方」(ボダン)……「生産の仕方」(ウィットフォーゲル)……歴史的発展の基

礎をなす物質的制約……。(国家  社会  自然(家族を含む))

 略同様の現実主i義的な把握(殊に労働,……人間と自然を媒介するものとしての)が,

ヘーゲルの社会哲学,「法の哲学」を特色づけている(事実,ヘーゲルの体系には不可欠

な要素・様式であった)ことは,言うまでもない。(理念……(民族の統一・人間性の解放)

…… ッ族・国家  社会(市民社会)  自然……現実)

 カントの歴史哲学において,“精神”としての,即ち“あるべきもの”としての歴史が

唱導されることによって,我々は単なる現実以上のもの,ヨリ深いものを志向するわけで

ある。が,しかし,それが直接「人類」に媒介されること(それは或意味でカント本来の

方向としての自然科学の基礎づけ,いわば自然科学的方法に基づくものと考えられるが)

によって,“個性”(何より,精神としての  個性……民族性,国民性……現実としての

個人,民族,国家)が省略されていたことによって,解決さるべき一つの課題を残すこと

になった。

 たとえば,民族性……各民族の各時代における独自・固有の精神……個性  価値は,

これを個人・国家との関係において,率直に認めざるを得ない。と同時に,斯かる関係に

ある精神(の歴史)が,その自らなる論理(存在の)の行きつくところ,その国民の置かれ

た自然的環境と不可分離であることも又,大凡考えつくところでもある。一定の与えられ

た自然(の場)との関係においてのみ,民族(民族精神)・…・個人,国家(も)……が自明の

ものとして与えられているからである。 斯かる関係を全然無視・没却して考えること

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は出来ない。(精神(の歴史)  民族(性)  自然……)

 而して,斯かる問題提起が,(先の援用に窺われる如く一)ヘルデルによってなされ

たわけである。しかも,カント以上にヨリ精神的(内的)……むしろ,精神科学的方法に

よって!……加えて,カント以前(古代・中世)になかった“発展”……歴史の考え方と

して!(この二つの批判としての眼は,現代のウィットフォーゲルにおける彼以前の方法

に対する批判の見方と相平行するものである。)

 「ヘルデル……彼において顕著に現われているのは,彼が風土を歴史に関係させて説く

時に,それを自然科学的な『認識』の対象としてではなく,それにおいて内的なものの現

われている『しるしZeichen』として〔ボダン,ウィットフォーゲル同様に……むしろ,

ヨリ深く内的,即ち精神的に〕取扱っていることである。彼の狙っているのは,風土の精

神Geist des Klima〔精神的に捉えられる一精神に現われている風土〕を捕えること

…… ナあった。……彼の目指す学問は……生ける自然〔ドイツ・ロマン派の所謂〕の解釈

Auslegenである。目に見える形に現われている精神を通訳することDolmetschenであ

る司(和辻『前掲書』,209一・11頁。)

 およそ,●世の在り来りの(そんじよそこらの)  所謂「唯物論者」なるものほど,想

像力の乏しい一知的活動(知性とセンス)に欠けた人種は珍しい。

 彼等によれば,たとえば,我々人間の死は単なる消滅に他ならない。 灰(現象とし

ての)になるだけ,ただそれだけのものである。(強調されるのは,たかだか,死の恐怖

だけである。)

 彼等は悪しき自然科学的偏見(自然科学についての体験なき,生かじりの知識)の所有

者である。  彼等は自然科学的諸命題が如何に多くの仮定と条件(制約・限界)の下に

成り立っているかを,全く理解しようとしない。

 他方,真の賢者(如何なる先入・権威にも囚われることのない,自由・自律的な)にと

っては,決して,そうではない。

 有機体を含めて,物(自体)一物質が如何に複雑iにして微妙・精妙なるものであるか

…… ゙しろ,そこでは,(世の宗教家,“狂信者”における)……神・霊魂なる形而上すら

不充分であるほどの豊富・潤沢な属性  しかも,物(自体),単に個々のものとしてで

なく全体として,そして尚且つ奥深いもの・生ける実体(ロゴス,ヘーゲルの所謂「内在

的である実体」)として在ること(の可能性)は,(物の外見的特徴に関わる  )僅かの

考察を以って,容易に洞察・判明する程のものである。

 我々は属性にヨリ深く立入ることによってのみ,物一自然にヨリ密接となる。(それに

よって,発展も又,可能となる。)

 斯かる意味での属性こそ,(その発展の揚句の果・結果としては  )外見上の物のむ

しろ主なる実質といった方が,ヨリ適切でさえある。(ヘーゲルの所謂「現実的なるもの

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 アジア概念,ヘーゲル『歴史哲学』の場合(2)                    13

は理性的である」)

 或は又,物の存在は,(最小限,我々によって認識せられ得る一)その物自体の属性

によって可能である,物は属性なしには考えられない,といった方がヨリ正しいであろう。

 広辞苑「属性」の項目には,次の様に書いてある。

 「①その物の有する特徴・性質。②〔哲〕物がそれなしには考えられないような性質。

物の本質をなす性質。スコラ哲学以来,デカルト・スピノザなどがこの意味で使用したd

 ましてや,一定の物(の属性)が,一つの(主体的)志向性のもとに全体的・統一的な

関聯(意味関聯)をもって存在する時,その物の存在(現存在)は,ヨリ正しくは,その

志向性(精神)によって一定の物が(正・:負,何れの方向にも)規定せられていること(そ

の初めにあっては自然規定性が問題であったとしても……)を,我々は又,容易に理解し

得るのである。

 最深の意味において,「唯物論」と「唯心論」(観念論)とは同一のものである。

 他ならぬマルクス  若きマルクスが,その学位論文の註において(如上と同様趣旨と

もいうべく),次の様に書いている。

 「それ自身の内で自由になった理論的精神が実践的エネルギーとなり,意志〔志向性〕

としてアメンテスなる冥界から現れでて意志なしに現存する世俗的な現実に対し立ち向う

のは,心理的〔=自然的〕法則であるd

 本稿脱稿後,たまたま,ヘーゲル『キリスト教の精神とその運命』(ヘーゲル研究の鍵とし

て不可欠の著として  本邦のヘーゲル研究の第一人者(哲学者),加藤尚武氏の筆者への推

奨あったもの)を読んでいたところ,訳(木村訳)の序(但し滝沢克己就筆,「九州大学哲学年

報」より転載の)に,次の様な記述(本稿の以上の主意と全く一致すると考えられるもの)を

発見した。

 参考のため註記しておこう。

 「……唯物論者のあらゆる嘲笑にも拘らず,現実に存在する物そのものは彼等の全く考え及

ばぬ深さを潜めて彼等自身を操りつつある。と同時に,そのように実存する物の深所は,いわ

ゆる実存主義者らの嗜好と饒舌に弄りなくそれ自身において明確なロゴスを宿して,我々がそ

れに耳傾けるのを待っている。もしも,人々が,『現実的なものは理性的である』と言ったヘ

ーゲルの哲学を,そのそもそもの故郷にかえして,更に精密に吟味する努力を怠り,いたずら

に彼の思想の観念性と彼の体系の抽象性とを非難するならば,それはただ彼等自身,ほしいま

まに真実の歴史の基盤を限り,『実存』するものの限界を忘れて,空しい幻を描きつつあるこ

との,何よりの証拠となるばかりであろうd

 勿論,このことは,たとえば,我々の将来における社会生活(殊に,経済生活)が,物一

自然から遠く離れていくことを意味しない。

筆者(ヘーゲルの?)見解からすれば一むしろその逆である。

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 我々の精神(理念)におけるヨリー層の発展は,他面,(むしろ,自明の事柄として)

物一自然(自体)のヨリ深い(ヨリ広い)面との関り合いを一層密接にする……。

 ヘーゲル・マルクスに倣って  ウィットフォーゲルの言う。(一部援用重複)

 「……たとえ,人間が労働過程において,労働手段の能う限り巨大な装置を,自己と自

己の労働対象との間に入れ得るとしても,その労働対象は,究極においては,依然として

自然自体である。『一方の側には人間とその労働,他の側では自然とその素材』,これは社

会的労働過程における最も普遍的な基本関係であって,この社会的労働そのものと同様に,

『人間生活の永久的な自然的諸条件,従って,斯かる生活の各々の形態とは独立の,むし

ろあらゆる社会形態に共通せる』〔マルクス『資本論』,第一巻より〕ものである。しかし,

このことは,既にヘーゲルの言ったように,人間は彼に道具を賦与する外的自然の上にあ

らゆる『権力』を行使するにも拘らず,その目的措定において自然に『隷属している』

(ヘーゲル『論理学』)ということを意味しているd(ウィットフォーゲル「前掲論文」)

 この点,未来の社会主義社会を,“黄金製の便器”で象徴させたレーニンの考え方は,(政

治的プロパガンダとしてはともかく,原理としては  “愚かしくも,馬鹿げた科学的根

拠なき迷論・空想的神秘説”)……全く馬鹿げている。(もっとも,マルクス自身にも,そ

の様な誤解の原因となる不用意な記述がある。)

 それは又,ウィットフォーゲルが,殊に今日の社会主義者(その実,“空想的社会主義

者”であるところの)についての批判的な見方をしている一つの強力な論拠でもある。

 ウィットフォーゲルによれば一現代の社会主義者(の殆ど)が,「唯物論」の何たる

かを全く理解していない。

 反面,通常ヘーゲルの欠陥とされている斯かる考え方について,ウィットフォーゲルは

むしろヘーゲルびいきでさえある。

 「自由の王国は,その基礎としての役をなす自然必然性の王国が拡大すると同じ程度に

のみ拡大され得る。」

 「多くの本質的に非進歩的な経済史のみでなく,進歩的な人々による経済史的;社会史

的労作の殆どすべてが,ここに提起された要求を満足させていないd(ウィットフォーゲ

ル「前掲論文」)

 同様に,『へ一ゲルー一その偉大と限界』の著者,1.フェッチャーは,斯かる点,一応

はヘーゲルを批判的に扱いつつ,(近代・現代の俗流としてのヘーゲル批判者と異り  )

尚,甚だ謙虚である。

 即ち,ウィットフォーゲルと同一問題に下りつつ(マルクス乃至ウィットフォーゲルよ

り同一箇所を援用……結論的にも,ウィットフォーゲルと何ら変りない),次の様に言う。

 「……マルクスの『唯物論』は,人間及び入間の連合〔共同〕が自然に制限されている

ということを知っているというより以上のことを意味してはいない。従って,同時に,彼

のヒューマニズムも,この意味での唯物論の内に存するのである。『一方に,人間とその

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 アジア概念,ヘーゲル『歴史哲学』の場合 ②                     15

労働,他方に自然とその物質』,これが,……『人間の生活が永遠に自然に条件づけられ

ているということなのであり,それ故このことは,この生活の如何なる形態にも依存せず,

むしろ人間のすべての社会形態に等しく共通していることなのである。』(『資本論』,第

1巻,146頁。)……確かにヘーゲルもこのことを知ってはいた。けれども,彼が自然を『精

神の他者〔等化〕』としてロゴスから生じさせたことによって,人間による加工の過程は,

自然において疎外された精神が自己自身に還帰することへと姿を変えたのである。〔精神

への一元化,一元的把握〕この観念論的な一元論に対して,マルクスは(自然的な)人間

の労働と外的自然との二元性〔二元的把握,その実ヘーゲルの論理と本質的には変りない

筈の〕を強調する。人間の労働は,自然の中に人間的な目的を実現することに益々長じて

くるかもしれないが,自然を頼りにすることや自然に依存することがそのことによってな

くなるということは,決してあり得ないであろう。……ヘーゲル体系の持つ過剰な思弁は,

今日の〔現実的な,余りにも現実的な〕思惟には,真面目に受け入れるには余りにも馬鹿

げているという気持を起させるが,しかし,もしかしたら,ヘーゲルの思弁の根底に存す

る神的自然と人間的自然との統一という思想を捉えるための気力が,我々に欠けているだ

けなのかもしれない。〔然り1〕我々にとって非常にはっきりとヘーゲルの限界だと思わ

れるものが,それ故,まさに我々の限界であるかもしれない。〔然り!然り!〕だとすれ

ば,我々の控え目な態度は誤っていて,我々及び我々の理性を自らの姿に似せて創造した

神に対する尊大さであるのかもしれない。ヘーゲルは,まだその最後の言葉を語ってはい

ないd(訳49-50頁。)

 閑話休題。我々は再びヘルデルに戻ろう。

 「……ヘルデルの主張する『人間の精神の風土学』は,上述の如き解釈の方法によって,

人間の日常生活的な姿〔ヘーゲルの所謂「日常生活」(上述)〕から神秘的な生の力〔ヘー

ゲルの「内的生命」(上述)〕の諸形成を見出そうとする。……だから,それは時には材料

の豊富に圧倒されて迷い出し,自然科学的民族誌的な叙述に陥ってしまうこともある。に

も拘らず,それが精神の風土学として興味深いのは,風土や生活の仕方を単なる認識の対

象として取扱わず,常にそれを主体的な人間存在の表現と見る態度が一貫していることで

ある。……人類が地上のあらゆる『ところ』において己れを風土化している……『それに

よって,その国土との密接な連関において形成されている感性的な民族が,その国土に忠

実であり,その国土から離れ難く感ずる,ということの理由が先ず明らかになる。それは,

彼等の肉体や,生活の仕方の性質や,子供の時から慣れている娯楽や仕事〔たとえば,労

働〕などが,言い換えれば彼等の心の全眼界が,風土的だからである、……』……『風土

は,ある国土に根差した民族においては,その風俗や生活の仕方の全体の姿において見出

され得るところの,微妙な素質を作り出す。それは非常に表示し難い,特に一々離しては

到底現わし得られぬものである。』……以上によって明らかなように,ヘルデルの『精神

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の風土学』は,自然と精神とを区別しない自然の概念に基づいて,個々の国民の価値個性

〔国民性〕を極端に力説したものである。……彼が歴史において求めたものは,人類の様

々なる生の表現の直観である。特殊的なるものを生ける個別者たらしめるところの特性的

なるもの,全然個性的な形成  それらの生ける全体を把捉するのが彼の目標であった。

第2には,国民の個性の尊重である。……彼にあっては,国民はそれ自身の特殊性におい

て独自の意義をもち,人道の実現として完成せるものたり得るのである。だから個々の国

民の姿をば,人類の究極目的への発展の単なる〔単線的な〕一過程として,ただ前後継起

の秩序においてのみ見るのは,彼の極力排斥するところであった。それは,並存の秩序に

おいて把捉せられなくてはならないd(和辻『前掲書』,212-20頁。)

 経済学におけるスミスの普遍主義に対する,リストの国民主義を想え1

 斯くして,我々は,カントが「価値の普遍性」を重んじたのに対し,「個々の価値個性」

  “個性”を尊重する系譜として,ヘルデル,フィヒテ,シェリング,そしてヘーゲル

を発見し得るのである。

 「カントの道徳的史観は『出来事』の深き意義を指示したものとしてドイツ観念論に強

い影響を与えたものであるが,しかしヘルデルの力説した『並存の秩序』も又,種々な形

に生き残って,全然消え去りはしなかった。フィヒテにおいては国民の個性の力説として,

シェリングにおいては生ける自然や価値の完成の主張として,更にヘーゲル〔の『歴史哲

学』〕においては精神の現われであるところの自然の特殊性が民族の文化的形成に貢献す

ることの承認として,夫々この問題への関係を保っている司(和辻『前掲書』,224頁。)

 即ち,換言すれば,我々は,ヘルデルの「精神の風土学」の新しき編成,再生として,

端的には,ヘーゲル『歴史哲学』,殊に「世界史の地理的基礎」を見ることが出来るので

ある。

 “世界史”次元による解明・解決1

 筆者の所謂「普遍性・客観性(としての個性)」  なる国家(ヘーゲルの所謂「理性

的国家」),国民……。(民族精神  世界精神……絶対精神)

 ヘーゲル以後,その方法が,経済学については,リスト(ドイツ歴史学派)に,或はマ

ルクスに引継がれていった  特に後者においてはヘーゲルにおける国民(性)が「プロ

レタリアート」……ヨリ現実的な人間,“市民社会”の要素へと変質していったことは,

今更,言うまでもない。

 「ドイツ人の解放は,人間の解放である。その解放の頭脳は哲学であり,その心臓はプ

ロレタリアートである司(マルクス「ヘーゲル法哲学批判序説」)

本稿における以上の諸考慮の下に(それらを我々の理解のための手掛りとすることによ

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 アジア概念,ヘーゲル『歴史哲学』の場合(2)                    17

って  )ヘーゲル『歴史哲学』,第2篇「世界史の地理的基礎」,殊にその「一般的諸規

定」の次の叙述が,(順を追っての熟読さえ厭わなければ,今やその解釈についての晦渋

・難渋さがすっかり取除かれるに至ったこと)少くとも基本的に言って何を意味するかを,

我々が略明確にし得たことを確認し,満足したい。

 「民族精神の自然との関係は,〔民族精神の  〕人倫の全体〔即ち,人倫的精神〕と

しての普遍性(国家)や,それの個々の現われをして行動する個人に(対する関係に)比

べると,外面的なものである。けれども,この自然的な関係が精神の活動のための地盤と

見られなければならない限り,それは本質的に,又必然的に一つの基礎をなすものである。

我々は本論の初めに当って〔と言うより,Dialektikが自然という現実,自然としての人

間・民族  物的・自然的基礎から出発するというスジ……考察の手順として……そして,

斯かる出発点そのもの  人間の現実的な実存を後に事新しく問題にし,ヘーゲルを批判

したのがマルクスでありキェルケゴールであるが……ヘーゲルについての彼等の読みは浅

かったというべきか……〕,世界史の中では精神の理念は外的な諸形態の一系列という形

で現実の中に現われ,その形態の各々は現実に存在する民族として出現するということを

主張しておいた。しかし,この現実的な存在の面は時間と空間,即ち自然的存在に属する。

即ち,各々の世界史的民族がそれ自身もっている特殊的な原理〔「特殊原理」・特殊性,更

に進んでヨリー般化されて一一個別性・個性〕は同時に,その民族の自然規定性なのであ

る。そしてこの自然性の衣を着た精神の特殊的な諸形態は分散的な形をとる。と言うのは,

分散性〔二ヘルデルの所謂「並存の秩序」〕こそ,自然の形式だからである。ところで,

この自然の区別は,先ず精神が発生するための特殊的可能性とも見らるべきものであって,

その意味で自然の区別こそ,ここにいう地理的基礎でなければならない。しかし,それか

といって,〔モンテスキュー(或は単なる立地論・人文地理学)における如く  〕単に外的な

地理的位置としての土地のことを学ぶのが,我々の問題ではない。我々の問題は,その土

地の子である民族の類型と性格に密接に関係するものである地理的位置の自然類型〔精神

として捉えられた〕を学ぶにある。この性格〔人と自然とのリレーションとしての〕こそ,

民族が世界史の中に登場し,世界史の中に位置と場所とを占めるための様式〔仕方〕をな

すものなのである。……そこで,ここに先づ㍉世界史〔哲学的歴史としての〕の運動から

全く除外される自然状態のことについて一言しておかなければならない。それは,寒帯と

熱帯とは世界史的民族の舞台ではないということである。と言うのは,目覚め行く意識も,

初めはただ自然の中に沈み込んでいるに過ぎず,従ってその意識の発展の各段階は,この

自然的直接性に対抗して,精神が自分の中へ反省〔回帰・早帰〕して行くことだからであ

る。……自然は人間がその自由を獲得するための出発点である。しかし,この自由の獲得

は自然の力によって妨げられてはならない。……極地帯では人間には自由な〔精神的の〕

活動の余裕はない。ここでは,寒暑の力が余りに強烈であるために,精神が自分の世界を

建設することは許されない。アリストテレスは言っている。『差迫った必要〔物的・自然

Page 19: NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITEnaosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/.../26472/1/toasia00_23_01.pdf2 尚,本稿はその内容の性質よりして,前稿(1)の(後というより)前に位置する。

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的欲求,「現世の国」〕が充されて後初めて,人間は普遍的なもの,ヨリ高いもの〔高揚さ

れたもの,殊に人倫としての文化……絶対精神,「神の国」〕にその眼を向けるものだ』,

とd(ヘーゲル『前掲書』,訳179-80頁。)

                                    〔未完〕