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Kobe University Repository : Kernel タイトル Title 新しい教育観の提言(New Opinions on Education and Intellect) 著者 Author(s) 嶋田, 博行 掲載誌・巻号・ページ Citation 神戸商船大学紀要. 第一類, 文科論集,50:163-174 刊行日 Issue date 2001-07 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 版区分 Resource Version none 権利 Rights DOI JaLCDOI URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81004305 PDF issue: 2020-03-24

Kobe University Repository : Kernelの中園、韓国などでも心理学がpsychologyの訳として定着したのです。3. rheart、soul、spirit は心理学の用語ではない。J

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Kobe University Repository : Kernel

タイトルTit le 新しい教育観の提言(New Opinions on Educat ion and Intellect)

著者Author(s) 嶋田, 博行

掲載誌・巻号・ページCitat ion 神戸商船大学紀要. 第一類, 文科論集,50:163-174

刊行日Issue date 2001-07

資源タイプResource Type Departmental Bullet in Paper / 紀要論文

版区分Resource Version none

権利Rights

DOI

JaLCDOI

URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81004305

PDF issue: 2020-03-24

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「新しい教育観の提言Jr日本の教育観の奇妙な常識を鋭く問うJ (1) -174ー

「新しい教育観の提言」

「日本の教育観の奇妙な常識を鋭く問う」

「知育偏重批判と心の教育批判JI子どもの学力低下と知性教育の復権」

嶋田博行

1 . 日本の教育観の常識、世界の非常識

われわれの日常での見方で広く、行き渡っている教育観に「知育偏重」ということばがあります。

この言葉は、あまりに広く行き渡っているため、何か当たり前の響きをもって語られます。すなわ

ち、教育の根本は「知性の教育」にあるのではなく、それよりももっと重要なことを教育しなけれ

ばならないというものです。でも本当に「知育偏重Jなるものは常識なのでしょうか。同じ漢字文

化圏の人たちの中国からの留学生に聞いてみると「そんな言葉は聞いたことがないj といって、笑

います。現在、アンケートを集計中です。

一方で、最近初等教育において、世界ーを誇っていた学力の水準が低下しているという指摘が各

種の調査からされています。また大学生の学力低下についても、新聞紙上で話題となっています。

しかし、文部省の学習指導要領の改訂では、 2003年から小学校のカリキュラムで、現在よりも

3割学習内容が削減され、「台形の面積は小学校で教えないようにする」とか、「小数点以下第 1位

までしか算数教えないようにする」とか、「漢字は書けるよりも読むことを重視するj というよう

な方向付けがされようとしています。

残念ながら、現在すでに大学生において、学力の低下が指摘されているわけですが、このような

初等教育段階の改訂が進むとさらに事態は悪い方向に行くことを危倶します。他方、少年非行の増

加や問題行動を起こす子供の増加傾向から、「心の教育」なるものが提言されています。

2.心とはなにか。

「心の教育Jをいうとき、私が専門としています「心理学j との関係を避けてとおるわけには行

きません。そして、私が大阪大学人間科学部を卒業し、教官として心理学を教育研究し、心理学を

専門としている多くの人たちの中で、もまれ、また本学に移って、多くの心理学以外の専門の先生

方と接し、さらに、アメリカでの在外研究を踏まえ、「心理学」がどうして、日本で根付かないの

だろうという感を深くいたしました。

確かに、現在「心理学Jはブームになっています。でもそれは、 一部の臨床系の心理学について

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-173-(2) r新しい教育観の提言Jr臼本の教育観の奇妙な常識を鋭〈問う」

であって、われわれ実験系の心理学については、それほど認識が変わっていないように思います。

私は最初に学生のころ、心理学に接したときにちょっと違和感を感じたことを思い出します。で

もその思いは、深く専門を追求するうちに忘れそうになりがちでした。しかし、大学での教育の中

で、「心理学」の講義を担当するときに、初心者にどのようにして、心理学を教えるかという問題

は、非常に重要であり、そのときに、導入用の教科書を調べたり検討するのですが、どうも十分書

かれているものが見当たりませんでした。

最近、アメリカに在外研究に行って、向こうのホスト教授のゴードン・ローガン教授 (Logan,

G)と議論してみて、大きなショックを受けました。そして、私たちが「心理学」として漢字で表

している言葉と psychology(サイコロジー)との間に、何か大きな違いを感じ、「もしかして心理

学に対して大きな思い違いをしているのではないか」という思いに駆られました。

「心理学」は psychologyに対応していることは、ご承知のとおりです。この言葉は、 1869年、

洋学者「西周(にしあまね)Jによって訳された言葉です。

日本はアジアの諸国に比べて、いち早く西洋の学聞を導入しました。ですから、閉じ漢字文化圏

の中園、韓国などでも心理学がpsychologyの訳として定着したのです。

3. rheart、soul、spiritは心理学の用語ではない。J

先に述べましたように在外研究でショックを受けたというのは、ホスト教授のローガン教授

(Logan, G)との議論の中で、 rpsychology (サイコロジー)の用語には、 heart、soul、spiritは

ないのだ。あるのは mindだけだよ。」といわれたことでした。 mindは「精神Jの中でも知的な精

神を表すとされている言葉です。それに対して、 soulや spiritは宗教の用語だと言われました。

また heart(心)は心理学の用語ではない。このときから、私は、 rr心理学」という日本語の言葉

そのものが、正しく psychology(サイコロジー)に対応しているのではないか』という疑問に捕

らわれました。

しかし、このことは、 B本の研究者に気づかれていていいはずの問題なのです。古典的な名著

「心理学問題史」の中で、城戸播太郎氏は伺が心理学の問題たりうるのかを、古代ギリシャから西

欧文化史、心理学の成立以降の歴史をつぶさに検討され、「世界の認識Jの問題から心理学の問題

が発生していることを指矯されていました。しかし、この著書の中でも、 rpsychologyが本当に心

理学なのかjの議論はされていません。すなわち、サイコロジーは、世界の認識という知的なもの

から、発生しているのです。まさにサイコロジーの問題の発生は、知性が優勢をしめているのです。

本学のドイツ語の教授との議論の中でも、SeeleとGeistは基本的に異なっているという話にな

りました。 psychology(サイコロジー)を心理学と訳したために、このことが、混同されている

のかも知れません。すなわち、 psychologyあるいは Psychologie(ドイツ語)では Seele(心)が

扱われているのではなく、 Geistが研究の対象とされているという事実で、す。また「心」という日

本語は「中心」という言葉に見られるように、物事の centerをあらわす一点というニュアンスが

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「新しL、教育観の提言Jr日本の教育観の奇妙な常識を鋭〈問うJ (3)ー 172-

あります。その点でもなにか、「心理学」という言葉が一人歩きしているような恐れがあると思う

のです。

「心理学」という語を psychologyという言葉の訳として採用されたとき、フロイトの精神分析

学はまだ提唱されていませんでした。そのことからしでも、西周が psychologyに対して根本的な

誤解をしたのではなL、かと思っています。

それが、それから 100年以上も議論もされず、に心理学という名のもとに続けられてきたのです。

少なくとも私は、この議論が学会の中で行われたことを知りません。

という私の研究室も「心理学研究室」です。心理学関係の学会にも所属しております。この問題

は、これから議論していかなければはらない問題だと思います。私たちが大学で行う心理学の入門

の授業においても「感覚JI知覚」の章あたりから、講義を始めるのが普通です。

ところで、私は学生に授業を始めるにあたって、次のような質問をしてみたことがあります。

「精神ということばで、最初に連想するのは、知性か感情か」

全員が「感情だ」と答えました。西洋ではどうもそうではないのです。

4.精神においては、知性が優先する

「精神から連想するものが、まず知性である」というのが、西洋哲学の伝統なのです。そして、

私たちが研究している認知心理学は、まさにその知性の心理学なのです。

では、感情の問題はどのように扱われているのでしょうか。心理学においても感情の問題は重要

な問題なのです。でも、感情は、知性によって促えられて始めて、感情として生じるというのが、

現代の心理学の見解です。難しくは、知性によってラベルが貼られてどのような感情なのかがわか

るのであって、心臓の鼓動が高まりというような、単なる身体的な変化だけでは、それが、恐怖な

のか、恋愛なのかはわからないのです。第一、意識不明の重態の状態で、感情が生じるのでしょう

か。 意識がしっかりしていないときに感情はどのように認識されるのでしょうか。

こう考えると、知性の問題は、単にいわゆる論理的な思考や、学校での丸暗記のような勉強の問

題だけでなく、日常の多くの行動に密接に関係している問題であるということがわかります。

5. r心の教育J批判

「心の教育」が「頭の教育」に対立する概念、つまり、「知性の教育に対立する概念」として提

唱されているのなら、それは、全く的外れな議論であると考えます。

しかし、私たちの日常の場面では、このような議論が暗黙の前提となっていないでしょうか。

「知育偏重」という言葉にあるように、「知性=頭=丸暗記=つまらない些細なこと」という認識が

どこかにないでしょうか。

これに対して、知性以外のもっと重要なことが教育としてあるのだと言われているのではないで

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-171一 (4) r新しい教育観の提言J r日本の教育観の奇妙な常識を鋭く問う」

しょうか。

しかし、それは、知性をあまりにも狭く限定して考えることから生じる議論であると思われます。

知性の教育すなわち、頭の教育は、学校教育現場で‘の丸暗記につながっているかのような議論が

行われていますが、丸暗記そのものは、「理由もなしに考えずに覚える」ということですので、む

しろ知性軽視の教育だとはいえないでしょうか。私は、今教育の現場で生じている学力低下の根本

的な問題が、このような教育観に根ざしているのではないかと思えてならないのです。

ここまでの議論をお読みになった時は、認知心理学を専門としている心理学者iこは、心の問題で

はなく、知性の問題、すなわち、教育カリキュラムの問題については、参考意見を求めるべきだと

気がつかれることでしょう。

やがて、大学全入時代がやってくるといわれています。このときに、勉強が大学に入るためにだ

け行われるのでなく、「人間として、生きていくためには、知性を磨くことが何よりも大切であるJ

という基本的な認識が重要となるかと恩われます。単に生きるのであれば、下等な動物の方がよほ

ど、上手に生きているかもしれなからです。

6. r体を鍛えると精神が鍛えられる」というのは神話だ。

日本で広く行き渡っている考え(ステレオタイプ)に「体を鍛えると精神が鍛えられる」という

考えがあります。本当にそうでしょうか。やはり、アメリカにいるときに、そのことを聞いてみま

しfこ。

そうしたら、やはり、「体を鍛えるのは、健康のためだ。精神を鍛えるには、大学で勉強すれば

いい」という答えが返ってきました。

またあるときに、体育の先生から「ヨットの訓練をしたら、人格の鍛練になるというような文献

を調べたい」という相談を受けました。先生はこのような研究をなさっているというのです。それ

で、心理学関係の文献を調べましたが、そもそもこのような問題設定が心理学に無かったのです。

われわれは自覚はしていませんが、やはり東洋的な伝統の中で生活しています。つまり、「精神

は論理的な思考では捉えられない。修行によって始めて体得されるものであり、それを言葉で伝え

ることはできない。」というものです。これに対して、新約聖書のヨハネ福音書では、「はじめにロ

ゴスがあった」といわれています。なんと大きな違いでしょうか。

キリスト教は、ギリシャ経由でヨーロッパに伝わりました。聖ノfウロがあれだけギリシャに伝達

するのが困難だったキリスト教が、ギリシャ哲学の伝統を-11.経ていること、さらに新約聖書がギ

リシャ語で書かれているという事実をもう一度考えてみるとき、われわれの精神的な風土がいかに

ヨーロッパと異質なものであるかという事実に直面します。「ロゴスすなわち、言葉、論理は語源

的には lightすなわち、光に通じています。」

宗教においても、説得の仕方が論理的で、神の証明や神学の伝統があります。われわれの宗教観

と異質なものを感じるのは、われわれは、どこかで、思考を停止してしまい、そのことが宗教だと

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「新しい教育観の提言JI日本の教育観の奇妙な常識を鋭く問うJ (5) -170-

思っていることと関係があるでしょう。

私は、アメリカのホスト教授に、日本では、「最初にロゴスがあったのではなく、カオスがあっ

た」と信じられているといいました。

7. r精神分析学も知性が優先する」

この議論をお読みになった方は、それでは、精神分析学はどうなのだと言われるかもしれません。

精神分析学は psycho-analysisの翻訳です。このときには、精神と言う言葉が使われていますが、

その問題はひとまず触れないでおきましょう。

ご承知のとおり、フロイトは、無意識についての壮大な仮説を提唱しました。この理論について

は、実験によって証明できるものではないため、その後、物議をかもし出してきました。

でも、彼は、治療の中で、自由連想、法を考案し、患者が無意識の中にあるものを語りだし、それ

を患者自身が自覚するときに、治癒するのだと主張しています。つまり、知性によって無意識の願

望を捉えることが、重要なことだといわれているのです。

私は「心の教育Jが、世界に発信されるときに、「心」という日本語が英語等の言語で何と翻訳

されているのか非常に関心があります。もし、 mindとするなら当たり前のことを言っているまで

です。また psychologyという言葉を使っているのなら、それもそれほどのインパクトはないでしょ

う。もし、 soul(魂)あるいはドイツ語の Seele(心)なら、そのことは果たして正しく理解され

るでしょうか。それは、教会学校で扱うべき内容だからです。ですから、日本の置かれている宗教

的な環境について、正しく伝えない限り理解を得るのは、困難だと思います。

8. r日本の子供の学力の水準がトップだったのはなぜかJ

話をもとにもどして、最近の子供の学力の低下について、話をしたいと思います。もともと、日

本のこどもは世界でもトップクラスの学力を有していることになっていました。でも最近の調査に

よると、このことがどうも疑わしくなってきています。国立教育研究所(1990)の資料によると、

科学知識は、 100点満点で平均が36点であり、先進国では、最低でした。残りの国の点数は、アメ

リカは、 55点、イギリス 53点、フランス51点、イタリア47点、カナダ45点でした。

また、 1994年の国際評価学会による小学4年生の算数の学力の調査では、 1980年では、 トップ

だった学力が、 89年の時点で首位から転落し、 3から 4位になり、近年では 7から 8位まで落ち

ているといわれています。

また、河合塾による資料によると、高校 2年生の全国統一基礎学力テストの数学の平均点は、

1990年では平均が68点近くあったのに、 97年では62点に満たなくなり、年々低下していっていま

す。

さらに、東京大学の教育社会学の苅谷剛彦助教授によると、高校 2年生の勉強時間(塾、予備校

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-169ー (6) I新しい教育観の提言JI日本の教育観の奇妙な常識を鋭く問う」

での勉強時間も含む)を調べると、勉強時間ゼロ時間の生徒の割合が1979年と 1997を比較すると、

22%から35%に増加していること。また、 3時間以上勉強する生徒は 17%から 8%に半減してい

るということで、相対的に勉強しなくなってきている傾向が見られると結論されています。

世間一般には、受験の弊害と知育偏重と言った論調が優勢ですが、それとは、裏腹に事実は反対

の結果が出ているのです。

日本の子供の学力水準がもともと高かったのは、日本の子供を取り巻く環境のせいだと私は考え

ています。たとえば、算数の場合、日本の数学は十進数を基準に構成されており、たとえば英語の

ように、 10から 12までと 13以上で呼び方が変わるというようなことはありません。 ten,eleven,

twelveまでと、 13からは、 thirteen.fourteen. fifteen .・・というように変わってしまって、 20

になるとそこからは twenty,twennty oneと始めて10進数を意識した数え方になります。

また日本では、文字がひらがな、かたかな、漢字という多くの種類の文字を使用し、特に漢字を

使用するため、細かい漢字の判別ができるのです。アルファベットは漢字に比べてなんと単純な形

をしていることでしょう。私は、図形認識の細かさの認識力についての国際比較を共同でしたこと

がありますが、日本の子供ははるかに高得点を示していました。

また、算数の掛け算の九九という便利なものがあります。われわれは、当たり前にしていますが、

どうも英語圏には、この九九なるものがない様なのです。というのは、在外研究のホスト教授の研

究が、このような学習を研究されており、大学生においても、「できるだけ速く問題を解かせ、そ

して長い間続けていくと掛け算を足し算と間違うエラーが生じることがある」というようなことを

話されていました。

私はその話を聞いて、「へ一、そんなことがあるのかなあ」と思ったのですが、九九がないとす

れば、納得ができるわけです。彼らは相当な時間、努力して、ついに数字を見ただけで掛け算がで

きるようになるまで、練習を積みます。心理学ではこれを「自動化Jと言っていますが、閉じよう

にできるようになったとしても、理由もなく九九の歌でいきなり「自動化j してしまった日本の子

供と、努力に努力を重ねて最初はできなくても、最後についに自動化できた欧米の子供とでは、ど

ちらが後の学習に有用な練習をしているかを考えたとき、私たちは、知性を使わない、簡単にでき

る方法を安易に使用しているのではないかと思えてくるのです。一時的には、子供の成績がいいよ

うに思えても本当にわかって使えているのとは別なのではないでしょうか。

9. rアメリカで心理学が盛んに研究されているのはなぜか」

今までの話で、教育観だけでなく、精神に対する捉え方が西洋の場合と東洋とくに、日本では異

なっていることをお話しました。ここでは、西洋とくにアメリカでなぜ、心理学の研究が盛んなの

かを考えてみます。こう言うと、アメリカでは、他の学問領域も盛んに研究が行われているので、

ことさら、ここで言う必要はないように言われるかもしれません。でも次の話を聞くと納得してい

ただけると思います。

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「新しい教育観の提言Jr日本の教育観の奇妙な常識を鋭く問うJ (7) -168-

今世界でもっとも心理学が研究されている国は、アメリカです。そのことは、だれもが認めます。

それは、学会レベルの活動だけでなく、それを受け入れる精神的な背景があると思うのです。

つまり、アメリカの建国の理念は、「民族、宗教、文化を超えて自由の名のもとに集まった多民

族が新しい国家を建設する」というものです。このとき、建前上は、過去の家柄や文化的な背景は

問題となりません。そこでは、宗教等の文化を超えた人間一般の行動の原理を知ることが何よりも

重要となります。同じ文化的な背景を共有している場合には、人間の理解は容易です。しかし、多

くの文化的な背景を持った人たちが国家を形成している場合には、人間一般の行動の原理を知るこ

とが何よりも重要になるのです。このことは、心理学の目指す目標と完全に一致しています。です

から、アメリカは、心理学者が研究した成果を社会が期待しているし、それをパックアップする土

嬢が用意されているわけで、す。

翻って、日本を考えてみるときどうでしょう。すくなくとも、私たちは、外国人がおられるにし

ても、アメリカのように多くの民族が集まって形成された国家の形態をもっていません。同じ言語、

文化、習慣を共有しています。

ですから、心理学者が「人間一般」の行動傾向を調べて伝えようとしても、そのようなものは、

「ッーカーJで分かり合えるものであり、それをわざわざ知らせてくれなくてもいいということに

なります。そして、必要なのは、問題行動や事件が起きたときの対処療法なのです。

一般の原理など必要とせず、困った問題が起きたときに、はじめて心理学の出番がやってくると

いうわけです。ですから、臨床心理学者が注目されて、実験系の心理学者の出番がなかなかないと

いうことになるのでしょう。次回は宗教観について書いてみることにしましょう。

10. 日本の精神的風土

前回の予告では「宗教観」について書くといいましたが、ここでは、ごく日常に私たちが気がつ

かないうちに、「精神j に対して、ある観点を取ってしまっているという事実について書いてみま

しょう。つまり、宗教の背景にある「精神的な風土Jについて書くことにします。

次の事実はよく言われ、またちょっと考えるとわかることですので、ここでは改めて触れないで

おこうと思っていましたが、 一応、簡単に触れておきます。

すなわち、われわれは、宗教的にはいろいろな宗派の儀式に参加するにも関わらず、基本的には

何の矛盾も感じずに生活しています。たとえば、正月には神社に初詣に出かけ、クリスマスを祝い、

お葬式は仏式で行っても伺の矛盾も感じないというのが、 一般的な精神的な風景だと思います。宗

教的には無関心だというのが、大部分の平均的な日本人ではないでしょうか。

宗教毎の信者数の調査によると、一番は神道なのですが、どうも正月の初詣の数もカウントして

いるのらしいので、それを除くと平均的には、仏教徒が多いということになります。

仏教はともかく、お経が難しいというのが、一番の問題です。私の出身大学(大阪大学)の心理

学を研究している後輩や先生には、結構、家がお寺の人がいます。また、私の後輩の研究者は、{曽

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-167ー (8) I新しい教育観の提言JI日本の教育観の奇妙な常識を鋭く問うJ

侶の位ももち、説教もする人なのですが、そのような人に聞いても、結局お経の中身がよくわから

ないといいます。

前のところでちょっと述べましたように、要するにわけがわからない、思考を停止した状態が宗

教であると思い浮かべるのはそんなことと関係するのでないかと思います。

ここまでは、どこでもよく誰かが言われることですが、次は、私独自の見方です。

私は、日本古来の宗教、つまり神道に着目します。というのは、これが、もっとも日本的な原点

だと考えるからです。神社に行くと、よく御神体というのがあり、石や木であったりするのですが、

そこには、しめなわがはってあります。このしめなわは、この場所が神聖な場所であることを示す

ためであると同時に、それに触れたり、見たりすることを禁止するという役目も持っています。

そのことの意義として、私は次のように考えます。つまり、なにか珍しい物体に対して、単なる

物質以上のものとして、尊重し、そして、尊重する行為は、その物質の本質を暴いてはいけないと

いう禁止と結びついているのです。

つまり、目に見える物質は、そのまま、物質として扱われるのではなく、背景となっている精神

的な実態については、暴くことは禁止されているというのが、私たちの宗教感、ないしは、精神的

風土の根底にあると思えるのです。

私たちが、仏教の汎神論的な世界をすぐに受け入れ、そして土着の宗教と結び、つけ、独自の精神

的な風土となったのは、そのような素地があったように思います。つまり、目に見える物は尊重し

ないというよりも、むしろ深く追求することが禁止されており、その結果、精神的な事柄について

は、寛容であり、「あなたは、あなたは・・・、私は、私。」伺を信じていようといわば、どうでも

いいというふうになるのでしょう。

このことは、仏教の教義やお経がわかりにくいということが結びついて、目に見えないものは考

えなくてもよいという、 宗教的無関心の状態が生まれていると考えます。

そのことが、本研究室のペー ジの会議室でも触れているようにハードウェアは尊重するのに、ソ

フトウェアは尊重しないという風潮に現れていると思われます。

たとえば、全国にコンサートホールが出来上がっているのに、それを何に使ったらいいかの議論

がないとか、コンビュータ商業においても、ソフトウェアの部門に対する遅れがあったり、教育に

おいても、コンビュータをそろえるのには、熱J心であっても、ソフトウェアを買う予算は貧しかっ

たりするのとどこかで関係しているように思われます。

このことは、われわれ心理学を研究している者にとっては、とりわけ重要な意味を持ってきます。

つまり、心理学はまさに、自に見えない精神についてのモデルを研究するからです。ですから、

実験結果については、厳密性を尊重するのですが、その先の理論になると、真剣に議論するよりも、

アメリカ等の理論の導入に熱心だという印象があります。そして、精神に本当のところ、法則性が

あるとは、信じていないというが、平均的なレベルの日本の精神的な風土であり、ですから、心理

学を受け入れる素地がないと思うわけです。

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「新しい教育観の提言Ji日本の教育観の奇妙な常識を鋭く問うJ (9) -166ー

11.義務教育は週 3日でよいか

先日テレビを見ていて驚いたのですが、心の教育を提言し推進している方がインタビューに答え

て、「義務教育は週 3日でよL、。週4日休めばいLリということを言われていました。

私はこの言葉を聞いて我が耳を疑いました。余りに現場を知らない発言だと思いました。

そしてこの国の将来はいったいどうなるのだろうかと暗潅たる気持ちになりました。

12.心理学の成立はもっと複雑な経過をたどってきた

この問題を、その後調べていくと、 psychologyという語がすんなりと翻訳されたのではなく、

もっと複雑な経過をたどっていることが分かりました。

この問題は提言その 2で触れているように、 1mental philosophy Jの訳として心理学という語

が現れました。どうして、「心」という真っ先に heartを連想する言葉が採用されたのか、どうも

政策的な意図もあるのかもしれないと思っています。

明治時代の公教育で、西欧の宗教教育にあたるような教育をする必要があったのではないか。そ

のときに、 mindや mentalに本来関係しているものを「心Jというspirilや soulも包含した言葉

で呼ぶことが是非とも必要だったのではないかと思われます。

西洋の言葉を日本に導入するにあたって、どのような言葉にするかについて、かなり苦心したこ

とは、想像できます。

そして、特に「政治」に近い言葉であるほと¥日本語としてどのような言葉として翻訳されるは、

重要であったと思います。

たとえば、今「権利」という言葉があります。もとの言葉は 1I暗htJです。

日本語、あるいは漢字 (Chinese)で「権利」という言葉だけ見ると、以下にも自分本意の利筈

のある自己的なニュアンスの言葉です。

でも元の言葉は、もっと単純な子供でもわかる言葉で、しかも正当であるとか、正義とかに関係

する言葉です。

だから、「権利」を主張するのは、正当であるために主張するのでしょう。自分が正しいという

ことを主張するのであって当然のことなのでしょう。

しかし、この言葉を翻訳するにあたって、「権利」という言葉にしました。もし「正当性」と訳

すれば、政治的に危ういという判断があったのでしょう。

このように何をもって日本語に翻訳したかは、非常によく考えられていると思います。

私は「心理学」を誤訳だと言っていますが、当初は意図的にわざと「心」という言葉に翻訳した

のかもしれません。

そして、言葉が一人歩きしたのだろうと思っています。

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-165一(10) r新しい教育観の提言Jr日本の教育観の奇妙な常識を鋭く問う」

でも、明治以来130年以上経ています。この辺で、もう一度、西洋の文化を日本の文化との比較

検討してみる必要があるように思います。

13.再び日本の宗教の状況

宗教的に無頓着なのが日本人の平均像なのです。クリスチャンは人口のたったの0.3%くらいで

増加も減少もしていません。

日本人で知識人とされている方でも、「神父さんJr牧師さん」の区別もわかりません。クリスマ

スを祝うのに、先日のイースターはさっぱり話題になりません。

今年*は2000年だと言うのにまったくお祝いもありません。よく考えてみてください。

なにかの庖や会社が創立10周年や100周年をお祝いするのは、当たり前のことです。

お祝いをするとき、 11年目、 101年目のお祝いをするでしょうか。 区切りのいい年でお祝いをし

ます。

今年は、キリスト生誕2000年目です。(もっとも暦に問題はありますが)、だから、ヨーロッパ

では、大聖年としてお祝いしています。

2001年目をお祝いするでしょうか。この事実一つ取ってもいかに日本が変わっているか、わか

ります。日本では21世紀が来年だからとか言って、まったく今年は何の感慨もないようです。

行動様式が西洋化して、若者は金髪をして、洋服をきて、いるようですが、根本的なところは、

まったく変わっていないように思います。

まるで「パスタ料理」を食べていたら、イタリア人になったような気分でいるのでしょうか。

だから、 spiritやsoulの問題は、心だとして、伺も区別せずに平気なのでしょうか。

提言2でも書きましたが、ある人が rsoulJ r spiritJと脳との関係について研究するのだと本気

でメールをいただきました。私は、そんなことを欧米の学者に言うと、「オカルトか超常現象jの

研究をしていると思われるのが落ちだと返事 しました。

14.理科系離れのー要因

最近、「高等教育フォーラム」というところで、発言をしています。そのおかげで、多くの方か

らメールをいただく機会が増えました。このフォーラムは、理科離れと学力低下、大学教育につい

て、理科系の研究者が中心になって、運営されているサイトです。私のページのリンクからもたど

ることが出来ます。

以下は、このフォーラムで書いたことですが、フォーラムをご覧になっておられない方もおられ

ると思いますので、ここに採録します。

子供の最近の「理科ばなれJとももしかしたら関係があると思いますが、日本の一般的な世界観

はともかく、「感情 Cemotion)Jが前面に押し出されています。 一見すると最近のライフスタイル

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「新い、教育観の提言Jr日本の教育観の奇妙な常識を鋭く問うJ (11)-164-

は西欧に近くなっているようですが、私は違和感を覚えます。ますます、生身の感情の表出が多く

なっているようです。いろいろな、教育の問題もそのあたりと関係しています。

もともと、日本はこども中心の社会です。たとえば、家族においても、子供が出来ると、夫婦は

小さい子供が呼ぶ呼び方で、自分たちのことを呼び合います。

夫婦は「お父さんJrお母さん」と呼びます。そして、自分で自分のこともそう呼びます。孫が

出来ると、「おじいさんJrおばあさん」です。

いわば、一番家族の幼い子供に自分を同化されて、自分を呼びます。そして、「かわいいJとい

う感情が何よりも尊ばれます。

この辺りのことは、犬や猫のペットについての関わりと関係がありそうです。犬を散歩させてい

る風景によく出会いますが、飼い犬に振り回されているような飼い主によく出会います。アメリカ

のホスト教授の犬は、家の中でしっかり族られていました。絶対に主人がいいというまで、テーブ

ルの下でじっとしていました。

要するに「かわいい」という感情が真っ先にたって、子供を族るということが出来ていないので

す。そのうちに子供が大きくなって、かわいくなくなったとき、家庭でも社会でも大きな変化が出

てきます。この辺が中学校、高校の問題になっていることと関係があるのでしょう。

いわば、生身の感情があまりにも問題になりすぎているのが原因なのでしょう。

子供の側の問題として、世界観の変化があるでしょう。 一見すると今の子供は、コンビュータや

電化製品に固まれて、科学知識は豊富なように思います。でもテレビ番組を見ていると決してそう

ではありません。

どこの時代なのか地域も不明なところが想定されていて、オカルトでミステリアスな魔法とかそ

んなことが版で押したように多いです。

私たちの子供のころのことを考えると、年齢がばれてしまいますが、昭和30年代だったのです

が、今よりも科学に対するばら色の未来を描いていました。

そして、大きくなったら、科学者になるという夢を描く少年が多かったように思いますが、単な

る思い過ごしでしょうか。

いつしか、公害問題が生じ、高度経済成長の反省期に入りました。そのころには、大学生になっ

ていましたが、なにか違和感を感じたことを覚えています。

なにか、科学それ自体に問題があるように社会的な風潮と、日本の昔話のようなテレビ番組が増

えたようなそんな印象があります。

公害問題は、なにも科学の問題ではなく、その問題は十分に科学で対応できる問題であるという

ようには、社会の大多数の人たちには、捉えられなかったように思います。

その中から、科学に対するばら色の未来という構図が日本の社会から消えていったように思えて

なりません。

Page 13: Kobe University Repository : Kernelの中園、韓国などでも心理学がpsychologyの訳として定着したのです。3. rheart、soul、spirit は心理学の用語ではない。J

-163ー(12) i新しい教育観の提言Ji日本の教育観の奇妙な常識を鋭く問う」

そこから、出てきたのは、生身の感情の噴出の問題であったと思います。

本稿は、神戸商船大学心理学研究室サイト (http://www.planet.kshosen.ac.jp)で発信してき

た「提言」の内容を転載したものです。

注* 本稿は、 2000年に書かれました。