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Kobe University Repository : Kernel タイトル Title 18 世紀後期の長崎における抜荷観 : 唐貿易を中心に(Views on Smuggling under the Chinese Trade in the Late-Eighteenth-Century Nagasaki) 著者 Author(s) 添田, 掲載誌・巻号・ページ Citation 海港都市研究,3:75-88 刊行日 Issue date 2008-03 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 版区分 Resource Version publisher 権利 Rights DOI JaLCDOI 10.24546/81000032 URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81000032 PDF issue: 2020-11-11

Kobe University Repository : Kernel · しかし、貞享元年(1684)に清朝が遷海令を撤廃したことを受けて、長崎の貿易体制 は大きく変化する。幕府は、翌年に定高仕法の採用をもって貿易額の上限を決め4、元禄

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Kobe University Repository : Kernel

タイトルTit le

18 世紀後期の長崎における抜荷観 : 唐貿易を中心に(Views onSmuggling under the Chinese Trade in the Late-Eighteenth-CenturyNagasaki)

著者Author(s) 添田, 仁

掲載誌・巻号・ページCitat ion 海港都市研究,3:75-88

刊行日Issue date 2008-03

資源タイプResource Type Departmental Bullet in Paper / 紀要論文

版区分Resource Version publisher

権利Rights

DOI

JaLCDOI 10.24546/81000032

URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81000032

PDF issue: 2020-11-11

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18 世紀後期の長崎における抜荷観——唐貿易を中心に——

添 田   仁(SOEDA Hitoshi)

はじめに

 近世長崎は、幕府による独占的な「鎖国」貿易体制のもと、「権力によって強力に維持・管理された都市」[松本 1975:226]であるとともに、貿易にかかわる「権益と恩恵」を享受した特権都市として描かれる。長崎町人は、幕府の「貿易管理機構」に組み込まれることで貿易の「役」を務め、その対価として付与された特権に寄生して「鎖国」下を生き抜いた、とされる[中村 1972:85]。 かかる長崎町人に付与された特権を象徴するものが、貿易利潤の地下配分制度である。17 世紀末- 18 世紀初頭における長崎会所の成立と正徳新例によって、幕府が貿易からあがった利潤を収公する体制が確立した。この幕府に収公された貿易利潤のうち、都市財源として毎年定額で市中に投下された 11 万両(うち出来高によって増減する 4 万両があるため、最低年間 7 万両)が地下配分金である。地役人1の給料、諸役所の雑費、寺社礼銀など、長崎の維持にかかわる多くの経費が、ここから賄われた。また、その約 3 分の 1は、箇所銀・竈銀もしくは唐船宿町付町銀として、市中の各個別町・住民個々に分配されていた。地下配分制度は、貿易以外に産業基盤を持たない長崎町人の「成り立ち」に対する助成策であると同時に、諸外国を意識した「国政のショーウインドー」としての役割まで果たしていたとされる[長崎県史編集委員会 1986:410-411]。 以上のように、長崎町人が、貿易体制を維持することを前提に、種々の特権を付与され、幕府に寄生的な社会的位置を与えられていたことは確かである。しかし、長崎町人自身が、貿易体制や特権に対して、実際に如何なる認識を持っていたのかという点については、こ

1  長崎における貿易業務および都市運営は、長崎町人の特権として排他的に担われていた。このような特権を付与された町人は、江戸から派遣される武士身分の役人(旗本・御家人)とは区別され、現地採用の町人身分の役人という意味で「地役人」と呼ばれた。彼らには、貿易取引による利潤から役料が支給されている。役務を世襲制によって代々継承していたが、その役株(役務に就労する権利)は頻繁に売買もされており、結果的に、地役人と一般町人との境目は流動的であった。長崎の貿易体制は、貿易の取引、貿易品の鑑定、通訳、異国人の管理といった外交・貿易業務のみならず、住民・衛生管理、警察などの公共業務まで担った実務家集団である彼ら地役人の存在なくしては存立し得ない。

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れまで明らかになっていない2。よって本稿では、18 世紀後期における長崎町人の視点から、「鎖国」貿易体制に対する彼らの認識を明らかにすることを目的とする。 今回、中心的な分析対象とするのは、来航唐船がもたらした貿易品をめぐる抜荷3(密貿易)に対する長崎町人の姿勢である。特権都市である長崎の存立を根本から脅かす不穏な因子として、駆逐されるべきものであったはずの抜荷に対して、長崎町人は如何なる認識を持っていたのか。すでに、実際に抜荷に手を染めた者の抜荷観については、その罪の意識が薄かったことが指摘されている[荒野 1984:453-454]。しかし、その理由については、

「欲望のおおらかな肯定と、武士階級の価値観の相対化」など「西鶴や近松の世界に一脈通じるもの」という、17 世紀後期- 18 世紀前期の思想面からの一般論的な説明にとどまっている。 よって、長崎町人の生の声から彼らの抜荷観を抽出し、これをもって、国家権力に寄生し、特権都市の「権益と恩恵」に浴していたとされる長崎町人の「鎖国」貿易に対するスタンスを見直す一助としたい。

Ⅰ 貿易体制の緊縮化と抜荷

1 貿易体制の確立と抜荷  当初長崎への来航唐人は、自分の馴染みの者を船宿とし、その船宿が、唐人の宿泊・滞在の世話、唐船の管理・整備、貿易品の保管・管理、取引の斡旋、貿易資金貸し付けの斡旋などを行い、種々のマージンを取得していた。これが、寛文大火を経て、寛文 6 年(1666)からは、全ての船宿の業務を、個人ではなく個別町が順番で行う「惣振船制」(「町宿」)に姿を変えた。これによって均霑化された貿易特権(宿泊・世話)、そして種々のマージンが長崎の町を潤していた。 このように、当初幕府は唐人との関係を「政府は関与しない、民間レヴェルの関係」[荒野 2006:10](「「商人」間の「私的」な関係」[荒野 1989:421])として位置づけていた。その理由として、当時はまだ「明との講和が不成立」であった点が指摘されている[荒野2003]。つまり、明・清と正式な国交を持たない上に、彼国の犯罪者と直接的に関係を持っ

2  18 世紀中後期の長崎において、長崎奉行と「長崎庶民(日雇)」との間に、国家的な体面に対する意識の「ズレ」のあったことが報告されている[若松 2000:5-6]が、その「ズレ」を生み出す長崎町人の心性にまで立ち入った議論はなされていないのが現状である。

3  上位にある地域権力(ないしは地域権力の共同)の規制から逸脱した流通行為を「抜荷」と呼ぶとき、その舞台として①複数の国家領域をまたいだ地域、②複数の藩領域をまたいだ地域、③一つの藩領域に収まる地域、以上三通りが想定できる[池内 2005:51]。本稿で問題とするのは、国家秩序による規制力と対峙する②の抜荷、つまり「鎖国」下の日本において、長崎を中核とした幕府の独占的な貿易構造から逸脱した流通行為である。

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ていては、幕府は東アジアにおける国際関係上の体面を保つことができなくなってしまうからである。 しかし、貞享元年(1684)に清朝が遷海令を撤廃したことを受けて、長崎の貿易体制は大きく変化する。幕府は、翌年に定高仕法の採用をもって貿易額の上限を決め4、元禄元年(1688)には来航唐船数を 70 艘に限定した。さらに、正徳 5 年(1715)の正徳新例では、唐船数が 30 艘にまで削減され、主要な輸出品も銀から銅に転換された。これらは、来航唐船の急増によって、国内の銀が大量に流出することを防ぐための措置であった。 これにともない、元来各町で実現されていた唐船貿易も姿を変えた。元禄 2 年(1689)には唐人屋敷を建設して、唐人を日本社会から隔離し、貿易取引も元禄 11 年(1698)に設立された長崎会所において独占的に行われることとなる。また前述したように、取引によって生じた利益は、幕府の財源として収公されるだけでなく、その一部が、長崎町人の生活費や公共事業費を賄う地下配分金として市中に投下されることとなった[中村 1972]。 定高仕法の公布から長崎会所の設立までの一連の過程が、唐貿易にかかわる長崎の地域住民の権利を侵食するかたちで進められた背景には、清朝の展海令によって、長崎に来航する唐人・唐船が犯罪者ではなくなったことが影響していると思われる。すなわち、清朝との国交はないにせよ、国際的に唐人・唐船が犯罪者ではなくなったことによって、幕府は唐貿易の運営を完全なる「民間レヴェルの関係」に止めておく必要がなくなったのではないだろうか5。 ともかく、定高仕法による来航唐船への制限は、積戻り唐船による近海住民への売れ残り品の廉売をも促した6。唐人を介する抜荷は、唐人屋敷・出島を取り巻く長崎市中のみならず、非公認の唐船が、長崎近海、さらには北九州沖から長州沖にかけて「漂流」したことで頻発した。これらは、長崎の貿易体制が確立するなかで、貿易秩序を根幹から揺るがしかねない「犯罪」として、幕府主導で摘発されなければならなくなった。

2 緊縮化する貿易体制 正徳新例で定められたオランダ船 2 艘(3000 貫)・唐船 30 艘(6000 貫)の定高は、享保 2 年(1717)に一度、唐船が 40 艘(8000 貫)に拡大されて以降、徐々に制限の途

4  年間取引額を唐船=銀 6000 貫目、オランダ船=金 5 万両(銀 3000 貫目)に制限し、それ以上の物資は積戻りを命じられた。

5  ただ来航する唐人・唐船は、「海賊の残党」として扱われることもあった[松尾 2004]。6  正規の貿易では、唐人手前の元値に、品により 3 割 5 分から 14 割の関税的な「掛り物」を課し、

これが長崎での内地商人への卸値となるのに対し、「抜荷」において唐人に支払う値段は、正規ルートの約半値であったとされる。

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を辿る。そして、寛政 2 年(1790)には、オランダ船1艘(700 貫)・唐船 10 艘(2740貫)にまで定高を制限する、いわゆる「貿易半減令」7が発布された。 貿易額の制限と並行して、幕府による貿易統制(抜荷取締り)も強化されている。なかでも安永期(1772-1781)は、長崎に在留する異国人に対する締め付けが格段に強化された時期である。安永 4 年(1775)8 月(翌年 12 月まで滞在)、オランダ船主任医官として来日したスウェーデン人C・P・ツュンベリー(Carl Peter Thunberg)の日記は、当時のオランダ人を取り巻く変化の様子を雄弁に語っている。

   (前略)これまで商品をこっそりとオランダ商館へ密輸入するために、船長の幅広  い上着やズボンをはじめ一〇〇通りにも達する策略が弄されてきた。そして検閲をう  けることのなかった通詞らは、徐々に密輸品を町へ運びこんでは現金に換えた。彼ら  は商品をよく頭髪やパンツのなかに隠して、事をうまくなし遂げようとした。(後略)  [ツュンベリー 1994:43]

 この少し前まで、オランダ船の船長や地役人(通詞)が、さまざまな手段を用いて禁制品を長崎に持ち込んでいたことがわかる。とくに通詞と同じく検閲を免除されていた船長は、「幅広い上着」を羽織り、「幅太の大きなズボン」をはき、これらにたくさんの禁制品を忍ばせ、ときに船員に両脇を支えられながら出島に乗り込んでいた。当時の長崎では、オランダ船船長=「でっぷりとした肥満体」というイメージが定着し、この「上着」と「ズボン」を着用していない中肉の船長を見た日本人が驚いたほどであったという[ツュンベリー 1994:31]。 しかし、安永元年(1772)のオランダ船ブルグ号遭難事件が事態を一変させた。暴風による浸水のために船員に放棄され、日本の海岸に漂着した同号の船内から、オランダ商館長と船長による禁制品が大量に発見されたからである。この後、船長と商館長も他の乗組員同様に検閲を受けることとなり、船長の「上着」と「ズボン」は禁止され、船長が船と出島を往復することにも規制が加えられた[ツュンベリー 1994:23]。この他、幕府による締め付けが如何に厳しいものであったかは、以下の記述からもうかがえる。

   (前略)寝具はたびたび切り裂かれ、なかの羽毛をかき廻される。バター入り容器  や砂糖菓子の壷は、鉄の棒をなかに差し込んでみる。チーズには四角の穴をくりぬき、  そこから長い鉄串を入れて隅々まで刺してみる。日本人の疑い深さは、バタビアから

7  ただし、定高の制限が、実際の貿易総量の低下に必ずしも直結しなかったことは、脇荷貿易や「貿易半減令」などに関する実態分析から明らかにされているところである。

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  持ってきた卵を一つ二つ取り出し、それを割ってみるところまで及んでいる。(後略)  [ツュンベリー 1994:42]

 なお、唐人についても、「中国人は、今ではオランダ人と同様に疑われ、厳格に扱われており、場合によってはオランダ人より厳しい扱いを受ける。」[ツュンベリー 1994:64]とあり、オランダ同様、厳しい締め付けにあっていたことがわかる。 抜荷に対する規制の強化は、長崎市中にとどまらず、広く九州全域に拡大した。正徳新例は、定高制以降も実態的に続いた銀の流出を食い止めるために、銅貿易を整備する意図を持っていたが、18 世紀後期になると国内の銅も不足する。これをうけて、天明 5 年

(1785)、銅の流出を食い止め、かつ逆に中国から銀を再輸入することを目論んだ幕府は、対価としての俵物(煎海鼠、鱶鰭、干鮑、昆布)の重要性を再認識し、あらたに長崎会所における俵物の独占集荷体制を構築した。 しかし、このために幕府によって俵物を安価で買い取られる(蝦夷地を含む)沿岸部住民と、長崎で高価な俵物を購入しなければならなくなった唐船、また琉球を介して唐物(異国品の総称)の一部取扱権を与えられていた薩摩藩との間に利害の一致が生まれ、薩摩を一つの核とした俵物と唐物をめぐる不正取引が、日本の全国各地で頻発した。18世紀後期、幕府は、それまでの唐船との抜荷現場の摘発(唐船打払い)だけではなく、全国的に流通する不正物まで、国内商人による販売経路に介入して摘発しなければならなくなったのである[西村 1973][荒居 1980]。

Ⅱ 長崎地役人の抜荷対策

1 地役人の意見書 寛政 10 年(1798)1 月に長崎地役人のうち遠見番原才右衛門8(A)が、そして翌 2 月には船番筆頭三原十太夫9(B)が、それぞれ奉行所に宛てて意見書を提出している10。こ

8  遠見番は長崎港口で待機し、異国船に関する注進・抜荷の取締りなどを担当した。原家の由緒については詳細不明。

9  船番は、主に長崎港内の警備を担当した。三原家は、加藤肥後守(清正)に仕えた三原與助を祖とする(「由緒書」、長崎歴史文化博物館所蔵渡辺文庫)。ただ、加藤家に仕えていた時の知行・役柄などは不明である。與助は、浪人となった後に長崎へ流れ着き、寛文 12 年(1672)に船番として召抱えられた。その後、正徳 5 年(1715)には、與助の弟である十郎八も別途船番に召抱えられた。十太夫は、おそらく十郎八の家系に属したものと思われる。嘉永 7 年(1854)段階では、十郎八の後裔として御役所附助船番正太郎、與助の後裔として船番為三郎の名前がある。

10 原の意見書は「御役方要用記録 六」(長崎歴史文化博物館所蔵)、三原の意見書は「松平石見守様依御意差上候存寄書」(長崎大学附属図書館経済学部分館所蔵)。以下、それぞれの抜荷対策・抜荷観に

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れらは、長崎奉行松平石見守貴強から「唐抜荷密買筋」について「無腹蔵」意見を求められたことに対する返答書である。なお、遠見番・船番はともに、長崎市中・港内の警備、そして広く九州全域の抜荷取締りを担った地役人である。天明 5 年(1785)5 月には、奉行戸田氏孟によって、遠見番 2 人を含む地役人 4 人が「薩州筋為取締隠密御用」として薩摩に派遣されている11。彼らは、警備だけでなく、スパイとして薩摩地域に潜り込むなどして種々の抜荷情報を収集し、幕府の耳目として活躍していた [添田 2008]。 意見書の提出を命じた奉行松平貴強は、寛政期以降に勘定奉行を兼役した数少ない奉行の一人であり、都市運営の方針も「支配の緻密化」路線12 であった。ゆえに、原・三原の献策には、特権都市長崎の秩序を乱す抜荷を駆逐するための熱意と方策が詰め込まれているであろう。まずは、彼らがもたらした情報から明らかになる、当該期の抜荷の傾向を示しておこう。

①抜荷を行う場所について、オランダ船は性能が良いはずなのに、近年、順風でも 3・4 日も天草のあたりに漂っている。一方、唐船についても、20 年前には五島に「漂着」する場合が多かったが、近年は、薩摩と天草に「漂着」する場合が多く、五島は少ない(A・B)。

②抜荷品について、唐船は、薩摩や五島で俵物を購入している(A)。③抜荷品の流通について、大坂、その他諸国に不正物が多く出まわっているが、これら

は長崎に来航する唐船・オランダ船からの抜荷物ではなく、琉球を経由して薩摩に入り、その後国内に流通した唐物と思われる。この唐物は、薩摩藩内での販売は許されているが、実際には藩内商人には 10 分の 1 も販売されず、大坂・京都をはじめとする諸国の商人が多く薩摩に入り込んで買い取っている(A)。

④抜荷品の出元について、琉球経由で薩摩に入ってくる商品は、毛類・鼈甲爪・蘇木など、たしかにオランダ船荷物に似ているものが多い。しかし、鮫・奥嶋皿紗・硝子器・砂糖などは見えないことから、これらはオランダ船からの抜荷品ではなく、「奥出し」(ベトナム・カンボジア・タイ)の唐船荷物である。薬種には上質のものが多いが、とくに広東人参(朝鮮人参の偽物)を多く仕入れている(A)。

 地役人の意見書は、唐物が、天草・薩摩近海での直接的な抜荷行為のみならず、唐船か

ついては、断らない限り、同史料を典拠とする。なお、それぞれ献策の末尾には、(A)(B)という記号を付している。これは、遠見番原才右衛門=(A)と船番筆頭三原十太夫=(B)、どちらの献策によるものかを示すためである。

11 註 8 前掲「御役方要用記録 六」。寛政 8 年(1796)にも、長崎奉行所目安方の手附出役近藤重蔵から、原に意見書の提出が求められている。

12 18 世紀後期は、対外政策をめぐって政権中枢で「容認論」と「抑制論」が拮抗した時期であった[横山 2006]。それゆえ天明期から、長崎の都市運営に対する長崎奉行の姿勢も、「緩和型現状維持」路線と「支配の緻密化」路線という二つの路線が交互に現れている[木村 2007]。

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ら琉球を通して薩摩に入り、不正俵物の対価として沿岸部から大坂・京都にまで広く流通したことで、長崎における俵物の独占集荷体制が機能不全に陥っていることを指摘する。

2 抜荷対策の提示

 意見書には、俵物と唐物をめぐる抜荷への対策についても記されている。①天草久玉山に遠見番所を設置し、遠目鏡で長崎に入津・帰帆する唐船が「漂着」しな

いかどうかをチェックする。また、薩摩に渡航する際に荷物の積み替えなども行なう拠点港である天草牛深浦に改番所を設置し、出入りする廻船をチェックする(A・B)。牛深については、薩摩長嶋口から椛島・松嶋のあたりに渡海する船の航路に接する「天草郡第一之湊」であると同時に、冬になると長崎に入津する唐船が「漂着」する場所でもある。また、天草郡は島原藩の預所であるため、島原藩の役人が冨岡に 3・4 人が詰める程度で、「重立候役人」が不在であり、「郡中之人気至而悪敷、俵物抜売位之事は少も不恐様子」となっている13。よって、牛深に番所を建てて、鯨船を 2 艘ばかり置いておけば、普段は近くの浦々を廻り、唐船が「漂着」、もしくは「抜荷之取沙汰」があれば、すぐに出動して浦々の煎海鼠・鮑などの出荷状況を管理することができる。また、これらの俵物を少しずつ買い集めておき、ある程度量がたまった段階で長崎に搬送すればよい(B)。

②抜荷品や薩摩から流出する唐物、そして抜俵物を積んだ廻船は、必ず下関を通過して、その大半が瀬戸内や大坂へ入港する。よって、下関にも改御番所を設置し、出入りする廻船・「怪敷風説」をチェックする(A・B)。ただ、下関は「私領之土地」(長府藩領)であるから、天草と同じように「御番所」を設置することは難しいため、「役座」を構えて警備の拠点にすればよい(B)。

③天草と下関を塞ぐと、必然的に抜荷品・唐物は陸運で運ばれ、豊後の佐賀関、同鶴崎、または豊前小倉などに陸運されることは確実である。この陸路を、馴れた長崎地役人が巡回すれば、必ず摘発できる(A)。

④長崎近国での抜荷取締りについて、担当者に手当銀を支給し、「表向抜荷御取締」を行うことが重要である。長崎地役人による囮捜査(「罠にかけ候様之仕方」)は、長崎近国において「長崎者」が忌避されるという社会状況を惹起しているので注意が必要である(B)。

13 「一頃は同所大嶋と申所之百姓小山清四郎と申者九州江名を得し冨家ニ而、郡中之俵物下請仕候時分は相応ニ前金差出置手配仕候得共、抜売不相止、清四郎儀も行届兼、当時之下請相断候程之儀ニ付」(B)とあることから、元来小山清四郎によって天草の俵物集荷がなされていたこと、これが「抜売」によって行き詰ってしまったことがわかるが、詳細については不明である。

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⑤唐・阿蘭陀船の見送り役を交代制から定役制にして、業務に精通させることが重要である。これまで遠見番・船番・町使の「仲ケ間中」で年齢に関係なく順番を割り当てていたが、無差別に割り付けたのでは「浦々嶋々等之地理・風俗・人気」にも精通せず、

「抜荷吟味又は俵物出方脇売等」に注意する者もいない。結局、「仕来ニ任せ」て見送りするという状況に陥ってしまう(B)。

⑥地役人とはいえ統制がとれているとは限らないから、上席に目付役(監察官)を置いて、節度を守るよう規制する必要がある。御役所附・船番・町使は、「市中一統之敵役」として取締りを行っているが、なかには「御威光を以諸人ニ取合、或は役柄不相応之身持等仕候」という不埒な者もいる。しかし、本来彼らを取り締まるべき「小頭之者」は、幕府から叱りを受けることを恐れ、自らの保身のために目を瞑っている。結果、「仲ケ間中」は「善悪不構者」が多くなり、「甚猥成」という様相を呈している(B)。

 これらの献策の直後、寛政 10 年(1798)6 月には、天草牛深に湊番所の設置が決定し14、同 12 年(1800)4 月には、豊前大里に抜荷取締番所が設置された。地役人が提案した抜荷包囲網が、幕府の政策として具体化したのである。幕府は、長崎地役人が蓄積したノウハウを活用することで、抜荷に対する警備体制を確立しえたといえよう。

14 湊番所の設置決定後の経過については、[籏先 2004:209-210]を参照。

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 原と三原は、天明 5 年(1785)から始まった俵物の独占集荷体制、寛政 2 年(1790)の貿易仕法改正(いわゆる「貿易半減令」)によって増大した抜荷、とくに抜俵物の取締りを強化するために、自集団に対する監察の必要性をも説くほどの徹底した対策案を提示した。彼らは、たしかに幕府の「御政務方之端にも被召使候」(B)者であった。

Ⅲ 長崎町人の抜荷観  幕府による抜荷取締りの最前線で活躍した地役人であったが、内心は如何なるものであったのか。実は、さきの船番筆頭三原十太夫(B)は、その意見書の前段で、抜荷に対する自身の見解を吐露していた。「漢の賈誼か長大息して治安之策を文帝に献セしは其身朝士之列に有し故とかや承申候」と、自らを漢の賈誼15 に重ね合わせながら、思いのままに筆を進めたとする三原の文章から、彼の長崎町人としての本音を読み取ってみたい(以下、引用史料の読点は筆者による)。

1 抜荷は「自然之道理」

  抑長崎之地ハ往昔唐船渡来之上、唐人共町宿仕、長崎町人相対を以商売相遂ヶ、三ヶ一口銭并小宿口銭銀等取立、地下配分被仰付来候由之処、元禄元辰年唐船数七拾艘ニ御限り、町宿御停止ニ相成、翌巳年唐人屋鋪御建、館内江御移し被遊候以来、追々船数御増減有之、寛政弐戌年長崎表御改正之節船数拾艘ニ御限り、御定高弐千七百四拾貫目之商売ニ相成候由ニ御座候、しかれハ元来地下町人とも相対ニ仕来候唐商売は他国に稀なる利潤ニ而(中略)西国第一之渡会と相成候処、右当所仕来之唐商売、上江

御取上ヶニ相成候ニ付、俄に地下人とも困窮と成行候ニ付、ばはんと号し遠沖ニ而密々抜荷買売仕候儀、畢竟我侭に暮し候者とも急に倹約質素と申事も守らす渡世にはなれ、自然之道理にて犯法度候儀と相聞申候(中略)たとへは今迄美味を喰来候もの江俄に麁食をあたへて目前に珍味料理すれハ兼而味ひを知たるゆへに人目の隙にハ盗ミ喰候儀凡下賤之有様、されはとて盗取らぬ様にとならは目の前にて料理する事を止めすしてハ中々凌れす、扨料理場を外へ移しかへは美味を知らぬものハ欲心もおこらねとも

(後略)  元来、長崎町人は、来航した唐人を町内に宿泊させ、直接に商売を行い、三ヶ一口銭や小宿口銭を取り立てて、これを市中に配分してきた。しかし、唐船来航数は、元禄元年

15 前漢の学者・政治家。率直な物言いから文帝に信任されたが、重臣らの反駁をうけて左遷された。

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(1688)に 70 艘に限定されたのを端緒として、幕府によって段階的に削減され、寛政 2年(1790)には 10 艘となった。また、唐人屋敷が設けられ、唐人が町内に宿泊することも禁止された。貿易額の上限も 2740 貫にまで縮小されてしまった。長崎は、「西国第一之渡会」というほどの繁栄を誇っていたにもかかわらず、幕府によって唐人との商売を剥奪され、長崎町人は困窮をきわめたのである。これまで貿易による繁栄を謳歌していた者に対して、急に質素倹約を命じても、それは無理がある。抜荷を完全に封じるためには、貿易自体を廃止するか、貿易の場を他所に移すしかない。ゆえに、長崎町人が抜荷(「ばはん」=八幡)に手を染めてしまうことも、実は「自然之道理」である。

2 抜荷取締りは無意味

  (前略)唐商売之儀は異国御合対之御儀ニ付、敢て利益而巳御拘り候儀にも無之、我国の人犯禁戒候儀、乍恐御政務之不行届様ニ相聞□、外国之者江対し瑕傷謹瑾にも被思召上候ニ付而歟、近来敢重被仰出候御儀と奉愚察候、然れは何程ニも御吟味無之候而は難相済候得共、唐土天竺と申ても悪事をせぬものも無之候得は凡人界におゐてハ何国に聞へとも犯法度候もの有之分は左而巳恥辱とも相成間鋪哉、公儀御交易之儀は際限なき事にて、地下中露命を繋き候丈利益も有之候ハヽ莫太之出銀溜候にもおよひ申間鋪、且又長崎中之者及渇命候時ニ至候而は、唐物僅之抜荷制候程にて迚も難取凌、天之命数ニ候得は、其時は所謂河東之民を河内江移す御主意社肝要ニ奉存候、兎角大国を治るは小鮮を煎か如しとやら、抜荷密売一条ニ不限、此御心なくてハ四海泰平之基にては有之間敷(後略)

 唐貿易は、単に利益をあげることを目的とするだけでなく、国家的な対面(「異国御合対」)に関わる。そのため、抜荷の横行は、幕府による取締りが行き届いていないことを海外に示すことになるのであろう。近年、幕府は抜荷の取締りを、さらに厳重にしているように思われる。しかし、「唐土天竺」であっても「悪事」を行わない者はないのであるから、抜荷を異国に対する「恥辱」と考える必要はない。また、「公儀御交易」も、長崎の住民が生活しうる程度の利益をあげるだけであれば、(抜荷取締りのための)膨大な出費が嵩むこともない(すなわち幕府が、貿易から自らの利潤を生み出そうとするから、抜荷という問題に対処しなければならなくなっている)。(抜荷が原因で)長崎の住民が「及渇命」ことになれば、「僅之抜荷」を取り締まっていても仕方がない。それは天命であるから、その時こそ「河東之民を河内江移す」ほどの大英断が必要となる。国家の政治には、それほどの大胆さ・寛容さがなくてはならない。

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3 幕府への上納銀は不当

  (前略)年々長崎商売出銀之内より壱万五千両之銀高上納仕候儀御免被為遊度、公儀御用之品は是迄年分元代五拾貫目分之品被召上、御代官所より御支配被為成、江府江被差登候ニ付、右代り物銅之儀は長崎商売出銀之内より相償ひ、猶又長崎貢税之儀は外ニ年頭拝礼之節紅白縮綿二拾巻、尤年寄共持参献上仕候得は公之貢物之事ニ付、乍恐是にて事足り候儀と奉存候、上様御差支と申事は万々歳迄無之事ニ御座候得は前段上納銀之儀は御免被為遊、長崎之民を賑ハし度奉存候事(後略)

 毎年貿易利潤のうちから幕府に上納している 15000 両は、長崎町人の生活を活性化するためにも廃止してほしい。幕府には、貿易利潤から「公儀御用之品」として、毎年 50貫目分の品物を江戸に納めている。また、長崎町人の「貢税」としては、年頭拝礼の際に町年寄らが献上している紅白の縮綿 20 巻がある。幕府への上納物としては、これで十分であり、幕府が困ることも無いと思われる。

4 「長崎町中合対」商売への回帰

  (前略)全体唐商売御直ニ被為成候ニ付、盗賊・火附・人殺等之外ニははんと申刑罪我国之病ひニ御座候、依之昔之通長崎町中合対ニ被仰付候得は、ははん人は無御座候ニ付、商売は町人合対ニ致さセ、役人は異国江禁制之品不為相渡、其外不法之事を制候而巳相勤候へは数多之役人も入らす、上にも事少ニ可被為在候(中略)唐抜荷密買と申儀は古来無之候処、公儀御交易ニ被仰出候ゆへ右之罪人出来仕候歟と奉存候、依之元之通地下商売被仰付候ハヽ市中も繁栄仕、唐人も悦可申候へ共不容易之儀ニ付、当時船数拾艘年分御定高之外番外船三艘新ニ御増、此三艘之分地下直商売ニ被仰付候ハヽ抜荷密買仕候者ともも悪事と存知候事ニ付、抜買を相止、番外船之表向商売可仕候(後略)

 幕府が唐人との商売を直接管理しようとするから、抜荷という犯罪が発生するのである。ゆえに、以前のように長崎町人が唐人と直接に商売をするかたち(「長崎町中合対」)に戻すべきである。そうすれば、唐人は喜び、市中は繁栄し、抜荷に手を染める者もいなくなる。また、貿易を管理する役人の仕事も、禁制品のチェックと「不法」の取締りのみとなり、幕府にとっても手間が省ける。とはいえ、これを実現することは難しいだろうから、

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とりあえず現在年間 10 艘に限定されている来航唐船数のほかに、「番外船」として新たに 3 艘を加え、この 3 艘の積荷物を長崎町人が直接に商売するかたちにしてほしい。そうすることで抜荷に手を染める者たちの正当性は失われ、彼らも「番外船」をもって真っ当に商売をするだろう。

 三原は、横行する抜荷の原因を、元来長崎町人が行なってきた唐人との商売を幕府が直轄化し、そこから利潤を収公したことに求めた。長崎町人にとって抜荷は、自由な商売を侵害された貿易商人の正当な行為であり、幕府が確立した理不尽な貿易体制の方こそが見直されるべきものとして認識されていたのである。冒頭(はじめに)で触れた、抜荷犯自身が抜荷を肯定する心性は、この「合対」での唐貿易を剥奪された貿易商人としてのアイデンティティに裏付けられたものであったと思われる。

おわりに

 長崎地役人は、貿易体制の緊縮化を進める幕府からの要請に答えるかたちで抜荷対策を提示しながら、心中には「長崎町中合対」での貿易を幕府に剥奪されたことに対する憤怒を秘めていた16。三原が示した見解は、本来貿易体制を維持する立場にある者の言葉であるからこそ、当該期の長崎町人が広く共有した抜荷観、率直な「鎖国」貿易観として評価できるのではないか。 中村質氏は、地下配分制度が、長崎町人の「総市民的な利銀の均霑要求」によって、「一部町人の初期的特権」を「否定」することで成立した点に注目した。その上で、貿易体制の確立が、幕府による貿易収入の財源化・貿易の官営化だけでなく、「市民の側」から見た場合に、長崎町人による「都市共同体特権」の確立という意義を持っていた点を強調している[中村 1972:63-85]。しかし、貿易体制の緊縮化が進んだ 18 世紀後期、長崎町人は、貿易体制の確立を「唐商売、上江御取上ヶ」と喝破し、すでに「長崎町中合対」貿易への回帰を志向していたのである。 冒頭で述べたように、近世長崎については、幕府による独占的な貿易体制のもと「権力によって強力に維持・管理され」、それゆえに貿易にかかわる「権益と恩恵」を享受した特権都市として描かれてきた。長崎地役人にとって抜荷は、特権都市長崎の存立を根本から脅かす不穏な因子として駆逐されるべきものであり、地役人自らも幕府による取

16 三原の意見書の理論的背景には、儒教の仁政観があった。彼は意見書の冒頭で、「民の好所好之、民の悪所悪之、是を民の父母といふとは民を愛する道といひ、民の好悪を知つて其情に悖らさるを仁政といふ」とした上で、「人情に悖たる事にては上ハ御心を痛メられ、役人は勤に苦しミ、下ハ罪を抱く理りニ御座候」と喝破している。

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締りの最前線として機能することが必然とされた。しかし、これまで見てきたように、彼らは、幕府のもと積極的に抜荷の取締りに従事しながらも、一方で、「鎖国」貿易体制に対する大いなる不満を忘れてはいなかった。長崎町人の意識レベルでは、幕府から付与された「権益と恩恵」など、唐人との「合対」による貿易を剥奪されたことに対する鬱憤によって霞んでしまっていたのである。 表面的には地役人として国家権力に取り込まれながらも、内面に貿易商人としてのアイデンティティを失わなかった長崎町人。抜荷対策の提言と抜荷取締りへの批判という一見矛盾した内容を含み込んだ三原の意見書は、「鎖国」貿易体制のもと、国家権力に従属する役人と中世以来の貿易商人という二面性を駆使して生き抜いた、〈境界人〉としての長崎町人の特性を如実に映し出しているのである。

参考文献

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(神戸大学大学院人文学研究科)