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研究 ノー ト リエ ト37-1(1994):121-136 バヤズ ィ ト Ⅲ世 時 代 に 関 す る一 史 料 ― ケ マル パ シ ャザ ー デ ・タ ー リヒ第4部 Kemalpasazade Tarihi, 4. Defter : A Historical Source for the Reign of Yildirim Bayezid 浩二 IMAZAWA Koji ABSTRACT Kemalpasazade (1468-1534) was born in a military family, but afterwards changed over to the Ulema. He served in Bayezid ll , Selim I and Suleyman the Magnificent, and was promoted to the ~eyhulisldm, the highest rank of the Ulema. His chronicle in the fluent and elegant Ottoman-Turkish style, TevdrIh-i Al-i Osmdn was composed in the form that each volume (deft- er) was assigned for one of the Ottoman sultans, and 8 volumes for the reigns from Osman I to Bayezid ‡U were dedicated to Bayezid II in 916/1510-11. Af- ter that by the request of Suleyman, 2 volumes for Selim and Suleyman were added, and thus the so-called "Kemalpasazade Tarihi" came into existence in 10 volumes. This work, however, was not appreciated in those days and forgot- ten by the later Ottoman chroniclers. Since in the latter half of this century Prof. Dr. Serafettin Turan published Kemal pacazade Tarihi, vol. 1, 2 and 7, the importance of this work has been gradually appreciated. This paper deals with Kemalpasazade Tarihi, vol. 4 for the reign of Yildirim Bayezid (1389-1403), which still remains a manuscript. The contents and the order of description of this work is fundamentally based on Nesri's Kitab-z Cih. an-numd, and also made use of the chronicles in the early ages of the Ottoman Empire, Oruc b. Adil's and the anonymous TevdrIh-i Al-i Osmdn, etc. On the other hand, however, Kemalpasazade Tarihi, vol. 4 contains much information of its own, which the above-mentioned works do not, and in this point we can say that this work has the great value as historical source. It fully describ- es the important events, for example, of the murder of Kadi Burhaneddin , the ruler of Sivas, by Kara Yiiliik Osman, the founder of the Aqqoyunlu Empire, and of the refuge of Aqtav, the influential amir of the Golden Horde, to the Ottoman Empire. And also there are valuable accounts for the activities of *大 阪市立大学大学院博士課程 Ph. D. Student, Osaka City University

Kemalpasazade Tarihi, 4. Defter : A Historical Source for

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Page 1: Kemalpasazade Tarihi, 4. Defter : A Historical Source for

研究 ノー ト オ リエ ン ト37-1(1994):121-136

バ ヤ ズ ィ ト Ⅲ世 時 代 に 関 す る一 史 料

―ケマルパシャザーデ ・ターリヒ第4部 ―

Kemalpasazade Tarihi, 4. Defter :

A Historical Source for the Reign of Yildirim Bayezid

今 澤 浩二IMAZAWA Koji

ABSTRACT Kemalpasazade (1468-1534) was born in a military family, but

afterwards changed over to the Ulema. He served in Bayezid ll , Selim I and

Suleyman the Magnificent, and was promoted to the ~eyhulisldm, the highest

rank of the Ulema. His chronicle in the fluent and elegant Ottoman-Turkish

style, TevdrIh-i Al-i Osmdn was composed in the form that each volume (deft-

er) was assigned for one of the Ottoman sultans, and 8 volumes for the reigns

from Osman I to Bayezid ‡U were dedicated to Bayezid II in 916/1510-11. Af-

ter that by the request of Suleyman, 2 volumes for Selim and Suleyman were

added, and thus the so-called "Kemalpasazade Tarihi" came into existence in

10 volumes. This work, however, was not appreciated in those days and forgot-

ten by the later Ottoman chroniclers. Since in the latter half of this century

Prof. Dr. Serafettin Turan published Kemal pacazade Tarihi, vol. 1, 2 and 7,

the importance of this work has been gradually appreciated.

This paper deals with Kemalpasazade Tarihi, vol. 4 for the reign of Yildirim

Bayezid (1389-1403), which still remains a manuscript. The contents and the

order of description of this work is fundamentally based on Nesri's Kitab-z Cih.

an-numd, and also made use of the chronicles in the early ages of the Ottoman

Empire, Oruc b. Adil's and the anonymous TevdrIh-i Al-i Osmdn, etc. On the

other hand, however, Kemalpasazade Tarihi, vol. 4 contains much information

of its own, which the above-mentioned works do not, and in this point we

can say that this work has the great value as historical source. It fully describ-

es the important events, for example, of the murder of Kadi Burhaneddin, the

ruler of Sivas, by Kara Yiiliik Osman, the founder of the Aqqoyunlu Empire,

and of the refuge of Aqtav, the influential amir of the Golden Horde, to the

Ottoman Empire. And also there are valuable accounts for the activities of

*大 阪市立大学大学院博士課程

Ph. D. Student, Osaka City University

Page 2: Kemalpasazade Tarihi, 4. Defter : A Historical Source for

Bayezid's son Ertugrul and the generals of the marches (uc beyi).

From now on, if we make use of these accounts which did not come down

to the later historical works, carrying out a further examination of them and

confirming their reliableness, it has no doubt that Kemalpacazade Tarihi, vol.

4 is the essential source as well as Aslkpasazade, Nesri and so on, for the reign

of Yildirim Bayezid, the important age for the development of the Ottoman

Empire.

は じ め に

ヶ ・マル パ シ ャザ ー デ(Kemalpasazade),あ るい は イ ブ ン ・ケ マル と呼 ば れ る人 物,

す な わ ち シェム ス ッデ ィン ・ア フ メ ト ・プ ン ・ス レイ マ ン ・プ ン ・ヶ マ ル パ シ ャ(§emsu'

d-Din Ahmed b.Suleyman b.Kernalpasa;1468-1534)は,軍 人 の家 系 に生 まれ

な が ら,の ち ウ レマ ー に転 身 し てモミヤ ズ ィ ト2世,セ リム1世,ス レイ マ ン1世 の3代

に 仕 え,ウ レマ ー とし て は最 高 位 の シ ェ イ ヒ ュ ル イ ス ラ ー ム(Seyhulislam)に まで 上

りつ めた 知 識 人 で あ る。(1)流麗 な オ ス マ ン語 散 文 に よ る彼 の 年 代 記rオ ス マ ン王 家 の 歴 史

(Tevarih-i Al-i Osnan)』 は,一 人 の ス ル タ ンの事 績 に一 部(defter)を あ て る とい

う形 式 を取 り,始 祖 オ ス マ ンか らバ ヤ ズ ィ ト2世 まで の 各 治 世 を8部 に ま とめ,ヒ ジ ュ

ラ暦916(西 暦1510/11)年,バ ヤ ズ ィ ト2世 に 献 呈 され た 。 そ の後 ス レ イマ ンの要 請 で

セ リ ム とス レイ マ ンに関 す る2部 が 追 加 さ れ,こ うして 全10部 か ら成 る,い わ ゆ る"ケ

マルパ シャザーデ ・ター リヒ"が 誕生す ることとな った。(2)

しか しなが ら,こ の年代記 は成立当初ほ とん ど顧み られ ることがな く,そ の後 の史書

に も利用 されず に忘れ去 られ てい った。(3)この書の持つ重要性が真 に理解 され始 めたのは,

今 世 紀後 半,S.ト ゥラ ン氏 に よっ て第1・2・7部 が公 刊 され て か らの こ とで あ り,(4)最

近では,A.ウ ウル氏が第8・9部 について研究 を進 めている。(5)これ らの研究 を通 じて

ケマルパ シャザ ーデ ・ター リヒは,そ の記述が詳細 かつ正確 とい う点 で,特 にオスマン

朝政治史を研 究する上 で欠 くことので きない重要な史 料である ことが広 く認め られ る よ

うにな って きた。 しか し,遺 憾 なが ら,研 究が進んでい るのは これ らの部分 のみで,残

りの第3~ 第6部 については,そ の内容が全 く明 らかになっていない。第5・6部 はそ

の写本 自体がい まだ発見され てお らず,(6)第3・4部 は写本のまま取 り残 されてい る状況

なのであ る。

本稿では,こ の重要史料 の一部が依然写本の ままで,限 られた研究者に しか利用 され

てい ない現状に鑑み,特 にバ ヤズ ィ ト1世 の治世(1389-1403)に 関す る第4部 を取 り

上 げ,主 な記述 内容を紹介 しなが ら,そ の史料的性格について考えて ゆ くことに したい。

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Page 3: Kemalpasazade Tarihi, 4. Defter : A Historical Source for

1.写 本

本論 には る前 に,第4部 に関す る写本 に触れ てお きたい。現在 の ところ,イ スタ ンブ

ルに3種,そ の存在 が確認 され ている。

(1) MS. Millet Kiituphanesi, All Emiri Efendi, Tarih 30.

この写 本 は第1部 か ら第4部 ま でを 含 んで お り,149フ ォ リオ,29行,タ ー リー ク体 。

明 らか に異 な る2種 の筆 跡 が確 認 され る(Fol.1a-118b;119a-149b)。 奥 書 は 見 当 た ら

ないが,18世 紀末 頃成立 した と考 え られ ている。(7)トゥラン氏 は159フ ォリオ としてい る

が,(8)各フ ォ リオ の 左 肩 に イ ン クで 打 た れ た フ ォ リオ数 は,Fol.81の 次 がFol.92と な

って お り,約10フ ォ リオ抜 け て い る 。 そ の左 下 に鉛 筆 で打 ち直 され た フ ォ リオ 数 が 正 し

く,そ れ に よ る と149.フ ォ リオ で あ る 。構 成 は,Fol.la-35bが 第1部(オ ス ・マン),Fol.

36a-75bが 第2部(オ ルハ ン),Fol.76a-104aが 第3部(ム ラ ト1世),そ して,Fol.

105a-149bが 本 稿 で 扱 う第4部 で あ る。

(2) MS. Nfxr-i Osmaniye Kutiiphanesi, No. 3078.

こ の写 本 は第1・2・4部 を 含 み,第3部 は 欠落 して い る 。112フ ォ リオ,27行,タ

ー リー ク体 。 これ に は奥 書 が あ り(Fol .112a),そ れ に よる と ヒジ ュ ラ暦1119年(西 暦

1707/08年)に 転 写 が完 了 し てい る。 構 成 は,Fol.1b-36bが 第1部,Fol.37b-72aが

第2部,Fol.73b-112aが 第4部 と な って い る。

(3) MS. Millet Kiitiiphanesi, All Emiri Efendi, Tarih 27.

第4部 だ けか ら成 り,124フ ォ リオ,17行,ナ ス ヒ ー体 。 ト ゥラ ン氏 は 第1・2部 の

校 訂に,そ れぞれMS.Ali Emiri Efendi,Tarih25,26を 利用 したが,(9)その際 これ

らの写本が今世 紀初頭に上記(2)写 本 の第1・2部 か ら転写 された ものであ ることを指

摘 した。(10)筆者が イスタ ンブル留学 中に調査 した限 り,書 体 ・筆跡 お よび各 フォリオの行

数な どの観点か らこの(3)写 本は明 らかにTarih25,26写 本 と同系 統である と思われ

た。 また第4部 に関 して も(2)(3)写 本間で異 同がほぼ一致 してお り,従 って,こ れ も

やは り今世紀初頭(2)写 本か ら転写 された と見なす ことがで きよ う。

以上3種 の写本 の中では,(2)写 本が最 も古 く成立 しているが,単 語や文章の欠落が

多 く,そ うした異 同の面か ら判 断す ると,(1)写 本が最 も優 れてお り,こ の小論におい

ても これ を主 に利用 してい る。

Ⅱ.史 料 源

本書 ケマルパシ ャザーデ ・タ ーリヒ第4部 は,序 に相 当す る部分 とそれに続 く50章 と

か ら構成 され ている。そ の記述内容や記載順序 は基本的に ネシュ リー(MehmedNes-

ri)の 『世界観望 の書(Kitab-i Cihan-niima)』 に依拠 してい ると考 え られ,第 一の史

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Page 4: Kemalpasazade Tarihi, 4. Defter : A Historical Source for

料 源 として まず,こ の書 を挙げねばな らない。(11)紙幅 の関係 もあ って,こ こで逐一例 を踏

まえて論 じることはで きないが,本 稿末尾に付 した年表を検討す ると,扱 われてい る事

件が ネシュ リーの もの とほぼ一致 してい ることは 明らかであ り,こ の ことか ら,ネ シュ

リーが重要 な史料源の一つ とな ってい ることが容易に理解 され よ う。 しか し,ア ンカ ラ

の戦 いの 日時やバ ヤズ ィ トの没年 などに関 してはネシュ リーよ り正 し く記 してお り,(12)一

般 にバヤズ ィ トの治世後半 になるにつれ て,む しろケマルパ シ ャザ ーデ ・ター リヒの方

が事件 の年代 を正確に記す傾向にあ ると言 える。

では,そ の他 の史料源 につい て,主 な記述 を順 に検討 してい こ う。

(1)ワ ラキア遠征 におけるア リー ・パシ ャの策略。

"1392年 春,ワ ラキア(Eflak)へ 侵 入 したオスマ ン軍 と ワラキア軍 との間 で戦闘が生

じたが,決 着がつかないまま 日没 とな り,両 軍 はそれぞれ の軍営 に引き上 げるこ とにな

った。深夜にな って,バ ヤズ ィ トのヴ ェズ ィール,ア リー ・パ シ ャ('Ali Pasa)が 戦

場 に出かけ,オ スマ ン軍 兵士の死体 だけを,そ ばにあった川 に捨 てて隠した。翌朝,戦

場 に出た ワラキア侯 ミルチ ェ(Mirge)は,ワ ラキア兵 の死体が戦場 に満 ちているのに

に対 し,オ スマソ兵 の死体が全 く見当た らない ことに気 づ くと恐怖 を覚 え,退 却 してい

っ た 。"(13)(""内 は概 要 。 以下,同 様 。)

これ とほ ぼ 同 内容 の記 事 が オ ス マ ン朝 初 期 年 代 記 の 一つ,オ ル チ(Orugb.Adil)に

見 られ,(14)ケマルパ シャザーデの記述は これに基づいた もの と考 え られ る。

(2)バ ヤズ ィトが不正 なカーデ ィーた ちを処罰 した ことについて。

"公正を施す ことに努 めたバヤズィ トは,賄 賂を とる不正な カーデ ィーたちを解 任 し,

法廷か ら排除 した。 さらにそれ らの者 の処刑 も望 んだが,側 近たちの と りな しで思い と

どま った 。 モミヤ ズ ィ トは 公 正 な カ ー デ ィー を登 用 し,裁 判 を 監 視 した 。"

(15)イ ナ ル ジ ク氏 が 指 摘 す る よ うに,(16)バヤ ズ ィ トに よる カ ーデ ィー処 罰 に は2系 統 の情 報

が 存在 す る よ うで あ る。 一 つ は ア シ ュ クパ シ ャザ ー デ,ネ シ ュ リー,オ ル チ,著 者不 明

の 年 代記 が記 す と ころで,そ れ に よ る とバ ヤ ズ ィ トに よる カ ーデ ィー処 刑 は,ヴ ェズ ィ

ール ,ア リー ・パ シ ャの画 策 で 阻 止 され,そ の あ と,カ ー デ ィーが 不 正 を 働 くの は 収 は

が不十分なため とい う意 見に従 って,カ ーデ ィーの新 しい給与体系が導入 された。(17)いま

一つ の系統は,ア フメデ ィー,シ ュ クル ッラー,ル ーヒー らが伝 えてお り,公 正を施す

ことに努めたバ ヤズ ィトがカーデ ィーの不正を知 り,そ れ らの者 を解任 した とす る。(18)ケ

マルパ シャザーデの記事は明 らかに後者 に属す るもの と考え られ るが,側 近 のと りな し

で カーデ ィー処刑 を思い とどまった とす る点 には,前 者の情報 も取 りはれ られ てい るか

と思われ る。

(3)王 子エル トゥールルの死 とテ ィムールのシヴ ァス攻略。

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Page 5: Kemalpasazade Tarihi, 4. Defter : A Historical Source for

"ルー ム地方 に侵 入 したテ ィムールが シヴ ァスに達す る直前,そ の地域 を管理 して い

た王子 エル トゥールル(Ertugrul)が 亡 くなった。バ ヤズ ィ トが それ を知 って悲 しんで

いた時,テ ィムールが シヴァスに到着 し,砦 の包 囲を開始 した。 テ ィムール軍 は7日 間

坑道 を掘 り続 け,8日 目に城 内に侵入す ることに成功す る と略奪 を始 めた。 ある言い伝

えがある。 この 日,コ ー ラン学校(mekseb)に いた子供た ちはコー-ランを頭 にのせて

テ ィムールの もとに行 き,慈 悲 を求 めた。慈悲心 に欠けた テ ィムールは,そ ば にいた騎

兵 に命 じて子供 たちを馬 で蹴殺 させた。 また,シ ヴ ァスの住民 を生 き埋 めにして殺 した。

テ ィムールは シヴァス征服後,城 主 マル コチ ・ベイ(MalkogBeg)を 殺 さず,バ ヤズ

ィ トの もとに送 って状況 を伝えさ せた。 マルコチ ・ベ イはバ ヤズ ィ トに テ ィムールを警

戒する よ う執拗 に忠告 したが,バ ヤズ ィ トは取 り合わなか った。"

(19)ケマルパ シャザーデはエル トゥールルについて多 くの言及を行 ってい るが,(20)ここでは

エル トゥールルの死亡時期 をテ ィムールが シヴ ァスに達す る直前,す なわち1400年 頃 の

ことと記 している。 これ は,本 書 とほぼ同時期に成立 した ルーヒーの年代記に も見 られ

る内 容 で,(21)この点 を考 慮 す る と,ケ マ ルパ シ ャザ ーデ ・タ ー リヒは ル ー ヒ ー と何 らか の

相関関係がある ように思われ る。(22)

テ ィムールの シヴァス攻略 に関す る部分の うち,シ ヴ ァスが強固な城 壁に囲まれてい

るためテ ィムールは坑道 を掘 るとい う戦術で攻略 した こと,シ ヴァスの住民 を生 き埋 め

に して殺 した こと,お よび城主 マルコチ ・ベ イは赦 されてバヤズ ィ トの もとに行 き,テ

ィムールを警戒す る よう忠告 した ことは,著 者不明のオスマ ン朝年代記 にも記 されてい

る内容である。(23)

(4)テ ィムール とバヤズ ィ トの対面。

"テ ィムールは,ア ンカ ラの戦いで捕 えられ連行 されて きたバヤズ ィ トを,敬 意を払

って出迎えた。食事 としてまず ョーグル トを出す と,バ ヤズ ィ トが驚 きの表情を示 した。

不審に思ったテ ィムールが尋ね ると,バ ヤズ ィトは 「かつて 自分 のもとに避難 していた

スルタン ・ア フマ ド(ジ ャライル朝君主)が この情景を予言 していた。」 と答えた 。テ

ィムール も驚 き,「 スルタン ・アフマ ドが汝の もとを去 らなければ,私 もこの地 域を攻

撃 す る こ とは なか った で あろ う。」 と言 った 。"

(24)これ とほぼ同内容 の記事が著者不明のオスマ ン朝年代記 に見 られ,(25)上の記述 はそれ に

基づいた もの と思われ る。

以上,ヶ マルパシ ャザ ーデ ・ターリヒ第4部 の史料源 について考察 してきたが,こ の

ほか本書 には,し ば しば事件の年代が挿 入され,時 には年月 日まで記 され てい ることか

ら,タ クヴ ィー・ム(Takvim;Royal Calendar)あ るいはそれに類するものが利用 され

ている ことも推測 され る。

125

Page 6: Kemalpasazade Tarihi, 4. Defter : A Historical Source for

Ⅲ.独 自の情報

さて,前 章 の検討で ケ マルパ シャザーデ ・ター リヒ第4部 に はネシ ュリーをは じめ と

す る,さ まざまな史料が利用 されてい ることが明 らか となった。 しか し,本 書 はそ うし

た 「借 り物」だけで構成 されてい るわけでは決 してな く,現 在 まで伝 え られてい る他の

史 書セこは見 られない独 自の情報 も豊富に含まれてお り,ま た,そ こに こそ,こ の書が重

要視 され るに至 った真 の理 由が見い出 されるのであるか ら,こ こでケマルパシ ャザ ーデ

独 自の情報の考察に移 ってゆ きたい。ただ紙幅 も限 られ ているので,主 な箇所 だけを検

討す る ことになる。

(1)ワ ラキア遠征。(26)

"ワ ラキア侯 ミルチェは,以 前バ ヤズ ィトの エ ミール,フ ィール'.ズ ・ベ イ(Firuz

Beg)に 襲撃 された ことを恨 みに思い,反 乱 の機会を うかが っていた。そ こで,バ ヤズ

ィ トがカスタモ ヌ(Kastamoni;ア ナ トリア北部)に 向かったのを好機 と見て ドナ ウ河

を南に渡 り,オ スマン朝領(Karin-ovasi)に 侵は した。これを知 ったバ ヤズ ィ トは カス

タモヌ遠征を中断 してル メリーに急行 したが,ワ ラキア軍はすでに引 き上げていた。冬

が近か ったので,バ ヤズ ィ トは エデ ィルネで冬営 し,翌 年(1392年)春,進 軍を再開 し

た。 ワラキアに侵 は した バヤズ ィ ト軍 に対 して ミルチ ェは果敢に戦いを挑み,早 朝か ら

日暮れ まで激闘が続いた。両 軍 とも多 くの死者 を出したが,バ ヤズ ィトにつ き従 ってい

た キ リス ト教徒の君主キ ョステ ンデ ィル(Kostendil)も そ の中の一人であ った。"(27)

これ は,前 章で触れた,ヴ ェズ ィール,ア リー ・パ シャが策略を用い る以前 の ワラキ

ア遠征 の状況であ る。特に ネシュリーの記述 と異 なる点 として,ワ ラキア侯 ミルチ ェが,

以前 フ ィールーズ ・ベ イの襲撃を受けた ことに対す る報復 として反乱を起 こした こと,

それを知 ったバ ヤズ ィ トはす ぐに ワラキ アに侵 はした のではな く,一 旦エデ ィルネで冬

を越 し,翌1392年 春 あ らためて進軍を再開 した こと,お よび,バ ヤズ ィト側に立 って参

戦 したキ ョステンデ ィル(28)とい うバ ルカンの一君主が戦死 した ことな どが挙げ られ よ う。

(2)カ ドゥ・ブルハネ ッデ ィンの死。

"敵に祖国を追われた ア クコユンルのカラ ・ユ リュク ・オスマン(Kara Yuluk 'Os-

man)は シヴァスの君主 カ ドゥ ・ブルハネ ッデ ィンのもとに避難 して きた。 ブルハ ネッ

デ ィンの保護を受けたカ ラ ・オスマ ンはしぼ らくシヴァスに滞在 していたが,望 郷の念

にか られ,あ る 日突然 シヴ ァスを 出発 した。 ブルハネ ッデ ィンは カラ ・オスマ ンが 自分

の許 しを得ず無断で去 った ことに怒 り,そ ばにいた少数 の従者を連れてそのあ とを追 っ

た。両者の間に戦闘が生 じ,カ ラ ・オスマンは ブルハネ ッデ ィンを殺害 して祖 国へ と向

か った。"(29)

シ ヴァスの君主 カ ドゥ・ブルハネ ッデ ィンの死についてはさまざまな史料記述 が見受

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Page 7: Kemalpasazade Tarihi, 4. Defter : A Historical Source for

け られ るが,(30)現在 は ア ク コ ユ ンル 朝 の祖 カ ラ ・ユ リュ ク ・オ ス マ ンに 殺 害 され た(1398

年 夏)と す るの が 定 説 とな って い る。(31)ケマ ルパ シ ャザ ーデ ・タ ー リヒは,最 初 に こ の事

件 に言 及 した オ ス マ ン朝 年 代 記 の一 つ で あ る。(32)

(3)エ ヴ レノ ス と トゥラ バ ン の征 服 活 動 。

"1394年,テ ッサ リア地 方(ギ リシ ア 中東 部)の イ ェニ シ ェ ヒル を 征 服 し た バ ヤ ズ ィ

トは,そ の周 辺 地 域 の攻 略 を エ ヴ レ ノス ・ベ イ(EvrenosBeg)に 命 じ,て帰 還 した 。 エ

ヴ レ ノス は数 年 間 そ の地 に と どま っ て諸 城 の征 服 に従 事 し,息 子 ・ミラ ク(BarakBeg)

もフ ェネ ル(Fenar;イ ェニ シ ェ ヒル の南 西)を 陥 落 させ た 。 エ ヴ レノ スに 仕えて い た

ト ゥラハ ン ・ベ イ(Turahan Beg)は,エ ヴ レ ノス の命 令 で ト ゥル ハ ラ(Tirhala;

イ ェ ニ シ ェ ヒル の西)を 攻 め落 と し,従 者 と とも にそ の地 域 に 移 り住 み,領 地 と した 。

エ ヴ レ ノス は ヴ ァル ダ ル ・イ ェ ニジ ェス ィ(Vardar Yenicesi)に 行 き,そ の地 域 の繁

栄 に尽 く した 。(33)トゥ ラハ ン とそ の息 子 オ メル('Omer Beg)は ト ゥル ハ ラ と イ ェ ニ シ

エヒルを栄 えさせ,さ まざまな慈善施設 を建設 した。"(34)

本書第4部 の特徴 の一 つ として,辺 境将軍 ウジ ・ベイた ちの行動が詳細に描かれてい

ることが挙げ られるが,こ こでは,ウ ジ ・ベイ として特に名高いエ ヴレノスと トゥラハ

ンの活動が詳述 されている。エ ヴレノスにバ ラクとい う息子がいた こともこの記事か ら

判明す る。(35)また,バ ヤズ ィ ト時代 の トゥラハ ンの活動についてはほ とん ど知 られていな

い の で あ る が,こ こで は エ ヴ レ ノス に そ ば近 く仕える 身(emir-i ahur)(36)であ っ た こ と,

ト ゥルハ ラを征 服 して イ ェ ニ シ ェ ヒル な どそ の一 帯 を 領 有 した こ とが示 さ れ て い る 。

(4)ニ コ ポ リス の 会 戦後,ウ ジ ・ベ イ た ち が ハ ソ ガ リーを 襲 撃 した こ とに つ い て 。

"フィール ー ズ ・ベ イ は 自己 の領 地 で あ った ヴ ィデ ィン(Vidin)か ら ゼ ビン(Zebin)(37)

に 侵 は し,パ シ ャ ・イ イ ト ・ベ イ(Pasa Yigis Beg)と エ ヴ レ ノス ・ベ イ は それ ぞれ

サ ヴ ェ(Sava)河,ド ナ ウ河 を渡 っ て ハ ン ガ リー(Ungurus)に は り,ス ィ レム(Sir-

em)(38)を包囲 ・攻略 した。 さ らに進軍が続け られ,首 都 ブダ(Budun)ま でがオス マン

朝 の支配下に入 った。"(39)

ここで も,ウ ジ ・ベ イたちの活動 が詳細 に記 されてい る。外部史料 では,バ ヤズ ィ ト

が ス ィ レムを 征 服 し,さ らに 首 都 ブ ダま で を支 配 下 に は れ た こ とが記 され て い るが,(40)ケ

マ ルパ シ ャザ ーデ は この襲 撃 の主 体 を フ ィー ル ー ズ,前 述 の トゥ ラハ ン の父 親 パ シ ャ ・

イ イ ト,お よび エ ヴ レノス で あ っ た と明記 し てお り,こ れ は大 い に有 り得 た こ とだ と思

わ れ る。

(5)サ イ イ ド ・ムハ ン マ ド ・ブハ ー リー(Sayyid Muhammad Buhari)の 奇 跡 。

"ニ コポ リス の戦 い は メッ カ巡 礼 の時 期 に起 こ った 。(41)その年,バ ヤズ ィ トの 側近 の一

人 が メ ッカ に巡 礼 した 。 ア ラ フ ァー ト('Arafat)に 巡 礼 者 た ちが 集 ま った 時,一 人 の

127

Page 8: Kemalpasazade Tarihi, 4. Defter : A Historical Source for

デルヴ ィーシュ(ブ ハー リー)が 現れ,「 今,ユ ル ドゥルム ・ハン(バ ヤズ ィト)が ハ

ンガ リー と戦 ってい る。我 々は彼 の もとに行 き,援 助すべ きである。」 と言 ってセマ ー

には り,風 の ように去 った 。す ぐも どってきて,ア ラフ ァー トの巡礼 者たちにバヤズ ィ

トが勝利 した ことを知 らせた。のち,バ ヤズ ィ トは これ を聞 いて驚 き,ハ ソガリー との

戦 いで窮地 に立 った 時,こ うした神 との合一 に達 した人k(erenler)が 自分 を助 けて く

れ た ことを悟 った。 その後,そ のデル ヴィーシュが ブルサ に住 んで いる ことを知 ったバ

ヤズ ィ トは彼 を訪ね て,弟 子 とな り仕え ることを望 んだ。 また,彼 に 自分 の姉 妹を与え

た 。 ブハ ー リー は ム ラ ト2世 時代 に没 し,ブ ルサ に 埋 葬 され た 。"(42)

サ イイ ド ・ム ハ ンマ ド ・ブハ ー リー は エ ミー ル ・ス ル タ ン(Emir Sultan)と して名

高 い ブル サ の聖 者 で あ る 。 この人 物 は,上 で示 され て い る通 り,ム ラ ト2世 時代 の1429

年 に ブル サ で亡 くな っ て い る 。 そ の後,エ ミー ル ・ス ル タ ンが 起 こ した 奇 跡 に関 して多

くの伝 説 が生 まれ た が,ケ マ ル パ シ ャザ ー デ の記 事 も そ の一 つ で あ ろ う。 エ ミー ル ・ス

ル タ ンは オ ス マ ン朝 の征 服 活動 と密 接 な関 係 を 持 って い た と され,本 書 の エ ピ ソー ドは

そ れ を 反 映 した もの と思わ れ るい な お,バ ヤ ズ ィ トは エ ミー ル ・ス ル タ ン に,姉 妹 で は

な く娘 フ ンデ ィ ・ハ ト ゥン(Hundi Hatun)を 与え て い る。(43)この ほ か,バ イ ラ ム ・ス

ル タ ン(Hacci Bayram Sultan;バ イ ラ ミー教 団 の 祖)の 師 シ ェ イ ブ ・ハ ー ミ ド(seyh

Hamid)が バヤズ ィ トに飲酒 をや めさせた ことについて も記述があ り,(44)本書 のまた一つ

の特徴 として,イ ス ラム神秘主義 の指導者,シ ェイブた ちへ の言及が挙げ られ よ う。

(6)キ プチ ャク ・ハ ン国のエ ミール,ア クタイ(Aktay)(45)が オスマ ソ朝に避難 して き

た ことについて。

"ティムールが トクタ ミシュ ・ハン(キ プチ ャ ク ・ハ ン国君主)を 破 り,キ プチ ャク

・ハン国を荒廃 させたあ と,そ の国の有 力エ ミールの一人 アクタイが タタールの従者 と

ともに ドナウ河を渡 ってル メリーには り,バ ヤズ ィトに保護を求めて きた。バヤズ ィ ト

は敬意を払 って アクタ イを受けは れ,ル メ リーの フ ィリベ(Filibe)地 方をア クタイの

従者た ちの夏営地 ・冬営地 として住 まわせた。その後 さらにキ プチ ャク方面 か らル メリ

ーにタタールが移住 し,ア クタ イの もとに集 まって きた。タ タールがル メリーで増加 し,

力を回復す ると,パ ヤズ ィトの ヴェズ ィールた ちはその勢力に不安を覚え,動 揺 し始め

た。大宰相であ った ア リー ・パ シャはその状況をバヤ ズ ィトに伝 え,タ タールが謀叛を

起 こす前 に彼 らの力を削 ぐよ う説得 に努めた。バヤズ ィトも間 もな く,ア クタイの擁す

るタタール勢力の大 きさに恐怖を感 じるよ うにな り,ア リー ・パシ ャにア クタイの暗殺

を命 じた。 ア リー ・パ シャはエデ ィルネの砦で宴を催 し,そ こヘ ア クタイを招いて毒殺

した。遺体はエデ ィル ネ郊外に埋葬 された。ア クタイの従者た ちは混乱 して散 り散 りと

なtり,領 地を捨てて去 った。 しか し一部の者は とどま り,そ の内5万 人が シパー ヒ(騎

128

Page 9: Kemalpasazade Tarihi, 4. Defter : A Historical Source for

兵)と して登録 された。のち,こ の5万 騎がア ンカラの会戦 に従 軍 した。"(46)

ア クタ イのオスマ ン朝への避難 についてはア ウエル ・デチ ェイの専論 があ り,(47)主にギ

リシア語 ・アラビア語史 料に よって この事件を確証 しているが,ケ マルパ シャザ ーデの

この詳細な記述が利用 されていないため,結 論部分がやや曖 昧にな った ことは否み得 な

い。

(7)カ ラ ・タ タ ール 。(48)

"ル ー ム地 方 を 住 処 とす る カ ラ ・タ タ ー ル とい う不 品 行 な 部 族 が い た 。 彼 らは11万 戸

か ら成 って い た 。(49)その 周 辺 に 住 む 人 々は,絶 えず カ ラ ・タ タ ー ル の圧 迫 を 受 け,そ の不

法 を バ ヤ ズ ィ トに 訴 えて い た 。 バ ヤ ズ ィ トも しば しば命 令 を 出 した が,カ ラ ・タ タ ール

は聞 きは れ なか った 。 この た め,パ ヤ ズ ィ トは12,000の イ ェ ニチ ェ リに カ ラ ・タ タ ール

を襲 撃 させ た 。 敗 れ た カ ラ ・タ タ ール は,今 後 バ ヤ ズ ィ トの あ らゆ る命 令 に 従 うこ と,

遠征 のに は一戸か ら一騎ずつ,計11万 騎がバ ヤズ ィ トに合流 する ことを約束 した。"(50)

テ ィムール朝史料 ヤズデ ィーには,カ ラ ・タタールはフ ラグの西 アジア遠 征に同行 し9

そのあ とアナ トリアには った ことや,シ ヴ ァスの カ ドゥ・ブルハネ ッデ ィンが死んだあ

とバ ヤズ ィ トの軍隊に は された こと,3~4万 戸か ら成 っていた ことな どが記 されて

いる。(51)

お わ り に

以上,簡 単 なが らケマルパ シャザ ーデ ・ター リヒ第4部 の記述 内容 について検討 して

きた。本書 は,ネ シュ リーを重要な史料源 としなが らも,オ ルチや著者不 明の年代記 な

どを も利用 していた ことが確認 された。その他,本 書 とほぼ 同時期に成立 した ルー ヒー

の年代記 とも相関関係が認め られ,ま た カーデ ィー処罰 に関 して,ア フメデ ィー,シ ュ

クル ッラー,ル ーヒーらが伝え る情報 も取 りはれ られ ていた。 さ らに タ クヴ ィーム類の

利用 も推測 された。

しか し一方 で,こ れ らの年代記には見 られない独 自の情報が豊富に含 まれてい ること

も明 らか となった。特に王子エル トゥールルや ウジ Ⅰベ イの行動が詳細に描かれ,ま た

シェイ ブたちにも言及 されていた ことは,本 書第4部 の特徴の一つ とな っている。 これ

ら独 自の情報 の中には,歴 史的事 実 としては受けはれ難い もの も見受け られ るが,外 部

史料 で確証 される情報 もまた,数 多 く存在 していることは明 らかであ る。 ケマルパ シャ

ザ ーデ ・ター リヒが こ うした貴重な情報 を含んでいるに もかかわ らず,そ の後 の史書 に

受け継がれずに忘れ去 られてい った ことを想起す るとき,本 書を利 用すべき必要性 はお

のず と高 まるであろ う。今後,こ れ ら独 自の情報 をさらに検討 し,そ の信頼性 を確認 し

た上で利用 してい くな らば,本 書第4部 は,バ ヤズ ィ ト1世 時代に関 して,ア シュ クパ

129

Page 10: Kemalpasazade Tarihi, 4. Defter : A Historical Source for

シャザ ーデ,ネ シュリーとい った根本史料 と同様,常 に参 照すべ き重要史料の一つ とな

ることは間違いない。

本稿では紙幅の関係で,本 書の記 述内容すべてに言及す る ことがで きず,ま た原文 の

提示 も割愛せ ざるを得なか ったが,こ うした重要 な史料 がすべての研 究者に広 く利用 さ

れ るべ きとい う観点か らも,本 書の校 訂版 を公刊 すべ く,現 在 その準 備を進 めてい る。

〔付記〕

本稿は,日 本オ リエ ン ト学会第35回 大会(1993年11月6~8日)に おける発表 を もと

に作成 された ものであ る。

(1)ケ ーマルパ シ ャザ ーデ の生 涯 に つ い て は,Kemal(7),vol.2,IX-XⅧX;I.Parma-

ksizoglu,"Kemal Pasa-Zade,"IA,vol.6,pp.561-566.に 詳 しい。

(2)こ の書 の成 立 過 程 につ い て は,Kemal(7),vol.2,XIX-XXVI.を 参 照 の こ と。

(3)Kemal(7),vol.2,XCI-XCII.こ の 原 因 の一 つ と して,ト ゥラ ン氏 も指 摘 し て

い る よ うに(Kemal(7),vol.2,LXVI),本 書 とほ ぼ 同 時期 に成 立 した イ ドリー ス ・

ビ トリシ ー(Idris Bitlisi;1520年 没)の ペ ル シ ア語 に よ る 年 代記 『八 つ の 天 国

(HestBihis)』 が 専 らそ の後 の年 代 記 に 利 用 され て い った こ とが 挙 げ られ よ う。 し

か し何 故 ケ マ ルパ シ ャザ ーデ ・タ ー リヒ よ り 『八 つ の天 国 』 の方 が後 世 の史 料 に利 用

され て い っ た の で あ ろ うか 。 残 念 なが ら,こ れ に つ い て 筆 者 は 現在,明 確 な 回答 を用

意 で きて い な い。 今 後,バ ヤ ズ ィ ト1世 時 代 に 限 らず,両 史 料 の全 編 を比 較 ・対 照 し

た上 で 明 らか に して い く必 要 が あ ろ う。

(4) Kemal(1) ; Kemal(2) ; Kemal(7).

(5) A. Ugur, "Kemal Pa§a-Zade' nin ‡[. ve IX. Defterleri ve Bu Defterler

Isiginda Yazarin Tarihciligi," in ‡[. Turk Tarih Kongresi (Ankara:11-15

Ekim 1976), Ankara, 1981, vol. 2, pp. 1007-1019; Idem, "Kemal Pa§a-Zade'

nin ‡[. Defteri," in ‡\. Turk Tarih Kongresi (Ankara: 21-25 Eyliil 1981),

Ankara, 1988, pp. 797-806.

(6)第6部(ム ラ ト2世)の1443年 以 降 に 関 す る 写 本 は パ リ国立 図書 館(Bibliotheq-

ue Nationale)に 保 管 され て い る とい う(Kemal(7),vol.2,ⅩⅩⅥ)。

(7) Kemal(1), ‡U; Kemal(2), ‡[.

(8)Kemal(2),Ⅷ-Kemal(1)で は149フ ォ リオ と正 し く記 され て い る が,Kemal

(2)で159フ ォ リオ と改 め られ た よ うで あ る。

(9)Tarih25写 本 は91フ ォ リオ,17行,ナ ス ヒー体 。第1部 か ら成 る(Kemal(1),

Ⅲ-Ⅳ)。Tarih26写 本 は114フ ォ リオ,17行,ナ ス ヒー体 。 第2部 か ら成 る(Kemal

(2),Ⅸ)。

130

Page 11: Kemalpasazade Tarihi, 4. Defter : A Historical Source for

(10) Kemal(l), ‡X ; Kemal(2), ‡\-‡].

(11)ネ シ ュ リー の書 の基 本史 料 とな った ア シ ュ クパ シ ャザ ー デ の年 代 記 を,ケ マ ルパ

シ ャザ ーデ が直 接 利 用 して い る 事 実 は 確 認 で きな か っ た 。

(12)ネ シ ュ リー で は ア ン カ ラの 戦 い は1401年8月7日 に 起 こっ た こ と に な っ て お り

(Nesri,vol.1,PP.352-354),ま た バ ヤズ ィ トの 死 に 関 して は 明確 な 日付 が 記 され

て い ない(Nesri,vol.1,PP.358-360)。 ア ン カ ラの 戦 い の 日時 に つ い て は さ ま ざ ま

な史 料 記 述 が あ るが,金 曜 日に起 こ った こ とは ほ ぼ 確 実 で あ るの で,そ れ に該 当す る

記 述 を採 り,1402年7月28日 金 曜 日とす る のが 現 在 の定 説 で あ る(cf.M.H.Yina-

ng,"Bayezid I,"IA,vol.2,p.386)。 ケ マル パ シ ャザ ーデ は 「804年 が 終 わ る10日

前」 ('am-i mihnet-encam-i erba'in ve semani-mi'enun tamamina on gun kale)

の金 曜 日(Kemal(4),f,145a,148b),す なわ ち定 説 の一 週 間 前 の1402年7月21日 と

して お り,そ うす る と これ もア ン カ ラの戦 い の 日時 に関 し て考 慮 の対 象 に加え る べ き

か も:知れ な い 。

(13) Kemal(4), f. 115a-b.

(14) Oruc, pp. 27, 98.

(15) Kemal (4), f. 134b-135a.

(16) H. Inalclk, "The Rise of Ottoman Historiography," in B. Lewis and P.

M. Holt (eds. ), Historians of the Middle East, London, 1962, p. 161.

(17) Asik., pp. 63-64; Nesri, vol. 1, pp. 336-338; Oruc, pp. 29-30, 99-100; Anon., pp. 31-33.

(18) Ahmedi, f. 67b; ~ iikrullah, f. 163a-163b; Ruhi, p. 396 (写真版第40頁).

なお,こ こで 利 用 したRuhiの 写 本(MS.Bodleian,Marsh313)はRuhiそ の も

の で は な く,そ の 原 史 料 とな った 別個 の年 代 記 で あ る とい う見 解 が メ ナ ー ジ ュ氏 に よ

って示 され てい るが (V. L. Menage, "The Beginnings of Ottoman Historiogra-

phy," in Historians of the Middle East, p. 176, n. 2), この写本の編者はRuhi

そ の もの に間 違 い ない と主 張 して い る(Ruhi,PP.359-362)。

(19)Kemal(4),f.140a-141x.

(20)た とえ ば,1393年 カ ス タ モ ヌ地 方 を 征 服 した バ ヤ ズ ィ トが,そ の 前 年 シ ヴ ァス攻

略 の際に そ の地 の支 配 権 を与え てい た エ ミール ・ス レイ マ ンを カ ス タ モ ヌに移 し,代

わ りに シ ヴ ァス に は エ ル ト ゥー ル ルを 置 き,エ ル ト ゥー ル ル が そ の地 を よ く統 治 した

こ とが 記 され て い る(Kemal(4),f.121b-122b)。 し か し実 際 に は,カ ス タ モ ヌ征

服(1392年)の 方 が シ ヴ ァス 征服(1398年)よ りも前 に 起 こっ て い る の で,こ うした

配 置 転 換 は 起 こ り得 な か った で あ ろ う。

(21)Ruhi,p.397(写 真 版 第42頁).

(22)た だ しネ シ ュ リーは,エ ル ト ゥー ル ルが シ ヴ ァスの 君 主 カ ド ゥ ・ブル ハ ネ ッデ ィ

ン(Kadl Burhaneddin)と の 戦 い(お そ ら く1392年)で 戦 死 し た と記 し て お り

(Ne§ri,vol.1,p.364),現 在 では こち らの方 が 定 説 とな って い る(cf.V.L.Mena-

131

Page 12: Kemalpasazade Tarihi, 4. Defter : A Historical Source for

ge, "Ertoghrul 2," EI(2), vol. 2, p. 711).

(23)Anon.,PP.35-37.ま た,テ ィム ー ルが シ ヴ ァス の子 供 た ち を馬 で蹴 殺 さ せ た こ

とは,テ ィム ー ル軍 の ア ル メ ニ アへ の侵 入 を 目撃 した ア ル メ ニ ア修 道 僧 トヴマ ・メ ツ

オペ ツ ィも記 して い る と い う (cf. M. M. Alexandrescu-Dersca, La campagne de

Timur en Anatolie (1402), Bucarest, 1942; reprint, London, 1977, pp. 44-45)0

(24) Kemal (4), f. 147b-148a0

(25) Anon., pp. 40-41.

(26)こ の遠 征 は ロ ヴ ィネ(Rovine),あ る い は ア ル ゲ シ ュ(Arges)の 戦 い と して 知 ら

れ て い るが,こ れ が 起 こ った 時期 に つ い て は さ ま ざ ま な 見解 が あ り,い ま だ に確 定 さ

れ て い な い 。1394年10月10日 説 と1395年5月17日 説 とが有 力 で あ る(cf.Gh.Ⅰ.Cons-

tantin, "Le 'traite' entre le Sultan Bajazet Jer et la Valachie," Der Islam,

LIX-2 (1982), p. 266; G. Sp. Radojicic, "La chronologie de la bataille de

Rovine," Revue Historique du Sud-Est Europeen, 5(1928), pp. 136-139)0

(27) Kemal (4), f. 113b-115a.

(28)こ の人 物 は正 し くは,マ ケ ドニ ア地 方 のKostendil(Velbuzd)を 支 配 して い た

Constansineと い う名 の セ ル ビア人 王 子 で あ る。 彼 は ム ラ ト1世 の 時 代 に オ スマ ン朝

に仕Z.る よ うに な り,ム ラ トの カ ラ マ ン 遠 征(1387年)や コ ッ ソ ヴ ォの戦 い(1389

年)に も従軍 した (I. H. Uzuncar§ili, Osmanli Tarihi, vol. 1, 5 th ed., Ankara,

1988, pp. 190, 246; Idem, "Murad I," IA, vol. 8, pp. 592, 594).一 方,こ の 戦

い に参 加 した の は,こ れ とは 別 人 のConstansine Dragas(ビ ザ ン ツ皇 帝 マ ヌエ ル2

世 の義父)と す る史料 ・研究 もあ る (Bulgar Kronigi, pp. 191-192; Radojicic,

loc. cit. ; G. Ostrogorsky, (tr. J. Hussey), History of the Byzantine State,

Oxford, 1968, p. 551; D. M. Nicol, The Last Centuries of Byzantium, 1261-

1453, London, 1972, p. 316; C. Imber, The Ottoman Empire, 1300-1481, Istanbul,

1990,P.45な ど)。Dragasが この戦 いで戦死 した とい うのが,上 述 した1395年5月

17日 説の大 きな根拠 となっているだけにこの問題については今後 さらに検討 する必要

があろ う。

(29) Kemal (4), f. 119a-b.

(30)こ の 点 に つ い て は, Y. Yiicel, Kad a Burhaneddin Ahmed ve Devleti (1344-

1398), Ankara, 1970, pp. 156-159. を参照 のこと。

(31) Ibid., p. 159; J. E. Woods, The Aqquyunlu:Clan, Confederation, Empire,

Minneapolis and Chicago, 1976, p. 51.

(32)イ ドリー ス ・ビ トリシ ー も この事 件 に言 及 して い るが(Hest Bihist,f.182b),

バ ヤ ズ ィ トが シ ヴ ァス に進 軍 して きた た め デ ィヤ ルバ クル地 方 に逃 走 した ブル ハ ネ ッ

デ ィンを,そ の地 方 の支 配 者 カ ラ ・オ スマ ンが殺 害 した として お り,か な り異 な っ た

内容 に な って い る。

(33)エ ヴ レノ ス と ヴ ァル ダ ル ・イ ェニ ジ ェス ィ(現 イ ェニ ツ ァ)と の 関係 に つ い て は,

132

Page 13: Kemalpasazade Tarihi, 4. Defter : A Historical Source for

V. Demetriades, "The Tomb of Ghazi Evrenos Bey at Yenitsa and its Inscrip-

tion," Bulletin of the School of Oriental and African Studies, XXXIX-2 (1976),

PP.328-332;小 山 皓 一 郎 「オス マ ン朝 勃 興 期 に 関 す る新 資 料― ガ ジ ・エ ヴ レノ スの

墓 碑 銘― 」(『 史 朋 』8,1978年)1-3頁 に詳 しい 。

(34) Kemal (4), f. 124a-125a.

(35)ウ ズ ン チ ャ ル シ ュ ル 氏 も こ の 点 を 指 摘 し て い る(1.H.Uzungarsili,"Evrenos,"

IA,vol.4,p.416)。

(36)"emir-i ahur"(mirahur)に つ い て は, M. Z. Pakalin, Osmanl i Tarih Deyi-

mleri ve Terimleri Sozliugii, Istanbul, 1983, vol. 2, pp. 541-542. を参照の こと。

(37)ハ ン ガ リ ー国 境 付 近 のZemunと 思 わ れ る 。

(38)現SremMisrovica

(39) Kemal (4), f. 129a-130a.

(40) Schiltberger, p. 6 ; Bulgar Kronigi, p. 192.

(41)ニ コ ポ リス の戦 い は798年Zilhicce月21日(1396年9月25日)に 起 こ った 。

(42)Kemal(4),f.128a-129a.

(43)エ ミー ル ・ス ル タ ン に関 して は,J.H.Mordsmann,"EmirSultan,"EI(2),

vol. 2, p. 697; M. C. Baysun, "Emir Sultan," IA, vol. 4, pp. 261-263. を参照

の こ と。

(44)Kema1(4),f.134a.一 説 に よ る と,バ ヤ ズ ィ トに 飲 酒 を や め さ せ た の は エ ミー

ル ・ス ル タ ンで あ った ともい う(Mordtmann,loc.cit)。

(45)こ の人 物 は一 般 に は ア クタ ヴ(Aktav)と 呼 ば れ て い るが,こ こで は ケマ ル パ シ

ャザ ー デ の表 記 に従 った 。

(46) Kemal (4), f. 135a-137a, 144a.

(47) A. Decei, "Etablissement de Aktav de la Horde d'Or dans 1'Empire Ot-toman, au temps de Yildirim Bayezid," in 60. Dogum Yzlz Munasebetiyle Zeki

Velidi Togan'a Arma 'an, Istanbul, 1950-55, pp.77-92. この研 究に よる と,ア

クタ イの オ ス マ ン朝 へ の避 難 は1398年 の こ とで あ っ た(lbid.,pp.91,92)。

(48)14世 紀 半 ば,ア ナ トリア各 地 を 領 地 と して い た モ ン ゴル諸 族 は一 般 に タ タ ー ル と

呼 ば れ,テ ィ ムー ル朝 史 料 や そ の他15世 紀 の 諸史 料 で は特 に カ ラ ・タ タ ー ル と表 記 さ

れてい る (F. Sumer, "Tatar," IA, vol. 12, pp. 59-60; Idem, "Anadolu'da

Mogollar," Selcuklu Arastirmalar Dergisi, 1 (1969), p. 115)•B

(49)14世 紀 末 の カ ラ ・タ タ ー ル の人 口に 関 して は,3~4万,6万,10万 な ど さ ま ざ

まな史料記述がある (Sumer, "Anadolu'da Mogollar," p. 115)•B

(50) Kemal (4), f. 137a-138a.

(51) Yazdi, vol. 2, pp. 357-359.

133

Page 14: Kemalpasazade Tarihi, 4. Defter : A Historical Source for

[主要文献略号]

Ahmedi : Ahmedi, Iskender-ndme (Inceleme Tzpkzbaszm), ed. I. Unver, Ankara,

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Anon.: Die altosmanischen anonymen Chroniken, ed. F. Giese, vol. 1, Breslau,

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Asik.: Die altosmanische Chronik des 'Asikpasazade, ed . F. Giese, Leipzig, 1929.

Bulgar Kronigi : A. N. Kurat (tr .), "Osmanli tarihinin ilk devrine ait Bulgar

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EI( I): Encyclopaedia of Islam, 1st ed., 4 vols ., Leiden, 1913-1934.

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Kemal( 1) :Ibn Kemal, Tevdrih-i Al-i Osman,‡T. Defter, ed. S. Turan, Ankara,

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Kemal( 2) : Ibn Kemal, Tevdrih-i Al-i Osman, ‡U. Defter, ed. . Turan, Ankara,

1983.

Kemal(4) :Ibn Kemal, Tevdrih-i Al-i Osman, ‡W. Defter, MS. Millet Ktitupha-

nesi, All Emiri Efendi, Tarih 30.

Kemal( 7) : Ibn Kemal, Tevdrih-i Al-i Osman, ‡Z. Defter, ed. S. Turan, 2 vols .,

Ankara, 1954, 1957.

Nesri : Mehmed Nesri, Kitdb-2 Cihan-niimd,eds. F R. Unat & M. A. Koymen,

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Oruc : Die fruhosmanischen Jahrbiicher des Urudsch, ed. F. Babinger, Hannover,

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Ruhi : H. E. Cengiz & Y. Yiicel (eds. ), "Ruhi Tarihi," Belgeler, XIV-18

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Schiltberger : J. B. Telfer (tr.), The Bondage and Travels of Johann Schiltberg-

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Shami : Histoire des conquetes de Tamerlan intitulee Zafarnama, par Nizamuddin

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Siikrullah : Behcet iit-Tevdrih, MS. Nur-i Osmaniye, No. 3059.

Yazdi : Sharaf al-Din 'Ali Yazdi, Zafar-nama, ed. M. 'Abbasi, 2 vols., Tehran,

1957.

134

Page 15: Kemalpasazade Tarihi, 4. Defter : A Historical Source for

《ケ マル パ シ ャザ ー デ 》

1389コ ッ ソヴ ォの戦 い で ム ラ ト1世 没 。 バ ヤ ズ ィ ト1世 即位 。

バ ヤ ズ ィ トの 兄弟 ヤ クブ ・チ ェ レ ビ処 刑 。

パ シ ャ ・イ イ ト,フ ィー ル ー ズ,エ ヴ レノ ス ら,バ ル カ ン襲 撃 。

1390春 バ ヤ ズ ィ ト,エ ・デ ィル ネか らブ ルサ へ 。 建 設 事 業 に従 事 。

ア ラシ ェ ヒル,ア イ ドゥン,サ ル ハ ン,メ ン テ シ ェ,ゲ ル ミヤ ン征 服 。

王 子 ム ス タ フ ァにサ ル ハ ン,ハ ミ ト領 を 与 える。

1391カ ラ マ ン遠 征 。

カ ス タ モ ヌ のKoturum Bayezid反 乱 。

1392春 ワ ラキ ア遠 征(Kossendil戦 死 。宰 相 ア リー ・パ シ ャの策 略)。

カ ラ マ ン遠 征(Akgayの 戦 い)。

ア クコ ユ ン ルの カ ラ ・オ ス マ ン,シ ヴ ァス の ブル ハ ネ ッデ ィ ン殺 害 。

シ ヴ ァス征 服 。 王 子 エ ミール ・ス レ イマ ンに 与 え る 。

1393春 カ ス タ モ ヌ征 服 。 エ ミー ル ・ス レイ'マ ンに 与 え,シ ヴ ァス をエ ル トゥー ル

ルに 与 え る。

1394春 サ ロ ニ カに進 軍 。 イ ェ ニ シ ェ ヒル征 服 。

エ ヴ レノ ス と ト ゥラハ ン,テ ッサ リア征 服 に従 事 。

1395春 コ ン ス タ ンテ ィノ ー プル 包 囲。

ニ コ ポ リス の 戦 い 。

フ ィール ー ズ,パ シ ャ ・イ イ ト,エ ヴ レノ ス ら,ハ ンガ リー を襲 撃 。

1396春Guzelce Hisarを 建 設 し,コ ンス タ ン テ ィノ ー プル 包 囲 。

1397モ レア遠 征 。

不 正 な カー デ ィー を処 罰 。

キ プチ ャ ク ・ハ ン国 の エ ミール,ア ク タ イが オ ス マ ン朝 に避 難 。

カ ラ ・タ タ ー ル を処 罰 。

ジ ャ ライ ル朝 君 主 ス ル タ ソ ・ア ブ マ ドとカ ラ コユ ン ル の カ ラ ・ユ ース フ,

マ ムル ー ク朝 を経 て オ ス マ ン朝 に避 難 。

1398春 エ ル ズ ィン ジ ャン遠 征 。 デ ィ ヴ リイ,ダ レン デ,ベ ヒス ニ,マ ラテ ィヤ征

服 。

1400バ ヤ ズ ィ トの王 子 工ール ト ゥー ル ル没 。

テ ィム ー ル,シ ヴ ァス 征服 。 シ リアへ 進 軍 。

1402春 テ ィム ー ル,ア ナ トリア へ進 軍 。

1402.7.21ア ン カ ラの会 戦 。

1403.3.9バ ヤ ズ ィ ト,ア ク シ ェ ヒル で病 没 。

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Page 16: Kemalpasazade Tarihi, 4. Defter : A Historical Source for

《ネ シ ュ リー》

1389.8.27バ ヤ ズ ィ ト即 位 。

パ シ ャ ・イ イ ト,フ ィール ー ズ,エ ヴ レノス ら,バ ル カ ン襲 撃 。

1390春 バ ヤ ズ ィ ト,エ デ ィル ネか ら ブル サ へ 。建 設 事 業 に従 事 。

ア ラ シ ェ ヒル,ア イ ド ゥン,サ ル ハ ン,メ ンテ シ ェ,ゲ ル ミヤ ン征 服 。

王子 エ ル ト ゥー ルル に サ ル ハ ン,カ レシ領 を 与 え る。

カ ラマ ン遠 征 。

1391カ ス タモ ヌのKoturum Bayezid反 乱 。

バ ヤ ズ ィ ト,ワ ラキ ア 遠 征(Argesの 戦 い)。

1392カ ラマ ン遠 征(Akrayの 戦 い)。

シ ヴ ァス の ブル ハ ネ ッデ ィ ン没 。

シ ヴ ァス 征 服 。 王子 エ ミー ル ・ス レイ マ ンに与 え る。

1393春 カス タモ ヌ征 服 。

1394サ ロ ニ カに進 軍 。 イ ェ ニ シ ェ ヒル,ア テ ネ征 服 。

1395春 コ ン ス タ ンテ ィノ ー プル 包 囲 。

ニ コ ポ リスの 戦 い 。

1396Giizelce Hisarを 建 設 し,コ ン ス タ ン テ ィノ ー プ ル包 囲 。

ニ コ ポ リス,シ リス トレ(Silissre)征 服 。

モ レア遠 征 。

ス ル タ ン ・ア フマ ドとカ ラ ・ユ ー ス フ,マ ムル ー ク朝 を経 て オ ス マ ン朝 に

避 難 。

1397マ ラテ ィヤ,デ ィヴ リ イ,ベ ヒス ニ征 服 い

エ ル ズ ィン ジ ヤ ン征 服 。

不 正 な カ ーデ ィーの処 罰 を意 図 す るが,ア リー ・パ シ ャに よっ て 阻 止 され

る。

マ ムル ー ク朝 ス ル タ ン,バ ル ク ー ク没 の報 至 る。 バ ヤ ズ ィ ト,シ リア進 軍 。

1400テ ィム ール,シ ヴ ァス征 服 。 シ リアへ 進 軍 。

1401春 テ ィム ール,ア ナ トリアへ 進 軍 。

1401.8.7ア ン カ ラの 会 戦 。

1402(?)バ ヤ ズ ィ ト病 没 。

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