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- 1 - スピロ・コストフ『シティ・アセンブルド』「第 3 公共空間」 概要 スピロ・コストフ(1936-1991)はブルガリア人の建築史家で、1965 年から没年までカルフォルニア大学バークレー校の教 員を務めている。1985 年に出版された”A History of Architecture” (邦題『建築全史』) は彼の代表著であり、現在でも なお読まれ続けている建築史の専門書である。彼の死後出版された”THE CITY ASSEMBLED”は都市空間の生成におけ る歴史的事実を様々な側面から論じた著作となっている。本稿は、その中でも都市の公共空間に関する章を京都大学田路 研究室内で翻訳、議論し、その成果として内容をまとめたものである。 京都大学 田路研究室 修士 1 藤本陽一 学部 4 浅井孝則 岸田卓真 Spiro Kostof, THE CITY ASSEMBLED - The Elements of Urban Form Through History Thames and Hudson, 1992 3.PUBLIC PLACES The Nature of Public Places The life and control of the public Privatized public realms Courtyard and square The Distribution of Public Places At the city edge Town squares Multiple systems Matters of Size Disencumbering Totalitarian scales Typologies The frame and the people The classifiers Shapes of squares A book of uses Public Parks A backward look The modern park The Public Places of Today 1. パブリック・プレイスの性質 ピアッツァは村落や都市のある領域、住居やその他の類す るものや構築物のない状態、空間を提供する目的、または 人々の会合 のために設えられたものといえるが、驚くべき ことに、ピアッツァを通して、この世界の人々のあり様を知 ることができるのである。 こうした 14 世紀の神話作家ピエール・ベルシュール (1290-1362)の言葉のように、ピアッツァとは都市の商 業の場としてだけでなく、道や波止場の様な交通のた めの場も含まれて語られている。 パブリック・プレイスとは明確な目的をもった場所 であり、儀式や交流などのために存在してきた。それ らは住居や店舗などの私有地とは異なるふるまいをす るものである。 パブリック・プレイスの 2 つの性格 パブリック・プレイスの概念には 2 つの性格がある と筆者は言及する。1 つ目は、様々な人々との出会い の場としての性格である。親族や近所の人々と会うこ とはあるが、それと同時に不易な行為に及ぶ人々に出 会う可能性がある。このことは、ベルシュールの述べ る広場の都市の縮図としての性格と同義である。2 目の性格は、「儀式的な」性格である。祭、暴動、式 典は、広場において行われる。それゆえにそうした場 所には出来事を記録する物質的な証拠がある。例えば 統治者を讃えるモニュメントを造成し、その統治者の 名前を冠するということは多くみられる。そうした性 格ゆえ、記憶を葬り去るという目的で広場のモニュメ ントは度々破壊されてきた。ルイ 15 世広場(現在のコ ンコルド広場)の王の像がフランス革命によって自由の 像とギロチンに取って替ったことはその代表的な例で ある。

スピロ・コストフ『シティ・アセンブルド』「第 3章 公共空 …...Spiro Kostof, THE CITY ASSEMBLED - The Elements of Urban Form Through History Thames and Hudson,

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スピロ・コストフ『シティ・アセンブルド』「第 3章 公共空間」 概要

スピロ・コストフ(1936-1991)はブルガリア人の建築史家で、1965 年から没年までカルフォルニア大学バークレー校の教

員を務めている。1985年に出版された”A History of Architecture” (邦題『建築全史』) は彼の代表著であり、現在でも

なお読まれ続けている建築史の専門書である。彼の死後出版された”THE CITY ASSEMBLED”は都市空間の生成におけ

る歴史的事実を様々な側面から論じた著作となっている。本稿は、その中でも都市の公共空間に関する章を京都大学田路

研究室内で翻訳、議論し、その成果として内容をまとめたものである。

京都大学 田路研究室 修士 1年 藤本陽一

学部 4年 浅井孝則

岸田卓真

Spiro Kostof, THE CITY ASSEMBLED - The Elements of Urban Form Through History Thames and Hudson, 1992

3.PUBLIC PLACES

The Nature of Public Places

The life and control of the public

Privatized public realms

Courtyard and square

The Distribution of Public Places

At the city edge

Town squares

Multiple systems

Matters of Size

Disencumbering

Totalitarian scales

Typologies

The frame and the people

The classifiers

Shapes of squares

A book of uses

Public Parks

A backward look

The modern park

The Public Places of Today

1. パブリック・プレイスの性質

ピアッツァは村落や都市のある領域、住居やその他の類す

るものや構築物のない状態、空間を提供する目的、または

人々の会合 のために設えられたものといえるが、驚くべき

ことに、ピアッツァを通して、この世界の人々のあり様を知

ることができるのである。

こうした 14世紀の神話作家ピエール・ベルシュール

(1290-1362)の言葉のように、ピアッツァとは都市の商

業の場としてだけでなく、道や波止場の様な交通のた

めの場も含まれて語られている。

パブリック・プレイスとは明確な目的をもった場所

であり、儀式や交流などのために存在してきた。それ

らは住居や店舗などの私有地とは異なるふるまいをす

るものである。

パブリック・プレイスの 2つの性格

パブリック・プレイスの概念には 2 つの性格がある

と筆者は言及する。1 つ目は、様々な人々との出会い

の場としての性格である。親族や近所の人々と会うこ

とはあるが、それと同時に不易な行為に及ぶ人々に出

会う可能性がある。このことは、ベルシュールの述べ

る広場の都市の縮図としての性格と同義である。2 つ

目の性格は、「儀式的な」性格である。祭、暴動、式

典は、広場において行われる。それゆえにそうした場

所には出来事を記録する物質的な証拠がある。例えば

統治者を讃えるモニュメントを造成し、その統治者の

名前を冠するということは多くみられる。そうした性

格ゆえ、記憶を葬り去るという目的で広場のモニュメ

ントは度々破壊されてきた。ルイ 15 世広場(現在のコ

ンコルド広場)の王の像がフランス革命によって自由の

像とギロチンに取って替ったことはその代表的な例で

ある。

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中央公地と私有公地の明確な区別

市民広場としての中央公地

パブリック・プレイスには利用の対象になる人々の

範囲、所有する者により性格が大きく異なる。メイン

スクエアは都市の中央公地とも言えるが、共同体的な

性格を強める働きがある。ホメロスはギリシアの市民

性と対照のものとしてキュクロプスの無政府主義・個

人主義を「討論する集会の場を持たない」と表現して

いる。また、スペインが新大陸の植民地で公布したイ

ンディアス法(1573)にお

いては、「中央広場は町

の開始地点であることが

望ましい」(法令 112

条)と宣言されている。

18 世紀のブラジルでは、

「王はすべての地域住民

が集会するよう命じ、新

たな共同体の最も適切な

広場の位置を共に決める

こととした」とある。そ

れによって初めて教会、

政府の施設、刑務所など

の敷地が決められたよう

である。

だが実際には、パブリック・プレイスの根源的な目

的は、共同体を統治し社会の諍いを仲裁することであ

る。しかしそこに、広場が人々の公民権と所有の観念

を行使する場所であることとの矛盾が生じる。ある一

定以上の規模の祭典においては、市民は権力者を嘲笑

し、彼らに全市民の政治力という数の力を誇示する機

会が与えられている。そうしたことへの恐れから、都

市の統治者は広場を支配しようとする。そして目に見

えるものとして、政府のシンボルを設置する。それは

正義を公に示すだけでなく、自らの統治を正当化する

事実を作りあげるためのものである。

今なお、パブリック・プレイスは政治的・社会的変

化を記録するキャンバスとしての役割を担っている。

社会的な構造が変わるだけでなく、変化した事実が都

市の公共領域のデザインや用途の変化によって表現さ

れることが重要なのである。

ピエール・デイヨン(1927-2002)は、主たる祭事にお

ける図象的な証拠にあわせて、広場の物理的な構造を

手掛かりにスペイン国家と植民都市との関係を明らか

にしようとした。行進、仮面舞踏会などの複雑な劇場

は統治者やその政策への不満のはけ口としての催しで

あるが、現在ではそれらは都市の特権階級にとって反

乱や横柄さの兆候を抑え、公共生活を再定義するため

のものであったと認識が見直されている。

民衆にとって広場は、体制への反抗を示す場である。

イタリアでは、「広場に下りてゆく」ということが暴

動の隠喩として用いられている。そして統治する側は

広場に干渉することで民衆を制御しようとした。例え

ば 16世紀にグアルド・タディーノの支配者であったカ

ルディナル・デル・モンテは、教皇国への忠誠心が揺

らぎつつあることを感じ、早急に集合住宅を中央広場

の真ん中に設け広場を 2 つに分断し、反乱の際のス

ペースと効果を減少させるようにしている。

氏族の中庭としての私有公地

筆者はここまで述べたような中央公地と、市民の少

数のグループが元々の共同体の領域に対抗、または補

足する形で設けられる私有公地とをわける分類する必

要があると言及する。

中世の街の氏族の屋敷には私有公地といえる広場が

いくつか見受けられる。例えばジェノアの街では、封

建領主の氏族が強力なギルドや正統な政府の力を凌い

でいたこともあり、1460 年に至るまで規模の大きい公

共の広場が存在しなかった。しかしその地域のコムー

ネが脅威に感じ、オープンスペースに公共建築と大き

な広場を設け、氏族の縄張りを孤立させようとしたの

である。

ある地域では小さな広場と大通りが社会生活の中心

となっていた。そこには氏族に援助を受けた教会があ

り、人々が会合するロッジアがあり、そして広場の周

りに氏族を構成する各家庭が集まっていた。広場は氏

族の城の構内にあり、構内は壁で囲われ、高層の塔が

建てられ、領主の屋敷と教会、そして数棟の低層の住

居で構成されていた。そうした特徴をもつ広場は、都

市部の影響力をまだ受けずにいた田舎町の中心に見受

けられた。しかし、氏族の広場はローマのトラヤヌス

の市場にミリツィエの塔が存在しているように、都市

部にも存在している。これらは田舎町の集落が全面的

に都市化したものであると説明できる。”Corte” dei

Mecci というオルサンミケーレ教会の隣の広場の名前

には、宮廷を表す言葉が用いられており、その関係を

示している。氏族の広場を最も良く表す実例として、

図 1. 1

インディアス法に則ったメン

ドーサ(メキシコ)の都市配置

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ジェノアの大聖堂の北方にあるサンマッテオ広場(下

図)が挙げられる。

イスラム世界と西洋世界が双方の広場に与えた影響

歴史的には、都市の集会の場を囲いこむという操作

は宗教建築に特有のものであった。初期キリスト教建

築のバシリカのアトリウム、またはイスラム教のモス

クのサハンという中庭は屋根つきのポルティコで囲わ

れた広大なものだった。さらに遡ると、イラクの都市

カファジャにある楕円形の寺院の中庭はその都市の中

で最も広いオープンスペースであった。

古代には中庭は宗教的な機能を想定していなかった。

ヒッタイト王国の首都ボアズキョイでは、市場として

用いられ、初期イスラム教の寺院のサハンには共同体

の宝物を飾るパビリオンがあり、ポルティコの下では

授業、裁判、お触れの読み上げなどの市民活動がなさ

れていた。

イスラム世界では、道路網とパブリック・プレイス

から計画される西洋世界と違い、公共空間は住居やモ

スクなどの土地の余白、または結節点とみなされてい

た。しかし、イスラム都市には西洋の都市構造を援用

する必要がなかった。彼らはイスラム法の下で、道や

マイダンといわれる広場、モスクや共同墓地などを如

何なる理由においても私的所有することを許さず、さ

らにイスラム教徒の如何にかかわらず、一番早くパブ

リック・プレイスに来た者が一日その場所を利用する

権利を持っていた。さらにイスラム世界の特権や責任

のあり方からか、西洋世界のような行政機関を持たな

かったため、明確な市民の集会場が存在しなかった。

マイダンは国家が所有する場所ではなく、建物同士

を繋ぐ、人々の交通のためのものであった。ただし、

カイロのような都市では、王朝によってスペースので

き方に一定の規則があり、非公式な空間構成の取り決

めがあったことが示唆されている。

西洋国家に侵略されたイスラム都市には、過去の都

市空間の構造の痕跡が残されている。セビリアはその

特徴的な都市であり、16 世紀の文献には大小の 80 を

超える広場があり、食料が売られていたことが記され

ている。

イスラム国家は、ローマ帝国の都市を支配した時に

モスクをフォーラムの場所に建設した。また、イスラ

ム支配下のスペインの都市アレッポでは、アゴラが果

たしていた市場の役割をもった場所は城壁の外のハー

ンという所に移った。ハーンの中には”Darkhoura”と

いう名前のものがあり、それは恐らく「アゴラ」の言

い換えなのではないかと考えられる。

確かに、ローマ帝国とイスラム王国が相互に影響し

合っていた都市ではビザンツ式や西ゴート式のバシリ

カがフォーラムの場所を占有していたであろうが、そ

うした場合はモスクの象徴性を強めるために中庭を植

樹しており、都市の中に新しくオープンスペースを設

けることはなかったようである。

寺院建築と都市の広場との関係は発展的なもので

あった。イスラム教の観念をキリスト教の建築に当て

はめていることで、建物に俗人が訪問するのかどうか

について曖昧な設計がされている。イタリアでは 15

世紀後半までには、教会の中庭の意味であったクロイ

スターをという呼称が、アーケードで囲われた四角い

建築空間にも使われるようになった。ロレトではブラ

マンテが、教会に面した囲われたアトリウム風の大広

場を造営した。アトリウムと都市広場の融合はフィレ

ンツェのサンティッシマ・アヌンツィアータ広場(図

図 1.2 サンマッテオ広場

図 1.3

イスラム都市の公共空間

モスクの中庭やマイダンが

有機的につながっていた。

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図 2.1 ナヴォナ広場 図 2.2 カンポ広場

1.4)でもなされ、規則正しいアーケードが広場を教会

の正面から左右に至るまで囲うことになる。

図 1.4 SS.アヌンツィアータ広場を描いた G.ゾッキの絵

右がブルネレスキの孤児養育院

フランシスコ会やドミニコ会などに知られるように、

托鉢修道会は世俗との開かれた関係に基づいた社交的

な精神を持っており、アヌンツィアータ広場にはそう

した特徴が表れている。教会の前庭は説法のための場

所であったが、修道院が都市の端部に造られるに従っ

て大きくなり、市場や祝祭の場としても使われるよう

になった。

新大陸でも托鉢修道会の広場は大広場や市庁舎前広

場を避けるようになり、城郭のある都市では都市端部

に設けられた。そして多くは、都市のグリッドの頂点

にあたる場所に設けられた。

修道教会と広場の間に設けられたアトリオの造り方

(図 1.6)は、イスラムのモスクの中庭と関係がある

ようである。コルドバの大モスク(図 1.5)は国土回

復後に托鉢修道士より教会へと姿を変えた。アトリオ

は、教会の許容人数以上に改宗したインディアンを収

容でき、現地の宗教と融合した宗教劇が行えるように

なっていた。

ここまで、パブリック・プレイスの特徴についてま

とめていった。パブリック・プレイスは都市において

市民活動を行う重要な場所である。そして都市全体の

情勢を表現する実体として、良くも悪くも扱われてき

た。政治活動が行われ、政府が占有するものを中央公

地というとすれば、氏族が共同体に設けた私有公地も

存在する。そうした公地は田舎町の城塞地域に起源を

みることができる。

イスラム世界ではフォーラムが明確に区画されてい

たローマ帝政の世界とは違い、広場は行政機関として

の役割を持たず、ただの交通のための余白部分であっ

た。宗教建築と広場との関わりは、西洋とイスラム世

界の公共空間に対する観念が交わることにより、また

修道会の教会様式にも影響を受けながら、教会前のア

トリオの形式に結びついたことがわかる。こうしたこ

とからも、広場を西洋の宗教建築のみから論じること

は不十分である。

2. 公共空間の分布

都市において開かれた空間、広場の存在は重要な要

素の一つであり、その形成過程は自然発生的にできた

ものと計画されてできたものの二つがある。自然発生

的にできたものとしてはランドマークがあった空間が

後に広場になったもの、さらには裁判所前の空間や教

会の境内が広場になったものがあり、例えばナヴォナ

広場は、かつてはローマ皇帝の競技場であった(図

2.1)。計画的なものは、都市の中心がその都市の代表

的な空間であることを示すようになりつくった広場で、

中心の作り方としては、都市に意図的に中心をつくる

方法と、二地区の間にあるオープンスペースを広場に

して中心をつくる方法の二つがある。意図的につくら

れた中心としてはイタリアのシエナのカンポ広場が有

名である。(図 2.2)

図 1.5 コルドバのモスク 図 1.6 メキシコの教会前の

アトリオ

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図 2-1

図 2.6 コンスタンティのポリス 俯瞰

図 2.5プエルタ・デル・ソル

図 2.3 イスラムの広場(マイダン) 図 2.4 マヨール広場

都市の縁の広場

都市の郊外や城壁外にある広場はしばしば市場や集

会場、お祭り、決闘場などに使用された。時には処刑

場や期間限定の共同墓地などの、都市の中心の広場で

は騒音などの問題で行うには適さないような用途に利

用された。イランやイラクの多くの都市のモスクにあ

る広場(maidan)(図 2.3)は、もとは郊外の競馬やポロ

を行う場所であり、後に市場の代わりとなった。スペ

インのマヨール広場(図 2.4)は、城外市場、闘牛場、

地元のお祭りや集会場として利用された。

町の広場

広場の発展は機能と交通網の発展に大きく影響を受

ける。港町において広場は町の中心ではなく、海岸や

河岸にあることが多く、例えば古代ギリシアではアゴ

ラは海岸に面してつくられた。

二つの広場を持ち、中心の広場は政治的な機能をも

つなどそれぞれに機能を持たせているものもある。イ

タリアのリヴォルノでは都市の中心の広場は政治的な

機能を持つ権威あるもので、海岸沿いの広場は奴隷た

ちの市場が開かれ、商業的な機能を持つとても大きく

騒々しい広場であった。

都市のゲートと広場

都市の入り口に当たるゲートとその前の広場は、貿易

や商業において町への侵入を許可する場所であり、そ

こで市場が開かれることもあった。また町で行われる

儀式などの出発として利用されたりもした。スペイン

のプエルタ・デル・ソルは、要塞都市の東の門で、ス

ペイン国道の起点であり交通の拠点。マリブランカ噴

水や様々な表現の建築により、町の中心の役割をもっ

ている。(図 2.5)

広場は、交通の要所として発展することや、町の計

画において交差点として使われることがある。それは

複数の道の交差点であったり、大きな通りの休憩所と

して広場であったりする。東ローマ帝国の都市であっ

たコンスタンティノポリスが好例である(図 2.6)。 ま

たバロック時代の都市では、放射状に延びた通りが円

環状の道と交わるところに広場がつくられた。

都市と広場の複合システム

ルネサンスやバロックの時代において、都市のシス

テムと広場の調和というものを考えることが最優先事

項であった。最もシンプルな都市計画の複合システム

は二つの広場を持つことである。例えばブラジルの都

市計画において一つの広場は地方自治の起点となる場

所として、もう一つは教会、集会場、店などがある場

所として用いられた。このような広場の複合的なシス

テムの適用はルネサンス期において試みられ、特にイ

タリアで研究がおこなわれていた。

このようなシステムとしては、広場中心のシステム

とプラン中心のシステムの二つのシステムが代表的で

ある。前者は、特に古い町では、新しくつくられた広

場を基準として町のシステムを考えていくという手法

がとられた。新しい町や拡大している町では、適用の

過程で抽象的な配置計画にそって忠実に町全体に適用

していくというもので、例えば、グリッドの計画は、

都市の中心にある広場を基準として対称的に広場が配

置され区切られていく(図 2.7、トリノ都市拡張計画)。

バロックの都市計画の特徴として、広場の幾何学的

な配置、中心を持つ構成などがあり、この都市計画シ

ステムは、バロック期以降も都市計画の学術的伝統と

して受け継がれ、都市計画の建築学校やこの時代の植

民地のデザインの指標となった。地中海最大の島であ

るシチリア島にある町パレルモも、儀式のための中心

を持つ構成であり、両端にゲートを持っていたり、新

旧の広場が繋がりを持って配置されていたりと、様々

なシステムの複合によってつくられていた。(図 2.8、

2.9)

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図 2.9 パレルモの都市全景

図 2.7 トリノ都市拡張計画図 図 2.8 パレルモ プレトリア広場

都市の広場というものは上記のように、様々な要因

により、様々な目的によって出来てきたものであり、

歴史を持つものである。ただ広い敷地を持つ公共空間

をつくったところで、その空間は町の中心、広場とは

ならないだろう。都市において広場の分布を見ていく

ことで、その都市の形成の意味、歴史を感じることが

できる。広場は都市を考える上でとても重要な要素で

ある。

3.適切な大きさ

この章は都市の中における広場の適切な大きさにつ

いて考察している。広場の大きさを考える上で幾つか

の観点があり様々であるが、それぞれについてその尺

度に基づいて説明している。

適切な広場の大きさ

まず、都市内部に広場を作る際、それが使用される

以上、都市に対する環境的影響を無視することは出来

ない。環境と一言で言っても捉え方は様々であるが、

本著の場合、「広場を市民が使用する上で何らかの実

害や不自由を被ることなく、文明的に使用できる条

件」と換言できるであろう。以下では、それぞれにつ

いて説明なされている。

新たに都市を計画する際の広場の大きさについて、

インディアス法などいくつかの法令には「都市内部に

おける広場の大きさはその都市の住民の数に比例す

る」とされる内容が記載されていることに触れており、

Jose de Fariaによる 1747年の記録も例示されている。

このように定義されている大きな理由は、祝祭の場と

して広場が利用されるからであるが、こういった理由

でつくられる広場は日本にはあまりないが、寺社など

の境内がその役割を果たしてきたといえるだろう。ま

た、別の理由には、地域によるが、度々地震に見舞わ

れ大きな被害を出してきたことがある。そうした歴史

の中で、広場が災害時の大規模避難場所として確立さ

れてきたのは当然のことである。

西洋の教会などの建築物はその外壁に美しい装飾が

なされている場合が多く、建築物そのものが美術品と

しての特性を持つ。それらを観察するに適した距離と

いうものがあり、その観点から広場の大きさや周囲と

の関係について述べている。筆者は、広場は二次元的

でなく、周囲の建物の高さも考慮したうえで三次元的

なヴォリュームを持ったヴォイドとして捉えるべきで

あると主張しており、現代の都市における広場はいさ

さか開きすぎており不適切であると批判している。

建築の解放

近代において、大聖堂などの建築物に寄生する様に

くっついていた建物を取り除き、その建築物の周囲に

広場を作る動きが見られた。これを筆者は建築物の

「解放」と呼んでいる。

図 3.1左 解放される前の教会堂

図 3.1右 解放された後の教会堂

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解放の流れを受け、いくつかの教会堂は周囲の建物

から切り離されていったのであるが、一口に教会堂と

言っても様式は様々であり、一意に解放が建築に対し

て効果的にはたらくわけではない。例えば比例を重ん

じるルネサンス建築において、建築物の解放は効果的

に働いた。厳密に数学的な比率によって整えられたル

ネサンス建築はある程度の距離を保ってみられるべき

であり、その意味で建築物の周りの開けた空間は適切

であった。

しかし、ゴシックにおいてはその限りではないとい

う。ゴシックの荘厳な外装の美術品の数々は離れた場

所からではなく、接近して観察されるべきもので、ま

た、あまり離れた所からだと建築物は周囲の建物群の

一部であるかのように見られてしまうからである。

全体主義と広場

19 世紀に入り、世界情勢の気運が戦争へと赴き、世

界中で全体主義国家が誕生するようになった。全体主

義国家においては国民の意識統一や、それによる国家

崇拝が第一であった。今でこそ視覚メディアが国中に

張り巡らされ、流したい情報を即座に視覚情報として

配信することが出来るが、当時は新聞、あるいはラジ

オしかなかった。そのため、大衆に対して何かを同時

に伝えるには人々を一堂に集めて伝えるしかなく、そ

うした目的で広場は計画された。要するに、プロパガ

ンダのための広場である。

ここではイタリアのファシスト党が例に挙げられて

いる。ムッソリーニは、ヴェネツィア宮殿の前にある

ヴェネツィア広場に党員を集め、自らの執務室のある

ヴェネツィア宮殿のバルコニーから演説を行った。こ

こには、共同思想体として広場に集められた群衆の前

に頭上から指導者であるムッソリーニが顕れる、とい

う構図が計画されている。

ナチスには、ファシスト党に比べ、はるかに巨大な

広場があったようだ。ファシスト党は所謂労働者階級

を中心に構成されていたが、社会ダーウィニズムに

よって裏打ちされた優生学に基づく選民思想が原動力

としてあったので、ナチスは巨大で豪華絢爛な広場を

作り、国民たちに自分達は優れた民族である、と刷り

込む必要があったからであろう。

図 3.3 ニュルンベルクに計画されたナチの党大会の広場の模型写真

図右上側にあるツェペリンフェルトだけでも 21万人が収容でき、とて

つもない規模の広場が計画されていた。しかし第二次世界大戦に国力

の多くがそそがれたため、中止となった。

ソヴィエトにおいても、社会主義である以上、国民

の儀式的な集会が都市の中心部で開かれる必要があっ

た様であるが、最終的な参加者(おそらく観衆も含む)

が十万人に及ぶ軍事的演目がとりおこなわれた様であ

る。これは圧倒的な数である。これ程の人々を収容す

る広場というものは広大であり、こういった広場を急

造する過程で都市部の建築物を「浄化」していったこ

とに対し、筆者は暴力的とすら述べて批判している。

図 3.4 ソヴィエトの軍事パレードの様子

図 3.2

解放されたゴシック様式の教会堂

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以上の様にして、この章は主に広場の大きさについ

て、使用する市民、中心となる建築物、利用する国家

の三つの視点で展開された。基本的に筆者は中立的な

立ち位置から淡々と述べているが、強引に建築物を排除

しながら物事を推し進める姿勢に対しては反対意見を例示

するなど、やや批判的な立場をとっており、そこに筆者の意

見を垣間見ることが出来る。

4.タイポロジー

この節では、街の広場について形態と機能の 2 つの

側面から分類を試みている。また、広場については機

能と形態は概して一致せず、それゆえに形態と機能の

両方を同時に考察することは良いものにはならないと

して、形態と機能の要素は論述する上で分離させてい

る。機能の観点で言えば、それぞれのカテゴリー自体

は自明なものであるが、難題として付きまとうのは、

広場が多目的に利用され、その用途も時代によって変

化しているということである。

広場の設えと民衆

パブリック・プレイスの核心となる問題は実はその

万能性にある。そうしたときに、広場の形式が特定の

ものでなければないほど、混合利用ができるようにな

るといえる。そうした理由で、バロック期のナポリが

中世の広場で構成され、至る所で計画された絶対主義

の広場を設けることに興味を抱かずに済んだのである。

そして新しいピアッツァを設計する、または一般化し

たデザインを行う観点で決断すると、複合利用に注意

が払われるようにもなる。スペイン圏の都市のマヨー

ル広場はフランス風のモニュメント、英国風の中央庭

園が省略されており、競技場としての役目を持ちなが

らほぼ全ての催しに対応することができる。一つの目

的に広場をデザインした場合、その場所はその一つの

目的のためのものとしか使えなくなってしまう。さら

に、広場の固定した用途はまれにしか存在しない。一

方で、即興、または一時的な用途は極めて多様に存在

している。

ただし、偶発的なイベントのために広場をデザイン

するのは馬鹿げたことである。マドリッドのマヨール

広場には住居があり、建物の長さで広場の大きさが決

められており、高級品店が広場の縁に並んでいた。そ

うした特徴により結果的に火刑、闘牛や馬上槍試合を

王が見物する品位ある場所となった。祭日にもなれば、

広場を囲う建築部分に窓やバルコニー、ギャラリーが

あることにより、上流階級のための観覧席として使わ

れた。そして窓から見える公共の建物は、貴賓が広場

を見るときのために装飾された。

広場に設けられる仮設の要素も、座席や組み立て式

の舞台装置だけでない。ナヴォナ広場では 8 月祭の催

しのために広場に水面を張る。また、シエナのカンポ

広場ではパリオという祭りの期間に、演目の馬の曲乗

りのために土を盛る。他の例においても、仮設の装置

は日常生活の場をステージに変え、催しが終わった際

には解体され、取り除かれる。

広場の分類学

広場を包括的な視点で捉える試みは、建築家や歴史

家の間で研究され始めた。そうした人々の間で論じら

れるため、自然と形態の問題が取り上げられる傾向が

あった。筆者は自らの広場の形態分類を行う前に、先

達の研究について言及している。

ヘルマン・ヨーゼフ・スチューベン(1845-1936)はド

イツの都市計画家であり、19 世紀末からの数々の都市

計画を手掛けている。彼の著作 ”Der Staedtebau” は

建築を学ぶ人間にとっての教科書として扱われている。

彼は狭義の機能によって広場を分類する先駆的な試み

を行っている。彼の研究の後進には、ミヒャエル・ト

リーブ(1936-)の研究が挙げられる。彼はスチューベン

の分類に”place d’arme”(軍事広場)、”wohnhof”(近隣広

場)を追加して分類を行っている。スチューベンは実践

を伴いながら研究を行っていたため、歴史的な観点を

重んじながらも先駆的であった。

スチューベンの分類

A) 交通広場

B) Nutzplatz (公共機能の広場)

C) Schmuckplatz, Gartenplatz (英国庭園風広場)

D) 建築のための広場(architectural court)

前庭 (Vorplatz)

建物付広場 (bebaute platz)

Umbaute platz (建築が象徴化された広場)

モニュメント広場(Denkmar platz)

cf. トラファルガー広場

Page 9: スピロ・コストフ『シティ・アセンブルド』「第 3章 公共空 …...Spiro Kostof, THE CITY ASSEMBLED - The Elements of Urban Form Through History Thames and Hudson,

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ポール・ズッカー(1888-1971)は、「都市と広場」

(1959) の中で、スチューベンの分類の「建築のための

広場」の再定義を図っている。それは「広場の歴史は

実際は美術的な構築物に付随した空間の歴史と同義で

ある」という文面からも窺い知れる。彼は自然発生的、

偶発的な広場を考察の範囲外とし、西暦 1800 年前後

の広場についても「三次元的な視点がほとんど消滅し

ている」ことを理由に除外している。

ズッカーの分類

a) 閉じた広場 “the closed square”

cf. ヴォージュ広場 (パリ)

b) 支配された広場 “the dominated square”

c) 核広場 “the nuclear square”

d) 組織化された広場群 “grouped squares”

cf. ナンシー、ボローニャ

e) 無定形広場 “the amorphous square”

cf. タイムズスクエア、オペラ座広場

図 4.1 P.ズッカーの 5つの分類

ロブ・クリエ (1938-) は”Stadtraum” (1975)におい

て、図式的な自身の分類から、歴史を考慮しない新し

い分類の形式を提案した。彼はズッカーの歴史家とし

ての立場とは違い、新しい提案を行っている。クリエ

は全ての広場を「四角、円、三角」という主たるぶん

るい幾何学形態からの派生として分析した。彼は「自

然発生的な」広場と計画的に作られた広場とを同じ類

型に入れており、こうした考え方はズッカーではなく

C. ジッテに同調している。クリエは現代の広場の問題

をズッカーのいう「平面化」ではなく、「都市空間の

浸食」であるとし、16 世紀から 1900 年までの広場を

例に挙げ、詳細に侵食の過程を説明している。

広場の形態

通常のデザインにおいてパブリック・プレイスは幾

何学的に区画された都市計画や都市拡張において表れ

るものである一方で、「自然発生的な」都市において

は、歴史の中で改変された地域に既にあったオープン

スペースを取り込んでいる場合にしか存在し得ない。

ここで筆者はクリエの理論に賛意を示し、両者を同時

に扱うこととする。変則的な広場についても、平面分

析に目的を純化すると、基本的な幾何学形態とその複

合形態に整理して捉えられるとした。それと同時に、

正円や正方形の広場は建物の壁面が規格化されていて、

オープンスペースがきれいに整頓されているという程

度にしか、視覚的な空間の厳格さを持ちあわせていな

いということが分かる。したがって、中世の市場や市

民広場は、得てしてオープンスペース形成に先行する

交通のパターンと、取り囲む構築物の密集と変化の過

程によって独自性を獲得しているといえる。

バロック期の広場は恣意的な産物である。強いて言

えば、形態を形式美の変様態であると考える幾つかの

デザイン理論の論理に則っている。そうした風潮が、

ジョン・イーヴリンが 1666 年のロンドン大火の後に

行った都市計画の説明に表れている。そこには、広場

の形態について、「正方形だけでなく、長方形や円形、

または楕円形のものもつくり、美観と収容能力を考慮

すること」とあり、形態についての言及が見受けられ

る。

三角形

自然発生型では、三角形は交差

点が拡大した際に出来るものであ

り、青空市場に適した環境である。

例としてイギリス中世都市のコモ

ンプレイスがある。

幾何学化された形式では、シテ

島の船首のような形状によって生

まれたドフィーヌ広場、2 つの三

角形が向かい合うスペイン広場が

ある。

図 4.2 交差点が拡張して 生まれた広場

Page 10: スピロ・コストフ『シティ・アセンブルド』「第 3章 公共空 …...Spiro Kostof, THE CITY ASSEMBLED - The Elements of Urban Form Through History Thames and Hudson,

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台形

原則的には、三角形の広場の形

態の一角に土着の建築の正面が侵

食したものとして考えられる。イ

タリアルネサンス期には、遠近感

の強調の効果を狙った広場として

も特徴付けられる。例としては、

ピエンツァ(図 4.3)、カンピドーリ

オ、サンピエトロ大聖堂が挙げら

れる。

四角形

この形態の中でも正方形

のものはヴォージュ広場

(図 4.4)があるが、滅多に

ない形態である。境界の辺

が等しいことから、建築を

強調することにはならず、

広場へ意識を向けさせる働

きを持つ。

一般的な長方形は一方で最もパブリック・プレイス

の形態として用いられるものである。こうした広場の

良い点は、記念碑などへの軸線を強調する点である。

ローマ帝国のフォーラムではそれが都市の中央寺院で

あり、長方形の短辺と接していた。

L字広場

通常は、2 つの隣接する長方形のスペースが連結し

たものである。代表的なものではヴェネツィアのサン

マルコ広場(図 4.5、4.6)が挙げられる。この種の広

場の形態についても同じように説明できるが、エンリ

コ・ギドーニは別の説として、公共建築への斜めから

の見えが考慮されていると指摘している。彼の説は、

建築の 2 つの側面が一度に見える斜めの視界を得られ

るよう、計画的に L 字型の空間配置がなされたという

主張において、連結説との明確な相違がある。

サンマルコ広場には、斜めから見たときに空間の統

一感が強調されるコーナー部分に、自立した鐘楼が建

てられている。この事実は、ギドーニの説が正しいこ

とを予感させる。

円形と楕円型

円弧状の形態は古代にも数例みられる。ゲラサの

ローマ帝政時代の集会場、またエジプトのアンティノ

ポリスの集会場にも曲線のデザインが見られる。

偶然出来た中世の楕円形広場として、ローマ帝政期

の野外劇場の変化したものがある。屋外劇場はまず初

めに建物自体が要塞化し、ある一族の砦へ変化して

いった。そしてアリーナの中心はコミュニティのため

の広場、周囲は防御壁となった。続いて住居が元の座

席の列にあわせて同心円状に配された。最終的に自治

都市の時代の流れにより防御壁は取り払われ、オープ

ンスペースは公共の広場に役割を変えた。

ルネサンス期になると円弧が再び用いられるように

なる。ヴィクトワール広場(図 4.7)はルイ 14 世のモ

ニュメントが中心にある正円

の広場で、5 本の道が放射状に

延びている。楕円とは違い、2

つの向かい合う通りが像の方

向性を決めている。革命によ

り像が小さくなると、空いた

スペースに同心円状の道が加

えられ、閉じていた広場が交

通の場となった。

こうした交通の場をフランスではロン・ポアンとい

う。ランドスケープデザインの中で円状の土地の中心

に芝生を生やしたものがあり、ロン・ポアンはその派

生したものである。ロン・ポアンは建物で囲われてお

らず、中心を都市の外部ととらえてつくられており、

通りが伸びる拠点となっている。これはイギリスの

「サーカス」のフランス版といえるものである。

イギリスでサーカスという言葉が使われ始めたのは

大ジョン・ウッドが設計したバースの広場からである。

ローマの屋外劇場に影響を受けており、コロッセオの

内外が反対になったような形式になっている。「サー

カス」は後に 4 つのブロックの隅が円形に切り取られ

た交差点のことを表すようになる。

純粋な円形は新古典主義の時代でも用いられ、ナポ

レオン期のフランスにおいてはルドゥーのショーの理

想都市などの都市が計画された。

図 4.3 ピエンツァ

図 4.4 ヴォージュ広場平面図

図 4.7 ヴィクトワール広場

図 4.5, 4.6 サンマルコ広場

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半円形

半円の広場は、教会などの公共建築の反対側の建物

の壁面線をくぼませて後退させたものが起源である。

13 世紀前半から北ヨーロッパで出来始め、現在まで

様々な形で用いられてきた。そこまで奥行きがなけれ

ば、道のくぼみによって公共建築の前の通りを通る

人々の動きは広がり、空間の流れを邪魔することなく

建築のファサードは印象付けられる。ここではこの種

の広場を 2つの形式に分類している。

i. 開いた形式

ランドスケープデザインから

来た形式であり、フランスでは

ロン・ポアンに分類される。あ

る地域への正面入り口に面した

半円の広場をいう。アンリ 4 世

時代のフランス広場の計画案は、

寺院に面した新しい街への玄関

口を設け、広場を 7 つの建物で半円形に囲い、その間

の道を放射状に通すというものであった。こうした計

画は学術的な場では標準的なものとして受け入れられ

ていった。

ii. 閉じた形式

建築によりできた半円の広場。

バロック期に重用され、新古典主

義の建築家により、網状の曲線が

用いられた。ナポリにあるエクセ

ドラはこうしたものの例であり、

プレシビート広場はサン・フラン

チェスコ・ディパオラ聖堂のエク

セドラである。

2 つの広場の形式の美しさを共に備えたものが、2

つの半円が間を空けて向かい合い、直線の道がオープ

ンスペースを貫通する形態である。こうした形態は都

市の領内において有効であり、訪問者を迎え、かつ中

心へと誘うように出来ている。ローマのエセドラ広場

は 1880 年代に出来たものであるが、ディオクレティ

アヌス帝の建設した大浴場(図 4.9)のエクセドラの跡を

用いていることから、歴史的な重層性を感じさせる。

イギリスでは小ジョン・ウッドによって 1775 年に

ロイヤルクレセントがバースに造られ(図 4.10)、三

日月広場がイギリスの都市計画の標準となった。

近代になると、クレセントの複合した派生として、

サーペンタイン型ができた。しかし、こうした形態は

恣意的で、公共空間の分析のための指標にはならない。

ただし、ブルーノ・タウトが 1920 年にフーファイゼ

ンジードルンクに設計した馬蹄型集合住宅は、ウッズ

親子に敬意を払った空間を設計しているモダニズム作

品として評価に値する。

広場の用途

形態からオープンスペースへの分析を行うことには

限界がある。最近の学術研究は対照的に、公共空間の

「用途」の方に着目している。この観点から広場を論

ずると、社会史学的になるのは避けられない。勿論、

物理的な側面を無視していいというわけではない。用

途が組織化、系統化される一方で、物理環境は歴史的

に特殊なものなので、必要とされた場合の例示のため

に言及しておかなければならない。

市民広場

広場の原初的な用途として、市場と市民広場の 2 つ

がある。これらが同じ場所で開かれるのは珍しくない。

しかし、この 2 つの用途を分離しようとする欲求が、

都市がある程度発展した段階で見られる。もし市民広

場が真に共同自治を象徴するものであるとすれば、歴

史の中で人権の平等が叫ばれることは減っていくはず

である。市民広場は、国家の特定のシステムの表現と

してではなく、公務、又は権力に対する挑戦を顕示す

るための場所であったと捉えるのが適切である。

ギリシアのアゴラは 149 年に生まれた。アゴラは共

同体が政治を行う都市景観のかけがえのない要素とし

ての初めての公共空間である。そこでは法律が石版に

刻まれ、大衆に公開されていた。クセノフォンの「ア

ナバシス」によれば、ギリシア植民地では、アゴラと

寺院のための土地が最初に確保されたようである。

図 4.8

パリのオデオン広場

図 4.9 トラヤヌスの市場

エクセドラが確認でき

る。

図 4.10 バースの都市計画

左がロイヤルクレセント、右がサーカス。

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ヤコブ・ブルクハルトによれば、アゴラは

agheirein (会う、集まる)という言葉から生まれた

言葉である。そしてアゴラから agorazein という、市

場に買い物、会議などをしに行くという言葉が生まれ

た。この言葉はローランド・マーティンによれば「演

説すること、または演説する場所」という意味を持ち、

アゴラの主要な機能は政治的、社会的なものだった。

しかし、次第にアゴラは商業的な性格を強める。マー

ティンはギリシア後期やヘレニズム時代のアゴラが人

の交通に対して閉じていたことについて交通に対し開

いていた初期と比較して言及し、大衆の政治力が弱

まっていたことを指摘している。

ローマ帝国のフォーラムでは、商業活動は市民活動、

宗教活動の次に重要なものであった。フォーラムにお

いては、司法施設の機能は重要であったので、当時

「フォーラムに行く」というのは裁判所に行くという

意味であった。さらに、生粋のローマ人は演台に乗り、

政治演説や家族への別れの言葉を述べていた。また、

大衆への通知事項掲示されていた様で、内容は選挙ポ

スター、取引の契約、養子の募集など多岐にわたった。

皇帝たちは共和政時代に作られた市民広場を支配し

ようとした。フォーラムは皇帝の統治を賞賛する場所

として作りかえられていった。

12 世紀になると、都市国家の封建関係から市民が独

立し始め、市民広場は再生されていった。また、中世

初期に司教の俗世での権力が強まったことにより、教

会と共同体は対立し、教会広場などの宗教活動の場と

市民広場は分離されていった。

14 世紀になると、共同体と貴族の間に対立が生まれ

る。メディチ家やスフォルツァ家などの貴族は、市民

広場に何かを設置する、または領主の支配と明確に結

びつきのある別の広場を設けるなどして権力を主張し

た。イタリアのヴィジェーヴァノでは、スフォルツァ

家が市民広場を破壊することもあった。

16 世紀からは、広場は堂々とした外形をもち、威厳

のある像が建つようなものであったので、市民が所有

する権利は全くなかった。

19 世紀になると、立憲君主政治が完成し、自由主義

国家が生まれた。その際、市民広場が担っていた機能

は分散され、新しい政治、文化機関が設立された。

軍事広場

軍事力を広場において可視化することは、都市の歴

史の中で、防衛力の顕示と、市民の国家権力への反抗

意識を削ぐという 2 つの役割を担ってきた。こうした

行事のための空間は建築と密接な関わりを持っていた。

サンクトペテルブルクの宮廷広場にパレードのため

の広場を再建する際、カルロ・ジオバンニ・ロッシは

広場を宮廷の占有する領域にし、建築の設えをそれを

強調するものとした。広場は宮殿で囲まれ、付随した

広場は軍事行進が広場に現れる門として設けられた。

さらに参謀本部は閲兵のために機能化された。

インカ帝国の都市、

ワヌコパンパ(図 4.12)

では巨大な広場があり、

門を介して 2 つの小規

模な広場とつながって

いた。さらに、広場の

ほぼ中心には石造りの

大きな建造物があり、

天体鑑賞やパレードの

際にはインカの王が鎮

座し、取り仕切った。

軍隊の総数が増えたことにより、国家は都市の城壁

の外に軍事演習のための広大な領域を確保した。18 世

紀ごろには、軍事技術の高度化などにより、軍事演習

のための広場は都市の外に移っていった。使われなく

なった古い軍事広場が都市中心部のオープンスペース

として残ったということでしか、今日の我々には軍事

広場は意味を持たない。

植民地支配の時代には、ヨーロッパの国々は属国の

地域を破壊し、軍事演習の舞台をつくった。例えばフ

ランスがアルジェの市民広場を破壊した際、そこにパ

レードのための場所を幹線道路の結節点に設けている。

図 4.12 ワヌコパンパ (ペルー)

図 4.11 アテネのアゴラ

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競技場

競技の公共の場での性質と、長年続いた敵対関係に

依る情熱は、現代生活において似通ったものである。

競技は、過去には社会階級への反発、政治への懸念、

州間の交戦状態に陥る火種を発散するための祭事とし

て位置づけられていた。中世に行われたロンドンとウ

エストミンスターとのレスリングの戦いでは、敵対意

識が競技の枠を超えてしまうこともあった。

ルネサンス期の馬上槍試合は王が参加していた。そ

れは王が健在であることを証明するためであり、民衆

のためではなく政治的な意味合いが強かった。

市民広場はその大きさと位置から、幾つかの大きな

面積を要する競技を行える唯一のものであった。ウィ

トルウィウスは「闘技はフォーラムで行われるべき

だ」と述べている。また、屋外劇場という機能は、中

央広場に聴衆が集まって生まれたものである。

闘牛は、元々は貴族の道楽として行われ、市民は聴

衆でしかなかった。闘牛士は、騎士が騎士道精神を示

すために行った。初めは城壁の外の馬上槍試合場で行

われていたが、祭りのための公共広場に場所を変え、

17 世紀には競技のために競技場が整えられた。マド

リッドのマヨール広場は 17 世紀のものである。周り

にはポルティコ付の 4 階建ての屋敷に、御影石仕上げ

の店舗が並んでいる。闘牛の見物客が 5 万人収容でき、

バルコニーや窓は闘牛のときに貸し出された。

18 世紀になると貴族が闘牛への関心を失い、フェリ

ペ 5 世が出席した闘牛で貴族は闘牛を終了させた。そ

して闘牛は一般市民が主催するものとなった。

ローマの馬上槍試合も初めは城壁外の屋外空間で行

われた。のちにヴァチカンには専用の劇場が設けられ

た。「カルーセル」とは競技のための大掛かりな設備

の呼称であり、メインゲートや貴賓席、審判席などが

そうしたものにあたる。

図 4.13タービン広場

広場の角で道ができており、

道が広場を貫通しない。

交通

交通の転換と分配は常に都市広場の存在意義となる

ものであった。交通と集合という広場の 2 つの本質は、

共に相容れないものである。ローマ帝政期のフォーラ

ムは、交通から閉じている。つまり、交差点から離れ

たところにあった。中世の「タービン広場」(図

4.13)がカミロ・ジッテにより紹介されており、現代

の都市プランナーが広場を計画する際、社会の器とし

ての必要不可欠な本質に次いで、交通を考慮していた

ことを示している。

17,18 世紀の英国庭園は原則的に排他的である。一

方でフランスの宮廷広場は道が付随して計画されてい

る。18 世紀にスチュワートはロンドンの広場を「公園

の模倣」であるとし、誰もが自由に出入りできるのが

公園であると述べている。

イタリアでは中世からルネサンスまでの時代では、

広場は柵で囲われ、周辺から孤立したものであった。

アルベルティは広場を 1 つの建物であるとし、交差点

と広場は、その規模を除けば違いはないと述べた。

W.A.エデンはアルベルティの言葉を借り、交通の場と

しての交差点と、集会の場としての広場の中間的なも

のが現在の我々の広場となっていると分析した。

スチューベンは広場と交通の衝突を専門的に整理し、

交差点自体を”public concourse”と言い換えている。そ

の定義は、地下歩道、一段高い中心の広場、そして進

入地点に交通を整理する楔形の障害物があるというも

のであった。このコンコースはユジェール・エナール

の 1906 年の計画案(図 4.14)にも見られ、その翌年

にエトワール広場で実現されることになる。

図 4.14 ユジェール・エナールの計画案

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住居広場

この分類に共通して挙げられる特徴として、全体の

統一性があること、ひと続きの正面を持つ建物に面し、

設計全体は1つの事業者が監修しているということが

ある。ルネサンス期にはじまり、ヴィジェーヴァノの

広場、リヴォルノの大広場が初期のものにあたる。19

世紀まではこうした建物は上流階級のものであった。

17 世紀のフランスの宮廷広場などが特徴的であり、権

威を象徴する王の像などが広場の中央に建てられた。

この頃にはフランソワ・レミーが、宮廷広場への適用

を想定し、像の設置方法などの要項を成文化した論文

を執筆している。こうした広場は公共機能を伴って計

画されることもあり、ルイ 14 世はヴァンドーム広場

を図書館、アカデミー、官庁に囲まれた場所として当

初計画していた。

英国では、広場周辺の土地が一人の所有者の手にあ

り、比較的単純に広場が設けられた。ブルームスバ

リー広場は初めて正式に“square”と名づけられ、この呼

称の起源といえる。スクエアは、面する建物の正面を

軸として左右対称な方形の平面となっている。住居の

建設の際には周辺とのデザインの統一が引き続き意識

され、18 世紀の英国で団地の形成に影響を与えている。

コヴェントガーデンなどのベドフォード団地の「スク

エア」は代表的な例である。

図 4.15(左) コヴェントガーデン平面図

図 4.16(右) 同全景

この節では西洋の都市分類法により広場の分析がな

されている。こと形態について言えば、純粋幾何学を

用いて都市の平面分析をすることは今や恣意的である

と受け止められかねない。しかし、形態認識の最初の

段階で、我々は空間の囲われ方を四角や三角の単純な

形状に置き換えて形容することも事実である。広場を

語る上では歴史の中で積み重ねられてきた形式が存在

し、それらに引きずられる形で必然的に年代順の記述

の仕方になってしまう。この節では R. クリエを引用

し、幾何学形態を用いて分析を行っている。文化の時

間軸にとらわれない広場の発生過程を推測し分析でき

ているという点で、この形態考察の部分は興味深い内

容である。その一方で、広場の機能に関する論は網羅

的で冷静な展開に終始している。

5.公園

この章では、公園がどの様に発生し、そして現代に

至ったかが書かれている。今でこそ街中や市街地等に

市民が自由に使える公園が沢山あるが、かつてはそれ

ほど一般的なものではなく、むしろ例外的ですらあっ

た。では、いかにして市民は公園を勝ち得たのであろ

うか。

近代における公園

まず、イギリスでの広場のあり方の変化にふれると

ころからこの章ははじまる。18 世紀ロンドンにおいて、

街中に広場は点在していたものの、庭であったり公園

であったり牧羊場であったり、使われ方は様々であっ

たようである。19 世紀に入り、それらの広場の整備が

始まったようであるが、それを著者は都市における市

民の健康に対する気運の高まりが原因であると捉えて

いる。当時のロンドンではコレラが流行し、大気汚染

も深刻化していた時期であり、市民の関心が健康に向

くのは当然のように思われる。

他の国々でも同様に公園が整備されていったが、そ

れぞれ異なる動きが見られたと紹介している。ドイツ

においては Gartenplatz、フランスでは square、スペ

インでは salon という表記が使われた様であるが、そ

れぞれにおいて微妙に意味合いが異なる。ドイツの

Gartenplatz はイギリス的な考えのもと作られたが、

本著では「フランスでは当時はまだ square という表

記が使われた」とあるので、当時のイギリス風公園よ

りは古い考え方の、健康的でなく「市民のための公

園」という意味合いが薄いものだったのではないだろ

うか。スペインの salon は特権階級のためであったよ

うで、こういった諸国の違いは、産業革命が起こった

イギリスからの距離に関係するのかもしれない。

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中世の共有広場

歴史的観点からの市民のためのオープンスペースの

起源についてであるが、中世の市街地を取り囲む城壁

の内側に原っぱがあることはそれほど珍しいことでは

なかったようで、それらは畑などに利用されていた。

つまり、市民が自由に使うことに対して特に問題視さ

れていなかったようだ。では、現代的な公共広場のお

こり起源とはどういうものであったのだろうか。

15 世紀のロンドンに遡る。ロンドン市街地の

Moonfield に公共広場の起源の一つを筆者は見出して

おり、まだ階級制度が顕著で市民権というものが確立

されていなかった当時からこの Moonfield は市民のた

めの遊歩道として利用され、上位階級の反発を受けつ

つも今日までそのままで維持されてきた様である。

図 5.1 ロンドンの Moonfieldの詳細図

下にロンドンの城壁が走っており、人々は図の中心より少し右側を縦

に走る通りと城壁がぶつかるところにある門を介して Moonfield を行

き来した。

また、別例として挙げられているのがフランスの王

室所有の庭園であり、それらは時折市民に解放されて

いたが、フランス革命以後、永久に市民に解放される

ようになった。筆者がこの事例を挙げていることから、

フランス革命も公共公園の生まれた契機の一つとして

捉えている。

また、18 世紀の啓蒙運動期に公園墓地が誕生したこ

と に つ い て も 言 及 し て い る 。 Mount Auburn

Cemetery が公園墓地の第一号であり、プランニング

において初めてセミパブリック空間が取り入れられて

いる。こうしたプランニングの影響が、後に計画され

る現代の公共公園に色濃く残っていることからも、プ

ランニングの起源としている。

図 5.2ミュンヘンの Englischer Garten

図の中心に見えるのは円形神殿。面積は 3.7㎢と非常に広大。

現代の公園

今までは現代の公園の起源を追ってきたが、ここか

らは市民のために計画されつくられた公園について紹

介している。現代の公園というものの初めてのものの

候補が二つ挙げられており、一つはミュンヘンにある

the Englischer Garten、もう一つはロンドン東部の

Victoria Parkである。筆者は何を以てこの二つを現代

の公園の第一号としたのであろうか。

前者の Englischer Garten であるが、これは当時ド

イツが進めていた公園政策の Volksgarten の初期の例

であり、人々の基礎教養を高め、異なる社会身分の

人々の交流の場として計画された。後者の Victoria

Parkは労働者階級のために計画された公園であり、ロ

ンドン西部に多くの公園が集まっていたことを受け、

議会の承認を受けて計画された。この公園は様々な社

会的地位の人々が利用することを目的とした。

上記のように、この二つの公園に共通することは、

どちらも社会階級の融合が目的の一つであることであ

る。つまり筆者は社会階級の融合という、産業革命以

後の社会的な理念が現代の公園の果たすべき目的と捉

えていたのである。

こういった流れは世界各国に受け入れられ、様々な

国で市民のための現代的な公園計画されていった。

このようにして生まれた現代の公園は市民によって

歓迎され、利用された。異なる社会階級の人々が出会

う場において様々な文化が生み出され、計画者達の理

念は達成されていった。様々な人々によって利用され

ていくにつれ、徐々に利用のされ方に秩序ができて

いった。ある程度は当然のことであったのだが、秩序

立てられていくにつれ、様々な行為が禁止されていき、

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図 6.3 つくばセンタービル 図 6.4 カンピドーリオ広場

図 6.2 ヴィーツラフ

広場

図 6.1 ポポロ広場

そのことで本来公園の計画者達が意図したものと反す

る結果となってしまったと筆者はしている。今日では

多くの公園が利用時間を制限され、観賞用として立ち

入り禁止になってしまっていることなどが述べられて

おり、このことに対して筆者は強く批判を加えている。

筆者は公園の階級などに縛られない自由度を重要視

しており、そのことが不可欠であると捉えて、「現代

的」と表現している。したがって、「現代的」でなく

なりつつある現代の公園は筆者にとって歓迎すべきも

のでなはないようである。この章の最後ではサンフラ

ンシスコ湾沿いにある Sausalito のセントラルパーク

に立てられた

This park is for your viewing pleasure. Do not enter.

と書かれた看板が紹介されており、筆者はそれを

「ぶっきらぼうな墓碑」と表現し、時代遅れであるこ

とを強調している。

6. 現代の公共空間

歴史ある広場は現代の都市に調和するよう形を変え、

現在も使われ続けている。また新たに広場を挿入する

ことにより、町に活気を与える効果もあるし、現代の

公共空間は多様性を持って変化していっている。

公共空間

高密度な都市構造において、何もない広い空間とい

うものはとても優雅なものである。広場には、都市を

結束させる力、市民の情熱がある。小さなパブリック

スペースでさえ、その存在は市民の要求、主張の象徴

である。イタリアのポポロ広場(図 6.1)では 1849 年

ローマ共和国の建国宣言が行われたし、チェコプラハ

のヴィーツラフ広場では 1989 年に勃発した民主化革

命(ビロード革命)のデモが行われた。このデモにおい

て、広場に集まった人数は最大 10 万にも及んだと言

われている。

近代の広場はかつての広場の意義を取り戻そうとし

ている。その方法は二つあって古い名前を使うことと、

かつての広場の模倣である。例えば、フランスの新し

い町 evryは、パブリックスペースのことを the agora

と呼ぶし、コロンブスはインディアンの市場のことを

the commons と名付けた。磯崎新によるつくばセン

タービルでは、ミケランジェロ作のカンピドーリオ広

場の石材による舗装パターンを模倣している。

Designer Squares

都市におけるかつての広場の持つ機能の緩やかな消

滅は 1世紀以前から起こっている。発展するにつれ広

場はなくなっていき、新聞、ラジオ、テレビが広場の

機能を奪っていった。近代的な水道システムは広場の

泉の社会的意義を失わせたし、大量生産大量消費は広

場の経済活動の場としての機能を失わせた。都市の

オープンスペースは芸術家のキャンバスのような使わ

れ方になっていき、かつては町の広場の役割であった

社会的な行動の場という使い方に代わり、美的な感覚

を感じるための場所になった。

現代の広場は、建築、モニュメント、人の美しい配

置のためのニュートラルな空間の役割を拒んでおり、

テーマパークのように楽しめる空間としての役割が求

められている。例えば、バルセロナのサンツ広場にお

いて娯楽施設の欠如についての抗議がでた時、その抗

議を都市計画の主任は、逆行的で、無知であるとした

のだが、このサンツ広場の都市化は、現代のわれわれ

にとって、広場のテーマパーク化が進んでいることを

感じさせる重要なものである。

戦後の高層建築の広場

このような広場のかたちは近代のアメリカの、高層

建築の広場に顕著に表れている。超高層建築は通常そ

の敷地の 1/3、1/4ほどしか使われない為、近代都市の

都市観に応える形でオープンスペースが入れられて

いった。建物はその周りの緑や雰囲気によって経済的

図 6.2 ヴィーツラフ広場(プラハ)でのデモの様子

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図 6.8 エドモントン(カナダ)のショッピング・モール

図 6.7 IDSセンター(ミネソタ州)の クリスタルコート

図 6.5 1976 年の都市計画法改正でニューヨークにできた公共空間

図 6.6 ロックフェラーセンターにある帯状庭園

にも美学的にも強められるという考えが、20世紀初め

の都市美運動の代表であるチャールズ・マルフォー

ド・ロビンソンによって広められたのだが、彼はこの

ような都市の広場は、都市に与える美しさや印象、広

場に面する建物の価値を強める効果があるとした。こ

の影響もあり、オープンスペースの amenity value が

高いと賃料も高くなるという経済理論は広く普及して

いて、その賃料の増加はオープンスペースを設けるこ

とによって出る損失よりも大きかった。1950年後半か

ら 1960年前半にかけて、多くのアメリカの都市では

パブリックスペースを拡大させるため、オープンス

ペースの大きさによって階の追加による税金増加の免

除を始めた。これはオープンスペースが大きければ大

きいほど建物が高くなっていくことを意味する。しか

しこのオープンスペースの基準が定められなかったた

め、人が住めないようにきつく舗装された道になった

り、通行不可能なプール、有名な彫刻作品が飾られた

りした。結果として何の影響力もないパブリックス

ペースになり、また通りのエッジから分離することに

よってこれらのオープンスペースのプライベートな管

理を強化されていったという側面もあった。しかし

1976年のNew York City zoning codeの修正により、

これらのパブリックスペースは変わっていった。広く

なった歩道はカフェなどの”outdoor room”となったし、

広場は歩道と調和し親しみのある”pocket park”となっ

た。それらの調整はデベロッパーの責任となり、パブ

リックスペースに木を植えたり、キオスクや可動式の

椅子を置いたりと日常生活が潤うようなアメニティを

置くようになって、またそれらの器具のメンテナンス

の保障も課せられた。ニューヨークのロックフェラー

センター前の広場は、高層建築に広場が付いている初

めての例で、冬にはスケート場として利用されている

プライベートなパブリックスペース

現代のパブリックスペースは民間の企業などが管

理するようになり、公共空間が民営化されていった。

例えばアメリカではアトリウム、テーマパーク、

ショッピングモールというもので(図 6.7、6.8)、デベ

ロッパー、特にランドスケープアーキテクトである

ジェームス・C・ローズよってアメリカではポピュ

ラーなものとなった。 これらは北アメリカの郊外の

居住地において頻繁に作られ、ヨーロッパにも同様に

つくられた。この住居や職場から距離の離れた公園へ

の空間的に不連続なランドスケープは、郊外居住者の

モータリゼーションによってシームレスなものへと変

わっていく。

このような矛盾した空間については様々な論争が

あったが、1968 年、連邦最高裁判所が、道路のような

パブリックな空間と民営のショッピングモールとの間

に区別はないとした判例が残っている。

パブリックスペースというのは知識の宝庫として誇

れるものである。我

々はこれらの歴史を捨て変容してきたし、今のパブ

リックスペースがそれを示しているといえる。とはい

え残されているものは少ないが、それを読み取ること

はとても重要である。誰かといたいと思うとき、我々

はわざわざ人を集めなくても、ぶらついている人々を

広場で見るだけでよかったりする。こうした行動は買

い物を誘発しないのと同様に生産性のあるものでもな

い。しかしショッピングモールやブティックで埋め尽

くされた広場に集められると、我々はお互いを認識す

るし、なにかパブリックなイベントや、プライベート

なお祝いをしようとする時にその場所を思い浮かべた

りする。結局広場というものは、意図された崇高なも

のではなく、騒がしい交差点の手前の休憩所がフォー

ラムや大聖堂前広場となったような、また城壁の外の

形の明瞭でない市場が今の厳格なマヨール広場になっ

たような、人々の日常が積み重なって創られてゆくも

のなのではないだろうか。