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夜野 朱鷺

氷龍婚姻譚time-will-tell.velvet.jp/moon/hyoryu.pdf · 2014. 1. 3. · 白鷺の妻となるため、二十二歳にして初めて宮殿の外へ。機織り(はたおり)が得意。

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夜野 朱鷺

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氷龍婚姻譚

一、手にした糸端

二、夜に結ぶ

三、そして、織り次ぐ

p.003

p.018

p.024

氷龍婚姻譚 /番外編

一、甘い物は別腹

二、甘い夢、苦き朝

三、甘い物で満腹

p.027

p.036

p.058

夜野

朱鷺

茜音国主の娘であるが、母が洗濯婦でひっそりと暮らしてきた。白鷺の妻となるため、二十二歳にして初めて宮殿の外へ。機織り(はたおり)が得意。冷静で一歩引いた雰囲気だが、実は前向きで積極的。黒髪に茶色がかった黒の瞳。

白鷺氷龍家頭領。父の急逝により、齢十三にして氷龍家頭領となり茜音を娶ることに。責任感が強く、一途。情に厚いが、心配性なところもある。精神的重圧のためか、成長が緩やかなところがある。白銀の長い髪に薄茶の瞳。

高尾氷龍家執事。すべてを氷龍家に捧ぐ者として、婚姻せずに氷龍家に先代の頃から仕えている。白鷺や茜音、使用人に時々厳しい忠告をする。沈黙するが、嘘はつかない。濃い灰色の執事の衣を常にまとう。白髪白髭に黒い瞳。

Author

春の歌うたい

Design

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「白鷺

しらさぎ

様のお帰りでございます。茜音

様、どうぞお迎えのご準備を」

屋敷内を取り仕切る、いわゆる執事という職務にある高尾にそう

言われて、私はしぶしぶ立ちあがった。

その途端、私の衣服の裾がだらりと軽く落ちた。座っているだけ

で着崩れてしまったのだ。

私に呼びかけた高尾は、白髪と白髭の爺やと呼びかけたくなるよ

うな男だが、その背筋はしゃんと伸びており、この地域独特の全身

をくるむように衣を纏い太めの帯で締める装束を、小奇麗に着こな

している。黒に近いような灰色の衣に無駄な皺が一つもできていな

い。

私はまだ、なかなかこうまで美しく着こなせないでいた。

女性は男性とおなじような装束の上に、また一枚薄絹をまとうの

で、その重ね着のおかげで不十分な着こなしを隠しているような状

態。

こんな着崩れた状態で屋敷の主を迎えにいくわけにはいくまい――

そう思った瞬間、まるで私の思いを読んだかのように、まわりの傍

仕えの女たちが私の背後や隣に回ってきて衣をなおしにかかった。

「――ありがとう」

ひとまず衣が整い、礼を告げる。

部屋の隅で待っていた高尾とともに屋敷を移動する。

話すこともなくて、ただ黙って冷えた廊下を歩く。すれ違う人は、

私の姿を見て次々に礼をしていくのが、滑稽なような気がした。

「ちょうど良いころに出迎えられたようです」

高尾の落ちついた声に私はちらりと顔をあげる。

ちょうど入り口から数人の付き人や守り人に囲まれつつ、白銀に

輝く髪のこの屋敷の主が戻ったところだった。

雪原に光が当たったような美しい髪。

「おかえりなさいませ、白鷺様――……」

屋敷の主に向かって高尾がうやうやしく礼をしたので、私もそれ

にならって適当に膝を屈めて礼の姿勢をとった。

屋敷の主――白鷺がちらりとこちらを見た気がして、私は礼の仕

草に交えて視線をはずして目を伏せる。

「おかえりなさいませ、旦那様」

棒読みのような言葉が、私の口から零れ出た。

伏せた目線の先で、屋敷の主の白銀色の服の裾が通り過ぎてゆく。

私とは違う、裾を美しく揺らめかせる優雅で確かな足取り。

「――高尾、何か変わりはないか」

さりげなく私の声かけを無視するようにして、白鷺が高尾に話し

かけた。

その声は、男にしては幾分高い――少年の声。

私はその声変わりをまだ完全に迎えていない声を聞きつつ、今晩

のことを想って小さくため息をついた。

いま私が住むこの屋敷は、晶国という国の北のはずれにある

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『氷

ひょう

龍りゅう

』と呼ばれる地域の中心に位置する。

一年のほぼ半分が雪の季節となるこの地域は、代々その地の名を

冠する「氷龍家」が守ってきた。時代の流れにより、氷龍が晶国に

属するようになっても、ほぼ氷龍一門の人間で自治を許されている

特別な地域なのだ。

氷や雪は、解けると水になる。それは川となり晶国を潤すものと

なる――山岳地帯でもあるこの氷龍が守る地域は、夏になり雪解け

が始まると晶国の豊かな水源の一つとなる。

その大切な地域を氷龍家で守っているわけだが、勢力を伸ばし統

治をすすめる晶国に属するようになったことで、一つ条件が加わっ

た。

氷龍の頭領が代替わりするときには、晶国の国主がよこした女を

娶ること。

つまり――氷龍の頭領の正妻はつねに晶国の国主に連なる女であ

るということ――。

私は、現在の晶国の国主の三番目の娘であり、ちょうど七日前に

この氷龍の頭領たる白鷺のもとに嫁いだばかりだった。

氷龍家頭領、白鷺――まだ十三歳の男のもとへ。

***

「旦那様……また、寝床は分けて眠るのですか」

私がため息まじりにそういうと、蝋燭の明かりに照らされた白銀

の髪がびくりと揺れた。

寝台は大きなものが一つであったが、一人寝用の寝具を二つ並べ

て用意してある。並ぶ寝具には、拳ひとつ分くらいの間が空けられ

ている。

谷間がある二つの寝具からわかるように……私と白鷺は、夫婦と

してまだ名ばかりだった。

白鷺は何もいわず私に背をむけて寝具の中にすべりこんでしまい、

布団にくるまってしまった。

七日前に夫婦と呼ばれる立場になっているが、白鷺と私は会話す

らほとんどしたことがない。

「おやすみなさいませ」

私の呟きが夫婦の部屋として与えられた寝間に響く。そっと蝋燭

を吹き消して、私も隣の寝具に身を滑らせた。

夜は冷える――。

これで夏だというのだから、冬はどれだけ寒かろう。それを想像

するだけで、寒がりの私はぶるりと震える。

寝具を身体に巻きつけながら、私は小さく息をついた。

本来であれば、この白鷺の妻となるのは、齢十二となる私の異母

妹の瑠璃花

の予定だった。

五、六年後あたりに前代の氷龍頭領が位を白鷺にゆずる際、それ

に重ねて婚儀が行われる手筈だったのだ。

だが、先月、前氷龍頭領が突然の病でこの世を去ってしまい、一

人息子である白鷺が十三歳で頭領の位を受け継いだ報告を受けた。

まだ初潮を迎えていなかった異母妹を嫁がせることはできず、二十

二歳の行き遅れの私に白羽の矢があたった。晶国では初潮を迎えて

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いない女を嫁がせることは、それがいくら形式だけであっても禁忌

とされ、忌み嫌われることだったからだ。

私は――父こそ晶国の国主であるが、母は国主の住まう宮殿の片

隅で働く洗濯婦である。国主が本当にたまたまの気の迷いで手をつ

けた女が、たまたま子を宿してしまったのだった。当時はまだ国政

が安定していなかったため、父の血統が宮外に出ることは不穏を生

む原因にもなるとして、私も母も宮殿の片隅で暮らすことになった。

行き遅れたのは、母の身分があまりに低かったせいで、宰相が私

をどこに嫁すべきか決めかねたからだ。

下手に宮殿で暮らしてきたため、国主の血を引いているのに軽々

しい扱いをするわけにもいかず……かといって、母の身分が低いの

に名門の家に嫁ぐこともはばかられ……宙ぶらりんのまま来た。し

かも、数年前に母も亡くなり、さらに私はひっそりと暮らしてきた

のだった。

つまり、突然に降ってわいたのが、この結婚――思いもよらなか

ったこと。

十日前に私は生まれて初めてこの氷龍の地域に来たが、そもそも

私は、この二十二年、王宮の外にすら出たことがなかった。

いずれ嫁ぐことがわかっており、この氷龍の地域独特の暮らしや

しきたりを学んできた妹の瑠璃花とは違い、私はこの地域の衣装を

身につけることすら一人で満足にできず、文化もほとんど未知のま

ま、急遽荷物のようにして送りこまれた。

当然のように付き人もいなかった。

宮にいたころは侍女のようなものも形式的にあてがわれてはいた

が、あくまで身の周りを事務的に最低限処理してくれるだけであり、

結婚のために宮から遠く離れた地についてきてくれる関係ではなく、

またそういう存在を私に用意するような国主でもなかった。この国

に来たときはさすがに従者がいたが、婚儀が終わると私ひとりを残

して早々に帰ってしまった。

ようは……妹に初潮がくるまで、代替の存在として私は在ればい

いのだと――そう示されていた。形式上、国主に連なる者がここに

いればよいと。

それは氷龍家の者たちにとっても了解のことだったのか、白鷺は

婚儀の夜からこうやって寝具を並べて眠るだけであったし、そうい

う意味では「未使用」たる状態の寝台に対して、氷龍に仕える高尾

をはじめとする使用人たちも何も言わなかった。

白鷺より九つも年上であることすら――誰も指摘しなかった。

――まぁ、夫婦として床を共にして、子どもを授かっても困るわ

けだもの。妹に初潮がくれば――私は用無しなのだから、子どもを

授かる方が哀しい結末になってしまう。

こうして、何もないまま夜を過ごし……本来の妻たる妹がここに

来るまでを形式的につないでいればいいのだ。

私はもう一度、ぎゅっと寝具を頭からかぶって自分の身体をひと

り丸めた。

ずっと今までも一人だった。

ここで一人であろうとも――かまわない。

たいして、何が変わるわけではない。

それよりも、妹がこの地に来て私がここを離れなければならなか

ったときの……次の居場所を今から考え用意しておかなければ――

……。

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それが、婚礼から数日たって、私が考え始めたことだった。

***

朝は冷える。

もちろん雪はなく、草丈の低い草原が開いた窓の向こうに広がっ

ており、ところどころに色とりどりの花が咲いているが、その空気

は冴え冴えとしていて、やはり私の知っている「夏」とは違う。

夫である白鷺は寝台からおりて、身支度をしている。私は白鷺が

目覚めるより前にとうに身支度を終えていた。

寝台の横に並んで立つと、私より白鷺の方が幾分背が低い。

私が衣服や帯などを順番に渡していくと、白鷺は黙々と寝間着か

らいつもの衣装へと着替えてゆく。刺繍が細かく施された布を身体

にまとい、細かな織りが素晴らしい帯を腰に締める。

頭領の証したる鞘におさめられた短剣を腰にみにつけると、白鷺

は無言のまま優雅に裾をひるがえし部屋を出て行こうとした。

私は慌ててそれを引き留めるように、少し大きめに声を放った。

「旦那様!

お願いがあります」

「……」

私の呼びかけに、白鷺は私をちらりと見て、そして足を止めてく

れた。

私は立ち止ってくれたことに喜びを持って、機会を失わないうち

にと早口で言った。

「あの……機織

りをさせてもらえませんか?」

「……」

白鷺の若々しい張りのある顔が、訝しげなものとなった。

「私は小さな頃から機織りをしてきて……それぐらいしか得意のも

のはないんですけれど、この氷龍地域の文様を織れるようになりた

くて」

白鷺の白銀の髪は朝日にきらめく。

まだ少年らしさを残す頬だが、薄茶色の瞳が宿す光は鋭い。

私の話の意味を探るような目つき、少し寄せられた眉。いつも優

雅な雰囲気である白鷺の表情が、今は明らかに私を怪しむようなも

のとなっていた。

「……国主の娘が機織り?」

呟かれた声は、やはり、まだ声変わりが終わっていない。

掠れてはいるが、まだ少年の高さを残す声は、私の中で少しだけ

緊張をほぐしてくれるものとなった。

「は、はい。……ご存知のように、私の母は洗濯婦です。いくら国

主の娘といっても、他の姉様、妹とは違います」

「……」

「もちろんご迷惑はおかけいたしません。糸はもって参りました。

ただ機織り機は運べなかったので……」

私の言葉に白鷺はしばし黙っていたが、息をついて言った。

「高尾に準備させる」

それだけを言って、白鷺は綺麗に部屋を立ち去った。

***

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その日の午後――……。

高尾が使用人達と共に夫婦の居室の隣にある私専用の小さな部屋

に運んできたのが、立派な機織り機だった。

「まぁ! こんな立派なものを……」

私が驚いていると、高尾がめずらしく少し眉を寄せた。

「……機織りはかまいませんが……茜音様には、もっとなさるべき

ことがあると思うのですが」

「私のすべきこと?」

突然の言葉に戸惑って聞き返すと、高尾は黒い目を私からそらし

た。

「いえ。出過ぎたことを申しました」

「あの……?」

高尾の言葉の意味がわからない私が、再び問い直そうとしたのを

避けるかのように、高尾は使用人たちに機織りの組み立てと設置の

指示を出し、

「私は仕事が残っておりますので、お先に失礼いたします」

と言い、部屋を出て行ってしまった。

残った使用人たちはてきぱきと機織り機を組み立て、あっという

まに使えるようにしてしまった。

「ありがとう!」

先ほどの高尾の言葉への疑問もすぐに飛んでいき、私は新しい機

織り機の艶やかさに気持ちが興奮してしまっていた。

さっそく何か織ってみたいと衝動が沸き起こり、糸を施していく。

材木の質がよいのか、すべらかで、動きも良い。

私は試しに新しい機織り機を使わせてもらうつもりだけでいたの

に、いつのまにか機織りに夢中になってしまっていた。

この氷龍に来て、初めて目にした王宮にあった以外の織り物の文

様を――見よう見まねで。思うがままに、織ってみたくて――……。

キッコン、カタンカタン――

キッコン、カタンカタン――

調子よく手を動かし続けていた。

陽が落ちてきたのかすこし部屋が暗くなったように感じたが、構

わずに続けていると、

「面白いか」

と、突然声をかけられた。

その声に咄嗟に振り返ると、白鷺が私の個室と夫婦の居室との境

目の戸口に身体をもたれさせながら、少し首をかしげつつこちらを

見ていた。

白銀の髪は後ろに一つで結えており、その長い髪の毛先だけが戸

口の風に揺れている。

白に近い優雅な装束は、政務に通う時のもので、その姿から仕事

から今帰ったばかりということが見てとれた。

「……も、申し訳ありません、お迎えにでられずっ」

私は自分が仕事から戻った白鷺を出迎えていないということに気

づき、半ば叫ぶようにしてあやまった。

この七日……いや八日目になるが、いつも高尾が出迎えの時は声

をかけてくれていたので、安心しきっていたのだった。

あやまる私に、白鷺は首を横に振った。

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「出迎えは必要ない」

「……え?」

「明日から、必要ないと言ったのだ」

私が驚きで目を見開くと、白鷺は「着替える。一人でできる、来

なくてよい」と言って、また踵をかえして夫婦の居室の向こうの自

分の部屋へと去って行ってしまった。

結婚して八日目にして、白鷺と私は、朝の見送りと食事、そして

寝台でよそよそしく隣で眠る――それだけをほとんど無言で過ごす

だけの夫婦となった。

――これはますます、妹がここに嫁いでくることになる前に、離

縁を言い渡されるまえに、生きる糧を得る術を探しておかないと……。

そう思いながら、私は静かに織り糸を手にとった。

***

それから数日、私はほとんど機織り機と共にすごしていた。

こんなに織りやすい機織り機は初めてだった。

もちろん基本的な構造は今まで使ってきたものと同じだ。

けれども、木材の質やこまかな作りが違うのか、縦糸がうまくピ

ンと張り、たわんでこない。また横糸を交えても、ぐらぐらせずに

仕事が進み、非常にうまく織れていくのだ。

夢中で織り進めるうちに、手持ちで持ってきた糸では事足りなく

なってしまった。

私は考えていた。

妹が初潮を迎え、私がこの屋敷を出ることになったら――……私

にできることは機織りの仕事あたりだろうと。

王宮のかたすみで、洗濯婦の母ができることといえば機織りくら

いで、それを伝授してもらっていた。文字もほとんど読めない母だ

ったが、機織りの腕は相当だった。国主に手をつけられる前は、洗

濯婦としての稼ぎと機織りで暮らし、女一人で身を立ててきた母だ

ったのだから。

世の中、食事と衣類と住居というものは何処でだって必要なもの。

どこの街の片隅であっても布屋はあり、機織りの技術は必要とされ

る。つまり何らかの仕事にありつけるということ。大事な収入源に

なる技術なのだ。

白鷺と離縁したとしても、私はもう晶国の宮殿に戻ることはない

だろう。戻りたくもない。

もし立場として戻れと言われたら、こればかりは国主に懇願する

つもりだった。洗濯婦を母とする国主の娘は死んだものとしてくれ

ていいから、私を解放してくれと。

その願いは、場合によっては私に本当の死をもたらすかもしれな

い。晶国は現在安定してきているとはいえ、国の要の国主の血を引

くものが後ろ盾なく宮外にでれば、反乱軍に利用されたり、人質に

使われたりと問題の種になるだろうから。

だが、生きたまま宮殿にあっても――……いったい、何になろう。

ただ一人、齢だけを重ねていけというのか。

それともまた、今回の形ばかりの婚儀のように――双六の駒のよ

うに、その時々の国主の都合であちこちに放り出される人生になる

というのか。

この思いもよらぬ婚儀は、私に最大の機会を与えてくれた。

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「宮殿から出る」という、いままでの人生最大の機会を。

この機会を逃せば、私に自由は二度と訪れない。

私は織りあげた布と、減りつつある糸を見つめた。

婚礼道具などほとんどない。

冬期、厳寒の地となる氷龍の生活様式と比較的温暖な晶国の宮殿

の生活様式はかなり違う。国主から持参金は用意するが、衣服や道

具類の婚礼用具は氷龍家に用意してもらうというのが慣例なのだ。

だから、荷の箱のほとんどは――染糸を持ってきた。

けれど、これから生きて行くには足りない。

糸を手に入れなければ――……。

***

「糸でございますか」

家の内をとりしきる執事の高尾の眉がひそめられる。

機織り機を運んで来てくれた時のように、何かを含む様な目でこ

ちらをみた。

白鷺のいない昼間、私は屋敷内の書物の整理を行っていた高尾に

糸のことを頼んだのだ。

「あまり糸でいいの。私が持ってきたものは底をついてきてしまっ

て……。それに、こちらの地方では、とても厚い布地をまとってい

るでしょう?

その糸をもう少しよく知りたいの。文様もとても不

思議だし」

私の言葉を聞き終えた高尾は小さく息をついた。

無理な願いを言っている気持ちはあったので、私は少しうつむい

た。

高尾は少しこちらをのぞきこむようして、じろりと黒い瞳で私を

見つめた。白髪の爺やたる姿であるのに、その瞳の輝きは強く深く、

そして厳しい。

「茜音さま、あなたさまは機織りのために氷龍の地に来られました

か。布地の店でも始めるおつもりですか」

「……いえ」

「では、なんのためにいらした?」

――なんのために?

――妹の替わりに……期間限定の代替のために?

心のうちで答えはみつけたものの、それを口にするのはやはり苦

しくて私は黙ってうつむいた。

そんな私に高尾の言葉は続く。

「……あなたさまは、白鷺様の妻……氷龍の頭領夫人でございます。

趣味として機織りなさるのはよろしいでしょう。ですが――それに

夢中になりすぎて、本来のことを忘れてはいませんか」

「本来のこと?」

「――夫たる白鷺様を迎えることです」

私は高尾のことばに、咄嗟に顔をあげた。

高尾の言葉に、私は首を横に振った。

「し、白鷺様がおっしゃったのです。迎えはいらないからと……着

替えもお一人でなさると……」

「茜音様があまりに嬉しそうに機織りをなさっているから、邪魔し

たくなかったのでしょう」

私は高尾の言葉に、首を横に振り続けた。

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――妻の役目をして、いったい何になるというのだろう?

――期間限定で放り出されるような立場であるのに……望まれ、

望んだ立場でもないというのに。

「それに茜音様。夫を迎えるというのは、仕事からの帰宅を出迎え

るという意味だけではございません」

きっぱりとした高尾の言葉に……その年齢を感じさせる少し皺枯

れたものが混じる声音に、私ははっとして身動きを止めた。

「――茜音さまは、まだ白鷺さまと一つになってはおられませんで

しょう。もうすぐ婚儀からひと月となりますのに」

「……っ」

寝台の状態をみれば明らかであるとは思っていたが、それを昼間

に確かな言葉としてあらわされると羞恥の心が私を貫いた。

「たしかに白鷺様はお若く……そして急遽決まった婚儀ゆえに、夫

婦のやりとりの学びは不完全ではあります。身体を結ぶという意味

は絵でなんとかお知らせはいたしましたが、そこにゆくまでの過程

をご存知ありません」

「……あの、『絵』って?」

「いわゆる、若者が秘めるようにして覗き見るような、品のない書

物や絵です」

「……」

「年上の女性を白鷺様によこしてくださった配慮は国主に感謝いた

しますが、その妻たる女性が待つばかりであっては、事が進みませ

ん。……それとも、これは何か考えあってのことでいらっしゃいま

すか」

「え……?」

私はだんだんと、高尾の言葉に意味がわからなくなってゆく。

もちろん、白鷺がどうやら男女の関係についてよく知らないとい

うことについては納得できる。絵で説明されただけだ……というこ

と。これは、十三という年を考えれば、婚儀の前に閨事を仕込む女

性をあてがわれなかったとしても当然のことだろう。

けれど――……『年上の女性を白鷺様によこしてくださった配慮』

とは、何なのか。『国主に感謝』とは?

「高尾……白鷺様と結婚の予定があったのは、私の妹で瑠璃花であ

ることはもちろん知っていますね?」

「はい――お会いしたことはございませんが、白鷺様より御年一つ

お若くあられ、白鷺様三つ、瑠璃花様お二つの頃に婚約が書状にて

成立しておりました。前氷龍頭領の急逝により、それらすべては破

棄になりましたが……」

「破棄?

違うでしょう?」

私は高尾との食い違いに気付いた。

「妹は……初潮を迎えておらず、結婚できなかった。そうでしょう?」

「はい、もちろん、存知あげております」

「だからっ!

……瑠璃花が婚儀をあげられるようになったら、結

婚するのだから、破棄ではないでしょう?」

「瑠璃花様がご結婚、どなたとですか」

「もちろん、白鷺様と――」

私の言葉に、高尾が一瞬目を見開いた。そして、すっと目を細め

た。

「――なぜ、そのような。氷龍家が多妻を迎えるようなふしだらな

家系とお思いですか」

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底冷えするような高尾の言葉に、私は焦った。

「そうではなくて!

私を離縁して――いれかわりで、瑠璃花を迎

えることになっているのでしょう?」

私の早口の言葉に……今度は高尾が驚いたような顔をした。

そして、しばらくの沈黙の後、大きく息をついた。

「どうやら、互いに大きく思い違いをしているようですな」

「え?」

「茜音様の考えていることが、国主の思惑なのかどうかまでは、私

は存じておりませんが……はっきりと言えることがございます」

「高尾――……」

「氷龍家頭領、白鷺様の妻は今までも、そしてこれからも茜音様お

一人でございます。それはこの氷龍家のしきたり上、万が一にも茜

音様が先にみまかられることがあったとしても、後添えを白鷺様が

お迎えになることはございません。離縁など――氷龍家にとって言

語道断」

高尾の老いた声が、逆に深く恐ろしく厳しく聞こえる。

まるで私をここに縫いとめるかのように宣言された。

私が高尾を驚きの目で見つめていると、高尾はふぅと息をついた。

白眉の下の黒い瞳の色が少し和らぐ。

「氷龍家の使用人筆頭、執事をまかされております私がお聞きした

からよかったものの――……他の使用人の耳にでも『離縁』などと

いう言葉が耳に入りますれば、晶国国主への反感を募らせることに

なりますゆえ、今後はお気を付けください。まして、白鷺様の耳に

はそのようなお言葉、いっさい入れてはなりません」

「……はい」

「ここは――この氷龍の地は今は雪解けておりますが、時期に雪が

降り始め氷が張り、厳寒の地にかわります。今でこそ、南でとれる

水をあたためるという不思議の石である炎石も手に入れられるよう

になり暮らしが楽になりましたが……。厳しい冷えと寒さ、時に飢

えの日々を何百年と重ねてきた氷龍家なのです。結婚、そして子を

授かるという、家族が増える行為ということはそれ相応の覚悟を持

ってのぞむ行為。知らぬとはいえ、『離縁を予定した』などと考えは

……聞く者によっては大きな怒りや深い悲しみを呼び起こします」

高尾の静かでいて厳かな言葉が、私の心に響いた。

たしかに――氷と雪に覆われる大地を雪解けまで守るということ

は、飢えの戦い。つまり、食物を分け合い、生活のすべてを限られ

た中で分かち合わなければならない。そんな厳しい暮らしの中で家

族を増やすということは、どれほどに決心が必要なことであろう。

死に絶えることも、他に移住することも考えられるのに。

ここで、誰かと結婚し、共に生き、新たな命を授かれば全身全霊

で守り育てねばならない。

国主が――父が、ただ欲にまみれて母に手をだした、その結果、

思わぬことに私が授かった……そんな軽い気持ちではないのだ。

そのことに気づかされたとき、私の口は知らず知らずのうちに開

いていた。

「あの……わ、私は……ここにいていいのですか」

私はたずねずにいられなかったのだ。

「もちろんです――。ここから出てゆかれては困ります」

「私は、氷龍家に望まれた存在なのですか」

再び私が確認するように高尾に問うと、高尾の白髭がゆっくりと

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笑みの具合に動いた。

「私共は――白鷺様より九つ上の茜音様がこちらにお越しになると

連絡をいただいたとき、急遽、まだ十三歳の白鷺様なので、国主が

あえて瑠璃花様の初潮を待たず、若い白鷺様を導くような年上の女

性を配してきたのだと思っていたのです。それが善意か別の魂胆が

あると考えるかはともかく……。すくなくとも、時がくれば妻を入

れ変えればよい――そんなことは思いもよらなかったことでござい

ます」

私の問いとはあえてずらした答え方の高尾の目を見て、私は苦笑

した。

「――私という茜音が望まれているわけではないのですね」

「それは……茜音様がこれから氷龍家でいかに過ごされ、そして白

鷺様とどのように夫婦の絆を築かれるかによりましょう。もちろん、

氷龍家一門も白鷺様も茜音様に誠意を尽くさねば茜音様に望まれぬ

存在となりましょうし」

高尾の答えはまっとうなものだった。

祝言はあげたのだから、離縁はありえない――。だが、個として

『茜音』を認めているかといえば――まだそれだけの時を過ごして

はいないのだ。

――私は、機織りばかりして……そして、この家をでることにな

ったときに備えることばかりを考えていたのだし……。

私は、高尾に謝罪の気持ちをもって、一礼した。

そして、真面目に――心と頭に残っていることを、包み隠さずに

話きることにした。

「――わかりました。では、私はここに嫁いだものとして、私の考

えとおそらく国主の思惑をお伝えいたします。――国主は、この氷

龍地域の水源としての価値とともに、この山の下に眠っている可能

性が高い、希少な鉱石の存在に注目しています」

「鉱石?」

「雪に閉ざされる期間が長く、また氷龍家が統治してきたこの地域

は特別であったこともあり、この氷龍地域の山々は発掘されること

なくきています。ですが鉱脈的に、この氷龍の山々には希少な宝石

となる鉱石が採掘できる可能性が高いと結果がでているのです」

「……」

「いままでは、国内の統治や地方の小競り合いの調停もあり、発掘

などに手を伸ばすことはできずにいましたが、国主としては今後、

この氷龍地域の開発を視野にいれると思います。重要視しています

から、私よりも『瑠璃花様』を妻として送りこむことでしょう――

情報収集の技も、知恵もある妹ですから」

放っておかれて片隅でひっそりと裏口から囁かれる噂話を聞き流

しながら暮らす私と違う、妹の瑠璃花。

妹はこの氷龍の地で妻として愛でられるように、そして時がくれ

ば国主の右腕として氷龍を御すことができるように――さまざまな

知恵と技を仕込まれている。

この地域の服すらまともに着こなせない私とは違うのだ。

ただ、妹には初潮がまだ来ていなかった――それだけが、私に神

から与えられた……最大の幸運な機会。

「……今の話をお聞きしておりますと、茜音様もずいぶんと情報通

におもえますが」

高尾の黒い瞳がちらりとこちらを見た。

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あからさまではないが、私という人間の中身を確認するかのよう

な目。

「私は宮殿の片隅でずっといましたから――聞きたくなくても、聞

こえてくる囁きがたくさんあったのです。けれど、それを話す相手

もいませんでした」

「――溜めるだけでしたか」

高尾の率直な物言いに、私はふっと笑った。

肩の力が抜けた気がした。

「えぇ――私の中に溜めるか、耳から聞き流してしまうか……忘れ

てしまうかでした」

「口がかたいのは良いことですよ」

高尾の言葉がすこし柔らかさを帯びた。

「――宮殿でのことは口がかたくて良かったのです。そして、これ

からはその口を……唇を、御夫君である白鷺様との囁きに使うべき

ですね」

紡がれた言葉が思いのほか甘いものだったので、私は少し頬を染

める。

高尾の瞳は鋭さが消え、好々爺といった優しげな老人の雰囲気に

かわっていた。

***

高尾に促されて、私は白鷺を出迎えるようになった。

「……機織りは?」

白鷺は出迎えて一礼のまま顔を伏せている私の前で立ち止まり、

小さくそう聞いた。

「ひと段落つきましたので――……」

「そうか」

関心なさそうに返事して、また歩きだした優雅な白い裾にむかっ

て、私は呼びかけた。

「白鷺様」

立ち止まってくれる、白鷺の足。私の方に振りかえるようにして

向きをかえてくれるのを、伏せた目で見つめていた。

振り返ったところで、私は静かに視線をあげてゆく。

長く襞がゆれる白が基調の衣服をたどり……かれの白銀の髪もた

どって見て行く。

全体的には若木のような細身のしなやかさを感じさせるのに、た

どってゆくと鋭さと硬さを感じさせて、男らしさをにおわせはじめ

ている肩から首にかけての線。

まだ柔らかさを感じさせる頬。

けれど、こちらを見つめてくる目は――薄茶色の瞳に宿るものは。

「機織り機を……ありがとうございました。お礼の言葉がとても遅

くなり、申し訳ございません」

「――あ、あぁ」

私の言葉に動揺するように揺らした瞳。

大人びた眼光から、いっきに戸惑いを含む少年の色になって。

「とても使いやすくて――。冬になる前に、こちらの……氷龍の伝

統的な柄を教えていただけませんか」

私の口からするすると言葉が出た。

「……」

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返事はなかったが、白鷺はうなずいた。器用にも、私から目をそ

らさずに、何度も。

私はゆっくりと一歩すすんだ。

白鷺がすこしびくりと身体を揺らした。

私と同じような背丈だから、近づくと、視線が自然とぶつかりあ

う。

私が白鷺に近づくと、守り人や付き人として白鷺のまわりにいた

者たちが、まるで私たちの邪魔にはならぬようとでもいうように――

少し下がってゆく。

よく気がつく使用人達なのか――もしかすると、私の背後で高尾

が周囲に目配せを送っただけなのかもしれない。

私は声の大きさを囁くような小さなものにした。

白鷺――私の旦那様だけに聞こえるように。

「今夜にでも――ゆっくり教えてくださいませ。二人の寝台は広い

ので」

私の言葉に、白鷺の白い肌の頬が――いっきに赤味を帯びた。

視線が揺れて、白鷺がぶるりと顔をふるうようにして――……。

「や、約束はできぬが……な、何かめぼしい織り物を持っていく」

ちぐはぐな返答をまるで怒ったような口ぶりで早口で言い終える

と、ばたばたと走り去るようにして――私の前から去って行った。

消えた背を見送ってから、私はゆっくりと後ろの高尾の方を振り

返った。

「これで良いのでしょうか」

「白鷺様には十分刺激的だったかと思います」

「……?」

私が高尾の言葉にわからず、眉を寄せて尋ね返すと、高尾は微笑

を浮かべた。

白い髭が笑みにそって小さく動く。

「――白鷺様の御年齢の頃の男共は――すべてに都合よく想像を広

げるものなので」

***

その夜――私と白鷺は今までよりも近づいて、少しだけ触れた。

白鷺が夜に夫婦の居室にもってきた織り物は、白鷺の家に伝わる

敷布や飾り布であり、どれもすばらしい織りだった。

私がそれを眺めていると、白鷺はじっと私を見ていた。

だが、その視線に気付いて白鷺の方に顔をむけると、ぱっと顔を

そむけてしまう。

そしてまた、私が布の方に顔をむけてしばらくたつと、白鷺はこ

ちらを窺うようにして見つめてくるのだった。

しばらくすると、黙って布を眺めていることに飽きたのか、織り

物に織りこまれる文様の背景を、白鷺は話しはじめた。

晶国でも北に位置する氷龍の地域は、寒さに強い鳥達が飛来する

時期がある。その鳥の翼を模した文様。雪解けの頃に咲く花の文様、

実る果実。吹雪をあらわす模様もあった。

それらは宮殿にいたころの私は知らない模様であり、すべてが興

味深い話だった。

私は質問したくなり、すこしずつ問いかける。

白鷺はさすが若くして頭領となっただけあり博識で、私の質問に

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よどみなく答えてくれる。わかりやすい説明に、私は氷龍がぐっと

身近になったように感じた。

蝋燭がだいぶ短くなった頃、私達は織り物をたたんで脇に置き、

横になった。

吹き消した蝋燭の明り。落ちる闇。

そのときまだ、互いが横たわる寝具はまだ拳ひとつ分、あいてい

た。

だが――。

「手を……握ってもいいか」

白鷺の声が闇に響いた。

「――はい」

私がこたえると、ごそごそと隣から私の寝具にふれる手がやって

きた。

白鷺の手が寝具に触れて衣ずれの音がするが、私には触れてこな

い。

闇のなかで、遠慮しながら伸ばされているだろう手の動きは――

なにか私の心をそっと優しいものにした。

奪うように伸ばされるのではない。

けれど、寝具を身体に巻きつけるようにして離れてしまうのでは

ない。

こちらに近づこうとして、探ってくる――手。

私はそっと寝具がゆれる方に、自らの手を伸ばした。

ちりり。

指先が触れあった。

互いの手の位置が重なる。

――大きい。

闇の中、私の手を包みこんだ白鷺の手は――思いのほか大きかっ

た。そして、熱かった。

寝具と寝具の間にすきまがあっても、つなぐことはできるのだ。

そう、隙間は、溝は、人が動いて埋めることだって、橋をわたす

ことだってできる。

絆をつなぐことができる――……。

それをするか、しないかの違いだけ。

私は包んでくる、熱い手を握り返すようにして手に力を込めた。

「茜音――……」

名を呼ばれた。

「――先ほど初めて名を呼んでくれたな。嬉しかった」

胸がきゅっと痛くなった。

――こうして、つないでいくのだろうか。

心を、言葉を。

「……これからも、どうか、この地のことを教えてくださいませ」

私が小さくそう言うと、私の手を握る白鷺の手が、まるで私の手

のひらに自分の手のひらをすりつけるようにくっついてきた。

熱をうつすように。

汗ばむものを絡ませるように。

「あぁ……教えてやる」

「はい」

「――だから……少し、待て」

「え?」

私は戸惑って、闇の中に隣の人を探すように顔を向けた。

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もちろん明りは消えていて、何も見えはしない。

「――はやく、大きく強くなるから」

「……」

「お前の背丈を完全に越して、声が完全に変わったら――……」

ぐいっとつないだ手が引っ張られた。

少しだけ越える――白鷺の寝具へと、私の手が。

「抱く」

断言された言葉。

――熱されて、掠れたような声に。

私の胸が熱くなる。

「……白鷺様」

「高尾から――茜音が何か誤解をして、こちらに来たと……氷龍が

茜音を望んでいないと誤解していると聞いた」

離縁や妹云々のことをはぶいて、高尾は白鷺に報告したというこ

とだろうか。

「母親の身分だとかを気にしているのかもしれないが――氷龍家を

侮るな。年若いと私を馬鹿にするな。気軽に娶るわけがない――覚

悟の上だ」

はっきりと言い切った言葉は闇を突っ切って、私の胸の中に飛び

込んだ。

そして、熱くあたたかく、強く、私の中を満たした。

宮殿で溜めこんだ囁き声の噂たちが自分の中を満たしていく苦し

さや苦々しさや禍々しさとは違う――大地を覆う雪のように清冽な

白鷺の言葉。

「――はい」

私は返事をした。

きっと、私は忘れることがないだろう。

少年の色を残した、まだ高い声の精一杯の――もしかしたら若さ

ゆえの虚勢や意地も混じっているかもしれないけれども――真摯な

宣言を。

この時期だけの……欲にまみれたことがない、その潔癖さをもっ

た言葉を。

私は目を閉じた。

目を開いても闇の部屋であったのに、目を閉じると、白銀が私の

中を満たすようだった。

白鷺の煌めく白銀の髪――……。

きっと、雪の季節の晴れた日、とても美しいことだろう。

「――お待ちしております」

私が言うと、つないだ手がずれて、包み込むようだった手が私の

指の間に指を絡ませるようにつないできた。

いつか――この寝具を越える日がくるのだろうか。

それまでに、私の妹は……そして国主の態度はどうなるのだろう

か。

不安はよぎったが、私は振りきるようにそれらを流した。

高尾も白鷺もゆるぎなく、この氷龍の地で生きている。

そして、婚儀――結婚という一つの約束を、尊く重い契約のよう

に心にとらえ、そこに連なる者とずっと共に生きる覚悟でいてくれ

るのだ。

私の明日に未来に――細くてしなやかな繊細な光が差し込んでい

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く気がした。

逃げ道を用意するために糸を織っていくのではなく――……。

――次に織る糸は、白銀を探してみよう。なければ、高尾に白鷺

の来ている衣服の布の糸の染色をたずねてみよう。

もう私は一人きりではなかった。

絆はまだできていないけれど――……。

絆を築けるかどうかの糸端を、私は掴めることができたのだった。

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それは夜の夫婦の居室――。

いつも二人きりが基本である部屋に、今夜は三名いた。

寝台の上に座りこむ二人、そして、寝台そばに立つ一人。

「――待て、なぜこうなる高尾!」

白鷺の焦りと苛立ちの混じった声に、私はため息をついた。

なんども説明したけれども、いくら白鷺とはいえども受け入れ難

いようだった。

それは、たしかに私にもわかる感情ではあったけれど、私はあえ

て落ちついた声音をしぼりだして、再び説明した。

「白鷺様……私たちの初夜を確認するよう、国主から通達があった

そうで……高尾が適任かと」

「確認」

「はい。立ちあい確認、血液のついた物的証拠を差しだせとのこと

で」

「そんな確認、偽証できるだろう!

国主からのいやがらせか!」

「えぇ、瑠璃花様を拒んだ結果だとは思いますけれど……。しかも

その断る理由として、白鷺様が不能で、年齢のためか体質のためか

まだ不明であるという……苦しい言いわけをなさったせいです」

「だがそのおかげか何なのか、瑠璃花殿は他の有力な家に嫁すこと

になったではないか!」

「えぇですから……これは、国主のいやがらせなのです。『できるよ

うになった』のなら、示してみよ……との」

私の言葉に、白鷺はうなった。

彼は逞しくなり――そして、声はもう男そのものだ。

背は私の頭を越した。

――もう、婚儀から二年経っていた。

私は氷龍の地で、厳寒の時を過ごした。

氷に閉ざし、貯蓄した食べ物を大切に一族で分け合って暮らす

日々。

節制の日々を通す中、少ない食糧であっても、外に出られないよ

うな雪深い毎日の中でも――白鷺の心身は育っていった。

それは眩しいくらいに。

掠れ声がますます掠れて――そして、低くなり。

細く伸びやかだった手足がすこしずつ逞しくなる。

まだ、十五。彼は少年さを残すものの、すっかり態度は大人びて

いた。

だがそんな彼もさすがに初夜に高尾が控える――という話には、

全身で動揺したようだった。

「ま、待て、茜音。そもそも、なぜここに立つものに高尾を選んだっ。

日ごろから、おまえたち、妙に仲が良いだろう!」

めずらしく苛々した感情を包み隠さない白鷺の声に、飄々とした

態度で返事をしたのは高尾だった。

「……白鷺様、では、ここに立つのが私でなく、若く猛々しい男の

使用人がよろしいですか。よろしいのですね……。明りは消します

が……茜音さまの息や身動きは聞こえるかとおもいますが」

「!」

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絶句した白鷺に、高尾は少しだけ曲がりはじめた背を揺らすよう

にして笑った。

「この老いぼれ執事は――、お二人の初夜の睦言を聞いても反応し

ませんから、大丈夫ですぞ」

再び息をつめた白鷺に高尾は、言い放った。

「この祝い事にまみえることができて、高尾、氷龍家執事として喜

びの極みでございます」

「……」

高尾は一瞬、私の目を見た。

黒い瞳は、優しげに煌めいた。

私は瞬いた。

「では、明りを消しまする」

「まっ……待てっ」

白鷺のあせる声が響いたが、蝋燭の火は待つことなく、高尾の手

によって消された。

***

互いに異性の身体の深部に触れるのは初めてであるのに闇という

のは、なかなかに苦しいものだった。自分一人でなら闇でも着替え

られるというのに、互いに衣服をぬぎあうように手を伸ばしあうと

袖やら帯やらが絡まり、なかなか脱げなくなった。かといって、ど

うすればよいかはわからず、まさに手探りでなんとか二人して素肌

となった。

闇のなかで肌をそっと触れあわせていると、男女の差を感じた。

白鷺はやはり男でそして、まだ若くて骨ばっているのにゴツゴツ

しているというよりもしなやかさを感じさせた。

そして、白鷺の方も初めての女性の肌に感じるものがあるらしく

て、「……柔らかい」と小さく呟いてそして、黙ってしまった。

だがしばらくすると、焦れたのか、こまったのか、白鷺の手は震

えて怯えるように肌をまさぐりはじめた。

そしてどんどん動きが大きくなり、唐突に獰猛になった。

「ん……っ、痛っ」

加減なく掴まれた乳房に指が喰い込み、つい泣き言をもらしてし

まった。

「えっ、あっ、すまないっ」

焦ったように、ぱっと手がはなされる。痛みから解放されたもの

の、空気にさらされた胸は寒い。勢いあまった白鷺は私から身体を

はなし、ぴったりとよりそっていた肌と肌に大きな隙間ができてし

まった気がした。

私は喘ぐように言った。快感への喘ぎではなく――寂しさの乾き

のような喘ぎだった。

「……はなさないで」

「あ、かね……」

「もっと――やさしく触れてほしいだけ。はなしてほしいわけでは

なくて……」

私の言葉に、白鷺のごくりと息を飲む音が聞こえた。

その生々しさと若々しさに、私は苦笑する。

苦笑して――可愛くて、愛しいと思った。

この二年――白鷺は、頭領としていつもけなげに努力していた。

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それは氷龍の頭領であることに加えて、若くして伴侶を持ってい

るという責任感もあったのだと思う。

そして、国主からの氷龍地域の鉱脈調査に関する圧力――……。

鉱脈が見つかり、万が一、希少な鉱石が採掘されることとなった

ら、氷龍家は追い出され、また氷龍地域は荒らされることがわかっ

ていた。

水脈としての重要さよりも、すぐさまにお金に換わり隣国達にそ

の富をつきつけられる鉱脈の方を優先されることは、晶国の現国主

――私の父の態度や政策から簡単に読みとれたからだ。そういう態

度に反感を持つ者たちも生まれつつあった。

このままゆけば、現国主を打倒するための内乱が、それが氷龍か

らではなくても起こりうることは目に見えている。

晶国に乱世が訪れるのか、回避できるのか。そのぎりぎりの綱渡

りの中で、北の水源の守護となる氷龍の頭領として白鷺は奔走して

いたのだった。

落ち着かない日々の中、他の北方の領土を守る頭領たちとも締結

を繰り返して、晶国に属しつつも特別な自治を継続できるように予

防線を張ることが成功しつつあって、やっと白鷺の毎日が落ちつい

た。

そして、その険しい日々が白鷺を鍛え、心身ともに成長させて――

……こうして夜を迎えることができたのだ。――ある意味、恥ずか

しげなく言ってしまえば、感無量といえた。

もちろん、晶国の国主との関係、他の領地の頭領との均衡にはこ

れからも気をゆるすわけにはいかないものであっても。

少なくとも今夜――真の夫婦となる時をもつことができるのだ。

白鷺はおずおずと私の胸に手をはわせ、そして、耐えきれなくな

ったように熱い息を吐いて、私の乳房を口に含んだ。

吸われて、私の口から息がこぼれおちる。

快さというものは、まだ知らない――けれど、この闇に高尾が私

の息を聞き、衣ずれを聞いていると思うと、その恥ずかしさが私の

中を満たした。

「――ぁっ……し、ら、さぎ様……」

息がはずむ。

白鷺の手は私の身体をなぞるものの、撫でればいいのかさすれば

いいのか考えあぐねているかのような迷いのある触れ方だった。

私は焦れて、そっと白鷺の手を取った。

そして、私の気持ちよくなる強さを伝えるように手を重ね合わせ

て私の身体を撫でるように導いた。

白鷺が息をのみ、そして、苦しげに息をつく。

その熱く掠れた吐息に、彼の欲を感じた。

導く手をそっと私の下腹部へとたどらせる。

だが、それ以上は私にも気恥かしくなり、そっと離した。

「ここからは――……白鷺様のお好きなように……」

小さくそう、白鷺の耳元で囁いた。

白鷺が私を悪意で痛めつけることがないと信頼していた。

身体の交わりにおいて、この先、痛みが来るとは知識として知っ

ている。だが、その痛み以外に、白鷺が私を傷つけるようなことは

しない。

白鷺の手がゆっくりと私の下腹部をたどり、茂みをそっと撫でた。

指先が伸ばされて、私はそっと心もち閉じる足の力をゆるめた。

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ほんのわずかにできた足の間のすきまに、白鷺は長く骨ばった指を

滑り込ませてきた。

「ん――っ……」

白鷺の指が私の秘めたるところにあるという蕾をこすり、私はな

んともいえぬむずがゆいような、感覚を覚えた。

くすぐったいとも違う、痛いとも違う、気持ち良いというには儚

い心地。

「――ぁあっ」

私の息があがるたびに、白鷺の指がたしかめるように、その場所

を繰り返して撫でる。

気持ち良い場所をひとつひとつ確認して学んでゆくような指使い

が、私のなかでもじもじとさせる恥ずかしさと心地よさと、もっと

もっと強くしてほしいという願いを生んでゆく。

「白鷺さま……」

「――茜音の中、熱い。濡れて……濡れるとはもっとねばねばして

いるものだと思っていた」

「や――っ」

言葉にされると、羞恥にさらされる。

私がいやいやと首を振ると、白鷺の指はもっとねちっこく中を探

った。

「ぬめぬめしている……本当に濡れている……」

「ぁっ」

「……い、れたい」

かすれ声で吐かれた直接的な言葉に、私の身体きゅっと絞るよう

な感覚が来た。

白鷺の熱い身体がぐっと私に絡まって来て、そこになんとはなし

に感じていた硬くて熱いものが私の太ももに押し付けられた。

何度も太腿にすりつけられるような硬いもの。

息が熱い。その熱さは私のものなのか、白鷺のものか――二人し

て織りなすものなのか。

私の太ももを白鷺の両手がそれぞれそっと掴んだ。

足が押し広げられてゆく。

そして露を零しているだろうところが冷気にさらされて、ひやり

としたのもつかのま、ごつごつしたものが押し付けられた。

太腿のつけねや、秘所よりももっと前だったり後ろだったりに当

たり、時に痛みがある。

白鷺もあせるのか、困ったように息をつきながら、何度も押し付

けてくる――いれたいのに、入れ方がわからない――そんな風に。

言葉にならないのに、その戸惑いが全身で伝わってきて、私は自

分を押し倒して足を開いて、攻めているはずの白鷺が途端に可愛く

て愛しくなってしまう。

私だって、初めてだ――でも、どこか、まだ熱に流されるほどに

快感に夢中になれるほどではなくて。

闇雲に押し付けてくる硬いものに、私はそっと手を伸ばした。

「――っ、あ、かね」

「ここ、です」

「!」

にゅるりとすりつけると、白鷺が息をつめた。

ぐちゅっと押し付けられると、少し痛みがあった。

これ以上は――怖い。手をはなす。

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その途端、ぐっと容赦なく押し付けられた。

「んっ――……」

次に息をつめたのは、私の方だった。

痛い――……苦しい。

内部を押しあげてくる塊り。

押し広げられ、さけるような痛み、強くこすられるようなヒリヒ

リしたものがせまってくる。

――何処が痛いのか、もう、わからない――……。

私がしがみつくと、白鷺が大きく甘い息を吐いた。

「――くぅっ」

そして、白鷺は慌てるようにこらえるように息をのみ込んだ。

ぐりぐりと押し付けられて、広げられる最大のところまで私の両

足は広げられて、わりこまれた白鷺の身体は熱くて――。

そこに、こらえられないように白鷺は腰を打ちつけるように動か

し始めた。

ぐっぐぅと内部をより押しこむように。

慣れてきたと思った痛みが、また新たな場所を擦られて痛むとこ

ろが増えてゆく。

だが繰り返されるうちに、擦られている一部がぐちゅぐちゅと濡

れた音を奏でていることに気付いた。

気持ち良いとはいえない――けれど、私の身体は――感じて、音

を鳴らす。

そして、この音を――傍で――……

「あかね――……」

甘い息の中で、白鷺が私を呼んだ。

私はぎゅっと白鷺にしがみついた。

白鷺の顔が私の肩ぐちに押し付けられる。

「し、らさぎ――……」

喘いで、私は夫の名を呼んだ。

伴侶の名を。

これからも共にあゆむべき者の名を――呼んだ。自分に縫いとめ

るように。

決して、道を間違わぬように。

名を呼んだ時、白鷺が私の中をより大きく擦りあげた。

痛みの中に、気持ち良いといっていいのかまだよくわからないゾ

クゾクと背中をはいあがってくるような寒気のようなものが生まれ

て、私は呻いた。

その私の呻くような声の中で、白鷺は私の中で自分を解き放った。

白鷺が私の中で放ち、そして息がすこし整ったあと、私と白鷺は

身体をゆっくりと離した。

白鷺はどっと疲れたように、一度寝台に伏せて、そして、私をぐ

っと抱き寄せた。

擦りつけるように。

確認するように。

その仕草が愛しくて、私は慈しむようにそっと彼の背を撫でた。

それから手探りで足元に寄っていた掛け布をのばしてきて、私と

白鷺の身体を覆うようにかけた。

「――……高尾」

静かに私は名を呼んだ。

声に何も色が混じらないように気をつけながら。

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すべて了解しているように、――小さな蝋燭が灯された。

私はごそごそと、自分の腰のしたあたりに敷いていた敷布を引き

出して、掛け布のすきまからさっと高尾に手渡した。

さっと目を通すと、蝋燭の明かりに照らされて濁った茶色がかっ

た赤い染みがあった。

「こんなものが――必要だなんて」

「仕方がありませぬ――国主はもう狂いはじめている」

「……」

私の言葉と高尾の言葉、そして、白鷺の沈黙。

さっと高尾は一礼して、そして寝間から辞した。

高尾が扉をしめる音が静かに響いた途端、白鷺が荒々しく私を抱

きしめた。

そして有無をいわさぬように口づけてきた。押し付けられる唇―

―舌を差し入れるところも、最近になってやっとのことだった――

……。そのぎこちない白鷺の舌を、私自身もぎこちない動きで応じ

て絡めた。

白鷺はその後二度、私を抱いた。

そして、力尽きたように、彼は深く眠った。

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- 24 -

目の前には、雪原――白い白い雪野原。

そしてその向こうにそびえたつ、白い山――……。

今日は曇っていて、陽の光さえきらめかず、まるで白と灰色のよ

うだった。

深く厳しく冷たい空気が広がっている。

「……なあ茜音、聞いてもいいか」

私の背よりも頭二つ分も大きくなった身体の白鷺が、私の隣で声

をかける。

私と白鷺は、今しがた、大切な人の埋葬を終えたばかりだった。

雪を土が見えるところまで掘り当て――そして埋める。その作業

は数日かかり、それをようやく終えたのだった。

「なんですか、白鷺様」

「……茜音は、高尾が――好きだったか?」

「え?」

「いや……その。すまない、わかってはいるが――やっぱり、一度

だけ聞いてみたかった」

困ったような仕草で白鷺が言った。

「どうして、そう思うのです?」

「……どうしてって……。初夜に居合わせただろう。俺が選んだの

ではなくて、茜音が選んだみたいだったし」

「あれからもう十年たってますよ?

まだ気にしてたんですか……」

「そりゃ、まぁ」

もごもごと言う。

「俺にとって、高尾はこの家を取り仕切る、すごく信頼できる人間

だったけれど――執事として、どれだけ信用していたかはかりしれ

ないけれど」

「けれど?」

「でも、執事ではない部分のあいつのことは、よくわからなかった。

俺よりはるかに年上で、俺が物心ついたときには白髪だったしなぁ

……越えられない存在というか」

私は白鷺の言葉に微笑んだ。

「きっと、高尾に執事でない部分なんてなかったんだと思います」

「え?」

「――主のあなたが、執事として高尾を信頼していた……だから、

私はあの夜に選んだだけです。白鷺様が信頼している人として思い

つくのが高尾しかいなかったから」

私の答えに、白鷺はわかったようなわからないような不思議な顔

を見せた後、しばらくして頷いた。

「そうだな。あいつのことは、信頼していた。そして、茜音のこと

は――……」

「愛してます」

「え?」

彼の言葉を遮るようにして言った私に、白鷺は目を見開いた。

「私は――……茜音は、白鷺様をこの世でただ一人の人として愛し

ています」

「や、あの、あ、あ――……俺も」

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- 25 -

しどろもどろになった白鷺に私は微笑みかけた。

私からの初めての――ようやくの愛の告白だった。

私は空を見上げた。

曇りの空、陽光の煌めきはなく、重苦しい灰色を帯びた雲が覆う。

眼差しをうつせば、灰色の空は険しい雪山、そして白い白い雪原へ

と続く。

煌めきの無い白――それは、とびこむようにして無知のままこの

地に来た私を諭し、導き、そして仕えてくれた人の髪を思い出させ

た。

その人は、私の中でなんであったのか……よくわからない。自分

の中のすべてをわかろうとする気もない。

「行きましょう、白鷺様。私、新しい図案を考えていて、あなたと

の二人の部屋の敷布を織りたいなぁと思っているんです。雪解けの

時にあうような――……軽やかなものを」

「そうか――……いいかもしれないな」

雪に光を当てたような白銀髪の白鷺の隣で、私は一歩を踏み出した。

***

私は、今はもう、この氷龍の地の衣装を――冬の重ね着であって

も、着こなせるようになっている。

座っても、立っても、寝転んだとしても、少々では着崩れはしな

い。焦ることもない。

そう、いつも静かに背筋を伸ばして立っていた――……着崩れを

知らぬ、あの執事のように。

Fin.

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氷龍婚姻譚

一、手にした糸端

二、夜に結ぶ

三、そして、織り次ぐ

p.003

p.018

p.024

氷龍婚姻譚 /番外編

一、甘い物は別腹

二、甘い夢、苦き朝

三、甘い物で満腹

p.027

p.036

p.058

夜野

朱鷺

澄華

「甘い物で満腹」

番外編に登場。茜音の侍女。十代後半。

賢丈番外編に登場。白鷺の守り人兼相談役。二十代後半。

Author

春の歌うたい

Design

「甘い夢、苦き朝」

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- 27 -

茜音が声をかけたのは、夕餉の皿がほぼ空になるころだった。

「あの……白鷺さま」

茜音のことばに、食卓の向い側に座る白鷺が顔をあげる。

茜音よりも倍近くの量の穀類も肉炒めの皿もぺろりと平らげた成

長期の白鷺は、「なんだ」という表情をした。

婚姻からもうすぐ一年。

少年らしさの曲線が残っていた頬は、今はもう男らしい鋭い線を

描き、器を持つ指も骨ばっていた。だがその肩幅や体躯は、雄々し

いと表現するには成長途中の細身だった。

「青年」というには若すぎる気配。

けれど「少年」とひとくくりにするには、鋭さと強さと熱さをも

った存在。

そんな白鷺は、ここしばらく、茜音から見ると少し疲労のある表

情をしていた。

理由はうすうす気づいている。

若い白鷺が頭領としておさめるこの氷龍地域は、もうすぐ真の雪

に閉ざされた時期に入る。その前に各村長たちと物資や食糧の割り

当てを取り決めておく必要があった。だが国の頭たる現国主の治世

に対し政治不安を訴える者もではじめており、食糧や水、物資につ

いての取り決めには細心の注意を払わなければ、他地域の小競り合

いや反乱軍に巻き込まれてしまうという緊張状態が続いている。

頭領として白鷺は、毎日肉体的にも精神的にもぎりぎりなところ

まで身を酷使して、過ごしていると、妻たる立場にある茜音は心配

していた。

――だから、最近不穏になりつつある晶国の情勢に対応するため

に北方地域を走り回る白鷺に、少しでもほっとした心地の時間を持

って欲しいと思っていた。

「もしよければ……お饅頭、いかがですか」

「……饅頭?」

茜音の言葉に、白鷺は少し不思議そうな顔をする。

ちょうどその時、高尾に指示されたのか、配膳の係の者が木盆に

甘い饅頭と茶器を運んできた。

大き目にかぶりつくことができるようにできた饅頭は、黒糖を用

いた茶色の柔らかそうな生地にくるまれている。

「中身は南瓜の餡です」

「南瓜の餡……どうして……」

問われたものの、忙しそうな白鷺にくつろぐ時をもってほしくて

用意したと伝えるのは気恥かしくて、茜音は少しはぐらかすように

して答えた。

「白鷺さまは、南瓜の餡の饅頭が好物だと、高尾に教えてもらいま

した」

白鷺の幼い頃から仕える執事の高尾は、茜音が白鷺の好物をたず

ねると、澱みなく答えてくれた。菓子であれば「饅頭」だと。特に、

南瓜の餡は腹がいっぱいであっても、これなら食べるというくらい

に、好物であると。

その答えを聞いて、茜音は嬉しく思った。

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茜音が育った宮殿のかたすみでも、饅頭の甘味は女たちの好物だ

った。また、元洗濯婦の庶民の母は、慶事に欠かせない「饅頭」の

作り方は重々心得ていて、生前は料理頭に眉をしかめられながらも

茜音に手作りしてくれたのだ。饅頭の作り方を茜音に伝授してくれつ

つ――……。もちろん、茜音にとっても好物だった。

懐かしい思い出に、茜音は白鷺とほとんど接点がないような自分

にも、白鷺と通じるものがあるのだと思い嬉しくなったのだった。

だが、茜音の口から「高尾」という言葉が出た瞬間、白鷺の表情

が少し曇った。

予想していなかった表情の変化に茜音は戸惑う。

そんな茜音を前にして、白鷺は茜音から目をそらしながら言った。

「――……いらぬ。ま、饅頭など、子どもの好物だろうっ」

「……」

「たしかに、童の頃は南瓜の餡は好きだったから高尾がそう言った

のだ。い、今はもう、私は饅頭を好む年ではないっ」

口早にそう言いきった白鷺は、手元にあった湯呑をとって、ぐい

っと茶を荒々しくのみほした。

その普段の白鷺にはあまりない苛々している態度をみて、茜音は

自分が出過ぎたまねをして怒りをかったのだと思った。

「――……申し訳ありません」

「……」

「宮殿では、大人も饅頭を好む人が多かったので……。子供の食べ

物と知らず、失礼なことをしてしまいました。どうかお許しくださ

い」

茜音が頭を下げると、食卓の向こうで白鷺が茜音から身体をそむ

けるようにしたのがわかった。

「……別に。は、腹もいっぱいだし」

「はい。たくさん、お料理召しあがりましたものね。白鷺様、大き

くなられました」

「こ、子ども扱いするなっ」

どうやら何を言っても今の白鷺の反感をかってしまうとわかった

茜音は、背後で静かに控える高尾を呼びかけた。

「――高尾。菓子を、片づけて。明日の昼の休憩時間に……館の者

にふるまえるよう、他の菓子と一緒にしておきなさい」

茜音が使用人たちの茶菓子になるようにと指示したとき、高尾が

ちらりと視線を動かした。

すぐに返事をしないのは珍しいことだった。

「高尾?」

「――はい。承知いたしました」

茜音の呼びかけに、高尾はそっと黒に近い灰色の衣服を優雅に揺

らしながら食卓に近づいた。先ほど配膳係が持ってきた菓子の盆に

手を伸ばす。

茶色の皮がふんわりとした――柔らかそうな饅頭がたくさんのっ

た大皿。

高尾は老いを感じさせぬ優雅な手つきでその盆を持ちあげる。

そのとき、すねたように顔をそむけるようにしている白鷺に聞こ

えるような声音で、高尾が一言つぶやいた。

「茜音さまの手作りの菓子となれば、館の者たちもたいそう喜びま

す」

「――っ」

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高尾の言葉が言い終わらぬうちに、身体をがばりとひるがえした

のは白鷺だった。

開かれた目で、高尾の――いや、高尾のもつ饅頭ののった盆を見

る。

「――あかね、が?

茜音が作ったのか?」

白鷺の声が響く。

茜音は高尾がねたばらしをしてしまったことに苦笑を浮かべた。

「高尾ったら……秘密にしてって言いましたのに」

茜音の言葉に、白鷺は盆から茜音の方に視線をうつし、問い詰め

るように言った。

「――秘密?

なぜだっ」

「ちょっと驚かせてみたかったんです」

困ったように茜音が小首をかしげて白鷺に答えると、白鷺はがた

りと音を立てて立ちあがった。

勢いがよかったせいで木の椅子がガタガタと揺れている。

茜音は戸惑いつつ、立ちあがった白鷺を見上げた。

白鷺の白銀の髪が彼の成長期の身体にサラサラと流れている。

その輝く白銀の髪は、まさに白鷺にふさわしく茜音には見えた。

ひとつひとつの物事に敏感に応じる心、放たれる生気――それらが

輝くように、白鷺は怒っていても困っていてもすねていても、若さ

の熱気と一種の美しさがある。

茜音はそれを眩しい思いで見つめた。

一直線に向けられる白鷺の視線と交わる。

「白鷺さま?」

「……」

白鷺はすこし黙った。

唇を少し噛むようにして、立ったまま茜音をじっと見ている。

悔しそう?

怒っている?

すねている?

何かに耐えている?

茜音はその白鷺の瞳から彼の心を窺おうとするものの、はっきり

したものは読みとれなかった。

互いに沈黙しあう中、食卓の横では高尾が饅頭ののった盆を手に

したまま姿勢良く、立っていた。

「――腹が」

「え?」

「腹がっ……へってきたっ!」

少し怒鳴るような声が響いた。

最近、随分と白鷺の声が男らしい太さを持ちつつあったので、声

を大きくされると、茜音も少し怖く感じた。

「お腹がすいてきたのですか」

「そうだ――だから、食べる」

「……食べる?」

「高尾!

その皿をこちらにおけっ!」

まるで何かに八つ当たりするように高尾に声をかけた白鷺は、い

つもの氷龍地域をまとめる頭領の姿とはかけはなれており、年相応

の照れを隠すような荒々しさに満ちていた。

高尾は片眉をあげてから、食卓に皿を戻した。

それから皺のある指先で茶器に触れて、淡々と白鷺にたずねる。

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「茶が冷めておりますが、いれかえましょうか」

「……そ、それでいい。もったいない」

「承知いたしました」

居丈高にふるまった白鷺も、高尾が茶の用意を始めると自分の荒

ぶった所作を恥じたのか、すとんと椅子に腰をおろした。

「召しあがってくださるんですね」

茜音が白鷺にそう言うと、白鷺は少し眉を寄せ目をそらせつつ、

ぼそりと言った。

「氷龍地域には、『甘いものは別腹』という言葉がある」

「別腹ですか?」

「たぶん甘い物が入る腹は、食事が入る腹とは別にある……という

意味だろう」

白鷺の言葉に茜音は微笑んだ。

「面白い表現ですね」

白鷺の頬がうっすら赤くなるのを、茜音は愛おしい気持ちで見つ

めていた。

***

明りが落とされた二人きりの寝台で、茜音と白鷺はだまって天井

を見上げていた。

今、ふたりの手だけがつながっている。

乱れていない互いの寝間着が、二人の間柄がまだ真の夫婦とはな

っていないことをあらわしていた。

静かな部屋であるが、白鷺の呼吸が寝息となっていないことがな

んとなく読みとれた茜音は、囁くように言った。

「たくさん召しあがってくださって、嬉しかったです」

「……あぁ、うまかった」

「良かった」

たしかに別の腹があるのかもしれないと思わせるほどに、白鷺は

茜音がつくった南瓜の饅頭をよく食べた。

食べているときには、「うまい」とは言わなかったが、白鷺の頬の

緩みが茜音の作った饅頭の味を気に入ってくれていることを伝えて

きた。

――少しは、憩いの時をもってくれたかしら。

緊迫している地域の問題に関して、茜音は女の使用人たちから情

報を集めながら、女性として気配りできる分は取り組んでいこうと

思っている。だが、この地に来てまだ一年の茜音には、まず氷龍の

地の文化を学ぶことでも精一杯であり、手伝えることは少ない。

「喜んでいただけたなら、良かったです」

茜音はそう言って、目を閉じた。

その時だった。そっとつないでいた手が引かれた。

最近、白鷺がつないだ茜音の手をひいて、少し抱き寄せるような

仕草をすることがあったので、そういうことかと思い、茜音はひか

れる力に身をゆだねた。

寝具の中で、白鷺の手は離されて、次に茜の身体を包むように腕

がまわされる。

まだすっぽりと茜音をつつむほどに大きな身体なわけではないが、

茜音と同じほどの背丈になり、腕や手は明らかに茜音よりがっしり

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してきた白鷺によりそうと、茜音はなんだか自分がおおきな布にく

るまれているような気持ちになった。

「――ありがとう」

突然、白鷺の囁きが茜音の耳を揺らした。

「私の好物を作ってくれたのだな。感謝する」

茜音は顔をあげる。

「白鷺様……」

「だが、ふたつ、言っておく」

白鷺の茜音に回した腕が、おずおずしたものから一瞬強いものに

なった。

初めての強い腕の感触に、茜音は思わず身をかたくした。

「――ひとつ目は……私の好物を聞きたいなら、私に聞いて欲しい。

高尾は……たしかになんでも知っている」

「……」

「だが、高尾は俺ではない」

白鷺が「私」でなく「俺」と自分のことを呼んだことに、茜音は

驚いた。

頭領としての「私」でなく――茜音の前だけの姿のように。

明りを消した寝間で、白鷺の表情は見えないものの、なにか二人

の間が今までよりもまた一歩近づいた気がした。

茜音の胸がきゅぅと縮まる。

「そして、もう一つ。――秘密をつくってほしくない」

「白鷺様……」

「たしかに茜音の中に秘密があっても仕方がないだろう。人は――

すべてをさらけだせるわけではないとは思う」

静かにそう言った白鷺のその言葉に、彼の最近の氷龍家をまとめ

る者としての苦悩や経験を感じた。

「だが、高尾は知っていて、俺には秘密というのは――苦しい」

「……」

「それは、俺の個人の問題だけでなく、この館の頭としても見過ご

すわけにはいかない」

――主人と執事。

そこに抱える情報は……つねに均衡が保たれていなければならな

い。

「申し訳ありませんでした」

茜音の唇から謝罪の言葉が零れ落ちた。

――これは、妻として?

白鷺を頭にすえる館に属する者として

……?

多くは考えないようにして、茜音はそっと白鷺の腕の中で力を抜

き、彼の身体に自分の身体を添わせるようにする。

白鷺の身体がびくりと硬直し、まわされていた腕にまたぎゅっと

力が込められた。

「――あやまって欲しいわけではない……」

「……」

白鷺が茜音の頭を抱え込むようにした。

しばらくそうしていたのち、茜音の背にまわされていた手がふい

にはなれた。茜音が自由になったことに息をつく。

すると、今度は白鷺の手が闇の中で探るようにして――茜音の両

頬に添えられた。

「……白鷺さま」

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頬に触れられたのは、これもまた初めてで茜音が戸惑いの声をだ

すと――。

「っ!」

その唇に唐突に何かが当たった。

白鷺の頬のようだった。

茜音が驚きとともに息をのむと、唇に触れていた白鷺の肌がずり

ずりと動き――……。

――あっ。

茜音は心の中で声をあげた。

触れたのは――触れあったのは、唇。

押し付けるようにしてくる唇は、柔らかい。

白鷺が顔の角度をかえようとするときに鼻がぶつかり、一瞬唇が

はなれた。だが、つぎはついばむようにしてまた、唇が降って来た。

頬をしっかりと固定されて――何度も何度も触れる唇。

茜音は突然のことにどうして良いかわからず、ただ白鷺のするが

ままに委ねていた。

いちおう閨の手順については婚姻の前に聞かされている茜音だっ

たが、こうやって唇を触れあった先に、どうやってそこからもっと

深く絡んでゆけばいいのか――わからなかったのだ。

気持ちいいのかどうかよくわからない口づけだが、それよりもも

っと、なにか触れてはいけないところ同士を触れ合わせている――

そんな特別な感じが、茜音の胸をどきどきとさせる。

白鷺の一途にくっついてくる唇は柔らかくて、そして頬に添える

手は力強くて、それらからも白鷺の茜音に向けられる、「一緒に生き

ていきたい」という強い想いだけは伝わってくる。

なんども触れているうちに、寝具の中はなにか熱気がこもったよ

うに熱くなった。

白鷺と触れあっている頬も唇も、そしてかすかに触れあう四肢も

――茜音は、熱くてしかたがなくて、その熱さはたとえのない何か

一途なものに支配されていた。

茜音が汗ばむ自分に耐えきれず、少し身じろぎすると、まるで縫

いとめるように――逃げるのを許さぬとでもいうように、白鷺が唇

をぎゅっっと押し付けてくる。

ぐいぐいと押し付けられる閉じた唇。

どうやってこれ以上深めていけばいいのか分からない――そんな

口づけ。

だが白鷺が茜音の唇に唇を押し付けるときに、茜音は一瞬息苦し

くて息を吸おうと閉じた唇をゆるませた。

その拍子に茜音の唇は、押し付けてきていた白鷺の唇をまるで少

し吸いこむような形になった。

唇がより深く重なり、隙間なく合わさる――……。

絡むほどに深いわけではない。けれど、傾けあった顔の角度と、

唇の隙間が……茜音と白鷺のそれらがうまくぴたりと合わさって、

溶け合うように隙間がなくなった。

茜音の唇が少し開いたことで――押さえていた吐息が漏れでて、

白鷺に伝わっていく。

茜音の唇の隙間に白鷺の柔らかなそこが絡まり合って、濡らすよ

うに招きこんで……。

――や、恥ずか……息が……。

「――んぅ……ぅっ」

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茜音の吐息に声にならぬようなものが一瞬混じる。

熱くて、甘くて、今までにない……なにかとろとろとした雰囲気

が茜音と白鷺の触れあう唇に溶け込んで――……

「んっぁっ」

息を吸うはずのところに、白鷺の唇がわりこんで、苦しくて甘い

息を吐いた茜音が身を軽く震わせたとたん――……

ばっと白鷺がはなれた。

深く隙間なく重なりあった唇がいっきに離されて、冷える。

勢いよくまるで、茜音が離れるようにして距離をとったので、二

人の身体にかかっていた寝具がずるりと寝台から落ちた。

「っ、っあ」

「白鷺さま――?」

白鷺がうなったかと思うと、闇の中で、焦ったような声が響いた。

ガサガサと寝台を降りるような音がする。

「え、あの、白鷺さ……」

茜音が声をかけるものの。白鷺の声が――焦っているようなバタ

バタとした声が。

「あ、あ、少し、か、か、か、厠に行ってくるっ、か、ら!」

「白鷺さ、ま――……」

「茜音は先に寝ておけっ!」

声をかけたときには、白鷺がバタバタと暗い部屋の中、明りもつ

けることなく寝間から走り去ってしまったのだった。

触れた唇。

茜音はそっと指先で唇に触れてみた。閨の学びによると、舌を吸

い合ったりする口づけもあるとは聞いたが、もちろんそんなところ

までしていない。

けれども、触れあうだけでも、もう十分に熱い気がした。

「――……白鷺さま、食べ過ぎたから、お腹の調子がわるくなった

のかしら」

茜音はそう呟いて、これからは手作りの饅頭をお出しするときは、

食べ過ぎないように数を決めてお出ししようと心に誓ったのだった。

***

次の日。

朝早くから、白鷺はまた従者たちを連れて、馬にまたがり各村と

の話し合いへと赴いていった。

昨夜、厠へと駆けこんでいった白鷺だが、幾らかの時をすぎて寝

間に戻ってきたときには、平常にもどっていて、またいつものよう

に手をつないで眠ることになった。どうやらお腹の調子はすぐに健

やかになったらしく、茜音は安心して今朝の見送りをした。

夫の姿が野の向こうへ消え去るまで見送ると、茜音は一緒に見送

っていた高尾と共に館の中に入る。

「昨日は、饅頭のこと、ありがとう」

茜音がそう声をかけると、高尾はふっと目元をなごませた。

「白鷺様、たいそうお喜びでした」

「高尾が秘密をばらしてくれたおかげね」

茜音がそう微笑むと、高尾は笑みをたやさぬまま是とも否ともこ

たえなかった。

そんな控えめな高尾に、茜音はふっと息をついて言った。

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「ねぇ、高尾」

「はい、なんでしょう」

「――……夫に対しての秘密って、どこまで許されるものと思う?」

茜音の言葉に、高尾はちょっと眉をあげた。

「どこまで……ですか」

考える素振りをみせる高尾を、茜音はゆっくりと見つめる。

落ちついた白の髪。白い髭。白い眉。年齢を重ねた厳めしさと柔

らかさを併せ持つ顔つき。

「一人で抱える秘密であれば……きっとどこまでも許されるでしょ

うな」

静かな声が響いた。

「心の内は、一人きりの中にあれば、それが秘密であるのか、真実

が何であるかはわからぬものです。許す許さないは、神のみの領域」

「……」

「ですが、言葉にして、その秘めたるものを誰かと共有するのであ

れば――……その範囲は変わりましょうな」

「秘密を共有する相手っていうこと、ね」

茜音が確かめるように高尾を見る。

高尾の黒い瞳は、茜音の眼差しをゆったりと受け入れた。

「そうですな。夫婦の間の秘密がどこまで許されるのかは、夫婦に

よって違いますれば……。茜音様の場合において、御夫君の白鷺様

は、きっと――……」

高尾の瞳は黒く、そして深く、茜音を見つめる。

「どの者の介入もお許しにならないでしょう」

「――そうね」

――『だが、高尾は知っていて、俺には秘密というのは――苦し

い』

――『それは、俺の個人の問題だけでなく、この館の頭としても

見過ごすわけにはいかない』

茜音の脳裏に、昨晩の白鷺の言葉が思い出された。

ふいに、話をしていた高尾と茜音のところにパタパタと使用人が

走り寄って来た。

「茜音さま、高尾さま、お話のところ申し訳ございません!

倉庫

の穀類の備蓄について、おたずねしたいことが……」

「あぁ、わかりました。私も氷龍での芋の貯蔵の仕方について、聞

きたいことがあったの。すぐに行きましょう。先に在庫表の用意を

お願いしますね」

茜音と高尾が頷くと、走って来た使用人はほっとしたような表情

を見せた。

そして、茜音と高尾はこの家を守るものとしての表情になる。こ

れからの冬季を迎えるための――真剣な準備に入らねばならない。

けれど、茜音は、最後に一つだけというように、そっと隣の高尾

に尋ねた。

「ね、昨日、饅頭を作ったのは私だって言ったのは……白鷺様が秘

密をお許しにならないから?

それとも私が作ったと言えば、白鷺

様が食べてくださると思ったからかしら――?」

茜音の言葉に、高尾が凛としたたたずまいのまま言った。

「――私は執事でございますれば、この屋敷の内の、住む者、使う

物、食べる物、纏う物……すべてが滞りなくあれるように、気を配

るのが務めでございます。昨日のことは、あのように言うことが一

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番良いことになると考えてのことです」

「……そうね。饅頭は無駄にせずにすんだし、白鷺様もお喜びにな

ったわ」

高尾の返事が質問をはぐらかしたものであると気付いている茜音

は、苦笑した。

高尾はふっと唇の端をゆるめる。

「それに加えて、夫婦仲もまた一段と深まったのでしたら、幸いで

ございます」

その返事に、茜音はそっと目を伏せた。

「――そうね」

「白鷺様もすぐに……もっと成長されることでしょう」

茜音は緩やかに頷いてから、静かに顔をあげて微笑んだ。

高尾の表情は変わらず、ただ、茜音の次の言葉を待っている。

そんな高尾に茜音は静かに言った。

「一人で秘めることが何処までも許されるならば、人は心の内はど

こまでも自由ね。口は固く、心は自由に――長く仕えるということ

は、そういうことなのね」

茜音は、少しゆるんできていた、衣の裾をそっと自分で整えた。

随分と着こなせるようになってはきたが、やはりまだ時々着崩れて

しまうことがある。

「高尾は私にいろんなことは教えてくれるわ。――これからもお願

いね」

そう言って歩き始めた茜音に、高尾はゆっくりと寸分の狂いもな

い、礼儀作法にのっとった角度の礼をした。

もちろん――黒に近い灰色の衣にゆるみ、たるみなく……綺麗な

ままに。

「御意に」

齢重ねた男の静かな声が、そっと茜音の耳に響いたのだった。

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まだ夜明けの鳥の声が聞こえぬ、薄暗い頃。

窓枠からほんの少し流れ込む冷気を感じて、白鷺は目を覚ました。

「――ん……」

目覚め直後のぼんやりとしたまま、白鷺は片手で寝台の片側をぱ

たぱたと探った。

だが、あるはずだと思ったあたたかな感触が隣にない。ただ冷え

た布団の端が手に当たるだけの中、だんだんと覚醒していく。

――あぁ、そうだ。まだ屋敷にたどりついていないのか。

二十日ほど前から、氷龍地域の頭領である白鷺は供を数人連れて、

氷龍地域に点在する少数民族の村を順に訪ねていた。冬の厳しさが

本格化する前に、地域内でのもめごとに耳を傾けつつ、僻地では手

に入りにくい薬草や、晶国の南部で採掘される希少な炎石を冬越し

の助けとなるように配布していく旅だ。途中、不足の物資があれば

雪に完全に閉ざされる前に運搬できるよう手筈を整えていく。もち

ろん寒村が点在する僻地に宿屋などなく、野営が多くなっていた。

昨日、夕方に訪ねた村は、今回の旅程の最終の村だった。土地も

肥沃で豊かな村で、村長の家も大きく白鷺一行を泊める余裕がある

と誘われ、客間に泊まらせてもらった。

今日、この村長の家から馬を駆けて、夕方までには茜音や高尾が

待つ館に帰る予定である。

――つまり、隣に茜音がいるはずが……ない。

いま間借りしている村長の客間には、棚を挟んで二つの寝台があ

る。ひとつは自分が使い、もう一つは、白鷺の守り人であり執務の

相談役でもある賢丈

けんじょう

が横になっていた。他の者たちは別室をかりて

いる。

そういえば昨晩、十四歳の白鷺にはゆったりしていた寝台が、三

十路前の男盛りを誇る賢丈の体躯では縦も横もとても小さく見え、

無性に悔しくなった。年の差とはいえあきらかな体格差を感じ、白

鷺は床に入るまえに『もっと食べねば……茜音を包めるくらいに大

きくなれるように』と念ずるように思いつつ、眠りについたのだっ

た。

――昨晩は久々にあたたかい寝床にありついて……寝ぼけたか。

ぼんやりしながら、そうぽつんと思い、白鷺は少しだけ眉を寄せ

た。

――茜音……。

とろりとした寝起きの頭に、一年ほど前に婚姻した妻の名が浮か

ぶと、何か甘くてあたたかな気持ちがこみあげてきた。

白鷺は、茜音のまっすぐに見つめ返してくる瞳を思い浮かべる。

茜音は、ふだんはほとんど無駄口をたたかないのに、絵物語や織

物の文様を前にすると目を輝かせ、いつもより問いの数も増えて、

饒舌になる。真剣に織り物の糸の配列を見つめつつ、白鷺の説明に

耳を傾けてくれる。そんな寝る前のひとときが白鷺はとても好きだ

った。

茜音のしっとりとした声音、柔らかで控えめな笑み、饅頭を作る

のが上手で機織りも名人級という器用な白い手指……茜音の姿が

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次々に思い出されてくる。

いつも一つの大きな寝台に二つの寝具を並べて、手をつないで眠

る年上の妻。あの小さな手に触れるのが精いっぱいの日々で、それ

以上の茜音の身体はまだ未知の世界だ。

だが、少し前に白鷺がすこし強引に茜音に唇を押し当ててから――

その熱さを知り、なおかつ茜音がいやがらなかったことに安堵して

から――白鷺は、ふたりの間がなごやかになったとき、ほんの少し、

額や唇に口づけたりもできるようになった。

やわらかい茜音の肌、唇。

そっと遠慮がちに触れるのが精々だが、それだけで、白鷺は胸の

内だけでなく全身がかっと熱くなる。特に最近は下腹部あたりに熱

がたまり、何かもやもやとするようなすっとしないものが身体の内

にくすぶるようになってきた。

――そういえば、夢の中でも、茜音と会っていた気がするのはな

ぜだろう。熱くて……前に交わした、あの口づけのようなぬくもり

を――……茜音の吐息をすごく近くで感じたように思ったのに。夢

か――……。

白鷺は、甘く熱い夢から目覚めることの寂しさを覚えながら、と

ろとろと妻のことを考えつつ一人きりの寝台で寝がえりをうとうと

した。

――そのとき。

白鷺はかっと目を開いた。

身動きしたことで、おのれの寝間着の下腹部の気持ち悪さに、初

めて気づいたのだ。

寝間着の足のつけねの部分が、乾き始めてかさかさした部分が肌

にはりついている。そしてまだぬめりの残る中心部。

「なっ……」

白鷺は瞬時に起き上がり、そして布団の上掛けを一気にはぎとっ

た。

見下ろして、おそるおそる寝間着のすきまから自分の下腹部あた

りの布に触れる。

白鷺は絶句した。

寝間着の下腹部から足のつけねのあたりが、どろりとしたものと

それが乾き始めたようなかさかさとはりついたもので、まだらに汚

れていたのだった。

――寝ている間に……夢にまぎれて――?

夢うつつで茜音のことを考えていた頭の中がいっきに冷えてゆく。

「白鷺様?

どうなさいました」

隣の寝台から、守り人である賢丈の声がかけられた。突然におき

あがった白鷺の気配でめざめたのだろう。

全身硬直していた白鷺は、動揺しつつ、ごくりと一度息をのみこ

んだ。

「……」

「白鷺様?」

賢丈の声が訝しげなものに変わる。

白鷺は、ぎゅっと片手で上掛けを握りしめた。利き手の方は、指

先が汚れてしまい、宙に浮かすようにして――行き場がない。まる

で、今の白鷺の心のように。

「どうなさったのです、頭領」

だまったまま微動だにしない白鷺に、賢丈の声が答えを求める。

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いかようなる質問にも、頭領たる者は堂々といらえを返すべきな

のだ。

白鷺は、ふぅっと静かに息を吐き、声音が震えぬよう気を配りつ

つ言葉を告げた。

「――私にも……時が、来たようだ」

「時――もしや」

何かを感づいた賢丈の声に、白鷺が頷いた。

「あぁ、私も……男として、身体の道が通ったようだ」

白鷺の声が、静かに部屋に響いた。

***

氷龍というのは雪に閉ざされる地域である。

今でこそ、希少で手に入りにくいとはいえ、水を湯にかえてくれ

る炎石という石が晶国で採掘されるようになり、雪の時期であって

も暮らしが随分とらくにはなってきた。

だが、やはり雪に長く閉ざされる地域の者にとって、冬を越すた

めにはすべて雪解けの頃に「準備」をして暮らしていくという習慣

が身についている。

命をたもってゆくためには、それなりに心して日々の備えを重ね

ていかねばならないという価値観は、そのまま婚姻や妊娠、出産に

対する考えにも通じていた。

まず婚姻のためには嫁や婿を迎えるための準備をするのは当然で

あった。家具や衣装といった物的の備えに加えて、精神的に、家族

が増えるという覚悟と決心によってのぞむのが通常。長く雪で閉ざ

される厳しい冬を共に乗り越えていく日々、一時の快楽や甘いとき

めくような気持ちでは乗り切れないことを人々は良く知っていた。

そして、身体を結べば、子を授かることがある――そこまでをふ

まえて、食糧や衣類を多めに用意していた。

妊娠し、出産した後の女が、乳が満足にもでないようなひもじい

状況に陥らせてはいけない。おくるみがたりず、赤子を寒さで震え

させてはいけない。よちよちしはじめた子の、柔らかいものしか食

めない口に、硬く消化があまり良くない干物を与えるわけにはいか

ない。

――新しい命を飢えさせてはならない。

その想いが常に共通してあった。

もちろん、新しい命を思い描いて用意した数々の準備を、子が授

からぬことで泣くなく手放さなければならない場合もある。その悲

しみもまた深い。

だが、飢饉によって飢えさせて幼子を死なせる悲しみの歴史も数

えきれないほどに抱いた氷龍の地においては、飢えと寒さをしのぐ

準備をすることは未来を信じることに通じていた。

『婚姻する』とは、氷龍の者にとって甘い夢の生活ではなかった。

***

「おめでとうございます、白鷺様」

賢丈がそういうと、身体を濡らした布でぬぐいさっぱりと着替え

た白鷺が、軽く頷きつつ目を伏せて言った。持参している自分の寝

間着だけが汚れ、借り物の寝具などは汚さずにすんだのは幸いだっ

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た。

「まだ……自覚はないが」

「夢を見ている最中に放った場合、記憶にはない場合もございます」

「どういう風に男として精の通じる日が来るのかと思ってきたが……

身に覚えがないとは、何か不安だ」

「それは白鷺様が忍耐強かった印でございましょう。身体が限界を

越えるまで、自らをなぐさめる手段をもちいなかったのですから」

賢丈が濡れた布のあと片付けをしながら、寝台なども整理してい

ると、白鷺は正装の上着を身体に巻きつけながら、息を吐いた。

「そういうわけでも……ない」

「そうでございますか」

「いや、触れはしなかった――それは耐えたが。だが吐精できずと

も、身体が……おそらくあれが快楽を帯びると言うことなのだとい

う状態に陥ったことは何度かある。どうしていいかわからず厠に走

ったりしたが……まぁ何も放つことはできなかったので、何も伝え

ることもなかったのだが」

「白鷺様は、正直でいらっしゃる」

賢丈は、まるで年の離れた弟をみるようなあたたかな眼差しで頭

領を見つめると、大きな身体に守り人の証である大剣と弓矢を身に

付けた。

「幸運といえばよいのか、今日は屋敷に戻る日です。白鷺様の身体

の成長をお伝えすれば、高尾も乳母たちも喜びましょう。もちろん

茜音様も」

「高尾……茜音か……」

「照れますか」

賢丈の言葉に、白鷺は少し目を伏せた。

「照れる……とは違うな。私も待っていた。自分の身体が、真に婚

姻にふさわしい成長を遂げる日を。――だが」

「白鷺様?」

「高尾は安堵するだろうが、茜音は……喜んでくれるのだろうか」

白鷺は初めて、心細そうな声をだした。

その声を聞いて、賢丈はすこし口元を緩めた。

若き頭領として――いつも背筋を伸ばし続ける白鷺。茜音が織っ

た繊細で品のある文様と色合いの衣をまとうようになり、さらにも

ともとの美しい白銀の髪と理知的でいながら時々挑むように煌めく

強さを秘めた眼差しが映えるようになり、威厳をそなえるようにな

ってきた。

とはいえ――、まだ十四。

これから男として育っていく年頃なのだ。

そもそもいくら婚期が早い氷龍地域といえども、十五の成人の儀

を待たずして婚姻の儀をあげるのは特例中の特例といえる。白鷺の

場合、父の急逝により、あまりに早くに頭領の地位を次ぐことにな

ったからだった。頭領を次ぐとともに、国主の娘を妻と迎える――

これは、氷龍が晶国に属するようになった先々代からの盟約であり、

破るわけにはいかなかった。

だが、賢丈や高尾をはじめとする白鷺の側近といえる者たちが心

配することの一つに、白鷺の男としての成長があった。

茜音という年上の妻を娶ったものの、若すぎる頭領としての重圧

なのか、精通がおこっていなかったのだ。氷龍の地の男子の多くが

十三歳を数える頃までには、夢に誘われたり物理的な刺激によって

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精通を迎えることから考えると、白鷺の成長は少々ゆっくりといえ

た。

晶国全体の風習として、女性であれば月のものの到来を女性の節

目祝いとして盛大に祝い、その祝いを越えてからでないと婚姻は忌

避される。だが、男の婚姻に関してはそのような節目的なものはな

い――ゆえに茜音を氷龍に迎えはした。また、年上で落ちついた趣

きの茜音が晶国の宮殿から白鷺の花嫁としてやってきたこともあり、

白鷺の男としての成長、経験を促してくれるだろうかと、側近一同、

期待したともいえる。

だが、二人の様子からすると、どうやら精神的な結びつきをゆっ

くり深めていく向きに落ちついたらしい。

それもまた、若くして村々の難題を幾つも乗り越えねばならない

白鷺には必要な癒しだろうと、側近たちは、白鷺と茜音の寝間での

ことにあまり口を出さずに見守る態度を貫くと意見の一致させてい

た。

結果的に、白鷺と茜音はまだ清い仲であるらしかった。

このようにずっと気がかりに思ってきた賢丈の立場からすれば、

こんなめでたい日はなかった。

白鷺の身体が真に白き精を放てるようになった今、頭領夫妻はや

っと身体を結びあえるのだ。

「おめでたいことです。茜音様もお喜びになるでしょう」

「だが――……茜音は私と結びあえることを望んでいるのか、よく

わからない」

白鷺の声に、賢丈は片眉を上げた。

「婚姻したのです。結びあうこと、子を授かることを望んでのこと

でしょう?」

氷龍の地で生まれ育ち、その中で生きてきた賢丈は白鷺の言葉に

少し笑いながら答えた。

白鷺が夢の中とはいえ、初めての吐精に戸惑って弱きになってい

るととらえたのだ。

「――あぁ、そうだと思う、だが」

「なんです?」

「だが……茜音は……」

白鷺はふっと何かをいいかけたが、そのまま言葉をのみこんだ。

そして、ふっきるように顔をあげると、今度ははっきりとした口

調で命じた。

「いや、なんでもない。賢丈、仕度を終えたら出立であると、皆の

者に伝令を」

「――御意」

賢丈は、言葉をのみこんだ白鷺のことが少し気にかかったが、頭

領として命じられた言葉に返事をするにとどめた。

昇って来た太陽が、窓から清らかな光を注いでおり、白鷺の白銀

の髪がきらきらときらめいた。

***

白鷺一行が村長の家をでて、馬の早駆けで屋敷についたのは、昼

を過ぎた頃だった。

遠見を得意とする門番たちが、早急に屋敷内で伝令をとばしたの

か、白鷺たちが門前につくときは、すでに高尾と茜音をはじめとす

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る頭領の留守を守った者たちが、並んで待っていた。

馬から降りた白鷺に一番に声をかけたのは、淡い朱色の衣をまと

った茜音だった。薄衣をひらりと揺らせながら礼をする。

「おかえりなさいませ。お戻り、嬉しく思います」

「……」

声をかけられた白鷺は、茜音の方を見た。

だが、ふっと目をそらした白鷺の頬に、明らかに朱が差している。

その様子に、そばにいた賢丈は『恥じらっていらっしゃるのか』

と心の内で、苦笑する。

「白鷺様?」

茜音は不思議そうに白鷺を見返した。いつもなら白鷺が、「茜音の

方にかわりはなかったか」など即答するところだったからだ。

けれど、茜音が問いかけると、白鷺はさらに顔をそむけるように

して、しかも後ずさった。

賢丈は、さすがにまずいと思い、咄嗟に茜音に声をかける。

「早朝に出立しましたゆえ、白鷺様はすこしお疲れのようすで……」

「まぁ、それは。すぐにお休みいただかなくては……」

さっと顔をあげて茜音が白鷺を支えようとするかのように動きか

けたので、さらに賢丈は白鷺をかばうようにして言った。

「帰りの途中、砂地も通り抜けて砂にまみれております。申し訳あ

りませんが、一行に湯の用意をお願いしてもよろしいでしょうか」

茜音に声をかけつつ、その背後に控える高尾に頼むように目を向

けると、高尾は賢丈の表情に何かを読みとったのか、前にでて茜音

に並んだ。

「茜音様、侍女たちに湯の用意をさせましょう。また守り人、付き

人のものたちにも休憩の茶を用意せねば」

「そうですね、ではここは賢丈にまかせます。湯は高尾の采配をお

願いできますか。私は部屋と茶の用意にまわりましょう」

てきぱきと茜音は指示をだし、白鷺一行にはひと息つけるよう大

広間の方を開放し、再び白鷺の方に近づいて声をかけた。

だまったまま賢丈のそばで立ちつくすような白鷺に、茜音は微笑

みかけた。

「日が沈まぬうちにお戻りになられて、まことに良うございました。

すぐに、湯と茶を用意いたしますね」

「……ん」

慈愛に満ちた茜音の白鷺に向けられる笑みは、そばにいる賢丈か

らみても微笑ましくあたたかなものだ。

だが、白鷺はこくりとうなづくだけで、はっきりとは声を発さな

かった。

賢丈はまた心の内でため息をついた。

――照れているというより、恥じているのか。それを隠したくて

ぶっきらぼうになっているのか……。

――ま、今朝のことをまだ戸惑ってるなら、仕方ないか。

賢丈は、自分が初めて男として放ったときの戸惑いと気恥かしさ

を思い出す。

高尾に白鷺の成長を伝えるのは、ひとまず白鷺本人、茜音や侍女

もいないところを見計らうしかないなと、賢丈は頭の中で算段した

のだった。

***

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「なるほど、それで白鷺様は茜音さまの出迎えに、照れて戸惑った

様子だったのですな」

湯の用意ができ、白鷺が湯あみしている間に、控えている高尾に

賢丈はそっと今朝の次第を伝えた。

白い眉の下の鋭い眼光を和らげて、高尾はほんの少し目元もなご

ませた。

「ただ、めでたいことではあるのですが、白鷺様が、茜音様が喜ん

でくれるのだろうかとご心配なさっておいででしたのが気がかりで

す。なぜ、そんなに心配なさるのか……」

賢丈がつけ加えると、高尾が「ふむ……」と少し考える素振りを

した。

賢丈は次の言葉をじっと待った。

しばらく考えていた高尾がふっと軽く息をつき、「なぁ、賢丈」と

話し始めた。

「おぬしは、氷龍の地の両親にはぐくまれ、そして自身は、氷龍の

地で女を娶らずに、すべてを氷龍家存続に差し出すことを選び、頭

領の守り人となったであろう」

「はい」

「ゆえに――今まで知る必要もなかったし考えたことなどないであ

ろうが、氷龍から一歩出れば、婚姻とはただの形式的な夫婦の契約

と捉える場合もあるのだ」

「……契約?」

意味がわからずに眉をひそめる賢丈に、高尾は頷いた。

「そう。ただ夫婦になったという紙切れ上のつながりの場合もある。

逆に、その場しのぎの熱情で婚姻し、そして情熱が冷めれば簡単に

離婚する地域もある」

「離婚?

命にかかわる非常事態でないのに、婚姻を破棄するとい

うのですか?

それならば何のために婚姻するのです……わかりま

せん」

賢丈は大きな腕をぐっと組み、高尾の静かな瞳を見返す。

そんな理解できぬ話と異文化価値観に苛立ちを見せる賢丈に対し

て、高尾はなだめるように言った。

「氷龍においては当たり前である婚姻への想い……二人で未来を担

うという覚悟をもち、もし子を授かりし場合は命にかえてでも守り

育てるということ。婚姻とは命を削ってあたえあうこと――。その

氷龍の婚姻への想いは、見方を変えれば、氷龍という閉ざされた地

域の中で、貧困にあえぐ中で一つの光のように『婚姻』という絆に

重きを置いてきたにすぎぬ。一人では生きてゆけぬ厳しい土地だか

らのう」

一人きりでは死に絶える。

共に生きてゆく者が必要――裏切らずに、支え合う者が。

そして、次に続いてゆく命の糸を、切らずに紡いでいく覚悟が――

……。

だが、ところかわれば、共に住む、暮らすということの意味が違

ってくる文化もあると高尾は告げた。

「白鷺様は、柔軟であられる。茜音様に氷龍の考え方のみで生きて

欲しいとは思っておられない。もちろん氷龍を理解してほしいとは

望んでおられるだろうが……晶国全体を知りたいとも思っておられ

る。お若いからの」

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高尾はそう言って、賢丈を見た。

「白鷺様がお召しになっている、茜音様が生地から織って仕立てら

れたお着物が、それを体現しておるだろう。文様は氷龍の伝統的な

柄、だが下地となる生地の織り方は氷龍地域のものよりも繊細でい

て軽やかな織りだ。おそらく晶国の宮殿付近で織られておる技法な

のだろう」

「それと、白鷺様の婚姻と何の関係が……」

「だからの、賢丈。白鷺様は、茜音様が子を望んでいるとは言い切

れないのだから、自分が男として精を通じたからといって、その成

長を喜んでもらえるとは思えないのだろう。氷龍で婚姻、子を育て

るという直結する考え方が、晶国宮殿で育った茜音様にすぐに通じ

るものではないと知っておられる」

「……」

「茜音様にとって、婚姻は国主から命じられたことに過ぎぬ。もち

ろん、今は仲睦まじく、白鷺様を慕い、氷龍のために尽くさんとし

ておられるが、かといって白鷺様の子を望み、夫婦和合を求めてお

られるかどうかは、白鷺様にも私どもにもわからぬこと。姉のよう

に共に氷龍を守っていくと思われていたら……と怯えておられるの

だろうな」

眉を寄せたままの賢丈に、高尾は少しだけゆるく笑んだ。

「白鷺様は――あのご性分。人情にあつく、誠にあつく、そして若

さゆえに少々一本気なところがおありだ。おそらく茜音様がまだ子

を望んでいないと思えば、いくら御身が男として欲を覚え、精を通

ずるよう成長なされたとしても――何がなんでも耐えようとなさる」

「……」

「そうして……悲しいかな、男の性とは忍耐だけで乗り越えきれる

かどうか……難しいところ。それは嫁を娶る道を放棄した賢丈もわ

かるであろう?」

たずねられて、賢丈は頷くしかなかった。

高尾は賢丈の頷きをみとめつつ、少し眉を寄せつつ言った。

「かといって、一人でご自身の身体をなぐさめるにも、その脳裏に

茜音様の像を結べば、白鷺様は自分を恥じて、無垢な茜音様を想像

したと罪の意識を感じて、ご自身をお責めになるだろう」

「……そうでしょうね」

賢丈には高尾の言葉にある白鷺の姿が容易に想像できた。

「賢丈、心配か」

「はい……。これが普通の齢十三、四の子であれば、性の目覚めの

悩みもまた経験だろうと突きはなせますが、白鷺様は頭領として過

酷な執務もこなされていて、その心身のご負担を思うと……」

「――たしかに。ただ、氷龍にとっては、白鷺様のゆっくりとした

成長はちょうど良かったのかもしれぬ」

「え?」

高尾の言葉に賢丈は怪訝な表情をした。

「ちょうど良かった、とは?」

「実はな、白鷺様がご不在の間に、晶国の宰相から書状が来ている

のだ――これからお伝えすることになるが……。おそらく白鷺様と

茜音様の間に重要なこととなろう」

賢丈は先が読めないままに高尾の表情を窺ったが、もう高尾は何

も言わなかった。

湯あみ場から白鷺が上がったらしき物音がかすかに響いたからだ

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った。

***

白鷺一行が屋敷に戻り、それぞれが長旅の砂や埃を落とし休憩を

終えた後――……。

くつろぎを迎えたはずの屋敷、白鷺の執務室に、険しい声が響い

た。

「これは、どういうことだっ……」

感情を出来うる限り抑えただろうその声は、微かに震えていた。

声の主である白鷺は湯あみを終えて美しい光を取り戻した白銀の

髪をさらりと揺らせて、再びたしかめるように、晶国宰相からの書

状を読む。

宰相からではあったが、中身はほぼ国主の思惑をしたためたよう

なもの。

「なぜ……なぜ、茜音という妻がありながら、私が瑠璃花殿を娶る

ことができるというのだ?」

宰相からの書状の内容は――国主の末娘の瑠璃花がこのたび月の

物を迎えるようになり、結婚のできる状態になったこと。それゆえ

に、瑠璃花を迎える手筈をあらためて決め直したいという内容であ

った。

白鷺の執務室には、賢丈をはじめとする白鷺の側近数人と高尾が

集められていたが、書状の内容に驚きの顔をみせたのは、白鷺と側

近の中でも若い者たちで、年配の側近と高尾は冷静な表情であった。

白鷺の困惑しきりの表情で高尾と年を重ねた側近を見た。

「これは、どういうことなのだと聞いている」

「書状の意味するところは、茜音様とは別れ、瑠璃花様を迎えよと

いうことでございましょう。とはいえ、この書状では茜音様につい

ては一言も触れておりませぬゆえ、茜音様は無き者とされているよ

うですが……」

「なっ!」

白鷺は絶句した。

だが息をのみこんだあと――書状に含まれる意味に、白鷺はこれ

ばかりは耐えきれぬという風に、初めて声を荒げた。

「どういうことだっ?

一年前、氷龍地域と国主の約束のもとに茜

音は国主の娘として、私との結婚のためにここに来た、そうだろう?

そのときわずかとはいえ、国主からの使者もついていた。婚姻の儀

は見届けていったはずだろうっ!」

白鷺は心内で叫んだ。

――なかったものにしろというのか!

婚姻を!?

――どこまで……いったい、どこまで氷龍地域を見下し……。

そして。

「いったい、茜音をどこまで愚弄するのだっ!

何を考えているっ、

愚かなのか、こく――」

「それ以上はなりませぬ」

厳しい声が飛んだ。

「白鷺様、落ちつきなさいませ。言葉をお選びください」

高尾の続けざまの険しい声音にぐっと白鷺は唇をかみしめた。

唇に血がにじむほどに力をいれてかみしめなければ、遠き中央の

宮殿で豪奢な暮らしをしているという国主を呪うような言葉を吐き

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そうな自分がいた。

白鷺は思い出す。

一年前に茜音がこちらに来たときに、あまりの質素な婚姻の荷と

衣装、使者の数の少なさに内心不思議に思ったことを。しかもその

使者たるや、氷龍の者たちに対してよりも茜音への態度が軽々しく、

国主の娘に対する態度とはとうてい言えるものではなかったという

こと。

『洗濯婦の娘です――』

茜音がそう言うのを何度か聞いた。茜音自身に卑屈な態度はなか

ったが、ときどき『洗濯婦の娘に国主がそこまでなさることはない

ので』だとか『私は娘の数に数えられていたかどうか……白鷺様と

の婚姻に名があがるまで、国主の娘としてお目通りかなったことは

なかったので』だとか言っていた。

たしかに晶国中央から見れば辺境の地である「氷龍」を見下す流

れが在るのは知っている。統治の歴史からいえば、晶国よりもずっ

と氷龍家の方が長いが、氷龍の民の質素堅実な暮らし方は、中央か

らみれば貧しく華やかさに欠けるのだろう。

雪をいただく広大な地、水を冬は氷として守り、夏には雪解け水

で中央まで潤す大切な水源地であるからこそ――そして最近では鉱

脈があるということで目をむけられているからこそ、体面としては

敬意を示すと言う形で氷龍地域の自治を認め、氷龍家を由緒正しき

血脈として重要視しているが、それは表面的なだけなことはわかっ

ている。

だが、なぜ国主の血を引く茜音が……茜音の婚姻すら無いものと

されているのだ!?

この一年はなんだったと――……。

そのとき、高尾の言葉が響いた。

「白鷺様、僭越ながら申し上げます。ここに茜音様をお呼びくださ

いませ」

高尾の言葉に白鷺は咄嗟に言い返した。

「なぜだっ!

私は、茜音を手放さぬぞっ。瑠璃花などという娘を

迎えるつもりなどないっ」

「わかっておりまする」

白鷺は高尾を黒い瞳を見た。

そして、少し首を横に振りながら怒りで全身が震えたようになり

ながら、白鷺は呟いた。

「呼べぬ。茜音は――こんな書状が届いたことを知ったら、傷つく。

国主から……父から存在を無いようにあつかわれているのだぞ?」

「大丈夫です、茜音様は――お強い」

「なぜ言い切れる。私は……茜音を悲しませたくないっ!」

白鷺の言葉に、高尾は少し声を落として言った。

「白鷺様。茜音様が賢明な方であることは、貴方様が一番よくご存

知でいらっしゃいましょう」

「……」

「その茜音様が、一年前、何のお覚悟もなく、何も疑問に思わず、

何も先を考えることなく――瑠璃花様の替わりとして氷龍にお越し

になったと、本当にお思いになりますか」

「――っ」

高尾の言葉に、白鷺は目を見開いた。

問いただすように高尾の黒い瞳をのぞきこむ。

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「高尾――。茜音は……茜音は、これを予想していたというのか?

こんな愚かしく、そして茜音のことをここまで軽視した……いや、

完全に無視した状態を?

こんな……こんな馬鹿げたことをっ!」

「あの方は、一年前まで、その中心である宮殿にこそ、お住まいだ

ったのです。今、あなたが愚かしいと呟くその巣窟に。我々よりも、

すさまじい選択をもご想像だったでしょうな」

「――っ!」

高尾の言葉が、白鷺の胸を突き刺した。

そして高尾の黒い瞳から放たれる想いが、白鷺を貫いた――……。

荒ぶっていた心がしんしんと冷えてゆくに白鷺は感じた。

屈辱と悔しさに熱く速まった鼓動が、高尾によって貫かれて一気

に冷え固まって止まったようだった。

そして、冷えてゆくと――……白鷺は、自分の守るべきこと、す

べきことを、頭領として捉えはじめた。

「茜音はわかっていたのか」

呟く白鷺の眼差しが落ちついたのを見てとった高尾は、隙をのが

さずに言う。

「茜音様をここに、お呼びくださいませ、白鷺様」

「――……。わかった。だが、いったいどうするというのだ。くい

止める、何か良い案があるのか」

白鷺のつぶやきに、周囲の側近達も高尾に眼差しを向ける。

賢丈もまた、高尾がなぜここで茜音を呼ぶように言ったのかわか

りかねた。

そのとき、高尾が口開いた。

「白鷺様。瑠璃花様を娶らないにしても、時間を稼ぐ必要がありま

す。しばし時間を稼げば、今、白鷺様が対話を重ねている氷龍の隣

接地域との同盟も進み、すくなくともこの山々に眠るという鉱脈を

中央が独占するということは免れます。さすれば、中央としても簡

単にはこちらに手はだせますまい。その間に、次の策を練ることが

できます」

「その時間稼ぎをいかにするというのだっ」

痺れをきらした側近の声があがる。

高尾は冷静さを保ったまま言った。

「一年前、瑠璃花様がお越しにならなかった理由を、今度は白鷺様

が用いるのです」

「はっ!?」

高尾の言葉に、そこにいる一同が困惑した。

「瑠璃花様が婚姻できなかった理由――女の血の道が通じていなか

った――もしやっ!?」

気付いたものが、驚愕の表情で高尾を見た。

「まさか、白鷺様がまだ男として精を通じていない未成熟のお身体

と国主に申し上げるというのか!

女と交われぬとっ!?」

「そうです。そしてそれが、成長のためか体質のためか、病のため

かはまだわからぬ、と」

「高尾!

お前は賢丈からすでに聞き及んでいるだろう!

今朝っ、

今朝やっと――っっ」

側近の険しい声が飛んだが、高尾がそれを遮るように言った。

「書状が届いたのは昨日でございます。そして、白鷺様のお身体の

ご成長は、茜音様はまだご存知ありません」

「高尾っ!」

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「これが国主と宰相に対し、その場しのぎにしかならぬ言いわけな

ことは重々承知です。ただ、いくら国主と宰相が氷龍を侮っていた

としても、さすがに前国主の娘を母に持つ白鷺様のお身体を直にお

調べになるような使者はたてますまい。まず、本当に茜音様に妊娠

の兆しがないかどうかをお調べする医師などが寄こされることにな

りましょう。その書状とその他の者たちが行き来する時間を――確

実に稼ぐことができます。その間に諸地域との同盟をおすすめなさ

いませ」

「ほ、ほかに時間を稼ぐ手立てはないのかっ!」

側近達が苛立った声を上げる中、賢丈が白鷺の方を向いた。

「白鷺様、いかがなさいますか」

声をかけられた白鷺は、ただしばらく空を睨んだのち、静かに言

った。

「私を――使え。高尾の言うとおりに。」

先ほどの書状を読んだ直後の動揺した姿と違い、完全に冷静にな

り落ちついた白鷺の態度に、賢丈や周囲の者たちの方が驚き声をあ

げた。

「白鷺様っ!?」

「茜音に聞いたことがある。晶国の中央の貴人たちは、政治争いの

ために婚姻をすすめることが多々あり、その時重要なのが子供なの

だそうだ。子……特に男児を生ませるために、娘を送りこむのだと

――そういう価値観で宰相が瑠璃花をこの氷龍に送りこむ気でいる

ならば、私が子を生せないかもしれないというのは一つの交渉材料

になるだろう」

「……交渉材料?」

白鷺は、戸惑う側近たちにもわかるようにゆっくりと話しはじめ

た。

並ぶ守り人、付き人の成人した男達の中で、一番細身で小柄な白

鷺の姿であるが、白銀の髪が煌めくように身体に添い、堂々とした

態度で言葉を重ねてゆく。

「氷龍の婚姻の価値観とは違うが、それを利用する。すぐに文言を

ととのえろ、返信は私が直筆する。――文面は、私がまだ、女性と

交われぬと。氷龍の平均的な男であれば、すでに為せるはずの行為

がまだ無理であると伝え、それが、成長のためか病か判断はまだで

きぬと。それゆえ、瑠璃花を娶ることがでるかどうかわからぬと返

答せよ――事実、昨日までそうであったのだから」

「そのようなっ!

白鷺様は伴侶にお優しいだけ、当然のことで

す!

中央は、いったいどうなっているのだ。婚姻にふさわしくな

いような若すぎる男女をただ娶らせてつながりを作るなどと!

姻の儀をどれだけ、軽視し、氷龍をあなどるのか!」

付き人の中でも血気盛んな者の叫び声があがったが、白鷺は首を

横に振った。

「皆。気をしずめろ。それは――考え方の違いだと思え。だが、そ

れを利用するのだ。高尾、茜音を呼んでくれ」

「御意」

白鷺は、高尾の返事を聞いた時に、宣言するように言った。

「皆、聞け。――私は悔しくないわけでない。氷龍を見下し、我が

妻を愚弄するような書状を、私は生涯忘れぬだろう。だが私は、そ

の恨みによって愚政をはたらく者になりたくない。宰相とのくだら

ない書状のやりとりの間に、氷龍の護りを固めてみせよう。皆の者、

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心せよ」

「――はっ」

眉を寄せて、苦渋の表情の者もいたものの側近達も、高尾も若き

頭領白鷺の言葉にうなづいた。

頭領の執務室にしばし沈黙が落ちる――。

まだこれから伸びてゆく若木のようなしなやかな白鷺に、窓から

夕暮れの陽光があたり、白銀の髪を微かに照らした。

その儚げなきらめきを、賢丈とその他側近達は、ぐっと唇をかみ

しめて見つめていたのだった。

***

しばらくして茜音が来室し、執務室には白鷺と側近、そこに加え

て高尾と茜音という異例の顔ぶれがそろった。

書状の内容を知らせても、茜音は動じることがなかった。

静かな落ちついた声音で、けれど傍に立っていた賢丈からすると

少し寂しげに茜音は言った。

「すでに白鷺様と私の間に子を授かっていて、諸地域にその子のお

披露目も済ませていれば、さすがに国主としても瑠璃花様を送りこ

むことをあきらめられたかもしれませんが……。まだ私達にその気

配はないですし、今ならばまだ間に合うと考えたのでしょう」

茜音の言葉に、皆がじっと押し黙る。

茜音はまだ今朝の白鷺の精通の事実を知らない――いや、当分、

知らされることがない。少なくとも、この国主と宰相たちから寄こ

された瑠璃花に関する問題が解決するまでは。

――白鷺様の時は満ちたのです――。

そう告げられたらどんなに良かったか、そう賢丈は思いながらぐ

っと唇をかみしめた。

その沈黙の中、白鷺は洗いざらしの白銀の髪をなびかせて立ちあ

がり、茜音の方に歩み寄った。

側近達はすぐに並ぶ姿勢の向きを替え、白鷺の通る道を開ける。

「茜音」

白鷺の声変わりを終えた声が執務室に響いた。

しっかりとしたその声に導かれるようにして、茜音は白鷺の顔に

目を向ける。

白鷺はこの館に戻ってきて、初めてはっきりと茜音の瞳を見つめ

て言った。

「茜音……私は、茜音を手放す気などない」

賢丈には、白鷺の声がほんの微かに震えている気がした。

白鷺は目の前の茜音の返事を待たず、まるで隙を与えないように

して、次の言葉を紡ぐ。

「茜音も、私と同じ気持ちであると思って……良いな?」

茜音は白鷺の問いかけを聞き終えた後、微かに笑んだ。

微かであったが、隣から賢丈から茜音の表情を見ていると、それ

は静けさをたたえた優しくあたたかな深く心に残る笑みだった。

「もちろんでございます」

その答えに、白鷺がかすかに安堵の息を吐いたのに賢丈は気付い

ていた。

そして賢丈もまた……いや、賢丈だけでなく他の側近達もまた、

同じような安堵の息を心の内でついているような表情だった。

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白鷺の確認の後、もう一度白鷺は口を開いた。

「この書状に関して――真正面から瑠璃花殿を断るような、国主の

御顔をつぶすような文言をたてることはできないことは、茜音にも

わかると思う」

「えぇ、理解しております」

「それゆえ、まずは、私がまだ男として未成熟であるゆえに、子を

為せないかもしれぬという形で返事をしたためようと思う」

白鷺の言葉に、茜音は目を見開いた。

「――本来なら夫婦二人の秘めるべきようなことを、公にすること

を――許せ」

まだ少年の面影を残した姿でありながら、白鷺は茜音を気遣うよ

うにそう言った。賢丈は内心、まだ会ったこともない宰相やら国主

に対して舌打ちしたい気分だった。

――こんなに想い合っている夫婦。本来なら、今ごろ、初めての

甘い夜をかみしめていてもいいものを。なぜこんなことに。

複雑な想いを抱える側近達の横で、茜音は考えをめぐらすように

少し黙ってから、そっと口を開いた。

「白鷺様は……それでよいのでございますか。御身のことを、お知

らせするような内容で……」

「私のことはかまわぬ。『それ』が理由になるのであれば、成長の遅

い自分の身体に礼を言いたいくらいだ」

苦笑いした白鷺を、一瞬茜音はまぶしそうに見た。

「……白鷺様の成長は遅くなどありませんわ。立派にお育ちでいら

っしゃいます」

「……」

「けれど、白鷺様がそのお覚悟であれば、私、茜音も覚悟いたしま

す。どうか、宰相へのお返事にて宮殿付の産婆をお願いなさいませ」

「え?」

茜音の微笑みに、白鷺様が戸惑ったように問い返すと、茜音は白

鷺に頷くようにしてから、周囲の側近たちを見渡した。

そして凛とした表情で言った。

「宰相が寄こした産婆によって、正々堂々と私がまだ真の乙女であ

ることを、この身の内で調べていただければ、白鷺様のお返事はな

おのこと国主や宰相に届きましょう」

「なっ……」

「最終的な国主の狙いは、瑠璃花様を氷龍におくりこむことという

よりも、その先に自分の傀儡となってくれるような子が氷龍にでき

ることなのですもの。子が出来ぬ可能性があるとするならば、瑠璃

花様は他の有力な貴人などに嫁がせることにし、氷龍に対しては別

の方法で勢力を伸ばそうとしてくるでしょう」

「……」

『真の乙女であることを調べる』という言葉に戸惑って眉を寄せた

白鷺を、そっと抑えるようにして、茜音は微笑んだ。言っているこ

とは、女として側近の男達の前で述べるには恥じらうようなことで

あるのに、茜音の唇からは清々しいほどのきっぱりした声が響く。

「中央がこちらへの対策を練る間に、我々も氷龍を守る方策を、ど

うか皆の知恵を出し合って考えましょう」

「――茜音……」

「どうぞ、私を氷龍の者として思ってくださるのならば、貴方様の

痛みを少しでも分けてくださいませ」

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白鷺はじっと茜音の言葉に耳を傾けた後、小さく息をついた。

そして静かに言った。

「皆の者……茜音の覚悟もどうか受け取ってくれ」

白鷺の言葉が響いた後、執務室に揃う側近全員が、茜音と白鷺に

礼の姿勢をとったのだった。

***

白鷺が寝間にたどり着くことができたのは、執務室で今後の書状

のやりとりなどの詳細を詰めて話し終えた深夜であった。茜音は先

に退室していた。

まだ本格的な冬は到来していないというのに、すでに足元から冷

えてくるのを感じながら、白鷺は寝台の端に腰かけた。

「旅から戻られたばかりでしたのに、遅くまで……お疲れでしょう」

眠らずに待っていたのか、茜音が書物を棚に置きながら白鷺に微

笑みかけた。

大きな寝台の上には二組の寝具が並べられている。

その一方に白鷺は足をすべりこませたものの、上体は起こしたま

ま茜音の方を見た。茜音は白鷺に背中を向けて、蝋燭の火を消して

ゆく。

白鷺は、そのほっそりとした頼りなげな茜音の背中をぼんやりと

見ていた。

最後の明かり一つが消されて、闇に包まれる。

ごそごそと白鷺のとなりの寝具の音がして、どうやら茜音が身を

すべりこませようとしているようだった。

そのとき、白鷺は腕を伸ばした。

触れたのは、茜音の片腕だった。

白鷺はその触れたところをそっと引き寄せる。

闇の中、感触をたよりに抱き寄せて、白鷺は茜音の上体を背後か

ら抱く形になった。

とはいえ、ぎゅっと力を入れて触れられるほどの勇気はなく、白

鷺の腕は茜音を包み込むようにその上体に回されているだけだった

が。

「白鷺様、いかがなさいました?」

茜音の声が柔らかく問うてくる。

戸惑ったり困惑したりせず、まるで姉が泣いている弟に「どうし

たの?」とでもたずねるような落ちついたあたたかな声が、今の白

鷺には苦しく感じた。

白鷺が顔を伏せると、茜音の耳の端が唇にあたった。

「茜音……すまぬ」

白鷺は自分の心を絞り出すようにして言葉を口にした。

「何をあやまられているのです」

「……すでに私たちの間に子が生まれていれば、こんなことにはな

らなかった」

「白鷺様……」

「私の……俺の、成長が、遅かったばかりに――……」

白鷺の心を占めていた想いを吐きだすようにして言うと、茜音は

そっと白鷺の腕に手を添えてきた。ほっそりとした小さな手が白鷺

の腕にぬくもりを与える。

側近達の前では、堂々とできたかもしれない。高尾の案を肯定し、

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受け入れて――茜音まで巻き添えて。

けれど、それは頭領としてであって――男として、こんなことは。

こんなことは――辛くて。

――今朝、知らぬ間に放ってしまった、白き澱みのように、なん

て、からみつく気持ち悪さだろうか。

白鷺には、今、心にからみつく澱みがあった。

けれど、そんな白鷺に茜音の返事は明るかった。

「白鷺様。私は幸せです」

「茜音」

「手放す気はないって、言ってくださって。どれだけ嬉しかったか

……。それに地域を回る旅からも無事に戻ってきてくださって、嬉

しいです」

側近達の前よりも少し砕けた口調で茜音は話す。

白鷺を癒すように、喜ばせるように。

けれども、今の白鷺にはそれすらも胸が痛くなるものだった。

だから、それを遮るようにして問いかけた。

「なあ、茜音――……夫婦に隠し事は許されるか」

「え?」

「私は……隠しごとはいやだと思ってきた。夫婦ならばすべて話し

あっていたいと。けれど……」

白鷺は迷う。己の成長を伝えるべきか、伝えぬべきか。

側近達も高尾も、今はまだ、茜音に白鷺の精通を伝える必要はな

いとしていた。

これから晶国宰相からの書状の返事に偽りが生じることになるか

らだ。

「も、もちろん、茜音を傷つけるための隠し事でなくて、今はまだ

言えぬというだけだが……隠しごとは許されるか?」

不安になる気持ちを押さえて、白鷺は問う。

腕に囲う茜音は思っていたよりも小さくほっそりと、頼りなげだ

った。

こんな命を……ささやかで温かで愛しい命を、国主や宰相はあの

書状で「無い者」として扱ったのだと思うと、白鷺の心の奥底で押

さえつけたはずの怒りがまたふつふつと煮えたぎってくるような気

がした。

「白鷺様。……心の内は、その人の心の中だけにあれば、真実が何

であるかはわからぬものです。隠していることを、許す許さないは、

神のみの領域なのだと思います。ただ、言葉にして秘密を他の誰か

と共有するのであれば……私にも知らせてくださると嬉しいとは思

います」

「……」

「とはいえ、白鷺様は頭領。私にすべて伝えるわけにいかないこと

も重々承知です。白鷺様のお心が私を大切にしてくださっているこ

とはよくわかっておりますから、どうかすべてを話さなければなら

ないなどと思わないでくださいね」

茜音の言葉は白鷺を労わるようなものだった。

白鷺は茜音の右肩の上に顔を伏せるようにして、後ろから茜音を

両腕で包み込みながら、小さく息をついた。

ふいに白鷺は、結婚した当初、茜音に「抱く」と宣言できたころ

が、懐かしく思いだされた。

たしか、婚姻して数週間の頃、手をつないで眠るようになったき

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っかけの夜だ。

――『――はやく、大きく強くなるから』

――『お前の背丈を完全に越して、声が完全に変わったら――……』

――『抱く』

あのときの自分は、声が完全に大人になり身体が大きくなれば、

自然に精を放て、抱くことができるのだと思っていた。高尾が見せ

た男女の絵のようなことも、自然にできるようになるのだと……そ

んな風に思っていたのだ。

結婚当初、高尾には、精を通じてなくても男の身体さえ硬くなれ

ば「つながること」はできるゆえ、時間をかけて互いに身体を慣ら

し合う方法もあるとさえ説明されていた。けれど、自分は茜音にそ

こまで触れるのは怖かったし、何より、自分の体面を気にしてしま

った。

大人でしっとりとした女性の茜音と、若く未熟な自分……。

急ぐ必要はないだろうと思って、最初は声変わりが終われば、次

は背丈を越えたら、次は精がきちんと通ってから――……そんな風

にして、先延ばしにしてしまったのだ。

そしてその結果が……今。

「白鷺様?」

白鷺が黙りこんだのを訝しんだのか、茜音が名を呼ぶ。

その柔らかな声音に耳をすませるようにして、白鷺は目を閉じる。

「隠しても、許してくれるのだな。――茜音はいつも、優しいな」

「……白鷺様」

「それに、茜音は、常に冷静だ」

「……」

もし逆の立場で、もし茜音が今の自分と同じように側近達にだけ

身体の成長を知らせていて、自分には知らせてくれなかったら――

俺ならば、苦しい。

苦しすぎて――嫉妬で狂うのに。

――茜音は、そうやって穏やかな声で俺を許す。

そんな風に思う気持ちを止められなくて、白鷺は震えるように問

う。

「こうしていて、心の臓が痛いぐらいに鳴るのは私だけか」

「……そんな」

白鷺は少し腕に力が込める。

「俺たちは、仲の良い夫婦だと言われている。茜音も、本当に氷龍

家頭領の妻としてよくやってくれている。衣を用意し、さまざまな

ことに気を配ってくれ、茜音が白鷺という頭領を大事にしてくれて

いるのは、それはわかっている」

「白鷺様……」

「だが、その」

白鷺は、一度、言葉を止めた。

――情けないことを聞いている。

その自覚は十分にあった。

けれど、もうここまで――公私ともに追い詰められては、白鷺は

聞かずにいられなかった。

頭領としては、茜音に敬われて大切にされている。

現に、さきほどのことでも……氷龍のために、自分の身の処女性

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すら公にするというのだ。

けれど。

白鷺が、この寝間で聞きたいのは――……。

「茜音……茜音は、その、俺を……俺を男として見て……少しは好

きか?」

「――白鷺様」

泣きたいくらいにかぼそくなった声を、白鷺は――今朝の白き足

間のぬめりと同様に、宰相からの屈辱の書状と共に、一生自分の弱

さとして忘れられぬ気がした。

「茜音の中で、俺は『子ども』でなく……ちゃんと夫たる『男』だ

ろうか」

白鷺が言い終えると、腕に添えられた茜音の小さな手が、白鷺の

腕を撫でた。

ゆっくり、ゆっくりと。

白鷺はその優しい手の感触を感じながら、辛抱強く茜音の返事を

待った。

妻からの答えが欲しかった。

いや、欲しい答えは決まっていたが――その答えをもらえる自信

が、まだ白鷺にはなかったのだ。

「白鷺様は……」

数度撫でた後、茜音の声が小さく寝間に響いた。

白鷺はぐっと奥歯に力を入れた。どんな答えになっても、恥ずか

しい態度をとらないように。

「白鷺様は、私にとって、立派な男です」

白鷺は、茜音の言葉を聞いたとたん、自分の強張っていた腕の力

がふいにぬけたように思った。

そんな白鷺に気付いているのかいないのか、茜音はそのまま柔ら

かな話し方で続けた。

「白鷺様……はじめて手をつないで寝台に横になった夜を覚えてい

らっしゃいますか。そこで、白鷺様が、いずれ私を抱くと宣言なさ

った時から……私にとって白鷺様は逞しき男なのです」

話された言葉の意味に、白鷺はまた身体をこわばらせた。

「――え、あ……」

――『逞しき男』

「どうかなさいましたか」

「あっ、い、いや……」

茜音の手は白鷺の腕を撫で続ける。

柔らかに、優しく。

そしてその感触に勝るとも劣らぬほどの威力で、茜音は囁いた。

「……ずっとお待ちしております」

「――っ!」

なにを、とはここで問うほどに、白鷺は鈍感な性質ではない。

そこに含まれた意味に、白鷺は一気に赤面した。

――な、な、なっ

嬉しいのか恥ずかしいのか、もうよくわからぬ沸騰した気持ちの

中で、頭の片隅で、とにかく「闇で良かった……」とだけはっきり

と白鷺は思う。

「少し延びたからといって、それで変わる想いではありませぬ。ご

安心なさいませ」

茜音がほんのりと笑いを滲ませてそう言ったので、白鷺は、さら

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にどうしようもないほどに胸も頬も熱くなり、ただぎゅっと腕に力

を込めた。

腕の中の茜音は小さかった。

小さいと思えるほどに、自分の身体は少しは成長したようだった。

けれど――まだまだ。

まだまだ、心は、茜音に助けられている。

白鷺はぎゅぅっと目をつぶって、そして、茜音の耳元に唇を押し

当てた。

「――白鷺さ、ま……くすぐったい」

耳に唇を当てて、白鷺の吐息が耳にかかったのか、茜音が笑いを

滲ませながら肩をすくめた。逃げるようにしてよじるその上体を、

白鷺は両腕でたしかにとらえて、もう一度茜音の耳元に口を寄せた。

そして――そっと告げた。

茜音の耳にだけ――残るように。密やかに、すべての想いを込め

て。

――……。

茜音の動きが止まった。

闇であるが、背後の白鷺をたしかめるようにしたのか咄嗟に茜音

が振り返ろうとした。

だがそれを許さず、白鷺は両腕のなかで茜音を捉えたまま抱きし

めた。

しばらく沈黙が続く。

茜音が白鷺の腕の中でふぅっと小さく息をつく。

その吐息がまるでため息のようにも聞こえて、白鷺は胸が痛んだ。

――やはり、喜びはしない、か……。

その時だった。

「おめでとうございます」

茜音の小さな声が白鷺を言祝いだ。

「とても嬉しく思います――お待ちしておりました」

――あ。

白鷺は、不覚にも自分の眼に熱いものが溢れてきたのを感じ、慌

ててごまかすように茜音の髪に顔をすりつけた。

「……いかがなさいました」

「いや」

どうして、茜音は。

多くは話さないのに――少ない言葉の中に、欲しい言葉を込めて

くれるのか。

「白鷺様?」

「いや、――あぁ。うん……当分、同盟やら、他地域の調停やらで

……館を離れることも多くなる、国主のことにしても、北方の安寧

のことにしても、落ちつくまでまだまだあるからな」

「えぇ」

「でも――その、あの……その。……待っていてくれ」

「もちろんです」

「あ、でも、このことはもちろん内密で……」

「わかっております」

白鷺はしどろもどろに言葉を紡いだものの、茜音の明るい返事を

聞いて、取り繕うのもみっともない気がして「うん……」と言って

黙った。

黙っていると妙に腕の中の茜音のあたたかさを実感した。

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白鷺は自分の胸がドクドクと音を立てていることが急激に恥ずか

しくなった。茜音を後ろからそっと抱き寄せていることも、妙に大

胆なことをしている気持ちになってきて、白鷺はおずおずと茜音に

回している腕をはずそうとした。

するとちょうどその時、茜音の手がまるで白鷺を止めるように、

もう一度白鷺の腕を寝間着の上から撫でた。

「――っ!」

「白鷺様、本当に大きくなられました……」

しみじみと言われて、白鷺は動けなくなる。

「……うん」

白鷺は、もうそれ以上返事が出来なかった。

自分は――。

白き精を放つ時が来た自分は――。

茜音に、ただ、こんな風に受け入れてもらいたかったのだ。

苦い朝を越えて、初めて、白鷺は心の底から安堵した。

朝、足の間に感じた気持ちの悪い感触が、やっと抜けていくよう

な気がした。

そしてそんな成長遅く、意志弱き自分にでも身体を委ねて添わせ

てくれる茜音を、心の底から唯一の伴侶だと、白鷺は実感したのだ

った。

白鷺はあらためて、茜音をぎゅっと抱きしめた。

茜音の体温をあらためて感じると、みずからの身体の一部が変化

する――熱と刺激を求めて。

白鷺は耐えるようにして、ちょっと息をのみ、そして自分の身体

に苦笑した。

これからもおそらく自分は時々今朝のような粗相をし、そして時

に厠に走りだし、そして時に自分の欲求に右往左往するだろう――

きっと、茜音と共に夜を越えられるまで。

何度もさまざまな形で苦い朝を迎えてしまうにちがいない。

けれど、それでも茜音と共にいられる幸せを願う。

ずっとずっと、願う。

甘い夢も、苦き朝もそれらすべてが、茜音と共に歩む証だと――

恥も照れも寂しさも全部ふくめて、二人で引き受けていきたい。

それが、自分の婚姻なのだと、白鷺は腕の中の小さくそして大き

な愛しい伴侶のぬくもりに、無言で誓ったのだった。

***

それから、数カ月――……。

氷龍において、白鷺にとっても、またその側近達もあわただしい

日々となった。さまざまなことがあった。

同盟がうまく結べた地域もあれば、対話が進まなかったところも

ある。

だが、氷龍の北方を自治する権限は守り通す形で進めることがで

き、紆余曲折はあったものの瑠璃花の件は交わすことができた。瑠

璃花は氷龍家ではなく中央の別の貴人の家に嫁いだという。

鉱脈に関しては晶国の国主や宰相の手から守れたが、内乱が起き

るような反政府の動きは氷龍の中でもなかなか止められなくなって

きている。

貧しい村同士の小競り合いなどもあり、白鷺は忙しい毎日を送っ

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ている。

その白鷺に守り人として仕える賢丈もまた、ほぼ館に戻ることが

ない生活といえた。

「白鷺様、明日には、久々の館ですね」

賢丈は、野営の天幕の中で毛布にくるまる隣の白鷺に声をかけた。

今、雪は解けている季節に入り、野営でも難なく移動できる。

外では見張りのものが焚き火をしているので、また数刻したら賢

丈が交代する予定だ。

「茜音様も楽しみにしておられるでしょう。――これで、しばらく

は館を離れることなくすみますね」

賢丈も仮眠の用意をしながら言葉を続けると、となりで「あぁ」

と白鷺のそっけないような返事が聞こえた。布の合間から、白鷺の

白銀髪が数筋さらりと零れ落ちて、野営用の蝋燭の明かりをきらき

らと照り返している。

白鷺の返事に賢丈は苦笑しながら、自らの荷もざっと解いて布を

取り出す。

――嬉しいくせに。

――最近は、すっかり喜怒哀楽が表情に出るのをいやがり、隠す

ようになってしまわれたな。

白鷺の成長を少々寂しくも感じつつ、賢丈はどっかりと布を身体

にかけて横たえた。

狭い野営用の天幕に男二人が並ぶと、もう窮屈である。

まだ白鷺は賢丈に比べればほっそりとしているが、上背はずいぶ

んと伸びたし、骨格もがっしりとして来ていた。

――今回、戻れば、とうとう――……茜音様と夜をお迎えになる

のだろう。

賢丈はふと、隣の若い頭領のことを思った。

そう、ほぼこの一年は、まず国主の娘瑠璃花を断るために奔走し

た。

冬期には、雪の少ない西方や南方に馬を走らせて、晶国における

氷龍地域の重要性を示す説明に明け暮れた。

つまり、館に戻ることの少ない日々。

だが、その間に賢丈が守る白鷺は飛躍的に成長した。その身体付

きも、茜音の背を越えるようになり、所作にも言動にもずいぶんと

落ちつきが増している。

――氷龍を守る、良き夫婦となられるだろう……きっと今以上に。

賢丈は妻帯しないことを決めた身。家族を守るのでなく、氷龍の

頭領をはじめとする氷龍家を守ると決めた、守り人。

故に賢丈は女の身体の内に自らの精を放ったことはない。命のや

りとりを最後までわかちあったことはない。

それらのことは、この氷龍家頭領にすべてを預けたのだから。未

来に続く命を――……。

「白鷺様」

「――ん?

なんだ、賢丈」

眠りに入る前の、すこし夢心地の返事が聞こえる。

「――……どうぞ、良い夢を」

「あぁ――うん、賢丈も早く休め。交代があるだろう?」

「そうですね……あ、白鷺様」

「どうした」

賢丈は、小さく言った。

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「夢で、放っちゃいけませんよ」

「なっ、おまえ――……。もういい、疲れた。寝ろ」

「はい」

白鷺の煌めく髪がごそごそと動き、すねたように全身を布にくる

めたのを見届けて、賢丈はそっと明りを吹き消し、そして願った。

どうか――若き我らの頭領とその妻に。

明日には、蕩けるような甘い夢の夜が与えられますように。

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雪が解ける、わずかな夏の兆しが「氷龍」の地に来ていた。

若草が風に揺れ、小さな花が無数に咲き乱れはじめている。

身体にまとう衣は薄物でも十分になり、眩しい陽光を浴びる楽し

さを覚える季節。

茜音は夫であり、館の主であり、またこの「氷龍地域」をまとめ

る頭領でもある白鷺を見送るため、執事の高尾と侍女とともに、館

の石門の前に立っていた。

茜音の目に映るのは、若草萌ゆる草原。その向こうには、頂きに

白き雪を残す山々。

だが、清々しい光の下に広がる自然は、今の茜音にとって眩しす

ぎるように感じた。身体の内に気だるさを残したままここに立つ自

分の身体が、何か恥ずかしいものに思えて、茜音は一瞬だけ目をつ

むった。

そして息をととのえてから、茜音は馬上の白鷺に目を向ける。

夏の強まりはじめた日差しを照り返す白銀の髪は、馬の移動のた

めにぴっちりと後ろで結えられ、毛先が広がらないように青糸と銀

糸が文様を描く布でくるんでいる。その布を織ったのは茜音であり、

また今朝、彼の髪を結いあげて布でまとめあげたのも茜音だった。

揃いの文様を施した濃紺の装束を身にまとう白鷺は、日ごとに精

悍さを増しているように思う。

特に今日は髪をまとめあげて、結い残した部分だけを風になびか

せる白鷺はどこか色っぽさすらあり、いつもよりも格段に大人びて

見えた。

けれど、白鷺のその輝かしい成長が、今の茜音には嬉しいものだ

けにうつらなかった。

茜音は何かにすがりたい疲れた身体を心内で叱咤しながら、笑み

を浮かべて白鷺に声をかける。

「いってらっしゃいませ――お帰りは二日後のご予定ですね」

「あぁ――行ってくる。留守を頼む、茜音、高尾」

白鷺はゆったりと微笑む。

「はい」

「承知いたしました」

高尾と茜音の返事を聞き終えると、白鷺は一度片手を振りあげて

周りの付き人に合図をしたのち、馬の向きをかえた。

その時、ふっと茜音の方をみて、もう一度笑みを浮かべた。満ち

足りたような、自信すらにじませた眼差しを茜音に一瞬注ぐと、白

鷺はぐっと表情を引き締め、背を向けて去って行った。

茜音は、遠く小さくなってゆく白鷺の背をみながら、ふぅと息を

つく。

今の白鷺の笑み――深みのある唇の端をゆっくりとあげるだけの、

そう、まるで大人めいた微笑み方。子供のような顔中で心を示すよ

うな笑みでなく、ただ唇と眼差しだけで示すもの。

十五を越えて、齢十六を迎えたからか――。いや、実際のところ

誕生祝いよりも前の先月、茜音と身体をひとつにするという意味で

も真の夫婦となってからだった。そう、あれから白鷺は今のような、

余裕をかんじさせる男の笑みを浮かべる時があると、茜音は気付い

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ていた。

もちろん今でも茜音を見つめて余裕なく頬を染めたり、満面の笑

みを見せるときもあったが、今のような落ちついた微笑を浮かべる

時も増えている。

茜音はもう一度、ため息をついた。

白鷺の男らしい笑みが嬉しくてむずがゆくもあり――そして、茜

音の心を苛立たせもするのだった。

茜音は自分の気持ちが沈んでいくのを自覚し、気持ちを切り替え

て館に戻ろうとした時だった。

脇で控えていた高尾が静かに茜音に言った。

「お疲れでいらっしゃいますか」

「えぇ、とても」

高尾の返事に、咄嗟に本音で答えてしまった茜音ははっと我にか

える。

侍女の澄華が高尾の横で心配げにこちらを見ているのを感じたの

で、茜音は安心させるように笑みを浮かべながら侍女に声をかけた。

「――少しね、寝不足なものだから。そうね、澄華、何か気持ちが

ゆったりするようなお茶の用意をしておいてもらえないかしら。少

し清々しい朝の空気をすったら、私も後からすぐに屋敷に戻るから

……先にお願いできる?」

珍しい茜音からの「お願い」に、侍女はすぐさまに笑顔になって

「はい、ただいま準備いたします」と元気に答えて、一礼してぱた

ぱたと屋敷にもどっていった。

侍女がいなくなり、高尾と茜音は二人でゆっくりと屋敷の入り口

へと歩を進めはじめた。

「寝不足でございますか」

「えぇ――……」

「夫婦仲がよろしくなったと、館の者一同、安心しておりますが」

「そうね」

「明るい表情とはいえませぬな」

執事の少し小声で放たれた指摘に、茜音は苦笑した。

高尾は、茜音のちょっとした表情もよく把握してくれる。いや、

茜音のことだけでなく、頭領の白鷺のこと、ここの使用人たちのこ

と……すべての状態をそれとなく察し、わからなければ情報を集め、

的確にこの屋敷の中が心地よく澱みなく生活が営まれていくように

采配をふるのだ。

その細やかな気配りや、時に厳しいくらいの忠告が、優しさや愛

情からくるものなのか、それとも執事の仕事としての責任からのも

のなのか、齢重ねた高尾に比べれば雛鳥のような茜音には判断がつ

かなかった。

だが、いつも高尾の態度は公平であり、そして浮き沈みや意見を

あれこれ変えてくるというような優柔不断さが少しもなかった。そ

れゆえに、茜音は高尾の判断や意見を信頼していて、基本的に高尾

の前では自分を偽らないようにしている。

茜音は、またため息をつきながら、呟いた。

「ねぇ、男って、女を知ってしまうと……その、そればっかりにな

ってしまうものなのかしら」

「『そればっかり』ですか」

「そう……今まではもっと話をしたり、絵物語を一緒に眺めたり、

新しい織り物の図案について話を聞いてくれたりしたのだけれど」

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ここまで言い切ると、高尾は茜音の言わんとすることがわかった

ようだった。

次を促すようにわずかに頷いてくれたのを確認して、茜音は続き

を零す。

「あの夜から――真に身体も一つになった夜から、一月ほどたつけ

れど。あの夜以降、寝所に入って、しばらくすると、すぐに腕が伸

びてくる。そのまま解放されない……疲れるわ」

「……」

「ひどいときには、一度寝て。そしてまた明け方に一度や二度……

高尾だって、洗濯婦の方から苦情が来てない?」

ふいの茜音の話の振りにも、高尾は動じることなくさらりと返答

を返した。

「……侍女の方から敷布の洗濯が増えている報告は、聞いておりま

すが」

茜音はその返事を複雑な想いで受け取りながら、また息をついた。

「私は母が宮殿の洗濯婦だったから――年頃を過ぎてから、苦労話

をいろいろ聞いたものよ」

「苦労話ですか」

「えぇ。生々しい話だけど、男女の営みによって敷布や寝間着のど

こに付いたかわからない体液は、洗いにくくて仕方がなかったとよ

く言ってたわ。時間が経つとこびりつくらしいし……。まぁ敷布は

明け方に交換に行けばいいのだけれど、宮殿にいらした殿方によっ

ては明け方に敷布を交換にくるのを見計らうようにして女性と交わ

りはじめて、恥じらう顔を楽しむ趣向の方もいらして……大層侍女

たちは困ってたと聞いたわ」

「……」

「こびりついた蝋を取るのも一苦労だったって話もあったわね。あ

ぁこれは、蝋燭の蝋を身体に垂らしてその熱さをお楽しみになる男

女もいらしてね、流れ落ちた蝋が敷布や寝間着で固まってとれなく

なるらしいの。洗濯婦たちの悩みのたねだったらしいわ」

そこまで話した茜音は、ちょっと苦笑を浮かべつつ、半歩後ろを

歩く高尾を振り返った。

こんな明け透けな話が老齢ではあるとはいえ男性である高尾にで

きてしまうのも、初夜に立ち会った――あの一度きりの特別な時間

があったからだと思うと、複雑な想いがした。

神聖ととるのか――秘めるべき部分が明るみになってしまったの

か。

茜音は自分の中に巡る想いに蓋をするように、少し声を明るめに

あげて言った。

「私は宮殿でも女性達の住まう敷地からでたことがないから、父の

国主としか面会したことがないけれどね。宮殿仕えの洗濯婦たちの

元には、宮殿全体から汚れた衣服が届いたらしいから、秘めたる関

係にしろ公の関係にしろ、上の人たちが思っている以上に洗濯婦も

いろいろなことを知っていたらしいわ」

「それは……なかなかの情報経路でございますな」

「白鷺さまは、特別な御趣向がなくて、まだましかもしれないけれ

ど……それでも、侍女や洗濯係の者たちに面倒をかけているのだと

思うと、気恥かしく心苦しいの。もし、使用人たちから苦情が出た

らすぐに私に知らせてね」

茜音がそういうと、高尾はただ「承知いたしました」と簡潔に答

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えた。

その返事を聞いて、茜音は声を出さずに微笑んだ。

高尾の淡々とした返事が、今の茜音には心地よく聞こえたのだ。

「……白鷺様がいらっしゃらないのは寂しいけれど、今日、明日の

夜は安眠できそうだからよかったわ」

そう茜音が言って、少し伸びをするように腕を伸ばした。

夏のきらめく日差しだが、風は涼やかな氷龍の地。その澄んだ空

気を胸いっぱいに吸い込むようにした茜音は、そのとき、また自分

の身体の疲れを自覚した。

疲労が残る身体は、特に下腹部の秘所が擦り切れるような痛みが

ある。

――初めての時ほどの痛みはないけれど、まだやっぱり痛む。こ

れもいつか消えていくのかしら。

さすがの茜音もそこまでを高尾にたずねることはせずに、吸いこ

んだ息をゆっくりと吐く。

そして、気持ちを切り替えるようにして、高尾の方を見た。

「愚痴を聞いてくれてありがとう。白鷺さまと真の夫婦になれたし、

国主へ届けたあの初夜の布も、馬鹿馬鹿しいことだったけれど、そ

れ以降は国主も文句を言ってこなくなったし……良い方向に進んで

いることはよくわかってるの」

高尾の黒い瞳は、静かに茜音を見返すだけ。

その揺らぎがない眼差しに、茜音は微笑みを返す。

「大丈夫、私――白鷺様のことを大切に想っているわ。それは真実。

ただ、彼の勢いに私の身体がおいつかないだけ――きっと慣れてい

くわよね」

自分に言い聞かせるように茜音が言うと、高尾が静かに言った。

「白鷺様はまだお若い。そして茜音様もまた、白鷺様よりは年上で

はありますが、やはりお若いと言えましょう。これから、よりお互

いを知り合ってゆく未来がございます」

「そうね……ありがとう」

未来――たしかに、そういうものかもしれない。

けれど、今の茜音は、白鷺の抱き寄せる腕から彼の心の内を知る

ことができないと思っていた。

――抱き寄せられて、身をつなげても……わかりあえることなん

てない。だからこそ、話をしたいのに……。

――なのに、二人きりになると、私たちの唇は言葉を紡ぐもので

なく、口づけしあうものになり果てる。

茜音はまた小さく息をついた。

そんな茜音を、高尾は黙って見つめていた。

***

それは、白鷺を見送った日の夜。

久々に一人でゆっくり眠れると思いながら、寝間着の準備を侍女

にしてもらっている時だった。

「え?

温泉?」

茜音が聞き返すと、一番茜音の周りを世話してくれている侍女の

澄華が頷いた。

「そうなんです、茜音様。明日一日、氷龍の南西にある温泉地に行

かれませんか?

私の出身村なので、気軽なお気持ちで……」

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「……南西部に温泉が湧き出るとは聞いたことがあるけれど、どう

して急に?」

「いえ、高尾さんも私も最近茜音さまがお疲れをためておられる御

様子なのを心配していて。それで、ちょっと考えてみたのです」

茜音は、今朝、漏らした愚痴から、高尾がそれとなく世話を焼く

のが上手い澄華に話を持っていったのだろうということに気付いた。

この年若い侍女の澄華は、氷龍の地の南西にある村長の娘だったは

ず。

茜音はその気持ちに感謝しつつも首を横に振った。

「ありがたいけれど、白鷺様は西の村に視察する大事なお勤めを果

たされているのよ?

私だけがぬくぬく温泉を楽しもうなんてでき

ないわ」

「もちろんそのお気持ちはわかりますけれど、茜音さまが疲れきっ

ておられては、白鷺様のお相手を十分にできないのではありません

か?」

「……澄華」

「白鷺様は、明後日の夕方には戻られるご予定です。きっとその夜

は――白鷺様は茜音様をお放しになられませんよ。それならば、明

日のうちに、茜音様も温泉で日々のお疲れをおとりになって、明後

日に備えられたらよろしいかと思うんです」

めずらしく踏み込むように澄華は言葉を重ねてくる、その熱心さ

に、茜音は気押された。

「屋敷のことは高尾さんに任せておけば、一日くらい大丈夫ですよ。

茜音様は、こちらにこられてから二年……本当によくやってこられ

ました。少しくらい自由にゆっくりするお時間があっても良いと思

うのです。せっかくの雪解けの頃なのですし。あぁ、ちょうど私の

村の近くは今、南瓜の畑が広がっていて、黄色の花がたくさん咲い

ていますよ」

澄華がそう言って、茜音に微笑みかけてくれる。

疲れた茜音には、その微笑みがなにかふっと温かく感じられた。

「白鷺様と茜音様は素敵なご夫婦だと、皆が思っております。です

が、茜音さまがあまりにお疲れになっていては、皆も心配いたしま

す。温泉がおいやであれば、別のものでも良いですから――どうか

気晴らしを」

澄華の言葉が柔らかく茜音に響き、氷龍家頭領の妻としてきちん

としていかねばならないという肩の力が、少し抜けるのを感じた。

「そう、ね……甘えてみようかしら……」

「よかった!

温泉がよろしいですか?

それとも、何か他のお望

みは!?」

澄華の表情がぱあぁと明るくなって、身を乗り出すようにして寝

間着に着かえた茜音の顔を覗き込んでくる。

茜音は微笑を浮かべながら、

「温泉がいいわ……」

と小さく答えた。

お務め中の白鷺には悪い気がしつつも、茜音はほんのりと頬が期

待に緩む自分がいるのを自覚した。

茜音は――この氷龍の地に婚姻のために来るまで、晶国の中心の

宮殿から出たことがなかった。氷龍に来てからは、ここから出たこ

とがない。

つまり、温泉など、一度も入ったことも、見たことすらなかった

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のだった。

***

湯気がたちのぼり、消えてゆく。

柔らかな明りを放つ燭台が幾つかならべられた湯場は外にあり、

夕暮れに染まり始める空を屋根の途切れたところから眺めることが

できる。

東屋のように屋根があり、また竹を編んだ柵や衝立が石造りの湯

釜のまわりを囲んでいる湯場は、この村の温泉でも貴人たちが温泉

に入る時のために建てられたものとのことで、貸し切られたもので

あり、今は、茜音以外に入浴者はいなかった。

「あぁ気持ちいい。生き返るわね」

茜音は、湯気のあがる湯をゆっくりと両手ですくいあげる。手か

ら零れ落ちるのは、家畜の乳を薄めたような白い湯だった。

乳白色の不思議な色をした湯は、身体を芯からあたため、慣れぬ

姿勢や不眠の中にあった茜音の強張った身体を柔らかくほぐしてく

れる。

もう、ここに来てから三度目の入浴となっていた。

「湯加減はいかがですか。こちらの温泉は湧き出たもので、とても

お熱うございますし……お水を足しましょうか」

衝立の向こうから、澄華が声をかけてくれる。

茜音は少しいつもより大きめの声を出して言った。

「いいえ――大丈夫。温泉の力はすごいのね。あなたがすすめてく

れたように、本当にすべての疲れがとれていくわ」

「お気に召されて何よりです。この温泉は、氷龍の南西の村々に住

む者にとっては、誇りなんです」

明るい声で澄華はそういうと、

「茜音様。お身体が火照ってしまわれないように、なにか冷たいお

飲み物をお持ちしようと思うので、しばしここを離れてよろしいで

すか。もちろん湯場の門前には警士を立たせておりますゆえ」

「えぇ、大丈夫――本当にありがとう」

茜音がそう答えると、澄華の衣ずれの音がして、木戸がしまる微

かな音が響いた。

昼前にこちらに到着したとき、一人貸し切りの立派なこの風呂に

通されて、「贅沢をさせてもらっては申し訳ない」と最初は拒んだ茜

音だったのだが、「村の者が出入りする公共の温泉に氷龍の頭領夫人

が入浴にいらっしゃる方が混乱を招きます」と説得されて、村に視

察に来た高官や貴人のために用意されたこの露天風呂を借りること

になったのだった。

柵で囲まれて屋根があるとはいえ、外とつながっているので空が

見え、また遠くの村のざわめきや、風が木々を揺らす音、動物の鳴

き声なども微かに聞こえてくる。

ちょうど、馬のいななきが聞こえて、茜音はここにくるまでの道

中を思い出した。

茜音と澄華、そして数人の付き人と守り人と、馬でこの温泉に来

ている。氷龍の地の主な移動手段は馬である。

雪に強い足太で蹄が非常に硬く、背があまり高くない氷龍の馬は、

見ためには晶国の中央でみかける流麗ななりをした高級馬におとる

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かもしれないが、愛くるしさと力強さ、そして道に迷わぬ賢さが何

よりも長所の馬だと茜音は感じていた。

氷龍の地では、男女ともに馬をあやつれるのが基本。乗馬だけで

なく、馬は荷を運ぶための重要な家畜でもあり、村のものたちも馬

の扱いには手慣れているのが通常。

そのことを知った茜音は、馬には乗れないままではいけないと感

じ、すこしずつ努力し、今は一人で乗りこなせるまでになったのだ

った。

だが、白鷺がなにかと心配するので、馬に乗って出かけるといっ

ても、今までは館のまわりの野を白鷺と二人で駆けるくらいのこと

だった。

つまり、茜音にとって、今回のこの温泉が初めての馬による遠出

だった。

「初めての遠乗りだったけれど、楽しかった……」

茜音は道中を思い出して、湯にひたりながらひとり微笑む。

澄華が話してくれたとおり、氷龍の地をどんどん南下していくと、

次第に南瓜の畑が増えていき、黄色い花がところどころで咲いてい

た。

道すがら、澄華に氷龍の地の南瓜は短い夏季にあわせて生育が早

く、結実した実も小さめだということを説明してもらう。そういえ

ば、白鷺の好物の南瓜の餡の饅頭を作る時、決まって南瓜の実が小

さめだったと思い当たり、納得がいく。

「外に出ると、新しいことに出会うのね」

黄色い花や小さな実、村人たちの簡素ながら堅実な暮らしぶり――。

それらを見つめながら、この人々の平穏な暮らしを、頭領である

白鷺が守っているのだと感じた。

それは館の中だけで感じるのとは違う、もっと広い大地に立つ、

白鷺の公的な面な気がした。

――夜のことでとやかく思うのは、私が狭量で……館でのことし

か見えてなかったせいなのかしら。

こうして湯につかって癒されるのはたしかだが、その平和もまた

白鷺のおかげだと気付き、茜音はいろんな想いをまじえながら、白

い湯を肩にそっとかけた。

静かに温泉を味わっていると、遠くで馬のいななきや、馬が荷車

をひいていく蹄と車輪のカタカタという音が聞こえた。

朝早くに出発したおかげで、休憩をとりながらでも昼前に到着し、

ゆっくりとお腹に負担にならない食事を出され、その後入浴をした。

休憩と軽い睡眠をとり、また入浴、休憩。そして今の三度目の入浴。

――本当に贅沢をさせてもらって、申し訳ないわ。

馬もゆっくりと若草を食べて、休んだ頃だろうか。

茜音の愛馬は濃い茶色の愛くるしい黒い丸い瞳に長いまつ毛の馬

で、見ためはすこしずんぐりしているが、どんなに茜音の手綱の扱

いがもたついてもぜったいに振り落とさない気長な気性や、誠実で

茜音の匂いを嗅ぎ分けて、厩舎に近づけばかならず顔を柵からちょ

こっと覗かせる主人想いのところを茜音はとても大切に想っていた。

この馬を含めたいくつかの穏やかな気性な馬を高尾が選び、その

数頭の中から白鷺が一頭を決めてくれた、大切な愛馬だった。

茜音の乗馬に乗り気ではない白鷺は、しぶしぶであったものの、

選ぶ時には「馬と乗り主は心を一つにしなければならないから」と

一生懸命に馬を見つめて選んでくれた。その真剣に選んでくれる横

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顔の記憶は、いつも茜音の心に温かい気持ちを残してくれる。

氷龍では馬に名付けないのがしきたりだそうで、名を与えないか

わりに、茜音は自ら織った布で愛馬の飾り紐と房を首につけていた。

それは、白鷺が乗る馬と揃いにしている。

湯につかっていると、また馬の鳴き声が聞こえた。

今度は少し険しい声で、茜音の愛馬のおっとりした鳴き声とは違

うようだった。誰か急に駆け付けでもしたのか、予定外のお客なの

か。風呂の向こうの館の方ではバタバタと人が動く気配がした。

茜音はぼんやりと、肩まで湯にうずめながら、橙色の空を眺めた。

随分と日が傾き始めている。

夜になる前に帰る段取りになっていたので、この風呂から出れば、

帰り支度になるだろう。

茜音はぴちゃりと湯を手からこぼしながら、身体をゆるめる気持

ち良さに酔いしれた。

頭の先から爪先まで、血が巡ってゆき、こりかたまっていた肩や

腰、太腿などの痛みやだるさが抜けている。

湯に入ることでの疲労はあるものの、それはこまめに入れる休憩

で元気を取り戻せるようなものであって、身体の芯にあった疲れは

湯にどんどん溶けていって身体すべてが軽くなったような気分だっ

た。

茜音は高尾や澄華に感謝の気持ちでいっぱいだった。

そして、ようやく身体の疲れがとれてくると、茜音にも余裕が生

まれた。

――あぁ、この気持ちの良い温泉……いつか、一緒に入れたら良

いのに。

ふとそんなことを想って、茜音が苦笑したときだった。

ガチャンと何かが割れる音、水が跳ねる音が響いた。

ハッとして茜音が音の方を振り返る。

衝立の向こうには、露天風呂の出入りである木戸がある。その向

こうで、ガタガタと人が動く音がした。

「なりませぬ!

いま、茜音さまがお入りになっておりますれば!」

悲鳴の混じる声は、澄華のものだった。

さっき割れる音がしたのは、こちらに運んでくれようとした飲み

物だったのだろうか。

茜音はさっと風呂の脇においてあった大き目の布を胸元に当てて、

湯から立ち上がろうとした。衝立のすぐ横の籠に、羽織って身体に

まきつける簡単な衣装を用意してくれてあるのだ。

だが、一歩遅かった。

湯から立ちあがって出ようとした瞬間――……

勢いよく、衝立の向こうの木戸が開け放たれて、荒々しい足音が

風呂の方に駆けてきた。

茜音がぎゅっと身がまえたと同時に、衝立からその荒々しい足音

の主が姿を現した。

なびく白銀の髪。

馴染みある濃紺の衣装。

険しく顰められた眉の下には、一心に何一つ揺らぐことなく茜音

を見つめてくる瞳。

「――白鷺様」

茜音は温泉の湯気に包まれる中で、布を身の前にぎゅっと押し当

てたまま、茫然と目の前に突然現れた夫の名を呟いた。思いもよら

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ぬ姿だった。

白鷺は、茜音に名を呼ばれた瞬間、はっとした顔になって、顔を

茜音からそむけるようにして、横を向いてしまった。夕暮れ前とい

うことで燭台の明かりを幾つかともしてくれていたが、白鷺の表情

は茜音には読みとれなくなった。

だが、険しい雰囲気を纏っているのはかわりがない。

その雰囲気通りに、棘のある声が風呂場に響いた。

「は、早く仕事を片づけて帰ってみれば、館に茜音はおらぬからっ!

し、心配したっ!」

「館にお戻りになってから……ここまで早駆けを?」

「茜音はまだ馬に乗って遠出をしたことがないだろう!

心配する

に決まっているではないか!」

茜音の太腿なかばまで湯があるが、そこから上は湯からでている

茜音はだんだんと身体が冷えてくるのを感じた。

それは空気にさらされているから冷えてくるのか、思いもよらぬ

人物がここに現れて動揺して血の気が引いているのか、自分でもよ

くわからなかった。

「申し訳ございません。お勤めの最中に、私はこんな寛ぎの時間を

――……」

「それはかまわぬ!

そんなことを言っているのではない!

いつ

も茜音は民のため、私のために動いてくれているのだから、休息も

大切だと思っているのだ。いつか、私だって連れてこようと……」

そこまで怒鳴るように言った白鷺は、ぎゅっと急に押し黙った。

どうやら唇を噛んでいるようだった。

こちらを見ないのは、茜音があられもない格好をさらしているか

らだろうか。茜音は湯につからぬようまとめあげた黒い髪がすこし

乱れて、肩や鎖骨にさらさらとおちてゆくのを感じた。

心もとないのに、目の前の輝くような白銀をまとう若い熱気から

目をそらせられなかった。

高ぶっているのか、怒っているのか、顔をそむけていても白鷺は

全身から目に見えぬ生気を強く放っているようで、茜音の前で鮮や

かに存在していた。

「た、高尾が言った!

『茜音様はたいそうお疲れをためておられ

るご様子。ゆえに、ひとり心静かに湯とたわむれる時も必要かと思

い、紹介いたしました』と!」

突然響いたのは、半ば――悲鳴のような声だった。

甲高い悲鳴ではない。心が苦しくてもがいているかのような――

悲鳴。

声変わりはして強い男の声になったというのに――初めて聞くよ

うな、泣いているかのような叫びの含まれた声音だった。

「疲れをためているというのはどういうことだっ!

私にはそんな

こと、一言もいわなかったではないか」

茜音に返答の隙を与えぬままに、白鷺は言葉を連ねた。

なおも茜音が答えられずにいると、白鷺の声音は少しだけゆるま

った。

顔は横に向けたまま、こちらをうかがうような棘をひそめた話し

方になる。

「何か悩みでもあるのか……?

屋敷で、辛いことでも?

氷龍に

きてまだ三年にもならないのだから、きっと慣れずに困ったことや

辛いことでも……」

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茜音は、白鷺の言葉に困りつつ答えた。

「ちがいます……」

茜音の返答を聞き終えた白鷺は、今度は苛立ったように言った。

「では、何なのだ!?

疲れを癒しにここに来ているのだろう?」

「……そうです」

「どうして、その疲れが何かを話してくれない?

そんなに頼りな

いのか!?」

「ちがいます」

二度目の「違います」を答えた瞬間、白鷺はそむけていた顔をば

っと茜音の方に向けた。

瞳がぎらぎらと輝いていた。

熱気を放った白鷺の身体や表情は、昨日の朝、余裕の笑みで別れ

を告げた馬上の白鷺とは似ても似つかぬものだった。

茜音のすべてを知りたいと思っているかのように、ほんのわずか

の隙もなく茜音に注がれる眼差し。

「だが、高尾には話したんだろうっっ」

――泣き声のようだった。

怒りを放っているはずなのに、その声に含まれるものは、泣いて

いた。

白鷺の瞳に潤むものはない。けれど、明らかに「泣いている」と

茜音は感じたのだった。

茜音の心がぎゅっと掴まれるような気がした。

「――白鷺さま……」

茜音は唇を開いていた。

涙無き心の泣き声をあげる夫の姿を放っておけないと思った。

茜音は宮殿の片隅で生きていたから知っている。

組織の頭となることは、常に孤独に晒されるということを。

国主にしても、何かの長にしても、そして白鷺のいる立場の氷龍

の頭領にしても――。頭となれば、仕える者との信頼、現状を維持

するための情報、未来を開拓していくための知恵――と、目に見え

ないものを扱うことばかりになるのだ。

――洗濯は布を洗えば汚れがとれて、綺麗な洗い上がりが見てわ

かる。

――機織りは、織り上がれば布となって、出来不出来が目に見え

てわかる。

――目に見えるから、安心できるし、自分がやった仕事に誇りも

持てる。

――けれどね、何かの頭となって周囲を従わせていくのは、目に

見えないものを扱わなきゃならない。目に見えないものを信じ、信

じられるようにしていかねばならない――それはとても孤独で辛い

ことね。

洗濯婦の母が、男女の夜の営みの後の敷布や寝間着の洗濯の苦労

を笑い話にしてくれた後に、そうつけ加えた――そんな昔の話が茜

音の脳裏によぎった。

現に、今の国主は、信頼を目に見えるものにしたいと狂っていき、

瑠璃花との再婚を拒んだ白鷺に対して、茜音との初夜の血がついた

布を届けるように命じてきた。

自分の思いの通りに相手が動くのか確かめたくて――無茶な要求

を重ねて行く。

それは、傾き始めた信頼に焦る「主」がすることだ。

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白鷺は今泣いている。

高尾に話して、俺には話さないのかと。

茜音は、俺を信頼しないのか、と。

――「疑い」「疑惑」「不信」

――これは、絆の綻びの第一歩。

茜音は目を閉じた。

湯気に包まれる中で息をすると、湿った空気が口内を潤してくれ

る気がした。

高尾に伝えた「以上」に、茜音の心の内を白鷺に晒さなければ――

きっと白鷺はひとりぼっちになってしまうだろう。誰も、信じられ

なくなって。

意を決して、口を開いた。

「疲れたのは……辛いのは……夜のことです」

「夜?」

「白鷺様との交わりについてです」

「!」

目の前から息をのむ気配。白鷺が全身を強張らせたのを感じた。

だが、茜音は言葉を選びながら――嘘偽りがないように心を見定

めつつ話し続けた。

「先月、二人で真の初夜を迎えて以降……一夜に何度もお求めにな

ることが、つらくて……。私は白鷺様ほど若くはありませんし、体

力もございません。まだ慣れぬゆえか、痛むときもございます。そ

の……あられもない格好を夜中ずっとしているのですから、夜が明

けて全身の節々が痛むこともございます。そんな私を高尾や澄華が

心配してくれて、ここを紹介してくれたのです」

「……」

「どうか、信じてくださいませ。疲れたことを白鷺様から隠そうと

思ったのではないのです。夫婦としての交わりに、私がついてゆけ

ぬ今の状態を、どうお伝えしたらよいかわからなかったのです」

茜音が言い終えた時、白鷺は茫然としていた。

沈黙が落ち、ただ時折、滴が落ちる水音だけがこだまする。どう

やら澄華たちも、夫婦で入ってしまったこの風呂まで立ち入るのは

はばかられるのか、木戸の向こうで待っているようだった。

日が陰りはじめ、少し風が吹いてカタカタと竹柵を鳴らした。

それを合図にしたように、白鷺が小さく口を動かした。

「茜音――。茜音は辛かったのだな」

「……」

「俺だけが……気持ち良くて、やっと一つになれたのが嬉しくって

……離したくなくって……」

一瞬、本当に泣きだしたのかと茜音は思った。それくらいに弱々

しい声になっていた。

だが、白鷺は涙は見せてはいなかった。

「茜音を痛めていたのだな……俺はずっと」

湯気が満ちる風呂場にしばらく沈黙が続いた。

どこかでまた滴がおちたのか、水の跳ねる音がした。

「――……すまぬ」

小さな弱々しい白鷺の声が、風呂場に響いた。

茜音はとっさに首を横に振る。

「どうか白鷺様、誤解なさらないでくださいませ。疲れたというの

は、その……嫌だと申しているのではなくて……」

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「……」

「痛みはあります――でも、初めて結ばれた夜ほどではありません

し、身体の痛みは慣れてゆくと思うのです……きっと。疲れたのは、

そこではないのです。追いつけないと感じたのは――……」

白鷺が困ったように顔を傾けた。湯気の向こうの白鷺は、茜音よ

りも背を越しているが、まだ見上げるほどではない。

まだまだ成長途中の、その少年のような青年のような夫を茜音は

もどかしい気持ちで見つめた。

「疲れたのは、それは、白鷺さまが……その、私の身体ばかりお求

めになるから――心が疲れたのです」

白鷺は、すこしばかり不思議そうな顔をした。

「すまぬ――よくわからぬ。身体ばかりを求めるから、心が疲れる?

身体を結ぼうとするから、身体が疲れきるのではなくて、心が疲れ

るのか?」

白鷺の思わず口から出たというような質問に、茜音は頷いた。

「言い方をかえれば、寂しくて哀しかったのです。私は、ただ白鷺

様のその身体の欲を満たすだけに生きているようで」

「そんな……そんなつもりは」

「わかっています。わかっていますが……それでも、心が追いつか

なかったのです。触れられるのが苦しくて」

白鷺の眉が寄せられる。

「触れたら……俺に触れられたらいやなのか?」

「そういうわけではなくて――。触れることばかりになって、白鷺

様との間が、快楽に溺れてしまうだけになるのは――辛かったので

す」

白鷺がごくりと息をのむのがわかった。

夫婦の間で、今、茜音は自分の心の内の一部を白鷺に伝えている

のだとまざまざと感じた。

「私は――……」

茜音は自分の前身に当てている布をぎゅっと握って抱えるように

しながら、心の底にある言葉を告げた。

「私は、白鷺様と抱き合うのは好きです」

「!」

「ただ、それだけでは――足りぬのです。満たされないのです。ど

うか欲深き女とお思いください――これが私の真実でございます」

「茜音――……」

「私は、白鷺様と抱き合うのと同じくらい、会話を楽しんで、共に

美しいものを愛でたり、何かを慈しんだりしたいのです。互いの肉

体だけではなくて、心や時間を通わせあってゆきたいのです。身体

を繋げるばかりでは、私の心は追いつかないのです。身体と心が分

たれてしまったようで辛くて苦しくて――。でも、白鷺様がそれを

お望みにならないのであれば、それは私の出過ぎた望みであって――

……」

茜音の言葉が零れ落ちた時。

「茜音」

白鷺の言葉が響いた。

呼びかけられたとき、茜音は自分の身体が思いのほか震えたのを

感じた。

心の奥にある気持ちを言葉にするというのは――時に、足元がぐ

らつくようだと思った。白鷺がまた口を開いた。

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「……わかった、もう良い……」

そうして、白鷺は前に進んで来た。

衣服の裾が濡れているのも気にせず、湯釜の傍までくると、湯に

足をつけたままで随分と低いところにある茜音の顔を覗き込むよう

にした。

触れては――こない。

「茜音。俺が、たぶん――急ぎすぎたのだ」

茜音は衣服の裾を濡らしつつ、膝を屈めるようにして茜音の顔を

見つめる白鷺の瞳をじっと見返した。

「つい、嬉しくて。この一カ月、本当に嬉しくて。会えない時があ

ると気持ちが募るように、肌も欲しくなって……俺は、茜音のすべ

てを押さえこみたくて、知りたくて、食べてしまいたくて――……

欲深いのは、俺だ」

「白鷺様」

「だから……茜音……。だから、泣くな」

指先だけが、おずおずと伸ばされて。

湯気のたちこもる中、白鷺の指がそっと茜音の目尻に触れる。

「お前の涙――初めて、見る」

「――し、らさ、ぎ、さま……」

「俺は、こんなに追い詰めてしまったんだな」

茜音は息をのんだ。

自分でも気付かなかった目尻の涙をそっとすくいあげる、大きな

指先。

身を屈める白鷺は――男だった。

そこにいて、自分をまるで慈しむように瞳をのぞきこんでくるの

は……先ほどまで苛立ちと怒りをあらわにしていた少年はなりをひ

そめていた。

白鷺がふっと小さく微笑んだ。

昨日の朝に見せたような、余裕のある笑み。

「すまない、茜音。嫌がられても――俺を、もし厭うことになって

も、俺は茜音を放しはしない。こんなに追い詰めてしまったと気付

いても――俺は手放さない。茜音の一番隣にいるのは、俺だ」

白鷺ははっきりとした口調で言った。

茜音は眉を寄せて白鷺を見つめた。

「だが、俺から離れる自由はあげられないが、心が辛いなら、辛く

ならないように……俺も茜音の望みを知って、努力する」

「……」

「身体が痛いのなら――痛くないように、精一杯、善処する。――

う、上手くなるっ!

だから」

「白鷺様」

「――信じてくれるか、俺のこれからを」

――これからを。未来を。

茜音は頷いた。

それは……もうすでに茜音が心に決めていたことなのだ。

別に……疲れたからといって、出来つつあった絆をほどこうなど

と、切ろうとしたわけでない。

ただ、その絆が逆に引っ張られるようで、絡まり合うようで、ど

うしていいかわからなかった。

けれど――……。

「茜音も、氷龍の地を知ろうと、ずっと努力してくれた。俺の好み

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を知ろうとし、俺のために布を織ってくれるようになった。それが

どれだけ俺を、私を励ましてくれたかわからない」

茜音に白鷺の言葉が沁み込んで行く。

彼の今まとう衣服の布も、そこに施される文様も、茜音が白鷺の

白銀に似合うように、彼の好みにあうように――若き頭領として侮

られないように――心を込めて織ってきたものだった。

その想いをあえて口にしたことはないけれど、茜音の忍ばせた『想

い』はそのままではなくても伝わっていた。

「――信じます。白鷺様を」

「うん、茜音」

湯気で湿った白鷺の指先が、頬を撫でた。

茜音は、もう白鷺の――大人びた笑みに苛立ちを覚えなかった。

ひたむきな瞳に籠る熱をはねのけたいとも思わなかった。

「白鷺様――」

茜音はふっと微笑んだ。

そっと茜音は腕を伸ばした。

胸元を押さえていた温泉の湯を吸った布はそのままはらりと落ち

る。

「―っ。あ、か、ね――」

晒された妻の裸体に、一瞬、大きく目を見開いた後、そのままい

っきに白鷺の顔が赤くなり、音がなるくらいの勢いで顔をそむけた。

「白鷺様」

「――ぬ、布が落ち、て――……」

「茜音は、今日、たくさん白鷺様と話せて――……嬉しく思います」

茜音は湯に何度もつかりしっとりとした白い腕をのばして、そし

て指先を白鷺の髪のひと束に絡ませた。

「長い髪ですのに、布で巻きあげずに馬を走らせたのですね。風で

こんなに絡んでいらして」

「――っ、今朝は西の村長のところだから、茜音がいなかった、か、

らっ」

茜音が白鷺の白銀の髪にするりと指を通すと、全身で白鷺はのけ

ぞるようにした。

「こ、れ、以上、近寄るなっ」

「もっとお話ししたく思います」

「身を隠せっ……どうなっても知らぬ!

痛いのだろう!?

苦し

いのだろう!?

このままでは、俺は茜音を痛めてしまうか、ら……

おいっ!」

茜音は、白鷺の髪をするりと離して、白鷺のそむけられた顔をの

ぞきこむように、風呂に足をつけたままでのぞきこんだ。

「一緒に――温泉、入りませんか?

気持ち良いです」

「え?

……あ?

あぁっ!?」

「きっと、木戸の向こうで澄華が、こちらに籠った白鷺様にどうし

ていいかわからず困っておりますから……ちゃんと、風呂に入ると

お告げになった方がよろしいかと思いますよ」

茜音が「澄華」と名をだしたとたん、白鷺の表情がすこし落ちつ

いた頭領らしき顔をみせた。

「……そ、そうだな。澄華には悪いことをした。運んでいた飲み物

まで割ってしまって……きちんと伝えてこよう」

「えぇ、それがよろしいかと」

「だが……共に入るのは……」

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白鷺は動揺を隠せぬまま、戸惑ったように立ちつくしている。

「お嫌ですか」

「嫌なわけがないっ。だが、……その。……わかった。茜音が痛が

るようなことはせぬ……せ、せぬように耐えて、共にはいる」

白鷺はそう言って唇をぐっとひきしめた。

茜音が見上げていると、白鷺は一度、決心するようにうなづくと

身をひるがえして澄華が控えているだろう木戸の方へと駆けて行っ

た。

白鷺の背を見送り、木戸をくぐっていく音を聞いてから、茜音は

今しがた湯に落とした布を拾い上げて湯がまの外で絞り、そっとた

たんで置く。

小さく息をついた。

乳白色の湯に肩までつかって、空を見る。

もう、闇がせまっていた。

***

澄華に伝えてから戻ってきた白鷺は、衝立の横ですべての衣を脱

ぎ去った。

「早駆けで汚れているから」

と言って、脇の洗い場で丁寧に身体を洗い流してから、そっと茜

音の入っている湯に足をつけてきた。

見上げるのもはずかしく、茜音はうつむきかげんで待つ。

湯が大きく揺れる。

白鷺は茜音よりも拳二つ分くらい離れて湯の中で座り、ふぅっと

大きく息をついた。

力を抜いていく声が微笑ましく感じた茜音は、目元をなごませた。

しばらくすると、

「……無理なことはせぬから、その……近寄っていいか」

と、白鷺がおずおずと言ってきたので、茜音は頷いた。

白鷺がゆっくりと腰の位置を茜音に近づけた。

肩と肩が触れ合って、腕や腿も少し湯の中で触れあう。

乳白色の湯のおかげで互いの身体が見えないことに、茜音は安堵

の息をついた。それでも、初めて共に入る風呂の中で、茜音は自分

の心の臓がどくどくどくと大きな音をたてていくのを聞いていた。

うつむいた視界に、湯に白銀の髪がつかってひろがっているのが

見えた。

「髪……結いあげましょうか。湯を含んでしまいます」

茜音は高鳴る胸の音から気をそらしたくて、そう声をかけた。

「あ、あぁ、頼む」

すこし戸惑ったままの白鷺の返事をきいてから、白鷺の背後にま

わった。

ひとつくくりだけになっている紐をはずし、湯を含んだ髪を布で

押さえてから、くるりとまきあげる。

茜音の目に、白鷺の広い肩が目に入る。髪をあげてさらされる首

も、女性のものと違い、たくましい。

それでも、これからまだまだ育ってゆく――白鷺の身体。

ふいに、目の前の白鷺の背がゆれて、湯が小さく揺れた。

「……あ、か、ね……」

突然の切羽詰まったような声音に、茜音は戸惑い「どうなさいま

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した」と声をかける。

すると、白鷺が湯の中で少しまえのめりになって背後の茜音から

身を離すようにして言った。

「い、や、その……茜音が身体が……背に当たるから」

「あ――失礼いたしました」

「いや、そうではなくて――俺は嫌じゃないが茜音は嫌だろう」

「そんな……。先ほども言いましたが、触れるのが嫌だったわけで

は……」

茜音が白鷺の態度に戸惑ってそう答えると、白鷺は苛立ったよう

に振り返った。

空が暗くなり、事前に用意されていた幾つかの燭台の明かりだけ

がたよりの湯場で、白鷺の声が響いた。

「俺は――っ」

眉を寄せて、顔をしかめた白鷺は年相応の青年に見えた。

茜音がその突然の荒ぶりに驚くと、また白鷺は首を一度大きく降

った。

「俺は、やはり茜音が出てから、入る」

「白鷺様」

「このままだったら、俺は……自分が何をしてしまうのか怖い」

じゃぶりと湯から白鷺が大きな音を立てて立ちあがる。

慌てて茜音が見上げようとすると――

「見るなっ!」

大声が。

今ままでにないくらいの険しい怒鳴り声が白鷺から発されて、び

くりと茜音が肩を揺らした瞬間に、白鷺が完全に茜音に背を向けた

状態で立ちあがった。

茜音の目には白鷺の広い背と、それに続く引きしまった臀部、ほ

どよく筋肉のついたすらりとした湯につかる足が見える。

「駄目だ……外で冷やしてくる……」

「あの」

湯からそのまま出ようとする白鷺を、茜音はとっさに止めたくて、

手を伸ばした。

指先が、白鷺の腿に触れる。

「!」

白鷺の身体が一瞬震えて止まり、茜音はここぞとばかりに湯から

でようとする白鷺の前にまわろうとした。

そのとき、茜音の目に映った――……白鷺の前身。

茜音が見たのは――滾るように天をむいた白鷺の男の部分。

「しら、さ、ぎ、さま――……」

茜音が目を見開いて見上げると、白鷺は、燭台の暗い湯場ですら

わかるぐらいに、頬を一気に真っ赤に染めあげた。

「み、みるなっ」

焦ったように声をあげて、白鷺は出ようとしていた湯船に、ざぶ

りと勢いよく音をたてて、まるで我が身をすべてから隠すように深

く潜るように浸かってしまったのだった。

「白鷺様……」

茜音がただ名をよぶと、白鷺がざぶざぶと湯の中で首を振った。

「わ、笑いたければ笑え」

「そんな……なぜ」

湯に顎まで浸け、茜音の眼差しから隠れるような白鷺。茜音は戸

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惑って、おなじように肩まで浸かり口を閉じた。

「先ほど……妻に宣言したばかりなのに、自制できぬとは……私は

本当に未熟者なのだ」

そんな二人の間に、自らをあざけるような白鷺の言葉が響いた。

茜音は、めずらしい白鷺の卑屈な物言いに眉を寄せる。

「妻に……愛しい妻に痛みしか与えられぬ。辛さも疲労も、聞いて

あげられぬ――頼られなくて、当たり前だな」

「白鷺さま」

「た、高尾の方がよっぽど頼りになるだろうっ」

そこで突然に執事の高尾の名がでてきて、茜音は目を見開いた。

「俺は――本当に、若くて経験が浅くて……若さの勢いだけが取り

柄のようなものなのに、その勢いも妻には苦痛でしかなくて……」

ぶくぶくと白鷺は湯に落ちて行く。

先ほど茜音がまとめた白鷺の髪のその解けた幾筋かだけが湯にゆ

らゆらと揺れる。

白い湯の中にとっぷりと浸かりこんでしまった白鷺に、茜音は一

度その揺らめく数筋の白銀を見つめ、そして――小さく息をついた。

「白鷺様……そんな哀しいことをおっしゃるなんて」

湯に浸かって聞こえていないのかと思えば、少しだけ頭が湯から

ひょこりとでてきて、耳は湯からあがっている。

「ここでこうやって平和に温泉が保たれているのも、白鷺様が氷龍

の頭領としてすみずみまで配慮した統治をおこなっているからでは

ありませんか」

「……」

「館では、たしかに高尾は頼れる執事です。けれど、館も含めて、

この氷龍を統治するものとしていつも西に東に北に南に……村々を

奔走し、調停なさっているのは白鷺様。皆が頼りにしておりますで

しょう」

「……だが、夫としては、不甲斐ない」

ひょこりと出ていた頭が口まで湯からあがり、小さな声が湯場に

零れる。

「こんな、自制の効かぬ若造……夫として……」

「白鷺様」

弱々しい声音の白鷺に向かって、茜音はあえて強い声をだした。

それからそっと湯に浸かりきる夫に真正面から近寄ってゆく。

茜音は湯につかったまま、顎まで浸けてこちらを見上げた白鷺の

方に両腕を伸ばした。

こんなひざを抱えてしまうような不安定な白鷺をおいておくこと

ができなかった。

余裕があるように見せたと思ったら、焦燥感で埋め尽くされてし

まう――そんな揺れ動きつづけてしまう、若い心。

「先ほど、白鷺様は信じてくれるかとお聞きになったではありませ

んか。私は白鷺様を信じるとお答えしましたでしょう?」

「……」

「『上手くなる』っておっしゃられていたではありませんか」

「――なっ」

「いま、それを努力されてみては?」

「え、あ、おいっ!」

両腕で囲うようにして白鷺の頭をそっと抱き寄せる――湯がぴち

ゃりと鳴って。

Page 75: 氷龍婚姻譚time-will-tell.velvet.jp/moon/hyoryu.pdf · 2014. 1. 3. · 白鷺の妻となるため、二十二歳にして初めて宮殿の外へ。機織り(はたおり)が得意。

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白銀の頭は茜音の二つのふくらみのあいまにそっと押し付けられ

る。

「のぼせるまえに――はやく」

茜音が囁くようにそう言って抱えた白銀に口づけを落とすと、白

鷺が大きく揺れた。

「なっ……そんなこと言って、後悔するぞ!」

「後悔なんてしません。悔やむというならば、夫と溝ができたまま

館に帰る事の方が後悔すべきことです」

強気に言い返した茜音に、白鷺が噛みつくように言った。

「――痛がっても……俺が止められなかったら、どうする!」

「大丈夫ですから――……」

茜音は頭のすみで苦笑した。

交わりが続いて辛くてこちらに来たはずなのに――私の方から誘

うなんて。

けれども同時にわかっていた。

自分が先ほど言ったとおり、このまま二人が不一致のままに館に

戻れば、ますます互いに寄りそい合いづらくなるだろうと。

白鷺も乗り越えねばならないことがあるように、茜音もまた――

受け入れて、そして越えねばならないことがあるような気がしてい

た。

だから、茜音は抱えた白鷺の頭にそっと両手を添えた。

「な、に――」

手をすべらせつつ、白鷺の顔を上向かせる。

そして――……。

茜音は白鷺の唇に、みずからのそれをゆっくりと近づけた。

唇が触れあって――角度をかえて……。

「ん……っ、あ、か……ねっ」

息のあいまに焦ったように名をよぶ白鷺の唇に、そっと舌先をは

わせてみる――。

茜音から口づけたのは、これが初めてだった。

***

口づけて舌を絡ませてしまうと、なし崩しのようだった。

すでに猛々しくなった自分をもてあましていただろう白鷺は、絡

みつく舌と唇、ぴちゃぴちゃとなる湿った音が湯場に響くと、もう

耐えられなくなったように、目尻を赤くそめて潤んだような熱気の

こもった眼差しで茜音を抱きしめた。

二人が身動きするたびに湯が音を立てる。

白鷺は茜音の滑らかな腰をさすり、そして湯の中でその胸のふく

らみを弄った。

「――ぁっ……」

茜音の息が湯気のあいまを彩る。

外であり、木戸の向こうに澄華が控えているであろうことを頭の

片隅によぎって、茜音は懸命に声を押し殺す。

その押し殺したゆえに漏れ出る喘ぐような息づかいに、白鷺はさ

らに煽られて、茜音の胸先をぐりぐりとこねる。

「ぅっ……ゃっ」

「痛いか?」

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「い、いいえっ」

白鷺は茜音に一つ一つを確認するかのように、たずねていく。

胸のふくらみを強くもみあげて、その力加減を――。

湯からふるりとあがった茜音の濡れたふくらみの先の果実を口に

含み、軽く噛む――。どこまで食べてよいのか――……。

「ぁっ……あ、やぁっ」

指先が秘所に伸びる。

湯の中で、さらにとろとろになっている茜音の秘めたるところに

白鷺の長い指が届く。

「んぅ……そ、れは」

「痛む?」

「は、い――……」

強く擦られて痛んだ敏感な蕾が、今度は柔らかく撫でられる。

あやすように揺らされる。

「ぁっ」

「これは?」

「――……あぁっんっ」

「気持ち良い……のだな」

白鷺が茜音の反応を一つ一つ伺い、茜音の押さえた喘ぐ声、うめ

きの中にあるものを読みとってゆく。まるで全身をくまなく調べる

かのように、白鷺は執拗に茜音の身体に緩急をつけ触れて行き、茜

音がいかに応じるかを見つめる。

耳たぶ、首筋、鎖骨、背筋――二の腕、指先。下腹部、内腿、ひ

ざ裏――足の指の一本一歩まで、白鷺はくちゅくちゅと時にこねる

ように触れ、そして撫で、時に吸いついて、茜音が辛くないか、痛

がらないか喜ぶのはどこか――調べあげた。

しばらくすると茜音は白鷺の手指に翻弄され、湯の熱さに頭がぼ

うっとする中で、限界を感じて首を横に振った。

「も……熱く、て」

白鷺は熱い目でそんな茜音を見つめると、

「俺も……限界だ」

と、喘ぐようにつぶやいた。

そして、まるでその呟きを隠すかのように、白鷺は茜音を真正面

から抱きなおして口づけてきた。

ぐっと押さえつけるような口づけ、荒々しい舌の動きに、茜音は

突然のようにその唇から白鷺の想いが伝わってくるように思った。

だが、触れあうのは口づけだけで、ほのかに茜音の腿に当たる白

鷺の硬くなった部分は、それ以上に茜音に押し付けられることがな

かった。白鷺は何かに耐えるように、時々かすれた息を逃すように

しながら、熱くて深い口づけだけが交わされた。

そのとき、茜音は深く理解した。――交わされる口づけから。

――こんなに熱くて限界なのに……白鷺様は、身をつなげたい欲

に、耐えてくださっている。

茜音が痛むから。

きっと痛むから。

疲れさせてしまうから。

痛ませてきてしまったから――。

触れあって絡まり合った唇から、白鷺の耐えるものと、荒ぶる欲

と、懸命に茜音に尽くそうとする想いが流れ込んで来たのだった。

――唇から……口づけから、想いが流れ込むなんて。

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茜音は初めて、知った。

触れあって、つなげあって伝わりあうものだって……あるのだと。

茜音の目尻から一筋小さな滴が流れ落ちた。

それは、白鷺の髪のように白銀にきらきらと煌めいて、湯の中へ

と溶けて行った。

***

口づけのあいま、一瞬唇が離れた時に、茜音は小さく白鷺の耳元

に唇をよせて囁いた。

茜音の囁きに、白鷺は最初おびえたように首を横に振った。

だが、茜音が再び抱きしめるようにして白鷺に回す細い腕に力を

こめると、白鷺はしばらく黙ったあと――茜音を抱きよせた。何か

を決心したかのように、力強く。

白鷺は、湯船の縁に茜音を抱きよせたまま腰かける。そして、茜

音の身体を支えるようにして、そっと自分の身体にまたがらせるよ

うにして座らせた。

身をずらして――剛直を、茜音の秘所にあてがった。

***

茜音は、今までにも座って交わるという体の向きは何度か求めら

れたことがあったが、湯場ではもちろん初めてだった。

背に湯があるという不安定な状態に恐れを感じつつも、ずいぶん

とたくましくなった白鷺の腕の支えに身を委ね、茜音は座った白鷺

の身体をまたぐようにしながらそっと腰をおろしていく。

すがるようにして白鷺の首に腕を回す。

角度を調整するように、白鷺が茜音の足の付け根をそっと動かす。

にゅるりと白鷺の剛直が茜音の濡れた入り口にすれて、甘い心地

よさが茜音の身体に広がる。

身体を落としていくと、ぐっと圧迫感が増してゆく。

すこしひりひりとした痛みが入り口にある――。

けれど、それを過ぎると、自分の身体の内部がきゅうっと白鷺を

咥えこむように動いたのを茜音は感じた。

「――っ」

白鷺の息が一瞬熱くなる。

その焦るような息づかいが、さらに茜音の心身をきゅぅっととき

めかせた。

痛みがあるが、それ以上に熱くぬるついた気持ち良さが下腹部に

広がっていく。

「――ぁっ……」

自分の喘ぎが今まで以上に甘く色付いたと茜音は自覚した。

白鷺と密着する肌が熱い。

つながる秘部からもたらされるぞくぞくと背筋をはいあがってい

く震えのようなもの。

縋りつかなければ何かにのまれてゆきそうで、茜音は必死に白鷺

にしがみついた。

腰と背中をささえてくれる白鷺の腕も力が入る。

内部をえぐるように腰が揺らされる。

「――あかね、辛く……ないか」

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息の合間に、目を細めながら、耐えるような表情で白鷺がきいて

きた。

燭台の明かりはほんのりと薄暗く、伸びる影が白鷺を魅惑的にみ

せる。

言葉で答えるのが難しいくらいに、喘ぐ息だけで精いっぱいにな

った茜音は頷いた。

何度も頷いた。

――辛くはない、と。

白鷺の手付きが、茜音に気遣うように撫でるものとなる。

押し付けられるような一方的なものでなく、茜音の中にくすぶる

ものを引きだして昇華させようとでもいうような動きに、茜音は耐

えきれず――……息の中で、名を呼んだ。

「し、ら、さぎ――…」

共にあり、共に生き、共に知り合い、共に分かち合う――その伴

侶の名を呼んだ。

半ば外のようである湯場であったが、誰かの介入も視線も意識で

きなかった。

この時の茜音は木戸の向こうの澄華の存在も忘れていた。

ただ一心に。

白鷺と動きを合わせるように身体を揺らし――……

「あっ――も、うっ……」

「――…あかね、いけ」

あやすように言われ。

茜音はそのまま、身体の震えるままに快感の波に身をゆだねた。

身体をふるわす茜音を腕の中で抱きとめた白鷺は、濡れそぼって

いる一つになっているところを揺らすようにした。

「――ぁっ」

か細いたよりなげな茜音の息に絡ませて、白鷺は腰を動かす。

喘ぎに合わせるように軽く突き上げて行くと、ぐちゅぐちゅとい

う音が響き、内部がうごめく。

耐えきれなくなった白鷺は、茜音をひときわ強く抱き寄せた。

「――っ」

白鷺の熱っぽい息づかいが一瞬止まり、その直後、茜音は自分の

なかに放たれるものを感じた。

***

――結局のところ、白鷺と茜音はその村で一泊させてもらうこと

になった。

翌朝、早朝出立のために、まだ暗い内から馬に乗れる衣装に着替

えていると、手伝ってくれている澄華が笑って言った。白鷺は馬の

調子をみるために、付き人と共に厩舎の方に出ている。

「あまりに険しい形相の白鷺様が現れたときは、いったいどうなる

ことと思いましたが……今まで以上に仲睦まじくなられたようなの

で、良かったですわ」

茜音は苦笑した。

「日帰りのはずだったのに、こうして泊めていただくことになって

しまって申し訳なかったけれど……」

「そんな。氷龍家頭領夫妻が宿泊することを嫌がる者などおりませ

んわ」

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澄華の言葉に、茜音は微笑んだ。

そう言ってもらえる関係を地域で築けているのは、本当に白鷺の

頭領としての努力のおかげなのだろう。

話しながら準備をしおえた頃、ちょうど白鷺が顔を出した。

「用意はできたか」

「はい」

夫の表情は晴れやかで――そして、茜音に向ける眼差しに曇りは

なかった。

茜音の身体は、温泉のおかげなのか――それとも、白鷺の気遣い

による交わりのおかげか、今までの明け方のような筋肉痛も擦れた

ような痛みもほとんどない。

少し疲れはあったが、茜音の心は白鷺と共に館に帰ることを心か

らのぞんでいた。

白鷺が手を伸ばしてくる。

「茜音の馬もとても機嫌が良かった」

「そうですか。館まで馬で駆けるのが楽しみです」

茜音が白鷺の手にみずからの手をのせる。

こうして、白鷺と茜音、そして澄華や守り人たちの一行は、館へ

の帰路についた。

道中、行きに茜音が澄華に説明してもらった南瓜畑の横を通る頃、

朝焼けの中、神々しいまでの陽光が大地を照らしていた。

朝靄かかった畑地に、きらきらと光が差し込む。

多くはまだ蕾であったり萎んでいたが、早くから日が当っている

ところでは、黄色い南瓜の花が咲き始めている。

白鷺と茜音は並んで馬上から光差し込む大地を見つめた。

「ここも――雪の季節になれば、真っ白になる」

「はい」

「花が咲き、実りを迎えるこの短い季節はあっというまに過ぎるか

ら……今、こうして雪解けの大地の姿を、茜音と眺められて良かっ

た」

白鷺が無邪気な微笑みを茜音に向けた。

そんな白鷺を見て、この白鷺の少年期と青年期のあやうい一時期

こそ、あっというまに過ぎるのだろうと――茜音は心内で思った。

「えぇ、本当に。白鷺様ともっと氷龍の地のいろいろな表情を眺め

てみたいです」

「――そうだな」

白鷺はくしゃくしゃと崩したような満面の笑みを茜音に向けた。

「連れて行ってやる。そのためにも――この氷龍を平和に統治せね

ばな」

決意のような言葉が広がる畑地に、小さいけれども確実な光とし

て零れ落ちた。

***

館にもどると、高尾が白鷺と茜音を出迎えた。

少し離れてから、あらためて執事高尾の姿をみると、茜音は心の

底から高尾がこの氷龍の館に馴染み、そして静かにけれど厳かに存

在しているのだと感じた。

黒に近い灰色の衣装を、いつもと変わらずぴしりと美しく着こな

し、立っている。

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「いろいろ――心配をかけました」

茜音が高尾に声をかけると、高尾が軽く一礼した。

「無事のお戻り、なによりです。白鷺様とご一緒に戻られたなら、

なおいっそう喜ばしいことです」

「ありがとう――感謝しています、高尾」

茜音の言葉に、高尾はもう一度礼をした。そこに白鷺が声をかけ

る。

「高尾、館に変わりはないな。あぁ、世話になった村に、何か礼の

品を届けたい」

「かしこまりました」

高尾はそう答えてから、少しだけ和ませた目で白鷺と茜音に目を

向けた。

「あの温泉地は、白鷺様の好物の南瓜がよく採れるあたりでしたが

……今はまだ、実りの季節ではありませんでしたな」

「そうなのよ。南瓜が実っていれば、持ち帰って南瓜の餡をたっぷ

り作れたんだけど」

笑いながら茜音が高尾に答えていると、白鷺がそこに口をはさん

だ。

「いや――高尾。実っていなくても、十分だった」

高尾と茜音が白鷺の方に視線をむけると、それらを受けて白鷺は

笑みを浮かべた。

――悠然と。

「白き湯に入り、花を愛でるだけで――私も腹がいっぱいになった」

そう言って、白鷺はまるで自慢するかのような表情を浮かべて、

高尾の方を見る。

そんな表情をうけて、高尾は白い片眉を少しあげて、口角を緩め

て口をひらいた。

「なるほど――白鷺様も、饅頭菓子よりも甘さを感じる好物ができ

ましたか。目をみはるほど成長なさいました」

「そうだろう。もう饅頭で満足する年ではない」

「ですが、饅頭よりも花を愛でるは難しきもの。饅頭はお口に放り

込めばそれでよろしいが、花は繊細なるもの。美しく咲き、甘き蜜

をたたえるかどうかは、手入れ次第でございます」

「なっ!」

「どうぞ、その扱いにはお気をつけあそばされますよう」

ゆったりと放たれた高尾の言葉に――。

脇で茜音は目を丸くし、白鷺はいっきに頬を染め。そして眉を寄

せて。

最後には、すねたように顔をそむけてしまったのだった。

Fin.

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Thanks For Your Reading.

 

このたびは「氷龍婚姻譚」をお読みくださって、まことに

ありがとうございました。

 

晶国という架空世界の北端に位置する「氷龍」の物語、

初出はムーンライトノベルズの作品ですが、このたび春の

歌うたい様によるPDFデザイン

が加わり、色合いによる

視覚的な空気感があわさって、「氷龍」の空気がもっと親密な

ものとなったのではないかと感じております。

 

寒くて凍える地でも、その地を愛し慈しみ、そしてあたた

かな絆を結んで脈々と生き続ける人間模様、ほんの少しでも

どなたかの心に残るように表現できていたら幸いです。

 

またいつか、何かの物語で再会できることを願って。

                 

夜野

朱鷺