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Meiji University Title Author(s) �,Citation �, 134: 43-54 URL http://hdl.handle.net/10291/8824 Rights Issue Date 1980-03-01 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

佐藤一齋先生年譜補遺 URL DOI - Meiji Repository: ホーム...伝」四五頁に述べられているが、陸軍薬剤中将に成った人である。もうこの文太あたりの世代になると、つい先年まで生き

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Page 1: 佐藤一齋先生年譜補遺 URL DOI - Meiji Repository: ホーム...伝」四五頁に述べられているが、陸軍薬剤中将に成った人である。もうこの文太あたりの世代になると、つい先年まで生き

Meiji University

 

Title 佐藤一齋先生年譜補遺

Author(s) 田中,佩刀

Citation 明治大学教養論集, 134: 43-54

URL http://hdl.handle.net/10291/8824

Rights

Issue Date 1980-03-01

Text version publisher

Type Departmental Bulletin Paper

DOI

                           https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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佐藤一斎先生年譜補遺

 昭和五十一年二月に刊行された『明治大学教養論集』通巻九十九号-所収の拙稿「補正・佐藤一斎先生年譜」は、現在な

お、最も正確な佐藤一斎の年譜であろうと自負しているのであるが、その後に入手した資料・情報などによって補うべき箇  [

所、訂正すべき箇所も贅する.全面的に童日き改めるこ・は後日に譲るとして、気づいた点について華の補遺をして置き「

たいと思う。

1

 右の年譜の安永元年壬辰(一歳)の記事(明大教養論集・通巻九十九号・一四四頁)の中で、「父は佐藤信由、時に四十

五歳。」とし、特に信由の名の読み方を示さなかったが、村山鐘太郎氏から寄贈された「藤原朝臣佐藤氏系図」に拠れば、

・ブ・リ(信由)という読み仮名を示している。また、信由の右下には瀧太郎という名も小さく書き加えられている・この

系図に於ける人名の読み仮名を見ると、常識的な漢字の読み方と異なる読み方が多いので、恐らく正しい読み方を伝えてい

るのではないかと思われる。

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 佐藤一斎は二十一歳の寛政四年壬子に、初名の信行を坦、通称の幾久蔵を捨蔵に改めた(一四八頁)がこの坦も系図では

「タヒラ」と読み仮名を附している。

 次に、村山氏寄贈の『藤原朝臣佐藤氏系図」の中から、家督相続者名のみを抄録して見よう。人名の読み仮名は原本通り

             ひろよし

である。系図は一斎の曽祖父の広義を一世としている。(括弧内は各人に附記されている事項を示すものである。)

    ヒロヨシ                                          ノフタケ  ヨウ                     ヨリ  キョ

  藤原広義(喜之助、久助、新蔵。勘平。致仕号塵也。)ー二世・信全(鷹之助。治助。)1三世・信由(清太郎。勘

                  ヒサ                                            ミテ

 平。致仕号文永、改波永。)1四世・信久(治助。実小菅五平次勝威次男。)ー五世・信義(新蔵。勘平。致仕号藤城。)

       トシ                                                 フミ                     チカシ

   六世・信敏(鷹之助、才次郎。治助。実味岡杢之允正長四男。)ー七世・信復(惇蔵・新蔵。)  八世・睦(廉介、

 タカ                             タッ           オホシ        タカ     

オホシ          エイヂ

 鷹之助。喜之助。央、勘平。実舎弟信立。)  九世・善(善一郎、鷹之助。善。)i十世・英治

以上の如くであるが、右は岩村藩(岐阜県恵那郡岩村町)の佐藤家の系譜である。

             のぶより

 拙稿にも記してあるように、信由には一斎を含めて二男二女有ったが、一斎が生れる前に、信由の長男の鷹之助(ヨウノ

                             のぶひさ

スケと読んだと思われる)は天折していたので、信由は長女を小菅信久に嫁がせて、信久を嗣子としていたのであった。右

                     タヒラ

の系譜には天折した長男の記載は無く、一斎は、坦(捨蔵。系有別。)、と記されている。

 拙稿(一四五頁)に於て、「信久の妻となった一斎の姉のことは現在の調査段階では未詳である。」と述べたのであった

                                   ち え

が、これに就いても村山鐘太郎氏から御教示が有った。即ち、一斎の長姉の名は千恵で、文政五年(一八二二)一月二十七

日に残し、岩村の乗政寺(いま隆崇院)に葬られた。法名は宝寿院鏡誉智照大姉である。なお、一斎の次姉は田中忠吉に嫁

  のぶ

した延である。

一44一

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 「補正.佐藤一斎先生年譜」の中で、寛政四年壬子の項(一四八頁)に、一斎の号は墓碑銘に「号惟一斎」とあるところ

から、『書経」大禺護の「惟精惟一、允執蕨中。」(惟精惟一は王陽明の『伝習録」の中に屡々引用され論じられている)に

もとつく号であると思われる旨を記した。ここでは傍証を略してしまったが、実は既に昭和四十八年刊の漢学誌『斯文』第

七十三号に「佐藤一斎の伝記について」と題する拙稿に於て述べていたからである。すなわち一斎の遺品中の「八十歳誕辰

七律」の一斎の署名の下の印は「惟一斎」となっており、また、「林快烈公佐藤一斎芭蕉聯句、一斎書大幅」の右肩の印に

「惟精惟一」とある。従って、一斎が多分、王陽明の伝習録から『書経』のこの言葉を選び出して号にしたということは想

像に難くない。

 因みに、石崎東国氏の『大塩平八郎伝』(大鐙閣、一九二〇年)の一一八頁に次の如く述べられている。天保三年壬辰、

大塩平八郎が四十歳の年である。

  是年五月先生連斎ノ号ヲ改メテ中軒ト云ヒ、後中斎二改ム、初メ先生魯仲連ノ大節高義二慕ヒ取テ連斎ト号ス、是二至

 テ自ラ省ミテ日ク魯仲連豊道フニ足ランヤ、君子ハ中庸二依ル、世ヲ遽レテ知ラレサルヲ悔イスト、遂二中軒ト更メ後チ

 中斎ト号スト云フ。服部鉄石聞書

 すなわち大塩平八郎は中庸という言葉にもとついて中斎と号したという。大塩はこの年には「古本大学刮目』(六月に書

物ができ上ったが公表しなかったと謂われている。)や『洗心洞割記』の草稿が完成していたらしいから、既に王陽明の学

に深く親しんでいたことは疑い無く、想像を逞うすれば、大塩平八郎もまた一斎と同じように『伝習録』の中から、この恥

庸という語を選び取ったように思われる。それは、『伝習録」上巻に「大抵中庸工夫、只是精身。」などと有る如く、また中

一45一

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庸書についても、「子思括大学一書之義、為中庸首章。」

庸にも触れる所が少なくないからなのである。

などと有る如く、『伝習録」に於ては惟精惟一などと同じように中

3

                                のぶひさ

                      ち  え

 寛政八年丙辰の項では、八月十六日に一斎の長姉千恵の夫であった佐藤信久が四十三歳で残した旨を記した。信久の長男

             のぶみち

の名は先に引用した系図に拠り信義である。なお、先に引いた系図には、信久を小菅五平次勝成の次男としているが、一斎

の撰した「献懐府君墓誌」には、「君諦信久、字敬之、姓佐藤氏、別称治助。故岩村侯家老小菅君講勝威之第三子也。」とあ

る。即ち一斎は、信久を次男でなく三男としている。 一斎は「厳師述斎林公墓碑銘」では述斎に就いて、「親生父為岩村城

主大給松平支族能登守乗藏。公其次子也。」としているが、竹林貫一氏や、岩村町の樋田薫氏は、乗国・乗遠に次いで述斎

(乗衡)は第三子である、としている。身近かな人であるのに、一斎は次男とか三男とかに無頓著であったのだろうか。

一46一

4

 文化元年甲子の項で、「愛日楼を林述斎の邸の東隣に建てるため」としているのは「西隣」の誤りである。

                     しおり

 文化元年八月十六日に、一斎の妻の香圃女史(栞)が残したが、それから文化四年までの間に一斎は坂本氏と結婚し、長

男の滉が生れてから離婚している。この滉の字は大酒、主一と称したというが、通称は慎左衛門である。放蕩不蕪で父命に

従わず、自分から家出して幕府徒士田口某の養子となった。

                                   いわもと            とうこ

 滉の子孫の状況などに就いては、『河田烈自叙伝」(同刊行会、一九六五年)、巌本善治編『木村鐙子小伝』(明治二十年初

版、巌本記念会、一九七八年復刻)、年誌『巌本」創刊号(巌本記念会、一九七九年)によって、かなり明かになって来た。

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 一斎の長子の滉(慎左衛門)は田口可都(カッと読むのだうつか)と結婚して町子を生み、町子は井上耕三と結婚して嘉

永元年(一八四八)に鐙子を生み、耕三が早世したために、西山樫郎と再婚して安政二年(一八五五)に卯吉を生むが、樫

郎も早世してしまう。なお耕三も樫郎も、共に田口姓を名乗っている。

 鐙子は、小諸の懐古園に肖像のレリーフが残る木村熊二と結婚した。木村熊二は有名なクリスチャンで、明治女学校や東

京YMCAの創立や発展に力が有った人である。小諸義塾を経営したが、その時に六年間(明治三十二年から三十八年まで)

ほど島崎藤村がこの塾の教師をしたことが有った。

 田口卯吉は安政二年乙卯(一八五五)に生れ、明治三十八年(一九〇五)に残した。明治時代の有名な経済学者・経済評

論家であり、鼎軒と号した。その著『日本開化小史』は名著といわれており、『東京経済雑誌』その他の創刊、或は衆議院

議員など、多方面に活躍した人である。

 田口卯吉は、山岡義方とその妻ゑい子との娘(長女)の千代と結婚し、文太が生れている。文太については『河田烈自叙

伝」四五頁に述べられているが、陸軍薬剤中将に成った人である。もうこの文太あたりの世代になると、つい先年まで生き

ておられた人や現存の人の話になる。

 田口文太には親と淑子という二人の子供がいるが、淑子は嘉治真三と結婚した。真三の兄の嘉治隆一とその妻瑠璃子との

娘(娘は一人、息子は二人いる)である玲子は、森鴎外の娘の小堀杏奴の子供の(すなわち鴎外の孫にあたる)鴎一郎と結

婚している。

 『河田烈自叙伝』に拠れば、田口卯吉の最初の妻の千代は山岡義方の長女だが、天折したため、山岡義方とその妻ゑい子

との娘(三女と思われる)である鶴子とも卯吉は再婚しており、武二郎と柳三郎(リュウザブロウと読むのであろう)とが

生れている。

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                                           よし

 山岡義方とその妻ゑい子との娘(次女と思われる)である里起(リキと読むのであろう)は河田焦(震之助)と結婚して

いる。拙稿(補正・佐藤一斎先生年譜)の末尾になるが安政六年の項(一七六頁参照)に記す如く、休…は河田迫斎の第八子

                    しん

で、省処と号した。河田遥斎(名は興)の妻の紳(または績と書かれている)は、佐藤一斎の第八女であるから、河田休…は

                                       いさお

佐藤一斎の孫にあたる。河田休{とその妻里起との間の子供は五人(四男一女)で、長子は烈(霧渓などと号す)といい、大

蔵大臣や東亜海運㈱の社長その他の要職を歴任した人である。

 「河田烈自叙伝』四一頁には次の如く述べられている。

  田口鼎軒は余の叔父である。余の人格に最も影響を与へ其の人格を構成したとも云ひ得るのは、父母の性質を享けて居

 ることは勿論だが、後天的に最も感化を受けた人物は貫堂大爺と中井敬所翁と而して今一人は田口鼎軒であると思ふ。i

 略i其の田口慎左衛門の曽孫が卯吉即鼎軒だから、余とは再従兄弟となり、而も姓は異にして居ても佐藤氏の正系血統を

 引いて居ることも似通っている。鼎軒の先室千代女史は山岡義方の長女で、既ち先批の姉である。1略i其の良人鼎軒は

 自然余の義叔父に当る訳だ。斯く田口家と河田家とは重縁になる。-以下略ー

 右の回顧談の中で、田口卯吉は慎左衛門(佐藤一斎の長男の滉)の曽孫であるとしているのは、記憶違いか記録者の聞き

違いであろう。すなわち卯吉は慎左衛門の娘の町子と西山樫郎との間の子供であるから、曽孫ではなく孫である。但し、正

                  またい と こ

しくは曽孫ではなくて孫であるにしても、再従兄弟というのは当っている。

 先述の如く、卯吉の孫娘になる淑子の婚家先の嘉治家が森鴎外の孫に繋がるわけであるが、こういう繋がりを次ぎ次ぎと

                                                    あまね

求めて行くと中々興味深い。森鴎外は森周庵の曽孫になるが、周庵の子の時義は西氏の養子となっており、時義の子が周で

ある。詳しい資料がまだ入手できないので、或は正確を欠くかも知れないが、西周の養子の紳六郎(森鴎外の『西周伝』に

拠れば林洞海の六男)の姉は海軍中将男爵赤松則良の夫入である。則良の娘の登志子は森鴎外の最初の妻であった。赤松則

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良の夫人の姉は海軍中将子爵榎本武揚の妻たつ(多津とも書かれている)である。武揚の子の武憲は陸軍中将伯爵黒田清隆

(総理大臣などに任ぜられた人である)の長女の梅子と結婚している。なお、西周と赤松則良と榎本武揚とは、文久二年に

幕府から派遣された留学生仲間である。

5

 文化十年癸酉の項(一五六頁)に、『言志録』の書名は、『書纒』舜典の「詩言志、歌永言」から採ったものと考えられ

る、と記した。高瀬代次郎氏は『佐藤一斎と其門人』(南陽堂、一九二二年)に、書名の出典は、書経か論語か述斎の示唆

か、とされたが決定はされていない。ただ私は「言志後録』第二〇八章に「詩在言志。如離騒・陶詩、尤能言其志。今之詩

人、詩与志背馳。如之何。」とあるので『書経』を出典と考えたのであった。その後、たまたま古書蜂で入手した『言志録

                              よくたく

講話』(京文社書店、一九三一年)の解説(講述者不明)には、論語浴源の章を出典としており、再考した結果、私も『言

志録』の書名の出典は『論語』だと考えるようになった。

 すなわち『論語』公冶長篇に、

  顔淵・季路侍。子日、蓋各言爾志。ー略i子日、老者安之、朋友信之、少者懐之。

とあり、また、先進篇には、

  子路・曽哲.再有.公西華、侍坐。子日、以吾一日長乎爾、無吾以也。居則日、不吾知也。如或知爾則何以哉。i略i

 子日、何傷乎、亦各言其志也。-略-子日、亦各言其志也已 。1略1

なお、これは最近知ったことであるが、川上正光氏の訳註を加えた『言志四録日、言志録」(講談社学術文庫、講談社、一

九七八年)の解説(十二頁)にも『論語』の右二章を書名の出典としている。

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                                                  にのせ

 文政四年辛巳の項(一五九頁)には、五十歳の一斎が先螢故櫨を訪ねた旅について述べたが、一斎が京都北郊の二瀬村の

林氏の影堂(奉先堂)と、京都で先祖(信家.信定)の基(所在不明)に詣でたことを記した。この林氏の奉先堂は、林道

春の詞堂であって延宝二年甲寅(一六七四)に林鳳岡(信篤)の建立したものである。 (一説に延宝元年建立とするのは誤

りであろうと思われる。)

 信家.信定については、佐藤清隆氏の著書「家系宝鑑』(佐藤家系研究所、一九七七年補訂版)三〇〇頁所収の「佐藤一

斎略系譜」の一部分をここに引用して置く。

佐藤清信(道信長孟ハ左衛門母将.早修理大考美濃上有知鎗尾山城玉万五千石)-[鑓慧麟華

 貫を領す)1信家(新右衛門尉。若年にして残)i信定(久兵衛尉。池田備中守に仕う。)ー信広(武兵衛尉。池田氏

                                            ノブタケ

 絶家となり江戸に移住す。)  広義(勘平、号周軒。美濃岩邑藩々校儒官、家老三百二十石。)1信全(治助、鷹之助、

           ノブヨリ

 家老三百二十石。) 信由(勘平、号文永。家老三百五十石。)ー坦(捨蔵、号一斎、字大道。幕府儒官。)

                こうず ち

 なお、二世信清の兄の秀方は美濃の上有知の鈷尾山の二代目城主であり、子の方政が三代目城主となったが、方政は関ケ

原の戦いに岐阜城主織田秀信に従って出陣し、敗走したまま行方不明となったと伝えられ、秀方の家系は絶えているのであ

る。 

また、江戸への帰途、美濃の岩村に寄って長姉(小菅信久の妻)に会った旨を記したが、この長姉の名は、先述の如く千

恵である。

一50一

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 文政五年壬午の項(一六〇頁)の冒頭に、「〇一月二十七日、長姉千恵残す。乗政寺に葬らる。」を追加記入したい。

                                     しん

 また、天保四年癸巳の項(一六五頁)に、六月に門人の河田興(迫斎)に第八女の紳(または績)を配して学問上の後継

者とした旨を記したが、これは佐藤棍(立軒)の「府君行状」に拠ったものである。然るに、重野安繹(成斎)の「河田迫

                                  ひろむ

斎先生墓表」には、「五年、一斎先生以其第八女配先生。」となっており、河田煕(貫堂)の「先考恵迫府君行状」にも天保

五年となっている。この点については外に判断を下すべき材料を持たないので、疑問のままにして置く。

        8

                         りっけん

 嘉永五年壬子の項には、一斎の三男で嗣子となった棍(立軒)とその子孫などのことに就いて記したが、いま資料を補っ

て置きたいと思う。

 棍の母である梅閨儒入(庸)は、「梅閨儒人中根氏墓」(亀山章三編『近代先哲碑文集』第五巻、所収)に拠れば、高遠藩

儒の中根経世(字は君美、号は東平)の娘で、母は飯村氏である。安永八年己亥(一七七九)四月十三日の生れで、文化四

年(一八〇七)四月十九日に一斎と結婚し、二男七女を生んだ。一斎には既に亡った片岡氏(栞、字は如蘭、号は香圃女史)

との問に希楚(文化三年に天折).燕・鉱という娘が有り、片岡氏の後に結婚し離婚した坂本氏との間に滉(後に田口家の

養子となる)という息子がいた。従って庸は三人の子供がいる一斎のもとに嫁いで来たのであった。嘉永五年一月に七十四

歳を以て残したが、釈号は貞淑院といい、麻布の深広寺に葬られている。

 谷中天王寺にある佐藤棍の墓の碑文については、村山鐘太郎氏が筆写して送って下さった。左に掲げる。なお、句読は私

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が施した。

  君、諦棍、字亦光、号立軒、佐藤氏。初称新九郎。一斎先生緯坦之第三子。批中根氏。文政五季六月、誕於江戸八代洲

 河岸。少游水藩青山拙斎之門、歳余返。当是時、一斎先生家塾最称多士。君切劇於其間、才学大進。天保十二年、先生釈

 褐於幕廷、為儒官。君従徒於昌平鰻官舎。嘉永六年、命為助教、安政二年、為儒官補。同六年、先生卒襲家、陞儒官。文

 久元年、有故罷職。明治元年、徴拝太政官権少史。後屡経昇沈。意棲遅於渥灌小梅村、以賦誌准園自娯。十八年六月十八

           ド

 日病残。得齢六十有四。○於谷中天王寺塔苑。釈号日立誠院。君、性簡率易直、接人不設崖岸、経義固其箕褻、又能文

 ヨ                                  キ

 誌○嗜鉄筆、頗致精詣。著有誌経輯疏及立軒文集若干巻、蔵於家。配杉本氏、挙五男七女。第四子日善、嗣。次日猷、称

 佐伯氏、女、適上郎氏・吉田氏・高橋氏。余皆瘍。                     外甥 河田煕撰井書

 傍線1の誌は「詩」、准は意味不明で准にしても意味が通じない。或は「雅」かと思われるが未詳。傍線2の○は、「葬」

ではないだろうか。傍線3は、「詩而」とでもなるのではないだろうか。傍線4は「詩」である。

 また同じ谷中天王寺にある棍の妻の嘘(戸籍面ではきんとなっている)の墓の碑文は次の如くである。 (句読は私が施し

た。)

  濡人、誰瞼。杉本君忠温之女。配立軒佐藤先生、挙子女十一人、以明治四十一年十月十四日残。年八十一。葬谷中天王

 寺。

 この墓碑に刻まれた字と戸籍面とから判断すると、棍の妻の名は嘘(きん)であろうか。嘘は吟に通じギンという音も有

るが、戸籍の仮名文字に濁点は無い。従って、嘉永五年の項の九行目の「妻の吟は」は「妻の瞼は」とすべきかも知れない。

 また碑文に「杉本君忠温」とあるが、佐藤一斎の「侍医法印杉本君墓碑銘」には、「通称仲温」となっている。なお、嘘

は戸籍に拠れば文政十二年(一八二九)四月十日の生れで、杉本忠温(または仲温)の妓した天保七年(一八三六)には八

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歳であった。また、杉本忠温の三女であった。

 村山鐘太郎氏の資料に拠れば、佐藤棍の法名は立誠院殿克紹亦光居士、妻の瞼の法名は至誠院閑月妙吟大姉(資料には、

村山氏は吟としている)である。

                        コ                  こ つろ

 また、拙稿の嘉永五年の項の十行目末尾の「長女は上野家に嫁し」は「上郎家」の誤りである。

9

 安政六年の項(一七六頁)に河田迫斎とその子孫のことに就いて書いたが、河田迫斎のことに就いて、広瀬旭荘の書簡

(宛先も執筆年月日も不明)に次の如く書かれている(長寿吉・小野精一編『広瀬淡窓旭荘書翰集」、弘文堂書房、所収)。

  一、一斎之婿川田八之助御儒者二被抽、面首博士と呼ハ玄助ハ美男子也

   一斎婿ヲ選候時三人之中より其女選び出し候由

   めんしゆ

 右の面首とは好男子の意味で、一斎の娘の紳(または縷)が三人の婿の候補者の中から、迫斎を自分で選んだという噂が

有ったものと思われる。

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 昭和五十一年二月の『明治大学教養論集』通巻九十九号所収の拙稿「補正・佐藤一斎先生年譜」の後に、今日まで公けに

した一斎関係の拙稿は次の如くである。

ω 『縮印版.愛日楼文詩』所収の解説、文化書房博文社、一九七七年四月

② 講演要旨「佐藤一斎  人物と学問」(昭和五十三年度秋期東洋学講座、東洋文庫書報第一〇号、一九七八年)

Page 13: 佐藤一齋先生年譜補遺 URL DOI - Meiji Repository: ホーム...伝」四五頁に述べられているが、陸軍薬剤中将に成った人である。もうこの文太あたりの世代になると、つい先年まで生き

㈲ 「河田迫斎」(年誌『巌本」創刊号所収)巌本記念会、一九七九年六月

 以上で年譜の補遺をひと先ず終えたい。まだ不明の点も有るので、更に完全なものに近づけて行さたいと思っている。

                                         (昭和五十四年十一月識)

【附記】

 前回発表した拙稿「農の字に関する考察」(『明治大学教養論集』通巻=一八号所収、一九七九年三月)の中で、『甲骨

文字集釈』の著者である李孝定氏の名を、ノートの誤りで、すべて李考定としてしまった。原本を入手してこの誤りに気

づいた次第で、ここに訂正させて頂く。

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