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巻頭言 2006年に向けての私たちの使命 1 論文 国際平和と憲法~平和な市民社会とは? 5 国連改革をめぐる法と政治 11 プロジェクト活動報告 「市場移行と平和」 プロジェクトを閉じるにあたって 23 グローバリゼーションと体制移行―21世紀初頭の国際秩序とその矛盾― 25 平和教育研究プロジェクト 47 紛争解決教育の理論と実践:コロンビア大学ティーチャーズ・カレッジ 協調・紛争解決国際センター (ICCCR) の教育実践 51 研究所提供科目記録 米軍ヘリ墜落・辺野古・日米安保 63 ルポ Marines Go Home―辺野古・梅香里・矢臼別 美和子 75 書評 国際調査ジャーナリスト協会 (ICIJ) 『世界の<水>が支配される!』 81 藤原章生 『絵はがきにされた少年』 龍一郎 89 ベティ・リアドン/アリシア・カスベード 『戦争をなくすための平和教育』 93 国際平和研究所購入図書一覧 *PRIME (プライム) は、 明治学院大学国際平和研究所の英語名の略称です。

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巻頭言 2006年に向けての私たちの使命 勝 俣 誠 1

論文

国際平和と憲法~平和な市民社会とは? 宮 地 基 5

国連改革をめぐる法と政治 孫 占 坤 11

プロジェクト活動報告

「市場移行と平和」 プロジェクトを閉じるにあたって 中 山 弘 正 23

グローバリゼーションと体制移行―21世紀初頭の国際秩序とその矛盾― 岡 田 裕 之 25

平和教育研究プロジェクト 井 上 孝 代 47

紛争解決教育の理論と実践:コロンビア大学ティーチャーズ・カレッジ

協調・紛争解決国際センター (ICCCR) の教育実践 鈴 木 有 香 51

研究所提供科目記録

米軍ヘリ墜落・辺野古・日米安保 伊 波 洋 一 63

ルポ

Marines Go Home―辺野古・梅香里・矢臼別 松 � 美和子 75

書評

国際調査ジャーナリスト協会 (ICIJ) 『世界の<水>が支配される!』 阿 部 望 81

藤原章生 『絵はがきにされた少年』 斉 藤 龍一郎 89

ベティ・リアドン/アリシア・カスベード 『戦争をなくすための平和教育』 上 條 直 美 93

国際平和研究所購入図書一覧

目 次

*PRIME (プライム) は、 明治学院大学国際平和研究所の英語名の略称です。

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2005年にPRIME は何をしたか

21世紀の国際平和の条件を探り、 その知見を多

くの人々と共有する具体的手だてを考え出す。 こ

れが、 私たち PRIME の課題である。

そのために私たちは、 2005年度においてどんな

研究・教育活動をし、 どんなことをやり残したの

だろうか。 またその活動を通じて、 どのような新

たなテーマにぶつかったのだろうか。 こうした問

いを念頭において、 2005年度の PRIME の活動を

ごく簡単に振り返ってみたい。

2005年度を通じて、 私たちが国際平和の危機と

して把握し、 分析・考察の優先的テーマとしたの

は、 9.11以降の国際情勢であった。 とりわけ、 日

本国内の政治・文化状況の文脈からすると、 小泉

首相の靖国神社参拝の強行と在日米軍再編を巡る

主として沖縄での基地移転問題であった。

まず、 靖国参拝問題では、 数年前から参拝の形

式論を越えて、 私たちは日本のアジアに対する戦

争責任、 およびしばしばメディアによっても演出

されるナショナリズムの性格を東アジアの平和共

存の観点から分析・考察する試みをしてきた。

2005年度も、 東アジアの現代史や経済発展を専門

とする所員の見解を発表する勉強会などを通じて、

ともすると安易なメディア・キャンペーンや各国

政府のナショナリズム高揚策へと回収されない、

平和学からの接近と分析に力を注いだ。

戦争が出来る国づくりをどうやって止めさせるか

また、 沖縄基地問題も、 アジアの平和はもとよ

り、 国際平和の実現のために避けて通れない性格

と範囲を有しているという認識に立って、 1990年

代からすでに研究会とシンポジウムを重ねてきた。

2005年度も、 9.11以降の先制攻撃を辞さない米国

の目ざす戦争の分析と、 沖縄を中心として根強く

展開してきた平和教育の紹介に務めた。 宮地基の

本号の論文 「国際平和と憲法-平和な市民社会と

は?」 も勉強会の報告に基づいている。

学生に対する平和教育の拡充の一環として、

2005年度は、 PRIME の企画した 「沖縄・東アジ

ア・AALA の現在」 と題する連続講座が実現し

た。 沖縄県読谷村自治体の平和・文化村づくりの

経験、 嘉手納基地をかかえる宣野湾市の市長によ

る地域住民・市民が日々強いられてきた日米行政

協定の実態報告、 さらには近現代日本史における

沖縄が置かれた社会・文化状況などが講義内容と

して取り上げられた。

いずれも100名前後の学生・聴講生とともに、

この沖縄基地問題を、 同じ日本の直面する問題で

ありながら、 その負の側面を沖縄の人々にひたす

ら今日も背負わせている不条理ないし植民地的状

況を直視し、 その打開策を探る機会が作れたこと

は、 PRIME が今後も基地廃絶に向けて息長くこ

うした講座を続けていくための励ましとなった。

実際、 この講座の講義を快く受けられた伊波洋

― 1 ―

巻頭言

2006年に向けての私たちの使命

勝 俣 誠(国際平和研究所所長)

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一宣野湾市長が本誌 「PRIME」 に寄せた次の一

節は重い(1)。 少々長いが、 私たち PRIME の使命

の一つを改めて確認させてくれるものなので引用

しておきたい。

「(このように) 我が国が進んでいる戦争が出

来る国づくりは、 9.11テロから始まったのではな

く、 日米安保を広くアジア・太平洋に拡大した

1996年の日米安保共同宣言から始まっているので

す。 そして、 今も拡大し続けています。 今回の米

軍再編協議は、 仕上げになっていくものと思われ

ますから、 沖縄や神奈川など米軍基地のある地域

だけの問題ではなく米軍再編問題が全国民的課題

なのだということを知って欲しいのです。」

そして、 この米軍再編問題は、 米国による対テ

ロ全面戦争をにらんだ世界軍事戦略の一環として

位置づけられるものである。 米国の安全保障の名

のもとでの戦争の論理に、 東アジアが巻き込まれ

ないようにするにはどうしたらいいか。 そして、

非戦の論理をどうやって地域に根ざすことが可能

なのか。 国連の役割はどこにあるべきか (本号、

孫占坤所員の論文 「国連改革をめぐる法と政治」

参照)。

この問いの取り組みは政治家や官僚や政治学者

だけに任すには余りに重要な課題である。 先ず、

広く人々の論議に載せて、 国家の論理にも、 市場

の論理にも安易に回収されない市民社会をキーワー

ドとして考えてみよう。 これが、 PRIME により、

この2月開催した国際シンポジウム 「東アジアに

公共空間を-人々 『アジア共同体』 を考える」 の

狙いであった。

同シンポジウムの発表と討論内容は、 2006年度

の 「PRIME」 誌に掲載予定であるが、 平和学・

平和教育の視点から浮かび出た2つの論点を強調

しておきたい。

一つは、 東アジア近現代史の文脈において、

「共同体」 がまず先にありきの論議は性急である

ということである。 まずは中国、 韓国、 台湾、 少

数民族など様々な側面からの歴史的知の共有作業

が、 困難だが、 人々の東アジア間の信頼醸成にとっ

て不可欠であろう。

この点に関し、 このシンポジウムにフランスか

ら参加した報告者は、 アルジェリアのようなかつ

ての植民地国と旧宗主国フランスの関係において、

またフランス社会内においてその地域出身の移民

と他のフランス人との間で、 同じような問題に直

面していることが指摘された。 そして、 歴史は誰

によって記述され、 個別ないし集団で生きられた

記憶とどう交叉するのか、 あるいはしないのかと

いった接近上の問いも突きつけていることが喚起

されたことは、 官民一体のナショナリズムづくり

への誘いに対し、 どう共生の・共有の論理を打ち

出していくかを探る上で有益なコメントであった。

もう一つは、 東アジア経済のグローバル化は、

域内住民の生活空間はもとより、 地球環境にとっ

ても深刻な影響を与えかねないという懸念が、 東

アジアに公共空間を創出していく点でいかに現実

のものになっているかを確認できたことである。

持続可能な社会をどのように構想し、 実現して

いくかは、 エクアドル (2005年5月23日の研究会)

やタイ (2006年2月14日の研究会) など世界各地

での社会的実験とも共有すべき問いであり、

PRIME の今後も追求すべき研究課題の一つであ

る。

東アジアの直面する平和にかかわる諸問題の考

察に加えて、 2005年度は、 またグローバル化現象

に対して、 どうしたらより公正な社会を実現でき

るかというテーマも、 積極的に取り組まれた。 ま

ず前述の 「沖縄・東アジア・AALA」 の連続講

座で、 中南米の環境と文化を守る人々についての

現地報告および世界社会フォーラムとアフリカ地

域での社会運動の紹介と評価がなされた。

また、 「PRIME」 誌22号で掲載された西アフリ

カ 「最貧国」 の社会調査報告会 (2005年6月29日

の研究会) も同じ問題意識から企画された。

巻頭言

― 2 ―

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とりわけ、 グローバル化現象の深まりの中で、

2005年度において注目すべき出来事は、 南米地域

の動きであった。 現行のグローバル化に対して、

人々が別のシナリオを要求しだし、 よく言われる

「もう一つのグローバル化」 がもはや単なる社会

運動のキャンペーンにとどまらず、 一つの現実と

なってきたことである。

南米から生まれるもう一つのグローバル化

実際、 近年ブラジル、 アルゼンチン、 ウルグア

イ、 ベネズエラ、 チリ、 つい最近ではボリビアで

と次々と 「左翼」 ないし中道左派の政権が誕生し

ている。 この広域 「左傾化」 現象をどうみたらい

いのだろうか。

よく聞くのは南米において 「左」 の政権がカリ

スマ的指導者と巧みな言説とともに登場すると、

膨大な貧民層の要求の高まりを押さえきれず、 ば

らまき支出の結果、 財政赤字、 インフレ、 外国企

業の撤退などで経済・政治的に行き詰まってしま

うという悲観的なシナリオである。

南米諸国の過去の歴史にはそうしたことが往々

にしてあった。 しかし、 今進行中の地殻変動をい

わば大衆迎合型政治の登場と決めつけ、 思考停止

していいのだろうか。 そして、 何よりもここでい

う 「左翼」 とは一体、 具体的にはどんなことを意

味しているのだろうか。

そもそも 「左翼」 とは、 フランス革命で誕生し

た国会で、 議長席から見て左側に貧困層や農民の

利害を代表する急進派が、 右側に裕福な商人など

から成る穏健派が着席したことに由来する。 既存

概念での左折とか右折とかという交通整理的評価

より、 南米の地殻変動の中に従来なかった側面を

見出すことの方が大事で、 変化をよりよく理解で

きるように思える。

新しい側面の第1は、 いずれの大統領も、 20年

近く続いた対外債務返済で強いられた生活苦のも

とで、 軍人クーデタではなく多様な社会活動の経

験を駆使して、 民主的に選ばれていることだ。 南

米における議会制民主主義の歴史は長いが、 それ

はエリート中心の形式的民主主義で、 腐敗の歴史

もまた長いのだ。 民主主義は数年に一回の熱狂の

中での投票で実現するのではなく、 日々の社会、

政治、 文化的活動によって活性化するという参加

型民主主義の新潮流を示唆している。

第2は経済面で、 自分たちの国の資源をひたす

ら先進国に売るのではなく、 自国や地域内で先ず

利用すべきというナショナリズムが多く新政権で

見られることだ。 その代表的事例が、 ベネズエラ

やボリビアである。

南米第一の産油国ベネズエラは欧米の巨大石油

会社に対抗をするために考え出された石油輸出国

機構 (OPEC) の創設に尽力した資源ナショナリ

ズムの伝統を有している。 新政権は貧困層の教育・

医療の拡充に石油収入を重点投資する政策を打ち

出している。 この1月の講演会でイシカワ・駐日

ベネズエラ大使は、 新政権が多くの国民の生活改

善に具体的に寄与する社会開発を実行しているこ

とについてスペイン語で熱っぽく語った。

ボリビアの先住民で初めての大統領も、 自国の

天然ガス資源を国民の半数以上を占める先住民か

らなる貧困層に活用することを全面に出している。

同国の議会を取材したジャーナリスト(2)は右には

ネクタイで正装したスペイン系白人とその混血の

議員が目立ち、 左には色彩豊かな民族衣装をまとっ

た先住民議員が陣取っていると描写した。 この国

では、 左翼とは、 圧倒的多数の貧困層を代表する

人々ということになる。

だからといって、 これら 「左」 の政権は民間部

門の力を否定しているわけでなく、 かつてなく南

米大陸内の民間投資や貿易活性化のための地域協

力を進めている。

今年、 メキシコやエクアドルでも選挙が予定さ

れ、 こうした地域からの目覚めが選挙の争点とな

ると思われる。

巻頭言

― 3 ―

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1982年、 メキシコが債務を返済できなくなり、

南米の債務危機の第一号となった。 以降、 債務国

に国際通貨基金と世界銀行が実質的に課した早期

借金返済策はしばしばネオリベラリスモと呼ばれ

るが、 この対策は20年近くの実施を通しても功を

奏しなかった。 人々がまともに暮らせる別のやり

方に挑戦しようとしているのがこれらの動きの特

徴だ。 もっとも、 これらの社会的実験は各国の歴

史的背景によって異なるし、 すんなりとは進まな

いかもしれない。 しかし、 より人間的な世界を目

ざす試みとして PRIME による平和学のアジェン

ダの一つである。

今年目ざすPRIMEの3つの方向

さらに2005年は、 2001年より精力的に続けられ

てきた中山弘正所員を代表とする 「市場移行と平

和」 研究プロジェクトが終了した年であった。 同

プロジェクトは旧ソ連邦期からのロシアについて

の深遠かつ多岐にわたる分析・考察に基づいた研

究を核とし、 旧東欧、 アジア、 中南米 (キューバ

等) の政治・経済変動も取り上げられた。

同プロジェクトのコアメンバーの一人であられ

た岡田裕之報告は、 中山所員の言を借りればまさ

に 「『市場移行と平和』 というプロジェクトその

ものを包摂するもうひとまわり巨視的な視座」 か

らの問題提起である。 私たち PRIME は、 今後の

平和学のアジェンダの一つとして、 この課題を重

く受けとめていきたい。

以上、 2005年の主たる PRIME の研究・教育活

動を紹介したが、 2006年度は、 前年度の課題を踏

まえつつ、 主として3つの方向を目指したい。

第1は、 発信する平和学・平和教育として、 今

まで以上に日本語以外の言語にもよる刊行物はも

とより、 ホームページの拡充、 開かれた勉強会を

一層目指すことである(3)。

第2は、 昨年と同様 (本号の井上孝代所員およ

び鈴木有香氏の平和教育研究報告を参照)、 学生

が平和学の面白さを理解できるよう、 学生との対

話、 共同イベントなど、 平和教育のキャンパス内

での拡充を実現することである。 平和についての

理解や考察や実践において、 しばしば世代ギャッ

プが指摘されるが、 そのギャップを逆に多面的に

平和を考える世代間交流の入り口として積極的に

評価していくべきではないだろうか。 2005年度は、

各種展示・映画上映会に加えて、 横浜キャンパス

にて、 昼休みを利用して短時間ながら、 時事問題

を通して、 各所員・教員が学生とフリートークす

る場を設け、 19回にわたり実施した (Café du

PRIME)。 2006年度も4月から継続する。

3つ目は、 とりあえず、 関東地域おける他の平

和学研究をしている大学機関とのネットワークの

拡充である。 すでに、 立教大学の平和コミュニ

ティー研究機構、 明治大学の軍縮平和研究所、 恵

泉女子大学の平和文化研究所などと平和学・平和

教育面での交流を手がけだしたが、 今年度は、 そ

の輪を広げたい。

また、 持続可能な社会の現体験を通じて学び取

るためのサブシステンス合宿、 マイナス成長に向

けてのユートピア構想などのワークショップも予

定している(4)。

(1) 本号72~73頁。

(2) 「Afrique Asie」 誌、 2006年1月号、 p.46

(3) 例えば、 「心に刻む」 所収、 1995年6月の学院

長の告白は、 英語以外に、 今年度、 スペイン

語、 ポルトガル語、 スワヒリ語にも訳出され

た。

(4) 2006年6月11日の日本平和学会春季大会 (明

治学院大学白金キャンパスにて) では、 「農は

平和にどう結びつくか」 というテーマのセッ

ションを予定している。

日本平和学会サイト

http://wwwsoc.nii.ac.jp/psaj/

巻頭言

― 4 ―

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自民党の新憲法第一次素案の特徴

法学部で憲法を担当している宮地です。 2005年

7月7日に自民党の新憲法起草委員会により発表

された 「新憲法起草委員会・要綱 第一次素案」

を、 発題の手がかりの資料としたいと思います。

内容の特徴として、 「前文」 や 「国の原理」 と

いった抽象的な部分では、 「国民が誇り得る」 と

か 「日本の国家目標を高く掲げる」、 「力強く国を

発展させてきた」 といったナショナリズムをあお

る表現が非常に多くなっており、 憲法の具体的な

内容を変えるところは逆に非常に少なくなってい

ます。 今までの憲法の中味が具体的に変わってい

ると言えるのは、 「安全保障及び非常事態」 の部

分です。 「自衛軍の保持」 を明記し、 「自衛軍が国

際の平和と安定に寄与することができる」 という

ことが挙がっています。 これは従来の9条とは全

く違った内容になるということを意味します。

それ以外の部分は、 解釈が分かれていた部分、

様々な解釈があった部分について、 政府が主張し

てきた解釈を肯定する、 あるいは事後承諾をする

という形になっています。 例えば天皇制の中に

「国事行為」 と 「私的行為」 以外の行為として

「象徴としての行為 (公的行為) が幅広く存在す

る。」 とあります。 これは憲法学における解釈で

は、 それが認められるかどうかについて大きく学

説が分かれていた部分です。 政府は公的行為が当

然認められるべきだという立場に立っており、 そ

れを条文上、 公認しようということです。

政教分離についても同様のことが言えます。

「政教分離は維持すべきだが、 社会的儀礼や習俗

的・文化的行事の範囲内であれば許容される。」

こういう学説は実際に存在してきたわけで、 判決

でも地鎮祭事件(1)のように広く認めたものと、 あ

るいは玉串料訴訟(2)のようにかなり厳格に絞った

ものがあります。 これについて、 政府が従来主張

してきたような幅広い習俗的・文化的行事を認め

る解釈を憲法上、 明文化しています。

こうしたものを除くと、 国会・内閣・裁判所と

いう、 いわゆる統治組織にかかわる部分は、 ほと

んどが現行どおりにするという内容になっていま

す。

新憲法草案の背景

この改正案がどのように評価できるのでしょう

か。 現在、 盛り上がっている改正論は、 実は1990

年代になって強く論じられるようになってきたも

のです。 その背景には冷戦崩壊によって西側の軍

事同盟の役割が変化したことがあります。 従来の

東側の軍事同盟と対峙して冷戦構造の一翼を担う

という役割にかわって、 武力による平和維持構想、

つまり西側軍事同盟の大きな軍事力を実際に行使

して、 内戦・テロリズム・民族紛争といった限定

的な武力紛争を鎮圧し、 平和を強制的に回復する

のだという構想が冷戦以降に一般化してきました。

そこに国際貢献論がかぶさり、 日本もその構想に

協力するのだという方向が明示されてきました。

― 5 ―

論 文

国際平和と憲法~平和な市民社会とは?~

宮 地 基(法学部教員)

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それからレーガン-サッチャー革命、 あるいは中

曽根政権以降、 世界的に 「新自由主義」、 平たく

言うと 「小さな政府」 を目指す構想が1990年代に

入って日本で一般化してきたことがあります。 日

本国憲法の基本的理念は社会国家構想、 福祉国家

主義です。 政府の積極的な援助によって国民の基

本的な生活を維持していこうという、 憲法25条に

書かれているような構想に基づいて成り立ってい

ます。 確かに、 最近一般的になってきた新自由主

義の小さな政府の方向とは矛盾とまでは言いませ

んが、 そぐわないところを持っていることは事実

です。

さらに現実政治的な背景で言えば、 細川内閣以

降のいわゆる政治改革、 具体的には選挙制度の改

革によって小選挙区中心の選挙制度が衆参ともに

一般化してきたことにより、 保守の2大政党体制

が整ってきました。 これにより、 従来の55年体制

の時代においては、 日本社会党を中心とした、 い

わゆる護憲勢力と呼ばれる政党が、 少なくとも衆

参両院の3分の1以上、 つまり改憲を阻止できる

勢力を持っていたのに対して、 現在の状況では、

自民党と民主党とが合意できれば憲法改正が客観

的に可能になってきたのです。

戦後の改憲論の変遷

この1990年代の改憲論の特徴として、 日本国憲

法の全面的改正論が復活したということを挙げる

ことができます。 日本国憲法の改正論というのは

日本国憲法制定直後から存在しており、 噴き出し

てきたのは何といっても講和条約が成立した後の

1950年代です。 占領が終結して、 追放解除によっ

て戦前の指導層が復帰したことによって、 極めて

復古主義的な改憲論、 つまり押しつけられた憲法

を廃棄して、 自主的な憲法を制定するんだという

改憲論が出てきました。 ですから当然これは日本

国憲法の全面的な改正の主張です。 その主張を主

に担ったのは戦前の指導層ですから、 当時の全面

的改憲論の主張は明治憲法下の制度を大幅に復活

させようという復古主義的な欲求を含んでいまし

た。 それから占領終結と安保条約の締結に伴って

再軍備を主張するということで9条の改正論が当

然含まれていたわけです。

ご承知のように、 鳩山内閣の下での小選挙区制

の導入の失敗により、 55年体制が成立することに

よって、 この動きが頓挫します。 1960~70年代に

かけては経済成長至上主義の下で改憲志向という

のが非常に沈静化していきました。 改憲派が言う

ところの憲法改正がタブーになった時代というわ

けです。

その背景の一つには、 高度経済成長によって経

済至上主義になり、 55年体制によって左右両派の

対立が、 少なくとも革新勢力が3分の1以上持っ

ているという形で膠着してしまったこと、 それと

同時に、 例えば憲法9条を改正しなくても自衛隊

を持てるという形で非常に柔軟な憲法解釈が行わ

れるようになって、 それを最高裁判所が黙認して

きたということがあります。 憲法違反の国家行為

に対しては違憲審査によって最終的に最高裁判所

がそれを覆すというのが本来のルールでありまし

たけれども、 最高裁判所は一貫して司法消極主義、

政治的な争いに介入しないという立場をとってき

たので、 非常に柔軟な憲法解釈が定着してきまし

た。 したがって事実上、 改憲の必要がなくなって

いったというのが1960~70年代の傾向だったわけ

です。

1980年代になって日本が経済大国化して、 新自

由主義が台頭し、 さらに冷戦構造が揺らいできて、

国際貢献を求められるという状況のもと、 徐々に

改憲論が復活してきます。 ただ1980年代初期の改

憲論というのはほとんどの場合、 日本国憲法の価

値そのものは既に定着している、 だから1950年代

のような、 押しつけ憲法だから破棄して新憲法の

採択だという単純な新憲法制定論ではなくて、 日

本国憲法の基本的な価値、 基本的な制度を前提と

国際平和と憲法~平和な市民社会とは?~

― 6 ―

Page 8: 巻頭言 - Meiji Gakuin Universityprime/pdf/PRIME23-1.pdf · 軍再編協議は、 仕上げになっていくものと思われ ますから、 沖縄や神奈川など米軍基地のある地域

した上で、 部分的に時代に合わせて修正するんだ

というものです。 特に9条が、 そのような主張の

中心となりました。 これに対して、 明治憲法下の

制度を復活させようという復古主義的傾向は1980

年代には影を潜めていました。

1990年代の改憲論の特徴

ところが1990年代以降の改憲論は再び全面改正

論になりました。 なぜ全面改正論になったのかと

いうところは、 大きく二つの見方に分かれていま

した。 一つは、 改憲のねらいは9条改正であるが、

1980年代の経験で9条改正だけを主張しても大方

の賛成が得られないということがわかった。 そこ

で、 憲法というのは妥協の産物ですから、 今の憲

法が完璧だと思う人はおよそ一人もいないわけで、

いろいろな部分に不満を持っている人がいます。

その人たちの意見を総花的に盛り込むことによっ

て、 多くの人がどこか1カ所には賛成できるとい

うような全面改正論をつくり上げ、 結果的に9条

改正を成立させようとしているのだ、 つまり9条

以外の部分はいわば隠れ蓑なんだという議論があ

ります。

もう一つは、 1990年代以降の国際情勢、 および

新自由主義改革の進展によって、 もはや日本国憲

法の持っている制度体系そのものが改革について

いけなくなってきた、 これ以上改革を進展させる

ためには、 日本国憲法を根本的に改正することが

必要になったんだという見方です。 この二つの見

方に分かれていました。

特に後者の見方、 つまり全面改正が必然的に主

張されるようになってきたという見方の論拠とし

て、 従来全く提起されてこなかった統治機構部分

の改正があります。 従来の改憲論に全くなくて、

1990年代にあらわれてきたのは、 国会・裁判所・

内閣といった統治構造そのものを改正しようとい

う主張です。 例えば首相公選制度の導入や、 昨年

の自民党の憲法調査会が出した一院制案、 つまり

参議院を廃止しようというものです。 それから最

高裁が非常に司法消極主義的であったということ

から、 いっそ憲法裁判所を設置すべきだという主

張も、 1990年代になって初めて出てきました。

それから基本的人権の部分について、 従来は義

務の規定を強化すべきだという保守主義的な主張、

復古主義的主張が非常に多かったのに対して、 む

しろプライバシーの権利、 環境権といった新しい

人権規定をつくるべきだといった主張が出てきま

した。

こういうものの背景に、 現在の政府が進めよう

としている改革に、 もはや日本国憲法というのは

そぐわなくなった、 その結果として出てきた全面

改正論だという見方が一方でありました。

そこで、 さっきの新憲法起草委員会の素案に戻

りますが、 私の見方では、 どうやらこれは結局

「化けの皮がはがれたな」 と。 新しい人権の主張

もすべて背景に退きました。 統治機構部分につい

ては全部現行どおりになりました。 だから結局残っ

たのは、 9条改正論とナショナリズム的な傾向、

これは前文の部分だけです。

はっきり言いますとナショナリズム的傾向を持っ

ている部分というのは、 ここを憲法に盛り込んだ

から具体的に何が変わるというわけではありませ

ん。 憲法というのは法ですから、 今の憲法ではで

きないことをできるようにするのが本来の憲法改

正の目的であるはずです。 前文の部分に、 日本の

伝統がどうのとか、 国を愛する心がどうのと書い

たからといって、 だから何ができるようになると

か、 今までできなかったことができるようになる

とか、 あるいは今までできたことができなくなる

とか、 そういう憲法の法としての中身は何も変わ

ることはありません。

そうすると結局、 1990年代になって全面改正論

が出てきたのは、 それは9条を改正するために、

ナショナリズム的傾向をあおることによって、 改

正への賛同をふやすことが目的だったのではない

国際平和と憲法~平和な市民社会とは?~

― 7 ―

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かという見方が優勢になったのではないかという

気がしています。

憲法9条の歴史的背景

そこで当然問題として出てくるのは、 9条改正

というのがなぜ必要だと主張されるようになって

きたのか、 その背景は何なのかということ、 それ

によって一体何が変わろうとしているのかという

ことです。

結論的に言いますと、 9条改正の背景には、 日

本が持っている安全保障構想そのものの大きな変

化が存在していると言うことができると思います。

日本国憲法9条は第1項と第2項からなっており、

第1項の部分で 「戦争を永久に放棄する」 という

規定、 第2項で、 その目的を達成するために戦力

を持たない、 「戦力の不保持」 の規定が置かれて

います。

比較法的に見て、 あるいは憲法史学的に見て、

9条1項の戦争の放棄それ自体は決して珍しい条

文ではありません。 近代立憲主義の初期から憲法

というのは権力担当者、 初期の時代には主に国王

ですが、 こういった国家権力担当者の恣意的な行

為によって戦争が起こることを防止しようという、

一つの大きな役割を担っていました。 ですから侵

略戦争を禁止する規定、 あるいは議会の同意なし

に戦争を起こすことを禁止する規定というのが幅

広く存在していたわけです。

ただ実際には、 それ以外の原因で起きる戦争は、

典型的なのは植民地争奪に端を発する帝国主義戦

争ですが、 それでは防げなかったわけです。 その

ピークになったのが第一次世界大戦だったわけで

す。 第一次世界大戦の結果、 国家間の対立が戦争

にエスカレートすることを防ぐために、 条約、 そ

れに基づいて作られる国際機構、 具体的には国際

連盟の力によって戦争を防止するという構想が作

られました。

つまり、 当時の国際連盟規約によりますと、 国

家間の紛争が起きた場合、 連盟加盟国は仲裁裁判

や司法裁判、 あるいは最終的には連盟理事会への

付託を国際法上、 義務づけられます。 裁定が下っ

てから少なくとも3カ月を経過するまでは加盟国

が勝手に戦争に訴えることが禁止されます。 もち

ろん連盟規約そのものでは、 3カ月を経過しても

どうしても相手が言うことを聞かない場合、 最後

の手段として戦争に訴えることは禁止されなかっ

たわけですが、 それも放棄しよう、 やめようとい

うのが1928年の不戦条約だったわけです。 不戦条

約では、 いかなる理由があろうとも国際紛争解決

のために戦争に訴えることを否定するということ

が申し合わされます。

これはあくまでももちろん国際紛争解決のため、

つまり紛争というのは戦争に至らない国家間のも

めごとです。 武力行使が始まってしまうとこれは

戦争になるので、 戦争に至らない紛争の段階にと

どまっているにもかかわらず、 どちらかが戦争に

訴えた場合、 それを国際法上、 違法とする、 だか

ら逆に相手から違法に戦争に訴えられた場合、 防

御のための戦争というのは当然ここには含まれて

いなかったわけです。 しかし不戦条約の構想とし

ては、 すべての国家が不戦条約に加盟すれば自分

の方から戦争に訴える国は存在しなくなりますか

ら、 相手から戦争を仕掛けられたときに防衛のた

めに戦争に訴える必要もなくなるだろうというの

が不戦条約の構想だったわけです。

ところが第二次世界大戦で明らかになったこと

は、 いくら国際的な申し合わせをしても、 それを

真っ向から踏みにじって、 自分のほうから国際紛

争を解決するために武力に訴える国があるという

ことです。 それがドイツや日本であったわけです。

その結果として国連による集団安全保障体制とい

うものができました。

国連による集団安全保障体制では原則として、

加盟国が単独で武力による行使、 武力による威嚇

を行うことが一般的に禁止されます。 国連の集団

国際平和と憲法~平和な市民社会とは?~

― 8 ―

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安全保障体制では国連加盟国の中に国際法に違法

して自ら武力を行使したり、 あるいは戦争に訴え

る国があれば、 国連安全保障理事会の議決に基づ

いて、 すべての加盟国が結束して、 その違反国に

対して、 最終的には武力行使も含めて制裁を加え

ます。 したがって、 各国家が自分の判断で武力行

使をすることは原則として許されません。 許され

るのは、 安全保障理事会の対策が打ち出されるま

でには時間がかかるため、 その間、 暫定的に自衛

のための武力行使をすることだけは認められます。

その結果、 各加盟国は、 自分のほうから国際紛

争を解決するために武力を行使しないということ

を国際法上、 約束させられるわけです。 それを各

国は憲法で約束を果たしていきます。 1946年のフ

ランス憲法、 イタリアの憲法、 ドイツの憲法、 い

ずれも国際紛争解決、 あるいは侵略目的のために

自分のほうから武力を行使することを禁止する条

文を憲法で持っています。 日本国憲法においても、

国際紛争を解決するために武力行使しないという

のは、 現在の国際法上の義務を果たすための規定

というふうに考えることができます。

特徴的なのは9条2項の戦力の不保持です。 そ

の目的を達成するために戦力を持たない。 戦力を

持たなければ、 逆立ちしても、 自分のほうから武

力を行使することはできません。 そういう意味で、

まさに9条2項に書いてあるように、 前条の目的

を達成するためにこれほど確実な方法はありませ

ん。 その反面として、 戦力を持たなければ、 ほか

の国から攻められたときに、 自国を守ることもで

きなくなります。 したがって9条2項の趣旨は、

攻められたときに自国を守ることができないのは

覚悟のうえで、 自分のほうから絶対に武力を行使

しないことを確実にしておくんだということです。

そういう意味で、 かつて政府が一度国際的な約束

を破って武力を行使した国家としての責任を果た

す。 それを国際的に明らかにするという意味を持っ

ていたわけです。

冷戦崩壊、 有事立法制定そして9条改正へ

しかし、 周知のように、 現実には約束は果たさ

れてきませんでした。 冷戦構造の下で国連の安全

保障理事会を中心とした集団安全保障システムそ

のものが機能不全に陥りました。 現実の平和の維

持は東西冷戦構造、 互いに相手を破壊し尽くせる

だけの武力を持ってにらみ合う、 その結果、 お互

いに手が出せないという恐怖の均衡によって維持

されてきました。 そこで西側の軍事同盟に参加す

ることによって日本の安全を守るんだ。 そうなる

と軍事同盟に参加するわけですから、 自らも軍事

力を持たざるを得ません。

それでも9条が改正されなかったことには、 そ

れなりの理由があるだろうと思います。 つまり9

条の本来の目的は、 自分のほうから武力行使をし

ない。 それを絶対確実にするために戦力を持たな

いということにありますから、 冷戦下ではいくら

自衛隊を持っていても、 つまり事実上の戦力を持っ

ていても、 これを自分のほうから使うつもりは全

くありませんでした。 これはあくまでも冷戦構造

における抑止力ですから、 相手に見せつけること

によって、 相手の攻撃を思いとどまらせよう、 自

分のほうから使うつもりは全くなかったといって

もかまいません。

それを実証することとして、 有事立法が制定さ

れなかったということを挙げることができます。

有事立法というのは実際に攻撃を受けたときに、

防衛するための手続を定めておくもので、 近年やっ

とできましたけれども、 自衛隊ができた後も、 こ

れは一貫して作られてきませんでした。 使うつも

りがなければ不要なものです。 むしろ使い方を定

めた法律がないことによって、 近隣諸国に対して、

我々は使うつもりがないということをアピールす

る効果を持っていました。

ところが冷戦が崩壊したことによって、 この前

提がすべて崩れました。 つまり冷戦が崩れた結果、

西側の軍事同盟は、 その軍事力を実際に使って地

国際平和と憲法~平和な市民社会とは?~

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域紛争やテロといった、 限定的な紛争に介入して、

それを鎮圧するという目的を掲げました。 そして

日米安全保障条約もいわゆる新ガイドライン、 そ

れに基づく周辺事態法にあらわれているように、

日米安全保障条約の役割もはっきり変わりました。

従来は冷戦構造の一翼を担う、 太平洋地域、 極

東地域における西側の軍事同盟の一部として、 東

側の軍事力に対する抑止効果を期待するというの

が大きな役割でしたが、 そうではなくて、 新しい

日米安全保障条約の役割は、 日本の周辺地域で限

定的な武力紛争が発生した場合に、 日米が協力し

てそれに対処する、 つまり実際に武力、 軍事力を

使うことになります。 場合によってはこちら側が

先にでも使います。

そうなると、 武力を使えば当たり前の話ですが、

相手から反撃を受けます。 こちらだけ武力を行使

して相手から武力を行使されないというのはあり

得ないわけです。 そこで、 有事立法が初めて本当

に必要になったわけです。

こうなりますと、 もはや国際紛争を解決するた

めに武力を行使するわけですから、 9条の根本的

構造と矛盾することになります。 もはや9条の解

釈によって自衛隊の存在と、 新しい日米安全保障

条約の役割を糊塗することができなくなりました。

だから、 これ以上進めるためにはどうしても9条

改正が必要になる。 そして、 それを現実的に可能

にするためにナショナリズムをあおって、 それを

可能にしようとする粉飾をしているのが、 今の憲

法改正素案の意味なのではないでしょうか。

*本原稿は、 2005年7月13日に国際平和研究所

主催で行われた座談会における講演記録をも

とに、 講演者により加筆訂正されたものです。

(1) 最高裁大法廷昭和52年7月13日判決・民集31

巻4号533頁。

(2) 最高裁大法廷平成9年4月2日判決・民集51

巻4号1673頁。

国際平和と憲法~平和な市民社会とは?~

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はじめに

2005年12月24日、 クリスマス・イブにあたるこ

の日の零時10分頃、 ニューヨークを流れるイース

ト・リバー沿いの国連本部で一つの決議が投票な

しで採択された。 これによって、 向こう2年間

(2006~2007) にわたる国連の通常予算総額は37

億9千万ドルであると承認されたが、 国連はその

全額を自由に使えるわけではなかった。 決議に含

まれる 「例外的措置」 (Exceptional Measure)

によれば、 国連にまず半年の費用を意味する9億

5千万ドルの使用を認めるが、 それ以上の使用に

ついては新たに国連総会の承認を得なければなら

ない(1)。

決議の採択が、 国連の職員をはじめ、 ニューヨー

ク駐在の各国の外交官達に暫しの安らぎを与え、

彼らは家族ともども目前に迫るクリスマス及び新

年を過せたであろう。 しかし、 「二年ごとに編成

され、 会計期間は二暦年」 とされる国連通常予算

の制度(2)に照らす場合、 このような 「暫定予算」

の決定は国連の歴史の中ではじめてであり、 その

限りで、 イブの日の採択は、 成立60年を迎える国

連にとって 「異例尽くし」 の出来事となったとい

うべきだろう。

この暫定予算措置は日本、 カナダ、 ニュージー

ランド、 オーストラリア、 米国の5カ国提案によ

るものであり、 いわば、 予算確定をめぐる米国と

国連及び多くの途上国との1ヶ月以上続くバトル

にピリオドを打つための 「停戦協定」 であった。

「国連事務局の改革」 を国連改革の最重要部分と

位置づける米国は、 改革の具体的成果を生み出す

ため、 当初はより短い期間である4ヶ月分の暫定

予算を提案した。 これに対して、 事務総長と 「グ

ループ77」 が代表する途上国の多くは、 改革に賛

成しつつ、 通常予算を改革の 「人質」 にすること

に強く反発した。 かつてない異常事態を打開する

ため、 12月22日頃、 日本が上記諸国に働きかけ、

妥協案を提出し、 それは最終的に総会によるコン

センサス方式で採択されたのである(3)。

通常予算をめぐるこのような前代未聞の激しい

バトルが示すように、 いわゆる 「国連改革」 とい

う問題は、 国連自身にとってもまた各加盟国にとっ

てももはや避けては通れない現実的な検討課題と

なってきている。 この問題は、 戦後60年を迎えた

国連を大きく揺るがせただけではなく、 中国では

日本の常任理事国入りに因んだ大規模な反日デモ

が起きる等、 悪化しつつある日中関係を一層冷却

化させ、 アジア地域全体の平和と安定にも大きな

影を落としている。

本稿は、 このように単に一国際組織―人類史上

最大規模で最も包括的ではあるが―の民主化、 効

率化だけではなく、 グローバルまたは地域の平和、

安定にも大きな意味合いをもつという問題意識か

ら、 「国連改革」 問題に若干の考察を試みたい。

以下、 まず、 そもそも 「国連改革」 とは何かを確

認する。 それから、 昨今の改革議論を理解する前

提として、 これまで、 どのような国連改革があり、

― 11 ―

論 文

国連改革をめぐる法と政治

孫 占坤(国際平和研究所所員)

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それが何を意味しているのかを明らかにする。 そ

の上で、 近年盛んに議論されている国連改革の内

容と本質が何であるかを検討する。 更に、 国連改

革をめぐる日中間の齟齬が何を意味するのかを分

析する。 最後の 「おわりに」 において、 今後の

「国連改革」 の可能性及び国連における日本の役

割について若干意見を述べたい。

1. 国連改革とは何か

いささか蛇足と思われるだろうが、 「国連改革

とは何か」 という問いの定義ないし回答はそれほ

ど易しいものではない。 というのは、 いわゆる国

連改革について、 国または論者によってそのイメー

ジや目標が違うからである。 例えば、 日本外務省

のホームページでは、 「21世紀の国際社会の現実

を反映し、 国連が新たな脅威や貧困問題により一

層効果的に対応できる」 ために、 国連改革が必要

であると述べ、 国連改革の優先課題として、 開発、

安全、 人権、 機構改革を挙げつつ、 「安保理の改

革は、 国連の信頼性と実効性の向上のために急務」

であり、 「国連の機能を強化するための包括的な

改革」 の最重要事項であると強調している(4)。 他

方、 米国国務省のホームページでは、 より強くて、

効率的で責任のある機構となるために国連改革が

必要であると述べ、 具体的な改革課題として、 平

和構築、 人権、 民主主義、 包括的テロ防止条約等

も掲げながら、 国連の予算・運営を中心とした機

構の行政改革を改革の最重要事項と位置づけてい

る(5)。 このように、 日米安全保障条約で長年緊密

な同盟関係を保っている日米だけでも、 それぞれ

が描く 「国連改革」 像は異なるのである。

周知の通り、 国連は60年前に 「二度まで言語に

絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の

世代を救」 い、 「国際の平和及び安全を維持する」

等、 崇高な理想と目的を掲げ(6)、 連合国側によっ

て設立された。 その後、 日本、 ドイツ等の旧 「敵

国」、 植民地からの独立を果たしたアジア・アフ

リカ諸国の加盟に伴い、 国連はより普遍的国際組

織への変身を遂げ、 機構的にも機能的にも極めて

「多面体」 的存在となってきている(7)。 このよう

な普遍的国際機構に対して、 異なる時期、 異なる

主体から様々な 「改革像」 が描かれるのはある意

味では当然であろう。

「3」 で詳しく言及するが、 国連に対するある

種の機構的または機能的改編・強化の要求や試み

は昔から行われてきた。 しかし、 それらは一貫し

て 「改革 (reform)」 と呼ばれてきたわけではな

く、 時期やテーマによって 「活性化 (revitaliza-

tion)」 や 「構造改革 (restructuring)」、 「役割強

化 (strengthening of the role)」 等様々な言葉

で表現されていた(8)。 また、 「非植民地化」 や

「平和維持活動」 等は、 国連を制度、 理念、 財政

の面から大きく変貌させたものの、 国連憲章の改

正が伴わず、 「国連改革」 とも呼ばれて来なかっ

た。 このように、 「国連改革」 が多義的で曖昧的

に使用されていたということを意識しつつ、 国連

が成立してから、 憲章改正の動きをはじめ、 国連

の機能と機構の双方に大きな変化をもたらした主

な動きを概観してみたい。

2. 憲章改正の手続

国連改革・変革の動きを見る前に、 まず、 国連

の設立文書である国連憲章自体が憲章の改正につ

いてどのように規定しているかを確認しよう。 憲

章はその第108条と109条において、 憲章を改正す

るための 「通常手続」 と 「特別手続」 をそれぞれ

規定している。 「通常手続」 は更に二つの段階に

分けられている。 即ち、 憲章の改正が国連総会に

おいてまず構成国の3分の2の多数で採択されな

ければならない。 その上で、 改正は安保理のすべ

ての常任理事国を含む国連加盟国の3分の2によ

る憲法等の国内法上の批准手続を経なければなら

ない。 「特別手続」 においては、 具体的に三つの

ステップが規定されている。 まず、 憲章を 「再審

国連改革をめぐる法と政治

― 12 ―

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議するための全体会議」 の開催が必要である。 か

かる会議の開催日と開催場所は総会構成国の3分

の2と安保理の9カ国の多数で決定される。 次に、

再審議会議で勧告された改正案の加盟国による国

内批准手続である。 これは 「通常手続」 と同様に、

安保理常任理事国のすべてを含む国連加盟国の3

分の2による国内批准手続の完了が必要とされて

いる。 第3に、 上記のような再審議会議がずっと

開催されない場合、 遅くとも総会の第10回年次会

期、 即ち1955年までにかかる会議の開催に関する

提案を総会の議事日程に加えなければならない。

この場合、 再審議会議は総会構成国の過半数、 安

保理では7理事国の投票によって決定される。 こ

れらの規定から分かるように、 「再審議会議」 の

開催と改正案の発効との間に大きな違いが存在す

る。 前者が国連において 「手続事項」 とされてお

り、 安保理常任理事国は拒否権を行使することが

できないのに対して、 後者は5つの常任理事国の

同意が必要とされ、 いわゆる 「実質事項」 とされ

ている。

このような改正手続は拒否権が認められた大国

と中小国との政治的妥協の結果である。 憲章の最

終文言を確定したサンフランシスコ会議において、

改正手続は拒否権問題と絡んで、 最大の論点の一

つとなった。 ただでさえ拒否権制度に反発する中

小国は憲章の改正にも拒否権が発動できることに

猛烈に反発したが、 5大国の強い結束を打ち破る

ことができず、 第109条の 「憲章を再検討するた

めの全体会議」 制度を設けることで妥協した(9)。

この経緯から、 成立してからの国連において、 拒

否権制度はしばしば憲章改正のターゲットとされ

ていた。

3. 国連改革・変革の歴史

(1) 国連憲章の 「改正」 と 「再検討」

拒否権問題に象徴されるように、 国連の発足自

体がそもそもすべての原加盟国が十分納得した上

での結果ではなかったので、 憲章に対する 「改正」

または 「再検討」 の要求も国連の設立と共に始まっ

たのである。 第108条に基づく最初の 「改正」 要

求は、 1946年の第1回総会にフィリピンが提出し

た安保理の投票手続に関する提案に遡る。 同様に、

第109条に基づく 「再検討」 の要求も既に第1回

総会の時にキューバやオーストラリアから提出さ

れた。 以降、 アルゼンチン等からも相次ぎ 「改正」、

「再検討」 の提案が提出されたが、 投票するに十

分な支持が得られなかった(10)。 その結果、 第10会

期の1955年までに、 国連総会では拒否権行使の濫

用を検討する 「中間委員会 (interim committee)」

の設置や濫用を制限するための決議を採択する(11)

等、 従来から問題となる拒否権問題に関する一定

の成果を挙げたが、 憲章自体の改正については成

果がなかった(12)。

1955年、 「再検討会議の召集」 問題は第109条の

規定通り、 総会の議題として取り上げられた。 総

会は 「憲章の再検討が望ましい」 と認めながらも、

「再検討が国際情勢の緩和の下で行われるべき」

だと認識し、 再検討会議が行われる適切な時期、

場所、 手続等を検討する 「準備委員会」 の設置を

決定した(13)だけで、 会議自体は行われなかった(14)。

翌年の総会から以降数年に渡って、 ラテン・アメ

リカ (以下、 「LA」 と略す) 諸国とスペインが中

心に経済社会理事会 (以下、 「経社理」 と略す)

と安保理の構成国の拡大及び安保理投票手続に関

する提案を提出し続けた。 提案は1960年の総会で

投票に付することまでの支持が得られたが、 結果

は否決であった。 憲章改正を伴う国連改革は依然

棘の道であった。

しかし、 こうした敗北があったにも関わらず、

改革の要求はその後も止まず、 1963年にはじめて

国連改革をめぐる法と政治

― 13 ―

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具体的成果を挙げることになった。 この年の12月

17日に、 安保理の拡大に関する提案は賛成97、 反

対11、 棄権4で、 経社理の拡大に関する提案は賛

成96、 反対11、 棄権5で採択された。 この時反対

したのはソ連ら社会主義陣営とフランスで、 棄権

は米英ら一部の西側諸国等であったが、 常任理事

国のいずれも憲章改正案の批准を拒否しなかった。

各国の批准状況を待って、 1965年に、 安保理の構

成と投票手続に関する憲章第23条 (安保理理事国

は11名から15名へ拡大)、 27条 (手続事項に関す

る必要な安保理の賛成票が7票から9票へ、 その

他の事項に関しても常任理事国の賛成投票を含む

9カ国の賛成投票が必要と変更)、 経社理の構成

に関する第61条 (同理事会構成国は18カ国から27

カ国へ拡大) がそれぞれ改正された。 1973年に第

61条は更に修正され、 経社理は54カ国へ増えた。

これらに関連して、 1968年に第109条も改正され

た (憲章を再検討するための全体会議を招集する

ために、 必要とされる安保理の賛成票が7票から

9票へ変更)。

1963年の改正決議採択以降も、 1969年にコロン

ビアから憲章の 「再検討問題」 を提起する等途上

国による憲章の更なる改正が求められ続けた。 こ

れらの要求は1974年に 「憲章及び国連の役割強化

に関する特別委員会」 の設立まで結実したが、 新

たな憲章改正には至らなかった。 以降、 冷戦終結

後の今日に至るまで、 様々な国連改革案が現れた

ものの、 憲章の改正は再び行われることがなく、

1960年代半ばから70年代前半にかけて行われた憲

章改正が、 国連60年の歴史における唯一の改正成

果となっている。

(2) 憲章改正を伴わなかった国連の変革

国連改革を憲章規定の改正に限定するなら、 そ

の成果は上記の通りであるが、 国連の歴史を振り

返る時、 憲章規定の改正こそなかったものの、 国

連の理念、 制度、 機能を大きく変えた出来事は度々

あった。 上で述べた憲章改正への理解を深めるた

めにも、 また今後の国連のあり方を考える上でも

少なくとも次の二つの現象― (a) 平和維持活動、

(b) 非植民地化―を理解することが重要であろ

う。

(a) 平和維持活動

既に 「1」 の 「国連改革とは何か」 で述べたよ

うに、 1945年に設立された国連の最も重要な目的

は 「国際社会の平和と安全の維持」 である。 安保

理は 「平和と安全」 の問題につき、 第一義的責任

を持ち、 平和の脅威、 平和の破壊または侵略行為

に対処するため、 憲章第7章第42条の 「軍事的強

制措置」 を含む強硬な手段を決定することも出来

る。 しかし、 1940年代後半に始まる冷戦対立が大

国協調を前提とするこうした集団安全保障システ

ムを形骸化し、 国連の最も重要な機能である 「平

和と安全の維持」 のあり方を大きく改変していっ

た。

その始まりは1950年11月3日の第5回国連総会

で採択された 「平和のための結集決議」 である。

決議は拒否権行使等で安保理がその機能が麻痺し

た場合、 平和と安全の維持という安保理が持つ最

も重要な権限を総会に移すことを決定した。 1956

年のスエズ運河危機において、 英仏の拒否権によ

り麻痺状態に陥った安保理に対して、 この決議に

基づき緊急特別総会が開かれた。 しかし、 会議の

結果は安保理の持つ強い権限の行使ではなく、 後

に 「第6章半的存在」 ―機能的には第6章の 「平

和的解決」 機能より強いが、 第7章の 「強制措置」

機能よりは弱い―といわれる 「平和維持活動」 の

誕生であった。 つまり、 「平和のための結集決議」

は実体法的には機能せず、 手続法的役割のみを果

たした。 国連にとって、 1960年~64年のコンゴに

おける平和維持活動の挫折等もあったものの、

「平和維持活動」 は、 今日、 同組織の第一義的目

的である 「平和と安全の維持」 を達成するために、

国連改革をめぐる法と政治

― 14 ―

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極めて重要な構成部分となってきている。

(b) 非植民地化

本章 (1) で述べたように、 国連の成立と共に

安保理と経社理の改革を目標とする憲章改正の要

求は既に始まり、 これが実現したのは、 1963年の

総会であり、 18年もの歳月がかかった。 この63年

における憲章改正の実現は何を物語っているのか。

端的にいえば、 これは第2次大戦後に高揚した

非植民地化運動の結果である。 1945年当時の国連

を中心とした 「世界」 を確認してみよう。 国連の

創設に関わったいわゆる 「原加盟国」 は51カ国で

ある。 その中で LA グループが20カ国、 米英らの

西側先進国は14カ国、 ソ連ら社会主義国は6カ国

であった。 安保理常任理事国の地位が与えられた

中国を含め、 中東のアラブ・イスラム諸国、 アフ

リカ等も合わせて地理的には 「アジア・アフリカ」

(以下、 「AA」 と略す) も10カ国があったが、 政

治・経済体制という意味において、 この時の国連

は全くの 「アジア・アフリカ不在」 であった。 最

大勢力を誇る LA 諸国は政治・経済体制的にはソ

連らの東側陣営よりはるかに欧米グループに親和

性を持っていたが、 歴史的経緯から彼らは主権平

等、 内政不干渉原則を重視し、 その限りで欧米諸

国とも一線を画していた。 主権平等の立場から

LA 諸国はソ連による拒否権の頻繁な行使に大変

批判的であり、 これは圧倒的優位を保ち、 拒否権

行使をする必要がない米国のソ連批判にとって大

変好都合であり、 国連における拒否権行使の制限

議論において LA 諸国と欧米諸国の共同戦線をも

たらした。 しかし、 国連の本格的改革になると、

米国にとっても自分の既存の特権が損なわれかね

ないと危惧し、 同じ大国としてのソ連との共同利

益を見出すのである。 このように、 1960年代初頭

まで、 LA 諸国は憲章改正運動を主導し、 彼らは

最大勢力を誇っていたものの、 それは国連におけ

る大多数を得ることのできない 「比較多数」 に過

ぎなかった。

しかし、 1950年代半ば以降大きな変化が起きて

くる。 非植民地化意識の高揚で多くのアフリカ、

アジア地域が独立を獲得し、 国連に加盟した。 そ

の結果、 1963年に、 国連の加盟国は112カ国にも

達し、 国連創設時より倍以上も増えていた。 新加

盟国の中には日本のような旧 「敵国」 や東西陣営

のいずれかにはっきり所属することになる国もあっ

たが、 圧倒的に多かったのは AA 地域の新興独

立国家である。 特に1960年に、 国連に新規加盟し

た17カ国のうち、 16カ国はアフリカの独立国であ

り、 現代史上 「アフリカの年」 とも称されるほど

であった。 総会における 「植民地独立付与宣言」

の採択 (1960年) や 「植民地独立付与宣言履行特

別委員会」 の設立 (1961年) 等が象徴するように、

植民地体制の迅速な終結に向けて、 国連は憲章改

正ではなく、 総会決議や総会における 「補助機関」

の設立等の形で対応した。

国連における AA グループの出現とその勢力

増大に伴い、 彼らは1945年体制の国連に強い不満

を覚え、 とりわけ、 安全・平和と社会問題の意思

決定機関である安保理と経社理の衡平な代表性を

求めた。 1963年総会で採択された AA 諸国の提

案は実際 LA 諸国の提案に対する修正案であった

ことが示すように、 ここに至って、 国連の変革に

対して、 従来の LA グループと新興勢力である

AA グループの一致があった。 まさに、 LA 諸国

と AA 諸国の団結で、 安保理と経社理の改革が

国連のメーンストリームとなったのである。

国連に加盟した途上国は政治的独立に満足せず、

1960年代半ばから1970、 80年代にかけて、 彼らは

経済的独立をも積極的に求めるようになった。 実

際、 1964年の 「国連貿易開発会議 (UNCTAD)」

の設立をはじめ、 「国連工業開発機関 (UNIDO)」

(1966年)、 「国際農業開発基金 (IFAD)」 (1978

年)、 「一次産品のための共通基金 (CFC)」 (1989

年) 等、 1960年代半ばから1980年代にかけて、 国

国連改革をめぐる法と政治

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連は一連の新しい国際機構を設立し、 国際通貨基

金と世界銀行を中核とするブレトン・ウッズ機構

や経済社会問題を主な責務とする国連経社理とは

異なる国際経済秩序の樹立を目指した。 「南北問

題」、 「新国際経済秩序 (NIEO)」、 「開発の国際

法」、 「発展の権利」 等で表現される1960年代半ば

以降のこのような動きの基本的目的は、 政治的独

立と平等を獲得した途上国の、 国際関係における

より実質的な平等を求めることである。 これら新

しい機構の設立も憲章改正を伴わず、 基本的に国

連総会決議等で決定され、 組織的には経社理また

は総会の下での新しい 「補助機関」 と位置づけら

れた。

4. 国連改革の現状

(1) 包括的国連改革への道のり

60年代半ばから70年代にかけて起きた安保理、

経社理の改正や国際経済秩序の変革が象徴するよ

うに、 非植民地化がもたらした国際秩序の変化は

極めて大きく、 まさに 「国際社会の構造変化」 で

あった(15 。 国連、 とりわけ拒否権が行使しえず、

一国一票がルールとされる総会は1960年代半ば以

降、 植民地問題に限らず、 国際関係の多くの領域

に対して革新的な姿勢を取るようになっていった。

それが米国から 「国連の偏向」 と批判され、 同国

の国連離れを招き、 その象徴的出来事は1975年

「シオニズムを人種差別主義とみなす」 国連決議

33/79の採択であった(16)。 その結果、 米国は1970

年代の末期から選択的に国連の一部のプログラム

に対する分担金の拠出を拒否し始め、 1985年にグ

ラム・ラッドマン法を採択し、 国連分担金の削減

に踏み切り、 国連が成立以来の最大の財政危機に

陥ることになった(17)。

こうした危機を乗り越えるため、 80年代以来、

国連の内外から様々な改革が提案され、 その中で

「国連運用アプローチ」 と 「機構改革アプローチ」

の二つのアプローチが形成された。 前者は国連の

効率的運用、 予算削減等を通じて特に財政的危機

を解決しようという捉え方である。 対して、 後者

は新しい国連ビジョンの提示とそれに基づいた改

革を通じて危機を乗り越えようという考え方であ

る。 二つのアプローチは冷戦の崩壊後にも引き継

がれるが、 安保理、 経社理等国連の主要機関の改

革をも視野に入れた 「機構改革アプローチ」 の方

は一層強調されるようになった(18)。 ブトロス・ガー

リ氏も 『平和のための課題』 や 『発展のための課

題』 等の報告書で国連の包括的改革に対する事務

総長の積極的意欲を見せたが、 1996年12月にコ

フィ・アナン氏が事務総長に就任すると、 国連改

革により熱心に取り組むようになった。 97年7月

に、 事務総長は 『国連の再生:改革のためのプロ

グラム』 という国連改革の報告書を提出した(19)。

この報告書は国連の重要部門である安保理の改革

には言及がなかったものの、 常任事務次長の新設

や経社理の合理化、 軍縮、 予算、 国連の日常業務

の運営改善等、 国連の機構と機能について幅広く

論じ、 事務総長自らが述べるように、 それまでの

国連歴史の中で最も包括的改革案(20)となった。 3

年後の2000年 「国連ミレニアム総会宣言」 では、

新世紀における中核的価値として、 「自由」、 「公

平性と連帯」、 「寛容」、 「非暴力」、 「自然の尊重」

及び 「責任の共有」 が強調され、 安保理改革の加

速化を含めた国連の強化を訴えた。 更に2年後の

2002年9月に事務総長は 「国連を強化する:更な

る変革への課題」 という題の報告書を提出した。

ただ、 内容的にはこの報告書は97年報告書と 「ミ

レニアム国連総会宣言」 に対するフォローアップ

の色彩が強い。 ここでも安保理改革の重要性に言

及はしたものの、 具体的改革提案はなかった。

以上のように、 90年代以降、 特にアナン事務総

長時代に入ってから、 機構の効率向上、 機能の強

化、 更に時代に見合った理念の確立等、 国連に対

する包括的改革の議論がかつてなく高まってきて

いる。 そうした中で、 2004年以降、 三つの事務総

国連改革をめぐる法と政治

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長諮問委員会報告書が相次いで発表され、 包括的

国連改革論議はピークを迎えた。 最初の報告書は

2004年6月に、 元ブラジル大統領であるフェルナ

ンド・エンリケ・カルドーソを議長とする 「国連・

市民社会関係に関する有識者委員会」 が提出した

『我ら人民-市民社会、 国連、 グローバル・ガバ

ナンス』 という報告書である(21)。 この報告書は国

家間組織としての国連の重要性を認めながら、 環

境、 軍縮、 開発、 ジェンダー等様々な問題への取

り組みにおける市民と国連の連携関係を模索した

ものである。 同じ年の末に元タイ首相であるアナ

ン・パンヤラチュンを議長とする 「脅威・挑戦・

変化に関するハイレベル委員会」 からも報告書が

提出された。 この報告書は現在国連で進められて

いる改革議論、 また国連改革に関する日本政府の

態度を理解する上で特に重要なので、 次でより詳

しく言及する。 この報告書に1ヶ月遅れて、 2005

年1月に米コロンビア大学教授ジェフリー・サッ

クスを議長とする諮問組織 「ミレニアム・プロジェ

クト」 の報告書も公にされた。 同報告書は主に国

際開発の角度から援助国と被援助国双方の行動様

式や多国間の援助システムの制度改革に向けて提

言しており、 その中で、 安保理常任入りを目指す

国は2015年までに ODA の対 GNP 比率を0.7%に

到達させるべきであると述べている(22)。 このよう

に、 60年という節目の年に向けて、 国連自らが多

様な角度から国連の変革のあり方を提起していた

のである。

(2) ハイレベル委員会報告書 (23) とその後

この報告書は 「新しい安全保障のコンセンサス」、

「集団的安全保障と予防措置の挑戦」、 「集団的安

全保障と武力行使」、 「21世紀のためのより効率的

国連」 の四部構成となっているが、 内容的に国際

社会の直面する問題への分析とそれに対処するた

めの国連のあり方、 いわば 「問題と対策」 の二つ

に要約できる。 まず、 「問題」 への認識として、

報告書は、 今後、 国際社会が直面する脅威の主体

や内容また脅威のもたらす影響がこれまでとは大

きく異なってくるとの見解を示している。 即ち、

脅威は単に国家による侵略戦争ではなく、 貧困や

病気、 環境悪化、 内戦や大規模な人権侵害等の国

内暴力、 大量破壊兵器、 テロ、 国境を越えた組織

的犯罪等多様に及び、 その結果も国家の安全保障

だけではなく、 人類全体に大きな影響を及ぼすこ

とになる。

こうした新しい脅威への 「対策」 として、 報告

書は国際社会における 「包括的集団安全保障」 の

確立とそれを体現する新しい組織=国連の機構改

革を提言している。 報告書によれば、 従来は脅威

を除去するために軍事的手段を重視していたが、

新しい脅威に対処するために、 予防外交や調停努

力等 「予防的アプローチ」 も集団安全保障体制の

中に取り込ませるべきである。 また、 包括的集団

安全保障体制を体現するため、 国連が重大な改革

を行う必要があると述べ、 特に以下のように提案

している(24)。

(1) 安保理の改革: (a) 財政、 軍事、 外交

面で国連に大きく貢献していること、 先進国の場

合、 ODA が GDP の0.7%に達することが安保理

の政策決定により多く関与させる条件とする。

(b) 改革は大多数の国家、 特に途上国を代表で

きる国家を政策決定過程に参加させるべきである。

(c) 改革は安保理の効力を損なうべきではなく、

かつ安保理の民主性と責任感をも強化すべきであ

る。 (d) 改革の具体案としてAとBの2案を提

示する (次頁表参照)。 現行の安保理構成と比べ

ると、 A案は拒否権なしの常任理事国6と任期2

年で再選不可の非常任理事国3の増加を提案し、

B 案は常任理事国を増やさず、 任期4年で再選可

能の非常任理事国8と任期2年で再選不可の非常

任理事国1の増加を提案する。 (e) いかなる改

革案も拒否権を拡大すべきではない。 (2) 平和

構築委員会を創設する。 (3) 経社理の中で安全

国連改革をめぐる法と政治

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保障の脅威に関する社会・経済問題委員会の設立

等を通じ、 集団安全保障への貢献を高める。 (4)

人権委員会はすべての加盟国に参加させ、 安保理

と経社理に活動状況を定期的に報告させること等

を通じて、 同委員会の信用を高める。 長期的には

同委員会を経社理から分離させ、 安保理、 経社理

と同列の 「人権理事会」 に昇格させるべきである。

(5) 平和・安全問題を担当する常任事務次長を

1名増設する。 (6) 上記の改革を行うため、 現

行の憲章規定の第23条 (安保理の構成)、 第53条

及び第107条 (いずれも敵国条項関係) を改正、

第13章 (信託統治理事会)、 第47条 (軍事参謀委

員会) 及ぶ軍事委員会に言及する第26条、 第45条、

第46条の関係文言を削除する。

上記のように、 この報告書は安保理改革に関す

る具体的な提案を示したため、 日本では官民とも

大変関心が高かった。 しかし、 ハイレベル委員会

の報告書は今後の国際社会が直面する脅威にどの

ように対処するかという視点から出されたもので

あって、 単なる 「国連改革」 のためではなく、 ま

して安保理改革だけのものではない。 従って、 委

員会自らが述べるように、 「安保理改革のモデル

AとモデルBのどちらを選択するかのみに関心が

向けられ、 安保理の拡大に直接連動しない他の多

くの改革提案に関心を示さなければ、 大きな過ち

を犯すことになる」(25)。

ハイレベル委員会の提案のうち、 幾つかはその

後の2005年9月に行われた 「世界サミット総会」

の 「成果決議」 で結実した(26)。 まず、 「人権理事

会」 と 「平和構築委員会」 の設立が合意され、 20

05年12月20日の国連総会も投票なしで 「平和構築

委員会」 の設立決議を採択している(27)。 また、 サ

ミット総会では信託理事会を規定する憲章第13章

及び第12章の関係規定や 「敵国」 に言及する第53

条、 77条、 107条の削除、 更に軍事参謀委員会の

構成、 授権及び運営方式を今後の国連で審議する

こと等についても合意できた。 しかし、 安保理の

改革については、 より代表性と透明性、 効率を高

める安保理の早期改革を行うようという 「総論」

のレベルに留まっており、 具体的な改革案への言

及はなかった。

5. 国連改革と日中関係

多くの人が記憶するように、 2005年の4月に北

京、 上海、 深�等中国の多くの都市で大規模な反

日デモが起きた。 デモ隊の一部が大使館、 領事館

に投石する等過激化したため、 デモは日中間の深

刻な外交問題までに発展していった。 一連のデモ

において、 「日貨に抵抗せよ」、 「日本打倒」 等の

スローガンと共に、 「日本の常任理事国入りに反

対せよ」 ( 「反対日本入常」) というスローガンも

大変目立っていた。 つまり、 デモの発生原因がど

うであれ、 その目的の一つは、 2005年秋に向けて

実現されるかもしれない国連改革、 とりわけ安保

理拡大における日本の常任理事国入りに反対する

ことであった。 やや遅れて、 2005年6月7日に中

国政府は 「国連改革における中国の原則的立場に

関する文書」 を公布した(28)。 それまで日本の常任

国連改革をめぐる法と政治

― 18 ―

A案

地 域 国家数常任理事国

(継続)

新設常任

理事国

任期2年の非常任

理事国(再選不可)計

アフリカ 53 0 2 4 6

アジア及び太平

洋地域

56 1 2 3 6

欧州 47 3 1 2 6

米州 35 1 1 4 6

計 191 5 6 13 24

(報告書第252パラグラフより)

B案

地域 国家数常任理事国

(継続)

任期4年、 再

選可の理事国

任期2年、再選

不可の理事国計

アフリカ 53 0 2 4 6

アジア及び太平

洋地域

56 1 2 3 6

欧州 47 3 2 1 6

米州 35 1 2 3 6

計 191 5 8 11 24

(報告書第253パラグラフより)

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理事国入りの動きに対して慎重な姿勢を保ってい

た中国政府は、 以降、 日本の常任理入りに対して、

明確に反対する立場を取るようになり、 国連、 ア

ジア、 アフリカ等において、 日本の動きを牽制す

る活発な外交活動を展開していた。

国連改革、 とりわけ日本の常任理入り問題に現

れる中国官民の強い拒否反応は、 近年様々な原因

で悪化する日中関係の一つの結果であると同時に、

これが今後の日中関係をより不安定化させ、 その

結果、 東アジア地域全体の秩序構築にも影響を及

ぼすことは明らかである。 従って、 国連改革問題、

とりわけ日本が常任理事国になることは、 鋭く

「日中問題」 でもあるといわなければならない(29)。

今後、 国連改革、 特に日本と国連の関係を冷静に

認識するため、 以下、 「中国ファクター」 の意味

を考えてみたい。

国連に対する今日の中国―中華人民共和国―の

感情は、 ある意味では非常にアンビヴァレントで

ある。 一方では、 正に抗日戦争・第2次大戦後の

国際連合という新しい国際組織、 特に同組織にお

ける拒否権を行使できる常任理事国という地位の

付与によって、 中国はアヘン戦争以来、 100余年

ぶりに 「世界の大国」 たる地位を手に入れた。

1945年当時、 中国は近代帝国主義の侵略・強制の

結果としての不平等条約、 租界をまだ充分廃除で

きず、 経済的にも軍事的にまだ脆弱であったが、

この新しい包括的国際組織によってとりあえず

「政治大国」 のステータスを確保したのである。

いってみれば、 国連は 「東亜の病気がちな者

(「東亜病夫」)」 から 「世界の大国」 へと中国を国

際社会へ 「飛び級的」 にグレードアップさせた晴

れ舞台であったのである(30)。

しかし、 抗日戦争勝利後の内戦とその後の東ア

ジア地域で発生した冷・熱戦によって、 中華人民

共和国はこのような名誉と特権を授けられるどこ

ろか、 長年に渡って国連システムから排除されて

いた。 1946年後半に始まる国 (民党)・共 (産党)

内戦の結果、 1949年10月に中国人民共和国はその

成立を宣言したのだが、 国連において台湾に逃れ

ていた中華民国政府が依然として 「中国」 の椅子

に座り続けていた。 国連にとって、 北京と台北に

ある二つの政権のどちらが中国という国家を代表

する正統政府なのか、 いわゆる 「中国代表権」 問

題が起きたのである。 度々冷戦時の国連改革の反

対理由としても使われた(31)この問題は、 1971年10

月25日に国連総会が76票賛成、 35票反対、 17票棄

権の大差で 「国連における中華人民共和国の合法

的権利の回復」 決議2758を採択するまで、 22年間

も存続していたのである。 従って、 今日の中国―

中華人民共和国は、 国連システムの中における大

国としての出発は第2次大戦後の1945年でもなけ

れば、 建国した1949年でもなく、 ほんの1972年か

らのことに過ぎないのである。 この点は中国と国

連の関係を理解する上で重要な意味を持つ。 即ち、

同じ1945年に P5の地位が付与されたとはいえ、

現在の中国だけは実はまだ僅か30年強しか実感が

ないので、 「途上常任理事国」 と称すべきかもし

れない。

中国にとっての国連は第一点が 「世界大国」 へ

の飛躍、 第二点が国連というシステムからの 「排

除」 であったならば、 もう一つのポイントは 「犯

人扱い」 だったことである。 国連は1950年6月25

日に勃発した朝鮮戦争を契機にその後長年に渡り

中華人民共和国の国連への加入を拒み続けただけ

ではなく、 中国をシステムの破壊者として断罪し

た。 戦争の初期段階において、 国連は決議で北朝

鮮を非難し続けたが、 1950年10月以降の中国人民

義勇軍の参戦、 米中の直接軍事対立によって、 翌

年1月24日の決議で、 国連総会は朝鮮における中

国の軍事行動を 「侵略」 と名指しで非難するよう

になり(32)、 同5月18日に中国、 朝鮮民主主義人民

共和国への武器及び戦略物資を禁輸する制裁をも

決定し(33)、 米中が主要な相手として戦った朝鮮戦

国連改革をめぐる法と政治

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争を形の上で 「国連」 対北朝鮮・中国という図式

を定着させた。 このように、 代表権問題と朝鮮戦

争における扱いを通じて、 冷戦時の長い間、 中国

から見れば、 国連は正に中国の主権を侵害し、 中

国の内政に干渉し、 中国を敵視する帝国主義の手

先に過ぎなかったのである(34)。

このようなアンビヴァレントな感情を持つ中国

は、 「国連というレンズ」 から日本をどのように

見ているのか。 国連の 「敵国」 でありながら、

1956年に第80番目として国連加盟を果たした日本

は、 以降、 上記71年決議2758が採択されるまで、

中華人民共和国の国連復帰を阻止するため米国に

次ぐ積極的な役割を果たした。 日米安保を外交の

基軸とする日本にとって、 中国代表権問題に見ら

れる日本の米国追随が当然な姿勢であっただろう

が、 中国から見れば、 そのような行動は 「追随」

に留まらず、 中国 「敵視」 そのものでもあったの

である。 「国連という次元」 で見る日中関係の対

立構造の終了は、 60年前の1945年ではなく、 1971

年であった。 昨今の日本と国連の関係を論じる者、

とりわけ国連という現場体験を持つ論者は、 だい

たい 「1945年」 或いは日本の国連加盟が実現した

「1956年」 を 「節目の年」 とする傾向が見られ

る(35)。 日本と国連の関係を論じる以上このような

「日本的見方」 が当たり前だといえよう。 しかし、

日本という国家が、 安保理入りという大きな課題

を実現していく場合、 他者、 とりわけ隣国である

中国の厳しい視線、 眼差しを視野にいれた外交理

念と外交活動が求められよう。

おわりに

大雑把に国連改革の歴史をみてきた。 これまで

の検討から分かるように、 「国連改革」 という概

念は、 使われる時代、 国によって大変多義的で曖

昧であり、 改革の要求は国連の発足と共に始まっ

た 「古い」 問題である。 冷戦後の今日において、

国連改革は21世紀国際社会のニーズに応えるため

に国連という包括的国際組織の理念、 機構、 機能

等を全面的に見直すことであり、 決して安保理の

改革だけを意味しない。

冷戦期・冷戦後を通じて、 国連改革の実現は様々

な思惑、 利害が対立するため、 大変困難なことで

あり、 とりわけ憲章改正が必要とされる安保理の

拡大等主要機関の改革が実現したのは1963年等の

総会決議の採択だけであった。 この時、 改革要求

が実現したのは、 AA 諸国、 LA 諸国が総会の多

数を制したことが大きな要因であるが、 それは

「数は力」 を意味するのではなく、 本質的には

「国際組織における民主主義の実現」 と理解すべ

きであろう。 すなわち、 非植民地化運動の中で出

現し、 拡大した AA 諸国と既存の途上国である

LA 諸国が安保理と経社理を拡大することで、 国

際社会における両機構の代表性を高めたというこ

とである。 その改革が常任理事国の特権である拒

否権にまったくタッチしなかったという意味で、

大変限られたものであったが、 従前の機構よりは

一歩民主化へ邁進したことは間違いない。

「国際機構の民主化」 という視点から見ると、

昨今の各国の改革論議に一つ大きな問題が横わたっ

ていると指摘しなければならない。 それは、 拒否

権が行使できる常任理事国の地位の獲得という

「権力志向」 の問題である。 また、 歴史的にも拒

否権制度が国連の成立過程から既に問題とされ、

国連が発足してからも常に改革=制限の目標であっ

た。 2005年の一連の外交攻防が象徴するように、

国連改革にあたって、 拒否権という権力、 パワー

の追求は国家間の地政学的ライバル意識或いは戦

争等歴史的要因に基づく警戒心を高めるだけであ

る。 従って、 国連改革を成功させるために、 国連

における 「多数派工作」 ではなく、 (国家の) 大

小を問わず、 多くの国を説得できる非権力志向的

な普遍的理念の提示が急務である。

国連改革をめぐる法と政治

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(1) GA/10442, 23 December 2005, see also,

GA/AB/3719, 23 December 2005. see,

http://www.un.org/News/Press/docs/2005/

ga10442.doc.htm.

(2) 桜井雅夫 『国際機構法』 第一法規、 1993年、

163頁。

(3) 朝日新聞、 2005年12月24日、 朝・夕刊、 12月2

5日、 朝刊、 参照。

(4) 「国連改革:日本の優先事項」、 http://www.

mofa.go.jp/mofaj/gaiko/un_kaikaku/j_yusen.

html、 参照。

(5) ‶U. S. Priorities for a Stronger, more Effec-

tive United Nations", see, http://www.state.

gov/documents/organization/48439.pdf.

(6) 国連憲章前文と第1条 (目的) を参照。

(7) 最上敏樹 『国際機構論』 東大出版会、 1995年、

149頁。

(8) 藤田久一 「国連改革の歴史的展開と意義」 国

際問題2004年9月号、 42-43頁、 同 『国連法』

東大出版会、 1998年、 402-403頁、 加藤俊作

『国際連合』 慶応通信、 1992年、 170頁。

(9) 加藤、 前掲書171-172頁、 同 『国際連合成立

史』 有信堂、 2000年、 97-98頁。

(10) 星 文七 「国連の改組問題」 国際問題1965年

3月号、 12頁、 林 司宣 「国連憲章の改正と

再検討」 国際問題1975年12月号、 40-41頁。

(11) See, A/Res. 111, 13 November 1947; A/Res.

267,14 April 1949.

(12) 斉藤鎮男 『国際連合論序説 (改訂第3版)』 新

有堂、 1981年、 256頁。

(13) A/Res.992,21 November 1955.

(14) 1955年の総会決議に基づき成立された 「準備

委員会」 が、 「再検討会議の開催が時期尚早」

といった内容の勧告を数回出したのみで、

1967年以降実質上の解散に至った。 林、 前掲

論文、 41頁、 参照。

(15) 大沼保昭 『国際法』 東信堂、 2005年、 16頁。

(16) 中山俊宏 「アメリカにおける 『国連不要論』

の検証」 国際問題2003年10月号、 15-18頁。

(17) 田所昌幸 『国連財政―予算から見た国連の実

像』 有斐閣、 1996年、 62-68頁。

(18) 藤田、 前掲論文、 44-45頁。

(19) ‶Renewing the United Nations: A

Programme for Reform", Report of

Secretary-General, A/51/950,14 July 1997.

(20) Ibid. p.2.

(21) ‶We the Peoples: Civil Society, the United

Nations and Global Governance", Report of

the of Panel Eminent Persons on United Na-

tions-Civil Society Relations, A/58/817, 11

June 2004.

(22) 星野俊也 「国連改革で何が変わるのか」 外交

フォーラム2005年4月号、 37-38頁。

(23) ‶A More Secure World: Our Shared Respon-

sibility", Report of the High-level Panel on

Threats, Challenges and Change, A/59/65, 2

December 2004, pp. 8-99.

(24) Ibid., Part. IV.

(25) ‶Transmittal letter dated 1 December 2004

from the chair of the High-level Panel on

Threats, Challenges and Change addressed

to the Secretary-General", ibid., p.6.

(26) See, ‶World Summit Outcome", A/Res. 60/1,

24 October 2005.

(27) ‶The Peacebuilding Commission", A/Res.

60/180, 30 December 2005.

(28) See, http://www.fmprc.gov.cn/chn/wjb/

zzjg/gjs/gjzzyhy/1115/t205944.htm.

(29) 戦後50年の1995年に、 筆者の学部ゼミは 「日

本・国連・アジア」 というテーマで 「国連改

革」 問題をとりあげ、 校外実習として、 中国

を訪れ、 現地の人々とも意見交換を行った。

しかし、 当時、 学生が就職面接に当たって、

国連改革をめぐる法と政治

― 21 ―

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「国連のことを勉強するのに、 なぜ中国に行く

のか」 と一度ならず企業から質問された。 2005

年に、 日本を含めた 「4カ国提案」 に対する

中・韓の強い反対運動、 モルジブ、 ブーダン、

アフガニスタンを除き、 いずれのアジア国も

共同提案国にならなかった、 といった現実が、

「日本と国連」 の問題が 「日本・アジア・国連」

問題でもあることを残念ながら実証したとい

える。

(30) 国連創設における中国の関わりについて、 西

村成雄編 『中国外交と国連の成立』 法律文化

社、 2004年、 参照。

(31) 加藤 『国際連合』 151-162頁、 参照。

(32) ‶Intervention of the Central People's Gov-

ernment of the people's Republic of China

in Korea", A/Res. 498(V), 1 February 1951.

(33) ‶Additional Measures to be Employed to

Meet the Aggression in Korea", A/Res.

500(V), 18 May 1951.

(34) 李鉄城編 『聯合国的歴程』 北京語言学院出版

社、 1993年、 176-207頁。

(35) 代表的なものとして、 北岡伸一 「戦後日本外

交における国連」 外交フォーラム2005年4月

号、 12-17頁、 明石 康 「国連加盟から安保

理常任理事国へ」 外交フォーラム2005年8月

号、 22-27頁、 参照。

国連改革をめぐる法と政治

― 22 ―

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1.

「市場移行と平和」 というタイトルでプロジェ

クトを開始したときの問題意識はざっと以下のよ

うであった。 米ソ核対峙という冷戦構造が一応終

焉したが、 それまで基本的に資本主義を否定して

きたソ連及びその陣営の諸国は 「市場移行」 とい

う状態に入っていく。 しかし、 すでにユーゴスラ

ヴィア連邦の崩壊が激しい内戦や、 外部勢力との

戦争を経験したように、 「市場移行」 は現実には

「移行」 という言葉が示唆するほど平穏なもので

はなくて、 「戦争と平和」 という厳しい状況を経

験しつつしかあり得ないのではないのか。 だとす

ると、 広く、 旧社会主義諸国や、 また現代社会主

義諸国でも 「戦争と平和」 の問題と絡ませ合いな

がら、 ポスト冷戦期の動向を研究していかなけれ

ばならないのではないか、 というものであった。

むろん、 研究自体は毎回、 直接に 「戦争と平和」

を扱ったわけではなく、 関係諸国の財政や金融、

また工業・農業・商業等々といった関連部分を、

それもいろいろな角度からテーマにしつつ行われ

ていた。 むろん、 軍事のことも兵制のことも取り

扱われたけれども、 実際のテーマがその都度相当

拡散したものになることは避けられなかった。

しかし、 旧ソ連邦期からのロシア研究がひとつ

の核となりつつ、 東欧諸国からアジア (中国、 北

朝鮮、 ヴェトナム)、 中南米 (キューバ等) と地

域的にも相当の広がりを持った研究で、 プロジェ

クトの核心に迫るべく努力がなされたことは、 そ

れぞれが上記の事柄の一端の研究に何ほどかのも

のを残したことであったと一応いい得るであろう。

2.

しかし、 ここに来て2、 3のことから 「市場移

行と平和」 プロジェクトは一応の締め括りをした

方が良いのではないのか、 と考えられるようになっ

てきた。

第一には、 いわゆる 「市場移行」 については、

これを 「新しい階級形成闘争」 (岩田昌征氏) と

捉えるにせよ、 そうでないにせよ、 ともかく旧東

欧社会主義諸国をはじめ、 旧ソ連の諸国にせよ、

ほぼ一段落して、 要するに 「移行」 の時代は終わっ

た、 という見方が有力になってきたからである。

実際、 ポーランド、 チェコ、 スロヴァキア、 ハン

ガリー、 スロヴェニア、 バルト諸国など、 2004年

5月には EU そのものに迎え入れられることにな

るまでに到達した。 むろん、 中国、 ヴェトナムな

どを見る限り、 まだ 「移行」 の途中ともいえなく

ないが、 ともかく、 1990年代の初め頃の状況とは

全体的に変貌してきたことも事実であり、 「市場

移行」 という点にこだわり続けることの意味が著

しく小さくなってしまった、 のである。

第二には、 2001年 「9.11」 以後の 「戦争と平和」

の問題が、 むしろ、 アメリカとの 「一極覇権」 の

強化の下で展開されてきており、 いわゆる 「移行」

諸国の場合も、 むしろそれらの関係で 「戦争と平

和」 の問題を捉え直さなければならないという状

― 23 ―

プロジェクト活動報告

「市場移行と平和」 プロジェクトを閉じるにあたって

中 山 弘 正(国際平和研究所所員)

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況が出てきている、 という点である。 関係諸国も

むしろアメリカとの関係で軍事問題に対応せざる

を得ない、 という事態がグローバルに出現してい

る、 ということでもあろう。

3.

だが、 こうしたアメリカの一極覇権という状況

はいわゆる冷戦崩壊で突然に出現したとも考えに

くいことから、 むしろ、 アメリカを一つの中心的

視座に置いた世界政治・世界経済という視点から、

全体を見直してみる必要性がある、 ということで

もあろう。

岡田裕之論文は、 そうした 「市場移行と平和」

という設問自体が、 より大きな視座の一角に位置

付けられる、 ということでもあろう。

それゆえに、 我々は、 「市場移行と平和」 とい

うプロジェクトそのものを包摂するもうひとまわ

り巨視的な視座からの問題提起的な論稿をもって、

現在の段階での締め括りとさせて頂こうと思う次

第である。

そうした意味での巨視的な岡田裕之論文をもっ

て、 プロジェクトの現段階の総括とさせていただ

くのであるが、 これまで、 実に多数の方々がこの

プロジェクトの主旨を汲んでご協力くださったこ

とに 今、 いちいちのお名前やテーマを挙げな

いが 深い感謝を表明したい。 そのなかには、

外国から遠路足を運んで下さった方々も含まれて

いることは言うまでもない。 また、 そのことをは

じめ、 研究会の遂行の実際上のあらゆる努力を誠

実に確実になして下さった松�さんをはじめ、 平

和研の事務局の方々に厚い感謝をささげるもので

ある。

「市場移行と平和」 プロジェクトを閉じるにあたって

― 24 ―

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Ⅰ 起点:冷戦終結による世界政治経済の再統合

2001年の国際テロとアメリカの自衛を掲げたア

フガン戦争、 03年以降のアメリカのイラク侵攻と

21世紀初頭の国際秩序は、“アメリカ一極支配”

と粗く特徴づけることが出来よう。 これは20世紀

後半の米ソ二極対立の國際秩序と大きく異なり、

また19世紀末・20世紀初頭の帝国主義列強対立の

状況とも大きく異なる。 20世紀初頭には英仏植民

地帝國に対して新興の米独資本主義が挑戦し、 こ

れに露墺土清の旧王朝型帝國の対立が複雑に絡み

合っていた。 アジア・アフリカ諸国は新興の日本

を除いてはまだ主権諸国家として世界政治の主体

(プレイヤー) には登場していない。

小論は、 21世紀初頭の国際秩序を冷戦終結によ

る世界政治経済の再統合に由来するものと考え、

そこに20世紀後半の米ソ二極対立の国際秩序とは

全く異なる構造を求め、 さらにはこの二極対立の

成立と崩壊を介して、 20世紀初頭の帝国主義列強

対立から出発した国際秩序が、 21世紀初頭の“ア

メリカ一極支配”の国際秩序に転化した、 と主張

する。

アメリカの一極支配を常識論でパクス・アメリ

カーナ、 「アメリカによる世界平和 (秩序)」 と解

すれば、 第二次大戦の圧倒的な勝利者として登場

したアメリカによる世界支配はすでに20世紀半ば

から成立していた、 と言いうるだろう。 この観点

からすれば現在の国際秩序はこの US 覇権の単な

る延長線上にある、 と言える。 ここで覇権とは、

世界政治経済における主導権ヘゲモニー (ないし

はリーダーシップ) を意味し、 基軸国が諸国を植

民地・従属国のように権力パワーのままに自由に

操るという状況ではなく、 基軸国以外の主権諸国

がそれぞれの利害を主体的に判断しつつ、 基軸国

の政策や提言に同盟や連携をもって従う国際間の

関係を言う。 追随国の同意は蓋然的なものである

から、 そこにはその抵抗と脱落の可能性が含まれ

ている(1)。

だが20世紀後半の冷戦期には、 US 覇権はソ連

の覇権と対抗していて、 パクス・アメリカーナは

とうてい世界政治の一極支配と言い難いものだっ

た。 反対に今日の US 一極支配は対抗する超大国

ソ連の崩壊後の世界を特徴づける表現であり、 常

識論でいうパクス・アメリカーナと区別されなく

てはならぬ。 すなわち冷戦期の国際政治は相互に

相手国の中心部を完全に破壊するに足る核戦力を

備えた米ソ対立という基本構造に立脚するもので

あって、 アメリカとソ連はそれぞれに資本主義=

自由世界か社会主義=一党独裁かいずれかの世界

体制の覇権国だったのである。 たしかに政治・経

済・社会の三次元で比較して資本主義市場経済・

議会政治・言論自由の西側が終始優位であったこ

とは否めないが、 社会主義計画経済・一党専制・

言論統制の東側が西側の優位を覆す可能性まで否

定できる状況にはなかった。 とくに途上国領域

(第三世界) では体制の優劣は未決だった。 パク

ス・アメリカーナは先進資本主義諸国、 おもに西

― 25 ―

プロジェクト活動報告

グローバリゼーションと体制移行

21世紀初頭の国際秩序とその矛盾

岡 田 裕 之(法政大学名誉教授)

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側世界について限定的に成立していた。 世界はこ

の二つの体制に分裂しそれぞれに体制を 「凝集」

する覇権国が相互に対立していた(2)。

そしてこの単一の世界の分裂は、 20世紀初頭の

列強対立から発した二回の世界戦争とこれに対抗

するロシア革命を起点とする世界革命運動の結果

であった。 戦間期にはソ連はなお孤立した一国社

会主義の国家だったが、 第二次大戦の日独敗北に

より、 戦勝国米ソ両国が分裂した体制のそれぞれ

の覇権国となった(3)。 20世紀後半、 それぞれに部

分的な二つの体制は、 朝鮮半島 (1950-53年)、

ベトナム (1965-72年)、 アフガン (1979-1987

年) での武力衝突にもかかわらず、 ヨーロッパ正

面の軍事対決には至らず、 共存のうちに体制の優

劣を競い、 70年代の中国の 「社会主義市場経済」

の名のもとでの世界市場への包摂から、 80年代末

から90年代にかけてのソ連邦・東欧の民衆の体制

選択に至り、 社会主義体制は崩壊した。 こうして

1991年末におけるソ連邦の解体をもって冷戦が終

結し、 厳密な意味における US 一極支配が初めて

成立した(4)。

この US 一極の世界支配をアメリカの 「帝國支

配」 と規定する考えがあるが、 帝國をどのように

定義するにせよ、 アメリカの主導権はそのパワー

の直接の行使によるよりは、 抜群の実力を背景に

した、 その主導する世界市場、 ないしはグローバ

ル化への諸国の参加利益に依存し、 軍事的には欧

州統合と日本の先進国グループの自発的な支持、

同盟関係に依存している。 これはアメリカ支配か

らの世界市場参加諸国、 あるいは軍事同盟諸国の

離脱の可能性を含むにしても、 アメリカ支配への

参加による追随諸国の経済利益、 政治利益、 軍事

利益は大きい。 この秩序は 「帝國秩序」 と言うよ

りは 「覇権秩序」 と表現するのが適切である。 両

体制間の体制優劣を競う冷戦が、 資本主義 (世界

市場) ・複数政党制・言論思想の自由の体制の勝

利に終わって世界革命の幻想が潰えた結果、 US

一極支配の覇権構造が成立した。 小論はアメリカ

の 「帝國」 仮説をとらない(5)。

冷戦後の国際秩序ないしは国際関係を理解する

上でアメリカの 「帝國」 仮説とならんで八大 「文

明衝突」 の仮説がある。 これはとくに現在有力で

あるとはいえないが、 冷戦という資本主義と社会

主義の二大体制の対立の後に、 政治・経済・社会

の対立ならざる文明の対立が表面化し、 それが二

大対立ではなく八大対立であるとするシェーマは

歯切れがよい。 たしかに現在のアメリカとイラク

の対立の背景に欧米キリスト教文明とイスラム文

明の対立があるのは見やすいところだ。 また90年

代のユーゴスラヴィア連邦やソ連邦といった革命

理念で結合していた連邦が解体した時、 国民国家

形成に際して欧米キリスト教とロシア・セルビア

正教の対立、 イスラム教と正教の対立が表面化し

たのも事実である(6)。

しかしながら、 世界市場への参加利益によって

中国・ロシア・東欧は体制移行をほぼ達成してお

り、 そこには 「キリスト教文明を背景とする米欧

主導の」 世界市場への参加を拒む図式は妥当しな

いし、 國際テロ対策ではむしろ国内に異民族分子

を抱えるロシアや中国の大国は、 イスラム大国イ

ンドネシアなどと同様に、 先進諸国のテロ対策に

連動している。 後に第Ⅲ節に述べるように、 現在、

グローバル化利益と理念価値の複雑な組み合わせ

がそれぞれの広域を特徴づけている。 イラク侵攻

では同文明のヨーロッパがアメリカに批判的であ

り、 異文明の日本が協力的である。 文明対立仮説

は補助仮説の一つにはなるだろうが、 冷戦後のア

メリカ一極支配の国際秩序を総合的に特徴づける

ものではない。

現在のアメリカ一極の覇権型支配の特徴は、 二

つの体制間対立の終結による世界政治経済の再統

合の過程から最もよく説明できる(7)。 即ち冷戦期

には、 米・西欧・日本の先進資本主義諸国とソ連・

東欧・中国の社会主義諸国がそれぞれ超大国 (核

グローバリゼーションと体制移行

― 26 ―

Page 28: 巻頭言 - Meiji Gakuin Universityprime/pdf/PRIME23-1.pdf · 軍再編協議は、 仕上げになっていくものと思われ ますから、 沖縄や神奈川など米軍基地のある地域

相互破壊力を備えた) 米ソを盟主、 体制を主導す

る覇権国としながら激しく対立し、 とくに途上国

領域において体制の膨張と防衛の支配圏争奪戦を

遂行した。 この対立は、 第一次大戦の苦難から生

じた 「世界革命」 のロシアにおける実現に端を発

して、 第二次大戦の経過から誕生した共産中国と

ソ連の東欧占領支配の固定化から生じた(8)。 これ

は20世紀初頭におけるイギリスほか諸国の主導し

た産業資本主義による統一的世界市場の完成から

見れば、 世界政治経済の二大体制への分裂と規定

できる。 世界はここに、 開放市場経済と閉鎖計画

経済、 複数政党政治と一党独裁政治、 思想言論の

多元的自由と一元的統制、 のそれぞれ独自な二つ

の社会に全面的に分裂した。 世界政治経済統合体

は消滅した。

この体制優劣の決定による世界政治経済再統合

の過程をてみじかに振り返ってみよう。

70年代初めの石油危機とベトナム停戦 (米軍の

撤退) は当初はいずれも資本主義体制側の打撃、

後退と苦難の始まりと理解されたのであるが、 こ

れがかえって80年代の体制優劣の決定、 ソ連・東

欧住民による社会主義体制の廃棄の始まりとなっ

た。

すなわち、 金と結合したドルの国際通貨制度の

崩壊と石油危機は60年代の先進諸国の 「黄金の成

長時代」 を終わらせ、 エネルギー節約と低成長の

苦難の時代をもたらしたが、 為替のフロート制は

石油危機の衝撃を吸収し、 エネルギーの高価格は

省力省エネの技術革新を刺激し、 新たに ME 化、

HT 化と称されたエレクトロニクス関連産業の発

展を軸に先進諸国に安定的な成長をもたらし、 関

連消費財の新製品開発とその低廉化によって西側

社会に大衆消費の 「豊かさ」 を普及させた。

他方、 石油外貨を浪費した OPEC 諸国は工業

化に失敗する。 同様に石油外貨収入を増やしたソ

連は、 西側からの機械類輸入と穀物輸入などの住

民消費にあてさらに、 アメリカとの軍備パリティ

の維持、 核戦力の凌駕をめざしつつ、 同時にアフ

リカ、 中近東などの第三世界への政治的な援助に

費やした。 だが機械・技術の輸入はソ連工業の近

代化に資せず、 結局石油ガス資源関連産業や軍需

産業の肥大化に結果しただけであった。 ソ連は資

源輸出による世界市場依存に傾斜する強度の 「オ

ランダ病」 に陥ったのである(9)。

石油供給をソ連に依存していた東欧は石油価格

の高騰に苦しみつつ、 豊富になった国際資金の借

り入れを増やして消費財の輸入代替化に活路を求

める。 しかし70年代、 工業品の輸出競争力を飛躍

的に強化したのは、 石油輸入国ながら輸出志向工

業化に成功したアジア NIES であった。 東欧諸国

はインフレと外貨債務の重圧に苦しむ。 西欧の繁

栄、 大衆消費を眼前にする東欧諸国住民の欲求不

満は高まる(10)。 80年のポーランド連帯労組運動は

この先頭にたつものとなった。

東アジア工業化の成功と冷戦の一段落による中

国の改革・開放経済への転換は、 社会主義世界体

制を解体する重要な要因となった。 80年代、 フロー

ト制は経常収支の制約を除いて自由な資本移動を

本格化するが、 とくに直接投資と多国籍企業の活

動はこの地域で活発化し、 生産・経営技術ノウハ

ウの移転による工業品の先進国向け輸出を増加さ

せ、 所得・雇用の高成長を生み出す。 文革後遺症

に苦しむ中国は対ソ警戒心から米日欧に接近、 資

本や技術をそこに求める。 「社会主義市場経済」

への転換である。 閉鎖工業化の毛路線は放棄され、

沿海地方、 経済特区から工業化が進み、 8~9%

台の高成長時代に入る。 �路線への転換は成功す

る(11)。 ソ中の同盟・協力を根幹とした社会主義の

体制 「凝集」 力は失われる。 ベトナム戦争におけ

る体制膨張の成功は、 新インドシナ戦争、 中越戦

争を引き起こし中ソの陣営内覇権争いを生み、 結

局共産陣営の分裂、 弱化を招く(12)。

80年代末東欧は西欧との統合を求めソ連圏から

離脱し、 ソ連は、 工業近代化に失敗、 農業は不振、

グローバリゼーションと体制移行

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軍需産業の内需転換は成らずで、 石油価格崩落と

ペレストロイカの混乱から加盟共和国の分離権請

求のうちに90年代初、 連邦の解体に至る。 「世界

革命」 の幻想は消滅する。 1917年ロシア革命に発

した世界政治経済の深刻な分裂は終わり、 再統合

され、 資本主義世界側の覇権者であったアメリカ

の圧倒的優位がここに確立する。

ソ連・ロシア、 東欧・中国は米・EU・日本の

主導する世界市場に受動的に包摂され、 体制移行

に社会発展の活路を求める。 米・西欧・日 vs ソ

(東欧) ・中の体制の五極対抗は、 先進三極に依

存する露中二極に変貌し、 体制間争奪領域にあっ

た途上国はほぼ等しなみに先進三極の主導する開

放経済と資本主義の発展を目指す。 こうして世界

政治経済の再統合はアメリカ一極の覇権型支配の

国際秩序に帰着した。

Ⅱ 冷戦勝利者による国際秩序:アメリカの覇権

とアメリカ的 「國際価値」

冷戦終結による世界政治経済の再統合は、 冷戦

期に分裂していた二つの理念の統合をもたらすこ

とにより、 ロシア革命によるその分裂以前の国際

状況への単なる復帰とは異なる 「國際価値」 の統

合を生み出した。 これは20世紀初頭とはまったく

異なった国際政治の状況である。 ここで 「國際価

値」 とは諸社会、 ないしは世界人類がめざすべき

目標というか、 あるべき国際基準、 国際規範、 理

念目標、 を意味する。 19世紀末から20世紀初頭に

かけては列強による植民地・従属国の支配は当然

視され、 列強はまた自国の政治上経済上の強化を

めざして版図、 勢力圏の拡大を国家目標に定めて

互いに争った。 そこには共通に追求すべき 「価値」

ある目標、 何らかの理想・理念は欠け、 文字通り

の列強の相互のエゴイズム、 国際政治の 「パワー・

ポリティクス」 の支配する弱肉強食の世界だった。

冷戦後の世界は異なる。 冷戦が米・西欧・日の

陣営とソ・中・東欧の陣営の理念対立、 イデオロ

ギー対立と不可分のものであっただけに、 社会主

義陣営の敗北はその掲げた集権計画・共産党独裁・

言論統制 (階級なき平等のユートピアをめざす)

の理念の敗北であった。 対立した一方の陣営の理

念・価値目標の敗北、 正統性権威の失墜は、 他方

の陣営の理念・価値目標の勝利であり、 世界革命

の幻想の終末は、 そのまま資本主義・自由世界の

理念・価値目標の勝利を意味し、 後者の理念の

「國際価値」 への転換、 上昇となる。

“自由”の理念はまずは言論思想の自由の理念

であり、 ここから理念競争において西側自由陣営

は、 市民社会における個人の言論の自由・思想の

自由・信仰の自由 (無宗教の自由を含む) を相手

側の共産陣営の言論統制・思想の自由の抑圧・国

家=党の一元的言論統制の 「不自由」 とを対比さ

せた。 西側はまず 「自由主義陣営」 を名乗って理

念競争に勝とうとした。 この自由は自分の体制

(自由主義体制) への批判、 共産主義的言論をも

許容するから、 矛盾であるとも言えるが、 それだ

け懐の深い余裕ある社会を象徴するものであった。

対するソ中陣営では反体制運動はむろんのこと、

反体制言論でさえ許容されず、 厳しい時代にはマ

ルクス・レーニン主義の金科玉条に異論を唱える

者は強制収容所に送り込まれ、 緩やかな時代にも

公式に異論を表明できる場 (出版・報道・集会・

結社など) はなかった。

共産陣営の理念上の弱点はここに集中した。 民

衆の生活が苦境にあれば体制への不満は鬱積し、

民衆の生活が向上すれば西側並みの言論・思想の

自由が欲しくなる。 抑圧された民衆の権利状況は、

民衆からの自主的な主張によって、 また啓蒙的な

知識人の先駆的な言論によって、 さらには労働運

動や市民の自主的な運動によって改善されるから、

党・政府による言論抑圧はたちまち人権侵害とな

り、 反省と改善の機会を逸して体制を硬直化させ

る(13)。

だが“自由”はこの契機からだけで成るもので

グローバリゼーションと体制移行

― 28 ―

Page 30: 巻頭言 - Meiji Gakuin Universityprime/pdf/PRIME23-1.pdf · 軍再編協議は、 仕上げになっていくものと思われ ますから、 沖縄や神奈川など米軍基地のある地域

はない。 個人の独立と自由の原理に立つ市民社会

を前提とすれば、 自由陣営の理念が共産陣営の理

念に勝るのはほとんど自明であろう。 かしながら

二体制間で争われた“自由”はむしろ 「営業の自

由」、 営利企業活動の自由であり、 資本主義、 さ

らには市場経済の経済原則の是非であった。 資本

主義はたしかに生産力を発展させ産業の高度化を

はかってきたが、 この 「営業の自由」 は資本家の

富を増すだけで勤労者には逆に貧困を強制する。

従ってこの自由は否定されねばならず、 所有の平

等 (国家的所有=私有者を欠く) に立脚する計画

経済によって企業活動は集権的に統制されねばな

らない。 資本主義的所有が廃止され、 共同所有が

実現されて始めて人間社会の平等が実現される。

マルクス主義の古典はこのように説く。 言論思想

の統制はこのための手段 (プロレタリア独裁政治)

である。 ロシア革命とその世界的な波及 中国

革命を含む は“自由”に対する“平等”の勝

利であり、 前進なのだ。 この世界革命の理念は20

世紀の世界に激動をもたらし、 世界政治経済の資

本主義と社会主義の二大体制への分裂を生み出し

た。

冷戦は周知のように激しい理念対立となった。

共産陣営では“自由”を説くものは 「資本主義の

手先」 と迫害され、 自由陣営では“共産主義によ

る平等”を説くものは 「間接侵略の手先」 とみな

された。 両社会の成員は、 自己の属する体制に対

する批判の思想を持つ限りは、 誰でも 「潜在する

体制の敵」 とみなされる可能性があった。 これは

米ソ核対決の軍事的恐怖の裏側にあった国民の相

互不信のおぞましい思想戦だった。 スパイ小説が

流行した所以である。 冷戦終結は言論思想の自由

のみならず市場経済、 営利企業の自由を一つの

「國際価値」 にまで高めた。 それが人間社会の

「望ましい」 「倫理的な」 原理であるか否かは問わ

ないにしても、 それが経済繁栄、 したがって民生

消費の充足の 「よりよいシステム」 である事実認

識は国際基準となったのである。“自由”の理念

の勝利は、 この次元を異にする二面から理解され

ねばならない(14)。

理念対立は経済システムのみならず政治法制シ

ステムについての対立にも及んだ。 両体制の社会

特性の相異は全面的なものであった。 政治では複

数政党の議会制民主主義か、 単一政党の代行制民

主主義か、 が対立した。 一党専制政治が 「民主主

義」 と言えるかどうかはもちろん疑わしいが、 共

産陣営は自らを 「反民主的」 とは自認していなかっ

た。 選挙は行われたし、 政府は形式上は議会の統

制下にあり 「党」 は憲法上単なる 「指導主体」 た

るに留まった。

もちろん、 社会成員の多元的利害と多元的な政

治見解の統合は、 複数政党の存在と政党間選択の

民主主義なしにはありえない。 共産陣営は 「勤労

者の歴史的利益」 を代理する 「党」 の指導性が

「民主主義」 を代行する、 と主張したのだ。 共産

陣営の 「民主主義」 のこの外装 (ファサード) は

言論思想の統制とともに機能したが、 この外装は

体制優劣の決定によって終わる。 三権分立と行政

監督、 国権制限を内包する自立型法制が、 「党」

が三権の上に立ち、 民衆が行政を監督し、 制限す

ることができない共産陣営の管理型法制に勝るの

は論証の要もない。 こうして冷戦が体制の全面的

優劣の決定によって終結したために理念上の生死

をかけた対立は消滅し、 市場経済と資本主義のみ

ならず、 議会制民主主義と自立型近代法制が勝利

して、 「唯一の」 国際基準に上昇したのであった。

こうした事態は 「世界革命」 の理念の実現に先立

つ20世紀初頭にはありえなかった世界史的な状況

である。

現在のアメリカ一極支配の覇権構造は 「國際価

値」 の統合をともなうことにより、 ある程度まで

安定した国際秩序 (システム) を形成している。

アイケンベリーはこれをアフター・ヴィクトリー

(冷戦勝利後) の國際秩序と特徴づけ、 30年戦争

グローバリゼーションと体制移行

― 29 ―

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後のウェストファリア体制、 ナポレオン戦争後の

ウィーン体制、 第一次大戦後の国際連盟 (ヴェル

サイユ・ワシントン) 体制、 第二次大戦後の国際

連合 (関連する国際機関) のシステムと共通する

戦後秩序と特徴付づけている(15)。 冷戦の勝敗によ

る軍事的・政治的帰結がそれに照応する統合され

た 「國際価値」 に支えられる時、 国際秩序は単な

る一時の一極覇権状況ではなく、 新しい、“かな

りの程度安定した”、 国際秩序を形成していると

みなすべきである。

これを第一次大戦後にみれば、 当時の国際秩序

は国際連盟による国際宥和の組織化とそれを支え

る英米仏を基軸としたヴェルサイユ・ワシントン

体制であった。 民族自決原理によりオーストリー・

ハンガリー帝國は解体し、 オスマン帝国も解体し

てトルコは近代化に向った。 ただしウイルソン原

則を唱えたアメリカとレーニンの世界革命原則を

ロシアに実現したソ連は国際連盟に加入せず、 英

仏伊日を設立主要国とする連盟の國際秩序は弱体

だった。 それでも20年代の安定期には戦争を否認

する不戦条約が結ばれた。 しかし連盟の危機は早

くも30年代初期の世界的不況とブロック経済化の

うちに表面化し、 現状維持の 「持てる国 Haves」

英米仏に対して 「持たざる国 Have-nots」 日独伊

は勢力圏の軍事的拡張に向かい、 國際秩序は崩壊

して30年代末第二次大戦が勃発する。 パクス・ブ

リタニカの主役イギリス帝国は衰退し、 新興大国

アメリカは国際秩序維持の責務を回避した。

第二次大戦後には勝利した連合国とくに米ソ英

仏中の五大国が基軸となって組織した国際連合が、

無力だった国際連盟の経緯を反省し、 憲章を定め

て国際紛争の武力解決を禁止し、 あわせて国家主

権 (内政不干渉) を認めつつ 「侵略国制裁」 を原

則とする国際秩序を構築する。 国連の最も重要な

機関である安全保障理事会はこの五大国の一致し

た合意によってはじめて機能する。 国連は

GATT (貿易関税一般協定47年、 現在の WTO95

年)、 IMF (国際通貨基金46年)、 WB (世界銀行

46年) などの国際機関とともにこの戦後の国際秩

序のフォーマルな代表者となる(16)。 国連はさらに

基本的人権を宣言 (48年) し、 平和・人権・自由

貿易は戦後に守るべき 「國際価値」 として認定さ

れる。 これは国際連盟の時代と本質的に異なった

時代の出発を意味した。 この背景に数千万の犠牲

とヨーロッパからアジアの荒廃をもたらした大戦

争を繰り返すまいとする諸国民の熱望と、 第二次

大戦の主力、 無傷の兵器廠アメリカの軍事的・経

済的・理念的パワーがあった。 アメリカはイギリ

スに代わって世界の覇権を目ざしその支配と復興・

安定を維持する責務を担う姿勢を示した。

この国連を中心とした国際秩序は, 米ソ対立を

軸とする資本主義・社会主義の体制対立の冷戦期

に入るやたちまち機能不全に陥る。 第二次大戦の

勝利者であるアメリカは最強の経済大国であり、

核兵器を開発した軍事大国として資本主義世界に

覇権を確立した超大国となるが、 同じく勝利者で

あるソ連は大戦の被害からの復興の重荷を負った

が、 欧州大陸においては英仏を凌ぐ軍事大国、 特

に巨大な通常兵力を備えた大国として登場し、 核

兵器の開発でもたちまち米国に追いついた。 40年

代後半、 ソ連の東欧支配の固定化、 NATO によ

る西側陣営のソ連膨張阻止は二大体制対立の時代

を到来させ、 諸国民が期待した世界平和の希望を

遠ざける。 世界は核戦争の人類破滅の可能性にお

びえながら、 危うい平和共存のうちに体制の優劣

を競うこことなる。

国連憲章・規約が担った 「國際価値」 は後景に

退き、 自由陣営の 「國際価値 (アメリカ的価値)」

と共産陣営の 「國際価値 (ソヴェト的価値)」 が

正面において争う。 体制間の思想戦であり、 イデ

オロギー対決である。 ウイルソン原則を掲げ、 レー

ニン原則を掲げて20世紀の二つの 「國際価値」 を

予告しつつも連盟外にとどまった米ソは、 第二次

大戦後は疲弊した西欧を補強すべく国際連合に加

グローバリゼーションと体制移行

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盟したのだが、 こんどはこの二つの超大国が相互

に排他的な 「國際価値」 を掲げる。 国連安保理は

この対立で無機能化し、 平和の重大事項は国連の

外部で米ソ間の対決と直接交渉のうちに決まるよ

うになる(17)。

しかしながら、 国連憲章・規約に具体化した

「國際価値」 は体制ニュートラルであって経済・

政治・法制の体制特性から独立である。 このため

に冷戦期の二つの 「國際価値」 アメリカ的価値と

ソヴェト的価値の対決は、 それぞれの体制利害と

結合した部分的な 「価値」 に下落し、 背後の体制

利益を隠蔽する虚偽意識とみなされ、 相互排他的

な狭い 「価値」 にすぎないものとなった。 反対に

国連憲章・宣言 (規約) に示される国際基準は、

いかに国連が無力で弱く無機能的であっても国際

社会が遵守すべき 「國際価値規範」 となってゆく。

ここで冷戦期における国連活動の全体的な評価

を下すことは筆者の任にあまるが、 ジェノサイド

禁止 (48年)、 人権規約 (66年) など国連が引き

続き国際平和に果たした役割は小さくない。 50~

60年代のアジア・アフリカ諸国の独立と国連加盟

は、 米ソ対立のなかにあっても国連総会、 各種委

員会の機能を強化し、 途上国の開発と福祉に貢献

し、 米ソ対決の間にあって非同盟的調整の役割も

果たした(18)。

こうした国連憲章・規約の 「國際価値」 と当初

は部分的であったアメリカ的な 「國際価値」 は、

冷戦の終結に至る70~80年代の時期には大きな役

割を果たした。 米軍のベトナム撤退の逆説はすで

に見たが、 南アフリカのアパルトヘイトを廃止に

追い込んだのは現地黒人の長期の苦闘が主力であっ

たが、 国際社会からの道義的孤立、 経済的孤立

(アパルトヘイト禁止条約73年) が最後の詰めと

なった (廃止91年)。 ここでは南アの白人政権を

支持してきたのは西側先進諸国だったから、 平等

理想の東側 「國際価値」 の勝利とも言えた。 国連

憲章・規約の精神はアメリカ的部分価値に勝さっ

た(19)。

反対に1975年ヘルシンキでの東西交流、 人権擁

護の合意は西方国境の固定化を求めたソ連外交の

勝利と想われたが、 結果から判断すれば逆に 「東

西ドイツ統一」 をめざした西ドイツ東方外交の勝

利に終わった。 東側は人権擁護の国連憲章・規約

の拘束力を過小評価したのだった。 西側の大衆消

費の情報は東欧に流れ込み、 民生向上に努力する

社会主義体制側の経済劣位を実証するばかりであ

り、 ソ連は68年当時チェコに介入した軍事的な体

制防衛 (ブレジネフ制限主権論) に自信を失う。

国連憲章型の 「国際価値」 がアメリカ的 「國際価

値」 の流入をともなった。 この軍事干渉の困難な

状況下にポーランド連帯運動が起こり、 ソ連は軍

事介入ができなくなり、 東欧圏でのソ連の覇権は

実力と理念の正統性の両面において権威を喪失す

る(20)。 東欧の動揺と対になったのが中国経済の改

革・開放による世界市場利益への参加である。 こ

れは東アジア NIES の成功に学ぶ、 体制理念を維

持したままでの実利本位の行動であった。 中国で

は人権と自由の価値は問われず、 ただアメリカ的

価値のうち市場経済、 資本主義営利企業の 「価値」

だけが受容されたのだ。

東西交流、 民生重視、 緊張緩和、 世界市場利益

参加の流れは80年代後半、 共産陣営内においても

止めようもなく、 アジア、 ラテン・アメリカ諸国

はもちろんとうとうと世界市場利益への参加にな

びく。 ソ連圏またペレストロイカを打ち出さざる

をえなくなりまずは経済の抜本的改革をめざし、

前提として軍縮協定をアメリカに求め、 資源の民

生需要への転換を図る。 ソ連はさらに経済改革を

進めるため、 政治・社会面での 「新思考」 をうち

だすが、 「新思考」 は複数政治と市場経済と情報

公開を意味し、 ソ連が世界革命の 「國際価値」 に

立つ理念連邦であることをやめ、 「ふつうの国」

を目標とする。 こうしてソ連共産党は支配の正統

性をみずから放棄し、 80年代末諸共和国の分離過

グローバリゼーションと体制移行

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程への軍事介入を断念して、 自滅する (21) 。 冷戦

は終結しソヴェト的 「國際価値」 は完敗、 消滅し、

アメリカ的 「国際価値」 が再統合世界の 「國際価

値」 にせり上がる。

アメリカ一極支配の覇権構造による国際秩序の

根拠は、 まずは実力、 パワーの面からはアメリカ

の圧倒的な軍事力であり、 グローバリゼーション

を主導するその経済力であり、 EU・日本など先

進国との政治同盟である。 しかしそれだけではな

い。 この支配が維持され、 正当化される理念面が

支配の要にある。 アメリカ的 「國際価値」 は冷戦

に勝利して対立するソヴェト的価値を駆逐し、 世

界を統合する 「國際価値」 にのし上がり、 冷戦後

の一極支配に“正統性”を与えている。 アフター・

ヴィクトリーの US 一極支配の基本構造は実力と

理念の二本の柱によって支えられている。

90年代の諸関係はもちろんのこと、 21世紀初頭

の国際関係は冷戦後に発生したこの基本構造の発

展と矛盾の展開とみるべきであろう。

だがここで冷戦後にアメリカ的 「國際価値」 が

諸国民の当然に遵守すべき 「国際価値規範」 にま

で上昇した、 と断定すると認識を誤る。 というの

はアメリカ的 「國際価値」 と国連憲章・規約の言

う 「國際価値」 は人権や自由については多く一致

するにしても、 そもそも後者は対立した体制に

ニュートラルな 「國際価値規範」 に由来しており、

とくに平等・福祉・市場・環境・貧困などについ

てはアメリカ的価値と一致しない、 一致できない、

多くの契機をふくんでいる。

アメリカ的 「國際価値」 の勝利とならんで、 国

連憲章・規約に権原をもつ 「國際価値規範」 は安

保理事会の分裂状況の改善により強化され、 90年

代のアフリカの部族間紛争からユーゴスラヴィア

連邦解体に伴う民族浄化の内戦にあたって 「侵略

制裁」 の原理とは異なる内政不干渉原則に踏み込

む 「人道的介入」 の新基準が追加され、 進んで

「平和の構築」 のための PKO、 PKF が多様に組

織されるようになる。 これらは既にアメリカ的価

値を超えたものであり、 さらには国連の元来の目

標であった 「国家の安全保障」 から、 加盟国の貧

困の解消、 削減を含む 「人間の安全保障」 へと安

全保障の概念が拡張される。 また環境保全が地球

規模で求められ、 諸国家に努力が求められる(22)。

こうした国連憲章・規約に由来し、 それらを拡

張する 「國際価値規範」 が、 勝利したアメリカ的

「國際価値」 とときに共同歩調をとり、 ときに相

対立しながら国際秩序に機能を強めている。 そこ

にさらに正規の国際機関はじめ、 情報のグローバ

ル化 インターネットなどの にのったイン

フォーマルな知的共同社会、 非政府組織 NGO な

どの規範的活動 (なしは國際法制的活動) が加わ

る(23)。

Ⅲ 世界市場参加 (グローバリゼーション) 利益

とアメリカ的 「國際価値」 の一致と乖離

アメリカ一極支配の覇権構造はアメリカ的 「國

際価値」 のソヴェト的 「國際価値」 に対する勝利

と結合して、 冷戦後の国際秩序 (國際システム)

の根幹を成している。 これは、 第一次大戦後、 第

二次大戦後の国際秩序 (システム) と同じく、 冷

戦の帰趨を左右しながら最終的に体制優劣を決定

した“勝利者の世界秩序”であって、 これに匹敵

する国際状況の激変なしには容易には崩れないシ

ステムである。

だがこの認識は、 アメリカ一極支配の覇権構造

が無矛盾で安定したものであるということを意味

しない。 反対にこのシステムの根幹そのものは矛

盾に満ちたものであり、 21世紀の提起するより複

雑で根本的な人類社会の諸課題の解決に適応でき

るシステムではない。 小論はこの国際秩序成立の

根拠を解明しつつ、 同時にこれがいかに不安定で

あって、 矛盾をはらんでいるかを明示しようとす

る。

アメリカ一極支配の覇権構造の基礎にはアメリ

グローバリゼーションと体制移行

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カが主導するグローバリゼーションへの参加の経

済利益がある。 冷戦後の國際秩序はなによりもこ

の参加の経済利益に訴え、 民主主義・人権を経済

繁栄と連結するアメリカ的 「國際価値」 の理念の

優位に訴える。 だが世界総体のこの鳥瞰図からそ

れぞれの広域に分解 (ディスアグリゲート) して

みると、 経済利益と 「国際価値」 理念の二つの柱

の矛盾・対立があらわに見えてくる。

いまこれをかなり粗く、 アフリカ、 中東、 東北

アジアの三つの広域において概観してみよう。 こ

れは正確なものではないが、 経済利益と価値理念

の統合がいかに困難かを示す例証となろう。

§1 アメリカ的 「國際価値」 の下での世界市場

参加利益からの排除

今日のグローバリゼーションの利益は多様な意

味を持つが、 ここでは狭く拡大・深化する世界市

場 (財貨サービス・資本金融・労働人材) への参

加の経済利益と理解することとする。 閉鎖経済が

開放経済に転じて貿易を行えば、 リカードの比較

優位の原理から貿易参加国の双方利益となり世界

経済総体にも利益となる。 閉鎖経済からの劇的な

転換でなくとも、 関税など貿易の障壁があるいは

低下しあるいは撤廃されれば同じことが言える。

国際通貨で測定して世界価格の方が内国価格より

安ければ輸入し、 高ければ輸出するからこれは常

識上の真理でもある。 GATT が WTO に進化し

たのもこの流れに沿っている。 ソ連・中国・東欧

の移行諸国が体制移行を終了しつつあるのも、 こ

のグローバリゼーション参加利益が大きいためで

あり、 かつまた逆にこれら旧社会主義体制諸国の

市場移行が企業間競争を大規模化し (メガコンペ

ティション) てグローバリゼーションを深化させ

ている。

だが世界市場への自由な参加が国民経済の利益

となるかどうかは、 実際にはいかなる諸条件を考

慮するかによる。 貿易利益が双方に発生するにし

ても利益配分に不平等が生じる。 JS ミルの原理

である。 ミルは大国の相対不利を主張したが、 大

国・小国の損得よりも比較優位原理に基づいて産

業特化が生じる場合、 動態に相違が生じ、 需要強

度の大きい産業、 製品革新・工程革新の速度の大

きい産業に特化する国は長期には有利であり、 逆

に静態的な、 技術革新の遅い停滞産業に特化する

国は長期には不利である。 リストが展望のある幼

稚産業の保護を主張して自由貿易に反対したのは

こうした含意からである。 現代ではクルーグマン

が動態産業への特化の歴史的有利を説いて 「南」

は 「北」 を模倣して追いかけても追いつけないモ

デルを組み立てる。 今日の技術進歩の激しい時代

には国民経済が 「どの産業に特化するか」 は貿易

利益上決定的である(24)。

60 年 代 に GATT ・ IMF 体 制 に 対 抗 し て

UNCTAD (国連貿易関税会議) が成立し加盟途

上国の多数の支持を得たのはこうした事情による。

工業製品に特化した先進国は一次産品、 軽工業品

の輸出に依存する途上国よりも交易条件は常に有

利に働くから、 この特恵関税によって是正すべき

である、 とするプレビッシュ・シンガー命題がそ

の根拠となった(25)。 だがこの方向は70~80年代の

グローバリゼーションによるとくに東アジア地域

の開発工業化の成功により支持を弱め、 代わって

途上国の 「輸出志向工業化」 が推奨される。 先進

国が産業構造をより高度化させれば、 軽工業品さ

らには高度の技術を駆使する工業製品に途上国が

特化を進展させる (工程間分業などにより) こと

が可能となり、 成長軌道に移ることが出来る。 直

接投資と多国籍企業がこれを促進する。 東アジア

の高成長により世界の貧困は減少し、 所得の國際

格差の 「縮小」 傾向が生じる。 グローバリゼーショ

ンは途上国にも歓迎される(26)。

だがふたたび、 90年代には工業化に移れず一次

産品 (石油資源を除く) に特化せざるを得ないア

フリカなどの後発途上国 (最貧国) の困難が明か

グローバリゼーションと体制移行

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になり、 アジアでは開放インドの工業化・知識集

約化により貧困はさらに削減されたのに、 アフリ

カ (中でもサブ・サハラ諸国) の貧困は深まる。

これは閉鎖経済のゆえに生じた困難であるよりは

開放経済による貧困 内国上の工業化障壁を捨

象すれば の強制である。 即ちリカード比較優

位モデルは国際通貨なき二国間の交換モデルだが、

いかなる国民経済にも比較優位は発生するにして

も、 世界市場の多国間競争にあっては 「北」 先進

諸国も 「南」 後進諸国も同じ市場で激しい競争に

勝ち抜かねばならず、 比較優位諸国間での絶対費

(国際通貨測定) 競争における敗者はこのメガ・

コンペティションから脱落せざるを得ない。 世界

市場競争は先進諸国にあっても後進諸国にあって

も耐え難い圧力なのだ(27)。

しかもグローバル化のもと消費財・食糧輸入は

現地の伝来農産物の生産を抑え、 世界市場向け商

業耕作 (綿花、 コーヒーなど) に集中し、 旧共同

体紐帯は壊れ元に戻らない。 経常赤字は國際援助

(低利ローンなど) でまかなわれるから、 債務返

済の重荷は増加する。 アフリカ諸国には国民国家

統合が未熟なケースが多く、 部族紛争・人種紛争

に混乱し、 持続的経済成長による貧困脱却の国家

政策に欠ける。 途上国の貧困根絶を提唱する国連

の人間の安全保障という 「國際価値規範」 も市場

経済による繁栄のアメリカ的 「国際価値」 もいず

れも“絵に描いた餅”で機能せず、 紛争・病気・

貧困の混乱のうちに住民は絶望的な生活を強いら

れる。 グローバル化の現在、 これら後発途上国は

貧困の内国トラップと國際トラップの二重の罠に

はまっている (28) 。

§2 世界市場参加のフラストレーションと 「國

際価値」 ・反 「國際価値」

アメリカ的 「国際価値」 を承認し支持しても、

グローバル化そのものからは貧困を排除できず、

それがかえって國際貧富の対立を深刻化せざるを

えないのは、 この國際システムの深奥にひそむ欠

陥である。 これは資本主義の経済活動が地球環境

の保全を求める人類共通の努力を妨げる (アメリ

カによる京都議定書の拒否) という矛盾とともに

今世紀最大の課題であろう。

小論はここでは世界市場への参加利益はそれぞ

れの国民経済が享受するにしても、 この参加利益

が同時に社会諸階層の欲求不満をもたらす必然性

を、 こうした欲求不満とアメリカ的 「國際価値」

の受容と反発との関連において考察してみたい。

世界市場への参加において発生する国民経済利

益と社会階層の欲求不満は貿易論の常識で目新し

いことではない。 自由貿易の古典派モデル (リカー

ド) は私利益=国民 (経済) 利益=世界 (合計)

利益の論証であり、 経済学で 「もっとも美しい定

理」 であるが、 同時にこれは国民経済の比較優位

セクター (産業) と比較劣位セクター (産業) の

分割対立のモデルでもあって、 比較劣位産業の完

全な消滅 (完全特化)、 すなわち生産要素の比較

優位産業への全面移動を前提とする。 移動摩擦

(國際要素移動はないものと仮定) のコストはゼ

ロ、 要素の完全利用 (完全雇用) が想定される。

一般均衡の 「美しい定理」 が数多くの仮定に立脚

するのと同様に、 現実への接近に向えばこのモデ

ルの欠陥はたちまちに露呈される (29) 。

すなわち、 比較劣位産業は輸入競争力がないか

ら当然損失 (不利益) をこうむるが、 要素移動に

は訓練費用がかかり、 訓練を受けて新規の (比較

優位産業の) 技能を獲得できるかどうかは不確か

である。 ここに性・年齢上の格差があるし、 資本・

労働のいずれも固定性と居住地への定着性がある。

劣位産業の要素移動は利潤・賃金の低下をともな

い、 失業や強制引退を生む。 不完全特化・不完全

利用は必至となり、 優位産業の好況・国民経済の

繁栄の裏に劣位産業・不振地域・対応不能階層・

マイノリティーに不満が鬱積する。 これらの事情

はしばしば政治上の軋轢となり、 衡平を求める社

グローバリゼーションと体制移行

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会圧力が高まる。 グローバル化のもと GATT・

WTO に国内紛争を反映する國際紛争が増加する

のは当然である。 自由貿易は 「光と影」 の表裏一

体の現象である。

要素賦存差・不完全特化貿易の自由貿易の新古

典派モデル (ヘクシャー・オリーン) もまた、 私

利益=国民利益=世界合計利益を論証する 「美し

い定理」 である。 だがこれは要素価格である利子

(資本レンタル) と賃金比率の変更を必然とする

から (要素価格均等化)、 利子と賃金を階級所得

と解すると貿易は階級利害の対立を必然とすると

の含意をもつ。 実際に労働集約財の輸入増は労働

者階級利益に反し、 資本集約財輸入増は資本家階

級利益を損なう。 ここでは産業利害の対立が階級

利害の対立として示される。 こうした貿易摩擦は

もっともありふれた軋轢の一つである。 要素移動

の障壁が軋轢を生むのは古典派モデルと同様であ

る。 貿易はこうして世界市場参加利益と同時に裏

面に社会階層・階級の対立をもたらし、 ここから

社会階層・階級の欲求不満フラストレーションが

生じる。 グロ-バル化の今日、 労働集約財 (相対

的に) を輸出して成長を続けるアジア地域に対し

て先進国の輸入競争産業は欲求不満をつのらせ保

護を要求する。 生産基地の国外移転で代替すれば

先進国製造業の雇用減など、 いわゆる空洞化とな

る(30)。

新古典派モデルの欠陥について言えば、 そこで

は資本集約財を輸出する資本蓄積の進んだ先進国

と労働集約財を輸出する後進国に同じ生産関数が

想定されていて、 資本蓄積格差と同時にそこに技

術格差、 歴史的発展段階の格差が存在する事実が

隠される。 グローバル化が世界全体の所得水準の

上昇とともに國際貧富 (国民経済間) 格差を拡大

する根底にはこうした国民経済間の技術格差があ

る。 北北格差は縮まり、 南南格差は拡大し、 南北

格差は縮小しない(31)。

現在のグローバル化における世界市場参加によ

る劣位セクターないしは社会階層・階級の欲求不

満で注目すべきは、 ソ連邦解体以後の市場移行ロ

シアにおける資源輸出レントによる比較優位産業

のアンバランスな過剰利益とそれにあずかれない

社会階層・階級の不満である。 これは社会システ

ムの変更に伴う貿易の裏面をなしているので、 伝

統的な経済理論で説明できるものではないが、 あ

えて言えばシステム移行とリカード比較優位論お

よび差額地代論を組み合わせて説明できるであろ

う。

ロシア経済は90年代末までは転換の困難と私有

化への混乱に苦しんでいた。 だが97-98年の金融

危機の衝撃に対し、 為替レートの1/4への切り下

げにより輸入競争製造業は国内競争力を回復し、

石油価格の上昇により外貨収入は増大、 財政危機

は克服され、 今世紀初頭から成長軌道に乗り、 資

本主義への体制移行も資源産業 (金属加工を含む)

を舞台に固定投資が積極化して、 90年代の移行期

の困難をくぐり抜けて 「明るい景況」 にある。 と

ころがこの間、 激しいインフレから年金生活者の

困窮は深刻になり、 旧来の軍需産業 (産軍複合体)

の就業者や関連地域住民、 農業地帯住民の所得回

復はままならない。 他方、 資源産業 (石油・ガス)

は内国価格を下げて他産業に 「補助」 しながらも、

従業する経営者・就業者から、 関連商業・サービ

ス業、 資源地域・首都圏住民には相対的に高い所

得を与えている。 社会の不平等度は資本主義への

移行により急速に異常なほど高まった。

石油価格など土地の肥沃度 (鉱山の貧富) に依

存する生産物の価格は、 理論上は最劣等地 (鉱山)

の生産費が価値 (価格重心) を決定するから、 優

等地 (鉱山) はレント (自然優位から生じる不労

の固定超過利潤) を得る。 マルクスの言う 「虚偽

の社会的価値」 である(32)。 これは労働価値説を採

用しなくとも成立する。 世界市場参加利益 (移行

の成果) をロシア国民経済は享受しているのだが、

この利益ははなはだしく不均等に分布しおり、 そ

グローバリゼーションと体制移行

― 35 ―

Page 37: 巻頭言 - Meiji Gakuin Universityprime/pdf/PRIME23-1.pdf · 軍再編協議は、 仕上げになっていくものと思われ ますから、 沖縄や神奈川など米軍基地のある地域

れを享受できない社会階層・階級の強い欲求不満

を生んでいる(33)。

移行地域ではないが似たような現象が中東 (西

アジア) 産油国においても見られる。 この地域の

産油国はもともと 「レンティア国家 (rentier)」

とみなされ正常な産業活動による国民経済の維持、

発展よりも石油輸出や観光、 出稼ぎ送金などに大

きく依存する特徴を持っていた。 これらの諸国が

石油輸出カルテルにより石油価格を引き上げ、 先

進国メジャーの支配を脱して工業化資金を得よう

と努めた歴史は知られている。 これにより若干の

小国は高所得国となったが、 サウジアラビアはじ

めほとんどの国家は自身の工業化に失敗し、 獲得

外貨を支配階級の奢侈や軍事費に浪費した。 イラ

ク旧政権はインフラ整備などにも支出してポピュ

リスト的支持をえたが、 それでもレント配分に不

平等が著しかった。 人口増、 都市化、 失業も加わっ

て中東諸国の欲求不満、 なかんずく若年層のそれ

は強く、 これにユダヤ人国家イスラエルをアラブ

人居住地に人為的に設置した欧米先進国への憤懣

が重なり、 イスラム教義を根拠に過激な聖戦 「國

際テロ」 に走る分子の温床となっている(34)。 ソヴェ

ト的 「國際価値」 の敗退を受けてアメリカ的 「國

際価値」 をまずは受けいれて体制移行の過程にあ

るロシア社会とは異なる。 中東ではイスラム教義

が社会秩序を維持するうえで不可欠の役割を果た

しており、 同じ一神教であるキリスト教やユダヤ

教に対する反発は根強い。 グローバル化利益とア

メリカ的 「國際価値」 はこれら移行ロシアや中東

広域の欲求不満層において鋭く対立する。

§3 世界市場参加利益と 「國際価値」 間対立の

残存、 国民統合の 「国家価値」 間の対立

これらの広域に対して対比的なのは東アジア、

とくに東北アジア地域である。 ここは80年代以降

のグローバリゼーションの経済利益の最大の受益

地域でもあるが、 同時に冷戦構造が残存しソヴェ

ト的 「國際価値」 が中国を中心に生き残り、 分断

朝鮮半島と台湾をめぐって冷戦期の二つの陣営が

対立を続けている。 この対比的な組み合わせは、

一党専制を堅持する 「社会主義市場経済」 の矛盾

に満ちた中国の位置づけから生まれているが、 こ

れに中軸の日韓中それぞれの国民統合が立脚する

「国家価値」 の対立が重なる。

これは、 ヨーロッパ諸国民が歴史的対立を超え

て共通する価値を掲げ、 半世紀かけて EU 統合を

固め、 体制移行の東欧を包み込んで拡大している

のとは反対である。 現在の中国 (中華人民共和国)

は共産主義 (平等) への志向を国是としながら、

事実上は抗日戦争を戦い抜き、 続く国共内戦に勝

利して清末以来の国民的屈辱を晴らした 「歴史的

記憶」 に支配の正統性と国民統合を求める。 「社

会主義市場経済」 があまりにも実利本位で資本家

的な階級対立・分裂を肯定する (「先富論」 など)

ために、 「抗日戦争勝利」 という侵略の屈辱を克

服した中華民族の誇りを理念統合の重点に移しつ

つある。 韓国は日本帝国の解体により独立した新

国家であるから 「反日」 は譲れない。 対する日本

は、 中華帝国 (隋唐) からの自立の古代から、 公

武二重政権時代、 明治維新による近代化、 敗戦に

よる日本帝國解体後の小日本の再建まで 「天皇制

統合」 をもって国民の歴史的記憶を連続させてき

た。 朝中侵略は“一時のこと”とは融通自在の無

責任というべきだが、 最古の国家でありながら易

姓革命を繰り返す 「新興」 の理念国家や、 従属の

歴史に耐えて独立した 「新国家」 の理念とは異質

である(35)。

世界市場参加利益では貿易―直接投資の好循環

が東アジア広域の特徴である。 固定相場 (ブレト

ン・ウッヅ体制) の廃止と石油危機 (およびオイ

ルマネー・リサイクル) 後の80年代、 國際資本移

動は直接投資・間接投資 (ポートフォリオ) ・ロー

ンすべてに活発化してくる。 資本移動は、 テキス

トブック風に言えば、 利子率 (レンタル) の均等

グローバリゼーションと体制移行

― 36 ―

Page 38: 巻頭言 - Meiji Gakuin Universityprime/pdf/PRIME23-1.pdf · 軍再編協議は、 仕上げになっていくものと思われ ますから、 沖縄や神奈川など米軍基地のある地域

化を介して資本豊富国から資本不足国へ流れ、 資

本の世界的な最適配分を成立させるはずである。

だが資本は富国 (余剰国) から貧国 (不足国) へ

流れるか。 たしかに利子率の均等化傾向は成り立

つが、 先進諸国・諸途上国・最貧国間に発展度=

信用度に大きな格差がある世界では、 自由な資本

市場はそれゆえにこそ最適資本配分を実現しない。

ファイナンスにおいては返済能力、 金融脆弱性、

制度未整備、 成長展望が確実に見込まれる必要が

あるから、 資本移動の主流は先進国間であって、

その3/4が富国間の流れである(36)。 アメリカのド

ル特権 (最大赤字国へ無限界的な資本流入) のも

と経常黒字国は赤字国へ資本を流す(37)。

世界市場参加利益のなかで経済発展に最も効果

的なのはホスト国への直接投資である。 現代の直

接投資は主に多国籍企業によって行われる。 多国

籍企業はグローバルに営利活動を展開し、 研究開

発・生産・経営統括・資金調達などの活動立地を

世界全体を視野に入れて決定する。 このなかで途

上国は主として賃金・土地・資源・輸送コストの

有利不利から選択されるが、 ここでは貿易上の比

較優位は細分化された工程別なり機能別に評価さ

れ、 経営本部の統括の下に企業全体の利益極大行

動に従う。 かっての異産業間貿易 (垂直分業) に

代わって産業内貿易 (水平分業) が比重を増し、

さらには産業内貿易における企業内貿易が増加す

る。 多国籍企業の直接投資が 「資本を最も求めて

いる貧国」 ではなく 「最も企業に有利な立地 (生

産基地なり市場アクセスなりの)」 をもつ、 発展

展望が大きく、 カントリーリスクの小さな国が選

ばれるのは当然である。 資本は先進国から途上国

へ流れる場合にも投資収益が見込まれる、 工業化

の成功しつつある途上国に向う。 東アジア、 東南

アジア、 南アジアなどの広域はこの観点から最も

魅力ある地域である(38)。

いわゆるアジア NIES がついで ASEAN 諸国

が、 近年は中国がこうした直接投資の対象国とな

り、 アジア NIES が投資国に変じている。 こうし

てこの広域での貿易は域外・域内ともに高成長を

示し、 投資と貿易の広域内相互依存を強めている。

グローバル化の中で東アジア、 東北アジアの諸国

(閉鎖を続ける北朝鮮をのぞいて) の経済相互依

存と相互利益はきわめて大きい。 財貨・資本・労

働・技術・金融・観光その他サービス・情報・大

衆文化はボーダーレスに行き交う(39)。

経済利益を互いに享受しながら、 体制を異にす

る南北朝鮮、 中国本土と台湾、 日中の 「國際価値」

は対立を続け、 とくに朝鮮半島の非核化、 北の圧

制的体制と崩壊不安、 台湾海峡の緊張はアメリカ

の軍事プレゼンスと絡んで地域の緊張を高めてい

る。 これに靖国参拝をめぐる日本と中韓の対立が

あり、 日中間には覇権と資源の対立が高まる。 経

済利益の相互依存のなか国民間の異なった 「歴史

記憶」 は、 感情的なナショナリズムの危険を孕む。

(1) ほぼ均等な力をそなえた主権国家の不安定な

國際秩序とは異なり、 隔絶した国家がある広

域の国際秩序の中軸となっている場合、 そう

した状況はたとえば古代地中海世界における

ローマの平和、 パックス・ロマーナなどと名

づけられる。 19世紀中葉から後半の産業資本

主義に由来する世界商業・金融力を備えた海

洋帝国であったイギリスを基軸とする国際秩

序は、 こうしてパックス・ブリタニカと表現

された。 これは世紀末から20世紀初頭にかけ

て新興ドイツの挑戦を受ける。 日本の真珠湾

攻撃に応じて第二次大戦の最大の勝利者となっ

たアメリカ合衆国の実力は, 戦後隔絶したも

のとなった。 このアメリカの実力 (軍事・経

済・政治力) を軸に、 西欧や日本など先進諸

国は、 同盟・連携・相互利益を通してアメリ

カに追随し、 東欧を従えたソ連を盟主に共産

党権力により統合した中華人民共和国と連携

グローバリゼーションと体制移行

― 37 ―

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する社会主義陣営に対抗する。

(2) 冷戦期におけるパクス・アメリカーナは世界

を一元的に支配するものではなく、 ソ連を軸

とする共産陣営に対立する西側陣営を支配す

る国際秩序に限られていた。 もちろん米国の

経済力は西欧・日本の回復と発展により50年

代より相対的に下落し、 60年代後半からのベ

トナムへの軍事介入の失敗はアメリカの政治

力を相対的に下落させた。 ここから80年代、

パクス・アメリカーナの衰退論が盛んになる

が、 この時期こそグローバリゼーションとと

もにソ連圏の分裂と解体が進行した時期だっ

た。

R. G. Gilpin, The Political Economy of Inter-

national Relations, Princeton U. P., 1987, ギ

ルピン、 佐藤誠三郎、 竹内透監訳 『世界シス

テムの政治経済学―国際関係の新段階』 東洋

経済新報社、 1990年、 参照。

(3) 第二次世界大戦は、 1、 先進資本主義国間の

戦争 (米英仏 vs 独日)、 2、 資本主義と社会

主義の異体制間戦争 (独日 vs ソ)、 帝国本国

と従属国間の戦争 (日 vs 中) の三面の性格を

持っていた。 荒井信一 『第二次世界大戦』 東

京大学出版会、 1973年。 アメリカは日独を占

領し復興を援助、 ソ連は東欧を占領支配し自

己の体制を強制、 国共内戦に勝利した中国の

共産党は中ソ同盟を結ぶ。 冷戦の始まりであ

る。 永井陽之助 『冷戦の起源』 中央公論社、

1978年、 V. Mastny, The Cold War and So-

viet Insecurity, The Stalinist Years, 1996,

マストニー、 秋野豊、 広瀬佳一訳 『冷戦とは

何だったのか』 柏書房、 2000年。

対立する二体制間の軍事・経済・政治上の

実力の差は明らかだった。 加えて陣営の凝集

力 (結合力) も異なっていた。 西欧では、 フ

ランスと東西二体制に分割されたドイツ (西)

は不戦の和解・統合にむかい、 完敗した日本

は豊かさを求めて占領者アメリカに追随し一

転してその強固な同盟国となった。 他方、 欧

州から切断された東欧ではソ連圏からの離脱

の底流は強く、 理念を共にするとはいえユー

ラシア大陸の二大国として7000キロの国境を

はさんで対峙する中ソはつねに深刻な亀裂の

危険をはらんでいた。

(4) 冷戦は, 核対立を含む米ソ軍事対決の終結と

考えれば、 両者の中距離核全廃合意 (84年)、

ベルグラード宣言 (ブレジネフ制限主権論の

撤回、 88年) からマルタ米ソ冷戦終結宣言 (89

年) に至って終結した、 と言える。 しかしな

がら冷戦は、 資本主義・複数政党政治の自由

陣営と社会主義・一党専制政治の共産陣営の

体制間対立に根拠をもつ、 軍事・政治・経済・

理念の全面的な対立と対抗によって20世紀後

半の世界を特徴づける総合的現象であって、

この歴史的展開は単なる軍事対決の開始と終

了をもって規定することはできない。 藤原帰

一 「冷戦の終わりかた」 『20世紀システム』 第

6巻第6章、 東京大学社会科学研究所編、 東

京大学出版会、 1998年, は89年 (マルタ会談)

をもって冷戦の終結とし、 湾岸戦争を冷戦後

としている。 アメリカの一極支配は、 歴史的

にも、 概念的にも、 対抗する超大国ソ連の崩

壊 (91年末) によって成立した。 後出の注

(21) 参照。

(5) 藤原 『デモクラシーの帝国』 岩波書店、 2002

年、 は現在のアメリカを 「帝国」 と規定する。

氏は帝国を区別し、 ①軍事大国、 ②多民族支

配国家、 ③植民地支配国、 ④世界経済統合に

おける帝國、 の4種類をあげ、 アメリカをグ

ローバル化における一極超大国と見て 「デモ

クラシーの帝国」 とする。 グローバル化を1980

年代以降の世界の状況と考えれば、 この規定

は新しい概念による 「帝国」 であるので反論

もできない。 しかし 「帝国」 を実力パワーに

グローバリゼーションと体制移行

― 38 ―

Page 40: 巻頭言 - Meiji Gakuin Universityprime/pdf/PRIME23-1.pdf · 軍再編協議は、 仕上げになっていくものと思われ ますから、 沖縄や神奈川など米軍基地のある地域

よる広域ないしは他国家・領域の支配と考え

れば (この場合③を帝国の典型とすることと

なろうが)、 アメリカは 「帝国」 といいがたい。

グローバル化は世界市場への諸国家・諸企業

の参加利益によって維持されるから、 グロー

バル化における 「帝国」 は恣意的な概念とな

りかねない。 そこにはなお主権国家と営利企

業の自主 (私的) 判断が働いている。

A. Valladão, Le XXIe Siècle sera Américain,

Le Découverte, 1993, ヴァラダン、 伊藤剛、

村島雄一郎、 都留康子訳 『自由の帝国』 NTT

出版、 2000年、 はこの規定と似ているが、 藤

原は帝国支配を強調し、 ヴァラダンはアメリ

カ自身の国際化・多国籍化・多民族化に力点

を置く。

(6) S. P. Huntington, The Clash of Civilizations

and the Remaking World Order, George

Borchardt Co., 1996, ハンチントン、 鈴木主

税訳 『文明の衝突』 集英社、 1998年。 冷戦期

の二分法を文明の八分法に置き換える思考は

「広域文明」 を歴史の単位とするトインビーに

由来する。 この仮説は、 ソ連および旧ユーゴ

の理念連邦の崩壊後に90年代旧ユーゴに起こっ

た国民国家形成の民族紛争にはよく当てはまっ

た。 岩田昌征 『ユーゴスラヴィア多民族戦争

の情報像』 御茶の水書房、 1999年。

(7) 冷戦が根本的には資本主義と社会主義の両体

制間の対立・抗争・競争からもっとも適切に

説明されるとすれば、 その歴史的淵源は“世

界戦争と世界革命”による世界政治経済統合

体の“分裂”から説かれねばならない。 80年

代以降のグローバリゼーションとともに体制

間の優劣が決定され、 社会主義陣営が解体し、

その資本主義への体制移行がグローバリゼー

ションをさらに深化させているのが現在であ

る。 これが分裂に対応する世界政治経済の

“再統合”の過程である。 岡田裕之 『冷戦か

ら世界経済再統合へ』 時潮社、 1997年、 はス

ケッチにすぎないが、 中山弘正 『現代の世界

経済』 岩波書店、 2003年、 はこれと同じ観点

に立つ。 ただし後者は現在を 「アメリカ地球

帝国」 とその没落と観る。

国際政治学からする冷戦分析、 たとえばマ

ストニー、 前掲書、 は冷戦の本質を 「ソ連の

脅威という西側の認識」 にあった、 とする。

それでは20世紀後半の世界政治経済の過程の

重要な含意を汲み取ることはできないし、 19

世紀末・20世紀初頭から20世紀末・21世紀初

頭にいたる歴史的過程をその骨格においてと

らえるこができない。 岡田 「20世紀とは何で

あったか 国際政治学的分析」 『経営志林』

第36巻第3号、 第4号、 第37巻第1号, 1999-

2000年、 参照。 冷戦全体の経緯については cf.,

J. Walker, The Cold War and the Making of

Modern World, Forth Estate, 1993.

(8) 独ソ戦勝利によるソ連の東欧占領の固定化は

ソ連圏離脱を求める民衆の不満と抵抗の爆発

(56年東独・ポーランド・ハンガリーの反乱、

68年チェコの抵抗) を反復させる。 他方中ソ

は、 30年代以来のコミンテルン=ソ連と辺境

における軍事根拠地拡大の毛沢東路線との対

立に始まるもので、 短い蜜月を除いて50年代

後半にはソ連の中国援助は停止となり、 修正

主義論争から60年代の国境軍事衝突に至る。

ここでは理念=教条の対立と大国の領域・覇

権の対立が重なる。 国際労働運動研究所編、

国際関係研究所訳 『コミンテルンと東方

(1969年)』 協同産業出版部、 1971年。

(9) 岡田、 前掲論文、 1999-2000年。 この期のソ

連の対外膨張・援助・干渉と石油外貨収入増

については、 P. Wiles (ed.), The New Com-

munist Third World, Croom Helm, 1982, H.

C. d'Encausse, Ni paix ni guerre,

Flammarion, ダンコース、 尾崎浩訳 『パック

グローバリゼーションと体制移行

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Page 41: 巻頭言 - Meiji Gakuin Universityprime/pdf/PRIME23-1.pdf · 軍再編協議は、 仕上げになっていくものと思われ ますから、 沖縄や神奈川など米軍基地のある地域

ス・ソビエチカ』 新評論、 1987年、 田畑伸一

郎 「1980年代後半のソ連経済」 『スラブ研究』

第39号、 1992年、 参照。 ソ連のアフガン介入

(79年) は泥沼化し連邦解体の引き金となる。

(10) 東アジアの輸出志向成長戦略の成功物語は周

知である。 オイルマネーのリサイクルにより

西側からの借款が容易になったのを受けて、

東欧は民衆消費の向上と工業化を目指して輸

入代替工業化戦略をとる。 だが非効率的な投

資と消費増は、 製造業の国際競争力強化の失

敗とともに、 対外債務の累積をもたらすばか

りとなった。 東欧は西欧に対してのみでなく

途上国とみなした東アジア地域からも発展が

遅れてくる。 貝出昭編 『コメコン諸国の経済

発展と対外経済関係』 研究双書第331, アジア

経済研究所, 1988年。

(11) 79年の改革開放の路線が成功し、 20年以上続

いた高成長により、 中国は 「世界の工場」 と

なり、 アメリカに次ぐ21世紀の強国となった。

経済規模が世界第二の経済大国日本を抜くの

は時間の問題である。 1995年現在、 国連デー

タ World Economic and Social Survey ,

2003, では為替相場測定で日本の GDP は中国

の7倍 (51340/7000億ドル) だが、 購買力測

定では中国の方が大きい (28790/32370億ド

ル)。 「社会主義市場経済」 すなわち一党独裁・

集権原理と営利企業・市場原理の二つは 「概

念上両立しない」。 だか、 これを説明するのが

中国経済の問題である。 小論の仮説は、 経済

では、 広大な労働力過剰の農村ミリュウが学

習能力の高い低廉労働力を無限界的に供給で

きるという修正ルイス・モデルを基礎とする。

政治では、 中央権力の低下と地方権力の上昇

が顕著であるが、 一党専制はこれまでは中国

の政治安定に積極的な機能を果たしてきた。

(12) 今井瑛一、 菊地昌典、 木村哲三郎 『新インド

シナ戦争』 亜紀書房、 1980年。 ソ連は中国の

主敵となり、 74年、 �小平は社会帝国主義=

ソ連のため 「社会主義陣営は消滅した」 と断

定する。 山極晃、 毛里和子編 『現代中国とソ

連』 日本国際問題研究所、 1987年。

(13) 「全体主義」 は社会主義体制の特定の時期を特

徴付けるが、 一党専制政治システムは全体主

義よりひろい概念である。 マルクス主義は自

由を根本から否定する主張であるよりは私的

所有の廃止による 「実質的自由」 を志向した

(政治独裁の過渡期論、 国家死滅論)。 しかし

「無階級社会」 を独裁政治が実現すべく 「歴史

的必然」 にむけて大衆を動員するとき、 アレ

ントの言うように、 ユートピアはデマゴギー

となりイデオロギーとテロルの全体主義 (ス

ターリン期) が到来する。 マルクスはヘーゲ

ルの歴史哲学を転倒し“平等の必然的実現”

を予言した。 マルクスのこの思想は20世紀の

歴史を動かし、 そして破綻した。

(14) 思想・言論の自由はその多元性を前提する。

また各人の利害・主張は他者による代理が不

可能なものである。 代議制民主主義はこの

「不可能性」 を国民的社会で実施するパラドキ

シカルな政治の工夫である。 営利企業の自由

について言えば、 ハイエクは、 市場の自然発

生性を強調し、 理性による経済の設計 (マル

クス、 JS ミル風の) に反対する。 同時に完全

なる競争 (ワルラス風の) もありえず、 市場

は不完全なるが故に強力である。 経済の理性

による設計は 「隷従への道」 である。 だが市

場ないしは資本主義の歴史は勤労者の社会権

(社会保障) の重視や財政金融産業政策などの

介入による、 市場経済の自生性を補整してき

た歴史であった。 岡田、 前掲論文、 1999-2000

年 , cf. , M. Held, Sozialdemokratie und

Keynesianismus, Campus Verlag, 1982.

(15) G. J. Ikenberry, After Victory, Princeton

U. P., 2001, アイケンベリー、 鈴木康雄訳 『ア

グローバリゼーションと体制移行

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Page 42: 巻頭言 - Meiji Gakuin Universityprime/pdf/PRIME23-1.pdf · 軍再編協議は、 仕上げになっていくものと思われ ますから、 沖縄や神奈川など米軍基地のある地域

フター・ヴィクトリー』 NTT 出版、 2004年。

アイケンベリーは冷戦勝利後の立憲秩序 con-

stitutional order を主張する。 これは覇権支配

者が自ら追随者によって拘束される法的な

「国際行政権」 の制限を意味するもので、 世界

的権力による法文なり憲章なりの制定ではな

い。 こうした秩序の受け入れは武力勝利者に

よる平和の確保の条件である。

(16) 設立当初の国連はほぼアメリカの支配下にあ

り、 アメリカは冷戦の始まった40年代後半に

は中南米諸国 (ラテン・アメリカ) を従えて

国連を動かした。 だが50年代のアジア諸国の

独立、 60年代のアフリカ諸国の独立により、

総会は独自の行動をとるようになる。 浦野起

央 『冷戦、 国際社会、 市民社会―国連60年の

成果と展望』 三和書籍、 2005年。 とくに第2

章、 国連投票行動のクラスター分析参照。 総

会の動きとは異なり IMF や WB は引き続いて

アメリカはじめ先進諸国の支配下にあるが,

ILO、 GATT (WTO) などそれぞれの国際機

関の意思決定の状況は異なる。 J-M. Coicaud,

V. Heiskanen (ed), The Legitimacy of Inter-

national Organizations, UN U. P., 2001.

(17) 米ソ軍縮交渉については、 藤本哲也 『核兵器

と国際政治1945-1995』 日本国際問題研究所、

1996年、 J. Young, Cold War and Detante

1941-91, Longman, 1993、 参照。

(18) 浦野、 前掲書、 2005年。 60年代のキューバ危

機の米ソ核戦争回避、 非同盟諸国の国際政治

への登場は、 次第に冷戦を緩和し、 70~80年

代には、 国連は先進諸国と開発を志向する多

数を占める途上国との対立の場となってゆく。

(19) 植民地・従属国の差別に苦しんだ経験を持つ

途上国とは異なり、 白人政権に親近感をもち、

利害関係が深い先進諸国のアパルトヘイトに

関する態度は動揺を続けた。 アメリカは冷戦

期、 ソ連と対決する国際戦略に軸をおいたた

め、 反ソ反共外交と人権外交は時に激しく矛

盾したものとなった。 カーター政権は人権外

交を重視し、 レーガン政権は反ソ反共を優先

させた。 アメリカ的 「国際価値」 と国連的

「国際価値規範」 の衝突である。 日本を含む先

進諸国のこの間の経済利益・反共戦略・人権

外交の交錯については、 林晃史 『南アフリカ-

アパルトヘイト体制の行方』 アジア経済研究

所、 1987年、 参照。

(20) ヘルシンキの東西合意はソ連からの安全保障

要求の充足と西側からの情報交流・人権保護

要求の充足のリンケージであった。 吉川元

『ヨーロッパ安全保障会議 (CSCE) 人権

の国際化から民主化支援への発展過程の考

察 』 三嶺書房、 1994年、 V. Mastny, The

Helsinki Process and the Reintegration of

Europe, 1986-1991, Pinter Publishers, 1992.

ヘルシンキ合意の共産体制崩壊への積極的効

果を実証したものに、 青木国彦 「ポーランド

危機と冷戦の終わりの始まり」 『経済学 (東北

大学)』 第66巻第2号、 2004年、 同 「東独脱出

をめぐって (独裁と難民)」 比較経済体制学会

第4回秋期大会報告、 2005年、 がある。

(21) 80年代後半の米ソ軍縮の合意とソ連邦崩壊の

間には必然的な前後関係がある。 ゴルバチョ

フ政権は停滞著しいソ連経済の建て直し (ペ

レストロイカ) には、 軍事負担を大幅に削減

して (アフガン撤収を含む) 民生向上と産業

近代化を実現する以外にない、 と判断した。

軍縮米ソ合意と経済改革はこうして並行して

進行する。 しかし政権は軍縮に比して遅れる

経済改革の進行に衝撃を与えるべく、 グラス

ノスチ (言論自由) ・複数政治・市場経済の

「新思考」 を提唱して経済の転換を図る。 しか

しこれはソ連共産党の支配の正統性を失墜す

るものでしかなかった。 中途半端な市場導入

と言論の自由は、 加盟共和国の独立や不足イ

グローバリゼーションと体制移行

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ンフレーションの経済混乱をもたらすばかり

で、 所期の建て直しは不可能になり, 予期せ

ざる体制の崩壊へと一挙になだれ込む。 これ

に対してイデオロギー統制を堅持した中国は

天安門危機 (89年) を乗り越える。 岡田 「歴

史としてのペレストロイカ、 東アジアからの

提言」 『河合おんぱろす』 1992年、 田畑 「ソ連

経済のペレストロイカ」 『ロシア研究』 第18号、

1994年、 参照。

(22) 冷戦後の国連の活動の拡大につては浦野、 前

掲書、 2005年、 が簡潔である。 人道的介入と

ともに安全保障はより積極的な 「平和の構築」

「人間の安全保障」 に発展してゆく。 国際基督

教大学社会科学研究所、 上智大学社会正義研

究所共編 『平和・安全・共生』 有信堂、 2005

年、 篠田英朗 『平和構築と法の支配』 創文社、

2003年、 T. Keating, W. A. Knight (ed), Build-

ing Sustainable Peace, UN U. P., 2004.

(23) 國際法制といっても世界連邦のような統一権

力を欠くから、 執行の強制力は担保されない。

そこで国際法制は国連の憲章・規約・宣言に、

諸国が合意した条約への批准や加盟、 国際人

道法、 国際機関のルールや慣行、 国際法廷

(司法裁、 ICC など) などを積み上げる以外に

ない。 こられの慣行・法制は国際社会の立憲

秩序を構成する。 ヘーゲルは世界史を 「自由

の必然的実現」 と解したが、 国民国家を最高

の合理的主体として崇め、 国際秩序を顧みな

かった。 彼は思想家として、 主権国家の独立

を認めるとともに常備軍の廃止と国家連合に

よる永遠の平和を構想したカントに及ばなかっ

た。

(24) P. Krugman, Rethinking International Trade,

MIT, 1990, G. M. Grossman, E. Helpman, In-

novation and Growth in the Global Economy,

MIT, 1991.

(25) H. W. Singer, International Development:

Growth and Change, McGraw-Hill, 1964, do.,

The Strategy of International Development,

McMillan, 1975, シンガー、 大来佐武郎監訳

『発展途上国の開発戦略 (1975)』 ダイヤモン

ド社、 1975年

(26) サラ・イ・マーチンは世界の所得の不平等化

を測定するため、 125国の統計を工夫して、

1970~98年の間の世界所得 (購買力平価) の

傾向を求め、 グローバリゼーションと国際貧

富につきつぎのような結論を得た。 1) 個人

所得は大幅に増加した、 2) 70年には貧富両

頂の分化が明瞭だったが、 98年には両頂が消

え 「世界中産階級」 が出現した、 3・4) 世

界の貧困者は、 1日当り1$以下の区分で2

億人以上、 2$以下区分で4億5千万人減っ

た、 5) とはいえ2$以下の貧困者は10億人

残っている、 6) 貧困の減少は広域で不均衡

であり、 アジア、 ラテン・アメリカで大きく

アフリカでは逆に増加している、 7) 世界規

模では所得の不平等は大幅に減少した、 8) 70

年には世界の貧困者の76%がアジアに11%が

アフリカにいたが、 98年にはアフリカに66%、

アジアには15%となって逆転した。 分計して

得られた世界全体の個人所得の平等化の傾向

は、 中国やインドの大人口国家の急成長によ

るものであり、 中国では所得の急増とともに

はなはだしい不平等が進行する。 X. Sala-i-

Martin, The Disturbing ‶Rise" of Global Ine-

quality, NBER, Working Paper, No.8904,

2002, do., The World Distribution of Income

estimated from Individual Country Distribu-

tions, NBER, Working Paper, No. 8933, 2002.

World Bank, World Development Report

2006, Equity and Development, 2005, も比較

参照されたい。

グローバリゼーションは世界に豊かさ (貧

困の削減) をもたらしつつ、 国民経済間の貧

グローバリゼーションと体制移行

― 42 ―

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富の格差を拡大 為替相場評価では明瞭だ

が購買力評価では判定は難しい し、 国内

の不平等を拡大する、 激動の坩堝である。

(27) G. Dosi, K. Pavitt, L. Soete, The Economics

of Technical Change in International Trade,

Harvester Whiteheaf, 1990, は, 比較優位原

理を国際通貨表示の絶対費用優位に転換し、

動態貿易の多国間競争を説明する。 ドジは,

自由貿易のリカード原理と技術革新のシュン

ペーター原理を組み合わせ、 主導国の技術革

新が牽引する世界成長を描くが、 この光景は、

技術の国際波及 (トランスファー) に追いつ

けない貧困国の苦悩と急速に比較劣位化する

先進国産業の従業者の苦難と裏腹のものであ

る。

(28) 国連は43カ国を LDC=最貧国ないし低開発国

と認定する。 その多くがアフリカに属するが、

アジア・太平洋地域などにもある。 途上国は

70年代以降のグローバル化のなかで発展展望

のある途上国 (104カ国) と展望なき最貧国に

分裂した。 それらの諸国は一次産品輸出に依

存しており、 低加工の工業製品の国際競争力

がない。 最貧国でも石油輸出国は相対的に有

利である。 UNCTAD, The Least Developed

Countries Report 2002, Escaping Poverty

Trap, 2003.

アフリカ諸国は、 60年代以前から言われて

いた国内の貧困の罠というべき人口増と資本

形成、 教育の遅れ (人的資本不足)、 社会イン

フラ (衛生・交通など) 未整備に加えて、 国

内部族内紛・徴税利権争奪による軍事衝突な

どに苦しむと同時に、 70年代以降貿易利益上

の敗者となり (プレビッシュ・シンガー命題)、

経常赤字と債務負担増、 国際ファイナンスの

困難の二重の悪循環に苦しむ。 長期成長率は

プラスだが、 対先進国の相対的貧困化は進行

し、 国内不平等は深刻化する。 E. V. Artadi,

X. Sala-i-Martin, The Economic Tragedy of

the XXth Century: Growth in Africa, NBER,

Working Paper, No.9865, 2003, World Bank,

op. cit., 2005.

(29) さまざまな国民経済が経済成長を通して、 成

長率あるいは一人当り国民所得が収斂するの

か発散 (分散) するのかは、 世界経済の最大

問題の一つである。 50年代に開発された新古

典派の均衡成長モデル (スワン・ソロー) は

「黄金成長」 を論証して支持されたが、 モデル

における貯蓄率や生産関数 (技術進歩) の外

生性に欠陥があり、 80年代後半から技術進歩

を内生化する動態成長論 (モデル) がローマー

などにより工夫されてくる。 収斂傾向は、 初

期条件において所得水準が低い国は成長率が

高い傾向があり、 やがて先発の高所得国に

キャッチ・アプする、 との想定から説明でき

る。 R. J. Barro, X. Sala-i-Martin, Economic

Growth, McGraw Hill,1995. だが戦後の事実

は収斂は先進諸国 (OECD 諸国) 間には妥当

するが、 多くの国民経済間には妥当しない。

内生的成長理論で先進技術を国際公共財とし

その波及を前提すれば、 収斂は説明できるだ

ろうが (条件付収斂)、 事実は先進国間の収斂

と先進国と途上国間の分散にある。 Do., Tech-

nological Diffusion, Convegence, and Growth,

NBER, Working Paper, No. 5151, 1995.

(30) 経済史家ウイリアムソンは、 16世紀の世界商

業の時代から現在に至る長期の観点から世界

経済の収斂と分散を研究するが、 彼は19世紀

イギリス主導のグローバリゼーション1820-

1913年は 「平等主義的」 で、 現代のアメリカ

主導のグローバリゼーション1970-1992年は

「格差拡大的」 である、 とする。

19世紀には運輸費の削減が大きく、 工業国、

一次産品国ともに交易条件を改善したが、 コ

ア (ヨーロッパ) より周辺域の利益の方が大

グローバリゼーションと体制移行

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Page 45: 巻頭言 - Meiji Gakuin Universityprime/pdf/PRIME23-1.pdf · 軍再編協議は、 仕上げになっていくものと思われ ますから、 沖縄や神奈川など米軍基地のある地域

きかった。 大西洋の両側では、 土地豊富・簡

単労働不足の南北アメリカと土地不足・簡単

労働豊富の欧州間のへクシャー・オリーン型

要素賦存貿易において、 地代/賃金は前者で

上昇し後者で減少、 社会の分配をより平等な

方向に是正した。 GDP/簡単労働賃金で複雑・

簡単労働賃金格差の動きをみても、 前者で増

大し後者で減少して格差が反対方向に動いて

いる。 これは要素価格均等化現象だが、 この

国際格差の改善では貿易よりも資本・労働の

国際移動 (移民) の効果がより大きかった。

対するにアメリカ主導のグローバル化は資

本・労働移動の制限 (減少) の下、 ICT 技術

革新 (デジタル革命) 主導の複雑 (知的) 労

働偏倚的なもので、 先進国でも途上国でも複

雑 (高学歴)・簡単 (低学歴) 労働の賃金格差

は拡大する。 J. G. Williamson, Globalization,

Convergence, and History, The Journal of

Economic History, Vol. 56, No. 2, 1996, do.,

Winners and Losers Over Two Centuries of

Globalization, NBER, Working Paper, No.

9161, 2002, P. H. Lindert, J. G. Williamson,

Does Globalization Make the World More

Unequal? in M. D. Bordo, A, M. Taylor, J. G.

Williamson (eds), Globalization in Historical

Perspective, Chicago U. P., 2003. 貿易、 技術

進歩と賃金格差については cf., G. Burtless, In-

ternational Trade and the Rise in Earnings

Inequlity, Journal of Economic Literature,

Vol. 33, 1995.

(31) 20世紀後半、 途上国は高成長の途上国と低成

長の最貧国に分化たので, 先進国と高成長途

上国の間に収斂が生じた。 60~80年の年成長

率は先進国2.7%, 中所得国は3.2%, 最貧国は

2.1%であった。 cf., S. Dowrick, J. B. DeLong,

Globalization and Convegence, in Bordo et al

(eds), op. cit., は19世紀後半、 戦間期、 20世紀

後半の三期間につきそれぞれの 「収斂クラブ」

を示し、 第一期には高関税収斂が、 第二期に

は閉鎖収斂が働き、 第三期には開放収斂が作

用した。 ドーリックほか、 は中国、 インド、

ブラジルを第三期 「収斂クラブ」 に入れてい

る。

(32) 差額地代は土地の肥沃度の差等から生じるか

ら農産物地代が典型であるにしても、 石油依

存の現代経済においては採取地の独占的利用

権を根拠として原油 (埋蔵エネルギー) 採取

から生じる固定的超過利潤がレントの典型と

なろう。 この埋蔵地 (所有権、 利用権) はひ

とつの生産要素であり、 資源賦存の貧富差と

世界市場価格変動はしばしば莫大な利益を生

む。 ソ連=ロシアの体制移行にあたり、 それ

まで国家に帰属していた潜在資源レントが私

的所有 (地下資源は今も国有) に移る。 そこ

に膨大な利権争奪が起こり今日のロシア財閥

オリガルヒーが誕生したが、 この盗奪と腐敗

はすでに周知であろう。 塩原俊彦 『現代ロシ

アの政治経済分析』 丸善、 1998年、 同 『現代

ロシアの経済構造』 慶応義塾大学出版、 2004年。

雇用保証と 「平等原理」 の社会主義体制から

失業と優勝劣敗の市場競争への体制移行は当

然に社会の不平等度を拡大するが、 それにし

ても移行ロシアの不平等化は甚だしい。 体制

移行の以前と以後のジニ係数を見ると、 東欧

(中東欧) 10カ国平均では移行前1987-90年の

0.23から移行後96-98年の0.33に増大している

のに対し、 ソ連=ロシアは同時期に0.26から

0.47にほぼ倍増している。 全人口中貧困者の比

率もポーランド、 ハンガリーで約35~40%、

ロシアで55%、 年金額も一人当り所得比でポー

ランド95年、 61%、 ハンガリー94年、 48%に

対し、 ロシア95年、 18%である。 UN, World

Economic and Social Survey, 2003. 資源レン

トと不平等については、 栖原学 「ロシア経済

グローバリゼーションと体制移行

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Page 46: 巻頭言 - Meiji Gakuin Universityprime/pdf/PRIME23-1.pdf · 軍再編協議は、 仕上げになっていくものと思われ ますから、 沖縄や神奈川など米軍基地のある地域

と天然資源」 『経済研究』 第55巻第2号、 2004

年、 塩原 「ロシアのレントと課税をめぐる諸

問題」 法政大学イノベーション・マネジメン

ト・センター、 Working Paper, No. 8, 2005

年、 参照。

(33) 世界市場と体制移行についてロシア、 中国そ

の他でのレント・シーキング、 腐敗の横行に

触れるにつれて、 資源レントのみでなく文字

通りの土地レントないしは地価 (レントの資

産化) の重要性に気づいた。 ソ連時代の代表

的経済学者であったストルーミリンは 「ただ

の土地」 の非合理性を論じ、 土地の経済評価を

求めていた。 С. Стрyмилин, Oцeнe<дaрoвыx

блaг>пpирo ды,《вoпpocыэкoнoмики》、

1967, No.8. そして社会主義ソ連が一定の自

然・位置地代などについて 「レントヌイ・プ

ラチョージ (地代支払)」 を課していたのは専

門家の間では知られている。 これを課さない

とそこに 「不当な利益」 が生じることは旧体

制でも明かだったからである。

この地代ないしは地価レントの争奪戦が激

しいのが開放中国の特徴である。 中国経済の

改革開放は特区からはじまって沿海地方、 地

方主要都市における土地 (工場・居住地・道

路) の経済利用を高め、 その資産価値を高め

た。 「土地国有」 の建前の下、 この膨張した資

産価値は誰の手に落ちるのか。 この処分権が

地方党官僚の莫大な利権となるのは想像でき

る。 地下文献、 何清漣、 坂井臣之助、 中川友

訳 『中国現代化の落とし穴』 草思社、 2002年、

はこの実態を暴く。 改革開放以前には党官僚

の腐敗はほとんどなかったが、 80年代から腐

敗は当然の官僚位階権限としてはばかること

なく横行している (潘維 「中国の政治制度と

その改革」 PRIME 公開研究会報告、 2005年)。

これは地方への権限委譲でそのかぎり 「改革」

なのだが、 集権制は変わらず腐敗は増殖する

ばかりである。 趙宏偉 『中国の重層的集権体

制と経済発展』 東京大学出版会、 1998年。 地

方別の発展段階格差とともにこうした腐敗に

よる 「富と所得」 の位階格差も中国の不平等

成長の要因である。

(34) 石油代金、 観光収入、 出稼ぎ送金などに依存

する経済をレンティア (ランティア) 経済と

言い、 産油国が多い中東広域の諸国経済に当

てはまる。 長沢栄治 「中東の開発体制」 前掲、

『20世紀システム』 第4巻第4章、 1998年、 酒

井啓子 『イラクとアメリカ』 岩波書店、 2002

年、 参照。 人口増、 若年化、 高失業について

は、 脇祐三 『中東』 日本経済新聞社, 2002年。

(35) 日本の天皇制と中国の皇帝制の最近の比較研

究については、 『岩波講座、 天皇と王権を考え

る』 全10巻、 2002-3年、 が役立つ。

(36) B. A. Blonigen, M. Wang, Inappropriate Pool-

ing of Wealthy and Poor Countries in Em-

pirical FDI Studies, NBER, Working Paper,

No. 10378, 2004, B. P. Bosworth, S. M. Collins,

Capital Flows to Developing Economies: Im-

plications for Saving and Investment,

Brookings Papers on Economic Activity, 1:

1999, H. Siebert (ed), Capital Flows in the

World Economy, Symposium 1990, Institut

für Weltwirtschaft an der U. Kiel, 1991.

先進国間の資本移動では日独からアメリカへ

の流れが基本である。 資本移動は80年代から

ポートフォリオ、 直接投資に向かい、 90年代

から2000年代へ直接投資は急増する。 先進国

から途上国向けではアジア向け、 特に東・南・

東南アジア向けが最大で、 ラテン・アメリカ

がこれに次ぐ。 直接投資は資本不足国の貯蓄・

投資バランスを是正してホスト国の生産力、

GDP 増に寄与する。 しかし最大の資本不足地

域アフリカには投資はほとんど向かわない。

破産と債務不履行のリスクが大きいためであ

グローバリゼーションと体制移行

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Page 47: 巻頭言 - Meiji Gakuin Universityprime/pdf/PRIME23-1.pdf · 軍再編協議は、 仕上げになっていくものと思われ ますから、 沖縄や神奈川など米軍基地のある地域

る。

(37) 国際通貨の基軸国アメリカは最大の債務国で

ある。 国際通貨発行国の債務累積は世界経済、

国際金融の不安要因である。 だが貨幣発行の

循環論法において、 アメリカの借金はどこか

ら危険の淵に立つのか。 岡田 『貨幣の形成と

進化』 法政大学出版局、 1998年。

(38) G. Clark, R. C. Feenstra, Technology in the

Great Divergence, in Bordo et al (eds), op.

cit., 2003、 は一人当り GDP で測定した国際格

差は分散、 拡大する一方であるとし、 18世紀

以来の世界経済の“大分散”を主張する。 こ

の格差の原因は要素 (資本) 蓄積ではなく、

ひたすら技術格差、 総要素生産性 TFP の格差

である、 と算定する。 ではなぜ先進技術が諸

国民経済に普及しないのか、 あるいはそれを

非効率的にしか実施されないのか 「ミステリ

アスだ」 と言う。 なぜ主導先進国で内生的に

技術革新が生じ、 なぜある諸国はこれに追随

できて、 他の諸国は追随できないか、 さらに

は格差の拡大を受容せざるをえないのか、 こ

れこそ社会科学の問題である。 原因は、 社会

的生産関係 より生産の場に即して言えば

生産様式、 生産システム、 ひろくこれを支え

る国民的基盤で見れば国家、 社会一般の諸関

係 の相違にあり、 諸国民の相互依存を決

定する政治経済の国際関係の総体にある。 か

くて収斂と分散の問題は、 均衡成長モデル

(条件付収斂) の問題ではなく、 諸国の経済制

度、 経済システムの比較特性の問題であり、

世界戦争や世界革命を含む世界史の問題であ

る。 社会主義と資本主義の経済体制の優劣に

あたって内生的技術進歩か外生的技術進歩か

は決定的であったが、 こうした技術進歩の差

を生む諸関係の差こそ二つの経済体制の比較

特性であった。 岡田 『ソヴェト的生産様式の

成立』 法政大学出版局、 1991年。

(39) 直接投資を担う重要な経済主体が多国籍企業

MNC (MNE) である。 コングロマリット型を

別にすればこれが産業内貿易を企業内貿易と

して展開する。 ダニングの企業所有特殊資源

Ownership・内部化利益 Internalisation・立地

優位 Location の対外直接投資の OIL 理論は、

先進国間相互投資を説明するため比較優位原

理ではなく 「市場の不完全性」 から説かれる

が、 この立地選択をホスト国の比較優位から

説明すると考えれば、 古典派、 新古典派の貿

易論に接続できる。 多国籍企業は企業特殊優

位を利用し、 中間財取引などの内部化利益を

確保しつつ、 質と相関する低賃金を求めて対

外投資を実施するとすれば、 先進国資本の東・

南・東南アジアへの投資の集中が説明できよ

う。 J. H. Dunning, The Eclectic Paradigm of

International Production: A Restatement and

some possible Extensions, Journal of Interna-

tional Business Studies, Vol. 19, No.1, 1988.

これはまた産業内貿易の差別化分業・工程間

分業・品質格差分業を説明するものともなり、

グロスマン、 ヘルプマンの品質階梯間の技術

トランスファー貿易論とも重なる。

Grossman, Helpman, op. cit., 1993. アジアの

実情にそった MNC の活動については新保博

彦 『現代世界貿易と多国籍企業』 同文館、 1993

年、 参照。

中国への外資は99年末現在総額7786億ドル

(広域中華圏からの投資が大きい)。 この外資

が輸出総額の45%を担い、 中国の輸出成長を

推進する。 外資は労働者訓練や経営学習を通

して国民的な産業基盤育成にも貢献する。 多

国籍企業を通して先端産業の生産が中国でも

行われれば、 産業構造の逐次的な高度化 (雁

行発展) を飛躍することとなる。 中兼和津次

『経済発展と体制移行』 シリーズ現代中国経済

第1巻、 名古屋大学出版会、 2002年。

グローバリゼーションと体制移行

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