Upload
others
View
0
Download
0
Embed Size (px)
Citation preview
2つtハ打出集tj-,f:'[;(16R-jと16R-2) カ,2011イ|ーかに発効I¥rt周ttJきれた
l
図2 ワディ・ハラ ル16R遺跡遠景
図3 ワディ・ハラ ル16R遺跡から発掘された石器�
ニLノレ・ワ l、型 'J~ ~rj 治;1.,1彬然� L,3:端削出-i,�
l
ロト・オ lリナシアンのレヴアント起源説の
検討のためには、北レヴアント内陸部(北シ
リア、ュ
フラテス河中流域)のワディ・ハラ
ル一六
辺跡から採取された石叫ん以料と放射
性炭ぷ年代値を扱う
ι(
白-
R l
l
',�
本合同考古学訓査の一以として発見・調大同さ
山一一
者も参加したこ
の調査では、二
×
一つい川の秘凹の踏査に
地点以上の造物散布や近仙を記
ユーフラテス}μ|び)j(流ワ デ ィ・ハラールの阿Jにi断;!J� r1~ , ii ; 也寸る J
(Z55E2
qr
細は、日ハ包。戸、山
〔一回参照)。次に、市ルート沿いの拡散仮説、
において府位的に検出された石器群を扱う(計
細は、門脇一
二一ワディ・ハラ
器を伴う北ル
ト拡散説の再検討
N特に背付き細ゐ器のアフリカ起源説を検討す
るために、ケニア南東部のムトングウェ追跡
心
一四
a参照)。
l
遺
跡
小
型
尖
頭
R
ル一六
本追跡は、二
八年から二
OO
フラテス河中流域で行われたシリア・円
lユ
。
れた
OM
NCHN)
O
よって一二五
録した。ワディ・ハラ!ル一六
フラテス一川支流のワディ・ハラ
位同する問地遺跡である(凶
2)。二つの石器
集中部が発見され、一つは一
×一
、
もう一つは一
ほどの範聞に分布す
Om
Cm
Om×五
m
る。それぞれの地点で表面採集と試国を行い、
ll
R
下点以上のわ出標本を得た。
O
ワディ・ハラ
ル一六
泣跡から出土したわ出資料に
は、小型尖川…器が含まれ(図 3の5)、その他の石山器
種(端削器や彫器、凶
3の114)や剥汁剥雌技術(単
設打一山刈錐状石核からの尖一問状細石刃の製作)について
リナシアンと制似する。レヴアント内で
ル・アキル岩除第九 1一
府(第四期)
もプロト・オ
l
の比較では、クサ
の七時併に最も類似するため、両者をまとめてクサ
KA4t
O (KA4
blc l
グループ)と定北した(悶
4)。この
グループの石器技術は、前期アハマリ
アンの一部、刊に巾方の前期アハマリアン(ポーカー遺
跡灯、ラジヤマ泣跡群、アブ・ノシユラ泣跡群など)に
類似する一方で、北方の前期アハマリアン(クサ
ル・
アキル岩除第
一
層、ウチュアズリ制桔
層、
アキル第四則グループ
ハ1一一
l
ケパラ洞目前三 1凹ユニット)とは区別される。北克の
前期アハマリアンの尖凶器はサイズが大きく幅広で、二
次加ての度合いがより大きい。また、同誌打面石枚の比
率が高く、対方向の剥附によって製作された石刃の誌端
部形態は尖一肌状の比平が低い。したがって、もしプロト
.オ
リナシアンの石器技術の起源をレヴアントに探ろ
うとするなら、北方ではなく南方の前期アハマリアンや
KA4グループが第一に考慮されるべきであり、その出
現年代がプロト・オ
リナシアンと比較されるべきであ
る(図
4)0
この市方の前期アハマリアンに対してこれまで報告さ
:)
O
E
2
一一年まで
辺跡は、ユー
Rlルの丙山芹に
lル・
-l内
υつμ 24
30000
ワディ・
ハラ�
(切オ術� (特に投開用尖頭器と考えられる革新的技術)を携え
たホモ
・サピエンスがヨ
ーロッパ
へ拡散を果たしたと考
l
AMS
1三四
000年前
(較正年代)とも
一致するし、
前期アハ
マリア、�
(
アブ
・ノシユラ二遺跡)に対して
年代値である約三九
0001
三七000年前(較正午代)にも近い。いずれもプロ卜・
リナシアン
よりも若い年代値である。
l
7t
たクサ�
つ匂
ハラ� l
R
ル一
六 l
プロ
卜
・オ�
/四
0
従来説 新説3口000
れた放射性炭素年代は、測定誤起が非常に大きいという
問題があった。大きな摺一号山一範闘なので、古い年代値を見
ればプロ
ト・オーリナシア
ンよりも古いといえる
一方
で、それよりも新し
い年代範囲も多く含まれていた。草
者らの調査により、南方の前期アハマリアンに類似した
南方の
得られた数少な
い�
シアンの起源をレヴアン
ト地方の前期アハマ
リア
ンに求
める仮説は再検討されなければならない。
つまり、これ
までは
アフ
リカあるいは西アジアで創出された石持技
リナシアンの西アジア起源説が成り立たない
可能性が高
い。この考古学的新知見が妥当ならば、ホモ・サピエ
ン
スがヨーロッ
パへ
拡散した要因を商アジアでの技術革新
に求めるシナリオが再検討されなければならな
い。
本遺跡はケニアの東海岸、モンパサ市の南四川に位置
する開地遺跡である� (凶
5)。遺跡が立地する海岸段丘
はジ
ユラ紀の頁岩を法挫とし、その上を更新世の堆積
アフリカ考古学調査隊� (代表、大参義
一氏)によって
一九七五年から始め、与れ、
本遺跡から出土した石器群は、技術形態学的特徴と出
土周位によっ
て三つ
の石器イ
ンダストリーに区分されて
いる
(紘一
、第二、
第三インダストリ1)(同白同� 05∞∞白� )。
最下部の第一
インダストリーは足控岩直上の砂隊属中か
ら出土し、
ハンドアックスや大邸一剥川、削器、石核削器
を、王に含む。これらの-右器の表面は磨耗しており、河川
によ
って流されてきた二次堆積物と解釈されている。そ�
EZZ
00o
N2
l
'wv
TLJ
P
に小さい放射性炭ぷ年代を得ることに成功した。その年
代は約
二八
0001三七
000年前(較正年代)であり、
作、�
リナシアンの存続推定年代(約四二000
巳�
四
0000/
y
l
この結果に基づくと、ヨ
ーロ� パのプロ
ト・オ� リナ
J
l
R
ル
一六� の石器群に対して、誤差が非常
.(,).5i Ifi Classicl.evantme Aurignsc:lsnt 塁 ClassfcLevanUfle
Aurignacian(1(A句 ど制� <n 35000 草寺l南方の酎暗 3~X用
室17ハマリア� γ妻〈�
" "!'バ & ;-SI6R!I{・?f
HMg牢掛盟主《
Kcbma制 的� 1ト� 7
蘭方自前閉アハマリアァ�
40000Jプロト・
O
三九
000年前(較一止年代)�
ω)よりも新し
い。この年代は、
ワディ・
遺跡と非常に類似する石器群が出土し
ル
・アキル岩陰第九
1一� 層(第四期)に対
して得られた出精度放射性炭素年代である約三九
000
IntcrmcdlareSrage 400007ロト-オーリナケアノ� InrSg;jatB
;t-リナソ?ンEmlran
''''5岨以^�
sw.r晴、'"
45000 "1 45000
:J-n、ノ1¥ itレウ予ント
ヨ白 川、t軍部~問臨 間レヴァン 卜� 西部~戸時酪 3むレウ� 7ント 間レウ� 7ント�
年前� 理明�
図4 前期アハマリアン文化とブ口ト・オーリナシアン文化の石器技術と年代
の関係に対する従来説と新説
従来はプ 口ト ・ オー リナシア ン文化 上り も市 い IIt!~1 に前期プハマリアン文化が充生
物� (厚さ約三十�
えられていたが、その恨拠の一つであったプ
ロト
・オ�
FBHU
OJJJ
FH
E1J
l
四
ムトングウェ遺跡|背付き細石器を伴う南ル� ト拡�
叶�
公両」礼へ�
回
、�
れ、
一一言
C
の遺跡報行書が英文で出版され
ている(邦文での調査概
要は大参二九九一
を参照)
r'1左側り(した と考え られてお
トからヨーロ ッパへ折、散 したとい う説の� 1RP 前期アハマ リアンのl!tであったー しヵ、し、
従来説Jの2木の点線の比較)、技術� lfL新が レウァ ン
m)が従
っている。調査は名占屋大学東
巾でも、北レヴアント� J也)jの1-1~~:iD、( t-(北 )jU)前}明アハマリ アン)� iブ� μ
ンアン と形態や製作技術が川なるため、その� y目的t{とは断定できない。一方、プロ 卜・
オーリナシアンに傾似 した形態や製作技術を示ナイi器群は 、 i~可レヴアン ト地方の千[際
ト・ オーリナ
OO
一九八九年までに七回の現地
×ぺ�
昨 (南方的� lfij則アノ、マ リアン) や北 レグァントの� KI¥4グノレーフ である。 また、それら
f:Hii" 主なデータ11h'';:"1伴う放射性炭素早代の中でも,こ� tì~~の-f�
の,j設新r1王仰(イ
CI.jにAM以下代)に必つくと
ハ�
\I~似の比較) 、 ヨーロツパのプロ 卜・オーリナシアンよ り ら 年代が
hu
新 しし九
m
O
の純闘内に約七� の遺跡が発見され、
全調査シーズ
ン l
つノ臼
調査が行われた(図
6)。その結果、八
OOm
¥L
pl
'c_ヂ 、必イ
、トι J~, - ノ
p開� TREIr1 」
斗生、�
→~I 、〆� ¥'
..J‘ ,、 .� p
z、.も,� ヘ
守1. i ムトンクウェ辺跡
d
における発掘風景� (名古屋大学博物館収蔵写真資料)
この I ~l 出;の,)F 色砂!蛍から、背{、「き細石器を合 L.i、第:3インダストリ ーの干í 6:~n旬、 11: l .-
しJ:こ
}H';lEー-,-
図5 ケ二ア東岸部モンパサ周辺の地形図とムトングウエ
ら出土する第
二インダ
ストリ
ーの数舟は少な�
J
M
Y
のよの砂jシルト屑か
L
1
石枝、ルヴアロワ剥片、
円盤型一心核が含まれる
のが特徴である。
これ
らの石器群に含まれ
る
ハンド
ア�
ー�
回
目
もお
‘4
,,
ムマ�
、、ママー-
4U
YJ
S
"
第三インダス
トリーは、
抗上川の赤色砂田か
遺跡の位置� (Kato1988bを改変)
E形法学的特徴などから、
山
一インダス
トリーは
アシュ
1後段、第二インダ
スト
リーは同文化期の後段
からその
「発展形態の
一様相」と附叩仇されて
いる
(大参
一九九
ご
そして、本稿に関わる
背付き細石器が含まれる
、�
、、
段�
IIll111図6 ムトングウェ遺跡南部のアリ・アブバカル丘陵� (AI i Abubakar Hi 11) 1
t
.
ド�
,.
‘
石器と背付き細石刃)に伴って
ル
ヴアロ
ワ石核や剥片、そして石刃・
N
マその
石核も含まれること
である。より詳細
にはで祖類の
石
綱石川
器製作プ
ロセスが同定され
ている�
gu-
(円山
は、
山
口
己
↓
050己目
打面石核から細石刃や縦長剥片を
剥雌し、その素材に刃潰し加工を
施して背付き細石器を製作するプ
ロセスである。
二
つ目は、同様に
頁岩を素材とするが、主に求心方
向の剥離によ
るルヴ
アロワ石核あ
るいは
円盤型石核から剥片を剥離
するプ
ロセスである。そして-一-つ
l
日のプ
ロセスでは、石英を� 治材と
する単打面右核から剥片や縦長剥
片が剥雄され、その一
部の剥片か
ら背付き細石器が製作される。
この様な技術形態学的特徴はムト
ングウェ追跡の第三一インダストリー
(LSA)
MSA)
がアフリカの中期石器時代
(
と後期石器時代�
の移行
期に相当することを示す、と調査
者によ
って指摘されている� (大参
一�
.>
、町二円川町主
.ケド�
7hい百�
4早� ん
小川化し、ルヴ
アロワ
Ui--
4trJ-uJ
仰�
yクスの技術
什き細石器(幾何学形細�
C
CH
ド�
)0
頁岩製の単打面あるいは両設
29 - 28
lル文化期の
中‘
ら出土した(同
7)。そ
〉
白
品
工�
:12ま、じ北円弓�
zt
rr;
者。〉�
F
一つ