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ふるさと小松検定 メモリアルコース 利常入城 380 年 利常公と小松城 テキスト&ドリル 前田利常銅像(芦城公園内) NPO 法人 ふるさと小松検定

利常公と小松城kshs/text/memorial/r02/memorial.pdfふるさと小松検定メモリアルコース 利常入城380年 利常公と小松 テキスト&ドリル 目 次 利常公の生涯・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1

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ふるさと小松検定 メモリアルコース

利常入城 380年 利常公と小松城

テキスト&ドリル

前田利常銅像(芦城公園内)

NPO法人 ふるさと小松検定

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ふるさと小松検定メモリアルコース

利常入城 380年 利常公と小松 テキスト&ドリル

目 次

利常公の生涯・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1

利常の誕生と幼少期

浅井畷の戦い

加賀前田家三代へ

利長の逝去

大坂冬の陣

大坂夏の陣

珠姫と子どもたち

光高の元服と利常の改名

寛永の危機

光高の婚儀

利常による大坂登米

利常の隠居と小松城入城

綱紀の誕生と光高の急逝

改作法

綱紀の婚儀と利常の逝去

前田利常関係 略年譜

小松城・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12

村上頼勝・丹羽長重の在城

小松城代と利常の隠居

利常没後の城代・城番

小松城概略図

小松城のおもな遺構

利常と小松・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16

ドリル問題集・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18

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- 1 -

利常公の生涯

利常の誕生と幼少期

加賀前田家三代の前田利常は、文禄 2年(1593)11月 25日(以下、月日

は旧暦で表記)、前田利家の四男として生まれました。母は利家の側室の千ち

代よ

保ぼ

(寿じゅ

福ふく

院いん

)で、文禄の役(朝鮮出兵)のとき、正室・まつ(芳ほう

春しゅん

院いん

)の侍じ

女じょ

った千代保が、肥前名な

護ご

屋や

城(現在の佐賀県唐津市)にいる利家の身の周りの世

話をするために派遣されたことが縁で生

まれたといわれています。幼名は猿千代

と名付けられ、金沢城で生まれたのち越

中の守山城(現在の富山県高岡市に所在)

で 8 歳(以下、年齢は数え年)まで過ご

し、守山城を預かる前田長なが

種たね

とその妻の

幸こう

(利家の長女)のもとで育ちました。

なお、利常と父・利家との出会いは一度

だけで、慶長 3年(1598)3月下旬(も

しくは 4月)、越中の今いま

石動いするぎ

(現在の富山

県小矢部市)で対面しました。利常 6 歳

のときでした。

浅井畷なわて

の戦い

慶長 3 年(1598)8 月、天下統一を果たした豊臣秀吉が亡くなると、徳川

家康の独断専行が目立つようになったことで豊臣政権内に対立が起き、慶長 5

年(1600)7 月、石田三成が家康打倒の兵を挙げ、同年 9 月には、家康率い

る東軍と三成率いる西軍との関ケ原の戦いへと至ります。

こうしたなか、利家から家督を継いだ前田利長は徳川方につき、慶長 5 年

(1600)7 月 26 日、石田方を抑えるべく上方へ向けて金沢から出陣しまし

守山城などの位置

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- 2 -

た。このとき、小松城では丹羽長重、大聖寺城では山口宗むね

永なが

・修なが

弘ひろ

父子が敵対し

ており、利長は上方へ向かう途中、攻め難い小松城は攻めずに兵を進めましたが、

大聖寺城を 8月 3日に攻略。8月 5日には越前の金津付近(現在の福井県あわ

ら市)まで進軍しました。ところが、そこで利長の軍勢は金沢へ引き返します。

その理由は諸説ありますが、石田方の大谷吉よし

継つぐ

の軍勢が金沢を攻撃するとの情

報が入ったためともいわれています。

利長の軍勢が金沢へ戻る途中の 8月 9日の朝、能美郡大領村から浅井村へ差

し掛かったところで、軍勢の 殿しんがり

(最後尾で敵の追撃に備える部隊)を務めてい

た長ちょう

連つら

龍たつ

の部隊に対し、小松城の丹羽長重の部隊が攻撃を仕掛けました。これ

が浅井畷なわて

の戦いです。長連龍の部隊が苦戦していたところへ救援部隊が加わり、

双方にかなりの被害が出たところで丹羽軍が撤退して戦いが終わりました。

この戦いののち、丹羽長重が利長との和議を申し入れ、9月 18日、相互に人

質を入れることとなりましたが、前田家からは、利長の異母弟で、それまで越中

の守山城にいた 8歳の利常が人質として小松城に入りました。

なお、この和議が成立したときには、すでに 9 月 15 日の関ケ原の戦いで徳

川方が勝利しており、利常の人質としての生活はほどなくして終わりました。ま

た、利長は金沢に引き返したのちに再び出陣しましたが、弟・利政の出陣拒否も

あって出遅れてしまい、関ケ原の戦いに参戦できませんでした。

加賀前田家三代へ

関ケ原の戦いののち、丹羽長重は改かい

易えき

(領知没収)となり、慶長 5年(1600)

10月、丹羽長重に与えられていた能美郡と石川郡松任、山口宗むね

永なが

・修なが

弘ひろ

に与え

られていた江沼郡、さらには、利長の出陣命令に背いた弟・利政の能登が利長に

与えられ、利長は加か

越えつ

能のう

三ヶ国の大名となりました。

一方、人質としての生活を終えた利常は、兄・利長の後継となることが決まり、

猿千代だった幼名は、利家・利長が使っていた犬千代と改まりました。なお、そ

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の後も利常は小松城に残り、金沢城に移ったのは、利長から家督を継ぐ慶長 10

年(1605)6月だったようです。

また、徳川秀忠の二女の珠姫と犬千代との婚儀も決まり、慶長 6年(1601)

9月、珠姫が金沢に輿こし

入れしました。利常 9歳、珠姫 3歳でした。

慶長 10年(1605)4月、徳川秀忠の将軍宣せん

下げ

(天皇から将軍職を任ずる儀

式)に伴い、利長と利常は京にいましたが、その折、利常は伏見城で元げん

服ぷく

しまし

た。利常 13歳のときです。このとき利常の名は利光としており、元服とともに

従じゅ

四し

位い

下げ

侍じ

従じゅう

兼筑ちく

前ぜんの

守かみ

に任じられています。また、徳川家康から「松平」の名

字(徳川家康のもとの名字)が授けられました。

そして、同年 6 月 28 日、利長は隠居して金沢城から富山城へ移り、利常が

加賀前田家の家督を継ぎました。

利長の逝せい

去きょ

慶長 10年(1605)6月、利長は越中の新にい

川かわ

郡ぐん

22万石を隠居領として富山

城に移りましたが、慶長 14 年(1609)3 月に富山城が火災に遭い、同年 9

月、利長は新たに築いた高岡城へ移りました。隠居後は後見として若い利常を支

えていた利長でしたが、慶長 15 年の春から病を患わずら

い、慶長 19 年(1614)

5月 20日、53歳で亡くなりました。

大坂冬の陣

慶長 19年(1614)の冬、家康・秀忠が率いる徳川方と、豊臣秀吉の子の秀

頼をはじめとする豊臣方とが戦う大坂冬の陣がありましたが、このとき、将軍秀

忠の娘婿むこ

である利常は徳川方として戦います。この戦いは利常の初陣でした。

大坂冬の陣では、豊臣方の真田信繁が大坂城の南側に出丸の真田丸を築きま

したが、利常の軍勢は篠ささ

山やま

を挟んで真田丸と向かい合う位置に布陣しました。

12 月 4 日、利常は将軍秀忠からの命令により篠山に兵を進めましたが、篠

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山に乗り込んだ部隊が真田の兵の挑発に乗

って真田丸へ進撃すると、待ち構えていた真

田丸からの激しい銃撃を受けて大きな損害

を被りました。このとき利常は、篠山攻略の

部隊が命令なく真田丸を攻めたことに怒り、

直ちに兵を撤収させています。

その後、守りの固い大坂城を容易に落とす

ことのできない徳川方は、豊臣方との講和交

渉も進め、12 月 16 日に家康が大坂城本丸

へ大砲を打ち込んで豊臣方に恐怖心を与え

たこともあって交渉が進展。12 月 20 日、

大坂城二の丸・三の丸の破却や堀の埋め立て

などを条件として講和が成立しました。大坂

冬の陣が終結すると、約 1 か月にわたり大坂城の堀の埋め立てなどが行われ、

利常はそれが完了するまで大坂に留まり、金沢に帰着したのは慶長 20 年

(1615)2 月でした(なお、慶長 20 年は 7 月 13 日に元和元年と改元しま

した)。

大坂夏の陣

大坂冬の陣が終わり、金沢へ帰った利常は慶長 20 年 3 月に江戸で将軍秀忠

に謁えっ

見けん

し、4月には江戸を発って金沢へ戻りますが、その途中、利常のもとに大

坂再出陣の知らせが届きました。徳川方と豊臣方が再び戦う大坂夏の陣の出陣

命令です。金沢に戻った利常は 4月 18日に出陣しました。

5 月 7 日、徳川方の軍勢は大坂城の南側に布陣し、大坂の陣の最終決戦であ

る天王寺・岡山の戦いがその日に行われました。このとき利常は岡山口の先鋒を

命じられています。一方、豊臣方は、冬の陣ののちに本丸だけとなった大坂城で

大坂冬の陣の布陣

参謀本部編『日本戦史 大坂役』附図

「冬役両軍配備」の一部より

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- 5 -

は籠ろう

城じょう

戦せん

が難しく、夏の陣では城の外

へ討う

って出ました。戦いが始まると、一

時は家康の陣に豊臣方の部隊が迫るこ

とがあったようですが、兵の数で圧倒

的に勝る徳川方が大坂城を攻め落とし

ました。翌 5月 8日には豊臣秀頼とそ

の母の淀殿が自害。豊臣氏は滅亡して

大坂夏の陣が終わりました。

この戦いで利常の軍勢が挙げた首しゅ

級きゅう

(敵から討ち取った首の数)は

3,200といわれており、最も多かった

越前の松平忠直軍の 3,753 に次ぐ活

躍ぶりでした。その活躍ぶりにより 5

月 13 日には家康から利常に感状(戦

功を賞する文書)が授けられましたが、

そのとき家康は加増として阿波・讃岐・

伊予・土佐の四国一円を利常に与えよ

うとしたとの話もあります。

珠姫と子どもたち

利常の嫁として 3 歳で金沢に輿こし

入れした珠姫は、15 歳になった慶長 18 年

(1613)3月に長女の亀鶴姫を出産。大坂の陣ののちの元和元年(1615)11

月には、加賀前田家 4 代となる長男の光高が誕生しました。その後、珠姫は毎

年のように子を産み、元和 2年には二女の小姫、元和 3年には二男の利次、元

和 4年には三男の利治、元和 5年には三女の満姫、翌々年の元和 7年には四女

の富ふう

姫、元和 8年には五女の夏姫と、三男五女の 8人の子を出産しました。し

大坂夏の陣(天王寺・岡山の戦い)の布陣図

参謀本部編『日本戦史 大坂役』附図

「天王寺岡山戦図」の一部より

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かし、珠姫は夏姫を出産したのちに体調を崩し、元和 8年(1622)7月 3日、

24歳にして亡くなりました。

珠姫の産んだ子のうち、二女の小姫と五女の夏姫は幼いうちに亡くなりまし

たが、長女の亀鶴姫は将軍家光の養女となったのち、寛永 3 年(1626)2 月

に津山藩(現在の岡山県津山市)の森忠広のもとに嫁ぎました。また、三女の満

姫は寛永 12年(1635)9月に広島藩主・浅野光みつ

晟あきら

のもとに嫁ぎ、四女の富

姫は寛永 19年(1642)に八条宮智忠親王のもとに嫁ぎましたが、富姫を妃きさき

とした八条宮智忠親王は別邸の桂離宮の整備を行っており、その整備に対して

利常は多大な支援をしたといわれています。

光高の元服と利常の改名

慶長20年(1615)閏6月に参議に任じられていた利常は、寛永3年(1626)

8月には従じゅ

三さん

位み

権ごんの

中納言に任じられました。

また、寛永 6 年(1629)4 月 23 日には、15 歳の長男の光高が江戸で元

服。このとき名を利高とするところでしたが、当時の将軍・徳川家光より「光」

の字を賜って光高になったと言われています。また、光高は正しょう

四し

位い

下げ

左さ

近この

衛え

少しょう

将しょう

兼筑ちく

前ぜんの

守かみ

に任じられ、それまで父の利常が名乗っていた筑前守を光高が名

乗ることとなりました。一方、利常は肥ひ

前ぜんの

守かみ

を名乗ることとなりましたが、光

高の元服と同じ日、名を利光から利常に改めました。

寛永の危機

寛永 8 年(1631)4 月、金沢で大火がおこり、金沢城が焼失しました。こ

のとき利常・光高はともに金沢にいて、ただちに城の再建に取り掛かりました。

一方、利常は 10月より大坂夏の陣での戦功を調べ直すこととしました。大坂

夏の陣では首級が 3,200もあり、誰の獲った首かがはっきりしないものが少な

くなく、戦功が新たに認められた者には加増を行いました。

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こうしたなか、11月中旬、幕府が前田家の動きに対して不審を抱いていると

の知らせが利常のもとに届きました。ちょうど大御所の秀忠が病気で臥してい

るときで、大坂夏の陣の戦功を調べ直して加増を行ったり、城の再建をしたりす

るのは、秀忠の病気を機に前田家が謀反を企てるためではないかと疑われたの

でした。幕府により前田家が取り潰される危機であったことから、このことは

「寛永の危機」とも呼ばれています。

これを知った利常は、疑いを晴らすために光高とともに金沢を発ち、12月に

江戸に入りましたが、幕府から前田家の江戸留る

守す

居い

役やく

が呼ばれたことで、留守居

役の横山康やす

玄はる

が江戸城へ行って弁明し、前田家にかけられた疑いを晴らしまし

た。

光高の婚儀

寛永 9年(1632)12月、将軍家光は養女の大姫を前田家に嫁がせたいとの

意向を利常に伝え、光高と大姫との婚儀が決まりました。なお、大姫は水戸藩主・

徳川頼より

房ふさ

の娘でしたが、その年の 5 月に家光の養女となっていました。その大

姫が徳川将軍家から前田家へ嫁ぐことで、両家の結び付きがまた一段と強くな

るのでした。その光高と大姫の婚儀は、翌年の寛永 10年(1633)12月に江

戸で行われました。光高 18歳、大姫 7歳でした。

利常による大坂登のぼり

米まい

寛永15年(1638)(もしくは16年)、利常は加賀藩の年貢米を下関経由の

船で大坂へ直接運ぶことを試み、成功しました。

その当時、東北・北陸の日本海側から関西方面へ物資を運ぶには、越前の敦賀

まで海路で運んだのち、陸路と琵琶湖の水運を使って運ぶのがおもなルートで

した。しかし、荷の積み替えに伴う手間や経費がかさむことから、下関経由の海

路だけで大坂へ運ぶほうが有利でした。

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利常はそのことに着目したのですが、その後、寛文12年(1672)には下関

経由の西廻り航路が幕府の命令により整備され、18世紀後半には日本海側と大

坂とを行き来する北前船が出現しています。利常の大坂登のぼり

米まい

はそれらに先駆け

たもので、当時の海運に大きな影響を与えたといえましょう。

利常の隠居と小松城入城

寛永 12年(1635)、武ぶ

家け

諸しょ

法はっ

度と

(幕府が諸大名を統制するための法)の改

定により参さん

勤きん

交こう

代たい

が制度化され、諸大名は 1 年おきに交替で江戸に滞在するこ

ととなり、その交替時期は毎年 4 月と定められました。それ以降、利常はほぼ

1年おきに江戸へ参勤するようになります。

また、「寛永の危機」が終わった頃から利常は隠居したい旨を幕府に申し出て

いたようですが、利常が江戸へ参勤していた寛永 16 年 5 月、ようやく隠居が

認められ、6月 20日、利常は 47歳で家督を光高に譲りました。このとき加か

越えつ

能のう

三ヵ国 119 万石のうち、80 万石は光高に、10 万石は二男の利次に、7 万

石は三男の利治に譲り、残りの 22万石は利常隠居領とすることも認められ、光

高の 80 万石と利常隠居領 22 万石とを合わせた 102 万石が加賀藩、利次の

10万石が富山藩、利治の 7万石が大聖寺藩となります。そして、利常は小松城

を隠居地と定め、それにふさわしい城となるよう小松城の整備に取り掛かりま

した。

翌年の寛永 17年(1640)6月、利常は東海道を経て江戸から帰国し、隠居

地となった小松城に入りました。

綱紀の誕生と光高の急きゅう

逝せい

寛永 20年(1643)11月 16日、大姫が江戸にて光高の長男を出産。加賀

前田家 5代の綱つな

紀のり

の誕生でした。また、その 2 年後の正保 2年(1645)には

大姫が 2人目の子の出産を控えていました。

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ところが、正保 2年(1645)4月 5日に光高が急逝しました。前田家の江

戸屋敷で幕府の重臣たちをもてなしていたところ、突然倒れて亡くなってしま

いました。光高 31歳のときでした。

光高亡きあと、3歳の綱紀が前田家の家督を継ぎましたが、まだ幼少であった

ため、祖父の利常が後見として再び藩政を取り仕切ることとなりました。

改かい

作さく

法ほう

利常隠居後の寛永年間の末(1640年ごろ)、加賀藩は凶作に見舞われました

が、その後も困窮した百姓たちの年貢の納入は 滞とどこお

りがちとなり、知ち

行ぎょう

地ち

から

の年貢を収入源とする給きゅう

人にん

(藩から知行地を与えられた家臣)たちも苦しい状

況が続いていました。そうしたなか、光高の死に伴い再び藩政を取り仕切ること

となった利常は、加賀藩において改作法という農政改革を実施しました。

改作法は慶安 4 年(1651)に始められ、まず、百姓たちに改かい

作さく

入いり

用よう

銀ぎん

(種たね

籾もみ

などを購入するための銀)や作さく

食じき

米まい

(食糧米)の貸付などを行い、困窮した百

姓たちの救済を図りました。百姓たちを救済することで、滞りのない年貢の納入

を可能にし、給人たちの収入を安定させようとしたのでした。

また、それまで年貢の徴収は給人たちが直接行っていましたが、無理な取り立

てなどをさせないため、給人たちによる徴収を禁止し、徴収を十と

村むら

(他藩におけ

る大庄屋に相当する者)に委ねて、村単位で年貢を収納する体制を作り上げまし

た。さらに、給人と百姓とが交渉して決めていた年貢率については、村ごとに毎

年一定とし、村の石高や年貢率などを記した「村むら

御ご

印いん

」を各村に交付しました。

こうしたことにより、給人たちによる知行地の直接支配はなくなりましたが、毎

年一定の収入を給人たちは確保することができました。

改作法は成果を上げ、明暦 3 年(1657)4 月には、改作法を実施したすべ

ての村が年貢を完納したことを利常は幕府に報告しています。このことが評判

となり「政治は一加賀、二土佐」と称たた

えられたそうです。しかし、その実施にお

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いては年貢の増徴も行われており、百姓たちにとって改作法は厳しいものでも

ありました。

綱紀の婚儀と利常の逝せい

去きょ

明暦 3 年(1657)、江戸で大火がおこり、江戸城の天守や本丸などが焼失。

幕府は諸大名に江戸城復興のお手伝い普ふ

請しん

を命じました。このとき 15 歳だっ

た綱紀は天守台の造営を任され、翌年の明暦 4 年(1658)3 月に取り掛かり

ました(なお、明暦 4年は 7月 23日に万治元年と改元しました)。

その天守台の造営が行われていた 6月 3日、会津藩主・保ほ

科しな

正之の四女の摩ま

須す

と綱紀との婚儀が決まり、7月 26日、16 歳の綱利と 10歳の摩須との婚儀

が江戸で行われました。なお、保科正之は 3 代将軍・家光の異母弟にあたる人

物で、家光の遺言に従って 4代将軍・家綱を補佐し、幕政を主導していました。

江戸城天守台の造営が終わろうとしていた 9月 23日、前年 4月から 1年半

ほど江戸に滞在していた利常は小松へ戻りました。ところが、10 月 12日、利

常は小松城で突然倒れ、その生涯を終えました。このとき利常 66歳でした。そ

の後、11 月 3 日に能美郡の三み

宅やけ

野の

(現在の小松市河田町)で荼だ

毘び

に付され、

11 月 6 日から 14 日にかけて金沢の宝円寺で法会が行われました。墓は金沢

の野田山(前田家墓所)にあり、戒名は「微妙院殿一峯充乾大居士」。その戒名

から利常は「微み

妙みょう

公こう

」とも呼ばれています。

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前田利常関係 略年譜

年 年齢 おもなできごと

文禄 2(1593)

慶長 3(1598)

慶長 4(1599)

慶長 5(1600)

慶長 6(1601)

慶長 10(1605)

慶長 12(1607)

慶長 15(1610)

慶長 19(1614)

元和 元(1615)

元和 8(1622)

寛永 3(1626)

寛永 6(1629)

寛永 8(1631)

寛永 10(1633)

寛永 15(1538)

寛永 16(1639)

寛永 17(1640)

寛永 20(1643)

正保 2(1645)

慶安 元(1648)

慶安 3(1650)

慶安 4(1651)

承応 元(1652)

承応 3(1654)

明暦 3(1657)

万治 元(1658)

13

15

18

22

23

30

34

37

39

41

46

47

48

51

53

56

58

59

60

62

65

66

前田利家の四男として金沢城にて誕生(11 月 25 日)

その後、越中守山城の前田長種とその妻の幸(利家の長女)のもとで育つ

越中の今石動にて父の利家と対面(3 月下旬もしくは 4 月)

父の利家が大坂にて逝去(閏 3 月)

浅井畷の戦いののち人質として丹羽長重の小松城に入る(9 月)

ほどなくして人質としての生活が終わるが、その後も小松城に残る

利常の妻として珠姫が金沢に輿入れ(9 月)

伏見城で元服。従四位下侍従兼筑前守となり、名は利光(4 月または 5 月)

兄の利長が隠居し、前田家の家督を継ぐ(この頃、金沢城へ移る)(6 月)

幕府より駿府城修築のお手伝い普請を命じられる(5 月)

幕府より名古屋城築城のお手伝い普請を命じられる(閏 2 月)

兄の利長が逝去(5 月) 大坂冬の陣に出陣(10~12 月)

大坂夏の陣(4・5 月) 参議となる(閏 6 月) 長男の光高誕生(11 月)

妻の珠姫が逝去(7 月)

従三位権中納言となる(8 月)

名を利光から利常と改め、肥前守を名乗る。光高が元服(4 月)

幕府より謀反の疑いをかけられる「寛永の危機」(11・12 月)

光高と大姫(徳川家光の養女)の成婚(12 月)

下関経由の船で米百石を大坂へ送ることに成功(寛永 15 または 16 年)

隠居して家督を光高に譲る(6 月) 小松城の整備を始める

隠居地となった小松城に入る(6 月) 那谷寺再興・造営を始める

孫(光高の長男)の綱紀が江戸にて誕生(11 月)

光高が江戸で急逝(4 月) 綱紀が 3 歳で家督を継ぐ(利常後見)(6 月)

小松城葭島の亭・花畑ができる

小松城中土居に屋敷を営む

改作法に着手

小松城葭島に数寄屋(茶室)を築く(秋)

綱紀が江戸にて元服(1 月)

小松天満宮を創建(2 月) 改作法の成果を幕府に報告(4 月)

綱紀と摩須姫(会津藩主・保科正之の四女)の成婚(7 月)

小松城で逝去(10 月 12 日) 能美郡三宅野にて荼毘に付される(11 月)

※利常の年齢は数え年、月日は旧暦で表記

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小松城

村上頼勝・丹羽長重の在城

小松城の始まりについて詳しいことは分かっていませんが、江戸時代後期の

郷土史家・富田景かげ

周ちか

が著した『越えっ

登と

賀が

三さん

州しゅう

志し

』には、天正 4年(1576)、加賀

一向一揆の指導者の一人であった若林長なが

門と

が小松城を築いたということが書か

れてあります。その頃は砦とりで

のような小さな城が築かれていたのかもしれません。

天正 3 年(1575)には柴田勝家をはじめとする織田信長の軍勢が加賀に進

攻し、天正10年(1582)に加賀一向一揆が終結しましたが、天正8年(1580)、

信長から能美郡 6 万6千石を与えられた村上頼勝(義明)が小松城に入ったと

いわれています。なお、このときに小松城主となったのは柴田勝家の家臣・徳山

則秀との説もあり、村上頼勝が小松城に入ったのは、天正 11年(1583)の賤しず

ヶ岳の戦い(羽柴秀吉が柴田勝家を破った戦い)の後ともみられています。

その後、慶長 3 年(1598)に村上頼勝が越後本庄(現在の新潟県村上市)

への移い

封ほう

を命じられると、松任城にいた丹羽長重が 8 万石あまりを加増されて

小松城に移りました。しかし、慶長 5 年(1600)の関ケ原の戦いの直前、徳

川方の前田利長と敵対して戦ったこと(浅井畷の戦い)により、関ケ原の戦いで

徳川方が勝利すると、丹羽長重は改かい

易えき

(領知没収)となり、小松城は前田利長に

与えられました。

小松城代と利常の隠居

浅井畷の戦いの後の和議により利常が人質として小松城に入りましたが、丹

羽長重の改かい

易えき

の後も利常は小松城に残り、家督を継ぐ慶長 10年(1605)6月

まで小松城を居城としていたようです。

一方、小松城には城代(城主の代わりに城を預かる職)が置かれるようになり、

越中守山城で幼少期の利常を見てきた前田長なが

種たね

が最初の小松城代となりました。

長種ののちは、子の直知、孫の直正が小松城代となりましたが、寛永 8年(1631)

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には直正が病で亡くなったため、直正の子で幼少の孝貞が小松城代を引き継ぎ、

その叔父にあたる直成が後見として城代の任務にあたりました。

城代が置かれた時期を経て、寛永 16年(1639)6月、利常が小松城に隠居

することとなり、隠居地にふさわしい城へと小松城が整備され始めました。城の

縄なわ

張ばり

(城の区画や建物群の配置)が改められ、本丸の造成や堀の改修、橋の新設

などが大急ぎで行われたとのことで、城の様相は一新しました。翌年の寛永 17

年(1640)6月には利常が隠居地となった小松城に入りましたが、城の整備は

その後も続き、利常が亡くなる万治元年(1658)まで行われました。御殿・茶

室の造営や大掛かりな作庭など、利常は城の整備に力を入れ、ときには金沢城に

あった石を小松城に運ぶよう命じたこともあったようです。

利常没後の城代・城番

万治元年(1658)10月 12日に利常が小松城で亡くなると、その年の 12

月から小松城に再び城代が置かれることとなりました。延宝 7年(1679)9月

には城番も置かれ、小松城に城代と城番がいることとなりましたが、その頃には、

城代は金沢に居住したままで、実質的な城の管理は城番が行っていました。その

ため、明和 8年(1771)9月からは、幕末の 3年ほどを除いて、小松城代に

任じられる者はいませんでした。

その後、幕末から明治に至り、小松城は廃止となりますが、明治 6年(1873)

1月、「城じょう

郭かく

存そん

廃ぱい

決定」の通達(通称「廃城令」)が明治政府から出され、全国

120以上の城郭が廃止されたときには、廃止される城の一覧に小松城の名は見

られず、そのときにはすでに小松城は廃止されていました。

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小松城のおもな遺構

小松城本丸櫓やぐら

台だい

石いし

垣がき

鵜う

川かわ

石いし

などの小松の凝ぎょう

灰かい

岩がん

石材と、金沢から運ばせた戸と

室むろ

石いし

(安あん

山ざん

岩がん

)を組

み合わせて積み上げた小松城の本丸櫓台石垣。加工した石をすき間なく積み上

げる「切き

り込こ

みハギ」という工法が

用いられ、コーナー部では、直方体

に整形された石材の長辺と短辺と

を交互に重ね合わせる「算さん

木ぎ

積づ

み」

という工法が用いられている。小松

市指定文化財。

来らい

生しょう

寺じ

寺じ

門もん

小松城内の二の丸と枇び

杷わ

島じま

との

間に鰻うなぎ

橋ばし

があり、その橋の二の丸

側の入口に鰻うなぎ

橋ばし

門もん

があったが、明

治初年の小松城の取り壊しの際、そ

の鰻橋門を来生寺へ移築し、寺門と

したもの。小松市指定文化財。

二に

階かい

御お

亭ちん

遺い

構こう

(入いり

口ぐち

扉とびら

小松城内の中なか

土ど

居い

と本丸との間

に架けられた車くるま

橋ばし

の本丸側橋詰め

にあった二に

階かい

御お

亭ちん

の入口扉。明治初

年に個人が譲り受けたのち、小松市

立博物館に寄贈された。博物館2階

で展示されている。

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利常と小松

丹羽長重が小松城にいた頃までには、小松はそれなりの町になっていたと思

われますが、利常が隠居して小松城に入り、利常付きの多くの武士たちが金沢か

ら小松に移り住むと、その需要に応える商人や職人たちも集まり、小松は利常隠

居領の城下町として活況を呈するようになりました。そうしたなか、利常は産業

の保護奨励や寺社の造営、文化の振興などを進めました。

利常が保護奨励した小松の産業として絹織物や畳たたみ

表おもて

、製茶などがありまし

たが、なかでも中世以来の小松の主要産業であった絹織物は、保護奨励によって

一層盛んになり、利常が小松城を隠居地としていた慶安・承応年間(1648~

1655)に生産量の最盛期を迎えています。また、魚問屋や茶問屋などの各種問

屋が置かれ、小松は流通の拠点にもなりました。

寺社の造営では、まず寛永 17年(1640)より那な

谷た

寺でら

の再興・造営を始めま

した。利常は那谷寺の荒廃ぶりを見て直ちに取り掛かったとのことで、慶安 2

年(1649)ごろまでに本堂や三重塔、護ご

摩ま

堂どう

などの堂塔を完成させ、再興を遂

げました。明暦 3 年(1657)には、小松城の鬼門の方角(北東方向)の梯川

のほとりに小松天満宮を創建。利常が祖先神として崇敬した菅原道真を祀り、初

代別べっ

当とう

として京都の北野天満宮から能のう

順じゅん

を招きました。さらに、多太神社や菟う

橋ばし

神社、本折日吉神社、葭よし

島じま

神社に社領を寄進したほか、郊外にあったいくつか

の寺院を城下へ移転させて町の整備を行っています。

文化の振興にも力を注いだ利常は、茶人・千利休の血筋を引く仙せん

叟そう

宗そう

室しつ

を召し

抱え、小松城三の丸に屋敷を与えましたが、仙叟が武士のみならず町人に至るま

で茶の湯を広めたことで、小松に茶道文化が浸透しました。また、利常が小松天

満宮の初代別当に招いた能順は、連歌の第一人者として活躍していましたが、小

松の人たちとも連歌を楽しみ、越前屋歓かん

生しょう

のような連歌に秀でた文化人を小松

から輩出するなど、小松の文化発展に大きく貢献しました。

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利常の入城を機に活況を呈してきた小松の町でしたが、万治元年(1658)10

月に利常が小松城で亡くなると、利常付きの多くの武士たちが金沢へ戻り、小松

は衰退の危機に直面しました。しかし、各種問屋が置かれて流通の拠点にもなっ

ていた小松は、その後、産業・商業の町としての性格を強めて発展します。利常

が小松の産業を保護奨励し、生産を拡大させていたことも、その発展に大きく寄

与していました。また、産業の保護奨励のみならず、利常は文化の振興や寺社の

造営、町の整備などを行いましたが、それらが 礎いしずえ

となり、江戸時代以降、小松

は南加賀の中核都市へと発展し、昭和 15年(1940)には市制が施行され、市

制施行 80年を迎える今につながります。そうした小松の歴史のなかでも、今に

つながる小松の礎を築いた利常の小松城入城は、非常に大きな画期といえるも

のでした。

【引用参考文献】

『加賀藩史料』第 1 編・第 2 編・第 3 編・編外 侯爵前田家編輯部 1929~1933 年

『越登賀三州志』石川県図書館協会 1933 年 12 月

財団法人前田育德会『前田利常略伝』1958 年 11 月

『三壺聞書』石川県金沢城調査研究所 2017 年 3 月

見瀬和雄『利家・利長・利常 前田三代の人と政治』北國新聞社 2002 年 3 月

大西泰正『前田利家・利長 創られた「加賀百万石」伝説』平凡社 2019 年 4 月

続群書類従完成会『群書類従 第二十一輯 合戦部』「小松軍記」平文社 1931 年 12 月

岩沢愿彦『前田利家』吉川弘文館 1966 年 12 月

見瀬和雄『前田利長』吉川弘文館 2018 年 11 月

若林喜三郎『前田綱紀』吉川弘文館 1961 年 5 月

日本戦史編纂委員撰『日本戦史 大阪役』参謀本部 1897 年 8 月

笠谷和比古『関ケ原合戦と大坂の陣』吉川弘文館 2007 年 11 月

藤井讓二『天下人の時代』(日本近世の歴史 1)吉川弘文館 2011 年 11 月

金沢市史編さん委員会『金沢市史 通史編 2 近世』北國新聞出版局 2005 年 12 月

木越隆三「前田利常の改作仕法」『ふるさと石川歴史館』北國新聞社 2002 年 6 月

木越隆三『加賀藩改作法の地域的展開』桂書房 2019 年 5 月

小松市立博物館『小松城』1987 年 10 月

新修小松市史編集委員会『新修小松市史 資料編 1 小松城』小松市 1999 年 3 月

新修小松市史編集委員会『新修小松市史 資料編 2 小松町と安宅町』小松市 2000 年 3 月

新修小松市史編集委員会『新修小松市史 10 図説こまつの歴史』小松市 2010 年 12 月

袖吉正樹「「当町随一之産業」小松絹業」『石川県史だより第 59 号』2019 年 9 月

中野節子『加賀藩の流通経済と城下町金沢』能登印刷出版部 2012 年 7 月

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第 16回 ふるさと小松検定

メモリアルコース「利常公と小松城」ドリル

問1 前田利常が生まれた日は旧暦で何月何日?

①6月 21日 ②8月 9日 ③10月 12日 ④11月 16日 ⑤11月 25日

問 2 前田利常が生まれて最初に付けられた幼名は次のうちどれ?

①犬千代 ②竹千代 ③猿千代 ④虎千代 ⑤日吉丸

問 3 前田利常が生まれたのち、8歳まで過ごした城は?

①小松城 ②大坂城 ③守山城 ④伏見城 ⑤高岡城

問 4 前田利常は父の利家と一度だけ出会いましたが、その対面した場所は?

①今石動 ②金沢 ③草津 ④小松 ⑤大坂

問 5 慶長 5年(1600)9月の関ケ原の戦いの直前にあった戦いで、利常の兄の前田利長と

小松城の丹羽長重との戦いは次のうちどれか?

①賤ヶ岳の戦い ②末森城の戦い ③小牧・長久手の戦い ④浅井畷の戦い

⑤天王寺・岡山の戦い

問 6 問 5の戦いのとき、前田利長の軍勢の殿(しんがり)を務めていたのは?

①前田長種 ②長連龍 ③本多政重 ④江口三郎右衛門 ⑤横山長知

問 7 問 5の戦いののち、前田利常が人質として小松城に入ったことに関する記述で、次の

うち正しいものはどれ?

①利常が人質として小松城に入ったときには、すでに関ケ原の戦いで徳川方が勝利して

いた。

②『御直言覚書』という史料によると、利常は人質として小松城に入ったが、小松城にい

る丹羽長重にかわいがられ、手ずから柿の皮をむいてもらったという話がある。

③利常が人質として小松城に入ると、丹羽長重の母が前田家の金沢城へ人質として入っ

た。

④人質として小松城に入った利常は散々な目に遭ったといわれている。

⑤小松城での人質生活が終わると、すぐに利常は 8歳まで過ごした高岡城へ帰った。

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問 8 慶長 10年(1605)に前田利常は 13歳で元服しましたが、どこで元服した?

①金沢城 ②小松城 ③江戸城 ④駿府城 ⑤伏見城

問 9 慶長 10年(1605)6月、前田利常の兄の利長が隠居しましたが、そのとき、金沢城か

ら移った城は次のうちどれ?

①高岡城 ②富山城 ③大聖寺城 ④小松城 ⑤守山城

問 10 慶長 19年(1614)に前田利常が出陣した大坂冬の陣に関する記述で、次のうち正し

いものはどれ?

①大坂冬の陣のときには、利常はすでに実戦経験を豊富に積んでいた。

②大坂冬の陣では、利常自らが真田丸に攻め込んで大活躍した。

③大坂冬の陣では、利常の軍勢から負傷者が出ることはなかった。

④大坂冬の陣では、利常の軍勢は篠山を挟んで真田丸と向かい合う位置に布陣した。

⑤利常の部隊が真田丸に攻め込むと、利常は大坂城本丸まで攻め込むよう命令した。

問 11 慶長 20年(1615)に前田利常が出陣した大坂夏の陣に関する記述で、次のうち正し

いものはどれ?

①利常が大坂夏の陣で活躍したことにより、徳川家康は加増として九州一円を利常に与

えようとした話があった。

②利常の軍勢の挙げた首級(敵から討ち取った首の数)が最も多かった。

③大坂の陣の最終決戦であった天王寺・岡山の戦いで、利常は岡山口の先鋒を命じられた。

④大坂夏の陣では、豊臣方は籠城戦で臨んだ。

⑤大坂城が攻め落とされたのち、豊臣秀頼は利常の配下の兵に捕らえられた。

問 12 前田利常の妻の珠姫は何男何女の何人の子を産んだか?

①三男四女の 7人 ②ニ男六女の 8人 ③三男五女の 8人 ④三男六女の 9人

⑤四男五女の 9人

問 13 前田利常と珠姫との間に生まれ、将軍の徳川家光の養女となったのち、津山藩の森

忠広のもとに嫁いだのは、次のうち誰?

①長女の亀鶴姫 ②二女の小姫 ③三女の満姫 ④四女の富姫 ⑤五女の夏姫

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問 14 前田利常と珠姫との間に生まれ、八条宮智忠親王の妃となったのは次のうち誰?

①長女の亀鶴姫 ②二女の小姫 ③三女の満姫 ④四女の富姫 ⑤五女の夏姫

問 15 寛永 3年(1626)8月、前田利常が任じられたのは次のうちどれ?

①侍従 ②左近衛少将 ③右近衛権中将 ④権中納言 ⑤権大納言

問 16 寛永 6年(1629)4月、前田利常の長男の光高が元服し、将軍の徳川家光から「光」

の字を授かって名を光高にしたといわれていますが、当初は別の名にするところでし

た。その別の名とは次のうちどれ?

①利勝 ②安勝 ③利高 ④良之 ⑤綱利

問 17 寛永 6年(1629)4月、前田利常の長男の光高が元服し、それまで利常が名乗ってい

た「筑前守」を名乗るようになると、利常は何と名乗るようになった?

①肥前守 ②加賀守 ③飛騨守 ④淡路守 ⑤肥後守

問 18 寛永 8年(1631)、前田利常が幕府から謀反の疑いをかけられた「寛永の危機」があ

りましたが、そのとき、江戸城へ行って弁明し、前田家への疑いを晴らしたのは誰?

①村井長頼 ②本多政重 ③前田直之 ④横山康玄 ⑤奥村永福

問 19 寛永 10年(1633)、前田利常の長男の光高は、将軍の徳川家光の養女を妻としたが、

その妻とは次のうち誰?

①豪姫 ②大姫 ③摩須姫 ④摩阿姫 ⑤満姫

問 20 前田利常の長男・光高の妻は、将軍の徳川家光の養女となる前は誰の娘だった?

①尾張藩主・徳川義直 ②広島藩主・浅野光晟 ③紀州藩主・徳川頼宣

④会津藩主・保科正之 ⑤水戸藩主・徳川頼房

問 21 寛永 16年(1639)6月、前田利常は家督を光高に譲って隠居しますが、このとき利

常は数え年で何歳?

①45歳 ②46歳 ③47歳 ④48歳 ⑤49歳

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問 22 前田利常は隠居した翌年の寛永 17 年(1640)、隠居地となった小松城に入りました

が、それは旧暦で何月のこと?

①5月 ②6月 ③7月 ④8月 ⑤9月

問 23 前田利常の孫の綱紀が江戸で誕生したのは、旧暦でいつのこと?

①寛永 16年(1639)6月 20日 ②寛永 17年(1640)6月 21日

③寛永 20年(1643)11月 16日 ④正保 2年(1645)4月 5日

⑤明暦 4年(1658)6月 3日

問 24 前田利常の長男・光高が亡くなると、利常の孫の綱紀が家督を継ぎましたが、この

とき綱紀は数え年で何歳?

①1歳 ②3歳 ③5歳 ④7歳 ⑤8歳

問 25 長男の光高が亡くなったことにより隠居後に再び藩政を取り仕切ることとなった前

田利常は、慶安 4年(1651)から改作法という農政改革を加賀藩で始めましたが、それ

に伴い、村ごとに石高や年貢率を記した文書を交付しました。その文書を何という?

①村鑑 ②知行宛行状 ③年貢皆済目録 ④村御印 ⑤起請文

問 26 明暦 3年(1657)、大火で江戸城が焼失し、幕府は諸大名に江戸城復興のお手伝い普

請を命じましたが、このとき前田綱紀に任された普請(工事)は次のうちどれ?

①天守の再建 ②大手・二の丸門の再建

③梅林坂上下門の再建 ④切手御門の再建 ⑤天守台の造営

問 27 万治元年(1658)7月、前田綱紀が妻とした摩須姫は誰の娘?

①水戸藩主・徳川頼房 ②白河藩主・丹羽長重 ③会津藩主・保科正之

④紀州藩主・徳川頼宣 ⑤尾張藩主・徳川義直

問 28 前田利常は、その戒名から別の名で呼ばれることがあるが、それは次のうちどれ?

①高徳公 ②瑞龍公 ③微妙公 ④陽廣公 ⑤松雲公

問 29 小松城の始まりについては詳しいことは分かっていないが、江戸時代後期の郷土史

家の富田景周が著した『越登賀三州志』によれば、天正 4年(1576)に加賀一向一揆の

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指導者により小松城が築かれたとある。その一向一揆の指導者とは次のうち誰?

①若林長門 ②宇津呂丹波 ③鈴木出羽 ④徳山則秀 ⑤村上頼勝

問 30 前田利長に小松城が与えられたのち、最初に小松城代(城主の代わりに城を預かる

職)に就いたのは次のうち誰?

①前田直正 ②前田孝貞 ③前田直知 ④前田直成 ⑤前田長種

問 31 寛永 16年(1639)、前田利常は小松城を隠居地とし、寛永 17年 6月には小松城に入

りましたが、そのことに関する記述で正しいものは次のうちどれ?

①寛永 16 年より小松城の整備が大急ぎで行われ、寛永 17 年 6 月に利常が小松城に入っ

たころには城の整備がほぼ完了したので、その後、小松城の整備は行われなかった。

②寛永 16年より小松城の整備に取り掛かり、寛永 17年 6月に利常は小松城に入ったが、

城の整備はその後も続き、利常が亡くなる万治元年(1658)まで行われた。

③利常は隠居する以前から小松城の整備を行っていたといわれており、隠居した後、本丸

の造成や堀の改修などといった大掛かりな工事を行うことはなかったとされている。

④利常の隠居に伴い小松城の壊れていたところは直されたが、それ以上のことはなく、橋

の新設や御殿の造営など、大規模な整備はなかったといわれている。

⑤利常は隠居地とした小松城の整備に力を入れなかったと伝えられている。

問 32 万治元年(1658)10月に前田利常が亡くなったのちの小松城に関する記述で、正し

いものは次のうちどれ?

①利常が万治元年 10月に亡くなると、その月には小松城に城番が置かれた。

②利常が亡くなったのち、小松城に城代が置かれ、延宝 7年(1679)9月には城番も置か

れるようになったが、その後、幕末まで実質的な城の管理は城代が行っていた。

③利常が亡くなったのち、小松城に城代が置かれ、延宝 7年(1679)9月には城番も置か

れるようになったが、その頃には、城代は金沢に居住したままで、実質的な城の管理は

城番が行っていた。

④利常が亡くなったのち、幕末まで常に小松城に城代が置かれた。

⑤明和 8年(1771)9月以降、明治に至るまで、小松城の城代に任じられる者は一人もい

なかった。

問 33 小松城本丸櫓台石垣のコーナー部で用いられている工法で、直方体に整形された石

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材の長辺と短辺を交互に積み上げる工法は、次のうちどれ?

①切り込みハギ ②打ち込みハギ ③武者返し ④算木積み ⑤布積み

問 34 来生寺寺門は、もとは小松城の二の丸と枇杷島との間に架けられた橋の二の丸側入

口にあった門であるが、その二の丸と枇杷島との間にあった橋の名は次のうちどれ?

①鰻橋 ②長橋 ③筋違橋 ④車橋 ⑤台所橋

問 35 小松市立博物館の2階に展示してある二階御亭遺構(入口扉)は、小松城内の中土

居と本丸との間に架けられた橋の本丸側橋詰めにあったものであるが、その中土居と

本丸との間に架けられた橋の名は次のうちどれ?

①北ノ庄橋 ②三之丸橋 ③筋違橋 ④台所橋 ⑤車橋

問 36 前田利常は小松の産業の保護奨励を行いましたが、とくに中世以来の小松の主要産

業で、利常が小松城に隠居していた慶安・承応年間(1648~1655)に生産量の最盛期を

むかえた小松の産業は次のうちどれ?

①干うどん ②畳表 ③絹織物 ④製茶 ⑤たばこ

問 37 明暦 3年(1657)、小松城の鬼門の方角(北東方向)の梯川のほとりに創建し、前田

利常が祖先神として崇敬した菅原道真を祀った神社は、次のうちどれ?

①菟橋神社 ②小松天満宮 ③葭島神社 ④本折日吉神社 ⑤多太神社

問 38 問 37の初代別当として京都から招かれた人物は次のうち誰?

①能順 ②能舜 ③歓生 ④塵生 ⑤北枝

問 39 問 38の人物はある分野の第一人者として活躍していた人物でもあったが、何の分野

で活躍していた人物?

①連歌 ③花道 ②俳諧 ⑤剣道 ④書道

問 40 前田利常が召し抱えた仙叟宗室が武士のみならず町人までに茶の湯を広めたことで、

小松に茶道文化が浸透しましたが、仙叟宗室は小松城のどこに屋敷を与えられた?

①三の丸 ②葭島 ③枇杷島 ④牧島 ⑤竹島

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第 16回 ふるさと小松検定

メモリアルコース「利常公と小松城」ドリル解答

問 こたえ 問 こたえ

1 ⑤ 21 ③

2 ③ 22 ②

3 ③ 23 ③

4 ① 24 ②

5 ④ 25 ④

6 ② 26 ⑤

7 ① 27 ③

8 ⑤ 28 ③

9 ② 29 ①

10 ④ 30 ⑤

11 ③ 31 ②

12 ③ 32 ③

13 ① 33 ④

14 ④ 34 ①

15 ④ 35 ⑤

16 ③ 36 ③

17 ① 37 ②

18 ④ 38 ①

19 ② 39 ①

20 ⑤ 40 ①