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自然的な死と倫理の問題 - kansai-rinri.org

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46

〈依頼論文〉

自然的な死と倫理の問題

自然的な死とは何か

人間のみならずすべての生物は、

死すべきものであり、

死ぬ

ことはその自然である。したがってすべての死は自然的である。

そうすると自然的な死における「自然的」という語は冗語であ

る。

しかしながら自然的な死とそうでない死が区別されるなら

自然的な死という官業は意味を持つことになる。すでにヒユ|

ムが

『人山本性論』(一七三八|

凶九年〉で論じたように「自然

的」という官諜は多磁的であるので、

どのような意味で「自然

的」というのかを検討し、自然的であることが死の問題といか

に関係しているのかを明らかにしなければならない。

ヒュ

l

ムは、

まず自然を、

キリスト教などの宗教における

西

「奇跡」と対比する。そうすると、「この世で起こったこ

とはす

べて自然的である」ということになる。死んだ人が生き返るこ

とは、奇跡的で、したがって非自然的であるが、実際に起こっ

たかどうかは大いに疑わしい。しかしこの場合、

死ぬことはす

べて自然的であり、

自然的死は冗詩的表現ということになる。

次にヒュl

ムは、

自然は「稀で

普通でないこと」に対比され

ると指摘している。山で転柑冷したり、

奇病にかかったりして

死ぬことは稀にしか生じないので

多くの人はこの意味で自然

的に死んでいる。

しかし頻繁に生じることと稀なことを区別す

ることは

川題である。というのは、こ

の区別は事例の数に依存

するが、

その数は別大したり

減少したりしてどこにそのあい

だの境界を設定したらよいか、分からないからである。またヒ

ュl

ムは、

自然とは人為と対比されると述べている。たしかに

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自然的な死と倫JlJlのi::im

自然的な死もあれば、人為的な死もある。人為的な死として、

自殺や殺人

安楽死、

医療過誤などがあげられる。

さらに戦争

による死もそのなかに含まれる

〈戦死ということは、茶話では

rニ一色

〈殺された〉とちう

)。

一般的に言えば、

人為的な死とは人

の意図もしくは過失が主要な原因となって生じて死である。そ

してヒュ

l

ムは、

自然的と

は、市民的

(社会的〉と対立し、ま

た道徳的

(精神的)と対立すると主張する。死は、

社会的問題

でもあることは確かである。

死は他の人々とも倒わるので、

間相互の関係の問題である。

さらに社会的制度の問題でもある。

例えばある人々が餓死したということは、

社会のあり方に問題

のあることを示し

ている。また死について道徳が問題になるこ

とは確かである。殺人、あるいは自殺はあってはならない

こと

であるが、

安楽死は道徳的に許容されることがある。しかしこ

れらは、自然的でない死である。

これに対して自然的な死につ

いては、

殺があるいは何がそれをもたらしか明らかでないから、

道徳が問題になることはない。

かくし

て自

然的な死について論

じることは、社会的問題と道徳の問題を雌れて

いわば自然的

現象の一環として死の問題を論じることになる。

のように自然

的な死とそうでない死はさまざまの視点から

を論じられるが、先に述べたように自然的な死と人為的な死の

区別は重要であり、

この区別は維持されなければならない。し

かしながら、

自然的ではないが、人為的でもない死があること

に注・悲しなければならない。例えば事故や災害による死がそう

47

である。

れらは、社会的問題としての死であるということが

できる。

したがって、

自然的な死と、

自然的でないが、

人為的

でもない死と、

人為的な死が区別されることになる。人は

然的でない死から、阿とかして免れたいと望んでいるが、自然

的死はやむを得ないこととして受け入

れるのが普通である。

「神よ、

私たちを疫病や綴餓

戦争や殺人、

そして突然死から

救い出してください」と祈前世にもある通りである。これに対

して自然的でない死、

なかんずく人為的死は、

なにかある特定

の以因によって生じるので

それについて道徳的、

社会的非難

が生じることになる。

それでは自然的な死とはどのような死に方なのだろうか。一

般的な意味での自然

的な死とは、

「事故、暴力、

議などによる

<l)

のではなくし

て、年総や病気によって引き起こされた死」と考

えられる。

確かにそれは、

通常自然的と認められるであろう。

事故、暴力、協などによ

る死は、

’H

然的でないないしは人為的

な死である。

しかし年齢や病気によって引き起こされるのは

死だけではなく、

老袋、

陣容、

不健康である。そして病気とい

っても長年に渉るものから、

一日にし

て死に至るのもある。昨

日まで元気であった人が今日亡くなることは突然死であり、

然的死とは言わないだろう。まず強い意味での自

然的死を規定

することにしよう。稚でも自然的死と認めるのは、

老荻死であ

る。それまで元気であったが、

徐々に枯れ木の倒れるように死

ぬことである。この場合

その人は、

とくに病気ということは

Page 3: 自然的な死と倫理の問題 - kansai-rinri.org

48

ないので、

医師にかかることもないかもしれない。しかしなが

らこのように天売を全うして死ぬ人は滅多にいない。逆に言え

ば、

医者にかかれば、自然死でなくなるということになると自

然死を遂げる人は殆どいなくなるし、その人の死亡診断おを出

いてもらうのは困難になる。

したがって弱い意味での自然的死が問題になる。先にヒュl

ムは、自然的であることと「稀で普通でないこと」を区

別した

が、

この区別は相対的であって、

どこにその境界を引くかは困

難であることを論じた。それでも弱い意味で自然的であると言

うことは、

頻繁に生じて、

普通であるとみられることを意味す

る。例えば知っている人に出会って挨拶をすることは、普通で

あり、

自然的である。通常は自然的と言わないかもしれないが

知っている人に出会って挨拶をしないことは稀であり、

普通で

はない。それは、

不自然であり

そこに人間関係の問題がある

ことを示唆している。このように考えると、自然的とは慣行と

して広く行われていて、何も問題がないことを意味する場合が

ある。どこまでが慣行であり

広く行われているかが明確では

ないが、

自然的とは、

当然のこととして問題にしないことを含

んでいる。

自然的な死とは、

普通に生じる死ということになるが、

それ

では余りにも漠然としていて意味がない。そこでもう少し内容

に立ち入って鋭定する必要がある。自然的死を、

否定的に規定

て、

「特定の原因にもとづくのでなく

そして尋常でない手

依 :tfi 論文

段に頗ることなく生じた死」であると規定することにしよう。

この鋭定は便宜的であって、その内容は明確ではないが、ある

純聞で生じて来る死を意味するとともに、

非自然的な死と人為

的な死と区別される死を指示することになる。

この規定において、

特定の原因によることなくとは何を意味

するのか。例えば殺人、

事故などは特定の原因があって死が生

じたことは明らかである。また感染症でも、

人がそれに感染し

たから死に至ったのである。それは不幸なことであるが

感染

しないですむことも可能であった。これに対して癌にかかって

死ぬ人の場合、

癌の種類にもよるけれども癌の原因は、

不明で

あって、

どうすれば癌にかからないですむかは明らかでない。

癌による死は、

不可抗力による死であって

特定の原因による

のではないから、

現在の医療水準からすると

自然的な死とい

うことになる。

自然的な死は、

また人工的な延命と対比されて理解されるこ

とが多い。集中治療室のなかでありとあらゆる機然

特殊で、

高価な茶、

またあらゆる手段を用いて

少しでも延命を図るこ

とは、

それを求める人がいるから

あるいは医師が

一種の使命

感からそうするので、擁護されうる而があるが

しかしそれは

自然的な死とは言い灘い。

通常の手段を用いて

死に至った場

合には、

自然的な死と考えようと言うのである。何が通常の治

療手段であるかは、

技術の発展

人の考え方

社会的習慣など

によって変化するから

明確に示されないが、

その時、

その所

Page 4: 自然的な死と倫理の問題 - kansai-rinri.org

「l 然的な先と倫Jll~の1::1凶

によって標準的と認められる治療手段を指すことになる。

もう

一つの問題は、通常の治療手段をとるだけでそれ以上の

ことをしな

いことと

、消極的安楽死との違いはどこにあるのか

ということである。治山町手段の選択に閲して、ある特別な手段

をとらないこと、不作為というぷでは内然的死と消極的安楽死

との泣いはない。しかしその不作為の理由について違いがある。

前者では治僚の限芥があるとして特別な処悦はしないことであ

るが、後阜市では死をもたらそうとして治療を止めるからである。

ここではどちらが正しいということではなく、自然的死におけ

る治療方針について述べているにすぎない。

自然的な死は、

また「良い死」であると考えられることがあ

る。人は、

無理矢理延命させられ、苦痛を引き延ばすようにさ

せられるのではなく

「より人間的な、

自然な死を専門家に決

円。-

められるのではなく

、自分自身の死を求めている」。あるいは

「口分らしい、

人間らしい、

尊厳ある死」を人は求め

その死

は、「川公判しい、

ぶざまな、

惨めな生物学的生」と対比される

ことになる。それではまるで、生きているより死んだ方が立派

であると行わんばかりであって、安楽死を主燥する人にはその

ような意味合いがあった。そこにはもっともな点もあったこと

は認められなければならない。たしかに死にさいして、ザ一-

HW州が

少ないとか、

短いとか、尊厳を維持するというのは

そうでな

いのよりかは良いことである。しかし根本的に考えれば、その

死は相対的に良いのにすぎない。来たして死は人間にとって良

49

いことな

のかどうか、

検討される必要がある。

死の価値

生と死との凶係は、

十日来からいろいろ論じられてきた。人が

生を以歌し、死を退けるのは普辿のことであって、死という未

知の世芥に対して大低の人は恐怖を覚えている。しかしその反

対に、

死は現世よりよい生(彼山)への道として、生よりよい

とする宗教的、形而上学的立場があり、また生物学的観点から

似体の死は、種のために普であるとする全体論的立場がある。

しかしわれわれは、現世において、例体として生きており、個

体としての自分の生命を維持したいと考えているので、

死をな

るたけ避けようとする。

それでもエビクロスのように、死があ

るときには、人間は存在しないのであるから、死は人間にとっ

て無関係であって、死を恐れる必要はないとする考えもある。

しかしこの議論は余り説得的ではない。というのは、人が恐れ

るのは、まさに自分が存花しないことなのであるからである。

ルサ一の側飢と死のそれは相対的であ

って、同点引を比較考抗する

と、ルーより死の方がよいという主必もみられる。フェルドマン

が述べたように、「私が生き続けたとして、

私の送るであろう

生涯が全体として、もし私が今死んだとして、送るであろう生

渡より恐いものであったとした場合、私は今死ぬのが一祷よい

(4>

ことである。この場合に私の死は、私にとって幸初である」。

Page 5: 自然的な死と倫理の問題 - kansai-rinri.org

50

これは年多ければ恥多しと言う思想であって、カント

にもこの

ような

指摘がある。しかし生きながらえるよりも、

今死んだ方

がよいとなかなか断育できるものではない。余命

一年といって

も、

そこにより多くの帯都があるかもしれないし

一年以上生

きるかもしれな

いとい

ったことがあるからである。

死は恕であるということを説得力を持って説明したのは、ト

l

マス

ネl

ゲルである。彼は、

死を生の普と比較考量して恕

としたのではなく、

死を思と主張した。というのは、

「死は生

が内に含んでいるすべての普いものを無に帰してしまうがゆえ

に惑である」。そして生における善さは、

「人生の体験それ自体

が与えてくれるのであり

体験の個々の内容によって与えられ

内5)

たのではない」と主張している。人間の生命は、限られている

にしても、

現に生きている人にとっては終局のない可能的未来

が闘かれている。ヨ

ognRZ

-Y03

5

nqg

(死は確実であるが

その時は不破災である〉というわけである。人間にとって死は、

その未来

その可能性が即時い取られてしまうのである。突然死、

とくに若い人の死は、よ

り多くの可能性、

希望を嫌うからより

思いということになるけれども、それだからといって老年死を

悲しまないということではない。ネ1

ゲルの立場は、

フェルド

マンが論じたような生の内容、生命の質のレベルの問題ではな

くて、

むしろ「より根源的な、

存在論的なレベル、

すなわち、

[6)

体験、希望

可能性への能力の次元」の問題であると考えられ

る。それだから彼は、

死に方

すなわち、

人為的な死、

ないし

{/,(恕i 論文

非自然的な死の問題に

ついて論じてはいない。その問題は、突

然死と同じように、死は惑であるとして、

その思の程度の問題

とみられるかもしれないが、

正しくはそうではない。

ここで死は思であるとした場合の恕について考えなければな

らない。この場合の一必は、道徳的な意味での思ではなくて

t

道徳的な意味での一忠である。体験は

知機や自由のように側

他があるとみなされる。これらの価値は、外十代的ででなく、内

在的であり、しかも普遍妥当的であるが、

それでも道徳的な意

味での価値ではない。すなわち、

それらの伽他は、

正義、

慈愛

のように、

それ自体で人やその行為を道徳的にするものではな

い。しかしそのような非

’道徳的価値であっても、側値である

限り

は、

それを追求することは、道徳的な義務であり

また道

徳的な普である。逆にその価値の実現を妨害し

これを阻止す

ることは、道徳的に否認されるべきことである。そ

れゆえ、死

の問題についても、

死を人為的にもたらし、また非自然的な死

を引き起こすことは

多くの場合誰かに立任があり

道徳的に

非鵬附されるべき事柄である。しかしながら、自然的な死につい

ては、

道徳的な判断を下すことはできない。というのは、

その

死は誰かの責任、、

もしくはある自然のものの作

川によって生

じたのではないので、直接的に道徳に関係しない。

間接的には

道徳に関係するかもしれないが

そのように間接的に道徳に関

係するものをあげていくと切りのないことである。死は即応であ

るとしても

自然的な死は道徳とは(直接には)関係なしに、

Page 6: 自然的な死と倫理の問題 - kansai-rinri.org

I)然(~)な死と倫J!llのlllJ姐

やむを仰ないこととして生じるのであり

それを人は受け入れ

ざるをえないのである。

しかしバーナード・

ウィリアムズやネ|ゲルが主張したよう

<7)

に、本人の手の及ばない「道徳的運」が、行為などを道徳的に

判断するさいに考慮される必要があるかもしれない。例えば向

動車で歩道に乗り上げても、通行人がいなければ、殺にも仰いを

加えないから、

非難されることはない。そのように

いろいろ

な死に方があるが、白川然的な死をとげることは、

まさに幸迎と

いうことになる。しかしながらこのことが飲迎されても、円然

的な死がどれだけの道徳的側仰を持っているかは疑わしい。そ

れは、

本人の利益になるかもしれないが、功績ではないからで

ある。

生一にとって死が意味を持たないということを、

別の点から主

張したのがサルトルである。『存在と無』(一九内=一年)におい

て、初期のサルトルは、死を人川にとって必とは鋭定しなかっ

たが、死を伎を終わらせる側然的山米市として仰飢えている。彼

<8

は、

老年死と突然の死を区別している。この区別は、自然的な

死とそうでない死との区別に対応しているといってよい。しか

しサルトルはその区別を予期される死かそうでない死かという

たんに川相対的な区別にしてしまい、しかもその区別をなし崩し

に無くしてしまうことになる。というのは、私の死というもの

はないからである。つまり、対自存在としての私にとって死は

存夜せず、死者としての私はまったく他者の判断に任されてし

JI

まうことになるのである。そして死は道徳とは関係の無いこと

になってしまう。ネl

ゲルのように死は人間にとって惑である

とか、あるいはサルトルのように死は人聞にとって偶然的出来

事であり

本人である私には関係の無い事柄であるとすると

死について考えることは、どうして必要なのであろうか。

死について考えることの意味

十日米よりヨ巾コdg

円030

(死を忘れるな)という教えがある。

これは、人生のはかなさを考えて、過ぎ去りゆく現世の事例に

うつつを彼かしてはいけないという宗教の教えである。来世が

あるからこそ、

現世のことから離れて死を考えなければならな

いというわけである。しかし宗教の力がだんだん無くなってき

て、米世がむじられなくなると、

死を忘れるなという教えもそ

の説得力の半分を失ってしまった。その半分というのは、来世

がないとしたら、死の恐怖もいっそうmすから、死を人間存十代

の松終的喪失として意識せざるをえなくなるからである。この

ことを幡町まえて、ショlベンハウアーは、死が生の誌の目的と

日凡なされるべきであると主張している。

それに対して死を考える必要はないという考えもある。

スピ

ノザは、

「自由な人間は、

死について考えることはない。そし

て彼の智恵は死についての省察ではなく、生についての省察で

〈叩〉

ある」と述べている。知性をもっぱら働かせる本来の、

円山な

Page 7: 自然的な死と倫理の問題 - kansai-rinri.org

F

人間は、スピノザによると神の愛にしたがって

、神と

一致、合

一するのだから

死は存在しないのである。しかしこの点では

彼の形而上学は、科学の教えというより宗教の教えといっ

た方

がよいように忠われる。死について考える必要はないという考

えは、知識についてスピノザとはまったく別の考え方をとった

思想家、

グィットゲンシュクインから生じている。

彼は、「死

は人生の山米市ではない

人は死を体験しない」と主張してい

る。体験しないことについて、われわれは諮りえないので、

れについて沈黙しなければならないとされる。したがって他人

の死はともかく、

私が体験することのできない

私の死につい

て論じることは、

無意味なのである。ここで死と

は、

人聞が死

ぬこと、つまり死んでいくという過程を意味するのでなく、ま

た死亡、

つまり、人が死んで死体になることを意味しているの

でもない。ヴィットゲンシュタインの考える死とは

、人聞が死

んだ状態であって、これはかつてエピクロスが論じ、また後に

サルトルが論じたように、

当の人間とは関係の無いことである。

当の人間は死んでしまって、

存在していないし、

また死の体験

も本人とともに消滅しているからである。しかし彼らが・忘れて

いることは死の恐怖とは、生から死への穆行に

ついて生じてレ

るのである。サルトルが死を

山来事と従え、他方でまた死んだ

状態とし

て従えている点で、

死についての彼の考えには不愉似合

が見られる。さ

て、山来事としての死におけるこの移行、

死亡

は、陥聞に飛び込むことに犠えられるだろう。中木知の位界への

依頼 j治文

恐れに・加えて、

そこに非常な許術が伴うことが多いから、

人は死を恐れることになる。

死を忘れるなということは、人間の

(附川的な)ト制限性を白

党させて、

死によって区切られる生の全体が川組になるという

ことを・芯仲旅するならば、意味のある教えである。しかしこれが

死のことばかり考えて、死の鴎さ、平日捕、恐ろしき、自分のい

ない世界などのことに意識を集中することを意味するならば、

生きる気力を失わせ、生に損害を与えることになる。ショーベ

ンハウアーのように、存在より非存在の方がよいと考えるなら

別であるが、大抵の人は死ぬより生きることの方が大切である

と考えていて、それはもっともな

ことである。死は人聞にとっ

てどうしても避けられえない事柄なのであるから、

それについ

て考える必要があるけれども、しかし

考えても

.とうしょうもな

い事柄であると言

える。それだからといって、ヨ巾『ロgg

ヨoユ

の代わりにヨgd25

三〈巾『由(生きることを思え)という

教えを

とるわけにはいかない。スピノザが主強したように、もし死は

本来存花しない

のであれば、

生きることの知恵だけが問題であ

る。しかし本史はそうではない。人は、

分がいずれは死ぬこ

を知っている。それを窓滋しながら、生をどう生きたらよレ

のかを考えている。

人間には生きている限り、

あらゆる体験の

可能性があるから、

どのような生を考えたらよいのか削限定する

とはできな

い。それでも死によってその可能性の範聞は限ら

れてくる。それゆえに、

ネl

ゲルによって死は恕と解されるこ 肘

Page 8: 自然的な死と倫理の問題 - kansai-rinri.org

!'I 然的な死と愉理の1::im

とになったのである。ここで生は

生、死は死として

両者を切

り厳して生きることは、多くの人が送る現実の生である。人は

自分がいつか死ぬことを知っているが、いつ死ぬかははっき

しないし、また死を避けえないことも分かっている。そこで生

きる時には紡一杯生きて、死ぬことを考えないで

生を楽しも

うとする。ヨ同コdgFO三〈g

,mとは、人生を享楽せよと言うこと

を意味する。そしていざ死ぬということになったときには、

れはその時ことで、やむを得ないとして受け入れようとするの

である。

向然的でない死の場合には

別の可能性もあったのに悔やむ

場合もあり、

またかくかくのことをすべきであると考えられる。

医療技術の発達によって

いかに生かされるかとともに

、いか

に死ぬかということについて選択の可能性が出てきて、生命の

質を維持しながら死ぬという噂厳死が主澗寂されるようになった。

生命倫理学において、死は生の延長線

上で考えられることにな

る。そこでは死の倫理が問題である。この問題については、

でにセネカが論じている。彼によると

死は人間にとって翫大

な問題であり

とくにどのような死を迎えるかは人間の生にと

って決定的な事柄である。セネカは、生きている途中にはいろ

いろ非難される点があったが、

死を務ち若いて

立派な態度で

受け入れたことで賞賛されている。彼のように強制された死を

そのように受けとめることは普通の人間にとって困嫌であるが、

セネカは白分の忠忽にしたがって死んだのであり

その点でも

13

彼は立賞されるべきである。しかしセネカの死がそのよ

うに評

制されるのも、

彼が全体として立派な人間だったからでる。必

人や軽市比されるような生き方をし

た人間が、従容として死ん

いったからといって、

その人を道徳的に野価することはできな

い。かえってその人間のふてぶてしさが印象に残ることになる

ことがある。エピクロ

スとエピクロス派が死を軽税し、

ないし

無税しようとした。これに対し

てストア派、

とくに後期のロー

マ時代のストア派は、

死を重視しすぎたとの評がなされている。

前期のハイデガl

の存在論もそのきらいなしとせざるをえな

い。

肝心なことは、生きることであり、そのなかで社

会的に活動

することによって、道徳的であることである。死、とくに自然

的な死は、

道徳とは関係がない、偶然的な出来事とし

て生じる。

自然的な死をどのように受け入れるべきかということは、

それ

として道徳的な問題であるが、これが

生にどのように関わって

いるのかが問題である。自然的な避けがたい死があり

しかも

その時期が定まっているときであっても、自分の

生と死を見つ

めて、内分の生が全体としてどのような意味を持つのかを理解

することは、

通常の意味での

つまり

実践としての道徳の問

題ではない。というのは、自

分の生をさらには、

自分の死をど

のよ

うに処理するのかということではないからである。ここで

は、

認識の蘭からの倫理が問題なのである。ここで倫恕という

のは、

行動や科慣が磁務づけられたという、

強制された道徳と

は災なる、

人間の希求する態度であり、

本人のあり

方である。

Page 9: 自然的な死と倫理の問題 - kansai-rinri.org

54

生と死について自分ではいかんとも

しがたいことが多

いので

あるが、

そのことを知りながら自分の生と死を正確に把崩

しよ

うとすることは、人間にとって可能である。「私が求めている

のは其災であり、:::訓告を被るのは自己欺蹴と無知にとどま

ハロ〉

るものである」とマルクス・

アウレリウスは語っている。その

ような其突を求めることが理性ある人聞にとって必要であり

これに関する徳は誠実と呼ばれるであろう。誠実は、

近世ヨー

ロッパにおいて重視されるようになったが、本来人間にとって

重要な徳である。真理に閲する徳は、誠実と正政さから成

り立

っていて、

そして誠実は、

正確さ

pnEEQ〉にもと

ついてい

《日)

ると、バーナード・ウィリアムズは主張している。正確さとは、

瓦なる信念を得るために最善を尽くすことであり、誠実とは自

分の信じていることを現わし、

それを発一t一目することである。こ

のように其突を求め、自

分の信念を語ることが人聞にとって肝

心である。これに反すると、自己欺鮪や希望的観測に陥ること

になるが、

人間は自分の利害や好みのために容易にそれに陥り

がちである。それだけでなしに、

自己欺附は人間の生活にとっ

て有益であって、

むげに非難されるべきでないとされる。例え

ば重病で余命幾ばくもない人であっても、まだ望みがあると考

えてがんばることによって、

病気が持ち直すことがあるからで

ある。それでも其裂を知ることは

人間の尊厳に関わることで

ある。真理をm-ぶこととしての波突は、名品作、恥、高潔さなど

と結びついており、

これらの点において人間の価値を認める公

依頼論 文

悠主務の社会で強制されたが、現在においてもその側他を失っ

ているわけではないとウィリアムズは主張している。このよう

な誠史の徳は、織として日本の武家社会においても的註されて

きた。このような徳は、共体的な後能的な徳、

例えば勇気、節

制、自制とは区別されるが、これらとは別の仕方で人間の美的

なあり方に関わっている。

実際、自分をごまかすような生き方

は、美しいとは言えないからである。

ウィリ

アムズが主張した正確さは、単純な事実について問題

になる。例えば自分がとれだけの重病であるかについて正確な

知識が必要である。しかし人間の死については、それが生と結

びついているので死に直面して、自分の人生が全体としてどの

ような意味があるのかが問題である。するとそこでは自分の人

生に関する事実をあれこれあげること、つまり正確さだけでは

不充分であり、

それらの事実を全体として解釈することが必要

になる。それゆえ

トドロフは、パフチンの思想にもと.ついて、

『隆史のモラル」(一九九三年)のなかで、真実の探求のために

正確さないし包

m空白色02

(適合性〉だけでなしに、削祭の深さ

ないし己雪

o一一巾ヨ巾コ円(践皇一〉が必要であると主張している。す

なわち、自分の生について、自分が自分をどれだけよく理解し

ているのかという深さとしての其突が必要なのである。しかし

そのことをどのようにして判断したらよいのかは

、明阪ではな

い。正確さについては、それを判定する材料があり、また、そ

の程度にもよるけれども、その判定の基準もあった。それは現

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n然的な死と倫I'I'『の1::J!l(j

花までの人生の諸事実について正確さが問題であり

また逆に

それらについて正確でないことも明らかになる。

しかし髭量については

別の問題がある。先に死によって区

切られた生ということを述べたが

死を通じて初めて生の全体

が意識されるようになる。この生の全体はしかしながら、まだ

現実ではない。自分の生泣という場合には

過去から現在に至

る現実と、米米の未だU什花しない可能性が合まれている。ある

人の生粧またその意味という場介に、本史にもとづいて判断す

るためには、他点引が必一決である。本人にはその全体が分からな

いからである。そして他者の判断と本人の判断が

一致するとは

限らないし、

またどちらの判断が正しいかを決定することは容

易ではない。例えばあるスポーツの試合で、

試合中の選手の

その試合に対する自分の寄与についての判断(そのなかには試

合全体に対する彼の窓口品も合まれている)と、解説者が試合の後

から下す、その選手の働きについての判断は

一致しない。全体

の給処からけ刈ると、解説沢、すなわち、他者の判断が正しいで

あろう。しかし解説新の知らない巡手の意向、選択、盟み、感

情がある。これらを判断して

n

分のなしたこと

なすであろ

うことを理解することは

選手が試合に寄与することにとどま

らず、彼が自分自身をよ

り深く洞察するために必要である。選

手と解説者の関係は、自伝を也く際史的人物とその人物の伝記

を怨く隆史家の凶係について当てはまる。全体的な事実を知る

という点、

また本人が知らなかった事前が分かるという点で雌

55

史家に有利な点がある。このことは

ウィリアムズの

守口う正確

さにおいて

一般的に歴史家がすぐれている点である。しかし

ながら践塁という点では

どちらがすぐれているかは判定しが

たい。本人よりも、他人の方がその人をよく理解し

ている場合

もあれば、本人だけが知っている事前、

意向、望みもある。

分のことは自分が一帯よ

く分かっていると考えないこと、

死に至るまでのれ分がどのような生を送るかは不明であること

などを窓滋しながら、日

分についての点災を知り、日分の人生

を限解すること、そのためにれ

分の生の全体について考えるこ

とが

人間の意味ある人生のために必裂である。そのために円

分の生と死を見つめて生きることが大切である。死によって人

聞は否応なしに、

自分の人生全体に直面させられるので、

それ

を避けることはできない。死は

生を抱同盟するための唯一の道

ではないにしても、重要な手がかりであることは硲かである。

生にもつばら執ゃ訂することは醜いし、

死だけを考えて生きるこ

とは無気hMである。

生と死を両力比波して生きることが必嬰で

あるので、

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コも条件付きで爪

mKである。ともかく

n

分を知ることは

たんなる知識の問題ではなくして、人間が

生きるため

の意味ある事柄であるので、人間はそのために努力

なければならない。

そこで成立する誠実の徳は、

主観的な徳

であると一般に考えられているが、

即時日正という意味では一一階そ

うである。自分をどれだけ露呈できるかはその人次第である。

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56 依般論文

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